作・斯波
どうしてこんなにあなたを
抱きしめたいんだろう
恋に落ちたら終わりだなんて
悲しいことを言わないで
思い過ごしも恋のうち
あまりの暑さに空気までが白く煮えたぎっているような夏の午後。
俺は屋上への階段を登っていた。朝からずっと研究室にこもっていたのだ。
室内は適度に冷えているのだが、さすがに数時間ぶっつづけでクーラーの冷風を浴びていると身体が太陽の光を欲してくる。
薄暗い階段を登って重い扉を押し開けると、眩しい陽光が眼に飛び込んできた。思わず眼を細め、熱いほどの大気を心地良く吸い込む。
しかし俺の気分が浮き立っていたのもそこまでだった。
スーツのネクタイを緩めた俺の目に映ったのは、ガンマ団きっての危険人物だったのだ。
アラシヤマは屋上のコンクリートに直に腰を下ろし、フェンスにもたれて煙草を吸っていた。
いつでもきっちり制服を着ている男だが、それはこんな真夏でも変わらない。
足を止めた俺に、奴は咥え煙草のまま投げ遣りな視線をあててきた。
「―――何や、あんさんか」
「シンタローでなくて悪かったな」
新総帥となった従兄弟のシンタローに対するアラシヤマの傾倒振りはつとに有名だった。
あの島へ行くまではライバル同士で仲も悪かったのに、帰ってきてみるとシンタローはアラシヤマの『親友、いやむしろ心友』に昇格していた。しかしそれは、明らかにアラシヤマからの一方的な友情の押し売りで、シンタローの方では奴を鬱陶しがっていることは一目瞭然だった。
アラシヤマの好意はしばしば鉄拳や蹴り、果ては眼魔砲で報われる。それでもアラシヤマは、シンタローのためなら何でもすると言い、実際何でもやってのけるのだった。
「この暑いのに何をしている」
「何て、見たら分かるやろ」
「仕事はどうした? 今朝ティラミスに本日提出の書類を持って行かせたはずだが」
「あんなんとうに終わったわ。わてをそこらの屑と一緒にせんといて」
(・・・全くこいつは)
シンタローはぁぁん、と叫びながら駆け寄ってくる姿しか見たことのないあの総帥は、こいつがシンタローの居ないところでどれだけその態度を豹変させるか知らないだろう。
俺はアラシヤマの隣で立ったままフェンスにもたれ、下界を見下ろした。遙か下に飛空鑑が数機止まっているだけで、ガンマ団は静かな午後を迎えている。
陽光が心地良かったのは最初だけで、胸ポケットから煙草を取り出した頃にはもう焼けつくような陽射しがじりじりと俺を焦がし始めていた。
煙草を咥えライターを探っていると、ぽうっと煙草の先に火が灯った。
「・・・悪いな」
「どう致しましてどす」
ニッと笑うアラシヤマはまるでクーラーの利いた室内にいるかのように、汗一つかかず涼しげな顔をしていた。俺が投げた視線の意味を悟ったかのように、
「わては炎使いやさかい、暑さには強いんどす」
と言う。そしてそのまま立ち上がり、俺の隣でフェンスに背中を預けた。
「なあ、何でわて仲間外れにされてんの?」
俺は暫く黙って煙草を吹かしていた。そう訊かれることは予想がついていた。
ガンマ団の遠征は困ったことに殆ど総帥自身が出動する。その間の実務は俺が請け負う訳だが、遠征中に総帥に何かあるといけないので護衛を兼ねて幹部が同行することになっていた。
幹部は大勢いるのだが、やはりあの島で共に命を賭けて戦った伊達衆がついていくことが多い。
しかし、アラシヤマは最初の一度同行しただけで、それ以降ずっと本部詰めになっていた。
そのことを言っているのだ。
「わてかて、シンタローはんと一緒に戦場に出たいわ」
「・・・」
答えない俺に苛立ったのか、声が少しだけ強くなる。
「シンタローはんが来るな言わはるんやったら我慢しますえ。そやけど違うやろ? わてに同行命令が出たこともあった筈や。それを握り潰してるのはあんたどすやろ、キンタロー」
俺は携帯灰皿を出して煙草を揉み消した。
アラシヤマの方を真っ直ぐ向き直ると、奴も正面から俺を見据えていた。
「一度だけ出た戦場で何をしたのか、もう忘れたのか、アラシヤマ」
あれはシンタローが新総帥に就任して最初の遠征のこと。
シンタローの戦い振りを確認するために同行した俺を唖然とさせたのが、実際の戦闘指揮を任されたアラシヤマだった。
降伏を促すシンタローの言葉に敵国は侮辱で答えた。
―――親の七光りで総帥になった実力もないヒヨコに従う気は無い。
眼魔砲、とシンタローが怒鳴る前にアラシヤマはキレた。
迸った炎は瞬く間に敵国を地獄に変え、そのせいで大勢が死んだのだ。シンタローは敵より先にアラシヤマに眼魔砲を撃たねばならぬ羽目になった。
戻ってからも一月の懲罰房入りを命じることで、その件はやっと収まったのだった。
「あれはもう昔の話どす。今なら殺さずを守れる」
「信用出来んな。シンタローはガンマ団の総帥であるだけでなく、俺の大事な従兄弟だ。その従兄弟をおまえのせいで、いいかすぐに暴走するおまえのせいでだな」
「二度言わんでええ」
アラシヤマも煙草を消した。
「わてにとってシンタローはんは命より大事なお人や。そのシンタローはんを困らせるようなこと、わてがする思てんの?」
「困らせているだろう、毎日」
「あ・・・あれは照れたはるだけどす!」
それは無いな、と俺は思った。
「キンタロー、あんさん焼き餅焼いてるだけやろ」
「・・・は?」
アラシヤマは新しい煙草に火をつけた。
―――あんた、シンタローはんが好きなんよね―――
俺はアラシヤマから目を逸らせなかった。アラシヤマも視線を外さない。
どこか遠くで、蝉が鳴いていた。
「わてが知らんとでも思てたん?」
「・・・・」
「自分の好きな人ずっと見てる奴がいてたら気になる。・・・そやからあんたも、わてのことが気に食わへんのどすやろ」
俺がアラシヤマに呆然とさせられたのはこれで二回目だ。
(俺が・・・シンタローを?)
確かに、シンタローは俺にとっては特別な存在だ。
あの事件があるまでは文字通り一心同体であり、兄弟でもあり従兄弟でもあり―――今はこの組織を共に支える同志でもある。
シンタローに泥をかぶせるような真似は例えそれが血族でも許さない。
シンタローの往く道の障害になるものはこの俺が排除する。
(何故ならあいつは俺にとって)
俺にとって、シンタローは一体何なのだ―――?
口を押さえてフェンスに寄りかかった俺に、アラシヤマの柔らかい、しかし容赦のない声が降りかかった。
「やっと分からはりましたん?」
「俺は・・・」
「そやけどなあ、キンタロー」
頭が混乱している俺の唇に、アラシヤマの細い指が自分の煙草を咥えさせる。
―――あんたにはあのお人、渡しまへんえ・・・・?
「アラシヤマ!」
怒鳴り声に近い俺の呼びかけに、階段へ下りる扉の前で№2は振り向いた。
「次の遠征はおまえとシンタローで行って来い」
「へえ」
「だがシンタローの邪魔をしたら俺が、いいかこの俺が許さんぞ!」
「二度言わんでええ言うてるやろ」
アラシヤマが微笑う。
艶やかに、そして涼しげに。
「任しといておくれやす、キンタロー補佐官。―――」
階段を降りる靴音を背中に、俺は紫煙を吐き出した。
(・・・ただの思い過ごしだ)
高い空に、蝉がいよいよ喧しく鳴き立てている。
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作・斯波
立ち止まることも出来ない日々の中
だけど確かに見つけ出した
揺るぎないものはただ一つ
おまえが俺の道標
思い過ごしも恋のうち 2
霊安室は静まり返っていた。
ベッドに並べられた遺体は三つ。
真っ白な布がかけられた遺体は、もう物も言わぬ物体となって俺たちを見返していた。
「・・・捕虜になったんだ」
シンタローの声は低い。それでも静寂が支配しているこの部屋の中ではよく響いた。
その震えさえもが、はっきりと聞き取れるほどに。
「救出は、間に合わなかった。―――相当の手練れだったから、おそらく自力で脱出出来た筈だ。もし俺が、殺すななんてことを命令していなければ」
「シンタロー・・・」
「殺すな、と俺が言ったから・・こいつらはその命令を遵守した。死ぬ間際さえも」
赤い総帥服のままのシンタローの肩が、小刻みに震えている。
俺は黙ってその背中を凝視めていた。
「俺が、殺したんだ。手を汚さずに生きていけるなんて思っていた俺の甘さが、こいつらを殺した」
「それは違う。―――」
俺は思わずシンタローの肩を掴んでいた。
「おまえは間違ってなんかいない!」
一族でただ一人、黒い髪と黒い瞳を持って生まれてきた男。
重すぎる運命と責任をその両肩に背負って、それでも太陽のように笑っている。
(従兄弟であり、兄弟であり、そして俺の分かたれた半身)
昔傷つけあって血を流した男達のために、そして遠い島で今も生きている小さな友との約束のためにおまえはこの強大過ぎる組織を変えたいと願い、全力で走り続けているじゃないか。
そんなおまえが間違っている筈などない。
おまえがどれだけ潔く自分の運命と闘っているか、俺がいちばんよく知っている。
おまえを非難することなど、この俺がさせはしない。
「一人も犠牲を出さない戦いばかりが出来る訳じゃない。だがおまえはやるだけやったんだ。いつかきっと、誰も死なないですむ日が来る。そういう世界を創るために、おまえは今必死で礎を築いているんだろう? だから後戻りするな、前だけを見て走れ。そのためにおまえの力はあるんだろうが」
シンタローは、真っ直ぐ俺を見つめていた。
常には迷いの欠片も見せず、自信に満ちた笑みでガンマ団を統率している男の唇が、かすかに震えている。
「・・・きっと明日になれば」
かすれた声でシンタローはそう言った。
「いつもの俺に戻れる。俺が目指したガンマ団は間違いじゃなかったと言い切る強さを取り戻せる。だけど今日は駄目なんだ、キンタロー」
「・・・ああ」
「今日だけは、俺」
白くなるほど唇を噛みしめた従兄弟を、静かに俺は抱き寄せる。
「馬鹿だな、おまえは」
「・・・っ」
「総帥だから泣いてはいけないなどと、誰が決めたんだ。泣けばいいじゃないか。何のために俺が、おまえの家族である俺がいると思って」
「二度言うな、馬鹿」
肩に額を押しつけて、シンタローは震える声で笑った。
「全く・・・ざまあねえな」
ありがと、キンタロー。
そう言って泣き出したシンタローを、俺はしっかり抱きしめた。
この男を守りたい。
もうこんなふうに泣かせたくない。
初めてそう、心から思ったその瞬間。
(あんた、シンタローはんが好きなんよね)
―――真夏の光の中で吐き捨てられた、どこか投げ遣りな声が甦った。
死んだ部下にもう少しついているというシンタローを残して霊安室を出た俺は立ち止まった。
目の前の壁にアラシヤマがもたれていた。
「シンタローはんは大丈夫どすか」
相変わらず、俺を見ようともしない。
「ああ」
「そやからわてを行かしてくれ言うたんや」
うつむき加減のままのアラシヤマの、しかし声にははっきりと怒気がこもっていた。
「俺の計画書ではおまえが副官だった。土壇場で変更したのはシンタロー自身だ」
「わてやったらシンタローはんにあんな顔させへん」
「仕方のないことだ。犠牲ゼロというのは、今のガンマ団ではまだ難しい」
「わてなら出来ます」
「大層な自信だな、現役殺し屋のくせに」
アラシヤマはまだ殺し屋稼業から足を洗っていない。ガンマ団が過去に引き受けた依頼の全てが終わった訳ではないからだ。
もともと彼の能力は単独任務に最適なので暗殺依頼の始末はアラシヤマに一任してあった。
これはシンタローも知らない、俺とマジック伯父貴だけの秘密だった。
だがそれももうすぐ片がつく。
「殺し屋やから出来るんどす。どこまでやったら人が死ぬか、どこまでなら生かしておけるか、わてはよう知ってる。あんたより、ずっとあの人の役に立てる」
その一途な激情が厄介なのだと俺は思った。
次の任務にはアラシヤマをと進言した俺の意見を却下したシンタローも、きっとそれを十分判っていたのだと思う。
―――こいつは危険すぎる。
「アラシヤマ」
俺は拳を握りしめた。掌には、震えていたシンタローの肩の感触がまだ残っていた。
「シンタローは俺が守る。俺の全身全霊で、あいつを支えてみせる」
「・・・そうどすか」
うつむいたままのアラシヤマの唇がにいっと微笑の形につりあがる。
その笑みは背筋が凍りつきそうなほど冷たく、どこか邪悪な意志を秘めていた。
わてはガンマ団なんかどうなってもかましまへん。
誰が死のうが興味ないし、邪魔する奴は皆、敵や。
わてにとって大事なんはシンタローはんだけどす。
―――わてが現役の殺し屋やいうこと、忘れんときなはれや、キンタロー。―――
物騒な台詞を言うときでさえ俺の目を見ない根暗な殺し屋を、俺は腕を組んで見据えた。
「おまえこそ、俺が青の一族だということを忘れない方がいい」
「つまり、宣戦布告ちゅうわけどすな」
「俺の喧嘩は高価いぞ、アラシヤマ」
「上等どす。あんたがその気ならこの喧嘩、即金で買わして貰いますわ。―――」
初めて俺を真っ直ぐ射抜いた揺るがない眼差しが、奴の本気を表していた。
(それでも譲るわけにはいかない)
純粋な魂を持ったあの男が、何処までも真っ直ぐいられるように。
あの黒い瞳が、未来だけを凝視めていられるように。
シンタローが人であるために、俺はこの世に生を受けたのだ。
シンタローと一緒ならば、失った二十四年間を取り戻せる。
臆することなく、信じた道を迷わずに進むことが出来る。
俺にとっては彼こそが、最強無敵の道標だから。
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