静まり返った室内に響くのは、一つだけともされた行灯の傍で紙を手繰る乾いた音のみであった。行灯の灯りはマジックの周りを照らすのみで、数尺も離れれば墨を流したかのように昏い。
したためられた文字をすべて読み終わったのか、帳面を閉じたマジックは相対する闇に向かって声を掛けた。
「これが、お前の報告かね」
「……そうどす」
と、闇の中、気配が動いた。
「理由は花魁への怨憎による殺人、使用された刀は備前三郎国光の業物であり、百姓身分出身ながら生来剣術を好んでいた下手人次郎右衛門が懇意の浪人都築武助から譲り受けたものである、と」
「何か、不審な点がおますか?」
「不審なところはないよ。確かにあの刀は備前国光だしね。――ただ、お前は次郎右衛門が剣術を嗜んではいないと見立てたはずではなかったか?」
「わての勘違い、どしたら?」
相手の様子を探るような物問に、マジックは腕を組み、闇を見据えた。
「一体、何が云いたい?……これは何の筋書きだ?」
静かな声音に、闇の中の気配は少し乱れたがすぐに治まった。
「……次郎右衛門の太刀筋は、怨みが強すぎたあまりあのような素人離れしたものとあいなったかと思われます。御奉行様、何とぞ、次郎右衛門の刑を獄門ではなく下手人としてはいただけませぬか?」
と、絞り出すような声が聞こえた。
「刑を下手人とするよんどころない事情とは、報告書に書いてあったいきさつか?」
「左様でござります。万一、刑の変更の事由を問われました際には、刀は備前国光ではなく天下に仇なす妖刀村正であった、次郎右衛門はその魔力に惑わされ今回の事件を引き起こしたと……。どれほど馬鹿馬鹿しい筋であっても、公儀と関わること。それ以上追求はされへんはずどす」
「獄門は、変えられない」
マジックははっきりとそう告げた。
「なんでどすかッツ!!獄門にしろ下手人にしろ、どちらにしろ次郎右衛門が死ぬことには変わりはないんどすえ!?同じ死ぬんやったら、これ以上人前にさらして恥辱を与えんでも充分ですやろ!?」
ほんの一瞬、殺気が走ったが、マジックは動じなかった。
「――次郎右衛門は、何の罪もない下女をも斬った。次郎右衛門と同様、下女にも家族がいたであろう。お前も重々分かっているとは思うが、償いとはそう簡単なものではないんだよ」
応ずる声はなかった。
「ただね、お前やトットリからの報告から考えると、次郎右衛門は斟酌されるべきところもある。獄門には変わりはないが市中引き回しはやめておこう。ただし、千住に首はさらすよ」
「――御厚情ありがとうございます」
そろそろ行灯のろうそくも燃え尽きかけているのか濃度が増した闇の中、低く声がした。
しばらくのち、室内は完全に闇になった。
呆れた様子でもからかう様子でもなく、
「それにしても、お前は少し変わったね。でも、情というものはそう悪いものでもないよ」
マジックはそう呟いて部屋を退出した。
ずいぶんと時が経ってから、
「……別に、情にほだされたわけやおまへん。ただ、とんでもない阿呆やとあきれかえっただけどす」
部屋に取り残された闇が、ポツリと言葉を発した。
「――今日で、わてがあんたはんの不細工な面を見るのも最後どす」
穿鑿所の床に座ったアラシヤマがそう云うと、次郎右衛門は深々と頭を下げた。
「そないにかしこまらんでもええわ」
そう声をかけても、次郎右衛門はこれまで同様いっこうに体を起こさないのでアラシヤマは溜め息を吐いた。
「――お役人様、今までわしにご親切にしてくださりまして本当にありがとうございました」
「別に、礼を言われるような筋合いはおまへんし、頭をあげなはれ」
そう言うと、次郎右衛門は真面目な顔で体を起こした。
「あんさん、顔色が尋常やおまへんけど、やっぱり死刑のことが心配どすか?一応、死ぬ前にさらしもんにはなりまへんからナ」
次郎衛門はくしゃりと顔を泣きそうに歪ませた。
「――御温情、いたみいります」
「何やまだ言いたいことがあるんとちゃいますの?この際、言わはったらどうどす?」
去り際、アラシヤマがそう声を掛けると、次郎右衛門は躊躇したが、
「――夢を、見るんです」
と、おずおずと言葉を口にした。
「夢どすか?」
「はい。わしが殺した下女や迷惑をかけたお方々が、恐ろしい顔で毎夜わしを責め立てにまいります。ですが、八橋だけは、わしの夢には現れない」
次郎右衛門は憔悴した痘痕面に、笑顔を浮かべ、
「恐ろしい夢でも幽霊でもいい、死ぬ前にもう一度、八橋に会いたかったナァ」
といった。
アラシヤマが小伝馬町の牢屋敷を出たころ、時刻は宵五つを過ぎており、あたりはすでに暗かった。
(なんや、えろうすっきりしまへんなぁ……。後味が悪い、とはこんな感じでっしゃろか)
うつむき加減にアラシヤマはのろのろと本石町を歩いていたが、いつしか川辺に出た。
立春はすでに過ぎているとはいえ寒い夜半、御堀の周りに涼みに出ようとする酔狂者などいるはずもなく、先ほどからすれ違う人影も見当たらなかった。
暗い川沿いを南へと進むと、香ばしいにおいが風に乗って漂ってきたので、アラシヤマは自分が空腹であることにはじめて気づいた。
(日本橋で、何か食うて帰ってもよろしおすな)
顔を上げると、一石橋かと思われる方向に明かりが見えた。
近づいてみれば、よしずを立て巡らせた簡素な居酒屋のようである。少し焦げたような香ばしいにおいはいよいよ強くなり、どうやら何か焼物を食わせる店らしい。
(面倒どすし、ここでええわ)
と、よしず張りの入り口を一歩入ると、若い男客が一人縁台に腰かけ、熱燗をのんでいるようであった。
アラシヤマは何の気なしにそちらに目をやると、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
よくよく見知った、人物であった。
「し、シンタローはん……」
思わずしゃがれた声でそう呼ぶと、長い黒髪を一つに括った青年も顔を上げた。
不審そうに深編み笠を被ったアラシヤマを見た後、
「なんだ、テメェか」
と言った。
「なに食べてはんの?」
ちゃっかりとシンタローの隣に腰かけたアラシヤマがそう聞くと、
「田楽」
と、ことば短かにシンタローは答えた。
「美味そうどすな。ほな、わてもそれにしよ」
油紙を揉んだかのようなしわくちゃ面の親仁にアラシヤマが田楽を注文すると、ほどなくして大ぶりの豆腐と蒟蒻にそれぞれ青竹の串を二本ずつ刺し、味噌を塗って焼いたものが出てきた。味噌には擂った柚子の皮が練りこんであり、口中に柚子のさっぱりとした風味の広がる田楽は、店の親仁が一工夫こらしたものらしい。
どちらから話し出すというわけでもなく、シンタローは黙って燗酒を飲み、黙々とアラシヤマは田楽をほおばっていたが、シンタローはいつもと違って軽口をたたかないアラシヤマを不審に思ったらしく、
「なんかオマエ、いつもにもまして陰気だナ」
といった。
アラシヤマは串を置いた。
「あの、シンタローはん。遅うなりましたが、明けましておめでとうございます。今年は新年の挨拶周りにも行けへんでまことにすみまへん。もちろん、今年もよろしゅうお願いしますえ」
「明けましてもなにも、今は如月じゃねーか」
「あっ、もしかして、あんさん寂しゅうおましたか??」
「いや、全然。つーか、鬱陶しいテメーの面を見なくてすんで、むしろ清々しい正月だったけど?」
「はぁ、そうなんどすか…」
いつものように騒ぐわけでもなく、アラシヤマは一瞬苦く笑んだだけで、ふたたび無言で豆腐の田楽を食べ始めた。
「……あの、もしあんさんやったら、自分の嫌いな相手のとこへは例え夢にでも出とうない、って思いますか?」
と、アラシヤマは茶が半分ほどになった湯飲みを置き、口を開いた。
(さっきから何なんだ、コイツ!?)
シンタローはそう思ったが、アラシヤマはひたすら答えを待っているようである。
仕方なしに、
「――どんだけソイツを嫌ってよーが、夢は見る側の勝手で、俺がどうこうできるモンでもねぇダロ?まぁ、ムカつくかもしんねーけど」
と、云うと
「――ああ、あんさんの云わはるとおりどすナ」
そう、アラシヤマは呟いた。
ふと、シンタローは隣に座っている男が自分の知るアラシヤマとは全く別の人間のような気がした。酒のせいかと思いつつ、確かめるようにアラシヤマの方を見ると、
「……シンタローはんが、潤んだ目でわてのことを見つめてはる~vvv」
と、しまりのない笑顔で嬉しそうにアラシヤマが言ったので、気のせいだとシンタローは了解した。
自分はシンタローに会えなくてものすごく寂しかったなどと調子にのった様子で力説するアラシヤマを見ていると、
(すげー、ムカつく)
と、だんだん腹が立ってきたので、シンタローはアラシヤマを殴ろうかと思ったが、狭い店の中では迷惑がかかるかと思い直し、
「あっ、何しはるんどすかッ!?シンタローはん!」
アラシヤマがどうやら手をつけずにとっておいたらしい、豆腐の田楽を皿からとって頬張った。
「それ、わての……。わざわざ楽しみにとっといたんどすえ??」
なんだか非常に情けなさそうに肩を落として言うアラシヤマを見て、シンタローは少しは溜飲が下がる思いがした。
「バーカ!油断する方がわりぃーんだヨ!」
笑いながらシンタローがそういうと、
「まったく、あんさんには敵いまへん」
アラシヤマもつられて苦笑した。
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