ひらり…ひらり……。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
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