深編笠をかぶった浪人風の男と、菅笠をかぶった武家風の男が鳥越橋を渡っていた。
橋の上には歳の市へ向かう老若男女や今から帰ろうと家路を急ぐ連中がひしめき、人の頭が連なって黒い波を作っていた。めいめい買い求めた荷物を胸に抱えたり背負ったりしており、うかうかしていると、あっという間に人波に呑まれて行方がしれなくなるような混雑振りであった。
深編笠は特に菅笠を気遣う様子も見せず、どういった術なのかさっさと人込みの中を歩いていくので、それを追いかける菅笠の方はたまったものではなかった。
人の波にもまれながら路なりに北へと向かうと、壮麗な風雷神門が姿を現す。普段は夕刻になると閉ざされるが、歳の市の日だけは一晩中開いていた。
蓑市が開催される日には門前に仮小屋が立ち並び、田舎から出てきた百姓達が蓑や笠を所狭しと並べて売っている。
深編笠はある店の前でようやく立ち止まって振り返ると、
「ちょうどええわ。あんさん、深編笠を買いなはれ。わてについてくるつもりやったら、顔は極力見られへんようにしておくれやす」
そう、菅笠をかぶったミヤギに言葉をかけた。
特に欲しいとも思わなかったが、ミヤギは仕方なく店の親父から真新しい深編笠を購入した。
風雷神門から境内に入り、アラシヤマは人込みでごった返す中を時間をかけてくまなく一巡した後、浅草寺を出て山之宿町の茶店の床机に腰掛けたので、ミヤギはやっと休めると安堵の息をついた。
「オラ、一度は浅草寺に来てみたかったんだけんども……」
茶を一口飲むと、ミヤギは苦虫を噛み潰したような顔をした。茶が渋かったというわけではないらしく、アラシヤマは平気な顔をして飲んでいた。
「ほな、念願が叶ってようおましたな」
「何もわざわざこの人の多いクソ寒い時季に、しかも根暗男とは来たくはなかったべ。オラが一緒にきたかったのは可愛い女の子だべ!なんつーか骨折り損のくたびれもうけだっぺ……」
「嫌やったら、帰らはったらどうどすか?」
「えっ、いいんだべか!?」
ミヤギが急に明るい顔になって身を乗り出してきたのを目を眇めて眺めつつ、アラシヤマは、
「あんさんなァ、暢気すぎるんちゃいますの?……あの煮ても焼いても食えへん奉行の性格からして、単純に八つ当たりだけや思います?甘うおす。おそらく、帰ったらわてのやり方や市の様子、兇状持ちが紛れてへんかったか、何か気づいたことはなかったか等々、一通りのことは絶対聞かれますえ?一種の試験どす」
そう、淡々と言った。
「ええっ!?試験なんて全然聞いてねぇべー!?もしかして、冗談だべか??おめさ、性格が悪いからオラをだますつもりだべ!!」
「わざわざ頭の悪いあんさんに親切にも教えてあげましたのに、何どすかその態度は?頭が痛うなってきましたわ……。わては、暮六つからもう一度見廻りに行く。あんたはんは、自由にしはったらええ」
ミヤギはしばらく考え込んでいたが、アラシヤマの言葉に反駁する証拠を考えつかなかったらしく、
「……オラも一緒に行ぐしかねぇべさ」
と泣きそうな表情になって言った。そして、やけになったのか湯飲みに残っていた茶を一気に飲み干した。
「あーあ、浅草の観音さまが助けてくれねーがなぁ……」
「そら、間違いなく助けてくれまへんやろ。神仏に頼らず自分で何とかしはったらどうどす?あんさん、つくづく阿呆どすな」
「――つくづく、オメさは嫌な奴だべ。それにしても暮六つまで退屈だっぺ」
「大体、いつも見廻りはこんなもんどす」
アラシヤマは茶をすすった。
ミヤギは懐から、真新しい切絵図を取り出し眺めていたが、
「アラシヤマ、大変だべ!浅草って、吉原にこげに近ぇんだべか!?」
何やら発見したらしく、驚いたように言った。
「……当たり前でっしゃろ?今まであんさん一体どこや思うてはったんどすか」
「じゃあ、今から時間までちょっくら見物に行ってみんべ!?オラ、有名な吉原にも一度は行ってみたかったんだ!!」
「――そんな金も持ち合わせてまへんし、真昼間っから花街に行く暇人も中々おらんと思いますけどナ。しかも、今は任務中どすえ?」
「そんなこと言われなくても分かってるべ!何も客になって遊ぶというわけでねぇし、外からちょっと花魁を見るだけだから別にいいっぺ?そうと決まったら出発だべさ!」
何やら急に元気になって茶代を支払っているミヤギを見て、
「これやから、田舎もんは……」
アラシヤマは、かぶりなおした編笠の内で舌打ちした。
女は、静々と廊下を歩んでいた。
久方ぶりに万字屋へ顔を出した男との再会場面を思い返し、密かに安堵の息をもらした。
何も、男に嫌悪の気持ちを抱いていたわけではない。いい人、だとは思っていた。しかし、それ以上の気持ちにはなれなかった。
自分の愛想尽かしによって、下手をすると男は川に身投げでもするのではないかという不安が彼女の胸中を去来しここ数日は気持ちが晴れなかったが、先程訪ねてきた男ははさっぱりとした態度で彼女の仕打ちを恨みに思っていないことを告げた。
彼女は、男の取った態度を実に立派だと思った。
愛情が湧いてくるわけではなかったが、尊敬に似た気持ちを田舎くさいが誠実な目の前の男に抱いた。
恩のある男に対し酷い仕打ちをした自分を心から悔やみ、
「次郎右衛門さん、わっちを許しておくんなんし……」
白い指先を揃え、女は頭を下げた。
男は慌てたように、手を振った。
「花魁、顔をあげておくれよ。許すも何も、そうまでされてはわしの立つ瀬がない」
女が面を上げると、男は彼女を励ますように頷いた。
「わしは、江戸での商売をひきあげることになったんだ。もう吉原に来ることはないだろう。一度あんたにあげたものだ、身請け金は一切返さなくてもいい。花魁に差し上げましょう。惚れた男と幸せになるも花魁の自由。しかし後生だ、花魁。国許に帰る前に余人を交えず二人だけでわしと少し話をしてはくれますまいか」
彼女が頷くと、男は嬉しそうな笑顔になり、
「蔦屋で、待っていますよ」
と言って腰を上げた。
供の新造や禿達と別れ、女が襖を開けると男はすでに膳の前でかしこまって座っていた。
女を見て微笑み、
「ああ、やっぱり花魁は花のようだなぁ……。佐野で一番綺麗に咲いていた牡丹に似ている」
と、呟いた。
「次郎右衛門さん」
女が少し困ったように男を呼ぶと、
「花魁、」
男は膳の上の杯を取り上げ、
「この世の別れだ、飲んでくりゃれ」
杯を差し出した。
女が目を瞠り、動けないままで居ると、男は醜く顔を歪め、
「――恨みに、思っていないとでも思うたか?」
畳の上に杯を置き、押しつぶしたような声で言った。
「男一度は伊勢と吉原!やっぱり、観音様より生き弁天様だべなぁ!」
見返り柳を左に曲がり、衣紋坂を下りながらミヤギは上機嫌であった。
「弁天いうよりも、居るんは海千山千ばかりでっしゃろ?どちらかといえば化け物の一種どす」
「……おめさ、そげなことばかり言ってると、全っ然!女にもてねーべ?」
「余計なお世話どす。別にわては、もてたいとも思いまへんしナ!」
「あっ、今のって絶対負け惜しみだっぺー!顔よし性格よしで非の打ち所のない色男なオラにおめさが嫉妬する気持ちはよーく分かるけんども、もてないのは事実だから仕方ないべ!」
「取りえが顔だけで頭に石が詰まったような阿呆よりは、格段にマシなつもりどすけど?」
険のある声で皮肉っぽくアラシヤマは言ったが、
「あーあ、細見を持ってくればよかったなァ」
浮かれた様子で歩を進めるミヤギは、一向にどこ吹く風といった様子であった。
いよいよ大門が見えてきたが、何やら悲鳴やら怒号が聞こえ、尋常な様子ではない。
ミヤギは真顔になり、
「何だか、変でねぇべか?」
と、言った。
左手の番所には常に同心や岡引が詰めているはずであったが、二人が立ち寄ると皆出払っていた。
昼間ということで人通りの少ない仲之町の大通りをアラシヤマとミヤギが駆けぬけると、騒ぎの元は揚屋町の辺りであるようであった。店の前には数十人の野次馬が群がり、一様に首仰向け、事態の成り行きを見守っていた。
天水桶が並ぶ屋根の上に、刀を握った男が一人、それに5間ほどの間合いを取って揚屋の若い衆や同心、岡引が対峙していた。何かに憑かれたような目の色をした男は、尋常な様子ではない。
男の暗色の着物には大量の血が付着して染みになっており、追っ手が近づこうとすると次の屋根に飛び移ってしまう。
「乱心者やろか。どうも埒があかへんみたいどすな」
「大変そうだべなァ。よし、オラたちも手伝うべ!」
「何言ってはるんや、目立つ行動は極力控えるべきどす」
男を捕らえようと近づいた岡引らしき男が刀で腕を傷つけられ、物干し台に落ちた。
下で見ていた野次馬たちが、口々に恐怖と安堵の混じりあったような悲鳴を上げる。
上方の騒ぎを見上げながら、ミヤギはこぶしを握りこんだ。
「――オラは行く」
「あんさん、そこまで軽率やて思いまへんどしたわ」
「別に、アラシヤマは来なくていいべ!」
そう言うとミヤギは被っていた深編笠を投げ捨て、目前の揚屋に駆け込んだ。階段を駆け上がり、窓から屋根の上によじ登った。
「オラは町奉行所の同心、ミヤギだ。この騒ぎは一体どうしたべ?」
中年の浅黒い顔をした同心は捕物術の稽古場で時々顔を合わす程度の間柄であり、話したことはない。しかし、ミヤギを見て彼の顔には明らかに安堵が広がった。
「ああ、ミヤギどのでございますな。どうやら女郎屋の客が乱心したようで、花魁と下女を斬り殺したんです」
「わかった」
ミヤギは、息を一つ吸うと、
「おめさ、どうしたんだべ」
と、血のついた刀を持つ男に声をかけた。
男は刀を構え、瓦の上をじりじりと後退って間合いをとっている。
「話さ聞いてやっから、まずはその刀を離さねぇべか?そげなものを振り回してたら危ないべ」
男の顔に、一瞬逡巡が走った。
しかし、次の瞬間、獣のような雄叫びをあげ、ミヤギめがけて突進してきた。
(コイツ、剣術は素人だべ。でも破れかぶれになってっから気をつけねぇと)
ミヤギは後ろ腰に差していた十手を引き抜いた。
男は、胸を狙った突きを凄まじい速さで打ち込んできた。十手の先端を軽く右に傾け待ち受けていたミヤギは上体を左下に沈めてかわし、刀身にすべらせた十手の鉄鉤で鍔元をひねり上げた。
一瞬、男と目が合った。男が、
「殺してくれ」
そう言ったような気がしたが、
「そういうわけにもいかねぇべ」
と、右手と柄を一緒に掴み、いったん外した十手で左手を突いた。
たまらず、左手を離した男の右手を片手で捻り上げたミヤギは男の両足首を打ち払った。
刀から手を離した男は、屋根の上にいきおいよく叩きつけられた。そして、傾斜した屋根の上を転がり落ちていった。
ミヤギの手の中には、血に塗れた刀が一振り、残った。
「しまった、ここは屋根の上だったべ!」
十手を仕舞い、空いた手でガリガリと頭を掻くと、端のほうで固唾を呑んで見守っていた同心たちのもとへと戻った。
一方、屋根の上から転げた男は、桜が植えられている植え込みに落ちた。
見物人たちはおそるおそるその様子を見守っていたが、不意に男がよろめきながら立ち上がると、蜘蛛の子を散らすよう、散り散りに逃げた。
ただ一人その場に立ったままその様子を見ていたアラシヤマは、
(あほらしいぐらい、頑丈なもんやな)
と呆れたが、周りに誰もいないのを見て取ると溜息ひとつ、捕縄を手に持った。
男はまだ、足取りもおぼつかないままと大門の方へ逃げようとしている。
アラシヤマは男の前に回りこむと、男の横っ面を殴り、糸が切れたように膝をついた男を数秒も要さず縛り上げた。
「下手人は!?」
息をせききって、ミヤギと同心、揚屋の若い衆連中が駆けてきた。
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