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smg

(時間的に、お題「誄詞」の後の話です)


蒼空の下を飛行船は静かに進んでいる。
随分長い時間が経ったような気がして、彼が腕時計を見ると病室に入った時から三時間程経過していた。まだ、三時間なのか、もう、三時間なのか、判断がつきかねて、時間の感覚も状況によって随分変わるものなんだ、と彼は妙なところで感心していた。
自らの人生が根底から引っくり返された南国での出来事も、時間にして見ればわずか数日でしかない。たった数日で二十四年間の歳月を覆された彼は、今や衝撃と困惑を乗り越えたような、やけにすっきりとした顔をしていた。
彼が今いる部屋、つまり高松の病室で新しい従兄弟と言葉を交わしたせいかも知れない。彼の目から見た従兄弟は、島での振舞いが嘘だったかのように落ち着いて見えた。まだ色々わだかまりや問題は山積みだったが、とりあえず前に一歩進めた気がする。
ベッドに横たわるドクターを見ると、静かな寝息はそのままで、まだ目覚める気配はない。簡素な折りたたみイスに座りっぱなしでは足腰が鈍く痛み、彼は飲み物でも飲んで休憩しようと病室から外に出た。


飛行船は、飛行機や船と違って震動が少ない。
静か過ぎて本当に空を飛んでいるのかと彼としては疑いたくなるくらいだった。狭い通路は特戦部隊の私物や酒瓶が転がっていて、それらを避けながら歩いていると、右隣の扉が突然開いた。
そこから出てきたのは一族の長である男性だった。閉まる寸前彼が覗いた隙間からは、ベッドに寝かされた、金髪をした小さな頭が見えて、目の前の人物が末の息子に付き添っていたことが知れた。
「コタローちゃん、具合はどう?」
「眠ってるよ。ドクターによれば眠っているだけだそうだ」
男性は扉の外にいた彼にさして驚く様子も見せず、普段と変わらない様子で答えたが、その表情には疲労の色がくっきりと浮かんでいた。この人も疲れてるんだ、と思うとなぜか胸が詰まった。
「グンちゃんこそ高松の具合はどうなんだい?」
「怪我はそう酷いものでもないみたい。本人の診たてだからあんまり信用できないけど」
通路に立ったままで、ぼそぼそと会話を交わす。お互いに今一番隣にいるべき人の病室から出たところでかち合ってしまったらしく、怪我人の容態を尋ね合った。聞きたい事や話さなければならない事は他にも沢山あるのに、いざ本人を目の前にすると言葉は中々出てこない。何となく気まずい空気のままで、じゃぁまた後で、と言って二人はその場で別れた。
彼は男性に背を向けて歩き始め、五歩ほど歩いた後、くるりと後ろを振り返った。
「おじさま」
さほど大きい声を出さなくても、その声は届いたようだ。同じように背を向けて歩いていた男性が呼びとめられて足を止め、彼の方を振り向いた。
「何だい?」
「…おとうさま」
彼は事実を確認するため、その呼び方を口にした。
本当の父親に対する得体の知れない感情の波が押し寄せた、と言うわけでは決して無い。彼自身、自分は学会で研究を発表する時のように冷静だと思っていたはずだったのに、その声は少し震えて自らの耳に届いた。元々静かだった周囲の音が一切消えて、完全な無音となった気がした。
事実を確認するのにこんなに緊張するなんて、と彼は数々の騒動でどこか麻痺してしまった頭で、ゆっくり数を数え始めた。
「伯父」と呼んだときの返事はすぐ返ってきた。「父親」と呼んだときの返事はどうだろう。自分が「父親」と呼んだことを否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか。結果が出るまで何秒かかるのか。
「何だい?グンマ」
わずか三秒の逡巡のあと、まっすぐにこちらを見つめて、淡い微笑と共に返ってきた言葉は、さきほどの自分の言葉と同じくらい震えて彼の耳に届いた。
「何でもないよ。おとーさま」
泣き笑いのような表情で、彼は結果を受け止めた。また後で、と先ほどと同様の挨拶をして、お互いに同時に背を向ける。今度は振り返らなかった。


目的の休憩室のような場所に辿り着くと、何か暖かい飲み物でも作ろうと、彼はお湯を沸かし始めた。
「結果が出ちゃったなぁ」
ケトルがお湯を吹き上げる音を聞きながら、彼はぼそっと呟く。
研究において、試行錯誤した過程は論文でも学会でも詳しく発表することはない。必要なのは正しい実験方法と、結果。それから導き出される結論と考察。さらにそこから発展させる応用や進むべき次の段階。それこそが意味を持つ。
結果は出た。結論は、まだはっきりとしたものではないけれど、ある程度固まりつつある。発展は、まだちょっと難しいかもしれない。他にも結果を出さないといけないことがある。それこそ、色々なことがまだ試行錯誤の過程だ。彼は湯気を見ながらあえて冷静に研究者としての判断を下した。
「それにしてもこれって、どんな研究より難しいよねぇ…」
不意に視界が曇った。島での出来事で突き付けられた事実に、困惑はしているが、悲しくはないはずなのに、周りの風景が滲む。新しい従兄弟と話して一度は納得したはずの、二十四年間信じてきた様々なことが一気に去来する。
二十四年間愛してくれた育ての親のこと。二十四年間死んだと聞かされていた父親のこと。二十四年間兄弟のように過ごしてきた黒髪の従兄弟のこと。
ずっと信じてきた二十四年の歳月はあまりにも長い。
彼は手の甲で目元をこすり、落ち着くためにゆっくりと深呼吸をする。
「でもまぁ、そのぶんやりがいがあるかもね」
彼の、家族を再構成するための実験は、まだ始まったばかりだった。

(2006.8.22)

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sgs

(お題「嘘つき」のグンマ視点)


この従兄弟は判り難いようで、判り易い。
総帥と言う立場からかポーカーフェイスはお手の物なんだろうけど、親しい人にしか分からない程度にどこかに綻びがある。元々感情の起伏が激しいほうだとは思うので、ちょっと気を付けて見てみると、意外なほど簡単に感情を読み取ることが出来る。
そんな従兄弟が、日夜世界中を飛び回って、恐らく数段も老獪な偉い人達を相手に交渉しているかと想像すると、時々大丈夫なのかと心配になる時もある。
この従兄弟は、嘘の吐けない人だと思う。


「何かあったの?」
総帥室に入るなり、血色の悪い憔悴しきった表情で迎えられ、思わずその顔を覗きこんだ。
「何でもねぇよ」
返ってきたのはそっけない返事だったけれど、今回の遠征先で何かあったんだとすぐ分かった。人を殺さない、と言う目標を掲げているとは言え、従兄弟の行く先は戦場で、敵も味方も一般市民も死者を出さないと言うのは、とても難しいことだと思う。ある程度は仕方ない、で片付けることの出来ない性分の従兄弟は、その度に酷く落ち込む。その癖、絶対に弱音を吐いたり愚痴を言わない。これも生まれ持った性分だ。
感情を言葉になおして誰かに話す。それによって立ち直ると言う方法もあるのに、いつまでも抱え込んで自分を責めている。
「またそうやってシンちゃんは…」
全部自分で背負おうとする。
そう言おうとして言葉を切った。どうせ言っても天邪鬼だから否定するに決まってる。本当に、たまには頼ってくれても良いと思う。もう一人の従兄弟と違って一緒に戦場に出ることはないけれど、それだからこそ話せる内容もあるはずだ。
非難を込めた目つきで睨んでいると、くすりと笑われてしまった。睨んでも効果のない頼りない外見は自覚しているけれど、心配しているのに笑われてはさすがにちょっと面白くない。それでも笑顔を浮かべてくれたことに安心した。
「何だよ」
「何でもない」
むくれていると、苦笑混じりに訊かれたので、さっきのお返しと言わんばかりに返事を返した。
そこで本来の目的を思い出したので、手にした研究報告書を渡す。専門用語や数値の多い報告書は、専門外の人には分かり難いので、いつ質問されても良いように、読み終わるまで部屋で待機する。大体いつも来客用のソファに座って時間をつぶすのだけれど、今回は思うところがあったので、従兄弟の背後に回った。
従兄弟は訝しげにちらっと視線を寄越したけれど、すぐに書類に目を通し始めた。後ろから眺める従兄弟の背中は広いけれど、どこか緊張していて強張っている。見ていられない。報告書に集中している隙をついて、従兄弟に腕を回して抱き締めた。
「ホント何なんだよお前…」
案の定、呆れたような声が耳のすぐ横から聞こえてきた。
「何でもないよ」
そう答えながら回した腕に力を込める。軽く腕を叩かれ放すように促されたが、「良いの」と流す。
「だって今は僕の方がお兄ちゃんだもん、甘やかさせてよ」
誕生日を向かえたのはつい先日で、従兄弟の誕生日までの数日間は、一応こちらの方がひとつ歳上と言うことになる。理由がないと甘やかさせてくれない従兄弟には、苦しいけれどわりと良い言い訳だと思った。
「どういう理屈だよ、そりゃ」
「お兄ちゃんって呼んでくれたら放してあげる」
「ぜってーやだ」
軽口を叩きながら、従兄弟を抱き締める。もしも、もっと歳上だったら、色々話してくれただろうか。いや、この従兄弟のことだから、やっぱり何もかも自分の胸の内に溜めてしまうだろう。吐き出せるのはあの子の前くらいかも知れない。
「ねぇシンちゃん…」
この場で言わないといけないような気がして、肩に顔を埋めながら出来るだけさりげなく伝えるために口を開いた。柄にもなく少し緊張する。
「だから何だって」
「僕はずっとここにいるからね」
だからここにいて、とは言わない。
純粋に本心から出た言葉でさえも、本来は生きて行きたい場所があったはずの従兄弟は、それに縛られてしまう。だからその言葉は飲み込んで、胸に仕舞って秘密にしておく。
「ばーか。知ってるよ」
耳に聞こえたのはやさしい声で、抱き締めた背中の緊張がほぐれるのが分かった。

本当に、この従兄弟はほっとけない。

(2006.5.23)

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時折水音にかき消されつつも、隣から調子はずれの鼻唄が聞こえてくる。
うるさい音を遮断すべく、彼は絶え間なくなく降り注ぐシャワーに顔を上げ、きつく目を閉じた。栓を全開にしたため水圧は強く、勢い良く降り注ぐ生ぬるい水は、規則的に彼の皮膚を跳ねて排水溝に流れていく。
弟のことで頭が一杯の今の状態で、習慣の用に半分無意識的に行った自主訓練は、身体を痛めつけることを目的にしたような厳しいもので、気が付くとぐっしょりと汗で濡れていた。不快な汗を流すために共同のシャワールームで水に打たれつつ、彼はこれからのことを考えていた。

弟が幽閉されて、1ヶ月になる。弟と引き離されたときの光景は彼の脳裏に焼き付いて、それから片時も忘れたことはない。
弟の泣き顔、必死で兄である自分を呼ぶ声。父の冷酷な顔、弟を危険だと言い切った冷たい声。
思い出すたび、見ていることしか出来なかった己の無力さに、やり場の無い後悔と怒りが湧いてくる。
ずっと伸ばし続けている髪が水を含んで重さを増した。目の前に垂れてくる黒色が鬱陶しくて彼は髪をかき上げたが、頭から浴びているシャワーのせいですぐに真っ黒な髪が視界に入った。一族の誰とも異なる髪色は、嫌でも異端児だと意識させられてしまう。弟のこともあいまって、そのまま思考がどこまでも沈んで行きそうになり、彼は強く下唇を噛んだ。
口の中に錆びた鉄の味が広がって、排水溝に向かって吐き出した。わずかに赤色が混じった唾液はシャワーによって流れて消えたが、マイナスの思考は消えることはなく、彼はいつまでも繰り返し己の無力を責めていた。
弟の行方を尋ねたとき父に殴られた頬の傷はとうに癒えていたが、あれからずっと彼の心は鋭い爪で引っ掻かれ続けている。
家族全員で一緒にいることが当たり前だと思っていたのは自分だけだったのか。父親と自分と弟で、三人で仲良く暮らすと言うのはもう不可能な夢なんだろうか。
それともそれは、異端児である己には過ぎた願いなのだろうか。
弟が連れ去られてから、父とはずっと口を利いていない。父と自分との間にあった絆のようなものは、あの出来事で決定的に壊れてしまった。もう何もかもが手遅れのような気がする。
強くなりたかった。
弟を取り戻せるほど、父親を止められるほど、強くなりたかった。
こんなにも何かを切実に望んだことの無いくらい、彼は強さを求めていた。
いつの間にか隣の鼻唄は止んでいる。栓を閉めて外に出ると、すでに誰もおらず、広いシャワールームで彼は一人ぽつんと濡れた髪のまま立ちすくんでいた。



偶然か意図的か、ドクターから与えられた情報は、彼を走り出させるには十分なものだった。
弟が、日本にいる。
真っ暗な闇の中に差し込んだ一すじの光は、周囲が見えなくなるほど明るくて、彼は逸る気持ちを抑えつつ、周到に計画を練り始めた。
父親の大切にしている石を勝手に持ち出し、弟の元へ向かう。単純な目的を果たすのは難しく、父や側近の目を盗んで石を手に入れなければ始まらない。
いずれお前の物になる、と父親が言った石を今持ち出しても悪いとは思わなかった。
悪いのは弟を閉じ込めた父と、それを止められなかった自分。
石を盗んだことで、何かが変わるとは思えなかったが、父に思い知らせてやりたかった。せめて、後悔させたかった。
逃げ出したいのではない。あるべき家族の形に戻したいだけだ。
計画は決まった。後は実行するのみだった。

「逃げたぞ!」「追え!」
慌てふためく団員の声を背中で聞きながら、彼は走っている。手にした石がやけに重く、必死で走っているにも関わらず前へ進んでいる気がしない。海までの逃走経路が永遠に続くかと思われた。
追っ手と応戦しながら走り続けていると不意に視界が開け、潮の匂いが鼻についた。彼は前もって準備していたボートに飛び乗ると、青い海に漕ぎ出した。
その日は航海を祝福するように晴れた日で、波に太陽の光が乱反射してやけに眩しく、父と弟の瞳と同じ色をした海面を、彼はまともに見ることが出来なかった。


(2006.4.14)

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ss



渡ろうとした瞬間、信号が変わったので足を止めた。
彼の目の前を幾台もの車が流れていく。
数分の待ち時間を利用して、彼は何気なく周囲の人間を観察する。
手をつないだ親子連れ、携帯電話を手に熱心に会話する若者、疲れた顔でうつろに立っているスーツ姿の中年男性。
ありふれた光景がかえって新鮮だった。
ふと、慣れた匂いを嗅いだ気がして、まさか、という思いとともに思わず勢い良く周りを見渡す。
見つけたのは、小さな喫煙スペースで煙草を吸っている男性の姿だった。



交渉のため訪れた先で、本部とのちょっとした行き違いから帰国が一日延びた。
思いがけない異国での休日を彼は大いに喜び、軍服を脱いで部下に用意させたカジュアルな服に着替え、颯爽と街に出た。
警護は断った。いくら自分の身は自分で守れる力の持ち主だとは言え、補佐官がいれば万が一の危険性を説いて彼を止めたかもしれない。しかし従兄弟は学会のため今回は同行しておらず、彼を止められる者はいなかった。
舗装された道を、彼はのんびりと歩く。
視察の際に車内から見ていたが、自らの足で歩いたほうが街の空気が感じられるような気がした。
休日でもあまり出かけることのない彼にとって、普段あまり目にすることの出来ない一般の人々の生活を垣間見る、いい機会だった。
時折彼とすれ違った人が弾かれたように振り返るが、そんなことは気付かずに、あるいは気にせずに、初めての土地に対する不安など微塵も見せない足取りで、彼は堂々とマイペースに歩く。
途中ショッピングモールを見つけたので、家族へのお土産を買うため立ち寄った。適当に店をひやかしながら品物を物色する。何点か購入し、片手に紙袋を提げて、気ままに散歩を楽しんだ。
だいぶ歩いたので休憩のため目に付いた喫茶店に入った。店内に入るやいなや、店中の人間の視線が一斉に彼に集まったが、彼は無頓着な様子で空いていた道路に面した席に座り、紅茶を注文した。
店員が緊張しながら持ってきた紅茶をすすりながら、帰国後の予定を頭の中で羅列していく。当分仕事に忙殺されなことを確認し、少々食傷気味にカップをソーサーに置いた。
綺麗に磨かれたガラス越しに、道行く人々をぼんやりと眺める。平日の昼間と言うこともあり、人通りは多くも無く少なくも無い。道路をせかせかと忙しそうに歩く仕事中の社会人が大半を占めているように見える。どこの国も会社勤めは大変だ、と彼は共感と共に同情した。
やがて彼は紅茶を飲み干すと席を立ち、会計を済ませ、ありがとうございましたという上ずった店員の声に送られながら店の外に出た。
喫茶店から歩いてすぐの交差点の向こうに、規模の大きな酒の専門店を発見した。酒好きの彼は引き寄せられるように勢い込んで交差点を渡ろうとしたが、信号が変わったので仕方なく足を止めた。
同じように信号待ちのため足止めをくらった人々を観察しつつ、彼は再び信号が変わるのを待つ。
ふと、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻につき、まさかと言う思いを打ち消しながら、それでも狼狽しつつ辺りを見渡した。
見つけたのは喫煙スペースで幸せそうに一服する男性の姿だった。
違った、と安堵と落胆が入り混じった感情が彼の胸に去来する。
叔父と同じ銘柄を吸う男性は、傍若無人な叔父とは似ても似つかぬ上品な老人だった。
どうせ叔父はどこかで自棄酒でも呷っているに違いないのだから、こんな所にいるはずない。出て行ったきり音沙汰のない叔父と偶然出くわすことなどないと分かっているはずなのに、ほぼ反射的にその姿を思い浮かべた自分にうんざりした。
叔父の煙草だと匂いで分かった己が腹立たしく、追い出したことを後悔してもいないのに、その癖消息を気にしてしまうのは、一体どう言うことなのだろう。
答えが書いてあるわけも無いのに、彼はじっと老人を注視した。彼の不躾な視線に気付いた男性が、微笑を浮かべながら帽子をとって挨拶する。
我に返った彼はあわててそれに会釈を返した。歳の割りにがっちりとした身体をぴしりとツイードのスーツに包んだ洒落者の老人が、無言で彼のほうに煙草を差し出す。
彼が丁寧に礼を言ってそれを断っていると、信号が変わったのか、いっせいに人が動き出した。
彼はもう一度老人の方に向かって会釈をすると、人波を縫って交差点を渡り始めた。
飲み応えのある相手がいなくなったことを思い出した彼の目には、酒の専門店は信号を渡る前より魅力的には映らず、彼は店の前を通り過ぎて雑踏に混じって消えた。


(2006.3.16)

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sgs


鍵の外れる音がした。
研究室の個室のキーを持っている人は限定されており、その中でもノックもせず、ましてや事前に連絡もせずに入室してくる相手はほぼ決まっている。確率は二分の一。その内の一人は現在学会で留守をしているので、残るは一人。
などと道筋だって考えなくとも、何となく分かる。彼は嬉しそうにパソコンから顔を上げると、小走りに扉の方に近づいた。
「珍しいね、どうしたのシンちゃん」
入ってくると同時に声をかけられた従兄弟は、一瞬驚いたように目を丸くしたがすぐに態勢を立て直し、手に持った鉢植えを彼に差し出した。
「これ。遠征に行ってくるから、また預かっといてくれ」
「ん、分かった。今回も長いの?」
彼が観葉植物を受け取ってパソコンデスクの上に置くと、緑色の葉が小さく揺れた。従兄弟が育てているこの植物を預かるのは、これで何度目になるだろう。長期遠征の度に、律儀に世話を頼む従兄弟の大切は鉢植えは、どこか南国風の外観をしている。
「まーな。三週間か、一ヶ月か、そんくらい」
「そんなに? 今回はキンちゃんもいないんでしょ」
彼がどことなく心配そうな様子を見せると、従兄弟は心得たように小さく苦笑した。従兄弟は彼の個室に雑然と並べられた発明品を見渡して、相変わらず変なもんばっか作ってんな、と至極失礼なことを呟いくと、なおも心配そうな表情を消さない彼に向き直り、安心させるかの如くふっと表情を和ませる。
「キンタローとは向こうで合流。ま、任務自体そう難しいもんじゃねぇから、案外さっさと終るかもな。だからその間、それの世話頼むわ」
それ、と観葉植物を指差す従兄弟につられて、彼もデスクの上の鉢植えを見る。どこで手に入れたのか、それとも誰かに貰ったのか、彼の目からもあの島を思い出させるその植物は、人間達のやり取りなどお構い無しに、ただじっと静止している。
「まかせといて」
微笑みながら、いつからだろうと彼は考える。あの子供から託された花を押し花にしてからか、そもそもあの島から帰ってきてからか、従兄弟はやけに植物を好むようになった。元々世話好きなところはあったので、動物や植物の面倒を見る事は子供の頃から得意だったのだが、最近はそれに拍車が掛かっている。窮屈な団を逃げ出して島で一年を過ごした結果、従兄弟の変化した面を好ましく思う一方で、その差異は彼の心をざわつかせた。
壁に入ったヒビのようだ、と彼は思った。
研究室の打ちっぱなしのコンクリートの壁には、いつ入ったのか分からないほど小さなヒビが無数にある。普段はそこにあると気付かない、もしくは発表用のポスターなどで隠してしまえばいいだけのヒビ。決して亀裂までには至らない、取るに足らないささやかな、けれど知らないうちに毛細血管のように広がるヒビが、従兄弟を繋ぎとめておくものに入ってはいないだろうか。
「ねぇ、シンちゃん。手、貸して」
「はぁ? なんで」
「いいから」
渋々と差し出された右手を、彼はぎゅっと握り締めた。ひるんだ様に引っ込められそうになる手を逃がさないよう両手で強く握って、彼は祈ろうとしたが、何を祈れば良いのか分からなかった。
――どうか無事に帰ってきますように。
ありがちだよね、と彼が込み上がる自嘲を押し殺し目を上げて従兄弟の顔を確認すると、随分と当惑した表情が浮かんでいた。いつものように冗談めいた態度ではなく、少し改まった態度で接触をはかると、従兄弟はいつも居心地の悪そうな顔をする。その子供の頃とは変わっていない反応を嬉しく思いながら、彼はもう一度軽く握ってから、従兄弟の手を解放した。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
彼の一連の行動を、従兄弟は解せないと言った様子だったが、にこにこと笑う表情に問い質す気が失せたのか、じゃぁな、とあっさり別れを告げると早々に個室から出て行った。
ひらひらと手を振ってそれを見送って、彼は自分の手のひらを改めて見つめた。一族の中では小さめな手は、それでも成人男性としては標準的な大きさだ。自分はこれで何を繋ぎとめようとしたのだろう。
「帰ってきて欲しいのは、戦場からとか、視察先じゃないんだよね」
指を組みながら、じゃぁどこからと自問したが、答えを出すことなく打ち切った。思い出と戦っても勝ち目は無い、と最初に言ったのは誰なのか。嫌な事を言う。
「…一緒に留守番しようか」
彼はパソコンデスクの上の鉢植えの、鮮やかな緑色をした葉を軽くそっとなでると、日当たりの良い窓際に移した。


(2006.12.1)
文中の観葉植物=textのストレリチアorレギネーだったりしなかったり

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