町から少しはずれにある小料理屋。使い込んだ暖簾をくぐると町外れにある店にしてはずいぶん繁盛していて、空いている場所はない。客層はといえば職人や小商いをする商人といったごくごく普通の男たちが安い酒と旨い肴で世間話に興じている。
こざっぱりした中年の女将が店に入ってきた客に気安く声をかけた。
「おや、いらっしゃい。お仲間は先に来ていますよ」
「ああ」
客は人好きする笑みを浮かべながら勝手を知り尽くした様子で二階に上がった。そうしていつもの座敷の襖を無造作に開ける。
「よう」
座敷では先に来ていたアラシヤマたちが思い思いに座って酒を酌み交わしている。やっとやってきたシンタローにミヤギが手にした湯飲みを掲げて明るく笑う。
「お。人気随一花形役者のお着きだべ」
「バーカ」
シンタローは少し照れたように笑うと空いている場所に適当に座って湯飲みに酒をなみなみと注いだ。
芝居が跳ねると気の合う若手が集まって反省会と称して飲んだり、時には各々の芸について語り合ったりしているのだ。
シンタローが湯飲みに口をつけようとすると、側に何本も銚子を転がしてご機嫌のコージがからかうようにからんでくる。
「贔屓にお呼ばれして旨い酒をきこめしたんじゃ。安酒じゃ酔えんじゃろ」
「冗談じゃねぇよ」
ぐいと勢いよく飲み干したシンタローは実に苦々しげだった。
「えらいご機嫌ナナメだっちゃ。何があったっちゃ?」
「なに言うてはるん。紫焔は贔屓に呼ばれるたんびに不機嫌でっしゃろ。無理に舞わされたり、お愛敬振り撒いたりは芯から嫌いなお人どすえ」
「今歌右衛門じゃからのぉ」
「そんなんじゃねぇよ」
シンタローはぶすったれて言い捨てると座敷であった一部始終を話して聞かせた。
「人形ねぇ。こりゃ面白い」
コージがいかにも面白そうに喉で笑うとミヤギは憤慨してくってかかった。
「面白くねぇべ! シンタローのどこが人形だっちゃ!」
「そうだっちゃ、えらい侮辱だっちゃ!!」
「まぁ、そんなに目くじら立てるほどのことでもないかもしれまへんえ」
熱くなるミヤギとトットリにアラシヤマは少し冷めた口調で言う。
「贔屓や言うても素人ですやろ。そのお客言うたら尚更どす。素人はんは時によぉわかりもせんのにいろいろいわはるもんどす。わてかていろいろ言われて……。もううんざりですわ」
「そんなふうに言うってことは…なんかあっただか?」
もったいぶった口ぶりにすっかり引っかかったミヤギがずいと身を乗り出す。
「えらい鋭おすなぁ」
イヤミたっぷりのアラシヤマの口調だがミヤギにはまったく通じないらしく謙遜ぶって、いやぁ、などと呟きながら頭を掻く。隣のトットリの方がよほどアラシヤマの言い草に腹を立てているらしく睨みつけるが、アラシヤマは意に介さず自分の荷物をたぐり寄せる。中を探って一冊の本を取り出すとそれを放り出した。
「なんだっちゃ?」
「最近の西洋かぶれと改革流行のせいで、なんもよう知らんお方らがこういうもんを芝居に取り入れるべきやと押し付けてきはるんどす」
「つーことは、次の本だべ?」
「次の次くらいどす。狂言に書き直さなあきまへんし」
「へーぇ」
本となれば俄然興味が湧くのは役者の性。四人は一冊の本を囲んで読んだ。
途中ちょっとした小競り合いをはさんで全編読みきったあと、それぞれがそれぞれに呆れた顔をしていた。
「なんじゃ。こりゃまるっきり妹背山じゃ」
「ああ。少し違うところもあるが、かなり似ているな」
もう一度ぺらぺらと頁を捲りながらシンタローも同意した。
「わても似たようなもんやと思います。けど西洋かぶれの贔屓がどないしてもやれというてきかんのです」
「駆け出しの辛いトコだっちゃ」
「まぁそれをどない粋に見せるかが腕の見せ所どす」
軽口で揶揄するトットリをアラシヤマが睨む。いつもどおり険悪な雰囲気になりかけているところにミヤギが無邪気に割って入った。
「なぁ、せっかくだから役を当ててちょっとやってみるべ。オラこの立役な」
「ほんまにあんさんは東のお人のクセに和事がお得意どすなぁ」
決して褒めたわけではないのだが、やはりミヤギにはまったく効いていないようだ。シンタローから本をひったくって自分の台詞を読み出している。
「わしがやるなら許婚かのぉ」
「じゃあシンタローはお姫様だっちゃ」
「トットリ、お前も名題になったんだからちょっと欲出して役を取っていけよ」
お遊びでも役をとろうとしないトットリに呆れたシンタローが言うがトットリはまったく気にしていないようだ。
「僕はまだ立女方なんて無理だっちゃ。それにシンタローやミヤギくんの後見をするのが楽しんだっちゃ」
「でももう黒衣を着るのはやめろよな」
「わかったっちゃ」
にこにこ笑って答えるがトットリが黒衣を脱ぐ気がないのは誰の目にも明らかだった。
結局トットリはコージと脇を固める役を中心にやることにして、見栄えのいい場を抜き出して芝居を始めた。
酒の席での戯事とはいえそこは役者というもの。芝居となれば熱が入る。もちろんシンタローも同様で自分が与えられた役を熱心に演じた。
恋をする乙女の歓び。不安。哀しみ。
それらを美しく表現しながら、シンタローはどこかぎこちなさを感じていた。シンタローの不自然さは仲間たちにも伝わるらしく、時おり芝居を止めてしまった。
「どうしたんだべ、シンタロー。オメらしくもねぇ。調子悪いんだか?」
「贔屓に言われたこと、気にしてるっちゃ?」
「そんなんじゃねーよ、バーカ」
シンタローは強がって笑_とトットリの頭を軽く小突いた。
「でもまぁ、ちょうど切りもええし、そろそろお開きにしましょか」
「それがいいべ。高鼾のやつもいるし」
見ると床の間の前でコージがだらしなく寝そべって腹を掻きながらいびきを掻いている。
誰がコージを連れて変えるかで一揉めしたあと、結局コージをおいて帰ることで合意をみてそれぞれの家路についた。
よく晴れた夜だ。
街灯の輝く街をはずれ、暗い道を提灯の明かりを頼りに歩く。
月が晧々と輝き、漆黒の空に星々が瞬いている。
小さな橋の真中にさしかかった時、シンタローはふと足を止めた。橋の上から川を覗くと川面で月が揺らめいている。
シンタローは手にした提灯を吹き消して足元に置いた。
軽く目を瞑り、天を仰ぐ。
大きく息を吸った。
少し湿った空気が心地好い。
ゆっくり、ゆっくりと目をあける。
薄雲が紗のように月にかかり、その灯りを柔らかく遮った。
「この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれる、でもなければ、私の頬は娘心の恥ずかしさに真っ赤に染まっているはずですわ」
澱みなく美しい台詞が口をついて出る。
見れば雲はいずこかに去り、月はまた輝きを取り戻していた。
見上げた月が美しい。
シンタローは呟く。
「…オレのどこが人形だっていうんだ……」
シンタローの問いに答えるものはおらず、ただせせらぎだけが聞こえてきた。
こざっぱりした中年の女将が店に入ってきた客に気安く声をかけた。
「おや、いらっしゃい。お仲間は先に来ていますよ」
「ああ」
客は人好きする笑みを浮かべながら勝手を知り尽くした様子で二階に上がった。そうしていつもの座敷の襖を無造作に開ける。
「よう」
座敷では先に来ていたアラシヤマたちが思い思いに座って酒を酌み交わしている。やっとやってきたシンタローにミヤギが手にした湯飲みを掲げて明るく笑う。
「お。人気随一花形役者のお着きだべ」
「バーカ」
シンタローは少し照れたように笑うと空いている場所に適当に座って湯飲みに酒をなみなみと注いだ。
芝居が跳ねると気の合う若手が集まって反省会と称して飲んだり、時には各々の芸について語り合ったりしているのだ。
シンタローが湯飲みに口をつけようとすると、側に何本も銚子を転がしてご機嫌のコージがからかうようにからんでくる。
「贔屓にお呼ばれして旨い酒をきこめしたんじゃ。安酒じゃ酔えんじゃろ」
「冗談じゃねぇよ」
ぐいと勢いよく飲み干したシンタローは実に苦々しげだった。
「えらいご機嫌ナナメだっちゃ。何があったっちゃ?」
「なに言うてはるん。紫焔は贔屓に呼ばれるたんびに不機嫌でっしゃろ。無理に舞わされたり、お愛敬振り撒いたりは芯から嫌いなお人どすえ」
「今歌右衛門じゃからのぉ」
「そんなんじゃねぇよ」
シンタローはぶすったれて言い捨てると座敷であった一部始終を話して聞かせた。
「人形ねぇ。こりゃ面白い」
コージがいかにも面白そうに喉で笑うとミヤギは憤慨してくってかかった。
「面白くねぇべ! シンタローのどこが人形だっちゃ!」
「そうだっちゃ、えらい侮辱だっちゃ!!」
「まぁ、そんなに目くじら立てるほどのことでもないかもしれまへんえ」
熱くなるミヤギとトットリにアラシヤマは少し冷めた口調で言う。
「贔屓や言うても素人ですやろ。そのお客言うたら尚更どす。素人はんは時によぉわかりもせんのにいろいろいわはるもんどす。わてかていろいろ言われて……。もううんざりですわ」
「そんなふうに言うってことは…なんかあっただか?」
もったいぶった口ぶりにすっかり引っかかったミヤギがずいと身を乗り出す。
「えらい鋭おすなぁ」
イヤミたっぷりのアラシヤマの口調だがミヤギにはまったく通じないらしく謙遜ぶって、いやぁ、などと呟きながら頭を掻く。隣のトットリの方がよほどアラシヤマの言い草に腹を立てているらしく睨みつけるが、アラシヤマは意に介さず自分の荷物をたぐり寄せる。中を探って一冊の本を取り出すとそれを放り出した。
「なんだっちゃ?」
「最近の西洋かぶれと改革流行のせいで、なんもよう知らんお方らがこういうもんを芝居に取り入れるべきやと押し付けてきはるんどす」
「つーことは、次の本だべ?」
「次の次くらいどす。狂言に書き直さなあきまへんし」
「へーぇ」
本となれば俄然興味が湧くのは役者の性。四人は一冊の本を囲んで読んだ。
途中ちょっとした小競り合いをはさんで全編読みきったあと、それぞれがそれぞれに呆れた顔をしていた。
「なんじゃ。こりゃまるっきり妹背山じゃ」
「ああ。少し違うところもあるが、かなり似ているな」
もう一度ぺらぺらと頁を捲りながらシンタローも同意した。
「わても似たようなもんやと思います。けど西洋かぶれの贔屓がどないしてもやれというてきかんのです」
「駆け出しの辛いトコだっちゃ」
「まぁそれをどない粋に見せるかが腕の見せ所どす」
軽口で揶揄するトットリをアラシヤマが睨む。いつもどおり険悪な雰囲気になりかけているところにミヤギが無邪気に割って入った。
「なぁ、せっかくだから役を当ててちょっとやってみるべ。オラこの立役な」
「ほんまにあんさんは東のお人のクセに和事がお得意どすなぁ」
決して褒めたわけではないのだが、やはりミヤギにはまったく効いていないようだ。シンタローから本をひったくって自分の台詞を読み出している。
「わしがやるなら許婚かのぉ」
「じゃあシンタローはお姫様だっちゃ」
「トットリ、お前も名題になったんだからちょっと欲出して役を取っていけよ」
お遊びでも役をとろうとしないトットリに呆れたシンタローが言うがトットリはまったく気にしていないようだ。
「僕はまだ立女方なんて無理だっちゃ。それにシンタローやミヤギくんの後見をするのが楽しんだっちゃ」
「でももう黒衣を着るのはやめろよな」
「わかったっちゃ」
にこにこ笑って答えるがトットリが黒衣を脱ぐ気がないのは誰の目にも明らかだった。
結局トットリはコージと脇を固める役を中心にやることにして、見栄えのいい場を抜き出して芝居を始めた。
酒の席での戯事とはいえそこは役者というもの。芝居となれば熱が入る。もちろんシンタローも同様で自分が与えられた役を熱心に演じた。
恋をする乙女の歓び。不安。哀しみ。
それらを美しく表現しながら、シンタローはどこかぎこちなさを感じていた。シンタローの不自然さは仲間たちにも伝わるらしく、時おり芝居を止めてしまった。
「どうしたんだべ、シンタロー。オメらしくもねぇ。調子悪いんだか?」
「贔屓に言われたこと、気にしてるっちゃ?」
「そんなんじゃねーよ、バーカ」
シンタローは強がって笑_とトットリの頭を軽く小突いた。
「でもまぁ、ちょうど切りもええし、そろそろお開きにしましょか」
「それがいいべ。高鼾のやつもいるし」
見ると床の間の前でコージがだらしなく寝そべって腹を掻きながらいびきを掻いている。
誰がコージを連れて変えるかで一揉めしたあと、結局コージをおいて帰ることで合意をみてそれぞれの家路についた。
よく晴れた夜だ。
街灯の輝く街をはずれ、暗い道を提灯の明かりを頼りに歩く。
月が晧々と輝き、漆黒の空に星々が瞬いている。
小さな橋の真中にさしかかった時、シンタローはふと足を止めた。橋の上から川を覗くと川面で月が揺らめいている。
シンタローは手にした提灯を吹き消して足元に置いた。
軽く目を瞑り、天を仰ぐ。
大きく息を吸った。
少し湿った空気が心地好い。
ゆっくり、ゆっくりと目をあける。
薄雲が紗のように月にかかり、その灯りを柔らかく遮った。
「この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれる、でもなければ、私の頬は娘心の恥ずかしさに真っ赤に染まっているはずですわ」
澱みなく美しい台詞が口をついて出る。
見れば雲はいずこかに去り、月はまた輝きを取り戻していた。
見上げた月が美しい。
シンタローは呟く。
「…オレのどこが人形だっていうんだ……」
シンタローの問いに答えるものはおらず、ただせせらぎだけが聞こえてきた。
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車が止まったのは一軒の料亭の手前。紫焔にとっては見慣れた場所でもあった。車屋を労って帰しているところに、ちょうど料亭の女将が客の送り出しに出て来ていた。深々と走り去る客の車にお辞儀をする女将が顔を上げたとき、ちょうど紫焔たちが目に入ったらしく目元を和ませながら近付いてきた。
「あら、いらっしゃい。先ほどから奥のお座敷でお待ちかねですよ」
自ら暖簾を捲りながら二人を招くと女将は先に立って座敷へと案内した。
賑やかな料亭の中で、ひときわ賑々しい座敷の前に来ると女将は、膝をついて二人に目線で促す。座頭が静かに膝をついたので紫焔もそれにならう。
「失礼いたします。太夫がお着きです」
流れるような仕草で女将が障子を開けると、上座に座ったチョビ髯の男が上機嫌に声を上げる。
「おお、きたか。入れ入れ」
つい先ほどまで楽を奏で舞っていた芸者がわきに控えたので、座頭に続いて座敷に入り丁寧に頭を垂れた。
「本日はお招きにあずかりまして……」
座頭が口上を述べようとするのを遮って、ちょび髭が少々品のない声で笑い飛ばす。
「挨拶はいい。マジック殿、紹介しましょう。これは私が贔屓にしている一座の者で座頭の金澤芳心。隣は花形役者の紫焔」
「金澤芳心(ほうしん)でございます。どうぞご贔屓に」
「金澤紫焔でございます」
一度深く頭を下げて顔を上げると馴染みのチョビ髯の隣に金色の髪をした大柄な男が悠々と座っていた。
男は『異邦人』と呼ぶのにふさわしい容貌の持ち主だった。輝く金色の髪、ガラス玉のように青い瞳、白皙の肌、高く整った鼻梁。肩幅は広く、腕は洋服の上からでもわかるほど逞しい。
物珍しさに紫焔は思わずまじまじと目の前の異人を見ていると、さすがに男の方でも気がついたらしく目があったしまった。叱責されると思い慌てて視線を外そうとしたが、男は思いもよらぬことににっこり笑って器用に片目を瞑って見せた。思いがけないことに面食らっていると、得意満面のチョビ髯が隣の男を紫焔たちに紹介した。
「こちらは英国総領事・マジック卿だ。爵位をお持ちでいらっしゃる」
チョビ髯は大英帝国の貴族と知り合いになれたことがたいそうな自慢らしく、普段からおしゃべりなのがさらに饒舌になっていた。チョビ髯の退屈な自慢話を聞いていると欠伸が出そうだったので、紫焔はとりあえず平伏して嵐が過ぎるのをひたすら待った。
やがておしゃべりに満足したチョビ髯は上機嫌で膝を一つ打った。
「とにかくな、二人ともマジック卿にお近づきの印としてだな、なんぞひとさし舞ってくれ!」
「かしこまりました。それでは『相生獅子』を」
座頭と二人で深く頭を下げながら紫焔は内心で、いい気なもんだ、と舌打ちをした。
自分たちの磨き上げた芸をお座敷芸のように披露させる手合いを紫焔は嫌っていた。そういった連中は「巷で人気の役者でも自分のために芸を披露する」という安っぽい自己の権力を他者に誇示するために舞わせるのだ。
本当に舞を見たいと思っているわけでもないクセに――。
そう毒吐きつつも、顔を上げた時にはうって変わって美しく微笑んでいた。座頭が舞うというものを紫焔が断るわけにはいかないからだ。
紫焔は座頭が脱いだ羽織を受け取って手早く畳んで脇に置くと素早く自分の用意を整えて手をついた。座頭が隣で同じように手をついたのを合図に芸者達がおもむろに楽を始める。
常であればにぎやかしのような楽を奏でる芸者達もこのときは厳かに、だが華やかな楽を奏でる。美しい楽に乗せて絶妙な間合いで顔を上げ、手を翻す。それは麗しい二人の姫の舞であった。
あどけない仕草で蝶を追う、その姿。
秘めた恋を告白しあう、その素振り。
その舞は見るものを魅了する。
夢の世界に誘う、まるで幻のような舞。
紫焔は足を踏み出す時、身を翻す時、様々な場面でちらと周囲を見渡した。
楽を奏でる芸者達はそれぞれ調子を合わせながらもうっとりとした表情で見上げている。
上座ではチョビ髯がだらしなく口をあけて圧倒されているようだった。
あの英国人の客は―――
そう思って視線を流す際に盗み見てみると彼は下座に座った連れらしき金髪の若い男に声をかけていた。
異人の客に舞を見せるのは初めてだったが、どんな客であろうとも紫焔の舞に心動かされないものはいない。おまけに師とも仰ぐ座頭と二人で舞っているのだ。
おおかた賛美の言葉でも並べているに違いない。
そう解釈した紫焔は内心得意満面で舞い踊る。
やがて楽は賑やかに終わりを告げ、夢は現に戻る。
芸者衆のうちの誰かが、ほう、とため息を漏らした。
扇子をたたんで深くお辞儀をすると、客達は惜しみなく拍手をした。中でもチョビ髯のお大尽は特にご満悦で、大仰なほど派手に手を打っている。
「いやいや、さすがだ。素晴らしい! 一献取らせよう。近こう近こう」
すっかりお殿様気分のチョビ髯が朱塗りの銚子を手に手招きする。座頭に続いて愛想よく杯をいただいた紫焔だったが、正直な話うんざりしていた。
「どうでしたかな、二人の舞は。素晴らしかったでしょう」
ご機嫌のチョビ髯が自慢げに声をかけるとマジックは酌を受けながら言った。
「ええ。確かに素晴らしい。とても洗練された舞だ」
「そうでしょうとも!」
「特に芳心。貴方の舞は一流だ。芸術といってもいいだろう。欧州にも貴方ほど完璧にしかも美しく舞う者はそうはいないだろう」
「恐れ多いことでございます」
座頭は照れたように頭を掻きながら惜しみない賞賛を受け入れた。
「だが」
マジックは手の中の杯を飲み干すとおもむろに紫焔を見て微笑みながら言った。
「君の舞には何の感銘も受けないな、紫焔」
マジックの言葉に座が静まり返る。
庭で鹿おどしの澄んだ音がしらけた座敷に響き渡る。
「紫焔。君はまるで飾り立てられただけの人形だね」
「……ずいぶんな言い様をしてくださいますね、マジック様」
にっこりと笑いながら、だが心に冷たいものを含んだ紫焔の言葉にマジックはたじろぎもせず満面に笑みを浮かべる。
「だってそうだろう? 私は芳心の舞に心を感じたが、君の舞にはそれを感じられなかった。とても見苦しかったよ」
そう言いながらマジックは高らかに笑った。
あまりの言われようにさすがに紫焔も抑えがきかなくなりすっくと立ち上がった。
「紫焔!」
たしなめる座頭の声も紫焔の耳には届かない。マジックを見下ろしながらその視線で焼き切らんばかりに睨みつけると裾をさばいて踵を返した。
「こ、こら紫焔。どこに行く!」
チョビ髯が腰を浮かせながら呼び止めたが紫焔はすでに襖を開けていた。
「見苦しい役者がいては居心地も悪うございましょう。失礼いたします」
言葉に刺を含みながら鮮やかに笑うと紫焔は勢いよく襖を閉めた。
誰もがその場で固まってしまったように動けなくなっていた。場を和ませる幇間もあんぐりと口を開けていた。
「……芳心! なんだ紫焔のあの態度は!」
「はっ。大変に申し訳…」
「詫びてすむ問題か! お手討ちものだぞ!」
自分の体面に泥を塗られた気分のチョビ髯が丸い顔を真っ赤にして怒りだした。だがマジックは愉快そうに声を上げて笑った。
「はっはっは。いやいや、役者はあれくらいはねっかえりの方がいい」
「しかしですな…」
「ねぇ、芳心」
チョビ髯を半ば無視してマジックは座頭に話しかけた。
「はい」
「君から見て彼はどうなんだい。忌憚のないところを言ってみないか」
「………」
座頭はどうしようか迷っている風だったが、やがてまっすぐにマジックを見ながら言った。
「わたくしの口から申しますのもなんですが、あれはいい役者です。花もありますし、またよく稽古もいたします。しかし…」
「しかし?」
「足りないものが確かにあります。それはもう、貴方さまのお眼鏡どおりでございます」
「ふふっ。そうだろう? それに気がついた時、彼は今よりずっといい役者になっているだろうね」
新たに注がれた杯を見ながらマジックは愉快そうに笑い、そして続く言葉を飲み込むようゆっくりと酒を飲み干した。
「あら、いらっしゃい。先ほどから奥のお座敷でお待ちかねですよ」
自ら暖簾を捲りながら二人を招くと女将は先に立って座敷へと案内した。
賑やかな料亭の中で、ひときわ賑々しい座敷の前に来ると女将は、膝をついて二人に目線で促す。座頭が静かに膝をついたので紫焔もそれにならう。
「失礼いたします。太夫がお着きです」
流れるような仕草で女将が障子を開けると、上座に座ったチョビ髯の男が上機嫌に声を上げる。
「おお、きたか。入れ入れ」
つい先ほどまで楽を奏で舞っていた芸者がわきに控えたので、座頭に続いて座敷に入り丁寧に頭を垂れた。
「本日はお招きにあずかりまして……」
座頭が口上を述べようとするのを遮って、ちょび髭が少々品のない声で笑い飛ばす。
「挨拶はいい。マジック殿、紹介しましょう。これは私が贔屓にしている一座の者で座頭の金澤芳心。隣は花形役者の紫焔」
「金澤芳心(ほうしん)でございます。どうぞご贔屓に」
「金澤紫焔でございます」
一度深く頭を下げて顔を上げると馴染みのチョビ髯の隣に金色の髪をした大柄な男が悠々と座っていた。
男は『異邦人』と呼ぶのにふさわしい容貌の持ち主だった。輝く金色の髪、ガラス玉のように青い瞳、白皙の肌、高く整った鼻梁。肩幅は広く、腕は洋服の上からでもわかるほど逞しい。
物珍しさに紫焔は思わずまじまじと目の前の異人を見ていると、さすがに男の方でも気がついたらしく目があったしまった。叱責されると思い慌てて視線を外そうとしたが、男は思いもよらぬことににっこり笑って器用に片目を瞑って見せた。思いがけないことに面食らっていると、得意満面のチョビ髯が隣の男を紫焔たちに紹介した。
「こちらは英国総領事・マジック卿だ。爵位をお持ちでいらっしゃる」
チョビ髯は大英帝国の貴族と知り合いになれたことがたいそうな自慢らしく、普段からおしゃべりなのがさらに饒舌になっていた。チョビ髯の退屈な自慢話を聞いていると欠伸が出そうだったので、紫焔はとりあえず平伏して嵐が過ぎるのをひたすら待った。
やがておしゃべりに満足したチョビ髯は上機嫌で膝を一つ打った。
「とにかくな、二人ともマジック卿にお近づきの印としてだな、なんぞひとさし舞ってくれ!」
「かしこまりました。それでは『相生獅子』を」
座頭と二人で深く頭を下げながら紫焔は内心で、いい気なもんだ、と舌打ちをした。
自分たちの磨き上げた芸をお座敷芸のように披露させる手合いを紫焔は嫌っていた。そういった連中は「巷で人気の役者でも自分のために芸を披露する」という安っぽい自己の権力を他者に誇示するために舞わせるのだ。
本当に舞を見たいと思っているわけでもないクセに――。
そう毒吐きつつも、顔を上げた時にはうって変わって美しく微笑んでいた。座頭が舞うというものを紫焔が断るわけにはいかないからだ。
紫焔は座頭が脱いだ羽織を受け取って手早く畳んで脇に置くと素早く自分の用意を整えて手をついた。座頭が隣で同じように手をついたのを合図に芸者達がおもむろに楽を始める。
常であればにぎやかしのような楽を奏でる芸者達もこのときは厳かに、だが華やかな楽を奏でる。美しい楽に乗せて絶妙な間合いで顔を上げ、手を翻す。それは麗しい二人の姫の舞であった。
あどけない仕草で蝶を追う、その姿。
秘めた恋を告白しあう、その素振り。
その舞は見るものを魅了する。
夢の世界に誘う、まるで幻のような舞。
紫焔は足を踏み出す時、身を翻す時、様々な場面でちらと周囲を見渡した。
楽を奏でる芸者達はそれぞれ調子を合わせながらもうっとりとした表情で見上げている。
上座ではチョビ髯がだらしなく口をあけて圧倒されているようだった。
あの英国人の客は―――
そう思って視線を流す際に盗み見てみると彼は下座に座った連れらしき金髪の若い男に声をかけていた。
異人の客に舞を見せるのは初めてだったが、どんな客であろうとも紫焔の舞に心動かされないものはいない。おまけに師とも仰ぐ座頭と二人で舞っているのだ。
おおかた賛美の言葉でも並べているに違いない。
そう解釈した紫焔は内心得意満面で舞い踊る。
やがて楽は賑やかに終わりを告げ、夢は現に戻る。
芸者衆のうちの誰かが、ほう、とため息を漏らした。
扇子をたたんで深くお辞儀をすると、客達は惜しみなく拍手をした。中でもチョビ髯のお大尽は特にご満悦で、大仰なほど派手に手を打っている。
「いやいや、さすがだ。素晴らしい! 一献取らせよう。近こう近こう」
すっかりお殿様気分のチョビ髯が朱塗りの銚子を手に手招きする。座頭に続いて愛想よく杯をいただいた紫焔だったが、正直な話うんざりしていた。
「どうでしたかな、二人の舞は。素晴らしかったでしょう」
ご機嫌のチョビ髯が自慢げに声をかけるとマジックは酌を受けながら言った。
「ええ。確かに素晴らしい。とても洗練された舞だ」
「そうでしょうとも!」
「特に芳心。貴方の舞は一流だ。芸術といってもいいだろう。欧州にも貴方ほど完璧にしかも美しく舞う者はそうはいないだろう」
「恐れ多いことでございます」
座頭は照れたように頭を掻きながら惜しみない賞賛を受け入れた。
「だが」
マジックは手の中の杯を飲み干すとおもむろに紫焔を見て微笑みながら言った。
「君の舞には何の感銘も受けないな、紫焔」
マジックの言葉に座が静まり返る。
庭で鹿おどしの澄んだ音がしらけた座敷に響き渡る。
「紫焔。君はまるで飾り立てられただけの人形だね」
「……ずいぶんな言い様をしてくださいますね、マジック様」
にっこりと笑いながら、だが心に冷たいものを含んだ紫焔の言葉にマジックはたじろぎもせず満面に笑みを浮かべる。
「だってそうだろう? 私は芳心の舞に心を感じたが、君の舞にはそれを感じられなかった。とても見苦しかったよ」
そう言いながらマジックは高らかに笑った。
あまりの言われようにさすがに紫焔も抑えがきかなくなりすっくと立ち上がった。
「紫焔!」
たしなめる座頭の声も紫焔の耳には届かない。マジックを見下ろしながらその視線で焼き切らんばかりに睨みつけると裾をさばいて踵を返した。
「こ、こら紫焔。どこに行く!」
チョビ髯が腰を浮かせながら呼び止めたが紫焔はすでに襖を開けていた。
「見苦しい役者がいては居心地も悪うございましょう。失礼いたします」
言葉に刺を含みながら鮮やかに笑うと紫焔は勢いよく襖を閉めた。
誰もがその場で固まってしまったように動けなくなっていた。場を和ませる幇間もあんぐりと口を開けていた。
「……芳心! なんだ紫焔のあの態度は!」
「はっ。大変に申し訳…」
「詫びてすむ問題か! お手討ちものだぞ!」
自分の体面に泥を塗られた気分のチョビ髯が丸い顔を真っ赤にして怒りだした。だがマジックは愉快そうに声を上げて笑った。
「はっはっは。いやいや、役者はあれくらいはねっかえりの方がいい」
「しかしですな…」
「ねぇ、芳心」
チョビ髯を半ば無視してマジックは座頭に話しかけた。
「はい」
「君から見て彼はどうなんだい。忌憚のないところを言ってみないか」
「………」
座頭はどうしようか迷っている風だったが、やがてまっすぐにマジックを見ながら言った。
「わたくしの口から申しますのもなんですが、あれはいい役者です。花もありますし、またよく稽古もいたします。しかし…」
「しかし?」
「足りないものが確かにあります。それはもう、貴方さまのお眼鏡どおりでございます」
「ふふっ。そうだろう? それに気がついた時、彼は今よりずっといい役者になっているだろうね」
新たに注がれた杯を見ながらマジックは愉快そうに笑い、そして続く言葉を飲み込むようゆっくりと酒を飲み干した。
夜四つ、濃い藍色の中天に据えられた月が堀の水面を明るく銀色に光らせていた。時折、魚が跳ねているのかささやかな水音が聞こえる以外、寂寂としている。
よしず張りの居酒屋を出たシンタローとアラシヤマは一石橋を渡り、御堀沿いを南に向かって歩いていた。
「あんさん、今屋敷に帰ってはるんどすか?」
「野暮用で2、3日な。でも、親父がうるせーから出てきた」
「……なんや、えらい愁嘆場やったんちゃいますの?」
シンタローはひどく嫌そうにアラシヤマを見たが、何も言わなかった。どうやら、図星であったらしい。
つづけて、アラシヤマは真面目な顔つきのまま、
「……シンタローはん、わてらさっきからつけられてますえ?えっらい下手な尾行どすけど、心当たりは?」
と、言った。
シンタローは、歩を止め、ため息をついた。
「――また、アンタだろ?出て来い!」
と、路わきに積まれていた木材の山に向かって声をかけると、いきなり声をかけられ驚いたものか、足をもつれさせるように人影が道にまろびでた。
中肉中背で、四角い頭の若い武士である。
「シンタロー殿ッ!」
そう言って近づいてくる武士を不審そうに見て、アラシヤマは隣のシンタローに
「なんどすの、このお人??あんさん、『また』ってさっき言わはったけど…」
と聞いた。
「いいか、テメェはぜってー、黙ってろよ?何があっても口出しすんじゃねーぞ!」
シンタローはアラシヤマを一顧だにせず、近づいてくる男を不機嫌そうな表情で睨みつけた。
「どうか、早苗どのとの御縁談、何とぞご承知下さるわけにはまいりませぬか?先日、拙者が無頼浪人に刀を奪われそうになりました際にも助けてくださったシンタロー殿のお優しさ、この弥之助、これまで以上に貴殿に感服の至りでございます!!」
「――別にアンタを助けるつもりはなかったんだけど、あれはアンタがあまりにも情けなかったからだ。侍が刀をとられてどうすんだヨ?」
「面目ない……。ですが、拙者、早苗どのを幸せにできるのは貴公以外ござらぬといよいよ心に決めもうした!」
「だからっ、何度も言ってんダロ?俺はその早苗どのとやらと見合いをする気はこれっぽっちもねぇ。幾度俺をつけまわそーが、無駄だ。毎度つけてこられてもウザイし、いい加減あきらめてくれッ!!」
語気荒く言い切ったシンタローであったが、
「何故ですかッツ!?早苗どのは素晴らしい女性でございます!会えばきっと貴公のお気持ちも変わるはずです!!心に決めた女性はいらっしゃらないと云われたではござらぬか!?それならば、拙者はこの縁談の成就をあきらめきれませぬッツ!!」
弥之助は、一向にひく気配を見せない。
(殴っても脅しても駄目だし、何度断っても聞く耳もたねぇし……。一体どうすりゃいいんだ?)
この先も弥之助に執念深くつきまとわれることを考えると、隣の男とは違ってそれほど実害はなさそうなものの、到底よい心持はしなかった。
(どうやったらこの野郎、あきらめやがんだ??)
何度も考えてはみたことだが、うまい回答がみつからない。悩むシンタローに、
「なんや、えらい修羅場みたいどすな」
と、傍らからアラシヤマが声を掛けた。
のんきそうにいうアラシヤマを見て、シンタローは内心ひどく腹が立ったが、ふと、あることを思いついた。
(アレだったら、いくらなんでもあきらめやがるか?でもなぁ、アラシヤマを相手にすんのもやっぱ気がすすまねーよナ……)
辺りを見回しても、自分とアラシヤマと弥之助以外の人間がいるわけでもなく、例えいたとしても窮状には変わりは無かった。
「シンタロー殿ッ!!」
弥之助が必死な形相で詰め寄ってくる中、シンタローは覚悟を決めた。
アラシヤマの着物を引っつかんで思い切りよく引き寄せ、
「オマエ、猿芝居につき合えヨ?」
と、不測の事態にぼんやりとしているらしいアラシヤマに小声で言うと、アラシヤマに口づけた。
数秒のち、シンタローは弥之助を振り返り、
「って、実はこーいうワケだから。つーことで、心に決めた女がいるわけじゃねーけどアンタの見合い話には乗れねぇんだ」
と言った。
いつしか弥之助の顔は青黛をべったりと塗ったような色となり、口では何か言おうとしていたが金魚のように開いたり閉じたりするのみで、どうやら声にはならない様子である。
(……ちょっと気の毒だけど、まぁ、効果はあったみてーだナ)
シンタローはアラシヤマから離れようとしたが、どうしたことか体が動かない。手を突っ張ってアラシヤマの体を押しのけようとしたが、一瞬力をゆるめた隙に腰を抱き寄せられ、ますます密着する形となった。
「テメェ、一体どういうつもりだッ!?」
と、シンタローがアラシヤマを睨みつけながら弥之助に聞こえないよう声を低めて問うと、
「芝居なんですやろ?ほな、わても協力しますえ?」
いうなり、シンタローの頭を引き寄せ、獣じみた勢いで貪るように接吻した。
歯列を割って入ってきた舌に自分の舌を絡めとられたシンタローは、思わず身をよじって逃れようとした。
アラシヤマは不承不承いったん口付けを解き、シンタローの下唇を名残惜しげに舐めると
「あんさん、ここで逃げはると、芝居やてバレるんやおまへんか?」
と低く笑いを含んだ声で云った。
腕の中、怒りのためか震えているシンタローの腰の下あたりを撫で、
「これでもまだ信用ならへんのやったら、この先、見はります?」
と、アラシヤマは弥之助の方に向きなおったが、当の弥之助は既に気絶していたらしく地面に伸びていた。
「……これぐらいで、なんとも根性おまへんなぁ。それでも武士どすの?いや、このお人、武士というより豆腐どすな。二本差しの田楽豆腐どす」
と、呆れたような口調でアラシヤマが言った瞬間、彼の体は数間先まで吹き飛んだ。
「なっ、なにしはりますのんッツ!?」
地面にぶつかったアラシヤマが咳き込みながら身を起こすと、鬼のような形相のシンタローが目の前に立っていた。
「……テメー、芝居とはいえ、あそこまでする必要は、まったくなかったよなぁ?」
シンタローはアラシヤマの胸倉を掴んで引っ張りあげた。
「中途半端やと逆に疑われますやん!?わては芝居を完璧にしたげようと思うてのことどす!それにあんさんから接吻してくれはった時、わて、失神するのと鼻血こらえるのにえらい苦労したんどすえー!」
シンタローは着物を掴んでいた手を離した瞬間、アラシヤマの頬を思いっきり殴った上で蹴り飛ばし、
「間違ってもテメェに礼なんざいいたかねーし、マジムカつくけど、一応これぐらいで勘弁しといてやる」
と地面に座り込むアラシヤマを冷たい表情で見下ろして言った。
(シンタローはん、えらい照れてはって、可愛おす…!さっき鯉口を切ってはったんも、かっ、完全に!照れ隠しどすなvvv)
アラシヤマは殴られた頬を押さえてしばらくにんまりとしていたが、シンタローが弥之助の様子をみるため戻ったことに気づくと、慌てて立ち上がった。
「シンタローはーんッ!もう、わてを置き去りにせんといておくれやすぅvvv」
アラシヤマが傍まで来ると、弥之助のそばに屈みこんでいたシンタローは立ち上がった。
「こいつ、一応気絶してるだけみたいだけど寒空の下放置してたら死ぬかな?」
「そうどすなぁ……。あの、それもちょっとだけ困りますけど、もしケンカしたまま屋敷にあんさんが帰らんかったらあの親馬鹿親父は捜索隊を出すんとちがいますの?」
「テメェ、不吉なこと言ってんじゃねーよ!」
と、シンタローは思いっきり顔をしかめたが、思い当たる節があるのか否定はしなかった。
アラシヤマは少し考え、
「わて、この豆腐とちょっと話したいことがあるんで介抱しときます。シンタローはんは先に帰っておくんなはれ」
といった。
「まさかオマエ、こいつを始末するつもりじゃねェだろーな?」
いかにも疑わしげにシンタローがアラシヤマを見やると、
「心優しいわてが、そんなことするわけおまへんやん!大丈夫どすってv」
と、アラシヤマは笑顔を返した。
(――なんだ?頭の後ろが痛い上に、顔中がちくちくするな……)
ぼんやりとそう思った弥之助はひとまず目を開け、訳がわからないなりに体を起こした。
月明かりの中、どうやら場所は夜の道であるという事はわかったが、何故自分が道の真ん中に寝ていたのかはすぐには思い出せなかった。
おそるおそる頭の後ろに手をやってみると、どうやら少しこぶができているらしい。顔や指先が軽く痛むのは、冬の夜気にさらされていたためであろうというところまでは了解できた頃、
「気ぃ、つかはりました?」
と、声がした。
弥之助は、まさか自分以外に人がいるとは思ってもいなかったので肩を揺らして驚いた。振り向くと、前髪が鬱陶しく片目に被さった男がしゃがんでおり、先ほどの声はどうやらこの男が発したもののようであった。
その男を見た瞬間、先ほどまでの記憶がよみがえり、
「だっ、男色ッツ!!」
と、弥之助は思わず叫んだ。すると男は、
「いきなり人を男色呼ばわりどすか?アンタ、えらい失礼どすな」
幾分、機嫌を損ねたようである。どうやら武士ではあるらしいものの得体の知れない男が身にまとう雰囲気は、辺りの夜気と同様身を切るように冷たかった。
弥之助は辺りを見渡したが、目の前の男と自分以外、誰もいない。
「し、シンタロー殿はッ?」
状況が把握できず焦る弥之助に男は呆れたようにため息をつき、
「まぁ、落ち着きなはれ」
といった。
「男色なんてそう珍しいもんでもおまへんやろ?あれぐらいで気絶するやなんて、あんさんだらしのうおますえ?」
薄気味悪そうに男を見た弥之助は、地面に座り込んだまま後ずさった。シンタローが男色であるとは決して信じたくはなかったが、先ほど自ら目の前の男と接吻したうえ、男にから激しく口付けられていたシンタローの表情には、普段の彼からは想像もできないような色香が感じられた。
「……本当に、シンタロー殿は貴殿と男色関係にあられるのか?」
「さっきから、その男色いう言い方やめてくれはります?」
と、男は云った。
「わては、男が好きというわけやおまへん。ただ、わてにはシンタローはんだけなんどす」
そう言い切った男に対して、弥之助は悔しさや嫉妬が入り混じったような憎しみに近い思いを抱いた。気がつけば、
「俺は、男色だけは断じて嫌だッ!! 世の中には早苗どののような愛らしい女性がいるのに、男色なんぞにうつつを抜かすやつらの気が知れんッツ!!」
と叫んでいた。
男は弥之助を見て目を細め、
「おや、あんたはん、縁談相手のいとはんに岡惚れしてはったんどすか?」
面白がるような口調であった。
「ほ、惚れているなんてとんでもない!早苗どのに失礼だッツ!!俺は婦女子に好かれるような性格でも面相でもないし、第一、家格が違う…」
弥之助の声は段々しぼんでいき、最後の方になるとほとんど聞こえなかった。どうやら、自分自身の言った言葉に傷ついたらしい。
「……アンタも、救いようのない阿呆どすナ」
「なっ、何をッツ!?」
男の言葉に気色ばんだ弥之助は、思わず刀の柄に手を掛けた。しかし、思うようには抜けなかった。
抜けない刀に焦る彼に、男は
「やめときなはれ。刀を差して腰がふらついてはるようどしたら、剣術は全然できへんのやろ?むやみに抜くと自分が怪我しますえ」
と、馬鹿にするような口ぶりでもなくそう云った。
弥之助は、震える両こぶしを握りこんだ。
「ところで、一つ訊いてもよろしおますか?あんたはんが惚れてるいとはんが、アンタがさっきから云う男色の男のところへ嫁入りしはったら、不幸になるだけとちがいますの?」
「そ、それはッ……!」
「あきらめや。縁談はとうの昔にご破算になったんでっしゃろ?アンタの余計なお節介は、単に自分に自信がない男の妄執なだけや」
「うるさいッツ!!」
地面にこぶしを叩きつけた弥之助を、男はしばらく黙って見ていたが、
「なりふりかまわず、頑張ってみはったらどうどすか?ボンヤリしてはると、いとはんは他の男のところへ片付くだけどす。まぁ、その方がお互い幸せかもしれまへんけどナ」
といった。
「…………」
言葉もなく弥之助は首をがっくりと落とし、項垂れた。
しばらくの間、堀の水音だけが辺りに満ちていた。
「――それに、シンタローはんは、アンタの自己満足を叶えるために在るわけやないんどすえ?」
男の声音が、先ほどまでとは一変した。声からは何の感情も読み取れず、白々と温度がない。
「今後、アンタがシンタローはんにつきまとうのは、わてが許しまへん。あの人を利用するつもりやったら、斬る」
男が立ち上がりざま、月明かりの中、鈍い光が一閃した。
弥之助はいったい何が起こったのか了解できなかったが、ふと、下を向くと羽織の紐のみが鋭く断ち切られている。それ以外、どこにも怪我もなく、特に変わったこともない。
慌てて顔を上げたところ、すでに男の姿はあたりに見あたらなかった。
弥之助の体は、おこりに罹ったかのように震えはじめた。
春の彼岸も過ぎた頃、そろそろ彼岸桜が他の桜に先駆けてつぼみを開き始めていた。
その日は、ここ数日の小春日和がうそのように、冬のような寒さであった。
シンタローは神田からの帰り道、久しぶりに田楽居酒屋に立ち寄ってみようかと思い立った。
竜閑橋を過ぎ、堀沿いを歩くうち一石橋に近づくと、風が吹けば倒れそうなほど簡素なよしず張りの店は以前と変わらずたたずんでいた。
「あっ、シンタローはんv」
「……何で、下戸のテメーがここにいんだよ?」
相変わらず客のいない店に一歩入ると、田楽を食べているアラシヤマが座っていた。シンタローを見て嬉しそうなアラシヤマとは対照的に、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「いや、道場の方に訪ねていってもあんさん中々会うてくれまへんし、ここやったら会えるかなと思いまして。相変わらず豆腐と蒟蒻しかおまへんけど、味噌は白味噌に変わってますナ。わて、こっちの味の方が好きどす」
アラシヤマは床机に置いた田楽の皿をずらし隣を空けたが、シンタローは斜め向かいに座った。
「そういや、オマエ、吉原の花魁に振られたんだってな」
豆腐田楽を口に入れようとしていたアラシヤマの表情が凍りついた。
「ああああああのっ、ソレ、一体誰から何を聞かはったんどすか?まったくの事実無根どすえー!?」
田楽を皿に戻し、シンタローの手をとらんばかりに詰め寄ったが、足を払われ再び床机に座り込むはめとなった。
「落ち着け」
というと、シンタローは一口茶を飲み、湯飲みを置いた。
「ミヤギから聞いた。『あの根暗、顔はらして超不細工だったっぺ!あれって、絶対野暮なことして花魁に振られたに決まってるべー!!いい気味だべ!』って、大笑いしてたゾ」
「――あんの顔だけ阿呆、殺してやりまひょか……!」
「何?言いたいことがあんなら、はっきりしゃべれヨ!聞こえねーだろ?」
「いえ、今のは単なる独り言どすvいやどすなぁ、シンタローはん。それってこの前あんさんがわてを殴らはった翌日のことどすえ?たまたま朝にあの顔だけ阿呆と奉行所で会うたんやけど、それをあの超頭の悪い粗忽な阿呆が勘違いしただけでっしゃろ?わては吉原へ通うてもおまへんし、無実どすえー!!」
「ふーん。あ、親爺、熱燗一本頼むわ」
素っ気ないシンタローの様子を見て、アラシヤマは少し声を大きくした。
「あの、まったくの誤解どすから!」
「うるせぇ、酒が不味くなる」
「シンタローはーん……」
熱燗を飲み始めたシンタローを見て、アラシヤマは所在無げに田楽の串をいじっていた。
しかし、シンタローはアラシヤマに話しかけるはずもなく、黙々と猪口を口にしていた。
「……この前見廻りの途中あの豆腐男を見かけたんどすが、あんさんの元縁談相手のいとはんと祝言をあげたみたいどすえ?」
と、アラシヤマが小さい声で言うと、
「へぇ、根性見せやがったな。やるじゃん」
シンタローは少し口元をあげて笑った。それを見たアラシヤマの表情が、先ほどまでとはうってかわって明るくなった。
「二人で買いもんしてはったけど、あの御新造さん、なかなか器量良しでかしこうおますわ。豆腐は気づかんうちに上手う料理されてましたな」
「ふーん、よかったナ」
「どうなんやろか。わてが見たかぎり、完全に首に縄つけてひっぱられている状態どした……。まぁ、ニヤニヤやにさがってはおりましたけどナ」
「幸せだったら、いいんじゃねーの?」
そう言ってシンタローはアラシヤマの皿から蒟蒻田楽を一串とった。
「――あのぶんやと、一生浮気はできへんのやろなぁ……。少々気の毒な気もしましたえ?」
「あ、確かに木の芽が入っててうめーな。でも俺はやっぱ赤味噌の方が好きだけど。……別にいいじゃねーかヨ。惚れた相手がいながら浮気するヤツの気が俺にはわかんねーし」
「あっ、シンタローはん!違うんどすッツ!!わてが浮気したいわけやのうて、例えばの話どすからっ!!そこんところ誤解せんといておくれやすー!!」
「何慌ててんのオマエ?そもそも、浮気以前にテメーに恋人なんざいねぇだろ?それにテメェが浮気しようがどうしようが、俺には全然関係のねぇ話だし」
「あ、あのっ、強がりはらんでもええんどすえ?わては誠実な男どすさかい、浮気は絶対しまへんからっ!」
「さっきから意味わかんねぇ。テメー、もう田楽を食い終わったんだろ?酒飲まねーんならとっとと帰ったら?」
「……ほな、いただきますけど」
「言っとくけど、これは俺んだからナ!自分で頼めヨ」
「ひどうおます~……」
シンタローとアラシヤマが店を出ると、先ほどよりもさらに辺りの夜気が冷え込んでいた。
アラシヤマは少し酔いが回ったのか、
「……シンタローはーん、こんど芝居でも一緒に見に行きまへん?」
と、シンタローに向かってうれしげに声をかけた。
「行かねぇ」
「そ、そない即答しはらんでも。酔い、一気に冷めましたえ!?」
「……てめぇとの大根芝居の後、俺は大の芝居嫌いになったんだヨ!」
「いや、あれは芝居ということやのうても、わてはいっこうにかまへんのやけど……」
「何か言ったか?」
険のある目つきで睨みつけられ、
「いえ、何も言うてまへん……」
と、アラシヤマは肩を落として言った。
しばらく、ことばもなく二人は歩いていたが、つと、アラシヤマが足を止めたのでシンタローは振り返った。アラシヤマはしばらく何か言いたげなそぶりでありながら、中々言い出せないもようであったが、心を決めたのか、やっと口を開いた。
「……あの、ちょっと今から行きたいところがあるんどすが、付き合うてもろてもよろしおますか?」
「どこへだよ?」
「本所の回向院どす」
いつのまにか、暗い空からは大きな牡丹雪がほたほたと舞い落ちていた。
見世物小屋や食べ物屋などがひしめきあう繁華な西広小路を抜け、両国橋を渡るとほどなく回向院に着いた。広い境内までは両国の喧騒は届かず、静閑としていた。
「つい先にここに入った、不細工で一途な阿呆がおるんどす」
と、アラシヤマはいった。
罪人たちの墓が立ち並ぶ一角、真新しい墓の上にもうっすらと雪が積もっていた。
彼岸に供えられたものなのか、いくつかの墓石の前には花が供えられていたがその上にも雪が綿帽子のようにかぶさっている。
アラシヤマは真新しい墓石の前まで来ると足を止めた。
花立には新しい花がたくさん活けられており、アラシヤマはその脇に風呂敷包みから取り出した樒を一本さした。そして、墓の前で手を合わせ目を閉じた。
シンタローは立ったまま、アラシヤマの後姿を見ていた。
二人の肩や背には、次々と雪が降り落ちてはくっつき、ゆっくりと溶けてゆく。
「ほな、行きまひょか」
ほどなく、アラシヤマは立ち上がった。
「どうでもいいが、寒い。何かおごれ」
「桜湯の屋台が、来しなにおましたナ」
「こーいう場合、フツー酒だろ?ったく、オマエ、気がきかねぇな」
そういうと、シンタローはさっさと歩き出した。
しばらくアラシヤマはその場に立ち尽くしていたが、
「……おおきに、シンタローはん」
シンタローの姿が雪に煙って見えなくなる前、もういちど墓石を一瞥し、アラシヤマもその場を後にした。
静まり返った室内に響くのは、一つだけともされた行灯の傍で紙を手繰る乾いた音のみであった。行灯の灯りはマジックの周りを照らすのみで、数尺も離れれば墨を流したかのように昏い。
したためられた文字をすべて読み終わったのか、帳面を閉じたマジックは相対する闇に向かって声を掛けた。
「これが、お前の報告かね」
「……そうどす」
と、闇の中、気配が動いた。
「理由は花魁への怨憎による殺人、使用された刀は備前三郎国光の業物であり、百姓身分出身ながら生来剣術を好んでいた下手人次郎右衛門が懇意の浪人都築武助から譲り受けたものである、と」
「何か、不審な点がおますか?」
「不審なところはないよ。確かにあの刀は備前国光だしね。――ただ、お前は次郎右衛門が剣術を嗜んではいないと見立てたはずではなかったか?」
「わての勘違い、どしたら?」
相手の様子を探るような物問に、マジックは腕を組み、闇を見据えた。
「一体、何が云いたい?……これは何の筋書きだ?」
静かな声音に、闇の中の気配は少し乱れたがすぐに治まった。
「……次郎右衛門の太刀筋は、怨みが強すぎたあまりあのような素人離れしたものとあいなったかと思われます。御奉行様、何とぞ、次郎右衛門の刑を獄門ではなく下手人としてはいただけませぬか?」
と、絞り出すような声が聞こえた。
「刑を下手人とするよんどころない事情とは、報告書に書いてあったいきさつか?」
「左様でござります。万一、刑の変更の事由を問われました際には、刀は備前国光ではなく天下に仇なす妖刀村正であった、次郎右衛門はその魔力に惑わされ今回の事件を引き起こしたと……。どれほど馬鹿馬鹿しい筋であっても、公儀と関わること。それ以上追求はされへんはずどす」
「獄門は、変えられない」
マジックははっきりとそう告げた。
「なんでどすかッツ!!獄門にしろ下手人にしろ、どちらにしろ次郎右衛門が死ぬことには変わりはないんどすえ!?同じ死ぬんやったら、これ以上人前にさらして恥辱を与えんでも充分ですやろ!?」
ほんの一瞬、殺気が走ったが、マジックは動じなかった。
「――次郎右衛門は、何の罪もない下女をも斬った。次郎右衛門と同様、下女にも家族がいたであろう。お前も重々分かっているとは思うが、償いとはそう簡単なものではないんだよ」
応ずる声はなかった。
「ただね、お前やトットリからの報告から考えると、次郎右衛門は斟酌されるべきところもある。獄門には変わりはないが市中引き回しはやめておこう。ただし、千住に首はさらすよ」
「――御厚情ありがとうございます」
そろそろ行灯のろうそくも燃え尽きかけているのか濃度が増した闇の中、低く声がした。
しばらくのち、室内は完全に闇になった。
呆れた様子でもからかう様子でもなく、
「それにしても、お前は少し変わったね。でも、情というものはそう悪いものでもないよ」
マジックはそう呟いて部屋を退出した。
ずいぶんと時が経ってから、
「……別に、情にほだされたわけやおまへん。ただ、とんでもない阿呆やとあきれかえっただけどす」
部屋に取り残された闇が、ポツリと言葉を発した。
「――今日で、わてがあんたはんの不細工な面を見るのも最後どす」
穿鑿所の床に座ったアラシヤマがそう云うと、次郎右衛門は深々と頭を下げた。
「そないにかしこまらんでもええわ」
そう声をかけても、次郎右衛門はこれまで同様いっこうに体を起こさないのでアラシヤマは溜め息を吐いた。
「――お役人様、今までわしにご親切にしてくださりまして本当にありがとうございました」
「別に、礼を言われるような筋合いはおまへんし、頭をあげなはれ」
そう言うと、次郎右衛門は真面目な顔で体を起こした。
「あんさん、顔色が尋常やおまへんけど、やっぱり死刑のことが心配どすか?一応、死ぬ前にさらしもんにはなりまへんからナ」
次郎衛門はくしゃりと顔を泣きそうに歪ませた。
「――御温情、いたみいります」
「何やまだ言いたいことがあるんとちゃいますの?この際、言わはったらどうどす?」
去り際、アラシヤマがそう声を掛けると、次郎右衛門は躊躇したが、
「――夢を、見るんです」
と、おずおずと言葉を口にした。
「夢どすか?」
「はい。わしが殺した下女や迷惑をかけたお方々が、恐ろしい顔で毎夜わしを責め立てにまいります。ですが、八橋だけは、わしの夢には現れない」
次郎右衛門は憔悴した痘痕面に、笑顔を浮かべ、
「恐ろしい夢でも幽霊でもいい、死ぬ前にもう一度、八橋に会いたかったナァ」
といった。
アラシヤマが小伝馬町の牢屋敷を出たころ、時刻は宵五つを過ぎており、あたりはすでに暗かった。
(なんや、えろうすっきりしまへんなぁ……。後味が悪い、とはこんな感じでっしゃろか)
うつむき加減にアラシヤマはのろのろと本石町を歩いていたが、いつしか川辺に出た。
立春はすでに過ぎているとはいえ寒い夜半、御堀の周りに涼みに出ようとする酔狂者などいるはずもなく、先ほどからすれ違う人影も見当たらなかった。
暗い川沿いを南へと進むと、香ばしいにおいが風に乗って漂ってきたので、アラシヤマは自分が空腹であることにはじめて気づいた。
(日本橋で、何か食うて帰ってもよろしおすな)
顔を上げると、一石橋かと思われる方向に明かりが見えた。
近づいてみれば、よしずを立て巡らせた簡素な居酒屋のようである。少し焦げたような香ばしいにおいはいよいよ強くなり、どうやら何か焼物を食わせる店らしい。
(面倒どすし、ここでええわ)
と、よしず張りの入り口を一歩入ると、若い男客が一人縁台に腰かけ、熱燗をのんでいるようであった。
アラシヤマは何の気なしにそちらに目をやると、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
よくよく見知った、人物であった。
「し、シンタローはん……」
思わずしゃがれた声でそう呼ぶと、長い黒髪を一つに括った青年も顔を上げた。
不審そうに深編み笠を被ったアラシヤマを見た後、
「なんだ、テメェか」
と言った。
「なに食べてはんの?」
ちゃっかりとシンタローの隣に腰かけたアラシヤマがそう聞くと、
「田楽」
と、ことば短かにシンタローは答えた。
「美味そうどすな。ほな、わてもそれにしよ」
油紙を揉んだかのようなしわくちゃ面の親仁にアラシヤマが田楽を注文すると、ほどなくして大ぶりの豆腐と蒟蒻にそれぞれ青竹の串を二本ずつ刺し、味噌を塗って焼いたものが出てきた。味噌には擂った柚子の皮が練りこんであり、口中に柚子のさっぱりとした風味の広がる田楽は、店の親仁が一工夫こらしたものらしい。
どちらから話し出すというわけでもなく、シンタローは黙って燗酒を飲み、黙々とアラシヤマは田楽をほおばっていたが、シンタローはいつもと違って軽口をたたかないアラシヤマを不審に思ったらしく、
「なんかオマエ、いつもにもまして陰気だナ」
といった。
アラシヤマは串を置いた。
「あの、シンタローはん。遅うなりましたが、明けましておめでとうございます。今年は新年の挨拶周りにも行けへんでまことにすみまへん。もちろん、今年もよろしゅうお願いしますえ」
「明けましてもなにも、今は如月じゃねーか」
「あっ、もしかして、あんさん寂しゅうおましたか??」
「いや、全然。つーか、鬱陶しいテメーの面を見なくてすんで、むしろ清々しい正月だったけど?」
「はぁ、そうなんどすか…」
いつものように騒ぐわけでもなく、アラシヤマは一瞬苦く笑んだだけで、ふたたび無言で豆腐の田楽を食べ始めた。
「……あの、もしあんさんやったら、自分の嫌いな相手のとこへは例え夢にでも出とうない、って思いますか?」
と、アラシヤマは茶が半分ほどになった湯飲みを置き、口を開いた。
(さっきから何なんだ、コイツ!?)
シンタローはそう思ったが、アラシヤマはひたすら答えを待っているようである。
仕方なしに、
「――どんだけソイツを嫌ってよーが、夢は見る側の勝手で、俺がどうこうできるモンでもねぇダロ?まぁ、ムカつくかもしんねーけど」
と、云うと
「――ああ、あんさんの云わはるとおりどすナ」
そう、アラシヤマは呟いた。
ふと、シンタローは隣に座っている男が自分の知るアラシヤマとは全く別の人間のような気がした。酒のせいかと思いつつ、確かめるようにアラシヤマの方を見ると、
「……シンタローはんが、潤んだ目でわてのことを見つめてはる~vvv」
と、しまりのない笑顔で嬉しそうにアラシヤマが言ったので、気のせいだとシンタローは了解した。
自分はシンタローに会えなくてものすごく寂しかったなどと調子にのった様子で力説するアラシヤマを見ていると、
(すげー、ムカつく)
と、だんだん腹が立ってきたので、シンタローはアラシヤマを殴ろうかと思ったが、狭い店の中では迷惑がかかるかと思い直し、
「あっ、何しはるんどすかッ!?シンタローはん!」
アラシヤマがどうやら手をつけずにとっておいたらしい、豆腐の田楽を皿からとって頬張った。
「それ、わての……。わざわざ楽しみにとっといたんどすえ??」
なんだか非常に情けなさそうに肩を落として言うアラシヤマを見て、シンタローは少しは溜飲が下がる思いがした。
「バーカ!油断する方がわりぃーんだヨ!」
笑いながらシンタローがそういうと、
「まったく、あんさんには敵いまへん」
アラシヤマもつられて苦笑した。
アラシヤマは奉行所を出て、小伝馬町の牢屋敷へと向かっていた。
本銀町のあたりでは、襤褸着を身につけ編み笠にウラジロの葉をさした節季候二人が、家々の前で大いに騒いでいた。
竹製のササラをすり合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら
「エー、せきぞろせきぞろ、さっさござれやさっさござれや」
とがなりたてるもので、銭をもらうまで一向に帰らない。
(五月蝿うおます……)
アラシヤマは、一本筋を変えた本石町に足を向けた。本来なら春の訪れを告げる十二月恒例の一風景であったが、浮かない心持では癇に障った。
ほどなくして小伝馬町牢屋敷に着いた。高い練塀には鉄製の忍返しがつけられ、周囲には6尺ほどの堀がぐるりとめぐらされており、いかにも物々しい。
すでに奉行所から話は伝えられてあったらしく、アラシヤマが名乗ると穿鑿所に通された。
(尾羽打ち枯らした、といった案配どすな。この前は獣みたいやったけどまだ生気がある分マシどしたわ)
部屋の中に座っている痘痕面の男の着物は垢じみ、月代も伸び放題の薄汚れた風体であった。ひどく殴られたようなアザもあり、吉原にてお大尽ともてはやされた面影はもはやどこにも見あたらない。
アラシヤマが部屋に入ると次郎右衛門は平伏したが、
「別に、そないかしこまらんでもよろしおますえ?」
と声を掛けられると、のろのろと顔を上げた。目は目前にいるアラシヤマを捉えている様子はなく虚ろである。しだいに首がうなだれ、下を向いた。
どれほどの時間が経過したものか、穿鑿所の板の間には茜色の西日がじわりと差し込み始めた。
「もうあんたはんに残された時間はそうはおまへん。わてはどうあっても真相を聞きださなあかんのや。…何度でも来ますさかいな」
そう言ってアラシヤマは立ち上がった。
次郎右衛門は、依然としてそのままの姿であった。
(何を聞いてもなしのつぶてどすなぁ……。拷問の方が手っ取り早いんとちがうやろか?いや、やっぱりあれは拷問でどうにかなるものやない。次郎右衛門は生を諦めている)
いよいよ年の暮もさしせまった頃、穿鑿所の玄関を出たアラシヤマは息を吐いた。マジックからいわれたものの、一向に事態が進展する様子はなかった。
表門をくぐると、門番と何やらもめている商人らしい男がいた。地方から出てきたものか、言葉になまりがある。
「どうか、兄に合わせてくださいまし!」
男は必死で門番に取りすがっていたが、とうとう邪険に振り払われた。
(一体何の騒ぎどすの?愁嘆場には関わりとうおまへんなァ)
アラシヤマはなるべく急ぎ足でその場をとおりすぎようとしたが、勢いあまって地面に転がった男は門から出てきたアラシヤマを見ると、跳ね起きて駆け寄った。
「お役人様!お聞きくだされッ!わたくしの兄が花魁殺しで捕まるとは何かの間違いでございます!!」
アラシヤマが振り返ると、顔面に痘痕こそないものの、次郎右衛門に良く似た面相の男が立っていた。
「兄とは佐野屋次郎右衛門のことか?そのもと、次郎右衛門の縁者か?」
「左様でございます……」
男は、大慌てで居住まいを正し、地面に平伏した。
「―――ほなまぁ、十軒店の蕎麦屋ででも話を聞きまひょか。あっ、言っときますけど、勘定は割り勘どすえ?」
京言葉がめずらしかったものか、武士がくだけた口調で話したことに驚いたものか、男は深編み笠を被ったアラシヤマを胡散臭げに見上げた。
正月も明け往来もすっかり通常の賑わいを取り戻した頃、アラシヤマは穿鑿所におもむき次郎右衛門と対面した。
「あけてもめでとうはおまへんやろけど、あんさん、こざっぱりしましたナ」
アラシヤマのいうとおり、次郎右衛門は月代も剃り全体的に身ぎれいな格好をしていた。何より、目に生気が戻っていた。
「ありがとうございます。お役人様におかれましては、よいお年となりますよう」
手をつき、頭を下げた。
しばらく次郎右衛門は迷っている様子であったが、
「……弟に会わせてくだすったり弟にご助言いただきましたのは、お役人様のおはからいでございましょうか」
とアラシヤマにたずねた。
「わての、というわけやおまへんけど。あんたの弟はんはいらちどすなぁ。蕎麦、三口で呑み込みましたえ?」
「弟は昔から落ち着きのない子どもでしたが、今では立派に佐野の炭屋の主人をつとめております」
「佐野の炭屋はあんたはん一代で築き上げたものやそうどすな。やっかみや妬みもそらぎょうさんあるやろけど、土地での評判はええもんやて聞きましたえ?どうして、分別も道理も十分にわきまえたあんさんが、傾城を殺さはったんどすか?」
次郎右衛門は目を閉じ、しばらく考えた末、
「わたしが狂人だから、ということでご納得できませぬか?」
と言った。
「納得できへんナ。アンタは狂うてはいない。自分自身、よう分かってますやろ?」
アラシヤマは、声低く、男を見た。
次郎右衛門は、答えなかった。
朝の間に降った牡丹雪が穿鑿所の屋根に薄く積もっていたが、ようやく雲間から出た日に照らされ、軒先からは雫が数珠球のように連なって落ちている。
穿鑿所の玄関では深編み笠の侍が高下駄を脱いでいた。
「あんたはんの弟どすが、また江戸に出て来てますえ?今度は奉行所に押しかけてきたそうや」
すっかり見慣れた痘痕面の対面に腰を下ろすなりアラシヤマが苦々しげにそう言うと、次郎右衛門は困った表情を浮かべた。
「店の主人が商売を放ったらかして、大丈夫なんどすか?商売はそないに甘いもんやないんとちゃいますの?」
アラシヤマは懐から帳面のような紙の束を取り出し、次郎右衛門の前に投げた。次郎右衛門がアラシヤマを見るとアラシヤマが頷いたので、彼は紙の束を手に取った。
「これは……」
「あんたはんを助けるための嘆願書どす。佐野の連中に頼んで書いてもろうたみたいどすが、あんたはんの死刑は正式に決まったことで、今さらどうにもならんことどす」
次郎右衛門は穴の開くほど嘆願書を見つめていたが、アラシヤマの方へ嘆願書を押しやり、深々と頭を下げた。
「弟がご迷惑をおかけいたしまして、まことに申し訳ございません」
「ほんまどすな」
とは言ったものの、それぎり間が持たず、アラシヤマも困った様子であった。
「まぁ、あんたはんの不細工な面でも髷と会話するよりはマシどすから、体を起こしたらどうどすの?」
次郎右衛門が座りなおすと、アラシヤマは顔を少しゆがめ、
「――そろそろ、梅が咲き始めてますナ」
と、居心地悪そうにいった。
「わたしは佐野の梅しか観たことがございませんが、江戸の梅も綺麗でございますか」
「そうどすなぁ。わては行ったことはおまへんけど、亀戸の梅屋敷の臥龍梅は見事なもんやとさるお人から聞いたことがおます。わては、梅といえばやっぱり京の天神さんどすが」
「そのお方とは、お役人様の想い人でございましょうか?」
「なっ、何でどすかッ?」
「いえ、お顔がお優しかったものですから。……わしも、惚れた女と年毎に咲く花を観とうございました。ですが、うまくいきませぬものですなぁ。こちらが惚れてはいても、向こうがそうとは限らない。当の女は間夫と幸せになることを夢見るばかり。滑稽きわまりない」
次郎右衛門は歯をくいしばってこぶしを握り、項垂れた。しばらくそうしていたが、アラシヤマが、
「――今でも、あんたはん、傾城を恨んではるんどすか?」
と、聞くと、ゆるゆると頭を上げた。
「――おかしいと思われるでしょう。本来なら、女の幸せを願って潔く身を引くのが男の道理。だがわしは、仲間の前で馬鹿にされ、花魁から認めてもらえず悔しかった。あの笑顔がすべて嘘のものだったのかと寂しかった。殺してもいまだに気持ちが治まらない」
アラシヤマは、じっと次郎右衛門を見ていた。
「……わしも花魁のあとを追えばよかったんだろうが、てめえ自身で死ぬ意気地もない。怖いんです」
次郎右衛門は目から溢れる涙を拭おうともしなかった。水滴が海老茶色の着物地にしたたり落ち、じわじわと暗褐色の染みが布の上に不規則な輪を広げた。
「お役人様は、わしが狂うてはいないといわっしゃったが、それは違う。わしは、」
「身勝手なもんやな」
相手の言葉を断ち切るようにそう断言すると、アラシヤマは次郎右衛門から目をそらした。
「……俺は同情はできへん。けど、あんたのいうことが一寸だけ分かる。あんた、どえらい阿呆どすえ」
逡巡の末、
「別に、その傾城をずっと憎んでてもかまいまへんやろ?幸せになって見返してやったらよかったんどす。教えるつもりはなかったんやけど、九重という傾城は、本気であんたはんに惚れてはったみたいどしたえ?」
と、アラシヤマはいった。
「九重さんが……」
次郎右衛門は目蓋の腫れあがった目をみはった。
「そうどす。でも無駄なんでっしゃろ?」
ぐしゃり、と、次郎右衛門の顔がゆがんだ。
「―――お役人様、九重さんが綺麗で誠のあるお方だということは身にしみてわかっております。ですが、わしが惚れていたのは、八橋だけでございます」
「ああ、やっぱり阿呆や。……わても、全然人のことは言えへんけどナ」
アラシヤマが疲れたようにそう云うと、
「八橋……!」
次郎右衛門は、声をあげて哭いた。