平安の時の物語
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
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