カーン……。
遠くかすかに耳に届く鐘の音。泡沫の一夜夢を築いていた遊郭全てに、目覚めの時を告げる。
「………んっ」
重たげな瞼を二三度上下させ、シンタローは、目を覚ました。
「お早うどす」
すぐに聞こえてきた声は、ごく間近で、薄暗い視界に凝らした瞳が、人を逆さに映した。闇に溶け込む色が視界を塞ぐように揺れている。それが人の髪なのだとようやく回らぬ頭で理解したシンタローは、思い当たる人物の名を告げた。
「アラシヤマ……」
寝起きのかすれた声で、その逆さになっている男の名を呼べば、こちらの頭の方から、顔を覗きこんでいた彼は、目元のみを緩ませて、ゆっくりとおじきをするように頭を下げた。
「よく眠れましたかえ?」
囁くような声とともに落ちてきた唇が、押しつけるように額に触れ、すぐに逃げていく。
(こいつは……朝から)
許可もとらずに勝手に自分に触れてきた相手に、シンタローは、逃げるそれを制止するべく手を伸ばし、耳元に落ちていた髪を素早く捕まえた。
「アテッ」
かくんと首を揺らし停止したアラシヤマに、シンタローは、すかさずグイッと、その手に掴んだものを引っ張った。
「お前なぁ。人の寝起きを見るなって何度言ったらわかるんだ」
「あたたたたっ、ちょ、シンタローはん、そない引っ張らんでおくれやす。痛いでっせ」
容赦なく下へと引き寄せるその行為に、アラシヤマはすぐに悲鳴をあげる。
(痛いどすぅ~)
毛が抜けそうなほどの力強いそれに耐え切れず、アラシヤマは解いてもらおうと、彼の手を軽く叩いてみるが、その程度で緩ませてはくれるほど相手は甘くない。
「離してくれはりまへんか」
「やだねっ」
必死な顔で懇願されるが、それを離す気はない。
(大体俺は、最低でも過去十回は、言っていたはずだぞ。人の寝起き顔を覗きこむなと)
寝起きは、涎や目ヤニで汚れている。さらに自分は、夜見世用に紅や白粉で化粧をほどこしていたのだ。それが一晩でどれだけ見っとも無く崩れるか分かっているから、余計にそれをされたくはなかった。
それなのに、今日も目を覚まして見れば、一番に目に映ったのは、相手の顔である。
なぜ、そんなことをするのだろうか。
怒りもこみ上げるが、呆れも混じる。
こうして怒られるのが分かっているのだから、何食わぬ顔で、目覚めそうな気配を感じた時には、別方向を向いていればいいのだ。実際その通りにされても嫌なのだが、知らぬが仏という言葉もある。
なのに相手は、目覚める時を見計らうようにして、なぜか嬉しげにこちらの顔を覗きこみ、寝ぼけ眼の自分に、朝の挨拶をかけるのである。
(ったく、馬鹿が)
それしか言いようが無い。
アラシヤマの髪を右手で掴んだまま、シンタローは、寝ている体勢で緋色の長襦袢を掻き合わせた。肌に触れる朝の冷気が冷たすぎたのだ。
朝と言っても、まだ外は夜も明けてない時刻である。早春の夜明け前となれば、吐く息も白かった。
こういう時も、この仕事の辛さが身に滲みる。襲い掛かる眠気と寒気に、シンタローは、うぅと小さく唸った。
機嫌は最悪である。
それに加えて、朝っぱらから気に食わないことをされれば、さらに拍車がかかる。
もちろん寝起きが見られたくないなら、自分の方が早起きすればいいだけなのだが、それができないのだから仕方ない。
(ああ、むしゃくしゃするぜッ)
その原因の一旦を、目の前の男が担っているのも腹立たしい。
昨晩も、いつものとごく睡眠時間は少ないうえに、いまだに身体の奥に倦怠感が残っているのだ。
相手は、痛い痛いと悲鳴をあげているが当たり前だった。痛くしているのである。
朝っぱらから不快な思いをさせた報いは、存分に受けてくれなくては困る。
(こっちはてめぇに何度も突っ込まれて痛い思いをしてるんだからなッ)
仕事だとわきまえていても、理性と感情は別物というものである。
「シンタローはぁ~ん」
アラシヤマが、何度目かの情けない声をあげた。
強く引っ張られたままのそれは、すでに何本かはブチブチと嫌な音を立てて抜けてしまっている。
アラシヤマは、懇願しても離してくれはしないシンタローの顔を間近で見つめた。その透明度の高い漆黒の瞳の奥に、不機嫌な輝きを見つけてしまう。ご機嫌斜めは相当のもののようである。アラシヤマは、諦めたように溜息をつくと、やれやれと口を開いた。
「そないに、わてと離れ難いと思うてくれはるなんて………とっても嬉しいおますわ、シンタローはん」
「とっとと離れろ」
アラシヤマがそう口にしたとたん、シンタローは、ぱっとその手を離し、さらに近づいていたアラシヤマのその額に手のひらを押し付け、ぐいっと真上に押しやった。アラシヤマの首がぐにっと有り得ぬ方向に、音立てて曲がったが、気にしない。
「うわっ。なんですのん、その冷たい仕打ち。わてを離さへんやったのは、シンタローはんでっせ」
「さっきのことは忘れろ」
そう冷淡に言い切ると、目の前から、アラシヤマが消えたことで、シンタローもようやく起き上がった。手の中に絡み付いていたアラシヤマの髪の毛を無情にも払い落とし、緩んでいた胸元を改めてきちんと整えると、ふわぁと大あくびを一つした。
冷たい空気が大量に口の中に入り込む。
もう暦の上では春は訪れたはずだが、まだまだその温もりを感じる日は、幾日もない。梅の花は咲いたのだと、人の口伝えで聞いてはいたが、こうしてまだ夜も明けきらぬ朝に、春を感じるのは難しかった。
「もう時間なんだろ? さっさと帰れよ、アラシヤマ」
目覚めた耳に、いつもの鐘の音を聞いた。
外に視線を向ければ、アラシヤマが開けたのだろう、開いた窓から、薄まりつつある闇夜が見えた。まだ、朝日は東の果てに眠りについたままのようである。それでも、目覚めまでの時は幾ばくもないはずだが、今はただ、わずかばかりの星々だけが、眠たげに瞬きを繰り返していた。
それを見ていると、こちらも眠りを誘われる。
だが、その誘惑に身をまかせようにも、目の前に人が存在する以上できなかった。
耳を澄ませば、ざわざわと人の声が聞こえてくる。遊郭の朝は早い。あちらこちらで、一夜を共にした相手を追い出す準備に追われているのだ。
(俺もさっさとこいつを追いだして、もう一眠りするかな)
すでに相手は身支度を整えていた。いつものことだが、楽でいい。
寝ているのか? と疑問に思うほど、この相手は、こちらが朝方に目を覚ます頃には、すでに身づくろいをすませているのだ。こちらとしては大変有難いことであるが、その余った時間に、自分の寝起きを見てなければの話である。
とにもかくにもお別れだ。
犬猫を追い立てるように、しっしっと手を振れば、とたんに哀しげな表情を相手は浮かべた。
「名残惜しんでくれまへんの、シンタローはん」
「これが永遠の別れなら、少しは惜しんでやってもいいぜ」
別の部屋からは、同じ立場である遊女達の甘ったるい惜しむ声が聞こえてくる。けれどシンタローは、挑発的な笑みを携え、アラシヤマにそう言い放ってやった。
自分にそんなことを望むだけ無駄だ。
そんなことは、もちろん相手もわかっているはずである。だからこそアラシヤマは、その笑みを受け止めると自分の胸に手を押し当てて、切なげに瞳を揺らした。
「なら存分に惜しんでくだはれ、シンタローはん。もしかしたら、わてはこの帰り道に暴漢に襲われて命を落とすかもしれまへんし、家に戻った後に、火事があって焼け死ぬかもしれまへん。明日にはこの命、ないかもしれまへんで?」
だから、これが永遠の別れになるかもしれまへん。
そう嘯いた相手は、布団の上に座り込んだままで、怠惰に相手を追い出そうとしていたシンタローに、手を伸ばした
昨晩、布団に入る前には、きっちりと結い上げていたそれも、今は、その痕すら見つけられずに、肩にかかっている。アラシヤマは、それを一束だけ掴み、握りしめた。
シンタローは、先ほどのお返しか、と慌てた表情を見せ、身体を引きかけた。だが、アラシヤマは、その髪が引っ張られないように気をつけながら、膝を布団の上に落とすと、そこに、恭しく口付けを落とした。
敬愛を示すようなその行為に、少しばかり顔を顰めてみせるが、相手はそれを気にする様子は見せなかった。こちらに顔を向けると、いまだに掴んでいる髪を指に絡まし引き寄せ、それに再び愛しげに唇を落とす。
「わてが、こうしてあんさんに触れられるのも最後かもしれまへんで?」
そう言いながら、嬉しそうに笑う馬鹿な男を見やり、シンタローは、痛みを感じるのを承知で、奪われていた髪を引っ張り、取り戻した。
けれど髪は、抵抗なくするりと相手の指をすり抜け戻ってくる。こちらが力を込めたとたん、手に握っていたそれを解放したのだ。
(いつもそうだ)
その抵抗なさに、なぜか苛立ちを感じつつ、シンタローは、髪をばさりとかき上げた。アラシヤマの口にした、馬鹿な言葉に返事を返す。
「そうしたら―――――俺は、笑ってやるよ」
「シンタローはん?」
「二度とお前に会わなくてすんだって、笑ってやる。だから安心して永遠の別れとやらをしてくれ」
死ぬなら勝手に死んで来い。こちらは全然かまいはしない。
そっけなく言い放てば、アラシヤマは一瞬驚いたような表情を見せ、それから笑った。先ほど見せた嬉しげな笑いよりも深みのある、けれど苦味も含んだ笑い。
何を考えての笑いなのかまったくわからなかったが、シンタローは、それを見たとたん、むぅと唇を曲げていた。
「なんだよ。俺の答えが気に食わないのか?」
そう言えば、くすくすくすとなぜか今度は声に出して笑われた。
「あんさんを哀しませない様、死なない努力をしますわ」
「はあ?」
どうやったらそんな答えが導きだされるのだろうか。
理解できないと眉間に皺まで寄せてみせれば、その皺を伸ばされるように指先がつきつけられた。
「泣きそうな笑い顔ほど胸に痛いもんはありまへんしな」
「…………」
その言葉に、思わず自分の頬に手をやり、さらりとなぜてみるが、自分が今、どんな表情をしているかはわからない。
(出鱈目言ってるんじゃねぇ)
少なくても、自分はアラシヤマ相手に、そんな健気な表情など浮かべるはずがなかった。アラシヤマお得意の夢見がちな妄想だろう。それで、都合のいい解釈をしただけに違いない。
「さてと、ほなそろそろお暇させていただきまひょ。六つの鐘も鳴り始めましたし」
こちらの動揺には何も言わず、ちらりと外へと視線をやったアラシヤマは、すくっと立ち上がった。
「あっ」
シンタローも、それに釣られるように立ち上がる。
カーン…カーン……。
丁度耳に、聞きなれた音が聞こえてくる。確かに、六時を知らせる鐘の音だ。客を送り出す時間は、四時から六時まで。
鐘の音は、きっちり六回鳴って止まった。
別れの刻限である。
「見送りはいりまへん。外はまだ寒うおますし」
外套を手にしたアラシヤマが振り返る。ほんの数歩でも離れれば、薄闇に包まれたアラシヤマの身体がかすむ。見え辛い中で、アラシヤマは小さく手を振った。
「また来ますよって、ほなさいなら」
最後に、こちらよりも遊女らしく見えるはんなりとした笑顔を見せ、頭を下げ出て行った。
あっさりとした退却だった。
部屋から消えるアラシヤマをいつものように黙って見送ると、再び布団の上に腰をおろすと、シンタローは、溜息を一つついた。
「また…ねぇ」
結局また来る気じゃねぇかよ。
なんだかんだといいつつ、もう随分と長い間自分の元に通ってきている馴染み客が、帰ったことを確認すると、また重たくなってきた眼を擦った。
とにかく、これで仕事はひと段落ついた。そのとたんに強い眠気が襲ってくる。
「寝よ」
これからが遊女達にとって本当の安らぎの夜である。
シンタローは、すでに冷え切った布団の上に寝転がると、もう一度目を閉じた。
二度寝は、かなり寝入ってしまっていた。
起きてみれば太陽はすでに真上にまであがっていた。
今日は快晴らしく、開けっ放しにしていて窓から、柔らかな日差しが入り込んでくる。
別に遅すぎるという時間帯ではなかったものの、シンタローは目が覚めると、そこでゴロゴロと目覚めの気だるさを味わうこともなく、起き上がった。
部屋に手水の用意を頼み、それで顔を洗いさっぱりさせると着替えを片手に部屋を出る。
「ふわぁ」
とたんに欠伸が一つ。冷たい水で顔を洗っても、まだ眠いようだった。
大口開けつつ階段を下りていれば、下から上がってくる相手に気付き、足を止めた。
(んっ?)
キラキラと眩しげに輝く後頭部。それだけで、顔を見ずとも誰と分かった。この妓楼に、こんな綺麗な髪を持つものは一人しかいない。
そこで立ち止まっていれば、下から登ってきた相手が、こちらの気配に気付いたようで顔をあげた。先ほど見た清々しい青空と同じ色をしている瞳が向けられる。眠たげに時折閉じる瞳が、それとぶつかった。
「お早う、シンタロー」
「ああ、お早う」
朝の挨拶にはすでに遅すぎる時刻だが、それでもそう言ってきた相手に、シンタローは同じように返した。
ふわっとこみ上げる欠伸を噛み締めて、相手の通る道をあけてやろうと足を動かせば、少しばかり足場を誤らせ身体がふらついた。
そのとたん、すっと相手の眼が眇められる。やばい、と思った時にはすでに口を開かれていた。
「ちゃんと目を開けていろ、シンタロー。危険だぞ。いいか、目を開けて降りないと、階段から足を滑らせて落ちる危険性が高いのだからな」
「あーわってるって。二度言わんでいい」
即座に忠告してくる口煩い相手に、シンタローは、がしがしっとあちらこちらに跳ねている髪をかき乱しつつ、手すりにもたれかかった。これならば、滑って落ちても大丈夫だろう。もしもの時には、すぐさまにこれに捕まればいい。目を開けようと努力する気は、シンタローにはなかった。
それを見やり、相手は小さく嘆息したが、構うものかと突っぱねる。
キンタローもそれ以上口煩く注意を重ねることはしなかった。代わりに自分の様子をみて声をかける。
「これから水場へ行くのか?」
「ああ、そうだ」
それに頷いてみせた。
これから風呂だ。身綺麗にしてから、化粧をして、髪を整え、衣装を着て、昼見世に備える。
いつもの変わらぬ毎日である。
二人で話している間も、隣を何人かの遊女が挨拶をしつつ通っていた。行き場は、たぶん同じ。水場である。
今が一番風呂の込む時間帯なのだが、自分には関係なかった。性別の違う自分は、当然彼女達と同じ風呂場は使えない。自分が使うのは、この店の男衆が使用する方の風呂場だった。もっともこの時間帯に入るのは自分だけで、キンタローの特別計らいで入らせてもらっている。
それに今更文句を言うものはいなかった。
自分のここでの立場は、初めから他の遊女達とは違うもので、それは今も変わっていないのだ。
「シンタロー」
名を呼ばれる。
人が途切れるのを見計らうようにして、髪に手を伸ばされた。今朝のアラシヤマもそうだが、なぜ自分の髪に触れたがるのか分からない。こんな他のここにいる遊女達と同じ、ただ真っ黒なだけの長い髪に、魅力など何もなさそうなものを。
それでも、大切なものに触れるように、相手はそれを手にとり、感触をしばし味わうと、軽く引っ張った。それにひかれるように身体を前に傾ければ、計算されたように、階下から伸ばされた相手の唇に触れる。
「んっ」
抵抗なくそれを受け入れれば、相手の舌がするりと潜り込み、口内でくちゅりと濡れた音が響き、耳朶に触れる。互いに慣れた仕草で、自分の快楽を引き寄せるために舌を絡めあった。
「ふっ…ぁ」
しばらくし、酸素を求めるように漏れた苦しげな声に、掴まれていた髪が解かれた。同時に絡まっていた舌も離れ、唇から透明な糸が名残惜しげに二人を繋ぐ。だがそれも、すぐに途切れてしまった。
口元に零れたどちらともつかぬ唾液を袖口で拭いつつ、シンタローは、真下から見上げる相手に、苦笑を浮かべた。
「キンタロー、今更だが、こういうのってせめてこっちの身を綺麗にした後でやらねぇか?」
すでに口付けを終えて言うのもなんだが、シンタローは、アラシヤマが帰った後、そのまま寝たのである。顔は一応洗っておいたので、別にあれとの間接キスになるとか、気持ち悪いことにはなってはいないのだが、それでも、事情を知っているはずのキンタロー相手では、きまり悪さを感じてしまう。
キンタローの方も気にならないだろうか、と思って言えば、
「後だと、俺が忙しい」
気にした様子も見せずに、さらりとそう告げられた。
確かに、この店の主であるキンタローは、朝早くから忙しなく働いている。夜もかなり遅くまで起きている様子で、ご苦労なことである。ようやく二十を迎える年になったキンタローだが、すでにわずか十五で、この店の主となっていた彼は、もうこの店には無くてはならない存在だった。
「まあ、お前がいいなら、いいけどさ」
こちらは今更キスの一つや二つで文句は無い。もちろん相手がキンタローだからであることは当然のことだ。
だからといって、別に二人が恋人同士というわけでもない。
恋人同士なら、こんな仕事などしていないだろう。
キンタローは命の恩人だった。
彼に拾ってもらえてから五年。今でも感謝の気持ちは忘れてはいない。
求められても返すものがこの身ひとつしかないとすれば、捧げることに躊躇いはなかった。
(って、んなこと言えねえけどさ)
自分が、そんな気持ちを持っていることなど相手には伝えたことはない。敏いキンタローのことだから、承知しているかもしれないが、それでもこの気持ちは決して口には出さないと決めたものだった。
「旦那様、ちょっと来てください」
二階からキンタローを呼ぶ声が聞こえる。そう言えば、何か用事があって階段を登ってきたのだろう。ここで悠長に立ち止まっている場合ではないはずであった。たまたま自分と出会ったために、時間をとっただけである。
「シンタロー、じゃあな」
「ああ」
使用人の呼び声に、キンタローも即座に反応する。こちらに別れを告げると同時に忙しなく階段を登っていった。
「大変だな」
それを見送ると、ふわぁと大きな欠伸一つとともに、シンタローは、のんびりと階段を降りていった。
遠くかすかに耳に届く鐘の音。泡沫の一夜夢を築いていた遊郭全てに、目覚めの時を告げる。
「………んっ」
重たげな瞼を二三度上下させ、シンタローは、目を覚ました。
「お早うどす」
すぐに聞こえてきた声は、ごく間近で、薄暗い視界に凝らした瞳が、人を逆さに映した。闇に溶け込む色が視界を塞ぐように揺れている。それが人の髪なのだとようやく回らぬ頭で理解したシンタローは、思い当たる人物の名を告げた。
「アラシヤマ……」
寝起きのかすれた声で、その逆さになっている男の名を呼べば、こちらの頭の方から、顔を覗きこんでいた彼は、目元のみを緩ませて、ゆっくりとおじきをするように頭を下げた。
「よく眠れましたかえ?」
囁くような声とともに落ちてきた唇が、押しつけるように額に触れ、すぐに逃げていく。
(こいつは……朝から)
許可もとらずに勝手に自分に触れてきた相手に、シンタローは、逃げるそれを制止するべく手を伸ばし、耳元に落ちていた髪を素早く捕まえた。
「アテッ」
かくんと首を揺らし停止したアラシヤマに、シンタローは、すかさずグイッと、その手に掴んだものを引っ張った。
「お前なぁ。人の寝起きを見るなって何度言ったらわかるんだ」
「あたたたたっ、ちょ、シンタローはん、そない引っ張らんでおくれやす。痛いでっせ」
容赦なく下へと引き寄せるその行為に、アラシヤマはすぐに悲鳴をあげる。
(痛いどすぅ~)
毛が抜けそうなほどの力強いそれに耐え切れず、アラシヤマは解いてもらおうと、彼の手を軽く叩いてみるが、その程度で緩ませてはくれるほど相手は甘くない。
「離してくれはりまへんか」
「やだねっ」
必死な顔で懇願されるが、それを離す気はない。
(大体俺は、最低でも過去十回は、言っていたはずだぞ。人の寝起き顔を覗きこむなと)
寝起きは、涎や目ヤニで汚れている。さらに自分は、夜見世用に紅や白粉で化粧をほどこしていたのだ。それが一晩でどれだけ見っとも無く崩れるか分かっているから、余計にそれをされたくはなかった。
それなのに、今日も目を覚まして見れば、一番に目に映ったのは、相手の顔である。
なぜ、そんなことをするのだろうか。
怒りもこみ上げるが、呆れも混じる。
こうして怒られるのが分かっているのだから、何食わぬ顔で、目覚めそうな気配を感じた時には、別方向を向いていればいいのだ。実際その通りにされても嫌なのだが、知らぬが仏という言葉もある。
なのに相手は、目覚める時を見計らうようにして、なぜか嬉しげにこちらの顔を覗きこみ、寝ぼけ眼の自分に、朝の挨拶をかけるのである。
(ったく、馬鹿が)
それしか言いようが無い。
アラシヤマの髪を右手で掴んだまま、シンタローは、寝ている体勢で緋色の長襦袢を掻き合わせた。肌に触れる朝の冷気が冷たすぎたのだ。
朝と言っても、まだ外は夜も明けてない時刻である。早春の夜明け前となれば、吐く息も白かった。
こういう時も、この仕事の辛さが身に滲みる。襲い掛かる眠気と寒気に、シンタローは、うぅと小さく唸った。
機嫌は最悪である。
それに加えて、朝っぱらから気に食わないことをされれば、さらに拍車がかかる。
もちろん寝起きが見られたくないなら、自分の方が早起きすればいいだけなのだが、それができないのだから仕方ない。
(ああ、むしゃくしゃするぜッ)
その原因の一旦を、目の前の男が担っているのも腹立たしい。
昨晩も、いつものとごく睡眠時間は少ないうえに、いまだに身体の奥に倦怠感が残っているのだ。
相手は、痛い痛いと悲鳴をあげているが当たり前だった。痛くしているのである。
朝っぱらから不快な思いをさせた報いは、存分に受けてくれなくては困る。
(こっちはてめぇに何度も突っ込まれて痛い思いをしてるんだからなッ)
仕事だとわきまえていても、理性と感情は別物というものである。
「シンタローはぁ~ん」
アラシヤマが、何度目かの情けない声をあげた。
強く引っ張られたままのそれは、すでに何本かはブチブチと嫌な音を立てて抜けてしまっている。
アラシヤマは、懇願しても離してくれはしないシンタローの顔を間近で見つめた。その透明度の高い漆黒の瞳の奥に、不機嫌な輝きを見つけてしまう。ご機嫌斜めは相当のもののようである。アラシヤマは、諦めたように溜息をつくと、やれやれと口を開いた。
「そないに、わてと離れ難いと思うてくれはるなんて………とっても嬉しいおますわ、シンタローはん」
「とっとと離れろ」
アラシヤマがそう口にしたとたん、シンタローは、ぱっとその手を離し、さらに近づいていたアラシヤマのその額に手のひらを押し付け、ぐいっと真上に押しやった。アラシヤマの首がぐにっと有り得ぬ方向に、音立てて曲がったが、気にしない。
「うわっ。なんですのん、その冷たい仕打ち。わてを離さへんやったのは、シンタローはんでっせ」
「さっきのことは忘れろ」
そう冷淡に言い切ると、目の前から、アラシヤマが消えたことで、シンタローもようやく起き上がった。手の中に絡み付いていたアラシヤマの髪の毛を無情にも払い落とし、緩んでいた胸元を改めてきちんと整えると、ふわぁと大あくびを一つした。
冷たい空気が大量に口の中に入り込む。
もう暦の上では春は訪れたはずだが、まだまだその温もりを感じる日は、幾日もない。梅の花は咲いたのだと、人の口伝えで聞いてはいたが、こうしてまだ夜も明けきらぬ朝に、春を感じるのは難しかった。
「もう時間なんだろ? さっさと帰れよ、アラシヤマ」
目覚めた耳に、いつもの鐘の音を聞いた。
外に視線を向ければ、アラシヤマが開けたのだろう、開いた窓から、薄まりつつある闇夜が見えた。まだ、朝日は東の果てに眠りについたままのようである。それでも、目覚めまでの時は幾ばくもないはずだが、今はただ、わずかばかりの星々だけが、眠たげに瞬きを繰り返していた。
それを見ていると、こちらも眠りを誘われる。
だが、その誘惑に身をまかせようにも、目の前に人が存在する以上できなかった。
耳を澄ませば、ざわざわと人の声が聞こえてくる。遊郭の朝は早い。あちらこちらで、一夜を共にした相手を追い出す準備に追われているのだ。
(俺もさっさとこいつを追いだして、もう一眠りするかな)
すでに相手は身支度を整えていた。いつものことだが、楽でいい。
寝ているのか? と疑問に思うほど、この相手は、こちらが朝方に目を覚ます頃には、すでに身づくろいをすませているのだ。こちらとしては大変有難いことであるが、その余った時間に、自分の寝起きを見てなければの話である。
とにもかくにもお別れだ。
犬猫を追い立てるように、しっしっと手を振れば、とたんに哀しげな表情を相手は浮かべた。
「名残惜しんでくれまへんの、シンタローはん」
「これが永遠の別れなら、少しは惜しんでやってもいいぜ」
別の部屋からは、同じ立場である遊女達の甘ったるい惜しむ声が聞こえてくる。けれどシンタローは、挑発的な笑みを携え、アラシヤマにそう言い放ってやった。
自分にそんなことを望むだけ無駄だ。
そんなことは、もちろん相手もわかっているはずである。だからこそアラシヤマは、その笑みを受け止めると自分の胸に手を押し当てて、切なげに瞳を揺らした。
「なら存分に惜しんでくだはれ、シンタローはん。もしかしたら、わてはこの帰り道に暴漢に襲われて命を落とすかもしれまへんし、家に戻った後に、火事があって焼け死ぬかもしれまへん。明日にはこの命、ないかもしれまへんで?」
だから、これが永遠の別れになるかもしれまへん。
そう嘯いた相手は、布団の上に座り込んだままで、怠惰に相手を追い出そうとしていたシンタローに、手を伸ばした
昨晩、布団に入る前には、きっちりと結い上げていたそれも、今は、その痕すら見つけられずに、肩にかかっている。アラシヤマは、それを一束だけ掴み、握りしめた。
シンタローは、先ほどのお返しか、と慌てた表情を見せ、身体を引きかけた。だが、アラシヤマは、その髪が引っ張られないように気をつけながら、膝を布団の上に落とすと、そこに、恭しく口付けを落とした。
敬愛を示すようなその行為に、少しばかり顔を顰めてみせるが、相手はそれを気にする様子は見せなかった。こちらに顔を向けると、いまだに掴んでいる髪を指に絡まし引き寄せ、それに再び愛しげに唇を落とす。
「わてが、こうしてあんさんに触れられるのも最後かもしれまへんで?」
そう言いながら、嬉しそうに笑う馬鹿な男を見やり、シンタローは、痛みを感じるのを承知で、奪われていた髪を引っ張り、取り戻した。
けれど髪は、抵抗なくするりと相手の指をすり抜け戻ってくる。こちらが力を込めたとたん、手に握っていたそれを解放したのだ。
(いつもそうだ)
その抵抗なさに、なぜか苛立ちを感じつつ、シンタローは、髪をばさりとかき上げた。アラシヤマの口にした、馬鹿な言葉に返事を返す。
「そうしたら―――――俺は、笑ってやるよ」
「シンタローはん?」
「二度とお前に会わなくてすんだって、笑ってやる。だから安心して永遠の別れとやらをしてくれ」
死ぬなら勝手に死んで来い。こちらは全然かまいはしない。
そっけなく言い放てば、アラシヤマは一瞬驚いたような表情を見せ、それから笑った。先ほど見せた嬉しげな笑いよりも深みのある、けれど苦味も含んだ笑い。
何を考えての笑いなのかまったくわからなかったが、シンタローは、それを見たとたん、むぅと唇を曲げていた。
「なんだよ。俺の答えが気に食わないのか?」
そう言えば、くすくすくすとなぜか今度は声に出して笑われた。
「あんさんを哀しませない様、死なない努力をしますわ」
「はあ?」
どうやったらそんな答えが導きだされるのだろうか。
理解できないと眉間に皺まで寄せてみせれば、その皺を伸ばされるように指先がつきつけられた。
「泣きそうな笑い顔ほど胸に痛いもんはありまへんしな」
「…………」
その言葉に、思わず自分の頬に手をやり、さらりとなぜてみるが、自分が今、どんな表情をしているかはわからない。
(出鱈目言ってるんじゃねぇ)
少なくても、自分はアラシヤマ相手に、そんな健気な表情など浮かべるはずがなかった。アラシヤマお得意の夢見がちな妄想だろう。それで、都合のいい解釈をしただけに違いない。
「さてと、ほなそろそろお暇させていただきまひょ。六つの鐘も鳴り始めましたし」
こちらの動揺には何も言わず、ちらりと外へと視線をやったアラシヤマは、すくっと立ち上がった。
「あっ」
シンタローも、それに釣られるように立ち上がる。
カーン…カーン……。
丁度耳に、聞きなれた音が聞こえてくる。確かに、六時を知らせる鐘の音だ。客を送り出す時間は、四時から六時まで。
鐘の音は、きっちり六回鳴って止まった。
別れの刻限である。
「見送りはいりまへん。外はまだ寒うおますし」
外套を手にしたアラシヤマが振り返る。ほんの数歩でも離れれば、薄闇に包まれたアラシヤマの身体がかすむ。見え辛い中で、アラシヤマは小さく手を振った。
「また来ますよって、ほなさいなら」
最後に、こちらよりも遊女らしく見えるはんなりとした笑顔を見せ、頭を下げ出て行った。
あっさりとした退却だった。
部屋から消えるアラシヤマをいつものように黙って見送ると、再び布団の上に腰をおろすと、シンタローは、溜息を一つついた。
「また…ねぇ」
結局また来る気じゃねぇかよ。
なんだかんだといいつつ、もう随分と長い間自分の元に通ってきている馴染み客が、帰ったことを確認すると、また重たくなってきた眼を擦った。
とにかく、これで仕事はひと段落ついた。そのとたんに強い眠気が襲ってくる。
「寝よ」
これからが遊女達にとって本当の安らぎの夜である。
シンタローは、すでに冷え切った布団の上に寝転がると、もう一度目を閉じた。
二度寝は、かなり寝入ってしまっていた。
起きてみれば太陽はすでに真上にまであがっていた。
今日は快晴らしく、開けっ放しにしていて窓から、柔らかな日差しが入り込んでくる。
別に遅すぎるという時間帯ではなかったものの、シンタローは目が覚めると、そこでゴロゴロと目覚めの気だるさを味わうこともなく、起き上がった。
部屋に手水の用意を頼み、それで顔を洗いさっぱりさせると着替えを片手に部屋を出る。
「ふわぁ」
とたんに欠伸が一つ。冷たい水で顔を洗っても、まだ眠いようだった。
大口開けつつ階段を下りていれば、下から上がってくる相手に気付き、足を止めた。
(んっ?)
キラキラと眩しげに輝く後頭部。それだけで、顔を見ずとも誰と分かった。この妓楼に、こんな綺麗な髪を持つものは一人しかいない。
そこで立ち止まっていれば、下から登ってきた相手が、こちらの気配に気付いたようで顔をあげた。先ほど見た清々しい青空と同じ色をしている瞳が向けられる。眠たげに時折閉じる瞳が、それとぶつかった。
「お早う、シンタロー」
「ああ、お早う」
朝の挨拶にはすでに遅すぎる時刻だが、それでもそう言ってきた相手に、シンタローは同じように返した。
ふわっとこみ上げる欠伸を噛み締めて、相手の通る道をあけてやろうと足を動かせば、少しばかり足場を誤らせ身体がふらついた。
そのとたん、すっと相手の眼が眇められる。やばい、と思った時にはすでに口を開かれていた。
「ちゃんと目を開けていろ、シンタロー。危険だぞ。いいか、目を開けて降りないと、階段から足を滑らせて落ちる危険性が高いのだからな」
「あーわってるって。二度言わんでいい」
即座に忠告してくる口煩い相手に、シンタローは、がしがしっとあちらこちらに跳ねている髪をかき乱しつつ、手すりにもたれかかった。これならば、滑って落ちても大丈夫だろう。もしもの時には、すぐさまにこれに捕まればいい。目を開けようと努力する気は、シンタローにはなかった。
それを見やり、相手は小さく嘆息したが、構うものかと突っぱねる。
キンタローもそれ以上口煩く注意を重ねることはしなかった。代わりに自分の様子をみて声をかける。
「これから水場へ行くのか?」
「ああ、そうだ」
それに頷いてみせた。
これから風呂だ。身綺麗にしてから、化粧をして、髪を整え、衣装を着て、昼見世に備える。
いつもの変わらぬ毎日である。
二人で話している間も、隣を何人かの遊女が挨拶をしつつ通っていた。行き場は、たぶん同じ。水場である。
今が一番風呂の込む時間帯なのだが、自分には関係なかった。性別の違う自分は、当然彼女達と同じ風呂場は使えない。自分が使うのは、この店の男衆が使用する方の風呂場だった。もっともこの時間帯に入るのは自分だけで、キンタローの特別計らいで入らせてもらっている。
それに今更文句を言うものはいなかった。
自分のここでの立場は、初めから他の遊女達とは違うもので、それは今も変わっていないのだ。
「シンタロー」
名を呼ばれる。
人が途切れるのを見計らうようにして、髪に手を伸ばされた。今朝のアラシヤマもそうだが、なぜ自分の髪に触れたがるのか分からない。こんな他のここにいる遊女達と同じ、ただ真っ黒なだけの長い髪に、魅力など何もなさそうなものを。
それでも、大切なものに触れるように、相手はそれを手にとり、感触をしばし味わうと、軽く引っ張った。それにひかれるように身体を前に傾ければ、計算されたように、階下から伸ばされた相手の唇に触れる。
「んっ」
抵抗なくそれを受け入れれば、相手の舌がするりと潜り込み、口内でくちゅりと濡れた音が響き、耳朶に触れる。互いに慣れた仕草で、自分の快楽を引き寄せるために舌を絡めあった。
「ふっ…ぁ」
しばらくし、酸素を求めるように漏れた苦しげな声に、掴まれていた髪が解かれた。同時に絡まっていた舌も離れ、唇から透明な糸が名残惜しげに二人を繋ぐ。だがそれも、すぐに途切れてしまった。
口元に零れたどちらともつかぬ唾液を袖口で拭いつつ、シンタローは、真下から見上げる相手に、苦笑を浮かべた。
「キンタロー、今更だが、こういうのってせめてこっちの身を綺麗にした後でやらねぇか?」
すでに口付けを終えて言うのもなんだが、シンタローは、アラシヤマが帰った後、そのまま寝たのである。顔は一応洗っておいたので、別にあれとの間接キスになるとか、気持ち悪いことにはなってはいないのだが、それでも、事情を知っているはずのキンタロー相手では、きまり悪さを感じてしまう。
キンタローの方も気にならないだろうか、と思って言えば、
「後だと、俺が忙しい」
気にした様子も見せずに、さらりとそう告げられた。
確かに、この店の主であるキンタローは、朝早くから忙しなく働いている。夜もかなり遅くまで起きている様子で、ご苦労なことである。ようやく二十を迎える年になったキンタローだが、すでにわずか十五で、この店の主となっていた彼は、もうこの店には無くてはならない存在だった。
「まあ、お前がいいなら、いいけどさ」
こちらは今更キスの一つや二つで文句は無い。もちろん相手がキンタローだからであることは当然のことだ。
だからといって、別に二人が恋人同士というわけでもない。
恋人同士なら、こんな仕事などしていないだろう。
キンタローは命の恩人だった。
彼に拾ってもらえてから五年。今でも感謝の気持ちは忘れてはいない。
求められても返すものがこの身ひとつしかないとすれば、捧げることに躊躇いはなかった。
(って、んなこと言えねえけどさ)
自分が、そんな気持ちを持っていることなど相手には伝えたことはない。敏いキンタローのことだから、承知しているかもしれないが、それでもこの気持ちは決して口には出さないと決めたものだった。
「旦那様、ちょっと来てください」
二階からキンタローを呼ぶ声が聞こえる。そう言えば、何か用事があって階段を登ってきたのだろう。ここで悠長に立ち止まっている場合ではないはずであった。たまたま自分と出会ったために、時間をとっただけである。
「シンタロー、じゃあな」
「ああ」
使用人の呼び声に、キンタローも即座に反応する。こちらに別れを告げると同時に忙しなく階段を登っていった。
「大変だな」
それを見送ると、ふわぁと大きな欠伸一つとともに、シンタローは、のんびりと階段を降りていった。
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平安の時の物語
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
お姫様は塔の上 ~第一部~
side:シンタロー②
監禁されていた部屋を、飛び出すと。
オレはまさに、脱兎の勢いで、一目散に走り出す。
実際の所、アラシヤマごとき。
マジック相手に、十五分でも稼げれば。
よく頑張ったと、褒めてやれる――――その程度の、足止めにしかならないことは、十分承知していた。
あてもなく逃げ出したトコロで、スグにとっ捕まんのは目に見えてる。
ケド、一つ、オレにはアテっていうか………思う事があった。
昨日今日で、突貫工事で改築されたらしい、この塔だが。
実のところ、マジック自身。
全体像を、きちんと把握していないのではないか、というところ。
つまりは、住居部分であるこの階さえ脱出できれば―――後は騙し騙し、何とかなるのではないか、と。
オレは、走る………走る、走る、走る。
とにかく、ひたすらに走る―――ってーか、高さだけじゃねぇ、無駄に広がってもやがるぜ、この塔ってばヨッッ!!
ペース配分も、クソもねぇ。
ただでさえ体力の無ぇ、女の体だってーのに。
その上、力の限り全力疾走してるモンだから。
スグに息が、上がってきた。
ケド。血眼になって、辺りを見まわしながら、走り回っているにも関わらず。
ドコにも、階段もスロープも昇降機も、見当たらない。
―――クソッ、グズグズしてたら、追いつかれちまうッッ!!!
焦りながら、出口を求めて疾走する、オレの視界を。
その時、フッと光が掠めた。
………ンだぁ?
オレは、肩で息を繰り返しつつ。
薄暗い塔の中、不自然に洩れてくる明かりに惹かれ。
罠かもしれない、と思いつつも。その小部屋に、近づいて行き。
一瞬、ためらって………そっと、ノブに手をかけた。
―――どうやら、カギは掛かっていないみてぇだ。
怪しいと言えば、これ以上は無い程、怪しい。
しかし、躊躇しているような時間の余裕は、オレには無い。
―――ええい、ままよっ!! と。力一杯、扉を開けてみると。
そこは、石造りの壁が剥き出しのままの。
やたら寒々しい印象の、部屋だった。
家具らしいものは、何一つ無い。
その、代わりのように。
ぽつん、と。
部屋のど真ん中に、発光する水溜りが一つ。
それも、一色じゃねぇ。
赤、青、黄色、紫………ネオンよりは淡く、柔らかな光だけれど。
2、3秒の間隔を置き、様様に色合いを変化させる様は。
まるで、水溜りの心音のようで。
………何だって、部屋の中に水溜りあるンだヨ?
突貫工事すぎて、どっか水漏れか雨漏りでも、してんのか?
そもそも一体、中で何が光っているのか、と気になって。
オレはスタスタ、その水溜りに近寄ってみる。
側まで行くと、別に、何かが入っているワケじゃなく。
光ってんのは水溜り全体だ、というコトに気づいた。
それは丁度、風呂桶っくらいの多きさだった。
人間が一人、すっぽり入れちまう程の、床の上の水溜り………イヤ、違う?
上から、覗き込んだオレは。
それが水溜りなんかじゃないことに、気づいた。
何でかって言うと、底がまったく見えねぇ。
発光する、不思議な水に満たされてはいるけれど。
全体は、透明度が高く。
床との境界が、底の方へと続いていくのは、見えるのに。
余程に底が深いらしく、いくら目を凝らしても。
ぼんやり光る水面の奥に、底らしき平らな部分は確認できず。
何か、井戸か泉みてぇ………あ、待てよ?
そこまで思ったオレは、ふと思い出す。
ガキの頃ハマッてた、RPGゲームに。
似たようなシュチュエーションが、あった気がする。
建物の中に、こんな不自然な泉があって………飛びこむと。
ソコと繋がる、まったく別の場所の泉に放り出されるっていう。
―――オレは、ごくん、と息を飲んだ。
もしも、何でも無ければ。
とんだタイムロスの上、びしょ濡れという、かなり間の抜けたザマとなる。
―――けど、そろそろ。
どんなにアラシヤマが頑張ったトコロで、タイムアップの頃だろう。
このまま廊下に戻って、もう一度階段の類を、捜すというテもあるが。
ここから出た瞬間にでも。
せっかく逃げ出した相手に、バッタリ出くわしちまう可能性が、非常に高い。
………ま、とりあえず。試してみっか!!
元来。出たトコ任せな性格の、オレである。
そもそも、ゴチャゴチャ考え込むのは、性に合わねぇ。
オレは、自分のカンを信じるコトにして。
ぎゅっと目をつぶり、鼻を摘むと―――えいやッ!!! と。
今は、青く光っている、得体の知れない泉に。
勢い良く、足から飛び込むと。
―――全身を濡らす、冷たい水の感触。
想像していたより冷たい、身を切るような感覚に。
思わず、瞳を開いた瞬間。
世界は歪んでブレて、バラバラになる。
それは正に、あの時のゲームの画像、そのもので。
ふわり、と体が。
まるで重力を、断ち切られたかのように。
不自然に、浮き上がるのを感じ―――やった、とオレはほくそえむ。
移動時間は、数秒に満たない。
スグに。失われた色と形は、再構成され。
急に重力の戻った、オレの体は。
『何か』温かいモノの上に、どさり、と落ちた。
―――意外な、展開。
ゲーム通りなら、泉の中に出てくるはずなのに、と。
ちょっと小首を、傾げていると。
スグ耳元で囁かれた、不吉に甘い声。
「ハイ、お帰り~~~~、シンちゃんvv」
………………………………………………………………………………う゛えぇぇぇえ!!??
聞きなれた、聞きたくなかった声を耳にした、オレは。
衝撃の余り、軽く呼吸困難を、起こしそうになる。
「………ん、な………なん………ななっ、何ッッ………!!??」
『何でアンタが、ココにいるんだ』のヒトコトが、どうしても言えず。
どもりながら、パクパク口を開閉させるだけの、オレだったが。
さすがに、付き合いが長い―――否定のしようも無いトコが、つくづくイヤだ―――だけあって、マジックは。スグにオレの言いたいことを、理解したようだ。
「そりゃあ、パパとシンちゃんは、赤い糸で結ばれてるからvv」
―――前言撤回。
息子の気持など、これっぽっちも解っていねーようだ、このオッサン!!
「んなこと、誰も聞いてねーよッッ!! じゃなくて、何だって元の部屋に逆もどりなんだヨッッ!!??」
~~~~~コレまでのオレの苦労って、ナニ!!?? 無駄!!?? 骨折り損ッッ!!??
マジックの腕に、抱き上げられたまま―――また、コレかよッ!? カケイのアホ、いくら一番好きなシュチュだからって、ムヤミに使うんじゃねーよッ、ヘボ字書きッッ!!! ―――半泣きで、喚き立てていると。
「あぁ、あの泉のコト? シンちゃん、目の付け所は良かったんだけど………青い色で飛びこんだんでしょ。アレは、パパに繋がってるんだヨ~」
―――ちなみに。青以外は、各階にある泉と繋がってました~vv
いやぁ、まさに運命だよねぇ、と。
はっはっはっと、明るく笑う、マジックの前。
自ら、チャンスをフイにしちまったらしい、と気づいたオレは。
目の前が、真っ暗になっていくのを感じる。
あまりのショックに。
軽く茫然自失状態に陥った、オレの目の前。
ヒラヒラ、とマジックは手の平を振る。
「…………シンちゃん? シン子ちゃん、オーイ???」
~~~~~~ッッ!! 『シンコ』言うなッッ!!!
「だから、ツケモノみたいに呼ぶんじゃねえッてッ!!! 大体、フツーは、泉と繋がってるもんだろーがッ、テメーみたいに非常識なモンと、繋げてんじゃねぇヨッッ!!!」
「………パパの心は、泉のように澄んでいて、深いんだヨvvv」
「ウソ付けッ!! 濁ってる上に、スッゲ浅いだろぉーッッ!!」
―――もーいいから、降ろせョッッ!!!
うが~~~~~ッッ、と力いっぱい暴れてやると。
苦笑混じりに、マジックは。
抱いたままだった、オレの体を床に降ろす。
そして、しげしげと―――頭の天辺から、つま先まで。それこそ、舐めるような視線で―――オレを眺めると。
「それにしても、シンちゃん………びしょ濡れだねぇ」
つくづく、と呟いた。
そのコトバに、オレは。
ハッと、自分の置かれた状況に、気がついた。
走ってる途中で、相当暑くなっちまったから。
ジャケットを脱いで、その辺にほったらかして来た。
それが、裏目に出た。
泉に飛びこんだセイで、全身ずぶ濡れとなったオレが身に纏うのは。
何とも心もとないことに、黒いタンクトップとパンツだけ。
その両方とも、濡れてぴったり、体に張り付いて。
体のラインも、身につけてる下着の線も。
隠すものもなく、くっきり強調されている。
「~~~~~~ッッ、見るな変態ッッ!!!」
ぎゃあっ、と叫んで、オレは。
前屈みに、その場に座り込む。
―――これじゃまるで、女そのもの反応じゃねーかよ、ちぃっくしょ~~~~ッッ!!
物凄く、気に入らねぇ。
気に、入らねぇんだけどッッ!!
自分でさえクラクラするような、見事なボディラインを。
マジックと二人きりのこの状況で、惜しげもなく披露する気には、とてもなれない。
………って、そうだッ!!
二人きりじゃねぇ、アラシヤマ、アラシヤマがいたじゃねーかッ!!
あんなンでも、いないよりはマシだ、と。
キョロキョロ辺りを、見回してみると―――果たして。
結構、離れたトコロ。丁度、ベッドの真横辺り。
ちょっと焦げて縮んだ、アラシヤマが。
ひっそりと、転がっていた。
「こら、アラシヤマ!! ヘバってねぇで、助けろッッ!! この役立たずっ!! 根性ナシ、ヘタレッッ!!」
先刻の、せっかくのサービスが。
無駄遣いに終わってしまった、八つ当たりも含め。
ついでに、ストレス解消もなんかも兼ねて………ここぞとばかりに、罵ってやると。
どの部分に、反応したのかは解らねぇが。
うぅ………、とか呻きつつ。むっくりと、半身を起こした。
―――やっぱコイツ、殺しても死なねぇんだナ………と。
半分感心、半分呆れて。
「オイ、いつまでも転がってねーで………」
「シンタローはんッッッvvv」
言いかけた、オレの言葉を遮り。
「やっぱり、わてのコトが心配で、戻って来てくれはったんどすなッッ!!??」
―――しかも、そないなセクシーな姿になって!! サイコーどす、シンタローはんッッ!!
「ちっげーヨッッ!!」
~~~~~~くっそぉ、オレの周囲って。
どーしてこうも、ヒトの話聞かねぇヤツらばっかなんだよッッ!!??
"類は友を呼ぶ"という現象を、オレの辞書から放り出し。
場違いにも、目が合うなり、キラキラと瞳を輝かせ。
オレのセクシースタイルを、褒め称えるアラシヤマに。
ちょっと本気で、苦悩していると。
「どうしたんだい、シンタロー? もう、彼に助けは求めないのかい?」
「………もぉイイ。何か、もっとややこしくなりそうな、気ィしてきた」
マジックの、楽しそうな問い掛けに―――ちょっと投げやりに、オレが答えると。
あっ、そ、と。ヤツは、ニッコリ笑って。
「じゃあ、お姫様から解雇通知が出たから。繋ぎの勇者くんには、ご退場願おうかなっ」
「んなっ………アホ言わんといておくれやすッッ!! 例え、マジック様いうても、わてと(そんな下半身直行便に、セクシーで色っぽいvv)シンタローはんとの仲は、裂かしまへんえッッ!!??」
叫ぶなり、懲りるというコトバを知らないのか。
それとも、オレのフェロモン(出してるつもりはねーけど。出てるだろ、コレ、確実に(- -;))血迷ったか。
「極炎舞ッッ!!!」
なーんか、凄まじい勢いで燃え始めた………ってオイ、アレ、周りも巻き込む自爆技なんじゃッッ!!??
「オイ、あ、アラシヤマ!!?? テメェ、血迷ったか!!??」
「シンタローはんッ!! わて、シンタローはんの為やったら、死ねます!! この世で添い遂げられんのやったら、あの世で夫婦になりまひょなっっ!!」
「イヤイヤイヤッッ!! 巻きこむんじゃねぇ、一人で逝け、一人で~~~~~~ッッ!!」
―――この世でもあの世でも、テメェと一緒になる気はねーヨッッ!!
ツッコミながらも、オレは。
燃えながら、じりじり迫ってくる、アラシヤマの。
常に無い、迫力に………ちょっと気圧され、数歩下がる。
―――と。
「………ハイ、ご苦労だったね」
突如、マジックは、爽やかに。
とてつもなく、冷たい労いの言葉を吐き捨てると。
その瞬間。
アラシヤマの立っていた辺りの床が、ぱっくり二つに割れた。
~~~~~~ええッ!! わての出番、もう終わりどすか――――――ッッ!!??
激しく燃え上がる、アラシヤマは。
悲痛な絶叫を残し、あっという間に落下していく。
ヤツを飲みこんだ後、何事も無かったかのように。
再び床は、元通りとなり。
オレは、成仏しろよ、と。一応、手を合わせてみた。
―――しかし、こんっっな無駄な、大掛かりな仕掛けまで。
ホンットーにヒマだったんだな、このクソ魔王は。
ちらり、と。
呆れかえった視線で、マジックを振り返ると。
「ふふ………落とし穴は、シンちゃんだけの専売特許じゃ無いから、ネvv」
とか、人差し指を立てて、ウインクなんかしやがった。
―――ネvv じゃねぇだろ、可愛くねぇって、だからッ!!
………結局。
何の為に登場したのか解んねぇ、アラシヤマが。
騒々しくも、退場していった後。
「シンタロー、パパの用意したお洋服、気に入らなかったようだね?」
―――まぁ、そのカッコも。女スパイみたいで、似合ってるけどねっvvv
ジロジロと。マジックの無遠慮な視線に、晒されたオレは。
自分の、あられも無い姿を思い出し―――慌てて、もう一度膝を抱き、座り込む。
「オイ………マジック。勇者って、何だよ!?」
―――つーか、テメェ。何、企んでやがる!?
そんな姿勢で、スゴんでみせたトコロで………迫力も何も、あったもんじゃねぇが。
ちょっとでもスキを見せたら、負けの気がして。
精一杯の虚勢でもって、顔だけそっちに向け。そう、怒鳴ったのだが。
「んー? ヒ・ミ・ツvv」
………某「ドラまた」魔女っ子アニメの、某怪しいプリーストかいっ、アンタわッッ!!
ちっちっちっと。唇の前、立てた人差し指を振る。
知ってるヒトは知っている、知らないヒトはまるで知らない、モノマネに。
小馬鹿にされた気分になったオレは、ぎりっと唇を噛みしめる。
―――くそっ、眼魔砲さえ使えたらッッ!! ツッコミもママならねぇじゃねーかッッ!!!
「そのままだと、シンちゃん、風邪ひいちゃうね?」
座り込んだまま、ムクれてるオレに。
マジックは、そんな親切めかした声を、掛けてきて。
先刻から、イヤな予感の止まらないオレは。
近づいてくるマジックに―――ああ、視線で悪魔を止める方法があれば―――警戒心バリバリに、しゃがんだまま後へとずり下がる。
「うっせぇ!! アンタさえいなきゃ、とっくに着替えて快適に過ごしてンだヨ、オレはッッ!!!」
―――だから、とっとと消えて無くなれッッ!!!
中途ハンパな姿勢で、ジリジリ、下がり続けて………結構間抜けな格好だってぇ、自覚はあんだけど。かまっちゃられねぇぐらい、実は切羽詰ってる、オレだったりする。
やがて―――とん、と。背中が、壁にぶち当たり。
「どっか行ったりしたら、シンちゃん、またオイタするでしょ」
―――しかも、素直にパパの用意した服、着てくれる気はないんだよねぇ?
「当たり前だッッ!!!」
間髪入れず、叫んだ瞬間。
素早く、マジックの腕が伸びて。
オレの両腕は、掴み上げられ………無理矢理、強い力で立たされた。
「てめっ、何す………!!」
「あー、やっぱ………コレはコレで、すっごーく、ソソるんだけどねぇ?」
オレの抗議を遮り。
―――アタマにナンか湧いとんのかっ、このクソ親父はっっ!!! とか思う、感想を呟いたヤツは。
「腐ったこと言ってんじゃねーヨッ、離せよッッ!!」
「まぁ、可愛いシンちゃんが風邪ひいちゃうのは、イヤだしねぇ………えいっ♪」
のほほん、と。軽い調子の掛け声をかけ―――直後に。
肌にまとわりついていた、不快感が消えた。
「ハイ、完了。うーん、すっごく綺麗だヨーvv」
『あ』も『う』も無かった。
瞬きする、ほんの一瞬の内に。
オレの着衣は、濡れネズミのシャツとパンツ姿から。
紺地にラメ入り刺繍の施された、シックかつゴージャスなチャイナドレスに、変わっていて。
ご丁寧なことに、すっかり髪まで乾いている。
………ッ、そうだよナッ!?
コイツの魔力を持ってすれば、このっくらいワケ無かったんだよなッッ!!??
「出来んだったら、最初ッからそうやれよ、アホ親父ッッ!!」
―――今まで、ややこしい手続き踏みやがってッッ!!
「えー、そんなの、つまんないじゃないか」
大体、シンタローだって、忘れてただろぉ? とか。
飄々とした呟きを耳にした瞬間………オレは
散々っ!! オレを疲れさせてくれたヤリトリを思い出して。
ふつふつふつ、と。深くて暗い怒りが、込み上げてきた。
―――んじゃあ、結局。
着替えるの着替え無ぇの、モメたのだって―――要はコイツ。
単に、オレで遊んでただけだったのかヨッ!!!!
怒りの余り、上手く言葉が出てこない。
マジックに腕を取られたまま、着物の肩をプルプル震わせていると。
「うーん、でもやっぱキモノも着て欲しいなvv ね、もう一回着替えてみないかい?」
「るっせーなッッ、触んじゃねぇッッ!!!」
ゴッ!! と。
ヒステリックな叫びと共に、怒りに任せて突き上げた、オレの膝頭が。
深深と、マジックの腹に埋まった。
いくら非力な身の上とは言え、さすがにこの至近距離だ。
少しは効いたのか、一瞬、眉根を寄せたマジックの手の中から。
オレは、自分の手を引きぬこうと、身をよじったのだが。
「………つッ!!」
逆に、強い力で掴み上げられ。
更には手首の辺りを、一まとめにして。頭上の壁へと押しつけられた。
「………おイタが過ぎるよ? シンタロー」
―――くそっ。やっぱ、大したダメージじゃねーかっ。
歯噛みする、オレの前に。
グイッと顔を近づけた、マジックは。
至近距離―――危険な程の至近距離で、ニコリと微笑む。
その表情は、笑顔なのに………真っ青な瞳の奥に湛えられた、冷たい色彩に。
オレの背筋に、戦慄が走る。
「さーて。イケナイコには、どんなお仕置きをしようかな?」
「ふ、ふざけんなッ!! 離………ッッ!!??」
精一杯の虚勢で放った声は、マジックの唇に奪われて。
反射的に、引き結んだオレの唇を、こじ開けようとするかのように。
執拗に、舌先にくすぐられる。
女の体で、壁際に抑えこまれて、口付けを受ける。
有り得ないシュチュエーションに、眩暈がしそうだった。
………このまま、流されてしまいそうな、オレ自身に―――って、ダメだッッ!!
ガリッ、と、鈍い音と共に。
反射的に、身を引いたマジックの唇から。
一筋、赤い雫が滴った。
「ヒドイな、シンタロー。何も噛みつくコトは、無いだろう?」
「うっせえっ、オマエなんか嫌いだッ、あっち行けッッ!!!」
先刻までの自分の想いが、信じられず。
オレは、肩で息をしながら、真っ赤な顔でそう叫ぶ。
言った後で、言い過ぎたか、とも思ったけど。
出した言葉は、もうどうやったって、無かったことにはならねぇし。
そもそも、こんなしょーもねぇ暇つぶしに付き合わされてる、オレには。
こんくらい言う権利はあるんだヨっ、絶対ッッ!!
「しょうの無いオテンバさんだね、シン子ちゃんは。さて………どうするかな」
噛みついてやった、と言うのに。
まだ、片手でオレの手を固定したまま―――片手でいい様に扱われているというソレに、そもそもオレのプライドは、いたく傷ついてんだ―――空いた手の甲で、唇をぬぐうと。
マジックは、何やら。
とても邪悪なコトを、思いついたかのような。
真っ暗で楽しげな、微笑を浮かべた。
「そうだね、大人しく出来ないのなら………」
その手が、スッと振り上げられ。
ガードさえ取れないオレは。
―――殴られるっ! と。反射的に顔を背け、身を竦めたが。
覚悟した衝撃と痛みは、やって来ない。
代わりに、頭上で掲げさせられたままだった、手首に。
何かが巻かれる、感触がして―――そのまま、ぎゅっと締めつけられた。
―――って、えッッ!!??
「さーてと。これで落ち着いて、ゆっくりたっぷり、お仕置きができるネvv シンちゃん♪」
両腕を頭の後ろに回した格好で、手首を縛られたオレに。
満足げに頷いた、マジックは。
そのまま、オレの体を抱え上げて。スタスタと、大股に歩き始めた。
―――向かう先には、オレに荒らされたままの、ベッドがあって。
………全身の、毛穴から。一気に、イヤな汗が吹き出して来た。
「ぎゃ~~~~~~ッ、テメェ、マジックッッ!!! 何考えてんだヨッッ!!!」
「シンちゃんが考えてるコトと、多分一緒vv」
堂々と答えやがった、ヤツは。
暴れるオレを、軽々と担ぎ上げたまま。ベッドに辿りつくと。
オレの体を、意外な程ソッと、丁寧な手付きで横たえる。
もちろん、反射的に起き上がろうとした、オレだったが。
即座に。
今のオレとは、子供と大人程に体格の違う、マジックの。
圧倒的な質量を誇る、全身が、のしかかって来て。
………もちろん、勝負になるハズも無い。
アッサリ抑えこまれた、オレは。必死に、喚き立てた。
「どけヨッ、重てぇっ、潰れるだろーがっ、この百貫デブ――――ッッ!!!」
………とは言え、自分でも。
一番恐れていた事態に、余りにパニックを起こしてて。
何をどう言ったらいいのか―――つーか。自分でも、もう何言ってんのか、よく解んねぇ。
「ハイハーイ。大人しくしてたら、スグ終わるからねー」
「誰が大人しくするかッッ!! イヤだってッ!!!」
「大丈夫、あんまりイタくしないようにするから」
喉を枯らす勢いで、キャンキャン叫ぶオレを、軽くあしらいながら。
見せつけるように、マジックは。シャツの襟のボタンを外していき。
~~~~~~マズイ、コイツ本気だ。シャレになんねぇッッ!!
ゴクン、とオレは大きく息を飲む。
―――今のオレは、女の体なんだぜ!?
このまま行ったら、ヤオイどころか、完全18禁だっつーのッッ!!!
がっちり抑え込まれたままの、オレは。
もぞもぞと、何とか必死に逃れようと、体を動かしていたのだけれど。
結局、疲れただけで。動きはスグに、鈍くなる。
ソレを待っていたかのように、マジックは。
オレの耳元に、顔を寄せ―――軽く、耳朶を噛みながら、囁いた。
「………コワイのかい、シンタロー? ふふ、可愛いねぇ………vv」
「ッ、ふ………怖くねぇっ、死ねっ、アホォ………ッッ!!」
それでも、せめて、と。
精一杯の、強がりを叫んだけど。
かつてない恐怖に、オレは。殆ど、失神寸前だった。
―――ヤバイ、マズイ………っ、誰か………神様ッッ!!! ―――って。
考えてみりゃ、神なんて存在、いたとしても。
…………悪魔のオレに、助けを求められたって。迷惑なハナシ、なんだろーなぁ。
「あれー? 静かになっちゃったね。観念した、シンちゃん?」
「………………」
―――悔しい。
こんな、非力な姿であることが、悔しい。
対等になりたい、と。
ずっとずっと、思ってきたのに。
こんな風に、合意でもなく、簡単にねじ伏せられて。
イイように扱われなきゃならないのが、本当に、悔しい。
あまりに、悔しくて。
―――何か。もう、何もかも、イヤになってきた。
思った瞬間………ポロリ、と。
瞳から、雫が溢れ。
仰向けのオレの、こめかみを伝い。ベッドへと滑り落ちた。
こんなに簡単に、涙が出てくるなんて。
自分でも、ウソだろう!? と、思ったのだが。
女というものは、男に比べて。
心と体の結びつきが深い、と聞いたことが有る―――そのセイなのか?
ただ、悔しいというだけなのに………ポロポロと、涙は溢れ。
抑えつけられたままの、オレには。それを隠す、術さえ無くて。
目を見開いたまま。
動きを止め、こちらを覗き込むマジックを、見つめ続ける。
―――すると。
ふぅ、と。小さく息をついたヤツは、困ったような表情になり。
押さえつけていた、オレの腕を放すと。
肩を竦め、呟いた。
「………もぅ、反則だって。そんなに可愛く泣かないでよ、シンちゃん………」
「な、泣いて、………っく、なんかッ………ぅっ、く………」
反射的に、言い返したオレだったけど。
一度溢れてしまうと、止まらない。
どうしても、止まらない―――それどころか。
出てくる声は、みっともない、嗚咽混じりの涙声で。
「~~~~ッッ、うぅ――――――ッッ!!」
パタパタ、雫をこぼしながら。
不自由な腕を曲げ、両の手の甲に隠れるように、顔を覆った。
―――コレじゃ、まるで。女そのものじゃねぇか、ちくしょ~~~~~ッッ!!!
肩を震わせ、しゃくりあげるオレの髪に。
そっと、マジックの手が触れた。
「………ごめんごめん、パパが悪かったヨ」
―――意地悪し過ぎたねー、泣かない泣かない、と。
子供をなだめるような口調に、ムッとしたオレは。
「も、元にッ、戻せよッ!!」
腕を下げて、濡れた瞳で睨みつける―――と。
ぼたぼたぼたッッ、と。
真っ赤な水―――つーか、鼻血―――が、傍らに降ってきた。
「ぅぎゃ~~~~~ッッ!!! テメェッ、オレに鼻血かけたら、ぶっ殺すッッ!!!」
「え、あ、うわっ、ゴメンゴメン、シンちゃんッッ!!!」
血相を変えて、マジで怒鳴ると。
慌ててマジックは、オレから離れ、ハンカチで鼻を押さえて上を向く。
「………みっともねぇ」
マジックという、重石が退いた為。
ようやく体を起こして、半眼に睨み。そんな感想を述べる、オレに。
「うーん、まぁ、パパにも色々事情がね~~~」
「何が事情だ、アンタが鼻血垂らすのなんか、しょっ中だろーがっ!! とにかく、元に戻せっつーのっ!!」
「あ、それはダメvv」
鼻を押さえたままで、マジックは。
パチンと、音のしそうな勢いで、ウィンクなんかしやがった。
―――だぁかーら。可愛く無ぇヨ、全っ然ッ!!
そう思いつつも、オレは。
ホ――――ッ、と。心のソコから、安堵の息を吐き出す。
まぁ、驚いたおかげで、涙は引っ込んだ。
貞操の危機も、何とか免れたようだし。
ぐしぐし顔を拭い、鼻を啜って。
精一杯、厳しい顔を作って。
「んじゃ、こっから出せヨ」
まだ少し、鼻声で―――あぁ、みっとも無ぇな、チクショー―――そう、主張してみれば。
「今の所、却下vv」
まぁ、そう来るだろうと、思ってはいたが。
あっさりと、全却下された。
「………今の所って、イツまでだよッ!?」
「………そうだねぇ。2週間くらい、なのかな?」
「何だよ、その曖昧な期限設定は」
「アハハハ、まぁ、大丈夫♪ その内、もっと面白くなるからネvv」
―――シンちゃんも、ちょっとした休暇だと思って、楽しむとイイヨvv
思いっきり、無責任なセリフを吐き出す、大迷惑なこの、クソオヤジに。
―――付ける薬が、この世にあれば、と。
オレが。南国の深海より、まだ深い。
ディープにブルーなため息で、大きく肩を落とした。
******************
「…………オレは、ココまでっす」
リキッドは。自分の身に起こった、長い長い夢語を終えて。
疲れたようなタメ息をついて。
ソレを聞きながら、何となく………自分の思考に捕われてた、オレも。
現実に引き戻され………合わせるように、溜息をついていた。
疲れたのは。
同じように、ココまでの全部を語り終えたオレだって、同じコトだ。
オレ達は、そもそも忙しい。
家事に、赤玉探しに。パプワ達の世話やら、ナマモノのチョッカイやら。
途中、何度も中断しながら。
それでもヒマを見つけては、お互いのコレまでの"悪夢"を語り合い。
こんな時間にまでかかって、ようやく、昨夜までの夢を語り終えた。
けど、今日はもう、タイムリミットだ。
時刻はとっくに、深夜を回ってしまっていて。
寝坊なんて、しようモンなら。
―――パプワに。どんなナマモノをけしかけられるか、解ったモンじゃねぇ(つーかアイツ、明らかに。リキッドよかオレへのアタリの方が、キツくねーかっ!?)
………眠い。
「それにしても。RPGモドキ、ねぇ」
ふぁ~あ、と。
大欠伸を交えつつ、オレは。
夢の中の「オレ」が、知り得なかった、新たな情報に。
―――ったく、一体何々だっつーの、と。
不可解さに、改めて嘆息してしまう。
「そうッスねぇ………そんな事情でもなきゃ、夢の中とはいえ。シンタローさんが大人しく捕われてるなんて、ありえないッスよねぇ………」
妙に感心したように、頷きやがったリキッドの口元は、何やら緩んでいて。
「………笑ってんじゃねーヨ、○ニー」
「うっわ、ソレ言わないでクダサイッッ!!!」
ムッとした、オレの指摘に。
世にも情けない顔で、頭を抱え込み………その拍子に、ヤツも小さな欠伸を洩らした。
「んじゃー、明日も早いし。寝るとっすっかぁ………」
「………シンタロー、さん」
多分、オレ以上に、眠たいハズの―――何せオレが、日常さんざ、こき使ってやっている―――コイツだけど。
オレの、宣言に。
先程までの、ニヤけた顔はドコへやら。
急に何やら、エラく不安そうな表情を浮かべ、問い掛けてきた。
「あの。今日も"アノ夢"見るんッスかね………?」
ンなコト聞かれても、オレだって困る。
そもそも、ワケが解らないのも、メーワクしてンのも、オレだって同じだし。
―――ただ。そう言って、完全に突き放してしまうには。
どこか、頼りない印象を拭いきれない。リキッドの、幼さの残る顔は。
光源と言えば、月明かりだけの………南国の真夜中。
普段の。アホじゃねーかと思うような明るさは、ナリを潜めて。
妙に青白く、作り物めいた印象を受け。
「まァ………覚悟はしとけ。気にすんなョ、夢は夢だろ? 寝無ぇワケにはいかねーんだし」
何となく。根拠の無い気休めを言う気に、なれず。
根本的な解決には、なっていない。
でも、前向きなつもりのコメントを述べた、オレに。
「そうッスね。明日もとっとと起きて、パプワとチャッピーに朝飯食わさねーと」
―――ははっ、と。
リキッドは、一応同意したものの………その笑いはやはり、どこか虚ろで。
それでもオレに続き、家に入って来る。
スヤスヤと、平和な寝息を立てる、パプワの傍ら。
オレが、布団に潜り込むと。
リキッドも、その反対側―――チャッピーの隣に。
静かに体を横たえる、気配がした。
「オヤスミ、リキッド」
「………オヤスミナイ、シンタローさん」
呟く合間にも―――吸い込まれるように、眠気は襲ってきて。
そうして、オレは………オレ達は。
今夜も、また。
知らない世界の、夢を見る――――。
<第一部完>
お姫様は塔の上 ~第一部~
side:シンタロー①
最近、オレは夢見が良くない。
良くないというよりも。
コレは、ハッキリ言って異常事態だと思う。
毎夜毎夜、訪れる。とびっきりの悪夢の連続に。
苛立ったオレは、一番身近で八つ当たりをしやすい人間。
リキッドで、ストレスを発散して………だが、しかし。
軟弱な、ヤツは。
何と、ぶっ倒れやがったのだ!!!
『友達をイジめるとは、何事だ!!!』
パプワの逆鱗に触れ。危うく、チャッピーのエサになりかかり。
心戦組だけならともかく、ナマモノ達にさえ、冷たい目で見られ。
仕方なく、オレは。
この、寝返りヤンキーを介抱してやるハメに陥った。
「………ったく。ぶっ倒れるまで、無理しなきゃいいだろーがッ。手間のかかる」
大体。元祖主夫の、シンタローから見れば。
家事はまだまだ手際が悪く―――まぁ、自分ほどではなくとも。ソレなりに美味いモノは、作るけれど―――島のみんなを護るどころか、手の平の上で転がされている始末。
パプワ達だけならともかく、ナマモノにさえソッポを向かれ、泣きべそかいたりして。
けど。
起きていると、つくづくバカなヤンキーだ、としか思えない、コイツも。
………黙って眠っていると、ワリと可愛い。
金と黒の、不思議な毛並み。
頬にかかる睫毛は、意外な程、長い。
まだまだ幼さの残る顔立ちと、相俟って。
もしも。表情が安らかであれば、天使のように見えたと思う。
だが、現在は。体調不良のせいか、額にうっすら汗をかき。
眉間には、くっきりと縦ジワを刻み―――時折、ワケの解らないウワゴトを呟いている。
悪い夢でも、みているのだろうか。
だったら、ヒト事とは思えない。
そっと、シンタローが彼の額の汗を拭ってやった、瞬間だった。
うっすらと瞳を開けた、リキッドが。
掠れた声で、呟いた。
「………スンマセン、ヒメ………」
―――何ィィィ!!??
仰天したオレは。
未だ半分以上、寝ぼけたままの表情で。
ぼ――――ッッとこっちを見つめている、リキッドを。
噛みつくような勢いで、問い詰める。
「オイ、リキッド!! てめぇ、今、何って言った!!??」
………が。
その反応は相変わらず、ぼ――――ッッとしたままで。
チッ、と舌打ちをすると。
胸倉を引っ掴み、強引に上体を起こさせて。そのままがしがし、揺さぶってやった。
「…………シ、シンタローさんッッ!!??」
それでようやく、目が覚めたのか―――ったく、手間のかかる―――リキッドの瞳は、オレの顔に焦点を結び。
「リキッド、てめぇ。今、何て言った!?」
その、オレの問い掛けに。
「え、え!? オレ、何って言ったんです!!??」
~~~~~~まだ寝てンのか、コイツわよッッ!!!
ぶん殴ってやりたい衝動を、ぐっと堪え―――ココで殴ってしまうと、イツまでたっても、話が進みゃしねぇ―――力一杯、叫び立てた。
「ヒメって、言いやがったんだよ、オレのコト!!!!!」
「………あっ!!」
瞬間。
肉体年齢より、いくばくか、ガキ臭さを感じさせる顔に。
『ドジった!!』という感想が、クッキリと描かれて。
しばらく、あー、とかうー、とか。
ジジィみたいな、思考の声を上げたアトで。
「スンマセン、その………ちょっと、悪い夢、見てたんッスよー」
ヘラヘラと、笑いやがった。
「どんな、夢だ?」
更に追及する、オレの態度に。
流石に、腑に落ちないものを感じたのか。
「え、へ? アノ………」
きょときょと、瞬きを繰り返しつつ、戸惑っているコイツに。
「どんな夢かって、聞いてんだよ―――二度も言わせんじゃねぇ」
凄みを効かせた声で、そう言うと。
ビクリと身を竦ませながら………泣きそうな顔で、コチラを見上げてきて。
「お、怒りませんか?」
「怒んねーよ。早く言え」
カッコ書きで(多分ナ)と付け加えたオレは。
しばらく逡巡の表情で、俯いていた、リキッドの。
「自分でも。何だってこんな夢、毎晩見るのか解んないんッスよ。オレそんな風に思ったコトなんか、全然無いですし。でも、何でか寝ると、この夢ばっかで、ホント疲れ………」
「――――クドいッッ!!!」
長い長い、長すぎる前置きに、やっぱり拳を振るってしまい。
嘘つき~~~~~~~っっ!! と、涙目で抗議されて。
「うっせぇ、オレは気が短いんだよ。文句あっか!?」
開き直ってやった、オレの前。
むぅっ、と唇を尖らせた、ヤツは………どうやら、妙な想像力を発揮し始めたらしく。
泣きそうになったかと思うと、不気味にニヤついたりして。
………まぁ、大体。
とってもショーモナイコトを、考えてるンだろーな、っつーのは、余裕で想像がついたから。
「………オイ、リキッド。テメ、ヒトの存在忘れてんじゃねぇぞ?」
キレ気味のオレの、低い低い突っ込みに。
さすがに身の危険を感じたのか。
「あのっ、ですね!! だからっ………何か、オレが魔王のお城の騎士で、でもってハーレム隊長が勇者で、魔王に捕われたお姫様を救いに行くって、そういう夢なんッすうぅ~~~!!!」
焦りまくった早口で、ようやく吐きやがり………でもって、オレは。
―――オイ、マジかよ。
思わずそのまま、頭を抱え込んでしまう。
あの呼びかけに。もしかして、と思い、問い詰めたのだが。
ここまでピッタリ予想が当ってしまうと、何だか担がれているような気さえする。
「………あの、シンタローさん??」
しかし。突然頭を抱え、座り込んでしまったオレに。
大きな目を見張り、おずおずと首を傾げるリキッドの様子に………ウソは、ない。
第一、オレはこの件に関して、誰にも話したことはないのだから。
例えウソだったとしても。ソレは不可思議な現象、というコトになる。
「あ、あの………お、怒ってます?」
多分、もしもコイツが動物だったとしたら。
耳も尻尾も、ぺしょん、と情けなく後に垂れているのだろう。
イヤ、そうでなくとも。オレの反応に、いちいちビクつく仕草は。
脅える小動物、そのもので。
―――何でコイツはこうなんだ、と。オレは、深い溜息をつく。
基本的に、身内を筆頭として。
「何様」な存在ばかりと接してきた、オレだったから。
実際、こういうタイプは、もの凄く扱いにくい。
最初に上陸した時に見せた。コタローを護ろうとしたトキの気迫は、ドコに行ったんだ?
「オレも、だ」
苦々しい気分で、短く呟くと。
「え??」
カンの鈍いヤツは、スコーン、と間の抜けた反応を、返してきやがって。
そろそろ、イライラも最高潮に達してきたオレは。
もう一発、殴ってやろうかと、ギッとリキッドに向き直り。
子リスのように、目を丸くし、幾度も瞬きを繰り返す。
ハーレム叔父貴なんかが見たら。
間違いなく。
本能のままに、押し倒していたに違いない、胸キュンな表情のヤツと目が合ってしまって。
………ええと。
挙げかけた手の、行き場を無くし。
仕方なく、そのまま、ポリポリとこめかみ付近を掻いてみる。
「だからぁ。オレも、その夢見てんだョ」
「その夢って………え? …………ええええッッ!!??」
2.5秒ほどの思考の後。
ようやく、こちらの言わんとする所に、気付いたらしい。
―――ったく、やり辛いったら無いぜ。
途端に、青くなったり、赤くなったり。
忙しく百面相を始めた、リキッドに。
オレは、つくづくと溜息をつく。
パプワ島ならではの、不思議現象なのだろうか。
同床異夢というコトバがあるが、異床同夢なんか、聞いたこともねぇ。
けれど、放っておけば。
いつになれば、安眠が訪れるのか解らない。
どうしても、逃げ腰になるリキッドを捕まえて。
オレは―――オレ達は。お互いの、睡眠不足の原因である『悪夢』について、検証を始めた。
******************
「マジック、テメェ、覚えてろよ………??」
余りの事態に、オレは。
ココ数年来で、もっとも凶悪かつ凄みを込めた顔で、呟いたと言うのに。
「もちろんっっ、忘れないっっ!! この感動を、一生忘れないとも、パパはッッ!!!」
「―――ッッ!!! 誰が感動しろっつったんだよ、このアーパー親父がぁぁぁ
あッッ!!!!」
史上最悪のクソ親父、マジックは。
一際盛大に、鼻血を吹き出しつつ、瞳にうっすら涙を浮かべてまで、感動してやがる。
―――冗談じゃねぇ。つーか、もうホントーに、悪い夢なら覚めてくれッッ!!!
今、オレはドレスを着せられている。
それも。ピッタリと体にフィットする、セクシー系の真っ赤なヤツだ………だが、この際。
服はどうでもいい――――イヤそれも、全然良くはないのだが。
混乱の極みに達したオレは。しゃんとするため、パチン、と一度自分の頬を叩く。
そう、最大の問題は、その中味。つまり、ソレに包まれたオレの体なのだ。
下らない魔法だか、呪いだかをかけられて。勝手に姿を、女に変えられてしまった、とは。
目覚めてスグに、感覚で解っていたのだが。
「ハイ、シンちゃん、鏡………綺麗だね、芸術だよね、パパも鼻が高いよvvv」
そうこうしているウチに。すっかり調子に乗ったヤツは、ウキウキと。
オレにその『芸術』とやらを披露する為に、魔法で巨大な姿見を出現させやがった。
そこで初めて、自分の全身像を見て―――思わずオレは、魂が抜け落ちそうになった。
顔は、あまり変化が無い………まぁ、元々が母譲りの女顔だったから。
輪郭のラインが、全体に華奢になり。
眉もスッと細くなり、その下の黒目がちな、切れ長の瞳を際立たせて。
女顔というより『女そのもの』の顔立ちと、なっていたのだが。
それでも、さほど、違和感を覚える程のものでは無く。
―――大きな変化を見せているのは、そこから続く、体の方だった。
首はすんなりと長く、白く―――陶器のように滑らかな肩へと、続き。
鍛え上げた筋肉の消え失せた、二の腕は………艶やかな光沢を放ち、うかつに触ると折れそうな手首へと、降りてゆく。
その手自体も、二回りは小さくなっていて。
しなやかな10本の指の先。華奢な爪に施された、真っ赤なマニュキュアが、よく映えていた。
そして。Dカップはあろうという、形の良い胸は。
ドレスの胸元を、窮屈そうに押し上げ………流れるようなラインで、キュッとくびれたウエストへと、見事な曲線を描いている。
トドメとばかりに。スリットの入った、スカートの裾からのぞく―――単に細いだけではない、メリハリの効いた脚線美の、見事なことったら。
親父が感動するのも解るよな。我ながら、ゾクゾクする程、イイ女だぜ―――って、ちっがーうっっ!!!!
「テメェ、高松とツルんで、何しやがった!! とっとと、元の体に戻しやがれッッ
!!!」
オレだって、悪魔の端くれ………否、ある意味最も血の濃い、純血種の悪魔なのだ。
通常であれば。勝手に掛けられた、姿変えの魔法ぐらい。造作も無く、解除できるはずなのに。
―――目覚めて以来、感覚がおかしかった。
単に、体の性か変わったから、というだけでなく。
明らかに、何か………そう、多分。魔力を封じられているのだろう、と思う。
実は。さっきから何度も、魔法を使おうとは、しているのだが。
自分の内の魔力が、サッパリ動かないのだ。
「高松じゃないよ、ウィローだよ♪ ちなみに、この塔にいる間は、私以外は魔法、使えないようになってるからvvv」
「どっちだろうと、関係あるかっ!!! くらえっ、眼魔砲ッッ!!!」
やはり、と納得すると同時に。
オレは、代々王族に伝えられる『特技』である『眼魔砲』を繰り出していた。
修行で身に付ける『特技』は、魔力には関係がナイものであるから。
当然、使えるはずだという、オレの目論見は―――しかし。
―――ぺほッ!
………ヘソから気の抜けるような。情けない音と煙と共に、霧散する。
「え!? な、何で…………!!?? が、眼魔砲ッ!! ガンマ砲、がーんーまー、ほうッッ!!!」
―――ぽそっ、ぺふっ、へろっ!
慌てて放った、三連発のタメ無し眼魔砲は。
見事な三拍子で、不発に終る。
真っ白になり、固まってしまった、オレに向って。
「………あ、そうそう。オンナノコには、眼魔砲は使えないからねー」
ニコヤカに、爽やかに。
クソ親父は、言いやがった――――そんなん、アリかッッ!!??
「さて、シンちゃん?」
「…………っ!!! 来るなっ、寄るなっ、あっち行け――――ッ!!」
絶体絶命の、ピンチの予感に。
ジリジリと下がった、オレは。
とん、と。柔らかな何かにぶつかり、退路を阻まれ。
首を捻り、その障害物を見てみれば………先刻、自分が目覚めたばかりの、天蓋付きのダブルベッド。
ある意味。壁際に追い詰められるより、余程、心理的に負担がかかった。
「――――――ッッッ!!!!」
引きつりまくった顔で。
ゴージャスなベッドを意識したまま、ニコニコと近づいてくるマジックを睨み据えていると。
「あぁ、そんなに脅えないでよ、シンちゃん?」
「うるせぇ、来るなッッ!!」
もしも、オレがネコだったら。
今、全身の毛は総て逆立って。フ――――ッッ!! とか、威嚇の声を上げていたに違いない。
それほどの、危機感を感じていた。
しかし、マジックは。
オレから、きっかり一メートル手前の辺りで、止まると。
その表情を憂いに満ちたものに変え、言いやがった。
「パパがシンちゃんのイヤがるコト、一度だってしたことある?」
「今っ!!! 現在、コノ状況がッッ!!!! 無茶苦茶、イヤだっつ~~~~~~のッッ!!!!!!」
間髪入れずに、言い返してやると。ふぅぅぅ、と、哀しげなため息を付き。
残りの距離を、一歩で詰めてくる。
「―――ッ、だから、あっち行けっつっとろーがッッ!!!」
―――何か。何か、武器になるモノ………一瞬でいい、コイツの気を反らせたら………!!!
長年の内に、培われた。オレの内の『闘う者』としての無意識が、反撃のチャンスを伺う。
………しかし。
「んじゃ、お着替えしよーか」
「へ??」
意外な台詞と共に、マジックが。さっと、背後から取り出したのは。
ミッドナイトブルーが印象的な、マーメイドドレス。
「………着替え? オレの?」
予想外の、ヤツの台詞に。警戒心は、解いていないが―――それでも、ちょっと気を削がれる。
「そう。せっかくなんだから、お着替えしよーよ、シンちゃんvv」
―――他にも、いっぱい用意してるんだよー♪♪
顔中に『わくわくvv』と描いた、マジックが。サッと手を広げると。
サ――――ッと開いた、カーテンの向こう側には。
ところ狭し、と。色とりどりの衣装が、広がっていた。
ロングやらミニやら、ヘソ出しやら、背中見せやら。
素材も、麻、木綿、シルクにシフォン、レース使いのデニムと幅広く。
キモノを筆頭とした民族衣装から、アヤシイ制服に至るまで。
マニア垂涎の、あらゆる種類の女性用装束が、一同に会していた。
………あー、何だっけ。小人閑居して不善を為す、だったっけ?
『ショーモナイ人間がヒマだったら、ロクなことをしやしねぇ』っつー、意味なのは………って、そのものじゃねーかッッ!!!
すっごく、タイムリーなコトワザが、脳裏に閃いて。
何だかオレは、疲労の余り眩暈がしてきた。
「シンちゃん、最初はドレにするー???」
「………頼むから、死んでくれ」
「また、素直じゃないんだから♪ ちなみにパパはね、やっぱりジャパニーズ着物だと思うんだけどっっ♪♪」
本心からの呟きを、あっさりと流され。
疲労困憊したまま、オレは。窓の外の、遠い空を眺めた。
――――やはり、ココは。
着替えぐらいですんで良かった、と。諦めねばならない、トコロなのだろうか。
深々と、肩を落とす。
まぁ。一生、コノママということは、あるまい。
そもそも、魔王と第一王位後継者の両方が、イキナリ行方を眩ますなど。
他の王族が、黙っていないハズだ。
…………キンタロー、サービス叔父さん、コタロー………この際だからグンマでもいい。ハーレム以外の誰か、助けに来てくれッッ!!!
それは切実な、願いだったのだけれど。
どうやら、まったく届いていなかったらしい、というコトは―――アトで解った。
ジリジリ、と。
満面の笑みを湛えて、迫って来るアーパー父親に。
ねっとりした脂汗を浮かべ、オレはベッドの側で立ち尽くしていたが。
「わぁーった、解ったからッ!! 着替えてやるから、それ以上近づくなッッ!!!」
ついに。最大限の、譲歩をする。
「解ってくれたんだね、シンちゃん!! パパ、うれしいよッッ!!!」
とたんに。ぱああぁぁッッvv と。子供のように、顔を輝かせ。
腕を広げて、抱きついてくる………冗談じゃねぇっっ!!!
ヘビに睨まれたカエルさながらに、硬直していた体が。
反射的に、動いた。
床を踏み込み、体を後方へと反らし。
そのまま、ベッドに両手をつくと。倒立の要領で、その向こう側へと逃れる。
―――幸いにも、身軽さは変わっていないようだ。
いや、むしろ。
体が小さくなった分、以前よりも身は軽くなっている気がする………と。
マジックから距離を取り、努めて冷静に状況分析をしているオレの前で。
対象を失い、固まっているかに見えた、マジックの。
整った顔の、整った鼻から。
………ぶおぉぉっと、派手な勢いで。二本の赤い血柱が噴出する。
「シ、シンちゃん反則………今、太股丸見えだったよッッ!!??」
―――!!??
口調こそ非難だが。ヤツの鼻の下は、だらしなく延びきっており。
別に、息子のオレが、父親に太股を見られたからと言って。
どうということも無い、ハズなのに。
体が変われば。心境にも、何やら変化が現れるのであろうか。
思わず赤面して、ドレスの裾を引っ張る。
そして、そんな動揺を示した自分が、悔しくて。
あらん限りの大声で絶叫していた。
「てめぇ、タダ見してんじゃねぇッッ!!」
「え、お金払ったら、もっと見せてくれる!?」
「アホゥッッ!! ドコの世界に、息子の生足に金積む父親がいんだよッッ!?」
「落ち着いて、シンちゃん!! 言ってること、矛盾してるよッ!?」
………いかん。これ以上このオッサンと、オチの無ぇ漫才やってると、マジに血管切れそうだ。
とにかく、一人でじっくり考える時間が、必要だ、と。
オレは頭を抱え込んだまま、絶叫した。
「だぁぁぁ~~~~~ッッ、だから、着替えてやるからッッ!! てめぇ、この部屋出てけヨッッ!!!」
「え――――――ッッッ!!」
予想通り、マジックは。大音量で、不満の言葉を上げたが。
生憎、オレには………切り札があった。
出来れば、コレだけは使いたくなかった、という類のシロモノではあったけれど。
「………いいか? 出て行かなきゃ。これから、一生、二度とっっ!! テメェとは、口きいてやらねぇッッ!!!」
――――ええと。
言い訳させてもらうけど。本当に、コレだけは言いたくなかったんだぜ?
子供のケンカでもあるまいし………むしろ、こんなショーモないコトを堂々と宣言した、オレの方が情けないっつーの。
でも………もくろみ通り。目の前の相手には、その効果は絶大だったようで。
「シンちゃん、そんなっっ!!」
血相を変え、詰め寄ってくるマジックを。オレは、ギッ!! と睨みつけ。
低く低く、呟く。
「寄るなっつってるだろーがッ? 今すぐから、実行すんぞ、ああ!?」
―――古来より「美人が本気で怒ると、コワイ」とは、よく言われるが。
普通でも、オレが本気で怒ると。大概のものは、ビビって口がきけなくなる程の威力がある。
まして、今の姿で凄まれれば………さしものマジックとて、やや怯んだようだ。
ポケットからハンカチを取り出すと、目頭に当て。
「………解ったよ。パパ、シンちゃんがそこまで言うなら――――しばらく、離れるコトにする」
芝居がかった仕草で、そう言うヤツに。
「いいから、さっさと出て行け」
シッシッ、と。野良犬でも追い払うような仕草で、手を振る。
未練タラタラの表情で………ようやく、ハタ迷惑な魔王は。すごすごと、ドアから出て行き――――その、寂しげな後姿に。
オレは、思いっきり、中指を立ててやる。
……………………………………………………………………。
「そうそう、着替え終わったら、呼ぶんだよvv」
閉まった、と思ったドアは。
数秒の間を置いて。再び、ガチャリ!! と、開かれた。
――――だが、生憎と。オレには、マジックの行動パターンなど、お見通しだ。
構えておいた枕を、力いっぱい投げつけてやると。
ばすんっ、と鈍い音と共に。
見事にヤツの顔面を、直撃し―――真っ白な羽毛が、周囲に舞い上がる。
「――――姑息な手段で、覗こうとしてんじゃねぇ。見え見えなんだよ」
「ふっ、中々やるな、シンタロー」
マジックは、妙にカッコをつけたポーズで、髪をかきあげたりしているが。
枕の羽毛塗れでは、これっぽっちも決まるハズが無い。
そもそも、覗きをオレに見破られてこのザマなのだから―――どう考えても、むしろ格好悪い。
「~~~~出・て・けッッ!!」
眉と瞳をセットで吊り上げ。しっしっ、と野良犬を追い払う仕草で、手を振ると。
―――幾つになっても、ワガママなんだからvv。とか。
勝手な負け惜しみをホザきつつ、ようやく扉が閉められる。
――――っつたく、と。軽く、舌打ちして。
オレはあらためて、部屋の中を検分してみた。
レイアウトは、完全に女の子向け――――というより、ドコぞの姫だか女王だかの部屋のような、美麗でゴージャスなインテリアとなっているが。
部屋の間取りを見るに、元はマジックの部屋であった場所だと思う。
確認のつもりで。アンティークな浮き彫りを凝らした窓に寄り、外を見てみると。
遥か下方には、真っ白な雲海が広がっていて。
「―――冗談」
シンタローの唇から、溜息混じりの呟きが、洩れた。
もちろん、本来なら。父親の住居であったこの塔は。
せいぜいが、30階建ての建物程度の高さで。
雲の上まで突き抜けているような、非常識な場所では無かったハズだ。
この部屋同様、アーパー親父が魔力でもって、妙な改築をしたんだろーけど。
ダメモトで、背中の辺りに意識を集中してみる―――けど、やっぱり。
オレの『悪魔の翼』は、開かなかった。
魔力が使えないのなら。その源である翼も、使えなくなってるだろう、とは思っていたけれど。
――――くっそ。やっぱ、自力脱出は、相当難しいよナ。
少なくとも、現在のこの状況。
女になって、腕力と体力が相当落ちている上に。魔法も、ガンマ砲も使えねーし、翼も開かない。
いくらアホ親父とは言え。武器なんかの類を、置いておいてくれる程、甘くも無いし。
例えあったところで、今のこの体じゃ、まともに使いこなせるハズもねぇ。
………助けが来るまで、この遊びに付き合うより他、無ぇのかよ―――と。
ついにオレは。ベッドに投げ出されている青いドレスを。
イヤッそーな顔で、摘み上げた。
ドレスなど、もう着せられている。
一枚が二枚に、二枚が三枚になったからといって、もはや問題はあるまい―――と。
オレは、まだ抵抗の残る自分に、無理矢理に言い聞かせてみた。
―――大体。あの辺りに、ぶら下がってる。
メイド服やら、セーラー服やらを着せられるよりは、余程にマシだ。
まぁ、あのアーパー親父のコト。アレも、その内着せる気満々で、用意しやがっているのだろうが。
………言いなりになるのは、凄まじく気に食わねぇ。
けど、助けが来るまで。せいぜい、着せ替えゴッコででも時間を稼ぐしかねぇ。
何せ、あの父親のオレに対する執着は、常軌を逸している。
―――考えたくも無いのだが。
万が一にも、アレがこうなって、どうこうあって。それでもこんなで、でもって、その上………イヤ止そう、考えるな!! 考えるんじゃねぇ、オレ!!!
余りに、エグイ事態を想像してしまった為に。
軽く、吐きそうになってしまい―――激しく左右に、首を振って。
オレは、ロクでもない想像を振り払う。
――――と。ふと、妙な気配を感じて。目を眇め、天井を振り仰いだ。
………どうやら。あのオッサン、懲りるっつーコトバを知らねぇようだナ。
怒るというより、もはや呆れて。
今度は何をぶつけてやろうかと―――身近で適当なものを、物色していると。
目にとまったのは、ベッドの天蓋部を支える、銀色の支柱だった。
………コレ、使えるかも。
そう思ったオレは、おもむろに。
天蓋を外し、留め金部を解体して、単なる鉄製の棒にしてしまう。
―――この間に、不穏を感じ、逃げていれば良し。
でなければ…………。
「オイ。しつっけーぞ、テメェ!!!」
今のオレには、結構重く感じる、ソレを。
ズサっと、天井部に突き刺す―――思ったとおり。
突貫工事だけあって、作りは弱く。あっさりと、天井裏へと貫通した。
―――お、手応えあり。
パラパラと落ちてくる漆喰から、目を庇いつつ、オレはほくそ笑み。
えいやっ、と引っこ抜いたソコには、真っ赤な血が付着していて。
更には………ぽこっと空いた天井の穴から。
タラタラと血液が滴ってきて、結構ホラーな光景が展開された。
―――ひょっとして、殺っちまったんじゃねぇだろうな?
思った以上の大惨事に、オレが少々不安になっていると。
「―――ふっ、さすがだね、シンちゃん」
がこっと、天井の一部が取り除かれ。
穴の空いたデコから、だーらだーら、流血しながら。
またも見破られたマジックは、爽やかに笑いつつ顔を覗かせる。
「いいから、血ィ拭けよ………ってーか。覗くなつっとろーがッッ!?」
「―――ケチ」
「~~~~~~てんめぇ、まだ言いやがるかッ!!??」
******************
それでも、どーにかこーにか、マジックを叩き出したオレは。(どうやったのかは、聞かんでくれ。不毛なコントを思い出すだけで、疲れてくるから)
手当たり次第にその辺りのモノを、ドアの前に移動して、簡易バリケードなんか作ってみた。
………まぁ。回想シーンからさえ湧いて出てくるという、(ちょっと不気味な)特技を持つ相手だけに。
こんなモンじゃ、殆ど気休めにしか、ならないのだけれど。
しかし、いくらヤツでも。
もうそろそろ「チョッカイをかければかけるほど、着替えが遅くなる」という法則には、気づく頃だろう。つーか、気づいてくれ。頼むから、もう、ホントに。
大体「着替えろ」命令出した本人が、一番邪魔をしやがるんだから。
まったくもって、理不尽な話だぜ。
作業を終え、大きく肩で息をついたオレは。
―――ちょっと休憩、と呟いて………そのままズルズルと、床にへたり込む。
情けないコトに。
あの程度のバリケードを、作っただけだというのに。
現在、女の腕力・体力でしかない―――それでも、普通の女よりは力持ちだし、体力もある方なのだろうけれど―――為に、すっかり息が上がってしまっていて。
ピッタリ、身体にフィットしたドレスの。
窮屈な胸元を、ぐい、と寛げ。パタパタ手で、風を送りこみつつ。
オレは『やれやれ』とか、年寄り臭い呟きをもらす。
習慣で。そのまま、あぐらをかこうとし………瞬間。
太腿辺りに、何かが引っかかる感触と共に。ピッと、不吉な音が響いた。
あっ、と思ったときには、既に遅い。
赤いタイトなスカートの、スリット部分は。
今や、太股の半ばどころか。腰の近くまで、パックリと破れてしまっていて。
………危ねぇ、危ねぇ。危うく、パンツ丸見えになるトコだったぜ―――って、イヤ別に。男なんだから、トランクスぐらい披露したところで、どうということもねぇんだけどナ。
………って、まさか。
今まで、気づかなかったコトが。相当、うっかり………というか。
自分で思っているよりも、この事態にカナリ、動揺していたのだと思う。
オレは、恐る恐る、短いスカートの裾を持ち上げ―――変態、とか言うなよッ!?
重要な問題なんだからなッ!? ―――直後に。
見なければ良かった、と激しく後悔した。
………凝り性のマジックに、手抜かりは無かった。
ドレスの下に、オレが纏っていたものと言えば。
女物の、総レースのパンツ―――というか、パンティってーの? ピッタリ尻に張り付く、穿いてる意味も無いような、ちっぽけな布っ切れ―――しかも、色は黒。
もちろん、ブラジャーとはお揃いであろう。コレはもう、確認せずとも予想がつく。
そして。眠る自分に、その両方を着替えさせたのは………もちろん。
………生かしちゃおけねぇ、あのクソ親父ッッ!!
せっかく下がってきた血が、また一気に沸騰し。
決意も新たに、がんっ!! と。
力一杯、床を拳でぶん殴って―――通常であれば。
オレの怒気に任せた、その一撃は。見事なひび割れを、生じさせていたであろうに。
生憎、現在の腕力では。
傷一つ入らなかった上………一瞬の時間差の後。
打ち付けた腕に、ビリビリとした痺れが、這い登ってきて。
拳が砕けたんじゃないか、と思うほどの痛みに。
オレの顔色は、青くなり―――赤くなり。仰け反って、絶叫する。
「い゛ッデぇぇぇ~~~~~~ッッ!!!」
じんじんと、一気に腫れ上がった拳を。涙目で、フーフー、冷やしながら。
女性というものは、コレほどまでに、非力で不便なモノだったのか。
―――今度からは。顔の美醜に関わらず、女性には親切にしよう、と。
哀しいだけの、実感と共に。
オレは、日頃の自分の行いをも………つくづく、反省してみる。
しばらくすると、痛みと痺れは薄らいで。
自業自得とはいえ。
これ以上、厄介な状況を招かなかったコトに、とりあえずホッとした。
まぁ。状況は、相変わらずサイテーなままなのだけれど。
それどころか、あのアーパー親父のコト。
着替えさせている途中、記念撮影やら何やら。
いらんメモリーを増殖させていることは、想像に難くない。
………いっそ、塔ごと葬り去ってやっか。
物騒なコトを考えつつ、オレはきりきりと唇を噛む。
もっとも。
自分の身を守ることさえ、ママならないこのザマで。
反撃に打って出ようにも、今の所。こちらの分は、一つも無いのだけれど。
それでもオレの中に、闘志はフツフツと、湧き上がってくる―――ちなみに。原因は何かを真剣に考えると、せっかくの闘志が萎えていくので。敢えて、ムシすることにし―――とにかく。この、クソ動きにくい格好を、何とかしようと思う。
バリケードを作ったせいで、汗をかいてしまったし。
胸元も乱れているし、散々かきむしった頭はボサボサだし。
オマケに破れたスリットから、動く度にパンツが覗く(!!)し。
見ようによっちゃ、強姦されかけたようにさえ、見えるだろう。
このままでいる方が、よほどに危ない。
―――けど、このまま。
マジックの着せ替え人形でいるのも、マッピラゴメンだぜッ!!
マジックの用意した、マーメイドドレスを。憎憎しげに、蹴っ飛ばすと。
オレは、ドレスの林に首を突っ込み、物色を始めた。
―――それにしても。どれもコレも、見事なほどに『女らしい』服しかねぇナ。
パッと見、オレが求めている種類の、動きやすい服は見当たらないが。
しかし、ナメてはいけない。
『王子』という身分にも、関わらず。
今まで、イロイロあったおかげで。オレの特技は、家事全般に渡る。
―――無けれりゃ、作ればいいんだよッ♪
針と糸を取り出すと―――どっから出した、とか突っ込み厳禁。このくらい、今時のデキる男のたしなみ(!?)だぜ―――伸縮製のある布地のドレスを、選び出し。
しばし、チクチク、裁縫に勤しんで。
出来上がったのは。黒いタンクトップと、黒のショートパンツ。
それに、アンサンブルから剥ぎ取った、黒のジャケットを羽織った。
本当のトコロ、パンツはロング丈が良かったのだけれど。
布地の都合上、ショート丈にするしかなかった。
ちなみに。どこぞのどーしようもない親戚が率いる、某隊服を連想させる黒で、敢えて統一したのは。
―――下着が、黒なんだからしょーがねぇだろッ!? 淡い色だと、透けるンだヨッ!!!
『アノ』マジックの、コレクションだ。
探せばもちろん。下着だって、もっとマシなのが見つかっただろうが。
見つけ出せたトコロで、自分で着替える自信は全ッ然ッ、無い。
単に、脱いで穿くだけだけのコトなんだけど。
………ヘンタイになった気がするから、ぜってぇイヤ。
げんなりと、胸の内で言い訳して。
ようやく、不自由な格好から解放されたオレは、ゴロンと床に寝そべる。
着替え終わったら、呼べと言われていたのだけれど。
どーせ呼ばずとも、その内しびれを切らして、勝手に入ってくるだろう。
………そう。言いなりになんて、なってたまるかヨ。
先刻は、コッチも相当動揺していた。
だから、ついうっかりマジックのペースに巻きこまれ。いいように、扱われてしまったけれど。
諦めて、助けを待ってるなんて、オレじゃねぇ。
落ち着きを取り戻すと。生来の負けん気が、頭をもたげてきて。
―――そうだ。武器だって、無ければ、作ればイイんだよなッ!?
がばり、と起き上がると。
オレは、その辺り中を引っ掻き回し。
手当たり次第に、使えそうなモノを掻き集め始めた。
******************
「シンちゃーん? お着替えすんだぁ?」
マジックの声が、響くと同時に。
ガチャリ、と。ノックも無しに、扉は開かれた。
勝手に入ってきた、マジックは。あまりの部屋の荒れ様に。
一瞬、そのまま立ちすくむ。
「ええと………シンちゃーん??」
しかも、閉じこめていたハズの息子(娘?)の姿が、消えていて。
呼びかけても、部屋の中は、シンと静まり返ったまま………。
「あーあ、こんなに散らかしっぱなしで。お片付けもしないで、ドコに行ったんだろうね、シンタローは」
………相も変わらず。
そういう問題では無いだろう、という内容を。
ブツブツと、呟きつつ、彼は。
床にもベッドにも。
至る所に散乱した洋服を避けながら、求める相手を捜す。
「シンちゃーん………おーい、シン子ちゃーん?」
当人が目の前にいれば、殴られるだけではすまない呼び方で。
棚を覗き込んだり、机の引出しを開けたり―――入るわけねぇだろーがッッ!! バカにしとんかいッッ!!! ―――うろうろと、辺りを探し回り。
………不意に。
ことん、と。
完全に天蓋をもぎ取られた上。隙間も見えないほど、服の散乱したベッドの辺りで。
小さな物音が、響いた。
「シンタロー? そこにいるのかい?」
マジックは、疑う様子も無く、ベッドの下を覗き込む―――その瞬間。
トラップは、作動した。
マジックの左右から。
あり合わせの材料で作った、ベトコン仕込みのパンジステークが襲い掛かり。
油断しきっていたトコロに、まともにヒットする。
………今だッッ!!!
先刻、マジックが覗こうと潜んでいた、天井裏に隠れ。
一部始終を、息を詰めて見つめていた、オレは。
真っ赤な血飛沫が上がったコトを確認し、抱えていたシーツを、バサリと落とす。
続いて、身軽にソコから飛び降りると。
天蓋の支柱を数本束ね。掻き集めたワイヤーで強化した、獲物を武器に。
オレは。今まで我慢しつづけていた、ストレスの総てをぶつけるがごとく。
徹底的に、連続殴打をカマし、蹴りを入れる。
「誰がッ『シンコ』ちゃんだッ!!! オレは漬物じゃねぇんだヨッッ!!!」
………ただでさえ、女になって、力が落ちている。
並の相手ならともかく、魔王マジックなのだ。
殺すつもりでやっておかないと、逃げるまでの時間さえ、稼げない。
「クソっ、しぶてぇぞッッ!! とっとと倒れろっつーのッッ!!」
意外に、最初のダメージが少なかったのか。
それとも単に、現在のオレが非力なせいなのか………中々に、マジックはしぶとく。
しばらく「ひぃっ!!」とか「ぎゃふっっ!!」とか叫びつつ、赤く染まったシーツに包まれたまま、もがいていたが。
「………………」
いい加減、オレが疲れてきた頃―――床に倒れこみ、ようやく完全に動きを止めた。
ぜいぜいと、肩で呼吸をしながらも、オレは。
滴る汗を拭うと、強化型鉄パイプを放り出し。ダッシュで、ドアへと向かい。
飛びつく勢いで、ドアノブを捻ると、勢い良くドアを開け放つ。
―――よっしゃあッ、第一関門突破だぜッッ!!!
「どこへ行くんだい、ボーヤ?」
「………へ?」
思わず、ガッツポーズなんか取っていた、オレは。
頭上から降ってきた、涼しい声に、キョトンと顔を上げ。
―――目にした、衝撃の光景に。
パカーンと大きく口を開け、完全に固まってしまう。
そこには。
ボコボコにしてやったハズの、父親が。
ニコニコ笑いながら―――しかも、目は笑ってねぇっ、恐ぇぇッッ!!!―――出入り口を塞ぐかのように、立ちはだかっていて。
「勝手に、お外に出ちゃダメだろう? さぁ、戻って戻って」
まるで、小さな子供でも、扱うかのように。
硬直したままのオレの体を、抱き抱えて………そのまま、中に戻される。
―――パタン!! と。
希望への扉が、閉まる音に。
唖然としたままだった、オレはふと、我に帰り―――恐る恐る、背後を振り向いた。
………じゃあ、さっき、オレが。
完膚無き迄に、叩きのめしたのって………ダレ??
こわごわと、血染めのシーツを見つめていると。
………やがて。真っ赤に染まったシーツは、もそもそと動き出し。
「う、うぅ………な、何どす………」
現れたのは。完全に顔の形の変わった―――しかし、とっても見覚えのある青年。
「あ、アラシヤマぁ!? 何で、テメーなんだョッッ!!!」
突然現れた、オレの部下兼ストーカー(ヤヤコシイ生き物だヨ、ほんとに、コイツはッッ!!)に。
ギョッとして、詰め寄ろうとしたオレだったが―――しっかりオレの体を拘束する、マジックの腕が。ソレを、許さない。
「ふふふ、スゴイだろう? パパの変わり身の術♪」
得意満面、耳元で囁かれ。
「―――あぁあぁッ、プリンセステンコーもビックリだョッッ!!!」
半泣きで、オレは怒鳴り返した。
入ってきたのは、確かにマジックだったのに。一体、イツ、どうやって入れ替わったものか。
恐るべし、魔王の(カナリ無駄なコトに消費されている)魔力ッッ!!
「あぁ、シンタローはんッッ………わて、シンタローはんの、隠し撮り写真の整理しとりましたら………急に、目の前が、暗ぉなりまして………気がついたら、こないなコトに………一体、ダレが………」
「あ、そぉぉ。大変だったナ」
『隠し撮り写真』云々の台詞に、オレは。いつかコイツごと吹っ飛ばしてやろう、という密やかな決意を固めたけれど。
一応加害者である為に、ちっとは同情しているような顔を、作ってみる。
「はぁ………ここ、天国どっしゃろか………わて、シンタローはんが、おなごはんみたいに、美しゅう見えますわ…………」
「そうか、良かったナ。んじゃ、そのまんま、成仏しろョ?」
半死半生で、虚ろなウワゴトを呟きつづける、アラシヤマを。半眼で、見つめつつ。
ボコにしてしまったのが、半不死身のナマモノなコイツで。ホントに良かった、と。
しみじみ思うと、自然に笑顔になった―――ソレが、いけなかったらしい。
「………って、シンタローはん? 何やホンマに、おなごはんにならはってまへんッッ!?」
叫んだ、アラシヤマの視線は。
黒いタンクトップごしに、ツン、と盛り上がる。
形のイイ、二つの膨らみに、ピタリと照準を合わせていて。
「―――てめぇっ、ドコ見て、言ってンだヨッッ!!??」
思わず赤面しながら、オレは。前をかき合わせ、慌ててくるりと後を向く。
すると。
マトモに、マジックと向かい合わせになる、姿勢になって。
~~~~~~ッッ、うあぁッ!! 前門のアラシヤマ、後門のマジックッッ!!??
正に、究極の選択で。進路も退路も断たれ、ひたすら冷汗をかくばかりの、オレに。
「シンタローはんっッ!! わての為に、そんな美しゅうなってくれはったんどすなッッ!!??」
「ちっが――――――――――うッッッッ!!!!」
一体、何をどう都合よく解釈したら、そういう結論に達するんだッ!? テメェはッッ!!
オレの心の底からの絶叫を、モノともせず。
がばあっっ!! と復活したアラシヤマは。
モトモトの流血に、鼻血まで加えて。
凄まじいスピードで、こちらへ向かい走り寄ってくる。
「やっと、わてのお嫁はんに、なってくれはるんどすなッッ!!??」
「ならねぇヨッッ!!!!」
―――大体テメェ、常日頃主張してたのは『心友』だろーがッッ!! 勝手に『嫁』にすりかえてんじゃねぇぇッッ!!!
思いっきり引いている、オレの心を知ってか知らずか。
「マジック総帥ッ!! わてのシンタローはんから、離れておくれやすッッ!!」
ごおぉぉぉッッ!! とか。
無謀にも、盛大に背後から炎を噴出し、燃え始めた。
「ほぉ? 私と戦うつもりかい、アラシヤマ?」
面白そうに微笑う、マジックの青い瞳が、冷たく煌き―――途端に、自分が挑んでいるのがダレなのか、思い出したようで。
一瞬、アラシヤマは怯んだように立ち竦む。
「―――オイオイ。テメーの敵う相手じゃねーぞ、やめ………」
………待てよ?
勝負になるはずも無い、無謀なアラシヤマの挑戦に。
一応、制止しようとした、オレは。ふと、思いつく。
―――コイツに、マジックを押し付けておけば。オレが逃げる時間ぐらいは、稼げねぇか?
何と言っても、実力に差はありすぎるけれど。
足止めぐらいには、使えるかもしれない………ィよォしッッ!!!
「アラシヤマ、助けてくれ」
マジックに、拘束されたまま。
オレは、及び腰になってきたヤツに、そう呼びかける。
「シンちゃん?」
「し、シンタローはん??」
滅多に聞けない、オレの殊勝な台詞に。
それぞれから、不思議そうな声が掛かるが。
オレは、アラシヤマだけをジッと見つめ………もう一度、繰り返す。
「頼む………オレを助けられるのは、『心友』のオマエしかいねぇ」
瞬きを我慢し、瞳をうるうると潤ませて。
なるべく可憐に見えるよう、上目遣いに。
ちょっとばかし、引きつりながらも―――だが、どうしても『嫁』とだけは言わねぇ―――そう、訴えてみると。
萎えかけていた、アラシヤマのやる気の炎が。
再び、一気に燃え上がった。
「もちろんどすッ、シンタローはん!! いやさ、シン子姫ッッ!! わてが、その魔王から必ず助け出してみせますえッッ!!!!」
―――姫じゃねぇし、漬物でもねぇヨ。どいつもこいつもッッ!!!
額に、クッキリ青筋を立てたまま。
オレはもはや、笑顔とさえ呼べない笑顔で「わー、頼りになるナー」とか。
おざなりにパチパチ手を叩いてやると。
―――すぐ側で、苦笑する気配がした。
「………なるほどね。おまえは勇者じゃ無いんだけど―――余興には、なるかな?」
呟くと、マジックは。ようやく、オレの体を解放する。
………勇者? 余興って――――??
その呟きの内容が、気にはなったものの。
このチャンスを不意にする程オレは、間抜けじゃねぇ。
「じゃあナ、アラシヤマ!! 後は頼んだぜッ!!」
「―――えっ、て、シンタローはんッ!?」
「オレは、オマエの足を引っ張んないように、先に逃げるわ♪」
睨みあう二人に、くうるり、背を向けて。
スタコラサッサと、走り出す。
「シ、シンタローはーんッッ!!??」
「まぁ、お姫様は戦うものじゃないしネ。じゃあ、行くよ? アラシヤマ」
あ―――――。親父のヤツ、この状況、楽しんでやがる。
対する、アラシヤマは。オレに見捨てられ、再び及び腰になったようだ。
最初ッから、アラシヤマごときが、マジックに勝てるとは思っちゃいないケド。
―――オレが逃げられるだけの、時間ぐらい。稼いでもらわなきゃ、困るし。
しょうがねぇな、と。こっそり舌打ちして、オレは。
一変、表情を変える。
走りながらも、振り向いて、にーっこり、と。
極上の微笑みを、披露してみた。
「待ってるから、早く来いヨ?」
ついでに、ウインクなんかもサービスでつけてやると。
途端に、ぶ――――ッッ!!! と。盛大な鼻血の噴水が、四本立ち昇り。
「~~~~~~ッッ!!! シン子姫ッッ!!! 大船に乗ったつもりで、わてに任せといておくれやすっっ!!!」
「ズルいっ、シン子ちゃん!! ソレ、パパにもやってよッッ!!!」
………モトに戻ったら、コイツら。絶対、完膚なきまでに、ぶっ殺すッッ!!!
そう誓って、逃げつづける。その時のオレの表情は、多分。
般若の面も、ゴメンナサイ、と。
謝罪してしまうほど、凶悪な表情であったことだろう。
ウェディング・ウォーズ!!(前)
小さい頃―――特に、オンナのコなら。
大概、一度は。親に訴えたコトが、無いだろうか?
”どうして○○○って名前をつけたの? もっと、×××のが良かったのに”
○○○には、自分の名前。
×××には”可愛い”でも”キレイ”でも、何でもスキな表現を入れて欲しい。
………そして”彼女”。
ガンマ学院理事長マジックが、異様に溺愛する一人娘の場合は―――こうだった。
「何だって、シンタローなんて名前、つけやがったッッ!! もっと女らしい名前、思いつかなかったンかよッッ!!!」
「えー。だってパパ、あんまり日本人の名前に、詳しくなかったし。最初の子供には”タロー”って付けるといいって、聞いた事あったからぁ………」
「そりゃ、オトコの話だろ~~~~~がッッ!!!」
………そう。この、非常識オヤジ。
可愛い可愛い、最初の娘に―――よりにもよって”シンタロー”なんて名を、つけやがったんだっっ。
大体、母親も母親である。
何だって、反対してくれなかったんだ、と。
幼き日のシンタローは、もちろん詰め寄ってみたモノだが。
――― 一体、ドコが良かったのか。
このヤッカイ極まりない親父に、ベタぼれだった彼女は。
『パパの付けてくれた名前に、文句なんてあるハズないじゃないー?』とか。
おっとりのんびり、100%ノロケで構成された、切り返しに。
思わず、それ以上の文句を言う気力の失せた、彼女だった。
………何故なら。そういう場合に、必要以上に食い下がった場合。
その後、たっぷり三時間は。出会いから、現在の暮らしに至るまで。
200%、天然ノロケで構成された『パパとママの恋物語』を、延々聞かされるハ
メに陥るので。
―――そんな、お茶目な母親も。
数年前、病がモトであっけなく天に召され。
現在、思春期真っ盛りの、シンタローは。
言動と行動に、とかく問題の多いコノ父親と、二人暮らしなのだが。
「ところで、シンちゃん? 何だって今更また、そんな事言い出したんだい?」
「………うっせぇ。一生っ、何百回だって言ってやるッッ!!!」
ずずずず~~~~~~っ、と。
音を立てて、味噌汁をすすりつつ。彼女は憮然と、宣告して。
―――シンちゃんって、見た目は、とびっきりの美少女なのにねぇ?
―――まぁ、その性格では。大概のオトコがヒクのも、無理も無いだろうな。
同い年の従兄弟どもの、昨日の言葉を思い出すと。
改めて、ムカッ腹が立ってくる。
『オレの性格が歪んだのは、こんな名前つけやがった、オヤジの責任だッッ!!!』との、シンタローの反論には。
『持って生まれたもん(でしょ)(だろ)』と。
ご丁寧にも、声を揃えて、言い切って下さり。
―――最後の、マトモな頼みの綱を。
自分で切っちまった、と。彼女が気づいた時には、もう遅く。
思わず。力一杯、タメ無し眼魔砲を喰らわせてしまった後で。
命にこそ、別状は無かったが。二人とも、全治一ヶ月+αの大怪我。
―――包帯グルグル巻きの……なんて。絵になるわきゃ、ねーし。
ちっくしょ、結局。あんなヤツとスル羽目に、なっちまったじゃねーか………うぜぇナ。
「ごっそさん………んじゃ、行ってくる」
ザザッとすすいだ食器を、洗浄器に突っ込んで。
床に転がしてた、学生鞄を取り上げると。
シンタローは背中越し、父親に手を振って。
そのまま、玄関に向かおうとしたのだが。
「待ちなさい、シンタロー」
「………んぁ? ぁんだヨ」
イキナリ、そう呼び止められ。
目一杯不審そうに、面倒臭そうに、顔だけ振り向いた。
―――コイツがオレを『ちゃん』外して、呼ぶ時にゃ。
後に続く台詞は、どうせロクなもんじゃねぇんだよナ。
「パパに何か、隠し事をしていないかい?」
「あぁ、してるぜ?」
―――キッパリ、と。
何だ、そんなコトかヨ、と言わんばかりの態度で、言い切ってやると。
「………酷いっ、酷いよッ、シンタローッッ!!!! 母さんが死んだ時『二人で手を取り合って生きていこう』って誓ったのにッ、パパに隠し事をするなんて~~~~~~ッッ!!!!」
よよよよッ!!! と。エプロンの裾を噛み締め、泣き喚く父親(四十代)の姿は。
………血の繋がりを、全面否定してやりたくなる程、見苦しい。
「うっせーなッッ!! 十七にもなった娘が、父親に隠し事ぐらい。フツーするに、決まってんだろーがッッ!!!」
―――つーかそもそも、どこのどいつが『手を取り合って生きていこう』なんて、誓ったんだヨッッ!!??
勝手な作り話に憤る、彼女の前で。更にマジックは言い募る。
「だってっ、シンちゃん今までパパに隠し事なんか、しなかったじゃないかッッ!!!」
「してたに決まってるだろーがッッ!!! 隠し事だらけだヨッ、アンタとオレの関係なんか………って、ぅああああッッ!?」
アホな事ばっか言ってんじゃねぇ!! と。
ついには体ごと振り向き、怒鳴った、シンタローの視界に。
マジックの背後に設えられた、掛け時計が飛び込んできて。
あと数分で8時となる、その表示に。思わず彼女は、息を飲む。
―――そうだった!! オヤジと、悠長に早朝漫才カマしてる場合じゃ、ねぇッ!!
今日は、彼女の所属している生徒会の、恒例早朝ミーティングの日だ。
………かったりぃ、と思うけれど。
会長であるシンタロー自らが、遅刻して行くわけにもいかない。
「ヤッベェ、もう行くぜッッ!!」
「あっ、待ちなさいッッ!! ちょっと、シンちゃん、まだ話は………ッッ!!!」
マジックの制止の声を、あっさり無視し。
焦りまくった彼女は、くるりと身を翻すと。
「オヤジも遅刻すんじゃねーぞっ、んじゃーなッッ!!!」
「待ちな………ちょっと、シンちゃ――――んッッ!!!」
まだ、何ごとか叫んでいる、彼を置き去りに。
シンタローは、自宅から徒歩十分の学校へと。
プリーツスカートの裾を乱し、猛ダッシュをかける。
才色兼備、文武両道の誉れも高い。マジックの自慢の、愛娘の姿は。
あっという間に、見えなくなり。
しなやかで眩しい、その後姿を
ただ呆然と、見送ることしかできなかった、マジックの胸の内に。
モヤモヤとした不安が、頭をもたげてくる。
―――だぁから、よぉ? アニキ。干渉し過ぎだって言ってるだろ?
くつくつ、と。
マジックの、頭の片隅で。問題児の弟が、唇を歪めて嘲笑う。
―――シンタローは、アンタから逃げちまうかもナ?
数日前の会話を、リフレインさせながら。
ギリギリと、無意識に。唇を、噛み締めていた。
******************
生徒会執行部の、恒例ミーティングは。
毎週金曜の朝、八時からHRまでの三十分間。
何故、こんな中途半端な”早朝ミーティング”などというモノがあるのか、というと。
シンタローが会長を務める、ガンマ学院高等部、生徒会会則には。
『週に一度は、執行部の全員が一同に介し、より良い活動の為に協議を行う事』という。
代々絶対厳守とされてきた、創立以来の、決まりがあって。
そして、執行部のメンバーの内。
シンタローとアラシヤマ以外の全員が、何らかの部活動に所属している現状で。
「放課後の定例会は、勘弁して欲しい」という、要請を受け。
早朝ミーティングが、恒例と相成った次第だ。
とは言っても、十二月に入った、現在。
差し迫った決議事項も無ければ、生徒会主催の、学校行事の予定も無い。
イベントは、あるにはあるのだが。
『クリスマスと忘年会、併せて”クリボー”』という、終業式の後に開催される、任意参加のお気楽イベントは。
伝統的に、派手好きでお祭り好きで恥知らずな、我が学院の理事長と校長が結託し。
その全面バックアップの下、各教師に任命された、特別委員会主催となる為。
生徒会執行部は、基本的にノータッチとなる。
故にこの時期、定例会以外の仕事が無い。
つまり、一言で言うと。珍しくも生徒会が、ヒマな季節なのである。
―――っつってもヨ。煩雑期にゃ、イヤでも毎日顔を合わせてるっつーのに、ったく。
メンド臭くて、ショーがねぇ、と。その美麗な顔中に、力一杯殴り書きしているが。
だからと言って、唯一の決裁権を持つ彼女が、サボってしまえば。
そもそもこのミーティング自体、意味が無くなる、というコトを忘れられるほど。
無責任にもなれない、シンタローである。(ちなみに。”父親譲りだ”と事実を指摘されると、激怒する)
『生徒会執行部』と記された。木製の簡素な看板の掛かる、その扉を開けると。
何やら”ジメッ”とした空気が、流れ出してきたが。
しかしもう、哀しいコトに。シンタローは、すっかり慣れたもので。
「おぅ、アラシヤマ。おはよーさん………アレ? オメーだけかよ」
あっさりと。その”ジメッ”の発生源である、相手に声を掛け。
定刻ジャストに、席についているのが彼だけだったコトに。
―――焦って損した、とか。かなりガッカリしてしまう。
書記のミヤギとトットリは、いつもワンセットだから。
一方が遅れるなら、間違い無く、もう一方も遅れる。
会計のコージは、そもそも『誰がコイツを、会計にした!?』と思うほど。
おおらかかつ、大雑把な人間の為。
予定時刻など、破られる為に存在する、と思っているようだし。
いつもは一番乗りの、副会長キンタローだが。
昨日、彼女に撃沈され。
『死んじゃう~、学校なんか行けなーい』とか、喚き立ててるに違いない、グンマを思えば。
ソレを宥めるのに、いっぱいいっぱいで。ミーティングどころでは、ないのだろう。
………ったく、キンタローはともかく。
何だってオレの従兄弟のクセに、あんな軟弱なんだヨ、グンマってヤツは!?
もう何十回、イヤ、何百回目になるのかも解らない。
不甲斐のないイトコに対する、不満に。むぅ、と眉根を寄せた瞬間。
「おおお、おはっ、おは………あのっ、あのっ、シンタローはんッッ!!!」
『ジメッ』としているのは、相変わらずだが。
半分髪の毛に覆われた、端麗な顔を。うっすら上気させた、アラシヤマに。
そう、声を掛けられ。
「あぁ? ァんだよ?」
爽やかな朝に、全く似つかわしく無い。
妙にギラついた、熱っぽい視線で見つめてくる彼に。
『妙なコトしやがったら、三秒で静めンぞ!?』という気迫を込め。
シンタローが、睨みつけると。
「あ、そのっ、ゆ、昨夜のコトなんどすケド………」
―――避ける事が出来ないのは、解っていたけれど。
ギリギリまで、ソッとしておいて欲しかった話題を持ち出された。
「………あー、アレね。まァ、よろしく頼むわ」
ポリポリ、頭を掻きつつ―――微妙に遠い目で、そう答えると。
「そそそ、そのッ!! ホンマに、わてでええんどすかッ!!??」
鼻息も荒く、ズズイッっと迫ってきて。
思った以上に(イヤ、コイツだし。ある程度は、想像してたんだけどヨ?)過剰な、アラシヤマの反応に。
シンタローは、早まったかナ、と早くも後悔を始め。
なるべく目を合わすまい、と。
明後日の方向を向いたまま、思いっきり本音で呟く。
「………別に。オマエがイヤなら、オレは他の相手、探すケドよ?」
「―――そんなッッ!!! イヤやなんて、そんなアホなコトッッ!!! わて、喜んでシンタローはんと、ケッコン………」
「うああああぁぁ!!! 言うなッつったろーがッッ!!!!」
―――クソッ、やっぱコイツにだけは、持ちかけンじゃなかったッッ!!!
慌てたシンタローが、アラシヤマに飛びつき、その口を塞いだ瞬間。
ガラリ、と扉が開いて。ゾロゾロと、他の執行部メンバー達が入って来る。
「おはよー、だっちゃわいやー。アレ? シンタロー、何でアラシヤマとイチャついてるっちゃ?」
「オハヨだべ。何のかんの言いつつ、仲いいべなぁ、オメら」
「おう、早いのう、ヌシら!! 何じゃあ、今、『ケッコン』とか聞こえた気がするんじゃがのぅっ!!??」
一気に、騒々しくも個性的な面々に囲まれた、彼女は。
内心焦りまくりで、アラシヤマの首筋を締め付けつつ、ニッコリ挨拶を返す。
「おぅ、オハヨーさん。『ケッコン』じゃなくて『ケットウ』だぜ『決闘』。ワン・ツー・スリー!! ホラ、オレの勝ちぃ~~~~~!!!」
そのまま一気に、アラシヤマの頚動脈を止め、オトしてしまうと。
青く冷たくなった体を、放り出し。
「つーか、オマエら遅刻ッ! いくら開店休業中だからって、気ィ抜くな? ホラホラ、ミィーティング始めっぞ!!!!」
何事も無かった態度で、テキパキと指示を出す。
結局、定刻より、10分遅れのスタートだが。
前述の通り、議題など有って無いようなモノだ。
十二月に入った今、年間の重要行事の殆どは、終わっていて。
本年度内の決定事項と言えば、三月の三年の卒業式の進行と、来年度の予算編成ぐらい。
そして、そのどちらも。本格的に討議に入るのは、年が明けてからになる。
「アレ? 副会長は、どしたべ?」
「グンマの体調不良で、遅刻か休み。んじゃ、トットリ、始めてくれ」
「あ、えっと。来年度の予算案と、後、学院側から『冬季休業前の風紀の乱れ』についての対策だわいや」
「…………風紀の乱れぇ? 校長が言ってんのかよ。そもそも、この学院、理事長と校長の存在自体が、風紀乱してるだろっつーの」
「ワレ、相変わらず身内にキッツイのぅ………。ワシなんか、妹のウマ子がもぅ、可愛ゅうて可愛ゅうてvv」
「オマエの妹自慢は、聞く耳持たねぇ!! 後、学院内でオレの身内の話、すんな!!!」
無遠慮な、コージの言葉に。
むぅっ、とシンタローは。唇を尖らせ、その内容を全否定してやるが。
そんな、表情をすると。
普段『凄まじい美人』とか『息を飲むほど美しい』などと評価される、彼女の容姿は。
………意外な程、歳相応の『微笑ましくも、可愛らしい』印象となる。
そんな表情を、垣間見る事が出来るのは。
彼女が”身内”と認めている、ごく限られた人間だけなのだが。
「………今更隠すだけ、無駄だべ?」
「もうみんな、知ってるだっちゃいやー」
「うっせぇ!! だから、尚更思い出させるなっつてンだッ!!」
「あははは、無駄な足掻きだっちゃね、シンタロー」
邪気が無い分、トットリのコメントには、殊更に腹が立って。
人生最大にして、最悪の悩みを。
アッサリ”無駄な足掻き”で片付けられてしまった、彼女は。
相変わらず、呑気に床で伸びている”アラシヤマ”を、腹立ち紛れに蹴り上げた。
「………はッ!!?? な、何どす!!??」
「テメ、イツまで寝てんだヨッ!! とっくにミーティングは始まってンだぜッッ!!??」
「ひぃぃぃっ、シンタローはんっ、かんにんどすっっ!!!」
「ほいで、ミヤギ、トットリ。風紀の乱れいうたら、具体的に何じゃあ?」
完全なる八つ当りを始めた、シンタローだったが。
この場の全員、このテの光景には慣れている為。
何事も起こっていないかのように、ミーティングは続く。
「ホレ、もーすぐクリスマスだべ? 毎年この時期、まとまった金欲しさに、学院側の許可の降りねぇ、イカがわしいバイトに精を出す輩が、多いらしいべ」
「生徒会の方でも、各部の部長連に通達して、取り締まりを強化するようにって。校長からの、指示だわいや」
「ほーぉ、校長からの、のぅ………」
―――理事長ならともかく、”あの”校長がのぅ………?
不思議そうに、仕切りに首を傾げるコージの姿に。
つい、八つ当たりの手を止めてしまった、シンタローは。
気づかれぬよう、小さく舌打ちをする。
~~~~~アノ、どーしようも無ぇ親戚、自分も片棒かついてやがるくせにッッ!!!
「シンタロー、どしたべ?」
急に大人しくなった、彼女に。不思議そうに、ミヤギが問い掛け。
彼女は、不自然な程の力を込め、左右に首を振った。
「何でも無ぇっ!! よし、ミヤギ、トットリ。部長会に回して、ソレゾレに言い含めるようにしといてくれ。後、何か具体的な対策が有れば上げて来いってな」
「………あのぉ、シン………ひっ!!」
おずおずと、口を開きかけた、アラシヤマだったが。
彼女が、キッと鋭い視線を投げかけ。
「………何だ? 何か、意見でも有るのかヨ?」
言葉とは、裏腹に。
余計なコト、一言でも洩らしやがったら、ブッ殺す!! という。
無言のメッセージが、伝わってくる。
大変に凄惨な笑顔で、シンタローに応じられた、彼は。
「いいいい、いえ、そんな、滅相もありまへんッッ!!!」
ビビりまくって、大慌てで首を左右に振り立てた。
「他に意見ねぇかッ、ねぇなッ、んじゃHR始まっから、解散ッッ!!!」
一刻も早く、この議題から遠ざかりたかった、彼女は。
やや(かなり?)強引に締めくくると。
唖然としている、他のメンバーを他所に。
コノ場に置いておくと、絶対に余計なボロを出す、と。
自信を持って断言できる、アラシヤマの首筋を、引っ掴むと。
じゃあな、と手を振り。
”ソレ”を引きずったまま、生徒会室から出て行く。
そんな、彼女の。
思いッ切り不自然な、その態度に。
………ウチの王女様ときたら。相変わらず、隠し事が下手だ、と。
残された、執行部メンバーは。
苦笑混じりに、顔を見合わせた。
――― 一方。
人気の無い階段下に、アラシヤマを引きずり込んだ、シンタローは。
「シ、シンタローはんっ、わて、そんなっ!! まだ、心の準備がッッ!!」
「どアホウッッ!!! んなややこしい準備いらんわっ、大体、式は放課後だっっ!!」
寝ぼけたコトをほざく相手の耳元で、声を潜めて怒鳴りつける。
「あああっ、夢のようどすっvv シンタローはんとケッコ………」
「だから、言うな、つッとろーがッッ!!!」
………ダメだ、とてつもなく不安だ。
ドコまでも舞い上がっていく、アラシヤマを尻目に。
本気で彼女は、自分の人選ミスを、シミジミ後悔し始める、が。
ガンマ学院の、理事長―――即ち、マジックが。
(異常に)溺愛する一人娘の、彼女に。
こんな話を、持ち掛けられれば。
一般の生徒なら、まず間違いなくビビって、逃げ出すだけだ。
あまつさえ、ソコから話が広がりでもしたら、計画は総ておじゃんとなる。
それだけの根性と、尚且つ、自分に見合う容姿を持ち併せて。
更に、沈黙を守ってくれる、口の堅い者、と言えば。
ガンマ学院広しとは言え、ごく限られていて。
もちろん、最有力候補だった、キンタローがツブれた(というか、ツブした)昨夜。
アラシヤマだけは、なるべく避けたい、と。
ミヤギ、トットリの順に、ケータイをかけたのだが。
生憎、どちらも、いつまでたっても話中で―――二人揃って遅刻してきたトコロを見ると、二人で長電話でもしてたんだろう。つーか、オンナかョ、おまえらはッッ!!―――シビレを切らした上に、切羽詰ってもいた、彼女は。
結局。しぶしぶ、アラシヤマに、掛けてみるしかなく。
―――そして。出来れば断ってくれ、という願いも虚しく。
話を持ちかけた受話口で、ウンともスンとも反応が無くなるコト、数分間。
切ってやろうか、とシンタローが思った時。
「~~~~~ッふふふふ、ふつつかものですが、よろしゅうお願いしますぅぅぅッッ!!!」
鼓膜を破らんばかりの、絶叫が帰ってきて―――しばしの、沈黙の後。
「あーそーふーん、受けてくれちゃうのねー、ありがとー」
はははは、と。
思いッ切り心の篭もらない、お礼を。
乾いた笑い声と共に、放つしかなかった。
ちなみに、コージを外した理由は。
―――どう考えても、アイツの顔キズ。こういうののビジュアル的に、問題があっからなァ。
ハァ、と。小さく、息を付くと。
何とか、ポジティブな方向に思考を持っていこうと、思い直す。
―――まぁ、アラシヤマは。友達がいない分、万が一にも話が洩れる心配は無いし。
扱いさえ、間違えなければ。
オレの言う事なら何でもきく、とってもベンリーくん♪ なんだし―――ケド。
だが、しかし。
「嗚呼、シンタローはんッッvv 最初の子供は、男の子と女の子と………」
―――常人を遥に凌駕する、突出した、暴走する妄想僻がなァ………。
「いーから、テメェ、もうクラスに戻れ。後、今日一日、いつも以上に誰とも口聞くな、側にも寄るな、キノコ生やしてろ」
………まぁ、言うまでも無く。
普段から不気味なアラシヤマが(カオはイイのにねぇ)、コレほど紫のオーラを噴出してれば。
フツー、マトモな神経の持ち主なら。
半径一メートル以内には、決して近づこうとは、思わないであろう。
クラスが別なのは、果たして幸いなのか、不幸なのか?
この、ニヤケ切った不気味な薄笑いを、一日中見ないで済むのは、有り難いが。
この、尋常ではない、浮かれッぷりで。妙な事、口走らない保証は、ドコにも無い。
じ――――ッッ、と。
本当に大丈夫か、コイツ? とか。力一杯不審げな、シンタローの視線に。
「はッ!? あ、も、もちろんどすえッッ!! こぉーんな嬉しいコト、誰が他人になんぞ教えてやるもんどすかッッ!!!」
………ありがとう、アラシヤマ。
喜びを、トコトン自分一人で噛み締める。
トコトン他人に嫌われる性格のオマエが、コレほどあり難いと思ったコトは無ェ。
カナリ虚しい、喜びに浸ったアトで。ちょっぴり疲れてきた、シンタローは。
「まぁ、頼んだぜ。んじゃ、放課後な」
そのままクールに、アラシヤマに背を向けたが。
「へぇvv わて、この日のコトを一生忘れませんえ!!」
―――シンタローはん、アイラビューンvvv
アラシヤマの飛ばす、ピンクのハートが。
背後から、ガンガン突き刺さってくるのを、感じ。
………相手、間違えた。絶対。
自分から頼んだクセに、しみじみと。
思いッ切りブルーな、溜息を止められなかった。
ウェディング・ウォーズ!!(後)
―――放課後。
早めに部活を切り上げたコージが、生徒会執行部の部室を訪れると。
既に。ミヤギ、トットリ、キンタロー。
シンタローとアラシヤマを除く全員が、顔を揃えていて………+α。
「あー、コージだー。いらっしゃーい♪」
当り前のように、関係者以外立入り禁止の部室で。まくまく、オヤツを貪っている。
科学部部長にして、シンタローとキンタローの従兄弟たる、グンマの。
全く立場を弁えていない、歓迎にも、もはや慣れている。
「………なんじゃあ、ヌシらも、気になったんじゃぁ?」
その存在を気にせず、そう声を掛けると。
「まー、ウチの女王様、隠し事下手だべさ………」
「だっちゃわいや」
腕組みするミヤギに、うんうん、とトットリは頷き。
何のかんの言っても、シンタローは。生徒会執行部の、ただ一輪の大切な『華』だ。
―――否。この、オトコだらけの、ガンマ学院で。
誇るべき、鮮やかで艶やかな、唯一の『華』と言うべきか。
(実は、もう一人。少々毛色が違うものの『華』と称される生徒は、いるのだけれど。その『華』は、少々常識に外れる一派に、がっちり固められている為。基本的に、勘定には入らない)
「それで、副会長? 昨日の夜、何があったべ?」
「………オマエ等にも、シンタローから?」
「僕ら、電話切った後で。着信メール、十件ぐらい送られてきただわいやー」
「でも、もう真夜中だったんで、掛け直さんかったべ」
―――今朝聞こう思たら、それどころじゃねぇ雰囲気だっただべ?
「………ということは。アイツ、本気で………」
トットリと、ミヤギの証言に。
何やらキンタローは、真剣な表情で、眉を潜めていたが。
「やぁ、お邪魔するよ」
ノックと、殆ど同時に。執行部の扉が、開かれて。
入ってきたのは、鮮やかな金髪の、品の良い壮年男性―――この学園の”名物”とさえ言われる。シンタローの父親にして、キンタロー達の伯父たる、理事長マジックだった。
「あれぇ? オジさまー?」
「叔父貴………」
「理事長!!」
各々が。思いがけない突然の訪問者に、驚いている間に。
素早く中を見回し、愛娘がソコにいないコトを確認した、彼は。
「ココにもいないな………キミ達、シンちゃんがドコに行ったか、知らないかい?」
「いや、知ら………」
―――内心の動揺を、押し殺し。
素知らぬ顔で、答えようとした、キンタローの言葉を遮り。
「シンちゃんなら、今頃、結婚式だよ?」
啜っていたジュースから、唇を離して。
あっさりと、グンマが口を挟む。
「「「「――――――ッッ!!!」」」」
四人分の、声にならない悲鳴が、その場に響き渡る中。
マジックの、端麗な顔が―――笑顔のまま、見る見る内に、凍りついて行き。
「誰が………結婚式だって?」
「シンちゃん。んっとね、今日どうしても、結婚したいんだってー」
その部屋に流れ始めた、異様な雰囲気をモノともせず―――というより、気づいてさえいないと思われる―――ペラペラと、グンマは。
昨日のシンタローの、不審な行動を。ストレートに、総てバラし。
その場の誰もが、頭では、グンマの口を止めなければ、と思っているのに。
マジックから放たれ、凄まじい勢いで増していく。
尋常では無い、威圧感に………呼吸さえ、ままならない。
「………で、場所は?」
「えっとね、ハーレム叔父様の知り合いの、教会。多分、ホラあの、新しく出来たトコだよねぇ、キンちゃん?」
やはり、まったく。
自分が、メガトン級の核爆弾を投下したことさえ、気づいていないグンマは。
殆ど病人のような顔色で、固まっている。
従兄弟と同級生達に向かって、のーんびり同意を求めてみたが。
その答えを、待たずして。マジックは無言の内に、踵を返す。
運悪く、気の弱い人間が目にしたならば………絶叫を上げ、腰を抜かしそうな。
恐ろしく獰猛な表情で、大股に歩く、彼の脳裏に。
くっきりと甦る、弟の不吉な言葉。
―――案外、シンタローだって。アニキの束縛がうっとおしくて、逃げ出そうとしてるかも、ナ?
―――まさか!! ウチの、シンちゃんに限って!!!
やや、心当たりがある為。
少々、引きつりながらも………そう、全面否定した、兄に。
―――そうかぁ? アニキが思ってるより、ずっとカゲキだぜぇ、最近の女子高生は。そうそう、シンタロー。何かオレに『結婚式場』について、とか聞いてきてたしなァ………?
”シンタロー、アンタから逃げちまうつもりかもナ?”と。
常に見られない、兄の動揺ッぷりを楽しむように………その、問題児の弟は。
やたらに意味ありげに………そんな風に、締めくくって。
直後に、PTAと教職員全員による会議が始まった為。
追及の機会を失い、今日迄来てしまった。
―――しかし、まさか。まさか、そんな、馬鹿な話………ッッ!!!
マジックの歩調は、次第に早まり―――やがては。
自ら作った『廊下はゆっくり歩きましょうvv』という校則を、粉々にする勢いで。
ウッカリ遭遇した、不運な生徒達を跳ね飛ばしつつ………人間離れした速度で、走り出した。
******************
『荘厳』と言うには、程遠い。如何にも”式の為だけに設えました”という。
どうにも安っぽい、教会風の部屋に鳴り響いていた、電子オルガンの音が止むと。
何だか、フランシスコ・ザビエルに、やたらに酷似した(そういう禿げ方だったのだ)神父が。
1980円で、フツーに本屋に売ってそうな、ありふれた聖書を片手に。
型通りの、誓いの言葉を述べ始めた。
「………では、新郎アラシヤマ。汝は、その健やかなるときも、病めるときも………」
「誓いますえッ!!! 誓いまくりますッ、わてには一生、シンタローはんだけどすぅっ!!!」
―――揺り篭から墓場まで、わてらはず~~~~ッッと一緒どすえッ!!!
興奮がピークに達しているらしい、アラシヤマは。
神父の言葉を遮り、そんな絶叫をカマしてくれて。
二人の後ろに居並ぶ、参列客の間から。クスクス笑いが、洩れる。
「~~~~ッッ、アホ!!! 『誓います』だけでいいって、言っただろぉーがぁッッ!!!」
猛烈に恥ずかしくなった、シンタローは。
思わずポカリと、その後頭部を殴りつけ―――すると。クスクス笑いが、ドッと爆笑の渦になり。
真っ赤な顔で、俯くしかなくなる。
すると。彼女の視界に、飛び込んでくるのは。
目に痛いほど、真っ白な――――純白の、ウェディングドレス。
形の良い、Dカップの胸から。
キュッとくびれた、ウェストまでのラインを強調する、上半身のデザイン。
ソレと対照的に。チュールを、幾重にも重ねたスカートは。
ふんわりと、腰から下を覆い。身動きする度に、サラサラ揺れる。
―――ねぇ、ホント。なんて綺麗な花嫁さんなのかしら。
―――二人とも、真っ赤だぜ? 初々しくて、お似合いのカップルだよなァ?
イヤでも飛び込んでくる、参列客の評価がイタい。
とにかく、早く。こんな式を、終らせて欲しくて。
シンタローは、縋るような視線を、神父に送った。
「………ごほん。えー、では、新婦シンタロー。汝は、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
神父の、大仰な言い回しに。自ら、望んだというのに。
―――言いたくねぇなァ、と。
この期に及んで、彼女は。本気で、ゲンナリしてしまっていたが。
言わなければ。
いつまで経っても、このこっ恥ずかしい、晒し者状態が終らない。
しぶしぶ。ハゲの神父も、舞い上がりまくったアラシヤマも。
なるべく視界に入れぬよう、不自然に顔を反らしたまま。
シンタローは”その言葉”を、紡ごうとした。
「………ッ、ち、誓…………」
「――――ッッ、待ちなさいッッ!!!」
突然の、怒声―――それと、同時に。
ガァン!!! と。凄まじい勢いで、祭壇の真反対に位置する扉が、開かれた。
………と言うより、外から吹っ飛ばされ。
蝶番が外れたらしい、哀れな扉は。
爆音と爆風を巻き上げ、内側へと転がり込んで来て。
「げぇっ、オヤジぃ!?」
「り、理事長ッ!!??」
共によく知る、乱暴な闖入者に。
シンタローとアラシヤマは、一緒に、潰れた悲鳴を上げてしまう。
「……………………………」
だが、マジックは、無言のまま。
焦りまくる二人に、冷たく光る青い瞳を、ぴったり見据え。
固く唇を引き結び、ツカツカと硬質の足音を響かせて。
今、まさに。
永遠の愛を誓わんとしていた二人へと、歩み寄ってくる。
先刻まで。文句の付けようがない、美男美女の結婚式に。
うっとりと見惚れていた、参列客達は―――有り得ない、突然の展開に。
固唾を飲んで、ただ、成り行きを見守る。
祭壇の、一歩手前までたどり付いた、彼は。
ぴたり、とその足を止め。
「………許さない」
―――低い低い、呟きが。その唇から、洩れた。
「ひぃっ、マジック理事長ッ!! こ、これはその………ッッ!!」
「だっ、おち、落ち着け………つーかアンタ、何でココにッ!!?? 」
「シンタローが、おまえなどと結婚ッ!? 私は、許可をした覚えは無いッッ!!!」
二人の言い訳を、遥に凌駕する。
大音声の宣言と共に―――閃光が、走る。
予告さえ無く、ブチかまされた。
一片の容赦も無い、タメ無し眼魔砲。
それは、見事に。シンタローの立っている部分だけを、避け。
哀れなアラシヤマは、もちろんの事………気の毒な神父さえも、巻き込んで。
祭壇もろとも、遠い夜空のお星様と化してしまう。
―――永遠にも、思えるような。耳の痛くなるような、沈黙。
最初に我に返った、参列客の悲鳴を皮切りに。
ほんの、数分前まで。
メッキでしかなくとも。それなりに、荘厳な静けさに包まれていた、教会は。
この常識外れの、闖入者への恐怖に。
一気に、出口へと殺到する参列客達で。蜂の子を突いたがごとくの、騒ぎとなった。
「…っ……マジック、アンタ………ッッ!!」
そんな中、シンタローは。
よりによって、この、最も大切なシーンを。
完膚無きまでに、叩き潰してくれた父親に対し。
声と共に、ふるふると。剥き出しの白い肩をも、震わせていたが。
「帰るぞ、シンタロー」
彼は、それに構う事無く。
冷たく光る青い瞳を、ギラつかせたまま。
娘の手を、乱暴に掴もうとする。
………しかし、その時。
凄まじい激情に、駆られていたのは。
彼女もまた、同じであった。
とんでもない、惨状を巻き起こしてくれた、マジックに対し。
震えながら、呆然と。瞬きを繰り返し―――ついで、青くなり、赤くなり。
最終的に。
父親のソレを、凌駕する怒りに捕われた、シンタローは。
「~~~~~てんめぇ、マジックッッッ!!! この、馬鹿タレ親父が――――――ッッ!!! 」
死人さえ、思わず生き返るような罵声を放つと。
同時に、パッと。白いウェディングドレスの裾が、翻った。
露になった、細い………だが。
鍛えられているが故に、メリハリの効いた、惚れ惚れするような美脚は。
マジックの、胃の真上に。
攻撃力+10の、高いヒールでクリーンヒットし。
ゆうに、彼女の二倍はあると思われる。
マジックの巨体は、易々と吹っ飛び―――無人と化した、客席を破壊しつつ。
騒音と破片を撒き散らし、半ばまで埋まってしまう。
「………ぐぅッッ!!! シ、シンちゃん~~~~!!??」
「『シンちゃん?』じゃねぇだろーッ!!! アラシヤマだけならともかく、一般人を巻き込みやがって!!! 大体、どーしてくれンだよッ!? コレでバイト代、パァじゃねーかッッ!!!」
―――その時の、マジックの。
整い過ぎるほど、整った。端正な顔の、切れ長の瞳を―――見事に二つ、点状にした。
それはそれは、間の抜けた表情は………特筆にさえ、価する程で。
「………へ? ば、イト………?」
「模擬結婚式の、単なるバイトなンだョ、コレわッッ!!」
―――ジョーシキで、考えて。二十歳にもなンねぇ娘が、親の許可無く結婚出来るわきゃ、ねーだろッッ!!!
憤然と言い捨てた、シンタローの指摘は。
非の打ち所がなく、正しい。
それでもまだ、やや状況が飲み込めない様子で。
マジックは、覚束ない口調で呟く。
「バイトって………お金、欲しかったんなら。パパに、言ってくれれば………」
シンタローのお小遣いなら、毎月口座に振り込んでいる。
それも。普通の高校生であれば、ちょっと使い途に困る程の額を。
それで足りない、と文句を言われた事も無いし。
足りない、と言われれば。
もちろんマジックは、最愛の愛娘の願いを(幾許かの、彼にとってだけ楽しい条件付で)聞き入れるつもりでは、あったが。
同年代の女子高生より、確実に堅実な、彼女は。
無駄な浪費をする事も無く、ちゃんと貯金までしているようで。
さすがは、パパの娘vv と。
そんなトコロにさえ、愛しさはいや増すばかりだった、と言うのに。
「………アンタに貰った金で、アンタにモノ買ってやって、どーすんだヨッ!?」
真っ赤な顔のまま―――殆ど、泣き出しそうに上気した顔で、食ってかかられ。
………マジックは、軽く息を飲む。
思い出すのは。数週間前に、交わした会話。
それは、数ヶ月ぶりに顔を見た、愛娘との。
軽い冗談で、コミュニュケーションの一環の、つもりだった。
―――ねぇ、シンちゃんvv パパの今年の誕生日、何のプレゼントくれるー?
―――ハァ!? イキナリ、何言い出すんだョ。大体、誕生日祝うようなトシじゃ、ねーだろ。
ガンマ学院理事長以外にも、幾つかの肩書きを背負っており。何かと忙しい、マジックである。
近年、誕生日当日。日本にいないことさえ、しばしばで。
………今年も、誕生日が近づいて来たなぁ、と思うと同時に。
そういえば、母親が亡くなって―――ここ数年。
愛娘に、自分の誕生日を祝ってもらえた記憶が、無く。
ふと、思い出して。
ちょっと、寂しくなって、言ってみた。
予想通り。可愛い、シンタローの反応は。
ブリザードのように、冷淡だったが。
幸いにして今年は、久しぶりに、日本で誕生日を迎えられそうだと告げて。
――― 一緒に、ゴハンを食べようネvv と無理矢理頼み込んで。
その場で、レストランの予約(自分で、自分の誕生日の。ちと虚しいデス)なんか、していたりしたのだけれど。
………まさか。
本気で、プレゼントを用意しようとしてくれていた、なんて………。
「でも、何で………バイトなら、他にも………」
「アンタが、急に今年の誕生日はコッチにいる、とか言い出すからだろーがッッ!! こんな短期間でそれなりの金額叩きだすにゃ、知り合いのツテで、単発の高額バイト紹介してもらうのが一番イイんだよッ!!」
~~~~くっそぉ!! ハーレム叔父貴のヤツ。水商売はヤだっつったら、こんな恥ずかしいバイトばっか、紹介しやがって!!!
「………あの、愚弟に? 何で?」
「―――あの獅子舞。部下共々、顔だきゃ、やたらに広ぇからナ」
まだ、目一杯怒っている様子の、シンタローだが。
それでも一応、ぶっ飛ばしてやったコトで、少しは溜飲が下がったのか。
腹立たしくてしょうがない、という口調ではあるが。
簡潔に、ココに至った経緯を説明してくれた。
例年どおり、メールか電報でも打って、終わりにしようと思っていたから。
コレといって、プレゼントを用意していなかったコト。
当日、顔を合わせるのに。
何もナシじゃカッコが付かねぇ、と。叔父―――サービスに、相談をしたコト。
ソコにタマタマ居合わせた、もう一人の叔父………ハーレムが。今回の、模擬結婚式も含め。
(校長のクセに)校則スレスレの単発のバイトを、幾つか紹介してくれたコト。
「そのクセ、あのオッサン!! 急に邪魔するようなコト、言い出しやがって!!!」
―――それは、まぁ。
ハーレムにはハーレムの、ちょっとした事情があってのコトだが。
ソレはまた………別の、物語ゆえに。
この時点でのシンタローには、叔父の行動がサッパリ解らない。
ただ、今回の件で。
(ロクでも無いバイトばかりとは言え、確かに収入には、文句の付けようが無いものばかりで)ちょっとは、感謝してやっていたというのに。
再び『どーしよーも無ぇ、親戚』にまで、評価が逆戻りしただけ、のコトだ。
「じゃ、最近。あんまり、家に居なかったのって………」
流れのままに、問い掛けながら。
もちろん、聞くまでも無く解っている。
自分の誕生祝いを、買うために。頑張ってくれていた、というコトは。
「あーもぉ、知らねぇョ!! 今年のプレゼントも、ナシだ。あとココの弁償、アンタがしろよなッッ!!」
―――くっそぉ、こんな格好までして、アラシヤマにまで頭下げたってのによォッ!!!
………頭を下げたかどうかは、ともかくとして。
まったくもって、今回『骨折り損のクタビレ儲け』となってしまった、シンタローは。
一刻も早く、この場から逃げ出したくて―――何せ、自分はウェディングドレスだし。祭壇の壁に、大穴は空いているし。参列客は全員、廊下に避難して。恐る恐る、コチラを伺っているし。
プンプンに膨れたまま、ズカズカと式場の出口へと向かう。
―――目標の金額は、このバイトで達成出来るハズだったのに。
父親の誕生日は、もう明日に迫っていたのだ。
日払いの、バイト代を貰ったら。その足で、プレゼントを買って帰るつもりだった。
プレゼントしたかったのは、新しい小銭入れ。
恐ろしいコトに、コノ父親。
有り余る程の、名声と権威と財力を持ちながら。
その昔。まだ、シンタローが小学生だった頃。
彼女が家庭科の授業で作った、チャチな小銭入れを―――タマタマ、彼の誕生日が近かった為。父親仕様で、作ってみたソレを―――未だに、後生大事に使っているのだ。
恥ずかしいから、いい加減買い換えろ、というのに。
ボロボロのソレを、いつまでも手放さなくて。
「あーもう、見せモンじゃねぇぞ、散れ散れっ!!」
何やら。信じられない珍獣でも、見るかのように―――それは、そうであろう。ドコから見ても清楚可憐といった風情の、美しい花嫁が。自分の倍以上の体格の男を、ふっ飛ばしたのである―――参列客(正しくは、模擬結婚式を見学に訪れた、カップルとその家族)達は。
未だシンタローに、視線を釘付けにしていて。
何故ならば。
肩を怒らせ、品がイイとはとても言えない態度で、ズンズン歩むその姿は。
まるで、野生の雌豹のように。
危険であると解っていても、目が反らせなくなる………そんな種類の。
魂に刻まれるような、強烈な美しさ。
―――だー、どいつもこいつも、ムカつッッ………!!??
一向に、散ろうとしない観衆に。
シンタローが、力一杯舌打ちした瞬間。
「………ッ、わ………ッ!!??」
「はっはっはっ。皆さん、お騒がせしました。それじゃあ、私たちはコレで♪」
―――あ、弁償請求は、ココに回してくださいネvv
突如、マジックは。その背後から、シンタローを抱き上げ。
従業員らしき制服の男性に、名刺を押し付けると。
全身に、降り注ぐ。恐怖と好奇心の入り混じった視線から、彼女を護るかのように。
悠然と、式場に背を向ける。
「ちょっ、コラ!! アホ親父ッッ!!! 降ろせッ、つーか着替え、このドレス借り物ッッ!!!」
あまりに唐突な、マジックの行動に。思わず、ボーゼンとしていた、シンタローは。
慌てて、ポカポカその頭を殴りつけ、訴えたのだが。
マジックは、構わず歩みを進めて。
入り口に、横付けに乗り捨てていた車に。強引に、彼女の体を押し込むと。
素早く運転席に乗り込んで、アクセルをふかし、車を急発進させた。
「って、ぎゃ~~~~~ッッ!!! 何てコトすんだ、アンタわッッ!!!」
みるみる内に、遠ざかっていく建物を、振り返り。
純白のドレスに、身を包んだままのシンタローは。
常に無い父親の乱暴な運転に、シートにしがみついたまま、そう叫ぶと。
「花嫁奪還、成功♪」
チラリとこちらに、視線を送り。
とてつもなく、満たされた表情で―――ニコニコと、笑う。
「………そもそも、そーいうんじゃ無ぇョ。つーかもぉ、オレの制服~~~~ッッ、鞄~~~~~ッッ、靴ぅぅ~~~~~~ッッ!!!」
盛大に嘆いている、シンタローだったが。
さすがに、運転している人間に眼魔砲をブチかませる程、命を粗末に思ってはいない。
「後で、ティラミスに取りに行かせるって。それより、ねぇ、シンちゃん?」
「あぁ? ンだよ」
完全に、不貞腐れてしまった、彼女に。
マジックは。ウェディングドレスのままの、彼女に向かい、上機嫌に呟いた。
「プレゼント、コレがいいんだケド」
「はァ? アンタに合うサイズなんか、ねーだろ」
おあつらえ向きに、車はオープンカー。
まさか、こういう状態を、狙ってのコトじゃねぇだろーな、と。
シンタローは少し、不審に思うけれど。
―――ともあれ、コノ父親に関わると。ホンッッと、疲れるッッ!!!
十二月の前半なのだが。
暖冬の影響の濃い、小春日和の日差しであり。
何より、相当カッカきたせいで。
………受ける風が、むしろ、心地良い。
ココまできたら、もうどうとでもなれ、と。
シートにぐったり、身を沈めてみると。
「イヤ、そうじゃなくて」
シンタローの。まるで解っていない、コメントに。
ちょっと苦笑した、マジックは。
「このままの、シンちゃんが欲しいナ」
―――約束して。このままのシンちゃんで、ずっとずっと、パパの側にいてくれるって。
改めて、そう言い直し。
ようやく、その意味を理解した、シンタローは。
また、コノ親父は、と。
額に手をやり、溜息混じりに言い返す。
「アホ。可愛い娘を、行かず後家にするつもりかヨ?」
「うぅーん。孫の顔は見たいよネ………あ、じゃあ!! シンちゃんが結婚するトキには、パパも一緒についていく………って、うぅぅぅッ………ッッ!!」
「ドコの世界に、父親連れで嫁ぐヨメがいンだヨッッ!!! つーか、想像でむせび泣くな、まだ嫁いでねぇだろーがッッ!!!」
「やっぱり!! 可愛いシンちゃんを、断固としてお嫁になんかやらないからッッ!!! パパより強い男じゃないと、認めないヨッッ!!!」
「………あのなぁ、ゴジラとでも結婚しろっつーんかッ!! つーか、てめっ、前見て運転しやがれ~~~~~~ッッ!!!!」
激しく厳しい、シンタローの突っ込みに。
旗色の悪さを、悟ったマジックは。
「あはははvv ところでシンタロー、寒くないかーい?」
必殺『笑って誤魔化す』を発動させ、そう尋ねてくる。
「………さみぃョ、当たり前だろッ!!」
伊達に、鍛えているワケではないから。
本当は、さほどでもないのだけれど………未だ、ご機嫌斜めの彼女が。
ソッポを向いたまま、そう答えると。
「うわッ!?」
バサリ、と………彼女の、頭の上から。
父親の、赤いジャケットが降って来た。
「ハイ。コレ、着てなさい」
運転しながら、上着を脱ぐという。
大変に、難易度の高いワザを。
名前どおり、手品師顔負けの素早さで披露してくれ。
得意げに笑う父親を、ちらりとねめつけて。
「………走りながら脱がなくても、車止めればいいだろーがッ」
ブツブツ、文句を言いつつも、シンタローは。
それでも少々、肌寒さは感じていた為。
父親の香りと………体温の、残る。
彼女には随分大きなソレに、素直に袖を通し。
―――あったかい、と。
無意識に、顔を綻ばせた。
当人達(特に素直でない、片方)が、どう思おうと。
傍目に見れば。
充分、標準以上に仲の良い、父娘の。
家路までの、短いドライブを。
燦燦と。
柔らかな初冬の陽は、降り注ぎ―――包み込む。
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ウェディングドレス姿の、シンタローを助手席に。
ハンドルを握っている、マジックの機嫌は、かなりイイ。
家に着いたら、着いたで。
着替えたいに違いない、シンタローと。
着替えさせたくない、彼との間で。また一悶着も、二悶着もするだろうが。
そのヤリトリを想像するだけで、嬉しくて頬が緩む。
―――けれど。ソレはソレ、コレはコレだ。
青の一族、というものは。
受けた恩義は忘れても、仇を忘れる事は、けして無いのだ。(←パパったら(^_^;))
………あの、愚弟め。
家路までのハンドルを、操りつつ。
モトモト、自分の差し金だったクセに。散々、動揺を誘う発言をし。
狼狽する長兄の姿を、楽しんでいたに違いない。
獅子舞に酷似した、弟の姿を思う。
事実はけして、そればかりでは無いのだけれど―――それはやはり、別の話であり。シンタロー同様に、マジックもまた。総てを知るわけでは、無いのだから。
実の兄はおろか、姪っ子の信用のさえ失った(つくづく、日頃の行いというものは大切である)ハーレムへの報復を、練り始めた。
………長兄を、舐めてはいけない。
マジックは、ハーレムの弱点ぐらい、とっくに知っていたのだ。
―――年は、そう。シンタローより、一つ下。金と黒の髪が印象的な、元気で可愛い青少年。
名は………確か、リキッドとか言ったっけ?
古来より、ヒトを呪わば、穴二つと言う。
―――さぁて、どうしてやろうかナ♪ と。
突然、鼻歌なんか歌い始めた父親を。
当然のコトながら。
助手席の。純白のドレスに赤いジャケット、というちょっとミョーな格好だが。
文句無しに美しい、黒髪の花嫁は。
………また、何か妙なコト考えてるナ、このアホ親父。
完全に、危ないヒトに向ける視線で。
冷ややかに、見つめるのであった。
※追記。
その頃の、アラシヤマだが。
共に吹っ飛ばされた、神父に。『わてとお友達になっておくれやす!!』と頼み込み。
丁重に、お断わりをされていたらしい。
○●○コメント○●○
当日がムリになったので、早めにパパBDお祝いしちゃいますvv
今年は、余裕を持って間に合いました。
本当は「マジシン同盟」様の「パパムスメ部屋」に投稿させて頂きたかったのですが。
当サイトがダブルヒロイン(最近、トリプルになりつつ。。゛(/><)/ ヒィ)の為、どうしてもビミョーなもう一個のカプの痕跡を消せず、諦めて自サイトで。
最近コスがマイブーム♪ 今回、ウェディングドレスです。実はお蔵入りにした、学園モノパラレルを、単発で引っ張り出し(笑)
ちなみに現「ニッキフウ」と、どっちにするか最後まで迷った連載仕様です(苦笑)
こんな祝い方でゴメンなさい、パパ………。
<2004.12.6 カケイ拝>