車が止まったのは一軒の料亭の手前。紫焔にとっては見慣れた場所でもあった。車屋を労って帰しているところに、ちょうど料亭の女将が客の送り出しに出て来ていた。深々と走り去る客の車にお辞儀をする女将が顔を上げたとき、ちょうど紫焔たちが目に入ったらしく目元を和ませながら近付いてきた。
「あら、いらっしゃい。先ほどから奥のお座敷でお待ちかねですよ」
自ら暖簾を捲りながら二人を招くと女将は先に立って座敷へと案内した。
賑やかな料亭の中で、ひときわ賑々しい座敷の前に来ると女将は、膝をついて二人に目線で促す。座頭が静かに膝をついたので紫焔もそれにならう。
「失礼いたします。太夫がお着きです」
流れるような仕草で女将が障子を開けると、上座に座ったチョビ髯の男が上機嫌に声を上げる。
「おお、きたか。入れ入れ」
つい先ほどまで楽を奏で舞っていた芸者がわきに控えたので、座頭に続いて座敷に入り丁寧に頭を垂れた。
「本日はお招きにあずかりまして……」
座頭が口上を述べようとするのを遮って、ちょび髭が少々品のない声で笑い飛ばす。
「挨拶はいい。マジック殿、紹介しましょう。これは私が贔屓にしている一座の者で座頭の金澤芳心。隣は花形役者の紫焔」
「金澤芳心(ほうしん)でございます。どうぞご贔屓に」
「金澤紫焔でございます」
一度深く頭を下げて顔を上げると馴染みのチョビ髯の隣に金色の髪をした大柄な男が悠々と座っていた。
男は『異邦人』と呼ぶのにふさわしい容貌の持ち主だった。輝く金色の髪、ガラス玉のように青い瞳、白皙の肌、高く整った鼻梁。肩幅は広く、腕は洋服の上からでもわかるほど逞しい。
物珍しさに紫焔は思わずまじまじと目の前の異人を見ていると、さすがに男の方でも気がついたらしく目があったしまった。叱責されると思い慌てて視線を外そうとしたが、男は思いもよらぬことににっこり笑って器用に片目を瞑って見せた。思いがけないことに面食らっていると、得意満面のチョビ髯が隣の男を紫焔たちに紹介した。
「こちらは英国総領事・マジック卿だ。爵位をお持ちでいらっしゃる」
チョビ髯は大英帝国の貴族と知り合いになれたことがたいそうな自慢らしく、普段からおしゃべりなのがさらに饒舌になっていた。チョビ髯の退屈な自慢話を聞いていると欠伸が出そうだったので、紫焔はとりあえず平伏して嵐が過ぎるのをひたすら待った。
やがておしゃべりに満足したチョビ髯は上機嫌で膝を一つ打った。
「とにかくな、二人ともマジック卿にお近づきの印としてだな、なんぞひとさし舞ってくれ!」
「かしこまりました。それでは『相生獅子』を」
座頭と二人で深く頭を下げながら紫焔は内心で、いい気なもんだ、と舌打ちをした。
自分たちの磨き上げた芸をお座敷芸のように披露させる手合いを紫焔は嫌っていた。そういった連中は「巷で人気の役者でも自分のために芸を披露する」という安っぽい自己の権力を他者に誇示するために舞わせるのだ。
本当に舞を見たいと思っているわけでもないクセに――。
そう毒吐きつつも、顔を上げた時にはうって変わって美しく微笑んでいた。座頭が舞うというものを紫焔が断るわけにはいかないからだ。
紫焔は座頭が脱いだ羽織を受け取って手早く畳んで脇に置くと素早く自分の用意を整えて手をついた。座頭が隣で同じように手をついたのを合図に芸者達がおもむろに楽を始める。
常であればにぎやかしのような楽を奏でる芸者達もこのときは厳かに、だが華やかな楽を奏でる。美しい楽に乗せて絶妙な間合いで顔を上げ、手を翻す。それは麗しい二人の姫の舞であった。
あどけない仕草で蝶を追う、その姿。
秘めた恋を告白しあう、その素振り。
その舞は見るものを魅了する。
夢の世界に誘う、まるで幻のような舞。
紫焔は足を踏み出す時、身を翻す時、様々な場面でちらと周囲を見渡した。
楽を奏でる芸者達はそれぞれ調子を合わせながらもうっとりとした表情で見上げている。
上座ではチョビ髯がだらしなく口をあけて圧倒されているようだった。
あの英国人の客は―――
そう思って視線を流す際に盗み見てみると彼は下座に座った連れらしき金髪の若い男に声をかけていた。
異人の客に舞を見せるのは初めてだったが、どんな客であろうとも紫焔の舞に心動かされないものはいない。おまけに師とも仰ぐ座頭と二人で舞っているのだ。
おおかた賛美の言葉でも並べているに違いない。
そう解釈した紫焔は内心得意満面で舞い踊る。
やがて楽は賑やかに終わりを告げ、夢は現に戻る。
芸者衆のうちの誰かが、ほう、とため息を漏らした。
扇子をたたんで深くお辞儀をすると、客達は惜しみなく拍手をした。中でもチョビ髯のお大尽は特にご満悦で、大仰なほど派手に手を打っている。
「いやいや、さすがだ。素晴らしい! 一献取らせよう。近こう近こう」
すっかりお殿様気分のチョビ髯が朱塗りの銚子を手に手招きする。座頭に続いて愛想よく杯をいただいた紫焔だったが、正直な話うんざりしていた。
「どうでしたかな、二人の舞は。素晴らしかったでしょう」
ご機嫌のチョビ髯が自慢げに声をかけるとマジックは酌を受けながら言った。
「ええ。確かに素晴らしい。とても洗練された舞だ」
「そうでしょうとも!」
「特に芳心。貴方の舞は一流だ。芸術といってもいいだろう。欧州にも貴方ほど完璧にしかも美しく舞う者はそうはいないだろう」
「恐れ多いことでございます」
座頭は照れたように頭を掻きながら惜しみない賞賛を受け入れた。
「だが」
マジックは手の中の杯を飲み干すとおもむろに紫焔を見て微笑みながら言った。
「君の舞には何の感銘も受けないな、紫焔」
マジックの言葉に座が静まり返る。
庭で鹿おどしの澄んだ音がしらけた座敷に響き渡る。
「紫焔。君はまるで飾り立てられただけの人形だね」
「……ずいぶんな言い様をしてくださいますね、マジック様」
にっこりと笑いながら、だが心に冷たいものを含んだ紫焔の言葉にマジックはたじろぎもせず満面に笑みを浮かべる。
「だってそうだろう? 私は芳心の舞に心を感じたが、君の舞にはそれを感じられなかった。とても見苦しかったよ」
そう言いながらマジックは高らかに笑った。
あまりの言われようにさすがに紫焔も抑えがきかなくなりすっくと立ち上がった。
「紫焔!」
たしなめる座頭の声も紫焔の耳には届かない。マジックを見下ろしながらその視線で焼き切らんばかりに睨みつけると裾をさばいて踵を返した。
「こ、こら紫焔。どこに行く!」
チョビ髯が腰を浮かせながら呼び止めたが紫焔はすでに襖を開けていた。
「見苦しい役者がいては居心地も悪うございましょう。失礼いたします」
言葉に刺を含みながら鮮やかに笑うと紫焔は勢いよく襖を閉めた。
誰もがその場で固まってしまったように動けなくなっていた。場を和ませる幇間もあんぐりと口を開けていた。
「……芳心! なんだ紫焔のあの態度は!」
「はっ。大変に申し訳…」
「詫びてすむ問題か! お手討ちものだぞ!」
自分の体面に泥を塗られた気分のチョビ髯が丸い顔を真っ赤にして怒りだした。だがマジックは愉快そうに声を上げて笑った。
「はっはっは。いやいや、役者はあれくらいはねっかえりの方がいい」
「しかしですな…」
「ねぇ、芳心」
チョビ髯を半ば無視してマジックは座頭に話しかけた。
「はい」
「君から見て彼はどうなんだい。忌憚のないところを言ってみないか」
「………」
座頭はどうしようか迷っている風だったが、やがてまっすぐにマジックを見ながら言った。
「わたくしの口から申しますのもなんですが、あれはいい役者です。花もありますし、またよく稽古もいたします。しかし…」
「しかし?」
「足りないものが確かにあります。それはもう、貴方さまのお眼鏡どおりでございます」
「ふふっ。そうだろう? それに気がついた時、彼は今よりずっといい役者になっているだろうね」
新たに注がれた杯を見ながらマジックは愉快そうに笑い、そして続く言葉を飲み込むようゆっくりと酒を飲み干した。
「あら、いらっしゃい。先ほどから奥のお座敷でお待ちかねですよ」
自ら暖簾を捲りながら二人を招くと女将は先に立って座敷へと案内した。
賑やかな料亭の中で、ひときわ賑々しい座敷の前に来ると女将は、膝をついて二人に目線で促す。座頭が静かに膝をついたので紫焔もそれにならう。
「失礼いたします。太夫がお着きです」
流れるような仕草で女将が障子を開けると、上座に座ったチョビ髯の男が上機嫌に声を上げる。
「おお、きたか。入れ入れ」
つい先ほどまで楽を奏で舞っていた芸者がわきに控えたので、座頭に続いて座敷に入り丁寧に頭を垂れた。
「本日はお招きにあずかりまして……」
座頭が口上を述べようとするのを遮って、ちょび髭が少々品のない声で笑い飛ばす。
「挨拶はいい。マジック殿、紹介しましょう。これは私が贔屓にしている一座の者で座頭の金澤芳心。隣は花形役者の紫焔」
「金澤芳心(ほうしん)でございます。どうぞご贔屓に」
「金澤紫焔でございます」
一度深く頭を下げて顔を上げると馴染みのチョビ髯の隣に金色の髪をした大柄な男が悠々と座っていた。
男は『異邦人』と呼ぶのにふさわしい容貌の持ち主だった。輝く金色の髪、ガラス玉のように青い瞳、白皙の肌、高く整った鼻梁。肩幅は広く、腕は洋服の上からでもわかるほど逞しい。
物珍しさに紫焔は思わずまじまじと目の前の異人を見ていると、さすがに男の方でも気がついたらしく目があったしまった。叱責されると思い慌てて視線を外そうとしたが、男は思いもよらぬことににっこり笑って器用に片目を瞑って見せた。思いがけないことに面食らっていると、得意満面のチョビ髯が隣の男を紫焔たちに紹介した。
「こちらは英国総領事・マジック卿だ。爵位をお持ちでいらっしゃる」
チョビ髯は大英帝国の貴族と知り合いになれたことがたいそうな自慢らしく、普段からおしゃべりなのがさらに饒舌になっていた。チョビ髯の退屈な自慢話を聞いていると欠伸が出そうだったので、紫焔はとりあえず平伏して嵐が過ぎるのをひたすら待った。
やがておしゃべりに満足したチョビ髯は上機嫌で膝を一つ打った。
「とにかくな、二人ともマジック卿にお近づきの印としてだな、なんぞひとさし舞ってくれ!」
「かしこまりました。それでは『相生獅子』を」
座頭と二人で深く頭を下げながら紫焔は内心で、いい気なもんだ、と舌打ちをした。
自分たちの磨き上げた芸をお座敷芸のように披露させる手合いを紫焔は嫌っていた。そういった連中は「巷で人気の役者でも自分のために芸を披露する」という安っぽい自己の権力を他者に誇示するために舞わせるのだ。
本当に舞を見たいと思っているわけでもないクセに――。
そう毒吐きつつも、顔を上げた時にはうって変わって美しく微笑んでいた。座頭が舞うというものを紫焔が断るわけにはいかないからだ。
紫焔は座頭が脱いだ羽織を受け取って手早く畳んで脇に置くと素早く自分の用意を整えて手をついた。座頭が隣で同じように手をついたのを合図に芸者達がおもむろに楽を始める。
常であればにぎやかしのような楽を奏でる芸者達もこのときは厳かに、だが華やかな楽を奏でる。美しい楽に乗せて絶妙な間合いで顔を上げ、手を翻す。それは麗しい二人の姫の舞であった。
あどけない仕草で蝶を追う、その姿。
秘めた恋を告白しあう、その素振り。
その舞は見るものを魅了する。
夢の世界に誘う、まるで幻のような舞。
紫焔は足を踏み出す時、身を翻す時、様々な場面でちらと周囲を見渡した。
楽を奏でる芸者達はそれぞれ調子を合わせながらもうっとりとした表情で見上げている。
上座ではチョビ髯がだらしなく口をあけて圧倒されているようだった。
あの英国人の客は―――
そう思って視線を流す際に盗み見てみると彼は下座に座った連れらしき金髪の若い男に声をかけていた。
異人の客に舞を見せるのは初めてだったが、どんな客であろうとも紫焔の舞に心動かされないものはいない。おまけに師とも仰ぐ座頭と二人で舞っているのだ。
おおかた賛美の言葉でも並べているに違いない。
そう解釈した紫焔は内心得意満面で舞い踊る。
やがて楽は賑やかに終わりを告げ、夢は現に戻る。
芸者衆のうちの誰かが、ほう、とため息を漏らした。
扇子をたたんで深くお辞儀をすると、客達は惜しみなく拍手をした。中でもチョビ髯のお大尽は特にご満悦で、大仰なほど派手に手を打っている。
「いやいや、さすがだ。素晴らしい! 一献取らせよう。近こう近こう」
すっかりお殿様気分のチョビ髯が朱塗りの銚子を手に手招きする。座頭に続いて愛想よく杯をいただいた紫焔だったが、正直な話うんざりしていた。
「どうでしたかな、二人の舞は。素晴らしかったでしょう」
ご機嫌のチョビ髯が自慢げに声をかけるとマジックは酌を受けながら言った。
「ええ。確かに素晴らしい。とても洗練された舞だ」
「そうでしょうとも!」
「特に芳心。貴方の舞は一流だ。芸術といってもいいだろう。欧州にも貴方ほど完璧にしかも美しく舞う者はそうはいないだろう」
「恐れ多いことでございます」
座頭は照れたように頭を掻きながら惜しみない賞賛を受け入れた。
「だが」
マジックは手の中の杯を飲み干すとおもむろに紫焔を見て微笑みながら言った。
「君の舞には何の感銘も受けないな、紫焔」
マジックの言葉に座が静まり返る。
庭で鹿おどしの澄んだ音がしらけた座敷に響き渡る。
「紫焔。君はまるで飾り立てられただけの人形だね」
「……ずいぶんな言い様をしてくださいますね、マジック様」
にっこりと笑いながら、だが心に冷たいものを含んだ紫焔の言葉にマジックはたじろぎもせず満面に笑みを浮かべる。
「だってそうだろう? 私は芳心の舞に心を感じたが、君の舞にはそれを感じられなかった。とても見苦しかったよ」
そう言いながらマジックは高らかに笑った。
あまりの言われようにさすがに紫焔も抑えがきかなくなりすっくと立ち上がった。
「紫焔!」
たしなめる座頭の声も紫焔の耳には届かない。マジックを見下ろしながらその視線で焼き切らんばかりに睨みつけると裾をさばいて踵を返した。
「こ、こら紫焔。どこに行く!」
チョビ髯が腰を浮かせながら呼び止めたが紫焔はすでに襖を開けていた。
「見苦しい役者がいては居心地も悪うございましょう。失礼いたします」
言葉に刺を含みながら鮮やかに笑うと紫焔は勢いよく襖を閉めた。
誰もがその場で固まってしまったように動けなくなっていた。場を和ませる幇間もあんぐりと口を開けていた。
「……芳心! なんだ紫焔のあの態度は!」
「はっ。大変に申し訳…」
「詫びてすむ問題か! お手討ちものだぞ!」
自分の体面に泥を塗られた気分のチョビ髯が丸い顔を真っ赤にして怒りだした。だがマジックは愉快そうに声を上げて笑った。
「はっはっは。いやいや、役者はあれくらいはねっかえりの方がいい」
「しかしですな…」
「ねぇ、芳心」
チョビ髯を半ば無視してマジックは座頭に話しかけた。
「はい」
「君から見て彼はどうなんだい。忌憚のないところを言ってみないか」
「………」
座頭はどうしようか迷っている風だったが、やがてまっすぐにマジックを見ながら言った。
「わたくしの口から申しますのもなんですが、あれはいい役者です。花もありますし、またよく稽古もいたします。しかし…」
「しかし?」
「足りないものが確かにあります。それはもう、貴方さまのお眼鏡どおりでございます」
「ふふっ。そうだろう? それに気がついた時、彼は今よりずっといい役者になっているだろうね」
新たに注がれた杯を見ながらマジックは愉快そうに笑い、そして続く言葉を飲み込むようゆっくりと酒を飲み干した。
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