作・斯波
こんなに誰かのことを
気にしたのは初めてで
どうしたらいいのか
どうすればうまくいくのか分からない
あの人がいればそれでいいのに
思い過ごしも恋のうち 3
―――ほな勝負しましょか。
ニヤリと笑って俺の敵はそう言った。
場所は総帥室。
来年の開発課予算案を持ってシンタローを訪ねてきた俺の目に映ったのは、この世で一番会いたくない先客だった。
「・・・貴様何をしている」
「仕事に決まってるやろ。総帥の決裁が要るんどす」
シンタローに話しかけている時とは明らかに温度差のある突っ慳貪な声。
「書類を置いたらさっさと出ていけ」
「お生憎様、急ぎやから目ェ通して貰て印鑑頂かなあかんのどすわ」
どんどん温度が下がって今やマイナス零度になりかけている俺たちの会話に、書類を見ていたシンタローが顔を上げた。
「おい、おめーら何尖ってんだよ」
「わてのこと心配してくれたはるんどすか~、シンタローはぁぁんv」
「眼魔砲」
総帥室は眼魔砲に耐えるように設計されている。それは主に前総帥とその弟達が繰り広げる兄弟喧嘩を考慮して作られたたらしいのだが、こんな場面で役に立つとは。
「酷いどすぅ・・・」
しくしくと泣き出したアラシヤマを無視して、シンタローは俺を見た。
「おまえも急ぎか、キンタロー?」
「いや、来年の予算のことで来たんだが別に急ぎという訳では」
「ほな帰りよし」
途端に無表情に戻ったアラシヤマが0.3秒で切り返してくる。
(回復早ッ!)
「おまえこそ帰れ。書類なら後から暇で無能なチョコレートロマンスに届けさせる」
「要らんわ。何が嬉して暇で無能なチョコロマの顔なんか見なあかんの」
背後でチョコレートロマンスが、あの俺ここにいるんですけど・・・と呟いている。
気づいてますよね別にいいんですけどね面と向かって要らない子扱いされてもなどとぶつぶつ言っているのを無視して俺はアラシヤマを冷ややかに見据えた。
「この間言った筈だぞ。おまえはシンタローには無用の輩だ。古新聞だ。いやむしろ廃品回収ですら置いていかれる古畳だ」
「おい、キンタローてめえいきなり何言い出―――」
「ほなあんたはアレやな、広告に釣られて買うてみたものの使い道がのうて納戸に押し込んであるお父さんの日曜大工セットやな」
「何その一見分かりやすそうで分かりにくい例え!」
「―――おまえの方が使い道があるとでも?」
「ガンマ団は悪い奴限定ハーフ殺しのお仕置き集団どすえ。実戦経験のないあんたよりもわての方がシンタローはんの役に立てます」
「オイィ! てめーら何俺を無視してやがんだ!」
「・・・俺では戦えないとでもいうつもりか?」
俺の拳がぽうっと光り出す。
アラシヤマは子供なら泣き出してしまいそうな怖ろしい笑みを浮かべた。
「いざという時シンタローはんをお守りするのはわての役目どすさかいなあ」
「では次の遠征は俺が総帥の供をしよう」
「ちょ、キンタロー! おまえ何言いだしてんの!?」
シンタローが慌てて立ち上がる。
「次はアラシヤマを連れてくって決まったろ!?」
「俺が行く」
「おまえは俺の代理だろーが! おまえが居なきゃ誰があの馬鹿親父の暴走を止めんだよ!」
「―――やそうどす。あんたは大人しゅう留守番しときなはれ」
小憎たらしい微笑に、俺は確かに頭のどこかがブチッとキレる音を聞いた。
拳から迸った眼魔砲を、燃えあがった炎が相殺する。
ティラミスとチョコレートロマンスが全速力で逃げ出していくのが視界の隅に見えた。
「キンタロー! 何して・・・」
「ちっ・・・最近の子供はキレやすうてかないまへんな」
たちのぼる煙の中からアラシヤマがゆっくり姿を現す。
「ほな、素手で勝負しましょか。あんたは眼魔砲無し、わては炎無しで」
シンタローが目を真ん丸にする。さすがの俺様総帥も、あまりの展開に二の句が継げないでいるようだった。俺は拳をさすった。
「―――いいだろう。男の勝負だ」
侮れる相手ではないのは分かっていたが、こちらにも意地がある。
「おい」
「シンタローは黙っていてくれ」
有無を言わさぬ声に、従兄弟は呆れたように椅子に腰を下ろした。
「・・・殺すなよ」
どっちに向かってか諦めきった声でそう言った総帥をそっちのけにして、俺たちは睨みあった。
最初に動いたのはアラシヤマだった。ヒュ、と風を切って脚が飛んでくる。
俺はそれを避けて拳を繰り出した。
(奴が身につけているのはおそらく戴拳道)
とすれば多彩な足技を使ってくる筈。
(捕まえてしまえば体格差で勝てる)
膝蹴りが鳩尾に炸裂した。一瞬気が遠くなりそうになるのをこらえて胸元をひっつかむ。
思った通りアラシヤマは軽く、渾身の力で殴り飛ばすと部屋の隅まで飛んだ。
だがさすがに転がるような無様は見せず、空中で体勢を立て直しかける。
(そうはさせるか!)
着地したところへ次の攻撃を仕掛けた。腹に拳をぶちこみ、そのまま床に叩きつけた。
もう一度胸倉を掴んだ俺の肋骨に物凄い衝撃が来る。
蹴りを放って俺から逃れたアラシヤマは、ふらつく足許を踏みしめて立ち上がった。
唇から顎へと伝う真っ赤な血をぺろりと舐め、奴はにいっと笑った。
「・・・今のは効きましたわ」
「次は壁まで飛ばす」
「―――上等」
飛んできた蹴りを今度は避けられなかった。角度といいスピードといい見事な回し蹴りだった。
懸命に堪えてかけた足払いをアラシヤマはとんぼ返りで優雅にかわし、床にタン、と手をついたかと思うと次の瞬間俺はしたたかに顎を蹴り上げられていた。
堪えきれずに倒れた俺の胸の上にアラシヤマの膝がめりこんだ。
そのままぐいと全体重で俺を押さえつけ、喉めがけて手刀が空を切った時。
「アラシヤマ!」
とどめの一撃を寸前で止めたのは、凄味を帯びた総帥の怒鳴り声だった。
「―――いい加減にしろ。キンタローもだ」
骨の髄まで凍りそうな声で言われ、アラシヤマは舌打ちして俺の上から立ち上がった。
「お遊びはそこまでにしとけ」
「そやけどシンタローはん」
「黙れ。それから次の遠征にはコージを連れてくから」
「ええっ!」
はからずも俺とアラシヤマの声が綺麗なユニゾンとなる。
「そやかてわて、今キンタローに勝ったんどすえ!?」
「シンタロー、それは」
「うるせエェ!」
怒り心頭に発したと言わんばかりの総帥の大音声に、俺たちは思わずびくりと首を縮めた。
「さっきから見事に俺を無視しやがって、総帥の言うことを、いいかもう一度言うが戦場で総帥の言うことを聞けねえような」
「何故おまえが二度言う」
「シンタローはん、キンタローが移ってますえ」
「黙れ! とにかくおまえら留守番! ついでに二ヶ月減給!」
「ぐはああん! どさくさに紛れて給料まで!」
「おまえのせいだぞ、アラシヤマ」
「喧しいどす! あんたかて殺る気マンマンやったやろ」
「黙れ。大体おまえがさっさと仕事に戻っていればこんな事態には」
「二人とも出てけ―――ッ!!」
その言葉とともに炸裂した眼魔砲を食らって、俺たちは早々に総帥室から退散した。
「―――アラシヤマと喧嘩?」
開発課の研究室で紅茶を淹れていたグンマは呆れて手を止めた。
顎に痣を作った従兄弟は憮然とした顔つきでシャツを脱ぎ、肋に湿布を貼っている。
「喧嘩ではない、勝負だ」
「勝負って、―――やめてよ、キンちゃんが死んじゃったら僕どうしたらいーのさ!?」
「いや、勝手に殺さないでくれ」
「大体無茶だよ、いきなり。実戦経験だってないのに」
「練習では完璧だったのだが」
「練習ってもしかしてこないだからずっとやってたアレ?」
その光景を思い出したグンマをくらくらと眩暈が襲う。
「バー○ャファイターでしょ、あれは!」
「違うぞグンマ、俺がクリアしたのはストⅡだ」
「余計悪いよキンちゃん、今の子はスト○ートファイターなんか知らないよ」
「えっ、駄目なのか? ちゃんとベガも倒したのに!?」
「キンちゃん・・いつもに輪をかけて向上心と知識欲が空回ってるよ・・・」
「とにかく、勝負というものは勝たねば意味がないんだ。次は勝つ!」
「だから眼魔砲無しの格闘でアラシヤマに勝つなんて無茶だってば。根暗で変なストーカーだけど、あれでもガンマ団の№2なんだから!」
「いや、必ず勝ってみせるさ。俺にはシンタローを守るという大切な使命があるのだ。そして敵の陰謀に倒れた父の道場を再興し、同じように家族を奪われた婚約者と共に幻の奥義書を見つけだした暁には皇帝を暗殺してゆくゆくは少林寺の管長に―――」
「キンちゃん、どこまで夢が広がってるの(そしてどんな映画を観たの)!?」
「俺はスーツを脱ぐ! そして胴着を着る!」
「落ち着いてキンちゃん、そんな腕自慢だらけの親戚は嫌だよ!」
『拝啓、シンちゃん。
キンちゃんはかなり煮詰まってます。
マジでお願いだから休暇をあげて。
連日朝から晩までブ○ース・リーのビデオにつきあわされてる僕のためにも。
追伸:ついでに来年の予算の件もよろぴくね』
グンマからのメールを読んだシンタローは失神しそうになった。
休暇!? アラシヤマの奴ももう一回マーカーに鍛えて貰うとか言い出して有休取ってるってのにキンタローまで―――大体あいつら遠征行きてえんじゃなかったのかよ? それより俺の代理は誰がやるんだ。もしかして親父? あの馬鹿に後を任せて俺、遠征に出なきゃなんねーの!?
無視を決めこもうと削除キーに手が伸びた瞬間、次のメールが届いた。
『二伸:休暇くれなかったらこないだ約束してたコタローちゃんの写真はあげないから』
―――シンタローは即座に一週間の有給休暇届に判を押した。
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作・斯波
一週間の有給休暇が明けて本部へ戻ってきた俺を迎えてくれたもの。
それは明るい笑顔のグンマと、明らかに俺と目を合わせたくないらしい秘書官二人。
そして、俺の抹殺リストのトップに昇格したばかりの陰気な№2だった―――。
思い過ごしも恋のうち 4
「マジカルマ―――ジック!!」
突然絶叫した俺に、秘書の洋菓子コンビがびくりと飛び上がった。
朝から下降気味だった俺の機嫌は、昼前にはもうレッドゾーンを振り切っていた。
全面ストップ安の暴落ぶりである。
その原因は俺の隣のデスクで仕事をしているガンマ団の№2。
祇園仮面アラシヤマ。―――もうこの名前からして虫酸が走る。
なのにシンタローの遠征中、こいつと二人で停滞した仕事を片づけろという命令が出たのだ。
出したのは勿論前総帥でグンマの父、伯父貴のマジックである。
それを聞いた瞬間、俺の抹殺リストが書き換えられたのはいうまでもない。
「キ・・キンタロー博士・・どうかされましたか?」
「―――・・別に」
あの伯父貴を殺したいだけだ、などと言ってもティラミスの精神は錯乱するばかりだろう。
「気の毒に、あんさんも親類には恵まれまへんなあ」
休み無くペンを動かしていたアラシヤマがふっと嫌味な笑みを浮かべる。
「親馬鹿な前総帥、アル中横領親父に女王様・・・そして何もかもがギリギリな従兄弟」
「貴様・・・」
―――その通りじゃないか!
「口に気をつけろ」
その分シンタローが全てを補ってあまりあるから俺はやっていけるのだ。
「シンタローはんがいてはるから俺はやっていけるのだ、とか思てはるんどすやろ」
「何故分かる!」
思わず叫んでしまってからはっとティラミスとチョコロマを見ると、優秀な秘書達は聞こえない振りで仕事に勤しんでいた。
「そやけどあんさんも可哀想なお人どすなあ」
聞き捨てならない言葉にペンが止まった。
―――可哀想!? 今可哀想言いましたかアナタ!
「あんたはシンタローはんにとっては兄弟同然や。まあ元は一心同体やったんやしな」
ふふん、そのとおりだ。
俺とシンタローは強い絆で結ばれている。どこぞの一方的なストーカーとは違うのだ。
そしてその絆は俺達が生きている限り切れることはない。
「ちゅうことはどすな、シンタローはんにとってあんさんは自分自身。そんな男に惚れる訳ないどすやろ!」
「何だと!?」
「そんなんナルシーの極みやおまへんか! 変態どす!」
「へ・・・変態―――!?」
わなわなと震え出す拳が青く光り始めるのを見てアラシヤマがニヤリと笑う。
もう見慣れたそれは、普段より2割増(当社比)で邪悪だった。
「へえ、眼魔砲を撃つつもりどすか。そんなんしたら書類はめちゃめちゃ、シンタローはんが帰ってきはるまでには到底仕事は終わりまへんで」
「貴様!」
「シンタローはんを守るとか支えるとか言うてたんは嘘やったん? あんた、これくらいの仕事も出来へんでようあんな大口叩けましたなあ」
「出来ないだと? 俺が、いいかこの俺が」
「ミス」
容赦なく放り投げられた書類には、大きなバッテンがつけられていた。
「計算式間違うてまっせ。とっとと直しなはれ」
「喧嘩を売っているのか、アラシヤマ!」
「ティラミス! 一生兄弟のままええ人扱いで終わられるうえに仕事も出来ひん可哀想なお方にコーヒーや」
「何だと貴様、侮辱するにも程が」
「あ、そうそう、実質四歳のちみっ子やからミルクの方がええかな」
キ―――ッ、ムカつく!
アラシヤマの奴、普段はろくに口も利けない根暗なヒッキーのくせに嫌がらせを言うときだけはワンブレスでまくしたてやがって!
「言っておくがなアラシヤマ、俺は」
「これもミス」
何イィィ!
「あーあ、わて一人でやった方が早そうやな。チョコロマ」
「は、はい」
「グンマはんに電話して」
「グンマ博士に―――ですか?」
「保育所は閉園や。子供を迎えにくんのはお母はんの仕事どすやろ」
「父さん・・・俺はあなたの霊に誓う」
俺は今は亡き父、ルーザーの墓前にぬかずいていた。
「絶対アラシヤマをぶち殺します。―――気が向けばマジック伯父貴も」
どうかそれまで、俺を見守っていて下さい―――。
「―――アラシヤマと口喧嘩!?」
ミルクセーキにマシュマロを入れていたグンマは呆れて手を止めた。
ここは開発課の研究室。
物凄い早さで書類処理をしている従兄弟の額には青筋が浮いている。
「で、総帥室から追い出されたの?」
「追い出されたのではない。不愉快だったから仕事場を移したのだ」
「ちょ・・やめてよ~、僕おとーさまからちゃんと二人に仕事させるように言いつかってるんだから~」
「元はと言えばマジック伯父貴が悪いんだ! あんな奴と一緒に仕事が出来るか!」
「落ち着いてキンちゃん、書類が破けてるよ!」
「あの根暗の引きこもりめ! 今度会ったら足にコンクリートぶらさげてマリアナ海溝に沈めたるからよう覚えとけよワレェそれからその腐れキ○○マ引っこ抜いて犬に食わしたるからなオンドリャー!」
「キンちゃん! そんな言葉何処で覚えたの! 放送コードにひっかかってるよ!」
「とにかく俺はアラシヤマが憎い!」
「それは十分伝わったよ。・・・・だけど、口喧嘩でアラシヤマに勝とうなんて無茶だってば。アラシヤマは特戦部隊のマーカーの弟子なんだよ?」
「マーカーだと?」
「キンちゃんも知ってるでしょ、ハーレム叔父様だって口ではマーカーに敵わないんだから。暗殺と嫌がらせにかけてはガンマ団であの人の右に出る者はいないって噂だよ」
「それでも勝負というものは勝たねば意味がないんだ、グンマ。大丈夫、俺は勝ってみせる」
「いやだから今は仕事をね」
「俺にはシンタローを守るという大切な使命があるのだ。必ずや天下一品の悪口を身につけてガンマ団にキンタローより性格のねじ曲がった奴はいないと言われるようになってやる。そして俺のシンタローに近づく奴は手段を選ばない嫌がらせで撃退し、シンタローの純潔を護る!そうだ、俺は絶対にアラシヤマをギャフンと言わせてみせるのだ!」
「キンちゃん、すでに方向からしてねじ曲がってるよ! シンちゃんのためになってないよ!!」
「俺はスーツを脱ぐ、そしてマーカーに弟子入りする!」
「落ち着いてキンちゃん、そんな紙一重ばかりの親戚は嫌だよ!」
『拝啓、シンちゃん。
キンちゃんが壊れました。
マジでお願いだから早く帰ってきて。
朝から晩まで阿呆馬鹿死ねクソタレこの穀潰しがと罵られているおとーさまのためにも。
追伸:急がないとガンマ団は無くなってるかもね。
二伸:僕何だか疲れたよ。―――もう全員殺っちゃっていい?』
グンマからのメールを見たシンタローが超特急で帰還したのは言うまでもない。
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…壊れ気味なキンちゃんとアラって可愛く…ないですか…?
(ちょっと自信がなくなってきたらしい)
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作・斯波
どうしてこんなにあなたを
抱きしめたいんだろう
恋に落ちたら終わりだなんて
悲しいことを言わないで
思い過ごしも恋のうち
あまりの暑さに空気までが白く煮えたぎっているような夏の午後。
俺は屋上への階段を登っていた。朝からずっと研究室にこもっていたのだ。
室内は適度に冷えているのだが、さすがに数時間ぶっつづけでクーラーの冷風を浴びていると身体が太陽の光を欲してくる。
薄暗い階段を登って重い扉を押し開けると、眩しい陽光が眼に飛び込んできた。思わず眼を細め、熱いほどの大気を心地良く吸い込む。
しかし俺の気分が浮き立っていたのもそこまでだった。
スーツのネクタイを緩めた俺の目に映ったのは、ガンマ団きっての危険人物だったのだ。
アラシヤマは屋上のコンクリートに直に腰を下ろし、フェンスにもたれて煙草を吸っていた。
いつでもきっちり制服を着ている男だが、それはこんな真夏でも変わらない。
足を止めた俺に、奴は咥え煙草のまま投げ遣りな視線をあててきた。
「―――何や、あんさんか」
「シンタローでなくて悪かったな」
新総帥となった従兄弟のシンタローに対するアラシヤマの傾倒振りはつとに有名だった。
あの島へ行くまではライバル同士で仲も悪かったのに、帰ってきてみるとシンタローはアラシヤマの『親友、いやむしろ心友』に昇格していた。しかしそれは、明らかにアラシヤマからの一方的な友情の押し売りで、シンタローの方では奴を鬱陶しがっていることは一目瞭然だった。
アラシヤマの好意はしばしば鉄拳や蹴り、果ては眼魔砲で報われる。それでもアラシヤマは、シンタローのためなら何でもすると言い、実際何でもやってのけるのだった。
「この暑いのに何をしている」
「何て、見たら分かるやろ」
「仕事はどうした? 今朝ティラミスに本日提出の書類を持って行かせたはずだが」
「あんなんとうに終わったわ。わてをそこらの屑と一緒にせんといて」
(・・・全くこいつは)
シンタローはぁぁん、と叫びながら駆け寄ってくる姿しか見たことのないあの総帥は、こいつがシンタローの居ないところでどれだけその態度を豹変させるか知らないだろう。
俺はアラシヤマの隣で立ったままフェンスにもたれ、下界を見下ろした。遙か下に飛空鑑が数機止まっているだけで、ガンマ団は静かな午後を迎えている。
陽光が心地良かったのは最初だけで、胸ポケットから煙草を取り出した頃にはもう焼けつくような陽射しがじりじりと俺を焦がし始めていた。
煙草を咥えライターを探っていると、ぽうっと煙草の先に火が灯った。
「・・・悪いな」
「どう致しましてどす」
ニッと笑うアラシヤマはまるでクーラーの利いた室内にいるかのように、汗一つかかず涼しげな顔をしていた。俺が投げた視線の意味を悟ったかのように、
「わては炎使いやさかい、暑さには強いんどす」
と言う。そしてそのまま立ち上がり、俺の隣でフェンスに背中を預けた。
「なあ、何でわて仲間外れにされてんの?」
俺は暫く黙って煙草を吹かしていた。そう訊かれることは予想がついていた。
ガンマ団の遠征は困ったことに殆ど総帥自身が出動する。その間の実務は俺が請け負う訳だが、遠征中に総帥に何かあるといけないので護衛を兼ねて幹部が同行することになっていた。
幹部は大勢いるのだが、やはりあの島で共に命を賭けて戦った伊達衆がついていくことが多い。
しかし、アラシヤマは最初の一度同行しただけで、それ以降ずっと本部詰めになっていた。
そのことを言っているのだ。
「わてかて、シンタローはんと一緒に戦場に出たいわ」
「・・・」
答えない俺に苛立ったのか、声が少しだけ強くなる。
「シンタローはんが来るな言わはるんやったら我慢しますえ。そやけど違うやろ? わてに同行命令が出たこともあった筈や。それを握り潰してるのはあんたどすやろ、キンタロー」
俺は携帯灰皿を出して煙草を揉み消した。
アラシヤマの方を真っ直ぐ向き直ると、奴も正面から俺を見据えていた。
「一度だけ出た戦場で何をしたのか、もう忘れたのか、アラシヤマ」
あれはシンタローが新総帥に就任して最初の遠征のこと。
シンタローの戦い振りを確認するために同行した俺を唖然とさせたのが、実際の戦闘指揮を任されたアラシヤマだった。
降伏を促すシンタローの言葉に敵国は侮辱で答えた。
―――親の七光りで総帥になった実力もないヒヨコに従う気は無い。
眼魔砲、とシンタローが怒鳴る前にアラシヤマはキレた。
迸った炎は瞬く間に敵国を地獄に変え、そのせいで大勢が死んだのだ。シンタローは敵より先にアラシヤマに眼魔砲を撃たねばならぬ羽目になった。
戻ってからも一月の懲罰房入りを命じることで、その件はやっと収まったのだった。
「あれはもう昔の話どす。今なら殺さずを守れる」
「信用出来んな。シンタローはガンマ団の総帥であるだけでなく、俺の大事な従兄弟だ。その従兄弟をおまえのせいで、いいかすぐに暴走するおまえのせいでだな」
「二度言わんでええ」
アラシヤマも煙草を消した。
「わてにとってシンタローはんは命より大事なお人や。そのシンタローはんを困らせるようなこと、わてがする思てんの?」
「困らせているだろう、毎日」
「あ・・・あれは照れたはるだけどす!」
それは無いな、と俺は思った。
「キンタロー、あんさん焼き餅焼いてるだけやろ」
「・・・は?」
アラシヤマは新しい煙草に火をつけた。
―――あんた、シンタローはんが好きなんよね―――
俺はアラシヤマから目を逸らせなかった。アラシヤマも視線を外さない。
どこか遠くで、蝉が鳴いていた。
「わてが知らんとでも思てたん?」
「・・・・」
「自分の好きな人ずっと見てる奴がいてたら気になる。・・・そやからあんたも、わてのことが気に食わへんのどすやろ」
俺がアラシヤマに呆然とさせられたのはこれで二回目だ。
(俺が・・・シンタローを?)
確かに、シンタローは俺にとっては特別な存在だ。
あの事件があるまでは文字通り一心同体であり、兄弟でもあり従兄弟でもあり―――今はこの組織を共に支える同志でもある。
シンタローに泥をかぶせるような真似は例えそれが血族でも許さない。
シンタローの往く道の障害になるものはこの俺が排除する。
(何故ならあいつは俺にとって)
俺にとって、シンタローは一体何なのだ―――?
口を押さえてフェンスに寄りかかった俺に、アラシヤマの柔らかい、しかし容赦のない声が降りかかった。
「やっと分からはりましたん?」
「俺は・・・」
「そやけどなあ、キンタロー」
頭が混乱している俺の唇に、アラシヤマの細い指が自分の煙草を咥えさせる。
―――あんたにはあのお人、渡しまへんえ・・・・?
「アラシヤマ!」
怒鳴り声に近い俺の呼びかけに、階段へ下りる扉の前で№2は振り向いた。
「次の遠征はおまえとシンタローで行って来い」
「へえ」
「だがシンタローの邪魔をしたら俺が、いいかこの俺が許さんぞ!」
「二度言わんでええ言うてるやろ」
アラシヤマが微笑う。
艶やかに、そして涼しげに。
「任しといておくれやす、キンタロー補佐官。―――」
階段を降りる靴音を背中に、俺は紫煙を吐き出した。
(・・・ただの思い過ごしだ)
高い空に、蝉がいよいよ喧しく鳴き立てている。
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作・斯波
立ち止まることも出来ない日々の中
だけど確かに見つけ出した
揺るぎないものはただ一つ
おまえが俺の道標
思い過ごしも恋のうち 2
霊安室は静まり返っていた。
ベッドに並べられた遺体は三つ。
真っ白な布がかけられた遺体は、もう物も言わぬ物体となって俺たちを見返していた。
「・・・捕虜になったんだ」
シンタローの声は低い。それでも静寂が支配しているこの部屋の中ではよく響いた。
その震えさえもが、はっきりと聞き取れるほどに。
「救出は、間に合わなかった。―――相当の手練れだったから、おそらく自力で脱出出来た筈だ。もし俺が、殺すななんてことを命令していなければ」
「シンタロー・・・」
「殺すな、と俺が言ったから・・こいつらはその命令を遵守した。死ぬ間際さえも」
赤い総帥服のままのシンタローの肩が、小刻みに震えている。
俺は黙ってその背中を凝視めていた。
「俺が、殺したんだ。手を汚さずに生きていけるなんて思っていた俺の甘さが、こいつらを殺した」
「それは違う。―――」
俺は思わずシンタローの肩を掴んでいた。
「おまえは間違ってなんかいない!」
一族でただ一人、黒い髪と黒い瞳を持って生まれてきた男。
重すぎる運命と責任をその両肩に背負って、それでも太陽のように笑っている。
(従兄弟であり、兄弟であり、そして俺の分かたれた半身)
昔傷つけあって血を流した男達のために、そして遠い島で今も生きている小さな友との約束のためにおまえはこの強大過ぎる組織を変えたいと願い、全力で走り続けているじゃないか。
そんなおまえが間違っている筈などない。
おまえがどれだけ潔く自分の運命と闘っているか、俺がいちばんよく知っている。
おまえを非難することなど、この俺がさせはしない。
「一人も犠牲を出さない戦いばかりが出来る訳じゃない。だがおまえはやるだけやったんだ。いつかきっと、誰も死なないですむ日が来る。そういう世界を創るために、おまえは今必死で礎を築いているんだろう? だから後戻りするな、前だけを見て走れ。そのためにおまえの力はあるんだろうが」
シンタローは、真っ直ぐ俺を見つめていた。
常には迷いの欠片も見せず、自信に満ちた笑みでガンマ団を統率している男の唇が、かすかに震えている。
「・・・きっと明日になれば」
かすれた声でシンタローはそう言った。
「いつもの俺に戻れる。俺が目指したガンマ団は間違いじゃなかったと言い切る強さを取り戻せる。だけど今日は駄目なんだ、キンタロー」
「・・・ああ」
「今日だけは、俺」
白くなるほど唇を噛みしめた従兄弟を、静かに俺は抱き寄せる。
「馬鹿だな、おまえは」
「・・・っ」
「総帥だから泣いてはいけないなどと、誰が決めたんだ。泣けばいいじゃないか。何のために俺が、おまえの家族である俺がいると思って」
「二度言うな、馬鹿」
肩に額を押しつけて、シンタローは震える声で笑った。
「全く・・・ざまあねえな」
ありがと、キンタロー。
そう言って泣き出したシンタローを、俺はしっかり抱きしめた。
この男を守りたい。
もうこんなふうに泣かせたくない。
初めてそう、心から思ったその瞬間。
(あんた、シンタローはんが好きなんよね)
―――真夏の光の中で吐き捨てられた、どこか投げ遣りな声が甦った。
死んだ部下にもう少しついているというシンタローを残して霊安室を出た俺は立ち止まった。
目の前の壁にアラシヤマがもたれていた。
「シンタローはんは大丈夫どすか」
相変わらず、俺を見ようともしない。
「ああ」
「そやからわてを行かしてくれ言うたんや」
うつむき加減のままのアラシヤマの、しかし声にははっきりと怒気がこもっていた。
「俺の計画書ではおまえが副官だった。土壇場で変更したのはシンタロー自身だ」
「わてやったらシンタローはんにあんな顔させへん」
「仕方のないことだ。犠牲ゼロというのは、今のガンマ団ではまだ難しい」
「わてなら出来ます」
「大層な自信だな、現役殺し屋のくせに」
アラシヤマはまだ殺し屋稼業から足を洗っていない。ガンマ団が過去に引き受けた依頼の全てが終わった訳ではないからだ。
もともと彼の能力は単独任務に最適なので暗殺依頼の始末はアラシヤマに一任してあった。
これはシンタローも知らない、俺とマジック伯父貴だけの秘密だった。
だがそれももうすぐ片がつく。
「殺し屋やから出来るんどす。どこまでやったら人が死ぬか、どこまでなら生かしておけるか、わてはよう知ってる。あんたより、ずっとあの人の役に立てる」
その一途な激情が厄介なのだと俺は思った。
次の任務にはアラシヤマをと進言した俺の意見を却下したシンタローも、きっとそれを十分判っていたのだと思う。
―――こいつは危険すぎる。
「アラシヤマ」
俺は拳を握りしめた。掌には、震えていたシンタローの肩の感触がまだ残っていた。
「シンタローは俺が守る。俺の全身全霊で、あいつを支えてみせる」
「・・・そうどすか」
うつむいたままのアラシヤマの唇がにいっと微笑の形につりあがる。
その笑みは背筋が凍りつきそうなほど冷たく、どこか邪悪な意志を秘めていた。
わてはガンマ団なんかどうなってもかましまへん。
誰が死のうが興味ないし、邪魔する奴は皆、敵や。
わてにとって大事なんはシンタローはんだけどす。
―――わてが現役の殺し屋やいうこと、忘れんときなはれや、キンタロー。―――
物騒な台詞を言うときでさえ俺の目を見ない根暗な殺し屋を、俺は腕を組んで見据えた。
「おまえこそ、俺が青の一族だということを忘れない方がいい」
「つまり、宣戦布告ちゅうわけどすな」
「俺の喧嘩は高価いぞ、アラシヤマ」
「上等どす。あんたがその気ならこの喧嘩、即金で買わして貰いますわ。―――」
初めて俺を真っ直ぐ射抜いた揺るがない眼差しが、奴の本気を表していた。
(それでも譲るわけにはいかない)
純粋な魂を持ったあの男が、何処までも真っ直ぐいられるように。
あの黒い瞳が、未来だけを凝視めていられるように。
シンタローが人であるために、俺はこの世に生を受けたのだ。
シンタローと一緒ならば、失った二十四年間を取り戻せる。
臆することなく、信じた道を迷わずに進むことが出来る。
俺にとっては彼こそが、最強無敵の道標だから。
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作・渡井
春夏秋冬
わずかな休憩時間に、総帥室を抜け出して中庭へと降り立った。
高松が世話をしているという温室は、図鑑に載っていない植物で溢れている。ティラミスが眼を吊り上げて呼びに来るまで、ここでぼんやりしていようと、柔らかい土の上に座り込んだ。
緑の中は落ち着く。特にこんな、普通の植物園では味わえない感覚は―――1年ほど前に離れた、あの島に似ている。
(落ち着く?)
そんな理由ではないくせに。
何とか思い込もうとする俺の理性を裏切って、頭の中で皮肉な声が響く。
(シンちゃん、サービスが今日、本部に来るそうだよ。夜には着くって)
朝方に親父から聞いた言葉が甦る。
(特戦部隊が本部に帰還するそうです。無線では夕方ということでした)
ついでに秘書から聞いた言葉までフラッシュバックする。
分かってる。だから俺は、ここに来たんだ。
あの二人に会う前に、ちゃんと思い出しておかなければならなかったから。
1年前まで、俺はサービスが好きだった。本気で愛してた訳じゃない、ただ憧れていた。叔父は知的で静かで、それに俺をマジック抜きで見てくれた。
春の花よりも儚く、
夏の雲よりも白く、
秋の鳥よりもつれなく、
冬の星よりも綺麗だった。
(けれど1年前、あの島の森の中で、俺は思い知らされた)
サービスは俺なんか見ちゃいなかった。赤の番人としてあの男が―――ジャンが現れて、サービスは俺の見たこともない顔でジャンを見ていた。
(俺はジャンの代わりだったの?)
あのときから、俺は淡い恋心を捨てた。手遅れになるほど重くなく、傷も残らないほどは軽くもない気持ちを。
1年前まで、俺はハーレムが好きだった。本気で愛してた訳じゃない、ただ憧れていた。叔父は真っ直ぐで暖かくて、それに俺を子ども扱いせずに呼んでくれた。
春の風よりも優しく、
夏の海よりも眩しく、
秋の空よりも懐かしく、
冬の雪よりも純粋だった。
(けれど1年前、あの島の森の中で、俺は思い知らされた)
ハーレムが呼んでいたのは俺じゃなかった。まだ敵だったあの男が―――キンタローが現れて、ハーレムは俺を呼んでいた声でシンタローと呼んだ。
(あんたのシンタローは誰だったの?)
あのときから、俺は淡い恋心を捨てた。手遅れになるほど重くなく、傷も残らないほどは軽くもない気持ちを。
別に裏切られたなんて思ってる訳じゃない。そんな大したことじゃない。最初から何も期待なんてしちゃいなかった。
ただ少し、悲しかっただけ。
「シンタロー、ここにいたのか」
がさりという音が、俺の意識を引き戻した。
呼びに来たのはティラミスではなく、キンタローだった。
「おう、ちょっと眼ェ休めてた」
「むやみに触らない方がいいぞ。人間に害のある種類もある」
「なに育ててんだよ、あいつは!」
伸ばされた手に掴まって立ち上がり、土を払う。
「特戦の帰還が早まった、もうすぐ着くらしい。報告書は渡しておいたと思ったが」
「受け取ったよ。また無茶しやがって。そろそろ本気で追放すんぞ、あのおっさん」
「それからサービス叔父貴がさっき来たぞ。お前を探していた」
「あ、麗しの叔父様には挨拶しに行かなきゃ」
「極端すぎるぞ、シンタロー」
いつもの無表情で言うキンタローの声に、僅かに嫉妬が混じっている。
それがどっちに向けてのものかまでは分からなかった。
温室のドアを開けようとした腕を掴み、振り向いたキンタローに笑ってみせて、俺よりも少し薄い唇に口づけた。
「ンな顔してんなよ、キンタロー」
(ちゃんと覚えている)
「さっさと叔父さん達に会いに行こうぜ?」
(ガキの想いは、あの島に置いてきた)
4つの季節がくるりと回って、あれから1年が過ぎて。
俺はちゃんと、本気の恋を見つけられた。
「―――そうだな、きっと待っているな」
本当に俺を見てくれた、
本当に俺を呼んでくれた、
この男と一緒に歩いていこう。
「キンタロー……その前に、俺の足に絡みついてる蔦、取ってくんない?」
「ああ……これは俺には無理だ。高松を呼んでこないと」
「何で植物に牙の生えた口があるんだよ!」
―――ドクターは抜きで。
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高松が隠居した後、温室は開発課に任され、
さらに大変なことになってたりするといいと思います。
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作・斯波
風のような僕の恋人
君を見るたびに
僕の心は青く染まる
どうかずっと 側にいて
STAY WITH ME
読んでいた論文に栞を挟んで時計を見上げる。
(あいつがバスルームに行ってから三十分)
「おい、シンタロー!」
慌てて扉を開けて覗いてみると、案の定シンタローはバスタブの中で水死体になりかけていた。
「―――だからもう少し待っていろと言っただろう」
「悪い・・・」
俺の肩に頭をもたせかけてシンタローは盛大な欠伸をした。
「後十分気づかなければ、ガンマ団は次の総帥候補を捜さなければならないところだったぞ」
「んなもんおまえがなりゃあいいじゃねえか」
「馬鹿なことを言うな!」
声を荒げた俺にシンタローがひょいと首をすくめる。
「だっておまえを待ってたらいつになるか分かんねーだろ。眠かったしとにかく早く風呂入りたかったんだよ」
確かに論文を読み終えるまで待っていてくれと言ったのは俺だ。
しかし二十八歳にもなって風呂で溺れかけるというのは如何なものかと思う。
それも今回が初めてではないのだ。シンタローは疲れているとすぐ風呂の中で眠りこんでしまう。子供の頃からそうだったといつかマジック伯父貴が笑っていた。
大抵は顔が湯の中に沈んだ時点で目を覚ますのだが、時々ぶくぶくと泡を立てながら沈んでいることがあって、だから俺の用事が済むまで待っていろと言ったのだ。
そんなに眠いのなら風呂に入らず寝てしまえばいいと思うのだが、シンタローは一日の終わりには風呂に入って疲れを癒すものだと言って譲らない。
俺は溜息をついて濡れてしまった髪をすくいあげた。
「・・・待たせて悪かった」
(何故にいつもいつも俺が謝らねばならんのだ)
たまにはそう思うが、分かりゃいーんだよ、と得意そうに笑うシンタローを見るとつい甘やかしたくなってしまうから不思議だ。
―――キンちゃんはシンちゃんに甘いよね。ゲロ甘だよ。
そう言ってご丁寧にえろろろろ、と砂まで吐いてみせたグンマの言葉を思い出す。
「あー・・動きたくねえ」
シンタローの部屋の風呂は広い。風呂好きの息子のためにマジック伯父貴が作ったバスタブは、190cmを超える男二人が一緒に入ってなお楽々手足を伸ばせる大きさなのだ。
「誰か俺の代わりに服着て歯ァ磨いて寝てくんねーかな・・・」
言っている意味がまるで分からない。
背後から俺に抱かれる形で湯に浸かっているシンタローは、いつになく疲れて見えた。
仕事が終わった後ざっとシャワーを浴びていたから、身体はそこそこ綺麗になっているはずだが、髪の方はそうもいかないだろう。
面倒くせェ、とぶつぶつ呟いているシンタローに、
「俺が洗ってやろうか」
と言ってみると、ぱっと目を輝かせた。
「マジで!? マジで洗ってくれんの? や、言ってみるもんだなー!」
―――またノセられたか。
「バスタブの中でいいか? 出ると寒いし」
「いいいい、全然いい」
さっきまで湯の中に沈んでいたせいで、長い黒髪はもうすっかり濡れている。
棚からシャンプーを取り、掌に垂らすとぱっといい香りが広がった。
「シャンプーを変えたのか?」
「ああ、グンマがくれた。ブルガリアの薔薇のエキスが入ってんだってさ」
「ふうん・・」
甘酸っぱい香りは薔薇のものか。しつこくなくて気に入った。
後で俺もグンマにねだってみようと思いながらシンタローの髪に指を差し入れる。
ごしごし洗い出すと、シンタローは猫のようにうっとり目を細めた。
喉がごろごろ言うのが聞こえるような気さえする。
「気持ちいいか?」
「すっげー気持ちいい・・・」
「力の入れ方が違うからだ。腕のいい美容師はカットだけじゃなくてシャンプーも上手い」
「まあな。だけどやっぱりおまえだからじゃねえかな」
「うん?」
「きっとおまえの手だから、こんなに気持ちいいんだよ」
無防備な顔でさらりとそんなことを言うおまえが、可愛くて仕方が無い。
そう思う俺はきっと、もう取り返しがつかないほどおまえに病んでいるんだろう。
生え際から旋毛。
耳の後ろからうなじまで。
きっとシンタロー自身の手によってさえ、これほど丁寧に扱われたことはないだろう。
そう思えるほど、俺は優しくシンタローの髪を洗った。
するすると指の間を滑っていく髪の手触りが気持ちいい。
「綺麗な髪だ」
「あん、そうか? 長いから面倒なんだよな」
「切るなよ」
シャワーで泡を流しながら俺はその髪をすくいあげて口づけた。
薔薇の甘い香りが鼻先をくすぐる。
「勿体ないから、切るな」
「んだよキンタロー、てめー髪フェチか?」
そうじゃない。
おまえの髪だから好きなんだ。
閉じこめられて過ごした長い年月の後、まるで一陣の風のように俺の前に突如現れた。
(一族でただ一人の黒い瞳と黒い髪)
互いが互いを愛しすぎ憎みすぎてもうどうしようもないところまできていた青の一族を、正しい道へと導いてくれたおまえの周りで揺れていた、その髪だから。
―――シンタロー。
おまえのすべてが愛おしくてたまらない。―――
「お客様、かゆいところはございませんか?」
「生え際がちょっとまだかゆいんですけど」
「かしこまりました」
真面目くさった俺の声が可笑しいとシンタローがげらげら笑い出す。
「動くな、目に沁みるぞ」
子供みたいに身をよじって笑う恋人をたしなめながら髪を洗う。
「はい、終了」
すっかり流して綺麗になった紙を、湯に浸からないようにくるりとまとめてタオルで束ねる。
「あー気持ちよかった! キンタロー、おまえ美容師の才能あるんじゃねえ?」
さっきまでの疲れなどどこかへ飛んでいってしまったような上機嫌に俺は嬉しくなった。
「他の奴の髪なんか洗いたくないな」
おまえだけのスペシャルサービスだ。
そう囁いてやるとシンタローはくすぐったそうに首をちぢめて笑った。
「当たり前だろ。俺以外の奴にこんなことしてみろ、もう口利いてやらないからな」
「それは困る」
「んじゃ俺だけにしとけ。そしたら一生おまえの側にいてやる」
悪戯っぽい瞳でくれたキスは、仄かな薔薇の香りがした。
ともすれば論理という鎖に囚われて迷路に迷う俺の心に、おまえは風を運んでくる。
幸せな気持ちになった時にも、今までの俺はいろんなことを考えて考えすぎてそのために幸せを逃すことが多かった。
おまえは俺の内側までは踏み込んでこない。
ただ笑って、俺の隣にいる。
猫の目のようにくるくる変わる機嫌とその表情で、手当たり次第に俺を振り回す。
(偉そうで俺様で)
我が儘で不器用で、そして優しい俺の恋人。
(誰よりもたくさんの涙を流したのに)
何もなかった顔で笑っている、そんな恋人。
伝えたいことは、たくさんあるんだ。
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えろろろろ。
シンちゃんの部屋の風呂はどんだけデカイんだろう。
キンちゃんはきっとメイクも着付けも完璧です。後のお手入れまでしてくれそうです。
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作・渡井
タイム・リミット~あと45分
顎に当てた蒸しタオルを取り、泡を伸ばしていく。慎重に剃刀を当てて丁寧に動かす。青の一族はもともと髭は薄い方だし、金色だからあまり目立たないだろうが、念には念を入れたい。
時計を見ると夕方の6時15分だった。
大きなタオルで髪の水気を切り、洗濯籠に放り込んだ。棚からドライヤーを取るとコードが絡まっていて、こんなときに限って、と苛々する。何とか元に戻しコンセントに繋いで、長い黒髪を乾かし始めた。
時計を見ると夕方の6時15分だった。
45分ではあまりゆっくりはしていられないな、と歯磨き粉を搾り出した。昼食の後に磨いたが、あれから時間も経っているしコーヒーも飲んだ。鏡に映しながら一本一本を丹念に磨き、さて何を着ようかと悩み始める。
ラフな服装は好みではないし、普段がスーツか白衣だからセンスに自信がない。似合っていると誉めてくれるスーツで行くのが間違いないだろう。
45分しかないのか、と思わず頭の中でチョコレートロマンスを罵った。同僚と共によくやってくれているのだが、何も今日に限ってミスを指摘することはないだろう。おかげで仕事が終わったのは予定よりずいぶん遅れてだった。
買ったばかりのシャツをベッドに並べて腕を組む。普段が赤い制服だから別の色が新鮮だろう。シャツにジャケットを合わせ、下はジーンズで着崩すことにする。
ネクタイをきゅっと締めて、再び洗面台にとって返した。ワックスで髪を整え、抜かりがないかチェックする。亡父が使っていたという時計を腕にはめ、苦笑した。
(俺は何を焦っているのだろう)
父親に勧められたスプレーで髪を潤した。香りと手触りが良いという触れ込みを今日だけ信じてみる。かつてなく真剣に梳かしている自分に気づいて、舌打ちした。
(俺はガキかっつうの)
フレグランスを片手に首を捻った。今まで使ったことがないが、こういうものもつけるべきだろうか。
もう一度時計を見ると時間が迫っている。意を決して首筋に馴染ませた。
鏡の前に立って首を捻った。シャツのボタンをもう一つ外すと、肌を見せすぎだろうか。
もう一度時計を見ると時間が迫っている。どうにでもなれ、と外した。
7時。
2つの扉が同時に開いた。
7時5分。
グンマは研究員に貰った菓子を抱え、上機嫌で部屋へ続く廊下を歩いていた。角を曲がったところで人影を見つけ、片手で菓子を持って手を振る。
「ああ、グンマ、いま帰りか?」
「じゃあ悪いけど後は頼んだぜ」
「うん、気をつけてね」
声をかけられて大きく頷いた。
「いってらっしゃい、シンちゃん、キンちゃん」
すれ違いざまに手を振って、しばらくしてから振り向いた。
「初デートだねっ!」
キンタローの歩調が乱れ、シンタローが振り向いてグンマ、と怒鳴る。それを笑顔でやり過ごして、グンマはいっそう機嫌よく部屋へと戻った。
(ご飯食べに行くくらいで、2人ともガチガチに緊張しちゃってさぁ)
もし朝まで戻らなかったら、父である前総帥に何と告げ口してやろうかと考えて、グンマは声を立てずに笑った。
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作・渡井
タイム・リミット~あと5分
「昼前には士官学校の入学式だ。総帥挨拶の予定がある」
キンタローの声を聞きながら、俺はうつむいて今日の予定表を見ていた。
昨日、キンタローと初めて寝た。お互い起きたのがギリギリで、ろくに会話もせず仕事が始まってしまったのだが、俺は羞恥に顔なんて上げられない。
何でこいつはこんなに冷静な顔をしていられるんだろうと思う。
「面倒くせえな。ティラミスに原稿書かせよう」
シンタローが椅子に座り、目を伏せて予定表に視線を注いでいる。
昨日、シンタローと初めて寝た。お互い起きたのがギリギリで、ろくに会話もせず仕事が始まってしまったのだが、俺は不安でため息をこぼしてしまいそうだ。
何でこいつは目を合わせてくれないのだろうと思う。
「それが終わったら新しい総帥艦のお披露目がある。滑走路のこっちから3番目だ」
ふいに視界にキンタローの指が現れて、紙を押さえた。
その指が昨日、どんなふうに俺の体を滑っていったか思い出してしまって、俺は思わず両目を右手で覆ってしまった。
「どん太が早く見せてえって張り切ってた奴だな。いい仕上がりらしいな」
疲れているのかシンタローの手が動き、眼を押さえた。
そうすると見えている口元が際立って、嫌でも記憶がフラッシュバックする。吐息交じりの泣き声で俺の名を呼んだ唇から視線が外せない。
「午後はデスクワークに励んでもらう。チョコレートロマンスが書類に埋もれていたぞ」
少し揶揄するような声色になって、もう勘弁してくれとうっとおしい黒髪を払った。あの声で、俺の耳元でささやき続けたんだ。
どんなに俺を愛しているか。どんなに俺に溺れているか。どんなに俺のすべてを欲しいと願うか。
「あいつなら埋めといても3日は死なねえよ。そのうち掘り起こしてやる」
言い放って長い黒髪を払う。なめらかな髪を乱して体をよじる光景が浮かび、今すぐに抱きしめて叫びたくなって困った。
どんなにお前を愛しているか。どんなにお前に溺れているか。どんなにお前のすべてを欲しいと願うか。
「今日は定時以降は仕事はない」
キンタローが眉一つ動かさずに言う。何だってこいつは、いつもと変わらない顔で立ってやがるんだ。
(俺ばっか意識してるみてーじゃねえかよ)
「じゃあコタローの顔でも見に行くかな」
シンタローがふっと優しい顔になる。何だってこいつは、いつも弟のことばかり口に出すのだろう。
(俺はコタローに嫉妬しているのだろうか)
「もうすぐティラミスとチョコレートロマンスが来るだろう。原稿を頼むなら言っておけ」
「はーいはいはい」
「返事は一度でいいぞ、シンタロー」
「お前が言うな!」
(でももしかしたら)
自然に二人の目が合った。シンタローが上半身を起こし、キンタローがゆっくりと身を屈める。
どちらからともなく短いキスを交わす。
(こいつも焦ったりしてんのかな?)
(こいつも昨日のことを考えているのか?)
「……ティラミスたちが来る時間じゃないのか」
そんなことを言いながらキンタローの腕は嘘をつけなくて、
「もう少し大丈夫だろ」
特ににやりと笑うシンタローの目の前では正直だ。
いつもより早めにやってきた秘書たちが、昨夜の名残を惜しむ新総帥とその従兄弟の姿に、音がしないよう扉を閉め直して、廊下で盛大に自分たちの運命を呪うまで、あと5分。
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作・渡井
タイム・リミット~あと3秒
春になったばかりだというのに、気温は日々、景気よく上がっている。
余裕を取りすぎた時間を持て余し、手近の図書館に寄った。
大きな図書館はひんやりとしていた。
ふと気づくとシンタローがいない。
まあ次の予定先に行くにはまだ時間がある。あまり気にせず科学論文に目を戻した。
ふと気づくとキンタローがいない。
まあ次の予定先に行くにはまだ時間がある。あまり気にせず料理本に目を戻した。
最初は新聞を見ていたのだが、途中で経済学の入門書らしき本が気になった。
(ガンマ団は明らかに経費が嵩み過ぎなんだがな)
いろいろと手に取って移動して、最終的に科学論文に行き着いた。
科学者であることを諦めた訳ではない。今は補佐官の仕事を優先しているが。
ある論文が気になって熟読してしまう。
うちの総帥閣下の役に立ちそうだ。報告しておくべきだろう。
最初は新聞を見ていたのだが、途中で世界的に有名になったベストセラーが気になった。
(会談の前に、世間話のネタくらいは仕入れとかねェとな)
いろいろと手に取って移動して、最終的に料理本に行き着いた。
誰かに料理を作ってやるのは好きだ。今は総帥の仕事に追われているが。
ある料理が気になって熟読してしまう。
うちの補佐官どのが好きそうな味だ。今度作ってみようかな。
俺は俺に出来ることをしたい。
そうすることでシンタローが笑ってくれれば嬉しいと思う。
彼の笑顔が太陽のように輝くのが好きだった。
俺は俺に出来ることをしたい。
そうすることで見守ってくれているキンタローに応えたいと思う。
彼の青空のような眼に見られるのが好きだった。
シンタローの笑顔は外にある太陽よりも、もっと強く、もっと眩しく俺の心を照らす。
時に雨の代わりに涙を降らせるけれど、
(それでも太陽はまた青空に昇る)
キンタローの眼は外にある青空よりも、もっと青く、もっと澄んで俺の心を包む。
時に気難しそうに心配そうに曇るけれど、
(それでも青空はまた太陽を迎える)
読み終えた論文を元に戻し、室内を見渡す。
目の前の棚は背が高く、シンタローを見つけることは出来なかった。
―――はぐれてんじゃねェよ。
シンタローに見つかったら、まるで迷ってしまった小さな子どもを諌めるように笑うだろう。
それは悔しい。
(必ず、俺が先に見つけてみせる)
読み終えた本を元に戻し、室内を見渡す。
目の前の棚は背が高く、キンタローを見つけることは出来なかった。
―――ああ、ここにいたのか。
キンタローに見つかったら、憎らしいくらい余裕のある声で穏やかな眼をするだろう。
それは悔しい。
(ぜってー、俺が先に見つけてやる)
右手を見ると、女性向きの恋愛小説の棚がある。
(これはシンタローは興味ないだろうな)
とりあえず、ここを回って探しに行こう。
左手を見ると、女性向きの恋愛小説の棚がある。
(これはキンタローには理解できねーな)
とりあえず、ここを回って探しに行こう。
恋人を探して一歩を踏み出す。
先に見つけたら何と言ってやろうと悩む暇もなく。
青空と太陽が出会うまで、あと3秒。
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図書館はこんな雑多な本の置き方はしていないでしょうけれども。
大きな図書館が近所に欲しいです。
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