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 不意にお菊の幽霊は立ち上がり、ふっと障子をすり抜けた。
 アラシヤマが障子を開けると、次の障子の前で幽霊はとどまっている。
 (やっぱ、この世のもんじゃねえんだナ)
 知らずのうちに息をつめていたらしい。シンタローは、ゆっくりと呼吸を整えた。
 幽霊の後についていくと、幽霊は二人を振り返り、そのまま消えた。
 アラシヤマは障子を引き開け、部屋に入った。
 部屋の中には抜き身の刀を手にした武士が座り込んでいた。武士は、やつれており疲れきった様子であったが、部屋に入ってきたアラシヤマとシンタローを見上げると、
 「何者だっ貴様ら?何用があってわが屋敷へ来やった!?」
 鋭く誰何し、手にした刀を振り上げつつ二人めがけて斬りかかってきた。思いがけず素早い動きである。
 「おいっ!」
 と、シンタローが横にいるアラシヤマをにらむと、アラシヤマは一歩後ろに下がり、
 「ここは、あんさんにまかせますえ~」
 と言った。
 「てめえッ!覚えてろヨ!」
 そう云いすてると、シンタローは踏みこんできた男の刃をかわし、腕をとらえざま男の手首を思い切り手刀で打った。
 「わあッ!」
 と、男は叫び、手にしていた刀を畳の上に取り落とした。骨が折れたものか、うずくまって手首を押さえている。
 男の前に、風車が落ちた。アラシヤマが投げたようである。
 「オン・キリカ・ソワカ  オン・ダキニ・ギャチ・ギャカネイエイ・ソワカ」
 アラシヤマは何か唱えた後、左手で口を覆い、舌で掌を舐めた。
 すると、その場に3歳ほどの身なりのよい男の子が現れた。子どもはあどけなく、可愛らしい様子である。
 「ちちうえさま……」
 幼い声で呼びかけながら、子どもは一歩、男に近づいた。
 男は信じられないものを目の当たりにしたかのように、目を見開き、その顔面はいつしか蒼白となっていた。
 震える声で、
 「兵太郎……」
 と云ったもののそれぎり言葉は続かない。
 子どもは、まるで抱き上げてほしいとでもいうように、両手を前に差し出し、また一歩、男の方へと近づく。
 男は、座ったまま後ろへとにじり退った。
 「来るなっ!お前は切れぬッツ!!」
 突然、男はそう叫んだ。
 いつしかお菊の幽霊が部屋の中に佇んでいたが、これまでとは表情が一変し、男と子どもの様子をすさまじい目つきで凝視していた。
 くいしばった口元からは短い牙がつき出ており、頭には親指の先程の短い角が頭皮をやぶって生えていた。
 一歩、彼女が男と子どもの方へと踏み出したとき、
 「手出しは、無用どすえ」
 と、アラシヤマはお菊に呼びかけた。すると、角と牙が消え、お菊は哀しみと悔しさが入り混じったかのような目でアラシヤマを振り向いた。
 「般若にもなりきれず、生成りにしか変化できへん。アンタは中途半端なんや」
 とアラシヤマが静かに云うと、女の幽霊はその場からかき消えた。


 播磨は子どもから逃れるように立ち上がり、庭へと転げ出た。そのまま闇雲に走るうちに井戸の前でつまづき、木組みの縁につかまった。
 (何故、兵太郎が……。御仏のもとにいるはずではなかったのか!?わが業が、あの子をこの世にひきもどしたというのか!?)
 縁を掴んだ播磨の手ががくがくとふるえる。涙が、頬をつたってしとどに流れ落ちた。
 播磨がゆっくりと立ち上がると、井戸の向こう側には女が立っていた。
 「菊、これもそちの仕業か?」
 播磨は、穏やかにたずねた。
 「播磨さま……」
 袈裟がけに切られたままの姿で血を流している女は、悲しそうに男の名をつぶやいた。
 「覚悟は決まった。そちとは奈落の底へも輪廻の果てでも付き合おうぞ」
 そう云いきった播磨の顔は、清々しいものであった。
 彼は前のめりに倒れると、縁を乗りこえ井戸の中へと落ちていった。
 女はしばらく井戸の中を見つめていたが、吸いこまれるように井戸の中へと消えた。


 ほんのひとときの出来事であった。
 呆然と濡れ縁から播磨とお菊の様子を見ていたシンタローは、あわてて庭へ降りた。
 濡れ縁に出てきたアラシヤマを振り返って、
 「おい、あの野郎を井戸からひきあげんの手伝えヨ!まだ生きてっかもしんねーダロ!?」
 と、声を荒げると、
 「――あんさん、いろいろお人よしどすなぁ」
 アラシヤマは何やら複雑そうな表情であった。
 「何のことだ」
 「いえ、別に。男は幽霊と一緒に逝きました。これでわての仕事はおわりどす~。今から、皿を売り捌きにいかなあきまへんしナ」
 「おい、コラ!?」
 「別れがつらいのはわても同じどすえ。でも、心配せんといておくんなはれ!近いうち必ずシンタローはんに会いに行きますさかいにv」
 いつの間にやら笈を背負い、金剛杖を手にしたアラシヤマはそういうと、塀の上に飛びあがった。
 「ほ、ほなまたv」
 と、シンタローに手を振ると、向こう側へと音もなく飛び降りたようである。
 「あの野郎……」
 シンタローは、舌打ちをした。
 「――ま、今度こそ二度と会うこともねーか。ったく、ミヤギにことの次第をどう説明すりゃいいんだ」
 井戸をのぞきこんだシンタローはため息をついた。
 井戸はそうとうな深さがあるらしく、暗い底のほうまでは何も見えなかった。







  

 夕七つの頃、小石川のススキ原は茜色に染まっていた。空の中ほどには、合戦で陣地を切りとりあうように蜻蛉が数匹すばやく飛んでいる。
 蜻蛉たちが飛び交う直下、一人の武士が家路を急いでいた。その若々しい歩き方からは青年であることがうかがえた。
 (すっかり、遅くなっちまったナ。アイツら、とんでもねーことをやらかしてねーといいけど……)
 シンタローは、家で待っているであろう三白眼の子どもと犬のことを脳裏に思い浮かべ、思わず溜息を吐いた。
 子どもと犬のみでの留守番など通常なら人さらいを心配するところであるが、彼らにかぎってその心配はあてはまらない。
 (ま、ひさびさにうまいもんを食わせてやれっから、すぐ機嫌はなおるか)
 もらってきた鶏肉と皮牛蒡を煮物にし、もう一品カボチャを昆布だしで煮て青のりをかけようか、のっぺいを作ろうか思案していると、自然、シンタローの口元はほころんだ。
 草の生えた板ぶき屋根が見えてくると、彼は少し早足になった。


 「おかえり、シンタロー。客だゾ」
 「わう!」
 「おかえりやすぅ~vシンタローはんっvv」
 「なっ、おまっ……」
 縁側に、子どもと犬と並んで座っている男を目にしたとき、一瞬シンタローは言葉につまった。
 「ずっとお会いしとうおましたえー!」
 そう言って近づいてきた山伏姿の男の胸倉を片手でわしづかみ、
 「何でテメェがここにいやがんだ!?」
 と、シンタローはアラシヤマをにらみつけると、アラシヤマは頬を染めて視線をそらした。
 「わ、わて、近いうちにあんさんに会いに行くて言うてましたやろ?ほんまやったら、その日のうちにでも行きたかったんどすけど、間ぁが空いてすみまへん!あんさんに寂しい思いをさせてしまいましたナ……」
 「――つーか、どこのどちら様でしたっけ?テメーのことなんざいっこうに記憶にねーな!とにかく、何しにきやがったかしんねーケド、帰れ」
 顔をしかめたシンタローが、アラシヤマをつき離すと、
 「し、心友のわてには、あんさんが照れてはることくらいわかってますさかい……!」
 アラシヤマは、ちらっと何度もシンタローの方に視線を送りながら何やらうれしそうにモジモジしている。
 「眼魔砲ッ!」
 シンタローの手から光球がうまれ、辺りには爆音が響いた。
 「シンタロー、さっきのは友達か?」
 いつのまにか、庭に降りてきていた子どもが、シンタローを見上げて聞いた。
 「友達なんかじゃありません。って、おい、パプワ!何食ってやがんだ!?」
 「しおせんべいだ」
 子どもは、手に持っていた袋をシンタローの方に差しだした。
 「どうしたんだヨ、それ?」
 「アラシヤマからもらった」
 「知らない人からものをもらっちゃダメっていつも言ってるでしょ!チャッピーもだゾ!」
 「……うまいぞ?」
 「……くぅ~ん」
 じっと自分を見上げる2対の目の無言の訴えに負けたのか、
 「わーったよ。捨てろとはいわねぇけど、晩ご飯前だから残りは明日にしなさい」
 と言って、シンタローは子どもと犬の頭を撫でた。
 「わかった。メシはまだか?早くしろ!」
 「わう!わうッツ!」
 「はーい、はいはい」
 一人と一匹を抱え上げ、シンタローは家に入った。


 (塩鳥と牛蒡はうまく煮えているな。あとは、かぼちゃに火がとおったか確かめて……)
 様子をみるためシンタローが鉄鍋の蓋をとると、後ろから、
 「料理をしている後姿って、ええもんどすなぁ……」
 と、声が聞こえてきた。シンタローが振り向くと、上がり口にアラシヤマが腰かけている。
 「テメー、生きてやがったのか」
 「はぁ、おかげさんで。今から夕飯どすか?せっかくやからわてもお相伴してもよろしおます?」
 「――何が、せっかくだ。てめぇに食わせる飯はねぇ」
 「わて、箸と椀は自分のを持ってますさかいに、そのへんは気ぃつかわんといておくれやすv――わてだけやのうて、シンタローはんの料理を望んでいるもんがここにおるんどす」
 アラシヤマは笈の中から風呂敷包みをとりだし、傍らに置いた。
 「……何だ?」
 「見覚え、ありまっしゃろ?」
 そう言ってアラシヤマは手のひらから炎の蝶を出した。蝶は、アラシヤマの手元を照らしている。
 解かれた風呂敷の中からあらわれたのは3枚の青い皿であり、シンタローは目をみはった。
 (これって、青山の……?コイツ、かっぱらった皿を売らなかったのか?)
 まじまじとアラシヤマの顔をみつめると、その考えを読み取ったかのように、
 「皿は無事、5枚とも売れたんやけど……」
 と、アラシヤマは続けた。
 「つい先日の裏取り引きの市に出よりよって、不審に思うたんどす。古道具屋にちょっと聞いてみましたら、さる大名家に高値で買われたものの、何故か3枚だけが夜半カタカタ音を立てたり、盛られた料理をひっくり返したりしたそうどすえ。大名は気味が悪いんで3枚を出入りの古道具屋に押しつけて、一件落着というやつどすな。古道具屋は怪異を隠して高値で売りさばこうとしたらしいんやけど」
 「それって、フツー、ちょっと聞いて教えてもらえるような内容か?」
 シンタローがうさんくさげにアラシヤマを見やると、
 「ま、ちょっとだけ脅しはしましたけど、でもほんのちょっとだけどすえ!」
 アラシヤマは慌てた様子であった。
 「で、何で俺の料理なんだ?」
 「この皿達、幽霊の陰の気を吸って少し付喪神化してたみたいどすナ。あんさんが幽霊に言わはった『供養しろっつーんなら、してやる』って言葉をどうも聴いてたみたいどすえ?皿から引き剥がしてまた売ってもよかったんやけど、ま、わてもあんさんの作った料理を食べてみとうおしたし、こいつらに運び屋として利用されてやったんどす」
 (確かに言ったような気もするけど、でもな。すげぇ頭いてぇ……)
 シンタローは、肩を落としてため息をついた。
 「怖がることはおまへんえ。わての読みでは、一度だけ料理を盛ってやったら満足すると思いますわ」
 なぜか自信ありげにアラシヤマがそう言ったので、シンタローは半信半疑ながら皿を使ってみることにした。


 「きれーな皿だナ」
 「わうー」
 子どもと犬が、洗ってきれいに拭かれた皿をのぞきこんでいる。
 「カボチャを盛るから、こっちにかしな」
 シンタローが手を伸ばすと、子どもと犬は皿を渡した。
 「「「いただきます!」」」
 「わう!」
 と、3人と一匹は声をそろえて箸をとった。


 「あれで、よかったのかヨ?」
 シンタローは、畳に置かれた3枚の皿を前にし、向かいに座っているアラシヤマを見た。
 すでに子どもと犬は別の部屋で眠っているようで、物音は聞こえない。
 「付喪神はもういまへん。ちゃんと料理皿として使うてもろて満足したようどすえ?見た目がただの皿に見えますようちょっとした目くらましをかけときますさかい、これからは普通の皿としてどんどん使うてやっておくんなはれ。子どもや犬に割られても、文句は言わへんはずどす。玩物喪志、という言葉がおますけど、なまじ皿や壺を大切にしすぎるとおかしなことになるもんやなぁ……」
 「なんで、高級な料理よりもカボチャを盛られて満足すんだか」
 「楽しい雰囲気のなかで使われたかったみたいですわ」
 「……青山と幽霊は」
 「あんお人らは、輪廻のどこぞにいるはずどす。直接的には関係はおまへんけど、やっぱりこの皿が先祖代々の家宝やなかったら違うたんかもしれへんな。でも、それは仮定のはなしどす。結局は同じになってたかもしれん」
 淡々と、アラシヤマはそう言った。
 「シンタローはん」
 ふと、アラシヤマの声のもようが真剣なものへと変わり、シンタローを見つめた。
 「わて、あんさんに渡した金は返していりまへん。供養料ということであんさんが好きに使うておくれやす」
 「んなわけにもいかねーだろ?ちょっと待ってろ」
 シンタローが立ち上がり収めてある金を取りに行こうとすると、不意にアラシヤマが彼の手を引いた。バランスを崩し、畳の上にしりもちをついたシンタローは、
 (何しやがんだ!?)
 と、振り返りざまアラシヤマをどなろうとしたが、後ろからアラシヤマに抱きすくめられた。肩口に額を押し付けたアラシヤマは、縋る小さな子どものようで振り払ってはいけない気がした。
 「あんさんとの縁を失いとうないんや」
 (……散々心友だなんだのと図々しく言っておきながら、今更何いってやがんだコイツ?切れるもんなら、すっげー縁をきりてぇけど、しつこそうだしどうも切れる自信が……ねぇな)
 シンタローはそっと息をはいた。
 「わて、あんさんに会うために生まれてきたんやて思えます」
 「……俺は、できることならてめぇとは金輪際会いたくなかったけどな」
 「それって、熱烈どすな。さっき覚えてない言うてはったんは、ウソどっしゃろ?」
 背中のアラシヤマの気配が面白がっているような雰囲気に変わったので、シンタローが振り払おうとしたとき、
 「「ふー、何か邪魔があってでてこれなかったけど、やっと出れたわネ」」
 と、壁から鯛と蝸牛が出てきた。
 「ね、ねぇ、タンノちゃん。シンタローさんが……」
 「キャー!私達のシンタロー様がっ、男に抱っこされているワ!」
 「ちがうッツ!!」
 そう言いつつ現在の状況では説得力がないので、シンタローはアラシヤマの腕から抜け出して釈明しようとしたが、
 「一度はわてに、自分を買うてくれって色気たっぷりにせまらはったあんさんやのに、わてとの仲を否定しはるとは冷とうおます~!」
 アラシヤマは泣いている振りをして、シンタローの首筋に顔をうずめた。
 「何言い出しやがんだテメェ!?」
 と、シンタローはこめかみに青筋をたててどなったが、アラシヤマは放すつもりはないらしい。
 「シンタローさん!まっ、まさか生活苦のあまり、このどこの馬の骨ともわかんない男に身売りを…!?」
 「シンタローさんのバカ~!!私達というものがありながらッツ!」
 悔し泣きをしている蝸牛と鯛を見て、アラシヤマはあきれたように、
 「シンタローはん、何どすの?この鯛と蝸牛の化け物。なんやけったいなんがおるなぁと思うて今まで結界を張ってましたんやけど」
 と云って、本格的に暴れだしたシンタローをあっさりと開放した。
 「アンタこそ何よ!?この男、すごく嫌な気配がするワ。ねぇ、シンタローさん、嘘よね??私たちが本妻よネ?」
 仁王立ちになったシンタローは、一人と二匹に掌を向け、
 「―――散れっ!眼魔砲ッツ!!」
 と、最大級の眼魔砲を撃った。


 翌朝、目を覚ました子どもと犬が、
 「シンタロー、ゆうべはうるさかったゾ!一体何をしていたんだ?」
 「うーっ、わうっ!!」
 と、朝食の準備をしているシンタローにたずねると、彼はしごく不機嫌そうに
 「害虫駆除。いーから、早くメシを食いなさい」
 と答えた。
 膳の上には、カボチャが盛られた青い皿が乗せられていた。


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 どうにも忘れようもない特徴のあることばづかいに、シンタローの脳裏につい先日のいまいましい記憶がよみがえった。関わりあいになりたくもなかったが、四尺と離れていないすぐ近くにいるうえ、騒がれると非常に困るので無視するわけにもいかない。
 わきあがってきた腹立たしさを押さえつけ、不承不承、シンタローが後ろを向くと、はたして片目に鬱陶しく前髪がかぶさった山伏が腕を組んで立っていた。どうやら、笈や杖はどこかに置いてきたらしく身軽な姿であった。
 「テメー、なんでこんなとこに居やがる……」
 思いっきり眇めた目でシンタローがアラシヤマを睨むと、
 「なんどすの、その態度?」
 と不機嫌そうに山伏はいった。そして、わざとらしくため息をついた。
 「あんさん自分からわてに迫っておいて、なんやのあの仕打ち?わて、あの後商いの話があったんどすえ?わて、泥池で服のまま泳ぐ趣味はあいにく持ち合わせておりまへんで……」
 シンタローは、恨みがましげにじっとみつめてくるアラシヤマの視線を切り捨てるような口調で、
 「それがどうした?テメェの都合なんざ知ったこっちゃねぇな!」
 といった。声はあくまで抑えたままである。
 それを聞いたアラシヤマは目を細め、口角をつりあげた。
 「あんさん、つくづく可愛げがおまへんなぁ……」
 「ああ゛?可愛げだぁ!?てめぇキショイこと言ってんじゃねーヨ!ったく、うでに鳥肌がたつぜッ!!」
 そういってむきになったように腕をするシンタローを眺めつつ、アラシヤマは無表情に片手を差し出した。
 「―――あんだよ?この手は」
 「返しておくれやす、金」
 「…………」
 「そら、当然でっしゃろ?あんさんを抱いてもおまへんのに、金だけ払うとはおかしな話どす。何が何でも金を返さへんいわはるんなら、体で支払ってもらいますえ?体で、というんは別にあんさんが屍でもええんやけどナ」
 一歩、アラシヤマは間合いを詰めた。
 (この俺様がこんな野郎になんざ負けるはずはねぇけど、コイツ、かなり強えーな……)
 おそらく本気の殺気をぶつけてくるアラシヤマを睨みつけながら、シンタローは考えをめぐらせた。
 (眼魔砲は……、無理か)
 体術戦をこの場で繰り広げるというのも同様である。シンタローとしては騒ぎを起こして見つかるのだけはどうしても避けたかった。再び機を見て出直してくるなどの時間も余裕もない。なれば、金を返してでもアラシヤマを説得して事をおさめるよりほか、すべはなさそうであった。
 (すっげームカつくけど、コイツの金なんざ持ってても仕方ねぇしナ)
 おい、と声をかけると、男は無言のまま(何だ?)と目で問い返してきた。
 「今はお前の金は持ってきてねぇけど、また日をあらためて返してやっから、今日はあきらめてくんねぇ?えーと、俺達ってさ、ホラ、友達ダロ?」
 シンタローは、かなり苦しまぎれな言い訳かと自分自身思ったが、アラシヤマの方を見やると俯いて、握りしめた拳をふるわせている。
 (―――そら納得できねーよなぁ。俺だって同じこと言われても殴るだろうし)
 おそらく数秒後には激怒してこちらへと向かってくるであろうアラシヤマの行動を予想し、心中で(なんでよりによってこんなヤツに出会っちまったんだ?とことんついてねぇ)と息を吐いたシンタローは、アラシヤマがいつ仕掛けてきても対応できるよう心構えをした。
 何やらブツブツ小声でひとりごちていたアラシヤマは、いきなり顔を上げた。
 「シンタローはんッツ!」
 ものすごい勢いで間合いをつめたアラシヤマは、シンタローの片手をとり、両手で握りしめた。少し汗ばんだ男の掌に自分の手を包まれるというのも気味が悪く、シンタローは正直すぐさまにでもふりはらいたかったが、そうするとなんだかまずいような気がしたので、
 「……何だ?離せよ」
 と、眉根を寄せて咎めるだけで我慢した。
 「ほ、ほんまに、わてら友達なんどすなっ?」
 一片たりとも嘘は見逃さないといった様子で、アラシヤマは食い入るようにシンタローの顔をみている。思いもよらない反応であった。
 「あ、ああ。まぁ一応な」
 何とか、シンタローはそう答えた。すると、アラシヤマの顔から険しさが拭い去ったかのように消えた。
 「わて、生まれて初めて人間のお友達ができましたえ~!!やっぱり、シンタローはんとわては運命の赤い糸で固く結ばれているんどす……!!」
 と、叫んだ。とにかく尋常ではない喜びようである。
 「うるせえっ!見つかったらどーすんだッ!?」
 握られたままであった手をふりはらい、アラシヤマの頭を一発殴ったシンタローは、それでも嬉しそうに殴られた箇所をさすりながらにやついている山伏を見て、
 (なんか、俺、すっげぇマズイこと言っちまったか……?)
 いまさらながら、この暑さにも関わらず背中に冷たい汗がつたい落ちるような心持ちがした。



 障子をたてきった部屋の中央、脇息に片身をもたせかけた武士が憔悴しきった様子で座していた。
 目はどこを見ているものか虚ろであり、表情に生気はなかったが、刀の鞘をつかむ指には筋の浮くほど力が入っている。
 (遅い、十太夫は来ぬか……)
 暇を願い出るものが続出し、もはや屋敷には用人の柴田しか残っていないはずであった。ここ数日、用人が彼の身の回りの世話をしていた。
 播磨の神経は過敏にすぎるほど研ぎ澄まされていたが、廊下を歩く柴田の少し慌て気味の足音は一向に聞こえてこない。
 播磨は、ほう、と息を吐いた。
 (―――ああ、わしが斬ったのであったな)
 と、数刻前の事実を思い出した。
 

 播磨は斬った使用人達の亡骸の臭気がひどくなってきたことを十太夫に諭され、放置しておいた亡骸を十太夫と共に集め、土蔵に運び入れた。
 十太夫が鍵を閉めている間、播磨は後ろに立っていたが、
 「播磨様……」
 と十太夫から聞き覚えのある女の声で呼びかけられた。
 (さては、菊が十太夫に化けておったか!?)
 播磨は背筋が凍りつく思いがした。カチリ、と刀の鯉口を切ったが、十太夫は気づく様子はない。
 慎重に様子をうかがうと、十太夫は不審げに振り向き、もう一度女の声で
 「どうなされた、播磨様?」
 と云ったので、播磨は夢中で柄に白い布の巻かれた刀を振り下ろした。
 

 幻惑は消え去ったかと期待したが、土蔵の前の石畳の上には用人が横たわるのみであった。
 播磨は、
 「わあぁぁぁッツ!!」
 声を上げ、なりふりかまわずその場から逃げ出した。


 (菊め、どこまでわしを苦しめれば気が済むのだ?)
 播磨は、蒸し暑い空気の中、ぼんやりとそう思った。しかし、その後とくに述懐がわいてくるわけでもなかった。
 そのまま放心したように播磨は座り続けていたが、幾時過ぎた頃か、ふと辺りの空気が水気を含んだかのように重くなり、めまいがした。
 顔を上げると、数尺と離れていない辺りに髪が解けておどろに垂れた女が立っている。女は青白い顔でじっと播磨を見ていた。
 「播磨様、むかえに参りしぞや」
 か細い声で、女はそう云った。
 「何ともうらみがましいことよのう……」
 播磨は、脇息にもたせかけていた体を起こした。
 「播磨様」
 切々とした声で女が呼ぶ。
 「そちは、そちを斬ったわしがそれほどまでに憎いか!?答えよ、菊ッツ!!」
 厳しく声を励まし、播磨は刀を杖代わりに立ち上がろうとした。
 「そうではござりませぬ」
 女がかぶりを振ると、ぽたぽたと髪の先から雫が畳に落ちた。
 「あなた様は浄土へは行けませぬ。ならば菊とともに奈落へ参りましょうぞ」
 女は手を差し伸べすうっと播磨との間の距離を縮めた。
 「わしは行かぬ!行くならそち一人でゆけいッツ!」
 播磨が抜刀し、女に切りかかると、女の姿は掻き消えるように無くなった。
 畳の上には所々水溜りができ、播磨は張り詰めた糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。



 「さっきの、やっぱナシな!」
 「ええー、ひどうおます~!!武士に二言はないていいますえ?シンタローはんは武士とちゃいますのんッ!?」
 「それとこれとは別だッ!男にはどーしても、つー時があんだヨ!」
 「わてら修験の間でも、一度いうたことは取り消せまへんのやで?せやから、あんさんとわては、とととと友達どすえー!」
 嬉しそうにそう云う山伏を相手にせず、シンタローが背を向けて歩き出すと、アラシヤマも後に続いた。
 「ついてくんなよっ!」
 シンタローが振り返ってアラシヤマを睨みつけると、 
 「わ、わても、ここの家に一寸用があるんどす……」
 シンタローと目が合ったことにうろたえたらしく、おろおろと視線をさまよわせながらアラシヤマはそう答えた。
 どのような理由からか頬を赤らめているアラシヤマを見ているのも気味が悪かったので、シンタローは視線をそらし、
 「勝手にしろッツ!」
 そう小声で言うと、母屋の濡れ縁に足をかけた。
 「シンタローはん、そない堂々とあがらはってもええんどすか?」
 「非常事態だからいーんだよ。それに、屋敷全体に人の気配が感じられねーからナ」
 アラシヤマの同行を認めたわけでもなかったが、話しかけられるとつい返答をしてしまった自分にシンタローは顔を顰めた。
 (そういや、コイツが突然現れやがったせいで土蔵の中を確かめなかったな。男が一人死んでたけど、あれがミヤギが言ってた用人かもナ。先にそっちを見ておくか?)
 庭に下りようとすると、中の様子をうかがっていたアラシヤマが、
 「シンタローはん」
 と、シンタローの腕を掴んだ。
 「離せ」
 シンタローが腕を振り払うと、アラシヤマは真面目な面持ちで、
 「中からこの世のもんやない気配がします。お願いどすから、わてから離れんといておくんなはれ」
 と云った。







  

 母屋の中に入り込むと水気をふくんだ空気がベタベタと肌にまつわりつき、外よりも蒸し暑く感じられた。あいかわらず、人が住んでいるようではなく、かなり前から空き家のような荒れた気配がした。 
 勝手知ったる家であるかのように次々と襖をあけはなちながら迷いのない足取りで歩くアラシヤマの後から、シンタローは(何か、納得いかねぇナ)と思いながらついていったが、急にアラシヤマは立ち止まった。
 「ここどす」
 シンタローを振り返ると、アラシヤマは襖障子を引き開け一歩足を踏み入れた。
 そこには、仏壇から畳敷へとただよい流れる線香の白い煙の中、女がひっそりと座っていた。
 俯いた顔にはもつれた黒髪がかかり、桔梗色の着物から水がしたたっている。すでに、女の周りには水だまりができていた。
 何よりも尋常でないのは、女の姿を透して向こう側の山梨色の壁がぼんやりと見えていることであった。
 女は、シンタローとアラシヤマが部屋に入ったことを気にするでもなく、
 「一つ、二つ、三つ…」
 細い声で、繰り返し繰り返し皿を数えていた。
 皿は全部で5枚しかなく、5枚数え終わると女は悲しげな顔になり、もう一度最初から数え直す。
 アラシヤマは女を見て目を細めた。
 「―――ああ、今日は知り合いによおけ会いますな」
 と、いうアラシヤマをシンタローは胡散臭そうに見たが、アラシヤマは気づいた様子はない。
 「つくづく、幸の薄いおなごやなぁ……」
 どうやら独り言らしかったが、少し憂鬱そうな、相手を憐れむような響きに聞こえた。
 「おい、コイツは……」
 「本来やったら、故人に縁のあるもんか、わてらみたいな修行をした連中にしか見えへんはずなんやけど、あんさんにも視えてはるんどすな」
 「ああ」
 「お察しのとおり、幽霊どす。……退治しても、このぶんやと金は出そうにおまへんなぁ」
 淡々とそう言ったアラシヤマの声音には、さきほどまでの情のようなものは一切感じられなかった。
 「―――そういやオマエ、一応山伏だよナ?なんつーか、経を読んだり祈祷とかできねーのかヨ!?」
 思わず、といった様子でシンタローがアラシヤマの胸倉をひっつかむとアラシヤマはシンタローとは目を合わさず、
 「まぁ、できへんこともおまへんけど……」
 と、気が乗らなさそうに言った。
 「なら、成仏させてやるとかなんとかしろッ!テメーはこの女と知り合いなんだろ!?」
 シンタローが怒鳴ると、アラシヤマは襟元をつかんでいるシンタローの手に上からそっと自分の手を沿え、
 「し、シンタローはんッ!それってもしかするとひょっとして、ヤキモチなんどすかぁ!?かいらしおす……!」
 と、頬を染めて言った。
 「安心しておくんなはれ!知り合いいうても通りすがりみたいなもんで、わての心友はあんさんだけどすvあ、それとシンタローはん。いくら幽霊でも人を指さしたら、行儀わるいんとちがいます?」
 シンタローは嬉しそうなアラシヤマの胸倉をつきはなしざま、右手で思いっきりアラシヤマの頬を殴った。アラシヤマは襖に背をぶつけ、ずるずると座り込んだ。
 「いきなり、なっ、何しはりますのんッ!?ひどうおすー!!」
 アラシヤマを冷たく見下ろし、
 「心底、うぜェ」
 と言い切ったシンタローは、なにやら落ち込んでいるらしいアラシヤマを放っておき、女の幽霊の方へと向き直った。
 (ミヤギの言ってた化け物ってこの女のことか?でも、襲ってもこねぇで皿ばかり数えているヤツをいきなり刀で斬ったり眼魔砲で撃つってのもなぁ……。何とかなんねーのか?)
 女は、相変わらず皿を数えており、周りに目を向ける様子はない。
 「―――おい、あんた」
 「道理を説くつもりなら無駄どすえ」
 いきなり下方から声がした。アラシヤマが真面目な顔でシンタローを見上げている。
 「ああ゛?」
 「この幽霊は見かけよりもやっかいなんや。今はおとなしゅう見えますけど、何人も取殺した怨霊なんどす。シンタローはん、ここは大親友のわてにまかせておくんなはれ」
 アラシヤマは身を起こすと立ち上がり、
 「手ぇ、ちょっと拝借してもよろしおすか?」
 と、シンタローの片手首に懐から出した最多角念珠を三重に巻きつけた。


 「また会いましたナ。まさか亡くなってはるとは思いもよりまへんどしたが。あんたはんのせいで屋敷のもんもおらんようになって、わての計画が台無しやんか」
 アラシヤマの声が届いたのかどうか、女は皿を数えるのをやめたが、依然として俯いたままである。
 「まぁ、この際ゆうれんでも何でもかまいまへんわ。代金さえ払うたら、あんたはんの望みを叶えてあげてもよろしおますえ?」
 初めて女は顔を上げ、アラシヤマを見た。生気の全く感じられない青白い顔である。
 「ただし、高うおますけどナ」
 (まかせろって、幽霊から金をまきあげんのかよ……)
 一歩下がって腕組し、そのやりとりを眺めていたシンタローはため息をついた。
 「オマエよぉ……」
 「なんどすの、シンタローはん?その呆れた目は!?だって、商売どすもん!わては幽霊だろうが、豆狸だろーが、払うもんはキッチリ払ってもらいますえー!自分を安売りせぇへん主義なんどすッ!」
 「逆切れすんじゃねぇッツ!!そもそも、いばるようなことでもねーだろ!?」
 振り向いたアラシヤマの頭をシンタローがはたく様子を、女はじっと見ている。
 そして、不意に、女とシンタローの目がかち合った。
 「アンタ、何があったか知んねーが、とっとと成仏したらどうだ?供養しろっつーんならしてやる!こんな胡散臭い根暗野郎と係わりあってもぜってーろくなことになんねーぞ?」
 女は答えない。
 「あの、胡散臭い根暗野郎って、ちょっとどころやなくひどうおへんか……?」
 というおずおずとした声が傍らから聞こえたが、シンタローは無視した。


 相変わらず押し黙ったまま、女は皿が入った桐箱をアラシヤマの方へと押しやった。
 「青山家伝来の高麗皿5枚どすか。陽刻花模様の高麗青磁か……まぁまぁやナ。それで、自分を殺した憎い男への無念を晴らしてほしいんどすか?」
 幽霊はゆっくりと首を横に振った。
 「播磨様と、いっしょになりたい」
 「―――わかりました」
 無表情にアラシヤマがそう言うと、女の姿がすうっと消えた。
 風もないのに、仏壇においてあった子どもの玩具らしい風車が畳の上に転がり落ちた。
 それを拾ったアラシヤマは、
 「取引、成立どす」
 と云った。


pa2

 「暑っちい…」
 シンタローは、こめかみを伝う汗を腕でぬぐった。
 寺といえば谷中や上野、という人宿のことばに背を押され、谷中の寺をまわってはみたものの売り上げはいまのところわずかであった。
 (高く売りつけろっつーてもよ、限度があんダロ?せめて、菓子とかだったらな…。パプワとチャッピーに持って帰ってやれんのに)
 重箱に入っている線香もろうそくもあまり上等な品ではない。シンタローなりに値段を上乗せしてはみたが特別わりのいい商売とも思えなかった。
 (人宿の野郎、何であんなに喜んでやがったんだ?)
 油断も隙もない老人が嬉しがっている時は、十中八九ろくでもないことである場合が多い。そして、人宿だけではなく寺で応対に出てきた坊主どもの態度も気になった。ある僧など線香とろうそくを買ってくれたはいいが、シンタローをジロジロとみて、
 「あと十ほど若かったら…」
 などと溜め息を吐くのである。なんとはなしに気に食わず、坊主を睨み返すと怯えたようにあわてて顔をそむけてしまったが。


 日も高くなり土の道には陽炎がたちのぼっている。昼時でもあったので寺を辞し、シンタローは不忍池のほとりで休むこととした。炎天下、あたりに人の姿は見あたらない。
 柳の木の根元に座ると、茂った葉が影を落とし池の上を吹きわたる風が涼しかった。
 シンタローが目を閉じ木の幹にもたれると、不意に、
 「あんさん、売れまへんやろ?」
 と、底意地の悪そうな男の声がした。


 目を開けると、眼前にはいつのまにか男が座っていた。頭には黒布の兜布をかぶり、結袈裟や鈴懸を身につけている姿をみるとどうやら山伏らしい。傍らには、金剛杖と木でできた笈、何やら丸みを帯びた凸凹のある黒い襤褸袋がおいてあった。
 気配が感じ取れなかったことに驚き、少し警戒しつつ、シンタローが
 「何だてめぇ?」
 と問うと、男はニヤニヤしながら、
 「見てのとおりどす。なんやけったいなころあいのもんがおるなぁ、と思いまして」
 そう、小馬鹿にしたように答えた。
 「……退け、邪魔だ」
 シンタローが睨みつけると、男はますます楽しげに身を乗り出し、
 「そら、寺の軟弱な坊主どもにはとうてい無理な話や。……そやなぁ、わてが買うたげてもよろしおますえ?」
 と云う。
 シンタローは、少し俯き思案した。男はどういうつもりかは知らないが、自分が困ったり怒ったりする様子を見て馬鹿にしたいのだろう、ということは容易に想像がついた。男を殴ることは簡単であったが、それぐらいでは腹立ちが収まりそうにない。
 (この野郎。カンペキおちょくってやがる上、買う気がねーの見えみえだな。でも超ムカつくし。…そうだ、この野郎に線香と蝋燭を押し付けて有り金全部を巻き上げてやるか?うん、まぁアリだナ!)
 シンタローは俯いたまま小さく笑んだ。そして、顔を上げると、
 「えっ、本当か?」
 と、とびきりの笑顔を見せた。もちろん作り笑顔であったが、男は予想外に動揺し、全く気づかなかったようすである。
 「いや、あの、あんさんなぁ、冗談にきまって…」
 「もちろん、男に二言はねーよナ?そこまで言うなら、オマエに買ってもらおうじゃねーか?」
 男は傍にあった笈をものすごい勢いで開くと、中から何かを掴みだした。
 (武器か…!?)
 シンタローは身構えたが、男は何故かそのまま柳の木の後ろに駆け込み、何かと会話しているようであった。時折、「トージ君っ、それはせっしょうな話どす~!」などという声が聞こえた。
 (何か、すげーキモイ野郎だよな…。関わりあいにならねー方がいいかも)
 シンタローがその場を離れようと立ち上がり、重箱を掴むと、ちょうど男が戻ってきた。手には木でできた人形らしきものを持っている。先程笈のなかから取り出したのは この人形のようであった。
 男はシンタローの全身を上から下まで見て、
 「買いますさかい」
 と云った。
 「え?やっぱ、別にいい。さっきの言葉にひっこみがつかなくなっただけなら、取り消してやっから。それにテメー、見たとこそんなに金も持ってねーダロ?」
 「馬鹿にせんといておくれやす」
 そう言って、男は懐から皮の小袋を取り出し、シンタローの方に放った。シンタローは片手で受け取ったが、ずしり、と重い。
 (小判か?)
 「それでも足りへんかったら、わての商談が終わってから払いますさかい。だから、買わせておくれやす」
 と、男は言った。さきほどまでとは様子が違ってからかうでもない。
 「まぁ、いいけどよ…」
 (とりあえず、ろうそくと線香をコイツに全部やればいいのか?)
 何が男の気持ちをひるがえしたものか、シンタローには皆目見当もつかなかったが、とりあえず地面に重箱を下ろし、しゃがんで線香とろうそくを包み始めた。
 男は、立ったままシンタローの後姿をじっとながめていた。
 「あんさん、名前なんていいますのん?わて、アラシヤマといいます」
 「シンタロー」
 「はぁ、シンタローはんいうんどすか。もしかしてシンタローはんは素人どすか?わてには長年この商売をしてはるお人のようには見えへんのやけど…」
 「素人とかそんなの関係ねーダロ?こちとら、生活のためにやってんだ」
 「―――何で、わてに買うてほしいって思わはったんどすか?」
 (買ってほしいんじゃなくて、テメーがムカついたから、とは言えねぇよナ。いまさら金返せとか言われたら困るし)
 「理由なんてどーでもいいだろ」
 「あっ、もしかするとひょっとして、運命を感じちゃったってアレどすか!わてもシンタローはんに会うたのは運命やと思いますえー!」
 「あっそう」
 シンタローは、三つめのろうそく包みをつくるのに必死でアラシヤマの言葉をほとんど聴いてなかった。少し傾斜のついた道の上ではろうそくは転がりやすく、包みにくい。
 「あの、早うしてもらえまへんか?」
 「ちょっと待て、くそっ、結構むずかしーナ」
 「待ちきれまへん。少々味見を」
 いつのまにか背後から近づいたアラシヤマがシンタローの腹に腕をまわし、首筋に顔をうずめるとシンタローの身体が兎のようにはねた。
 「……ああ、上玉どすな。トージ君のアドバイスに間違いはおまへん!わてはラッキーどすぅ~vvv」
 「何すんだこの変態野郎ッツ!!」
 腕をふりほどき、シンタローは立ち上がりざまアラシヤマを蹴飛ばした。そのままアラシヤマは土手の下に転げ落ちた。
 シンタローは顔を赤くして着物の袖で首をごしごしと拭った。
 「何すんだは、こっちの台詞どす!わては、あんさんの身を買うたんどすえ!?まだ抱いてもおへんのに、いきなり蹴り飛ばされるとはどないな話なんどすか!?」
 ほどなく、土手を這い上がってきたらしいアラシヤマが恨みがましげにそう言った。
 「身を買う!?何でテメェなんざに俺が身売りをしなきゃなんねーんだヨ!」
 「提重の格好で寺のまわりをうろついて、まさか線香とロウソクだけ商ってると思う阿呆はフツーおらへんやろ!?」
 「何だと?要するに俺がマヌケだって言いてーのか…!?」
 「―――あんさん、この際わてに素直に身を売る気はないんどすな?」
 「当たり前だ。フザケンナ!」
 「なら、しょうがおまへん…」
 アラシヤマは、シンタローの手首をつかむと、
 「わわわわわての目を見ておくれやす!」
 と言った。
 「何キモイこと言ってやがんだ?さわんなッ!」
 シンタローが手を振りほどき睨み返すと、アラシヤマは髪に隠れていない片目を見開いた。どうやら、驚いたようである。
 「あれ?何であんさん、わての暗示にかかりまへんの??」
 「―――死ね。眼魔砲ッツ!!」
 昼下がりの不忍池に、水音が響いた。



 ゆでた茄子を一口大に切りながら、シンタローは考え込んでいた。
 茄子はこのたび庭で採れたものである。
 (あの変態野郎の金は、なるべくなら使いたくはねーよナ………)
 かといって、当座は人宿の顔も見たくなかった。


 結局、線香売りのアルバイトのしだいは人宿にだまされたようなものであったので、眼魔砲を撃った後すぐにシンタローは古着屋に乗り込んだ。
 「騙しやがったな!?てめえッツ!!」
 帳面をつけていた人宿の胸倉を掴み上げると、シンタローよりも小柄な老人の体は宙ぶらりんに吊り下がった。しかし、特に怯える様子もなく
 「おや、首尾は上々、ではなかったのかね?シンさん」
 と、にやついていた。
 「上々なわけねーダロ!?手前のせいで、ろくでもねぇ目に…」
 「首筋が赤うなっとるが、それも関係しておるのかの?」
 思わずシンタローが人宿から手を離し首筋をおさえたすきに、老人はさっと身軽に逃げた。
 吊るされた古着の陰からシンタローの表情を見て、
 「おお、くわばらくわばら」
 そうのたまう人宿は、口ほどには怖がっているようでもない。
 「わしが、もう四十ほど若かったら、シンさんのようないきのいい若衆を買うてみたいものじゃがのう」
 じろり、と人宿を睨むと、シンタローは無言で着ていた小袖を脱いでまるめ、ホッホッと笑う人宿に投げつけた。
 「これこれ、シンさん。これは高級品じゃ、もっと丁寧に扱うてくだされ」
 あわてて小袖のシワをのばしている人宿を無視し、シンタローは黙々と自分の着物を身につけ刀を腰に佩いた。
 「シンさん、明日はまともな日雇いの口を用意しておくからの」
 との人宿の声を捨て置き、土間にあった木桶を思いっきり蹴飛ばしたシンタローは古着屋を出た。


 それが、昨日のことである。
 (―――しばらくは、自給自足でなんとかすっか。一応味噌もしょうゆもあるしナ)
 と、シンタローは息を吐いた。
 切った茄子を手早く串にさし、木べらで山椒入りの味噌をぬる。あとは網で香ばしく焼けば茄子の鴫焼きの一丁あがり、であった。流しに置かれた手桶の中には水がはってあり、笊にいれた素麺が冷やされている。シンタローは素麺を引き上げ、手際よく水気を切った。
 そろそろ庭で遊んでいるパプワやチャッピーを呼び戻そうかと思ったところ、突然庭の方から
 「うっわー!なっ、何だべさー!!」
 という悲鳴が聞こえ、その後ずるずると何かを引きずって子どもが家の中に入ってきた。
 どうしたんだ、と聞くまでもなく、子どもが引きずってきたものを見やると気絶しているのは顔見知りの武士であった。
 「シンタロー、蹴鞠をしていたらこいつに当たったゾ」
 頭痛の種がふえた気がしたが、シンタローは、
 「とりあえず、昼飯だ。そいつを部屋に放りこんだら、茄子を焼くのを手伝えヨ」
 と云った。
 
 
 「あら~、なかなかいい男じゃないの?」
 「いやーね、イトウちゃん。シンタロー様にはかなわないわヨ」
 「それもそうよね~!」
 「でも、ちょっと味見するぐらいならいいかも…v」
 「あっ、抜け駆けはズルイわヨ!?タンノちゃんッツ!!」
 「テメーら、たかるなッ!一応これでも客なんだからナ!眼魔砲ッツ!」
 眼魔砲を撃った衝撃からか、気絶していた武士はどうやら目覚めたようである。がばり、と身を起こし、
 「一体なんなんだべッツ!」
 と辺りを見まわして叫んだ。
 「アレ?ここは…」
 「よォ、久しぶりだナ!ミヤギ」
 「シンタロー!元気だったべかっ!」
 「まーな。あ、言っとくけど、お前の分の昼飯はねーから」
 「いや、昼飯は食ってきたから別にかまわんけんども…。これ、土産の羊羹だべ」
 ミヤギと呼ばれた武士は、傍らに置かれていた包みをシンタローの前に置いた。
 「すまねぇナ」
 包みを受け取ったシンタローは少し顔をほころばせた。
 「で、何の用だヨ?」
 「いや、ちょっとシンタローに頼みたいことがあるんだべ。それにしても、この家は薄気味の悪いところだなァ…。もしかしなくても化け物が住みついているんだべか?」
 ミヤギは、鯛と蝸牛のいる場所になんとはなしに胡乱な視線を向けた。
 「化け物!?」
 「なによもうッ、失礼な男ねぇ!」
 とニ匹は憤慨していたが、ミヤギには二匹の姿が見えず、声も聞こえないらしい。
 「まぁ、おめさは昔から豪胆だったからナ。肝だめしの後シンタローが高熱でたおれた時は何かのたたりかと心配したけんども、あの時も数日で元気になったべ!」
 「ああ、あれナ…」
 薬もきかない原因不明の高熱が出ている間中、天狗の顔と羽をもつ小鬼やら楽器に足の生えた妖怪やら着物を着た動物やら何やらがシンタローの床の周りで踊り騒いだが、いっこうに怯えた様子をみせないでいると数日で妖怪どもは自然と消えた。それ以来、人外のものが見えるようになったのである。
 ミヤギは庭で遊ぶ子どもと犬をながめ、ふかぶかと溜息をついた。
 「浪人してまであんなとんでもねぇガキを養うなんて、おめさもつくづく貧乏くじだべ。あのガキの蹴った鞠の勢いはただもんじゃなかったっぺ。オラの自慢の美貌になんてことをしてくれたんだァ…」
 シンタローは、ぶつぶついいながら顔をさするミヤギを見て、
 「鞠が避けられねーのはお前の日ごろからの鍛錬がたりないからなんじゃねぇ?」
 と、そっけなくかえした。
 「ところでシンタロー。折りいって話というのは、物の怪が見えるおめさを見込んでのことだァ」
 「物の怪?」
 シンタローは嫌な顔をした。
 「んだ。最近、青山殿という旗本の屋敷でおかしなことがおこっているという噂が巷に流れていて、オラが調べるようにいわれて行ってみたんだけんど、なんのかんのと理由をつけて断られて青山には会えなかったべ。こっそり屋敷に忍び込んではみたんだが、青山は尋常の様子ではねぇかんじがしたべ。それが物の怪の仕業かどうか確かめてきてくれねぇべか?」
 そう云って、紙に包んだ小判らしきものをシンタローの前に押しやった。シンタローは懐手のままである。
 「俺は、今、浪人してるんだ」
 「おめさに断られると、どうにもならねーんだべ!」
 必死で言い募るミヤギであったが、シンタローは
 「知るかよ」
 とため息をついて云った。
 どうにも重苦しい雰囲気の中、外の空模様が怪しくなり、いきなり通り雨が地面にたたきつけた。
 「シンタロー!雨だゾ」
 「くぅーん…」
 と、一人と一匹が家の中に駆け込んでくる。
 「こら、濡れたまま畳にあがんな!」
 立ち上がったシンタローは行李からだした手ぬぐいで子どもと犬を思いっきりふくと、かえの着物と新しい手ぬぐいを子どもにわたした。
 「風邪をひくから、しっかり拭けヨ?」
 壁にもたれていたミヤギはシンタローを見て目をまるくした。
 「おめ、かわったなぁ、シンタロー………」
 「別に、何もかわっちゃあいねーヨ」
 子どもと犬は遊び疲れたのか寝てしまったが、その上にシンタローは布団をかけた。
 彼はミヤギを振り向き、
 「やっぱ、さっきの話、ひきうけるわ」
 ときっぱりといった。
 「本当だべか?」
 ミヤギの顔色がひといきに明るいものへとかわった。



 「それで、本題に入らせてもらうけんども」
 ひとまず、ミヤギは湯飲みを置いた。
 「青山は七百石の旗本で、白柄組の一味だべ。まぁ、喧嘩っぱやい旗本奴だべなぁ。番町の三番町に屋敷があるんだけんども、最近、夜になると屋敷の周りに人魂が飛ぶとか、使用人の姿が見あたらねぇとか、殿様の怒鳴る声が毎夜聞こえるとか怪しげな噂が絶えねーべ」
 「お前、屋敷まで行ったんだろ?」
 「ああ、柴田という用人が応対に出てきたんだけんども、どうぞおひきとりくださりませの一点張りで、とにかく顔色が尋常じゃなかったべ。そんで、らちがあかねぇから、オラは夜忍び込んだんだ」
 「人魂は見えたのかヨ?」
 シンタローが少し面白そうにミヤギに聞くと、ミヤギは頬についた鞠跡をさすりながら、
 「うーん、見えはしなかったけんども……」
 考え込む様子であった。
 「何だよ、はっきりしねぇナ」
 「いや、オラには見えなかった。でも、夜気が暑いのに背筋が寒くなるような変な感じがしたべ。それに、障子が開け放たれていて庭から青山らしい姿が見えたんだけんど、何もねぇところに向かってわめきながら刀を無茶苦茶にふり回していた」
 「単に乱心じゃねーの?」
 シンタローがそっけなくそう云うと、ミヤギはますます難しい面構えになった。
 「オラもそう思いてーべ。んだども、十人はいるはずの使用人たちの姿も用人以外は噂通り全く見当たらなかったし、まさか全員逃げたとかいうはずはねぇべ?そうすると、やっぱり何かおかしいべ」
 「事によっては家事不取締で、そのままお家断絶、か?」
 「だべなァ……。でも青山は上の連中と繋がりがあるらしぐて、そう簡単に話はすすまねぇみたいだ。だからオラ達に話がまわってきたらしいっぺ」
 「乱心者を放置はしておけねぇけど、怪異の仕業のせいにして青山を隔離すれば、ひとまず青山の旗本としての面目は保たれるってわけか?」
 「さすがはシンタローだべッ!」
 ミヤギは、感心した面持ちでシンタローをみた。
 「もう筋書きが決まってんなら、本当に化け物が絡んでいるかどうかなんてわざわざ調べる必要はねーダロ?」
 「念のため、だっぺ。上の連中に臆病なのがいるんだぁ。もし本当に怪異の仕業だったら、そんじょそこらの坊主が拝んだくらいじゃきかねーべ?それに、わざわざ高僧を呼ぶんなら目ん玉の飛び出るほど金もかかるしなァ」
 「どーしようもねぇ野郎どもだナ……」
 シンタローは呆れた顔つきになった。
 「と、いうわけで、もし化け物さいたらついでにおめが退治してけろ」
 「おい、ちょっと待てテメェ!ついでって、何をさらっと聞き捨てなんねぇことを言い出しやがんだ!?」
 「化け物さいるのはオラぁ確実だと思うだ!でも化け物は体さねーから、オラの筆はきかねぇべ!?」
 「じょーだんじゃねぇッツ!そんなの、命がいくらあっても足りねーじゃねぇか!?」
 シンタローはミヤギを無言でしばしにらんでいたが、しばらくのち
 「……まさか、さっきの金は化け物退治料こみなのかヨ?」
 と剣呑な口調で訊くと、
 「んだ」
 ひきつった笑顔でミヤギはうなずいた。
 「―――金額を割り増しさせてもらうからナ」
 「こ、これでも下っ端のオラにはギリギリ精一杯なんだべっ!云っとくけど、オラの小遣いも全部入っているんだからナ!! 頼むべ、シンタロー!この通りだッツ!!」
 両手を合わせて自分を拝むミヤギを眇めた目で見て
 「お前よォ……」
 シンタローは何か云おうと口を開いたが、ミヤギは刀を掴んで勢いよく立ち上がり、
 「じゃっ、化け物退治の方もよろしく頼んだべ!んだらば、そろそろオラは失礼させてもらうべッツ!!」
 シンタローの返事も聞かず、大慌てで家から出て行った。
 シンタローは腕を組み、
 「フザケンナ」
 と、紙に包まれた小判をにらみつけた。



 数日後、シンタローは番町へと足を向けた。よくよく考えても、自給自足には限界があり、とりあえず金は必要である。
 昼下がりの番町は、うだるような暑さであり、地面には陽炎がゆらゆらと立ちのぼっていた。武家屋敷が並ぶ坂道には行商人の姿などほとんどみあたらない。
 シンタローは、三番町通りの青山の屋敷の前で立ち止まった。使用人が常駐しているはずの長屋門の内には人の気配はなさそうであった。周りを日の高いうちに辺りの様子見ておこうと、瓦の載った白塀のまわりをぐるりと歩んでいたが、邸内は静まり返っているようである。ふと、何か魚などが腐ったかのようなかすかな異臭が鼻についた。
 (位置的には裏庭あたりか?)
 シンタローは辺りに人気の無いことを確かめ、塀を身軽に乗り越えた。はたして、裏庭であるらしく、深緑色の光艶のある葉が生い茂った数本の山茶花の木の横には土蔵が建っていた。
 土蔵の手前の石畳の上には、継裃を身に着けた白髪混じりの男が、肩口から胴まで斜めに切り下げられ倒れていた。シンタローは屈みこみ、男の息があるかどうかを確かめたが、すでに事切れているようであった。
 どうやら、男は土蔵の鍵を閉めようとしたところを何者かに襲われたらしい。立ち上がったシンタローが土蔵の扉を開こうと手を伸ばしたとき、後ろから
 「奇遇どすなぁ……。まさか、こんなところでシンタローはんに会えるとは思いもよりまへんどしたえ?」
 と、陰気ながらも嬉しそうな声がした。

pa1

 丑の刻、山王大権現の稲荷坂を登る人影があった。どうやら女のようであり、白い着物の背にざんばらの黒髪がうねっている。
 このような夜半に女一人、というのもあやしかったが、その様態はさらに尋常ではない。頭には金輪をかぶり、金輪から突き出た三本のあしにはそれぞれ蝋燭が燃えながら突き立っていた。
 三本の蝋燭が闇をわずかではあるが照らし、鳥居やのぼりがぼんやりと朱に浮かび上がった。女は高下駄で石段を踏みしめながら一歩一歩確実に上へ上へと登っていく。
 境内につくと、楠の大木が三本寄りそうように並び、森のような空間をつくりだしていた。
 女は唇にくわえた五寸釘を手にもちかえ、木の幹に這わした藁人形の腹ににじり刺した。
 金槌を持った手を振りあげ、藁人形めがけておもいきり打ちおろす。金属同士の打ち合わされる高い音が、じっとりと暑い空気を震わせた。
 女は飽くことなくその行為をつづけている。そのうち、白い額に汗の玉がふつふつと浮かび上がった。
 「悔しい。お仙め…!播磨様が妾をうとんじておるなどと親切ごかしに言いよって。きさまの魂胆など見え透いておる。播磨様に取りいり、ゆくゆくは妻の座にすわろうなぞとたくらんでおるのであろう。播磨様も播磨様じゃ。一生に一度の恋と誓いおうた仲であるのに、お仙のような輩の讒言を信じて奥様や兵太郎坊ちゃまがお亡くなりになったことも妾の仕業だと思うておられるのか?ああ、憎い。憎くてたまらぬ」
 口からは、自然と呪詛のことばがころがりおちる。これ以上ない、というほどに釘が藁人形を神木に留めつけた時、女は金槌を取り落とし、
 「なにとぞ、なにとぞ…」
 と必死で手を合わせ、何かを願った。彼女が俯いた拍子にぽたぽたと蝋が白装束の腕に垂れ落ちた。
 「憎い相手に死を与えたまえ、どすか?」
 いきなり、稲荷社のある方向から男の声がした。何か面白がるような調子であった。
 「………貴方はどなた様でございますか」
 女は、用心しいしい訊いた。
 「わて?ああ、安心しておくんなはれ。神とか狐狸とかそないにけったいなもんやおまへん。この辺は蚊ぁがようけおってかなんわ」
 「………」
 舌打ちと、手で何かを叩くような音が聞こえた。
 「おなごの恨みは怖うおますなぁ。ま、わてに見られたからにはあんたはんの呪いはもうききまへんな。残念どすが、丑の刻参りとはそういうもんや」
 ああ、もうえらいうっといわと、声が上がった。社の方角から、炎でできた蝶がゆっくりと羽をはためかせ、夜空へと舞い上がった。どうやら無目的というわけではなく、羽虫を追っているようであった。
 女の前に羽虫が逃げてきたが、ついに蝶は長い足で虫を捕らえ、相手を燃やし尽くした瞬間、かき消えた。
 「―――そやなぁ、本気で殺しとうおましたら、わてが肩代わりしたってもよろしおますえ?」
 突然、男の声がした。蝶に見いっていた女は肩を揺らした。
 「本当でございますか?」
 「ただし、代金さえ払えれば、どすけど。高うおますえ?」
 からかうような調子で、いかにも面白そうに男は低く笑っていた。
 「播磨様は…」
 女は、眉をひそめた。
 「男を盗った女は憎いが、自分を裏切った男はまだ可愛い、というわけどすか?どこのお女中か知らへんけど、その程度の煮えきらん覚悟やったらせんない望みは持たへんことやナ」
 はよ帰り、と間近で囁かれた気がしたが、夢か現か分からなかった。女はその場に呆然と立ち尽くしていた。
 


 「お菊、家重代の宝である高麗皿を、わざと割ったと申すか?」
 青ざめた顔色をした年のころ二十歳をいくつか過ぎたほどの若い武士が、縁側にひれ伏す女を見下ろしていた。
 「はい、おっしゃる通りでござりまする」
 女の小さい身体は細かく震えている。まだ少女の面影を残した女はいかにも頼りなげで哀れな様子であった。武士は寄せていた眉根をほどき、ふと、表情を和らげた。
 「手打ちに逢うても是非の無い大切の皿と知っていて、むざむざ割るとも思われぬ。何か仔細があるのであろう。そちは長年わしによく仕えてくれた、場合によっては許してつかわそう。申せ」
 「殿様のお心を疑いましたのでござりまする」
 「わが心を疑うたと?皿が大事か、そちが大事か、この播磨を試したというのか?」
 武士は、伏せたままのお菊の襟髪をつかんで庭に突き落とした。
 「はい。お仙どのから、奥様や兵太郎様がお亡くなりになられた高熱の病をわたくしが毒を盛ってのことと殿様がお疑いと聞ききまして、播磨様の本当のお心が知りとうござりました。毒を盛ったなど、事実無根でございます」
 「浅はかな……。そちが毒を盛ってはおらぬことなど承知しておる」
 「どうか、おゆるしくださりませ」
 「いいや、許せぬ。皿が惜しいのではない」
 そう云うと、武士は箱に入っていた四枚の皿を庭の踏み石に叩きつけた。
 「あくまで他人に罪をなすりつけようというそちの心根と、わしを疑った罪を許すことはできぬ」
 お菊は、吃と顔をあげ、播磨を見据えた。
 「やはり、殿様はお仙に誑かされておられるのでござります。このまま後添えにお仙を迎えるつもりでございましょう?わたくしはともかく、浄土の奥様や兵太郎様へはどうお顔向けなさるおつもりでござりまするか?」
 武士の顔色は青から朱へと刷毛で塗ったように変わった。
 「どこまで疑り深い女じゃ。そちの顔なぞみとうもない、手打ちにしてくれる。覚悟して、そこへ直れ!」
 「―――これが、わが一生の恋と定めたお方か。なんとも情けない」
 「愚弄するかッツ!」
 武士は、女を一刀に肩先より切り倒した。
 先ほど駆けつけたものの、青い顔で固唾を呑んでなりゆきを見守っていた中間に武士は気づき、
 「權次、ぼんやりと観ておらずに、女の死骸を井戸へ投げ捨てい」
 と言い放った。



 明け六つの頃、のどかな朝景色の静寂をやぶってあたりには瀬戸物が割れるような甲高い音と、引き続き怒号が響いた。
 ススキなどの草原がえんえんと広がる小石川の風景のなか、まばらな林に囲まれて粗末な一軒家が立っていた。板で葺かれた屋根のうえには草がはえ、建物も長年の風雨に傷んだ様子である。家の前には片隅に茄子や葱を植えた庭があり、物干し竿には洗濯物がはためいていた。
 しばらくすると、家の中からは黒髪を元結で一つにゆわえた若者が肩を怒らせて出てきた。そのまま彼は東へと道を歩み、ついには見えなくなった。



 「シンタロー、何だこのメシは?」
 畳に置かれた膳の上を見て、三白眼の子どもは向かいに座っていた青年をにらんだ。
 子どもの隣に座った犬も
 「くぅ~ん……」
 と、非難の眼差しでシンタローと呼ばれた青年を見た。彼は味噌汁椀を膳の上に置くと、ため息をつき、
 「あのな、パプワ、チャッピー。ウチにはとにかく金がねーんだ!」
 そうきっぱりと言い切ると黙々と食事に戻った。そうは言われても、子どもは納得がいかないらしかった。
 「育ちざかりの子どもにこんな栄養価の低いものを食わせるつもりか?」
 「わうっ!わうッ!!」
 「子どもは文句をいわずにとっとと食いなさい!って、さっきからドンブリ飯10杯も食らいやがって…」
 「シンタロー、おまえ、自分の立場というものがわかっとらんよーだな…」
 子どもは空になった膳を思いっきりひっくり返すと、
 「チャッピー、エサ!」
 青年を指差した。犬は座っている青年に飛びつき、鋭い歯でガブリと腕を噛んだ。
 「だぁーッツ!」
 と、青年は立ち上がると腕にくらいついている犬を思いっきり引きはがし、放り投げた。犬は数回転して土間に着地するとすぐに戻ってきた。
 「あのなぁッ…!!!」
 ひとつ息を吸い込み、青年が怒鳴ろうとした瞬間、不意に辺りの気温が数度下がり北側の壁から桃色の殻がめだつ巨大な蝸牛と、それと同じぐらいの大きさの紅色の鯛が現れた。鯛にはすね毛つきの足が生えている。
 「待って!シンタローさんッ!パプワくんの言うことも一理あるわッ!」
 「そうよっ!子どもには豊かな食生活が必要なのよっ!」
 「さっさと帰れ、妖怪どもッツ!!」
 じろり、と二匹を睨むと青年は自分の方へと勢いよく近寄ってきた鯛と蝸牛を足蹴にして座った。二匹は土壁に激突するかと思われたが、体が半分壁をすり抜けただけで特に怪我は負っていないらしかった。
 「シンタローさん、相変わらず格好いいけど冷たいわねぇ………」
 「馬鹿ねー、タンノちゃん。そういうところも素敵なんじゃないのォvvv」
 「そうね!イトウちゃんvvvあ、シンタローさん。私たちも朝ごはんをいただくわv」
 勝手知ったる様子で鯛と蝸牛はいそいそと土間の方へ降り、味噌汁の入った鉄なべと釜を宙に浮かせながら戻ってきた。
 「あら?このお味噌汁、味が薄いわ。もうちょっとしょっぱいほうが好みなのに」
 「このご飯もかなり粟が混じっているわネ」
 「―――きさまら、好き勝手言いやがって……。なら、食うなッツ!!そもそもテメーら妖怪で飯を食う必要なんてねーダロ!?大飯ぐらいがいる上にバクバク食われちゃこちとらたまんねーんだよッツ!!」
 青年は、目の前の膳を思いっきりひっくり返した。
 「男のヒステリーは格好悪いゾ」
 「わう」
 「私たち、シンタローさんが大好きだから手料理を食べたいのよ」
 「そうそう」
 無言のまま青年は立ち上がり土間へと向かうと上がり口に腰かけ、草履を履いた。
 「あっ、シンタローさんどこへ行くのッ!?」
 振り返りもせずに出て行った彼に、蝸牛が呼びかけたところ、
 「うるせえ!バイトだッツ!!」
 という怒鳴り声が飛んできた。







  

 たまに牛馬をともなった百姓とすれ違うぐらいのもので、人通りがほとんどみられない小石川から東行するにつれ、家並みが続きよく人も往来するようになった。
 シンタローは神田川沿いを歩んでいたが、日本橋に近づくにつれ川の上にも江戸湾から揚げられた魚や各地から集められた米俵などを積んだ船がさかんに行き来している。
 川沿いから一歩日本橋の市街に入ると、板ぶきやこけらぶき屋根の厨子二階の町家がひしめいてた。道はそう広くはないが、使いにいそぐ飛脚が地面の砂ぼこりを舞い上げて走り、勧進聖のむれが家々の戸口で鉦をたたきつつ勧進帳を大声でよみあげて喜捨を乞う。被衣を頭からかぶった女達は真剣に傀儡師のあやつる人形芝居にみいっていた。まことにそうぞうしく、活気にあふれた様子であった。
 いくつか通りを曲がると、富沢町である。富沢町は古着屋が軒をならべ、店先の見世棚には色とりどりの着物が吊るされている。近くに吉原の花街があるからか、艶やかな女物の小袖が多かった。
 つと、シンタローは一軒の店の前で足を止めた。紺の暖簾には着物の絵と「くちいれ」という文字が交互に染め抜かれていた。
 暖簾をくぐってすぐの場所は二間ほどの土間であり、その横は上がり口であった。
 「よぉ!人宿」
 と、ぶっきらぼうに声をかけると、着物の隙間からといったあんばいで不意に老人が上がり口まで出てきた。老人の頭はいさぎよく禿げあがり、眉は霜のように白い。一見、いかにも好々爺のご隠居といった様子ではあるものの、身のこなしに隙はなかった。
 「おや、シンさん。久しいの。元気そうで何よりですじゃ」
 「ああ、アンタもな。まだ、くたばってなかったんだナ」
 老人はおかしそうにホッホッと笑うと、
 「まぁ、死にそうなほど退屈はしておりましたがの。さ、おあがりなされ」
 と云ったのでシンタローは上がり口に腰かけた。
 「何の仕事をお望みかな?」
 シンタローは少し思案し、
 「日雇はねぇか?」
 そう聞いた。
 「なるべく、一日がいーんだけど。この前みたいに石運びとかねぇの?普請の手伝いでもいいゼ」
 人宿は、すまなさそうに眉を下げた。
 「昨今お江戸に人が増えたせいか、今日は日雇の口はもうふさがってしもうての。すまんのぉ。十日雇や二十日雇いならまだあるが?」
 「―――あんまし長くは家をあけれねーんだ」
 「シンさんの気が進まないのは分かってはおるが、いっそのことちゃんとした武家奉公はどうじゃ?あんたほどのお人なら、仕官の口はいくらでもあると思うんじゃが……」
 「それはできねぇ」
 きっぱりと答えた。
 人宿は、目じりに幾重にも皴が刻まれた目をしょぼしょぼとさせ、
 「ほんに、かえすがえすもおしいのぉ…。もう数十年早く生まれておれば、シンさんはひとかどの武将になれただろうて」
 と、ため息をついた。
 「ったく、くだんねぇ。んな話はいいから、じーさん、何かねーの?」
 「傘張りはどうじゃ?これなら家でもできる」
 「………ウチではとうてい無理だナ」
 「扇の地紙売りはどうかの?シンさんはいい男じゃから、娘っ子や年増どもにもよう売れると思うがの」
 「ああ、あれな…」
 シンタローは、何を思い出したのか苦い顔つきになった。確かに以前、扇の地紙売りをしたことはあったが、客からもらった大量の付文を家に持ち帰ると、鯛と蝸牛が大騒ぎし事態を収拾するまでにひどい目をみた。大半は自分の撃った眼魔砲が原因であったが、茶碗は飛び壁は崩れ、結局は売り上げを超える費用を要したのである。
 「やっぱり、却下!」
 とは言ったものの、シンタローも先程から無理ばかりを言っているとは重々承知であった。ぐるりと土間を見渡すと、風呂敷に包まれた大きな包みが置いてあった。
 「じーさん、あれは?」
 「ああ、あれは寺向けの線香と蝋燭じゃわい。何を考えておるのか、本来ならうちで取り扱う仕事ではないんじゃがのう」
 老人は、渋い顔をした。
 (寺か…。なら、面倒はなさそーだナ)
 「俺がやってもいいか?」
 「シンさんが?」
 絶句したのち、しばらく人宿は考え込んでいたが、
 「―――まぁ、シンさんなら大丈夫、か」
 と、一瞬人の悪い笑みを浮かべた。そして立ち上がると、奥へ消えた。
 ほどなく人宿は戻ってきたが、その手には刺繍がこらされ、紅色、黒紅、白に染め分けた小袖を携えていた。
 「シンさん、これに着替えなされ」
 「―――なんだヨ、このド派手な着物?」
 「商売に必要な衣装じゃよ。坊主どもの慌てる顔が目に見えるようじゃわい」
 「……こんなんで、本当に売れんのか?」
 「そこはシンさんの腕次第じゃな。そもそも線香など元々の値段はあってなきがごとし。思いっきり高く売りつけておやんなされ!」
 シンタローは慶長小袖に着替えたが、
 「見事なかぶきっぷりじゃ!うちの看板若衆をやってくれんかの?」
 などと大喜びな人宿を見て、理由は分からないがなんとはなしに嫌な予感がした。
 しかし、喜んでいる人宿を問い詰めるよりもさっさと稼ぐほうが大事かと思いなおし、線香と蝋燭の入った重箱を提げシンタローは口入屋を後にした。







  





  
paa



「ン……っ、う……」


 夢と現の境目が曖昧なままに瞼だけが薄く開いて、同時に手足に重たい圧迫感を感じる。
 身を起こそうとしても、何かの気配に圧されているように体はピクリとも動かない。またか、とうんざりしながら、シンタローはもう一度固く眼を瞑った。

 寝覚めの金縛りに、シンタローは免疫がある。
 八条烏丸のこの家は見かけこそ破れ家と紙一重だが、築地(ついじ)を境に強力な結界が張ってある。そのため本当に危険な妖怪の類は侵入できないし、仮に結界を破られたとしてもそれはすぐさま内部の人間に伝わるような仕組みが出来ている。
 だが、強力な妖の侵入を防ぐための結界は、いわば太い綱で編んだ網のようなものである。
 頑丈ではあるが、網の目に引っかからないほどの弱い魍魎は比較的簡単にすり抜けてしまうという難点があった。

「―――オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」

 かろうじて動く舌で、大威徳明王の陀羅尼を唱える。陰陽術に関してはほぼ素人に近いシンタローであっても、その辺りの雑鬼の一、二匹程度なら、文言の力で撃退できる。そう、普段ならこれだけで、圧迫感は霧消するはずだった。

 だが、今回はいつものようにはいかなかった。悪鬼調伏の陀羅尼を唱えても、背中に感じる気配に微塵も変化は現れない。むしろ徐々に近づいてきているような気すらする。
 固く目を閉じながら、かつて陥ったことのない状況にシンタローは焦りを抑えきれなかった。

(消えねえ……なんでだ?!まさか、家の中にそんな厄介なヤツが―――)

 その時、背後に感じていたその重圧がううん、と唸り、寝惚けたような声を発した。



「なんどすのん、さっきから。ブツブツやかまし……」
「逝きやがれこの変態―――――――!!!」















『 Diorama / Japanesque 』  

― 弐、 二の獣、男の邸にて薬盗める小妖を退治せしこと ―















 祇園の小塚を後にした一人と一匹は朝やけの薄日の中、羅城門をくぐり、左京の南に位置するシンタローの屋敷へと戻ってきた。
 手入れが行き届いているとは言いづらい雑草だらけの庭。
 門に一歩入ったところで狐に似た妖は立ち止まり、阿呆のように口を開けて建物を見上げた。

「……見事なボロ家どすなあ……。無駄に広さだけはありそうどすけど……」
「文句あんなら帰れ。なくてもできれば帰ってほしい」

 ほとんど無色の声でそう言って、シンタローはスタスタと中に入っていく。妖はわざとらしく抜き足になりながら、そろそろとその後に続いた。
 朝露に濡れた丈の高い草を踏み分けながら、アラシヤマはふと気付いたように、目の前の男の背中に問いかける。

「そういえばあんさん、ゆうべはなしてあないなとこにいはったん」
「……探し物、してたんだよ」

 アラシヤマの何気ない問いかけに、シンタローは一瞬、息を呑んだように詰まり。それだけを短く答えた。
 特に険しい口調というわけではないが、それ以上聞かれたくはないという意思は十分に伝わってきた。気のなさそうにへえ、とだけ言って、アラシヤマは濡れ縁を上がる。
 建物の中をしばらく無言で進んで、渡殿に差し掛かった辺りで、シンタローがふああ、と大きな欠伸をした。……ねみぃ、と口を一文字に引き結びながら言う。

「わては眠たないどすえ」
「ああそーか。テメーが何十年あそこでぐーたらしてたんだか知らねーけど、とにかく俺は寝る」

 断言のような台詞に、アラシヤマは懐に手を入れながら、斜め上に視線を上げる。

「シンタロー」
「ぁン?」
「ぶぶ漬けの約束がまだどすえ」
「……」

 その言葉にシンタローは歩みを止め、億劫そうに振り返った。
 そして、アラシヤマをすり抜けてその奥を見据えているような遠い瞳で、ぼそりと呟く。

「オマエ、実は俺の幻覚だったりしねえかな。目が覚めたら消えてるとか」
「あんさん平然と酷おすな」

 むう、と顔を顰めながら、それでも要求を退けようとはしない妖に、だーもーめんどくせー、とシンタローが頭を掻きながら再び歩き始める。
 そのとき、廊下の奥に見えていた妻戸がちょうど開いた。
 一拍遅れて、奥から上擦った声が聞こえる。

「あああ、ス、スンタロー!!」
「―――お、ミヤギ」 
「よがったべ、無事に戻ってたんだべな!……って、なんだぁその変な化けモンは?!」

 シンタローに駆け寄ってきた男は、この国では珍しく、陽の光に透けるような色の髪をもっていた。目元涼しく、柳重(やなぎがさね)の直衣を身につけたその姿は、一寸見蕩れるほどの男ぶりである。
 絹のような細い髪と月に照らされた淡雪もかくやという肌の色からすると、奥州か蝦夷地か、とにかく北のほうの人間なのだろう。

「変て。失敬どすなあ、こんでもあんさんの十倍は年長なんどすえ。敬いやし」

 男は一応は妖であるアラシヤマを瞬時に認めた。へえ、それなりに霊力はあるんどすな、と感心しつつも、アラシヤマはあくまで居丈高に言う。

 くい、とその整った面貌を親指で指し示しながら、シンタローが金茶の髪の男を紹介した。

「丁度よかったぜ。コイツはミヤギ、『一応』本物の陰陽師だ。でもって俺の側仕えの一人」
 
 アラシヤマが片眉を上げてそれに応えると時をほぼ同じくして、シンタローは男に近寄り、口元に剣呑な笑みを宿した。

「―――てか、ミヤギちゃんよォ……。テメエゆうべはよくもヒトのこと見捨ててさっさと逃げ出しやがったなあああ」
「ごご、誤解だべ!スンタローがいきなり全部の亡霊引き連れて猛ダッシュすっもんで、オラには追いつけなかっただけだべ~」

 詰め寄るシンタローに、で、でも無事でよかったべな!と、ミヤギは顔の前で手を振りながら必死に弁解する。

「ホントかぁ?あと、あの護身用の符、やっぱ俺じゃほっとんど効かねーわ。まー無事だったからいいけどよ」

 ミヤギの慌てぶりが満足のいくものだったようで、シンタローはそれまでの芝居がかった表情をふっと自然のものに戻し、屈託なく笑った。

「あ。でな、ちょっと雑用頼みてーんだけど。俺今から寝るから、このアホ狐に茶と飯出してやってくんね?」
「へ?まさかコイツ、飼うつもりだべか?」

 ミヤギが目を白黒させてシンタローとアラシヤマを交互に見る。
 これでも本職の陰陽師である。見れば見るほど、妖が明らかに尋常ではない何かであることはわかる。少なくとも可愛がる性質のものではない―――外見の面だけで言っても。
 そんな妖をもてなそうとするかのようなシンタローの台詞に、ミヤギは信じられないという風な表情を作る。
 ミヤギの葛藤が伝わってきたのか、アラシヤマは腕を組みながら、わざわざ顎を上げて見下ろすような視線を秀麗な白皙に向ける。
 
「ペットやのうて、恩人どす。漬物もよろしゅう頼んますえ」
「悪ィな。どうしても手に負えなかったら起こしていーぜ」

 そしたら速攻で消してやるから、と表情も変えずに言って、がしがしと長い黒髪を掻きながらシンタローは寝所のほうへと去っていった。





 あとに残されたミヤギはしばらく胡散臭そうにアラシヤマを監察していたが、やがて諦めたように一つ息を吐いた。
 いくら自分が怪しいと感じたとしても、主であるシンタローの言いつけなら従わないわけにはいかない。
 とりあえず台所に案内するべ、と言って、アラシヤマを伴って歩き始めようとする。

 その刹那。
 それまで何もないと思われていた空間から、二人に向かって唐突に声がかけられた。

「ミヤギくん、ソイツにあんまり近づかないほうがいいっちゃよ~。せっかくの綺麗な気に、陰気が移るわや」
「トットリ」

 声は、そばの蔀戸(しとみど)の上から聞こえた。アラシヤマが面を上げてそちらを見遣ると、影から浮かび上がったかのように一匹の妖が寝そべっている。
 まだ幼さの残るその顔つきは、十四、五歳といったところだろうか。簡素な衣装はほとんど黒に近い深緑色で、額と首元に赤い布を巻いている。
 一応は人の形を取ってはいるが、その頭と尻にはアラシヤマと同じく、獣の耳と尾がのぞいていた。尤もそれは、アラシヤマのそれよりもやや堅そうな、黒と銀色の混じった毛のものだったが。
 人の重さであれば到底乗れるものではない蔀戸の上に寝そべり、尖った獣の耳をした妖は、頬杖を付くような姿勢で無遠慮にアラシヤマをねめつけている。

「へえ……。あんさんがこの陰陽師はんの護法神どすか」
「そげだっちゃわいや。ミヤギくんに気安く触ったら承知しないっちゃよ、化け狐」
「今んとこ、わてが興味あるのはあの坊だけどすけど。そう言われると手ぇ出したくなりますなぁ」

 皮肉めいた笑いを浮かべてそう言うと、幼いながらも鋭い眼差しがアラシヤマを刺した。
 二匹の妖の間に、目に見えない火花が散る。
 その不穏な空気を破ったのは、当事者であるミヤギの小動物をたしなめるような声だった。

「トットリ、こんなでも一応、スンタローの客だべ。あんまし突っかかんじゃねえっぺよ」
「み、ミヤギくん……」
「それはそォと、頼んでた遣いはどうなってっべ?」
「あっ、ご、ゴメンだわや、今行くとこだっちゃ!」

 ぽんぽんと言葉を放られて、トットリは蔀戸の上で慌てながら居住まいを正す。心配そうな顔つきは直らなかったが、それでも課された仕事を果たそうと外の方向に目を向けた。 

「じゃあ、行ってくるっちゃけど。そいつに気ぃ許しちゃダメだっちゃよミヤギくん!なんかあったらすぐ呼ぶだわや」

 何度も重ねて念を押しながら、トットリは再び影に紛れるかのように、ふつりと姿を消す。

 アラシヤマはふぅん、と言いながら黒い妖の去った後を眺める。姿が完全に見えなくなっても、その場に妖の気は薄く残っていた。

「アレ、基は山犬の化生でっしゃろ」
「ああ、多分そうなんだべな。直接は聞いたことねえけど」

 己の護法神であるにも関わらず、その正体はさしたる大事とも思っていないらしい。ミヤギの返事は適当である。
 だが、アラシヤマはトットリの消えた後を眺めていたかと思うと、

「せやけど……」

 呟いて、軽く目を細めた。
 怪訝そうな顔で己を見るミヤギを無視して、しばらくそのまま立ち消えた妖の残滓を見据えてから、薄っすらと口の端を上げる。


「……いや、なんでもあらへん。可愛(かい)らしい子犬どすな」



『 Diorama / Japanesque 』弐、 <中編>









 台所には先客が居た。
 竈や吊るされた野菜などが目に付く薄暗い土壁の房(へや)。中心にどっかと腰を下ろしているのは、黒塗りの太刀をさげた身の丈七尺にも近い大男だった。
 その辺りに吊るされていたらしい大根を豪快に齧っていた男は、ミヤギとアラシヤマが近づいてきたことに気付くと、ニッと屈託なく破顔する。 

「ミヤギ。シンタローは戻ったんか」

 声をかけて、再び野菜を齧る。滴り落ちる汁は手首で受け止め、ぺろりと舐めた。

 邪魔だべどいてけろ、と男を押しのけながら房に入ったミヤギは、てきぱきと汲み置きの水を金物の器に移すと、湯を沸かす準備を始める。

「オメのゆってたとーり無事だったけんど……寿命が縮まったべ。ちゅうかコーズ、いいんだべかソレ。スンタローに怒鳴られても知らんべ」
「今日はまだ三度しかメシを食うとらんから、腹が減っとるんじゃ」
「まだ昼にもなってねーべ…」

 他愛ない会話をしながら、ミヤギが火をおこしている横で、男はがっちりとした顎を撫でる。短くて硬そうな黒髪に烏羽色の褐衣(かちえ)を身に着けたその男の右目には、縦一文字に古傷が走っていた。
 やがて、火を熾し終えたミヤギが、ああ、と気づいたように隣の大男を指差した。

「アラスヤマ、コイツはオラと同じで、スンタローのたちは―――近侍だァ。コーズ、こっちはなんかよぐわかんねえけど、スンタローの客みてぇなもんらしいべ」
「みたいなもん、は余計どす」
「ほうほう」

 男は、面白そうにアラシヤマを眺め回す。
 あまりにじろじろと、しかも邪気のない表情で見てくるので、さすがのアラシヤマも居心地の悪さを感じ、ふいと視線をそらした。
 そうした態度をどう感じたかはわからないが、やがて男は傷のあるほうの片目を細めると、

「トットリのヤツに、ちぃと似とるのぉ」

 とぼそりと呟いた。
 その言葉に、アラシヤマはどう反応したものかと悩む。それは人か妖かという大きすぎる区分の中で考えれば同じところに分けられるのかもしれないが。
 そんな思考が表れたアラシヤマの微妙な顔色など気にもならない様子で、その男はもう一度、今度ははっきりと妖に向かってニッと笑った。

「ま、シンタローの客ならゆっくりしてけ。ワシはコージじゃ。よろしくじゃけんのう」

 そして食べ終わった大根の尻尾の部分を房の隅にあるくず置きに放り投げる。やや瞠目して自分を見返すアラシヤマを後にして、うまかったのぉ、と独言しつつ、男は大またで台所から出て行った。
 ったく、仕方ねえっぺなコーズは。うちの食費の半分はアイツん腹ん中だべ、と、米びつの中を確認していたミヤギがぼやく。

「あんお人、わてのこと妖やてわかっててああゆうこと言わはりますのん」
「多分、気付いてねーべ」
「……自分で言うのもなんどすけどな。わて、どー見ても普通の人間やあらへんどすえ。大雑把にも程がありますやろ」
「初めてトットリ見たときもあーだったべ。コーズは」

 追い討ちのように淡々と告げられたその台詞に、アラシヤマは大仰に肩をすくめてみせた。

「なんや、ここはおかしなお人ばっかどすなぁ」
「オメにだけは言われたぐね」

 仏頂面で返すミヤギは笥(け)に冷や飯をよそい、沸いた湯を椀に移す。
 最初ぼんやりとその場に佇んでいたアラシヤマは、邪魔だべその辺座って待ってろ、とのミヤギの言葉に素直に従っていた。
 湯のなかに茶葉を数枚入れると、ミヤギはアラシヤマの前の床に台盤を置く。椀の横にはきちんと青菜の塩漬けも添えられている。
 アラシヤマは一瞬目を輝かせた後、律儀に、いただきますえ、と宣言し、両手を合わせてからさらさらと茶漬けを流し込み始めた。
 一方、主の言いつけを終えたミヤギは手持ち無沙汰そうに外を眺めている。
 物の怪であるにも関わらず妙に綺麗に箸を使いながら、アラシヤマは上目遣いにミヤギを見た。

「ところで、ゆうべあんさんらがしてはったゆう『探し物』ってなんどすのん?」
「ン?」
「鳥辺野で探すものなんてせいぜい人骨か鴉くらいでっしゃろ。しかもそんでヘマしたって、死人の追剥ぎでもやっとったんどすか」

 冗談というわけでもなさそうに言うアラシヤマに、食事中によく考えつくべなぁと呆れながらミヤギは答えた。

「そんなわけねーべ。……あん人が探してんのは薬の材料だ。昔、妖に攫われたとき以来、ずっと眠りっぱなしの弟さん起こすための」

 さらわれた、の一言に、アラシヤマの白い耳がぴこりと立つ。

「もう六年近くになっべかなぁ……。正直、あん時の状況も状況だったから、もう化生のモンになっちまってる可能性も高ぇんだけど。なんにせよずっと眠りっぱなしなんだべ」

 腕組みをしながらミヤギは説明する。小さな明り取りの窓から差し込む光が、秀麗な容貌に濃い翳を落としていた。
 それからふと気づいたように、そーいえば、と妖に向き直る。

「スンタロー、オメにはまだ話してねーんだべ?自分(ずぶん)のこと」
「ハッタリだけの暴力退魔師ゆうことは、もう、嫌ってほど知っとりますえ」
「まぁ、物の怪には関係ねぇのかもしんねけど。にしてもオメも怖いもん知らずだべな」

 何かを含んだような物言いに、アラシヤマは首を傾げつつも重ねて問うこともしなかった。
 綺麗になった椀を前に、箸を置いて両手を合わせる。

「―――ご馳走さんどした。何十年かぶりだと、人の食べ物も感慨深いもんどすな」
「そりゃよかったべ。さて」

 簡素な挨拶を交わし、腰に手を当てながら、まだ床に座ったままの妖をミヤギは見下ろす。

「オラはこれから奥で符の用意しなきゃならねんだけど。オメはどーすっべ」
「そうどすなあ。とりあえずシンタローが起きるまではヒマどすな」
「邸の中は別に好きにうろついても構わねえけど。物壊したりイタズラしたりはやめてけろ」

 それだけを言い切ると、アラシヤマを置いてさっさと邸の奥へと歩いていってしまった。
 不慣れな場所に一人残されたアラシヤマはさて、どうしますかなと呟いて、とりあえず邸の中を散策することにした。 
 ボロ家には違いないが、東の対西の対、寝殿と、造りと規模だけはいっぱしの貴族のそれである。これだけの規模の邸に、あの三人とその主人らしきシンタローしかいないというのはどうも納得が行かない気もする。使われていない房もいくつかあるようだった。
 没落したどこぞの宮様の成れの果てっちゅうところどすかな、とぼんやりと推察する。
 そしてひととおり見て廻ると、アラシヤマは気配を頼りにシンタローの元へと向かった。



 シンタローは邸の中庭に面した房で、寝具にくるまり穏やかな寝息を立てていた。
 そのすぐ傍らに膝を立てて座りながら、妖は太平楽な男の顔を眺める。

「ああー、さっさと起きへんかなあ~…退屈どす……」 

 言いながら、軽くちょっかいを出す。
 そのついでにふかふかと柔らかそうなその布団を触ってみて、アラシヤマは感心した。

「へぇ……」

 綿のつまり具合は申し分なく、表面を覆う布は絹織りである。

「貧乏家屋の割には、寝具はええもん使うとりますな」

 その感触を楽しみつつ、男の規則正しい寝息を聞いているうちに、アラシヤマの三角形の耳が、徐々に垂れてくる。終にふああ、と欠伸をもらした。

「なんや、暢気そうな顔見てたらこっちまで眠なってきましたな……わても一休みさせてもらいまひょ」

 呟きながら、笑顔でいそいそとシンタローの横に潜り込み、布団を半分奪う。かなり疲れていたのか、シンタローはかすかに身じろぎをしただけで、起きようとはしなかった。
 ほなおやすみさんどす、と誰にともなく呟いて、妖は気持ちよさそうに瞼を閉じる。

 そうして、冒頭のシンタローの怒声に繋がったわけである。





***





「そないに脅えんでもええやないどすか。別に、今すぐ取って喰おうてわけやないんどすから」
「イヤ……脅えるっつーか。純粋にキモすぎた。密度が」

 全身からぶすぶすと煙をあげているアラシヤマは、房と簀子(すのこ)の境界線で正座し、恨みがましい目で布団の上のシンタローを見つめている。
 とんでもない寝覚めを強いられたシンタローは布団の上にあぐらをかきながら、とりあえずそっからこっちには入ってくるなと物の怪に強く命じていた。

「わてが入っても気づかんでぐーすか寝てはったくせに」
「だからって人の布団に潜り込むか?!フツー」
「あんさんがあんまり気持ちよさそうに寝とるのが悪いんどすわ。それにわては一応妖どすえ。人間みたいに邪魔になることはあらへんどっしゃろ」
「妖怪っつってもテメーくらい気配の濃いヤツだと、生身の人間以上にタチがわりーんだよ。ったく、どこの子泣きジジイかと思ったぜ」
「酷ッ!これほど容姿端麗なわてを捕まえてあないなジジイ扱いどすか?!」
「鏡はそこの角にあるから突っ込んで逝け」

 あいだに二間を残したままぎゃあぎゃあと言い合いを続けているうちに、ふとシンタローが何かに気づいたように顔を上げ、アラシヤマの背後に視線を向けた。
 結界に揺らぎを感じたのだ。ミヤギ、トットリ、コージ以外の何者かが邸の中に入ってきたらしい。
 シンタローの反応を追うように、正門の方向から一人の男が草を踏み分けつつ姿を現した。


『 Diorama / Japanesque 』弐、 <後編>









「高松」
「ああ、どうも。先だってのご報告をお持ちしましたよ」


 縁側に現れたのは白い袍(ほう)を身に着けた壮年の男だった。
 シンタローは妖の襟首を掴んで房の中に放り投げると、大人しくしてろと目で厳命して、自身は入れ替わりに簀子縁に出る。

「珍しいな、アンタがここまで足運んでくるなんて」
「東の市にちょっとした用がありましてね。ついでです」

 言いながら、医師らしき男は縁によいしょと腰を下ろした。傍らに、持っていた小さな包みを置く。そしてその横にしゃがみこんだシンタローに、懐から出した数枚の紙の束を渡した。
 ぱらぱらと紙をめくってから、シンタローが問いかける。

「んで、コタローの様子は……」
「相変わらずですねぇ。手は尽くしているんですが、一向に目覚める気配が無い」
 
 アンタよっぽどトラウマになるようなことしたんじゃないですか、といかがわしいものでも見るような目つきで医師はシンタローを見る。
 返事代わりに殴ろうとしたシンタローの拳は、しかしひょいとかわされてしまった。この医師はどこからどう見ても狂的偏執的研究愛好者の癖に、腹が立つことに武にもそれなりに長けているらしい。
 面白くねえなとしかめ面を作ったシンタローは、その時ふと医師の傍らに置かれている袋に目を留める。それに気づいた医師は、袋を取り上げてシンタローによく見えるようにした。

「市で手に入れた枸杞(くこ)の実ですよ。薬の調合に使いたかったんですが、今の時期ここらでは手に入らないもので。南から来る薬種の行商を待っていたんです」

 割といけますよ、食べてみます?と巾着状の袋を目の前に軽く掲げながら、口元に笑みを浮かべて高松は説明する。
 そのとき。

「―――危ねぇッ!」
「……おっと」

 庭先からふらりと小さな影が現れたかと思うと、その影が一直線に高松の真横を駆け抜け、その手に提げられていた袋を奪っていった。

 咄嗟に身を引いたらしい本人に怪我はなかったが、薬を持っていた方の衣服の袖はざくりと切れている。どうやら鎌鼬に属する何からしい。
 
「オヤオヤ……」

 切れた袖を見て、口元の笑みは消さずに医師は嘆息する。
 犯人が実体のある動物でないことは、駆け抜けた疾風がそのまま築地の外へと飛び去ろうとしたことで明らかだった。
 小さな獣の姿をした妖はしかし、外に身を投げ出そうとした瞬間、何かにぶつかったように一度地に落ちる。どうやら結界の隙間から迷い込んだ小妖らしいが、意思を持って結界を潜り抜けることは叶わないようだ。そのことに気づくと、小妖は身を翻して屋根の上へと飛び上がり、そこで身を潜めた。
 男二人は眉を顰めながら屋根を見上げる。

「困りましたねぇ。アレを返してもらわないことには、寮の仕事が滞ってしまう」

 困っている割には緊迫感に欠けた声で医師はそう呟く。
 だが、実際のところ困るのは典薬頭(てんやくのかみ)である高松本人以上にその部下と、治療を待っている患者達であるということを知っているシンタローは、それほど暢気に構えているわけにもいかなかった。

「あれじゃ、こっから直接は狙えねーな……高松」
「なんです?」
「ちょっと、あっち側まわって見張っててくんね?俺はこっち側から見張る」
「いいですよ」

 医師は顎に手を当てたまま、悠々と歩き出し家屋の反対側へと向かう。
 その姿が見えなくなったところで、シンタローが房の中に声をかけた。

「おい、アラシヤマ」

 客のせいで邪魔者扱いされ、挙句自身の存在すら忘れかけられていたアラシヤマは、房内で完全に不貞腐れていた。
 どんな悪戯を仕掛けてやろうかと考えていたところに声をかけられ、億劫そうに顔を出す。

「……なんどす?お客さんのいはるところに出てったらまずいんちゃいますのん」
「緊急事態だ。ちょっと、屋根にいるアレ炙り出せ」
「ホンマ他力本願どすな!あんさん」

 血管でも浮き立たせそうな顔色で、口元を引きつらせて笑顔になっている妖に、シンタローは笑顔を返し、すっと片腕を上げる。

「やるの?やらねーの?」
「……あーもー惚れ惚れするほど俺様ですわ……」

 ぶつぶつと不平を漏らしながらも、それでもアラシヤマは庭先に出、屋根の上を見上げた。
 目視できるところに小妖の姿は無かったが、気配としては大体屋根の中央辺りにいるらしい。

「殺すなヨ。脅して逃げ出させるだけでいい」
「へえへえ」
 
 ったく、なんでこんな雑魚にわての火を…とぼやきつつ、アラシヤマは目を細め、狙いを定めると片手を空に向かって振りかざした。
 指先から幾筋かの小さな炎が放たれる。炎は放物線を描いて、小妖がいるとおぼしきあたりに落ち、周囲に広がった。

 炎に怯えた妖が、屋根から屋根へ飛び移る。

 その瞬間を狙ってシンタローが右手から力を放った。横を掠めていった破邪の力に、妖は態勢を崩し、犬歯のようなものの並ぶ口元から袋を取り落とす。
 西の対と寝殿を繋ぐ渡殿辺りに落ちたそれを、シンタローは駆け寄って拾い上げた。袋の口は開いておらず、被害は無いようだ。

「よっし、無事だな……ン?」

 小妖はそのままどこかへ逃げ去っていた。また何かの拍子に結界の隙間から表に出られることもあるだろう、とそれ以後のことはシンタローの頭から消える。
 否、それよりも気にすべきことが目前に迫っていたのだ。
 袋を片手に、シンタローは呆然と屋根を見上げる。アラシヤマが軽い足取りでひょいひょいと、その傍らに歩み寄ってきた。
 目線を上に向けたまま、低い、搾り出すような声でシンタローが問いかける。

「……オマエが使ってんのって、鬼火じゃねーの」
「どっちも使えますえ。現世の火も」
「じゃあ、今目の前で庇(ひさし)に火が移ってんのも、気のせいじゃなくて」
「燃えてますな」
「って家に火ぃついてんじゃねーかこのどすえええ!!」

 中庭にこだまするシンタローの絶叫。
 ぐしゃぐしゃと片手で髪をかきむしりながら、もう片方の手でアラシヤマの単の襟をつかむ。

「借家なんだヨこの家は……さっさと消せバカ狐!」
「面倒どすなあ。せっかくどすからこれを機に建て直しをお奨めしますえ。わての部屋は縦横最低二十間で」
「テメ、後でぜってーシメる。てかまだ中にミヤギとコージいるんじゃねーか?!」

 その事実に気づき、家屋だけの話ではなく本当に洒落にならないのではと思いかけ、シンタローが駆け出そうとしたその時。
 アラシヤマの人より優れた聴力を持つ耳に、声が届いた。

「―――天変地異、ゲタ占いの術」

 ほんの微か、耳に届いたのは囁くような低声。
 その声と同時に、アラシヤマが起こした炎の上に唐突に雨が降り始める。
 空に雲は殆ど見えない。その雨は、アラシヤマから見れば明らかに濃い妖力を漂わせていた。

「雨……?」

 顔に勢いのある水滴を受けながらも、ほっとした表情で、シンタローは空を見上げる。

 誰の仕業かは、アラシヤマにはなんとなくわかっているような気がした。
 三秒数えてから、ばっと勢いよく顔を上げる。その一瞬、視界の隅を黒い影が横切る。
 その影は確かに見覚えのある山犬の気を発してはいたが、けして幼い子供のそれには見えなかった。

(―――なんや、アレも色々事情がありそうどすなぁ)

 ざああ、と、局地的に雨が降る。
 それはアラシヤマの炎をかすかに残っていた妖怪の気ごと消して、潮がひくように止んだ。





 雨が上がって少しして、高松がシンタローの元に戻ってきた。

「取り戻してくださったんですね、どうも。―――それにしても狐の嫁入りみたいな雨でしたねえ」

 飄々と言い、簡単な礼を口にしながらシンタローから袋を受け取る。自身はどうやら軒先で雨宿りでもしていたらしく、僅かも濡れてはいない。
 そして憮然とした表情で佇むずぶ濡れのシンタローに、ところで、と笑いかけた。

「そちらは?初めて拝見するお顔ですが」
「え?―――あ、ああ、コレな……」

 シンタローの傍らにはアラシヤマがいる。隠れていろと言うのを忘れていた。それでも霊感の全くない人間であれば問題はなかったのだろうが。
 この男も「視える」人間なのだ、と今更ながらに思い出し、シンタローはさてどう誤魔化したものかと引きつった笑顔を浮かべたまま頬の辺りを掻く。
 まさかうっかり封印を解いてしまった物の怪であるなどとは言えない。しかしシンタローの陰陽の技の程を知っている高松に向かって、今更式神とも言えなかった。
 だが、そんなことを思いながらうううと唸っていたシンタローに、医師は口の端を上げながら言った。 

「助かりましたよ。お友だちですか?」
「……ン。まぁ……そんなところだ」

 説明をするのも面倒で、とりあえずシンタローは高松の誤解に乗ることにする。妖と友達というのもおかしな話で、実際そのつもりもさらさら無かったが、かといって他に形容の仕様もない。
 妥協策としての肯定。
 だがそれを背後で耳にしたアラシヤマは、その瞬間直立し、耳と尻尾をぴんと立てた。

(とっ……友達……っ?!)

 シンタローの返答に愉快そうに唇をゆがめてから、ではまた、何かありましたら。とそれだけを言って高松は邸から去っていった。
 それを見送りながら、背中に感じたどうしようもない悪寒に、シンタローはゆっくりと振り向く。 
 そこにはハァハァと荒い呼吸を抑えきれず、じっとりと絡みつくような視線で自分を眺めている妖の姿があった。

「あああの、し、シンタロー……はん」
「あァん?なんだよ急に、気味わりーな」

 あからさまに不審なその様子と唐突に敬称付けで呼ばれたことに、眉を顰めながら見やれば、狐に似た化生は白い面を紅潮させ、もじもじと両手の指を動かしている。

「わ、わて、気付かんどしたけど、あんさんの友達やったんどすな……?」
「―――はァ?!」

 奇怪としか思えないその表情と行動以上に、妖がおずおずと、しかしはっきりと口にしたその言葉に、シンタローは面食らって目を丸くする。

「そ、そら友達のためどしたら、手ぇのひとつもふたつも貸すのは仕方あらへんどすなぁ!」
「ちょッ……寄るな頬染めるなウザい!あれはあの場をやり過ごすための……」
「友達……友情……!!……なんてええ響きなんでっしゃろ……」
「聞けよ。ヒトの話」

 俺……もしかしてとんでもねーこと言っちまったんじゃねーか?というシンタローの懸念は妖のその様子を眺めていれば、疑念といういうよりはもはや確信だった。
 だがその中でも浮かんだ一つの期待に、シンタローはそれを口にする。

「ああ。でもじゃあ、足だの手だの食らうって話は」
「それはそれ、これはこれどすわ」
「え?じゃあ俺友達扱いされた上にソレ?何その事態悪化の一途」

 遠い目をしながら口元だけに笑みを貼り付けたシンタローの表情とは裏腹に、ウキウキと周囲の空気すら桃色に染めそうな雰囲気で、アラシヤマは言う。

「ほな、長い付き合いになることどすし、わての分の房と布団の用意もお願いしますえ~v」
「……なんで、テメーを、そこまで、歓待しなきゃ、いけねーんだよッ!!」
「別にわては構いまへんけどなぁ。親友と毎晩一つ布団で語り明かすゆうのも乙なもんどすわ」
「それだけはヤメろ、マジで。てか勝手に親友に格上げしてんじゃねー…」

 シンタローの言葉を東風もいいところで流しながら、あーお友達って素敵どすなあ!とどこまでも浮かれる妖の姿。
 すっかり居座るつもりらしきその物の怪に、シンタローは呆れを通り越して絶望に浸る。



 夕餉の席での邸の主人とその客人らしき妖の明暗の差はあまりにあからさまで。
 ミヤギ、コージの両名は怪訝そうに首をかしげ、トットリは大きな眼の上にある眉を片方浮かせた後、気付かれないようにこそりと嘆息した。















<了>














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一度憑いたら離れません。







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