バサッ―――。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。
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