不意にお菊の幽霊は立ち上がり、ふっと障子をすり抜けた。
アラシヤマが障子を開けると、次の障子の前で幽霊はとどまっている。
(やっぱ、この世のもんじゃねえんだナ)
知らずのうちに息をつめていたらしい。シンタローは、ゆっくりと呼吸を整えた。
幽霊の後についていくと、幽霊は二人を振り返り、そのまま消えた。
アラシヤマは障子を引き開け、部屋に入った。
部屋の中には抜き身の刀を手にした武士が座り込んでいた。武士は、やつれており疲れきった様子であったが、部屋に入ってきたアラシヤマとシンタローを見上げると、
「何者だっ貴様ら?何用があってわが屋敷へ来やった!?」
鋭く誰何し、手にした刀を振り上げつつ二人めがけて斬りかかってきた。思いがけず素早い動きである。
「おいっ!」
と、シンタローが横にいるアラシヤマをにらむと、アラシヤマは一歩後ろに下がり、
「ここは、あんさんにまかせますえ~」
と言った。
「てめえッ!覚えてろヨ!」
そう云いすてると、シンタローは踏みこんできた男の刃をかわし、腕をとらえざま男の手首を思い切り手刀で打った。
「わあッ!」
と、男は叫び、手にしていた刀を畳の上に取り落とした。骨が折れたものか、うずくまって手首を押さえている。
男の前に、風車が落ちた。アラシヤマが投げたようである。
「オン・キリカ・ソワカ オン・ダキニ・ギャチ・ギャカネイエイ・ソワカ」
アラシヤマは何か唱えた後、左手で口を覆い、舌で掌を舐めた。
すると、その場に3歳ほどの身なりのよい男の子が現れた。子どもはあどけなく、可愛らしい様子である。
「ちちうえさま……」
幼い声で呼びかけながら、子どもは一歩、男に近づいた。
男は信じられないものを目の当たりにしたかのように、目を見開き、その顔面はいつしか蒼白となっていた。
震える声で、
「兵太郎……」
と云ったもののそれぎり言葉は続かない。
子どもは、まるで抱き上げてほしいとでもいうように、両手を前に差し出し、また一歩、男の方へと近づく。
男は、座ったまま後ろへとにじり退った。
「来るなっ!お前は切れぬッツ!!」
突然、男はそう叫んだ。
いつしかお菊の幽霊が部屋の中に佇んでいたが、これまでとは表情が一変し、男と子どもの様子をすさまじい目つきで凝視していた。
くいしばった口元からは短い牙がつき出ており、頭には親指の先程の短い角が頭皮をやぶって生えていた。
一歩、彼女が男と子どもの方へと踏み出したとき、
「手出しは、無用どすえ」
と、アラシヤマはお菊に呼びかけた。すると、角と牙が消え、お菊は哀しみと悔しさが入り混じったかのような目でアラシヤマを振り向いた。
「般若にもなりきれず、生成りにしか変化できへん。アンタは中途半端なんや」
とアラシヤマが静かに云うと、女の幽霊はその場からかき消えた。
播磨は子どもから逃れるように立ち上がり、庭へと転げ出た。そのまま闇雲に走るうちに井戸の前でつまづき、木組みの縁につかまった。
(何故、兵太郎が……。御仏のもとにいるはずではなかったのか!?わが業が、あの子をこの世にひきもどしたというのか!?)
縁を掴んだ播磨の手ががくがくとふるえる。涙が、頬をつたってしとどに流れ落ちた。
播磨がゆっくりと立ち上がると、井戸の向こう側には女が立っていた。
「菊、これもそちの仕業か?」
播磨は、穏やかにたずねた。
「播磨さま……」
袈裟がけに切られたままの姿で血を流している女は、悲しそうに男の名をつぶやいた。
「覚悟は決まった。そちとは奈落の底へも輪廻の果てでも付き合おうぞ」
そう云いきった播磨の顔は、清々しいものであった。
彼は前のめりに倒れると、縁を乗りこえ井戸の中へと落ちていった。
女はしばらく井戸の中を見つめていたが、吸いこまれるように井戸の中へと消えた。
ほんのひとときの出来事であった。
呆然と濡れ縁から播磨とお菊の様子を見ていたシンタローは、あわてて庭へ降りた。
濡れ縁に出てきたアラシヤマを振り返って、
「おい、あの野郎を井戸からひきあげんの手伝えヨ!まだ生きてっかもしんねーダロ!?」
と、声を荒げると、
「――あんさん、いろいろお人よしどすなぁ」
アラシヤマは何やら複雑そうな表情であった。
「何のことだ」
「いえ、別に。男は幽霊と一緒に逝きました。これでわての仕事はおわりどす~。今から、皿を売り捌きにいかなあきまへんしナ」
「おい、コラ!?」
「別れがつらいのはわても同じどすえ。でも、心配せんといておくんなはれ!近いうち必ずシンタローはんに会いに行きますさかいにv」
いつの間にやら笈を背負い、金剛杖を手にしたアラシヤマはそういうと、塀の上に飛びあがった。
「ほ、ほなまたv」
と、シンタローに手を振ると、向こう側へと音もなく飛び降りたようである。
「あの野郎……」
シンタローは、舌打ちをした。
「――ま、今度こそ二度と会うこともねーか。ったく、ミヤギにことの次第をどう説明すりゃいいんだ」
井戸をのぞきこんだシンタローはため息をついた。
井戸はそうとうな深さがあるらしく、暗い底のほうまでは何も見えなかった。
夕七つの頃、小石川のススキ原は茜色に染まっていた。空の中ほどには、合戦で陣地を切りとりあうように蜻蛉が数匹すばやく飛んでいる。
蜻蛉たちが飛び交う直下、一人の武士が家路を急いでいた。その若々しい歩き方からは青年であることがうかがえた。
(すっかり、遅くなっちまったナ。アイツら、とんでもねーことをやらかしてねーといいけど……)
シンタローは、家で待っているであろう三白眼の子どもと犬のことを脳裏に思い浮かべ、思わず溜息を吐いた。
子どもと犬のみでの留守番など通常なら人さらいを心配するところであるが、彼らにかぎってその心配はあてはまらない。
(ま、ひさびさにうまいもんを食わせてやれっから、すぐ機嫌はなおるか)
もらってきた鶏肉と皮牛蒡を煮物にし、もう一品カボチャを昆布だしで煮て青のりをかけようか、のっぺいを作ろうか思案していると、自然、シンタローの口元はほころんだ。
草の生えた板ぶき屋根が見えてくると、彼は少し早足になった。
「おかえり、シンタロー。客だゾ」
「わう!」
「おかえりやすぅ~vシンタローはんっvv」
「なっ、おまっ……」
縁側に、子どもと犬と並んで座っている男を目にしたとき、一瞬シンタローは言葉につまった。
「ずっとお会いしとうおましたえー!」
そう言って近づいてきた山伏姿の男の胸倉を片手でわしづかみ、
「何でテメェがここにいやがんだ!?」
と、シンタローはアラシヤマをにらみつけると、アラシヤマは頬を染めて視線をそらした。
「わ、わて、近いうちにあんさんに会いに行くて言うてましたやろ?ほんまやったら、その日のうちにでも行きたかったんどすけど、間ぁが空いてすみまへん!あんさんに寂しい思いをさせてしまいましたナ……」
「――つーか、どこのどちら様でしたっけ?テメーのことなんざいっこうに記憶にねーな!とにかく、何しにきやがったかしんねーケド、帰れ」
顔をしかめたシンタローが、アラシヤマをつき離すと、
「し、心友のわてには、あんさんが照れてはることくらいわかってますさかい……!」
アラシヤマは、ちらっと何度もシンタローの方に視線を送りながら何やらうれしそうにモジモジしている。
「眼魔砲ッ!」
シンタローの手から光球がうまれ、辺りには爆音が響いた。
「シンタロー、さっきのは友達か?」
いつのまにか、庭に降りてきていた子どもが、シンタローを見上げて聞いた。
「友達なんかじゃありません。って、おい、パプワ!何食ってやがんだ!?」
「しおせんべいだ」
子どもは、手に持っていた袋をシンタローの方に差しだした。
「どうしたんだヨ、それ?」
「アラシヤマからもらった」
「知らない人からものをもらっちゃダメっていつも言ってるでしょ!チャッピーもだゾ!」
「……うまいぞ?」
「……くぅ~ん」
じっと自分を見上げる2対の目の無言の訴えに負けたのか、
「わーったよ。捨てろとはいわねぇけど、晩ご飯前だから残りは明日にしなさい」
と言って、シンタローは子どもと犬の頭を撫でた。
「わかった。メシはまだか?早くしろ!」
「わう!わうッツ!」
「はーい、はいはい」
一人と一匹を抱え上げ、シンタローは家に入った。
(塩鳥と牛蒡はうまく煮えているな。あとは、かぼちゃに火がとおったか確かめて……)
様子をみるためシンタローが鉄鍋の蓋をとると、後ろから、
「料理をしている後姿って、ええもんどすなぁ……」
と、声が聞こえてきた。シンタローが振り向くと、上がり口にアラシヤマが腰かけている。
「テメー、生きてやがったのか」
「はぁ、おかげさんで。今から夕飯どすか?せっかくやからわてもお相伴してもよろしおます?」
「――何が、せっかくだ。てめぇに食わせる飯はねぇ」
「わて、箸と椀は自分のを持ってますさかいに、そのへんは気ぃつかわんといておくれやすv――わてだけやのうて、シンタローはんの料理を望んでいるもんがここにおるんどす」
アラシヤマは笈の中から風呂敷包みをとりだし、傍らに置いた。
「……何だ?」
「見覚え、ありまっしゃろ?」
そう言ってアラシヤマは手のひらから炎の蝶を出した。蝶は、アラシヤマの手元を照らしている。
解かれた風呂敷の中からあらわれたのは3枚の青い皿であり、シンタローは目をみはった。
(これって、青山の……?コイツ、かっぱらった皿を売らなかったのか?)
まじまじとアラシヤマの顔をみつめると、その考えを読み取ったかのように、
「皿は無事、5枚とも売れたんやけど……」
と、アラシヤマは続けた。
「つい先日の裏取り引きの市に出よりよって、不審に思うたんどす。古道具屋にちょっと聞いてみましたら、さる大名家に高値で買われたものの、何故か3枚だけが夜半カタカタ音を立てたり、盛られた料理をひっくり返したりしたそうどすえ。大名は気味が悪いんで3枚を出入りの古道具屋に押しつけて、一件落着というやつどすな。古道具屋は怪異を隠して高値で売りさばこうとしたらしいんやけど」
「それって、フツー、ちょっと聞いて教えてもらえるような内容か?」
シンタローがうさんくさげにアラシヤマを見やると、
「ま、ちょっとだけ脅しはしましたけど、でもほんのちょっとだけどすえ!」
アラシヤマは慌てた様子であった。
「で、何で俺の料理なんだ?」
「この皿達、幽霊の陰の気を吸って少し付喪神化してたみたいどすナ。あんさんが幽霊に言わはった『供養しろっつーんなら、してやる』って言葉をどうも聴いてたみたいどすえ?皿から引き剥がしてまた売ってもよかったんやけど、ま、わてもあんさんの作った料理を食べてみとうおしたし、こいつらに運び屋として利用されてやったんどす」
(確かに言ったような気もするけど、でもな。すげぇ頭いてぇ……)
シンタローは、肩を落としてため息をついた。
「怖がることはおまへんえ。わての読みでは、一度だけ料理を盛ってやったら満足すると思いますわ」
なぜか自信ありげにアラシヤマがそう言ったので、シンタローは半信半疑ながら皿を使ってみることにした。
「きれーな皿だナ」
「わうー」
子どもと犬が、洗ってきれいに拭かれた皿をのぞきこんでいる。
「カボチャを盛るから、こっちにかしな」
シンタローが手を伸ばすと、子どもと犬は皿を渡した。
「「「いただきます!」」」
「わう!」
と、3人と一匹は声をそろえて箸をとった。
「あれで、よかったのかヨ?」
シンタローは、畳に置かれた3枚の皿を前にし、向かいに座っているアラシヤマを見た。
すでに子どもと犬は別の部屋で眠っているようで、物音は聞こえない。
「付喪神はもういまへん。ちゃんと料理皿として使うてもろて満足したようどすえ?見た目がただの皿に見えますようちょっとした目くらましをかけときますさかい、これからは普通の皿としてどんどん使うてやっておくんなはれ。子どもや犬に割られても、文句は言わへんはずどす。玩物喪志、という言葉がおますけど、なまじ皿や壺を大切にしすぎるとおかしなことになるもんやなぁ……」
「なんで、高級な料理よりもカボチャを盛られて満足すんだか」
「楽しい雰囲気のなかで使われたかったみたいですわ」
「……青山と幽霊は」
「あんお人らは、輪廻のどこぞにいるはずどす。直接的には関係はおまへんけど、やっぱりこの皿が先祖代々の家宝やなかったら違うたんかもしれへんな。でも、それは仮定のはなしどす。結局は同じになってたかもしれん」
淡々と、アラシヤマはそう言った。
「シンタローはん」
ふと、アラシヤマの声のもようが真剣なものへと変わり、シンタローを見つめた。
「わて、あんさんに渡した金は返していりまへん。供養料ということであんさんが好きに使うておくれやす」
「んなわけにもいかねーだろ?ちょっと待ってろ」
シンタローが立ち上がり収めてある金を取りに行こうとすると、不意にアラシヤマが彼の手を引いた。バランスを崩し、畳の上にしりもちをついたシンタローは、
(何しやがんだ!?)
と、振り返りざまアラシヤマをどなろうとしたが、後ろからアラシヤマに抱きすくめられた。肩口に額を押し付けたアラシヤマは、縋る小さな子どものようで振り払ってはいけない気がした。
「あんさんとの縁を失いとうないんや」
(……散々心友だなんだのと図々しく言っておきながら、今更何いってやがんだコイツ?切れるもんなら、すっげー縁をきりてぇけど、しつこそうだしどうも切れる自信が……ねぇな)
シンタローはそっと息をはいた。
「わて、あんさんに会うために生まれてきたんやて思えます」
「……俺は、できることならてめぇとは金輪際会いたくなかったけどな」
「それって、熱烈どすな。さっき覚えてない言うてはったんは、ウソどっしゃろ?」
背中のアラシヤマの気配が面白がっているような雰囲気に変わったので、シンタローが振り払おうとしたとき、
「「ふー、何か邪魔があってでてこれなかったけど、やっと出れたわネ」」
と、壁から鯛と蝸牛が出てきた。
「ね、ねぇ、タンノちゃん。シンタローさんが……」
「キャー!私達のシンタロー様がっ、男に抱っこされているワ!」
「ちがうッツ!!」
そう言いつつ現在の状況では説得力がないので、シンタローはアラシヤマの腕から抜け出して釈明しようとしたが、
「一度はわてに、自分を買うてくれって色気たっぷりにせまらはったあんさんやのに、わてとの仲を否定しはるとは冷とうおます~!」
アラシヤマは泣いている振りをして、シンタローの首筋に顔をうずめた。
「何言い出しやがんだテメェ!?」
と、シンタローはこめかみに青筋をたててどなったが、アラシヤマは放すつもりはないらしい。
「シンタローさん!まっ、まさか生活苦のあまり、このどこの馬の骨ともわかんない男に身売りを…!?」
「シンタローさんのバカ~!!私達というものがありながらッツ!」
悔し泣きをしている蝸牛と鯛を見て、アラシヤマはあきれたように、
「シンタローはん、何どすの?この鯛と蝸牛の化け物。なんやけったいなんがおるなぁと思うて今まで結界を張ってましたんやけど」
と云って、本格的に暴れだしたシンタローをあっさりと開放した。
「アンタこそ何よ!?この男、すごく嫌な気配がするワ。ねぇ、シンタローさん、嘘よね??私たちが本妻よネ?」
仁王立ちになったシンタローは、一人と二匹に掌を向け、
「―――散れっ!眼魔砲ッツ!!」
と、最大級の眼魔砲を撃った。
翌朝、目を覚ました子どもと犬が、
「シンタロー、ゆうべはうるさかったゾ!一体何をしていたんだ?」
「うーっ、わうっ!!」
と、朝食の準備をしているシンタローにたずねると、彼はしごく不機嫌そうに
「害虫駆除。いーから、早くメシを食いなさい」
と答えた。
膳の上には、カボチャが盛られた青い皿が乗せられていた。
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