町から少しはずれにある小料理屋。使い込んだ暖簾をくぐると町外れにある店にしてはずいぶん繁盛していて、空いている場所はない。客層はといえば職人や小商いをする商人といったごくごく普通の男たちが安い酒と旨い肴で世間話に興じている。
こざっぱりした中年の女将が店に入ってきた客に気安く声をかけた。
「おや、いらっしゃい。お仲間は先に来ていますよ」
「ああ」
客は人好きする笑みを浮かべながら勝手を知り尽くした様子で二階に上がった。そうしていつもの座敷の襖を無造作に開ける。
「よう」
座敷では先に来ていたアラシヤマたちが思い思いに座って酒を酌み交わしている。やっとやってきたシンタローにミヤギが手にした湯飲みを掲げて明るく笑う。
「お。人気随一花形役者のお着きだべ」
「バーカ」
シンタローは少し照れたように笑うと空いている場所に適当に座って湯飲みに酒をなみなみと注いだ。
芝居が跳ねると気の合う若手が集まって反省会と称して飲んだり、時には各々の芸について語り合ったりしているのだ。
シンタローが湯飲みに口をつけようとすると、側に何本も銚子を転がしてご機嫌のコージがからかうようにからんでくる。
「贔屓にお呼ばれして旨い酒をきこめしたんじゃ。安酒じゃ酔えんじゃろ」
「冗談じゃねぇよ」
ぐいと勢いよく飲み干したシンタローは実に苦々しげだった。
「えらいご機嫌ナナメだっちゃ。何があったっちゃ?」
「なに言うてはるん。紫焔は贔屓に呼ばれるたんびに不機嫌でっしゃろ。無理に舞わされたり、お愛敬振り撒いたりは芯から嫌いなお人どすえ」
「今歌右衛門じゃからのぉ」
「そんなんじゃねぇよ」
シンタローはぶすったれて言い捨てると座敷であった一部始終を話して聞かせた。
「人形ねぇ。こりゃ面白い」
コージがいかにも面白そうに喉で笑うとミヤギは憤慨してくってかかった。
「面白くねぇべ! シンタローのどこが人形だっちゃ!」
「そうだっちゃ、えらい侮辱だっちゃ!!」
「まぁ、そんなに目くじら立てるほどのことでもないかもしれまへんえ」
熱くなるミヤギとトットリにアラシヤマは少し冷めた口調で言う。
「贔屓や言うても素人ですやろ。そのお客言うたら尚更どす。素人はんは時によぉわかりもせんのにいろいろいわはるもんどす。わてかていろいろ言われて……。もううんざりですわ」
「そんなふうに言うってことは…なんかあっただか?」
もったいぶった口ぶりにすっかり引っかかったミヤギがずいと身を乗り出す。
「えらい鋭おすなぁ」
イヤミたっぷりのアラシヤマの口調だがミヤギにはまったく通じないらしく謙遜ぶって、いやぁ、などと呟きながら頭を掻く。隣のトットリの方がよほどアラシヤマの言い草に腹を立てているらしく睨みつけるが、アラシヤマは意に介さず自分の荷物をたぐり寄せる。中を探って一冊の本を取り出すとそれを放り出した。
「なんだっちゃ?」
「最近の西洋かぶれと改革流行のせいで、なんもよう知らんお方らがこういうもんを芝居に取り入れるべきやと押し付けてきはるんどす」
「つーことは、次の本だべ?」
「次の次くらいどす。狂言に書き直さなあきまへんし」
「へーぇ」
本となれば俄然興味が湧くのは役者の性。四人は一冊の本を囲んで読んだ。
途中ちょっとした小競り合いをはさんで全編読みきったあと、それぞれがそれぞれに呆れた顔をしていた。
「なんじゃ。こりゃまるっきり妹背山じゃ」
「ああ。少し違うところもあるが、かなり似ているな」
もう一度ぺらぺらと頁を捲りながらシンタローも同意した。
「わても似たようなもんやと思います。けど西洋かぶれの贔屓がどないしてもやれというてきかんのです」
「駆け出しの辛いトコだっちゃ」
「まぁそれをどない粋に見せるかが腕の見せ所どす」
軽口で揶揄するトットリをアラシヤマが睨む。いつもどおり険悪な雰囲気になりかけているところにミヤギが無邪気に割って入った。
「なぁ、せっかくだから役を当ててちょっとやってみるべ。オラこの立役な」
「ほんまにあんさんは東のお人のクセに和事がお得意どすなぁ」
決して褒めたわけではないのだが、やはりミヤギにはまったく効いていないようだ。シンタローから本をひったくって自分の台詞を読み出している。
「わしがやるなら許婚かのぉ」
「じゃあシンタローはお姫様だっちゃ」
「トットリ、お前も名題になったんだからちょっと欲出して役を取っていけよ」
お遊びでも役をとろうとしないトットリに呆れたシンタローが言うがトットリはまったく気にしていないようだ。
「僕はまだ立女方なんて無理だっちゃ。それにシンタローやミヤギくんの後見をするのが楽しんだっちゃ」
「でももう黒衣を着るのはやめろよな」
「わかったっちゃ」
にこにこ笑って答えるがトットリが黒衣を脱ぐ気がないのは誰の目にも明らかだった。
結局トットリはコージと脇を固める役を中心にやることにして、見栄えのいい場を抜き出して芝居を始めた。
酒の席での戯事とはいえそこは役者というもの。芝居となれば熱が入る。もちろんシンタローも同様で自分が与えられた役を熱心に演じた。
恋をする乙女の歓び。不安。哀しみ。
それらを美しく表現しながら、シンタローはどこかぎこちなさを感じていた。シンタローの不自然さは仲間たちにも伝わるらしく、時おり芝居を止めてしまった。
「どうしたんだべ、シンタロー。オメらしくもねぇ。調子悪いんだか?」
「贔屓に言われたこと、気にしてるっちゃ?」
「そんなんじゃねーよ、バーカ」
シンタローは強がって笑_とトットリの頭を軽く小突いた。
「でもまぁ、ちょうど切りもええし、そろそろお開きにしましょか」
「それがいいべ。高鼾のやつもいるし」
見ると床の間の前でコージがだらしなく寝そべって腹を掻きながらいびきを掻いている。
誰がコージを連れて変えるかで一揉めしたあと、結局コージをおいて帰ることで合意をみてそれぞれの家路についた。
よく晴れた夜だ。
街灯の輝く街をはずれ、暗い道を提灯の明かりを頼りに歩く。
月が晧々と輝き、漆黒の空に星々が瞬いている。
小さな橋の真中にさしかかった時、シンタローはふと足を止めた。橋の上から川を覗くと川面で月が揺らめいている。
シンタローは手にした提灯を吹き消して足元に置いた。
軽く目を瞑り、天を仰ぐ。
大きく息を吸った。
少し湿った空気が心地好い。
ゆっくり、ゆっくりと目をあける。
薄雲が紗のように月にかかり、その灯りを柔らかく遮った。
「この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれる、でもなければ、私の頬は娘心の恥ずかしさに真っ赤に染まっているはずですわ」
澱みなく美しい台詞が口をついて出る。
見れば雲はいずこかに去り、月はまた輝きを取り戻していた。
見上げた月が美しい。
シンタローは呟く。
「…オレのどこが人形だっていうんだ……」
シンタローの問いに答えるものはおらず、ただせせらぎだけが聞こえてきた。
こざっぱりした中年の女将が店に入ってきた客に気安く声をかけた。
「おや、いらっしゃい。お仲間は先に来ていますよ」
「ああ」
客は人好きする笑みを浮かべながら勝手を知り尽くした様子で二階に上がった。そうしていつもの座敷の襖を無造作に開ける。
「よう」
座敷では先に来ていたアラシヤマたちが思い思いに座って酒を酌み交わしている。やっとやってきたシンタローにミヤギが手にした湯飲みを掲げて明るく笑う。
「お。人気随一花形役者のお着きだべ」
「バーカ」
シンタローは少し照れたように笑うと空いている場所に適当に座って湯飲みに酒をなみなみと注いだ。
芝居が跳ねると気の合う若手が集まって反省会と称して飲んだり、時には各々の芸について語り合ったりしているのだ。
シンタローが湯飲みに口をつけようとすると、側に何本も銚子を転がしてご機嫌のコージがからかうようにからんでくる。
「贔屓にお呼ばれして旨い酒をきこめしたんじゃ。安酒じゃ酔えんじゃろ」
「冗談じゃねぇよ」
ぐいと勢いよく飲み干したシンタローは実に苦々しげだった。
「えらいご機嫌ナナメだっちゃ。何があったっちゃ?」
「なに言うてはるん。紫焔は贔屓に呼ばれるたんびに不機嫌でっしゃろ。無理に舞わされたり、お愛敬振り撒いたりは芯から嫌いなお人どすえ」
「今歌右衛門じゃからのぉ」
「そんなんじゃねぇよ」
シンタローはぶすったれて言い捨てると座敷であった一部始終を話して聞かせた。
「人形ねぇ。こりゃ面白い」
コージがいかにも面白そうに喉で笑うとミヤギは憤慨してくってかかった。
「面白くねぇべ! シンタローのどこが人形だっちゃ!」
「そうだっちゃ、えらい侮辱だっちゃ!!」
「まぁ、そんなに目くじら立てるほどのことでもないかもしれまへんえ」
熱くなるミヤギとトットリにアラシヤマは少し冷めた口調で言う。
「贔屓や言うても素人ですやろ。そのお客言うたら尚更どす。素人はんは時によぉわかりもせんのにいろいろいわはるもんどす。わてかていろいろ言われて……。もううんざりですわ」
「そんなふうに言うってことは…なんかあっただか?」
もったいぶった口ぶりにすっかり引っかかったミヤギがずいと身を乗り出す。
「えらい鋭おすなぁ」
イヤミたっぷりのアラシヤマの口調だがミヤギにはまったく通じないらしく謙遜ぶって、いやぁ、などと呟きながら頭を掻く。隣のトットリの方がよほどアラシヤマの言い草に腹を立てているらしく睨みつけるが、アラシヤマは意に介さず自分の荷物をたぐり寄せる。中を探って一冊の本を取り出すとそれを放り出した。
「なんだっちゃ?」
「最近の西洋かぶれと改革流行のせいで、なんもよう知らんお方らがこういうもんを芝居に取り入れるべきやと押し付けてきはるんどす」
「つーことは、次の本だべ?」
「次の次くらいどす。狂言に書き直さなあきまへんし」
「へーぇ」
本となれば俄然興味が湧くのは役者の性。四人は一冊の本を囲んで読んだ。
途中ちょっとした小競り合いをはさんで全編読みきったあと、それぞれがそれぞれに呆れた顔をしていた。
「なんじゃ。こりゃまるっきり妹背山じゃ」
「ああ。少し違うところもあるが、かなり似ているな」
もう一度ぺらぺらと頁を捲りながらシンタローも同意した。
「わても似たようなもんやと思います。けど西洋かぶれの贔屓がどないしてもやれというてきかんのです」
「駆け出しの辛いトコだっちゃ」
「まぁそれをどない粋に見せるかが腕の見せ所どす」
軽口で揶揄するトットリをアラシヤマが睨む。いつもどおり険悪な雰囲気になりかけているところにミヤギが無邪気に割って入った。
「なぁ、せっかくだから役を当ててちょっとやってみるべ。オラこの立役な」
「ほんまにあんさんは東のお人のクセに和事がお得意どすなぁ」
決して褒めたわけではないのだが、やはりミヤギにはまったく効いていないようだ。シンタローから本をひったくって自分の台詞を読み出している。
「わしがやるなら許婚かのぉ」
「じゃあシンタローはお姫様だっちゃ」
「トットリ、お前も名題になったんだからちょっと欲出して役を取っていけよ」
お遊びでも役をとろうとしないトットリに呆れたシンタローが言うがトットリはまったく気にしていないようだ。
「僕はまだ立女方なんて無理だっちゃ。それにシンタローやミヤギくんの後見をするのが楽しんだっちゃ」
「でももう黒衣を着るのはやめろよな」
「わかったっちゃ」
にこにこ笑って答えるがトットリが黒衣を脱ぐ気がないのは誰の目にも明らかだった。
結局トットリはコージと脇を固める役を中心にやることにして、見栄えのいい場を抜き出して芝居を始めた。
酒の席での戯事とはいえそこは役者というもの。芝居となれば熱が入る。もちろんシンタローも同様で自分が与えられた役を熱心に演じた。
恋をする乙女の歓び。不安。哀しみ。
それらを美しく表現しながら、シンタローはどこかぎこちなさを感じていた。シンタローの不自然さは仲間たちにも伝わるらしく、時おり芝居を止めてしまった。
「どうしたんだべ、シンタロー。オメらしくもねぇ。調子悪いんだか?」
「贔屓に言われたこと、気にしてるっちゃ?」
「そんなんじゃねーよ、バーカ」
シンタローは強がって笑_とトットリの頭を軽く小突いた。
「でもまぁ、ちょうど切りもええし、そろそろお開きにしましょか」
「それがいいべ。高鼾のやつもいるし」
見ると床の間の前でコージがだらしなく寝そべって腹を掻きながらいびきを掻いている。
誰がコージを連れて変えるかで一揉めしたあと、結局コージをおいて帰ることで合意をみてそれぞれの家路についた。
よく晴れた夜だ。
街灯の輝く街をはずれ、暗い道を提灯の明かりを頼りに歩く。
月が晧々と輝き、漆黒の空に星々が瞬いている。
小さな橋の真中にさしかかった時、シンタローはふと足を止めた。橋の上から川を覗くと川面で月が揺らめいている。
シンタローは手にした提灯を吹き消して足元に置いた。
軽く目を瞑り、天を仰ぐ。
大きく息を吸った。
少し湿った空気が心地好い。
ゆっくり、ゆっくりと目をあける。
薄雲が紗のように月にかかり、その灯りを柔らかく遮った。
「この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれる、でもなければ、私の頬は娘心の恥ずかしさに真っ赤に染まっているはずですわ」
澱みなく美しい台詞が口をついて出る。
見れば雲はいずこかに去り、月はまた輝きを取り戻していた。
見上げた月が美しい。
シンタローは呟く。
「…オレのどこが人形だっていうんだ……」
シンタローの問いに答えるものはおらず、ただせせらぎだけが聞こえてきた。
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