飛空艇から降り立った足でまっすぐ総帥室に向かうシンタローと別れ、ごくごく自然に研究室に辿り着いた俺は、少しの逡巡の後に重い扉を叩く。
待ってみても反応は、ない。
数時間前に回線を通して会話をしたのは事実だから、そうか、入れ違いになった可能性もあるか。
それでも一応、パスワードを入力して扉を開いてみれば、機材や資料に埋もれるようにして存在する、金の後ろ頭に目が止まる。
久しぶりに足を踏み入れた研究室は、相変わらず、一見秩序があるのかと思わせる無秩序さで散らかっていた。
複雑に絡み合ったコードを跨いで、極力音を立てない歩き方で近付く、と、近付くにつれ寝息が聞こえ始めて。
椅子に腰掛けたままの状態で、規則的に揺れる頭。
空調が完全に制御された室内だが、睡眠には薦められない場所であることは確かだ。
机の隅に乗ったマグカップに触れると、半分ほど残されたミルク色の液体にあったはずの温かさは、既に微塵も感じられない。
「こんなところで寝ても疲れは取れないぞ」
そっと肩に手をかければ、それほど深い眠りでもなかったのか、すぐに薄い目蓋は持ち上がった。
幾度かの瞬きの後、虚ろだった青い瞳が焦点を結ぶ。
「あれ、・・・キンちゃんだ・・」
いつもよりも柔らかい、あまりにも柔らかすぎる声。
少しでも力を込めれば、握り潰してしまいそうに。
「おかえり、なさい」
「ただいま」
「シンちゃんは?」
「デスクワークを片付けると言っていた」
「そうかあ」
ふと目線を落とす。
作業机の上には、書きかけの、いかにも彼らしい設計図面が広がっていた。
「シンちゃんもキンちゃんも、忙しいよね」
まだどこか現実離れした声が、ゆっくりと優しく、耳に響く。
「僕もがんばろうっと」
「・・無理するなよ」
「それはね、僕の言葉なんだよ」
沈黙の末に口に乗せた、善処する、という言葉にグンマは微笑み、俺は、静かに安堵のため息を吐き出して。
「今日は、みんなでごはん食べようね!」
「ああ」
「早くコタローちゃん、起きるといいな」
「ああ」
「ハーレムおじさまもサービスおじさまも、早く帰ってくればいいのに」
「ああ、そうだな」
手を伸ばし、薄暗い明かりの下でも十分にきらめく金の髪を、乱暴にならないように掻き回す。
待ってみても反応は、ない。
数時間前に回線を通して会話をしたのは事実だから、そうか、入れ違いになった可能性もあるか。
それでも一応、パスワードを入力して扉を開いてみれば、機材や資料に埋もれるようにして存在する、金の後ろ頭に目が止まる。
久しぶりに足を踏み入れた研究室は、相変わらず、一見秩序があるのかと思わせる無秩序さで散らかっていた。
複雑に絡み合ったコードを跨いで、極力音を立てない歩き方で近付く、と、近付くにつれ寝息が聞こえ始めて。
椅子に腰掛けたままの状態で、規則的に揺れる頭。
空調が完全に制御された室内だが、睡眠には薦められない場所であることは確かだ。
机の隅に乗ったマグカップに触れると、半分ほど残されたミルク色の液体にあったはずの温かさは、既に微塵も感じられない。
「こんなところで寝ても疲れは取れないぞ」
そっと肩に手をかければ、それほど深い眠りでもなかったのか、すぐに薄い目蓋は持ち上がった。
幾度かの瞬きの後、虚ろだった青い瞳が焦点を結ぶ。
「あれ、・・・キンちゃんだ・・」
いつもよりも柔らかい、あまりにも柔らかすぎる声。
少しでも力を込めれば、握り潰してしまいそうに。
「おかえり、なさい」
「ただいま」
「シンちゃんは?」
「デスクワークを片付けると言っていた」
「そうかあ」
ふと目線を落とす。
作業机の上には、書きかけの、いかにも彼らしい設計図面が広がっていた。
「シンちゃんもキンちゃんも、忙しいよね」
まだどこか現実離れした声が、ゆっくりと優しく、耳に響く。
「僕もがんばろうっと」
「・・無理するなよ」
「それはね、僕の言葉なんだよ」
沈黙の末に口に乗せた、善処する、という言葉にグンマは微笑み、俺は、静かに安堵のため息を吐き出して。
「今日は、みんなでごはん食べようね!」
「ああ」
「早くコタローちゃん、起きるといいな」
「ああ」
「ハーレムおじさまもサービスおじさまも、早く帰ってくればいいのに」
「ああ、そうだな」
手を伸ばし、薄暗い明かりの下でも十分にきらめく金の髪を、乱暴にならないように掻き回す。
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口を塞がれたのは突然だった。
「・・おい、あにふんだ」
かなり情けない声色での抗議ではあったが、それでも眉間に思いきり皺を寄せたのが効いたのか、キンタローはあっさりと、俺の口から手のひらを離して。
至極真面目な顔で、一言。
「ため息をつくな」
「・・あ?」
「今、ため息をつこうとしていただろう」
だから止めたんだ、と、言うキンタローを、思わず凝視しながら、俺はつい数秒前のことを思い返す。
ええと、デスクワークの途中だったんだよな。
総帥職を継いだことにあたっていろいろ問題は山積みで、その問題をとっとと解決しなきゃいけねえってのに、大した意味があるとも思えない書類作業だって片付けなくちゃいけなくて、そのうえ相変わらず親父はウゼえしハーレムは問題起こしまくりだし美貌のおじさまとは会えない日々が続いてるしコタローは目覚めないし使えない部下には付きまとわれるし!
そう、それで確かに、深いため息をつきかけ、た。
「・・ため息くらい、自由だろ・・」
「だめだ。幸せが逃げる」
ぐったりと落とした頭に突き刺さった言葉は、まったくの予想外。
恐る恐る顔を上げてみれば、やっぱり当のキンタローは真面目な顔で、冗談を言っている風にも見えない。
(いや、冗談言うようなヤツでもねーんだけど)
俺の視線を不審なものだとでも感じたのか、キンタローは小首を傾げて、また口を開いた。
「ため息を1つつくと、幸せが1つ逃げる。・・と、グンマが言っていた」
・・なるほど。
あいつの言いそうなことではある。
「違うのか?」
「いや、まあ、間違ってはいない、な」
今までキンタローの前でため息をついたことがなかったのは意外で、でも、それは、こんな生活にも慣れてため息をつく余裕が出来た、ということ、なのかもしれない。
「休憩にするか?」
「ん・・そうだな」
「シンタロー、笑え」
「・・まった無茶苦茶なこと言うな、おまえは」
「笑えば笑うだけ幸せになる、と」
「グンマが言ってたんだな、はいはい」
俺と24年間も生活を共にしていた男は、そのせいでまだ素直すぎる子供のようで、時々、悪い意味ではないが少し、こそばゆくて。
「おまえって、ほんっとグンマ好きね」
わざと茶化すような笑みを浮かべて言ってやれば、相変わらずの表情でココア(それもグンマに吹き込まれたのか)の粉と格闘しながら、キンタローは答えた。
「好きだ。シンタローのことも、好きだ」
ああ、もう、まったく。
「・・おい、あにふんだ」
かなり情けない声色での抗議ではあったが、それでも眉間に思いきり皺を寄せたのが効いたのか、キンタローはあっさりと、俺の口から手のひらを離して。
至極真面目な顔で、一言。
「ため息をつくな」
「・・あ?」
「今、ため息をつこうとしていただろう」
だから止めたんだ、と、言うキンタローを、思わず凝視しながら、俺はつい数秒前のことを思い返す。
ええと、デスクワークの途中だったんだよな。
総帥職を継いだことにあたっていろいろ問題は山積みで、その問題をとっとと解決しなきゃいけねえってのに、大した意味があるとも思えない書類作業だって片付けなくちゃいけなくて、そのうえ相変わらず親父はウゼえしハーレムは問題起こしまくりだし美貌のおじさまとは会えない日々が続いてるしコタローは目覚めないし使えない部下には付きまとわれるし!
そう、それで確かに、深いため息をつきかけ、た。
「・・ため息くらい、自由だろ・・」
「だめだ。幸せが逃げる」
ぐったりと落とした頭に突き刺さった言葉は、まったくの予想外。
恐る恐る顔を上げてみれば、やっぱり当のキンタローは真面目な顔で、冗談を言っている風にも見えない。
(いや、冗談言うようなヤツでもねーんだけど)
俺の視線を不審なものだとでも感じたのか、キンタローは小首を傾げて、また口を開いた。
「ため息を1つつくと、幸せが1つ逃げる。・・と、グンマが言っていた」
・・なるほど。
あいつの言いそうなことではある。
「違うのか?」
「いや、まあ、間違ってはいない、な」
今までキンタローの前でため息をついたことがなかったのは意外で、でも、それは、こんな生活にも慣れてため息をつく余裕が出来た、ということ、なのかもしれない。
「休憩にするか?」
「ん・・そうだな」
「シンタロー、笑え」
「・・まった無茶苦茶なこと言うな、おまえは」
「笑えば笑うだけ幸せになる、と」
「グンマが言ってたんだな、はいはい」
俺と24年間も生活を共にしていた男は、そのせいでまだ素直すぎる子供のようで、時々、悪い意味ではないが少し、こそばゆくて。
「おまえって、ほんっとグンマ好きね」
わざと茶化すような笑みを浮かべて言ってやれば、相変わらずの表情でココア(それもグンマに吹き込まれたのか)の粉と格闘しながら、キンタローは答えた。
「好きだ。シンタローのことも、好きだ」
ああ、もう、まったく。
「──知っていますか」
高松が、俺の髪を丁寧にタオルで乾かしながら、不意に言う。
そろそろ、日付が変わろうかという頃合だった。先の遠征で軽傷を負った俺を気にして、わざわざ仕事帰りに薬を持ってきてくれた高松が、なぜこんなふうに俺の髪を乾かす羽目におちいっているのかといえば、それは、手持ちのドライヤーが壊れたからだ。──もっと順を追って正確に言うならば、軽傷と侮ってなかなか診察に行こうとしない俺に業を煮やした高松が、はるばる自室まで乗り込んでみると、頭にタオルを巻いた俺に出くわしたというわけだ。俺は別に風呂上りというわけでもなく、いい加減寝ようかと考えていたところだった。ただ、なかなか髪が乾かないので、このまま寝ようかどうか、迷って踏ん切りがつかずにいたのだ。
高松は、部屋に入るなり滔々と今回の怪我についての文句と嫌味を述べ、最後に俺の姿を厳しく見咎めた。
「なんですか、その格好は。早く髪を乾かさないと、身体が冷えてしまうでしょう」
怪我のついでに風邪もひく気ですか。でもその方が医務室に監禁できて丁度いいかもしれませんね、と高松は口の端をかすかに上げて言う。
「……怪我のことは反省してるよ。今度からちゃんとするから……。そんで髪のことは、今日だけは見逃してくれ。明日キンタローに見せるなり、新しく買うなりするから」
俺の不摂生に関するドクターの見方は、総帥職に就いてからこっち、前科がたくさんあるだけに容赦がない。このままだと風邪をひいてもひかなくても、なんらかの理由をでっち上げられて、言葉通り医務室に監禁させられそうだったので、俺は慌てて言い繕った。
俺が珍しく素直に応対したからだろうか、高松は軽くため息を一つつくと、不穏な表情をほとほと呆れたといったものに変えた。いざとなったら心底恐ろしいドクターの追及をかわしたことで俺が秘かにほっとしていると、高松は無造作に右手を差し出した。
「なに? ドクター、まだなんか……」
不思議そうにする俺に、高松は眉間に皺を一つ刻んだ。
「なに、じゃないでしょう。タオルをよこしなさい。髪、そのままで寝るおつもりですか?」
高松の目がまたぞろ剣呑な雰囲気を宿し始めたので、俺は慌ててタオルを取りに行った。
高松にタオルを手渡すと、髪を下ろして椅子に座る。高松が苛立っているのはわかっていたから、さすがに今回は乱暴にされるかなと思いきや、その手つきはいつもと同じように──いや、いつも以上に優しく丁寧だった。それは苛立ちを押さえようという高松なりの防衛策なのかもしれないし、ただの俺の考えすぎなのかもしれない。どちらにしろ、高松の少し体温の低い手は相変わらず心地よくて、俺はいつの間にか忍び寄っていた睡魔に、半分以上意識を持っていかれていた。
そんなときだ。不意に高松が「知っていますか」と訊いてきたのは。
俺は、眠気の混じった曖昧な口調で「なにが?」と返す。その不明瞭な言葉に、高松は少し笑ったようだった。俺の髪を梳く手が、気持ち優しくなる。
「……髪には、人の心を縛る力があるのだそうですよ」
──ただし、女性の髪に限って、ですがね、という口調がどことなく不満そうで、俺は笑った。
「なに、うらやましいの?」
「……別に、うらやましいというわけではありませんが……迷信ですしね」
でも、と高松は続ける。
「もしそれが叶うのなら……試してみたいと思わないわけではありません」
「……気になることでも?」
「別に、そういうことでもないのですが」
とは言うものの、高松の口調は少し歯切れが悪い。
高松とかキンタローとか、頭のいいやつは、俺が思いもよらないことを考えていたり、心配していたり、悩んだりしていることが多い(ただグンマの場合は、また話が別だ)。むろんそれが役に立つ場面も多々あるのだが、今回の高松のそれは、俺にしてみれば、考えすぎては拙いのではないかと思えるような内容だった。
「……誰か、繋ぎ止めておきたい奴でもいるのか?」
訊きながら俺が思い浮かべていたのは、グンマとキンタローの顔だ。高松が引き止めておきたいと思う者のことなど、この二人以外には考えられない。
いわゆる《空の巣症候群》というやつだろうかと俺は思った。俺と分離してからというもの、失われた時間を埋めようとするかのように成長・変化共に著しいキンタローは、今や俺の片腕として、ガンマ団にもなくてはならない存在へと一気に上り詰めてしまった。そんな状況で、仕事が忙しいこともあってか、俺の知る限り、ここ数ヶ月は高松と顔を合わせることもほとんどなかったらしい。一方のグンマも現在は自分のやりたいことに没頭し、研究室にこもってばかりなのだと聞く。同じ学者肌とはいえ、グンマと高松では研究分野がまるで違うのだから、一度興味あることに集中してしまえば、こちらもまた、顔を合わせる機会はぐっと少なくなるようだ。一生巣立つことはないのだろうと思われていたグンマですら、少しずつとはいえ、高松の手を離れつつあるように見えた。
高松は馬鹿じゃないから、二人の自立を、理解しないことも、阻むこともしないだろう。それ以前に、そんなことをしようとする自分を許しはしないだろう。けれど、理性ではそう考えていても、感情がそれに添うとは限らない。その葛藤の欠片が、先の高松の言葉なのだろうかと、俺は少し重苦しい気分になった。──もしその考えが当たっているのだとしたら、高松から二人を奪ったのは──結果的にそうなるようにしてしまったのは、俺に違いないのだから。
俺が眉間に皺を寄せていると、高松が不意に、その部分に指で触れた。
「なにを突然、難しい顔をしているんですか」
ひんやりとした、しかし冷たすぎない心地よい指の感触に、緊張していた額の筋肉が、ゆっくり弛緩していくのがわかる。
「……難しいこと考えてんのかな、って」
俺はため息と共にそう吐き出した。
「人の心なんて、どうやったって縛れるようなもんじゃないだろう?」
言うと、高松はかすかに笑ったようだった。
「……ええ、確かに、そうです。他人の心など、どうこうすべくもない。わかりきったことです。どうにかしたいなどと、望むことすら愚かな」
やはり、と思う俺に対し、でも、と高松は続ける。
「でも……他人の心ならいざ知らず、己が心ぐらいは──」
「……高松?」
「自分の心が、知らぬうちに変わってしまうことの方が、よほど苛立たしいのですよ。そのような心配を、しなければならないこと自体が」
高松は、自嘲気味に言った。
「他人の心が変わってしまうのは、仕方のないことだと私には思えます。人はそれぞれ己の世界を持っていて、様々な物事から影響を受けている。変わるな、ということの方が無理です。まして、それを外から把握することなど」
だから、他人に関しては、どんな変化もありえないことではないと高松は言う。
「ですが、それはあくまで他人に関しての話──自分に関しては、と私は思うのです。私は自分自身のことを、なぜ全て把握できないのだろうかと。変化を予測する客観的な視点を、なぜ持たないのだろうかと」
高松は、俺の髪を優しく丁寧に梳く。
「変わりたくなどないのに──なぜ変わってしまうのだろうかと」
「……高松」
「ですから私は、自分の心を縛ってしまいたい。いつまでもこのまま、変わらずにいられるようにと──」
「変わるのが、嫌なのか?」
「ええ」
「それが良い変化でも?」
「そうですね……良い変化なら、大目に見ないこともありません。……ですが、良い変化があるということは、やがて悪い変化も起こり得る、ということです」
「……」
「この先、あなたは私を嫌いになるかもしれないし、私はあなたを嫌いになるかもしれない。どちらが先に起こるのか、それとも同時なのか、それが起きた場合、どう対処すべきなのか、そもそも対処する術があるのかどうか……そのようなことを冷静に考えられるほど、私は非情ではないので」
だから、と高松は希う。このままの状態がずっと続くように、変わることのないようにと──
廊下でドクターとすれ違った。軽く片手を上げたのを挨拶の代わりに通り過ぎようとしたら、素早くその手をつかまれて、さっさと人気のない部屋へと連れ込まれてしまった。
「……ド、ドクター、な、なんか用?」
入ったときの勢いのまま、壁際に追い詰められ、その状況もさることながら、「俺、なんか気に障ることでもしたか?」と反射的に考えてしまうのは、事の大小に関らずドクターの報復が壮絶を極めるからだろうか。──もっとも、俺の場合、他の皆とは大分内容は違うのだろうが。
無言のまま、俺をじっと見つめてくるドクターの顔がとても近い。ひょっとしたらそのままキスでもされるんじゃなかろうかと思うくらいには。
……そう言えば、最近お互い忙しくて、ゆっくり向き合う暇もなかった。長期間放置による欲求不満の代償は、この場合、いったいどれくらいになるのだろう?
そう考えるうち、ドクターの真剣そのものの顔がゆっくりと近づいてくる。やっぱりな、と思いながら、今さらどうする術もなく、また、下手に抵抗して状況を悪化させるほど馬鹿でもないので、俺は素直に目を閉じた。
──だが、予想していたものは唇には訪れなかった。ドクターの吐息が頬をかすめたかと思うと、始め柔らかな感触が、次いで濡れた感触が耳朶に触れる。想定外の感覚にうっかり硬直した俺を他所に、生暖かい舌が耳朶全体を包み、ゆっくりと愛撫するように動いた。時折当たる歯の感触に、俺は思わず息を詰める。
……まさか、このまま?(ドクターならやりかねない)──という俺の、期待と懸念の入り混じった感情はしかし、意外にもあっさりと離れていったドクターの前に、拍子抜けに終わった。
「……耳の付け根に、傷ができています。──栄養不足によるものですね。他にも、過労が原因と思われる気になる症状がいくつか」
実際ぶっ倒れたらみっともないですから、あとで薬を取りに来てください。
思わぬ展開に呆然としたままの俺とは対照的に、いかにも事務的な口調で告げると、ドクターはさっさと踵を返す。未だ治まらぬ動悸を抱えたまま、俺はその後姿を見送るしかなかった。
扉の前で思わせぶりに立ち止まったドクターは、振り返って嫣然と微笑む。
「早く来ないと、後悔しますよ」
なにが、と言い返す余裕すらなかった。静かに閉まる扉に向かって、俺はため息をつく。
──……そう、きっと後悔することだろう。行っても、行かなかったとしても。まんまと誘惑にはまってしまった今となっては。
俺は悪態をつき、乱暴に髪を掻き混ぜながら、これからの仕事の予定を思い浮かべた。──もしくは、優秀な補佐官を出し抜く手立てを。
ドクターが触れた耳朶は熱を持って、いつまでも冷めることがなかった。
事が終わって、シャワーも浴びて、さて寝よう、というときになってもまだ、従兄は悪戯をやめようとはしなかった。
この従兄がスキンシップ過剰なのは昔からで、それは関係が微妙に変化した今もあまり変わらない。むしろこうなることで一層親密さを増すのだろうかと予想していた俺にしてみれば、あっけないくらいにいつも通りだとも言えた。従兄との親しさは、従兄弟同士の領域にとどまり、決して恋人同士のそれにはならない。かえって、身体を重ねることの方が、幼いころからの気安さの延長線上にあったのだろうかと思えてしまうくらいだった。
とはいえ、二人ともいい歳をした大人で、恋人同士で、そうであるならば、過剰なスキンシップがいつもいつも健全なまま終わるはずもない。特に身体を重ねた後のそれは、もう一度濃厚なやりとりに移行することも多かった。
普段ならば、そのときの気分や流れにまかせて従兄の悪戯を享受するところだが、今日ばかりは話が別だ。仕事がひどく立て込んでいて、本当なら従兄とこんなふうにすごす余裕すらない。しかし現状として、睡眠時間を削ってまで従兄とこうしているのは、要するに従兄の可愛らしさを装ったおねだりに負けたからで──そしてきっと、俺の方も欲求不満状態にあったからで。
実際にしてしまったことを後悔するのは馬鹿らしいし、従兄のせいにするのは余計みっともない。この場合、少しでも明日に影響が残らないよう──もう一人の従弟に余計なことを勘付かれないよう努めることこそが最重要課題だと言えた。
シーツの中にもぐりこんだ従兄は、背を向けて横になった俺の腰のあたりを、先程からしきりにまさぐっている。指でなぞってみたり、キスしてみたりと、それは未だ子供の悪戯程度のものだが、いつ具体的な行為へと変わるか知れたものではない。一方、俺自身がうっかりその気になってしまうというはなはだ不本意な可能性もある。従兄の行為が可愛らしいものであるうちにと、俺は軽く身を起こしてシーツをめくった。
「おい、いい加減にしろよ、グンマ。俺はもう寝るんだからな」
従兄を軽く睨みつけると、不満そうな声が返ってくる。
「だって、ずるいよ、シンちゃん」
「……なにが」
天才だと評判の従兄は、時々こちらが理解できないことを前置きなしに言う。今回のこの行為にも従兄にはそれなりの正当な理由があったらしいのだが、それがなんなのか全くわからず、俺は呆れて首を傾げた。
「だってさ、シンちゃんの、ここ」
言いながら、従兄は俺の腰の一点に指で触れた。
「僕の知らないうちにヴィーナスのえくぼができてるんだもん。……前のときはなかったのに」
そのいかにも拗ねたような口調がおかしくて、俺は思わず笑った。
「へえ、そいつは知らなかったな?」
もう一人の従弟に身体を返し、新しい身体をもらってかなりになるが、これまで特別違和感を覚えたことはなかった。まして背中の些細なくぼみになど、気づくはずもない。
だが、従兄にしてみれば、長年一緒に過ごしてきた俺の身体が、一朝一夕に変わってしまったことに、どうしても納得がいかないらしかった。
「シンちゃんは気にしなさすぎなんだよ。他にもいろいろ違うところがあるのに」
無頓着でいられるなんて信じられない、と言う従兄に対し、なんでお前の方が俺の身体のこと知ってんだよ、と思ったが、薮蛇になりそうだったので口にはしなかった。
「ふうん。……てことは、キンタローにはそのナントカのえくぼってのが、ないのか」
それがあるのとないのとではどう違うのか知らないが、我彼の差に敏感なもう一人の従弟が知ったなら、確実に二時間は薀蓄を聞かされそうな事実だ。
「さあ、それはどうかなあ……。キンちゃんの身体も、シンちゃんのころとはずいぶん違ってきているみたいだしね」
……だからどうしてそんなに観察眼が鋭いんだと思ったが、そこもあえて追及はしなかった。
「ま、どうでもいいけどな。……ただ、キンタローにはそういう余計なことは言うんじゃねえぞ」
「え? なにが? なんで?」
心底不思議そうにする従兄に、俺は冗談めかして言う。
「キンタローがそのことを知ったら、絶対自分の目で確認しようとするだろ。このクソ忙しい最中に補佐官にまで襲われるなんざ、俺は御免だからな」
俺の言葉に、従兄は朗らかに笑った。
「それは言えるかも。そしてさ、この赤い点々を見て、心配しちゃったりするんだよ。『シンタロー、これはなんだ? 病気か!?』そして急いで高松が呼ばれたりなんかして──」
「……もういい。それ以上言うな。なんか実際にありそうで嫌だ」
まざまざとその状況を想像してしまい、げんなりとして俺は再びシーツの中に避難した。
うっかりつまらないことで時間を潰してしまった。これで明日、もう一人の従弟の顔をまともに見れない──いろいろな意味で──なんてことになったら、それこそ笑えない。
そんな俺の懸念を他所に、従兄は未だ笑いながら、背を向けた俺にぴったりと寄り添うようにして寝そべった。
「それなら、シンちゃんが万が一にも襲われないように、僕か保険かけといてあげるね」
言うなり、普段の愚鈍さが嘘のように、従兄は素早く俺の腰に唇を寄せた。軽くつねられたような痛みが一瞬──痕にはきっと、鮮やかな紅い色が残っていることだろう。
確かに、これはとんだ保険だ。
「──だからいい加減にしろっつってんだろうが! この馬鹿!!」
照れ隠しに俺は従兄を蹴った。だがその足には、我ながら情けないくらい力が入っていなかった。