丑の刻、山王大権現の稲荷坂を登る人影があった。どうやら女のようであり、白い着物の背にざんばらの黒髪がうねっている。
このような夜半に女一人、というのもあやしかったが、その様態はさらに尋常ではない。頭には金輪をかぶり、金輪から突き出た三本のあしにはそれぞれ蝋燭が燃えながら突き立っていた。
三本の蝋燭が闇をわずかではあるが照らし、鳥居やのぼりがぼんやりと朱に浮かび上がった。女は高下駄で石段を踏みしめながら一歩一歩確実に上へ上へと登っていく。
境内につくと、楠の大木が三本寄りそうように並び、森のような空間をつくりだしていた。
女は唇にくわえた五寸釘を手にもちかえ、木の幹に這わした藁人形の腹ににじり刺した。
金槌を持った手を振りあげ、藁人形めがけておもいきり打ちおろす。金属同士の打ち合わされる高い音が、じっとりと暑い空気を震わせた。
女は飽くことなくその行為をつづけている。そのうち、白い額に汗の玉がふつふつと浮かび上がった。
「悔しい。お仙め…!播磨様が妾をうとんじておるなどと親切ごかしに言いよって。きさまの魂胆など見え透いておる。播磨様に取りいり、ゆくゆくは妻の座にすわろうなぞとたくらんでおるのであろう。播磨様も播磨様じゃ。一生に一度の恋と誓いおうた仲であるのに、お仙のような輩の讒言を信じて奥様や兵太郎坊ちゃまがお亡くなりになったことも妾の仕業だと思うておられるのか?ああ、憎い。憎くてたまらぬ」
口からは、自然と呪詛のことばがころがりおちる。これ以上ない、というほどに釘が藁人形を神木に留めつけた時、女は金槌を取り落とし、
「なにとぞ、なにとぞ…」
と必死で手を合わせ、何かを願った。彼女が俯いた拍子にぽたぽたと蝋が白装束の腕に垂れ落ちた。
「憎い相手に死を与えたまえ、どすか?」
いきなり、稲荷社のある方向から男の声がした。何か面白がるような調子であった。
「………貴方はどなた様でございますか」
女は、用心しいしい訊いた。
「わて?ああ、安心しておくんなはれ。神とか狐狸とかそないにけったいなもんやおまへん。この辺は蚊ぁがようけおってかなんわ」
「………」
舌打ちと、手で何かを叩くような音が聞こえた。
「おなごの恨みは怖うおますなぁ。ま、わてに見られたからにはあんたはんの呪いはもうききまへんな。残念どすが、丑の刻参りとはそういうもんや」
ああ、もうえらいうっといわと、声が上がった。社の方角から、炎でできた蝶がゆっくりと羽をはためかせ、夜空へと舞い上がった。どうやら無目的というわけではなく、羽虫を追っているようであった。
女の前に羽虫が逃げてきたが、ついに蝶は長い足で虫を捕らえ、相手を燃やし尽くした瞬間、かき消えた。
「―――そやなぁ、本気で殺しとうおましたら、わてが肩代わりしたってもよろしおますえ?」
突然、男の声がした。蝶に見いっていた女は肩を揺らした。
「本当でございますか?」
「ただし、代金さえ払えれば、どすけど。高うおますえ?」
からかうような調子で、いかにも面白そうに男は低く笑っていた。
「播磨様は…」
女は、眉をひそめた。
「男を盗った女は憎いが、自分を裏切った男はまだ可愛い、というわけどすか?どこのお女中か知らへんけど、その程度の煮えきらん覚悟やったらせんない望みは持たへんことやナ」
はよ帰り、と間近で囁かれた気がしたが、夢か現か分からなかった。女はその場に呆然と立ち尽くしていた。
「お菊、家重代の宝である高麗皿を、わざと割ったと申すか?」
青ざめた顔色をした年のころ二十歳をいくつか過ぎたほどの若い武士が、縁側にひれ伏す女を見下ろしていた。
「はい、おっしゃる通りでござりまする」
女の小さい身体は細かく震えている。まだ少女の面影を残した女はいかにも頼りなげで哀れな様子であった。武士は寄せていた眉根をほどき、ふと、表情を和らげた。
「手打ちに逢うても是非の無い大切の皿と知っていて、むざむざ割るとも思われぬ。何か仔細があるのであろう。そちは長年わしによく仕えてくれた、場合によっては許してつかわそう。申せ」
「殿様のお心を疑いましたのでござりまする」
「わが心を疑うたと?皿が大事か、そちが大事か、この播磨を試したというのか?」
武士は、伏せたままのお菊の襟髪をつかんで庭に突き落とした。
「はい。お仙どのから、奥様や兵太郎様がお亡くなりになられた高熱の病をわたくしが毒を盛ってのことと殿様がお疑いと聞ききまして、播磨様の本当のお心が知りとうござりました。毒を盛ったなど、事実無根でございます」
「浅はかな……。そちが毒を盛ってはおらぬことなど承知しておる」
「どうか、おゆるしくださりませ」
「いいや、許せぬ。皿が惜しいのではない」
そう云うと、武士は箱に入っていた四枚の皿を庭の踏み石に叩きつけた。
「あくまで他人に罪をなすりつけようというそちの心根と、わしを疑った罪を許すことはできぬ」
お菊は、吃と顔をあげ、播磨を見据えた。
「やはり、殿様はお仙に誑かされておられるのでござります。このまま後添えにお仙を迎えるつもりでございましょう?わたくしはともかく、浄土の奥様や兵太郎様へはどうお顔向けなさるおつもりでござりまするか?」
武士の顔色は青から朱へと刷毛で塗ったように変わった。
「どこまで疑り深い女じゃ。そちの顔なぞみとうもない、手打ちにしてくれる。覚悟して、そこへ直れ!」
「―――これが、わが一生の恋と定めたお方か。なんとも情けない」
「愚弄するかッツ!」
武士は、女を一刀に肩先より切り倒した。
先ほど駆けつけたものの、青い顔で固唾を呑んでなりゆきを見守っていた中間に武士は気づき、
「權次、ぼんやりと観ておらずに、女の死骸を井戸へ投げ捨てい」
と言い放った。
明け六つの頃、のどかな朝景色の静寂をやぶってあたりには瀬戸物が割れるような甲高い音と、引き続き怒号が響いた。
ススキなどの草原がえんえんと広がる小石川の風景のなか、まばらな林に囲まれて粗末な一軒家が立っていた。板で葺かれた屋根のうえには草がはえ、建物も長年の風雨に傷んだ様子である。家の前には片隅に茄子や葱を植えた庭があり、物干し竿には洗濯物がはためいていた。
しばらくすると、家の中からは黒髪を元結で一つにゆわえた若者が肩を怒らせて出てきた。そのまま彼は東へと道を歩み、ついには見えなくなった。
「シンタロー、何だこのメシは?」
畳に置かれた膳の上を見て、三白眼の子どもは向かいに座っていた青年をにらんだ。
子どもの隣に座った犬も
「くぅ~ん……」
と、非難の眼差しでシンタローと呼ばれた青年を見た。彼は味噌汁椀を膳の上に置くと、ため息をつき、
「あのな、パプワ、チャッピー。ウチにはとにかく金がねーんだ!」
そうきっぱりと言い切ると黙々と食事に戻った。そうは言われても、子どもは納得がいかないらしかった。
「育ちざかりの子どもにこんな栄養価の低いものを食わせるつもりか?」
「わうっ!わうッ!!」
「子どもは文句をいわずにとっとと食いなさい!って、さっきからドンブリ飯10杯も食らいやがって…」
「シンタロー、おまえ、自分の立場というものがわかっとらんよーだな…」
子どもは空になった膳を思いっきりひっくり返すと、
「チャッピー、エサ!」
青年を指差した。犬は座っている青年に飛びつき、鋭い歯でガブリと腕を噛んだ。
「だぁーッツ!」
と、青年は立ち上がると腕にくらいついている犬を思いっきり引きはがし、放り投げた。犬は数回転して土間に着地するとすぐに戻ってきた。
「あのなぁッ…!!!」
ひとつ息を吸い込み、青年が怒鳴ろうとした瞬間、不意に辺りの気温が数度下がり北側の壁から桃色の殻がめだつ巨大な蝸牛と、それと同じぐらいの大きさの紅色の鯛が現れた。鯛にはすね毛つきの足が生えている。
「待って!シンタローさんッ!パプワくんの言うことも一理あるわッ!」
「そうよっ!子どもには豊かな食生活が必要なのよっ!」
「さっさと帰れ、妖怪どもッツ!!」
じろり、と二匹を睨むと青年は自分の方へと勢いよく近寄ってきた鯛と蝸牛を足蹴にして座った。二匹は土壁に激突するかと思われたが、体が半分壁をすり抜けただけで特に怪我は負っていないらしかった。
「シンタローさん、相変わらず格好いいけど冷たいわねぇ………」
「馬鹿ねー、タンノちゃん。そういうところも素敵なんじゃないのォvvv」
「そうね!イトウちゃんvvvあ、シンタローさん。私たちも朝ごはんをいただくわv」
勝手知ったる様子で鯛と蝸牛はいそいそと土間の方へ降り、味噌汁の入った鉄なべと釜を宙に浮かせながら戻ってきた。
「あら?このお味噌汁、味が薄いわ。もうちょっとしょっぱいほうが好みなのに」
「このご飯もかなり粟が混じっているわネ」
「―――きさまら、好き勝手言いやがって……。なら、食うなッツ!!そもそもテメーら妖怪で飯を食う必要なんてねーダロ!?大飯ぐらいがいる上にバクバク食われちゃこちとらたまんねーんだよッツ!!」
青年は、目の前の膳を思いっきりひっくり返した。
「男のヒステリーは格好悪いゾ」
「わう」
「私たち、シンタローさんが大好きだから手料理を食べたいのよ」
「そうそう」
無言のまま青年は立ち上がり土間へと向かうと上がり口に腰かけ、草履を履いた。
「あっ、シンタローさんどこへ行くのッ!?」
振り返りもせずに出て行った彼に、蝸牛が呼びかけたところ、
「うるせえ!バイトだッツ!!」
という怒鳴り声が飛んできた。
たまに牛馬をともなった百姓とすれ違うぐらいのもので、人通りがほとんどみられない小石川から東行するにつれ、家並みが続きよく人も往来するようになった。
シンタローは神田川沿いを歩んでいたが、日本橋に近づくにつれ川の上にも江戸湾から揚げられた魚や各地から集められた米俵などを積んだ船がさかんに行き来している。
川沿いから一歩日本橋の市街に入ると、板ぶきやこけらぶき屋根の厨子二階の町家がひしめいてた。道はそう広くはないが、使いにいそぐ飛脚が地面の砂ぼこりを舞い上げて走り、勧進聖のむれが家々の戸口で鉦をたたきつつ勧進帳を大声でよみあげて喜捨を乞う。被衣を頭からかぶった女達は真剣に傀儡師のあやつる人形芝居にみいっていた。まことにそうぞうしく、活気にあふれた様子であった。
いくつか通りを曲がると、富沢町である。富沢町は古着屋が軒をならべ、店先の見世棚には色とりどりの着物が吊るされている。近くに吉原の花街があるからか、艶やかな女物の小袖が多かった。
つと、シンタローは一軒の店の前で足を止めた。紺の暖簾には着物の絵と「くちいれ」という文字が交互に染め抜かれていた。
暖簾をくぐってすぐの場所は二間ほどの土間であり、その横は上がり口であった。
「よぉ!人宿」
と、ぶっきらぼうに声をかけると、着物の隙間からといったあんばいで不意に老人が上がり口まで出てきた。老人の頭はいさぎよく禿げあがり、眉は霜のように白い。一見、いかにも好々爺のご隠居といった様子ではあるものの、身のこなしに隙はなかった。
「おや、シンさん。久しいの。元気そうで何よりですじゃ」
「ああ、アンタもな。まだ、くたばってなかったんだナ」
老人はおかしそうにホッホッと笑うと、
「まぁ、死にそうなほど退屈はしておりましたがの。さ、おあがりなされ」
と云ったのでシンタローは上がり口に腰かけた。
「何の仕事をお望みかな?」
シンタローは少し思案し、
「日雇はねぇか?」
そう聞いた。
「なるべく、一日がいーんだけど。この前みたいに石運びとかねぇの?普請の手伝いでもいいゼ」
人宿は、すまなさそうに眉を下げた。
「昨今お江戸に人が増えたせいか、今日は日雇の口はもうふさがってしもうての。すまんのぉ。十日雇や二十日雇いならまだあるが?」
「―――あんまし長くは家をあけれねーんだ」
「シンさんの気が進まないのは分かってはおるが、いっそのことちゃんとした武家奉公はどうじゃ?あんたほどのお人なら、仕官の口はいくらでもあると思うんじゃが……」
「それはできねぇ」
きっぱりと答えた。
人宿は、目じりに幾重にも皴が刻まれた目をしょぼしょぼとさせ、
「ほんに、かえすがえすもおしいのぉ…。もう数十年早く生まれておれば、シンさんはひとかどの武将になれただろうて」
と、ため息をついた。
「ったく、くだんねぇ。んな話はいいから、じーさん、何かねーの?」
「傘張りはどうじゃ?これなら家でもできる」
「………ウチではとうてい無理だナ」
「扇の地紙売りはどうかの?シンさんはいい男じゃから、娘っ子や年増どもにもよう売れると思うがの」
「ああ、あれな…」
シンタローは、何を思い出したのか苦い顔つきになった。確かに以前、扇の地紙売りをしたことはあったが、客からもらった大量の付文を家に持ち帰ると、鯛と蝸牛が大騒ぎし事態を収拾するまでにひどい目をみた。大半は自分の撃った眼魔砲が原因であったが、茶碗は飛び壁は崩れ、結局は売り上げを超える費用を要したのである。
「やっぱり、却下!」
とは言ったものの、シンタローも先程から無理ばかりを言っているとは重々承知であった。ぐるりと土間を見渡すと、風呂敷に包まれた大きな包みが置いてあった。
「じーさん、あれは?」
「ああ、あれは寺向けの線香と蝋燭じゃわい。何を考えておるのか、本来ならうちで取り扱う仕事ではないんじゃがのう」
老人は、渋い顔をした。
(寺か…。なら、面倒はなさそーだナ)
「俺がやってもいいか?」
「シンさんが?」
絶句したのち、しばらく人宿は考え込んでいたが、
「―――まぁ、シンさんなら大丈夫、か」
と、一瞬人の悪い笑みを浮かべた。そして立ち上がると、奥へ消えた。
ほどなく人宿は戻ってきたが、その手には刺繍がこらされ、紅色、黒紅、白に染め分けた小袖を携えていた。
「シンさん、これに着替えなされ」
「―――なんだヨ、このド派手な着物?」
「商売に必要な衣装じゃよ。坊主どもの慌てる顔が目に見えるようじゃわい」
「……こんなんで、本当に売れんのか?」
「そこはシンさんの腕次第じゃな。そもそも線香など元々の値段はあってなきがごとし。思いっきり高く売りつけておやんなされ!」
シンタローは慶長小袖に着替えたが、
「見事なかぶきっぷりじゃ!うちの看板若衆をやってくれんかの?」
などと大喜びな人宿を見て、理由は分からないがなんとはなしに嫌な予感がした。
しかし、喜んでいる人宿を問い詰めるよりもさっさと稼ぐほうが大事かと思いなおし、線香と蝋燭の入った重箱を提げシンタローは口入屋を後にした。
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