目覚めよと呼ぶ声が聞こえ
キンタローと俺が二人揃って遠征に行くのはめずらしくはない。
アイツ一人に任せるときもあるが、難しいヤマだと二人で片付けに行くことが多かった。
ごくたまに、俺が他の幹部と赴くこともあったが、たいていそれはキンタローが研究で手が離せないときくらいだった。
また、そうでないときはこっちが断っても、「シンタローと一緒に行くのは俺だ」と他の団員を連れて行くことを嫌がった。
今回も俺一人で充分だと何度も断ったというのにくっついてきている。
治安が悪いのはどこも同じだ、と言っても聞く耳は持たず、「手が空いてるからいいだろう」と押し切られてしまった。
そして、それは今もそうだ。
宿営地に残っていろ、といくら言っても取り合わずキンタローは俺とともにジープに乗り込んでいる。
この国には、国土に縦横無尽に地下水路が張り巡らされている。
カレーズと呼ばれるそれは、単に水源の確保というだけではなくゲリラ達が潜伏する洞窟の役目も果している。
殲滅したはずのとある組織の生き残りが立てこもっているらしい。
噂に過ぎないかもしれないが確認は必要だ。
何かあったときのためにおまえは残っていろと、キンタローに命令したが彼は俺を押し切った。
仕方なく、あらかたの団員を復旧作業や支援活動へと回し、最後のアジトと言うべき村へ俺とキンタローはと少数の部下とともに向かった。
ジープから砂煙のたつ地面へと降りる。
カレーズの入り口に近づくに連れ、少しひんやりとした空気を感じた。
洞窟の中は静まり返っている。
時折、蝙蝠が羽ばたいたが人間の気配はしない。
水滴が天上から垂れる音と俺たちの靴音だけが響いている。
けれども奥へと進むうちに硝煙のにおいがかすかに鼻についた。
自決でもしたのだろうか。
不審に思いさらに奥へと進もうとすると強い力で突き飛ばされる。
「キンタロー!?」
傍らにいた従兄弟が力いっぱいに押しのけたため、俺の体は吹っ飛ぶ。
酷い硝煙に包まれた爆音とばらばらと岩盤が崩れる音がした。
耳の奥は、きーんと気に障る音が鳴っている。
耳が痛い。鼻にはツンとした刺激臭が届いている。
呻き声や叫び声、俺の無事を確認する部下の声が聞こえた。大丈夫だ、と掠れた声を上げる。
そう、俺は大丈夫だ。
けれども。
俺を突き飛ばしたアイツはどうなったんだ。
アイツは…。キンタローは。
キンタロー、と従兄弟の名を呼び土煙で見えなくなっている辺りを探ろうと立ち上がろうとする。
けれども、名を呼ぶ前にもうもうと立つ土埃に咽た。
煙で閉ざされ、周りが見えない。
どこにいるんだ、キンタロー。頼むから無事でいてくれ。
***
神に祈るような気持ちで復旧作業を行い始めてから数時間が経つ。
時間が経つにつれて、苛立つ気持ちがどんどん大きくなる。
焦りは禁物だ。
市街地から召集した団員の手前もあって、取り乱すことは許されない。
団員だけじゃない。
この騒ぎで少し離れた村からも野次馬が訪れている。そして、それを装った敵国のスパイらしきものも。
本当は率先してスコップを持って崩れた岩盤を堀り、風穴を開けたいのだ。
けれども、そんなことは許されない。
おそらく火薬はすべて引火しただろうが、万が一の場合を考えて総帥自らが救助に乗り出すのは憚られた。
部下達が発掘作業を進めていくのを折りたたみ式の椅子に腰掛けてじっと待っていることしか出来ない。
彼らが汗水を流し、命をかけて作業しているのを見ていることしかできないのだ。
かすかな呼吸しかしていない部下や服毒したと見られるレジスタンスたちの体が掘り出された。
一人一人、あるいはすでに一体と数えるものになってしまった彼らを顔と写真とを照合していく。
けれどもいくら待ってもキンタローはいなかった。
日が沈む。
今日はもう捜索は中止だ。時間が経つごとに生存の可能性は少なくなる。
けれども、キンタローのために部下を酷使することは出来ない。
「総帥、まだ博士が…」と言い募るものもいた。
だが、「いい。今日はもう休め」と命じる。
部下達は釈然としない顔をしていた。
本当は自分だけでも居残って探したい。
しかし、それは許されないのだ。
総帥という枠組みに縛られて何も出来ない自分がただもどかしかった。
***
復旧と捜索に明け暮れる部下を現場に残し、俺は現地の有力者との渉外に当たっていた。
あの場では何も出来ない。
心配であっても自分の指で土を掘り起こし、アイツを探すことは出来ないのだ。
たとえ、アイツを見つけても手当ては俺の役目じゃない。それは医者に任せることだ。
それに、まだみつかっていない部下はキンタローの他にもいる。
あの場にいて俺が誰よりもキンタローのことを考えていたら部下達はどう思うだろう。
従兄弟だから仕方がない、と思われるのはまだいい。
だが、総帥が一個人にかかずりあうのはよくない、団員はすべて平等じゃなかったのかと不満が起こったらどうしようか。
ただでさえ、団の方針も変わり、フラストレーションがたまっているのだ。
そんな気持ちを伝播させたくはなかった。
何もかもが嫌になっていた。
足手まといでいるのは嫌だった。キンタローがいないと何も出来ないと弱みを見せたくもなかった。
アイツが傍にいない、キンタローの生死が分からない事態にとてつもなく不安を感じている。
取り乱して泣きたかった。
俺の所為だと責めたかった。
でも、そんなことは許されない。俺はガンマ団の総帥だから。
敵地であっても、いや敵地だからこそ毅然としていなければいけない。
こんなことで隙を見せるわけにいかない。キンタローは弱みではない。
なにがあっても、俺は総帥として居続けなくてはならない。
不安で仕方がなくても、どうしようもない気持ちであっても俺は己の為すべきことをしなくければならない。
泣きたくなる気持ちを奮い立たせて仕事に打ち込む。
仕事をしている間は、キンタローのことを忘れることができた。
にこやかな営業スマイルで駆け引きを行うこともできた。
交渉が終わり、事故現場に戻るかを促されても俺はそうしなかった。
戻りたかったけれどもずっと書類に取り掛かっていた。
だって、あいつが戻ってきたときに仕事が山積みになっていたらかわいそうだろう。
その言葉は部下には言えなかったけれども、書類の中のキンタローの筆跡を見るたびに涙が零れそうになった。
無事でいてくれよ、キンタロー。
***
キンタローがみつかったのは次の日の夕暮れだった。
カレーズの中のいくつもに分かれている洞窟内を捜索していたときにみつかったのだと報告される。
爆発の際の衝撃で吹っ飛んだ時に、脆くなった土壁を破ったのだろう。
何人かそういった状態でみつかるケースがあったと言われた。
衝撃が脆い土壁に吸収されたことと天井から落ちる水が幾年もかけて水溜りを形成していたのがよかったらしい。
下が泥だったために洞窟内へと打ちつけられた際にクッションの代わりとなって体は保護されていた。
保護したときには意識がなかったがじきに目覚めるだろうと医師に告げられる。
礼もそこそこにキンタローの病室へと向かう。
逸る気持ちを抑えようとしても、駆け出す足は止まらない。
廊下ですれちがった看護婦に怒られてもそんなことはどうでもよかった。
キンタローが生きている。
今の俺にはそれだけが重要なことだった。
眠っているのかもしれない。
ドアを開ける前に医師が言っていたことを思い出し、そっとノブを回す。
後ろ手でドアを閉めると中央のベッドに横たわるキンタローの姿が見える。
そっと近づくと彼はまだ目を閉じていた。
小さな丸椅子に腰掛けてキンタローをじっと見る。
横たわり、眠ったままの彼の頬にはガーゼが当てられていた。
わずかに頬にかかる金色の髪はただでさえ血の気の通っていない顔色を青白く見せている。
鍛え上げられた上半身は喉の辺りまで包帯で巻かれ、両腕にはいくつものチューブが挿しこまれている。
そっとキンタローの手に触れると鼓動が伝わってきた。
それに熱い。
確かに生きている証拠に思わず安堵のため息が出る。
「キンタロー」
と手を握ったまま小さく呟く。
すると、彼は身じろいだ。
どこか痛むのか、苦しいのか。ナースコールを、と立ち上がろうとするとうっすらと彼が瞼を明けるのが見えた。
青い目が揺らぐ。ぼんやりと視界を彷徨わせている。
よかった。目覚めたんだな。よかった。
「キンタロー」
よかった、とか大丈夫かとかいう言葉は言わなくてはならないと思っているのに声にならない。
けれども名を呼ぶ声に彼の目はひかりを取り戻す。
「キンタロー」
もう一度呼びかけるとキンタローはゆっくりと微笑んだ。
口の端が切れて痛いのだろうに俺を安心させるように彼は笑みを浮かべる。
「シンタロー、無事…か…?」
「……馬鹿野郎」
俺はどこにも怪我をしていない。おまえが突き飛ばしてくれたから大丈夫だ。
自分の怪我を心配しろよ、馬鹿。
馬鹿だ、馬鹿。
ついてくるなって言っただろう、と何度も言ってもキンタローは笑みを消さない。
「ああ…でも、おまえ…すこし、痩せたな」
掠れた声を途切れ途切れにキンタローは呟くように言う。
笑みを消して、心配そうに俺を見る彼に胸が締め付けられる。
痩せてなんかいねえよ。
2日しかたってねえだろう。俺のことばっか心配してるなよ、馬鹿。
「シンタロー」
「なんだよ」
「シン……」
もう一度俺の名前を呼ぼうとしたキンタローが不意に咳き込む。
けほけほと寝たまま、苦しげに急きこんだ彼にサイドテーブルにあった水差しから水を与える。
すっと喉を潤す水に次第に荒い呼吸が落ち着いた。
「寝ろよ、なあ。も、いいから」
しゃべるなと静止するとキンタローは再びうすい笑みを浮かべた。
動くこともままならないはずなのにチューブに繋がれている腕を懸命に伸ばし、俺の頬へと指をむける。
ふるふると震えながら伸ばされたが頬を掠る。
いつのまにか流れていた涙を拭うぎこちない仕草に、熱いものが胸に込み上げてくる。
熱く乾いた指先が涙を拭う。キンタローの指に涙が吸い込まれていく。
「シンタロー……泣くな」
制止しても口を開けるのをやめずにキンタローは俺の名を呼ぶ。
キンタローは困ったように涙を拭いながら笑う。
「おまえが呼ぶ声がずっと聞こえていた」
目を細めながら話すキンタローに熱い涙がどんどん溢れていく。止めたいのに目からはどんどん涙が溢れ落ちる。
「おまえの声が聞こえていた」
やさしく拭ってもどんどん溢れる涙を払いながらキンタローは言う。
俺の声が聞こえていた、と話す彼に溢れる涙と熱い想いが止まらない。
「しゃべるなよ……もう」
寝ろ、ゆっくり休めと涙で声にならない言葉を紡ぐとキンタローは笑った。
俺の頬を撫でて、それからようやく彼は静かに目を伏せた。
初出:2004/05/17
黒野犬彦様に捧げます。
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惑いの闇
なんとはなしに目が覚めた。
寒さを感じたわけではない。ずっと体を抱きこまれていたから、一人で寝るよりもあたたかかった。
二人分の体温ゆえ、体はわずかに汗ばんではいる。
途切れずに声を響かせたためか、喉はいがらっぽかった。
眠る前に受け止めた熱の残滓も拭われ、起き上がっても不快感は生じない。
でも飲もうと、そっとベッドを抜け出す。
裸足にひんやりと床の冷たさが伝わった。
喉をペリエで潤した後、音を立てずにそっと寝室へと戻る。
薄暗がりに一灯だけついたベッドの明かりを頼りに歩みを進めるとキンタローも目を覚ましていた。
わずかな明かりでは部屋の様子も何も分からない。
カーテンは空いていないから、外の様子も何も分からない。
けれども、仄暗い闇の中で身動ぎもせずにキンタローは虚空を見つめていた。
ぼんやりと視線を彷徨わせていた彼に不信感が募る。
「……キンタロー?」
キンタローはシーツを体に巻きつけ、上体を起こしていた。
呼びかけても彼の視線は定まらないままだ。
「おい、キンタロー」
ベッドに乗り上げ肩を揺すると次第に青い瞳に光が灯り始めた。
「キンタロー」
「……ああ、うん」
生返事のような声であったが、ようやく返った反応に少しほっとする。
「どうしたんだよ?怖い夢でも見た…とか」
からかおうと明るく声を出したがキンタローは笑うこともなく、俺を凝視していた。
張り上げた声が尻すぼみになる。
伺うように「どうしたんだ」ともう一度口にすると、彼はそれに答えることなくただ腕に俺を抱いた。
強い力が腕や背にかかる。
ぎゅっと抱きしめられた驚きと息苦しさに思わず、拒否する声を上げるとキンタローは泣きそうな顔で俺を見た。
肩口に頭を埋め、「もう少しこのままでいてくれ」と囁く。
いつにない真剣なその声音に身を任せると縋るようにかき抱かれる。
離さないといわんばかりに抱きこむ力は強い。
早く解放して欲しかったがどうして彼がこんな行動を取るのは分からなかったゆえ、気になった。
そうだ、と”怖い夢…”と言及したときのキンタローの表情を思い出し、なすがままにされていた体をわずかに動かす。
背に腕を回すと小刻みに震える振動が伝わった。
ゆっくりと、落ち着かせるために子どもをあやすような手つきで背を撫でる。
何も心配はいらないんだ、と伝えるようにゆっくり擦ってやる。
はじめ、キンタローはびくりと肩を揺らした。
だが、手を止めずに撫でていると次第に彼の肩から力が抜け始めた。
俺の背に回された手は、緩めることはなかったが徐々に落ち着きを取り戻していく。
深いため息の後、彼の体の震えが止まった。
回されていた腕が解かれ、肩口に埋めていた頭が離れ、俺の視界に青い目と金色の髪が飛び込んでくる。
わずかにその青い目の端は赤らんでいた。
目じりに涙のしずくがついていた。
指を伸ばして、拭ってやる。軽く目を伏せたキンタローの表情はいつもと違い頼りなげだった。
拭っていた指を髪へと伸ばしても、キンタローは俺にされるがままにしている。
「おまえがいなくなる夢を見た」
俺の胸に顔を埋めたたまま、キンタローはぽつりと漏らした。
髪を梳く感触に目を細めながらもどこか地に足が着いていない表情をしていた。
「ゆめ?」
「ああ」
キンタローの髪を梳く手は休めない。
柔らかな髪を撫でながら先を促すと口ごもりつつも夢の内容をキンタローは口にした。
「最初は一緒にいたんだ。おまえは笑っていた。艦…だったと思う。なぜか、駆け回っていて……。
ああ、そうだ。小さい頃のグンマとおまえみたいに俺たちは駆け回っていた。
そのうちに走るのが飽きたとおまえが言って……なの、いきなり駆け出しながら”俺を見つけてみろ”と言ったんだ。
少し驚いたが、かくれんぼ、というものなのだと認識した。おまえが突拍子もないことを言い出すのは不思議でもないから……」
身を起こし、キンタローは俺から離れた。
自然、彼の紙からは俺の指が離れる。
向かい合ったとき、キンタローの青い瞳は揺れていた。
髪から離した指におずおずと彼は手を伸ばした。
そっと握りこまれる。幼児のようなその仕草はちぐはぐで少しおかしかった。
「それで、どうしたんだ」
握られた手はそのままに夢の続きを促す。
両目を瞬かせた後、キンタローは再び口を開く。
そこからは重い内容だった。
「最初は楽しかった。
楽しかったんだ。いろいろな部屋の扉を開けておまえを探すのは。子どもの遊びだと思っていたが、楽しかった」
楽しかったのだと吐露するキンタローに俺は何もいえない。
彼が子ども時代を送ることは俺によって失われた。
楽しかった、と吐き出したときの冴え冴えとした青い目に胸が打たれる。
その色は涙をためたような色なのに、懐かしさや喜ぶような感情も混じっていた。
「だが……。扉をすべて開け終わってもおまえはどこにもいなかった。
隠れた場所を変えたのかもしれない。飽きてしまって部屋に戻っているのかもしれない。
そう思って元の場所に戻ってもいなかった。
どうすればいいんだと、思って……もう一度探そうと廊下に出ようとしたら扉が開かなかったんだ。
ナンバーを打ち込んでも反応はなくて…しかも段々と暗くなっていった。
夜のように真っ暗な部屋に閉じ込められて、扉を叩いたり、おまえの名前を呼んでも部屋からは出れなかった」
青い瞳が揺らいだ。
握りこまれていた指にわずかに力が込められる。
ここに俺はいるというのに、それでも確かめるようにキンタローは片方の腕を伸ばし頬をなぞる。
「夜の闇は怖くない。真っ暗闇のような世界に俺はずっといたのだから。
一人でいるのも怖くないはずだった。おまえがいなくても今まで俺は平気だった……。
ただ、取り残されてしまっただけなのに、どうせ誰かが気づいてそこから解放してくれるだろうに何故だか怖かった。
おまえと俺がひとつに在ったときのよう闇色の世界なのに明かりがない。
光源ではないんだ。おまえの声も響かない、何も聞こえない、見えない、そんな無音の闇が訪れるのは初めてで…。
それで、何故だかとてつもなく怖かったんだ。
暗闇なんて平気なはずなのに、おまえがいなくても平気なはずなのに何故だか怖かった」
過呼吸に陥ったようにキンタローは早口で捲し立てた。
しゃくりあげて泣くように息をつき、何度も目を瞬かせ、肩を揺らしていた。
涙はまだ流れていない。必死で堪えながら、彼はずっと「怖かった」と口にする。
「起きたらおまえがいなかった…」
そうしたら夢の不安がそのまま大きくなっていったんだ、とキンタローが口にした。
悲痛なその声に心をぎゅっと締め付けられる。
「喩えようのない恐怖だった。夢を見たからだと言い聞かせてもシンタローはいないし、だから……」
青い目が伏せられた。睫を真珠のように涙が縁取る。
必死で泣くことを耐え、息をつくキンタローに俺はどうしていいのか分からない。
彼の不安を、恐怖をすべて取り除いてやりたいのに、ただひとつのことしか思いつかなかった。
握りこまれた指を解き、頬をなぞられていたキンタローの手を外させると彼の青い目は涙に染まった。
昔、コタローをあやしていたときと同じように、改めて彼へと指を伸ばし、乱れた金色の髪を払ってやる。
前髪があらわになった額にこつんと俺の額をくっつけるとキンタローは目を見開いた。
「よく見ろよ。俺はちゃんといる。いるから。おまえの傍にいるだろ?キンタロー。
不安なことは何もないんだ。俺はおまえから離れはしないんだから」
「……本当か」
「ああ」
疑うなよ。俺は約束は守るぞ。
微笑みながら口にすると、キンタローはぎこちない笑みを浮かべた。
「もう、ひとりにしないでくれ」
涙と笑みが張り付いた表情でキンタローは言う。
「ああ、しねえよ。絶対しないから」と言いながら、キンタローをぎゅっと抱きしめると嗚咽が聞こえた。
ひとりになんてするわけないだろう。
おまえは俺の大事な従兄弟で、ずっと一緒に生きてきたんだから。
闇にも孤独にも耐えられた男が、泣く。
ひかりを知ったことでその辛さに耐え切れずに泣いている。
抱きしめた俺よりもずっと強い力で抱き返してくるキンタローに俺は何度も約束した。
「おまえをおいていかねえよ。ひとりになんてしないから」
***
それはそう遠くない記憶だった。
いつだったかは忘れた。
けれどもシンタローが酷くやさしく、愛しむように俺の髪を撫でていたことを強く覚えている。
彼は約束を破った。
それは仕方のないことだったけれど、悲しいことには変わりがない。
一人で眠ることも、一人で仕事をすることもはじめてではない。
それらに不安などは感じていない。
以前、彼がいないことに不安を感じていたときと同じだ。
けれども、消えたシンタローがどう過ごしているのか考えると胸が張り裂けそうになる。
今だってそうだ。
空が白み始め、一日が始まるというのに心は明かない闇色に染まっている。
彼のいない世界に惑い、残されたわずかな希望を灯して過ごしている。
毎日、毎日、彼がもう一度約束をしてくれるのを願って過ごしている。
はやく、迎えに行かないといけない。
はやく、はやく、はやく……。
俺が感じている寂しさや不安のどれだけをシンタローが感じているのは分からない。
あそこには彼にとってかけがえのない友人もいる。
しかし、それでも心配なのだ。
シンタローがどうしているのか。どこでなにをしているのか。
それを思うたびにいてもたってもいられなくなる。
朝は毎日来る。今ここに訪れているように、明日も明後日もそれからずっと先も訪れる。
だが、いくら朝を迎えても、差し込む太陽の光を見ても、俺の心は沈んだままだ。
シンタローのいない事実に心が乱れ、惑う。
いつの日か感じたように、心が悲哀で満たされている。
シンタローを追い求め、不安を抱えたまま心が逸る。
今ある不安が歓喜に染まる日を求めてただ毎日突き進んで生きていく。
足は止めない。
走り出した運命は止まらないのだ。
彼をもう一度この腕に抱きしめるために、もう一度約束してもらうために。
カーテンを開けると目に痛いくらいの明るい光飛び込んできた。
けれども、こんなひかりじゃ闇色に染まったままの心は晴れない。
初出:2004/03/21
お気に召すまま
赤や青、緑の裾が翻る。
袖に染められた蝶や鳥が青い空に羽ばたいている。
スーツの波の中にところどころに黒や灰色、濃い紺色の布が混じる。
今日は成人式だ。
画面の中の、澄み切った青い空の下ではしゃぐ若者を見てシンタローは微笑ましそうな目をしていた。
ときおり、懐かしむ表情をしたのはきっと数年前の自分のことを思い出した所為だろう。
今年の目標だとか、大切な人へのメッセージというインタビューに答える若者に従兄弟はじっと見入っていた。
今日起こった事件の数々や国際情勢、スポーツ、天気予報が終わると再び画面に色とりどりの着物が映った。
穏やかな音楽とともに「それではまた明日」とナレーションが入る。
画面は切り替わり、賑やかなまでに仰々しいCMが流れ始めた。
正午きっかりにはじまるバラエティ番組を見ながら、俺とシンタローは食事にした。
何回言ってもシンタローは食事時にテレビを消すことをしない。
ときには口にものを運ぶよりも、テレビに釘付けでいるときが多いくらいだ。
成人式にちなんだクイズやらトークが繰り返される中、ちらりと映った観覧者の中に晴れ着を着た女性がいた。
あまり、十九、二十歳には見えない。
不思議に思うあまり、シンタローに尋ねてみる。
「今日は成人なら誰でもキモノを着るのか?」
すると、シンタローからは「はあ?」っと訝しげな声が返ってきた。
「さっき映った女がどうみても二十歳くらいじゃないんだ」
着てもいいのか、と聞くとシンタローは少し悩んでいた。
「親とかならいいんじゃねえ?」
「……子どもがいるような年でもなかったぞ」
う~んと考え込んだシンタローは、結局はどうでもよくなったのか「着たければ着せてやれよ」と言い捨てた。
「着物なんて今時、七五三と成人式くらいなんだからな」
と続け、彼は再び視線はテレビに向けたままパスタに格闘し始めた。
シンタローが皿やフライパンを洗う間、俺は洗い終わった食器を拭いて片付けていく。
洗剤の泡や湯がかからないように、シンタローはエプロンをかけていた。
そういえば、シンタローは正月の間もこのエプロンをかけておせちを作っていたな。
今年はずっと洋服で、和服を着ていなかった。
「キモノ…」
「なんだよ?また」
着ないのか、と横にいるシンタローに尋ねると彼は着ないとそっけなく答える。
「とっくに正月って気分じゃないしな」
今日は成人式だから関係ないし、と言い、最後に手を洗ってから彼はエプロンを脱いだ。
軽くたたんでキッチンのサイドテーブルに置く。
「正月だって着なかっただろう」
「そういう気分じゃなかったんだよ」
なんなんだ、それは。
「これだけキモノが溢れているのにお前が着ないのは物足りないな」
「親父みてえなこと言ってるんじゃねえよ」
伯父貴もそう思っていたのか。
余程しつこく伯父貴に着てくれとねだられたのか、シンタローはいやそうな顔をしていた。
「だいたいそんだけ人に勧めるんなら自分も着ろっつうの」
伯父貴には和装は似合わないと思う、そう真っ先に思ったが口にはしなかった。
いや、口にできなかったという方が正しい。
目の前の従兄弟がらんらんと目を輝かせている。
なにかよからぬことを思いついた顔だ。
「……シンタロー?」
本能的に危険を感じてあとずさると彼はにやっと笑って俺の肩を掴んだ。
「お前の着物姿見たことないよな?たまには着てみろよ、キンタロー」
***
鏡の前の俺はシンタローの黒い和服を着ている。
そして、それがとてつもなく似合っていない。違和感すら感じた。
馬子にも衣装という言葉で誤魔化すことも出来ない。
想像上のマジック伯父の和装と同じく、金髪碧眼が浮いて見える。シンタローのしっとりとした黒い髪とは大違いだ。
「…もういいだろう」
早く脱ぎたい。
金色の髪と黒い布が互いに主張しあっていてアンバランスだ。
体格は対してシンタローと変わりがないのに肩も袴から伸びた足もなんとなく似合っていない。
ちぐはぐな感じしかしない。
着せてる最中も着せた後もずっと俺を見ていてシンタローはなんとも思わないのだろうか。
じっと頭のてっぺんから爪先まで何度も見返していた。
「おまえ、けっこう和服も似合うんだな」
すらっとしててモデルみたいだな、とシンタローは耳を疑うようなことを口にした。
なにを考えてるんだ、シンタロー。
高松に視力検査をしてもらったほうがいい。
どこがだ、と眉を寄せるとシンタローが指で眉間をぐりぐりと押す。
「そんなカオすんなよな。せっかくカッコいいんだからさ」
「……」
「そうだ!写真撮ろうぜ、写真。正月のフィルム残ってたよな」
こんなもの記録に残さないでくれ…。
しかし、その願いが通ることはなく俺はシンタローに写真を撮られた。
最悪だ。きっと引きつった顔をしているだろう。
携帯でもデジカメでもないのが惜しい。
出来上がったらネガごと焼き払いたい気持ちになるに決まってる。
きっと、シンタローのことだ。俺の前に映っている正月の写真と一緒に皆に見せるにちがいない。
おまけにシンタローはさらに引きつるような提案をする。
「どうせなら街まで出てみようぜ」
せっかくだし、と従兄弟はにやにやしながらありがたくないデートの誘いを口にした。
「どう見ても二十過ぎの外人がキモノを着てか?」
勘弁してくれ、行くのなら着替えると言うとシンタローは「ダメだ!」と笑う。
「おまえ、今年五歳だろ?ちょうど七五三って理由があるじゃねえか」
それはそうだが…。って、シンタロー。俺は事情を知らないヤツには五歳に見えないぞ。幼児退行もしていないし。
ましてや七五三もこのキモノと同じく似合わない。
けれども、シンタローはいいことを思いついたとばかりに俺の意見を聞かずに壁に下がったコートをとり、マフラーを探し始めた。
「おい…シンタロー」
まだ、行くとは言っていないという言葉は口にする前に、彼の口からまた新しく追加された提案でかき消される。
「そうだ!甘いもん食いに行こう」
七五三には早いから千歳飴の代わりだ。
新しく出来たカフェにせっかく休みだから行こう、とシンタローが俺の手を引く。
引っ張られて、馴れない袴で足が縺れそうになる。
テレビで見た新成人のようにシンタローが屈託のないまぶしい笑顔で俺を振り返った。
「たまにはいいだろ?着物でデートも」
いや、よくない。シンタローがキモノだったら言うことはないんだが。
「カフェには洋服の方がいいだろう」
汚したら大変だ、雰囲気に合わない、歩きにくいんだといろいろな理由を言ってもシンタローは取り合わない。
「キンタロー、早くしろよ」
早く早く、と急かされ玄関まで追い立てられる。
あっというまに草履を履かされてしまう。
ここまできたらもう止められない。後はもうシンタローの計画通りになってしまう。
仕方ないな、とため息をつく。
本当に、仕方がない。
言い出したら聞かないシンタローも、彼の思いつきに反対できない自分も。
本当に仕方がない。
だが、まあ、不本意だが今日も付き合うとするか。
久しぶりに二人で出かけることだし。
「せめて写真は勘弁してくれ」
懇願するとシンタローは笑った。
「却下!せっかくのデートだから記念に残しておかないとな」
ああ、もう仕方がない。
「ほら、行くぞ。キンタロー」
ドアを開けるとまぶしい光と青い空が広がった。
初出:2004/01/09
ヤシロナナ様に捧げます。
チェリーの雫
ぱしゃ、となにかがすぐ傍で弾ける音がした。
ふわっと立ち上る甘い香り。
何事かと見回すとホールへと続く階段からグラスを持った女性が中身を零したようだ。
俺の髪やジャケットから甘い香りが漂っている。
彼女はちっともすまなそうではない表情で謝っていた。
瞳は憎しみでぎらつかせ、口唇には謝罪の言葉を乗せて。
彼女の謝っていた相手は、俺だ。ガンマ団総帥の俺だ。
「シンタロー総帥、大丈夫でしょうか」
部下の言葉には「ああ、平気だ」と平静を装う。青ざめたりしたら、いい笑いものだ。
俺はガンマ団総帥のシンタローだ。付け込む隙は与えられない。
黒い髪からは紅い雫が滴っている。
いつもの赤い軍服だったら染みは余計目立ったかも知れない。
今日のパーティは新生ガンマ団が契約した某政府のお抱え商人が主催したものだ。
政府とレジスタンスとの小競り合いを治めたのが縁である。
政府主催でなく、一応民間の者が主催しただけあって客の大半は血生臭さとは無縁の者たちだ。
はじめから気を使って軍服ではなく黒いフォーマルタキシードに身を包んでいる。
赤い軍服で行こうかと思ったが、キンタローに止められた。
ガンマ団を前面に出すのはよくない。おまえの服は持ってきてある、と同じようにフォーマルタキシードに身を包んでそう言っていた。
アイツは俺と別行動だ。アイツの方は政府お抱えの議員や学者どもとのパーティに行っている。
アイツが止めなかったら、もっと反響が多かったんだろうな。酒じゃなくてナイフだったかもしれない。
暗い緋色の雫は黒に溶け込んでしまって見た目には分からない。
しかし、強い香りとともに髪が濡れてしまっていた。
「このような事は誰にでもあるので、お気になさらず」
失礼、と談笑する人々の背を押すようにして出口へと向かう。
主催者や今後つなぎをつけたい人物にはすでに挨拶は済ませてある。
もともと義理で参加したパーティだ。
途中で帰っても平気だろう。
傍目には、うっかりと階上から零してしまったかに思えるだろう。
だが、着飾った人々が社交的な挨拶を交わす中で俺たちの存在は異色だ。
つい最近まで殺し屋集団だったガンマ団の総帥とその血族。
勿論、今では人を殺めることはないがそれでも薄汚い家業には変わりがない。
彼女は、ガンマ団に対してなにか恨みがあるのだろう。
ドアマンに一応主催者には帰ると伝えるように頼んでおく。
会場の外で待たせておいたSPに車を回させ、ホテルへと戻る。
車中で髪を軽くハンカチで拭ったが、彼女の表情が目に焼きついたままだ。
憎しみでぎらぎらしたまっすぐな悪意と甘い香りで気分が悪い。
部屋に着くと同時にSP共は下がらせた。俺はもう休む。キンタローもそろそろ戻ってくるから、警護はいい。
そういうわけにはいきません、と騒ぐ部下も蹴散らし部屋へ戻った。
纏わりつくような甘い匂いがとても気持ち悪い。
さっさとジャケットを脱ぎ捨てる。それでもシャツの襟の辺りからなんとなくにおいが漂う気がする。
髪もべたついている。
シャワーを浴びることにして、着ていた物はクリーニングに出すことにした。
熱い湯が上から注がれる。固定式のシャワーヘッドのため、俺の頭から足まで滝のように湯が流れていく。
普段なら使い勝手が悪いと感じるだろうが、甘い香りがどんどん流れ落ちていって体が軽くなる。
排水溝へと流れ込んでいく。
備え付けのシャンプーと石鹸の香りが俺の体を包んでいく。
気が張っていた体から次第に力が抜けていった。
シャワーの後、バスローブに身を包んで一息ついていると電子キーを解除する音が聞こえた。
***
義理で参加したパーティとはいえ、なかなか有意義だった。
学者達との話はどれも自分の興味をひくものだったし、議員達と交流を深めるのもそう悪いことではない。
この地での、あるいは国際的にガンマ団の立場を強固なものにするのに役立つ。
そして、それは従兄弟の総帥としての地位をゆるぎないものとさせていく。
パーティで振舞われたカクテルは不思議な色をしていた。
赤を濃くしたような色。従兄弟の軍服よりも濃い。従兄弟の髪色のような濃さをたたえていた。
口をつけるとふわふわと甘い香りが漂った。アルコール度はそんなに高くないのに、なぜが頭がふわふわとする。
この酒は従兄弟のようだ。ふわふわと俺を捉えて離さない。
帰り際にホストに尋ねるとチェリーブロッサムだと答えが返ってきた。
お一人で飲むのならチェリーブランデーがいいかもしれない、と付け加えられた。
たしかにカクテルをつくるのは面倒だ。飲むのだったらそのままがいい。
ホテルに戻る前にその酒を買おうと寄り道することにした。
ホテルに着くとシンタローの部下やSPが下がれと指示されたことを報告してきた。
命令違反だがそうもいかず、ずっとホテルの要所を固めていたとも。
俺がじきに帰るだろうから警護はいいと従兄弟は言っていたらしい。仕方のないヤツだ。
この国は安全とは言いがたいのに。
買い物の最中も何度か不審な視線を感じたくらいだ。ガンマ団に対してよく思っていない連中はどこにでもいる。
シンタローの、総帥命令を聞かなかったとはいえ責める謂れはない。
「あいつには俺からよく言っておく。ご苦労だったな」
部下達はほっとした様子だった。
エレベーターを使って部屋まで向かう。停止したとき、少し揺れて提げた袋から瓶が触れ合った音がした。
部屋の前までたどりつき、ジャケットの中からカードキーを取り出す。袋の中の酒瓶がかちゃかちゃと再び音を鳴らした。
ランプが赤から緑へと変わり、キーが解除されて室内に入ると従兄弟はベッドに腰掛けていた。
バスローブを着ていたからもうシャワーを浴びたのか。随分と早く切り上げてきたのだな、と思う。
「帰ってきたか…」
従兄弟はふぅっと息を吐いた。心なしか口唇が青い。
シャワーを浴びたにしてはおかしい。具合が悪いのだろうか。
「どうした気分でも悪いのか」
同じようにベッドに腰掛けて、額に手を当てると従兄弟からあ、と小さい声が上がった。
当てていた手を掴まれ、下げさせられる。
「どうした、シンタロー。嫌なのか?」
熱はないようだった。けれども口をぎゅっと引き締めている。
「おまえ…なんか甘い匂いがする」
気のせいかもしれないけど。
「甘い匂い?ああ、これかもしれないな」
提げてきた袋から瓶を取り出す。それを見たとき従兄弟の顔が凍りついた。
「それ…」
「チェリーブランデーだ。さっきのパーティで出たのはカクテルだったんだが、これならそのまま飲めるからな。
薦められて買ってきた。おまえと飲もうと思ったんだが」
「悪いけど…俺はいらない」
もう休む、と目を逸らして言う。
「…なにかあったのか」
甘い香りに反応し、瓶を見てからも様子がおかしい。
「なんでもいいだろ」
もう、寝ると従兄弟は言う。それ以上の会話は望まないと全身で否定していた。
立ち上がって背を向け、シーツを剥いでいる従兄弟を後ろから抱きしめるとびくっと体が震えた。
「やめろよ…そんな気分じゃない」
震えて搾り出すように言う従兄弟の耳に口唇を寄せる。
「気分じゃなかったら、そういう気分にするまでだ」
言わないのなら口を割らすまでだ。
ベッドに転がして、従兄弟の目の前に酒瓶を突きつける。
「おまえはこれを見たときおかしかったな」
キャップを捻って、一口呷る。甘い香りが口腔に広がった。
「なにがあったか知らないが…俺が変えてやるよ」
この酒の印象変えてやる。
しっとりした長い髪を掴んで引き寄せる。そのまま口づけると従兄弟はぎゅっと眉を寄せた。
何度も酒を呷り、従兄弟に流し込んで甘い香りに酔わせた。
酒の力を借りて何があったのか口を割らせると、この甘い香りを嗅ぐと悪意を持った人の顔が浮かぶと啜り泣いた。
カクテルをかけた女性だけではなく今まで殺した人や壊した町の人が浮かぶと。
「おまえの前にいるのは俺だけだ。他にだれもいない」
緋色の酒を流し込み、俺は何度も言う。
「シンタロー、辛いときは俺を思い出せ」
何を見ても、何があっても俺のことを思い出せ。
俺のことだけを思い浮かべろ。
自分の独占欲を刷り込むように、俺は何度も従兄弟に言う。
がくがくと揺さぶられながら、従兄弟は何度も首を上下に振った。
目覚めるとシーツには数滴、紅い雫がこぼれていた。
圧し掛かるようにして昨夜はベッドに押し付けていた従兄弟はいない。
シャワーの音がする。とっくに起きて仕度をしはじめたのだろう。今日は工場の視察を行う予定だった。
脱ぎ散らかして床に投げ捨てていたフォーマルタキシードは従兄弟の手によってランドリーボックスに入れられていた。
水音がやみ、しばらくすると髪をドライタオルで包み上げ、下着だけ身に着けた状態で戻ってきた。
石鹸の香りがチェリーの香りと入り混じる。
「今日はスーツだったよな」
いつもどおりの従兄弟に戻っていた。
ああ、と髪をかき上げながら立ち上がるとベッドメイクそのままの綺麗なベッドが目に入った。
「掃除するヤツはどう思うだろうな。二人の男が一つしか使ってないんだぜ」
従兄弟が恨みがましい目で見ている。
「酒がこぼれてるし、瓶もベッドにあるから夜通し飲んでたとでも思うだろう」
「そういう問題じゃねぇよ。俺はやめろって言ってたんだからな!とっととシャワー浴びて仕度しろよ!」
ああ、これは照れ隠しだな。昨夜は弱気になっていたし。
とくにそれに答えることなく、立ち上がりバスルームへと向かう。歩みを進めるたびに自分の体から甘い香りが漂った。
***
紅い紅いチェリーの雫。
甘くて強い香りがふわふわ漂う。
目覚めると体はキンタローに抱きこまれていた。眠りに深く落ちているため、力は込められていない。
身を捩ると金色の髪が鼻先に触れた。
そっと解いて起き上がると寝顔が見える。
ベッドから降りるとキンタローが脱ぎ散らかした服が目に入った。
床下の衣服をまとめ、ランドリーボックスに放り込む。
シャワーでも浴びるかと着替えを出していると透明な瓶が目に映った。
底の方にわずかに紅い液体が残っていた。
俺のことだけを思い浮かべろ。
何を見ても、何があっても俺のことを。
悪意のかたまりに苛まれることはもうない。ただ、何度も何度もキンタローの言葉が頭に響いてくる。
瓶を見るのをやめても、残り香に包まれているうちに思い出してしまう。
俺のことだけを思い浮かべろ。
何を見ても、何があっても俺のことを。
甘い香りを振り払おうと、キンタローのことを振り払おうとバスルームに向かう。
昨夜のことは礼を言うべきかも知れない。俺は、負の感情に囚われていた。
けれど、言ってはやらない。
いくら正しい療法だったとはいえ、やめろと何度も俺が言ったのに強引にしたのだから。
いつだって俺はアイツのことを思い浮かべる。
何を見ても、何があってもキンタローのことを。
けれど、それは言ってはやらない。
シャワーを捻ると熱い湯が注いでくる。甘い香りが排水溝に流れ込んでいく。
流れていく香りとともにあいつに言うべき言葉を一緒に洗い流す。
言ってはやらない。
俺がアイツのことをいつでも思っていることは。
初出:2003/10/26
桜寿様に捧げます。
Sweet pervasion
その報せを聞いたとき、従兄弟は「そうか」とただ一言ぽつりと漏らした。
仕官学校時代、従兄弟と肩を並べていた友人が戦地で生を終えたらしい。
アラシヤマやミヤギといった刺客衆と違って部隊で行動していたそうだ。
新生ガンマ団となってから殺生は禁止している。
各地で請け負った任務も不殺という制約の元では手こずることも多かった。
そして戦死の報。
その場には部下もいた。従兄弟は友人の死を知っても泣くことは許されなかった。
従兄弟はガンマ団という巨大な組織の総帥だ。総帥として隙を見せることも、情を出すことは許されない。
そのほかの報告も併せて部下から聞き終えると、従兄弟はただ一言下がれと口にした。
総帥室に静けさが満ちる。
漠然とした不安を孕んだような空気が従兄弟から感じられる。
下がれと部下に命じたとき、従兄弟の声は硬さも感傷も滲んでいなかった。ただ、いつもどおり返事をしていた。
他人の目の前で従兄弟は総帥らしく振舞おうと努力している。目に見えない努力ではない。
昔から従兄弟を知る者たちは、変わったとか責任感が出てきたんだなと口にした。
総帥位に就いてから、従兄弟はかつてこの部屋で権力を振るった伯父のように振舞うようになった。
不殺を布いてからは組織の足並みを乱す叔父を離脱させ、汚い駆け引きも厭わなかった。
叔父に、従兄弟にとっては父である人間に近づこうと一生懸命だった。
立ち止まることを、何かに囚われることはなかった。
「シンタロー」
声をかけると上ずった声でああとだけ返してくる。
「シンタロー」
もう一度声をかけると従兄弟はようやく顔を上げた。
返事をする代わりに、椅子から立ち上がり窓へと向かった。
従兄弟がブラインドを落とす音が室内に酷く響いた。差し込んでいたオレンジ色の光が階段状にきれぎれに入ってくる。
光が眩しかったからと言い訳する従兄弟の目には涙が溜まっていた。
眼が痛いと言い訳するように軍服の袖で拭う従兄弟に胸が痛くなる。
従兄弟はもう人前で泣いてはいけないのだ。
従兄弟のいる窓際へと近寄るとオレンジ色のぬるい光が肌を照らしていく。
心に不安を呼び込むようなぬるい温度と警報機のような色に眉を顰めながら歩み寄る。
オレンジ色の光を背に受けて、従兄弟は虚空をじっと見つめていた。
前に立っても視線を合わせることなく、彼はぽつりぽつりと話しはじめた。
「とくに仲が良かったわけでもなかった。島から帰ってきてからは、あの4人とつるむことが多かったしな」
俺、友達多かったし。
懐かしむような、それでも辛そうに思いを馳せる従兄弟に俺は何も言えない。
「今まではとくに気にしていなかったんだ。激戦地から戻ってこないやつがいても実力だと思っていた。
だけど、あいつの部隊を送ることを決定したのは俺なんだ。総帥の俺なんだよ」
俺が殺したんだ、と従兄弟は呟いた。
慌ててそんなことはないといくら言っても従兄弟は頭を振るだけで聞き入れない。
俺が殺したんだ、俺があいつを殺したんだ。
ヒステリックに繰り返す従兄弟の眼には涙が溜まっている。
オレンジ色の光が差し込んでくる所為か涙は赤く映って見える。
黒い瞳から、血のような涙が滲みはじめていた。
なだめるように彼の頬骨を撫でても、はりつく長い髪を梳くように流してもおさまらない。
怖いと、従兄弟は口にした。怖いと怖い、と何度も何度も口にした。
慄いた色を黒い瞳に宿し、震える体を自らの腕で抱きしめながら。
「知っているやつが死ぬなんて考えもしなかったんだ」
怖いよ、と従兄弟は慄く。
まるで夜に怯える子どものようだ。手探りの暗い闇に慄く子どものように従兄弟は震え続けている。
「俺しか見ていない。泣いてもいいんだ、シンタロー」
お前は総帥なんだ。部下の前では弱気を見せるな。
涙を見せるのは俺の前だけにしろ。
泣いてもいいんだ、と言うと従兄弟はびくりと肩を震わせた。
泣いてもいいんだ、シンタロー。
肩を震わせて従兄弟は堰を切ったように嗚咽した。
ひとしきり従兄弟が俺の前で涙を流した後、俺は従兄弟に今日はもう休めと言った。
休めない…仕事があるとくぐもった声で従兄弟が言っても相手にはしない。
今日は従兄弟は仕事にならないだろう。
総帥室からの内線電話はすぐにティラミスに通じた。
今日はもう誰も通さないようにと指示し、すぐに通話を切る。
なかばひきずるように彼を執務室の奥にある仮眠室へと連れて行く。
泣きはらして黒目を縁取るように赤くなった目。赤みが差した頬。
こんな姿を他の人間に見せることなどできない。
情を見せる従兄弟を部下に晒すことも弱気になっている従兄弟を身内に託すことも。
前者は従兄弟の立場からは許されない。後者は俺が許すことが出来ない。
従兄弟を慰める人間は、彼のすべてを理解する人間は俺だけでいい。
ほら、と促し眠るように指示をする。
「仕事のことは心配要らないから休め」
お前には休養が必要だ。
あとのことは俺がやっておくから。
言い聞かせるながら従兄弟の睫から涙を拭ってやるとそのまま手を掴まれる。
「…シンタロー?」
どうしたのか、と口を開く前に視線がぶつかる。
従兄弟の黒い瞳。焦燥と惑いと深い哀しみとが詰まった黒い色。いつもの明るい光を宿す黒ではない。
闇のように深く深く沈んでいく色に、視線は深い黒に吸い込まれていく。
まるで従兄弟に囚われるかのような錯覚が起きていく。
「いてくれよ」
従兄弟の言葉は呪文のようだ。
俺を捕らえては離さない。タチの悪い罠の様に絡めとられていく。
ここにいてくれと願う彼に逆らうことができずにただ言うなりになってしまう。
操られるまま従兄弟を強くかき抱く。それでも従兄弟は、
「抱きしめていてくれよ」
もっと、強く。もっと。
身を捩ってしまうくらいに強く抱きしめていても、もっと強くと懇願してくる。
怖いんだ。捕まえていてくれ。
怖い。怖いよ、キンタロー。
おさまっていたはずの震えを再び取り戻し従兄弟は縋りついてくる。
いてやるから。俺はここにいる。
幾度となく口にしても従兄弟はおさまることがない。
もっと強く。もっと。
抱擁が次第に甘さを帯びてきても、なだめる言葉が口付けへと変わってきても。
変わらず従兄弟は縋りついてくる。もっと強くと壊れた機械のように繰り返し口にしている。
もっと強く。もっと。
切なく甘い吐息をこぼしながら、従兄弟は一度だけ違う言葉を口にした。
「お前を確かめさせてくれ」
涙でくぐもった声でそれだけを従兄弟は言った。
俺の体に圧し掛かるように、なかば押し倒される形で寝台へともつれ込む。
私室とは違った硬い感触が背に伝わる。
重みを体に感じ、上に圧し掛かる従兄弟に目をやると震えていた。
怖いんだと口にし、震えている。
お前もいなくなるのが怖い。
譫言のように「怖い」「いてくれ」と繰り返す従兄弟の頭を撫でてやる。
俺はここにいる。ちゃんとお前の傍にいるだろう。
囁きだけでは足りないのか、存在を確かめるように俺の体を抱いてくる。
俺の髪を、眉を、瞼を頬骨を。
喉や肩を、すべてのラインをなぞりながら抱きしめてくる。
噛み付くようなキスを交した後、釦を引きちぎるようにシャツをはがされた。
確かに自分がいた証のように俺の胸や腹に従兄弟の刻印が散っていく。
俺はただ飢えた獣のようにがっつく従兄弟のしたいようにさせていく。
従兄弟が俺の体のあちこちを舐めたり、吸い上げたりするのも。
衣類のすべてをくつろがせて普段は俺が従兄弟に対して及ぶ行為を彼がしていても。
汗と涙にまみれた従兄弟の手が這い回る感触も長い黒髪が腹を刷毛のように撫でることも。
自ら慰めるように従兄弟が受け入れる準備をしているところも、インサートの瞬間も何もかも。
されるがままにされる。
従兄弟がなすまま流されていく。
従兄弟が俺の上で揺れる。ぽたりぽたりと汗と涙をこぼしては揺れている。
自ら俺の熱を奪うように、ぎゅっと絞り上げるように締め付けてくる。
蠕動する内部で反応を返すと従兄弟はふるふると睫を震わせる。
俺のすべてを感じ取るかのように、自分の中にいることを確認するかのように揺れ動く。
疼痛にかまうことなく俺の熱を追い求めてくる。
腹筋だけで上体を起こすと、ひときわ大きな声を上げた。
上体を密着させてやるとすぐさま爪を立ててきた。
熱い痛みが背に走る。抉り取るようなそれに眉を顰めながらも止めたりはしない。
熱い舌を絡めてきた従兄弟がそのまま肩口に噛み付いてきても止めたりはしない。
背にも肩にも俺の中心にも従兄弟が与える熱が疼いている。体中に従兄弟の熱が纏わりついている。
俺の上で従兄弟が切なげに揺れる。
深く深く繋がってゆらゆら揺れていく。
俺は従兄弟に手を貸さない。体を預けるだけで何もしない。
されるがままにされる。
従兄弟がなすまま流されていく。
揺れて絡めて、俺の存在を確かめるように好意に没頭する従兄弟を俺は見つめる。
従兄弟が俺を求めてやまない姿を目に焼き付ける。
揺れて、揺れて。
甘い吐息と喘ぎを熱に乗せて。
従兄弟は俺を求めてくる。
揺れて、揺れて。そして。
荒い息を吐き、涙や唾液をこぼしながら従兄弟が果てると同時に中に俺の熱を注ぎ込んだ。
お前が俺を拠り所にするのならば、いつでもこの体を明け渡してやるから。
繋がったままの姿勢で長い髪を梳きながら心の中でひとりごちる。
彼の中での熱はおさまっても、じくじくと従兄弟が与えた痛みが疼いた。
肩口で息つく従兄弟の髪が噛み傷をぴりりと刺激する。
甘い痛みが俺の体を侵食していく。
初出:2003/10/02
エン様に捧げます。