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 その日、シンタローは高田の阿部伊勢守の屋敷を訪ねた帰り道であった。
 先日の試合への出場はシンタローの本意ではなかったが、勝ちすすんだ。
 ちょうど試合を見ていた伊勢守がシンタローを剣術指南役として召抱えたいと熱望し、その申し出に対する断りのあいさつに行ってきた帰りである。
 伊勢守のかえすがえすも残念そうな顔を思い返し、シンタローは、
 (面倒くせぇ……)
 ため息をついた。
 江戸の郊外であるこのあたりは田畑がひろがり、のどかな風景であった。護国寺への参道の活気とくらべると、下高田村を通る道はそれほど人通りも多くはない。
 シンタローは何の気なしに歩んでいたが、ふと、気になって後ろを振り返ると、数間後ろで菅笠の武士らしき男が飛び上がるように立ち止まった。シンタローが男をじっと見やると、いかにも慌てた様子で向きを変え、もときた道を数歩もどった。
 (なんだ?……アイツじゃねーし、この前の試合の意趣返しか?それにしちゃぁ、殺気がねぇ。尾行も下手すぎるよナ)
 歩きだすと、男は安心したかのようにふたたび後をつけはじめた。
 シンタローは、ふいに左に曲がり、椿山八幡宮の階段を上った。椿山という名の由来なのか、椿の木が生い茂っている。
 ほどなくして男が境内に入ってきたが、シンタローの姿があたりに見えないのであわてた様子である。
 気配を消したシンタローが、賽銭箱に手をついて本殿の中をのぞきこんでいる男の背後から近づき、
 「おい、」
 と声をかけると、男は腰を抜かし尻餅をついたので、シンタローは呆れた。
 どうやら武家のようであり腰に脇差を差してはいるが、とてもではないが刀を扱えるとも思えなかった。
 「てめぇ、いったいどういう仔細があって俺の後をつけてきやがった?」
 「貴公、シンタロー殿であらっしゃられるか!?」
 バッタのように跳ね起きた男は一尺ほど近くまで勢いよく詰め寄ってきたので、シンタローは数歩あとずさり、間をとった。
 「拙者、青木弥之助と申します。本日は折り入って頼みがござりまして、無礼、お許し願いたい」
 弥之助は笠をとり、深々と頭を下げた。
 シンタローも笠をはずしたが、渋面であった。
 「アンタ、阿部家の使いか?」
 「そうではござらぬ」
 いくばくかの時がすぎたが、一向に彼は面をあげようとしない。
 埒が明かない、とシンタローは軽く息を吐いた。
 「――何だよ?言っとくけど、一応聞くだけだからナ」
 急いで体を起こした男はシンタローを見上げ、一瞬見惚れた。
 すぐにわれにかえり、そして何事かしばし考え込んだ様子であったが、大きくひとつうなづくと、
 「シンタロー殿!」
 と叫んだ。
 「早苗どのの件、お考え直してはくださらぬか!?」
 「何のことだ」
 「何のこと!?先日の御縁談でござるが、どうかご再考をお願い申す!!早苗どのは、気立てがよいうえ頭もよく、花のように可愛らしいお方でございます。会えば、貴公のお考えも」
 「縁談は断ったんだ」
 シンタローがすげなくそう言うと、
 「何卒、なにとぞご再考を……」
 弥之助は地面に手をついた。
 「アンタが何者だか知んねぇが、俺は、考えを改める気はねェ」
 シンタローは笠を被るとその場を後にし、石段を下った。
 「拙者は、あきらめませぬぞ!」
 という声がかすかに聞こえた気がしたが、椿の群生の中を歩くシンタローは振り返りもしなかった。



 昼八つの頃、アラシヤマは江戸町奉行所の廊下を歩いていた。
 (この前、報告は済みましたやろ?何やえらい嫌な予感がしますナ……)
 ふすまを開けると、上座にはすでにマジックが座していた。
 「座りなさい」
 どうやら声を掛けた様子を見た限りでは、機嫌は良さそうであった。
 「面をあげていいよ」
 アラシヤマが礼の位置から起き直った直後、一息の動作でマジックは右足をふみだした不居の姿勢を取り、手に持った刀を下から逆袈裟切りに切り上げた。しかし、すべて皮一枚、といったところでの所作であったらしく、端座したままマジックを見据えているアラシヤマには傷一つついてはいない。
 「――わて、始末される心当たりが何一つおまへんのやけど」
 アラシヤマが感情のこもらない平坦な声音でそう言うと、
 「この刀、よく切れるんだよね」
 と、立ち上がったマジックは刀を鞘に納め、もとどおりに座した。
 「ミヤギはすっごーく驚いてくれたのに、本当にお前は面白くないヨ」
 「……そういう問題やないと思いますけど。しかも、さっきは冗談ごとやのうて本気でわてを斬るつもりやったんと違いますか?」
 「疑り深い男は嫌だねぇ!」
 マジックはアハハと笑うと、急におももちをあらためた。あごの下に手をやり、しばらくアラシヤマを見ながら無言であった。
 塀の外からは、手習い帰りと思われる子ども達が騒ぐ声が近づき、だんだんと遠ざかっていった。ふたたび部屋の中が静かになると、
 「アラシヤマ、どうしてミヤギを手伝わなかったんだい?」
 と、彼は訊いた。アラシヤマは、畳の上に置かれた刀を見ながら
 「云わせてもらいますけど、わてはあの時の判断は間違うてないと思いますえ?」
 眉を寄せた。
 「確かに、お前のとった行動は間違ってはいないんだけどね……」
 ふむ、とマジックは腕を組むと、少し思案してから口をひらいた。
 「今回の事件は腑におちないところがある。お前はどう思う?」
 「剣をたしなんでいない素人が、あれだけ刀を遣えるものですやろか。それに、刀の気配も尋常ではおまへんな」
 「なるほど。確かにこの刀は剣術の心得のない次郎右衛門とは不釣合いだ。今トットリを下野にやっているが、次郎右衛門は佐野では炭屋を成功させた分限者で悪い噂は聞こえてこない。それに、牢内での様子とも考え合わせると、一寸ね、気になったんだヨ」
 アラシヤマが目を細め、
 「なぜ次郎右衛門が今回の事件を起こしたか、刀は一体何なのか、ということどすか?」
 と問うと、
 「まぁ、大筋は合ってるよ」
 マジックは頷いた。
 「忍者はんは、いつ帰って来はるんどす?早い方がええんとちゃいますの?」
 「何を言っているんだい?お前が次郎右衛門を調べるんだ」
 それを聞いたアラシヤマの顔が、一挙に曇った。
 「……わてがどすか?」
 「そうだ」
 「どうも、わて向きの仕事やないみたいどすけど……」
 「つべこべ言わずにやってみなさい。何も、闇に紛れるばかりがお前の業というわけでもない」
 「へぇ」
 いかにもやる気がなさそうに生返事をよこしたアラシヤマを見ながら、
 「あ、そうそう。お前も隅におけないねぇ……」
 突然、マジックは表情を一変させ、人が悪そうな笑いを浮かべた。
 「……何のことどすか?」
 アラシヤマは胡散臭げに彼を見遣ったが、
 「ミヤギが悔しがってたけど、花魁から呼び出されたそうじゃないか。このこと、シンちゃんに面白おかしく教えちゃおうっとv」
 マジックの言葉をきいたとたんアラシヤマの血相が変わり、思わずといった様子で腰を浮かし、身を乗り出した。
 「ひ、卑怯どすえ!あることないこと言わはって、シンタローはんが誤解しはったらどないしてくれはるんどすかッ!?わては何に誓ってもよろしおますが、一切潔白どす!」
 「別に心配しなくてもいいヨ。そもそも、シンちゃんは根暗男が嫌いみたいだしネ」
 「……親馬鹿親父のことも、ものすごく鬱陶しがってはるんちゃいますの?」
 マジックは明らかに自分を睨みつけているアラシヤマを見て、ニヤニヤと笑いながら、
 「ふーん。まだまだ、青いねぇ」
 と、ひとこと言った。
 その瞬間、アラシヤマは苦虫を噛み潰したような渋面となり、
 「わかりました。下手人を調べればええんでっしゃろ!」
 低くことばを吐き捨てた。
 「言っておくが、責め問いや拷問はだめだよ?」
 「お奉行はん、一体わてを何や思うてはりますんや……」
 「まぁいい。まかせたぞ」
 マジックはもう一度頷いた。
 アラシヤマが退室した後、マジックは傍らの飾り気のない刀を取り上げてつくづくと眺め、
 「どうにも、ややこしい」
 とつぶやいた。


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 同心に引き立てられたアバタ面の男は、表情なくややうつむきかげんに首を落としていた。
 いつの間にやら周りに客らしい男達や妓楼から様子をうかがいに使いにやられた禿など野次馬たちが集まり、無言で遠まきに男を見ている。
 不意に見物人の隙間から男の背めがけて何かが投げつけられたが、それは握りこぶしよりもやや小さいほどの大きさの石であった。
 その場の空気が凝縮したかのように密度を増し、何か些細なきっかけ一つで膨張し爆発するのではないかと思われた。
 「裁きの下ってねぇ下手人に手を出すことは許さねぇ、てめぇら散れッツ」
 年配の同心の鋭い声が飛ぶと、張り詰めた異様な雰囲気は徐々にしぼんでいった。納得がいかない様子ながらもお互い隣にいる者と顔を見合わせると一人二人とその場から離れいなくなった。
 「面番所へのご同行、願います」
 同心は、ミヤギに向かって頭を下げた。
 「おめさは、どうするべ?」
 アラシヤマはかぶりを振り、
 「わては一寸気になることがあって今から仏さんを見に行きますさかい、そっちはあんさんにまかせますわ」
 と言った。


 (あの商人は剣術経験のない素人ということは間違いおまへん。でも刀を遣って花魁を惨殺した。それにあの刀痕は素人がつけられるようなものやない・・・)
 まだ検分が済まないうちに、アラシヤマは蔦屋の入口を出た。
 仲の町を数歩も歩かないうちに、彼は立ち止まった。大門の方に向かっていたが、角から走りよってきた少女が怒った風情できっと唇を噛み締めて数歩前で止まり、自分を見仰いだからである。
 (なっ、なんどすか!?)
 非常にうろたえながらもアラシヤマがおそるおそるその子どもを見やると、少女は十歳ほどで、深緑に竹もようの振袖を着ていた。どうやら、遊女屋の禿かと見当がついた。
 「お武家さま、万字屋のここのえおいらんから話がありィす。いっしょにきてくんなんし」
 怒っていると見えたのは緊張のためだったらしく、かわいそうにも声が震えていた。
 (万字屋と言うと、殺された傾城の見世やな。丁度ようおます)
 「よろしおます」
 頷くと、かむろは小走りに駆け出し、アラシヤマはその後をついて行った。


 万字屋の店内に入ると中は静まり返っていた。奥では楼主とおかみ、遣手などが集まってボソボソと今後の相談をしているらしい。
 かむろは入り口脇の階段を上がると廊下をパタパタと駆け、戸を引きあけた。
 「おいらん、おつれもうしィす」
 「これさ、騒々しい」
 まず、アラシヤマは虎と目が合った。窓の外を見ていた花魁の深緑色の仕掛けに刺繍された虎であった。
 花魁の脇には、先程アラシヤマを案内してきたかむろと全く同じ竹もようの着物、切り髪の少女が座っていた。二人の違いといえば、髪に差している花簪の花の形が異なる程度である。
 アラシヤマは一瞬逡巡したが、被っていた深編笠を取った。
 根下がり兵庫に髪を結った花魁はゆったりと振り向き、
 「――昼間っから吉原に来ている浅葱裏かと思いきや、存外いい男だねぇ」
 からかうように口角をあげた。キセルで火鉢の前をさししめし、
 「そこに、お座りなんし。うきょう、さきょう。おまえたちは下がっていいよ」
 と言った。
 双子のようなかむろ達は、襖を開け、礼をして出て行った。


 室内には金縁漆塗りの箪笥やら、梅がのびやかな筆致で描かれた屏風やらが置かれていたが、華やかな雰囲気をアラシヤマは居心地悪く感じた。
 花魁は思案気な様子で中々話し出さず、たまりかねたアラシヤマが、
 「傾城、ところで、わてに話とは何事どすか?」
 と問うと、
 「八丁堀の檀那、上方者でおざりィすね。わっちは先程、窓からぬしたちの大捕物を見てござりやした」
 花魁は煙管を深く吸い、煙をゆっくりと吐きだした。
 「ほな、下手人の佐野屋次郎右衛門か死んだ傾城のことどすな」
 「八橋さんでござんすよ」
 九重は、煙管で軽く火鉢を叩き、灰を落とした。
 「――死んだ人のことを悪くいっちゃあバチが当たりぃすけど、わっちは八橋さんが嫌ぇでござんした。でも、一つだけ云わせておくんなんし。今回のことは、佐野のお大尽が悪いわけでも八橋さんが悪いわけでもござんせん」
 「あんたはん、下手人をかばうんどすか?一体何があったんどす?」
 「身請けの披露で、八橋さんが佐野屋さんに愛想尽かしをしんさった」
 「それで恨みに思って、ということどすか?」
 「それはわっちにもわかりやせん。ただ、佐野屋さんは誠実のある優しいお方。そして八橋さんに惚れ抜いておざりやした。でも、八橋さんには栄之丞という間夫がいんさった。ゴロツキと組んで『身請けを断らねぇと手前とは切れる』と八橋さんを脅すなんざ、わっちから見りゃあ、たいした男じゃぁなかったさね。
 だからと云って、間夫を失うのは身を切られるよりもつらいこと。佐野屋さんに愛想づかしをしんさったのは、わっちらは身請け話をどうあっても断りきれねぇ身の上だから、色々覚悟の上だったんだとは思うよ。ただし、期待を持たせるだけ持たせておいて、最後に裏切るなんてことはあんな優しい人に対してしちゃあいけねェことだったんだ」
 「……あんたはん、あの男に惚れてはったんどすか?でもわてにそう言われても、どうすることもできまへんえ?」
 九重は煙草を詰め替え、火をつけると、
 「どうこうしてほしいというつもりはわっちにはござんせん。ただ、吟味なさるにしろ二人のことを少し知っておいてほしかったんですよ。それにしても檀那、ぬしはホンニ野暮でありんすねぇ」
 と言って笑った。
 「野暮、どすか……」
 「まぁ、生可通でないだけいいさね。これで、わっちの話はお仕舞ぇでござんす」
 「はぁ、おおきに」
 どうにも釈然としない表情でアラシヤマは立ち上がり、廊下に出て引き戸を閉めたが、深編笠の紐を結ぶ間、
 「――次郎右衛門さんも馬鹿だねぇ。わっちに惚れりゃあこんなことにはならなかったのに……」
 引き戸の向こうで、そう低く呟く声が聞こえた。


 番町の入り組んだ道をすたすたと若い武士が歩いていた。いかにも頑固そうながっしりとしたあごと広い額をもち、四角い面構えであった。お世辞にも美男とはいえないが、生真面目で一本気な調子で全体が構成されていた。
 彼はある武家屋敷の前でつと足を止めた。
 屋敷門をくぐり、玄関で
 「修理どのはおられるか?」
 と大声で呼ばわると、
 「あら、弥之助様。兄はただいま不在でございます。ごめんくださいまし」
 くすくすと笑いながら、年の頃十六ほどの少女が姿を現した。思いがけなかった相手が応対にでたからか、弥之助は赤面し、頭を掻いた。
 「あっ早苗どの・・・。その、本日はまことによい日和で。こ、この度の御縁談、まことにおめでとう御座います。もし祝言の日取りなどお決まりでしたら、それがしも祝いの準備をと考えておりますが」
 一気にそう言い切り、息を吐いた。冬だというのに弥之助はこめかみに汗を掻いている。
 「――こんなところで立ち話も失礼ですから、どうぞお上がりくださいまし」
 少女はくるくるとよく動く丸い目で、その様子を面白そうに見ていたが、彼は
 「いえ、お父上や修理どのがご不在の折、それがしが勝手に上がりこむわけには……」
 と言葉を濁した。
 「それじゃ、縁側にお座りくださいな。ただいまお茶をもってまいりますので」
 青木弥之助が返事をする暇も与えず、早苗は身軽に奥に消えた。弥之助は、途方にくれた顔をしたが仕方がないので、庭の方へと向かった。
 弥之助がぼんやりと庭を見ていると、早苗が茶を運んできて弥之助の前に置いた。
 濡れ縁に腰掛けた彼は、碗が割れそうになるほど出された茶碗を睨みつけていたが、ようよう、
 「ところで早苗どの、ご縁談の件は……」
 と口にした。彼にとってはかなりの覚悟を要したようである。
 向かいに座った早苗は、
 「ああ、あれ。向こう様からお断りのお返事がまいりましたよ。ご縁がなかったのでしょうね」
 と、あっけらかんとした口調で言った。
 「はぁ、いよいよ早苗どのもご新造様となられるのですな……」
 対する弥之助は暗い表情でボソボソと言った。
 「だから、断られましたって!」
 早苗が少し声を大きくすると、彼はあっけにとられた様子で、
 「い、今なんて?」
 といい、目を白黒させた。
 「もう、何度も言わせないでくださいな。縁談は白紙になったんです」
 そう言うと、早苗は小首を傾げてにっこりと笑い、
 「ねぇ、弥之助さま、今から一緒に囲碁を教えてくださいません?私、この前よりも上達したような気がするんですよ」
 といった。
 弥之助は、顔つきを改め、
 「早苗どの!」
 と言って居住まいを正した。つられて早苗が座りなおすと、
 「それにしても、相手方には見る目がない。貴女がどれほど素晴らしい女性か存じていないのだ」
 きっぱりと言葉を切った。
 「弥之助さま……」
 頬を染め、恥ずかしげに早苗はうつむく。一輪の花のような風情であった。
 「だから、それがしが相手方に掛け合って、なんとか縁談をまとめましょう!!」
 彼が力強くそう言うのを聞いた瞬間、早苗の顔がみるみる曇った。
 「破談になったのですから、もういいではありませんか」
 「いや、貴女は幸福にならなければならない。それにしても貴女に恥をかかせたとはけしからぬが、妹御が馬鹿にされたというのに修理は一体何をしておるのだ!?」
 「弥之助さま、お考え直しくださいまし。私、顔も知らない人のところへ嫁ぐのなんて嫌なんです」
 と早苗は言ったが、当の弥之助は何か考え込んでおり、彼女のことばを聞いている様子はなかった。
 「心配御無用。それがしが、なんとかいたします!!」
 思いがまとまったのか、茶碗の茶を一息に飲み干して気色ばんで出て行く弥之助を見送り、
 「弥之助様……」
 少女はため息をついた。


 ほどなくして、座敷の方から半裃を着た初老の男が濡れ縁に姿を現した。
 「お父様」
 と、早苗が言ったところを見ると、彼のゴツゴツとした岩のような顔と細面の早苗と似たところはないが、どうやら彼女の父親らしい。彼は、重々しく口を開いた。
 「またあの男が来ていたのか。嫁入り前の娘の家に軽々しく訪問するとは一体何事だ」
 「お父様、私、弥之助様以外とは夫婦になりませんので」
 キッパリと早苗がそう言うと、彼女の父親は気の毒かと思われるほど取り乱した。
 「気でも違ったか早苗!?あやつは当家よりも家格が低いのだぞ!それに、お前の幸せを願ってわしは苦労して縁談を探してきているのではないか!?」
 早苗は、唇を噛んで父親を見据え、
 「もしも今後勝手に縁談をまとめたりなさいましたら、私、自害をいたしますのでそのおつもりで」
 と言った。
 「早苗、何ということを……。あの若造め、許せぬ!!」
 「家はお兄様がお継ぎになられますから、ご心配はございませんでしょ?今はお父様の顔も見たくもありません。あっちへ行ってください」
 彼女がそっぽを向くと、うろたえながらも娘をうかがいつつも彼はその場を後にした。
 「あーあ、お父様も弥之助様も、男ってわからずやばかりだわ」
 彼女は空になった茶碗と茶が満たされている茶碗を片付けつつ、
 「でも、好きなんだもん。しょうがないか……」
 と、再びため息をついた。


 深編笠をかぶった浪人風の男と、菅笠をかぶった武家風の男が鳥越橋を渡っていた。
 橋の上には歳の市へ向かう老若男女や今から帰ろうと家路を急ぐ連中がひしめき、人の頭が連なって黒い波を作っていた。めいめい買い求めた荷物を胸に抱えたり背負ったりしており、うかうかしていると、あっという間に人波に呑まれて行方がしれなくなるような混雑振りであった。
 深編笠は特に菅笠を気遣う様子も見せず、どういった術なのかさっさと人込みの中を歩いていくので、それを追いかける菅笠の方はたまったものではなかった。
 人の波にもまれながら路なりに北へと向かうと、壮麗な風雷神門が姿を現す。普段は夕刻になると閉ざされるが、歳の市の日だけは一晩中開いていた。
 蓑市が開催される日には門前に仮小屋が立ち並び、田舎から出てきた百姓達が蓑や笠を所狭しと並べて売っている。
 深編笠はある店の前でようやく立ち止まって振り返ると、
 「ちょうどええわ。あんさん、深編笠を買いなはれ。わてについてくるつもりやったら、顔は極力見られへんようにしておくれやす」
 そう、菅笠をかぶったミヤギに言葉をかけた。
 特に欲しいとも思わなかったが、ミヤギは仕方なく店の親父から真新しい深編笠を購入した。
 風雷神門から境内に入り、アラシヤマは人込みでごった返す中を時間をかけてくまなく一巡した後、浅草寺を出て山之宿町の茶店の床机に腰掛けたので、ミヤギはやっと休めると安堵の息をついた。
 「オラ、一度は浅草寺に来てみたかったんだけんども……」
 茶を一口飲むと、ミヤギは苦虫を噛み潰したような顔をした。茶が渋かったというわけではないらしく、アラシヤマは平気な顔をして飲んでいた。
 「ほな、念願が叶ってようおましたな」
 「何もわざわざこの人の多いクソ寒い時季に、しかも根暗男とは来たくはなかったべ。オラが一緒にきたかったのは可愛い女の子だべ!なんつーか骨折り損のくたびれもうけだっぺ……」
 「嫌やったら、帰らはったらどうどすか?」
 「えっ、いいんだべか!?」
 ミヤギが急に明るい顔になって身を乗り出してきたのを目を眇めて眺めつつ、アラシヤマは、
 「あんさんなァ、暢気すぎるんちゃいますの?……あの煮ても焼いても食えへん奉行の性格からして、単純に八つ当たりだけや思います?甘うおす。おそらく、帰ったらわてのやり方や市の様子、兇状持ちが紛れてへんかったか、何か気づいたことはなかったか等々、一通りのことは絶対聞かれますえ?一種の試験どす」
 そう、淡々と言った。
 「ええっ!?試験なんて全然聞いてねぇべー!?もしかして、冗談だべか??おめさ、性格が悪いからオラをだますつもりだべ!!」
 「わざわざ頭の悪いあんさんに親切にも教えてあげましたのに、何どすかその態度は?頭が痛うなってきましたわ……。わては、暮六つからもう一度見廻りに行く。あんたはんは、自由にしはったらええ」
 ミヤギはしばらく考え込んでいたが、アラシヤマの言葉に反駁する証拠を考えつかなかったらしく、
 「……オラも一緒に行ぐしかねぇべさ」
 と泣きそうな表情になって言った。そして、やけになったのか湯飲みに残っていた茶を一気に飲み干した。
 「あーあ、浅草の観音さまが助けてくれねーがなぁ……」
 「そら、間違いなく助けてくれまへんやろ。神仏に頼らず自分で何とかしはったらどうどす?あんさん、つくづく阿呆どすな」
 「――つくづく、オメさは嫌な奴だべ。それにしても暮六つまで退屈だっぺ」
 「大体、いつも見廻りはこんなもんどす」
 アラシヤマは茶をすすった。
 ミヤギは懐から、真新しい切絵図を取り出し眺めていたが、
 「アラシヤマ、大変だべ!浅草って、吉原にこげに近ぇんだべか!?」
 何やら発見したらしく、驚いたように言った。
 「……当たり前でっしゃろ?今まであんさん一体どこや思うてはったんどすか」
 「じゃあ、今から時間までちょっくら見物に行ってみんべ!?オラ、有名な吉原にも一度は行ってみたかったんだ!!」
 「――そんな金も持ち合わせてまへんし、真昼間っから花街に行く暇人も中々おらんと思いますけどナ。しかも、今は任務中どすえ?」
 「そんなこと言われなくても分かってるべ!何も客になって遊ぶというわけでねぇし、外からちょっと花魁を見るだけだから別にいいっぺ?そうと決まったら出発だべさ!」
 何やら急に元気になって茶代を支払っているミヤギを見て、
 「これやから、田舎もんは……」
 アラシヤマは、かぶりなおした編笠の内で舌打ちした。


 女は、静々と廊下を歩んでいた。
 久方ぶりに万字屋へ顔を出した男との再会場面を思い返し、密かに安堵の息をもらした。
 何も、男に嫌悪の気持ちを抱いていたわけではない。いい人、だとは思っていた。しかし、それ以上の気持ちにはなれなかった。
 自分の愛想尽かしによって、下手をすると男は川に身投げでもするのではないかという不安が彼女の胸中を去来しここ数日は気持ちが晴れなかったが、先程訪ねてきた男ははさっぱりとした態度で彼女の仕打ちを恨みに思っていないことを告げた。
 彼女は、男の取った態度を実に立派だと思った。
 愛情が湧いてくるわけではなかったが、尊敬に似た気持ちを田舎くさいが誠実な目の前の男に抱いた。
 恩のある男に対し酷い仕打ちをした自分を心から悔やみ、
 「次郎右衛門さん、わっちを許しておくんなんし……」
 白い指先を揃え、女は頭を下げた。
 男は慌てたように、手を振った。
 「花魁、顔をあげておくれよ。許すも何も、そうまでされてはわしの立つ瀬がない」
 女が面を上げると、男は彼女を励ますように頷いた。
 「わしは、江戸での商売をひきあげることになったんだ。もう吉原に来ることはないだろう。一度あんたにあげたものだ、身請け金は一切返さなくてもいい。花魁に差し上げましょう。惚れた男と幸せになるも花魁の自由。しかし後生だ、花魁。国許に帰る前に余人を交えず二人だけでわしと少し話をしてはくれますまいか」
 彼女が頷くと、男は嬉しそうな笑顔になり、
 「蔦屋で、待っていますよ」
 と言って腰を上げた。
 

 供の新造や禿達と別れ、女が襖を開けると男はすでに膳の前でかしこまって座っていた。
 女を見て微笑み、
 「ああ、やっぱり花魁は花のようだなぁ……。佐野で一番綺麗に咲いていた牡丹に似ている」
 と、呟いた。
 「次郎右衛門さん」
 女が少し困ったように男を呼ぶと、
 「花魁、」
 男は膳の上の杯を取り上げ、
 「この世の別れだ、飲んでくりゃれ」
 杯を差し出した。
 女が目を瞠り、動けないままで居ると、男は醜く顔を歪め、
 「――恨みに、思っていないとでも思うたか?」
 畳の上に杯を置き、押しつぶしたような声で言った。




 「男一度は伊勢と吉原!やっぱり、観音様より生き弁天様だべなぁ!」
 見返り柳を左に曲がり、衣紋坂を下りながらミヤギは上機嫌であった。
 「弁天いうよりも、居るんは海千山千ばかりでっしゃろ?どちらかといえば化け物の一種どす」
 「……おめさ、そげなことばかり言ってると、全っ然!女にもてねーべ?」
 「余計なお世話どす。別にわては、もてたいとも思いまへんしナ!」
 「あっ、今のって絶対負け惜しみだっぺー!顔よし性格よしで非の打ち所のない色男なオラにおめさが嫉妬する気持ちはよーく分かるけんども、もてないのは事実だから仕方ないべ!」
 「取りえが顔だけで頭に石が詰まったような阿呆よりは、格段にマシなつもりどすけど?」
 険のある声で皮肉っぽくアラシヤマは言ったが、
 「あーあ、細見を持ってくればよかったなァ」
 浮かれた様子で歩を進めるミヤギは、一向にどこ吹く風といった様子であった。
 いよいよ大門が見えてきたが、何やら悲鳴やら怒号が聞こえ、尋常な様子ではない。
 ミヤギは真顔になり、
 「何だか、変でねぇべか?」
 と、言った。


 左手の番所には常に同心や岡引が詰めているはずであったが、二人が立ち寄ると皆出払っていた。
 昼間ということで人通りの少ない仲之町の大通りをアラシヤマとミヤギが駆けぬけると、騒ぎの元は揚屋町の辺りであるようであった。店の前には数十人の野次馬が群がり、一様に首仰向け、事態の成り行きを見守っていた。
 天水桶が並ぶ屋根の上に、刀を握った男が一人、それに5間ほどの間合いを取って揚屋の若い衆や同心、岡引が対峙していた。何かに憑かれたような目の色をした男は、尋常な様子ではない。
 男の暗色の着物には大量の血が付着して染みになっており、追っ手が近づこうとすると次の屋根に飛び移ってしまう。
 「乱心者やろか。どうも埒があかへんみたいどすな」
 「大変そうだべなァ。よし、オラたちも手伝うべ!」
 「何言ってはるんや、目立つ行動は極力控えるべきどす」
 男を捕らえようと近づいた岡引らしき男が刀で腕を傷つけられ、物干し台に落ちた。
 下で見ていた野次馬たちが、口々に恐怖と安堵の混じりあったような悲鳴を上げる。
 上方の騒ぎを見上げながら、ミヤギはこぶしを握りこんだ。
 「――オラは行く」
 「あんさん、そこまで軽率やて思いまへんどしたわ」
 「別に、アラシヤマは来なくていいべ!」
 そう言うとミヤギは被っていた深編笠を投げ捨て、目前の揚屋に駆け込んだ。階段を駆け上がり、窓から屋根の上によじ登った。


 「オラは町奉行所の同心、ミヤギだ。この騒ぎは一体どうしたべ?」
 中年の浅黒い顔をした同心は捕物術の稽古場で時々顔を合わす程度の間柄であり、話したことはない。しかし、ミヤギを見て彼の顔には明らかに安堵が広がった。
 「ああ、ミヤギどのでございますな。どうやら女郎屋の客が乱心したようで、花魁と下女を斬り殺したんです」
 「わかった」
 ミヤギは、息を一つ吸うと、
 「おめさ、どうしたんだべ」
 と、血のついた刀を持つ男に声をかけた。
 男は刀を構え、瓦の上をじりじりと後退って間合いをとっている。
 「話さ聞いてやっから、まずはその刀を離さねぇべか?そげなものを振り回してたら危ないべ」
 男の顔に、一瞬逡巡が走った。
 しかし、次の瞬間、獣のような雄叫びをあげ、ミヤギめがけて突進してきた。
 (コイツ、剣術は素人だべ。でも破れかぶれになってっから気をつけねぇと)
 ミヤギは後ろ腰に差していた十手を引き抜いた。
 男は、胸を狙った突きを凄まじい速さで打ち込んできた。十手の先端を軽く右に傾け待ち受けていたミヤギは上体を左下に沈めてかわし、刀身にすべらせた十手の鉄鉤で鍔元をひねり上げた。
 一瞬、男と目が合った。男が、
 「殺してくれ」
 そう言ったような気がしたが、
 「そういうわけにもいかねぇべ」
 と、右手と柄を一緒に掴み、いったん外した十手で左手を突いた。
 たまらず、左手を離した男の右手を片手で捻り上げたミヤギは男の両足首を打ち払った。
 刀から手を離した男は、屋根の上にいきおいよく叩きつけられた。そして、傾斜した屋根の上を転がり落ちていった。
 ミヤギの手の中には、血に塗れた刀が一振り、残った。
 「しまった、ここは屋根の上だったべ!」
 十手を仕舞い、空いた手でガリガリと頭を掻くと、端のほうで固唾を呑んで見守っていた同心たちのもとへと戻った。


 一方、屋根の上から転げた男は、桜が植えられている植え込みに落ちた。
 見物人たちはおそるおそるその様子を見守っていたが、不意に男がよろめきながら立ち上がると、蜘蛛の子を散らすよう、散り散りに逃げた。
 ただ一人その場に立ったままその様子を見ていたアラシヤマは、
 (あほらしいぐらい、頑丈なもんやな)
 と呆れたが、周りに誰もいないのを見て取ると溜息ひとつ、捕縄を手に持った。
 男はまだ、足取りもおぼつかないままと大門の方へ逃げようとしている。
 アラシヤマは男の前に回りこむと、男の横っ面を殴り、糸が切れたように膝をついた男を数秒も要さず縛り上げた。
 「下手人は!?」
 息をせききって、ミヤギと同心、揚屋の若い衆連中が駆けてきた。


 その日も吉原は不夜城との名を体現するかのごとく煌々と灯が夜空を照らし、人通りが絶えることがなかった。
 田園が広がる暗闇の中に突如出現する花街は、そこを目指してやってくる男達にとって極楽と思えたに違いない。
 華やかな張見世をのぞき軽口をたたいて遊女とのやりとりを楽しむ者、揚屋に向かう花魁道中にぼんやりと見惚れる者など様々である。
 揚屋の二階、八間行灯の灯りが広い部屋を照らしきれていない中、男が一人、酒肴の膳を前に魂が抜けたように項垂れていた。
 身なりは裕福な商人のようであるが、あばたの痕が点々と顔中にあった。それが灯りに照らされて彼の容貌を一層醜く見せていた。
 隣の部屋からは、芸者の弾く三味線の音、幇間の調子の良い掛け声、遊女と客達のさんざめくような笑い声が聞こえてくる。
 彼も、先程までは彼らとまったく同じ立場であった。身請けの祝いにと宴を設け、郷里から呼んできた商人仲間たちを前にひどく気分が高揚していた。
 誰もが美しい花魁を身請けすることに対するやっかみと、感嘆の眼差しで自分を見ていたはずであった。
 しかし、その心持ちは打ち砕かれた。今宵、妻となるはずの花魁からの突然の愛想づかし。彼女が何を言ったか自分がどう答えたか、男はその内容などほとんど覚えてはいなかった。
 呆然と目線をさまよわすと、襖の陰に男が一人立っているのに気がついた。痘痕面の自分とは大違いの、役者のような男振りであった。
 花魁はそちらに目を遣り、小さい朱唇を噛むと、
 「栄之丞は、私の間夫」
 と言い切り、昂然と席を立った。
 水を打遣ったかのようにその場は静かになったが、次第に失笑が漏れ、
 「いやいや、次郎右衛門どん、とんだことで」
 「いや、なかなか面白い趣向を見せていただきましたよ」
 「これは、郷へのいい土産話になった。みんな大笑いするだろうに」
 散々に勝手なことを言い放ち、仲間達は宿へと引き揚げていった。
 彼は、顔を上げることも出来なかった。情けないやら腹立たしいやら、とうてい感情の整理がつかないまま身じろぎもできず、ずっと座敷に座っていた。
 「花魁、そりゃァちとそでなかろうぜ」
 ふと、口からそのような台詞がこぼれ落ちた。
 男はその言葉を何度か呟いてみると、深々と胸が締め付けられるような、ゆっくりと心が芯から凍っていくような、奇妙なこころもちがした。



 マジックから再三呼び出しの文を受け取ったシンタローが、仕方なく久々に自宅へと戻ると、珍しく本人ではなく用人のティラミスが出迎えた。
 廊下を歩きながら彼に問うと、
 「親父の用って、何だよ?」
 「シンタロー様、私からは少々申し上げにくく……」
 常に冷静で表情を変えないティラミスが、なんとはなしに困ったような顔をして言葉を濁したのでシンタローはいよいよ不審に思った。
 いつの間にか部屋の前に着き、
 「こちらでお待ちです」
 と、一礼して彼は去っていったので、シンタローが用心しいしい襖を開けると意外にもマジックは部屋で端座して待っていた。その前に座布団が一つ置かれており、どうやらシンタローのためのものらしい。
 「シンタロー、そこに座りなさい」
 とマジックは浮かれた様子も見せず淡々とそう云った。
 (道場のことか?でも、それは一応決着がついているはずだしナ……)
 思案をめぐらせながら、シンタローが座布団に正座するとマジックは、
 「話がある」
 そう云ったぎり中々話し出さない。
 「何だヨ!?早く言いやがれ」
 「実は、さる筋から縁談を申し込まれた」
 「親父が?別に見合いでも何でも勝手にすりゃいいんじゃねーの?」
 「私ではない。お前に、だよ。」
 シンタローは一瞬目を見張ったが、
 「俺は、見合いも結婚も今後一切するつもりはねぇ。悪ぃが、断ってくれ」
 キッパリとそう言った。
 マジックは何も云わない。シンタローはもう一度念を押しておいた方がいいかと思いつつ、口を開こうとすると、突然、
 「シンちゃーん!やっぱり、シンちゃんはいつまでたってもパパのシンちゃんだよネvお見合いはシンちゃんが嫌だったら断っておくから心配しなくても大丈夫だヨ!あ、でもさっきの『見合いでも何でも勝手にしたら?』っていうのは、パパ、結構傷ついちゃったヨ?」
 そう言って嬉しそうにマジックはシンタローを抱き寄せた。
 シンタローは、常にないマジックの真剣な様子に油断していた事と、とっさの出来事でかわす事ができなかったらしい。半ばあきらめの気持ちで彼はしばらくの間じっとしていた。
 「いやでも、まさか、どこの馬の骨とも分からない野郎どもに可愛いシンちゃんが騙されているんじゃ・・・!?そんなことないよね?与力とか同心連中にもシンちゃんのファンがたーっくさんいるし、パパとっても心配だヨ!!」
 (――一体どこをどう考えやがったらそうなるんだ?親父、頭が湧いてんじゃねーの??ったく、頭痛がしてきたゼ・・・)
 どうにかマジックを押しのけ、座布団に座りなおすと、
 「この際だから、はっきり言っておく。俺はこの家の跡は継がねぇ。コタローにアンタの跡を継いで欲しい」
 低く云った。座敷には、殺気が漂った。
 「シンタロー、それはお前の一存で決めることはできない」
 常人なら竦みあがるような殺気の中、マジックは平然としていた。
 そして、
 「コタローのことに拘るよりも、自分の幸せを一番に考えなさい」
 有無を言わせない口調で、そう断言した。
 二人は暫く睨み合っていたが、業を煮やしたのかシンタローがついに立ち上がった。
 「――こんのクソ親父ッツ!!」
 「非道いよシンちゃんッツ!パパをクソ親父なんていう悪い子に育てた覚えはありません!パパ大好きvって言ってヨ!!」
 「うるせえッツ!!俺はもう帰るからナ!当分こっちにはこねぇから、アンタも道場に来んじゃねーぞ!?」
 襖が高い音を立てて閉め切られた。
 「シンちゃんの意地悪~」
 マジックは飾ってあったお手製シンちゃん人形をとりあげると、頬擦りした。
 しばらくすると、襖越しに、
 「……コタローは、元気なのか?」
 とボソリと問う声が聞こえた。シンタローはまだ帰ってはいなかったらしい。
 「ああ。相変わらず容態に変わりはないが、サービスが万事面倒をみてくれている」
 「そうか」
 気配が、その場から消えた。
 「――せっかく会えたのにコタローのことばかりだと、パパ焼きもちやいちゃうヨ?」
 マジックが庭に面した障子を開けて外廊下に出ると、冷たい空気が肌を刺した。
 庭には弱々しく冬の日差しが注いでおり、一隅に植えられた南天の実が鮮やかに紅く色付いていた。


 師走も中ごろとなり、家屋の煤払いを済ませた人々は新年を迎える用意ができた嬉しさからか、誰もが清々しい顔つきで街中を往来していた。
 昼九つの頃、アラシヤマが奉行所内の詰所を訪ねると、室内にはミヤギ一人しかおらず彼は火鉢の傍で弁当を食っている最中であった。
 「暢気なもんどすな」
 「なんだべ、アラシヤマか」
 ミヤギは顔を上げると、握り飯を頬張った。アラシヤマは戸棚から人相書の綴りを取り出し、ミヤギとは反対側の火鉢の前に座った。特にお互い会話をするわけでもなくミヤギは食事に専念しアラシヤマは帳面を読んでいたが、しばらく経つとミヤギは何か思い出した様子で「そういえば、」とアラシヤマに声をかけた。
 「オメさ、来る時シンタローに会ったべか?」
 「なんどすか!?シンタローはんが来てはるんどすかっ!?」
 帳面を放り出し、急いで出て行こうとするアラシヤマの背に向かって、
 「外で会ってないなら、すれ違いだっぺ?なら、もうとっくに帰ったはずだべ」
 ミヤギが声をかけると、アラシヤマは振り向いてミヤギをにらみつけ、
 「……あんさん、ほんまに気ぃききまへんナ!もう間に合わへん」
 と不機嫌そうにブツブツ言いながら戻ってきた。
 ミヤギは、(この根暗に、そこまで言われる筋合いはないべ?)と思ったが、呆れた気持ちも混じっていたので文句はいわず、とりあえず手に持っていた握り飯の最後のひとかけらを口に放り込んだ。
 「どうも、シンタローの顔色があまり冴えねぇような気がしたんだけんども」
 「そら、あの親馬鹿親父と親子喧嘩でもしたんでっしゃろ」
 アラシヤマは湯のみを持ってくると、鉄瓶から勝手に白湯を注いで飲んだ。
 「そうなんだべか。普段シンタローを猫っ可愛がりしてるくせに、あの親父、ムカつくべ」
 「そう単純な話やないとは思いますけど、あの親父がえらくムカつくんは事実どすな。想い合うわてと心友のシンタローはんとの仲をいつも邪魔しはりますし!」
 「……アラシヤマ、どう考えても全部おめさの一方通行だべ?いいかげん、妄想はやめた方がいいんでねぇべか?シンタローにもますます嫌われるだけだべ」
 「……聞き捨てなりまへんな。わてのどこが嫌われていると云わはるんどすか?シンタローはんは、照れてはるだけどす!頭の足りへんあんさんには分からんやろうな」
 アラシヤマは目を細めてミヤギを見ると、
 「そういやあんさん、先程からえらくシンタローはんに肩入れしてはりますなァ?忍者はんが知ったら悔しがりますえ?」
 と小馬鹿にしたように言って、鼻で笑った。
 「トットリのことは関係ねぇ。オメェこそさっきから偉そうに何様のつもりだべ?」
 ミヤギがアラシヤマを睨みつけ、片膝を立てると、
 「上等どす。わてに喧嘩を売ったことを、せいぜい後悔せんことやな」
 アラシヤマも腰を浮かせ、立ち上がろうとした。
 しかし、不意に
 「君たち、所内での喧嘩は御法度だヨ?」
 という声が聞こえ、何の気配もなくマジックが不意に襖を開けて姿を現した。
 アラシヤマとミヤギは、幽霊を見たかのように一瞬動作を止め、あわてて居住まいを正した。
 「偶然、さっきから話を全部聞かせてもらっていたんだけどねぇ?・・・どうやらまだまだ、私の耳は遠くなってはいないみたいで安心したよ」
 マジックは笑みを深めたが、見ている二人の背には油汗が伝った。
 「アラシヤマ、今日はどこへ行くつもりなんだい?」
 とマジックは平生と変わらぬ調子で聞いたが、アラシヤマは中々答えない。
 「いいから言いなさい」
 「――浅草寺で歳の市の見廻りどす」
 「ミヤギ、君は?」
 「オラは昼からは調書を仕上げます」
 それぞれの予定を聞くとマジックは、しばし思案し、
 「ミヤギ、今日はアラシヤマの見廻りについて行きなさい」
 と云った。それを聞いて、いち早く反応したのはアラシヤマであった。
 「お奉行!一体何の道理でわてが、この顔だけ阿呆の面倒をみなあかんのどすかっ!?はっきり言わんくても邪魔どすえ!!」
 「オラもこんな根暗野郎とこれから浅草くんだりまで行きたくねえべ!調書を書き終わったら、今日は非番のはずだっぺ!?」
 マジックは、いきまいて抗議する二人を眺め、
 「五月蝿い」
 と、ひとこと言って姿を消した。
 アラシヤマとミヤギは顔を見合わせ、息を吐いた。
 「あれって、絶対八つ当たりだべ……」
 「わても同感どす。なんやえらい阿呆らしゅうなりましたナ……」
 「仕方ないっぺ」
 「ほな、さっさと行きまひょか」
 「あーあ、全くついてないべ」
 ミヤギは再度、長々と嘆息した。



 (ったく、すっげー時間の無駄だったゼ・・・)
 親父に再三呼び出されて、あまりにもしつこいんで久々に帰ってきたら、やっぱりろくなことを言いやがらないし。
 俺が、ムカつきながら奉行所の裏門を潜って外に出ると、土塀の陰に不審者が居り、どうやらいかにも見つけてもらいたげな様子だったので、益々ムカついて、持っていた小束を投げた。
 「シンタローはーん、酷うおます~」
 と、言いながら、編み笠に小束の刺さったままのアラシヤマが塀の影から出てきたけどそれを無視したら、慌てて後を追いかけてきた。
 「お奉行に、“絶対、今日は奉行所に来るな”って言われましたから、たぶん、あんさんが来るかと思ったら、案の定どしたわ」
 「―――いつから、そこに居たんだヨ?」
 半ばウンザリとした気分で聞くと、
 「あっ、ずっと待ってたわけやおまへんえ?房楊枝の納品の帰りに寄ったらシンタローはんに会えたわけなんどす~vvv」
 焦ったようにそう言っていたが、どこまで本気なのかそうでないのかよく分からない。俺が確かめるようにアラシヤマの顔をじっと見ると、ヤツは一瞬真顔になり、その後すぐにヘラヘラと、
 「そんなに見つめはりますと、照れますえ?」
 と言った。
 ―――何だか往来でこうしている事が段々馬鹿らしくなってきた。もう夕暮れ時とはいえ、まだ暑いし。
 「俺は、もう帰っから」
 「ちょ、ちょっと待っておくんなはれ!せっかく久々に会うたんやし、夕涼みとでもしゃれこみまへんか?あんさん、今日は道場をリキッドにまかせてきはったんやろ?少々遅うなってもええんちゃいますの??」
 まぁ、コイツの言う事にも一理あるかとも思った。夕涼みにも少し心が動かされたし。・・・コイツの案に素直に従うのは癪に障るけどナ。
 「でっ、何処に行くんだヨ?」
 「両国の川沿いがええんちゃいますの?もう涼み台がたくさん出てましたわ」
 ヤツがそう言うので、俺たちは両国の方へと歩き出した。今は夕暮前なせいか、人通りも多い。
 ふと、アラシヤマが立ち止まったので、俺が、
 「何だ?」
 と声を掛けると、アラシヤマは軒下に吊るされた菖蒲を指差し、
 「シンタローはん、何どすかアレ?」
 と聞いてきた。
 「あぁ、あれは、“菖蒲の占”だ。“思ふこと軒のあやめに言問はん、叶はばかけよささがにの糸”って歌があるだろ?」
 「何かの呪いどすか?」
 「子どもの遊びだ。確か、菖蒲に蜘蛛の巣がかかると願いが叶うとかそんなんだったかな」
 「やっぱり、呪いの一種どすな!呪いやったら、わては得意どす」
 アラシヤマはそう納得していたけど、違うと思う。
 「どんな願いやわかりまへんが、叶うとええどすな」
 不意にヤツが真面目な顔をしてそう言っていたので、俺が、
 「そうだな。叶うといいよナ」
 そう応じると、アラシヤマは、
 「なんやシンタローはんがそう言わはると、絶対叶わん願いでも、成就しそうな気がしますわ」
 と真剣に言った。俺はその時どんな顔をしたら良いのかが分からなかった。
 「ほな、行きまひょか」
 何事もなかったかのようにアラシヤマは先に歩き出した。俺がすぐにヤツに追いつくと、ヤツは俺を振り返り、
 「あっ、シンタローはんッツ!可愛いおす~vvv」
 とか訳の分かんねぇことを言ってやがったので、
 「なんか、ムカツク」
 と、ヤツを一発殴っておいた。








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