鍵の外れる音がした。
研究室の個室のキーを持っている人は限定されており、その中でもノックもせず、ましてや事前に連絡もせずに入室してくる相手はほぼ決まっている。確率は二分の一。その内の一人は現在学会で留守をしているので、残るは一人。
などと道筋だって考えなくとも、何となく分かる。彼は嬉しそうにパソコンから顔を上げると、小走りに扉の方に近づいた。
「珍しいね、どうしたのシンちゃん」
入ってくると同時に声をかけられた従兄弟は、一瞬驚いたように目を丸くしたがすぐに態勢を立て直し、手に持った鉢植えを彼に差し出した。
「これ。遠征に行ってくるから、また預かっといてくれ」
「ん、分かった。今回も長いの?」
彼が観葉植物を受け取ってパソコンデスクの上に置くと、緑色の葉が小さく揺れた。従兄弟が育てているこの植物を預かるのは、これで何度目になるだろう。長期遠征の度に、律儀に世話を頼む従兄弟の大切は鉢植えは、どこか南国風の外観をしている。
「まーな。三週間か、一ヶ月か、そんくらい」
「そんなに? 今回はキンちゃんもいないんでしょ」
彼がどことなく心配そうな様子を見せると、従兄弟は心得たように小さく苦笑した。従兄弟は彼の個室に雑然と並べられた発明品を見渡して、相変わらず変なもんばっか作ってんな、と至極失礼なことを呟いくと、なおも心配そうな表情を消さない彼に向き直り、安心させるかの如くふっと表情を和ませる。
「キンタローとは向こうで合流。ま、任務自体そう難しいもんじゃねぇから、案外さっさと終るかもな。だからその間、それの世話頼むわ」
それ、と観葉植物を指差す従兄弟につられて、彼もデスクの上の鉢植えを見る。どこで手に入れたのか、それとも誰かに貰ったのか、彼の目からもあの島を思い出させるその植物は、人間達のやり取りなどお構い無しに、ただじっと静止している。
「まかせといて」
微笑みながら、いつからだろうと彼は考える。あの子供から託された花を押し花にしてからか、そもそもあの島から帰ってきてからか、従兄弟はやけに植物を好むようになった。元々世話好きなところはあったので、動物や植物の面倒を見る事は子供の頃から得意だったのだが、最近はそれに拍車が掛かっている。窮屈な団を逃げ出して島で一年を過ごした結果、従兄弟の変化した面を好ましく思う一方で、その差異は彼の心をざわつかせた。
壁に入ったヒビのようだ、と彼は思った。
研究室の打ちっぱなしのコンクリートの壁には、いつ入ったのか分からないほど小さなヒビが無数にある。普段はそこにあると気付かない、もしくは発表用のポスターなどで隠してしまえばいいだけのヒビ。決して亀裂までには至らない、取るに足らないささやかな、けれど知らないうちに毛細血管のように広がるヒビが、従兄弟を繋ぎとめておくものに入ってはいないだろうか。
「ねぇ、シンちゃん。手、貸して」
「はぁ? なんで」
「いいから」
渋々と差し出された右手を、彼はぎゅっと握り締めた。ひるんだ様に引っ込められそうになる手を逃がさないよう両手で強く握って、彼は祈ろうとしたが、何を祈れば良いのか分からなかった。
――どうか無事に帰ってきますように。
ありがちだよね、と彼が込み上がる自嘲を押し殺し目を上げて従兄弟の顔を確認すると、随分と当惑した表情が浮かんでいた。いつものように冗談めいた態度ではなく、少し改まった態度で接触をはかると、従兄弟はいつも居心地の悪そうな顔をする。その子供の頃とは変わっていない反応を嬉しく思いながら、彼はもう一度軽く握ってから、従兄弟の手を解放した。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
彼の一連の行動を、従兄弟は解せないと言った様子だったが、にこにこと笑う表情に問い質す気が失せたのか、じゃぁな、とあっさり別れを告げると早々に個室から出て行った。
ひらひらと手を振ってそれを見送って、彼は自分の手のひらを改めて見つめた。一族の中では小さめな手は、それでも成人男性としては標準的な大きさだ。自分はこれで何を繋ぎとめようとしたのだろう。
「帰ってきて欲しいのは、戦場からとか、視察先じゃないんだよね」
指を組みながら、じゃぁどこからと自問したが、答えを出すことなく打ち切った。思い出と戦っても勝ち目は無い、と最初に言ったのは誰なのか。嫌な事を言う。
「…一緒に留守番しようか」
彼はパソコンデスクの上の鉢植えの、鮮やかな緑色をした葉を軽くそっとなでると、日当たりの良い窓際に移した。
(2006.12.1)
文中の観葉植物=textのストレリチアorレギネーだったりしなかったり
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