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バラ色の日々(3)

「おはよー、アラシヤマ」
「オーッス、アラシヤマ」
「あ!アラシヤマ君、おはよう」


「……おはようさんどす…」


寮から校舎に向かう5分の坂道。

聖サザンの学生達が、とぼとぼ歩くアラシヤマをどんどんと追い越して行く。

秋らしい晴天の朝にも関わらず、アラシヤマの足どりは重かった。

「何ダラダラ歩ってんだョ、アラシヤマ」

頭を軽く小突かれて振り向くと、パンを片手にシンタローが立っていた。

「…シンタローはん…、あんたさんのせいどすえ…」

アラシヤマは怨みのこもった目でシンタローを睨みつけた。

「ああん?挨拶されるようになって、何が不満だっつーんだョ」

ドスの効いた声で睨み返される。

「………ここの生徒はみんな性格が悪いどすわ…」

アラシヤマは小さく溜息をついた。


* * * * *


先週の生徒会選挙以降、アラシヤマは一気に学園内の有名人になっていた。

今では、アラシヤマに声を掛けることは、学園の流行ですらある。

もっとも、原因を作ったのはアラシヤマ自身だった。


生徒会選挙当日。

アラシヤマは緊張の余り、目の焦点が合わなくなりながらも、シンタローに支えられて、なんとかステージに立った。

緊張のあまりに全身の筋肉がこわばっているのか、ギクシャクと動くアラシヤマはまるで腹話術の人形のようだった。

その時点で既に失笑が沸き上がっていたが、体育館に響くざわついた笑い声が、アラシヤマの緊張にさらに追い撃ちをかけた。

『…あ…っ、わ…、わっ………わ…っ…』

マイクに通るのはアワアワした声だけで、言葉らしい言葉にならない。

5分ばかりもそんな状態が続いたあと、

『………』

とうとうアラシヤマは一言も喋らなくなった。

おかしいと思ったシンタローがアラシヤマの顔を覗き込むと…

アラシヤマは白目を剥いて立ったまま失神していた。

その場はシンタローが上手くフォローしたため、アラシヤマもシンタローも無事当選したが、アラシヤマには『気絶王子』という、不名誉なあだ名が残ってしまった。

ちなみにフォローに立ったシンタローの台詞はこうだった。

「諸君、ご覧のとーり、このアラシヤマという男はネクラで友達も無く、人との会話経験自体が乏しい男だ。
けれど、そんなアラシヤマ君すらも受け入れるのがこの学園の紳士たちであると思う」

かくして、『アラシヤマおはよー運動』が始まったのだった。


* * * * *


「おーす」
「…おはようさんどす」

アラシヤマとシンタローが教室に着くと、金髪メッシュの少年が二人を待っていた。

「あ、来た!シンタローさん、アラシヤマさん、オハヨーッス!」

「おう、リキッド。どーした?二年の教室まで来て」

リキッドはシンタローの部活の後輩だ。

「センセーから伝言ッス!今日の生徒会のことで」

リキッドは子犬のような笑顔でシンタローたちに駆け寄ってきた。

リキッドはヤンキー臭い外見の割には素直な性格で、先輩のみならず教師達からも可愛がられている。

面倒事を嫌がらないので、何かと頼まれ事を引き受けることが多かった。

しかし、性格はいいのだが、極端に運が悪いため、今回の選挙でも副会長に選出されている。

ちなみに、リキッドの学年はクジで役員を選出するのが恒例になっているが、リキッドがこのクジを引き当てるのは中等部から通算3回目。
本人も半ば宿命と諦めているらしい。


「で、なんだって?」

「えっと、明日、教職の先生が来るから集会仕切れってことと…」

「教職ぅ?珍しーな」

「ッスよね。オレもびっくりしたんスよ。でもこのガッコの卒業生らしいッスよ」

「ふーん、特異な奴もいるだな」

この学校の性質上、教職を取る卒業生は極めて稀だ。
事実、教職の学生を迎えるのは、シンタローの5年間の学園生活では初めてだった。

「あと、今日の役員会、第3会議室使えって。伝言は以上ッス」

「なんでだ?生徒会室使えねーのかよ?」

「なんか、職員室と生徒会室に工事入るらしいッスよ。セン…セントナルヒーリングがなんとかって」

「…セントラルヒーティングだろ…」

シンタローは軽く頭を抑えた。

「…だったかも知れないッス」

リキッドはぴょこんと首を傾げた。

キーンコーン…。

ちょうどいいタイミングで予鈴がなる。

「じゃあ、ちゃんと伝えましたからね!」

リキッドはシンタローに念を押すと、バタバタと駆け足で教室を出て行った。

「…まったく、ヒーリングしてどうするよ…」

シンタローは、可愛いけれどオツムの弱い後輩の行く末を思って、少し溜息をついた。

「リキッドは半分はアメリカ人でっしゃろ?お粗末な英語力でんなぁ…」

アラシヤマも呆れた声を出している。

「まったくな。外見は金髪碧眼のくせに、あいつ日本語しか話せないんだぜ」

しかもヤンキー語。と、付け足してシンタローは笑った。

「同じハーフでも、シンタローはんとは真逆でんなぁ」

アラシヤマも珍しく笑っている。

が、シンタローはアラシヤマの言葉に違和感を覚えた。

「…あれ?オレ、オメーに家のことなんて話たっけ…?」

キーンコーン…

本鈴のチャイムが鳴る。

「こらー、お前ら、席着けー」

チャイムと同時にジャンが教室に入って来た。

アラシヤマは質問に答えないまま、さっさと自分の席に着席している。

「あ、おい…」

「シンタローはん、先生来てますえ?」

アラシヤマは教室の前方を指差した。

「こーら、シンタロー。生徒会長がいつまでも席に着かんでどーする」

「…へーいへい…」

ジャンに促されて、シンタローは仕方なく自分の席に向かった。

一度だけ、後ろを振り返ったが、アラシヤマは窓の外を見ていて、視線は合わなかった。


* * * * *


「どうしたっちゃ?シンタロー、妙な顔して」

昼休み、シンタローはいつものように、ミヤギとトットリと学食に来ていた。

「…おかず足りなぐってもやんねーべ」

ミヤギが何を勘違いしたのか、自分のトレーを手で防護した。

「誰が取るかよ。そんなんじゃねーよ」

確かに、シンタローの目の前で1番人気のA定食が売り切れてしまい、シンタローひとりだけ、おかず少なめのB定食になってしまったが、問題はそこではない。

「誰かよ、アイツに俺んちの話ってしたか?」

ミヤギ、トットリはきょとんと首を傾げた。

「アイツって誰だべ?」

「アラシヤマだよ」

二人は顔を見合わせてから、ふるふると顔を横に振った。

「シンタローんちって、ガンマコンツェルンの話だべか?オラはしてねーけんど?」

「僕なんかアイツとまだ口効いてもないっちゃ」

「…だよなぁ…」

じゃあ、何で俺がハーフだと知ってたんだろう?

リキッドのような容姿なら、自ずと気付くのも当然だろうが、シンタローは日本人であった母の血を濃く引いており、髪も目も真っ黒だ。

外見から、シンタローが半分イギリス人であることを見抜くのは難しい。

シンタロー自身も、本当にあの父の血を引いているのかと疑いたくなるくらいだ。

「どしたべ?アラシヤマになんか言われたんか?」

黙り込んでしまったシンタローに、ミヤギが心配そうな顔をした。

「でも、シンタローはこのガッコの有名人だっちゃ。誰かから聞いててもおかしくないっちゃよ」

「まあ、そうかもナ」

ジャンあたりがポロっとこぼしたのかも知れないし。

シンタローは、親の威光を笠に着るのを嫌い、自らは決して家業のことを人に話したりはしない。

しかし、それでもこの学園の人間は皆、シンタローがガンマコンツェルンの跡取りであることを知っていた。

つまり、人の口に戸板は立てられないということだ。

「まあ、知ってても不思議はねーんだけどよ…」

けれど、何かスッキリしない。

アラシヤマ自身に聞こうにも、アラシヤマは休み時間ごとにどこかに消えてしまう。

昼食もどこで取っているのかわからなかった。

「でも、知られて困ることでもないべ?」

「みんな知ってることだっちゃ」

それもそうだ。自分でも何が引っ掛っているのかわからない。

「…だよな」

まあ、放課後にでも本人に聞こう。

シンタローは気を取り直して昼食を再開した。


* * * * *

キーンコーン…。

ひび割れたような古いチャイムが鳴る。

待ちに待った放課後。

シンタローはアラシヤマに声を掛けようとしたが、後ろを振り返ったときには、もう姿が消えていた。

アラシヤマの席は教室後方のドアのすぐ側なので、素早く行動されては捕まえられない。

「…ったく、どこに消えやがるんだあいつは…」

シンタローはガシガシと頭を掻いた。

「シンタローさーん!」

バタバタと喧しい音と共にリキッドが入って来た。

「オメー、二年の教室にそうしょっちゅうやって来んなよ」

「なんすか、その言い方!役員会で部活遅れるって、コーチに言ってきてあげたんスよ!」

リキッドはぷんすかと頬を膨らました。

「悪かった悪かった。よく気のつく後輩を持って俺は幸せだよ」

シンタローはぽんぽんとリキッドの頭を撫でた。

「ところでリキッド。オメー、アラシヤマ見なかったか?」

「え?ああ、ここに向かう途中で会いましたよ。非常階段に向かったんじゃねーのかなァ…。ケータイ、ブルってたっぽかったっす」

「ケータイだぁ?あんにゃろ、そんな文明の利器を持ってたのか」

「…今ドキ、みんな持ってるじゃないスか」

口答えするリキッドを軽く殴って、シンタローは非常階段に向かった。

この校舎の非常階段は古く錆び付いている上に、校舎の北側にあるため、陰気で寒い。

当然近寄る生徒も少なく、そういえばそんな場所もあったかと忘れ去られてしまうようなスポットだった。

…あいつ、なんだってわざわざこんなとこに…。

シンタローが錆び付いたドアを開くと、ヒュウと強い風が吹き込んできた。
台風でもくるのか、森の木々がザワザワと激しい音を立てている。

…いねぇじゃねえか…。

扉を開けた先にアラシヤマの姿はない。

シンタローが引き返そうとしたとき、風に掻き消されながら、僅かに声が聞こえた。

「へぇ……明日…。わ……ました…」

声は一つ下の階から聞こえてくる。

なんだ、下にいるのか。

しかし、電話を盗み聞きするのは趣味じゃない。

少しドアの前で待とうと、シンタローはドアに手をかけた。

「シンタロー…は……へん…。ころ…」

不意に聞こえた自分の名前。
シンタローはドアにかけた手を止めた。

ころ…?何て言ったんだ?…殺す?まさか、そんな馬鹿な。

カンカンと鉄の階段を昇る音が聞こえて、シンタローは慌てて校舎に戻った。

そのまますぐに側のトイレに駆け込む。

ガンと扉を閉める音は聞こえたものの、アラシヤマの足音は聞こえなかった。

しばらく待ってから、シンタローは顔だけ出して廊下を覗いた。

人気のない廊下はシンとしていて、シンタローは少しだけホッとした。


…俺を、殺す?
まさか、そんなドラマや漫画じゃあるまいし。

シンタローはくしゃりと髪をかきあげ、笑おうとした。
が、強張った筋肉は笑いの形を取ってくれない。

シンタローは今までに2度、殺されかけたことがある。

一度は3歳のとき、身代金目当ての誘拐専門の犯罪組織に。
もう一度は11歳のとき、父と対立し、闇に追いやられたファミリーの報復だった。

ガンマコンツェルンは、表向きは健全な多国籍巨大企業だが、裏では世界中のマフィアと繋がっている。

シンタローと、父である現ガンマコンツェルン総帥・マジックとの確執も、発端はそこにあった。

マジックはシンタローを子供扱いし、闇の部分を決して見せようとはしない。

けれど、シンタローは成長するにつれ、この強大な組織が正攻法のみで築き上げられたものではないことに気付かざるを得なくなっていた。


11歳を少し過ぎた夏の日。スクールバスを降りて家に入る一瞬のうちに、シンタローは誘拐された。

気がついたとき、シンタローは手足を縛られ、薄暗い倉庫に転がされていた。

「起きたのか。かわいそうに、もう少し寝てりゃ、痛くないまま死ねたのにな」

サングラスの男がスパニッシュ訛りの英語で言った。その場にはもう一人、スキンヘッドの男がいる。
男は無表情のまま、シンタローを見下ろしていた。

「悪いな。恨むなら自分の親父を恨んでくれ」

ガツっと銃口が額の真ん中に押し当てられる。
黒い鉄の、冷たい感触。

感じるのは、本能的な死への恐怖だけだった。
悲鳴をあげようにも、歯がガチガチと震え、声を発することすらできない。

ガチリと撃鉄が起きる音が聞こえた瞬間。

男の額が、サングラスとともに砕け散った。

シンタローの顔に生温かいものがぬらりと降りかかる。

男はそのまま、シンタローの上にどさりと倒れ込んだ。
男の頭はぱっくりと割れ、豆腐のような脳みそが覗いていた。

「なっ…!?」

スキンヘッドの男は咄嗟に手を懐に入れたが、身構える間もないまま仰向けに倒れた。
じわじわと赤い血溜まりが広がり、シンタローのスニーカーまでたどり着く。
スキンヘッドの男は顔の半分が砕け、血溜まりの中にはごろりと白い目玉が転がっていた。

「いっ…あっ…ぁ……」

一体何か起こったのかわからない。
シンタローはただただ目の前の光景に怯えた。

ぬるりと顔を覆う不快な感触と、鼻に付く鉄の匂い…。

「シンタロー様!ご無事ですか!?」
「シンタロー坊っちゃん!大丈夫っすか!?」

バタバタと数人が駆け寄ってくる。


どこかで見た顔だ…。
鋭い目の、チャイニーズ…。

そうだ。こいつら。

…ハーレム叔父貴の、部下。


極度の緊張の糸が切れ、シンタローはそのまま気を失った。


:* * * * *

シンタローが『ガンマコンツェルン』そのものに疑問を抱き始めたのはその事件がきっかけだった。

叔父であるハーレムはガンマコンツェルンの中枢にかかわる会社を経営していると聞いていたが、その実態は不明だ。

いつもハーレムは3人の部下を引き連れて世界中を飛び回っている。
その3人とは、シンタローを連れ去った男たちを事も無げに処分したうちの一人だ。

事件から1週間ほど、シンタローは外に出ることを許されなかったが、その間、どこのニュースや新聞を見ても、あの男たちの死を伝える記事は報道されなかった。

…目の前で、人が殺されるのを見ていたと言うのに。

確かに男たちはシンタローの命を狙っていた。
この場合、正当防衛…いや、緊急避難ということで、罪にはならないだろう。

けれども、あんな明らかな殺人が表ざたにならないということは…。

どれだけ父に詰め寄っても、父は真実を教えてはくれなかった。

「シンちゃんが心配するようなことは、なぁ~んにもないよ」

マジックは笑ってはぐらかした。


シンタローはそのころから、体を鍛えることを始めた。

マジックは何も教えてくれない。
けれど、最低限自分の身くらいは守れるようにならなければと思ったからだった。

柔道、空手、合気道などの武芸から銃器の扱いまで。
マジックはシンタローが望めば、あらゆる分野のスペシャリストを用意してくれた。

彼らに教えを受けた時期は短かったが、シンタローは乾いた砂が水を吸収するように貪欲に技術と知識を吸収した。

一番性に合うと思えた空手は、聖サザンに入学した今も部活で続けている。

結局、真実を知らされないままシンタローは父から離れた。

真実を教えてくれないのも、過干渉なのも全部自分を子供だと思っているからだ!

一度そう思うと、以前のように父に甘えることは出来なくなっていた。

…もしも。

もしも ガンマコンツェルンが、俺が思っている以上にヤバイ裏を抱えているとしたら…?

俺はこれからも、あの日のように命を狙われることがあるんじゃないだろうか…。


シンタローは、自分がアラシヤマに抱いている違和感の正体に、ようやく気がついた。


……これは違和感じゃない。危機感だ。

本能が感じる、危険のシグナル。


時期外れの転入。静か過ぎる生活音。
ほとんどならない足音。

「…ホント、漫画じゃ…あるめぇしヨ…」

シンタローは額を押さえて壁に寄りかかった。

思いついてしまった可能性はあまりにも暗く、少しだけ泣きそうになった。



→バラ色の日々(4)に続く



























































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バラ色の日々(2)


聖サザンクロス学園は乙女チックな名前とは裏腹に、古い歴史を持つ男子校だ。

全寮制という今時珍しい体制に加え、総生徒数は中高合わせても400人未満。

そのため、世間にはあまり知られてはいないが、実は国内難関大への進学もさることながら、海外の有名大学への進学率が高い。

政治家や財界人の子息が多く在籍する、知る人ぞ知る名門校だった。

しかし、だからと言って、こんな山奥の全寮制男子校に自ら入学したがる子供が多いわけもなく、生徒のほとんどが親に強制的に入学を決められていた。

そんな中、シンタローは自ら志願してこの学園に入学した。

理由は、過保護で何事にも干渉しすぎる父親から離れたかったからだ。


シンタローの父は世界を股にかける巨大企業、ガンマコンツェルンのトップだ。
経済力と強力なコネクションを背景に大きな権力を手にしている父は『会長』ではなく『総帥』と呼ばれている。

幼いころは、世界中を飛び回る忙しい身の上ながら、いつもシンタローを1番に考えてくれる父親が大好きだった。

しかし、母が事故で他界してからは、その愛情表現は次第に度を超したものになっていった。

日記を見る、電話を盗聴するなんてのは当たり前。

自室に隠しカメラが取り付けられていたことに気付いたとき、シンタローは一日も早く家を出る決意をした。

聖サザンは父の母校でもある。

父は散々反対したが、シンタローは入試でトップ合格することを条件に願書に判を押させた。
見事に条件を果たしたシンタローは、以来5年間の寝食をこの学園内に隣接するエデン寮で過ごしている。

寮生活に不便さを感じることも少なくないが、一切の干渉がないこの生活を、シンタローはことのほか気に入っていた。


* * * * *


「お、シンタロー君。お帰り。今日は早いね」

シンタローが寮に戻ったとき、管理人の木村が玄関の掃除をしていた。

いつもなら部活に出ている時間だったが、今日はコーチに急用が入ったため、各自自主練になった。

ホームルームで面倒な仕事を押し付けられたこともあり、さっさと切り上げて帰ってきたのだ。

「木村さん、アラシヤマ、帰ってる?」

「……アラシヤマ…?誰それ?」

木村はハテ?と首をかしげた。

「あの、転校生の…」

「…ああ!転校生の!」

木村は『転校生』の存在は覚えていても、アラシヤマの存在は覚えていなかったらしい。

こんな特殊な学校では、途中転入は極めて珍しい。

それにもかかわらず、寮の管理人にすら名前を覚えてもらえないとは。

…あの影の薄さは、オレだけじゃなく、みんなも共通で感じているんだな。

シンタローは少しだけ安心した。


「帰ってたかな~…。いるかもしんないけど、気がつかなかったなー。内線で呼び出す?」

「いや、いいよ。どーせ部屋、隣だから。直接見に行くよ」

シンタローは木村に礼を言って寮に入った。



付属寮であるエデン寮は、校舎から歩いて5分の距離の洋館風木造建築物だ。

年代物のため、夏は涼しいが冬はすこぶる寒い。

秋口の今、すでに隙間風が入り込み、寮内はひんやりしていた。

エデン寮は3階建てで1階は食堂、浴室、娯楽室、調理室などの公共の場。2階3階が各自の自室となっている。

部屋は、中等部では二人部屋、高等部から一人部屋になる。

各個室の広さは4畳しかなく、窮屈感はぬぐえなかったが、自分だけの居室がある生活は快適だ。

シンタローは部屋の鍵を取り出しながら、2階の突き当たりにある自室に向かった。

ふと、シンタローは自分の部屋の一つ手前、251号室の前で立ち止まった。

シンタローの部屋、250号室は角部屋で、隣はこの251号室しかない。

去年、先輩が卒業してからは空き室になっていたので、アラシヤマの部屋はこの部屋で間違いないだろう。

ドアの下の隙間からは僅かに明かりがもれている。

帰って来ているらしい。

シンタローはドアの前で聞き耳を立てたが、物音は聞こえなかった。


ずいぶん、静かな奴だよな…。

シンタローは自分が注意力がないとは思わない。
むしろ敏感な方だろう。

しかし、アラシヤマは3日も前に入寮していたにもかかわらず、隣室のシンタローに気配を気付かせなかった。

人が住めは少なからず生活音が出る。

築30年を越えるこの寮で防音設備などあるはずもなく、壁が特別厚いわけでもない。

アラシヤマは静か過ぎる。

…不気味な奴。


シンタローはいったん251号室を離れ、自室に戻った。

鞄をベッドにほうり投げ、学ランからパーカーとジーンズに着替えてから、再び251号室の前に戻った。


コンコン。

251号室のドアをノックすると、ドアが僅かに開いた。

細い隙間からアラシヤマが顔を出す。

「なんですのん…?」

アラシヤマの声は暗い。

表情のせいか、重たい前髪のせいかはわからないが、アラシヤマを覆う空気まで暗く感じられた。

「あー、ちょっとオメーに伝えなきゃならねぇことがあってよ。中、入ってもいいか?」

「……少し、待ってておくれやす…」

アラシヤマは一度ドアを閉めた。

まあ、男子高校生だし、人に見られたくないものでも片付けているのだろう。

1分程して、再びドアが開いた。


「どうぞ」

アラシヤマは寝ていたのか、黒いスウェットの上下を着ていた。

頭が痛いと言っていたのは嘘ではなかったのかもしれない。


「そこらへん座っておくれやす」

アラシヤマはシンタローにベッドをすすめ、自分は椅子に座った。

シンタローはベッドに座って、辺りを見回した。

部屋には、備え付けのベッドと机、椅子の他は、小さな段ボールがあるだけ。

物が少ない分、シンタローの部屋より広く見える。

持ち主の人格を感じさせない、無機質な部屋。


「で、なんどすか?話って…」

アラシヤマの声は不機嫌さを押し隠している。

人付き合いは下手そうだが、最低限の社会性はありそうだ。


これなら、以外と大丈夫かもしれない。

「あのな、転校早々気の毒なんだが、お前、生徒会書記に立候補してもらうことになったから」

シンタローは単刀直入に言った。

「……はあ?」

アラシヤマの反応は予想通りだった。

「だからな…」

「二度言わんでも意味はわかっとりますわ。わからんのはその経過や」

アラシヤマはシンタローを睨み付けてきた。

「オレに怒ってもしょーがねぇよ。『クラス全員が参加した公正なアミダの結果』なんだ」

「何が公正や。わてがおらんのをええことに、なんや小細工しくさったんやろ」

小細工どころか、むしろ堂々とした細工でした、とは言わなかった。

「そんなん、わては絶対出まへんえ」

アラシヤマはフンと顔を背けた。

「まあ、そう悪いもんでもねぇよ。部活も入ってねーんだろ?なんかしてねーと、ここの生活はけっこう退屈だぜ」

「余計なお世話どす」

…人が気ぃ使ってやってんのに。

アラシヤマのはねつけるような言い方に、シンタローも流石にカチンときた。

「オメー、ただでさえ印象悪ぃのに、そんなんじゃ友達できねーぞ」

「………」

アラシヤマは黙ったまま俯いた。

「…わては…、遊びに来たんと違うんどす。そないな暇はありゃしまへん…」

呟くような、小さな声だった。


この学園には、いろんな事情を抱えた生徒がいる。

有名政治家の隠し子や、シンタローのように親から逃げてきた子供。

1番多いのは、将来のレールをギチギチに固められている子供達だ。

アラシヤマもそんな子供のひとりなのかもしれない。

こんな時期の転校生に、事情が無いわけはなかった。

「…なあ、アラシヤマ。学校は勉強だけするところじゃない…つーと、なんか金八みてーだけどさ。こんな山奥まで来て、柵に縛られる必要はねーんじゃねぇのか?」

アラシヤマは顔を上げた。

「オメーにどんな事情があるかはわかんねーけどよ、ここは保護者の目の届かない全寮制学校だぜ?
そりゃ、必要最低限の成績は取らなきゃなんねーけど、オレらの人生で1番自由な時期かも知れねぇ。なのに、オメーはそんなんでいいのかよ?」

「…いちばん、自由な時期…」

確かめるように、アラシヤマは呟いた。

「そうだぜ。ここはただの山奥じゃねぇ。この森は俺たちを世間から守ってくれてんだよ。隔離されてんのは俺らじゃない。世界のほうだ」

シンタローは一気にまくし立てた。

アラシヤマに話した言葉は、詭弁でもなんでもなく、シンタローが常に抱き続けていたものだ。

おそらく、自分にとってここは最後の自由。

シンタローは大学進学と同時に、父の跡継ぎとしてビジネス界に出て行かなくてはならない。

実業家としての父を尊敬しているし、父の跡を継ぐことは、自分でも納得している。

けれど、今のような穏やかな日々は、ここを出たら二度と来ないことを、シンタローは痛いほど自覚していた。

だからこそ、ここに来てまで何かに縛られるアラシヤマが、放っておけなかった。

「…でも、わては…」

「デモもクソもねーよ、イライラするヤツだな~。
とにかくやってみろよ。生徒会は基本的に雑用ばっかだけど、すぐに文化祭もあるからけっこー面白いと思うぜ」

シンタローはアラシヤマの肩をポンと叩いた。

アラシヤマがびくりと跳ねる。

「…で、でもっ…!わては目立ちとうないんどす…!」

「大丈夫だって。演説は2、3分だからそんな目立たねーよ」

「わて…人前で喋ったこともありまへん…!」

「俺も同じステージに立つから、いざとなったら俺が助けてやるよ」

「……!」

アラシヤマは言い訳も尽きたのか、何か言いかけようとして口を閉じた。

「よし、納得したな」

シンタローはポン、と膝を叩いて立ち上がった。

「まだ、出るとは言うてまへんえ」

アラシヤマはシンタローの袖をつかんだ。

「でも、ちょっとはやる気になっただろ?」

シンタローがニッと笑うと、アラシヤマは顔を背けた。

悔しがっているような、恥ずかしがっているような、複雑な表情で。

「んじゃな、選挙演説来週だから、草稿書いておけよ」

「どーせ…、わてが出ても落ちますえ…」

「あ、それなら大丈夫。どうせ不信任投票だから」

聖サザンの生徒会選挙は小一時間もかからずに終わる。

なぜなら、各役員の立候補者が一人しかいないからだ。

「不信任…って、どういう…?」


シンタローは答えなかった。

変わりに、微笑を浮かべてアラシヤマの肩を叩いた。

「さて、じゃあトットリに報告に行くかな~」

シンタローはくるりと踵を返して、ドアに手を掛けた。

が、出て行こうとして、パーカーの帽子を引き止められた。

「待って…待っておくれやす…!」

「んだよ、まだ何かあんのかよ」

これだけ言っても無駄なら、最終的には拳で黙らせよう。

シンタローはそう決意していた。



「あ、あんさんの名前を…教えて欲しいんどす…」


……こいつ…俺の名前知らなかったのか…。


こんな少ない生徒数の中、隣の住人の名前すら覚えてないなんて。

シンタローは呆れたが、この人付き合いの下手さでは、無理も無いのかもしれないと思い直した。

「シンタローだ。ちなみに部屋は隣の250な」

シンタローは自分の部屋の方向、向かって左を指差した。

「わ、わての名前は…ア、アラ…ッ」

アラシヤマは顔を真っ赤にしている。

「なに急にどもってんだよ。文句や嫌味はスラスラ出てくるくせに、変なヤツ」

アラシヤマの意外な一面に、シンタローは思わず笑ってしまった。

「アラシヤマだろ?知ってるぜ。それに、さっき俺、オメーの名前呼んだじゃねーかよ」

シンタローは笑って、アラシヤマの手をパーカーから外した。



じゃあな、と言ってドアを閉じる瞬間。


見えたのは、顔を赤らめて俯くアラシヤマだった。






バラ色の日々(1)


鬱蒼とした森に囲まれたレンガ造りの古い校舎。

東京から電車で2時間の距離にも関わらず、あたりには街もなければ人家もない。

夜ともなれば明かりもなく、真っ暗な森では梟の淋しげな鳴き声が響く。

聖サザンクロス学園は、そんな世間から隔絶された場所にひっそりと建立されていた。


* * * * * *

「だから、嫌だっつてんだろーがよ。だりぃよ」

「でもシンタローが1番適任だっちゃ」

「生徒会牛耳ってこのガッコを共学にしてくれよ!」
「外泊自由にしてくれ!」
「ばか、んなことできるわけねぇだろ!!」

高等部2年A組の教室は、周囲の森の鳥達すらも辟易するような騒ぎだった。

「おーい、お前ら真面目に話合えー」

担任のジャンも見兼ねて声をかけるが、騒ぎは収まらない。

その日のホームルームの議題は生徒会役員の立候補者を選出すること。

ただでさえ、全寮制男子校という灰色の学園生活だ。
その上さらに面倒ごとを引き受ける特異な生徒は皆無に等しかった。


「じゃあ、シンタローが会長に立候補ってことでいいっちゃかー?」

クラス委員のトットリがさっさと話をまとめる。

「異議なーし!!」

30数名の男子高校生の声が揃う。

「…ったく、やっかいごとは全部俺かよ…」

シンタローはぶつぶつ文句を言ったが、トットリは聞こえないふりをしている。
トットリはそのまま議題を続けた。

「でも、あとうちのクラスは書記を一人出せばいいだけだっちゃ。みんな僕のくじ運の良さに感謝するだっちゃよー」

トットリが黒板に『書記』の文字を書く。

教室からは「おおー」という歓声と拍手が起こった。



聖サザンクロス学園の生徒会選挙は少し変わった形態を取っている。

そもそも、1学年2クラスしかなく、総生徒数は中等部、高等部合わせても400人に満たない。

生徒会の選出ともなれば、立候補者も少なく、選挙が成り立たなくなってしまう。

そこで、あらかじめクラス代表がくじを引き、各クラスから選出する役員を決めることになっていた。

2学年はA、B両クラスから会長立候補者を出すことが必須。

会長職以外の役員は対立候補なしの不信任選挙で決まってしまうが、会長職だけは、クラス選出で選ばれても、選挙で選ばれなくては会長にはならない。
それでも、二分の一という高い確率に、シンタローが気が重くなった。


「で、誰か書記いないっちゃかー?推薦でもいいっちゃよー」


トットリが教卓からのんびりと声をかける。

「ミヤギやれよ、習字得意じゃん」

どうせなら親しい奴を道連れにした方がマシだ。

シンタローは隣の席のミヤギに声を掛けた。

「書記の仕事と習字は関係ないべ!それに寮長の仕事もあんのに無理だぁ!」

ミヤギはブンブンと顔を横に振った。

ミヤギは寮長の仕事も『面倒見がいいから』と無理矢理に押し付けられている。

その上、生徒会役員まで押し付けられては堪らないのだろう。

「シンタロー、ミヤギは勘弁してやれよ。寮長なんだしさ」

担任のジャンが助け舟を出した。

「誰かホントにいないか?推薦狙ってる奴チャンスだぞー」

「べつにいらねーよ」
「俺、留学するもん」
「俺もー」

ジャンの呼び掛けに、生徒達は口々に生意気な言葉を返す。

「ホント、お前らカワイクないよね…」

ジャンは教卓に手をついて溜息を吐いた。

「じゃあ、ジャンけんかアミダで決めるのはどうだっちゃ?」

議長であるトットリが打開案を出す。

「オレは参加しねぐていんだべな?」

ミヤギがすかさず念を押した。

「ミヤギ君はしかたないっちゃ」

「じゃあオレサッカー部部長だから!」
「陸上部部長だから!」
「放送局員だから!」

途端、教室中から選出不参加を求める声が相次いだ。

「テメーは幽霊部員じゃねーかよ!」
「っつか、陸上部活動してねーじゃん!」
「はーい!オレ保健委員だから免除してねー」

教室の騒ぎに、収拾の着かなくなったトットリはひとりオロオロしている。


みんな、大人げねーなぁ…。

早々に拒否することを諦めたシンタローは、呆れて騒ぎを見守っていた。


ガタンッ。


突然、教室の1番後ろ角の生徒が立ち上がった。

不意の物音にクラス中の視線が集中する。

「あほらし。こないな下らんことにギャアギャアと。カラスみたいに、まあよお喚きますわ」

立ち上がった生徒は、京訛りの強い言葉で冷ややかに言い放った。

右目を長い前髪で隠したその生徒は、二日前に転入してきた転校生だ。
無口なのか、まだクラスのほとんどの生徒が彼と口をきいていない。

そんな中の突然の発言に、皆、腹を立てる以前に驚いていた。


転校生はそのまま鞄を掴んで席を離れる。

「おい、こら。まだホームルーム中だぞ」

ジャンが慌てて声を掛けたが、

「頭が痛ぅてかないまへんよって、早退させてもらいますわ」

転校生は軽く頭を下げると、そのまま教室を出て行ってしまった。



「なんだ、アレ?」
「ってゆーか、あいつ誰?何て名前だっけ…」

教室の誰もが呆気に取られている。


「…センセー、いいの?アレ?」

シンタローは彼が出ていったドアを指差した。

「頭痛いらしいから、しょーがねーんじゃねぇ?」

この若い新米教師は学生気分が抜けないのか、基本的に管理が甘い。

「…とりあえず、一人いなくなったっちゃ♪」

トットリがにんまりと笑っている。

「彼の分はクラス委員の僕がやるしかないっちゃね!」

トットリの思惑にクラス全員が気が付いた。


かくして、形ばかりのアミダが行われ、書記立候補者が決定した。


「よーやく終わったっちゃ~…と……?」

トットリが黒板に名前を書こうとして手を止めた。

「先生、あいつ何て名前だっちゃ?」

「名前くらい覚えてやれよ…。アラシヤマだよ」

トットリはフーンと興味なさ気に返事をすると、黒板に『書記 アラシヤマ』と書いた。


「じゃ、シンタロー。立候補者同士ってことで、うまくアラシヤマに伝えてくれっちゃ」

トットリはポンとシンタローの肩を叩いた。

「なんでオレなんだよ」

文句を言ってみるものの、トットリはまあまあと言って取り合わない。

どうやらトットリはアラシヤマが好きじゃないようだ。

トットリは童顔で明るく、クラスのマスコット的存在だが、腹黒い一面もあり人の好き嫌いが激しい。

「いいでねっか、シンタロー。確かあいつ、おめの部屋の隣だったべ」

シンタローはミヤギに言われて初めてその事実を知った。

「まじ?」

「3日前に入寮してたべ。シンタローいねがったから、紹介できんかったけんども…気付かなんだか?」


…ちっとも気がつかなかった。

どうやら、あの気難しく、影の薄い転校生と関わりを持たされてしまいそうだ。


「ほんっっとに…、厄介事は全部オレかよ……」

机に突っ伏してしまったシンタローに、ミヤギは慈愛の目を向けた。



カタン…。
 小さな音を立てて襖を少し開く。酷くゆっくりとだ。力が上手くはいらないのである。カタカタと腕が震えている。
 シンタローは、ごくり、と何度目かの生唾を飲んだ。それなのに、口の中はカラカラに乾いている気がする。極度の緊張がそうさせていた。
 十センチほど開いただけで、かなりの時間を経ていた。
 情けなさで涙が出そうである。それでも初めての時以上に、自分が緊張しているのがわかった。
 この間と違う。
 最初に座敷にあがることになったのは、偶然と誤解で生まれた結果だったが、それでも、相手がどんな人なのか、前もって知っていた。それだけで、気持ちは楽だった。
 けれど、今晩の相手は、声も交わしたことのない相手だ。それなりの欲情をもって、この妓楼に訪れ―――興味本位であろうが―――自分が選ばれただけ。
 そんな見ず知らずの人間に、自分は身をまかせねばならないのである。
 もともと遊女などなるつもりなどなかったシンタローである。たった一度の経験だけで、慣れるはずがなかった。
 カタカタン…。
 築何十年の建物は、歪みがあるのか、軽く跳ねるようにしてようやく襖は人が通れるほどに開く。
(あっ…)
 声には出さず、シンタローは、息を呑んだ。
 そこには人がいた。当たり前だ。客はすでに座敷についている。
 部屋の中には中央よりも少しそれた場所に行灯が置かれており、辺りを照らしていたが、男の姿はその傍になく、部屋奥の窓近くに座っていた。
 仄かな明りの中でキラキラと光が零れている。それは男の髪だった。
(金髪…)
 この地では珍しい髪の色に、シンタローは、そっと息を呑んだ。
「んっ? ああ、やっときたか。おせぇぞ」
 こちらの気配に気づいたのか、その金髪の男がこちらを振り返った。同時に真っ青の瞳が、自分を見据える。不思議な青がそこにあった。空の青とも海の青とも違う色。では、何の青なのだと言われれば形容しがたかった。ガラス玉の青に近い気がするけれど、そんな安っぽいものでもない気がした。
 男は、三十そこそこだろうか。よく見れば、整った顔立ちをしているが、その風貌は、優しそうなとは、とうてい言えぬ厳つい、野性味溢れたものだった。
(これが今晩の俺の相手…)
 シンタローは、いまだに、カタカタと震えている手を隠すように、着物の合わせ目を左手で、きつく掴んだ。
「ま、またせたな」
 ようやく声が絞り出せた。
 言葉遣いはぶっきらぼうなものだ。客商売に、これはないだろと自分でも思うが、それで機嫌をそこねるぐらいならば、自分を選んでいないだろう。客は、事前にここの楼主から、聞いているはずだ。自分が何も知らない無知な娼妓であるかことを。
 自分は、他の娼妓のように客接待用の言葉遣い、接客方法などほとんど学んでいない。付け焼刃の知識など、この緊張からでは、出てくるはずがなかった。
「なるほどな」
 相手は、一瞬驚いたような表情を浮かべたものの、すぐに納得したように頷いた。やはり、事前にちゃんと自分のことを聞いていたのだ。
 男は、それ以上は何も言わずに、こちらを凝視した。じろじろと品定めをするように見られる。それは嫌悪感を抱くもので、けれど、それも仕方がないことだった。事実自分は品物のようなものなのである。自分は自身の身体を売る娼妓で、これから、あの男に抱かれるのだ。
 男は、軽く手をふって、手招きをした。こっちへ来いという合図だ。
 フルフル揺れる身体で、けれどこくりと縦に大きく首を振ると、シンタローは、前へと身体を進ませようとした。
 しかし、それと同時に気づいた。
(あっ……動かねぇ)
 じわりと冷や汗が額に浮かぶ。情けないことに、シンタローは、震えのために、足を動かすことができなかった。
 前に進もうと気持ちは焦るが、身体は言うことを聞いてはくれない。
「何だ?」
 その様子に気づいたのか、男の方が立ち上がり、近づいてきた。
 何も出来ずに立ち尽くしていれば、手が伸びてくる。逃げることもできずに、その手にあっさりと捕まった。
「震えてんのか?」
 軽く抱きすくめるように、身体が引き寄せられた。
 脈打つ鼓動が先ほどよりもさらに早く大きく打ち、体中に血が駆け巡る。震えはますます激しくなった。
 唇を噛み締めなければ、歯の根もカチカチと音を立てていただろう。
 情けないだのなんだの思う余裕はない。
 今からの起こる行動を想像するだけで、純粋に怖かった。
 この間の客はただ話をするだけで終わった。けれど、今回は――――。
「…………」
 顔をあげて相手を見るが、声がでなかった。自分の仕事は、客接待だ。ちゃんと挨拶をしなければいけないのだと、それからは、主からきつく言われていた。なのに、カラカラに乾いた唇から出るのは、ヒューと声にならない息のみ。
 ふっ、と相手の瞳が和らげられた。その口元がにっと笑みをつくる。
 その行動に、シンタローは、驚いたように目を見張った。こちらを気遣ってくれるとは思ってみなかったからだ。
 いつも世話をしている娼妓達は、客の態度の冷たさと酷さを毎日のように愚痴っていた。
 それを想像していたシンタローにとって、その笑顔は以外だった。
 相手は、宥めるように、シンタローの背中をさすった。
「安心しろ、優しくするからよ」
 その声とともに、すっと顎が救われ、持ち上げられる。
 視線が交じり合う。
 不思議な色合いの青い瞳。けれど、それがすっと細められた。
 それにならうように、シンタローも瞳を閉ざす。
 完璧な闇。
 すぐ傍に感じた気配に、息を呑んだ刹那、唇に何かが触れた。
 柔らかなそれは、震える唇を止めるように優しく落とされる。
 一つ、二つ、三つ……。
 そっと離れては、再び戻って触れていく。
 戯れむように、繰り返される。
 それは、確かに言葉通りの優しさを含んだ口付けだった。
昼見世は退屈だ。
「ふわぁ~あ」
 まだ、眠り足らないとばかりに、起きてから一体何度目か、大口広げて欠伸をしたシンタローは、目尻に溜まった涙を指先で拭った。
 仕事らしい仕事は今はない。あるとすれば、ただ、そこに座っているだけだった。ゆえに、すぐに飽きて、欠伸の一つや二つが零れるのも当然だった。
 この手の仕事で大事なのは、客の確保。だが、昼日中でそれをするのは、馬鹿と言われるほど昼間の客は、乏しいものだった。 
 明るい日差しの中にある遊郭は、夜のひと目を誘う華やかな彩りは影を潜め、朱色に染めた楼閣でさえも褪せた様子を見せていた。閑散としている通り。歩くものはまばらで、店に足を止め、じっくりと品定めするような客は滅多に居ない。いるのは、物見遊山のおのぼりさんや暇つぶしにこちらに流れてきたものばかりだ。冷やかし半分で中を覗き込み、時折好色な笑いを零して、去っていくのみであった。
 それがわかっているから、格子の間に居る遊女達も、真剣に自分を売ることは無かった。夜までの休憩時間というように、遊女同士おしゃべりしたり、貝合せや双六等の軽い遊戯をしたりと退屈を紛らわせていた。
 その端に、ぽつんとシンタローは座っていた。
 シンタローも彼女たちと同じように見世に出る。
 自分の立場ならば、ここに居る必要は無いのだけれど、部屋に居ても掃除係りの邪魔になるし、何よりもあそこは、ここよりも退屈だった。
 だが、ここにいたとしても、あまり彼女達とは混ざることは無かった。当たり障りの無い会話程度は交わすが、それ以上の付き合いはしていなかった。
 それは、自分と彼女たちの立場がまったく違うためだった。
 店の主と対等に話し、時には、特別待遇とも取れるようなこともされている自分に、地獄や苦界と言われるこの遊郭の世界で必死に生き抜く彼女たちが、冷たくよそよそしいものになるのは、当然だった。
 なにより、彼女たちと違うのは、シンタローには、借金というものがないことだった。膨大な借金を背負い、ここに縛られ続けている彼女達とは、根本的に違うのだ。
 最初の頃は、確かにシンタローにも借金はあった。衣裳や身の回りの調度等、様々なものが入用で、それを作るはめになったのだ、すでに綺麗に払い終わっていた。
 都合のいいことに、馴染みになる客が、羽振りがよく気前がいいものばかりだったためだ。そのお陰で、あっさりと借金が消えてしまった。
 だから、シンタローさえ外へ出たいと願えば、すぐにでもこの町からでることこは可能だった。
 それでもシンタローはここにいる。
 ここにしか、居る場所が無いからだ。
 それ以外の場所など、存在しなかった。生まれはここではないが、故郷と呼ばれる場所ですら、もう形は残しては居ないはずだった。それに寂しいという感情は無かった。
 故郷への思いは確かにあるが、ここでこうして格子越しに外を眺める生活を、シンタローは納得済みで受け入れていた。
 もっとも、この妓楼屋の楼主であるキンタローは、なぜかかなり熱心に、ここにいてもいいから、色を売るのではなく、自分の片腕となって働けといわれていた。けれど、それだけは断っていた。
 一度この世界に身を置いてしまえば、一生その事実が肩に乗る。そんな者が、キンタローの隣に立てば、よからぬ噂が立たないわけが無いのだ。それは、相手にとって迷惑にしかありえない。
 それならば、できる限りこの仕事でこの場に留まった方が良かった。
 金も十分稼げるし、それでキンタローの店を援助できる。ここへ来て五年もの間、ずっとこの形をとり続けてきた。
(んっ?)
 外をぼんやりとながめていたシンタローは、ふと目に付く色を見つけた。
 穏やかな日差しを傲慢なほどに跳ね返す強い金色の輝き。見慣れた髪の色が、こちらに向かって歩いてきていた。 
 一瞬、キンタローが外出先から戻って来たのかと思ったが、そうでないことは即座に知れた。
 明らかにキンタローとは異なるシルエットだったのだ。彼よりも多分に高い背。髪も短く整えられてはおらず、肩につくほどの長さがある。これではキンタローと間違えようが無かった。
(あれ………? でも、あれは――)
 じろじろとそれを眺めていたシンタローは、徐々にはっきりしてくるその顔に、見覚えのあるものを感じた。
 金色の髪。そうしてまだ見えないが、多分瞳の色は、キンタローと同じく青のはずである。野性味溢れた風貌に、薄い唇には咥えタバコ。肩で風を切って歩く姿は、威風堂々としていて、物見遊山の者たちは、新たな見世物かと、その男に視線を投げかけたりしていた。
 確かに、彼はとても目立っていた。だが、あれはどこかの見世物ではない。
 悪戯好きの春風が通りを突き抜けていき、髪が獅子の鬣のように靡き、揺らいだ。その姿に、シンタローは、思わず声をあげていた。
「獅子舞ッ!」
「んだと、コラァ!」
 ガッ!
 その刹那、格子が折れんばかりに掴まれた。
 すでに間近に近づいていたそれに、シンタローの声はよく聞こえたようで、獅子舞と呼ばれた男は、本物の獅子のように大口を空けて、格子を握り締めていた。思った通りの青い瞳で、射殺さんばかりに睨みつけられる。キャァ、と奥に居た遊女たちの何人かが、悲鳴を上げるのが聞こえた。
(やっぱりこいつか…)
 自分が思っていたとおりの人物に、シンタローは格子越しにその顔を眺めた。記憶に残っているその顔よりも、幾分か変化が見られるが、その特徴的な顔立ちは忘れようとしても忘れられない。
「てめぇ、誰に向かって暴言吐いているんだ、オラァ!」
「おっさん」
 萎縮させるほどの圧力を感じるその眼光を前に、シンタローは、ひらりと出した指を、真っ直ぐに相手に突きつけてやった。
 記憶が確かならば、この男は、そう呼ばれてもおかしくない年齢のはずである。
『ハーレム』
 それが彼の名だった。
(また会えるとは思わなかったぜ)
 懐かしい、というよりは、今さら何しにここへ来たんだろうか、という気持ちが強かった。なぜなら、彼こそが自分をこの場所居放り込んだ張本人だからだ。しかも、放り込んだ後、五年もの間、一度も姿を現さなかったばかりか、連絡もよこさなかったのである。
 シンタローの言葉と態度に、ぴくんと太い黒眉が跳ね上がる。
「いい度胸だ。ちょっと出てきやがれ」
 だが、その凄みに恐れなど欠片も見せずに、それどころかシンタローは、馬鹿にするように肩を竦めて見せた。
「ここからどうやって出れるんだ? 遊郭は初めてのおのぼりかよ、おっさん」
 格子の間は、外がよく見える作りだが、その格子が邪魔をして外には勝手に出れない仕組みになっている。当然だ。そこから遊女を逃してしまえば、店の損失となるのである。だから、出入り口は一つ。店の中に一度入ってからしか、外へ出ることは出来なかった。
 挑発とも取れる言葉を吐き出せば、握った格子が砕けそうなほど、力を込められた。
「生意気な女め」
 忌々しげに漏れたそれに、こちらは首を傾げる。
 女?
 それは、自分のことだろうか。
 確かに今の装いは、他の遊女たちとは変わらない。それでも良く見れば、性別の違いはわかるはずである。なによりも、彼と自分は――五年と言う月日が経ったものの――初対面ではないのだ。
 どうやら自分のことを、思い出してくれてはないようである。
 勝手な奴だとは思っていたが、本当に気まぐれに拾ってきたガキのことは、すっかり忘れてしまっているのだろう。
 別にこの男に、何の期待もしてないが、なんとなく腹が立つ。
(あんたにとっては、俺は捨て猫程度のもんだってことかよっ)
 そう思えば、さらに苛立ちが募った。それを紛らわすためにも、もう少し相手をからかってやろうかと口を開きかけたが、その前に他の場所から声があがった。
「煩い。何を店の前で騒いでいる。商売の邪魔だ」
「ああ?」
 騒がしい見世の様子を見かねて、玄関口から現れたのは、店の主であるキンタローだった。
 店の前で騒ぐ男を見咎めれば、その相手は、先ほど怒鳴っていたのも忘れたように、たちの悪げな笑顔を浮かべると、キンタローにちかづいていった。そのままがっしりと肩を組む。
「よっ、キンタロー。久しぶりだな。いいところで出会った。金貸せや」
 いいところも何も、わざわざキンタローから金を借りるために、ここまで来たに違いない状況で、飄々と言い放った相手に、キンタローは、どっしり置かれた腕をさっさと取り外し、大きく首を横へと振って見せた。
「お前に貸す金は無い。久しぶりに姿を見せたと思ったら、前と同じ、金の無心か、ハーレム叔父貴」「冷てぇこと言うなよ、甥っ子。可愛い叔父に、たまには小遣いでもやろうか、って思わねぇの?」
「それは、普通反対だろうが」
「常識に囚われるなよ」
 ぽんと叩かれた頭に、キンタローは、鬱陶しげに顔を歪めてみせた。久しぶりに会った叔父に対応しかねている様子である。
 それでも、通りを通る人達や店の者たちからの興味津々の視線に気付いたキンタローは、ここで厄介な親戚を相手にするには得策ではないと判断した。
 店の入り口に戻ると店の前に垂れ下がっている暖簾を持ち上げると、振り返る。
「とりあえず、中に入ってくれ。商売の邪魔だ」
「いいぜ。中で、酒を用意してくれ」
 図々しいハーレムの要求は、聴かぬフリをしたキンタローは、じっとこちらの様子を伺っていたシンタローにも顔を向けた。
「シンタロー、お前も来るか?」
「行く」
 その言葉に、即座に返事を返した。
(当然だろ!)
 キンタローに呼ばれなくても、乗り込んでいく気構えだった。
 未だに自分を女だと誤解している馬鹿に、真実を一言叩き込んでやらなければ気がすまない。
 キンタロー達が店の中に消えると、シンタローもそちらへ向かうために立ち上がった。 


 カタン。
 襖を開けるともうすでに、キンタローとハーレムは座していた。だらしなく足を崩しているハーレムとは、向かい合わせに膝を合せ背筋を伸ばし正座をしているキンタローがいる。
 シンタローは、ハーレムの脇を通り過ぎると、キンタローのすぐ横に腰をおろした。
「なあ、キンタロー。なんでこいつが来るんだ?」
 席に着いたとたんに投げかけられたハーレムの疑問に、キンタローは、意外そうな面持ちで眉を持ち上げた。
「お前、覚えてないのか?」
「そうらしいぜ」
 何を? と訊ねられる前にシンタローは、口を挟み、あきれ返った様子で肩を竦めて見せた。
 キンタローの不思議そうな顔が、シンタローへと映され、困ったような表情になった。誰なのか、言ってもいいのだろうか、と伺う様子だったが、シンタローは小さく頭を振って、沈黙を願った。
 キンタローの口から、自分のことは話してもらいたくはない。ここまで来たならば、何がなんでも相手に思い出してもらいたかった。
 失礼極まりない話なのだ。
 誰が、ここへ放り込んだのか―――責任をとれ、とは言わないが、それでも……忘れ去られているのは、腹が立つ。
 もっともこちらも相手の顔を見るまで、その存在を忘れかけていたのだが。五年も音沙汰なしで、姿を現さなかったのだから、仕方ないだろう。こっちは、新しい環境に慣れるために、必死だったのだ。
「誰だ?」 
 ジロジロと不躾な視線が向けられる。けれど、まだわからない様子である。
「もう耄碌してるのか? まあ、それもありだな。おっさんだし」
「…口が悪ぃ女だなぁ」
 眉を顰めるハーレムに、シンタローは、ひくっと頬を引き攣らせた。
 確かに格好は、女性ではあるが、それでも出す声も態度も決して女性的とはいえぬものである。それで間違えるこの男の頭の構造に今更ながら、疑問がわく。
「馬鹿が。俺は、男だ」
 このままだと、埒が明かぬと、それだけでもバラせば、ぎょっとした表情がすぐさま浮かんだ
「男だとッ!」
 明らかに、今知りましたという態度に、シンタローは、はぁと溜息をひととつき、こめかみを押さえた。なんだか、このまま見世に戻って、ぼんやりとしたい気持ちである。
(つくづくムカつくおっさんだぜ)
 シンタローは、頭に手を当てると花魁特有の扇を広げたように突き刺した簪と櫛を次々と落としていった。形を整えるために結わえていた髪紐をとくと、その一つで、雑に一本にまとめて結わえた。さすがに化粧をここで落とすことは出来ないが、それでもこれで、以前、彼とであった頃に近づいただろう。
 そこでようやくハーレムの、こちらを見る目が変わった。
 骨ばった手が伸ばされる。逃げずにその行方を見つめれば、おろされた前髪をつかまれ、顔を引き寄せられた。
 相手の深い青の瞳に、自分の顔が移る。何度か瞬きされた瞳が、最後には思い切り見開かれた。
「………お前、あの時のクソガキか?」
「ようやく思い出したのか、獅子舞のおっさん」
 髪を引っ張られたシンタローは、お返しだといわんばかりに、相手の髪を掴むと、思い切り引っ張ってやった。

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