disgusting
少し休憩を取ったらどうだ、と勧めてみても従兄弟はペンを動かす手を止めなかった。
一緒に報告書を携えてきたグンマが
「ダメだよ!シンちゃん!!休まないと!!ね!」
と無理やりペンを奪い取り、お茶の時間を促してくれて本当によかった。
最近のシンタローは少し根を詰めすぎだった。
総帥位を継いでからというものの彼はがむしゃらに改革を推し進めていた。
俺やグンマ、前総帥である伯父は勿論のこと、彼の気の置けない友人達もサポートはしている。
けれども、シンタローはひたすら仕事に打ち込んでいた。
もう少し頼れと言っても聞かない。
そればかりか、率先してこなし、そして「ここはいいからおまえらはこっちをやってくれ」と体よくかわされるばかりだった。
彼が抱え込む重責は明らかに体に多大な負担を強いている。
絶大な力によって統率されていた伯父の時とは違い、年若く、秘石眼を持たない彼には反発も多い。
それだけではなく、百八十度転換したガンマ団の方針が大きな反駁を及んでいたりもする。
シンタローは疲れていた。
毎日の激務だけではなく、明らかに批正した表情には心の疲れも見え隠れしている。
だが、彼は弱音を吐いたりすることはなかった。
ただ、コタローの寝顔を見ているときだけ、穏やかな表情を浮かべていた。
グンマがティラミスに持ってこさせた菓子は酷く甘くシンタローを顰めさせるものだった。
うげ、と一口齧った途端に呻き声を漏らすとシンタローはぼかりとグンマを殴る。
「シンちゃん!ひどいよ!!なにすんの~」と喚くグンマに蹴りを入れながらシンタローは
「キンタロー、おまえだってそう思うだろ!?」
とピンク色のクリームが挟まれたロールケーキを突きつけた。
がぶり、とシンタローが持つケーキにかぶりつくと確かに甘い。
グンマが持ってこさせただけあって歯が浮くような甘さと濃厚なイチゴの香りとが口腔を渦巻いている。
一瞬、正直な意見を述べようかとも思ったが、疲れた体に糖分の摂取はとてもよいというのを思い出した。
少しどころでなく糖が多すぎる気もしたが……。
「たしかに甘いと思うが普通だろう。少し、疲れ気味だから甘く感じるんじゃないか?」
と、口内の甘さに耐えながらも必死に装うとグンマがよせばいいのに
「ほらね!シンちゃんがおかしいの!!」
と言う。ここで余計な一言を言わなければシンタローも折れてくれたというのに……。まったく。
「グンマ!おまえ、キンタローを味方にしただろ!!明らかにおかしい!!」
とシンタローは喚き、それに対してグンマが年甲斐もなく子どものように「おかしくないもん!!」と言い返す光景が始まってしまった。
いつものことだ。
だが、グンマと言い合いしているシンタローの表情はじゃれあいながらも疲労の色が濃く滲み出ている。
目元には隈こそできていないが、言い合う口調は歯切れが悪かった。
「いいかげんにしろ。嫌なら残せばいいだろう」
「キンちゃん!」
「キンタロー!」
「子どもじゃあるまいし、たかがケーキでケンカはやめろ」
「「だって!!」」
コイツが、シンちゃんがと口々に訴えてくる彼らに思わずため息が出る。
従兄弟同士、仲がいいのはいい。それはいいのだが……。
「コーヒーを入れてくる。シンタローは砂糖はなしでいいな?グンマのは甘いカフェ・オ・レにしてやる。だから、ケンカはやめろ」
大人しく待っていろ、とため息混じりに提案するとようやく彼らは黙った。
ぴたり、と同時に言いかけていた言葉をやめる彼らがおかしい。
だが、従兄弟というよりも兄弟みたいだなと言う言葉は仕舞っておいた。
***
コーヒーは総帥室の近くの給湯室で淹れることにした。
自室か研究室へ戻れば、とっておきの豆があったがそうすると時間が押してシンタローの機嫌が悪くなる。
できるなら休憩の時間を引き延ばしておきたいがそうもいかない。
インスタントで仕方がないが、二人とも許してくれるだろう。
シンタローの分はうすめに淹れよう、胃が荒れたらいけないだろうとティースプーンを紺色の蓋の瓶に突っ込む。
ざ、ざ、と適当に3人分の分量をフィルタに入れ、コーヒーメーカーをセットするとじきに水滴が落ち始めた。
透明なソーサーは徐々に嵩を増していた。
ぽたり、ぽたりと雫を零すものでしかなかったコーヒーメーカは湯気を立て、室内に香気を漂わせている。
カップを温めなくては、と戸棚にあった適当なマグカップを用意するとふと背後に視線を感じた。
「そこでなにをしている?」
空のカップに湯を注ぎ、給湯室のドアへと視線を向けるとそこにいた人物は躊躇いもなく姿を現した。
季節柄ふさわしくないトレンチコートを羽織った男はにいっと口角を上げた。
「そないに尖らんでもええやろ」
ええにおいやね、と言いながらアラシヤマは給湯室へと足を踏み入れた。
「俺に何か用か?シンタローは休憩中だ。報告ならあとにしろ」
素っ気無く、カップの湯を打ち捨てながら言うと忍び笑いが聞こえた。
「なにがおかしい」
「そないなことわかってるわ。相変わらず、シンタローはんに甘い思うてな」
「甘い、だと?」
アラシヤマは含み笑いをしながら近づいてくる。
常ならば炎の蝶を生み出す指を、ただ伸ばして彼は俺の頤へと手をかけた。
「休憩、とる暇なんてないやろ。××国との調停が拗れたんいうのはわての遠征先でも噂になっとったよ」
「……確かに情勢は逼迫しているがあまり根を詰めてても仕方がないだろう」
「……どうやろね」
アラシヤマは指を上へと滑らした。
彼が己の師につけた炎の爪痕、頬への醜いケロイドを思い出すかのように指先で俺の頬を撫でる。
その仕草とは裏腹に彼の纏う気は穏やかなものではない。
「先頃はハーレム様が離脱したばかりやのに」
アラシヤマの暗い瞳はシンタローと同じで黒く深い色をしている。
気ィ緩めすぎやないの、とその瞳を細め、アラシヤマは頬に当てていた指で前髪を掻き上げた。
少しだけはらはらと髪が彼の指先から落ちていくがそれでも視界はいつもよりクリアーになっている。
露になった俺の目元を軽く押さえ、アラシヤマは秘石眼へと人差し指を突きつけた。
「相変わらずきれいな眼やね。ハーレム様とはちぃっとばかし色が違うてるけど……宝の持ち腐れや」
「やめろ」
鋭く、一言で制すると彼は肩を竦め、指先を離した。
しかし、互いの距離は変わってはいない。嫌味ったらしく細められた目も毒を吐く忌々しい口唇もすぐ目の前にある。
「シンタローはんを心配するのもええけど、あの人は曲がりなりにも総帥やろ。
今はお従兄弟はんらと馴れ合ってる暇があったら仕事せんとガンマ団は立ち行かなくなりますわ。
そら、わてやてシンタローはんは親友や。なんだかんだ言うたって心配しとります。そんでも、その前にあの人は総帥や。
たまには息抜きくらい必要やろうけど、今あの人はやる気んなってはるんやろ?ほんなら横でごちゃごちゃ言わんと仕事させとけばよろしいんや」
「……アラシヤマ」
「こないな時間にあんさんが茶ァ淹れてるんじゃ休憩いうたかて無理やりに決まっとるわ。
従兄弟のアンタが用意する言うたら、シンタローはん断らへんやろ」
「それは……」
問われると歯切れの悪い答えしか返せない。
口ごもるとアラシヤマは大仰に肩をすくめながら口を開いた。
「根詰めすぎてぶっ倒れたらさすがにあの人かて自制するわ。それまでほっとき。
どのみち、ガンマ団がしっかりするまでは仕事が立て込むのは当たり前やさかい。
休憩なんか後からいくらでもとれるやろ」
「おまえはシンタローがワーカーホリックになってもいいというのか。
アイツは少し働きすぎだ。率先して行うのはいいことだが体を壊したら元も子もないだろう」
「そうは言うとらへんわ」
じゃあ、どういうことだと睨むとアラシヤマはふ、と息を吐いた。
いささか嘲りを含んだため息は神経を逆なでにする。
「鈍い人やね。
わてはこんくらいのことで倒れる方が総帥には向いてへんと思うわ。
マジック様が総帥になりはったのは10代の頃やて聞いております。
親が出来はったこと、とうに成人してはる息子が出来ん方がおかしいわ。
あんさんらみたいに甘やかす方向間違うてはるよりは倒れたほうがましやと思うけどね。
ほんでもそれが納得できひんかったらシンタローはんが倒れるのがいややったらアンタが倒れるくらい働けばよろしいがな。
アンタ、自分の研究やりながらでも茶ァ淹れてシンタローはんの世話やく時間があるんやから、その分あの人の仕事肩代わりすればよろしいやろ。
そしたら、わざわざ他に皺寄せさせんでもあの人が休憩する時間くらいできるわ」
「そんなことくらいとっくに提案している。だが、シンタローは俺に頼れと言っても聞かないからこういうことになっているんだ。
今、少しでも休ませておかないとシンタローは明後日には確実に倒れるぞ。
着任したばかりの総帥が床についたなんてデマが広がったら……」
「クーデターが起きる?キンタロー。アンタ、意外と阿呆やね」
アラシヤマは鼻で笑った。
思わずムッとして彼を見る。
するとそんな俺の表情にアラシヤマがくすりと笑みを漏らした。
「なにがおかしい」
じろりと睨むとアラシヤマが髪をかき上げて笑う。
「意外とガキやなあて。シンタローはんのこととなるとちっとも冷静な博士じゃあらへんね。
マジック様が健在なのは士官学校生かて重々承知のことやのに」
「うるさい」
こらえきれずにアラシヤマが身を屈めて笑う。
耳障りなその声を聞くたびに腹の底に重い澱が溜まっていく感じがした。
「お前はシンタローがどうなってもいいんだ!」
「そんなことはあらへんよ。ただ……わての認めた男がこんなことで躓くはずもない、とは思うとるけどね」
くだらないことを聞く、と侮蔑したように俺を見るアラシヤマに感情が堰を切ったように溢れ出す。
「……おまえはシンタローの家族じゃない」
「そうやね」
「おまえなんかアイツの親友じゃない」
「それを決めるのはアンタやなくてシンタローはんや」
「シンタローを総帥に押し込めるな!アイツは俺の大事な従兄弟だ!」
「団員が聞いたらどう思うやろ」
なんのかんの言うたかて、あの人は総帥や、と淀みない口調でアラシヤマが言う。
「おまえなんかがアイツの傍にいていいはずがない!!」
掴みかかりたい気持ちを抑え、手のひらをぐっと握り締める。爪が食い込む感触が己の感情の昂ぶりを突きつけるようで酷く厭わしかった。
ぎりっと歯軋りの音が二人だけの空間に響く。
「傍にねぇ……つかの間の休息と勝手でもあの人の望みを叶えたわてとどっちが側近に向いてるんやろうね」
嘲る笑みを浮かべたまま、アラシヤマがひらりと一枚の紙を寄越した。
「なんも見えてへんあんさんよりわての方がシンタローはんの役に立ってるやろ?」
アラシヤマに与えられた任務の報告書ではない。
先頃、拗れた調停に介入してきた大国の軍事情報がそこに神経質な文字で記されていた。
それは休憩に入る前までにシンタローが頭を悩ませていたひとつでもあった。
「……仲違いしてたアンタとシンタローはんが仲良ぅなったのはええことやろうけどね。従兄弟ごっこはもうええ加減にしなはれ」
現実を見ろ、とアラシヤマは暗い目を瞬かせて俺を見据えた。
特戦部隊が離脱した。民間人どころか軍人をも殺すことを許さないという団規に不満を持つ輩も少なからずいる。
それから代替わりした組織の屋台骨に不安を持つ中立国も、隙を窺う軍事国家や商売敵とでもいうべき暗殺集団やマフィアの多くも……。
「休憩が終わった頃、報告にあがるわ」
それまでせいぜい仲良ぅね、とアラシヤマは棘を含んだ口調で手を振った。
炎の蝶を生み出すように優雅に指先をひらひらと動かして。
コーヒーの高貴が部屋中に漂っている。
けれどもその香りは少しも気分をスッキリとさせるものではなかった。
従兄弟ごっこは終わりにしろ、という暗い声が胸の中に浮き上がってきて忌々しさのあまり俺はカップのひとつをシンクへと叩きつけた。
初出:2005/09/28
いしたけいこ様に捧げます。
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Amour et haine
亡き叔父の部屋を訪ねるなり、殺してやる、と壁に体を押し付けられてシンタローはなんだかおかしい気持ちになった。
ぎらぎらとした殺意を浮かべながらも対峙している男が長い指で掴んでいるのは喉元ではなく何故だかシンタローの髪だ。
ぎゅっと掴む感触に軽い痛みを浮かべながらも殺意を口にしてくる口が近づいてくるのを間近で見て笑いをこらえるのに必死だった。
*
初めて会ったときの髪を振り乱した血に飢えた獣のような印象はない。
髪を切った所為か幼くすら見える。それにスーツをきっちりと着こなしている。
パプワ島でひととき邂逅した亡き叔父によく似ていると思ったが、口には出さなかった。
触れるか触れないかぎりぎりまで近づいた新しい従兄弟に手を伸ばすと僅かに彼が後ずさる。
彼の面倒を見ていたハーレム、心を許した高松と従兄弟だと認めたグンマ以外が不意に触れたのが驚いたのだろう。
キンタローの戸惑いはそのままに、シンタローは伸ばした指で短い金色の髪をそっと撫でた。
「なにを……」
する、と紡ごうとした口唇を指で撫でると髪を撫でたときとは違ってキンタローは何の反応も見せなかった。
「俺は、おまえとやりあいたくないぜ」
手合わせ程度ならいいけれど、と口唇の輪郭をなぞるとようやくキンタローが僅かに身じろぐ。
戦慄いたように戸惑う従兄弟にシンタローは無性に愛しい気持ちと後ろめたい気持ちとが込み上げてきた。
キンタローが殺意を抱く気持ちは分かる。けれども。
「俺はおまえのことが嫌いじゃないぜ、キンタロー」
掠めるようにくちづけを落とすとキンタローの目が見開く。
どうしていいのか分からないといった表情で、髪を掴んだ指先の力を緩める彼に微笑み、体を引き寄せる。
抱きとめて、頬が触れ合う。
困ったように眉根を寄せるキンタローにシンタローは耳朶へと熱い息を吹きかけた。
「キンタロー、本当に俺を殺したいか?」
俺はおまえが嫌いじゃないのに、好きなのにと揶揄い交じりに囁くとキンタローの体がびくりと震える。
「殺し……たい?」
開いた眼には戸惑いの色が揺らめいている。
自分にはない青い瞳に微かな羨望を抱きながらシンタローはキンタローの髪を指で梳った。
幼子をあやす様に髪を梳くとキンタローの青い戸惑いの色が広がる。
「殺すなんていうなよ。俺たちは誰よりも一番近い存在なんだぜ」
ずっと一緒にいただろう、と熱い息を吐いて説くとキンタローはぼんやりとした顔で頷いた。
*
向かいの壁に掛けられた鏡の中で父が笑っている。
体は不思議と高揚していた。ふわふわとした気持ちでいっぱいで喩えようもなく幸せな気持ちだった。
主が生存していた頃から何も敷かれていなかった冷たい床に熱を奪い取られても体は冷えることがない。
脱がされ放り捨てられたスーツと、思いきりよく脱ぎ捨てた総帥服とが床の上で皺を寄せ合っている。
繰り返し繰り返しビデオのように再生されていたシンタローの過去の行動とは若干違っている。
彼の体に在った頃に目の前で行われていた行為はシンタローが彼の相手の立場であったはずだ。
抱かれることをシンタローが選択したことは分からない。彼はいつだって攻め立てる側だったはずだ。
それなのにシンタローは彼がかつて享受していたように、シンタローはキンタローのものに奉仕をしている。
舌が這う感触に息を吐くと唾液に濡れた口唇をシンタローは満足そうに歪めた。
「分かるか?おまえの味……」
くくっと悪戯な笑みを吐いてシンタローがキンタローの体に乗り上げる。
首に手を回し、舌を絡めたに止めたキスを彼は従兄弟に与える。
与えられたキンタローが「よく、わからない」と返すとシンタローは破顔した。
笑う従兄弟のことがよく分からなくて、そのうえ乗り上げた従兄弟の背に手を添えていいものかよく分からなくて彼の腰の辺りで手を持て余す。
困ったようにため息を吐き、どうすればいいか、と伺いたてるとシンタローは「俺がリードしてやるから」とキスをキンタローの額に落とした。
吐き出した体液はどろりとしていて、纏わりつく感触もあまりよいものではなかった。
シンタローの口腔に含まれていたときとは違い、空気に晒された自身が酷く据わりの悪い気分にさせる。
鏡の中の父がくすりと笑ったのを見て、ますますキンタローは途方に暮れた。
「ちゃんとそれで慣らせよ。じゃねえと俺もおまえもキツいんだからな」
前に急いでヤったとき食いちぎられそうになったことがあるの知ってるだろ、と過去を振り返るシンタローになんとはなしに頷く。
「次の日、いろんなものを投げつけられていたな」
体の痛みを盛大に詰った従兄弟の当時のお相手を思い返すとシンタローはキンタローの耳翼を噛んだ。
「おまえだって明日、眼魔砲撃たれたくないだろ」
乗り上げた姿勢のままの従兄弟に本当は彼が下になってくれればやり易いんだが、とキンタローは思った。
だが、肩口に甘い歯の感触が当たるのを感じて、高まる熱にそんなことはどうでもよくなった。
*
熱が過ぎ去った後は床の冷たさが身に沁みた。
互いの残滓を拭い取るものが何もなくて仕方なくそのまま身仕舞いを整える。
気だるげに総帥服を着込んだ後、寄りかかるシンタローにキンタローはグンマと会ったときのことを思い出した。
不思議とグンマに会ったときのように殺意が芽生えない。
「……なあ」
まだ熱が孕む声で呼ばれて、キンタローは返事の変わりに従兄弟の髪をやさしく触れた。
「まだ、俺を殺したいか?」
その問いにはくちづけで答えて、キンタローは向かいの鏡に微笑んだ。
父に肯定された執着はいまだ冷めてはいない。けれども。
今は、ただ愛しさで胸がいっぱいだった。
初出:2005/09/23
そぞろなアフタヌーン
海へ行こう、と誘ってくれたのはシンタローだった。
それなのに従兄弟は俺と一緒にいてくれない。他のヤツらとばかり楽しんでいる。
*
ジムのプールで泳ぐのとは違って、海辺でゆっくり過ごすのはなかなか気分がよかった。
暑い日差しとぬるい潮風とはいただけなかったが、太陽の下でシンタローの眩しい笑顔を堪能できるのはとてもいい。
だが、その笑顔は残念なことに独り占めできなかった。
幹部を慰安するという目的でガンマ団所有の別荘地へ来たので、一般市民はいないものの見知った団員はいる。
ミヤギやトットリ、コージお情けで呼ばれたアラシヤマをはじめ、ここにはたくさんの人間がいた。
(……どいつもこいつもいい気なもんだ。帰還したら仕事を押し付けてやる)
パラソルの下で海辺を眺めれば、水飛沫を上げてシンタローと興じるヤツらの姿が見える。
もともと「ビーチバレーしようぜ!」とシンタローが言い出したことだ。
二人でゆっくりと肌を焼きつつ日光浴でも楽しもうと思ったのに、すっかり当てが外れた。
「おまえもやるか、キンタロー?」とシンタローはビーチから少し離れた露店で購入したボールを抱えながら、笑顔で誘ってくれた。
誘ってくれたのは嬉しかった。だが、俺よりも先に誘ったのだろう、従兄弟の周りを取り囲むヤツらになんとなくおもしろくなく断ってしまった。
それから、俺はシンタローがはしゃぐ様子を見ながら日光浴をしている。
じいっと彼らの方ばかり見ているというのにシンタローはちっとも気づいてくれなかった。
ピィッとボールにオマケとしてついてきた笛が鳴る。吹いたのはトットリだ。
メンバーを交代しよう、とでもいうような動作が遠目にも分かる。
ビーチバレーをはじめたばかりのときもそうだったが、彼らはまた誰がシンタローと組むかで揉めている。
思えば学生時代からシンタローの周りには人が集まっていた。
士官学校でも実習や組み手で彼と組もうとたくさんのヤツが従兄弟に誘いをかけていた。
そのどれもが今と同じで、単に人気者に近づきたいといった行動だからよいものの、誰か一人でも疚しい思いを持つ者がいたのならどうしようと俺は考えた。
だが、疚しくないとはいうものの俺の、いいか、俺のだ、シンタローに必要以上に近づくなんて許せない。
眉間に皺を寄せてシンタローの肩に手を置いたコージを睨みつける。その手をどけろ、と念じるとシンタローが笑いながらコージの胸板を叩いた。
……おもしろくない。
げらげらと笑いあっている二人を囲みながら他のヤツラも話題に入ろうと近づいていく。
波打ち際でバナナボートと戯れていたグンマもいつの間にか陸に上がってきて、「シンちゃ~ん」と濡れた体のままシンタローに抱きついた。
冷てえよ、とシンタローが笑い転げながらグンマの体もろとも砂の上に縺れ込んだ。
子犬の取っ組み合いのようなふざけ合いがおこる。
くすぐったいよ~、と口を尖らせて文句を言うグンマの様子が手に取るように想像がつく。
記憶に残る、従兄弟たちの子どものときのような情景だ。
砂の上でくすぐりあったり、軽く蹴りを入れてシンタローとグンマは長い髪が砂にまみれるのも厭わずにじゃれあい続ける。
仲良くふざけあって楽しそうに笑い声を立てる彼らはとても微笑ましい。
けれども、屈託のない二人の笑顔とそれに便乗して他のヤツラもちょっかいを出し始めるにつれ、俺は鬱々とした気持ちになった。
こんなことなら、はじめから意地を張らずにシンタローと一緒にいればよかった……。
ざざざ、と打ち寄せる波の音とはしゃぐ声が今は恨めしい。
***
ふー、っと鼻先に息がかかるのを感じた。
頬に何かが触れてくすぐったさに身を捩り、薄目を開けると濃く陰を落とした砂が目に映る。
誰か傍にいるのか、と気配の方向へと重い瞼を開けて視線をさまよわせると見知った顔が笑った。
「おはよう、キンタロー。おまえ、ずいぶんよく寝てたんだな」
すっげえ日に焼けてる、とシンタローが笑いながら俺を見た。
上体を起こすと皮膚がひりりと痛む。
どのくらい俺は寝てたんだろうか。
身を起こし、シンタローの手からミネラルウォーターのボトルを受け取る。
一口流し込むと喉は渇きを癒そうとさらに水を求めた。
ごくっ、ごくっ、と一気にボトルの半分を開けるとシンタローが「もっと飲むか?」と俺に聞いた。
「いや。もういい」
ボトルの蓋を閉めて辺りを見回せば、日も翳り始めている。
海の音以外に聞こえるものは何もない。
ガンマ団のプライベートビーチ、ということもあって地元の人間も見られない。
あれだけ騒いでいた他の団員もグンマも見当たらなくて、俺はシンタローと二人きりという事実にどぎまぎした。
「他のヤツラはどうしたんだ?」
気になって尋ねるとシンタローはあっさりと「帰った」と一言言った。
「疲れたから帰ろうって話になったんだけどさ。おまえ探しにきたら寝ちまってるし……。他のヤツラは帰して俺はここで休んでたんだよ」
グンマのヤツは僕もいるって喚いていたけど、とシンタローは付け加えながらパラソルをたたむ。
俺も起き上がり、ビーチサンダルを履いた。
タオルで汗を拭い、バッグからシャツを取り出す。
ハイビスカス柄のアロハシャツはここに来てから購入したものだ。
今はいったい何時だろう、とパラソルを片付けるシンタローを見ながら思い、何の気なしに左腕を上げる。
時間を確認しようと手首に目を向けたが、腕時計はそこになかった。
「……?」
つけたままにしてあったはずなのにどうしてないんだろうか。
それとも時計をつけていたと思っていたのは思い違いで、部屋に置き忘れたんだろうか。いや、そんなはずはない。
ぐるぐると時計の在り処を考えていると、シンタローがパラソルの片づけを終え、俺の横に来た。
そして、そのまま俺の手を取る。
「部屋に帰る前にプール行こうぜ。体冷やしたほうがいいだろ」
ああ、と火照った肌の事を考えて頷く。歩み始めてから、繋いでいない従兄弟の手に俺の時計が嵌められていることに気づいた。
「シンタロー、それは」
俺のか、と尋ねるとシンタローは「やっぱ気づかれたか」と笑った。
「そのまんまだと日焼け痕がくっきり残るだろ?寝ているおまえからそーっと抜き取ってみたんだよ。
けっこうかちゃかちゃ音立てちまったのに気づかないからさ、部屋に帰るまで気づかねえのかもと思って嵌めてみたんだけど」
俺にはあんま似合わないな、とシンタローが俺の腕時計をしげしげと眺めながら言う。
「……全然気づかなかったぞ」
俺はよっぽど疲れていたんだな、と思ったよりも午睡を楽しんでしまったことにため息が出る。
まどろむ前にシンタローを囲んだヤツらに感じていた嫉妬心を夢寐に口にしてしまわなかっただろうか、とも思った。
「時計借りた後もおまえの髪の毛弄ってみたり、色々したんだけどな。
ちっともうんともすんとも言わねえし、眉毛を少し動かすだけでつまんねえの」
手を繋ぎ、海岸を歩きながらシンタローが茶化すように言う。
そうか、と返事をするとシンタローが俺の手をぐいっと引っ張った。
「――!」
砂に足を取られ、途端に俺はシンタローの胸元へと引き寄せられる。
思いのほか強かった力によろめいて、倒れこむとシンタローは砂の上に尻餅をついた。
「あのな、キンタロー」
くすり、と彼の体に乗り上げた格好の俺にシンタローは笑いながら俺の首にかじりつく。
「シンタロー!?」
いくらプライベートビーチだからとはいえ、これはまずいんじゃないかと思う。
泳ぐことをやめて近くを散策している団員でもいたら、と慌てて従兄弟を引き離そうとした。
けれども、シンタローは身じろぐ俺に笑いながら「誰も見てねえよ」と囁いてくる。
「今日のおまえなんかヘンだよな。いつもはうざったいくらい俺と一緒にいたがるのに離れているし。
こんくらいのことでうろたえるし。それに、あんなに無防備に寝てるなんておかしいぜ」
シンタローは俺の鼻を摘んで悪戯めいた笑みを浮かべた。
「おかしいけど……なんかそういうおまえも俺は好きだな」
鼻を摘んだ指をぴんっと弾くようにシンタローが離す。それから彼は俺に噛み付くようなキスをくれた。
「……なにしても起きなかったくせにキスしたら起きたし。なんか、おまえすっげえ可愛い」
シンタローは目に笑いを浮かべている。
どうやら今日一日俺が嫉妬でおかしくなっていたのはバレていたようだ。これが、惚れた弱みというやつなんだろうか……。
そんなことを考えながらも、俺はこれ以上シンタローにからかわれないように、深いキスを仕返す。
俺がかける体重でシンタローの指がざり、と砂を掴んで音を立てても、すぐ傍で波が打ち寄せてきても耳障りだとは思わなかった。
抱きしめ、口吻の最中にシンタローに「明日は一緒にいよう」と囁くと、彼は熱い息を吐きながら「バーカ」と言った。
「明日は、じゃなくて今からだろ?キンタロー」
おまえって頭いいくせに馬鹿で可愛い、となんだか分からないことを言ってシンタローが微笑む。
どういう意味なんだと思いながら、立ち上がり手を差し伸べるとシンタローは体についた砂を落とすこともなく手を預けてくれた。
「帰ろうぜ、日が暮れちまう」
そう言ってシンタローが俺の手をきゅっと握る。
繋ぎなおした手からはさらさらと砂が零れ落ちた。
すぐ傍では、波がやわらかな音を刻んでいる。
初出:2005/01/24
火陰様に捧げます。
オトナコドモ
それをシンタローに見せてみると彼はなんともいえない表情を浮かべた。
「コレ、俺も持つのかよ」
「使い方は市販のものと同じだ。ただこれならば、電波を他の組織に傍受されにくいから今後支給していくつもりだ」
「ふうん」
とりあえず一族の者には渡してある、と言うとシンタローは素直に受け取った。
「まだ一般団員に支給してないんじゃ説明書ないだろ?使い方教えてくれよな」
「ああ」
俺はごく普通を装ってに返事をした。
本来なら製作段階でもマニュアルくらい作れる。だが、説明書を作らないのはわざとだった。
そんなもの作って渡せば従兄弟は俺を頼らないで勝手に使い始めるだろう。
せっかく俺が作ったのにそれでは寂しい。
グンマの作るファンシーな発明品でなくごく普通の市販製品と似ている俺の発明品が認可されたのだ。
他の一族の人間、伯父はグンマに聞くだろうし、遠く離れた戦地にいる叔父たちにはきちんと取り扱い説明書を郵送してある。
ただ、シンタローだけは俺に聞いてほしかった。
「なんかあったらこっちに連絡来るんだな。まあ、今日はなんもねえよな」
番号変えたの教えねえと、とシンタローは呟いた。
もちろん、あとで団員同士のメールの使い方もちゃんと教える、と言うとシンタローは軍服のポケットへと携帯電話を仕舞った。
「じゃあ、仕事終わったらおまえの部屋行くから」
俺が作ったんだからおまえが片付けとけよ、と笑いながら従兄弟が立ち上がった。
ああ、と了承してシャツを腕まくりするとシンタローが手招きした。
「いってらっしゃいのキスくらいしろよ」
からかい混じりの口調でねだった従兄弟に軽いキスを落とすとシンタローは満足そうに出て行った。
従兄弟を見送ってから、片付けに取り掛かろうとテーブルへと俺は戻った。
テーブルの上には朝だというのに食器が幾枚も出ている。
俺が一人で適当にすます朝食ならばせいぜいがトーストとコーヒーだけで皿とカップ各1つで済んでいた。
けれども、今日はシンタローが作ってくれた朝からバランスの取れた食事だったおかげで洗う量が多い。
(片付けて俺も早く出勤しないとな……)
シンクへと運び、スポンジを手に取る。
手早く済まそうと皿を擦り始めると見慣れぬ皿に気づいた。
***
ドアを開けると室内から香ばしい香りがした。
ジャケットを脱いで、キッチンへと足を向けると案の定シンタローが鍋を振るっている。
「お~。おかえり。メシはもうすぐできるからな」
今夜は中華だぞ、とシンタローは言った。
従兄弟の作る料理はうまい。今日は朝だけでなく2食も楽しめるのか、と思うと気分がよかった。
さっき脱いだジャケットをハンガーにかけて、ネクタイも解く。
カレンダーに予定を追加していると「できたぞ~」という声が届いた。
ペンを置き、キッチンへと向かう。
テーブルにはほこほこの湯気を立てた料理が並んでいた。
エプロンをたたみながらシンタローは「朝と同じで片付けはおまえだからな」と言うのを忘れなかった。
ひとしきり料理に舌鼓を打ち、食後のお茶で喉をさっぱりさせるとシンタローが立ち上がった。
片付けは俺なんだろう、と湯飲みを置いて声をかけると「朝と違って時間があるからな。洗うのはおまえがやれよ。俺が拭いていくから」と提案する。
ご馳走様、うまかった、と言って皿を運ぶとシンタローは喜んだ。
「その皿で終わりかよ?」
「ああ」
泡まみれのシンクと一緒に一番大きい皿を湯で流す。軽く水を切ってシンタローに渡すと従兄弟が不審そうな視線を上に向けた。
「どうした、シンタロー」
手を洗いながら、振り返るとシンタローは水切り台を指をさした。
「あの皿も仕舞うだろ」
よく使うんなら出しっぱなしでもいいけど、と言ったシンタローにそれがなんなのか思い当たる。
「いや。別に使わない」
もともと俺の部屋には、伯父とシンタローが使うキッチンと違ってたいして食器もない。
彼らに返しそびれた皿やなにかで貰った皿が処分されずに適当に置いてあるだけだ。
私室に備え付けた簡易キッチンという意識でしかない。
朝を除けば、ここで料理することなど限られている。
「はあ?それじゃ仕舞っとけよ」
そうは言われても、と俺は思った。
食器棚のスペースはもちろん開いている。
しかし、この皿は従兄弟が今朝出してくるまでどこに仕舞ってあったのかさっぱり見当がつかなかった。
「……仕舞う場所が分からないんだ」
皿をシンタローに渡すと彼は呆れたような目で俺を見た。
「おまえってさあ」
シンタローはテレビのリモコンを弄りながら俺に目を向ける。
「ホント、普段無頓着な生活してるよな」
「そんなことはないと思うが」
「いいや。絶対、そうだな!だって、あの皿だけじゃなくていつもちゃんと料理していたら置く場所覚えてるはずだぞ。
さっきカップ仕舞ってたらワイングラスのところにスープカップが置いてあったし、今朝、適当に入れただろ」
「……」
あれであっていると思ったのだが、違っていたのか。
「まあ、べつに皿の置き方くらいどうでもいいんだけどよ」
まあ、そうだな、と俺は思った。
「おまえが帰ってくる前に叔父さんから電話があったんだけど」
だけど、と打ち切るとシンタローはリモコンを置いた。
ぷちっとテレビが消える音が響く。
叔父さん、と従兄弟が呼ぶのはサービス叔父のことだ。
「おまえ、叔父さんには携帯の説明書送ったんだってな!」
ちゃんと作ったんじゃねえかよ、とシンタローは怒りながら言った。
「作ってないとは言っていない」
はあ?とシンタローが大きい声を上げた。
「おまえ、俺がないだろって聞いたらああって言ったじゃねえかよ」
「その”ああ”は使い方を教えろに対してだ」
「……キンタロー」
従兄弟が俺を見ながらため息をついた。
「あのなあ……ああ、もういい。なんで、俺には説明書くれなかったんだよ」
はあ、と額に手を当ててシンタローは言った。
「そんなのは簡単なことだ。説明書を渡したら俺と一緒にいてくれないだろう」
おまえのことだから夢中になって携帯を弄っていたはずだ、と言う。
せっかく俺の作ったものだから、俺に聞いてくれてもいいだろうとも言うとシンタローがため息を大きく吐いた。
「おまえ、なんつーか」
シンタローは呆れた顔で俺を見る。
「子どもだよな」
「そんなことはない。俺は大人だ」
言い返すと、シンタローはどこがだよと呟いた。
「やっぱ高松が甘やかしてたからかな」
「……」
グンマといいあいつの育て方間違ってるぜ、とシンタローは呟いた。
だが、それは違うと高松を庇うことはできなかった。
従兄弟とこうなる前、まだ日常生活に慣れていない頃、高松は俺の世話を焼いてくれていた。
箸より重いものは持ったことがない、というには語弊があるがたしかに高松の行動は至れり尽くせりだった。
それはシンタローに対して過保護な伯父を凌ぐほどのものである。
俺は確かに高松に甘やかされていたというべきだろう。だが。
それとこれとは別の話だ、と思うとシンタローが諭すように口を開いた。
「ったく。なんでもおまえの思うとおりにしてたら駄目なんだからな」
「そんなことはあたりまえだ」
あ~、と言いながらシンタローは髪をがしがしと掻き回した。
「そうじゃなくてな~!あ~も~!だから公私混同するなってことだよ!説明書渡さないんなら他のヤツにもそうしろ!」
「おまえ以外にやってどうするんだ」
「だから……ああ。ちくしょう」
シンタローが舌打ちをして俺を見た。
「今度からはちゃんと俺にも説明書よこせ。分かんなかったらどうせおまえに聞くけど、叔父さんに『キンタローに意地悪されたのか?』
とか言われて恥かいたんだぞ!」
「叔父貴に?そうか。分かった」
しまった、口どめしておけばよかった、と顔に出すとシンタローにすぐさま小突かれる。
「いいか。よく聞けよ。俺は結局おまえと一緒にいるんだからな。こういう子どもっぽいことはやめろよな!」
分かった分かった、と打ち切る。子どもっぽいと揶揄されたことには文句があったが黙っておいた。
すると、「そういう態度が子どもっぽいんだよ」と言われた。
がしゃがしゃと俺の髪を撫でてシンタローが額にキスを落とす。
「キンタロー」
「……悪かった。これからは気をつける」
「……ならもういい」
ったく。朝もちゃんと食うんだぞ、と食事のことを蒸し返してシンタローが口を尖らせた。
「本当、おまえも親父もグンマも子どもで困るよ」
俺の周りは何でみんなこうなんだか、とシンタローは言った。
あの2人と一緒にするな、とムッとしてシンタローにかじりつくと従兄弟が嫌がって身を捩った。
「うわ!やめろよっ。そういうのが子どもっぽいところなんだぞ」
「うるさい」
他のヤツのことは考えるな、と囁くと「家族だろ」と言われる。
家族でも、納得できないのだ。せっかくの二人きりの時間なのだから。
ソファから逃げ出そうとするシンタローにじゃれながら、抱きしめようとすると腕からするりと逃げられた。
それでも、なんとか隙を突いて彼の膝に頭を乗せて寝そべるとソファが軋んだ音を立てた。
「膝枕……っておまえなあ」
さっきまで俺は怒ってたんだぞ、とシンタローが呆れた声で言う。
そんなことは分かっている、と見上げるとシンタローが眉を顰めた。
「子どもなんだろう、俺は。膝枕させろ」
「なんでそういう逆手に取った行動するんだよ」
言わなきゃよかったとシンタローがため息をついた。
逃げようとしている腰を抱きかかえるように押さえ込むとシンタローが俺の額をつついた。
「やめろよ。重いぞ」
「いやだ」
膝枕くらいしてくれ、と我侭を言う。しばらくシンタローはぶつぶつと文句をいっていたが諦めてくれた。
「俺は子どもなんだからおまえに甘えたっていいだろう」
従兄弟の膝の上から見上げると彼はソファに肘をついて一言、
「馬ー鹿、こんなデカイ子どもなんていらねえよ」。第一、俺だっておまえに甘えたいんだからな
と笑った。
それから俺の髪をかき上げてシンタローは悪戯めいた笑みを浮かべる。
「それに子どもと違っておまえは添い寝じゃすまねえからな」
それとも今日は添い寝だけでいいのか?と笑いながら尋ねてきたシンタローに俺は仕方なく膝枕の続行を諦めた。
ソファに座りなおすと、シンタローがおかしそうに笑う。
「キンタロー、おまえやっぱ子どもだな」
「うるさい」
キスで従兄弟の口を封じるとシンタローが片目を瞑った。
ソファの上にゆっくりと押し倒すと彼が笑いながら俺の背に腕を回す。
「子どもの時間は終わり、だな」
ひそやかに笑うシンタローが小憎らしくて黙らせようと耳朶を噛む。すると俺の背に爪がぎゅっと立てられた。
それでも「子どもっぽいおまえも好きだぜ」と従兄弟は吐息混じりに笑う。
「シンタロー」
顎を捉えると、シンタローの黒い目が揺れた。目じりにくちづけを落とし、口腔への進入を試みる。
こうすれば、もう彼の口から余計な言葉は吐かれない。
震える睫から揺らめく瞳や背に立てられる爪の痛みが俺を刺激する。
それでも合わさる視線は艶めいているというよりもの言いたげな悪戯めいたひかりを宿らせていた。
「シンタロー」
離した口唇をかき上げた従兄弟の髪に落とす。それから肌蹴させたシャツから露になった鎖骨に噛み付くと彼はあえかな喘ぎを漏らした。
長いキスで封じこめて今度こそようやくくぐもったため息だけが吐かれるようになったシンタローにこっそりと笑みをこぼす。
子どもと揶揄されても、それでも俺はシンタローと一緒にいたい。
頬にめぐらせた指をシンタローに噛まれて俺は微かな痛みを感じた。
艶めいた笑みを口元に浮かべ、ぺろりと指を舐めるシンタローに「好きだ」と囁くと彼は片目を瞑った。
それは俺の行動を笑うような仕草だった先程のものとは違う。
艶めいた色を帯びた眼差しに煽られ、圧し掛かるとシンタローが呻いた。
従兄弟の言うとおり、子どもの時間はもう終わりだ。
脱がしたズボンからするりと露になった膝にキスを落とす。
膝枕はまた今度でいい。
子どもだと言いながらもシンタローはいつだって俺を甘やかせてくれるのだから。
初出:2004/12/15
夢で会いましょう
従兄弟が最も敬愛する叔父は、高松にいつもの如く4万円と切り出していた。
そして、それを切り出された高松は、前に言われたときと同様に叔父を褒めて話題を逸らしていた。
*
ベッドに二人腰掛けて、久しぶりに実家へと戻ってきた叔父の土産の酒を嗜む。
シンタローと二人、酒を飲むことはめずらしいことじゃない。
けれども、一番下の叔父が土産にとくれた酒を飲むのは初めてだった。
洒落者の叔父が土産にと寄越しただけあって、サイドテーブルに置かれたボトルは瀟洒なデザインのものだ。
ボトルのネックにはグラスファイバーで編まれたリボンが凝った結び形をされて、美しく飾られている。
口当たりのよい果実の風味といい、申し分のない贈り物だ。
ゆっくり味わいながらボトルに書かれた文字を目で追う。
手に取ったボトルは傾けても零れたりはしない。
栓を空ける前はずっしりと重みを感じたというのに、すでに残り僅かとなっていた。
(シンタローも気に入ってるようだし、貯蔵庫に寝かせておくのも悪くないな。
明日にでも叔父貴に店を尋ねてみよう)
じっくりとボトルの銘を見ながら考えていると、横からじっと視線を感じた。
流麗な文字を追うのをやめ、ちらりと視線の主に目を向けるとシンタローが催促するような顔をしていた。
「もう少し飲むのか?」
「うん。うまいから結構イケるし。キンタロー。おまえ、よく分かったな」
いつものようにシンタローはグラスを俺に向けて差し出した。
おかわりを催促する彼の目元は赤い。
空になったグラスは底の方に残った僅かな水滴で薄紅色に見える。
乞われるままグラスにワインを注ぐと、彼はうれしそうに顔をほころばせる。
ゆるめた頬は少しだけ赤かった。
「暑くはないか?」
酒に酔っているときは体温が上昇する。
風呂から上がった後、パジャマのボタンを閉めることもないシンタローに尋ねるも彼は「別に」と首を振った。
外はきっとうだるような暑さだろう。
だが、この部屋はシンタローが来る前からエアコンによって涼しくされていた。
「ボタン、閉めないと風邪を引くぞ」
「引かねえよ。馬鹿じゃねえからな」
グンマじゃないし、とけらけらと笑うシンタローにため息が出る。
夏風邪は馬鹿が引く?そういう問題じゃない。
まったく。
シンタローのグラスにワインを注ぎ、自分のグラスにも注ぎいれる。
残り僅かだ、と思っていたがぴったりと2人分だったようだ。
空のボトルを置くと、シンタローは「乾~杯」とグラスを重ねてきた。
「うまい!」
一仕事した後、ビールを飲んだときのように言うシンタローに思わず笑みが漏れる。
彼がもう一口味わっているのを見ながら、俺も口をつけると馥郁とした香りが広がった。
たしかにうまい。
「叔父貴に礼を言わないとな」
貰った時に礼は述べたがこれほどとは思わなかった。
「さすがサービスおじさんだよな~」
ふふ、と笑みをはきながらシンタローはワインを楽しむ。
「取り寄せるのも悪くはないな」
「取り寄せ……ってやってんのかな。あー!ちくしょう。ここにおじさんがいれば聞けんのにな~」
シンタローは「おじさんと飲みたかった」とぶつぶつと零す。
サービス叔父は土産をくれただけで、すぐに高松と出かけていってしまった。
シンタローは悔しそうにしていたが……。
「そういえば高松は今回も返さなかったな」
ふと、叔父と出かけた後見人のことを浮かべ、出かける前の騒ぎを口にする。
叔父は高松に会うなり、随分前に貸した金のことを言及していた。
もう何度も見慣れた光景だ。
俺やシンタローが見えていない様子で二人とも少年時代に帰ったかのように言い争いをはじめる。
たいてい、高松がうやむやに終わらせるものだが。
「4万円……というとあの二人には大した額でもないのに飽きないな」
「うん。まあいつものことだよな」
「いい加減、高松も言われるのが嫌なら返せばいいんだが……」
億劫になっているのだろうか。
学生時代からの延長でずるずると惰性のまま続いてるのかもしれない。
「給料から振り込むように手続きをとるよ……」
「やめとけよ。馬に蹴られるぞ」
とるように計らえばいいんだろうか、とシンタローに提案しようとした言葉はかき消された。
「馬……?」
どうして馬なんだ。馬なんか関係あるのか?
高松の専門はバイオだぞ。医者でもあるが、対象は畜体ではない。
「あー、だから、あの二人はあれを楽しんでるんだよ。
本当に返して欲しかったら、それこそお前が考えたとおりにすればいいだろ。
俺に言って高松の給料から天引きしてもらえばいいんだからさ」
「そうか……。そうだな」
「馴れ合いってわけじゃないけどさ。叔父さんも高松も案外楽しんでやってるんじゃねえの?
じゃなきゃ、飽きるだろ?20年以上やってられるかよ。
まあ、俺はサービス叔父さんさえよければいいけどな」
そうだったのか……。
三文芝居のような馬鹿騒ぎをよくも飽きずにと思っていたが。
あれが、二人のスキンシップなら立ち入ることはない。
巻き込まれて、シンタローがサービスにべったりつくのは嫌だしな。
近づかずに、シンタローと二人で過ごせる時間を甘受した方がいい。
「あったまっちまうぞ」
「……?ああ」
促され、ワインを呷ると口腔に甘い果実の香りが広がる。
グラスに残った僅かな液体は手のぬくもりで少しだけぬるくなっていた。
「それより、さ」
「なんだ?」
会話が途切れたのを見計らったようにシンタローがにやっと笑った。
空のグラスを置いて、彼を見つめると黒い瞳が瞬いた。
「俺達、いつまでこうしてんだよ?」
従兄弟は上目遣いで俺に含みを持たせた問いをかける。
暗にベッドへ行こう、と舐めるような視線を投げかけられ、苦笑が浮かぶ。
「そうだな……。もう、ワインは底をついていたな」
「だろ?」
***
片付けは明日!とばかりに手を引っ張られ、寝室へと連れて行かれる。
ベッドへ乗り上げるとどちらともなく互いが引き寄せ合っていく。
ワインに濡れた口唇は果実のように瑞々しく甘かった。
丹念に叔父の土産よりもシンタローの口唇を味わうと彼の黒目が情欲に濡れた。
「明日はおじさんと食事に行くんだからな。加減しろよ」
絡まる腕が、耳元で吐き出される甘い息が熱い。
加減しろ、と言いつつも色づいた声で言う彼がおかしい。
抑えきれぬ笑みを浮かべるとシンタローは口を尖らせた。
「ちゃんと寝かせろよ。じゃないと明日は一日口をきいてやんないからな」
「それは大変だ」
「いつもそう言ってはぐらかすよな」
ふ、とどちらともなく口角がゆるむ。
誘ってきたのはシンタローだというのに毎回毎回そのたびに注文をつける彼がおかしい。可愛い。
「いいか?ちゃんと寝かせろよ」
腕を首に絡ませ、俺を見上げながらシンタローは繰り返す。
痕はつけるな、と怒ったように、いや照れ隠しに肩口へ噛み付きながら言う彼が愛しい。
そんなに言われなくても分かっている。
痕をつけるな、だなんて夜を共にするたびにおまえは言ってるじゃないか
それこそ、叔父貴に言われなくても高松が借金のことを覚えているように。
高松にはぐらかされるのを分かっていても言ってしまうサービスのように。
結果が分かっていても、彼らは、シンタローは何度も言う。
鎖骨にきつく吸いつくとシンタローがきっと睨んだ。
眉根を寄せ、怒っている。
けれども、瞳は濡れている。
体は正直なシンタローに笑いを噛み締めながら、くちづけるとワインの味がかすかに残っていた。
(とりあえず、今日のところはぐっすりと眠らせてやろう。
明日、叔父貴と高松になんともいえない目で見られるのは避けたい。)
あの二人は勘がいい。
シンタローの耳朶に舌を這わすと、彼は身じろいだ。
くすぐったさと僅かな刺激に身をよじり、なにかを懇願するように俺に手を伸ばす。
伸ばされた指にそっと口唇を寄せると安心したように彼はまた首へと腕を回す。
キンタロー、と呼ぶシンタローの額にキスを落とすと彼の黒い目には俺が映っていた。
俺だけが映し出されている。
「キンタロー……?」
じっと濡れた瞳でシンタローは見上げながら俺を呼ぶ。
首に回された腕がぴくりと反応している。
「なんでもない。おまえのことを考えていただけだ」
止めていた愛撫を再開させ、愛しげにキスを落とすと彼の目が細まる。
味わう口唇はワインの味が薄れても甘い。
情欲と愛しさに濡れた瞳は俺だけを映し出している。
甘い視線が俺に注がれている。
夢ではどうだろう。
シンタローの夢でも彼の目には俺が映っているだろうか。
傍らにいるのは俺だろうか。
それとも……。
「キンタロー」
呼ぶ声は甘い。
その声が、視線が向けられるのは夢の中でも俺だろうか。
夢でも俺はシンタローの隣にいたい。
愛している、と囁くとシンタローから掠れた吐息が漏れた。
初出:2004/07/10