アラシヤマは奉行所を出て、小伝馬町の牢屋敷へと向かっていた。
本銀町のあたりでは、襤褸着を身につけ編み笠にウラジロの葉をさした節季候二人が、家々の前で大いに騒いでいた。
竹製のササラをすり合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら
「エー、せきぞろせきぞろ、さっさござれやさっさござれや」
とがなりたてるもので、銭をもらうまで一向に帰らない。
(五月蝿うおます……)
アラシヤマは、一本筋を変えた本石町に足を向けた。本来なら春の訪れを告げる十二月恒例の一風景であったが、浮かない心持では癇に障った。
ほどなくして小伝馬町牢屋敷に着いた。高い練塀には鉄製の忍返しがつけられ、周囲には6尺ほどの堀がぐるりとめぐらされており、いかにも物々しい。
すでに奉行所から話は伝えられてあったらしく、アラシヤマが名乗ると穿鑿所に通された。
(尾羽打ち枯らした、といった案配どすな。この前は獣みたいやったけどまだ生気がある分マシどしたわ)
部屋の中に座っている痘痕面の男の着物は垢じみ、月代も伸び放題の薄汚れた風体であった。ひどく殴られたようなアザもあり、吉原にてお大尽ともてはやされた面影はもはやどこにも見あたらない。
アラシヤマが部屋に入ると次郎右衛門は平伏したが、
「別に、そないかしこまらんでもよろしおますえ?」
と声を掛けられると、のろのろと顔を上げた。目は目前にいるアラシヤマを捉えている様子はなく虚ろである。しだいに首がうなだれ、下を向いた。
どれほどの時間が経過したものか、穿鑿所の板の間には茜色の西日がじわりと差し込み始めた。
「もうあんたはんに残された時間はそうはおまへん。わてはどうあっても真相を聞きださなあかんのや。…何度でも来ますさかいな」
そう言ってアラシヤマは立ち上がった。
次郎右衛門は、依然としてそのままの姿であった。
(何を聞いてもなしのつぶてどすなぁ……。拷問の方が手っ取り早いんとちがうやろか?いや、やっぱりあれは拷問でどうにかなるものやない。次郎右衛門は生を諦めている)
いよいよ年の暮もさしせまった頃、穿鑿所の玄関を出たアラシヤマは息を吐いた。マジックからいわれたものの、一向に事態が進展する様子はなかった。
表門をくぐると、門番と何やらもめている商人らしい男がいた。地方から出てきたものか、言葉になまりがある。
「どうか、兄に合わせてくださいまし!」
男は必死で門番に取りすがっていたが、とうとう邪険に振り払われた。
(一体何の騒ぎどすの?愁嘆場には関わりとうおまへんなァ)
アラシヤマはなるべく急ぎ足でその場をとおりすぎようとしたが、勢いあまって地面に転がった男は門から出てきたアラシヤマを見ると、跳ね起きて駆け寄った。
「お役人様!お聞きくだされッ!わたくしの兄が花魁殺しで捕まるとは何かの間違いでございます!!」
アラシヤマが振り返ると、顔面に痘痕こそないものの、次郎右衛門に良く似た面相の男が立っていた。
「兄とは佐野屋次郎右衛門のことか?そのもと、次郎右衛門の縁者か?」
「左様でございます……」
男は、大慌てで居住まいを正し、地面に平伏した。
「―――ほなまぁ、十軒店の蕎麦屋ででも話を聞きまひょか。あっ、言っときますけど、勘定は割り勘どすえ?」
京言葉がめずらしかったものか、武士がくだけた口調で話したことに驚いたものか、男は深編み笠を被ったアラシヤマを胡散臭げに見上げた。
正月も明け往来もすっかり通常の賑わいを取り戻した頃、アラシヤマは穿鑿所におもむき次郎右衛門と対面した。
「あけてもめでとうはおまへんやろけど、あんさん、こざっぱりしましたナ」
アラシヤマのいうとおり、次郎右衛門は月代も剃り全体的に身ぎれいな格好をしていた。何より、目に生気が戻っていた。
「ありがとうございます。お役人様におかれましては、よいお年となりますよう」
手をつき、頭を下げた。
しばらく次郎右衛門は迷っている様子であったが、
「……弟に会わせてくだすったり弟にご助言いただきましたのは、お役人様のおはからいでございましょうか」
とアラシヤマにたずねた。
「わての、というわけやおまへんけど。あんたの弟はんはいらちどすなぁ。蕎麦、三口で呑み込みましたえ?」
「弟は昔から落ち着きのない子どもでしたが、今では立派に佐野の炭屋の主人をつとめております」
「佐野の炭屋はあんたはん一代で築き上げたものやそうどすな。やっかみや妬みもそらぎょうさんあるやろけど、土地での評判はええもんやて聞きましたえ?どうして、分別も道理も十分にわきまえたあんさんが、傾城を殺さはったんどすか?」
次郎右衛門は目を閉じ、しばらく考えた末、
「わたしが狂人だから、ということでご納得できませぬか?」
と言った。
「納得できへんナ。アンタは狂うてはいない。自分自身、よう分かってますやろ?」
アラシヤマは、声低く、男を見た。
次郎右衛門は、答えなかった。
朝の間に降った牡丹雪が穿鑿所の屋根に薄く積もっていたが、ようやく雲間から出た日に照らされ、軒先からは雫が数珠球のように連なって落ちている。
穿鑿所の玄関では深編み笠の侍が高下駄を脱いでいた。
「あんたはんの弟どすが、また江戸に出て来てますえ?今度は奉行所に押しかけてきたそうや」
すっかり見慣れた痘痕面の対面に腰を下ろすなりアラシヤマが苦々しげにそう言うと、次郎右衛門は困った表情を浮かべた。
「店の主人が商売を放ったらかして、大丈夫なんどすか?商売はそないに甘いもんやないんとちゃいますの?」
アラシヤマは懐から帳面のような紙の束を取り出し、次郎右衛門の前に投げた。次郎右衛門がアラシヤマを見るとアラシヤマが頷いたので、彼は紙の束を手に取った。
「これは……」
「あんたはんを助けるための嘆願書どす。佐野の連中に頼んで書いてもろうたみたいどすが、あんたはんの死刑は正式に決まったことで、今さらどうにもならんことどす」
次郎右衛門は穴の開くほど嘆願書を見つめていたが、アラシヤマの方へ嘆願書を押しやり、深々と頭を下げた。
「弟がご迷惑をおかけいたしまして、まことに申し訳ございません」
「ほんまどすな」
とは言ったものの、それぎり間が持たず、アラシヤマも困った様子であった。
「まぁ、あんたはんの不細工な面でも髷と会話するよりはマシどすから、体を起こしたらどうどすの?」
次郎右衛門が座りなおすと、アラシヤマは顔を少しゆがめ、
「――そろそろ、梅が咲き始めてますナ」
と、居心地悪そうにいった。
「わたしは佐野の梅しか観たことがございませんが、江戸の梅も綺麗でございますか」
「そうどすなぁ。わては行ったことはおまへんけど、亀戸の梅屋敷の臥龍梅は見事なもんやとさるお人から聞いたことがおます。わては、梅といえばやっぱり京の天神さんどすが」
「そのお方とは、お役人様の想い人でございましょうか?」
「なっ、何でどすかッ?」
「いえ、お顔がお優しかったものですから。……わしも、惚れた女と年毎に咲く花を観とうございました。ですが、うまくいきませぬものですなぁ。こちらが惚れてはいても、向こうがそうとは限らない。当の女は間夫と幸せになることを夢見るばかり。滑稽きわまりない」
次郎右衛門は歯をくいしばってこぶしを握り、項垂れた。しばらくそうしていたが、アラシヤマが、
「――今でも、あんたはん、傾城を恨んではるんどすか?」
と、聞くと、ゆるゆると頭を上げた。
「――おかしいと思われるでしょう。本来なら、女の幸せを願って潔く身を引くのが男の道理。だがわしは、仲間の前で馬鹿にされ、花魁から認めてもらえず悔しかった。あの笑顔がすべて嘘のものだったのかと寂しかった。殺してもいまだに気持ちが治まらない」
アラシヤマは、じっと次郎右衛門を見ていた。
「……わしも花魁のあとを追えばよかったんだろうが、てめえ自身で死ぬ意気地もない。怖いんです」
次郎右衛門は目から溢れる涙を拭おうともしなかった。水滴が海老茶色の着物地にしたたり落ち、じわじわと暗褐色の染みが布の上に不規則な輪を広げた。
「お役人様は、わしが狂うてはいないといわっしゃったが、それは違う。わしは、」
「身勝手なもんやな」
相手の言葉を断ち切るようにそう断言すると、アラシヤマは次郎右衛門から目をそらした。
「……俺は同情はできへん。けど、あんたのいうことが一寸だけ分かる。あんた、どえらい阿呆どすえ」
逡巡の末、
「別に、その傾城をずっと憎んでてもかまいまへんやろ?幸せになって見返してやったらよかったんどす。教えるつもりはなかったんやけど、九重という傾城は、本気であんたはんに惚れてはったみたいどしたえ?」
と、アラシヤマはいった。
「九重さんが……」
次郎右衛門は目蓋の腫れあがった目をみはった。
「そうどす。でも無駄なんでっしゃろ?」
ぐしゃり、と、次郎右衛門の顔がゆがんだ。
「―――お役人様、九重さんが綺麗で誠のあるお方だということは身にしみてわかっております。ですが、わしが惚れていたのは、八橋だけでございます」
「ああ、やっぱり阿呆や。……わても、全然人のことは言えへんけどナ」
アラシヤマが疲れたようにそう云うと、
「八橋……!」
次郎右衛門は、声をあげて哭いた。
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