ぬばたまの夜がそこにあった。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
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