卓上のデジタル置時計が時間を示す数字を一つ進めたところで彼は顔を上げた。
まじまじと時計を見ても、指している時刻は先ほどから2分間しか経過していない。何度も横目でちらちらと時計を確認していたせいか、時間の感覚が妙に間延びして、彼には一秒が一分ぐらいに感じられた。
万年筆の先が書類に引っかかって、小さく黒い点を作った。修正するのが面倒くさく、そのままにしておく。処理しなければならない用件は腐るほどあるくせに、集中出来ない。紙に印刷された文字を目で追ってるはずなのに、気付けばまた時計を確認していた。見ると先ほどから一分も経過していない。
背もたれにもたれかかり、背伸びをしてみる。
肩を回しながら、机の前方に据え置かれた来客用のソファに座る従兄弟を見れば、だらしない姿勢で論文を読んでいる。そのページが一向に進んでいない。ずっと同じページを読んでいるようで、おかしいと思い観察してみると、何秒かおきにちらちらと腕時計を確認していた。
自分と同じことをしている従兄弟の様子に、思わず噴き出す。
怪訝な表情で顔で上げた従兄弟に、「お前さっきから全然ページ進んでねぇよ」と指摘すると、「それに気付くシンちゃんだって、仕事してないんでしょ」と返された。
「…何してんのかなー」
どうせ同じことに気を取られているのだろうと、主語を誤魔化して述べてみれば、矢張りそうだったようで従兄弟は「何してるんだろうねー」と同意を込めて頷いた。
「発表は午後からだから、もうそろそろ時間だと思うんだけど」
「何か変なことしてねぇだろうなーアイツ」
「大丈夫だよ、初めての発表って言ったって、キンちゃんだもん。高松もついてるんだし」
「それが余計に心配っつーか」
ここにはいない従兄弟の始めての学会発表に、母親の様に世話を焼き、いそいそと会場の大学までついて行ったドクターの顔を思い浮かべ、彼はそわそわと落ち着きなくまた時計を確認した。
「何かあったら連絡するように言ってあるし、大丈夫だと思うけど」
「心配だよねー」
従兄弟が論文の束をテーブルの上に投げ出した。ぱさっと乾いた音がする。「一応キンちゃんが提出した論文を昨日読んだんだけどさ、特にこれと言って問題はなかったんだけど…」と、ますますだらしのない姿勢をとりながら従兄弟は指先で紙の束をつつく。
「だけど何だよ」
「質疑応答で、結構厭味な質問されるときもあるし。専門外の人とか、こっちが思いも寄らない角度から突っ込んでくるときもあるし」
「キレねぇかな…アイツ」
「だから高松がついているから大丈夫、と言いたいところだけど、」
「ドクターが変な質問した奴にバイオハナマスとかけしかけそうですっげぇ嫌な想像した」
「ないこともないしね」
はぁ、と二人同時にため息を吐く。従兄弟に習って彼も書類を机の端に押しやって、万年筆の蓋をした。新米科学者の従兄弟から無事に発表が終ったと連絡があるまで、どうせ今日は仕事にならない。なら、と椅子から立ち上がった彼に従兄弟が視線を向けた。
「シンちゃーん、どこ行くの?」
「茶淹れに行くんだよ。お前もいるか?」
「うん。ついでにおやつも食べたい」
「へいへい」
一昨日作ったシフォンケーキがまだ残っていたなと思いながら、デジタル時計を確認する。
最後に確認してからまだ10分も過ぎていない。従兄弟からの連絡はまだ先だった。
(2007.7.8)
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(南国6巻44話の「殺すよ」の場面より)
今まで目の前に提示されていたにも関わらず、あえてそのままにしておいた問題を、まとめて突きつけられたのか。
息子を連れ戻すために訪れた暑い南国の島は、当初から些細な既知感をもたらす場所だった。今となれば、一族としての本能が反応したのだろうと思えるが、その脳裏を小さな針で引っかかれるような警報を見逃して――いや見逃していたのか気付いていたのに故意に無視したのか――息子のために再来訪したのが、そもそもの原因だったようだ。
だがその警報を察していればどうなったか、と言うことを考えると答えは一つしか出てこない。そこに至る過程の違いは多少あれど、息子のためにやはりこの島に足を踏み入れていただろう。例えそこが、赤の一族の聖地であっても。
対照的な色を持つかの一族に関しては、良い思い出は皆無である。末弟の目を奪い、兄弟間の絆を奪い、ひいてはすぐ下の弟の命までこの手から失った全ての元凶である「赤」を、恨むことは当然だろう。
赤にとってはこちらの方が全ての元凶だ、と言い分があるだろうが、概ねの事象は正誤も善悪も表裏一体であることを、私はすでに学んでいる。私にとっては彼らが悪であり、彼らにとっては私が悪だ。それについては何も言うことはない。見解の相違など、そこらに溢れている。
その悪である対象に良く似た面影を持つ息子を溺愛した自分は、異常だと罵られても仕方ないのかもしれない。表立って意見するものはいなかったが、影でそう囁かれていたことに気付かないとでも思っていたのか。小さなことが命取りになる、それを阻止するためにも常に冷静であれ、と行動して来たが唯一の例外が己の血を分けた息子だった。
自らの双眼とそれが齎す強大な力を、内心では疎んでいたのだ――と知らしめたのもまた息子だ。この目さえ無ければ、兄弟にはまた違った未来があったかもしれない。その可能性を模索していた最中に、忌々しい目を持たずに生まれてきた息子は、神の恩恵のように思えた。父が亡くなってから神を信じたことは無いが、齎された一筋の光を手放すような真似はしない。
希望だからこそ愛したのか、それともどこかで力を持たない息子が私が作り上げた現状を変えるかも知れない可能性をどこかで期待していたからこそ愛したのか――そしてそれは破滅願望に似たものだったのかも知れない。
いやよそう、気持ちを探ることほど愚かなことはない。そこに客観的な視点が入る余地は無いのだから。
成長するに従って「赤」との類似性が顕著になった息子だが、誓って息子に「赤」の面影を見たことは無かった。むしろそれを気にする息子に、より一層の愛情を抱いた。歪み過ぎると、むしろ真っ直ぐになるのはどうしてか。真っ直ぐな愛情はもう一人の息子にも注がれるべきものだったのだろう。
だが、忌まわしい私と同じ目と強大な力を持った次男を、私は――。
言い訳はすまい。私の心情がどうであれ、結果が全てである。二人の息子は私を憎んだが、これで最悪の未来は回避されたはずだ、と信じた。大事なところを読み間違えたのは、曇った愛情のせいだろうか。
いやそれすらも、全てがあの石の脚本だったのかもしれない。踊らされているのを見越して利用しているつもりだったのだが、定石通りに動いてしまったのか。
この島で、役者は全て揃ってしまった。
明らかになりつつある真実は、私を、いや私達一族をどこに連れて行こうと言うのか。
「赤」だと分かった今でも、私は息子を愛している。だが、私は青の人間でありそれは否定できない事実である。「兄」「父親」「総帥」と私の肩書きは多く存在しているが、この局面でどれを選べと言うのだろう。それは選べるものではなく、全てが平等に平行線上にある。
そしてそれら全てを総括しているものが「青の一族」と言う肩書きだ。私は生涯それに縛られるのだろう。だからこそ、それに縛られていない息子を愛したのだ。だが息子が忌々しい運命に私以上に縛られていると分かっても、胸の奥底にあるのは、やはり愛情だった。表面が変わっただけで本質に変化は見られない。
だから私は、自分自身の手で、息子を殺そうと思う。
それが「赤」だと分かった息子への、最後の愛の形である。
これから起こることを私は予測できない。
どっちを選ぶ?と差し出されて、両方得られないのなら両方破壊すれば良い。選べない私はずっとそうしてきた。この戦いが終結した時、私は何を手にしているのだろうか。全か無か。
その中間が無いことは、この場合不幸なのか。これを考えることも止しておこう。幸不幸もまた、善悪と同様に表裏一体であるのかもしれない。
時は来た。私は「父」として「兄」として「総帥」として、そして「青の一族」として行かなければ。
行かなければならない。
いやそれは義務ではない。私は先ほどから自分に言い聞かせているのだろうか。言い聞かせないと立ち上がれないのだろうか。それは違う。私は自分自身に言い訳をしているに過ぎない。最愛の息子をこれから自分の手で殺すことに、後暗い喜び――歓喜のような絶望のような――を感じている自分に対する言い訳を。過程は関係ない、問題にすべきは結果である。
私は、青として赤を――父として息子を――この手で殺そう。
(2006.10.9)
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(時間的に、お題「三つ数えて」の後の話です)
飛行船の窓からの眺めは、乱雑とした船内とは違い、切り取ったような一面の海と空の青が広がっていた。
境界が曖昧になるほど溶け合った海と空の色はいつになく穏やかで、つい先ほどまで行なわれていた戦いがなかったかのような平穏な景色を作り出していた。しかし彼が以前島から離れたときに、子供と犬が見送ってくれた岩山の頂上には、もはや何者の姿も無く、ただ荒涼とした岩肌だけが風に吹かれて砂埃を上げていた。彼の感情とはお構い無しに、飛行船は淡々と進み、島との距離を大きく広げている。
疲労し切っているにも関わらず身体を休めることをせず、彼はずっと壁にもたれ掛って窓辺に立ちながら、どんどん小さくなっていく島を無言で目に焼き付けていた。彼は子供から送られた一輪の花だけを傍らに置き、泣く事も叫ぶ事もなく、楽園との別れを惜しむように、全てを覚えておこうと飽きることなく島を見ていた。
島が小さな点になり、それがとうとう水平線に消えてしまっても、彼はそこを動こうとはしなかった。もし彼の目を覗き込む者がいれば、その中に突然の別れに対する驚きや、それに関しての様々な感情の波が過ぎ去った後の空白の奥底に、身を切られるような悲しみが沈んでいることに気が付いたかもしれない。しかし彼の背後で時折足音が止まることこそあったが、彫像と化した彼に声をかける者は誰もおらず、ただためらうような気配を残して去っていくだけに留まった。
空は刻々と色を変える。薄い雲が橙色に変化し、空全体が目に痛いような青から橙色に変化していった。沈みかけた夕日は海を鮮やかな黄金色に染め上げている。
疲労を忘れるのにも限度があった。酷使した体は必要に休息を求めている。彼はずっともたれ掛っていた壁からようやく身体を離したが、視線は相変わらず窓の外に固定されたままで、すでに見えなくなってしまった島に遠く想いを馳せていた。
「シンちゃん」
おずおずとした掛け声とともに、横から湯気の立つ紙コップを差し出されたのは、太陽がついに海に沈んだ時だった。誰かと会話する気分とはとても言えなかったが、それでも従兄弟を無視するわけにもいかなかったので、彼は窓の外の風景に対する未練を打ち切るために、静かに息を吐いた。インスタントコーヒーのわざとらしい香りが鼻腔を刺して、黒い水面に映る自分の未練がましい顔に苦笑しながらも、彼は従兄弟から紙コップを受け取った。
彼の右隣にぽつんと立っていた従兄弟は、憔悴しきった表情でちらりと窓の外に目をやったが、すぐに視線は伏せられた。続いてポケットから出されたミルクとシュガースティックは従兄弟の手に押しとどめて、いらない、と意思表示したが、従兄弟は勝手に彼の手の中のコーヒーに砂糖とミルクを入れてぐるぐるとかき混ぜ始めた。
「本当は、コーヒーじゃないほうが良いんだろうけど」
他にはお酒くらいしかなかったから、と語尾を濁した従兄弟の目元はかすかに浮腫み、疲労の度合いを示している。充血した瞳を持ち上げて、従兄弟は彼に視線を合わそうとしたが、不意に窓の外に逸れた。海に消えた夕日が、まだ存在を誇示するかのように水平線を淡く輝かせている。島の方向を見やっても、そこにはどこまでも続く海原だけが漠然と広がっていた。
「…とうとう見えなくなっちゃったね」
「ああ」
彼が久しぶりに発した声は、いくら取り繕っても虚ろな響きを帯びていた。しばし無言の時が過ぎる中で、何か言いたそうにしては彼の顔を見て黙る従兄弟に、いつもならすぐ促すために話しかけるところだったが、今回ばかりはそうはいかなかった。海に吸い込まれて行きそうになる意識を無理に浮上させると、このままではいけない、と彼は決心し甘ったるいコーヒーを飲み干して、ようやく従兄弟の方に向き直った。
「どうした?」
「さっきね、マジックおと…じさまに会ったよ。コタローちゃんに付き添ってたみたい」
「…そっか」
弟に付き添う父親が嬉しい反面、「父親」と言おうとして、こちらを気遣って「伯父」と言い直した不自然な空白に、彼は気付いていた。いずれ触れなければと思っていた問題に直面し、彼はうろたえ、そして覚悟した。
「マジックはお前の父親なんだから、好きに呼べよ。俺に遠慮すんな」
歪んでしまっていた家族は、あるべき姿に修正された。そこからはみ出てしまった自らの身の置き場は、こちらの希望だけでなく、他者の意思にも委ねられている。親族一同の濃淡の違うが同じ青い瞳を思い出し、それに混じる自らの黒の異質さに、彼はただ笑った。
黒に生まれついたコンプレックスは、全てを受け入れてくれた子供と島によって壊され、もうわずかしか残っていなかったが、それでも違いはそのままだ。自分の黒を皮肉って笑ったわけではなく、ただ「違う」と再認識すると、ふと肩の力が抜けて妙に笑えた。
「うん…でも、シンちゃんだってマジックお父様の息子でしょう。そして僕の従兄弟」
兄弟でも良いけど、と付け加えてから青い目が心配そうに彼を覗き込む。そこには懇願ともいえる感情が隠すことなく表れており、それに流されるように何がしかの言葉を発しようと口を開きかけた彼を、従兄弟が遮った。
「だって、あのとき、コタローちゃんを止めようとしたときマジックお父様が言ってたじゃない。『お前も私の息子だよ』って。僕だって同じ。シンちゃんも僕の従兄弟だよ」
いつもの気弱な様子など微塵も見せず猛然と言い立てる従兄弟を意外に思いながら、彼は手にした紙コップを握りつぶした。カップの底に残っていたコーヒーが零れ落ち、白い床に点々とした染みを作る。彼はそれを視界の隅で確認し、同じような斑点が自分の心の中に広がっていくのを感じていた。
「今回のことで色んなことが分かって、色んなことが変わったりしたけど、それだけはずっと変わらないから。家族の数は増えたけど、減ったりなんかしてない」
いつしか従兄弟は彼の袖を掴んでいた。離したらどこかに行ってしまうと信じているかのように、指に筋が浮くほどきつく握りしめ、否定されることを恐れるかの如く一気にまくし立てた。
だから、と続けた声が掠れたかと思うと、従兄弟は彼の袖を掴んだまま俯いた。泣くのを堪えているのか、くっと嗚咽のような音が喉からもれたが、従兄弟はいつものように彼に肩にもたれることはなく、立ったまま静かに肩を震わせていた。
彼はつぶれてしまった紙コップを酒瓶が山になっているあたりを目掛けて放り投げ、空いた右手を従兄弟の背中に置いた。宥めるように背中を叩いていると、従兄弟との思い出が次々と思い出された。こんな風に泣く従兄弟を、彼は初めて目にしていた。
「なぁグンマ。俺、親父の跡継ぐことにする」
従兄弟が弾かれたように顔を上げた。一番驚いたのは従兄弟ではでなく、思いがけない言葉が口をついで出た彼自身だった。だがこうして言葉にしてみると、もしも父親や従兄弟などのずっと家族だった誰かが、まだ自分を家族だと認めてくれるのなら、子供が残した世界といずれ目覚める弟のためにも、自らがそうしたいと考えていたことに気が付いた。
堪えていた涙を溜めたまま、目を見開いて驚く従兄弟の顔を眺めながら、重要なことを決定するのは案外こういう時なのかもしれないと内心苦笑していると、曖昧模糊とした構想がだんだん形になって見えたような気がした。
「たぶん、すげー面倒なことになるだろうけど、手伝えよ。従兄弟なんだろ」
「…うん」
従兄弟が笑うと涙が頬を伝った。その情けないような笑顔を見ながら、彼は出来るだけ子供が笑っておける世界にしたいな、とひとつ形になった構想を目に焼きついた島の光景と共に胸に刻みつけた。
白い波間に浮かんでいた彼方の島の方向に、彼は自ら出した答えを問うように視線を投げる。日の落ちた窓の外は黒と青が入り混じった深い紺青色が広がっていた。
(2006.9.16)
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あの人がまさに落ちる瞬間を目に映したとき、身体の痛みも全て忘れて駆け出していた。
がっちりと掴んだ手のひらは大きくて、絶体絶命の場面で握り返してくれたことがやけに嬉しかった。
「そうなんだよなぁ…」
溜まった洗濯物を片付けながら、彼は溜息と一緒に誰にとも言えない独り言を呟いた。
「あの人、いつか島を出て行くんだよなぁ…」
洗濯物を洗う手を止め、彼はぼんやりと空を眺める。
今日もお姑さんと子供と犬は、仲良く出かけて行った。彼は一人家に残り、洗濯物と格闘している。
青年の存在に初めこそ途惑った彼だったが、今では青年と子供の仲をなるべく邪魔しないよう心がけ、今では料理や掃除の指導などもして貰っている。青年の姑のような微細かつ暴力的な指導には辟易することもあるけれど、概ね上手くやっていると言えるだろう。
金髪の少年が去って行ったときは悲しかったが、入れ替わりのように残った青年に、彼は親しみを抱いていた。家事が趣味、と言う点で気が合ったせいかもしれない。弟である少年の時にもそう思ったのだが、自分はどうも深入りし過ぎる、と彼は思っていた。
この島は聖域で、自分はその番人。
余所者には厳しい立場をとるべきだ、と彼としても解っているつもりなのだが、賑やかな島の住人達に囲まれていると、ついついそのことを忘れてしまうことがある。甘いと言われればそれまでだが、顔見知りの物騒な人達が島に訪れても島の皆と平和で楽しい日常を過ごしているところを見ると、それも良いかと思っていしまう。
自覚がない、と指摘されれば反論のしようがない。
『俺はいつか島を出る。しっかりやれよ、リキッド』
普段はヤンキーとしか呼んでくれないくせに、こういう時だけ名前を呼ぶのはずるいと思う。
そうだった、と彼が改めて青年の顔を眺めて見れば、そこにあるのは断固たる意志だった。当たり前のように子供の隣にいて、当たり前のように島の住人と遊び、当たり前のように子供と犬と一緒に青年は眠っていた。
そんな姿を最初から目の当たりにしていたためか、彼は青年がこの島にいることが日常だと思っていた。青年自身の口から『島を出る』と言われるまで、そのことを忘れていたのだ。
もしかしたら故意に忘れていたのかもしれない。青年が無愛想な子供のそばにいる事が当然のように見え、それが日常だと彼の目から見てもそうだったから。
「わう!」
突然横から犬の鳴き声がして、彼は思わず手にしたままの洗濯物を取り落とすところだった。帰宅したお姑さんが片付いていない洗濯物を目にした際の恐ろしい事態を勝手に予想し、彼は自然に防御の姿勢をとっていた。
しかしそこにいたのは茶色の毛並みをなびかせた犬だけで、一緒に出かけたはずの子供の姿も青年の姿もどこにも見えない。
「あれ?どうしたんだ、チャッピー」
彼は不思議そうに一人で家に帰って来た犬の背中に手を置く。先日青年からブラッシングをされたばかりの毛並みは艶々としており、手のひらに心地好い。
「わぉん」
この犬は島の生物でただ一匹、言葉を喋らない。一番子供の近くにいて青年とも親しんでいる存在と、意志の疎通が出来ないと言うのは、中々不便でもある。彼としてはこの愛犬が喋れればもっと色々知ることが出来て楽になるんだろうと、思わないでもなかった。
「うん?なんだ?俺がちゃんと洗濯してるか見張りにきたのか?」
「わぅ」
そんなもんだ、と気軽な返事を返されて、俺ってお姑さんに信用されてないのね、と彼は笑う。
笑いながら残りの洗濯を済ませ、手早く干した。洗濯物が空に映えて眩しい。彼は犬と共に家に戻ると、おやつの支度に取りかかり始めた。もうすぐ二人も帰ってくるだろう。
足元の犬が、オーブンから立ち昇る甘い香りに鼻を動かしながら尻尾を振っている。それを微笑ましく眺めながら、彼はすとんと犬の隣に腰を下ろした。
「なぁ、チャッピーはシンタローさんのこと好きだよな」
「わん」
何を当然のことを聞くのか、と言いたげに犬が訝しげに彼を見る。それに苦笑を返しながら、彼は犬の頭をなでた。耳の後ろをなでられて気持ち良いのか、犬は目を細めている。
「じゃぁさ、シンタローさんに、帰って欲しくないって思わねぇ?」
それを口に出した途端、彼は悟った。自分はあの口うるさいお姑さんにずっとこの島にいて欲しいのだ。もしかしたら憧憬に似た感情があるのかもしれないが、それよりも何よりも、あの二人を見ているのが好きだった。時間が限られていると解った今でも、あの二人には一緒にいて欲しかった。番人と言う立場から見ても、あの青年と子供の絆は胸が締め付けられる類のもので、あれほどまでにお互いを想い合っているにも関わらず、離れ離れになってしまうのはどうにも遣る瀬無い。
青年には帰る場所も待っている家族も、あちらの世界にいると頭では分かっていても、あの二人を目の前にしてしまえばそんな考えは吹っ飛んでしまう。
『いつか島を出る』
その『いつか』はいつだろう。ずっと来なければ良いと望むのはいけないことだろうか。
いっそ去って行った金髪の少年も、皆でこっちに移住すれば良い、と実現不可能な考えも一瞬脳裏に過ぎった。
「…わぅ」
彼の目の前の犬が、同情をその瞳に浮かべて、しかし左右に首を振った。
『同感だけど、それを口に出しては駄目』
そう言われているようで、彼は犬をなでる手を止める。
「そうだよなぁ…一番シンタローさんに行って欲しくないのは、パプワだもんなぁ」
あんな小さい子供が我慢していることを、犬にとはいえ、つい洩らしてしまった自分に呆れてしまう。
犬はじっと彼を窺うような目で彼を見ていたが、自分で答えを出した彼に、ほっとしたように尻尾を軽く揺らした。
「大人気ねぇなぁ、俺。黙っててくれよ、チャッピー」
気まずそうに頭を掻く彼の手に、もちろん、とばかりに犬は前足をのせた。自然に握手するような形となり、犬の肉球を手のひらに感じながら、彼は青年の手の感触を思い出していた。
いつか、あの手を離さなければならない日が来る。自分も子供も犬も。
それをどうも受け入れかねて自らの考えに落ち込み気味となってしまった彼を、犬が何か言いたげに横目でちらりと眺めたが、すぐに扉に向かって大きく尻尾を振り始めた。
「ただいまー」
「帰ったぞー」
並んで戻って来た青年と子供にばれないよう、慌てて「おかえりなさい」と返す。
あと何回おかえりなさいってお姑さんに言えるのかな、と彼が思っていると犬が後ろ足で蹴りを入れてきた。せっかくの楽しいおやつの時間を台無しにするな、との警告のようだ。
彼は気を取り直して、オーブンの中身を取り出すと、綺麗に盛り付けを始めた。随分腕が上がったはずだけれど、あの大きな手から作り出されるお菓子にはまだ敵わないんだろうなぁ、と彼は内心苦笑する。
敵わないのが嬉しいのは、一体どう言うことだろう。
「はいはい。じゃぁみんな手を洗って。おやつですよー」
家じゅうに、香ばしい甘い香りが漂っていた。三人と一匹が食卓を囲む、いつもの風景がそこにあり、彼は今の時間をせめて大事にしようとこっそり心に誓い、隣に座る犬の毛を軽くなでた。
(2006.8.12)
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「ねぇシンちゃんいるー?ってどうしたの悲愴な顔して」
彼が従兄弟に会うために秘書室を訪れると、そこで出迎えてくれたのは疲れた顔をしてげんなりしている良く見知った秘書官二人だった。
総帥室と扉続きで位置する秘書官詰めのこの部屋は、いつもはこの二人だけ出なく他の秘書達も複数いるのだが、今日に限ってやけに広々としている。
「総帥でしたら、現在ハーレム様と取り込み中です。お急ぎの書類ですか?」
いち早く気を取り直した秘書の片方が、彼の疑問に答えた。
「そういうわけじゃないんだけど、シンちゃんの顔見たくって」
秘書の答えに納得し、彼は手にした研究の予算案を秘書に渡す。そこまで重要な書類ではないのだから、秘書から従兄弟に渡して貰えば良い。
秘書は紙の束にざっと目を通しながら、確かに早急に総帥の承認は必要でないと確認したのか、「お預かりします」とことわってから、部署ごとに区分されたボックスの中に保管した。
「他の人達は?避難させたの?」
「はい、一応」
「危険ですからね」
三人が顔を見合わせて苦笑していると、重厚な扉の向こうで、なにやら派手に言い争う声が聞こえてきた。やってるな、と思っていると、次に聞こえてきたのは破壊音と地響きで、秘書官二人の顔色はますます悪くなっていく。ああまた修理費が、と言う力無く呟かれた言葉に同情しつつも、止めに入ろうなどと命知らずなことは考えない。
彼の従兄弟と叔父は団の方針を巡って対立しており、それに伴って特戦部隊が解雇されるとかされないとか様々な噂が流れているが、その真偽の程はどうあれ、喧嘩ばかりしているのは確かなようだ。
「ほーんと、仲良いよね」
「…そうでしょうか」
「仲がよろしいのでしたら、もう少し友好的に話し合って欲しいんですけど」
敵国との話し合いだってもう少しマシですよ、と思わず本音を漏らす秘書官達に、まぁね、と彼は一応頷いて見せた。
「でも、あれだけ手加減無しで喧嘩出来るのって、ある意味仲良い証拠だと思うんだけど…」
まだ不服そうな秘書官達にどう説明しようかと、彼が言葉を選んでいると、秘書室の扉が開く音がした。
先ほどの破壊音と振動で総帥室で何が起きているのか分かりそうなものなのに、あえてやってくるなんて物好きな、と彼が感心しながら来訪者を見るべく後ろを振り向くと、そこに立っていたのはもう一人の従兄弟のキンタローだった。
「グンマいたのか。シンタローはいるか?」
「いるけど、いま入んない方が良いよー。叔父さまと喧嘩中だから」
「またか。本当にあの二人は仲悪いな」
呆れたように溜息を吐くキンタローに、秘書官達が賛同するように溜息の追従をする。長い溜息が吐き終わるのを待ちながら、そうかなぁ、と異議を申し立てようと彼が口を開きかけると、叔父の嬉しそうなからかいの声に、忌々しそうに怒鳴り返す従兄弟の声が重なって、再び破壊音が鳴り響いた。秘書官達はすでに諦めの境地に達したような表情になっていた。
その音を聴きながら、彼の脳裏に何かが過ぎる。
「ええと、何だっけ。何かぴったりなことわざがあったような気がするんだけど」
「あの二人にか?」
扉の向こうを指差す従兄弟にこっくりと頷きながら、彼はこめかみの辺りを指で軽く叩きながら、該当する言葉を検索していた。
「うーん、どうだったっけ。仲がどうこう言うやつ」
「犬猿の仲、ですか?」
「ううん、違う。喧嘩がどうとか」
あまりにも彼が真剣に悩んでいるので、現状からの逃避か、秘書官達も含めて四人で頭をつき合せながらあれやこれやと提案してみる。
「相手の無い喧嘩は出来ない」
「それも違う」
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
「あー近いかも」
「シンタローに怒られるぞ」
総帥室からの音量に負けまいと、ぎゃぁぎゃぁ騒いでいると、三度目の衝撃が足元を揺らした。
「あ、思い出した。『喧嘩するほど仲が良い』だ」
ぽんっと手を打って彼が喜んでいると、総帥室の扉が開き、やけに風通しのよくなった室内から叔父が出てきた。にやにや笑いながら出てきた叔父は、金髪の甥っ子二人の姿を認めると、慌てて表情を作りなおす。
「そんなとこで固まって、何してんだお前ぇら」
「さっさと出てけよ、オッサン。ってなんだグンマにキンタロー。お前ら来てたのか」
叔父の声に従兄弟も何事かとひょっこり顔を覗かせたが、彼らを見ると途端にバツが悪そうに顔をしかめる。
「研究室の予算案渡しに来たんだけどね、取り込み中だったみたいだから、皆でシンちゃんとハーレム叔父さまについて話してたの」
「何だそりゃ」
二人そろって心底面白く無さそうに眉根に皺を寄せる。その良く似た表情に、彼は笑いをかみ殺した。
ね、ぴったりでしょ、と彼が従兄弟と秘書官達に目で伝えると、三人は先ほどよりも更に長い溜息で同意を示す。
「お前達二人が仲が良いは分かったから、とにかくあまり壊すな。室内で眼魔砲を打つな。修理費が馬鹿にならん」
懇々と諭すキンタローの台詞の後半は耳に入っていないのか、叔父と従兄弟は彼と秘書官達の目の前で、「仲良くねぇ!」と同時に叫んだ。
(2006.7.22)
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