<こちらは拙小説「華埠暁嵐抄」に関するご注意です>
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は特になく、舞台はどこかの国のチャイナタウンです。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
カップリングの前提は例の如くアラシンです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
ちょこちょこと書き足していく形式で書いております、
どのくらい続くかはわかりませんが、大体3か4辺りで完結すると思います。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
またもや書いてる当人が楽しいばかりのアラシンパラレルですが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
昼過ぎからたちこめ始めた重く暗い雲から、ぽつり、と落ちた水滴は、ある一枚の古びた看板の隅に当たった。
半ば朽ちかけながらもまだ、目に痛いほどのけばけばしい色彩を誇るその看板。
書かれているのは「中薬商店」の四文字だけで、屋号も何もつけられてはいない。
街の中心部にも程々に近く、だが主なストリートからは若干外れた場所にある小さな路地裏の漢方薬店である。
そのおどろおどろしい佇まいを見れば、よほど昔からその店がそこに存在していたことは間違いがないだろう。
だが、これだけコミュニティーの付き合いの密なチャイナタウンとしては稀有なことに。
周辺に住む誰一人として、その店の主人の本名を知る者はいなかった。わかっているのは、当代の主人が意外なほど若いということだけだ。
主は、その日ずっと、どんよりと曇った空を店の二階から眺めていた。
建物そのものは鉄筋の三階建てのビルである。だが内装は完全な中華嗜好であり、居住部分である二階の部屋には、紫檀と象牙で造られた抽斗や卓子などが無造作に置かれている。
主が腰をかけているのは、窓際に置かれているやたらと凝った螺鈿細工の小卓だった。
手元に置いているのは古ぼけた青銅製の風水盤。
盤の上に指を滑らせながら、窓の外の風景とそれを見比べる。
「七赤金星と六白金星……丙丁の気のめぐり合わせ……」
長く伸びた前髪の切れ間から半分だけ現れているその顔は、京劇の花衫のように整っている。
だが、それのもつ空気にはどこか、馴れ合えない陰気な冷たさも含まれていた。
やがて、ぽつり、とその一滴が空から落ちてきて、かと思うと水滴はすぐに激しい夕立へと変貌した。
全ての音を呑み込むように降る雨に、男は楽しそうに目を細める。
「―――嵐が、来ますなあ」
呟いた口元には、うっすらと、しかし隠し切れない笑みが浮かんでいた。
『 華埠暁嵐抄 』
しっかりと鶏ガラからとった透明なスープは、この界隈では珍しく薄味なのにコクがある。
麺はどちらかといえば細め。上には海老と青梗菜、薄い皮のワンタンがコレでもかというほど乗っていて、ボリュームも十分。
画竜点睛とばかりに胡麻油がほどよく効いていて、これで4ドルというのだから、ついつい通いたくもなるというものだ。
「親父、また美味くなったんじゃねーの、コレ」
湯気の立つその汁を啜りながらそう言うと、店の主である禿頭の親父はカウンターの内側から身を乗り出して、満足そうににんまりと笑った。
「わかるか。ちょっといい鶏が見つかってな……」
そして滔々と料理についての薀蓄を垂れ始める。自分もそれなりに料理をする方なので、こういう情報は有難い。三日に一度は店に来ているので、ここの親父ともすっかりもう顔なじみだ。
鶏ガラを取るときのコツは、麺に使う粉の配合比は、など本来なら門外不出の秘伝だろうに披露してくれる。そんな店主の話を興味深く聞いていたその時、唐突に、ガシャーンととんでもない音が店の入り口からした。
次いで、誰のともわからない上ずった悲鳴が聞こえる。
「ケンカだ―――――!!」
見れば入り口、ドア脇のガラスは無残にも砕けている。店内には割れたガラスの破片が散乱し、その上には無法な侵入者らしきパイプ椅子が転がっていた。
主がやれやれと言うようにため息をつく。幸いにして付近の席に人はいなかったが、これでは修理代だけでも結構な額になりそうだ。
尤も、こうした騒ぎはこのお世辞にも治安のよいとはいえないチャイナタウンの中央路に面した店として、避けがたい運命の一つではある。
主も慣れてはいるので取り立てて大騒ぎをしたりはしない。とはいえ自分の店を壊されて愉快という人間はいないだろう。
「んじゃ、ご馳走さん」
ちょうど料理が食べ終わったので、俺は代金をカウンターに置いて腰を上げた。
「おう、また来いよ」
出しなに、親父は片眉を上げて俺を見た。それに軽く笑い返して、表に出る。
中央路では数人の若いチンピラたちが殴りあったり物を投げあったりと元気に抗争中だった。本当ならば路を通りたいのだろう一般人たちは困り顔のまま、はるか遠くで人だかりを作っている。
ぶつかりあっている人数は両陣営合わせて十人程度。刃物を持っているのも何人かはいるが、銃器はどちらも用意していないようだった。
渦中にのこのこと現れた男に、全員がいっせいに殺気の篭った視線を投げかける。ギラギラと、笑えるくらい好戦的で野卑な眼だ。
両方の首領格らしき、とりわけ目つきの悪い二人の男が一歩前に進み出る。
「―――そこのガタイのいい兄ちゃん、どきな、邪魔だぜ」
あまりにも捻りのないお約束の台詞に、苦笑どころか力が抜けた。今時B級映画の悪役でも吐かねーだろ、ソレは。
返事をするのも面倒で、とりあえず二人いっぺんに蹴り飛ばす。
別に命までとるつもりはないので手加減はしたが、予想以上に簡単に二人は地面に伸びてしまった。それまで後ろに控えていた下っ端達が、一斉にこちらに向かって身構える。
履き慣れたカンフーシューズの先をとんとんと軽く地に打ちつけながら、そいつらにざっと眼を渡らせた。
「てめーら、どこの堂(そしき)が後ろについてんのか知らねーけどさ」
どうやらあれだけ騒いでた割に、俺に対しては共同戦線を張るつもりらしい。不仲な二国を協調させるには共通の敵を作るのが一番だってのは、情けない話だが一抹の真理を含んでいる。
ずらりと並んだ男達の足が、一斉に地を蹴った。もちろん、こちらもこれだけ挑発しといて退くつもりはない。
「ドンパチやんなら、一般の店に迷惑かけンなよ―――なッ!」
大体五分とちょっとでその場は収まりがついた。
それまで遠巻きに騒ぎを見ていた連中が最初どよめき、やがて歓声を上げる。とはいえ、そこに留まっていればやがて「どうしようもない事情があって」遅れてきた警官達に、うるさく事情を聞かれるだろう。そんなのは真っ平御免だし、俺としては美味いメシを出す店の主の溜飲を多少なりとも下げられればそれでいい。
人が集まってくる前に近くの小さな路地に飛び込む。そしてそのまま人目につかないよう裏道を通りながら、行き着けのバーへと駆け出した。
***
カラン、と鐘を鳴らしながら木製のドアを開けると、店の中にいた三人が一斉にこちらを振り返った。カウンターの中にいる店長と、その対面に座る金髪と黒髪の二人連れだ。
に、と笑いながら金髪の方が乾杯でもするかのように飲んでいたアイスティーのグラスを掲げる。
「さっきの中央路での騒ぎ。見てたっぺよ、スンタロー」
「ミヤギ」
「大活躍だったっちゃね」
「―――に、トットリもか。見てたんなら手伝えよ、てめーら」
苦虫を噛み潰したようになっているだろう表情を自覚しながら、俺は手前に座っている黒髪の男―――トットリの隣に腰をかけた。店長に珈琲一つ、と注文する。
「一介の下っ端記者に妙な期待しねぇでけろ。それに手伝おう思ったときにはもう終わっとったべな」
「僕も、仕事中によそのことに手ぇ出すわけにはいかんわや。助けが必要な状況だったんならともかく」
西洋人みたいにやたら綺麗な顔をしたミヤギは、目が覚めるような鮮藍色のチャイナを着ていた。トットリは黒地に藍色のラインが入った動きやすそうな簡素な中国服である。
地元民で、時折ミヤギなど街の外から来る人間の案内屋もやっているトットリはともかく、一応は一般企業に勤めているミヤギは昼間はスーツ姿のことが多い。珍しいこともあるもんだと思って、ついじろじろと見てしまう。
「で、その記者さんは?いーのかよ、真昼間からこんなトコいて」
「こういうとこの情報集めんのも大事な取材だっぺ。そういうスンタローこそ」
「オレはお仕事自体、募集中なの。てことでココ、おごって」
「え……ミヤギくんの財布に縋るなんてどんだけ困ってるんだわいや……」
「なーんか言うたべかァ?トットリ」
「なななんでもないっちゃ!」
笑いながら流す視線は、顔立ちが整ってるだけにその迫力もなかなかなもので。
睨まれたトットリはあああと言いながら固まっている。こうしたやり取りにももうすっかり慣れてしまった。これでも何だかんだいってこいつらは仲がいい。相性が合うんだかなんだか知らないが、驚くほどに。
「まあでも、ほいじゃったらちょうどよかったのぉ、シンタロー」
それまでほとんど喋らずにグラスを磨いたり珈琲を淹れたりしていた、やたらガタイのいい店長が、縦一直線に傷のある片目を眇めながら暢気な声で言った。
「?ンだよ、コージ」
「だべ!奢るよりもっといいことがあるべ!仕事の情報だァ」
出費から逃れたいのかそれとも本気でそう思っているのかは判断がつかないが、とにかく勢い込んでミヤギがこちらに身を乗り出してくる。トットリの頭をぎゅう、とカウンターに押し付けながら。
「青龍堂から、古美術取引の護衛の仕事があるんだっぺ。一日で済むし、報酬は三千ドル」
「三千?!そりゃ盗品ダロ?」
「違うらしいべ。ただ、なんか他からも狙われてる品らしくて、腕の立つ護衛探してるんだと。しかも元々雇ってた護衛が襲撃されたからってんで、取引は明後日」
「へーえ……」
ミヤギが目を輝かせながら語るその内容は、確かにそれだけの価値はある。取引が始まる前からもう負傷者が数名、ということは、かなりヤバイ相手らしいが、それにしても一日で三千はあまりにオイシイ。二か月分の家賃水道代電気代ガス代全部払ってもまだ余裕ができる。
そんなことを頭の中で皮算用をしているうちに、ふと別の、だが根本的な疑問がわいた。
「でも、そんな条件いーんなら、なんでテメーで引き受けねーの」
ミヤギは本職の新聞記者ではあるのだが、書いているのは哀しいほど零細の地元タブロイド紙だ。
いつも筆は剣よりも強しだのなんだのと言っているが、拾ってきたネタによってその多寡が決まるという涙ぐましい給与体系の下に働いているため、ネタがないときには時折副業として何でも屋らしきこともやっている。言ってみれば半分同業者みたいなものである。
だが、俺のその言葉を聞いたミヤギはみるみる顔色を土気色にすると、遠い眼をし始めた。
「オラは……明後日までに一面連載用のネタ集めがあるんだっぺ……」
「一面?この前の大誤報の始末はちゃんとついたんだな」
「縁起でもねーこと思い出させねえでけろ。アレだって、ちょっとした手違いさえなけりゃ世紀の大スクープだったんだべ!」
「はーいハイハイ。ま、そういうコトならお言葉に甘えさせてもらうゼ、窓口はいつものトコでいーんだな?」
青龍堂ならこれまでにも何度か仕事を請け負ったことがある。このチャイナタウンを牛耳る二大勢力の片方で、バックにはかなりデカい財閥が控えているという噂もあり、金払いはかなりいい。
そうと決まれば善は急げだ。珈琲を飲み干して席を立ちかかった。その時。
あ、とミヤギが慌てたように言い、何かを察したトットリが俺のタンクトップの裾を掴んだ。
危うくその場でつんのめりそうになったが、なんとか踏みとどまって振り向く。するとミヤギが少しだけバツの悪そうな顔で笑っていた。
「ちょい待つべ、スンタロー。一つ条件があったの忘れてたべな」
「?」
「これ、一人じゃできねえ仕事なんだべ」
「は?!なんだそりゃ」
「請け負う時は最低二人以上って条件がついてんだっぺ。安全策のつもりだか、なんでかはわがんね」
肩を竦めながらミヤギは言う。
「ミヤギ…はダメなんだよな。トットリも」
「だべなぁ」
「僕ぁこの三日間はミヤギ君の手伝いだっちゃ」
「コージは……店あけるわけにはいかねーか」
「すまんが、そうじゃのォ」
「うー……」
その場に居る面々を順繰りに眺めてみても、どうにかなりそうなヤツはいなかった。
と、なると。
選択肢は一つしか残ってはいない。
「……あー……仕方ねぇナ。かーなーり気が進まねーけど、アイツに頼むか……」
「「アイツ?」」
ミヤギとトットリが綺麗にハモって聞き返してくる。
好奇心に満ちた目は敢えて見ないようにして、答えた。
「陰気で根性悪でキモくて全体的に関わりたくない。けど、腕はそこそこ立つヤツの心当たりが、ある」
バーを出たその足で、目的の店に向かった。
一度中央路に戻ってから、また裏道をいくつか抜けて、小さな雑居住宅が並ぶ一画に出る。その中にぽつんとある漢方薬店。けばけばしくはあるものの、風雨の力によって全体的に黒ずみ、既に風景の一部となっている看板の下にあるドアを開けた。
瞬間、ふ、と甘苦いような薫りが鼻につく。
無数の缶とひたすらに怪しい何かの根やら干物やらの瓶詰めが並んでいる薄暗い一階に、店主の姿はなかった。カウンターの奥までずかずかと入り込むと、そこにある細い階段を登り、もう一枚の扉を蹴飛ばさんばかりの適当さで開ける。
二階は、ワンフロアが全て広い居住空間となっている。磨きこまれた紫檀と鉄と漆の黒に象牙の白がアクセントとなっているそこ、古い家具たちの間に紛れ込むように店の主は居た。
表はすでに日が傾き始めている。淦と橙の中間のような光が、複雑な文様の透かし彫りになった窓を通して室内に射し込んでいた。
「おこしやすぅ、シンタローはんv」
奥の小卓に軽く腰を凭れさせるようにして表を眺めていたらしき主が、にっこり―――否、にやりと笑って言う。相変わらず妙なイントネーションだ。それに笑い返すことすらせずに、とりあえず部屋の中央まで行き、そこにある大きめの卓についた。
顔の片側を長い前髪で覆っている主の今日の服装は、漆黒の地にド派手な真紅の牡丹が刺繍された、ややゆとりのあるチャイナ服。服地も刺繍の質もかなりいいものなんだろうが、着ている人間がよくないのか、なんとはなしに胡散臭い。
薄笑いのままいそいそと寄ってくる主と目を合わせないようにして、片手を振りながら言った。
「茶とか、別にいらねーからな。さっき飲んできたばっかだし、用件終わりゃさっさと出るし」
「相変わらずつれないお人どすなあ。ま、お相伴と思って一杯くらい飲んでっておくれやす」
「……変なモン、入れんなヨ」
「イヤどすわぁ、この前のまだ根に持ってはりますの」
こちらの意向を殆ど無視して、主は茶を淹れ始める。大丈夫どす、今回のは台湾から取り寄せた白毫烏龍茶、その名も東方美人どすえ~、とムカつくオーバーアクションをしながら。
事前に温めてあったらしき小ぶりな茶壷に葉を入れ、かなり高い位置から湯を注ぎ込んだ。
差し出された小さな白磁の器を受け取って一口飲んだところで、主が「で?」と、続ける。
「今日のご用はなんどす?朋友の絆をより深める親睦会のお誘いどしたら、今すぐ市内の一流ホテル予約してきますけど」
「オマエ宇宙から変な電波受信してんじゃねーのか。仕事だ、仕事」
ウキウキと胸の前で両手を合わせながら言う男が、徐々に、しかし確実に近づいてくるのが本気でウザい。座ったまま足でそれ以上寄らない様に遠ざけながら言うと、髪に隠れていない方の眉が僅かに上がった。
「わてにお声がけがあるのは久々どすなあ。そない手間のかかる仕事なんどすか?」
「よくわかんねーけど、一人じゃ受けられない依頼なんだと」
茶をもう一口すすりながら、ミヤギから聞いた話をそのまま伝える。男はとりあえず隣の椅子に腰をかけ、卓の上に肘をつきながらこちらの話をじっと聞いていた。
どこで焚いているのか、相変わらず部屋の中には強い香の匂いが漂い続けている。
十分足らずで話を一区切りつけると、男は数秒中空に視線をさまよわせてから、ぼそりと言った。
「別にあんさんにケチつけるわけやないんどすけどな。さすがにちょお……怪しいんちゃいます?」
ぽりぽりと頬の辺りを掻きつつ、存外言いたいことは割とはっきり言うその男を、若干苦い思いで見返す。
「胡散クセーのは百も承知だ……が。背に腹は変えられねー」
「せやから、わてんとこ越してきはったら生活費はタダどすえて、何度も言うてるやないどすか」
「それだけはイヤだから必死で仕事探してんダロ」
「もう、ほんまシャイなんどすから……」
「違ーーーう」
いちいち相手にしていたら負けだと思う。それでもこの男と対話していると段々と目が虚ろになる。
こればかりは意識してのものではないのでどうしようもない。
「ま……どうせ、ヒマしてんだろ?」
目を逸らしながら茶をもう一口あおると、主は心外だというように口を一文字に引き結んだ。
「ヒマなんてあらしまへんわ、毎日きちんと店番しとります」
「客なんて滅多にこねークセに」
「ウチは一見さんお断り、上客以外相手にせえへん主義なんどす!……ただ、せっかくのあんさんからのお誘い、断るわけにはいきまへん……しゃあない、お付き合いしまひょ」
上目遣いにじっとりとこちらを見てから、ひとつ息を吐く。
その恩着せがましい態度がやや癪に障ったが、そうとなれば話は早いほうがいい。湯飲みはすでに空になっていた。男にちょうど聞こえないくらいの小声でごっそさん、と呟いて、立ち上がる。
「じゃ、早いとこ向かおうぜ。他の希望者に決まっちまう前に契約しとかねーとな」
「あんさんどしたら、行けば仕事は廻されると思いますけどな」
男と連れ立って店を出ると表はもう大分薄暗くなっており、東のほうの空はすでに深い藍色に染まっていた。
青龍堂への仕事の仲介者―――エージェントと呼ぶにはあまりに格好がラフすぎる―――がいる酒場は、ちょうど開店直後で客が入り始めた頃だった。
重低音の響く店内にまだ酔いの匂いは強くないが、それでもお世辞にもガラのいいとはいえない男たちやそれらが連れてきているのだろうきわどい服装の女たちが数名、すでに夜の始まりの杯を掲げている。
目的の男は店の奥のカウンターでマスターと会話をしていたが、近くに寄ると軽くおどけたように目を大きくして、体ごとこちらを向いた。
「仕事の話、聞いたんだけど。骨董品護衛の」
顔見知りとはいえ、挨拶を交し合うような仲ではない。座っている男を見下ろすようにしながら、用件だけを短く言う。
「骨董品?ああ……、受けるのか?」
「あの条件がホントなら」
素っ気無く言うと、仲介屋はにんまりと笑って、手に持つグラスから洋酒らしきものを一口あおった。
「一日、取引の護衛で三千ドルだ。ただし腕利きでなくては困る……まあ、オマエさんなら心配ないとは思うがな」
「怪我人が出てんだろ?事前に五百。成功後に二千五百」
「ふむ。相方はそっちの連れか?」
グラスを持ったほうの手で、男が後ろにいる薬屋を指差す。相方、という響きに今更ながら嫌な感じがしたが、否定するわけにもいかず頷く。
男はへーえと顎を撫でながら薬屋をしばらく眺めていたが、薬屋のほうは人が大勢いる場所が苦手なのか落ち着かない様子で両手を組んでは放してを繰り返しており、仲介屋には目もくれなかった。その様子に肩を竦めながら、仲介屋はもう一度視線を自分に戻す。
「オマエさん、相変わらずどこの堂にも属していないのか?」
「まァな。色々、めんどくせーし」
「そっちの派手なのか暗いのかよくわからん兄さんはどうなんだ」
薬屋と会話をするのは諦めたようで、こちらに向かってだけ話す。派手なのは外側で暗いのが中身なのだ、と教えてやろうかと思ったがやめておいた。一見ではそこまではわからずとにかく渾然一体としたワケのわからない雰囲気だけが伝わるのだろう。
肩越しに右手の親指で薬屋を指しながら言う。
「コイツも堂には入ってない。どころか友人すらいない」
さほど大声で言ったつもりはなかったが、それでも耳ざとく聞きつけた後ろの男が「酷ッ!最近はそないなことあらへんのどすえ?!トージくんとか……」などと抗議をしてきた。無視して「少なくとも人間じゃ居ないから大丈夫だ」と念を押す。
仲介屋は憐れむような微低温の目をして陰気な男を見やると、わかった、それならお前さんたちに任せよう、とやや後ずさりながら頷いた。
***
薬屋との付き合いは、かれこれもう三年以上になるだろうか。このチャイナタウンに引っ越してきて少し経ったくらいの時に会って、以来それほど頻繁にでもないが、なんとなく付き合いが続いている。
初めて会ったときには、横殴りの雨が降っていた。
十二月の霙交じりの雨はひたすらに冷たく、全速力で駆け続けて酷使された心臓は今にも破れるんじゃないかというほど強く鼓動を打っているのに、体の芯がすぅっと冷え始めていくような感覚だった。
右肩からは結構な量の血が流れ続けていた。
雨水と血に塗れて衣服はもうぐちゃぐちゃだった。
二十人近い数の男たちに、追われていた。それもかなり腕に自信のありそうなヤツばかりに。
街の中で始めた何でも屋がそこそこ軌道に乗ってきて、割とデカい仕事も廻されるようになってきた頃の話だ。
多少、油断し始めていた時期だったのは否定できない。仕事でポカをやらかしたこともなければ、割とよく吹っ掛けられたケンカでも負けたことがなかった。大抵のことは銃も使わずに済ませられたし、街の生活にも大分慣れてきていた。
すべて後からわかったことだが、そのとき請け負った仕事は、かなりヤバい口の話だったらしい。
単なる取引の代行人と言われて請けたその仕事。指定された倉庫に行って戸口を開けた瞬間、少なくとも片手の指以上の数の銃口が火を噴いた。
入る前に少しだけ嫌な予感がしていて(こういう勘は割とよく当たる。特に悪い時の場合は)、戸を開けた瞬間とっさに身をかがめたので致命傷になるような銃弾は浴びずに済んだ。それでも一発が右肩をかすった。かなり深く、肉をえぐられた。
痛みを感じるヒマすらなく、身を屈めたまま踵を返してひたすらに駆け出した。
後ろから怒声が聞こえてきて、男達が追ってきた。どうやら詐欺犯の身代わりにされたらしかったが、誤解を解くだけの話を聞くほどの耳を相手が持っているとはとても思えなかった。
奴らもきっと、雇われ者だったのだと思う。それほど統制が取れているようには見えなかったが、腕はムカつくくらいに立った。
そして何より頭数が多かった。
仕事の内容は「そこに現れたものを殺せ」といったようなものだったのだろう。
今更作った死体の数にこだわりはなさそうな奴らばかりだった。
ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、深更の街をひたすらに駆けた。できれば広途(おおどおり)の方に抜けたかったが、数の上で圧倒的に有利な相手に、路はことごとく先回りされた。
気づけば細い路へ、細い路へと追い込まれていた。
走り続けて、行き着いた先は小さな路地の行き止まりだった。
辺りに並ぶ小汚い雑居住宅はいずれも、揉め事に巻き込まれるのだけは死んでもゴメンだといわんばかりに堅く戸を閉ざしており、夜はひたすらに静まりかえっていた。
引き返さなくては、と思ったのと同時に、複数人の足音が近づいてきた。
肩に負った傷さえなければなんとかなったかもしれない、とは思ったが、そんなことを言ったところで後の祭りで。
ああ、こりゃマジで殺されるかもしれねーな。そんなことを、ふと思った。
せめて遠くから蜂の巣にされるのだけは免れようと、足音のほうに自分からもう一度駆ける。そして、奴らがこちらを認識するのと同時に、攻撃をしかけた。とにかく動き回って、相手の持つ銃を叩き落とすことに専念する。
最初に現れた三人組はなんとかしのぎ、このままなら何とかなるかもしれない、とほんの僅かな希望が湧いてきたところで、増援の足音が聞こえた。
夜の中にはやはり、自分たちのたてている靴音以外は何もない。そして肩の傷と、そのほかに負った複数の傷から流れ出す血の量は結構なもので、頭は徐々にその機能を低下させてきていた。
次がきたら、凌ぎきれる自信はなかった。
だが、来るかと身構えていた増援のヤツらが、自分の前に姿を見せることはなかった。
代わりに、その少し後に現れたのは、比較的背の高い一人の男。男は濡れて色味が不鮮明になっているにもかかわらず、その悪趣味さをしっかりと主張しているド派手な柄な中国服を身にまとっていた。
顔の右半分を、長い前髪で覆っており、その先端からは雨水が滴り落ちていた。
二十歳を過ぎたくらいの年恰好の男は、にぃ、と口の片端を上げ、そして自分のほうへとゆっくりと近づいてきた。
自分を追ってきた奴らは一様に黒を基調とした服装をしていた。なので、おそらく一味ではないのだろうと予想はついた。ただその歩き方を見れば、戦闘においてド素人とも思えずに。
頭はもう大分ぼんやりとしてきたが、警戒だけは解かずに気力で男を睨み付けた。
しかし、その視線に対して、男は。
とてもじゃないが女らしいとは言えない体格の身をくねらせ、頬をやや紅潮させたかと思うと、
「そ、そない熱っぽい目で見んといておくれやす。照れますえ……」
そう、のたまった。
「……は?」
あまりに状況にそぐわないその仕草と言葉に、その時の自分はこの上ないというくらい怪訝な顔をしていたと思う。
だが男はそんな自分の表情には構わず間近まで歩いてくると、血の流れている右肩を見て僅か眉をひそめた。
「あんさん、ひどい怪我どすなぁ。それ、ほっといたら腐りますえ」
「……」
痛ましそうな声で言う男にも、だがけして油断は出来なかった。男との面識はまるでない。ここで登場する理由もさっぱり見当がつかない。
男は腕を組みながら、大きくひとつため息をついた。
「そない警戒せんでも、わては敵やあらへんどすえ。あんさんを追うて来たらしい奴らは、向こうできちんとのしときましたし」
「……なん、なんだよ。テメェ」
「そこの角で商いしとるもんどすわ」
「んな、コト、聞いてねー……んだよ」
「多勢に無勢やったら無勢の方手助けしたくなるんは人情いうもんでっしゃろ。何より夜更けにあない往来でバタバタ騒がれてたら、安眠妨害もええとこどすわ」
わざとらしく肩をすくめながら男は言う。その言葉はあまりに信憑性に欠けていた。
このチャイナタウンで、わざわざ自分から面倒を買って出るような、よく言えば義侠心のある、悪く言えば警戒心の薄い性格のやつは長生きは出来ない。
男自身の顔色は、本心からそう言っているようでもあり、またわかりやすく嘘をついているようにも見えた。なんにせよ失血で頭がぐらぐらして思考がうまくまとまらなかった。
「信用するもしないもあんさんの勝手どすけどな。ここにじっとしてても状況がよくなることはまずあらへんと思いますえ。わての店は薬を扱うてます。せめて消毒と止血くらいさせなはれ」
信用はできない、信用などできるわけがない。見るからに胡散臭い。
そう思いながらも、徐々に意識が薄れてきた。足元には雨と血が混ざり合って薄紅色の水溜りができていた。
「肩貸しますから、そこまでちょいと歩いておくれやす」
意識を失いかけてほとんど朦朧としながら、それでも男に引きずられるように店に連れて行かれた。
そして二階にある寝台に横にさせられた瞬間、ふっと世界が暗転した。
目を覚ました時、肩や全身の傷はきちんと手当がなされており。
非常に不本意ながら(というのは後々ことあるごとに思うことになるだが)、自分は男に借りを作ってしまった。
薬屋の店主とはそれ以来の付き合いである。
いまだに、あの時薬屋がどうして自分を助けたのかはわからない。その一件の後、借りは返す、とそれだけは強く言ったのだが。その台詞を聞いた男はしばらく何かを考え込んでいたかと思うと、急に指をもじもじとさせて「ほな、これから時々店に遊びに来ておくれやす」とだけ、言った。
付き合えば付き合うほど男の変人ぶりもわかってきたし、基本陰険ネクラで友達は皆無、そのくせ友情やら親友やらという言葉に過敏反応するといった人となりもわかってきたが、それでも腐れ縁というべきか、なんとなく付き合いは続いている。
ただ、それだけの年月の付き合いながら、薬屋の本名だけはまだ聞いたことがない。
助けられた翌日に一応は尋ねたが、好きに呼んでくれればいい、と言われ、その後もオイとか薬屋とかで済ませている。
当小説はパプワのキャラクターを好き勝手に配役したパラレル小説です。
時代設定は特になく、舞台はどこかの国のチャイナタウンです。
どうか色々と心の許容量の多い方のみお読みいただければと存じます。
地名や単語などでワケがわからんとお思いになられることがあったら、
どうぞどんどん読み飛ばしてください。
本筋にはさほど関係はないかと思われます。
カップリングの前提は例の如くアラシンです。尤も×色は薄いかと。
その他今後の展開によってもしかすると色々出てくるかもしれません。
ちょこちょこと書き足していく形式で書いております、
どのくらい続くかはわかりませんが、大体3か4辺りで完結すると思います。
気と筆の赴くままにてろてろと更新していきます。
またもや書いてる当人が楽しいばかりのアラシンパラレルですが、
しばしの間お付き合い願えれば、この上ない幸せでございます。
昼過ぎからたちこめ始めた重く暗い雲から、ぽつり、と落ちた水滴は、ある一枚の古びた看板の隅に当たった。
半ば朽ちかけながらもまだ、目に痛いほどのけばけばしい色彩を誇るその看板。
書かれているのは「中薬商店」の四文字だけで、屋号も何もつけられてはいない。
街の中心部にも程々に近く、だが主なストリートからは若干外れた場所にある小さな路地裏の漢方薬店である。
そのおどろおどろしい佇まいを見れば、よほど昔からその店がそこに存在していたことは間違いがないだろう。
だが、これだけコミュニティーの付き合いの密なチャイナタウンとしては稀有なことに。
周辺に住む誰一人として、その店の主人の本名を知る者はいなかった。わかっているのは、当代の主人が意外なほど若いということだけだ。
主は、その日ずっと、どんよりと曇った空を店の二階から眺めていた。
建物そのものは鉄筋の三階建てのビルである。だが内装は完全な中華嗜好であり、居住部分である二階の部屋には、紫檀と象牙で造られた抽斗や卓子などが無造作に置かれている。
主が腰をかけているのは、窓際に置かれているやたらと凝った螺鈿細工の小卓だった。
手元に置いているのは古ぼけた青銅製の風水盤。
盤の上に指を滑らせながら、窓の外の風景とそれを見比べる。
「七赤金星と六白金星……丙丁の気のめぐり合わせ……」
長く伸びた前髪の切れ間から半分だけ現れているその顔は、京劇の花衫のように整っている。
だが、それのもつ空気にはどこか、馴れ合えない陰気な冷たさも含まれていた。
やがて、ぽつり、とその一滴が空から落ちてきて、かと思うと水滴はすぐに激しい夕立へと変貌した。
全ての音を呑み込むように降る雨に、男は楽しそうに目を細める。
「―――嵐が、来ますなあ」
呟いた口元には、うっすらと、しかし隠し切れない笑みが浮かんでいた。
『 華埠暁嵐抄 』
しっかりと鶏ガラからとった透明なスープは、この界隈では珍しく薄味なのにコクがある。
麺はどちらかといえば細め。上には海老と青梗菜、薄い皮のワンタンがコレでもかというほど乗っていて、ボリュームも十分。
画竜点睛とばかりに胡麻油がほどよく効いていて、これで4ドルというのだから、ついつい通いたくもなるというものだ。
「親父、また美味くなったんじゃねーの、コレ」
湯気の立つその汁を啜りながらそう言うと、店の主である禿頭の親父はカウンターの内側から身を乗り出して、満足そうににんまりと笑った。
「わかるか。ちょっといい鶏が見つかってな……」
そして滔々と料理についての薀蓄を垂れ始める。自分もそれなりに料理をする方なので、こういう情報は有難い。三日に一度は店に来ているので、ここの親父ともすっかりもう顔なじみだ。
鶏ガラを取るときのコツは、麺に使う粉の配合比は、など本来なら門外不出の秘伝だろうに披露してくれる。そんな店主の話を興味深く聞いていたその時、唐突に、ガシャーンととんでもない音が店の入り口からした。
次いで、誰のともわからない上ずった悲鳴が聞こえる。
「ケンカだ―――――!!」
見れば入り口、ドア脇のガラスは無残にも砕けている。店内には割れたガラスの破片が散乱し、その上には無法な侵入者らしきパイプ椅子が転がっていた。
主がやれやれと言うようにため息をつく。幸いにして付近の席に人はいなかったが、これでは修理代だけでも結構な額になりそうだ。
尤も、こうした騒ぎはこのお世辞にも治安のよいとはいえないチャイナタウンの中央路に面した店として、避けがたい運命の一つではある。
主も慣れてはいるので取り立てて大騒ぎをしたりはしない。とはいえ自分の店を壊されて愉快という人間はいないだろう。
「んじゃ、ご馳走さん」
ちょうど料理が食べ終わったので、俺は代金をカウンターに置いて腰を上げた。
「おう、また来いよ」
出しなに、親父は片眉を上げて俺を見た。それに軽く笑い返して、表に出る。
中央路では数人の若いチンピラたちが殴りあったり物を投げあったりと元気に抗争中だった。本当ならば路を通りたいのだろう一般人たちは困り顔のまま、はるか遠くで人だかりを作っている。
ぶつかりあっている人数は両陣営合わせて十人程度。刃物を持っているのも何人かはいるが、銃器はどちらも用意していないようだった。
渦中にのこのこと現れた男に、全員がいっせいに殺気の篭った視線を投げかける。ギラギラと、笑えるくらい好戦的で野卑な眼だ。
両方の首領格らしき、とりわけ目つきの悪い二人の男が一歩前に進み出る。
「―――そこのガタイのいい兄ちゃん、どきな、邪魔だぜ」
あまりにも捻りのないお約束の台詞に、苦笑どころか力が抜けた。今時B級映画の悪役でも吐かねーだろ、ソレは。
返事をするのも面倒で、とりあえず二人いっぺんに蹴り飛ばす。
別に命までとるつもりはないので手加減はしたが、予想以上に簡単に二人は地面に伸びてしまった。それまで後ろに控えていた下っ端達が、一斉にこちらに向かって身構える。
履き慣れたカンフーシューズの先をとんとんと軽く地に打ちつけながら、そいつらにざっと眼を渡らせた。
「てめーら、どこの堂(そしき)が後ろについてんのか知らねーけどさ」
どうやらあれだけ騒いでた割に、俺に対しては共同戦線を張るつもりらしい。不仲な二国を協調させるには共通の敵を作るのが一番だってのは、情けない話だが一抹の真理を含んでいる。
ずらりと並んだ男達の足が、一斉に地を蹴った。もちろん、こちらもこれだけ挑発しといて退くつもりはない。
「ドンパチやんなら、一般の店に迷惑かけンなよ―――なッ!」
大体五分とちょっとでその場は収まりがついた。
それまで遠巻きに騒ぎを見ていた連中が最初どよめき、やがて歓声を上げる。とはいえ、そこに留まっていればやがて「どうしようもない事情があって」遅れてきた警官達に、うるさく事情を聞かれるだろう。そんなのは真っ平御免だし、俺としては美味いメシを出す店の主の溜飲を多少なりとも下げられればそれでいい。
人が集まってくる前に近くの小さな路地に飛び込む。そしてそのまま人目につかないよう裏道を通りながら、行き着けのバーへと駆け出した。
***
カラン、と鐘を鳴らしながら木製のドアを開けると、店の中にいた三人が一斉にこちらを振り返った。カウンターの中にいる店長と、その対面に座る金髪と黒髪の二人連れだ。
に、と笑いながら金髪の方が乾杯でもするかのように飲んでいたアイスティーのグラスを掲げる。
「さっきの中央路での騒ぎ。見てたっぺよ、スンタロー」
「ミヤギ」
「大活躍だったっちゃね」
「―――に、トットリもか。見てたんなら手伝えよ、てめーら」
苦虫を噛み潰したようになっているだろう表情を自覚しながら、俺は手前に座っている黒髪の男―――トットリの隣に腰をかけた。店長に珈琲一つ、と注文する。
「一介の下っ端記者に妙な期待しねぇでけろ。それに手伝おう思ったときにはもう終わっとったべな」
「僕も、仕事中によそのことに手ぇ出すわけにはいかんわや。助けが必要な状況だったんならともかく」
西洋人みたいにやたら綺麗な顔をしたミヤギは、目が覚めるような鮮藍色のチャイナを着ていた。トットリは黒地に藍色のラインが入った動きやすそうな簡素な中国服である。
地元民で、時折ミヤギなど街の外から来る人間の案内屋もやっているトットリはともかく、一応は一般企業に勤めているミヤギは昼間はスーツ姿のことが多い。珍しいこともあるもんだと思って、ついじろじろと見てしまう。
「で、その記者さんは?いーのかよ、真昼間からこんなトコいて」
「こういうとこの情報集めんのも大事な取材だっぺ。そういうスンタローこそ」
「オレはお仕事自体、募集中なの。てことでココ、おごって」
「え……ミヤギくんの財布に縋るなんてどんだけ困ってるんだわいや……」
「なーんか言うたべかァ?トットリ」
「なななんでもないっちゃ!」
笑いながら流す視線は、顔立ちが整ってるだけにその迫力もなかなかなもので。
睨まれたトットリはあああと言いながら固まっている。こうしたやり取りにももうすっかり慣れてしまった。これでも何だかんだいってこいつらは仲がいい。相性が合うんだかなんだか知らないが、驚くほどに。
「まあでも、ほいじゃったらちょうどよかったのぉ、シンタロー」
それまでほとんど喋らずにグラスを磨いたり珈琲を淹れたりしていた、やたらガタイのいい店長が、縦一直線に傷のある片目を眇めながら暢気な声で言った。
「?ンだよ、コージ」
「だべ!奢るよりもっといいことがあるべ!仕事の情報だァ」
出費から逃れたいのかそれとも本気でそう思っているのかは判断がつかないが、とにかく勢い込んでミヤギがこちらに身を乗り出してくる。トットリの頭をぎゅう、とカウンターに押し付けながら。
「青龍堂から、古美術取引の護衛の仕事があるんだっぺ。一日で済むし、報酬は三千ドル」
「三千?!そりゃ盗品ダロ?」
「違うらしいべ。ただ、なんか他からも狙われてる品らしくて、腕の立つ護衛探してるんだと。しかも元々雇ってた護衛が襲撃されたからってんで、取引は明後日」
「へーえ……」
ミヤギが目を輝かせながら語るその内容は、確かにそれだけの価値はある。取引が始まる前からもう負傷者が数名、ということは、かなりヤバイ相手らしいが、それにしても一日で三千はあまりにオイシイ。二か月分の家賃水道代電気代ガス代全部払ってもまだ余裕ができる。
そんなことを頭の中で皮算用をしているうちに、ふと別の、だが根本的な疑問がわいた。
「でも、そんな条件いーんなら、なんでテメーで引き受けねーの」
ミヤギは本職の新聞記者ではあるのだが、書いているのは哀しいほど零細の地元タブロイド紙だ。
いつも筆は剣よりも強しだのなんだのと言っているが、拾ってきたネタによってその多寡が決まるという涙ぐましい給与体系の下に働いているため、ネタがないときには時折副業として何でも屋らしきこともやっている。言ってみれば半分同業者みたいなものである。
だが、俺のその言葉を聞いたミヤギはみるみる顔色を土気色にすると、遠い眼をし始めた。
「オラは……明後日までに一面連載用のネタ集めがあるんだっぺ……」
「一面?この前の大誤報の始末はちゃんとついたんだな」
「縁起でもねーこと思い出させねえでけろ。アレだって、ちょっとした手違いさえなけりゃ世紀の大スクープだったんだべ!」
「はーいハイハイ。ま、そういうコトならお言葉に甘えさせてもらうゼ、窓口はいつものトコでいーんだな?」
青龍堂ならこれまでにも何度か仕事を請け負ったことがある。このチャイナタウンを牛耳る二大勢力の片方で、バックにはかなりデカい財閥が控えているという噂もあり、金払いはかなりいい。
そうと決まれば善は急げだ。珈琲を飲み干して席を立ちかかった。その時。
あ、とミヤギが慌てたように言い、何かを察したトットリが俺のタンクトップの裾を掴んだ。
危うくその場でつんのめりそうになったが、なんとか踏みとどまって振り向く。するとミヤギが少しだけバツの悪そうな顔で笑っていた。
「ちょい待つべ、スンタロー。一つ条件があったの忘れてたべな」
「?」
「これ、一人じゃできねえ仕事なんだべ」
「は?!なんだそりゃ」
「請け負う時は最低二人以上って条件がついてんだっぺ。安全策のつもりだか、なんでかはわがんね」
肩を竦めながらミヤギは言う。
「ミヤギ…はダメなんだよな。トットリも」
「だべなぁ」
「僕ぁこの三日間はミヤギ君の手伝いだっちゃ」
「コージは……店あけるわけにはいかねーか」
「すまんが、そうじゃのォ」
「うー……」
その場に居る面々を順繰りに眺めてみても、どうにかなりそうなヤツはいなかった。
と、なると。
選択肢は一つしか残ってはいない。
「……あー……仕方ねぇナ。かーなーり気が進まねーけど、アイツに頼むか……」
「「アイツ?」」
ミヤギとトットリが綺麗にハモって聞き返してくる。
好奇心に満ちた目は敢えて見ないようにして、答えた。
「陰気で根性悪でキモくて全体的に関わりたくない。けど、腕はそこそこ立つヤツの心当たりが、ある」
バーを出たその足で、目的の店に向かった。
一度中央路に戻ってから、また裏道をいくつか抜けて、小さな雑居住宅が並ぶ一画に出る。その中にぽつんとある漢方薬店。けばけばしくはあるものの、風雨の力によって全体的に黒ずみ、既に風景の一部となっている看板の下にあるドアを開けた。
瞬間、ふ、と甘苦いような薫りが鼻につく。
無数の缶とひたすらに怪しい何かの根やら干物やらの瓶詰めが並んでいる薄暗い一階に、店主の姿はなかった。カウンターの奥までずかずかと入り込むと、そこにある細い階段を登り、もう一枚の扉を蹴飛ばさんばかりの適当さで開ける。
二階は、ワンフロアが全て広い居住空間となっている。磨きこまれた紫檀と鉄と漆の黒に象牙の白がアクセントとなっているそこ、古い家具たちの間に紛れ込むように店の主は居た。
表はすでに日が傾き始めている。淦と橙の中間のような光が、複雑な文様の透かし彫りになった窓を通して室内に射し込んでいた。
「おこしやすぅ、シンタローはんv」
奥の小卓に軽く腰を凭れさせるようにして表を眺めていたらしき主が、にっこり―――否、にやりと笑って言う。相変わらず妙なイントネーションだ。それに笑い返すことすらせずに、とりあえず部屋の中央まで行き、そこにある大きめの卓についた。
顔の片側を長い前髪で覆っている主の今日の服装は、漆黒の地にド派手な真紅の牡丹が刺繍された、ややゆとりのあるチャイナ服。服地も刺繍の質もかなりいいものなんだろうが、着ている人間がよくないのか、なんとはなしに胡散臭い。
薄笑いのままいそいそと寄ってくる主と目を合わせないようにして、片手を振りながら言った。
「茶とか、別にいらねーからな。さっき飲んできたばっかだし、用件終わりゃさっさと出るし」
「相変わらずつれないお人どすなあ。ま、お相伴と思って一杯くらい飲んでっておくれやす」
「……変なモン、入れんなヨ」
「イヤどすわぁ、この前のまだ根に持ってはりますの」
こちらの意向を殆ど無視して、主は茶を淹れ始める。大丈夫どす、今回のは台湾から取り寄せた白毫烏龍茶、その名も東方美人どすえ~、とムカつくオーバーアクションをしながら。
事前に温めてあったらしき小ぶりな茶壷に葉を入れ、かなり高い位置から湯を注ぎ込んだ。
差し出された小さな白磁の器を受け取って一口飲んだところで、主が「で?」と、続ける。
「今日のご用はなんどす?朋友の絆をより深める親睦会のお誘いどしたら、今すぐ市内の一流ホテル予約してきますけど」
「オマエ宇宙から変な電波受信してんじゃねーのか。仕事だ、仕事」
ウキウキと胸の前で両手を合わせながら言う男が、徐々に、しかし確実に近づいてくるのが本気でウザい。座ったまま足でそれ以上寄らない様に遠ざけながら言うと、髪に隠れていない方の眉が僅かに上がった。
「わてにお声がけがあるのは久々どすなあ。そない手間のかかる仕事なんどすか?」
「よくわかんねーけど、一人じゃ受けられない依頼なんだと」
茶をもう一口すすりながら、ミヤギから聞いた話をそのまま伝える。男はとりあえず隣の椅子に腰をかけ、卓の上に肘をつきながらこちらの話をじっと聞いていた。
どこで焚いているのか、相変わらず部屋の中には強い香の匂いが漂い続けている。
十分足らずで話を一区切りつけると、男は数秒中空に視線をさまよわせてから、ぼそりと言った。
「別にあんさんにケチつけるわけやないんどすけどな。さすがにちょお……怪しいんちゃいます?」
ぽりぽりと頬の辺りを掻きつつ、存外言いたいことは割とはっきり言うその男を、若干苦い思いで見返す。
「胡散クセーのは百も承知だ……が。背に腹は変えられねー」
「せやから、わてんとこ越してきはったら生活費はタダどすえて、何度も言うてるやないどすか」
「それだけはイヤだから必死で仕事探してんダロ」
「もう、ほんまシャイなんどすから……」
「違ーーーう」
いちいち相手にしていたら負けだと思う。それでもこの男と対話していると段々と目が虚ろになる。
こればかりは意識してのものではないのでどうしようもない。
「ま……どうせ、ヒマしてんだろ?」
目を逸らしながら茶をもう一口あおると、主は心外だというように口を一文字に引き結んだ。
「ヒマなんてあらしまへんわ、毎日きちんと店番しとります」
「客なんて滅多にこねークセに」
「ウチは一見さんお断り、上客以外相手にせえへん主義なんどす!……ただ、せっかくのあんさんからのお誘い、断るわけにはいきまへん……しゃあない、お付き合いしまひょ」
上目遣いにじっとりとこちらを見てから、ひとつ息を吐く。
その恩着せがましい態度がやや癪に障ったが、そうとなれば話は早いほうがいい。湯飲みはすでに空になっていた。男にちょうど聞こえないくらいの小声でごっそさん、と呟いて、立ち上がる。
「じゃ、早いとこ向かおうぜ。他の希望者に決まっちまう前に契約しとかねーとな」
「あんさんどしたら、行けば仕事は廻されると思いますけどな」
男と連れ立って店を出ると表はもう大分薄暗くなっており、東のほうの空はすでに深い藍色に染まっていた。
青龍堂への仕事の仲介者―――エージェントと呼ぶにはあまりに格好がラフすぎる―――がいる酒場は、ちょうど開店直後で客が入り始めた頃だった。
重低音の響く店内にまだ酔いの匂いは強くないが、それでもお世辞にもガラのいいとはいえない男たちやそれらが連れてきているのだろうきわどい服装の女たちが数名、すでに夜の始まりの杯を掲げている。
目的の男は店の奥のカウンターでマスターと会話をしていたが、近くに寄ると軽くおどけたように目を大きくして、体ごとこちらを向いた。
「仕事の話、聞いたんだけど。骨董品護衛の」
顔見知りとはいえ、挨拶を交し合うような仲ではない。座っている男を見下ろすようにしながら、用件だけを短く言う。
「骨董品?ああ……、受けるのか?」
「あの条件がホントなら」
素っ気無く言うと、仲介屋はにんまりと笑って、手に持つグラスから洋酒らしきものを一口あおった。
「一日、取引の護衛で三千ドルだ。ただし腕利きでなくては困る……まあ、オマエさんなら心配ないとは思うがな」
「怪我人が出てんだろ?事前に五百。成功後に二千五百」
「ふむ。相方はそっちの連れか?」
グラスを持ったほうの手で、男が後ろにいる薬屋を指差す。相方、という響きに今更ながら嫌な感じがしたが、否定するわけにもいかず頷く。
男はへーえと顎を撫でながら薬屋をしばらく眺めていたが、薬屋のほうは人が大勢いる場所が苦手なのか落ち着かない様子で両手を組んでは放してを繰り返しており、仲介屋には目もくれなかった。その様子に肩を竦めながら、仲介屋はもう一度視線を自分に戻す。
「オマエさん、相変わらずどこの堂にも属していないのか?」
「まァな。色々、めんどくせーし」
「そっちの派手なのか暗いのかよくわからん兄さんはどうなんだ」
薬屋と会話をするのは諦めたようで、こちらに向かってだけ話す。派手なのは外側で暗いのが中身なのだ、と教えてやろうかと思ったがやめておいた。一見ではそこまではわからずとにかく渾然一体としたワケのわからない雰囲気だけが伝わるのだろう。
肩越しに右手の親指で薬屋を指しながら言う。
「コイツも堂には入ってない。どころか友人すらいない」
さほど大声で言ったつもりはなかったが、それでも耳ざとく聞きつけた後ろの男が「酷ッ!最近はそないなことあらへんのどすえ?!トージくんとか……」などと抗議をしてきた。無視して「少なくとも人間じゃ居ないから大丈夫だ」と念を押す。
仲介屋は憐れむような微低温の目をして陰気な男を見やると、わかった、それならお前さんたちに任せよう、とやや後ずさりながら頷いた。
***
薬屋との付き合いは、かれこれもう三年以上になるだろうか。このチャイナタウンに引っ越してきて少し経ったくらいの時に会って、以来それほど頻繁にでもないが、なんとなく付き合いが続いている。
初めて会ったときには、横殴りの雨が降っていた。
十二月の霙交じりの雨はひたすらに冷たく、全速力で駆け続けて酷使された心臓は今にも破れるんじゃないかというほど強く鼓動を打っているのに、体の芯がすぅっと冷え始めていくような感覚だった。
右肩からは結構な量の血が流れ続けていた。
雨水と血に塗れて衣服はもうぐちゃぐちゃだった。
二十人近い数の男たちに、追われていた。それもかなり腕に自信のありそうなヤツばかりに。
街の中で始めた何でも屋がそこそこ軌道に乗ってきて、割とデカい仕事も廻されるようになってきた頃の話だ。
多少、油断し始めていた時期だったのは否定できない。仕事でポカをやらかしたこともなければ、割とよく吹っ掛けられたケンカでも負けたことがなかった。大抵のことは銃も使わずに済ませられたし、街の生活にも大分慣れてきていた。
すべて後からわかったことだが、そのとき請け負った仕事は、かなりヤバい口の話だったらしい。
単なる取引の代行人と言われて請けたその仕事。指定された倉庫に行って戸口を開けた瞬間、少なくとも片手の指以上の数の銃口が火を噴いた。
入る前に少しだけ嫌な予感がしていて(こういう勘は割とよく当たる。特に悪い時の場合は)、戸を開けた瞬間とっさに身をかがめたので致命傷になるような銃弾は浴びずに済んだ。それでも一発が右肩をかすった。かなり深く、肉をえぐられた。
痛みを感じるヒマすらなく、身を屈めたまま踵を返してひたすらに駆け出した。
後ろから怒声が聞こえてきて、男達が追ってきた。どうやら詐欺犯の身代わりにされたらしかったが、誤解を解くだけの話を聞くほどの耳を相手が持っているとはとても思えなかった。
奴らもきっと、雇われ者だったのだと思う。それほど統制が取れているようには見えなかったが、腕はムカつくくらいに立った。
そして何より頭数が多かった。
仕事の内容は「そこに現れたものを殺せ」といったようなものだったのだろう。
今更作った死体の数にこだわりはなさそうな奴らばかりだった。
ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、深更の街をひたすらに駆けた。できれば広途(おおどおり)の方に抜けたかったが、数の上で圧倒的に有利な相手に、路はことごとく先回りされた。
気づけば細い路へ、細い路へと追い込まれていた。
走り続けて、行き着いた先は小さな路地の行き止まりだった。
辺りに並ぶ小汚い雑居住宅はいずれも、揉め事に巻き込まれるのだけは死んでもゴメンだといわんばかりに堅く戸を閉ざしており、夜はひたすらに静まりかえっていた。
引き返さなくては、と思ったのと同時に、複数人の足音が近づいてきた。
肩に負った傷さえなければなんとかなったかもしれない、とは思ったが、そんなことを言ったところで後の祭りで。
ああ、こりゃマジで殺されるかもしれねーな。そんなことを、ふと思った。
せめて遠くから蜂の巣にされるのだけは免れようと、足音のほうに自分からもう一度駆ける。そして、奴らがこちらを認識するのと同時に、攻撃をしかけた。とにかく動き回って、相手の持つ銃を叩き落とすことに専念する。
最初に現れた三人組はなんとかしのぎ、このままなら何とかなるかもしれない、とほんの僅かな希望が湧いてきたところで、増援の足音が聞こえた。
夜の中にはやはり、自分たちのたてている靴音以外は何もない。そして肩の傷と、そのほかに負った複数の傷から流れ出す血の量は結構なもので、頭は徐々にその機能を低下させてきていた。
次がきたら、凌ぎきれる自信はなかった。
だが、来るかと身構えていた増援のヤツらが、自分の前に姿を見せることはなかった。
代わりに、その少し後に現れたのは、比較的背の高い一人の男。男は濡れて色味が不鮮明になっているにもかかわらず、その悪趣味さをしっかりと主張しているド派手な柄な中国服を身にまとっていた。
顔の右半分を、長い前髪で覆っており、その先端からは雨水が滴り落ちていた。
二十歳を過ぎたくらいの年恰好の男は、にぃ、と口の片端を上げ、そして自分のほうへとゆっくりと近づいてきた。
自分を追ってきた奴らは一様に黒を基調とした服装をしていた。なので、おそらく一味ではないのだろうと予想はついた。ただその歩き方を見れば、戦闘においてド素人とも思えずに。
頭はもう大分ぼんやりとしてきたが、警戒だけは解かずに気力で男を睨み付けた。
しかし、その視線に対して、男は。
とてもじゃないが女らしいとは言えない体格の身をくねらせ、頬をやや紅潮させたかと思うと、
「そ、そない熱っぽい目で見んといておくれやす。照れますえ……」
そう、のたまった。
「……は?」
あまりに状況にそぐわないその仕草と言葉に、その時の自分はこの上ないというくらい怪訝な顔をしていたと思う。
だが男はそんな自分の表情には構わず間近まで歩いてくると、血の流れている右肩を見て僅か眉をひそめた。
「あんさん、ひどい怪我どすなぁ。それ、ほっといたら腐りますえ」
「……」
痛ましそうな声で言う男にも、だがけして油断は出来なかった。男との面識はまるでない。ここで登場する理由もさっぱり見当がつかない。
男は腕を組みながら、大きくひとつため息をついた。
「そない警戒せんでも、わては敵やあらへんどすえ。あんさんを追うて来たらしい奴らは、向こうできちんとのしときましたし」
「……なん、なんだよ。テメェ」
「そこの角で商いしとるもんどすわ」
「んな、コト、聞いてねー……んだよ」
「多勢に無勢やったら無勢の方手助けしたくなるんは人情いうもんでっしゃろ。何より夜更けにあない往来でバタバタ騒がれてたら、安眠妨害もええとこどすわ」
わざとらしく肩をすくめながら男は言う。その言葉はあまりに信憑性に欠けていた。
このチャイナタウンで、わざわざ自分から面倒を買って出るような、よく言えば義侠心のある、悪く言えば警戒心の薄い性格のやつは長生きは出来ない。
男自身の顔色は、本心からそう言っているようでもあり、またわかりやすく嘘をついているようにも見えた。なんにせよ失血で頭がぐらぐらして思考がうまくまとまらなかった。
「信用するもしないもあんさんの勝手どすけどな。ここにじっとしてても状況がよくなることはまずあらへんと思いますえ。わての店は薬を扱うてます。せめて消毒と止血くらいさせなはれ」
信用はできない、信用などできるわけがない。見るからに胡散臭い。
そう思いながらも、徐々に意識が薄れてきた。足元には雨と血が混ざり合って薄紅色の水溜りができていた。
「肩貸しますから、そこまでちょいと歩いておくれやす」
意識を失いかけてほとんど朦朧としながら、それでも男に引きずられるように店に連れて行かれた。
そして二階にある寝台に横にさせられた瞬間、ふっと世界が暗転した。
目を覚ました時、肩や全身の傷はきちんと手当がなされており。
非常に不本意ながら(というのは後々ことあるごとに思うことになるだが)、自分は男に借りを作ってしまった。
薬屋の店主とはそれ以来の付き合いである。
いまだに、あの時薬屋がどうして自分を助けたのかはわからない。その一件の後、借りは返す、とそれだけは強く言ったのだが。その台詞を聞いた男はしばらく何かを考え込んでいたかと思うと、急に指をもじもじとさせて「ほな、これから時々店に遊びに来ておくれやす」とだけ、言った。
付き合えば付き合うほど男の変人ぶりもわかってきたし、基本陰険ネクラで友達は皆無、そのくせ友情やら親友やらという言葉に過敏反応するといった人となりもわかってきたが、それでも腐れ縁というべきか、なんとなく付き合いは続いている。
ただ、それだけの年月の付き合いながら、薬屋の本名だけはまだ聞いたことがない。
助けられた翌日に一応は尋ねたが、好きに呼んでくれればいい、と言われ、その後もオイとか薬屋とかで済ませている。
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