「ン……っ、う……」
夢と現の境目が曖昧なままに瞼だけが薄く開いて、同時に手足に重たい圧迫感を感じる。
身を起こそうとしても、何かの気配に圧されているように体はピクリとも動かない。またか、とうんざりしながら、シンタローはもう一度固く眼を瞑った。
寝覚めの金縛りに、シンタローは免疫がある。
八条烏丸のこの家は見かけこそ破れ家と紙一重だが、築地(ついじ)を境に強力な結界が張ってある。そのため本当に危険な妖怪の類は侵入できないし、仮に結界を破られたとしてもそれはすぐさま内部の人間に伝わるような仕組みが出来ている。
だが、強力な妖の侵入を防ぐための結界は、いわば太い綱で編んだ網のようなものである。
頑丈ではあるが、網の目に引っかからないほどの弱い魍魎は比較的簡単にすり抜けてしまうという難点があった。
「―――オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」
かろうじて動く舌で、大威徳明王の陀羅尼を唱える。陰陽術に関してはほぼ素人に近いシンタローであっても、その辺りの雑鬼の一、二匹程度なら、文言の力で撃退できる。そう、普段ならこれだけで、圧迫感は霧消するはずだった。
だが、今回はいつものようにはいかなかった。悪鬼調伏の陀羅尼を唱えても、背中に感じる気配に微塵も変化は現れない。むしろ徐々に近づいてきているような気すらする。
固く目を閉じながら、かつて陥ったことのない状況にシンタローは焦りを抑えきれなかった。
(消えねえ……なんでだ?!まさか、家の中にそんな厄介なヤツが―――)
その時、背後に感じていたその重圧がううん、と唸り、寝惚けたような声を発した。
「なんどすのん、さっきから。ブツブツやかまし……」
「逝きやがれこの変態―――――――!!!」
『 Diorama / Japanesque 』
― 弐、 二の獣、男の邸にて薬盗める小妖を退治せしこと ―
祇園の小塚を後にした一人と一匹は朝やけの薄日の中、羅城門をくぐり、左京の南に位置するシンタローの屋敷へと戻ってきた。
手入れが行き届いているとは言いづらい雑草だらけの庭。
門に一歩入ったところで狐に似た妖は立ち止まり、阿呆のように口を開けて建物を見上げた。
「……見事なボロ家どすなあ……。無駄に広さだけはありそうどすけど……」
「文句あんなら帰れ。なくてもできれば帰ってほしい」
ほとんど無色の声でそう言って、シンタローはスタスタと中に入っていく。妖はわざとらしく抜き足になりながら、そろそろとその後に続いた。
朝露に濡れた丈の高い草を踏み分けながら、アラシヤマはふと気付いたように、目の前の男の背中に問いかける。
「そういえばあんさん、ゆうべはなしてあないなとこにいはったん」
「……探し物、してたんだよ」
アラシヤマの何気ない問いかけに、シンタローは一瞬、息を呑んだように詰まり。それだけを短く答えた。
特に険しい口調というわけではないが、それ以上聞かれたくはないという意思は十分に伝わってきた。気のなさそうにへえ、とだけ言って、アラシヤマは濡れ縁を上がる。
建物の中をしばらく無言で進んで、渡殿に差し掛かった辺りで、シンタローがふああ、と大きな欠伸をした。……ねみぃ、と口を一文字に引き結びながら言う。
「わては眠たないどすえ」
「ああそーか。テメーが何十年あそこでぐーたらしてたんだか知らねーけど、とにかく俺は寝る」
断言のような台詞に、アラシヤマは懐に手を入れながら、斜め上に視線を上げる。
「シンタロー」
「ぁン?」
「ぶぶ漬けの約束がまだどすえ」
「……」
その言葉にシンタローは歩みを止め、億劫そうに振り返った。
そして、アラシヤマをすり抜けてその奥を見据えているような遠い瞳で、ぼそりと呟く。
「オマエ、実は俺の幻覚だったりしねえかな。目が覚めたら消えてるとか」
「あんさん平然と酷おすな」
むう、と顔を顰めながら、それでも要求を退けようとはしない妖に、だーもーめんどくせー、とシンタローが頭を掻きながら再び歩き始める。
そのとき、廊下の奥に見えていた妻戸がちょうど開いた。
一拍遅れて、奥から上擦った声が聞こえる。
「あああ、ス、スンタロー!!」
「―――お、ミヤギ」
「よがったべ、無事に戻ってたんだべな!……って、なんだぁその変な化けモンは?!」
シンタローに駆け寄ってきた男は、この国では珍しく、陽の光に透けるような色の髪をもっていた。目元涼しく、柳重(やなぎがさね)の直衣を身につけたその姿は、一寸見蕩れるほどの男ぶりである。
絹のような細い髪と月に照らされた淡雪もかくやという肌の色からすると、奥州か蝦夷地か、とにかく北のほうの人間なのだろう。
「変て。失敬どすなあ、こんでもあんさんの十倍は年長なんどすえ。敬いやし」
男は一応は妖であるアラシヤマを瞬時に認めた。へえ、それなりに霊力はあるんどすな、と感心しつつも、アラシヤマはあくまで居丈高に言う。
くい、とその整った面貌を親指で指し示しながら、シンタローが金茶の髪の男を紹介した。
「丁度よかったぜ。コイツはミヤギ、『一応』本物の陰陽師だ。でもって俺の側仕えの一人」
アラシヤマが片眉を上げてそれに応えると時をほぼ同じくして、シンタローは男に近寄り、口元に剣呑な笑みを宿した。
「―――てか、ミヤギちゃんよォ……。テメエゆうべはよくもヒトのこと見捨ててさっさと逃げ出しやがったなあああ」
「ごご、誤解だべ!スンタローがいきなり全部の亡霊引き連れて猛ダッシュすっもんで、オラには追いつけなかっただけだべ~」
詰め寄るシンタローに、で、でも無事でよかったべな!と、ミヤギは顔の前で手を振りながら必死に弁解する。
「ホントかぁ?あと、あの護身用の符、やっぱ俺じゃほっとんど効かねーわ。まー無事だったからいいけどよ」
ミヤギの慌てぶりが満足のいくものだったようで、シンタローはそれまでの芝居がかった表情をふっと自然のものに戻し、屈託なく笑った。
「あ。でな、ちょっと雑用頼みてーんだけど。俺今から寝るから、このアホ狐に茶と飯出してやってくんね?」
「へ?まさかコイツ、飼うつもりだべか?」
ミヤギが目を白黒させてシンタローとアラシヤマを交互に見る。
これでも本職の陰陽師である。見れば見るほど、妖が明らかに尋常ではない何かであることはわかる。少なくとも可愛がる性質のものではない―――外見の面だけで言っても。
そんな妖をもてなそうとするかのようなシンタローの台詞に、ミヤギは信じられないという風な表情を作る。
ミヤギの葛藤が伝わってきたのか、アラシヤマは腕を組みながら、わざわざ顎を上げて見下ろすような視線を秀麗な白皙に向ける。
「ペットやのうて、恩人どす。漬物もよろしゅう頼んますえ」
「悪ィな。どうしても手に負えなかったら起こしていーぜ」
そしたら速攻で消してやるから、と表情も変えずに言って、がしがしと長い黒髪を掻きながらシンタローは寝所のほうへと去っていった。
あとに残されたミヤギはしばらく胡散臭そうにアラシヤマを監察していたが、やがて諦めたように一つ息を吐いた。
いくら自分が怪しいと感じたとしても、主であるシンタローの言いつけなら従わないわけにはいかない。
とりあえず台所に案内するべ、と言って、アラシヤマを伴って歩き始めようとする。
その刹那。
それまで何もないと思われていた空間から、二人に向かって唐突に声がかけられた。
「ミヤギくん、ソイツにあんまり近づかないほうがいいっちゃよ~。せっかくの綺麗な気に、陰気が移るわや」
「トットリ」
声は、そばの蔀戸(しとみど)の上から聞こえた。アラシヤマが面を上げてそちらを見遣ると、影から浮かび上がったかのように一匹の妖が寝そべっている。
まだ幼さの残るその顔つきは、十四、五歳といったところだろうか。簡素な衣装はほとんど黒に近い深緑色で、額と首元に赤い布を巻いている。
一応は人の形を取ってはいるが、その頭と尻にはアラシヤマと同じく、獣の耳と尾がのぞいていた。尤もそれは、アラシヤマのそれよりもやや堅そうな、黒と銀色の混じった毛のものだったが。
人の重さであれば到底乗れるものではない蔀戸の上に寝そべり、尖った獣の耳をした妖は、頬杖を付くような姿勢で無遠慮にアラシヤマをねめつけている。
「へえ……。あんさんがこの陰陽師はんの護法神どすか」
「そげだっちゃわいや。ミヤギくんに気安く触ったら承知しないっちゃよ、化け狐」
「今んとこ、わてが興味あるのはあの坊だけどすけど。そう言われると手ぇ出したくなりますなぁ」
皮肉めいた笑いを浮かべてそう言うと、幼いながらも鋭い眼差しがアラシヤマを刺した。
二匹の妖の間に、目に見えない火花が散る。
その不穏な空気を破ったのは、当事者であるミヤギの小動物をたしなめるような声だった。
「トットリ、こんなでも一応、スンタローの客だべ。あんまし突っかかんじゃねえっぺよ」
「み、ミヤギくん……」
「それはそォと、頼んでた遣いはどうなってっべ?」
「あっ、ご、ゴメンだわや、今行くとこだっちゃ!」
ぽんぽんと言葉を放られて、トットリは蔀戸の上で慌てながら居住まいを正す。心配そうな顔つきは直らなかったが、それでも課された仕事を果たそうと外の方向に目を向けた。
「じゃあ、行ってくるっちゃけど。そいつに気ぃ許しちゃダメだっちゃよミヤギくん!なんかあったらすぐ呼ぶだわや」
何度も重ねて念を押しながら、トットリは再び影に紛れるかのように、ふつりと姿を消す。
アラシヤマはふぅん、と言いながら黒い妖の去った後を眺める。姿が完全に見えなくなっても、その場に妖の気は薄く残っていた。
「アレ、基は山犬の化生でっしゃろ」
「ああ、多分そうなんだべな。直接は聞いたことねえけど」
己の護法神であるにも関わらず、その正体はさしたる大事とも思っていないらしい。ミヤギの返事は適当である。
だが、アラシヤマはトットリの消えた後を眺めていたかと思うと、
「せやけど……」
呟いて、軽く目を細めた。
怪訝そうな顔で己を見るミヤギを無視して、しばらくそのまま立ち消えた妖の残滓を見据えてから、薄っすらと口の端を上げる。
「……いや、なんでもあらへん。可愛(かい)らしい子犬どすな」
『 Diorama / Japanesque 』弐、 <中編>
台所には先客が居た。
竈や吊るされた野菜などが目に付く薄暗い土壁の房(へや)。中心にどっかと腰を下ろしているのは、黒塗りの太刀をさげた身の丈七尺にも近い大男だった。
その辺りに吊るされていたらしい大根を豪快に齧っていた男は、ミヤギとアラシヤマが近づいてきたことに気付くと、ニッと屈託なく破顔する。
「ミヤギ。シンタローは戻ったんか」
声をかけて、再び野菜を齧る。滴り落ちる汁は手首で受け止め、ぺろりと舐めた。
邪魔だべどいてけろ、と男を押しのけながら房に入ったミヤギは、てきぱきと汲み置きの水を金物の器に移すと、湯を沸かす準備を始める。
「オメのゆってたとーり無事だったけんど……寿命が縮まったべ。ちゅうかコーズ、いいんだべかソレ。スンタローに怒鳴られても知らんべ」
「今日はまだ三度しかメシを食うとらんから、腹が減っとるんじゃ」
「まだ昼にもなってねーべ…」
他愛ない会話をしながら、ミヤギが火をおこしている横で、男はがっちりとした顎を撫でる。短くて硬そうな黒髪に烏羽色の褐衣(かちえ)を身に着けたその男の右目には、縦一文字に古傷が走っていた。
やがて、火を熾し終えたミヤギが、ああ、と気づいたように隣の大男を指差した。
「アラスヤマ、コイツはオラと同じで、スンタローのたちは―――近侍だァ。コーズ、こっちはなんかよぐわかんねえけど、スンタローの客みてぇなもんらしいべ」
「みたいなもん、は余計どす」
「ほうほう」
男は、面白そうにアラシヤマを眺め回す。
あまりにじろじろと、しかも邪気のない表情で見てくるので、さすがのアラシヤマも居心地の悪さを感じ、ふいと視線をそらした。
そうした態度をどう感じたかはわからないが、やがて男は傷のあるほうの片目を細めると、
「トットリのヤツに、ちぃと似とるのぉ」
とぼそりと呟いた。
その言葉に、アラシヤマはどう反応したものかと悩む。それは人か妖かという大きすぎる区分の中で考えれば同じところに分けられるのかもしれないが。
そんな思考が表れたアラシヤマの微妙な顔色など気にもならない様子で、その男はもう一度、今度ははっきりと妖に向かってニッと笑った。
「ま、シンタローの客ならゆっくりしてけ。ワシはコージじゃ。よろしくじゃけんのう」
そして食べ終わった大根の尻尾の部分を房の隅にあるくず置きに放り投げる。やや瞠目して自分を見返すアラシヤマを後にして、うまかったのぉ、と独言しつつ、男は大またで台所から出て行った。
ったく、仕方ねえっぺなコーズは。うちの食費の半分はアイツん腹ん中だべ、と、米びつの中を確認していたミヤギがぼやく。
「あんお人、わてのこと妖やてわかっててああゆうこと言わはりますのん」
「多分、気付いてねーべ」
「……自分で言うのもなんどすけどな。わて、どー見ても普通の人間やあらへんどすえ。大雑把にも程がありますやろ」
「初めてトットリ見たときもあーだったべ。コーズは」
追い討ちのように淡々と告げられたその台詞に、アラシヤマは大仰に肩をすくめてみせた。
「なんや、ここはおかしなお人ばっかどすなぁ」
「オメにだけは言われたぐね」
仏頂面で返すミヤギは笥(け)に冷や飯をよそい、沸いた湯を椀に移す。
最初ぼんやりとその場に佇んでいたアラシヤマは、邪魔だべその辺座って待ってろ、とのミヤギの言葉に素直に従っていた。
湯のなかに茶葉を数枚入れると、ミヤギはアラシヤマの前の床に台盤を置く。椀の横にはきちんと青菜の塩漬けも添えられている。
アラシヤマは一瞬目を輝かせた後、律儀に、いただきますえ、と宣言し、両手を合わせてからさらさらと茶漬けを流し込み始めた。
一方、主の言いつけを終えたミヤギは手持ち無沙汰そうに外を眺めている。
物の怪であるにも関わらず妙に綺麗に箸を使いながら、アラシヤマは上目遣いにミヤギを見た。
「ところで、ゆうべあんさんらがしてはったゆう『探し物』ってなんどすのん?」
「ン?」
「鳥辺野で探すものなんてせいぜい人骨か鴉くらいでっしゃろ。しかもそんでヘマしたって、死人の追剥ぎでもやっとったんどすか」
冗談というわけでもなさそうに言うアラシヤマに、食事中によく考えつくべなぁと呆れながらミヤギは答えた。
「そんなわけねーべ。……あん人が探してんのは薬の材料だ。昔、妖に攫われたとき以来、ずっと眠りっぱなしの弟さん起こすための」
さらわれた、の一言に、アラシヤマの白い耳がぴこりと立つ。
「もう六年近くになっべかなぁ……。正直、あん時の状況も状況だったから、もう化生のモンになっちまってる可能性も高ぇんだけど。なんにせよずっと眠りっぱなしなんだべ」
腕組みをしながらミヤギは説明する。小さな明り取りの窓から差し込む光が、秀麗な容貌に濃い翳を落としていた。
それからふと気づいたように、そーいえば、と妖に向き直る。
「スンタロー、オメにはまだ話してねーんだべ?自分(ずぶん)のこと」
「ハッタリだけの暴力退魔師ゆうことは、もう、嫌ってほど知っとりますえ」
「まぁ、物の怪には関係ねぇのかもしんねけど。にしてもオメも怖いもん知らずだべな」
何かを含んだような物言いに、アラシヤマは首を傾げつつも重ねて問うこともしなかった。
綺麗になった椀を前に、箸を置いて両手を合わせる。
「―――ご馳走さんどした。何十年かぶりだと、人の食べ物も感慨深いもんどすな」
「そりゃよかったべ。さて」
簡素な挨拶を交わし、腰に手を当てながら、まだ床に座ったままの妖をミヤギは見下ろす。
「オラはこれから奥で符の用意しなきゃならねんだけど。オメはどーすっべ」
「そうどすなあ。とりあえずシンタローが起きるまではヒマどすな」
「邸の中は別に好きにうろついても構わねえけど。物壊したりイタズラしたりはやめてけろ」
それだけを言い切ると、アラシヤマを置いてさっさと邸の奥へと歩いていってしまった。
不慣れな場所に一人残されたアラシヤマはさて、どうしますかなと呟いて、とりあえず邸の中を散策することにした。
ボロ家には違いないが、東の対西の対、寝殿と、造りと規模だけはいっぱしの貴族のそれである。これだけの規模の邸に、あの三人とその主人らしきシンタローしかいないというのはどうも納得が行かない気もする。使われていない房もいくつかあるようだった。
没落したどこぞの宮様の成れの果てっちゅうところどすかな、とぼんやりと推察する。
そしてひととおり見て廻ると、アラシヤマは気配を頼りにシンタローの元へと向かった。
シンタローは邸の中庭に面した房で、寝具にくるまり穏やかな寝息を立てていた。
そのすぐ傍らに膝を立てて座りながら、妖は太平楽な男の顔を眺める。
「ああー、さっさと起きへんかなあ~…退屈どす……」
言いながら、軽くちょっかいを出す。
そのついでにふかふかと柔らかそうなその布団を触ってみて、アラシヤマは感心した。
「へぇ……」
綿のつまり具合は申し分なく、表面を覆う布は絹織りである。
「貧乏家屋の割には、寝具はええもん使うとりますな」
その感触を楽しみつつ、男の規則正しい寝息を聞いているうちに、アラシヤマの三角形の耳が、徐々に垂れてくる。終にふああ、と欠伸をもらした。
「なんや、暢気そうな顔見てたらこっちまで眠なってきましたな……わても一休みさせてもらいまひょ」
呟きながら、笑顔でいそいそとシンタローの横に潜り込み、布団を半分奪う。かなり疲れていたのか、シンタローはかすかに身じろぎをしただけで、起きようとはしなかった。
ほなおやすみさんどす、と誰にともなく呟いて、妖は気持ちよさそうに瞼を閉じる。
そうして、冒頭のシンタローの怒声に繋がったわけである。
***
「そないに脅えんでもええやないどすか。別に、今すぐ取って喰おうてわけやないんどすから」
「イヤ……脅えるっつーか。純粋にキモすぎた。密度が」
全身からぶすぶすと煙をあげているアラシヤマは、房と簀子(すのこ)の境界線で正座し、恨みがましい目で布団の上のシンタローを見つめている。
とんでもない寝覚めを強いられたシンタローは布団の上にあぐらをかきながら、とりあえずそっからこっちには入ってくるなと物の怪に強く命じていた。
「わてが入っても気づかんでぐーすか寝てはったくせに」
「だからって人の布団に潜り込むか?!フツー」
「あんさんがあんまり気持ちよさそうに寝とるのが悪いんどすわ。それにわては一応妖どすえ。人間みたいに邪魔になることはあらへんどっしゃろ」
「妖怪っつってもテメーくらい気配の濃いヤツだと、生身の人間以上にタチがわりーんだよ。ったく、どこの子泣きジジイかと思ったぜ」
「酷ッ!これほど容姿端麗なわてを捕まえてあないなジジイ扱いどすか?!」
「鏡はそこの角にあるから突っ込んで逝け」
あいだに二間を残したままぎゃあぎゃあと言い合いを続けているうちに、ふとシンタローが何かに気づいたように顔を上げ、アラシヤマの背後に視線を向けた。
結界に揺らぎを感じたのだ。ミヤギ、トットリ、コージ以外の何者かが邸の中に入ってきたらしい。
シンタローの反応を追うように、正門の方向から一人の男が草を踏み分けつつ姿を現した。
『 Diorama / Japanesque 』弐、 <後編>
「高松」
「ああ、どうも。先だってのご報告をお持ちしましたよ」
縁側に現れたのは白い袍(ほう)を身に着けた壮年の男だった。
シンタローは妖の襟首を掴んで房の中に放り投げると、大人しくしてろと目で厳命して、自身は入れ替わりに簀子縁に出る。
「珍しいな、アンタがここまで足運んでくるなんて」
「東の市にちょっとした用がありましてね。ついでです」
言いながら、医師らしき男は縁によいしょと腰を下ろした。傍らに、持っていた小さな包みを置く。そしてその横にしゃがみこんだシンタローに、懐から出した数枚の紙の束を渡した。
ぱらぱらと紙をめくってから、シンタローが問いかける。
「んで、コタローの様子は……」
「相変わらずですねぇ。手は尽くしているんですが、一向に目覚める気配が無い」
アンタよっぽどトラウマになるようなことしたんじゃないですか、といかがわしいものでも見るような目つきで医師はシンタローを見る。
返事代わりに殴ろうとしたシンタローの拳は、しかしひょいとかわされてしまった。この医師はどこからどう見ても狂的偏執的研究愛好者の癖に、腹が立つことに武にもそれなりに長けているらしい。
面白くねえなとしかめ面を作ったシンタローは、その時ふと医師の傍らに置かれている袋に目を留める。それに気づいた医師は、袋を取り上げてシンタローによく見えるようにした。
「市で手に入れた枸杞(くこ)の実ですよ。薬の調合に使いたかったんですが、今の時期ここらでは手に入らないもので。南から来る薬種の行商を待っていたんです」
割といけますよ、食べてみます?と巾着状の袋を目の前に軽く掲げながら、口元に笑みを浮かべて高松は説明する。
そのとき。
「―――危ねぇッ!」
「……おっと」
庭先からふらりと小さな影が現れたかと思うと、その影が一直線に高松の真横を駆け抜け、その手に提げられていた袋を奪っていった。
咄嗟に身を引いたらしい本人に怪我はなかったが、薬を持っていた方の衣服の袖はざくりと切れている。どうやら鎌鼬に属する何からしい。
「オヤオヤ……」
切れた袖を見て、口元の笑みは消さずに医師は嘆息する。
犯人が実体のある動物でないことは、駆け抜けた疾風がそのまま築地の外へと飛び去ろうとしたことで明らかだった。
小さな獣の姿をした妖はしかし、外に身を投げ出そうとした瞬間、何かにぶつかったように一度地に落ちる。どうやら結界の隙間から迷い込んだ小妖らしいが、意思を持って結界を潜り抜けることは叶わないようだ。そのことに気づくと、小妖は身を翻して屋根の上へと飛び上がり、そこで身を潜めた。
男二人は眉を顰めながら屋根を見上げる。
「困りましたねぇ。アレを返してもらわないことには、寮の仕事が滞ってしまう」
困っている割には緊迫感に欠けた声で医師はそう呟く。
だが、実際のところ困るのは典薬頭(てんやくのかみ)である高松本人以上にその部下と、治療を待っている患者達であるということを知っているシンタローは、それほど暢気に構えているわけにもいかなかった。
「あれじゃ、こっから直接は狙えねーな……高松」
「なんです?」
「ちょっと、あっち側まわって見張っててくんね?俺はこっち側から見張る」
「いいですよ」
医師は顎に手を当てたまま、悠々と歩き出し家屋の反対側へと向かう。
その姿が見えなくなったところで、シンタローが房の中に声をかけた。
「おい、アラシヤマ」
客のせいで邪魔者扱いされ、挙句自身の存在すら忘れかけられていたアラシヤマは、房内で完全に不貞腐れていた。
どんな悪戯を仕掛けてやろうかと考えていたところに声をかけられ、億劫そうに顔を出す。
「……なんどす?お客さんのいはるところに出てったらまずいんちゃいますのん」
「緊急事態だ。ちょっと、屋根にいるアレ炙り出せ」
「ホンマ他力本願どすな!あんさん」
血管でも浮き立たせそうな顔色で、口元を引きつらせて笑顔になっている妖に、シンタローは笑顔を返し、すっと片腕を上げる。
「やるの?やらねーの?」
「……あーもー惚れ惚れするほど俺様ですわ……」
ぶつぶつと不平を漏らしながらも、それでもアラシヤマは庭先に出、屋根の上を見上げた。
目視できるところに小妖の姿は無かったが、気配としては大体屋根の中央辺りにいるらしい。
「殺すなヨ。脅して逃げ出させるだけでいい」
「へえへえ」
ったく、なんでこんな雑魚にわての火を…とぼやきつつ、アラシヤマは目を細め、狙いを定めると片手を空に向かって振りかざした。
指先から幾筋かの小さな炎が放たれる。炎は放物線を描いて、小妖がいるとおぼしきあたりに落ち、周囲に広がった。
炎に怯えた妖が、屋根から屋根へ飛び移る。
その瞬間を狙ってシンタローが右手から力を放った。横を掠めていった破邪の力に、妖は態勢を崩し、犬歯のようなものの並ぶ口元から袋を取り落とす。
西の対と寝殿を繋ぐ渡殿辺りに落ちたそれを、シンタローは駆け寄って拾い上げた。袋の口は開いておらず、被害は無いようだ。
「よっし、無事だな……ン?」
小妖はそのままどこかへ逃げ去っていた。また何かの拍子に結界の隙間から表に出られることもあるだろう、とそれ以後のことはシンタローの頭から消える。
否、それよりも気にすべきことが目前に迫っていたのだ。
袋を片手に、シンタローは呆然と屋根を見上げる。アラシヤマが軽い足取りでひょいひょいと、その傍らに歩み寄ってきた。
目線を上に向けたまま、低い、搾り出すような声でシンタローが問いかける。
「……オマエが使ってんのって、鬼火じゃねーの」
「どっちも使えますえ。現世の火も」
「じゃあ、今目の前で庇(ひさし)に火が移ってんのも、気のせいじゃなくて」
「燃えてますな」
「って家に火ぃついてんじゃねーかこのどすえええ!!」
中庭にこだまするシンタローの絶叫。
ぐしゃぐしゃと片手で髪をかきむしりながら、もう片方の手でアラシヤマの単の襟をつかむ。
「借家なんだヨこの家は……さっさと消せバカ狐!」
「面倒どすなあ。せっかくどすからこれを機に建て直しをお奨めしますえ。わての部屋は縦横最低二十間で」
「テメ、後でぜってーシメる。てかまだ中にミヤギとコージいるんじゃねーか?!」
その事実に気づき、家屋だけの話ではなく本当に洒落にならないのではと思いかけ、シンタローが駆け出そうとしたその時。
アラシヤマの人より優れた聴力を持つ耳に、声が届いた。
「―――天変地異、ゲタ占いの術」
ほんの微か、耳に届いたのは囁くような低声。
その声と同時に、アラシヤマが起こした炎の上に唐突に雨が降り始める。
空に雲は殆ど見えない。その雨は、アラシヤマから見れば明らかに濃い妖力を漂わせていた。
「雨……?」
顔に勢いのある水滴を受けながらも、ほっとした表情で、シンタローは空を見上げる。
誰の仕業かは、アラシヤマにはなんとなくわかっているような気がした。
三秒数えてから、ばっと勢いよく顔を上げる。その一瞬、視界の隅を黒い影が横切る。
その影は確かに見覚えのある山犬の気を発してはいたが、けして幼い子供のそれには見えなかった。
(―――なんや、アレも色々事情がありそうどすなぁ)
ざああ、と、局地的に雨が降る。
それはアラシヤマの炎をかすかに残っていた妖怪の気ごと消して、潮がひくように止んだ。
雨が上がって少しして、高松がシンタローの元に戻ってきた。
「取り戻してくださったんですね、どうも。―――それにしても狐の嫁入りみたいな雨でしたねえ」
飄々と言い、簡単な礼を口にしながらシンタローから袋を受け取る。自身はどうやら軒先で雨宿りでもしていたらしく、僅かも濡れてはいない。
そして憮然とした表情で佇むずぶ濡れのシンタローに、ところで、と笑いかけた。
「そちらは?初めて拝見するお顔ですが」
「え?―――あ、ああ、コレな……」
シンタローの傍らにはアラシヤマがいる。隠れていろと言うのを忘れていた。それでも霊感の全くない人間であれば問題はなかったのだろうが。
この男も「視える」人間なのだ、と今更ながらに思い出し、シンタローはさてどう誤魔化したものかと引きつった笑顔を浮かべたまま頬の辺りを掻く。
まさかうっかり封印を解いてしまった物の怪であるなどとは言えない。しかしシンタローの陰陽の技の程を知っている高松に向かって、今更式神とも言えなかった。
だが、そんなことを思いながらうううと唸っていたシンタローに、医師は口の端を上げながら言った。
「助かりましたよ。お友だちですか?」
「……ン。まぁ……そんなところだ」
説明をするのも面倒で、とりあえずシンタローは高松の誤解に乗ることにする。妖と友達というのもおかしな話で、実際そのつもりもさらさら無かったが、かといって他に形容の仕様もない。
妥協策としての肯定。
だがそれを背後で耳にしたアラシヤマは、その瞬間直立し、耳と尻尾をぴんと立てた。
(とっ……友達……っ?!)
シンタローの返答に愉快そうに唇をゆがめてから、ではまた、何かありましたら。とそれだけを言って高松は邸から去っていった。
それを見送りながら、背中に感じたどうしようもない悪寒に、シンタローはゆっくりと振り向く。
そこにはハァハァと荒い呼吸を抑えきれず、じっとりと絡みつくような視線で自分を眺めている妖の姿があった。
「あああの、し、シンタロー……はん」
「あァん?なんだよ急に、気味わりーな」
あからさまに不審なその様子と唐突に敬称付けで呼ばれたことに、眉を顰めながら見やれば、狐に似た化生は白い面を紅潮させ、もじもじと両手の指を動かしている。
「わ、わて、気付かんどしたけど、あんさんの友達やったんどすな……?」
「―――はァ?!」
奇怪としか思えないその表情と行動以上に、妖がおずおずと、しかしはっきりと口にしたその言葉に、シンタローは面食らって目を丸くする。
「そ、そら友達のためどしたら、手ぇのひとつもふたつも貸すのは仕方あらへんどすなぁ!」
「ちょッ……寄るな頬染めるなウザい!あれはあの場をやり過ごすための……」
「友達……友情……!!……なんてええ響きなんでっしゃろ……」
「聞けよ。ヒトの話」
俺……もしかしてとんでもねーこと言っちまったんじゃねーか?というシンタローの懸念は妖のその様子を眺めていれば、疑念といういうよりはもはや確信だった。
だがその中でも浮かんだ一つの期待に、シンタローはそれを口にする。
「ああ。でもじゃあ、足だの手だの食らうって話は」
「それはそれ、これはこれどすわ」
「え?じゃあ俺友達扱いされた上にソレ?何その事態悪化の一途」
遠い目をしながら口元だけに笑みを貼り付けたシンタローの表情とは裏腹に、ウキウキと周囲の空気すら桃色に染めそうな雰囲気で、アラシヤマは言う。
「ほな、長い付き合いになることどすし、わての分の房と布団の用意もお願いしますえ~v」
「……なんで、テメーを、そこまで、歓待しなきゃ、いけねーんだよッ!!」
「別にわては構いまへんけどなぁ。親友と毎晩一つ布団で語り明かすゆうのも乙なもんどすわ」
「それだけはヤメろ、マジで。てか勝手に親友に格上げしてんじゃねー…」
シンタローの言葉を東風もいいところで流しながら、あーお友達って素敵どすなあ!とどこまでも浮かれる妖の姿。
すっかり居座るつもりらしきその物の怪に、シンタローは呆れを通り越して絶望に浸る。
夕餉の席での邸の主人とその客人らしき妖の明暗の差はあまりにあからさまで。
ミヤギ、コージの両名は怪訝そうに首をかしげ、トットリは大きな眼の上にある眉を片方浮かせた後、気付かれないようにこそりと嘆息した。
<了>
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一度憑いたら離れません。
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