<こちらは拙小説「Diorama / Japanesque」に関するご注意です>
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は一応平安としております。所謂なんちゃって平安です。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
近日中に一応簡単な解説ページは作ります。
漢字のルビなどもあまりにも不親切な内容ですので…。
カップリングの前提は例の如くアラシン、トリミヤです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
連載形式ですが、基本的に1話完結です。
何話続くかはわかりませんが、今のところ3話までは続く予定です。
広げた風呂敷がどこまで畳めるかはわかりません。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
やっちまった感溢れる平安陰陽?パラレルではありますが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
時は中世。
帝の号令の下に都が京に遷され、早くも二十年ほどが過ぎていた。
闇が深く、それらの中に潜む「あやしのもの」が、まだ人のすぐ傍に在った時代である。
殿上人から市井の民人に至るまで、何らかの怪異の噂を聞かぬ日はない。
「祀り」や「呪い」、或いは加持祈祷。そうした神妖との接触が日常の中に行われていた時代でもある。
二十年前の遷都にも様々な理由はあった。だがその最たるものは、帝への呪詛と噂された数々の奇異(あさまし)事を避けるためということである。
今上帝が今の地位に就くために、若き日より多くの政敵を闇に葬ってきたことは、大内裏の事情に多少通ずる者であれば誰もが知っている公然の秘密である。
二十と数年前、今上帝に世継ぎが産まれ、その前途をめぐって朝廷には様々な謀略が渦巻いていた。遷都を行う前の長岡の都では、内裏の陰惨な色は今よりも尚濃かったのである。
そのゆえか、長岡では目には見えない「何か」によって、しばしば人死にが出るほどの事故が起きていた。
大内裏で衛侍の上に急に梁(はり)が落ちてきたり、真昼、火の気のない後宮で何故か御簾が燃え上がったり。そうした事故が、事故と片付けられないほどに頻発したのだ。
夜な夜な内裏から男の呻き声が聞こえる、あれは数年前に死んだあの貴族の今上帝への怨嗟の声に違いあるまい―――そうした噂がまことしやかに流れる時勢だったのである。
それら怨霊の力を、更に言ってしまえばそうした噂自体を押し込めるために建設されたのが今の都だった。
新しい国の中枢として選ばれた京の都は、四方を山々に囲まれた天然の霊地である。
淀川水系の東縁にあたる盆地には、琵琶湖を水源とする宇治川のほか、桂川、木津川などの複数の河川が周辺山系より流れ込んでいる。宇治川・桂川・木津川の3つの河川は京で合流し、淀川となる。
ただでさえ霊の溜まりやすい盆地にこれだけの水系が集まっていれば、その道に詳しいものでなくとも、そこに何らかの怪しの力を感じざるを得ない。
さらに都には、様々な霊的守護が施されている。碁盤の目状に作られた都がそれ自体巨大な結界となっていることは有名であるし、周辺の山中には四神の統べる東西南北、そして艮の方角を要所に、霊験あらたかな僧をあまた擁する王城鎮護の寺が置かれている。
また、大内裏にはそれら「神妖の類」に対応するための陰陽寮が設置され、常時数十人の陰陽博士、陰陽師たちが勤めていた。陰陽寮の主たる仕事は星読や卜占、加持祈祷によって政を補佐することだが、退魔、怨霊調伏もまた、彼らの欠くべからざる仕事であった。
と、朝廷はそういった情勢の下にあったのだが、それはこの物語においては瑣末な話である。
とまれ、「現し世に在らざる物」が、まだまだ巷間の闇の至るところに跋扈しており。
―――水に魚、地中に蟲、闇には怪が棲む。いずれ人の立ち入るべき処に非ず。
そういう時代の話である。
『 Diorama / Japanesque 』
― 壱、 或殿上人祇園の小塚にて妖と出逢うこと ―
都の羅城門を出て東北の方向、鴨川を渡ってしばらく進んだ寂しい小道を、一人の男が駆けている。
すっきりとした長身に茜色の狩衣(かりぎぬ)を身につけた男の、年の頃は二十三、四。
烏帽子はどこかで落としたか、或いは邪魔になって捨てたかしたのであろう。被ってはおらず、後ろでゆるく一つに括った長い黒髪が、風に煽られて波打っている。
真っ直ぐな太い眉に、黒目のはっきりとした大きな目。すっと通った涼しげな鼻梁。
そこには意志の強さと溢れんばかりの活力、そしてそれすらも魅力としている僅かな驕慢の色がある。
だが、常には不敵な面構えをしているその男は、今はただひたすらに闇に目を凝らし、無心で走り続けていた。
羅城門からはもう大分離れ、辺りは鬱蒼とした木々に囲まれている。このまま行けば祇園社の裏手にでも抜けることだろう。
頭上には煌と輝く上弦の月が現れていた。
その光と、同じく天を彩る星々の明かりによって、かろうじて足元だけは確認できる。だが目先の一寸すら確かではない状況を、全速力で疾駆するというのはかなりの難行だった。
冷たい夜気の中、時に木の根に足をとられそうになりながら、男は走り続ける。
否、足を取ろうとするものは木の根や砂利石の類だけではなかった。
闇の中にだけ現れる、本来そこには存在しないはずの倒木や水溜り。影だけの手。天から降る長い長い帯に、奇怪な魚、蝸牛の霊……。
確かに目には映る。だが、それが現実に「ない」ということも、過去の経験から男はよく理解している。
なのですべてを無視して踏み過ぎていくのだが、鬱陶しいことは鬱陶しい。それでも、男は足を止めるわけにはいかなかった。
男が駆けるその十間(約二十メートル)ほど後ろを、まるで何かの波のように、一群の影がざわめきながら追っていく。
ざわめきは遠い宴席のそれのようでもあり、獣たちが喚いているようでもあり、また無数の虫の羽音のようでもあった。そのざわめきと共に、突風でも吹き過ぎているかの如く、木々が梢を揺らし、その葉を散らす。
やがて男は袂(たもと)から一枚の符を取り出すと、よく通る低声で真言を唱え始めた。
「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン」
もう随分な距離を全速力で駆け続けているはずなのに、男の呼気はさほど乱れてはいない。
駆ける速度は緩めないまま、左手で剣印を結ぶ。
「謹んで奉る不動明王、黄地仇なす妖魅悪鬼速やかに冥府が果てまで退けんと、そは宝剣の御力顕し給うよう、畏み畏み申す―――」
そして唱え終わると同時にばっと振り向き、振り向きざま影たちに、右手で符を放った。
符から光が顕現し、闇を一閃する。その光を浴びた影たちの一部が四散し、ざわめきを止める。
夜の林に、むしろ恐ろしいような静寂が戻る。
だがそれは一瞬のこと。
男の気迫に動きを止めていた影たちは、すぐにまた形を取り戻して男を追い始めた。
男も、やれやれとでもいうように一つだけため息をつき、くるりと回れ右をして再び駆け出す。
「―――クソ、やっぱほとんど効かねーじゃねーか。あの顔だけ野郎、覚えてやがれ」
苦虫を噛み潰した表情でそう呟いて、男は更に林の奥へと入り込んでいく。
しかし、いくら体力には自信があるとは言え、いつまでもこうして鬼ごっこを続けているわけにもいかない。さてどうしたものかと考えながら走っていた男は、そのときふとその状況にそぐわない甘い匂いが鼻腔をくすぐるのを感じた。
(ン?…梅の香……?)
今は如月。先日ようやく立春を迎えたばかりで、梅の時期にはまだ早い。宮中にある梅の木もまだ、早咲きの枝にようやく蕾の予兆が見えるくらいだ。
だが、はじめは微かだった香りは林の奥へ行けば行くほど確かに強まっていく。
梅林でもあるのか、と周囲を軽く見渡すが、少なくとも視界に入る範囲ではそれらしき木は見当たらなかった。
香りに気をとられて足元がおろそかになっていたのだろう。
男は、駆ける速度のまま何かの硬いものを思い切り蹴飛ばして、前方につんのめった。
また妖の目晦ましかと思って油断していたのだが、どうやら今回の障害物は実体を持っていたらしい。
蹴飛ばしたのは、古ぼけた大きな木簡だった。
闇の中に目を凝らせば、僅かに盛り上がった土山の上に、白々と、まるで光っているようにも見えるすべらかで大きな石が置かれている。
男が蹴飛ばしたのはその前に立てかけられていたもののようだった。
(―――やべ、なんかの塚だったのか?コレ)
男は慌てて前方に飛んだ木簡を追い、それを拾い上げる。
風雨に曝され泥まみれになっている木の板には、どこの術式かはわからないが梵字で文言が書かれていた。文言の一番下には、そこだけ漢字で「嵐山」の二文字が見える。
その雰囲気から察するに、どうやらかなり昔に、何らかの妖を封じ込めた塚だったらしい。
霊験あらたかそうな札を蹴飛ばしてしまったことは暗中の不可抗力としても、さすがにそのまま放置していくわけにもいかない。せめて元あったところに戻しといたほうがいいよな―――と男がその板を手にして振り返った瞬間。
ピシッ、という乾いた音が木々の間に響いた。
見れば、木簡の中央に大きな裂傷が出来ている。
だが、先刻耳を打ったのは朽ちかけていた木切れが発した音というよりは、まるでそこにあった硬質な「何か」にひび割れが起こったかのような、夜気を裂く鮮明な音だった。
男が嫌な予感に顔を顰めたのとほぼ同時に。
むせ返るような花の香りと共に、背筋を冷やすような妖気が塚から湧き上がってきた。
霧とも煙ともつかない白い靄が、辺りに立ち込めていく。男は追われているという立場すら一瞬忘れ、ただそこに立ち尽くして目を凝らす。
そして靄の中心に忽然と現れたのは、一体の、人の形をした妖(あやかし)の姿だった。
『 Diorama / Japanesque 』壱、 <後編>
妖は、黒い単(ひとえ)を身にまとい、塚の上に悠然と腰をかけている。強い梅の香りは靄と共に薄れ、空中を仄かに漂う程度になっていた。
単の裾や襟元から覗く肌の色は、抜けるほど、白い。
薄手の単の上に、無造作に羽織っている布にも似た、蒼白とも言っていいような色だった。
襟足が短く、前髪だけが顔半分を覆うように伸びている髪は、今しがたどこぞで濡れてきたような漆黒。
そしてそこには、人の耳の代わりに狐のような大きな白い獣の耳が生えている。
妖の姿の後ろからは、長くふさふさとした白い毛の尾が揺れているのも見えた。
年を経て力を得た白狐の妖か、と男は瞬時に考える。
だがそう断定するには、それが発する妖気の中には人、獣、器物を問わず、あまりに種々雑多な気が合わさっているようだった。
これほどまでにおかしな妖を男はこれまで見たことがない。だがなんにせよ、一筋縄ではいかなそうな古い妖であることは間違いがなかった。
妖がゆっくりと顔を上げ、髪の切れ間から覗く鋭い片目で、男を見やる。
「フフ……長かった……長かったどすなァ……やっと表に出ることができましたえ―――って、あ痛っ!な、ななな、何どすの?!」
だが口元に不敵な笑みを浮かべながらゆらりと顔を上げたその妖は。
次の瞬間、背後から怒涛のように押し寄せてきた魑魅魍魎の類に一斉に踏み越えられて、勢いよく大地に口付けた。
正面から来たその勢いを、男は半身をずらしてひょい、と避ける。そしてこめかみの辺りを掻きながら、無数の足跡をその背中一面につけた妖を、ほんの少しだけ憐れむような目で見下ろした。
妖はしばらくその姿勢のままわなわなと震えていたが、やがてこんのぉぉぉと言いながら起き上がり。人には理解できない言葉で影に向かって何かを怒鳴りつけた。
その声に、周囲にいた小鬼たちが弾かれたように飛ぶ。
妖の迫力に怯んだのか、魍魎達は駆けるのを止め、妖と男とを遠巻きに囲み、ざわめきながら様子を窺い始める。
妖を中心に三間ほどを半径とした円の、内側にいるのは男だけである。
土ぼこりにまみれた衣服をばたばたとはたいてから、妖はじっとりとした視線を男に送った。
「……最低の寝覚めや。何なんどす、あん細かいの」
「鳥辺野(とりべの)で眠ってた、死霊のみなさんじゃねえかな」
世にも恨めしそうな表情で発される妖の問いかけに、男は前方を見据えたまま淡々と答える。
「へえ、鳥辺野……って、なんどすのその他人事みたいな言い方は!あんさんがわざわざ引き連れてきたんでっしゃろ!」
「好きで連れてきたワケじゃねーよ」
ぎゃーぎゃーと喚く妖の声を指で耳をふさいで遮断しながら、男は事態の冷静な認識に勤しんだ。
どうやら自分はここに封じられていた狐だかなんだかの妖を、うっかり起こしてしまったようだ。
この妖はどこか、いやかなり全面的に間抜けでかつタチが悪そうだが、妖力はそれなりに強そうである。
そして正に今、自分は数多の死霊に追われており、結構な窮地に立たされている身だったりする。
まだ手に持ったままだった木簡の表に目をやり、そこにある嵐山の文字を確認して、男は妖に声をかけた。
「おい、アラシヤマ」
「……気安ぅヒトの名前口にせんでもらえます?」
妖は眉根を寄せ、座りなおした塚の上から見下ろすように男に目を向ける。
それでも、不承不承というように、なんどすの?と問い返した。
「テメ、封じられてたってことはそれなりに力のある妖怪なんだろ?」
「それなり、言うのは失敬どすな。あんさん一人食らうくらいやったら、一瞬どすえ」
「ちょっと手ぇ貸せよ。こいつら追っ払うのに」
何気なく言われたその言葉に、アラシヤマという名の妖は見えている片目を思わず丸くした。目前の男が表情も変えずにのたまったあまりに予想外の要請に、危うく石の上からずり落ちそうになる。
「はぁ?あんさん、陰陽の理を操るお人どっしゃろ?こんくらい、わての力なんて借りんと、ちょちょいとやってまいなはれ」
「……。それができたら、一見の妖なんぞに頼るわけねーだろ」
まるでスネたような口調で言い放たれた、男のその言葉。
二人の間に沈黙が張り詰める。
せ、と妖が、薄い羅紗にも似た白布を羽織った肩を震わせた。
「せやかてさっきあんさんナウマクなんたらてカッコつけてゆうてはったやろ!わて塚ん中から見てたんどすえ!」
「ばーろーあんなクソ長い真言アンチョコ無しで言えるワケねーだろーが元からハッタリだ!」
「逆ギレ?!」
目を吊り上げながら自分を見る妖に、だーかーら、と言いながら男はぐしゃぐしゃと黒い前髪を掻き乱す。
「俺は、テメーの想像してるよーな陰陽師じゃねえんだよ。一応視えることは視えるけど、マトモに勉強したわけじゃねぇから式も術もほとんど使えねーし」
「情けないこと言わはりまんなぁ……」
眉尻を下げながらアラシヤマは嘆息する。その表情には、自分を封じていた術を破ったのだからさぞ力の強い陰陽師かと思ったら、とんだ期待はずれだった。そんな侮蔑の色が露わである。
だがすぐにケケケと笑ったかと思うと、せやけど、と底意地の悪そうに言った。
「わて、弱いお人には興味あらへんのや。運が悪うおしたな、わてはもうここからおさらばしますさかい、さっさととり殺され―――」
その瞬間、アラシヤマの左面をかすめて、稲妻にも似たとてつもない破邪の力が後方へと飛んでいった。
アラシヤマの背後の木々から一斉に鴉が飛び立ち、夜空を旋回しながらギャアギャアと啼きたてる。
それは何気なくアラシヤマに向けられた、男の片手から放たれたものだった。
アラシヤマは口元にうすら笑いを貼り付けたまま、凍りついたように固まっている。その顔のすぐ横で、パチ、と小さな雷がはじけた。
「―――できんのは、問答無用で吹っ飛ばすのくらいか……」
「……そら、あんさん……反則どすえ……」
淡々とそう言い放つ男に、妖はひくり、と唇の端を引きつらせた。
「陰陽師でもないくせに、退魔の術だけは達者ゆうことどすか。嫌な性分の人と会ってもうたなあ……。でも、そないな真似できるんやったら」
「ちょっと事情があってな。無闇に消したく、ねーんだ」
妖の声を遮るように、きっぱりした口調で男が言った。影の群れをまっすぐに見据えながら、最初にヘマして怒らせたのはこっちだしな、とぼそりと付け加える。
言葉を止められたアラシヤマは、そんな男を眺めながら呆れたように肩をすくめた。
「あんさん自分の命が危ないゆうのに、消さず追っ払う方法探そう思て鳥辺野からここまで走ってきましたん?そらえろうご苦労なことで」
男は口を一文字に引き結んだまま、妖の言葉を聞いている。反論をしないところを見ると、自分でもそれなりの自覚はあるらしい。
アラシヤマは目を細めて、じっと男を凝視する。
しばらくそうして男を、否、男が身にまとう何らかの力を目を眇めて眺めていたアラシヤマは、やがて、ハン、と投げやりな声を出した。
「人の癖に、化生のもんに情けかけるなんて甘いことやっとるから、つけ込まれやすいんどすな……ま、仕方あらへん、今回だけは助けたげまひょ。よぉ見たら、なぁんかおもろい気ぃ持ってはるみたいやし」
そう言いながら、アラシヤマは塚の上に立ち上がると、ぴょん、ぴょん、とまるで体重を感じさせない動きで塚と男の肩を跳ね、その目前に降りる。そして男を背に庇うように直立すると、周囲を囲む死霊たちを視線だけでゆっくりと見渡した。
ざわり、と反面を覆う黒髪が逆立つ。
同様に、大地から風でも巻き起こっているかのように、アラシヤマが纏う黒の単もその裾を揺らした。
ゆるやかに目の高さまで上げられた爪の長い右手には、橙色の鬼火がまるで生き物のように絡みついている。
男の目の前で、アラシヤマが炎を纏った右腕を一振りする。
瞬間、二人の周囲に僅かな空間を残して、辺りに無数の火柱が噴きあがった。
あまりに不穏な妖の力。それを男は間近で見、―――こりゃ、大分マズいモン掘り起こしちまったかもな……と一瞬だけ後悔する。
しかし今更引き返すことは出来ない。嬉々として炎の影をその面に映す妖に向かって、男は大声で怒鳴りつけた。
「焼き尽くすんじゃねーぞ!追っ払うだけでいいんだからな」
久々に現世で炎をふるうことができたアラシヤマは、しかしあからさまに物足りないという顔である。
「……わかってますけど。よぉまぁこの状況で我が儘言わはるわ」
それでも派手な炎の柱は、殆ど脅しが目的であったらしい。無理やり消滅させられる断末魔の声はなく、辺りに集まっていた幽鬼たちはただ一目散に逃げていく。
やがて炎の柱が一本、また一本と闇に紛れていき、その最後の一本が消え去ったとき、そこにはもう、死霊たちの気配はなかった。
辺りはしんと静まり返っている。静寂の中、黒い単の背中が力を抜いたのが男の目にもわかった。
腰に手を当てながら、得意げな顔をしたアラシヤマが男を振り返る。
「全部追っ払ったったわ。これで、文句ないでっしゃろ」
「ああ」
それまでの淀んだ空気は完全に霧消しており、代わりに身を研ぐように清冽な夜気だけがそこにあった。
風の流れが正しく直され、同時に息を潜ませていた周囲の動物たちが、また安らいで呼吸を始めたことを感じる。どうやら、この妖の力は結構なものであったらしい。
そんなことを呆れたような感心したような心持で思っていた男に、アラシヤマはちろりと赤い舌を見せながら笑いかけた。
「せやったら―――」
男の姿を細い目で眺めながら、黒髪の妖は舌なめずりをする。
「おあしをいただきまひょか。まさか化生のモンに頼みごとしといて、タダで済むなんて思うとりまへんよなぁ……?」
「……」
「わては、高」
「眼魔砲」
いんどすえぇぇという続きは途中から悲鳴に転じ、哀しく木々の間にこだました。
「なんかできるもんなら、してみろヨ」
「くっ……あんさんのそれ、ほんま卑怯技どすえ?!」
地に両膝を着き、先の毛の焦げた耳を抑えながら、半分涙目になっているアラシヤマはキッと男を睨みつける。
不敵な面構えを取り戻した男は、腕組みをしながらそんな獣の妖を見下ろした。
「諦めとけって。アイツら追っ払ってもらったのには礼言うけど、腕だの足だの食われてやるわけにゃいかねーんだ」
さばさばとそう言って、片眉を上げる。
だが妖は相当しつこいタチらしい。容易には諦めがつかないようで、あくまで男に喰らい付いてくる。
「人間なんかにタダで手ぇ貸したなんて、わてのプライドが許さんわ」
「じゃあ、今度酒でも持ってきてやる。それでチャラにしろ」
「酒は…嫌いやおまへんけど。あんさんから貰いたいのはそんなんとちゃうんどす」
そしてしばらくの間、アラシヤマは眉間に皺を寄せながらブツブツと一人で何かを呟いていた。
が、やがて、何かを思いついたように眉根を解いたかと思うと、ニヤリと男に笑いかける。
「ほな、しゃあないどすな。塚戻るわけにもいかへんし……、代わりに何もらうか決まるまで、あんさんに憑いてくことにしまひょ」
「げっ……」
今度は男のほうが、あからさまな不快の色をその顔に上す番だった。
酸欠の鯉か鮒よろしく口をぱくぱくと動かした後。ようやく発することが出来た声は、悲鳴と罵声が入り混じったものだった。
「憑いてきてどーすんだよ」
「さあて、とりあえず都の観光もしたいどすし、内裏がどないなってるのかも気になりますな。それにあんさん割とおいしそ……やのうて面白そうな精気持ってはるさかい」
「……ちょっとでも怪しいことしやがったら、ぶっ飛ばすぞ。てか来んな、マジで」
「今ここで何かもらえるんどしたらそうしますけど?あんさんの手足でも目玉でも」
心底愉快そうに、だがどこか皮肉めいた冷笑を含んだ笑顔で、妖はのらりくらりとそうのたまう。
男はそれに対してまだ何らかの抗議を行おうとしたが―――どっと降るように湧いてきた疲労感に、ただ首を振ってため息をついた。
「なんか、相手すんのもめんどくさくなってきた。とりあえず眠ぃからもう帰るぜ」
「そうそう、人間諦めが肝心なときもありますえ。ほな、これからよろしゅうにな、えーと」
「……シンタロー」
自分の性分をすっかり棚に上げながらそう言う妖に、男はげんなりと肩を落として名を名乗る。
妖は至って上機嫌らしい。赤い唇を歪めて、ニィ、と笑う。
「シンタロー。じゃあ家帰ったらまずはぶぶ漬けでも出してもらいまひょか」
「着いたら即寝るに決まってんだろうが」
「ぬくい茶なんて何十年ぶりでっしゃろなぁ。あー楽しみどすわ」
「テメエ……このデカい耳は飾りかコスプレか?!」
「あだだ痛い痛い痛いどす!動物の耳と尻尾に悪戯したらあかんて小さい頃お母はんに習わんかったんどすか?!」
アラシヤマの白い耳をギュウウと遠慮のない力で引っ張ってから、シンタローは何かを思い切るように一つ大きな息を吐き。勢いよく踵を返した。
そしてそのまま、来た道を戻り始める。その後を妖が、耳を押さえながらほたほたとついていく。
気付けば夜に浮いていた冷気が凝って、下生えの草々に無数の白露が留まっている。
黎明の薄い光の中。奇妙な二人連れの影が、都に向かって歩き出した。
<了>
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書いてる本人が一番楽しいアラシン平安パラレル開幕です。
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は一応平安としております。所謂なんちゃって平安です。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
近日中に一応簡単な解説ページは作ります。
漢字のルビなどもあまりにも不親切な内容ですので…。
カップリングの前提は例の如くアラシン、トリミヤです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
連載形式ですが、基本的に1話完結です。
何話続くかはわかりませんが、今のところ3話までは続く予定です。
広げた風呂敷がどこまで畳めるかはわかりません。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
やっちまった感溢れる平安陰陽?パラレルではありますが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
時は中世。
帝の号令の下に都が京に遷され、早くも二十年ほどが過ぎていた。
闇が深く、それらの中に潜む「あやしのもの」が、まだ人のすぐ傍に在った時代である。
殿上人から市井の民人に至るまで、何らかの怪異の噂を聞かぬ日はない。
「祀り」や「呪い」、或いは加持祈祷。そうした神妖との接触が日常の中に行われていた時代でもある。
二十年前の遷都にも様々な理由はあった。だがその最たるものは、帝への呪詛と噂された数々の奇異(あさまし)事を避けるためということである。
今上帝が今の地位に就くために、若き日より多くの政敵を闇に葬ってきたことは、大内裏の事情に多少通ずる者であれば誰もが知っている公然の秘密である。
二十と数年前、今上帝に世継ぎが産まれ、その前途をめぐって朝廷には様々な謀略が渦巻いていた。遷都を行う前の長岡の都では、内裏の陰惨な色は今よりも尚濃かったのである。
そのゆえか、長岡では目には見えない「何か」によって、しばしば人死にが出るほどの事故が起きていた。
大内裏で衛侍の上に急に梁(はり)が落ちてきたり、真昼、火の気のない後宮で何故か御簾が燃え上がったり。そうした事故が、事故と片付けられないほどに頻発したのだ。
夜な夜な内裏から男の呻き声が聞こえる、あれは数年前に死んだあの貴族の今上帝への怨嗟の声に違いあるまい―――そうした噂がまことしやかに流れる時勢だったのである。
それら怨霊の力を、更に言ってしまえばそうした噂自体を押し込めるために建設されたのが今の都だった。
新しい国の中枢として選ばれた京の都は、四方を山々に囲まれた天然の霊地である。
淀川水系の東縁にあたる盆地には、琵琶湖を水源とする宇治川のほか、桂川、木津川などの複数の河川が周辺山系より流れ込んでいる。宇治川・桂川・木津川の3つの河川は京で合流し、淀川となる。
ただでさえ霊の溜まりやすい盆地にこれだけの水系が集まっていれば、その道に詳しいものでなくとも、そこに何らかの怪しの力を感じざるを得ない。
さらに都には、様々な霊的守護が施されている。碁盤の目状に作られた都がそれ自体巨大な結界となっていることは有名であるし、周辺の山中には四神の統べる東西南北、そして艮の方角を要所に、霊験あらたかな僧をあまた擁する王城鎮護の寺が置かれている。
また、大内裏にはそれら「神妖の類」に対応するための陰陽寮が設置され、常時数十人の陰陽博士、陰陽師たちが勤めていた。陰陽寮の主たる仕事は星読や卜占、加持祈祷によって政を補佐することだが、退魔、怨霊調伏もまた、彼らの欠くべからざる仕事であった。
と、朝廷はそういった情勢の下にあったのだが、それはこの物語においては瑣末な話である。
とまれ、「現し世に在らざる物」が、まだまだ巷間の闇の至るところに跋扈しており。
―――水に魚、地中に蟲、闇には怪が棲む。いずれ人の立ち入るべき処に非ず。
そういう時代の話である。
『 Diorama / Japanesque 』
― 壱、 或殿上人祇園の小塚にて妖と出逢うこと ―
都の羅城門を出て東北の方向、鴨川を渡ってしばらく進んだ寂しい小道を、一人の男が駆けている。
すっきりとした長身に茜色の狩衣(かりぎぬ)を身につけた男の、年の頃は二十三、四。
烏帽子はどこかで落としたか、或いは邪魔になって捨てたかしたのであろう。被ってはおらず、後ろでゆるく一つに括った長い黒髪が、風に煽られて波打っている。
真っ直ぐな太い眉に、黒目のはっきりとした大きな目。すっと通った涼しげな鼻梁。
そこには意志の強さと溢れんばかりの活力、そしてそれすらも魅力としている僅かな驕慢の色がある。
だが、常には不敵な面構えをしているその男は、今はただひたすらに闇に目を凝らし、無心で走り続けていた。
羅城門からはもう大分離れ、辺りは鬱蒼とした木々に囲まれている。このまま行けば祇園社の裏手にでも抜けることだろう。
頭上には煌と輝く上弦の月が現れていた。
その光と、同じく天を彩る星々の明かりによって、かろうじて足元だけは確認できる。だが目先の一寸すら確かではない状況を、全速力で疾駆するというのはかなりの難行だった。
冷たい夜気の中、時に木の根に足をとられそうになりながら、男は走り続ける。
否、足を取ろうとするものは木の根や砂利石の類だけではなかった。
闇の中にだけ現れる、本来そこには存在しないはずの倒木や水溜り。影だけの手。天から降る長い長い帯に、奇怪な魚、蝸牛の霊……。
確かに目には映る。だが、それが現実に「ない」ということも、過去の経験から男はよく理解している。
なのですべてを無視して踏み過ぎていくのだが、鬱陶しいことは鬱陶しい。それでも、男は足を止めるわけにはいかなかった。
男が駆けるその十間(約二十メートル)ほど後ろを、まるで何かの波のように、一群の影がざわめきながら追っていく。
ざわめきは遠い宴席のそれのようでもあり、獣たちが喚いているようでもあり、また無数の虫の羽音のようでもあった。そのざわめきと共に、突風でも吹き過ぎているかの如く、木々が梢を揺らし、その葉を散らす。
やがて男は袂(たもと)から一枚の符を取り出すと、よく通る低声で真言を唱え始めた。
「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン」
もう随分な距離を全速力で駆け続けているはずなのに、男の呼気はさほど乱れてはいない。
駆ける速度は緩めないまま、左手で剣印を結ぶ。
「謹んで奉る不動明王、黄地仇なす妖魅悪鬼速やかに冥府が果てまで退けんと、そは宝剣の御力顕し給うよう、畏み畏み申す―――」
そして唱え終わると同時にばっと振り向き、振り向きざま影たちに、右手で符を放った。
符から光が顕現し、闇を一閃する。その光を浴びた影たちの一部が四散し、ざわめきを止める。
夜の林に、むしろ恐ろしいような静寂が戻る。
だがそれは一瞬のこと。
男の気迫に動きを止めていた影たちは、すぐにまた形を取り戻して男を追い始めた。
男も、やれやれとでもいうように一つだけため息をつき、くるりと回れ右をして再び駆け出す。
「―――クソ、やっぱほとんど効かねーじゃねーか。あの顔だけ野郎、覚えてやがれ」
苦虫を噛み潰した表情でそう呟いて、男は更に林の奥へと入り込んでいく。
しかし、いくら体力には自信があるとは言え、いつまでもこうして鬼ごっこを続けているわけにもいかない。さてどうしたものかと考えながら走っていた男は、そのときふとその状況にそぐわない甘い匂いが鼻腔をくすぐるのを感じた。
(ン?…梅の香……?)
今は如月。先日ようやく立春を迎えたばかりで、梅の時期にはまだ早い。宮中にある梅の木もまだ、早咲きの枝にようやく蕾の予兆が見えるくらいだ。
だが、はじめは微かだった香りは林の奥へ行けば行くほど確かに強まっていく。
梅林でもあるのか、と周囲を軽く見渡すが、少なくとも視界に入る範囲ではそれらしき木は見当たらなかった。
香りに気をとられて足元がおろそかになっていたのだろう。
男は、駆ける速度のまま何かの硬いものを思い切り蹴飛ばして、前方につんのめった。
また妖の目晦ましかと思って油断していたのだが、どうやら今回の障害物は実体を持っていたらしい。
蹴飛ばしたのは、古ぼけた大きな木簡だった。
闇の中に目を凝らせば、僅かに盛り上がった土山の上に、白々と、まるで光っているようにも見えるすべらかで大きな石が置かれている。
男が蹴飛ばしたのはその前に立てかけられていたもののようだった。
(―――やべ、なんかの塚だったのか?コレ)
男は慌てて前方に飛んだ木簡を追い、それを拾い上げる。
風雨に曝され泥まみれになっている木の板には、どこの術式かはわからないが梵字で文言が書かれていた。文言の一番下には、そこだけ漢字で「嵐山」の二文字が見える。
その雰囲気から察するに、どうやらかなり昔に、何らかの妖を封じ込めた塚だったらしい。
霊験あらたかそうな札を蹴飛ばしてしまったことは暗中の不可抗力としても、さすがにそのまま放置していくわけにもいかない。せめて元あったところに戻しといたほうがいいよな―――と男がその板を手にして振り返った瞬間。
ピシッ、という乾いた音が木々の間に響いた。
見れば、木簡の中央に大きな裂傷が出来ている。
だが、先刻耳を打ったのは朽ちかけていた木切れが発した音というよりは、まるでそこにあった硬質な「何か」にひび割れが起こったかのような、夜気を裂く鮮明な音だった。
男が嫌な予感に顔を顰めたのとほぼ同時に。
むせ返るような花の香りと共に、背筋を冷やすような妖気が塚から湧き上がってきた。
霧とも煙ともつかない白い靄が、辺りに立ち込めていく。男は追われているという立場すら一瞬忘れ、ただそこに立ち尽くして目を凝らす。
そして靄の中心に忽然と現れたのは、一体の、人の形をした妖(あやかし)の姿だった。
『 Diorama / Japanesque 』壱、 <後編>
妖は、黒い単(ひとえ)を身にまとい、塚の上に悠然と腰をかけている。強い梅の香りは靄と共に薄れ、空中を仄かに漂う程度になっていた。
単の裾や襟元から覗く肌の色は、抜けるほど、白い。
薄手の単の上に、無造作に羽織っている布にも似た、蒼白とも言っていいような色だった。
襟足が短く、前髪だけが顔半分を覆うように伸びている髪は、今しがたどこぞで濡れてきたような漆黒。
そしてそこには、人の耳の代わりに狐のような大きな白い獣の耳が生えている。
妖の姿の後ろからは、長くふさふさとした白い毛の尾が揺れているのも見えた。
年を経て力を得た白狐の妖か、と男は瞬時に考える。
だがそう断定するには、それが発する妖気の中には人、獣、器物を問わず、あまりに種々雑多な気が合わさっているようだった。
これほどまでにおかしな妖を男はこれまで見たことがない。だがなんにせよ、一筋縄ではいかなそうな古い妖であることは間違いがなかった。
妖がゆっくりと顔を上げ、髪の切れ間から覗く鋭い片目で、男を見やる。
「フフ……長かった……長かったどすなァ……やっと表に出ることができましたえ―――って、あ痛っ!な、ななな、何どすの?!」
だが口元に不敵な笑みを浮かべながらゆらりと顔を上げたその妖は。
次の瞬間、背後から怒涛のように押し寄せてきた魑魅魍魎の類に一斉に踏み越えられて、勢いよく大地に口付けた。
正面から来たその勢いを、男は半身をずらしてひょい、と避ける。そしてこめかみの辺りを掻きながら、無数の足跡をその背中一面につけた妖を、ほんの少しだけ憐れむような目で見下ろした。
妖はしばらくその姿勢のままわなわなと震えていたが、やがてこんのぉぉぉと言いながら起き上がり。人には理解できない言葉で影に向かって何かを怒鳴りつけた。
その声に、周囲にいた小鬼たちが弾かれたように飛ぶ。
妖の迫力に怯んだのか、魍魎達は駆けるのを止め、妖と男とを遠巻きに囲み、ざわめきながら様子を窺い始める。
妖を中心に三間ほどを半径とした円の、内側にいるのは男だけである。
土ぼこりにまみれた衣服をばたばたとはたいてから、妖はじっとりとした視線を男に送った。
「……最低の寝覚めや。何なんどす、あん細かいの」
「鳥辺野(とりべの)で眠ってた、死霊のみなさんじゃねえかな」
世にも恨めしそうな表情で発される妖の問いかけに、男は前方を見据えたまま淡々と答える。
「へえ、鳥辺野……って、なんどすのその他人事みたいな言い方は!あんさんがわざわざ引き連れてきたんでっしゃろ!」
「好きで連れてきたワケじゃねーよ」
ぎゃーぎゃーと喚く妖の声を指で耳をふさいで遮断しながら、男は事態の冷静な認識に勤しんだ。
どうやら自分はここに封じられていた狐だかなんだかの妖を、うっかり起こしてしまったようだ。
この妖はどこか、いやかなり全面的に間抜けでかつタチが悪そうだが、妖力はそれなりに強そうである。
そして正に今、自分は数多の死霊に追われており、結構な窮地に立たされている身だったりする。
まだ手に持ったままだった木簡の表に目をやり、そこにある嵐山の文字を確認して、男は妖に声をかけた。
「おい、アラシヤマ」
「……気安ぅヒトの名前口にせんでもらえます?」
妖は眉根を寄せ、座りなおした塚の上から見下ろすように男に目を向ける。
それでも、不承不承というように、なんどすの?と問い返した。
「テメ、封じられてたってことはそれなりに力のある妖怪なんだろ?」
「それなり、言うのは失敬どすな。あんさん一人食らうくらいやったら、一瞬どすえ」
「ちょっと手ぇ貸せよ。こいつら追っ払うのに」
何気なく言われたその言葉に、アラシヤマという名の妖は見えている片目を思わず丸くした。目前の男が表情も変えずにのたまったあまりに予想外の要請に、危うく石の上からずり落ちそうになる。
「はぁ?あんさん、陰陽の理を操るお人どっしゃろ?こんくらい、わての力なんて借りんと、ちょちょいとやってまいなはれ」
「……。それができたら、一見の妖なんぞに頼るわけねーだろ」
まるでスネたような口調で言い放たれた、男のその言葉。
二人の間に沈黙が張り詰める。
せ、と妖が、薄い羅紗にも似た白布を羽織った肩を震わせた。
「せやかてさっきあんさんナウマクなんたらてカッコつけてゆうてはったやろ!わて塚ん中から見てたんどすえ!」
「ばーろーあんなクソ長い真言アンチョコ無しで言えるワケねーだろーが元からハッタリだ!」
「逆ギレ?!」
目を吊り上げながら自分を見る妖に、だーかーら、と言いながら男はぐしゃぐしゃと黒い前髪を掻き乱す。
「俺は、テメーの想像してるよーな陰陽師じゃねえんだよ。一応視えることは視えるけど、マトモに勉強したわけじゃねぇから式も術もほとんど使えねーし」
「情けないこと言わはりまんなぁ……」
眉尻を下げながらアラシヤマは嘆息する。その表情には、自分を封じていた術を破ったのだからさぞ力の強い陰陽師かと思ったら、とんだ期待はずれだった。そんな侮蔑の色が露わである。
だがすぐにケケケと笑ったかと思うと、せやけど、と底意地の悪そうに言った。
「わて、弱いお人には興味あらへんのや。運が悪うおしたな、わてはもうここからおさらばしますさかい、さっさととり殺され―――」
その瞬間、アラシヤマの左面をかすめて、稲妻にも似たとてつもない破邪の力が後方へと飛んでいった。
アラシヤマの背後の木々から一斉に鴉が飛び立ち、夜空を旋回しながらギャアギャアと啼きたてる。
それは何気なくアラシヤマに向けられた、男の片手から放たれたものだった。
アラシヤマは口元にうすら笑いを貼り付けたまま、凍りついたように固まっている。その顔のすぐ横で、パチ、と小さな雷がはじけた。
「―――できんのは、問答無用で吹っ飛ばすのくらいか……」
「……そら、あんさん……反則どすえ……」
淡々とそう言い放つ男に、妖はひくり、と唇の端を引きつらせた。
「陰陽師でもないくせに、退魔の術だけは達者ゆうことどすか。嫌な性分の人と会ってもうたなあ……。でも、そないな真似できるんやったら」
「ちょっと事情があってな。無闇に消したく、ねーんだ」
妖の声を遮るように、きっぱりした口調で男が言った。影の群れをまっすぐに見据えながら、最初にヘマして怒らせたのはこっちだしな、とぼそりと付け加える。
言葉を止められたアラシヤマは、そんな男を眺めながら呆れたように肩をすくめた。
「あんさん自分の命が危ないゆうのに、消さず追っ払う方法探そう思て鳥辺野からここまで走ってきましたん?そらえろうご苦労なことで」
男は口を一文字に引き結んだまま、妖の言葉を聞いている。反論をしないところを見ると、自分でもそれなりの自覚はあるらしい。
アラシヤマは目を細めて、じっと男を凝視する。
しばらくそうして男を、否、男が身にまとう何らかの力を目を眇めて眺めていたアラシヤマは、やがて、ハン、と投げやりな声を出した。
「人の癖に、化生のもんに情けかけるなんて甘いことやっとるから、つけ込まれやすいんどすな……ま、仕方あらへん、今回だけは助けたげまひょ。よぉ見たら、なぁんかおもろい気ぃ持ってはるみたいやし」
そう言いながら、アラシヤマは塚の上に立ち上がると、ぴょん、ぴょん、とまるで体重を感じさせない動きで塚と男の肩を跳ね、その目前に降りる。そして男を背に庇うように直立すると、周囲を囲む死霊たちを視線だけでゆっくりと見渡した。
ざわり、と反面を覆う黒髪が逆立つ。
同様に、大地から風でも巻き起こっているかのように、アラシヤマが纏う黒の単もその裾を揺らした。
ゆるやかに目の高さまで上げられた爪の長い右手には、橙色の鬼火がまるで生き物のように絡みついている。
男の目の前で、アラシヤマが炎を纏った右腕を一振りする。
瞬間、二人の周囲に僅かな空間を残して、辺りに無数の火柱が噴きあがった。
あまりに不穏な妖の力。それを男は間近で見、―――こりゃ、大分マズいモン掘り起こしちまったかもな……と一瞬だけ後悔する。
しかし今更引き返すことは出来ない。嬉々として炎の影をその面に映す妖に向かって、男は大声で怒鳴りつけた。
「焼き尽くすんじゃねーぞ!追っ払うだけでいいんだからな」
久々に現世で炎をふるうことができたアラシヤマは、しかしあからさまに物足りないという顔である。
「……わかってますけど。よぉまぁこの状況で我が儘言わはるわ」
それでも派手な炎の柱は、殆ど脅しが目的であったらしい。無理やり消滅させられる断末魔の声はなく、辺りに集まっていた幽鬼たちはただ一目散に逃げていく。
やがて炎の柱が一本、また一本と闇に紛れていき、その最後の一本が消え去ったとき、そこにはもう、死霊たちの気配はなかった。
辺りはしんと静まり返っている。静寂の中、黒い単の背中が力を抜いたのが男の目にもわかった。
腰に手を当てながら、得意げな顔をしたアラシヤマが男を振り返る。
「全部追っ払ったったわ。これで、文句ないでっしゃろ」
「ああ」
それまでの淀んだ空気は完全に霧消しており、代わりに身を研ぐように清冽な夜気だけがそこにあった。
風の流れが正しく直され、同時に息を潜ませていた周囲の動物たちが、また安らいで呼吸を始めたことを感じる。どうやら、この妖の力は結構なものであったらしい。
そんなことを呆れたような感心したような心持で思っていた男に、アラシヤマはちろりと赤い舌を見せながら笑いかけた。
「せやったら―――」
男の姿を細い目で眺めながら、黒髪の妖は舌なめずりをする。
「おあしをいただきまひょか。まさか化生のモンに頼みごとしといて、タダで済むなんて思うとりまへんよなぁ……?」
「……」
「わては、高」
「眼魔砲」
いんどすえぇぇという続きは途中から悲鳴に転じ、哀しく木々の間にこだました。
「なんかできるもんなら、してみろヨ」
「くっ……あんさんのそれ、ほんま卑怯技どすえ?!」
地に両膝を着き、先の毛の焦げた耳を抑えながら、半分涙目になっているアラシヤマはキッと男を睨みつける。
不敵な面構えを取り戻した男は、腕組みをしながらそんな獣の妖を見下ろした。
「諦めとけって。アイツら追っ払ってもらったのには礼言うけど、腕だの足だの食われてやるわけにゃいかねーんだ」
さばさばとそう言って、片眉を上げる。
だが妖は相当しつこいタチらしい。容易には諦めがつかないようで、あくまで男に喰らい付いてくる。
「人間なんかにタダで手ぇ貸したなんて、わてのプライドが許さんわ」
「じゃあ、今度酒でも持ってきてやる。それでチャラにしろ」
「酒は…嫌いやおまへんけど。あんさんから貰いたいのはそんなんとちゃうんどす」
そしてしばらくの間、アラシヤマは眉間に皺を寄せながらブツブツと一人で何かを呟いていた。
が、やがて、何かを思いついたように眉根を解いたかと思うと、ニヤリと男に笑いかける。
「ほな、しゃあないどすな。塚戻るわけにもいかへんし……、代わりに何もらうか決まるまで、あんさんに憑いてくことにしまひょ」
「げっ……」
今度は男のほうが、あからさまな不快の色をその顔に上す番だった。
酸欠の鯉か鮒よろしく口をぱくぱくと動かした後。ようやく発することが出来た声は、悲鳴と罵声が入り混じったものだった。
「憑いてきてどーすんだよ」
「さあて、とりあえず都の観光もしたいどすし、内裏がどないなってるのかも気になりますな。それにあんさん割とおいしそ……やのうて面白そうな精気持ってはるさかい」
「……ちょっとでも怪しいことしやがったら、ぶっ飛ばすぞ。てか来んな、マジで」
「今ここで何かもらえるんどしたらそうしますけど?あんさんの手足でも目玉でも」
心底愉快そうに、だがどこか皮肉めいた冷笑を含んだ笑顔で、妖はのらりくらりとそうのたまう。
男はそれに対してまだ何らかの抗議を行おうとしたが―――どっと降るように湧いてきた疲労感に、ただ首を振ってため息をついた。
「なんか、相手すんのもめんどくさくなってきた。とりあえず眠ぃからもう帰るぜ」
「そうそう、人間諦めが肝心なときもありますえ。ほな、これからよろしゅうにな、えーと」
「……シンタロー」
自分の性分をすっかり棚に上げながらそう言う妖に、男はげんなりと肩を落として名を名乗る。
妖は至って上機嫌らしい。赤い唇を歪めて、ニィ、と笑う。
「シンタロー。じゃあ家帰ったらまずはぶぶ漬けでも出してもらいまひょか」
「着いたら即寝るに決まってんだろうが」
「ぬくい茶なんて何十年ぶりでっしゃろなぁ。あー楽しみどすわ」
「テメエ……このデカい耳は飾りかコスプレか?!」
「あだだ痛い痛い痛いどす!動物の耳と尻尾に悪戯したらあかんて小さい頃お母はんに習わんかったんどすか?!」
アラシヤマの白い耳をギュウウと遠慮のない力で引っ張ってから、シンタローは何かを思い切るように一つ大きな息を吐き。勢いよく踵を返した。
そしてそのまま、来た道を戻り始める。その後を妖が、耳を押さえながらほたほたとついていく。
気付けば夜に浮いていた冷気が凝って、下生えの草々に無数の白露が留まっている。
黎明の薄い光の中。奇妙な二人連れの影が、都に向かって歩き出した。
<了>
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書いてる本人が一番楽しいアラシン平安パラレル開幕です。
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<こちらは拙小説「華埠暁嵐抄」に関するご注意です>
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は特になく、舞台はどこかの国のチャイナタウンです。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
カップリングの前提は例の如くアラシンです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
ちょこちょこと書き足していく形式で書いております、
どのくらい続くかはわかりませんが、大体3か4辺りで完結すると思います。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
またもや書いてる当人が楽しいばかりのアラシンパラレルですが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
昼過ぎからたちこめ始めた重く暗い雲から、ぽつり、と落ちた水滴は、ある一枚の古びた看板の隅に当たった。
半ば朽ちかけながらもまだ、目に痛いほどのけばけばしい色彩を誇るその看板。
書かれているのは「中薬商店」の四文字だけで、屋号も何もつけられてはいない。
街の中心部にも程々に近く、だが主なストリートからは若干外れた場所にある小さな路地裏の漢方薬店である。
そのおどろおどろしい佇まいを見れば、よほど昔からその店がそこに存在していたことは間違いがないだろう。
だが、これだけコミュニティーの付き合いの密なチャイナタウンとしては稀有なことに。
周辺に住む誰一人として、その店の主人の本名を知る者はいなかった。わかっているのは、当代の主人が意外なほど若いということだけだ。
主は、その日ずっと、どんよりと曇った空を店の二階から眺めていた。
建物そのものは鉄筋の三階建てのビルである。だが内装は完全な中華嗜好であり、居住部分である二階の部屋には、紫檀と象牙で造られた抽斗や卓子などが無造作に置かれている。
主が腰をかけているのは、窓際に置かれているやたらと凝った螺鈿細工の小卓だった。
手元に置いているのは古ぼけた青銅製の風水盤。
盤の上に指を滑らせながら、窓の外の風景とそれを見比べる。
「七赤金星と六白金星……丙丁の気のめぐり合わせ……」
長く伸びた前髪の切れ間から半分だけ現れているその顔は、京劇の花衫のように整っている。
だが、それのもつ空気にはどこか、馴れ合えない陰気な冷たさも含まれていた。
やがて、ぽつり、とその一滴が空から落ちてきて、かと思うと水滴はすぐに激しい夕立へと変貌した。
全ての音を呑み込むように降る雨に、男は楽しそうに目を細める。
「―――嵐が、来ますなあ」
呟いた口元には、うっすらと、しかし隠し切れない笑みが浮かんでいた。
『 華埠暁嵐抄 』
しっかりと鶏ガラからとった透明なスープは、この界隈では珍しく薄味なのにコクがある。
麺はどちらかといえば細め。上には海老と青梗菜、薄い皮のワンタンがコレでもかというほど乗っていて、ボリュームも十分。
画竜点睛とばかりに胡麻油がほどよく効いていて、これで4ドルというのだから、ついつい通いたくもなるというものだ。
「親父、また美味くなったんじゃねーの、コレ」
湯気の立つその汁を啜りながらそう言うと、店の主である禿頭の親父はカウンターの内側から身を乗り出して、満足そうににんまりと笑った。
「わかるか。ちょっといい鶏が見つかってな……」
そして滔々と料理についての薀蓄を垂れ始める。自分もそれなりに料理をする方なので、こういう情報は有難い。三日に一度は店に来ているので、ここの親父ともすっかりもう顔なじみだ。
鶏ガラを取るときのコツは、麺に使う粉の配合比は、など本来なら門外不出の秘伝だろうに披露してくれる。そんな店主の話を興味深く聞いていたその時、唐突に、ガシャーンととんでもない音が店の入り口からした。
次いで、誰のともわからない上ずった悲鳴が聞こえる。
「ケンカだ―――――!!」
見れば入り口、ドア脇のガラスは無残にも砕けている。店内には割れたガラスの破片が散乱し、その上には無法な侵入者らしきパイプ椅子が転がっていた。
主がやれやれと言うようにため息をつく。幸いにして付近の席に人はいなかったが、これでは修理代だけでも結構な額になりそうだ。
尤も、こうした騒ぎはこのお世辞にも治安のよいとはいえないチャイナタウンの中央路に面した店として、避けがたい運命の一つではある。
主も慣れてはいるので取り立てて大騒ぎをしたりはしない。とはいえ自分の店を壊されて愉快という人間はいないだろう。
「んじゃ、ご馳走さん」
ちょうど料理が食べ終わったので、俺は代金をカウンターに置いて腰を上げた。
「おう、また来いよ」
出しなに、親父は片眉を上げて俺を見た。それに軽く笑い返して、表に出る。
中央路では数人の若いチンピラたちが殴りあったり物を投げあったりと元気に抗争中だった。本当ならば路を通りたいのだろう一般人たちは困り顔のまま、はるか遠くで人だかりを作っている。
ぶつかりあっている人数は両陣営合わせて十人程度。刃物を持っているのも何人かはいるが、銃器はどちらも用意していないようだった。
渦中にのこのこと現れた男に、全員がいっせいに殺気の篭った視線を投げかける。ギラギラと、笑えるくらい好戦的で野卑な眼だ。
両方の首領格らしき、とりわけ目つきの悪い二人の男が一歩前に進み出る。
「―――そこのガタイのいい兄ちゃん、どきな、邪魔だぜ」
あまりにも捻りのないお約束の台詞に、苦笑どころか力が抜けた。今時B級映画の悪役でも吐かねーだろ、ソレは。
返事をするのも面倒で、とりあえず二人いっぺんに蹴り飛ばす。
別に命までとるつもりはないので手加減はしたが、予想以上に簡単に二人は地面に伸びてしまった。それまで後ろに控えていた下っ端達が、一斉にこちらに向かって身構える。
履き慣れたカンフーシューズの先をとんとんと軽く地に打ちつけながら、そいつらにざっと眼を渡らせた。
「てめーら、どこの堂(そしき)が後ろについてんのか知らねーけどさ」
どうやらあれだけ騒いでた割に、俺に対しては共同戦線を張るつもりらしい。不仲な二国を協調させるには共通の敵を作るのが一番だってのは、情けない話だが一抹の真理を含んでいる。
ずらりと並んだ男達の足が、一斉に地を蹴った。もちろん、こちらもこれだけ挑発しといて退くつもりはない。
「ドンパチやんなら、一般の店に迷惑かけンなよ―――なッ!」
大体五分とちょっとでその場は収まりがついた。
それまで遠巻きに騒ぎを見ていた連中が最初どよめき、やがて歓声を上げる。とはいえ、そこに留まっていればやがて「どうしようもない事情があって」遅れてきた警官達に、うるさく事情を聞かれるだろう。そんなのは真っ平御免だし、俺としては美味いメシを出す店の主の溜飲を多少なりとも下げられればそれでいい。
人が集まってくる前に近くの小さな路地に飛び込む。そしてそのまま人目につかないよう裏道を通りながら、行き着けのバーへと駆け出した。
***
カラン、と鐘を鳴らしながら木製のドアを開けると、店の中にいた三人が一斉にこちらを振り返った。カウンターの中にいる店長と、その対面に座る金髪と黒髪の二人連れだ。
に、と笑いながら金髪の方が乾杯でもするかのように飲んでいたアイスティーのグラスを掲げる。
「さっきの中央路での騒ぎ。見てたっぺよ、スンタロー」
「ミヤギ」
「大活躍だったっちゃね」
「―――に、トットリもか。見てたんなら手伝えよ、てめーら」
苦虫を噛み潰したようになっているだろう表情を自覚しながら、俺は手前に座っている黒髪の男―――トットリの隣に腰をかけた。店長に珈琲一つ、と注文する。
「一介の下っ端記者に妙な期待しねぇでけろ。それに手伝おう思ったときにはもう終わっとったべな」
「僕も、仕事中によそのことに手ぇ出すわけにはいかんわや。助けが必要な状況だったんならともかく」
西洋人みたいにやたら綺麗な顔をしたミヤギは、目が覚めるような鮮藍色のチャイナを着ていた。トットリは黒地に藍色のラインが入った動きやすそうな簡素な中国服である。
地元民で、時折ミヤギなど街の外から来る人間の案内屋もやっているトットリはともかく、一応は一般企業に勤めているミヤギは昼間はスーツ姿のことが多い。珍しいこともあるもんだと思って、ついじろじろと見てしまう。
「で、その記者さんは?いーのかよ、真昼間からこんなトコいて」
「こういうとこの情報集めんのも大事な取材だっぺ。そういうスンタローこそ」
「オレはお仕事自体、募集中なの。てことでココ、おごって」
「え……ミヤギくんの財布に縋るなんてどんだけ困ってるんだわいや……」
「なーんか言うたべかァ?トットリ」
「なななんでもないっちゃ!」
笑いながら流す視線は、顔立ちが整ってるだけにその迫力もなかなかなもので。
睨まれたトットリはあああと言いながら固まっている。こうしたやり取りにももうすっかり慣れてしまった。これでも何だかんだいってこいつらは仲がいい。相性が合うんだかなんだか知らないが、驚くほどに。
「まあでも、ほいじゃったらちょうどよかったのぉ、シンタロー」
それまでほとんど喋らずにグラスを磨いたり珈琲を淹れたりしていた、やたらガタイのいい店長が、縦一直線に傷のある片目を眇めながら暢気な声で言った。
「?ンだよ、コージ」
「だべ!奢るよりもっといいことがあるべ!仕事の情報だァ」
出費から逃れたいのかそれとも本気でそう思っているのかは判断がつかないが、とにかく勢い込んでミヤギがこちらに身を乗り出してくる。トットリの頭をぎゅう、とカウンターに押し付けながら。
「青龍堂から、古美術取引の護衛の仕事があるんだっぺ。一日で済むし、報酬は三千ドル」
「三千?!そりゃ盗品ダロ?」
「違うらしいべ。ただ、なんか他からも狙われてる品らしくて、腕の立つ護衛探してるんだと。しかも元々雇ってた護衛が襲撃されたからってんで、取引は明後日」
「へーえ……」
ミヤギが目を輝かせながら語るその内容は、確かにそれだけの価値はある。取引が始まる前からもう負傷者が数名、ということは、かなりヤバイ相手らしいが、それにしても一日で三千はあまりにオイシイ。二か月分の家賃水道代電気代ガス代全部払ってもまだ余裕ができる。
そんなことを頭の中で皮算用をしているうちに、ふと別の、だが根本的な疑問がわいた。
「でも、そんな条件いーんなら、なんでテメーで引き受けねーの」
ミヤギは本職の新聞記者ではあるのだが、書いているのは哀しいほど零細の地元タブロイド紙だ。
いつも筆は剣よりも強しだのなんだのと言っているが、拾ってきたネタによってその多寡が決まるという涙ぐましい給与体系の下に働いているため、ネタがないときには時折副業として何でも屋らしきこともやっている。言ってみれば半分同業者みたいなものである。
だが、俺のその言葉を聞いたミヤギはみるみる顔色を土気色にすると、遠い眼をし始めた。
「オラは……明後日までに一面連載用のネタ集めがあるんだっぺ……」
「一面?この前の大誤報の始末はちゃんとついたんだな」
「縁起でもねーこと思い出させねえでけろ。アレだって、ちょっとした手違いさえなけりゃ世紀の大スクープだったんだべ!」
「はーいハイハイ。ま、そういうコトならお言葉に甘えさせてもらうゼ、窓口はいつものトコでいーんだな?」
青龍堂ならこれまでにも何度か仕事を請け負ったことがある。このチャイナタウンを牛耳る二大勢力の片方で、バックにはかなりデカい財閥が控えているという噂もあり、金払いはかなりいい。
そうと決まれば善は急げだ。珈琲を飲み干して席を立ちかかった。その時。
あ、とミヤギが慌てたように言い、何かを察したトットリが俺のタンクトップの裾を掴んだ。
危うくその場でつんのめりそうになったが、なんとか踏みとどまって振り向く。するとミヤギが少しだけバツの悪そうな顔で笑っていた。
「ちょい待つべ、スンタロー。一つ条件があったの忘れてたべな」
「?」
「これ、一人じゃできねえ仕事なんだべ」
「は?!なんだそりゃ」
「請け負う時は最低二人以上って条件がついてんだっぺ。安全策のつもりだか、なんでかはわがんね」
肩を竦めながらミヤギは言う。
「ミヤギ…はダメなんだよな。トットリも」
「だべなぁ」
「僕ぁこの三日間はミヤギ君の手伝いだっちゃ」
「コージは……店あけるわけにはいかねーか」
「すまんが、そうじゃのォ」
「うー……」
その場に居る面々を順繰りに眺めてみても、どうにかなりそうなヤツはいなかった。
と、なると。
選択肢は一つしか残ってはいない。
「……あー……仕方ねぇナ。かーなーり気が進まねーけど、アイツに頼むか……」
「「アイツ?」」
ミヤギとトットリが綺麗にハモって聞き返してくる。
好奇心に満ちた目は敢えて見ないようにして、答えた。
「陰気で根性悪でキモくて全体的に関わりたくない。けど、腕はそこそこ立つヤツの心当たりが、ある」
バーを出たその足で、目的の店に向かった。
一度中央路に戻ってから、また裏道をいくつか抜けて、小さな雑居住宅が並ぶ一画に出る。その中にぽつんとある漢方薬店。けばけばしくはあるものの、風雨の力によって全体的に黒ずみ、既に風景の一部となっている看板の下にあるドアを開けた。
瞬間、ふ、と甘苦いような薫りが鼻につく。
無数の缶とひたすらに怪しい何かの根やら干物やらの瓶詰めが並んでいる薄暗い一階に、店主の姿はなかった。カウンターの奥までずかずかと入り込むと、そこにある細い階段を登り、もう一枚の扉を蹴飛ばさんばかりの適当さで開ける。
二階は、ワンフロアが全て広い居住空間となっている。磨きこまれた紫檀と鉄と漆の黒に象牙の白がアクセントとなっているそこ、古い家具たちの間に紛れ込むように店の主は居た。
表はすでに日が傾き始めている。淦と橙の中間のような光が、複雑な文様の透かし彫りになった窓を通して室内に射し込んでいた。
「おこしやすぅ、シンタローはんv」
奥の小卓に軽く腰を凭れさせるようにして表を眺めていたらしき主が、にっこり―――否、にやりと笑って言う。相変わらず妙なイントネーションだ。それに笑い返すことすらせずに、とりあえず部屋の中央まで行き、そこにある大きめの卓についた。
顔の片側を長い前髪で覆っている主の今日の服装は、漆黒の地にド派手な真紅の牡丹が刺繍された、ややゆとりのあるチャイナ服。服地も刺繍の質もかなりいいものなんだろうが、着ている人間がよくないのか、なんとはなしに胡散臭い。
薄笑いのままいそいそと寄ってくる主と目を合わせないようにして、片手を振りながら言った。
「茶とか、別にいらねーからな。さっき飲んできたばっかだし、用件終わりゃさっさと出るし」
「相変わらずつれないお人どすなあ。ま、お相伴と思って一杯くらい飲んでっておくれやす」
「……変なモン、入れんなヨ」
「イヤどすわぁ、この前のまだ根に持ってはりますの」
こちらの意向を殆ど無視して、主は茶を淹れ始める。大丈夫どす、今回のは台湾から取り寄せた白毫烏龍茶、その名も東方美人どすえ~、とムカつくオーバーアクションをしながら。
事前に温めてあったらしき小ぶりな茶壷に葉を入れ、かなり高い位置から湯を注ぎ込んだ。
差し出された小さな白磁の器を受け取って一口飲んだところで、主が「で?」と、続ける。
「今日のご用はなんどす?朋友の絆をより深める親睦会のお誘いどしたら、今すぐ市内の一流ホテル予約してきますけど」
「オマエ宇宙から変な電波受信してんじゃねーのか。仕事だ、仕事」
ウキウキと胸の前で両手を合わせながら言う男が、徐々に、しかし確実に近づいてくるのが本気でウザい。座ったまま足でそれ以上寄らない様に遠ざけながら言うと、髪に隠れていない方の眉が僅かに上がった。
「わてにお声がけがあるのは久々どすなあ。そない手間のかかる仕事なんどすか?」
「よくわかんねーけど、一人じゃ受けられない依頼なんだと」
茶をもう一口すすりながら、ミヤギから聞いた話をそのまま伝える。男はとりあえず隣の椅子に腰をかけ、卓の上に肘をつきながらこちらの話をじっと聞いていた。
どこで焚いているのか、相変わらず部屋の中には強い香の匂いが漂い続けている。
十分足らずで話を一区切りつけると、男は数秒中空に視線をさまよわせてから、ぼそりと言った。
「別にあんさんにケチつけるわけやないんどすけどな。さすがにちょお……怪しいんちゃいます?」
ぽりぽりと頬の辺りを掻きつつ、存外言いたいことは割とはっきり言うその男を、若干苦い思いで見返す。
「胡散クセーのは百も承知だ……が。背に腹は変えられねー」
「せやから、わてんとこ越してきはったら生活費はタダどすえて、何度も言うてるやないどすか」
「それだけはイヤだから必死で仕事探してんダロ」
「もう、ほんまシャイなんどすから……」
「違ーーーう」
いちいち相手にしていたら負けだと思う。それでもこの男と対話していると段々と目が虚ろになる。
こればかりは意識してのものではないのでどうしようもない。
「ま……どうせ、ヒマしてんだろ?」
目を逸らしながら茶をもう一口あおると、主は心外だというように口を一文字に引き結んだ。
「ヒマなんてあらしまへんわ、毎日きちんと店番しとります」
「客なんて滅多にこねークセに」
「ウチは一見さんお断り、上客以外相手にせえへん主義なんどす!……ただ、せっかくのあんさんからのお誘い、断るわけにはいきまへん……しゃあない、お付き合いしまひょ」
上目遣いにじっとりとこちらを見てから、ひとつ息を吐く。
その恩着せがましい態度がやや癪に障ったが、そうとなれば話は早いほうがいい。湯飲みはすでに空になっていた。男にちょうど聞こえないくらいの小声でごっそさん、と呟いて、立ち上がる。
「じゃ、早いとこ向かおうぜ。他の希望者に決まっちまう前に契約しとかねーとな」
「あんさんどしたら、行けば仕事は廻されると思いますけどな」
男と連れ立って店を出ると表はもう大分薄暗くなっており、東のほうの空はすでに深い藍色に染まっていた。
青龍堂への仕事の仲介者―――エージェントと呼ぶにはあまりに格好がラフすぎる―――がいる酒場は、ちょうど開店直後で客が入り始めた頃だった。
重低音の響く店内にまだ酔いの匂いは強くないが、それでもお世辞にもガラのいいとはいえない男たちやそれらが連れてきているのだろうきわどい服装の女たちが数名、すでに夜の始まりの杯を掲げている。
目的の男は店の奥のカウンターでマスターと会話をしていたが、近くに寄ると軽くおどけたように目を大きくして、体ごとこちらを向いた。
「仕事の話、聞いたんだけど。骨董品護衛の」
顔見知りとはいえ、挨拶を交し合うような仲ではない。座っている男を見下ろすようにしながら、用件だけを短く言う。
「骨董品?ああ……、受けるのか?」
「あの条件がホントなら」
素っ気無く言うと、仲介屋はにんまりと笑って、手に持つグラスから洋酒らしきものを一口あおった。
「一日、取引の護衛で三千ドルだ。ただし腕利きでなくては困る……まあ、オマエさんなら心配ないとは思うがな」
「怪我人が出てんだろ?事前に五百。成功後に二千五百」
「ふむ。相方はそっちの連れか?」
グラスを持ったほうの手で、男が後ろにいる薬屋を指差す。相方、という響きに今更ながら嫌な感じがしたが、否定するわけにもいかず頷く。
男はへーえと顎を撫でながら薬屋をしばらく眺めていたが、薬屋のほうは人が大勢いる場所が苦手なのか落ち着かない様子で両手を組んでは放してを繰り返しており、仲介屋には目もくれなかった。その様子に肩を竦めながら、仲介屋はもう一度視線を自分に戻す。
「オマエさん、相変わらずどこの堂にも属していないのか?」
「まァな。色々、めんどくせーし」
「そっちの派手なのか暗いのかよくわからん兄さんはどうなんだ」
薬屋と会話をするのは諦めたようで、こちらに向かってだけ話す。派手なのは外側で暗いのが中身なのだ、と教えてやろうかと思ったがやめておいた。一見ではそこまではわからずとにかく渾然一体としたワケのわからない雰囲気だけが伝わるのだろう。
肩越しに右手の親指で薬屋を指しながら言う。
「コイツも堂には入ってない。どころか友人すらいない」
さほど大声で言ったつもりはなかったが、それでも耳ざとく聞きつけた後ろの男が「酷ッ!最近はそないなことあらへんのどすえ?!トージくんとか……」などと抗議をしてきた。無視して「少なくとも人間じゃ居ないから大丈夫だ」と念を押す。
仲介屋は憐れむような微低温の目をして陰気な男を見やると、わかった、それならお前さんたちに任せよう、とやや後ずさりながら頷いた。
***
薬屋との付き合いは、かれこれもう三年以上になるだろうか。このチャイナタウンに引っ越してきて少し経ったくらいの時に会って、以来それほど頻繁にでもないが、なんとなく付き合いが続いている。
初めて会ったときには、横殴りの雨が降っていた。
十二月の霙交じりの雨はひたすらに冷たく、全速力で駆け続けて酷使された心臓は今にも破れるんじゃないかというほど強く鼓動を打っているのに、体の芯がすぅっと冷え始めていくような感覚だった。
右肩からは結構な量の血が流れ続けていた。
雨水と血に塗れて衣服はもうぐちゃぐちゃだった。
二十人近い数の男たちに、追われていた。それもかなり腕に自信のありそうなヤツばかりに。
街の中で始めた何でも屋がそこそこ軌道に乗ってきて、割とデカい仕事も廻されるようになってきた頃の話だ。
多少、油断し始めていた時期だったのは否定できない。仕事でポカをやらかしたこともなければ、割とよく吹っ掛けられたケンカでも負けたことがなかった。大抵のことは銃も使わずに済ませられたし、街の生活にも大分慣れてきていた。
すべて後からわかったことだが、そのとき請け負った仕事は、かなりヤバい口の話だったらしい。
単なる取引の代行人と言われて請けたその仕事。指定された倉庫に行って戸口を開けた瞬間、少なくとも片手の指以上の数の銃口が火を噴いた。
入る前に少しだけ嫌な予感がしていて(こういう勘は割とよく当たる。特に悪い時の場合は)、戸を開けた瞬間とっさに身をかがめたので致命傷になるような銃弾は浴びずに済んだ。それでも一発が右肩をかすった。かなり深く、肉をえぐられた。
痛みを感じるヒマすらなく、身を屈めたまま踵を返してひたすらに駆け出した。
後ろから怒声が聞こえてきて、男達が追ってきた。どうやら詐欺犯の身代わりにされたらしかったが、誤解を解くだけの話を聞くほどの耳を相手が持っているとはとても思えなかった。
奴らもきっと、雇われ者だったのだと思う。それほど統制が取れているようには見えなかったが、腕はムカつくくらいに立った。
そして何より頭数が多かった。
仕事の内容は「そこに現れたものを殺せ」といったようなものだったのだろう。
今更作った死体の数にこだわりはなさそうな奴らばかりだった。
ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、深更の街をひたすらに駆けた。できれば広途(おおどおり)の方に抜けたかったが、数の上で圧倒的に有利な相手に、路はことごとく先回りされた。
気づけば細い路へ、細い路へと追い込まれていた。
走り続けて、行き着いた先は小さな路地の行き止まりだった。
辺りに並ぶ小汚い雑居住宅はいずれも、揉め事に巻き込まれるのだけは死んでもゴメンだといわんばかりに堅く戸を閉ざしており、夜はひたすらに静まりかえっていた。
引き返さなくては、と思ったのと同時に、複数人の足音が近づいてきた。
肩に負った傷さえなければなんとかなったかもしれない、とは思ったが、そんなことを言ったところで後の祭りで。
ああ、こりゃマジで殺されるかもしれねーな。そんなことを、ふと思った。
せめて遠くから蜂の巣にされるのだけは免れようと、足音のほうに自分からもう一度駆ける。そして、奴らがこちらを認識するのと同時に、攻撃をしかけた。とにかく動き回って、相手の持つ銃を叩き落とすことに専念する。
最初に現れた三人組はなんとかしのぎ、このままなら何とかなるかもしれない、とほんの僅かな希望が湧いてきたところで、増援の足音が聞こえた。
夜の中にはやはり、自分たちのたてている靴音以外は何もない。そして肩の傷と、そのほかに負った複数の傷から流れ出す血の量は結構なもので、頭は徐々にその機能を低下させてきていた。
次がきたら、凌ぎきれる自信はなかった。
だが、来るかと身構えていた増援のヤツらが、自分の前に姿を見せることはなかった。
代わりに、その少し後に現れたのは、比較的背の高い一人の男。男は濡れて色味が不鮮明になっているにもかかわらず、その悪趣味さをしっかりと主張しているド派手な柄な中国服を身にまとっていた。
顔の右半分を、長い前髪で覆っており、その先端からは雨水が滴り落ちていた。
二十歳を過ぎたくらいの年恰好の男は、にぃ、と口の片端を上げ、そして自分のほうへとゆっくりと近づいてきた。
自分を追ってきた奴らは一様に黒を基調とした服装をしていた。なので、おそらく一味ではないのだろうと予想はついた。ただその歩き方を見れば、戦闘においてド素人とも思えずに。
頭はもう大分ぼんやりとしてきたが、警戒だけは解かずに気力で男を睨み付けた。
しかし、その視線に対して、男は。
とてもじゃないが女らしいとは言えない体格の身をくねらせ、頬をやや紅潮させたかと思うと、
「そ、そない熱っぽい目で見んといておくれやす。照れますえ……」
そう、のたまった。
「……は?」
あまりに状況にそぐわないその仕草と言葉に、その時の自分はこの上ないというくらい怪訝な顔をしていたと思う。
だが男はそんな自分の表情には構わず間近まで歩いてくると、血の流れている右肩を見て僅か眉をひそめた。
「あんさん、ひどい怪我どすなぁ。それ、ほっといたら腐りますえ」
「……」
痛ましそうな声で言う男にも、だがけして油断は出来なかった。男との面識はまるでない。ここで登場する理由もさっぱり見当がつかない。
男は腕を組みながら、大きくひとつため息をついた。
「そない警戒せんでも、わては敵やあらへんどすえ。あんさんを追うて来たらしい奴らは、向こうできちんとのしときましたし」
「……なん、なんだよ。テメェ」
「そこの角で商いしとるもんどすわ」
「んな、コト、聞いてねー……んだよ」
「多勢に無勢やったら無勢の方手助けしたくなるんは人情いうもんでっしゃろ。何より夜更けにあない往来でバタバタ騒がれてたら、安眠妨害もええとこどすわ」
わざとらしく肩をすくめながら男は言う。その言葉はあまりに信憑性に欠けていた。
このチャイナタウンで、わざわざ自分から面倒を買って出るような、よく言えば義侠心のある、悪く言えば警戒心の薄い性格のやつは長生きは出来ない。
男自身の顔色は、本心からそう言っているようでもあり、またわかりやすく嘘をついているようにも見えた。なんにせよ失血で頭がぐらぐらして思考がうまくまとまらなかった。
「信用するもしないもあんさんの勝手どすけどな。ここにじっとしてても状況がよくなることはまずあらへんと思いますえ。わての店は薬を扱うてます。せめて消毒と止血くらいさせなはれ」
信用はできない、信用などできるわけがない。見るからに胡散臭い。
そう思いながらも、徐々に意識が薄れてきた。足元には雨と血が混ざり合って薄紅色の水溜りができていた。
「肩貸しますから、そこまでちょいと歩いておくれやす」
意識を失いかけてほとんど朦朧としながら、それでも男に引きずられるように店に連れて行かれた。
そして二階にある寝台に横にさせられた瞬間、ふっと世界が暗転した。
目を覚ました時、肩や全身の傷はきちんと手当がなされており。
非常に不本意ながら(というのは後々ことあるごとに思うことになるだが)、自分は男に借りを作ってしまった。
薬屋の店主とはそれ以来の付き合いである。
いまだに、あの時薬屋がどうして自分を助けたのかはわからない。その一件の後、借りは返す、とそれだけは強く言ったのだが。その台詞を聞いた男はしばらく何かを考え込んでいたかと思うと、急に指をもじもじとさせて「ほな、これから時々店に遊びに来ておくれやす」とだけ、言った。
付き合えば付き合うほど男の変人ぶりもわかってきたし、基本陰険ネクラで友達は皆無、そのくせ友情やら親友やらという言葉に過敏反応するといった人となりもわかってきたが、それでも腐れ縁というべきか、なんとなく付き合いは続いている。
ただ、それだけの年月の付き合いながら、薬屋の本名だけはまだ聞いたことがない。
助けられた翌日に一応は尋ねたが、好きに呼んでくれればいい、と言われ、その後もオイとか薬屋とかで済ませている。
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は特になく、舞台はどこかの国のチャイナタウンです。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
カップリングの前提は例の如くアラシンです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
ちょこちょこと書き足していく形式で書いております、
どのくらい続くかはわかりませんが、大体3か4辺りで完結すると思います。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
またもや書いてる当人が楽しいばかりのアラシンパラレルですが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
昼過ぎからたちこめ始めた重く暗い雲から、ぽつり、と落ちた水滴は、ある一枚の古びた看板の隅に当たった。
半ば朽ちかけながらもまだ、目に痛いほどのけばけばしい色彩を誇るその看板。
書かれているのは「中薬商店」の四文字だけで、屋号も何もつけられてはいない。
街の中心部にも程々に近く、だが主なストリートからは若干外れた場所にある小さな路地裏の漢方薬店である。
そのおどろおどろしい佇まいを見れば、よほど昔からその店がそこに存在していたことは間違いがないだろう。
だが、これだけコミュニティーの付き合いの密なチャイナタウンとしては稀有なことに。
周辺に住む誰一人として、その店の主人の本名を知る者はいなかった。わかっているのは、当代の主人が意外なほど若いということだけだ。
主は、その日ずっと、どんよりと曇った空を店の二階から眺めていた。
建物そのものは鉄筋の三階建てのビルである。だが内装は完全な中華嗜好であり、居住部分である二階の部屋には、紫檀と象牙で造られた抽斗や卓子などが無造作に置かれている。
主が腰をかけているのは、窓際に置かれているやたらと凝った螺鈿細工の小卓だった。
手元に置いているのは古ぼけた青銅製の風水盤。
盤の上に指を滑らせながら、窓の外の風景とそれを見比べる。
「七赤金星と六白金星……丙丁の気のめぐり合わせ……」
長く伸びた前髪の切れ間から半分だけ現れているその顔は、京劇の花衫のように整っている。
だが、それのもつ空気にはどこか、馴れ合えない陰気な冷たさも含まれていた。
やがて、ぽつり、とその一滴が空から落ちてきて、かと思うと水滴はすぐに激しい夕立へと変貌した。
全ての音を呑み込むように降る雨に、男は楽しそうに目を細める。
「―――嵐が、来ますなあ」
呟いた口元には、うっすらと、しかし隠し切れない笑みが浮かんでいた。
『 華埠暁嵐抄 』
しっかりと鶏ガラからとった透明なスープは、この界隈では珍しく薄味なのにコクがある。
麺はどちらかといえば細め。上には海老と青梗菜、薄い皮のワンタンがコレでもかというほど乗っていて、ボリュームも十分。
画竜点睛とばかりに胡麻油がほどよく効いていて、これで4ドルというのだから、ついつい通いたくもなるというものだ。
「親父、また美味くなったんじゃねーの、コレ」
湯気の立つその汁を啜りながらそう言うと、店の主である禿頭の親父はカウンターの内側から身を乗り出して、満足そうににんまりと笑った。
「わかるか。ちょっといい鶏が見つかってな……」
そして滔々と料理についての薀蓄を垂れ始める。自分もそれなりに料理をする方なので、こういう情報は有難い。三日に一度は店に来ているので、ここの親父ともすっかりもう顔なじみだ。
鶏ガラを取るときのコツは、麺に使う粉の配合比は、など本来なら門外不出の秘伝だろうに披露してくれる。そんな店主の話を興味深く聞いていたその時、唐突に、ガシャーンととんでもない音が店の入り口からした。
次いで、誰のともわからない上ずった悲鳴が聞こえる。
「ケンカだ―――――!!」
見れば入り口、ドア脇のガラスは無残にも砕けている。店内には割れたガラスの破片が散乱し、その上には無法な侵入者らしきパイプ椅子が転がっていた。
主がやれやれと言うようにため息をつく。幸いにして付近の席に人はいなかったが、これでは修理代だけでも結構な額になりそうだ。
尤も、こうした騒ぎはこのお世辞にも治安のよいとはいえないチャイナタウンの中央路に面した店として、避けがたい運命の一つではある。
主も慣れてはいるので取り立てて大騒ぎをしたりはしない。とはいえ自分の店を壊されて愉快という人間はいないだろう。
「んじゃ、ご馳走さん」
ちょうど料理が食べ終わったので、俺は代金をカウンターに置いて腰を上げた。
「おう、また来いよ」
出しなに、親父は片眉を上げて俺を見た。それに軽く笑い返して、表に出る。
中央路では数人の若いチンピラたちが殴りあったり物を投げあったりと元気に抗争中だった。本当ならば路を通りたいのだろう一般人たちは困り顔のまま、はるか遠くで人だかりを作っている。
ぶつかりあっている人数は両陣営合わせて十人程度。刃物を持っているのも何人かはいるが、銃器はどちらも用意していないようだった。
渦中にのこのこと現れた男に、全員がいっせいに殺気の篭った視線を投げかける。ギラギラと、笑えるくらい好戦的で野卑な眼だ。
両方の首領格らしき、とりわけ目つきの悪い二人の男が一歩前に進み出る。
「―――そこのガタイのいい兄ちゃん、どきな、邪魔だぜ」
あまりにも捻りのないお約束の台詞に、苦笑どころか力が抜けた。今時B級映画の悪役でも吐かねーだろ、ソレは。
返事をするのも面倒で、とりあえず二人いっぺんに蹴り飛ばす。
別に命までとるつもりはないので手加減はしたが、予想以上に簡単に二人は地面に伸びてしまった。それまで後ろに控えていた下っ端達が、一斉にこちらに向かって身構える。
履き慣れたカンフーシューズの先をとんとんと軽く地に打ちつけながら、そいつらにざっと眼を渡らせた。
「てめーら、どこの堂(そしき)が後ろについてんのか知らねーけどさ」
どうやらあれだけ騒いでた割に、俺に対しては共同戦線を張るつもりらしい。不仲な二国を協調させるには共通の敵を作るのが一番だってのは、情けない話だが一抹の真理を含んでいる。
ずらりと並んだ男達の足が、一斉に地を蹴った。もちろん、こちらもこれだけ挑発しといて退くつもりはない。
「ドンパチやんなら、一般の店に迷惑かけンなよ―――なッ!」
大体五分とちょっとでその場は収まりがついた。
それまで遠巻きに騒ぎを見ていた連中が最初どよめき、やがて歓声を上げる。とはいえ、そこに留まっていればやがて「どうしようもない事情があって」遅れてきた警官達に、うるさく事情を聞かれるだろう。そんなのは真っ平御免だし、俺としては美味いメシを出す店の主の溜飲を多少なりとも下げられればそれでいい。
人が集まってくる前に近くの小さな路地に飛び込む。そしてそのまま人目につかないよう裏道を通りながら、行き着けのバーへと駆け出した。
***
カラン、と鐘を鳴らしながら木製のドアを開けると、店の中にいた三人が一斉にこちらを振り返った。カウンターの中にいる店長と、その対面に座る金髪と黒髪の二人連れだ。
に、と笑いながら金髪の方が乾杯でもするかのように飲んでいたアイスティーのグラスを掲げる。
「さっきの中央路での騒ぎ。見てたっぺよ、スンタロー」
「ミヤギ」
「大活躍だったっちゃね」
「―――に、トットリもか。見てたんなら手伝えよ、てめーら」
苦虫を噛み潰したようになっているだろう表情を自覚しながら、俺は手前に座っている黒髪の男―――トットリの隣に腰をかけた。店長に珈琲一つ、と注文する。
「一介の下っ端記者に妙な期待しねぇでけろ。それに手伝おう思ったときにはもう終わっとったべな」
「僕も、仕事中によそのことに手ぇ出すわけにはいかんわや。助けが必要な状況だったんならともかく」
西洋人みたいにやたら綺麗な顔をしたミヤギは、目が覚めるような鮮藍色のチャイナを着ていた。トットリは黒地に藍色のラインが入った動きやすそうな簡素な中国服である。
地元民で、時折ミヤギなど街の外から来る人間の案内屋もやっているトットリはともかく、一応は一般企業に勤めているミヤギは昼間はスーツ姿のことが多い。珍しいこともあるもんだと思って、ついじろじろと見てしまう。
「で、その記者さんは?いーのかよ、真昼間からこんなトコいて」
「こういうとこの情報集めんのも大事な取材だっぺ。そういうスンタローこそ」
「オレはお仕事自体、募集中なの。てことでココ、おごって」
「え……ミヤギくんの財布に縋るなんてどんだけ困ってるんだわいや……」
「なーんか言うたべかァ?トットリ」
「なななんでもないっちゃ!」
笑いながら流す視線は、顔立ちが整ってるだけにその迫力もなかなかなもので。
睨まれたトットリはあああと言いながら固まっている。こうしたやり取りにももうすっかり慣れてしまった。これでも何だかんだいってこいつらは仲がいい。相性が合うんだかなんだか知らないが、驚くほどに。
「まあでも、ほいじゃったらちょうどよかったのぉ、シンタロー」
それまでほとんど喋らずにグラスを磨いたり珈琲を淹れたりしていた、やたらガタイのいい店長が、縦一直線に傷のある片目を眇めながら暢気な声で言った。
「?ンだよ、コージ」
「だべ!奢るよりもっといいことがあるべ!仕事の情報だァ」
出費から逃れたいのかそれとも本気でそう思っているのかは判断がつかないが、とにかく勢い込んでミヤギがこちらに身を乗り出してくる。トットリの頭をぎゅう、とカウンターに押し付けながら。
「青龍堂から、古美術取引の護衛の仕事があるんだっぺ。一日で済むし、報酬は三千ドル」
「三千?!そりゃ盗品ダロ?」
「違うらしいべ。ただ、なんか他からも狙われてる品らしくて、腕の立つ護衛探してるんだと。しかも元々雇ってた護衛が襲撃されたからってんで、取引は明後日」
「へーえ……」
ミヤギが目を輝かせながら語るその内容は、確かにそれだけの価値はある。取引が始まる前からもう負傷者が数名、ということは、かなりヤバイ相手らしいが、それにしても一日で三千はあまりにオイシイ。二か月分の家賃水道代電気代ガス代全部払ってもまだ余裕ができる。
そんなことを頭の中で皮算用をしているうちに、ふと別の、だが根本的な疑問がわいた。
「でも、そんな条件いーんなら、なんでテメーで引き受けねーの」
ミヤギは本職の新聞記者ではあるのだが、書いているのは哀しいほど零細の地元タブロイド紙だ。
いつも筆は剣よりも強しだのなんだのと言っているが、拾ってきたネタによってその多寡が決まるという涙ぐましい給与体系の下に働いているため、ネタがないときには時折副業として何でも屋らしきこともやっている。言ってみれば半分同業者みたいなものである。
だが、俺のその言葉を聞いたミヤギはみるみる顔色を土気色にすると、遠い眼をし始めた。
「オラは……明後日までに一面連載用のネタ集めがあるんだっぺ……」
「一面?この前の大誤報の始末はちゃんとついたんだな」
「縁起でもねーこと思い出させねえでけろ。アレだって、ちょっとした手違いさえなけりゃ世紀の大スクープだったんだべ!」
「はーいハイハイ。ま、そういうコトならお言葉に甘えさせてもらうゼ、窓口はいつものトコでいーんだな?」
青龍堂ならこれまでにも何度か仕事を請け負ったことがある。このチャイナタウンを牛耳る二大勢力の片方で、バックにはかなりデカい財閥が控えているという噂もあり、金払いはかなりいい。
そうと決まれば善は急げだ。珈琲を飲み干して席を立ちかかった。その時。
あ、とミヤギが慌てたように言い、何かを察したトットリが俺のタンクトップの裾を掴んだ。
危うくその場でつんのめりそうになったが、なんとか踏みとどまって振り向く。するとミヤギが少しだけバツの悪そうな顔で笑っていた。
「ちょい待つべ、スンタロー。一つ条件があったの忘れてたべな」
「?」
「これ、一人じゃできねえ仕事なんだべ」
「は?!なんだそりゃ」
「請け負う時は最低二人以上って条件がついてんだっぺ。安全策のつもりだか、なんでかはわがんね」
肩を竦めながらミヤギは言う。
「ミヤギ…はダメなんだよな。トットリも」
「だべなぁ」
「僕ぁこの三日間はミヤギ君の手伝いだっちゃ」
「コージは……店あけるわけにはいかねーか」
「すまんが、そうじゃのォ」
「うー……」
その場に居る面々を順繰りに眺めてみても、どうにかなりそうなヤツはいなかった。
と、なると。
選択肢は一つしか残ってはいない。
「……あー……仕方ねぇナ。かーなーり気が進まねーけど、アイツに頼むか……」
「「アイツ?」」
ミヤギとトットリが綺麗にハモって聞き返してくる。
好奇心に満ちた目は敢えて見ないようにして、答えた。
「陰気で根性悪でキモくて全体的に関わりたくない。けど、腕はそこそこ立つヤツの心当たりが、ある」
バーを出たその足で、目的の店に向かった。
一度中央路に戻ってから、また裏道をいくつか抜けて、小さな雑居住宅が並ぶ一画に出る。その中にぽつんとある漢方薬店。けばけばしくはあるものの、風雨の力によって全体的に黒ずみ、既に風景の一部となっている看板の下にあるドアを開けた。
瞬間、ふ、と甘苦いような薫りが鼻につく。
無数の缶とひたすらに怪しい何かの根やら干物やらの瓶詰めが並んでいる薄暗い一階に、店主の姿はなかった。カウンターの奥までずかずかと入り込むと、そこにある細い階段を登り、もう一枚の扉を蹴飛ばさんばかりの適当さで開ける。
二階は、ワンフロアが全て広い居住空間となっている。磨きこまれた紫檀と鉄と漆の黒に象牙の白がアクセントとなっているそこ、古い家具たちの間に紛れ込むように店の主は居た。
表はすでに日が傾き始めている。淦と橙の中間のような光が、複雑な文様の透かし彫りになった窓を通して室内に射し込んでいた。
「おこしやすぅ、シンタローはんv」
奥の小卓に軽く腰を凭れさせるようにして表を眺めていたらしき主が、にっこり―――否、にやりと笑って言う。相変わらず妙なイントネーションだ。それに笑い返すことすらせずに、とりあえず部屋の中央まで行き、そこにある大きめの卓についた。
顔の片側を長い前髪で覆っている主の今日の服装は、漆黒の地にド派手な真紅の牡丹が刺繍された、ややゆとりのあるチャイナ服。服地も刺繍の質もかなりいいものなんだろうが、着ている人間がよくないのか、なんとはなしに胡散臭い。
薄笑いのままいそいそと寄ってくる主と目を合わせないようにして、片手を振りながら言った。
「茶とか、別にいらねーからな。さっき飲んできたばっかだし、用件終わりゃさっさと出るし」
「相変わらずつれないお人どすなあ。ま、お相伴と思って一杯くらい飲んでっておくれやす」
「……変なモン、入れんなヨ」
「イヤどすわぁ、この前のまだ根に持ってはりますの」
こちらの意向を殆ど無視して、主は茶を淹れ始める。大丈夫どす、今回のは台湾から取り寄せた白毫烏龍茶、その名も東方美人どすえ~、とムカつくオーバーアクションをしながら。
事前に温めてあったらしき小ぶりな茶壷に葉を入れ、かなり高い位置から湯を注ぎ込んだ。
差し出された小さな白磁の器を受け取って一口飲んだところで、主が「で?」と、続ける。
「今日のご用はなんどす?朋友の絆をより深める親睦会のお誘いどしたら、今すぐ市内の一流ホテル予約してきますけど」
「オマエ宇宙から変な電波受信してんじゃねーのか。仕事だ、仕事」
ウキウキと胸の前で両手を合わせながら言う男が、徐々に、しかし確実に近づいてくるのが本気でウザい。座ったまま足でそれ以上寄らない様に遠ざけながら言うと、髪に隠れていない方の眉が僅かに上がった。
「わてにお声がけがあるのは久々どすなあ。そない手間のかかる仕事なんどすか?」
「よくわかんねーけど、一人じゃ受けられない依頼なんだと」
茶をもう一口すすりながら、ミヤギから聞いた話をそのまま伝える。男はとりあえず隣の椅子に腰をかけ、卓の上に肘をつきながらこちらの話をじっと聞いていた。
どこで焚いているのか、相変わらず部屋の中には強い香の匂いが漂い続けている。
十分足らずで話を一区切りつけると、男は数秒中空に視線をさまよわせてから、ぼそりと言った。
「別にあんさんにケチつけるわけやないんどすけどな。さすがにちょお……怪しいんちゃいます?」
ぽりぽりと頬の辺りを掻きつつ、存外言いたいことは割とはっきり言うその男を、若干苦い思いで見返す。
「胡散クセーのは百も承知だ……が。背に腹は変えられねー」
「せやから、わてんとこ越してきはったら生活費はタダどすえて、何度も言うてるやないどすか」
「それだけはイヤだから必死で仕事探してんダロ」
「もう、ほんまシャイなんどすから……」
「違ーーーう」
いちいち相手にしていたら負けだと思う。それでもこの男と対話していると段々と目が虚ろになる。
こればかりは意識してのものではないのでどうしようもない。
「ま……どうせ、ヒマしてんだろ?」
目を逸らしながら茶をもう一口あおると、主は心外だというように口を一文字に引き結んだ。
「ヒマなんてあらしまへんわ、毎日きちんと店番しとります」
「客なんて滅多にこねークセに」
「ウチは一見さんお断り、上客以外相手にせえへん主義なんどす!……ただ、せっかくのあんさんからのお誘い、断るわけにはいきまへん……しゃあない、お付き合いしまひょ」
上目遣いにじっとりとこちらを見てから、ひとつ息を吐く。
その恩着せがましい態度がやや癪に障ったが、そうとなれば話は早いほうがいい。湯飲みはすでに空になっていた。男にちょうど聞こえないくらいの小声でごっそさん、と呟いて、立ち上がる。
「じゃ、早いとこ向かおうぜ。他の希望者に決まっちまう前に契約しとかねーとな」
「あんさんどしたら、行けば仕事は廻されると思いますけどな」
男と連れ立って店を出ると表はもう大分薄暗くなっており、東のほうの空はすでに深い藍色に染まっていた。
青龍堂への仕事の仲介者―――エージェントと呼ぶにはあまりに格好がラフすぎる―――がいる酒場は、ちょうど開店直後で客が入り始めた頃だった。
重低音の響く店内にまだ酔いの匂いは強くないが、それでもお世辞にもガラのいいとはいえない男たちやそれらが連れてきているのだろうきわどい服装の女たちが数名、すでに夜の始まりの杯を掲げている。
目的の男は店の奥のカウンターでマスターと会話をしていたが、近くに寄ると軽くおどけたように目を大きくして、体ごとこちらを向いた。
「仕事の話、聞いたんだけど。骨董品護衛の」
顔見知りとはいえ、挨拶を交し合うような仲ではない。座っている男を見下ろすようにしながら、用件だけを短く言う。
「骨董品?ああ……、受けるのか?」
「あの条件がホントなら」
素っ気無く言うと、仲介屋はにんまりと笑って、手に持つグラスから洋酒らしきものを一口あおった。
「一日、取引の護衛で三千ドルだ。ただし腕利きでなくては困る……まあ、オマエさんなら心配ないとは思うがな」
「怪我人が出てんだろ?事前に五百。成功後に二千五百」
「ふむ。相方はそっちの連れか?」
グラスを持ったほうの手で、男が後ろにいる薬屋を指差す。相方、という響きに今更ながら嫌な感じがしたが、否定するわけにもいかず頷く。
男はへーえと顎を撫でながら薬屋をしばらく眺めていたが、薬屋のほうは人が大勢いる場所が苦手なのか落ち着かない様子で両手を組んでは放してを繰り返しており、仲介屋には目もくれなかった。その様子に肩を竦めながら、仲介屋はもう一度視線を自分に戻す。
「オマエさん、相変わらずどこの堂にも属していないのか?」
「まァな。色々、めんどくせーし」
「そっちの派手なのか暗いのかよくわからん兄さんはどうなんだ」
薬屋と会話をするのは諦めたようで、こちらに向かってだけ話す。派手なのは外側で暗いのが中身なのだ、と教えてやろうかと思ったがやめておいた。一見ではそこまではわからずとにかく渾然一体としたワケのわからない雰囲気だけが伝わるのだろう。
肩越しに右手の親指で薬屋を指しながら言う。
「コイツも堂には入ってない。どころか友人すらいない」
さほど大声で言ったつもりはなかったが、それでも耳ざとく聞きつけた後ろの男が「酷ッ!最近はそないなことあらへんのどすえ?!トージくんとか……」などと抗議をしてきた。無視して「少なくとも人間じゃ居ないから大丈夫だ」と念を押す。
仲介屋は憐れむような微低温の目をして陰気な男を見やると、わかった、それならお前さんたちに任せよう、とやや後ずさりながら頷いた。
***
薬屋との付き合いは、かれこれもう三年以上になるだろうか。このチャイナタウンに引っ越してきて少し経ったくらいの時に会って、以来それほど頻繁にでもないが、なんとなく付き合いが続いている。
初めて会ったときには、横殴りの雨が降っていた。
十二月の霙交じりの雨はひたすらに冷たく、全速力で駆け続けて酷使された心臓は今にも破れるんじゃないかというほど強く鼓動を打っているのに、体の芯がすぅっと冷え始めていくような感覚だった。
右肩からは結構な量の血が流れ続けていた。
雨水と血に塗れて衣服はもうぐちゃぐちゃだった。
二十人近い数の男たちに、追われていた。それもかなり腕に自信のありそうなヤツばかりに。
街の中で始めた何でも屋がそこそこ軌道に乗ってきて、割とデカい仕事も廻されるようになってきた頃の話だ。
多少、油断し始めていた時期だったのは否定できない。仕事でポカをやらかしたこともなければ、割とよく吹っ掛けられたケンカでも負けたことがなかった。大抵のことは銃も使わずに済ませられたし、街の生活にも大分慣れてきていた。
すべて後からわかったことだが、そのとき請け負った仕事は、かなりヤバい口の話だったらしい。
単なる取引の代行人と言われて請けたその仕事。指定された倉庫に行って戸口を開けた瞬間、少なくとも片手の指以上の数の銃口が火を噴いた。
入る前に少しだけ嫌な予感がしていて(こういう勘は割とよく当たる。特に悪い時の場合は)、戸を開けた瞬間とっさに身をかがめたので致命傷になるような銃弾は浴びずに済んだ。それでも一発が右肩をかすった。かなり深く、肉をえぐられた。
痛みを感じるヒマすらなく、身を屈めたまま踵を返してひたすらに駆け出した。
後ろから怒声が聞こえてきて、男達が追ってきた。どうやら詐欺犯の身代わりにされたらしかったが、誤解を解くだけの話を聞くほどの耳を相手が持っているとはとても思えなかった。
奴らもきっと、雇われ者だったのだと思う。それほど統制が取れているようには見えなかったが、腕はムカつくくらいに立った。
そして何より頭数が多かった。
仕事の内容は「そこに現れたものを殺せ」といったようなものだったのだろう。
今更作った死体の数にこだわりはなさそうな奴らばかりだった。
ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、深更の街をひたすらに駆けた。できれば広途(おおどおり)の方に抜けたかったが、数の上で圧倒的に有利な相手に、路はことごとく先回りされた。
気づけば細い路へ、細い路へと追い込まれていた。
走り続けて、行き着いた先は小さな路地の行き止まりだった。
辺りに並ぶ小汚い雑居住宅はいずれも、揉め事に巻き込まれるのだけは死んでもゴメンだといわんばかりに堅く戸を閉ざしており、夜はひたすらに静まりかえっていた。
引き返さなくては、と思ったのと同時に、複数人の足音が近づいてきた。
肩に負った傷さえなければなんとかなったかもしれない、とは思ったが、そんなことを言ったところで後の祭りで。
ああ、こりゃマジで殺されるかもしれねーな。そんなことを、ふと思った。
せめて遠くから蜂の巣にされるのだけは免れようと、足音のほうに自分からもう一度駆ける。そして、奴らがこちらを認識するのと同時に、攻撃をしかけた。とにかく動き回って、相手の持つ銃を叩き落とすことに専念する。
最初に現れた三人組はなんとかしのぎ、このままなら何とかなるかもしれない、とほんの僅かな希望が湧いてきたところで、増援の足音が聞こえた。
夜の中にはやはり、自分たちのたてている靴音以外は何もない。そして肩の傷と、そのほかに負った複数の傷から流れ出す血の量は結構なもので、頭は徐々にその機能を低下させてきていた。
次がきたら、凌ぎきれる自信はなかった。
だが、来るかと身構えていた増援のヤツらが、自分の前に姿を見せることはなかった。
代わりに、その少し後に現れたのは、比較的背の高い一人の男。男は濡れて色味が不鮮明になっているにもかかわらず、その悪趣味さをしっかりと主張しているド派手な柄な中国服を身にまとっていた。
顔の右半分を、長い前髪で覆っており、その先端からは雨水が滴り落ちていた。
二十歳を過ぎたくらいの年恰好の男は、にぃ、と口の片端を上げ、そして自分のほうへとゆっくりと近づいてきた。
自分を追ってきた奴らは一様に黒を基調とした服装をしていた。なので、おそらく一味ではないのだろうと予想はついた。ただその歩き方を見れば、戦闘においてド素人とも思えずに。
頭はもう大分ぼんやりとしてきたが、警戒だけは解かずに気力で男を睨み付けた。
しかし、その視線に対して、男は。
とてもじゃないが女らしいとは言えない体格の身をくねらせ、頬をやや紅潮させたかと思うと、
「そ、そない熱っぽい目で見んといておくれやす。照れますえ……」
そう、のたまった。
「……は?」
あまりに状況にそぐわないその仕草と言葉に、その時の自分はこの上ないというくらい怪訝な顔をしていたと思う。
だが男はそんな自分の表情には構わず間近まで歩いてくると、血の流れている右肩を見て僅か眉をひそめた。
「あんさん、ひどい怪我どすなぁ。それ、ほっといたら腐りますえ」
「……」
痛ましそうな声で言う男にも、だがけして油断は出来なかった。男との面識はまるでない。ここで登場する理由もさっぱり見当がつかない。
男は腕を組みながら、大きくひとつため息をついた。
「そない警戒せんでも、わては敵やあらへんどすえ。あんさんを追うて来たらしい奴らは、向こうできちんとのしときましたし」
「……なん、なんだよ。テメェ」
「そこの角で商いしとるもんどすわ」
「んな、コト、聞いてねー……んだよ」
「多勢に無勢やったら無勢の方手助けしたくなるんは人情いうもんでっしゃろ。何より夜更けにあない往来でバタバタ騒がれてたら、安眠妨害もええとこどすわ」
わざとらしく肩をすくめながら男は言う。その言葉はあまりに信憑性に欠けていた。
このチャイナタウンで、わざわざ自分から面倒を買って出るような、よく言えば義侠心のある、悪く言えば警戒心の薄い性格のやつは長生きは出来ない。
男自身の顔色は、本心からそう言っているようでもあり、またわかりやすく嘘をついているようにも見えた。なんにせよ失血で頭がぐらぐらして思考がうまくまとまらなかった。
「信用するもしないもあんさんの勝手どすけどな。ここにじっとしてても状況がよくなることはまずあらへんと思いますえ。わての店は薬を扱うてます。せめて消毒と止血くらいさせなはれ」
信用はできない、信用などできるわけがない。見るからに胡散臭い。
そう思いながらも、徐々に意識が薄れてきた。足元には雨と血が混ざり合って薄紅色の水溜りができていた。
「肩貸しますから、そこまでちょいと歩いておくれやす」
意識を失いかけてほとんど朦朧としながら、それでも男に引きずられるように店に連れて行かれた。
そして二階にある寝台に横にさせられた瞬間、ふっと世界が暗転した。
目を覚ました時、肩や全身の傷はきちんと手当がなされており。
非常に不本意ながら(というのは後々ことあるごとに思うことになるだが)、自分は男に借りを作ってしまった。
薬屋の店主とはそれ以来の付き合いである。
いまだに、あの時薬屋がどうして自分を助けたのかはわからない。その一件の後、借りは返す、とそれだけは強く言ったのだが。その台詞を聞いた男はしばらく何かを考え込んでいたかと思うと、急に指をもじもじとさせて「ほな、これから時々店に遊びに来ておくれやす」とだけ、言った。
付き合えば付き合うほど男の変人ぶりもわかってきたし、基本陰険ネクラで友達は皆無、そのくせ友情やら親友やらという言葉に過敏反応するといった人となりもわかってきたが、それでも腐れ縁というべきか、なんとなく付き合いは続いている。
ただ、それだけの年月の付き合いながら、薬屋の本名だけはまだ聞いたことがない。
助けられた翌日に一応は尋ねたが、好きに呼んでくれればいい、と言われ、その後もオイとか薬屋とかで済ませている。
私立男子学校。
この学校で1番の不良は?と聞かれたら、迷わずこう答える“リキッド”と―――。
リキッドはかなり良い家のお坊ちゃまだが、父親が昔から不良だったのを手本として今まで生きてきた。
父は寛大で優しく、そして厳しい人で、リキッドの悪さなんて、そんな酷い事じゃない。
人命に関わるような事はしないし、まぁ、よくする事といえば、学校を抜け出し、だーいすきなファンシーヤンキーランドでフルに遊ぶ事くらいか。
ただ、喧嘩はめっぽう強い。
昔は超ロング過ぎるリーゼントだったが、今は短く切り髪を下ろしている。
その理由は、彼の愛しい人からの一言。
「ヤンキー嫌い。」
であった。
リキッドの心にはそりゃぁもうショックを受けたのだ。
思春期の彼の思い人は優しく強く情に熱く頭もいいし運動神経も抜群で、人望も厚い。
そして、掃除、洗濯、料理何でもできる。
ただ一つ欠点があるとすれば…
「テメー、何でここに居るんだヨ。」
「え、ここ一応俺のクラスなんスけど…」
俺様なのだ。
確かにこの学校1番の不良はリキッドに違いない。
喧嘩も強い。
だが、惚れた腫れたでなく、リキッドは彼に勝てない。
彼―――シンタローに。
学校の規則をひたすら破り、教師ですら目を合わせないような悪ガキなのに、シンタローに恋心を抱いてから彼に好かれる為、日夜頑張り続けている。
シンタローとて鈍い訳ではないから、彼の恋心なんてとっくの昔に気付いている。
自分に好かれる為にポリシーであったリーゼントを止め、海外サッカー選手の昔の髪型のような髪型になった。
しかしこの前、その頭も余り好きではない事を告げると、今度は少し髪を伸ばし、ムースも付けずに登校してきた。
自分の為にここまで頑張ってくれる、ある意味かいがいしい彼をシンタローは可愛いとは思う。
決して口には出さないが。
「あ?そーだっけか?オメー何時も居ねーから忘れてたぜ。」
そんなのは嘘なのだが、嫌味も含めてリキッドをからかうのは楽しい。
根っからの虐めっこなのである。
「そんな…三年になってからシンタロー先生の授業一度も休んでないのに…」
でも、素直なリキッドはシンタローに言われた言葉を信じ込みショックを受けてしまう。
恋は盲目だからか、シンタローの言葉は絶対なのだ。
善くも悪くも。
「はーいはいはい。じゃあリキッド君。そんなに国語が好きなら、この漢文を訳してみよーか。」
黒板に書かれた漢文。
漢字の列が白く縦に書かれていて、レ点等が黄色い文字で書かれている。
リキッドは冷や汗が出た。
彼は国語の授業は好きだが国語は嫌いなのだ。
しかも漢文なんて、リキッドにとって呪文とか宇宙語の部類にしか見えない。
国語じゃなくて、シンタローさん、アンタが好きなんだよ!と、叫びたかったが、そんな勇気はないので心の中で叫んでみる。
そして、ぽつ、ぽつと訳し始めるが、かなり間違っていたらしくシンタローに何度も指摘された。
「ばーか。上下は逆に読むんだヨ。オメー俺の授業マトモに聞いてねーだろ。」
「そ、そんな事ないっスよ…」
確かにマトモになんて聞いてなかった。
リキッドが聞いていたのは授業内容ではなくシンタローの声。
見ていたのは教科書ではなくシンタロー自身。
興味を持ったのは国語ではなくシンタローの書く文字。
はぁ、と、シンタローが溜息をついた。
しょうがない事なのである。
不良だったリキッドが、こうやって自分の授業だけではあるが、きちんと真面目に出席するだけめっけもんなのだ。
嫌いな授業には一切出ないリキッドをシンタローは知っているので、とにかく自分の席に付き、大人しく授業を聞いているだけでもラッキーと思わなければならない。
「あー、テメーは居残りだ。」
「ええ~…」
又、シンタローさんに幻滅されてしまったと、リキッドは深く悔やんだ。
二人きりになれるのは嬉しいのではあるのだが、シンタローは、はっきり言って厳しい。
それは自分にも相手にも厳しいから。
もしかしたら、だから馬鹿やってる不良が嫌いなのかもしれないと思う。
「つべこべ言うナ!お、もう時間か。日直!」
そうシンタローが言えば、日直の男子は立ち上がり号令をかける。
皆、そのかけ声に従って規律し、礼をしてから着席した。
それを見届けた後、シンタローはドアをガラガラと開けて帰って行ったのである。
リキッドはうなだれたまま、ホームルームを受けたのである。
彼に注意するような教師はシンタローしか居ないので、担任もリキッドを見てみぬ振りをし、順調にホームルームも終わった。
後はシンタローとの国語の補習が待っている。
正直言って怖い以外の何物でもない。
淡い恋心はとりあえず置いといて、リキッドは悪魔の補習を思い出す。
リキッドが初めてシンタローの補習を受けたのは一年の一学期。
度重なる授業放棄で、出席日数も危うい状況だったリキッドに、シンタローがリキッドの目の前で補習を言い渡したのだ。
その時はシンタローに対して何の感情も持っていなかったし、この学校で1番強いと自他共に認めている自分に言う勇気がよくあるな、としか思わなかった。
ムカつく。
それがリキッドがシンタローに持った初めての感情であった。
だが、出ないで逃げた。もしくは誰かとつるまないと何もできないと思われるのが釈だったので、一発ガツンとやって帰ろうと思っていたのだった。
しかし。
「アンタよく補習なんて言えたな。他のセンコーなんかビビッて手紙でよこすくれぇなのによ!」
思いっきりガンを飛ばす。もといメンチをきった。
これでビビッて何も言って来ないだろう。と、思ったのが間違いだった。
「あ゛!?テメー誰に口聞いてんだコラ。」
ギロ、と睨むシンタローの目はまるで蛇。
ぶっ殺すぞ!と言われ、その言葉が嘘ではないという証拠に、空気が異常に熱く感じる。
哀れリキッドは、蛇に睨まれた蛙状態になってしまった。
しかしリキッドも負けてはいられない。
教師ごときにコケにされて黙っていられるわけなんてないのだ。
「テメーこそ誰に口聞いてんだよッッ!!」
パリ、パリと、体に電気が走る。
それを見て、流石のシンタローも驚いたようだった。
だが、もう遅い。
「くたばれ!プラズマ!!」
バチバチと電気がリキッドの手の平から放たれ、シンタローに向かう。
シンタローは腕を組んだまま動かない。
リキッドが放ったプラズマが目の前に来た時、初めて手の平を前に掲げた。
そして。
「眼魔砲!」
プラズマの比ではない砲撃がシンタローの手の平から生み出され、プラズマを蹴散らしリキッドに向かう。
まさか返され、しかも攻撃されるなんて思ってもみなかったリキッドはシンタローの攻撃をマトモに受けてしまったのである。
一時間位気絶してしまったらしく、気がつくと目の前にシンタローが居た。
咄嗟に距離を取る。
「あ~ん?気付いたかぁ?オラ、さっさと補習始めるゾ!」
逃げようと思ったが体が動かない。
チラ、と、下を見ると、椅子に縄でくくられている事に気付く。
「テスト範囲、全部覚える迄帰さねーからな…」
人の悪そうな笑みを浮かべるシンタローから逃れる統べなど、リキッドにあるはずがなかった。
だが、それはまだ自分が悪かったと思う部分があるので仕方がないと言えば仕方がない。
そういえばこんな事もあった。
あれは恋心をもう持っていた時。
「先生って、どーゆーのがタイプなんですか?」
「あ゛?テメーそんな事気にしてる場合じゃねーダロ。ンな事より、範囲の漢字全部覚えろ!」
「え!む、無理っスよ!!」
「やる前から諦めてどーすンだ!オラ!さっさとやる!出来なきゃ尻叩き100回だ!」
期末の漢字なんて、そりゃもうべらぼうに数があるわけで。
リキッドは死ぬ気でやり遂げたのであった。
そんな事をされているのに何故リキッドはシンタローを好きなのか、と思うが、恋は突然にやってくるものなのである。
始めは自分より強い男としての憧れ。
しかし、シンタローが他の人間に笑いかけたりすると、感じた事のない心臓の圧迫感を感じる。
シンタローも自分も男なので、一時期は、思春期に見られる誤解なのかもしれないとも思ったが、どうやら違うらしい。
と、言うのも、その、一人で夜アレをする時、どうしてもシンタローを思い浮かべてしまうのだ。
流石にそれはおかしいと気付くのだが、想像とはどんどんと過激になって行くもので、自分の行いに最悪だと思いつつ、ぶっちゃけオカズにしていた。
そして、事の後の虚無感と罪悪感。
ごめんなさいと、何度も心の中で謝った。
ああ、色んな事を思い出してしまった。
ぼう、としながら悪魔のような愛おしいシンタローをひたすら待つ。
ややあってガラガラと、ドアが開きシンタローが入ってくる。
「何ぼーっとしてんだ。さっさと教科書を開け。」
指でリキッドの教科書を指し、リキッドが慌てて教科書を開くと、シンタローも又、自分の教科書を開いた。
「先ず漢字を読めるようにしねーと、テメーは落第だぞ。」
脅しとも取れるその言い草に、リキッドはそれでもいいかな、と、思う。
そうすれば後一年シンタローと一緒にいられるのだ。
リキッドの頭の中には、来年シンタローが自分の国語の担当教諭にならない可能性がある、とか、そんな事は思いもしないらしい。
彼らしいと言われれば彼らしいのではあるのだが。
「ホレ、読んでみろ。」
「え、と、はるねむり…」
そう言った瞬間手の平で頭を叩かれた。
「何するんスか!!」
「そりゃ、こっちの台詞だッッ!テメーは何を聞いてたんだ阿保ッッ!!」
「ええ~…」
何が悪かったんだろうと教科書を睨みつけるが、自分が間違ったとは思えない。
確かにはるねむりと、書いてある。
ジーッと、見つめるリキッドに、シンタローは盛大な溜息を吐いた。
「しゅんみん!」
「え?」
「“春”に“眠”でしゅんみんって読むんだよ!」
全く、と、シンタローは教科書に目線を落とす。
又嫌われてしまったのかもしれない。
結構ネガティブの気があるリキッドは、もう、かなりの勢いでブルー…イヤ、ブルーを通り越してブラックになる。
「シンタロー先生…」
「あ?くだらねー質問は答えねぇからな。」
「先生、俺の事嫌いでしょう。」
「は?」
いきなり訳の解らない質問をされ、シンタローは、何と答えて良いのか解らなかった。
もしかしてこの馬鹿ヤンキーは、それほどまでに答えられなかった事を気にしているのか。
まあ、勉強としては壊滅的な間違えではあるが、いつもの事なのだからそんなに気にする必要もないと思う。
「嫌いじゃねーよ。」
「でも、好きでもないでしょ。」
そう言われると返答に困る。
奴が言っているのは教師生徒の関係でか。それとも恋愛対象としてか。
とりあえずシンタローは前者と取った。
このリキッドが後者の事を考えている筈がない。
自分を好きだと思っている事は知っている。
しかし、幾度となく行われてきた二人だけの補習。
なのにリキッドは、告白する雰囲気すら出して来ない。
後者のような事を考えて言っているのであれば、もっと前から甲斐性のあるアプローチをするであろう。
つまり、リキッドはツメの甘いヘタレなのだ。
「どっちかっつったら好きな部類かもな。」
「国語できなくても…?」
「オメーがアメリカ人で、日本語を中々覚えられねーのも知ってる。なのに一生懸命覚えようと努力してんのも解ってる。ようはやろうとする過程が大事なんだヨ。」
できねーのは日本に住む以上出来るようにしなきゃなんねーがな。と、シンタローは付け足した。
その言葉を聞いて笑うリキッドの顔は、実際の年齢より若く見え、それは、きっと心から笑っているからだろうと思い、シンタローも笑いかけてやるのだった。
「シンタロー先生。俺、先生の事好きでよかった。」
「は!?」
自分の吐いた台詞にシンタローはしまったと、心の中で舌打ちをした。
先程も思っていた事だが、リキッドはちょっと恋愛には疎いので、多分“好き”の台詞に他意はないのであろう。
しかも、その恋心を上手く隠せていると思っている。
リキッドの頬が段々桜色になって、恋する乙女…いや、男なのだが、雰囲気は、甘酸っぱい青春の空気を醸し出している。
そうゆう空気というのは口に出さなくても周りを包み込む作用があるらしい。
シンタローは、全く恥ずかしくなんてないのに、リキッドの心境が手に取るように解ってしまって、恥ずかしさが伝染してしまった。
「ち、違うんです!シンタロー先生ッッ!そういう意味で言ったんじゃなくて!いや、違くはないんですけどッッ!」
ああ。パニックで自分が何を話しているのか解らないのだろう。
肯定してしまっている。
シンタローは顔には出さないように勤め、心の中でコイツをどうしようかと考える。
多分コイツは、今、自分の状況すら解ってねーんだろーナ。だったら答えは一つっきゃねーだろ。
そう。大人としての最高の手段。
“気付かない振り”
である。
そうと決まれば、この慌てふためくリキッドを大人しくさせなければならない。
傷つかせないよう、出来るだけ、全く気付かなかったというそぶりを見せなければ。
自分自身にすら不意打ちの告白なんて、いくらなんでも可哀相すぎる。
「何だよリ…「ああ!もうッッ!!」」
シンタローに被せるようにリキッドが頭を掻きむしりながら叫び始めた。
そして、シンタローの肩をガッシ!と掴む。
かなりの馬鹿力にシンタローは一瞬怯むが、当のリキッドは思いきり真剣らしく、シンタローが引いている事さえ気付いていない。
そして、頬を染め、言葉を吐いたのである。
「シンタロー先生愛してますッッ!!」
一瞬沈黙が流れた。
リキッドはパニックだし、シンタローは、ああ、コイツついに言っちまった。馬鹿だな、と思っているしで特に二人共次に繋げる言葉がなかった。
だからといってシンタローが心から冷静沈着であるわけでもない。
告白なんてそうそう受けるものでもないので、やはりシンタローも心の中では焦っている。
好意を口に出されて冷静さを欠かない人なんてよっぽどであろう。
「あーーー…」
リキッドが話さないので、とりあえずその場の空気を打ち消す為、シンタローは声を発し、頭をかいた。
「なんつーかさ、気持ちは嬉しいんだけどよ…俺男だし、教師だし。そんでもってオメーも男で生徒だろ?そーゆーのは女の子に言ってやるモンだぜ?」
「そ…そんな事言われても…俺、シンタロー先生が好きなんで…」
「そーゆーのは憧れなだけなの!少し時間が経って頭冷やしゃそう思える。」
「そんな事ないっス!」
悲痛な顔で叫ばれた。
無かった事に、冗談って事にされたくなかった。
YESにしろNOにしろ、はっきりとした答えが聞きたい。
うやむやにされるのが1番辛い。
もしかしたらって望みを持ってしまうし、本気に取ってくれなかったとも思うから。
こんなムードもへったくれもない行き当たりばったりみたいな告白だが、思いは本物なのだ。
3年間の思いを無視しないで欲しい。
「憧れだけで、夜、シンタロー先生の事オカズにしてヌけないですからッッ!」
…………………
………………
……………
…………
………
……
…
静まりかえった。
リキッドは自分がどんな発言をしたか理解していない所がもう、馬鹿としか言いようがない。
シンタローはガラにもなく固まり、呆然とリキッドを見つめている。
そして、やっとリキッドの言った事を理解した脳が、神経を伝って腕に流れついたらしい。
「歯ァ食いしばれ…」
バコッ!
リキッドの頭をげんこつで殴る。
「痛ッッてーー!!何するんスかッッ!?」
「テメーこそ言った事理解してんのか!?」
真っ赤になりながら怒鳴るシンタローに、リキッドはハタと自分の言った言葉を往復する。
そして、理解したらしく、沸騰湯沸かし機の如くボンッ!と顔を赤くした。
「お…!おおお俺って奴はな…何て事をッッ!す、スイマセン、シンタロー先生ッッ!シンタローを汚すような行為をしてしまって!!」
「そーじゃねーだろ…」
確かに自分をオカズにしてしまった事についての謝罪は解る。
例え思春期で、そーゆー事に興味があるにしても、だ。
だが、シンタローが言いたかったのはそうゆう事ではない。
していた事実を本人の目の前で暴露した事。
その事について言っているのだ。
「気持ち悪い…とか、思っちゃいましたよね…?」
恐る恐るというようにリキッドは、上目使いでリキッドを見た。
シンタローは容赦なくコーックリと頷く。
「ああああっ!!」
いきなり奇声を発するリキッドに、シンタローは些かビクついた。
「嫌われた!嫌われてしまった!俺、今から屋上から飛び降りてきます!!」
「わー!待て待て待てッッ!!」
今のコイツならやりかねんと思い、シンタローはリキッドの腕を掴み止めた。
「離して下さいッッ!シンタロー先生に嫌われて俺、生きていく自信がないッス!!」
かなり自暴自棄になっているようで、必死に腕を振るリキッド。
それをシンタローも必死で離すまいとする。
「嫌いじゃねーから!だからそーゆー事をするな!!」
嫌いじゃない。その言葉を聞いてリキッドはピタリと暴れるのを止めた。
「本当に?」
「ああ。だから落ち着け。」
そうじゃないと嫌いになるぞと脅されて、リキッドは押し黙った。
「俺が本気で好きならな、振り向かせてみせろ。ヤンキー君。」
口の端を持ち上げ皮肉っぽく笑いリキッドを見据える。
一瞬キョトンとしたリキッドだったが、すぐ焦る顔に変わる。
ごまかしているのではないかと、まだ先程の事を根に持っているのだ。
それを感じ取ったシンタローは軽く溜息をつく。
「オメー、この俺様が気がねぇ奴にチャンスくれてやると思ってんのか!?」
そう言ってやればリキッドの顔が満面の笑みに変わり、その後、神経な面持ちになった。
「頑張ります!絶対アナタを俺に振り向かせて見せるッス!!」
少年と青年の色が混じった清々しい顔付きで言い放つのであった。
二人の恋は始まったばかり。
終わり
この学校で1番の不良は?と聞かれたら、迷わずこう答える“リキッド”と―――。
リキッドはかなり良い家のお坊ちゃまだが、父親が昔から不良だったのを手本として今まで生きてきた。
父は寛大で優しく、そして厳しい人で、リキッドの悪さなんて、そんな酷い事じゃない。
人命に関わるような事はしないし、まぁ、よくする事といえば、学校を抜け出し、だーいすきなファンシーヤンキーランドでフルに遊ぶ事くらいか。
ただ、喧嘩はめっぽう強い。
昔は超ロング過ぎるリーゼントだったが、今は短く切り髪を下ろしている。
その理由は、彼の愛しい人からの一言。
「ヤンキー嫌い。」
であった。
リキッドの心にはそりゃぁもうショックを受けたのだ。
思春期の彼の思い人は優しく強く情に熱く頭もいいし運動神経も抜群で、人望も厚い。
そして、掃除、洗濯、料理何でもできる。
ただ一つ欠点があるとすれば…
「テメー、何でここに居るんだヨ。」
「え、ここ一応俺のクラスなんスけど…」
俺様なのだ。
確かにこの学校1番の不良はリキッドに違いない。
喧嘩も強い。
だが、惚れた腫れたでなく、リキッドは彼に勝てない。
彼―――シンタローに。
学校の規則をひたすら破り、教師ですら目を合わせないような悪ガキなのに、シンタローに恋心を抱いてから彼に好かれる為、日夜頑張り続けている。
シンタローとて鈍い訳ではないから、彼の恋心なんてとっくの昔に気付いている。
自分に好かれる為にポリシーであったリーゼントを止め、海外サッカー選手の昔の髪型のような髪型になった。
しかしこの前、その頭も余り好きではない事を告げると、今度は少し髪を伸ばし、ムースも付けずに登校してきた。
自分の為にここまで頑張ってくれる、ある意味かいがいしい彼をシンタローは可愛いとは思う。
決して口には出さないが。
「あ?そーだっけか?オメー何時も居ねーから忘れてたぜ。」
そんなのは嘘なのだが、嫌味も含めてリキッドをからかうのは楽しい。
根っからの虐めっこなのである。
「そんな…三年になってからシンタロー先生の授業一度も休んでないのに…」
でも、素直なリキッドはシンタローに言われた言葉を信じ込みショックを受けてしまう。
恋は盲目だからか、シンタローの言葉は絶対なのだ。
善くも悪くも。
「はーいはいはい。じゃあリキッド君。そんなに国語が好きなら、この漢文を訳してみよーか。」
黒板に書かれた漢文。
漢字の列が白く縦に書かれていて、レ点等が黄色い文字で書かれている。
リキッドは冷や汗が出た。
彼は国語の授業は好きだが国語は嫌いなのだ。
しかも漢文なんて、リキッドにとって呪文とか宇宙語の部類にしか見えない。
国語じゃなくて、シンタローさん、アンタが好きなんだよ!と、叫びたかったが、そんな勇気はないので心の中で叫んでみる。
そして、ぽつ、ぽつと訳し始めるが、かなり間違っていたらしくシンタローに何度も指摘された。
「ばーか。上下は逆に読むんだヨ。オメー俺の授業マトモに聞いてねーだろ。」
「そ、そんな事ないっスよ…」
確かにマトモになんて聞いてなかった。
リキッドが聞いていたのは授業内容ではなくシンタローの声。
見ていたのは教科書ではなくシンタロー自身。
興味を持ったのは国語ではなくシンタローの書く文字。
はぁ、と、シンタローが溜息をついた。
しょうがない事なのである。
不良だったリキッドが、こうやって自分の授業だけではあるが、きちんと真面目に出席するだけめっけもんなのだ。
嫌いな授業には一切出ないリキッドをシンタローは知っているので、とにかく自分の席に付き、大人しく授業を聞いているだけでもラッキーと思わなければならない。
「あー、テメーは居残りだ。」
「ええ~…」
又、シンタローさんに幻滅されてしまったと、リキッドは深く悔やんだ。
二人きりになれるのは嬉しいのではあるのだが、シンタローは、はっきり言って厳しい。
それは自分にも相手にも厳しいから。
もしかしたら、だから馬鹿やってる不良が嫌いなのかもしれないと思う。
「つべこべ言うナ!お、もう時間か。日直!」
そうシンタローが言えば、日直の男子は立ち上がり号令をかける。
皆、そのかけ声に従って規律し、礼をしてから着席した。
それを見届けた後、シンタローはドアをガラガラと開けて帰って行ったのである。
リキッドはうなだれたまま、ホームルームを受けたのである。
彼に注意するような教師はシンタローしか居ないので、担任もリキッドを見てみぬ振りをし、順調にホームルームも終わった。
後はシンタローとの国語の補習が待っている。
正直言って怖い以外の何物でもない。
淡い恋心はとりあえず置いといて、リキッドは悪魔の補習を思い出す。
リキッドが初めてシンタローの補習を受けたのは一年の一学期。
度重なる授業放棄で、出席日数も危うい状況だったリキッドに、シンタローがリキッドの目の前で補習を言い渡したのだ。
その時はシンタローに対して何の感情も持っていなかったし、この学校で1番強いと自他共に認めている自分に言う勇気がよくあるな、としか思わなかった。
ムカつく。
それがリキッドがシンタローに持った初めての感情であった。
だが、出ないで逃げた。もしくは誰かとつるまないと何もできないと思われるのが釈だったので、一発ガツンとやって帰ろうと思っていたのだった。
しかし。
「アンタよく補習なんて言えたな。他のセンコーなんかビビッて手紙でよこすくれぇなのによ!」
思いっきりガンを飛ばす。もといメンチをきった。
これでビビッて何も言って来ないだろう。と、思ったのが間違いだった。
「あ゛!?テメー誰に口聞いてんだコラ。」
ギロ、と睨むシンタローの目はまるで蛇。
ぶっ殺すぞ!と言われ、その言葉が嘘ではないという証拠に、空気が異常に熱く感じる。
哀れリキッドは、蛇に睨まれた蛙状態になってしまった。
しかしリキッドも負けてはいられない。
教師ごときにコケにされて黙っていられるわけなんてないのだ。
「テメーこそ誰に口聞いてんだよッッ!!」
パリ、パリと、体に電気が走る。
それを見て、流石のシンタローも驚いたようだった。
だが、もう遅い。
「くたばれ!プラズマ!!」
バチバチと電気がリキッドの手の平から放たれ、シンタローに向かう。
シンタローは腕を組んだまま動かない。
リキッドが放ったプラズマが目の前に来た時、初めて手の平を前に掲げた。
そして。
「眼魔砲!」
プラズマの比ではない砲撃がシンタローの手の平から生み出され、プラズマを蹴散らしリキッドに向かう。
まさか返され、しかも攻撃されるなんて思ってもみなかったリキッドはシンタローの攻撃をマトモに受けてしまったのである。
一時間位気絶してしまったらしく、気がつくと目の前にシンタローが居た。
咄嗟に距離を取る。
「あ~ん?気付いたかぁ?オラ、さっさと補習始めるゾ!」
逃げようと思ったが体が動かない。
チラ、と、下を見ると、椅子に縄でくくられている事に気付く。
「テスト範囲、全部覚える迄帰さねーからな…」
人の悪そうな笑みを浮かべるシンタローから逃れる統べなど、リキッドにあるはずがなかった。
だが、それはまだ自分が悪かったと思う部分があるので仕方がないと言えば仕方がない。
そういえばこんな事もあった。
あれは恋心をもう持っていた時。
「先生って、どーゆーのがタイプなんですか?」
「あ゛?テメーそんな事気にしてる場合じゃねーダロ。ンな事より、範囲の漢字全部覚えろ!」
「え!む、無理っスよ!!」
「やる前から諦めてどーすンだ!オラ!さっさとやる!出来なきゃ尻叩き100回だ!」
期末の漢字なんて、そりゃもうべらぼうに数があるわけで。
リキッドは死ぬ気でやり遂げたのであった。
そんな事をされているのに何故リキッドはシンタローを好きなのか、と思うが、恋は突然にやってくるものなのである。
始めは自分より強い男としての憧れ。
しかし、シンタローが他の人間に笑いかけたりすると、感じた事のない心臓の圧迫感を感じる。
シンタローも自分も男なので、一時期は、思春期に見られる誤解なのかもしれないとも思ったが、どうやら違うらしい。
と、言うのも、その、一人で夜アレをする時、どうしてもシンタローを思い浮かべてしまうのだ。
流石にそれはおかしいと気付くのだが、想像とはどんどんと過激になって行くもので、自分の行いに最悪だと思いつつ、ぶっちゃけオカズにしていた。
そして、事の後の虚無感と罪悪感。
ごめんなさいと、何度も心の中で謝った。
ああ、色んな事を思い出してしまった。
ぼう、としながら悪魔のような愛おしいシンタローをひたすら待つ。
ややあってガラガラと、ドアが開きシンタローが入ってくる。
「何ぼーっとしてんだ。さっさと教科書を開け。」
指でリキッドの教科書を指し、リキッドが慌てて教科書を開くと、シンタローも又、自分の教科書を開いた。
「先ず漢字を読めるようにしねーと、テメーは落第だぞ。」
脅しとも取れるその言い草に、リキッドはそれでもいいかな、と、思う。
そうすれば後一年シンタローと一緒にいられるのだ。
リキッドの頭の中には、来年シンタローが自分の国語の担当教諭にならない可能性がある、とか、そんな事は思いもしないらしい。
彼らしいと言われれば彼らしいのではあるのだが。
「ホレ、読んでみろ。」
「え、と、はるねむり…」
そう言った瞬間手の平で頭を叩かれた。
「何するんスか!!」
「そりゃ、こっちの台詞だッッ!テメーは何を聞いてたんだ阿保ッッ!!」
「ええ~…」
何が悪かったんだろうと教科書を睨みつけるが、自分が間違ったとは思えない。
確かにはるねむりと、書いてある。
ジーッと、見つめるリキッドに、シンタローは盛大な溜息を吐いた。
「しゅんみん!」
「え?」
「“春”に“眠”でしゅんみんって読むんだよ!」
全く、と、シンタローは教科書に目線を落とす。
又嫌われてしまったのかもしれない。
結構ネガティブの気があるリキッドは、もう、かなりの勢いでブルー…イヤ、ブルーを通り越してブラックになる。
「シンタロー先生…」
「あ?くだらねー質問は答えねぇからな。」
「先生、俺の事嫌いでしょう。」
「は?」
いきなり訳の解らない質問をされ、シンタローは、何と答えて良いのか解らなかった。
もしかしてこの馬鹿ヤンキーは、それほどまでに答えられなかった事を気にしているのか。
まあ、勉強としては壊滅的な間違えではあるが、いつもの事なのだからそんなに気にする必要もないと思う。
「嫌いじゃねーよ。」
「でも、好きでもないでしょ。」
そう言われると返答に困る。
奴が言っているのは教師生徒の関係でか。それとも恋愛対象としてか。
とりあえずシンタローは前者と取った。
このリキッドが後者の事を考えている筈がない。
自分を好きだと思っている事は知っている。
しかし、幾度となく行われてきた二人だけの補習。
なのにリキッドは、告白する雰囲気すら出して来ない。
後者のような事を考えて言っているのであれば、もっと前から甲斐性のあるアプローチをするであろう。
つまり、リキッドはツメの甘いヘタレなのだ。
「どっちかっつったら好きな部類かもな。」
「国語できなくても…?」
「オメーがアメリカ人で、日本語を中々覚えられねーのも知ってる。なのに一生懸命覚えようと努力してんのも解ってる。ようはやろうとする過程が大事なんだヨ。」
できねーのは日本に住む以上出来るようにしなきゃなんねーがな。と、シンタローは付け足した。
その言葉を聞いて笑うリキッドの顔は、実際の年齢より若く見え、それは、きっと心から笑っているからだろうと思い、シンタローも笑いかけてやるのだった。
「シンタロー先生。俺、先生の事好きでよかった。」
「は!?」
自分の吐いた台詞にシンタローはしまったと、心の中で舌打ちをした。
先程も思っていた事だが、リキッドはちょっと恋愛には疎いので、多分“好き”の台詞に他意はないのであろう。
しかも、その恋心を上手く隠せていると思っている。
リキッドの頬が段々桜色になって、恋する乙女…いや、男なのだが、雰囲気は、甘酸っぱい青春の空気を醸し出している。
そうゆう空気というのは口に出さなくても周りを包み込む作用があるらしい。
シンタローは、全く恥ずかしくなんてないのに、リキッドの心境が手に取るように解ってしまって、恥ずかしさが伝染してしまった。
「ち、違うんです!シンタロー先生ッッ!そういう意味で言ったんじゃなくて!いや、違くはないんですけどッッ!」
ああ。パニックで自分が何を話しているのか解らないのだろう。
肯定してしまっている。
シンタローは顔には出さないように勤め、心の中でコイツをどうしようかと考える。
多分コイツは、今、自分の状況すら解ってねーんだろーナ。だったら答えは一つっきゃねーだろ。
そう。大人としての最高の手段。
“気付かない振り”
である。
そうと決まれば、この慌てふためくリキッドを大人しくさせなければならない。
傷つかせないよう、出来るだけ、全く気付かなかったというそぶりを見せなければ。
自分自身にすら不意打ちの告白なんて、いくらなんでも可哀相すぎる。
「何だよリ…「ああ!もうッッ!!」」
シンタローに被せるようにリキッドが頭を掻きむしりながら叫び始めた。
そして、シンタローの肩をガッシ!と掴む。
かなりの馬鹿力にシンタローは一瞬怯むが、当のリキッドは思いきり真剣らしく、シンタローが引いている事さえ気付いていない。
そして、頬を染め、言葉を吐いたのである。
「シンタロー先生愛してますッッ!!」
一瞬沈黙が流れた。
リキッドはパニックだし、シンタローは、ああ、コイツついに言っちまった。馬鹿だな、と思っているしで特に二人共次に繋げる言葉がなかった。
だからといってシンタローが心から冷静沈着であるわけでもない。
告白なんてそうそう受けるものでもないので、やはりシンタローも心の中では焦っている。
好意を口に出されて冷静さを欠かない人なんてよっぽどであろう。
「あーーー…」
リキッドが話さないので、とりあえずその場の空気を打ち消す為、シンタローは声を発し、頭をかいた。
「なんつーかさ、気持ちは嬉しいんだけどよ…俺男だし、教師だし。そんでもってオメーも男で生徒だろ?そーゆーのは女の子に言ってやるモンだぜ?」
「そ…そんな事言われても…俺、シンタロー先生が好きなんで…」
「そーゆーのは憧れなだけなの!少し時間が経って頭冷やしゃそう思える。」
「そんな事ないっス!」
悲痛な顔で叫ばれた。
無かった事に、冗談って事にされたくなかった。
YESにしろNOにしろ、はっきりとした答えが聞きたい。
うやむやにされるのが1番辛い。
もしかしたらって望みを持ってしまうし、本気に取ってくれなかったとも思うから。
こんなムードもへったくれもない行き当たりばったりみたいな告白だが、思いは本物なのだ。
3年間の思いを無視しないで欲しい。
「憧れだけで、夜、シンタロー先生の事オカズにしてヌけないですからッッ!」
…………………
………………
……………
…………
………
……
…
静まりかえった。
リキッドは自分がどんな発言をしたか理解していない所がもう、馬鹿としか言いようがない。
シンタローはガラにもなく固まり、呆然とリキッドを見つめている。
そして、やっとリキッドの言った事を理解した脳が、神経を伝って腕に流れついたらしい。
「歯ァ食いしばれ…」
バコッ!
リキッドの頭をげんこつで殴る。
「痛ッッてーー!!何するんスかッッ!?」
「テメーこそ言った事理解してんのか!?」
真っ赤になりながら怒鳴るシンタローに、リキッドはハタと自分の言った言葉を往復する。
そして、理解したらしく、沸騰湯沸かし機の如くボンッ!と顔を赤くした。
「お…!おおお俺って奴はな…何て事をッッ!す、スイマセン、シンタロー先生ッッ!シンタローを汚すような行為をしてしまって!!」
「そーじゃねーだろ…」
確かに自分をオカズにしてしまった事についての謝罪は解る。
例え思春期で、そーゆー事に興味があるにしても、だ。
だが、シンタローが言いたかったのはそうゆう事ではない。
していた事実を本人の目の前で暴露した事。
その事について言っているのだ。
「気持ち悪い…とか、思っちゃいましたよね…?」
恐る恐るというようにリキッドは、上目使いでリキッドを見た。
シンタローは容赦なくコーックリと頷く。
「ああああっ!!」
いきなり奇声を発するリキッドに、シンタローは些かビクついた。
「嫌われた!嫌われてしまった!俺、今から屋上から飛び降りてきます!!」
「わー!待て待て待てッッ!!」
今のコイツならやりかねんと思い、シンタローはリキッドの腕を掴み止めた。
「離して下さいッッ!シンタロー先生に嫌われて俺、生きていく自信がないッス!!」
かなり自暴自棄になっているようで、必死に腕を振るリキッド。
それをシンタローも必死で離すまいとする。
「嫌いじゃねーから!だからそーゆー事をするな!!」
嫌いじゃない。その言葉を聞いてリキッドはピタリと暴れるのを止めた。
「本当に?」
「ああ。だから落ち着け。」
そうじゃないと嫌いになるぞと脅されて、リキッドは押し黙った。
「俺が本気で好きならな、振り向かせてみせろ。ヤンキー君。」
口の端を持ち上げ皮肉っぽく笑いリキッドを見据える。
一瞬キョトンとしたリキッドだったが、すぐ焦る顔に変わる。
ごまかしているのではないかと、まだ先程の事を根に持っているのだ。
それを感じ取ったシンタローは軽く溜息をつく。
「オメー、この俺様が気がねぇ奴にチャンスくれてやると思ってんのか!?」
そう言ってやればリキッドの顔が満面の笑みに変わり、その後、神経な面持ちになった。
「頑張ります!絶対アナタを俺に振り向かせて見せるッス!!」
少年と青年の色が混じった清々しい顔付きで言い放つのであった。
二人の恋は始まったばかり。
終わり
「シンちゃん、いるの? 入るよ?」
異母兄の声に、転寝していたシンタローは、もたれかかっていた脇息からはじかれたように身を起こした。未だ開ききらない視界に、几帳をめくって顔を覗かせたグンマの、呆れたような表情がぼんやりと映る。
「誰もいないの? シンちゃん、無用心すぎるよ! こないだ、伊達衆のナントカってのに襲われたばっかりなのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。この俺が昼間っからそう簡単に襲われるかってんだ」
起き抜けに嫌なことを聞いた、と蘇芳の小袿を着崩したシンタローは欠伸を噛み殺しながら言う。一方、内裏から下がってきたばかりなのか、未だ深緋の束帯姿のグンマは、「わかってないな」と言いたげにため息をついた。
「本当だったら、女の人ってことになってるシンちゃんの部屋に、僕だってこんなふうに入ってきちゃいけないのに……取次ぎどころか、女房の一人もいないなんて。──ティラミスとチョコレートロマンスはどうしたのさ?」
グンマの小言に、シンタローは億劫そうに返す。
「お前は特別だろ。兄弟なんだから、水臭いこと言うなよ。……ティラとチョコは、こないだその、アラシヤマが入ってきた築地の崩れを直しに行ってる」
「そんなこと……僕に言ってくれれば、仕丁の一人や二人、すぐ貸したのに」
不満そうなグンマに、シンタローは肩をすくめた。
「俺がやれって言ったんだよ。まあ、こっちに不用意に他人を近寄らせたくないってのもあるが……いろいろばれると面倒だからな。別に俺は一人でも大丈夫だし、それにあいつらだって、たまには『自分は男だ』って、実感したいんじゃねえかと思ってさ。──ちゃんと狩衣を着て、力仕事してってな。俺が言うのもなんだけど、親父の馬鹿な遺志のせいで、女装して、自分が男だってばれないように、それこそ女みたいに屋敷に閉じこもる生活させられてるんだぜ? 女房装束を着せられてるってだけでも恥なのに、なんにも知らない奴らにちょっかいかけられたり、言い寄られたりまでして……男としての面目なんて、あったもんじゃねえ。たまには開放してやらないと、おかしくなっちまうだろ?」
「シンちゃん……」
表情を曇らせるグンマに、シンタローは苦笑する。
「そんな顔すんなよ。しょうがねえだろ。親父が娘だって吹聴してた俺が実は男だ、なんて今さら知られるわけにはいかねえんだから。巻き込んじまったティラミスとチョコレートロマンスには悪いが、こういう秘密は、人が関わるほど漏れやすくなるからな。……とりあえず、一族の権力基盤が落ち着くまで、なんとか我慢してやってもらうさ。ルーザー叔父さんやコタローの不利になるようなことは、したくねえからな」
「だけど……本当にいいの? シンちゃんは、それで?」
勧められた茵にふてくされたように座るグンマを無視して、シンタローは手渡された文箱を覗き込んだ。マジック亡き今、屋敷の主であるグンマがわざわざ文使いのようなまねをすることもないのだが、シンタロー側の事情が事情で、本来ならば大勢いるはずの女房も信用できる者を厳選して数を極端に制限しているため、なにか間違いがあってはいけないと、直々に出向いてきたものらしかった。
「……オッサン、また来るのか」
文箱の中に不似合いな酒壺を見つけ、シンタローが忌々しそうに言う。
「うん。僕のところにも別に文が来たよ。月見酒だって」
酒好きのハーレム叔父が、月見にかこつけてグンマとシンタローの住む二条院にやってくるようになったのは、三ヶ月ほど前からのことだ。
それは、二人の父であるマジックの喪が明け、改めて一族の長の座に就いたルーザーの意向で、血族の誰かとシンタローを娶わせることが決まった矢先の出来事だった。都の口さがない野次馬たちは、絶大な権勢を振るったマジック亡き後、さっそく高貴なる一族の権力闘争が始まったのかと、興味津々でハーレムの動向に注目した。マジック最愛の娘を娶るということは、すなわち、マジックの持っていた力の全てを受け継ぐということを意味したからだ。シンタローを男と知る者はごく近い血縁の者と、シンタローの傍近く仕える二人の従者に限られており、マジックの生前からその周囲に近づくものは厳しく制限されていたため、当の二条院に仕える者にとってすら、シンタローは実在するのかどうかさえ定かではない、謎めいた深窓の姫君であった。シンタローが誰と結ばれるかによって、主であるグンマの行く末も変わりかねないと、都中の誰よりも二条院の使用人たちこそが、この訪問のもたらす結末について、固唾を呑んで見守っていたのだ。──その青の一族自体が、当初からこの茶番劇にいささかうんざりしていたことも知らずに。
だが、渦中の人物の一人であるシンタローはと言えば、自分の素性を知っているはずの叔父が、微妙な時期に微妙な行動に出たために、その真意を測りかねて右往左往していた。
常に行動が型破りでとらえどころのない叔父のすることである。単純に酒を飲みに来ただけなのかもしれないが、なにか別の考えがないとも言い切れない。ルーザーとハーレムの関係が良好とはいえないものであることも周知の事実だったから、今回の決定に対して、なにか一悶着起こすつもりではないかとも思われた。
とにかく相手はなにをするかわからない酔っ払いだ。用心するに越したことはないとの結論に達し、ティラミスとチョコレートロマンスを見張り役に、シンタロー自身はこんなときのためにあらかじめ立てこもりやすいように改造しておいた塗籠に身を隠したのだった。
しかし、それはただの杞憂だったと言うべきか──結局のところ、酒宴で酔いつぶれたハーレムが、シンタローのところにやってくることはなかった。
都一の酒豪と評されるハーレムが酔いつぶれるなど、考えられないことだったが、もしかしたらグンマか、グンマの後見役の高松が、気を利かせてなにか薬を盛ったのかもしれないと、シンタローは勘繰っていた。──あえて確認はしていないので、真相は謎のままだが。
拍子抜けするような思わぬ結末のおかげで、奇妙な緊張感をはらみつつも、日常は今までと一見変わりなく続いていくかのように思われた。最初のハーレムの行動が印象的だったせいか、その後の叔父や従兄弟との手紙のやりとりなどは、取り立てて人目を引きもしなかったのだ。──ただ、なにもなかったことの代わりのように、シンタローの心に奇妙なしこりが残ったこと以外は。
……あえて言うならば、それは、さんざん思い悩ませられておいて、結局は肩透かしを食らったことへの、恥ずかしさや苛立ちといったものであろうか。
別にハーレムの方でなにかはっきりしたことを言ってきたわけでも、二人の間に暗黙の了解があったわけでもなく、シンタローが一方的に心配して気をもんだだけのことで、逆恨みと言われればそうなのだが、だからといって簡単に納得して気持ちを収められるわけでもなかった。
少なくとも、シンタローにしてみれば、あんなろくでなしの叔父に対して、少しでも期待めいたものをかけてしまった自分が許せないのである。この先の見えないうんざりするような状況を、あの叔父ならなんとかしてくれるのではないかとかすかな望みを抱いて裏切られた、その八つ当たりも兼ねて、あのときのことをずっと根に持っていたのだ。
「ハーレム叔父様、よく来るよね。この前遊びに来てから、まだ三日もたってないんじゃない?」
三ヶ月前の酒宴以降、ハーレムは頻繁に二条院を訪れるようになったが、毎回飲んで騒いで帰るだけである。警戒することがかえって馬鹿らしいと思えるほどに、ハーレムはシンタローのことを気にしていないように見えた。
「……どうせ、酒目当てなんだろ。でなきゃ、俺の財産目当てか。……一体何回月見するつもりなんだろうな、あのオヤジは」
今日は新月だっつうの、とシンタローは悪態をつく。
この時代、親の財産は娘が相続するというのが普通であった。ゆえに、生前、位人臣を極めたマジックの莫大な財産も、長男のグンマではなく、世間的に一人娘ということになっていたシンタローが全て受け継いでいる。ルーザーがシンタローを一族の者と娶わせようとするのも、実は男であるという秘密もさることながら、この莫大な財産を他の者の手に渡したくないという思惑ゆえでもあるのだ。
「サービス叔父様とキンちゃんからも手紙来てるからね。忘れずにちゃんとお返事書いてよ? あと一応こっちの二人にもね」
榊と松の枝にそれぞれ結び付けられた文を見て、シンタローは呆れたようにため息をつく。
「……あいつらもよく懲りないよな……」
おそらく榊が有力貴族の一人であるアラシヤマのもので、松が青の一族と同等の勢力を持つ赤の一族の一人、リキッドのものなのだろう。
この二人、いつどこでどうシンタローを垣間見たのか知らないが、もうずいぶんと前から言い寄っていて、未だに諦めるということを知らない。シンタローを溺愛して、言い寄る者たちを秘かに闇に葬っていたとされるマジックが、絶大な権力を誇っていたころから生き延びているのだ。代替わりして未だ権力を掌握しきれていないルーザーが一族との婚姻を決めた程度で、引き下がるはずもなかった。
「こっちの二人のは、適当でいいから、今すぐ書いてくれるかな? あとで高松が害虫撃退の薬をふりかけて送るから、先に欲しいんだって」
「……あ、そう……」
明日の二人の惨状を思うと今から気が遠くなるシンタローだったが、ここで情けをかけてもさらに泥沼化するだけである。なるべく二人のことは考えないようにして、手近な紙にどうとでもとれるような曖昧な歌を書きつけ、さっさとグンマに渡した。
「サービス叔父様とキンちゃんのは、また後ででいいから。ティラミスかチョコレートロマンスに持たせてよこしてね」
「……オッサンのはいいのかよ」
「ハーレム叔父様には、今夜の宴のこともあるから、僕の方から出しておくよ。シンちゃんは、前のときに返事書いたばっかりだから、今回はいいんじゃないかな?」
頻繁に返事を書いて、こちらが気のあるような素振りをするのもどうかとグンマは言う。
「別に、ハーレム叔父様に対してどうこうっていうんじゃなくてさ……。どうせ、これは全部世間の目を欺くお芝居なんだから、変に野次馬を喜ばせるようなことするのも、癪だなって思わない?」
「……そうだな……」
シンタローはため息をつきながら、サービスの手紙を取る。
「うちの馬鹿親父のせいでサービス叔父さんにもいらん迷惑かけちまって、本当申し訳ないよな……」
サービスの手紙は、一応恋文の体裁を取ってはいるものの、中身はこちらの様子を心配し、気遣うような内容のものだ。
マジックの死後、信頼していた長兄が堂々と隠していたとんでもない事実が明るみに出、ひどく驚き、動揺もしただろうに、シンタローのため、なにくれとなく心を砕いてくれるサービスを思うと、自分の置かれたこの異常な状況のことなど、実に些細なことであるかのように感じられてしまう。
ルーザーは、懇意にしている弟のサービスや、自分の息子であるキンタローとの婚姻を望んでいるようではあるが、シンタローは、少なくともサービスにはこれ以上の心労はかけられないと考えていた。
「……あの繊細な叔父さんに、俺と結婚してくださいなんて言えるわけねえだろ……」
「そんなこと気にしないで言うだけ言ってみたら? サービス叔父様も、意外とまんざらでもないかもよ?」
「……いや、あの美貌の叔父様の御尊顔が連日傍近くにあったりしたら、俺の神経が持たない」
「じゃあ、キンちゃんにするの?」
「……キンタローねえ……」
シンタローは、それぞれが季節の植物に結び付けられた恋文とは違う、いやに慇懃な雰囲気の立て文を手に取った。
立て文とは、手紙を礼紙で縦に包んだもので、正式な文書という面がある一方、恋文であることを隠す場合などにも使われる。だが、キンタローがシンタローに恋文をこっそり送る必要はない──むしろこの状況では、その方がおかしい──わけで、キンタローの性格から察するに、正式な結婚の申し込みの手紙という考えからの立て文なのだろうが、この場合のそれは、かえってよそよそしい態度と思われかねなかった。──言うなれば、シンタローと結婚などしたくないのだが、世間体もあるし父親にも言われたので、とりあえず形だけ手紙を出してみる、というような。
手紙の内容も、使っているのは恋文に使われる仮名ではなく真名で、これは公文書かと勘違いしそうな硬い文章が続く。これを仮に普通の女性に出すのだとしたら、十中八九、最初の手紙で断られるのがオチだ。
「……なあ、キンタローは、なにを考えてこの手紙を書いてんだろうな……?」
「ああ、キンちゃんはね、一族の義務とか責任とか背負い込んだ気になってんじゃないの? シンちゃんが本当は男だって知ったときと、それなのに女の子の成人式である裳着をするって聞かされたとき、すごくびっくりして落ち込んでたもん。大好きなシンちゃんが大変なことになってるから、自分がなんとかしなきゃ、って思っちゃったんじゃない。ルーザー叔父様もいろいろ発破かけてるみたいだしさ」
「……それはそれで気が重いな……」
一族の者との婚姻が一番無難なのはわかっているのだが、どの相手も一長一短で決め手に欠ける。
「いっそのこと、ルーザー叔父様と結婚しちゃえば? そもそも言い出したのが叔父様なんだしさ。そうすれば、シンちゃんが受け継いだお父様の財産もルーザー叔父様のものになって、当主としての基盤も磐石になるだろうし、ちょうどいいんじゃない?」
「……そうすっと、俺がキンタローの義理の母親で、なおかつお前の義理の叔母になるんだぞ? オッサンや叔父さんと義理の姉弟ってことになるんだぞ!?」
それでいいのかよ、とシンタローはグンマを睨む。
「……んん、僕や叔父様たちはともかく、キンちゃんは承知しないだろうね」
「そうだろう?……それよかむしろ、俺としてはお前と結婚するのが一番手っ取り早いんじゃないかと思ったりもするんだけどな──」
思っても見なかった申し出に、グンマは驚いて目を見張った。
「ええ? 僕と!? だって僕たち、兄弟だよ?」
「だからかえって気安いんだよ。要するに、俺が男だって世間にばれなくて、親父の遺産も他所に渡らなけりゃいいんだろ? だったら親父の長男で、ずっと一緒に暮らしてたお前が一番の適任じゃないかよ。他の血縁の奴らとだと、遺産はともかく、どうしたって人の出入りが激しくなって、秘密を守るのも難しくなりそうだし──それにお前なら、ルーザー叔父さんの信用もなぜかあるし、一応後見人の高松もいるしな」
いざとなれば、気心の知れた使用人も含め、大きな力になるだろうと言うシンタローに、グンマは難しい顔で考え込んだ。
「……でも、兄弟──世間的には兄妹か──ってのを、どう言い訳するのさ?」
「そこをなんとか……実は養女で、とかさ」
どうせお芝居なんだから、なんとかならないかな、と言うシンタローに、グンマは首を傾げる。
「んん……そりゃあ、『実は男でした』ってのよりは衝撃は少ないかもしれないけどさ」
「そうだろ?」
「でも、シンちゃんが世間的に女だって思われてるってことは、変わらないんだよ? 僕は、結局のところ、そこが一番の問題じゃないかと思うんだ。自分勝手なお父様が生きてたころならともかく……こんなこと、いつまでも隠しておけるものじゃないって。一時的に隠せはしても、この先、絶対に綻びができるよ。だから早めになんとかして、シンちゃんが男として、堂々と皆の前に出て、暮らせるようにした方がいいって思うんだ」
「……」
「それに、養女ってことになると、血筋とか、遺産相続とか、どうなるのかなあ……。それに今更、そんな余計に事態をややこしくするようなこと、ルーザー叔父様が許すと思う? とりあえず世間体第一で、シンちゃんに裳着までさせて、一族の者と結婚させるって決めちゃったのに?」
「……ああ、もう、面倒くせえなあ!」
グンマの反論に、シンタローは苛立ったように髪をかき回した。
「……いっそのこと、俺が本当に女だったら良かったのにな」
本当の女だったなら、こんな一族の厄介者ではなく、もっといろいろ役に立つことができたのに、とシンタローはつぶやく。
「……そう言えばさ、シンちゃん」
「ん?」
「シンちゃんって、どうして女の子として育てられたちゃったわけ?」
「……あれ、お前、知らないんだっけ?」
「知らないよ。そんなの全然、聞かされてないもん。シンちゃんが男の子だって初めて知ったのだって、お父様が亡くなったときだよ?」
そもそもの原因を確かめずにいたと言うグンマに、シンタローは唖然とする。
「……その割には、お前、当たり前みたいに受け入れたよな。キンタローなんて、驚きすぎてしばらく音信不通になったのに」
シンタローが感心したように言うと、グンマは首を傾げた。
「だって、シンちゃん、裳着したの遅かったからね……だから、あんまり『女の人』っていう認識がなかったっていうか……。その裳着だって、男だってわかった後にしたわけだし」
この時代、高貴な女性は人前に姿を現すことは決してない。例え兄弟でも、話をするときには間に几帳を立てたり、場合によっては女房に取り次がせたりする。女性の姿を見られる者は、異性では、親や夫、恋人に限られるのだ。
だが、それはあくまで成人した男女に関してのことで、子供にはその禁忌はない。その区別は男ならば元服、女ならば裳着と呼ばれる成人式にある。言うなれば、その成人式を終えていないのなら、いくつになろうが子供のままということで、だれに顔を見られようがかまわない、という理屈が成り立つ。
「これが、もしお父様が存命中で、僕がなにも知らないうちにシンちゃんが裳着をしてさ、昨日まで気軽に顔を見せていたのが急に見られなくなったりしたら、シンちゃんを『女の人になっちゃったんだ』って意識したかもしれないけど。でも実際はそんなことにはならなかったし、裳着を終えた今だって、『どうせ男同士なんだから』って平気で顔突き合わせているわけでしょ? ティラミスとチョコレートロマンスも『どうせ兄弟なんだから』って全然気にしないし。……だから僕としては、そんなに前と変わったことがあるような気がしなくて……」
「……そんなもんなのかな」
「でもまあ、僕の場合、シンちゃんと一緒に暮らしてるからね。キンちゃんとは話が違うよ。キンちゃんはずっと、シンちゃんのことが好きだったんだから」
「……キンタローの趣味も悪いけどよ、奴には本当、可哀想なことしちまったよな……」
いくら女の子として育てられたからと言って、シンタローの中身までがそのように成長したわけではない。むしろ女の子らしからぬがさつな乱暴者で、事情を知らなかった叔父たちに、グンマと中身が入れ代わって生まれれば良かったのにと言わせたくらいだ。
シンタローにしてみれば、そんな女に惚れるなよ、と言いたいところなのだが、事実を知ったときのキンタローの落ち込みようを見てしまえば、そんなことを軽々しく口にするわけにもいかない。
「……それで、結局、シンちゃんはなんで女の子でいることになったわけ?」
昔を思い出して遠い眼をするシンタローを、グンマが引き戻した。
「あ、ああ……その話だったな。……グンマ、お前、俺の母親がすげえ迷信深い人だったってこと、知ってるだろ?」
シンタローの言葉に、グンマは頷く。シンタローの母親は二人が物心つくころにはすでに亡くなっていたが、その奇矯な人となりは数々の昔話からなんとなく聞き知っていた。
「その母さんがさ、俺を産んだとき、お告げがあったって言うんだ」
「お告げ?」
突拍子もない言葉にグンマが驚くと、シンタローも決まり悪そうな顔をした。
「ああ。……なんか胡散臭い感じがするんだけど……とにかくそうだったらしい。俺を女の子として育てなくてはいけないって」
「……ふうん……それで?」
「親父は、最初は信じなかったって言うんだ。どっちかって言うと、そういうの嫌いな方だし」
「うん、そうだね」
「だから、母さんの言うことを無視して普通に育てようとしたらしいんだけど──そのことで、母さんとずいぶん口論になったりもしたらしいんだけど、聞かないでいたら、そのうち母さんが産後の肥立ちが悪くて死んじゃって」
「……」
「親父は、そのことがよっぽど堪えたとかで……。こんなことになるんだったら、母さんの最後の望みくらい、叶えてやればよかったって思って──もしかしてそのお告げのことを無視したから、母さんが死んだんじゃないかとまで思いつめたらしくて。それで──」
「それでシンちゃんのことを、改めて女の子として育てることにしたってわけ?」
「そう、らしい」
「……」
「……」
「……シンちゃんには悪いけどさ、この話にはなんだかすごく、裏があるような気がするんだけど」
「……やっぱり……? 実は、俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて渋い表情をした。
「あの計算高いお父様がだよ? そんな絵物語みたいなこと、すると思う? 絶対なんか戦略立ててたに違いないよ」
「だよな。むしろ、母さんの迷信深さを、かえって利用してそうだよな。母さんの異常な物狂いの半分──いや、三分の二くらいは、親父が捏造して都合のいいように使ったものなんじゃねえの」
もはや故人となった実の親に対し、見も蓋もないことを二人は言う。極端な話、没落貴族の姫と大臣家の子息の恋という、当時有名だった両親の御伽噺のようななれそめに対してすら、身寄りも後ろ盾もない女を妻にして他家の余計な干渉を避けるためだろう、とか、相手の女に恩を着せ、文句を言わせないようにするためだろう、とすら思っていた。
「僕が思うにさ、お父様は、一族に姫がいないことを気にしてたんじゃないかな」
この時代の権力とは、娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませることにある。だが、グンマやシンタローが生まれた当時、天皇家には直系の男子がおらず、女帝による一代限りの皇位継承が続いていた。
「天皇家は男系だから、いくら青の一族が男子に恵まれていて、女帝と結婚できても、その権力は次に続かない。女帝がお隠れになったり、代替わりしちゃえばそこで終わり。それに、女帝擁立は一時的なもので、いつまでも続くわけがない。──でも、一族には天皇に嫁がせるための姫がいない」
「……それで、賭けにでたって?」
「そう。……ええと、ちょっと待って……そのときのことを整理してみると……。シンちゃんが産まれたとき、帝は女性で、青の一族の男性がその伴侶だった」
「そして、天皇家には当分、男子が産まれそうな様子はなかった」
「お父様は、先のことを考えて、今度産まれてくる子──シンちゃんが、女の子であればそれでよし、よしんば男の子でも、女の子として育ててみるべきかどうか、検討し始める。でも、この無茶な計画を実行するにあたり、さすがのお父様にもかなりの躊躇いがあった」
「……その決心がつかないうちに、俺が産まれ、母さんが死ぬ」
「そのときにお父様は決めたのかもしれない。青の一族には女は滅多に産まれない。天皇家にも今は男子の産まれる気配はない。そしてシンちゃんはまだ産まれたばかりで、その性別を知る者はごく限られた者だけだ」
「……それが、どうして俺を女として育てようということになる?」
シンタローの言葉に、グンマは奇妙に悟り済ましたような微笑を浮かべた。
「……結果的には、お父様は賭けに勝った、というべきだろうね……お父様が死んで、全ては無駄になってしまったけど」
「……親父が生きてたら、俺はやがてパプワのとこに入内することになったろうって?」
「そう」
グンマが頷くと、シンタローは不快そうに眉をひそめた。
「……年齢差を考えてみろよ。パプワが元服するころ、俺はどう少なく見積もっても三十にはなってる。それでもか?」
「その年齢差こそが、重要なんじゃないかと僕は思うんだ。パプワくんは赤の一族の血を引いているから、権力を保持し続けるためには、青の一族はどうしても姫を入内させなければならない。シンちゃんは実際は男で、本当ならとうてい入内なんかできっこないんだけど、一方のパプワくんは子供で、入内したからってすぐに男女の関係になるわけじゃない。シンちゃんは入内するんなら女御として遇されるから、人前に姿を現すこともない。それなら信用できる女房さえきっちりそろえておけば、事実は絶対にばれない」
「……最初のうちはそれで誤魔化しても、パプワが大人になったら、どうするんだ?」
「そのときには、シンちゃんの年齢がものを言うんだよ。『もう齢だから、添い伏しはできません』って」
「……それで上手くいくと思うか……?」
「お父様なら平気で口出しもするだろうからね。無理やりにでも思い通りにしただろうね。……もっとも、パプワくんを見てると、さすがのお父様でも難しかったかもなっては、思うけど」
「……その計画が実行に移されなくて、本当に良かったと思うぜ」
もしものことを想像してか、げんなりとしてシンタローは言った。
近い将来、元服と同時に即位することになるだろうパプワは、今はまだ袴着を終えたばかりの子供ではあるが、すでにしてその非凡の才の片鱗を見せ、周囲を驚かせているという。
「……でも、惜しいのは惜しいんだよな。パプワの次はコタローが帝位に就くんだろ? 俺が入内できたんなら、それまでの橋渡しにもなったのに」
「それはもう、言ってもしょうがないね……ルーザー叔父様にはたぶん、そんな度胸はないよ」
「あの人、頭はいいんだけどなあ」
「お父様の死も、突然のことだったからね。今は一族を取りまとめるので、一杯一杯なんじゃないの。だからシンちゃんのことも、一族内でこっそり片付けちゃうことに決めたんじゃないかと思う。叔父様らしからぬ胆略的な考えだったよね。上手くすれば、赤の一族との均衡を保つのに使えたのにさ」
「……グンマ……お前って」
「赤の一族で、シンちゃんに言い寄ってるやつ、いたよね。ナントカっての。あいつ馬鹿っぽいから、上手く言いくるめてシンちゃんと結婚させちゃえばさ、赤の一族との伝手もできて、いろいろ便利だったのに。ねえ?」
「……俺は時々、お前が一番当主に向いてるんじゃないかと思うときがあるよ……」
親父そっくり、とシンタローが呟くと、いやだなあ、とグンマは顔をしかめる。
「僕は権力なんてものに興味はないよ。あんなののどこが面白いのか、ちっともわからないもの」
「……いいよ、お前は別に、そのままで……。好きな学問でもやっててくれよ。その方が平和だから」
シンタローが投げやりに言うと、その意味を理解しているのかいないのか、グンマは柔らかく微笑んだ。
「そうだね。早くいろんなことが落ち着いて、前みたいに皆でのんびりすごせるようになるといいのにね」
お父様がいなくなってからこっち、つまらない人付き合いばかりが増えて、すごく面倒なんだ、とぼやくグンマには、栄華の頂点にある一族の面影は、ほとんどない。
自分たち兄弟は、結局父親のようには、父親の望んだようにはなれなかったな、とシンタローは思う。二人を溺愛していたマジックが、そのところを実際にどう思っていたのかは、もはや知りようがないのだけれども。
とはいえ、一族のこれ以上の繁栄は望まずとも、その凋落を招きたくないのは二人とも同じだった。叔父たちや従兄弟が悩み苦しむ姿など見たくもないし、それ以上に何百人といる使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、それを防ぐ手立てがあるのだろうか、と思うと、シンタローは押し黙るしかなかった。ルーザーのするように、自分が一族の誰かと結婚して済む問題ではない分、不安は余計に募る。
いつの間にか、世間話や中断している学問の話をし始めているグンマに適当に相槌を打ちながら、先の見えぬ現状に対し、シンタローはこっそりとため息をついた。
異母兄の声に、転寝していたシンタローは、もたれかかっていた脇息からはじかれたように身を起こした。未だ開ききらない視界に、几帳をめくって顔を覗かせたグンマの、呆れたような表情がぼんやりと映る。
「誰もいないの? シンちゃん、無用心すぎるよ! こないだ、伊達衆のナントカってのに襲われたばっかりなのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。この俺が昼間っからそう簡単に襲われるかってんだ」
起き抜けに嫌なことを聞いた、と蘇芳の小袿を着崩したシンタローは欠伸を噛み殺しながら言う。一方、内裏から下がってきたばかりなのか、未だ深緋の束帯姿のグンマは、「わかってないな」と言いたげにため息をついた。
「本当だったら、女の人ってことになってるシンちゃんの部屋に、僕だってこんなふうに入ってきちゃいけないのに……取次ぎどころか、女房の一人もいないなんて。──ティラミスとチョコレートロマンスはどうしたのさ?」
グンマの小言に、シンタローは億劫そうに返す。
「お前は特別だろ。兄弟なんだから、水臭いこと言うなよ。……ティラとチョコは、こないだその、アラシヤマが入ってきた築地の崩れを直しに行ってる」
「そんなこと……僕に言ってくれれば、仕丁の一人や二人、すぐ貸したのに」
不満そうなグンマに、シンタローは肩をすくめた。
「俺がやれって言ったんだよ。まあ、こっちに不用意に他人を近寄らせたくないってのもあるが……いろいろばれると面倒だからな。別に俺は一人でも大丈夫だし、それにあいつらだって、たまには『自分は男だ』って、実感したいんじゃねえかと思ってさ。──ちゃんと狩衣を着て、力仕事してってな。俺が言うのもなんだけど、親父の馬鹿な遺志のせいで、女装して、自分が男だってばれないように、それこそ女みたいに屋敷に閉じこもる生活させられてるんだぜ? 女房装束を着せられてるってだけでも恥なのに、なんにも知らない奴らにちょっかいかけられたり、言い寄られたりまでして……男としての面目なんて、あったもんじゃねえ。たまには開放してやらないと、おかしくなっちまうだろ?」
「シンちゃん……」
表情を曇らせるグンマに、シンタローは苦笑する。
「そんな顔すんなよ。しょうがねえだろ。親父が娘だって吹聴してた俺が実は男だ、なんて今さら知られるわけにはいかねえんだから。巻き込んじまったティラミスとチョコレートロマンスには悪いが、こういう秘密は、人が関わるほど漏れやすくなるからな。……とりあえず、一族の権力基盤が落ち着くまで、なんとか我慢してやってもらうさ。ルーザー叔父さんやコタローの不利になるようなことは、したくねえからな」
「だけど……本当にいいの? シンちゃんは、それで?」
勧められた茵にふてくされたように座るグンマを無視して、シンタローは手渡された文箱を覗き込んだ。マジック亡き今、屋敷の主であるグンマがわざわざ文使いのようなまねをすることもないのだが、シンタロー側の事情が事情で、本来ならば大勢いるはずの女房も信用できる者を厳選して数を極端に制限しているため、なにか間違いがあってはいけないと、直々に出向いてきたものらしかった。
「……オッサン、また来るのか」
文箱の中に不似合いな酒壺を見つけ、シンタローが忌々しそうに言う。
「うん。僕のところにも別に文が来たよ。月見酒だって」
酒好きのハーレム叔父が、月見にかこつけてグンマとシンタローの住む二条院にやってくるようになったのは、三ヶ月ほど前からのことだ。
それは、二人の父であるマジックの喪が明け、改めて一族の長の座に就いたルーザーの意向で、血族の誰かとシンタローを娶わせることが決まった矢先の出来事だった。都の口さがない野次馬たちは、絶大な権勢を振るったマジック亡き後、さっそく高貴なる一族の権力闘争が始まったのかと、興味津々でハーレムの動向に注目した。マジック最愛の娘を娶るということは、すなわち、マジックの持っていた力の全てを受け継ぐということを意味したからだ。シンタローを男と知る者はごく近い血縁の者と、シンタローの傍近く仕える二人の従者に限られており、マジックの生前からその周囲に近づくものは厳しく制限されていたため、当の二条院に仕える者にとってすら、シンタローは実在するのかどうかさえ定かではない、謎めいた深窓の姫君であった。シンタローが誰と結ばれるかによって、主であるグンマの行く末も変わりかねないと、都中の誰よりも二条院の使用人たちこそが、この訪問のもたらす結末について、固唾を呑んで見守っていたのだ。──その青の一族自体が、当初からこの茶番劇にいささかうんざりしていたことも知らずに。
だが、渦中の人物の一人であるシンタローはと言えば、自分の素性を知っているはずの叔父が、微妙な時期に微妙な行動に出たために、その真意を測りかねて右往左往していた。
常に行動が型破りでとらえどころのない叔父のすることである。単純に酒を飲みに来ただけなのかもしれないが、なにか別の考えがないとも言い切れない。ルーザーとハーレムの関係が良好とはいえないものであることも周知の事実だったから、今回の決定に対して、なにか一悶着起こすつもりではないかとも思われた。
とにかく相手はなにをするかわからない酔っ払いだ。用心するに越したことはないとの結論に達し、ティラミスとチョコレートロマンスを見張り役に、シンタロー自身はこんなときのためにあらかじめ立てこもりやすいように改造しておいた塗籠に身を隠したのだった。
しかし、それはただの杞憂だったと言うべきか──結局のところ、酒宴で酔いつぶれたハーレムが、シンタローのところにやってくることはなかった。
都一の酒豪と評されるハーレムが酔いつぶれるなど、考えられないことだったが、もしかしたらグンマか、グンマの後見役の高松が、気を利かせてなにか薬を盛ったのかもしれないと、シンタローは勘繰っていた。──あえて確認はしていないので、真相は謎のままだが。
拍子抜けするような思わぬ結末のおかげで、奇妙な緊張感をはらみつつも、日常は今までと一見変わりなく続いていくかのように思われた。最初のハーレムの行動が印象的だったせいか、その後の叔父や従兄弟との手紙のやりとりなどは、取り立てて人目を引きもしなかったのだ。──ただ、なにもなかったことの代わりのように、シンタローの心に奇妙なしこりが残ったこと以外は。
……あえて言うならば、それは、さんざん思い悩ませられておいて、結局は肩透かしを食らったことへの、恥ずかしさや苛立ちといったものであろうか。
別にハーレムの方でなにかはっきりしたことを言ってきたわけでも、二人の間に暗黙の了解があったわけでもなく、シンタローが一方的に心配して気をもんだだけのことで、逆恨みと言われればそうなのだが、だからといって簡単に納得して気持ちを収められるわけでもなかった。
少なくとも、シンタローにしてみれば、あんなろくでなしの叔父に対して、少しでも期待めいたものをかけてしまった自分が許せないのである。この先の見えないうんざりするような状況を、あの叔父ならなんとかしてくれるのではないかとかすかな望みを抱いて裏切られた、その八つ当たりも兼ねて、あのときのことをずっと根に持っていたのだ。
「ハーレム叔父様、よく来るよね。この前遊びに来てから、まだ三日もたってないんじゃない?」
三ヶ月前の酒宴以降、ハーレムは頻繁に二条院を訪れるようになったが、毎回飲んで騒いで帰るだけである。警戒することがかえって馬鹿らしいと思えるほどに、ハーレムはシンタローのことを気にしていないように見えた。
「……どうせ、酒目当てなんだろ。でなきゃ、俺の財産目当てか。……一体何回月見するつもりなんだろうな、あのオヤジは」
今日は新月だっつうの、とシンタローは悪態をつく。
この時代、親の財産は娘が相続するというのが普通であった。ゆえに、生前、位人臣を極めたマジックの莫大な財産も、長男のグンマではなく、世間的に一人娘ということになっていたシンタローが全て受け継いでいる。ルーザーがシンタローを一族の者と娶わせようとするのも、実は男であるという秘密もさることながら、この莫大な財産を他の者の手に渡したくないという思惑ゆえでもあるのだ。
「サービス叔父様とキンちゃんからも手紙来てるからね。忘れずにちゃんとお返事書いてよ? あと一応こっちの二人にもね」
榊と松の枝にそれぞれ結び付けられた文を見て、シンタローは呆れたようにため息をつく。
「……あいつらもよく懲りないよな……」
おそらく榊が有力貴族の一人であるアラシヤマのもので、松が青の一族と同等の勢力を持つ赤の一族の一人、リキッドのものなのだろう。
この二人、いつどこでどうシンタローを垣間見たのか知らないが、もうずいぶんと前から言い寄っていて、未だに諦めるということを知らない。シンタローを溺愛して、言い寄る者たちを秘かに闇に葬っていたとされるマジックが、絶大な権力を誇っていたころから生き延びているのだ。代替わりして未だ権力を掌握しきれていないルーザーが一族との婚姻を決めた程度で、引き下がるはずもなかった。
「こっちの二人のは、適当でいいから、今すぐ書いてくれるかな? あとで高松が害虫撃退の薬をふりかけて送るから、先に欲しいんだって」
「……あ、そう……」
明日の二人の惨状を思うと今から気が遠くなるシンタローだったが、ここで情けをかけてもさらに泥沼化するだけである。なるべく二人のことは考えないようにして、手近な紙にどうとでもとれるような曖昧な歌を書きつけ、さっさとグンマに渡した。
「サービス叔父様とキンちゃんのは、また後ででいいから。ティラミスかチョコレートロマンスに持たせてよこしてね」
「……オッサンのはいいのかよ」
「ハーレム叔父様には、今夜の宴のこともあるから、僕の方から出しておくよ。シンちゃんは、前のときに返事書いたばっかりだから、今回はいいんじゃないかな?」
頻繁に返事を書いて、こちらが気のあるような素振りをするのもどうかとグンマは言う。
「別に、ハーレム叔父様に対してどうこうっていうんじゃなくてさ……。どうせ、これは全部世間の目を欺くお芝居なんだから、変に野次馬を喜ばせるようなことするのも、癪だなって思わない?」
「……そうだな……」
シンタローはため息をつきながら、サービスの手紙を取る。
「うちの馬鹿親父のせいでサービス叔父さんにもいらん迷惑かけちまって、本当申し訳ないよな……」
サービスの手紙は、一応恋文の体裁を取ってはいるものの、中身はこちらの様子を心配し、気遣うような内容のものだ。
マジックの死後、信頼していた長兄が堂々と隠していたとんでもない事実が明るみに出、ひどく驚き、動揺もしただろうに、シンタローのため、なにくれとなく心を砕いてくれるサービスを思うと、自分の置かれたこの異常な状況のことなど、実に些細なことであるかのように感じられてしまう。
ルーザーは、懇意にしている弟のサービスや、自分の息子であるキンタローとの婚姻を望んでいるようではあるが、シンタローは、少なくともサービスにはこれ以上の心労はかけられないと考えていた。
「……あの繊細な叔父さんに、俺と結婚してくださいなんて言えるわけねえだろ……」
「そんなこと気にしないで言うだけ言ってみたら? サービス叔父様も、意外とまんざらでもないかもよ?」
「……いや、あの美貌の叔父様の御尊顔が連日傍近くにあったりしたら、俺の神経が持たない」
「じゃあ、キンちゃんにするの?」
「……キンタローねえ……」
シンタローは、それぞれが季節の植物に結び付けられた恋文とは違う、いやに慇懃な雰囲気の立て文を手に取った。
立て文とは、手紙を礼紙で縦に包んだもので、正式な文書という面がある一方、恋文であることを隠す場合などにも使われる。だが、キンタローがシンタローに恋文をこっそり送る必要はない──むしろこの状況では、その方がおかしい──わけで、キンタローの性格から察するに、正式な結婚の申し込みの手紙という考えからの立て文なのだろうが、この場合のそれは、かえってよそよそしい態度と思われかねなかった。──言うなれば、シンタローと結婚などしたくないのだが、世間体もあるし父親にも言われたので、とりあえず形だけ手紙を出してみる、というような。
手紙の内容も、使っているのは恋文に使われる仮名ではなく真名で、これは公文書かと勘違いしそうな硬い文章が続く。これを仮に普通の女性に出すのだとしたら、十中八九、最初の手紙で断られるのがオチだ。
「……なあ、キンタローは、なにを考えてこの手紙を書いてんだろうな……?」
「ああ、キンちゃんはね、一族の義務とか責任とか背負い込んだ気になってんじゃないの? シンちゃんが本当は男だって知ったときと、それなのに女の子の成人式である裳着をするって聞かされたとき、すごくびっくりして落ち込んでたもん。大好きなシンちゃんが大変なことになってるから、自分がなんとかしなきゃ、って思っちゃったんじゃない。ルーザー叔父様もいろいろ発破かけてるみたいだしさ」
「……それはそれで気が重いな……」
一族の者との婚姻が一番無難なのはわかっているのだが、どの相手も一長一短で決め手に欠ける。
「いっそのこと、ルーザー叔父様と結婚しちゃえば? そもそも言い出したのが叔父様なんだしさ。そうすれば、シンちゃんが受け継いだお父様の財産もルーザー叔父様のものになって、当主としての基盤も磐石になるだろうし、ちょうどいいんじゃない?」
「……そうすっと、俺がキンタローの義理の母親で、なおかつお前の義理の叔母になるんだぞ? オッサンや叔父さんと義理の姉弟ってことになるんだぞ!?」
それでいいのかよ、とシンタローはグンマを睨む。
「……んん、僕や叔父様たちはともかく、キンちゃんは承知しないだろうね」
「そうだろう?……それよかむしろ、俺としてはお前と結婚するのが一番手っ取り早いんじゃないかと思ったりもするんだけどな──」
思っても見なかった申し出に、グンマは驚いて目を見張った。
「ええ? 僕と!? だって僕たち、兄弟だよ?」
「だからかえって気安いんだよ。要するに、俺が男だって世間にばれなくて、親父の遺産も他所に渡らなけりゃいいんだろ? だったら親父の長男で、ずっと一緒に暮らしてたお前が一番の適任じゃないかよ。他の血縁の奴らとだと、遺産はともかく、どうしたって人の出入りが激しくなって、秘密を守るのも難しくなりそうだし──それにお前なら、ルーザー叔父さんの信用もなぜかあるし、一応後見人の高松もいるしな」
いざとなれば、気心の知れた使用人も含め、大きな力になるだろうと言うシンタローに、グンマは難しい顔で考え込んだ。
「……でも、兄弟──世間的には兄妹か──ってのを、どう言い訳するのさ?」
「そこをなんとか……実は養女で、とかさ」
どうせお芝居なんだから、なんとかならないかな、と言うシンタローに、グンマは首を傾げる。
「んん……そりゃあ、『実は男でした』ってのよりは衝撃は少ないかもしれないけどさ」
「そうだろ?」
「でも、シンちゃんが世間的に女だって思われてるってことは、変わらないんだよ? 僕は、結局のところ、そこが一番の問題じゃないかと思うんだ。自分勝手なお父様が生きてたころならともかく……こんなこと、いつまでも隠しておけるものじゃないって。一時的に隠せはしても、この先、絶対に綻びができるよ。だから早めになんとかして、シンちゃんが男として、堂々と皆の前に出て、暮らせるようにした方がいいって思うんだ」
「……」
「それに、養女ってことになると、血筋とか、遺産相続とか、どうなるのかなあ……。それに今更、そんな余計に事態をややこしくするようなこと、ルーザー叔父様が許すと思う? とりあえず世間体第一で、シンちゃんに裳着までさせて、一族の者と結婚させるって決めちゃったのに?」
「……ああ、もう、面倒くせえなあ!」
グンマの反論に、シンタローは苛立ったように髪をかき回した。
「……いっそのこと、俺が本当に女だったら良かったのにな」
本当の女だったなら、こんな一族の厄介者ではなく、もっといろいろ役に立つことができたのに、とシンタローはつぶやく。
「……そう言えばさ、シンちゃん」
「ん?」
「シンちゃんって、どうして女の子として育てられたちゃったわけ?」
「……あれ、お前、知らないんだっけ?」
「知らないよ。そんなの全然、聞かされてないもん。シンちゃんが男の子だって初めて知ったのだって、お父様が亡くなったときだよ?」
そもそもの原因を確かめずにいたと言うグンマに、シンタローは唖然とする。
「……その割には、お前、当たり前みたいに受け入れたよな。キンタローなんて、驚きすぎてしばらく音信不通になったのに」
シンタローが感心したように言うと、グンマは首を傾げた。
「だって、シンちゃん、裳着したの遅かったからね……だから、あんまり『女の人』っていう認識がなかったっていうか……。その裳着だって、男だってわかった後にしたわけだし」
この時代、高貴な女性は人前に姿を現すことは決してない。例え兄弟でも、話をするときには間に几帳を立てたり、場合によっては女房に取り次がせたりする。女性の姿を見られる者は、異性では、親や夫、恋人に限られるのだ。
だが、それはあくまで成人した男女に関してのことで、子供にはその禁忌はない。その区別は男ならば元服、女ならば裳着と呼ばれる成人式にある。言うなれば、その成人式を終えていないのなら、いくつになろうが子供のままということで、だれに顔を見られようがかまわない、という理屈が成り立つ。
「これが、もしお父様が存命中で、僕がなにも知らないうちにシンちゃんが裳着をしてさ、昨日まで気軽に顔を見せていたのが急に見られなくなったりしたら、シンちゃんを『女の人になっちゃったんだ』って意識したかもしれないけど。でも実際はそんなことにはならなかったし、裳着を終えた今だって、『どうせ男同士なんだから』って平気で顔突き合わせているわけでしょ? ティラミスとチョコレートロマンスも『どうせ兄弟なんだから』って全然気にしないし。……だから僕としては、そんなに前と変わったことがあるような気がしなくて……」
「……そんなもんなのかな」
「でもまあ、僕の場合、シンちゃんと一緒に暮らしてるからね。キンちゃんとは話が違うよ。キンちゃんはずっと、シンちゃんのことが好きだったんだから」
「……キンタローの趣味も悪いけどよ、奴には本当、可哀想なことしちまったよな……」
いくら女の子として育てられたからと言って、シンタローの中身までがそのように成長したわけではない。むしろ女の子らしからぬがさつな乱暴者で、事情を知らなかった叔父たちに、グンマと中身が入れ代わって生まれれば良かったのにと言わせたくらいだ。
シンタローにしてみれば、そんな女に惚れるなよ、と言いたいところなのだが、事実を知ったときのキンタローの落ち込みようを見てしまえば、そんなことを軽々しく口にするわけにもいかない。
「……それで、結局、シンちゃんはなんで女の子でいることになったわけ?」
昔を思い出して遠い眼をするシンタローを、グンマが引き戻した。
「あ、ああ……その話だったな。……グンマ、お前、俺の母親がすげえ迷信深い人だったってこと、知ってるだろ?」
シンタローの言葉に、グンマは頷く。シンタローの母親は二人が物心つくころにはすでに亡くなっていたが、その奇矯な人となりは数々の昔話からなんとなく聞き知っていた。
「その母さんがさ、俺を産んだとき、お告げがあったって言うんだ」
「お告げ?」
突拍子もない言葉にグンマが驚くと、シンタローも決まり悪そうな顔をした。
「ああ。……なんか胡散臭い感じがするんだけど……とにかくそうだったらしい。俺を女の子として育てなくてはいけないって」
「……ふうん……それで?」
「親父は、最初は信じなかったって言うんだ。どっちかって言うと、そういうの嫌いな方だし」
「うん、そうだね」
「だから、母さんの言うことを無視して普通に育てようとしたらしいんだけど──そのことで、母さんとずいぶん口論になったりもしたらしいんだけど、聞かないでいたら、そのうち母さんが産後の肥立ちが悪くて死んじゃって」
「……」
「親父は、そのことがよっぽど堪えたとかで……。こんなことになるんだったら、母さんの最後の望みくらい、叶えてやればよかったって思って──もしかしてそのお告げのことを無視したから、母さんが死んだんじゃないかとまで思いつめたらしくて。それで──」
「それでシンちゃんのことを、改めて女の子として育てることにしたってわけ?」
「そう、らしい」
「……」
「……」
「……シンちゃんには悪いけどさ、この話にはなんだかすごく、裏があるような気がするんだけど」
「……やっぱり……? 実は、俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて渋い表情をした。
「あの計算高いお父様がだよ? そんな絵物語みたいなこと、すると思う? 絶対なんか戦略立ててたに違いないよ」
「だよな。むしろ、母さんの迷信深さを、かえって利用してそうだよな。母さんの異常な物狂いの半分──いや、三分の二くらいは、親父が捏造して都合のいいように使ったものなんじゃねえの」
もはや故人となった実の親に対し、見も蓋もないことを二人は言う。極端な話、没落貴族の姫と大臣家の子息の恋という、当時有名だった両親の御伽噺のようななれそめに対してすら、身寄りも後ろ盾もない女を妻にして他家の余計な干渉を避けるためだろう、とか、相手の女に恩を着せ、文句を言わせないようにするためだろう、とすら思っていた。
「僕が思うにさ、お父様は、一族に姫がいないことを気にしてたんじゃないかな」
この時代の権力とは、娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませることにある。だが、グンマやシンタローが生まれた当時、天皇家には直系の男子がおらず、女帝による一代限りの皇位継承が続いていた。
「天皇家は男系だから、いくら青の一族が男子に恵まれていて、女帝と結婚できても、その権力は次に続かない。女帝がお隠れになったり、代替わりしちゃえばそこで終わり。それに、女帝擁立は一時的なもので、いつまでも続くわけがない。──でも、一族には天皇に嫁がせるための姫がいない」
「……それで、賭けにでたって?」
「そう。……ええと、ちょっと待って……そのときのことを整理してみると……。シンちゃんが産まれたとき、帝は女性で、青の一族の男性がその伴侶だった」
「そして、天皇家には当分、男子が産まれそうな様子はなかった」
「お父様は、先のことを考えて、今度産まれてくる子──シンちゃんが、女の子であればそれでよし、よしんば男の子でも、女の子として育ててみるべきかどうか、検討し始める。でも、この無茶な計画を実行するにあたり、さすがのお父様にもかなりの躊躇いがあった」
「……その決心がつかないうちに、俺が産まれ、母さんが死ぬ」
「そのときにお父様は決めたのかもしれない。青の一族には女は滅多に産まれない。天皇家にも今は男子の産まれる気配はない。そしてシンちゃんはまだ産まれたばかりで、その性別を知る者はごく限られた者だけだ」
「……それが、どうして俺を女として育てようということになる?」
シンタローの言葉に、グンマは奇妙に悟り済ましたような微笑を浮かべた。
「……結果的には、お父様は賭けに勝った、というべきだろうね……お父様が死んで、全ては無駄になってしまったけど」
「……親父が生きてたら、俺はやがてパプワのとこに入内することになったろうって?」
「そう」
グンマが頷くと、シンタローは不快そうに眉をひそめた。
「……年齢差を考えてみろよ。パプワが元服するころ、俺はどう少なく見積もっても三十にはなってる。それでもか?」
「その年齢差こそが、重要なんじゃないかと僕は思うんだ。パプワくんは赤の一族の血を引いているから、権力を保持し続けるためには、青の一族はどうしても姫を入内させなければならない。シンちゃんは実際は男で、本当ならとうてい入内なんかできっこないんだけど、一方のパプワくんは子供で、入内したからってすぐに男女の関係になるわけじゃない。シンちゃんは入内するんなら女御として遇されるから、人前に姿を現すこともない。それなら信用できる女房さえきっちりそろえておけば、事実は絶対にばれない」
「……最初のうちはそれで誤魔化しても、パプワが大人になったら、どうするんだ?」
「そのときには、シンちゃんの年齢がものを言うんだよ。『もう齢だから、添い伏しはできません』って」
「……それで上手くいくと思うか……?」
「お父様なら平気で口出しもするだろうからね。無理やりにでも思い通りにしただろうね。……もっとも、パプワくんを見てると、さすがのお父様でも難しかったかもなっては、思うけど」
「……その計画が実行に移されなくて、本当に良かったと思うぜ」
もしものことを想像してか、げんなりとしてシンタローは言った。
近い将来、元服と同時に即位することになるだろうパプワは、今はまだ袴着を終えたばかりの子供ではあるが、すでにしてその非凡の才の片鱗を見せ、周囲を驚かせているという。
「……でも、惜しいのは惜しいんだよな。パプワの次はコタローが帝位に就くんだろ? 俺が入内できたんなら、それまでの橋渡しにもなったのに」
「それはもう、言ってもしょうがないね……ルーザー叔父様にはたぶん、そんな度胸はないよ」
「あの人、頭はいいんだけどなあ」
「お父様の死も、突然のことだったからね。今は一族を取りまとめるので、一杯一杯なんじゃないの。だからシンちゃんのことも、一族内でこっそり片付けちゃうことに決めたんじゃないかと思う。叔父様らしからぬ胆略的な考えだったよね。上手くすれば、赤の一族との均衡を保つのに使えたのにさ」
「……グンマ……お前って」
「赤の一族で、シンちゃんに言い寄ってるやつ、いたよね。ナントカっての。あいつ馬鹿っぽいから、上手く言いくるめてシンちゃんと結婚させちゃえばさ、赤の一族との伝手もできて、いろいろ便利だったのに。ねえ?」
「……俺は時々、お前が一番当主に向いてるんじゃないかと思うときがあるよ……」
親父そっくり、とシンタローが呟くと、いやだなあ、とグンマは顔をしかめる。
「僕は権力なんてものに興味はないよ。あんなののどこが面白いのか、ちっともわからないもの」
「……いいよ、お前は別に、そのままで……。好きな学問でもやっててくれよ。その方が平和だから」
シンタローが投げやりに言うと、その意味を理解しているのかいないのか、グンマは柔らかく微笑んだ。
「そうだね。早くいろんなことが落ち着いて、前みたいに皆でのんびりすごせるようになるといいのにね」
お父様がいなくなってからこっち、つまらない人付き合いばかりが増えて、すごく面倒なんだ、とぼやくグンマには、栄華の頂点にある一族の面影は、ほとんどない。
自分たち兄弟は、結局父親のようには、父親の望んだようにはなれなかったな、とシンタローは思う。二人を溺愛していたマジックが、そのところを実際にどう思っていたのかは、もはや知りようがないのだけれども。
とはいえ、一族のこれ以上の繁栄は望まずとも、その凋落を招きたくないのは二人とも同じだった。叔父たちや従兄弟が悩み苦しむ姿など見たくもないし、それ以上に何百人といる使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、それを防ぐ手立てがあるのだろうか、と思うと、シンタローは押し黙るしかなかった。ルーザーのするように、自分が一族の誰かと結婚して済む問題ではない分、不安は余計に募る。
いつの間にか、世間話や中断している学問の話をし始めているグンマに適当に相槌を打ちながら、先の見えぬ現状に対し、シンタローはこっそりとため息をついた。
四角く切り取られた空に白い煙
略奪達の宴はようやく終わり、新たな日が空に昇る
美しかった港町に大きな傷跡を残してー
~Die Lorelei 4~
「おい!わんこう!こっちだ!こっちにこいっての!」
ハーレムが牢屋に入れられ、はや1日が過ぎようとしていた。
急がなければならない、残された時間はわずかしかないのだからー
「ほ~らほら、うまそうな骨だろ?たのむからこいよ~」
いったいどこに持っていたのか、骨を片手に首から鍵を下げた茶色い犬に必死で訴えかけている。
街を襲う攻撃の音は今も聞こえている、だがー
(襲撃が始まってかれこれ・・・2・3時間くらいか?そろそろ潮時だぞ・・・)
明日には刑を執行すると言っていた。
そこにこの襲撃さわぎ、逃げるなら今しかない。
しかし、一向に犬はこちらに近づこうともしない。
「えぇい!ちくしょーめ!出たら絶対にお前を丸焼きにして食ってやっからな!」
ついにやけくそ気味にそう叫ぶと、ハーレムはこれまたどこに持っていたのか煙草を取り出し鉄格子に背を向け寄りかかると燻らせ始める。
騒がしい宴は終わり、静かに夜が明けようとしていた。
+++++
「やられたな・・・完全に俺達の負けだ。」
焼き切れた沢山のロープを目にキンタローは苦々しげに呟いた。
「う~ん、ちょっと甘く見てたかな?」
同じ光景を目にしながらもグンマはのんびりと答えた。
そこは街の中心近くにある広場。
昨夜の傷跡が最も多く残っているであろう場所だった。
「手足を拘束してこの場に捉えていたはずなのだが・・・」
眉間に深いしわを刻みながらキンタローは考えを巡らせる。
いくら”頑丈”といえど手足の自由を奪い襲撃の中心であったこの場に捉えていたのだ。
なのにー
「よっぽど彼らは頑丈だったってことだねぇ~」
グンマはのほほんとそんな事を言った。
「・・・これからどう動くつもりだ?」
「そうだね~、まずは・・・情報を整理しなくちゃ・ねv」
茶目っ気たっぷりに笑うグンマにキンタローはやれやれと言った顔で応じる。
「グンマ様、キンタロー様!」
そんな2人の後ろに伊達衆の1人、ミヤギが走ってきた。
「た・大変なことになったべ!シ・シンタロー様が・・・!」
笑っていたグンマの顔は驚きに変わっていった。
+++++
清潔に保たれた白いシーツ、ふかふかのベッドー
枕元にはお気に入りのぬいぐるみー
窓から入るさわやかな海風と鳥達が鳴き交わす声ー
ダイニングに準備されている朝食のクロワッサンとカフェオレの香りー
次第に浮上する意識に、しかしいつもと同じ朝の感覚はなかった。
ごつごつで生暖かい感触ー
顔のあたりにかかるこれまた生暖かい風ー
閉め切られているのか、ほこりっぽいこもった空気ー
何かが焦げたようなすすけた匂いと・・・これはー
「・・・加齢臭?」
いつもと違う感覚に訝しみながら、意識を浮上させると目の前にはー
「・・・失礼ですね、まだ若いですよ私」
「うっぎゃぁあああああ!!!!」
鼻血をたらした高松がいた。
「へ・変態!いくら僕が可愛いからって、こんな暗がりにつれこんで何するつもりだったの?!」
「は?私は何も・・・」
「うるさいよ!訴えるよ!勝つよ!その鼻血がなによりの証拠だよ!」
「いえ、これは・・・シンタロー様に無理矢理押し込まれた時に顔を打っただけで・・・」
「僕のお兄ちゃんがそんなことするわけないだろ!この嘘つき!変態医者!」
狭い物置部屋で暫し言い争う(主にコタローが)2人だったが、ふいに上から声が聞こえてきた。
「シンタロー!おい!いるなら返事をしろ!」
「シンちゃんっ!・・・コタローちゃん!いるなら返事してぇ!」
「!グンマお兄ちゃん達だ!」
身内がきた事に安堵したのかコタローが嬉しそうに声を上げた。
「・・・そのようですね、助けを乞いましょう」
「一応言っとくけど、さっきの事はちゃぁんと言いつけてやるんだからね!」
「あぁもう、好きになさって下さい・・・」
程なくして2人のいる地下の物置部屋に光が差し込んだ。
+++++
「じゃぁ・・・シンちゃんが2人を物置部屋に閉じ込めたって言うんだね?高松」
詳しい事情を聞く為に移動した本部の一室。
「申し訳ありません、・・・私にはとめることができませんでした」
「相手はシンちゃんだからね、止められなかったのは・・・まぁ、しかたないよ」
俯く高松にグンマは責めるでもなくそう言った。
「しかし、困った事にはなったな・・・」
責めているつもりはないのだろうがキンタローが重々しく呟いた。
「一体どういう経緯でそうなったのかは不明だが、シンタローが海賊に連れ去られたという報告が上がっている」
「!お兄ちゃんが?!何で?!」
キンタローの言葉にそれまでの話に入れないでいたコタローが反応した。
「高松、シンちゃんは2人を閉じ込めたとき何か言ってなかった?」
「・・・コタロー様を頼む、とそれだけ」
床に視線を落としたまま高松がそう答えた。
「そう・・・わかった」
グンマは高松からキンタローに視線を移すと、心得たようにキンタローは部屋から出て行く。
「お兄ちゃん・・・」
自分の身を案じてくれた兄を想い、今にもコタローは泣きそうな声で呟いた。
つづく
◇あとのあがき◇
パイレー○オブカリビアンを元にした長編パラレル4話目。
シンちゃんとパパを絡ませ・出したかったのに・・・
今回まるで出番なしです(爆)
しかも、今までの中でも1番文短いし(滝汗)
いや、言い訳さしてもらえるならちょっとキリが悪かったんもんで・・・
ここで切らないとだらだら長くなりそうだったんです
そして、毎度の事ですが文章おかしいです
つうか、書く度に表現かわってる気が・・・(汗)
誤字・脱字なんかを発見された方っ!教えて頂けるとありがたいです
2007.09.11
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