廊下でドクターとすれ違った。軽く片手を上げたのを挨拶の代わりに通り過ぎようとしたら、素早くその手をつかまれて、さっさと人気のない部屋へと連れ込まれてしまった。
「……ド、ドクター、な、なんか用?」
入ったときの勢いのまま、壁際に追い詰められ、その状況もさることながら、「俺、なんか気に障ることでもしたか?」と反射的に考えてしまうのは、事の大小に関らずドクターの報復が壮絶を極めるからだろうか。──もっとも、俺の場合、他の皆とは大分内容は違うのだろうが。
無言のまま、俺をじっと見つめてくるドクターの顔がとても近い。ひょっとしたらそのままキスでもされるんじゃなかろうかと思うくらいには。
……そう言えば、最近お互い忙しくて、ゆっくり向き合う暇もなかった。長期間放置による欲求不満の代償は、この場合、いったいどれくらいになるのだろう?
そう考えるうち、ドクターの真剣そのものの顔がゆっくりと近づいてくる。やっぱりな、と思いながら、今さらどうする術もなく、また、下手に抵抗して状況を悪化させるほど馬鹿でもないので、俺は素直に目を閉じた。
──だが、予想していたものは唇には訪れなかった。ドクターの吐息が頬をかすめたかと思うと、始め柔らかな感触が、次いで濡れた感触が耳朶に触れる。想定外の感覚にうっかり硬直した俺を他所に、生暖かい舌が耳朶全体を包み、ゆっくりと愛撫するように動いた。時折当たる歯の感触に、俺は思わず息を詰める。
……まさか、このまま?(ドクターならやりかねない)──という俺の、期待と懸念の入り混じった感情はしかし、意外にもあっさりと離れていったドクターの前に、拍子抜けに終わった。
「……耳の付け根に、傷ができています。──栄養不足によるものですね。他にも、過労が原因と思われる気になる症状がいくつか」
実際ぶっ倒れたらみっともないですから、あとで薬を取りに来てください。
思わぬ展開に呆然としたままの俺とは対照的に、いかにも事務的な口調で告げると、ドクターはさっさと踵を返す。未だ治まらぬ動悸を抱えたまま、俺はその後姿を見送るしかなかった。
扉の前で思わせぶりに立ち止まったドクターは、振り返って嫣然と微笑む。
「早く来ないと、後悔しますよ」
なにが、と言い返す余裕すらなかった。静かに閉まる扉に向かって、俺はため息をつく。
──……そう、きっと後悔することだろう。行っても、行かなかったとしても。まんまと誘惑にはまってしまった今となっては。
俺は悪態をつき、乱暴に髪を掻き混ぜながら、これからの仕事の予定を思い浮かべた。──もしくは、優秀な補佐官を出し抜く手立てを。
ドクターが触れた耳朶は熱を持って、いつまでも冷めることがなかった。
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