休憩所代わりにされた講堂は、いつにもまして賑やかで、缶ジュースやスナック菓子、発泡スチロールの薄いトレイに乗ったたこ焼きや焼きそばが、香ばしい匂いを振り撒きながら飛び交っている。
若者ばかりが集まった独特の熱気が渦を巻き、開け放しているとは言え外よりも空気のこもった室内は、外気より随分体感温度が高い。グラウンドからはノイズ混じの祭囃子が聞こえてきて、否応にも祭り気分を盛り上げていた。
仕官学校の生徒の中には訳ありの者も多く、夏季休暇に帰る場所のない生徒達のために、暇つぶしで催されたのが、この「夏祭り」の最初だと言う。広々としたグラウンドに夜店が並び、卒業生や現役の戦闘員達も顔を出す夏場のお祭りは、毎年中々繁盛していた。わざわざ浴衣に着替える洒落者や、いつもは無口なくせに慣れない酒を飲んで饒舌になっている者がいて、いつもの制服から解放された生徒達は、この時ばかりは無礼講とばかりに、そろいもそろって浮かれている。
教員も生徒も出払った構内は静まり返っていた。
いつもは気にしないはずの足音がやけに大きく廊下に響き、彼は何となく忍び足になった。グランドとは対象的に人気のない教室をいくつも通り過ぎながら、このしんとした感じは病院に似ていると、意味もなく考えていた。
「どーすっかな、これ」
彼は静寂に押しつぶされそうになったのか、わざと独り言を呟いた。目線の高さに持ち上げられた右手には、金魚の入ったビニール袋が提げられている。
「こんなもん、掬うんじゃなかったぜ…」
祭りの夜の高揚とした空気に感化されたのか、この団で生まれ育った彼もこの日ばかりは浮き足だって、色とりどりの屋台に目移りしつつ、同級生と夜店を冷やかして歩いていた。
屋台の焼きそばが不味いだの、ビールが高いだの、好き勝手な事を言いつつ、ひょいと覗きこんだ金魚掬いの屋台で、悪友のあまりの下手さにいらいらし、「かせっ」と掬い網を奪い取ったのが悪かった。
半分破れかけた紙で器用に金魚を一匹掬った彼に「おー」と後ろの観客歓声を上げたので、調子に乗って5匹掬ったところで完全に破けた。
一緒に回っていた同級生と戦利品の金魚を押し付け合ったが、「シンタローが掬ったんじゃろうが」「掬ったもんの物だべ」等と口々に言われて、結局彼が金魚の入った透明の袋を提げる羽目になった。
狭い寮でわざわざ飼うのも馬鹿らしく、中庭の池にでも放そうかと思ったが、生憎と皆考えることは同じらしい。いつから放置されているのか分からないくらい澱んだ水の池の中には、屋台の金魚が何匹も泳いでいた。先客の鯉だかフナだか分からない大きな魚に遠慮して、隅の方に固まる貧弱な金魚たちが何となく可哀想で、手にした金魚を持て余したまま構内に忍び込んで今に至る。
目的の生物室は三階の一番奥にあり、手にした鍵でドアを開けた。さらに奥の準備室に足を踏み入れると、メダカのような小さな魚が入った水槽が、隅で白い光を放っていた。これに混ぜてしまおうか、と一瞬考えたが、実験に使われる危険性があることに気付いて思い直す。
彼は水道の蛇口に金魚の入った袋を引っ掛けて、手ごろな空いた水槽がないか探し始めた。割れたビーカーやフラスコが乱雑に放り込まれた箱の隣に埃まみれの水槽を発見し、引っ張り出して綺麗に洗う。ついでに餌やエアポンプや塩素抜きの薬品も失敬し、それらをまとめて医務室に運んだ。
「で、何でここに持ってきたんですか?」
「実験には使うなよ、ドクター」
疑問にはあえて答えず、さらっと釘を刺した彼を、不機嫌そうに保険医が睨んだ。祭りの喧騒を逃れて医務室に避難していたらしい従兄弟に金魚の袋を押し付けて、彼はさっさと水槽の準備を開始する。
「へぇ、これシンちゃんが掬ったの?」
「おお」
呑気にわたあめをかじっている従兄弟は、金魚の目の高さまで持ち上げて物珍しげに観察していた。
「一、二、三…四五。五匹も凄いねー」
わたあめを片付けて、リンゴ飴に取りかかった甘党の従兄弟に胸やけを感じつつ、褒められたので得意げに「だろ」と返す。
「邪魔です」
「良いじゃん別に。屋台の金魚なんかどうせ長くは持たねーんだしさ」
「分かってるんなら、最初から金魚すくいなんてしなければ良いじゃないですか。私の手間を増やさないで下さい」
文句を言い募るドクターにうんざりして、彼は従兄弟に目で合図を送る。ぴんときたらしい従兄弟が、にっこり笑って「高松、僕からもお願い」と言うと、「グンマ様のお願いなら、仕方ありませんねぇ…」と鼻血をたらしながらあっさりと手のひらを返した。
ひとつ貸しね、と金魚の袋を返しながら耳元で囁いた従兄弟に、分かったってと了承の意味を込めてひらひらと手を上下させて、準備の整った水槽に金魚を放す。金魚達は突然の広い世界に途惑ったように右往左往していたが、すぐに優雅に泳ぎ始めた。
四匹の黄赤色の金魚に混じった一匹の黒い出目金が、やけに目立つ我が身を恥じているかのように、隅っこに移動する。
「俺と同じ奴がいるなー…」
後ろの二人に気付かれないよう小声で呟いて、彼はガラス越しに出目金をつついた。
(2006.9.2)
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