Rehydration
午後の予定が何もなくてよかった、とシンタローは秘書に渡されていた書類の最後の一枚にサインをしながら思った。
頭が重くてなんとなくだるい。適当に片付けるとシンタローは椅子から立ち上がった。
立ち眩みこそしなかったものの、つきんと頭に痛みが走る。
部屋に帰って寝るか、と脱いであったジャケットを片手に総帥室を後にするとエレベーターを待つ間に「おい」と声がかかった。
「なんだ?キンタローか」
なんか用か、とシンタローは尋ねた。この時間、オフになるのは自分だけのはずだった。
グンマは外の学会に行っているし、父親も外出している。キンタローの予定は確か研究室で高松の監督の下、簡単な実験を行っているはずだった。
「高松がグンマに呼ばれて暇になった。手合わせしろ」
有無を言わさぬ口調のキンタローにシンタローは苦笑した。
本部に戻ったころはいちいちそんなことにムッときていたものだがもう慣れている。それにキンタローの方も徐々に打ち解けてくれていてかつてのような刺々しい殺気はなくなっていた。
手合わせを求められてシンタローはこの前コイツとやりあったのはいつだっけ?と考えた。
考えてみると継いだばかりの総帥の仕事が忙しくてキンタローの相手どころかジムにも足が遠のいていた。
何度か遠征にも赴いたがどれも総帥の初陣を飾るべくガンマ砲一発で片付くような簡単なもので、デスクワークばかりの体は鈍っているといってもよかった。
「何か用事があるのか?嫌ならいい」
黙っているシンタローにキンタローはそう声をかけた。
こいつ、最近人のこと気を遣い始めるようになったよな、と高松の教育の成果をシンタローは認める。
「いや。やる。今からだろ」
体を動かせば頭痛も取れるかもしれない。
知恵熱じゃねえけどストレスが溜まってたのかもな、とシンタローは頭に手をやった。
触れた髪がばさばさと動いてシンタローははっとした。
「なあ、紐かゴムねえと……」
髪が邪魔でやり辛いから部屋まで取りにいく、とシンタローが口にする前にキンタローはスーツのポケットをまさぐった。
「ちゃんと持ってきている」
用意がいいな、と思いながらシンタローは黒いゴムを受け取った。
フィットネスマシーンが置かれていないだだっ広いフロアでシンタローとキンタローは向かい合った。
左側の壁には鏡が貼られている。
武道の型やボクシングのフォームを確認するためだ。
フロアの壁にかけられている時計の針が12を指したらはじめようぜ、というシンタローの提案にキンタローも乗った。
レフリーがいないから仕方がない。この前手合わせしたときはグンマに頼んでいた。
だが、従兄弟はいないし、この時間、ジムを使っている団員もいなかったのでこの方法しかない。
かち、かち、と時計の針が動くのを横目で見ながらシンタローはぶるりと身を震わせた。
士官学校を卒業したての時でもないのに武者震いが止まらない。
コイツとやり合うのは楽しんだよな、と思いながらシンタローはぺろりと己の口唇を舐めた。
時計の針が12の1と2の間をまっすぐに差した。
「かかってこいよ、キンタロー」
上体をガードしながらそう言い放ったシンタローにキンタローは望むところだと言わんばかりにフロアの床を蹴り上げた。
何度か攻防を繰り返したもののなかなか隙が見えてこない。
キンタローを鏡に追い詰めながらも今一歩踏み出せなくてシンタローは舌打ちした。
前に出るどころか体はよっぽど鈍っているようでなんだかふらふらする。気を張って構えているもののこんな調子じゃ前線で足手まといになる。
どこでもいいから突破口を開こうと、シンタローはキンタローをじっくりと見た。ブロンドの少し上に裏返しに映った時計が見えた。
時計の短針は4に近いところを示している。20分足らずで息が上がるなんて情けねえ、シンタローはじりじりと歩を進めながらそう思った。
足払いしてみるか。避けられてもきちんとガードしていれば次の攻撃は防げる。
痺れを切らして攻めるのは失策に繋がることが多いが隙が見つからない以上どうにもならない。このままだと自分のボロが出そうでシンタローは腰をすっと落とした。いきなり動いたシンタローにキンタローが首を傾げる。
このまま間合いを詰めればうまくいくとシンタローは足を伸ばした。伸ばしたけれども。
フロアの照明がなぜか真正面に見えたのを最後に意識を失った。
*
冷たくて気持ちがいい。
一番最初に思ったのはそれだった。
けれど、それが一体何なのか考える前に冷たさが取り除かれなにかが額に触れた。
(……誰かの手?誰のだ?)
額に手が当てられている。シンタローは何でそんなことをするのか、と思った。
こんなことをされたのは士官学校に入る前以来だ。コタローも生まれていない。
それでも額に触れていた手がふっと離れるとなんだか体が熱を持っていることに気づいた。
人の手すらも何もしないよりは冷たく感じるらしい。
冷たさを求めて薄目を開けるとぼんやりと金色と青が飛び込んできた。
金色が従兄弟の髪の毛で、青が彼の目の色だということが理解できたのは額同士がくっついてしばらく経ってからだった。
「……きんたろ?」
ぼやっとした頭で呟くとキンタローはほっとしたように息を吐いた。
呼気が触れ合うほどに近づいていた距離も解消される。俺はどこに寝てるんだ、とシンタローは天井を見た。
自分の部屋と同じ壁紙だけれどもどことなく違和感がある。
起き上がって確かめようと身を捩るとキンタローは慌てて止めた。
「起きるな」
疲労から来る風邪だそうだ、とキンタローは淡々と告げた。
それから「体調が悪いのなら俺の誘いなど断れ」と付け加える。
「いきなり倒れたから驚いた。病気で倒れる人間は初めて見た」
当身を食らって気絶する人間と大して変わらないんだな、と真顔で言うキンタローにシンタローは笑った。
「はは。そりゃ、なあ」
倒れるには変わりねえんだし、と続けようとしてシンタローは声の異変に気づく。
喉がいがらっぽい。さっきまではそんなことなかったのに。
それになんだか滑舌が悪い気がする。
「……やはり風邪のときは声も変だな」
キンタローも同じことを思ったようで興味深そうな顔をしていた。
「高松が戻ったらすぐに見てもらえ。ああ、それから」
風邪のときは温かい飲み物がいいんだろう、とキンタローは言った。
「待ってろ。何か用意する」
シンタローがいらないというよりも早くキンタローはベッドルームから出て行ってしまった。
*
がちゃり、とドアノブが回る音にキンタローは目を覚ました。
もぞもぞと起き上がろうとするキンタローに入ってきた人間は慌てて駆け寄る。
「あー、寝てろって。まだ熱下がってねえだろ」
入ってきた人間、従兄弟のシンタローの言葉にキンタローは大人しく従わずに上体を起こすと従兄弟の手を引いた。
無理やりに己の額に指を触れさせる。
「下がっているだろう。もう平気だ」
指で触れさせられていたシンタローはキンタローの言葉に「ンなわけねえだろ」と答えた。
「俺が濡れタオル取っ替えてやったばかりだからそう感じるんだよ」
ほら、と掛け布団に落ちたタオルを取り上げてシンタローは従兄弟の腿の辺りをぽんぽんと叩く。
「今起きて動いたらまた酷くするぞ」
大人しく布団に入ってろ、と宥めるように言われてキンタローはため息を吐いた。
「寝汗はかいたか?気持ち悪ぃんならパジャマ着替えさせてやるぜ」
「いいや」
ふるふると首を横に振ってみて、キンタローはこめかみに走る痛みに顔を顰めた。
薬を飲んで何時間も寝たはずなのに頭痛が取れていない。
大人しく従兄弟のいうことを聞くべきか、と諦めてキンタローは布団に手をかけた。
「じゃあ、とりあえず水分取るか?風邪のときはこまめに水分補給しねえとな」
言うなり、シンタローはにやっと笑った。
「ホットミルクなんかどうだ?ちゃんと蜂蜜入りで作ってやるぜ」
おまえが俺に作ってくれたときは牛乳温めただけだったもんなあ。初めて作ったからしょうがないけどな。
まあ、それでもいいんだけど甘い方が飲みやすいぜ。風邪のときは甘いホットミルクが一番だ。
にやにやと笑いながらシンタローはそんな言葉を続けていく。
「少し待ってろよな」
揶揄されてムッとしたキンタローが「いらん。もう少し寝る」と言い出す前にシンタローはかつて自分が寝込んだときのキンタローと同じようにとっとと部屋を退散した。本当は人肌以上に熱いただの牛乳が今まで床についた中で最高の看病だったのだけれども。
そんなこと照れくさくて一生言ってやらねえ、と思いながらシンタローは冷蔵庫を開けた。
初出:2006/09/13
いしたけいこ様に捧げます。
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I don't know...why?
シンタローが帰還したという一報が入ったそのとき、本部に残っていた一族の人間は俺しかいなかった。
シンタローが総帥に就任してからまだ日は浅い。
前総帥の伯父は引継ぎのために世界中を飛び回っているし、双子の叔父もそうだ。
あの島から帰ってきて以来、俺は高松の元で色々なことを学習するようになったが、その高松は現在もう一人の従兄弟とともに国外の学会へと赴いていた。
帰還の知らせを受け取る親族は俺しかいなかったとはいえ、正直腹立たしい。
学習漬けの毎日が彼らの不在でつかの間の休息を得られたのだ。
高松から課題は出されていたもののいつもより量は少なく、すぐに済ませることが出来た。
だからこそ伯父から譲られた父のアルバムをゆっくり見ようと考えていたのだ。
今日ならば、誰の目も気にせず部屋に篭れる。皆がいれば、午後のお茶だのなんだのと呼びつけられるのだ。
この機会を満喫しようと考えていたのに、タイミングを打ち砕くように内線電話が鳴り響いて、俺は気分を害していた。
「……別にあの男が帰って来た事はどうでもいいんだが」
迎えに行く気はないぞ、と言うと電話の向こうの団員が勿論ですとも、と阿るような返事をした。
「出て行ったヤツが帰るのは当然だろう。くだらんことをいちいち報告してくるな」
常日頃から俺とアイツが反目しあっているのは一般団員まで知れ渡っている。
伯父やグンマにならばまだしも俺にわざわざ報告してどうするというのだ。気が利いた人間ならば報告など見合わせるだろう。
ちっ、と舌打ちすると電話の向こうで慌てて申し訳ありませんと言う返事が返ってくる。
「……もういい、切るぞ」
緊急の用件以外は連絡するな、と言いつけて俺は受話器を置いた。
シンタローが遠征した国はジャングルに覆われた亜熱帯の国らしい。
暑いのに半袖着れないんだぜ、と蚊を媒介した風土病やジャングルに仕掛けられた罠の存在をグンマに言っていたのを聞いた。
これまでのシンタローを通した経験と書物での知識でしか測ることは出来ないが、きっと彼が懐かしむ島と同じで濃い大気と灼熱の大地を持っているだろう。
たいして、このガンマ団本部はもう秋が終わりへと向かっている。今日などは肌寒い風が時折窓へと枯れた葉を運んできた。
時差だけでなく寒暖の差が疲労をもっと濃いものにしてしまうだろう。
(非常に不本意だが、仕方がない。俺しかいないのだからな。俺しか!)
バスタブに栓を落として俺は蛇口をひねった。熱めの湯が、バスタブを叩いて飛沫を上げていく。
湯が溜まると、俺は出しておいたアルバムを仕舞って私室を後にした。
*
本部棟から住居スペースへと通じるエレベーターには一族以外の人間はこちらが招かない限り乗ることが出来ない。
したがって、一族の人間が使用するとき以外ランプが点灯することはないのだ。
本部棟の表示にオレンジ色の光が灯ると、数十秒の後にドアが開く。
帰ってきたシンタローは出迎える人間が誰もいないとばかり思っていたのだろう。俺の姿を認めて、ぽかんと口を開けたまま突っ立っている。
「……降りないのか」
声をかけると、
「……あ、ああ」
とどもったようにシンタローは返事をした。
「……えっと、親父とグンマはいないんだったよな?」
恐る恐るシンタローは俺に聞いてきた。
何を聞いているんだ。彼らの予定はおまえも聞いていただろう
そんな表情でシンタローを見ると、彼は慌てて誤魔化すようになんでもないと手を振った。
「……風呂の用意は出来ているぞ」
飛空艦の仲でシャワーを浴びたのだろうけれど、どことなくシンタローは薄汚れているように見えた。
赤い総帥服でなく、見慣れぬ野戦服の所為かもしれない。
狐につままれたような表情をシンタローは浮かべたが、俺は構わず自室へと向かった。
後から慌てたようについてくるシンタローの足音が廊下に響いたけれども、騒々しいと咎める人物はいない。
内心、俺はいらねえよと拒絶されると思っていたのだが、それが杞憂に終わってほっとしていた。
気まぐれとも言っていい行動だがいけ好かない相手とはいえ拒否されるのはやはり腹立たしい。
食事に呼びにこられたことはあるが、自室へとシンタローを招き入れたことはなかった。
遠慮がちに入ってきたシンタローを湯気の立つバスルームへと押し込め、タオルとバスローブとを用意する。
洗濯方法の分からない野戦服は脱衣籠に突っ込んだままにしておいた。
シャワーの水音が止み、しばらくするとドアが軋んだ音を立てた。
「キンタロー!なあ、これ借りていいのかよ?」
「ああ。タオルは洗濯機に入れておけ」
呼び声に肯定すると、シンタローは分かったと返事を叫んだ。
バスローブをまとって現れたシンタローの頬は赤みが差していた。目の下に薄くクマがあるものの顔色はよい。
「風呂借りたぜ。悪かったな」
「べつに」
そう言うとシンタローはふっとため息を吐く。
「それを飲んだら寝ろ。ベッドは貸しておいてやる」
座れ、とソファを勧めるとシンタローは俺の顔を凝視した。
「飲まないのか?喉が渇いているだろう」
シンタローはソファに腰掛けると、ぬるめに淹れた緑茶を恐る恐る口にした。
「不味いのか?」
シンタローの態度に眉を顰めると彼は慌てた。
「いやッ、美味いけど!!」
「そうか」
ならいい、と視線を逸らすとシンタローはほっとしたように息を吐いた。
「ええと……ごちそうさま」
「そこに置いておけ。俺が片づける」
空のカップを持って立とうとするシンタローを制する。彼の好きにさせてもよかったが、あまりバスローブ1枚の姿でうろうろとされたくなかった。
「いや……でもな」
「いいから、とっとと寝ろ」
寝室はこっちだと、顎をしゃくるとシンタローは困ったような顔をした。
「疲れているんだろう。弱ったおまえに興味はない。とっとと体力を回復させろ」
「疲れて……って、今回の遠征はあいつらが頑張ってくれたから俺はそんなに」
疲れていない、と言うシンタローを鼻で笑うと彼はむっとした。
「あいつら、というのはいつもの4人か。どうせ、おまえを見かねて気を使ったんだろう」
想像するのは容易い。当初はシンタローの命を狙ったというのに、島での生活を通してやつらはシンタローの友人へと変わっていった。
いくら気の置けない仲間とはいえ5人でジャングルへ行って何が楽しいんだと思う。
仕事とプライベートを切り離さないシンタローと彼らに俺はどうしてだか苛立ちを感じていた。
モヤモヤとした気分のまま、難儀なことだ、と呟くとシンタローは口を開く。
「たしかに俺のことを考えてくれて行動してくれたんだけどなッ!」
おまえにそういわれる筋合いはない、とシンタローは俺を怒鳴りつけてから、しまったという表情を浮かべた。
カップに込められた力加減から俺の顔色を窺う様子が見て取れる。
「あの4人もあれだけの実力を兼ね備えていながらおまえのお守りとは……少しは人の使い方を覚えたらどうだ」
気にせず俺はシンタローにそう言った。
お守り、と揶揄したときシンタローは再び眉を寄せたが、続く俺の言葉に動揺した態度を見せる。
ぎくりとしたように体を強張らせ、黒い目の奥を頼りなげに揺らめかせる彼に俺はうすく笑った。
「あの4人は一個隊くらい率いられるだろう。その方が勢力を分散できて効率的なはずだ」
「それは……」
考えたことがないわけはなかったのだろう。
島から帰ってきて前線へと復帰してからも、総帥を継いでからもずっとシンタローは彼らとチームを組んできた。
シンタローや一族の人間には劣るとはいえ、平の団員より秀でた能力を持った男たちだ。
ところどころで5人で行動していくことに実感はしていたのだろう。
「あいつらは俺の方針を分かってくれてるし……信用できるんだ」
俺から視線を逸らしてシンタローは言う。彼の言葉はもっともだ。
あの島で一緒に過ごし戦友となった彼らが信頼できるのは当然だ。けれども。
「それは分かるがな。あいつらを重用するおまえの態度が一部で反感を生むのも事実だ」
「……ああ」
そうだな、と言ってシンタローはぎゅっと瞼を閉じた。
仲間と離れなければいけないことを考えて堪えるような表情を見せる彼になぜだか罪悪感が湧く。
当然のことを指摘しただけで俺は悪くないというのに、針を刺したようなわずかな痛みが心に走った。
「……この話は終わりにしよう。おまえは、疲れている」
沈黙の後、これ以上追求するのは憚られて俺は会話を打ち切った。
この男は因縁の相手だ。敵と言ってもいいほどの。
傷つけても俺が気にすることはないというのに、それでも彼の沈む表情は思いもかけず俺を戸惑わせた。
安堵していいのか、どうしていいのか分からない表情でシンタローは俺を見た。
「とりあえず寝ろ。……ああ、それから次の遠征からは俺も出る」
「おまえが?」
シンタローは不安げな表情を打ち消して怪訝そうな表情を浮かべた。
「ああ。久しぶりに体を動かしたい」
何か問題でもあるか、と尋ねるとシンタローは考え込み、
「いいけど、高松の許可は取っておけよ」
と笑う。今日はじめて笑顔を見せた彼に、心に刺さるトゲが和らいだ気がして、俺も笑った。
自室へと戻ると言ったシンタローに風邪を引く、と俺は無理やりベッドルームまで引きずった。
ここまで世話を焼く必要はない。むしろ帰還の報せを受けた当初のとおり、出迎える必要もなかった。
彼の帰還が早まったとはいえ、誰も俺がこういう行動をとるとは考えないだろう。
俺自身も家族が不在だから仕方ないとはいえ、実行までに至った自分が不思議だった。
先ほど飲ませた茶には念のため軽い睡眠導入剤が混入してある。高松が作ったそれは味がなく、しかも安全な薬だ。
いいって、とシンタローはベッドルームでも何度も拒否していたが、力ずくで布団を被せると大人しくなった。
積もっていた疲労もあるのだろう。
横になって体の力が抜け、次第に瞼がとろんとしてきた。
「そのまま寝てろ。夕飯には起こしてやる」
「夕飯っておまえが作るのかよ……?」
眠気のこもる声でシンタローは俺を見上げた。
「当たり前だろう。俺はわざわざおまえと2人で外食に行く気などないぞ」
何を言っていると見つめるとシンタローは嘆息した。
「おまえって……わかんねえ」
天井を見上げてシンタローはそう言った。見下ろす形の俺はそんなことを言うシンタローの方こそよく分からない。
「当然だろう。おまえと俺は同じ人間じゃない」
他人だ、と付け加えて部屋の照明を落とす。
微かに笑う気配の後、ベッドルームを後にしようとする俺にシンタローは声をかけた。
「馬ー鹿。他人じゃねえよ。従兄弟同士だろ」
「……そうだな」
ここに彼がいることは、俺が世話を焼いているのは不本意なことだったはずだ。
それなのに、どうしてだか最初から拒絶することが出来なかった。むしろ、いつも以上にシンタローを受け入れている。
タラップを降りる彼を迎えることはさすがに拒否したけれども。
従兄弟だという、シンタローの言葉を肯定してから俺は動揺した。
今まで認める気などなかったのに、常になく殺し合いでない言葉を交わしてからどうにも調子が狂っている。
ベッドのシンタローをじっと見つめると俺の答えに彼は微笑んだ。
(どうして、そんな顔で俺を見るんだ……!)
眼を逸らし、俺に微笑みかけるシンタローの姿を打ち消したくて、俺は照明を急いで落とした。
明るかった部屋からひかりが追いやられて、もたらされた微かな暗がりにシンタローの黒髪が溶け込む。
暗がりから見えるはずはないというのに、それでも浮かび上がる彼の笑顔の残像に惑わされながら、俺はそっとドアを閉じた。
従兄弟同士だろ、というやわらかな言葉の響きがなぜだか耳をついて離れなかった。
初出:2005/11/16
ずるいよ、2人とも。
「あの部屋意外と殺風景なんだよな」
その一言を息子であるシンタローが口にしたのは朝食の席でのことだ。
息子に代替わりした今とは違い、殺し屋集団だった私の頃からもガンマ団に友好的な組織や国はあった。
それらの代表者や外交官が表敬訪問に訪れることもめずらしくはない。
使節の階級に応じてだが、たいていは総帥自らが貴賓室で供応する。
「殺風景?そうかな」
グンマが首を傾げて言った。
「大臣とか大統領ならいいけどさ、今日来るのは慈善団体なんだよな。あんま、威圧感与えたくねえんだよ」
言われてみて納得した。
あの部屋は団の威信をかけて重厚な造りにしている。屈強な軍人ならばともかく、ごく普通の人間が通されたら萎縮してしまうだろう。
「なにか置物か絵画でも飾ってみるかい?」
ミルクをコーヒーに注ぎ込みながら、息子に話しかける。手の中のカップはきれいにマーブル模様を描いた。
「今からじゃ手配が間にあわねえよ」
どうすっかな、とシンタローは目玉焼きにフォークを刺す。
とろりと溢れ出た黄身を掬い取るようにパンに塗りつけながら息子は困ったようにため息を吐き出した。
*
この時期の温室は色とりどりの花が咲き誇り、噎せ返るような濃い香りに包まれている。
花ならばすぐに用意が出来るし、部屋の雰囲気も華やかになるだろう。
いいアイデアだと思って、私はランチを終えるとすぐに温室へ向かった。
命令すれば、秘書なり誰か他の団員がするだろうが、今日は団内全体がばたばたとしている。
SPを引き連れてくる友好国の人間とは違い、今日ここへと訪れるのは民間人だ。
ホスト役である息子のシンタローも同じ本部にいるというのに打ち合わせや諸々の事情で今日は昼食を共にしていない。
花を飾ることを提案する機会がなかったが、それはそれでいい。
知らない間に貴賓室を飾り立てておいたら驚くかな、とわくわくしながら私は目当ての花へと赴いた。
薔薇の群生する区画へと訪れるとそこの景色は圧巻だった。
不思議の国のアリスにだってこんな見事な薔薇はないだろう。
ペンキを吹き付ける必要のないくらい艶々としたルビー色の薔薇に私は満足した。
これならば、あの部屋にあっても見劣りしない。
持ってきた花鋏でそっと茎を掴む。棘に触れないように慎重に鋏を入れると、シャキンと軽い音が響いた。
てきぱきと花瓶に活けるのにちょうどいいくらいの量を切り終わると、足元には途中で落ちた葉が数枚重なっていた。
今が一番豪奢で美しい時期のものはもちろん、咲き初めのものやつぼみもいくらか取り混ぜると一抱えにもなってしまった。
温室ならばともかく、貴賓室の近くで落とさないように慎重に歩かないと、と思いながら元来た道を引き返すことにした。
抱えた薔薇に視界を邪魔されながらも、温室の扉を目指していくと途中で見慣れた人物が目に入ってきた。
最初から薔薇を考えていた私が素通りした区画だ。
何をしているんだろう、と立ち止まると彼のほうからこちらに気づいたようだった。
「伯父貴?」
ここへ来るなんてめずらしいですね、と話す彼の手にも花鋏が握られている。
もう片方の手には今切ったばかりと思しき花があった。
「キンタロー、それは?」
「水仙ですよ」
事も無げに甥は花の名を口にした。
中心だけが黄色い、すっきりとしたフォルムの白い花を掲げて見せる。
「朝食でシンタローが貴賓室が殺風景だって言っていましたからね。花を取りに来たんです」
「……ああ。そうだったね」
甥と同じ行動を取っているのだが、私は自分のことを言及せずに取り繕った。
「今日来るのは慈善団体ですから、あまり派手な花よりもこういう方が落ち着くと思いまして」
私の抱えている薔薇が分かっているのかいないのか。一瞬、顔が引きつったが思い直した。
ルーザーもこういうところがあった。よく似ている親子なんて微笑ましいじゃないか、と無理やり納得しながら私はぎこちなく相槌を打つ。
「この花なら少なくても活け方しだいで見栄えがしますからね」
「う~ん。でも、やっぱり少し地味じゃないかい?」
キンタローの手にしている水仙を見ながら問いかける。すると甥は、
「和風に活ければめずらしく見えますよ。シンタローが日本人の血を引いているのは周知の事実ですからね。問題ないでしょう」
と答えた。
「もう少し切るのかい?」
尋ねるとキンタローは「ええ」と答えて鋏を握った。
やっぱり薔薇じゃ派手だよね。キンタローが気を回しているし、ここは引こうと花を抱えたまま私は彼の手を見ていた。
黙って見ているとシャキンと茎を切る音が響き、それからキンタローは虫食いを見つけた葉を剥ぐ。
細長い葉を土に落として、キンタローはもう1本だけ水仙を切った。
「これくらいでいいでしょう。……ああ、そういえば伯父貴はどうしてここへ?」
問われて私は困った。
たくさんの赤い薔薇を誰かの誕生日でもないのにダイニングに飾るにはおかしい。
かといって、シンタローにプレゼントというにはどう考えても拒否される結果が見えるだけに言いづらい。
「……病室の花もたまにはこういうものでもいいかと思ってね」
なけなしの知恵を振り絞って口にすると意外にもキンタローは納得してくれた。
「そうですね。コタローの部屋に飾るなんていいアイデアですね」
病室が明るくなりますよ、とうすい微笑みを口元に浮かべる彼に私も笑い返す。
「そうだよね。私もなかなかいい考えだと思っていたんだ。それに、シンちゃんの仕事が終わったら一緒に行こうと思ってね」
時間が空くのはやっぱりお客様が帰ってからだよね?と甥に確認を取る。
甥のキンタローはシンタローの補佐として秘書以上に業務を把握している。
「今日ですか?無理ですね。仕事の後は日本支部へ出発する予定ですよ」
「ええ?そうなの?」
その予定は朝聞いていなかった、と驚いていると甥が躊躇いがちに口を開いた。
「それに伯父貴も午後からは後援会の方々とお会いするんでしょう。今頃、ティラミスたちが探しているんじゃないですか?」
ああ!忘れていた!と甥に気づかされ、パッと時計を見る。たしかに探し回っている頃合だ。サイン会に遅刻はしないだろうが、それでも……。
「ええと、それじゃキンタローこの花預かってくれるかな?」
水仙をこれから活ける予定の甥に慌てて頼み込む。適当な花瓶に入れておいてくれればいいから、と薔薇を押し付けるとキンタローは快く受け取ってくれた。
「いいですよ。これからちょうどシンタローのところへ行くところだったので」
水仙の黄と白に赤い薔薇が鮮やかに映える。
受け取った花をそっと抱えなおすと、甥は思いもかけない言葉を口にした。
「どうせなら、これから1時間くらいは俺もシンタローも時間がありますから2人で病室へ行ってみます。
支部へ行く前にシンタローもあの子の顔を見たいでしょうし、切り花は早めに持って行ってあげた方がいいですしね、伯父貴?」
何か問題でも、と首を傾げる甥に私はぎこちなく微笑んだ。
「いや別にないよ。……シンちゃんによろしくね」
私もシンちゃんと2人の時間を持ちたいのになあ、と甥を羨んだがどうにもならない。
時間は刻々と迫っている。支部へ発つなんて、今日はもう夕食も一緒に出来ないしおやすみの挨拶も出来ないんだね、と息子を思って私は心で泣いた。
「シンタローのことは俺が責任を持って面倒を見ますから安心してください」
にっこり、と甥は微笑んだ。弟のルーザーによく似た笑みだ。
遠い昔、双子の世話に明け暮れた頃、ルーザーにはいいとこどりをされていた。
大人しいサービスの世話はあいつがしていたし、忙しいときもクラブやら勉学を口実に逃げられてきた。
すぐ下のルーザーにはいつも貧乏籤を引かされてばかりだった。
ああ!でもまさか、この年になってまで!!
ルーザーではないけれども、よく似た甥に私は昔味わった気持ちを再び思い出した。
私が同じことをしたら、同じくらい四六時中一緒にいたらシンちゃんは怒るのにキンタローは許されている。
仕事といえども世界中2人で飛びまわれるなんてずるい!私が最後にシンタローと2人で旅行したのはあの子が幼いときだというのに。
ルーザーもキンタローも、2人ともなんてずるいんだ。
親子2代に渡ってこんな思いを味合わされるなんて、私は思いもよらなかった。
とうに不惑を過ぎた弟たちのことはもうどうでもいい。未だに私に面倒をかける双子だが、そっちは代わってくれるのならすぐにでも譲る。
……でも。
明日からでいいからシンちゃんのお世話は半分こにしようよ、と揺れる花の群れを見ながら私は切実に思った。
シンちゃんを独り占めするのはずるいよ、とじっと甥を見つめたが彼は私の思いに気づくことなく、薔薇の葉を毟る。
「日本での仕事は2日間ですが、その後、2人でちょっと足を伸ばしてきますから」
お土産を楽しみにグンマと待っていてください、と言って甥は微笑んだ。
初出:2005/10/18
あきら様に捧げます。
ふたり
キーを打ち込み、扉が開くと廊下よりも冷えた空気が肌を刺した。
目を凝らすと、暗い貯蔵庫の片隅にだけ小さな電灯が灯っている。
わずかに射すそのひかりを一身に吸い込む髪の持ち主は私の甥のキンタローだった。
*
今日は、シンタローが総帥になってちょうど1周年の日にあたる。
在位10年ならばともかく、1年経ったくらいでは式典などはまだない。
それでも、公式なものはなくとも、家族の間ではお祝いしようということになっていた。
有能な秘書たちが手を尽くしてくれたこともあって仕事も休みになっている。
照れくさがり、皆がパーティの準備に追われるのを座っていられなくてシンタローは自分もやると言って聞かなかった。
そんなあの子を甥のキンタローは体よくあしらってサラダやらオードブルを作ってしまったが、ケーキはグンマが担当することになっている。
甘いものに目のない子だけれど、高松が溺愛していた所為か料理にはまごついていた。
おまけに発明家として閃いたことを実践しようとするのですでに生クリームがポップな色へと変化していた。
グンマは幼い頃からシンタローの押しに弱い子だけれど、ケーキの作り直しや手直しだけはがんとして了承しなかった。
これ以上2人の息子がケンカをしていては仕様がない。
「もう2人ともいい加減にしなさい。シンちゃんはパパの方を手伝って。今日のメインに火を入れるだけだけどね」
仕方なく私は仕込みの終わったチキンをオーブンで焼き、仕上げてもらうことをシンタローに頼んだ。
いいね、と言い聞かせるように言うとシンタローもケンカをしているのはバツが悪かったらしく素直に了承した。
グンマには、
「グンちゃん、ジャムが足りなかったんだろう。パパが取ってきてあげるからクリームを塗っちゃいなさい」
と言う。彼もまた、「はーい。お父様」と素直に返事をしてくれた。
貯蔵庫へ行く途中で温室に立ち寄った。
メインのソースに食用の花を散らしてみるのはどうだろうと、と思い立ったこともあるし、なにより何も飾らない部屋は寂しい。
時間があれば、砂糖漬けにしたり揚げたりと工夫も凝らせるが、今日のところは生で食べても美味しい花を探す。
ベルガモットやブルーマロウ、カモミールなど食用に適したものをいくつか選び、摘み取るとかなりの量になった。
ジャムを入れるために持ってきたバスケットへ放り込むと、それから私はうすいオレンジ色のミニ薔薇を選んだ。
温室を出ると花の香りを強く感じる。
貯蔵庫に持ち込むのはよくないかな、と一瞬思い、私は扉のすぐ横にバスケットを置くことにした。
ジャムの他に切らしていた蜂蜜もついでに持っていこうと考えながらキーを打ち込む。
打ち込んだ認証コードが確認されピッと小さな音を立てて、すぐに扉が開いた。
貯蔵庫はあいかわらず暗くしんと冷えている。
早く戻らないとまたあの子達がケンカになる、と思いながら歩みだすと部屋の隅から小さなひかりがと灯されているのが見えた。
(……キンタロー)
息子たちとは違う短い髪が首を傾げるたびにさらさらと揺れた。
甥がいる場所は目当てのジャムとハチミツの戸棚の近くだったから、掌に小さく眼魔砲のひかりを灯さずともよい。
キンタローをうすく照らすひかりを辿って近づくと靴音に反応して彼が振り向いた。
「……伯父貴?」
薄暗がりの中、目を細めた彼の目は青い。碧眼は一族の特徴であるとはいえ、私の青ともグンマの青とも少し違う。
それに目の色もそうだが、何より佇む雰囲気も容姿もこの子の父親によく似ていた。
「何か御用ですか?」
手を止めて、生真面目に伺い立てる甥に私は笑みをこぼした。
彼のとる態度は弟たちとも息子たちとも違う。こういうところでもルーザーに似ているのだな、と私は感じた。
「グンちゃんがジャムが必要だったからね。蜂蜜も切らしていたし」
シンタローもグンマも手が放せないから、私が来たんだよ、と続けると甥は、
「俺がここにいるのをシンタローに言っておけばよかったですね。そうすれば内線連絡で済みましたから」
とすまなそうな表情で口にした。
「ああ、いいんだよ。気にしなくて。ほら、シンちゃんとグンちゃんがケンカになっていたからね」
逃げてきたんだ、と軽口を叩くとキンタローは笑った。
「そういえば、キンタロー。どうしてここへ来たんだい?」
戸棚からアプリコットとイチゴのジャムの壜を取り出して私は尋ねた。
何か足りないものでもあったかな、と彼の作ったオードブルを思い出しながら、戸棚を閉める。
「ワインを取りに来ただけです。アルコール類も俺の担当ですから」
蜂蜜を探しながら私は彼の返答を聞いた。
「見つかりませんか?」
「ああ、うん。この辺だと思っていたんだけどね」
「蜂蜜ですよね」
「ああ、あった!」
小さな小壜をジャムの上に重ねると甥が戸棚を閉めてくれる。
「ああ、ありがとう。キンタロー」
礼を言うと、いいえとすぐに返事が来る。
「用事はそれだけでしたよね?」
「うん」
床に置いたワインをキンタローは抱えて、歩みだした。
私も慌てて扉へと戻る。
2人とも手は塞がっているが私の方は片手でも足りる。
コードを打ち込み、扉を開けるとキンタローがすみませんと小さく言った。
「やっぱりここを出ると眩しいね」
「そうですね」
貯蔵庫に目が慣らされていた所為で眩しく感じる。
窓から差し込むひかりに眩みそうになりながらも、私は扉の横へと置き去りにしていたバスケットを手に取った。
「伯父貴、それは……?」
怪訝そうにキンタローがバスケットを覗き見る。
色とりどりの花がぞんざいに投げ込まれたバスケットに私は手を入れた。少し寄せて、花を傷めないようにジャムと蜂蜜とを入れる。
「部屋に飾る用と食べる用とだよ」
驚くかな、と私はうきうきしながら答えた。
前に何度か花を使った料理を作ったがキンタローには披露してなかったはずだ。それにもう何年も作っていないから、シンタローも驚くだろう。
食べられる花なんてめずらしいだろう?と聞こうとしたときバスケットを覗いていた甥が口を開く。
「この花ははじめてですね。こっちは……。この前、シンタローとこれを使った料理を食べました」
意外と青臭くないんですよね、と甥が私に言う。
「え、シンちゃんと?」
「ええ」
聞いてないよ。それっていつ?私が留守のとき?などと色々と思ったけれども甥は私の思いに気づくことなく、
「このワインもそのときシンタローが気に入ったものなんです」
とワインのボトルを掲げて見せた。
「そうなんだ。シンちゃん、これ気に入ったんだね」
甥が見せるボトルは渋い赤色が揺れている。
「でも、キンタロー。これ、グンちゃんは大丈夫かな?」
意地悪な質問かもしれない、と一瞬、脳裏を掠めた。
だが、もう一人の息子であるグンマは甘いお菓子が大好きだ。お酒も飲むけれども、これは少し渋過ぎる感がある。
「甘口のものもちゃんと用意してあります。それに、これはグリューワインにも向いていますから」
平気でしょう、とキンタローはあっさりと言った。
それならいいね、と相槌を打ちながら私はなんとなく疎外感を感じていた。
*
グンマの作ったケーキは色とは裏腹に美味しく、温めたワインとも食後の紅茶ともどちらともに合った。
分担して片付けた後、明日は何もないからとシンタローは果実酒の栓を開けた。
こういうものも用意していたのか、と甥を見ると彼はシンタローの行動が分かっていたのか新しくグラスを用意している。
甘い果実酒だけあって、グンマの杯も進む。
お開きにしようというときには2人ともかなり酔っている状態だった。
「転んだりすると危ないからね。パパが部屋まで送っていこうか」
ね、と覗き込むとシンタローは眠たげに目を擦った。
「だいじょーぶだよ。おとーさま。シンちゃんはキンちゃんが送ってくれるって」
けらけらとグンマが笑いながら私に言う。
「そうなの?シンちゃん」
3人で飲むときは甥がシンタローの面倒を見ているんだろうか、と私は思った。
たまには私も誘ってくれればいいのに、とも思ったがそれは今度頼んでみることにする。
「じゃあ、キンタローにお願いするね」
くしゃり、と息子の髪を撫で付ける。
シンタローは酔ったときは素面と違って子どもの頃のように大人しい。
髪を撫でるのをやめて、甥に目配せすると彼はため息を吐いた。
「それじゃあ、失礼します。シンタロー」
甥はシンタローの腕を掴んで立たせてやった。
促されて、シンタローは
「ん。……親父、グンマ、おやすみー」
ふにゃふにゃとした口調で口にした。
「おやすみ、シンちゃん」
シンタローはぎゅっと甥の服を掴んだ。
シンちゃんは酔うと子どもっぽくなるのかな、と微笑ましい気持ちで見ていると甥がその手をそっと握る。
おや、と思ったけれども、次の瞬間、甥が
「足元に気をつけろ」
と言ったから、甥に尋ねるタイミングを逃してしまった。
また明日ね~、とふにゃふにゃとした口調でグンマが言うと、ドアがパタンと閉まった。
酔い覚ましに紅茶を淹れようか、と尋ねるとグンマは
「カフェ・オ・レの方がいいなあ」
と言った。
「カフェ・オ・レだね。少し待ちなさい」
コーヒーメーカーに粉と水とをセットする。その間にグンマはオレンジジュースを冷蔵庫から取って飲んでいた。
マーブル模様を描くカップをテーブルに置くとグンマははしゃいだように礼を口にした。
コーヒーメーカーから漂ってくる香気に部屋の中の酒気が追いやられていく。
カップに口をつけるグンマはコーヒーをセットする前よりも頬の赤みが落ち着いていた。
「シンちゃんにも飲ませてあげればよかったかな」
なんとなしに口にするとグンマが笑いながら、
「シンちゃん結構酔ってたよね」
と言った。
「グンちゃんもだよ」
まだ語尾が怪しい。目元もわずかながら赤い。
「僕はもう大丈夫だよ。お部屋にだって一人で帰れるからね」
威張ったように言うグンマがかわいらしくてつい私は笑ってしまった。
「信じてないでしょ、お父様」
「そうじゃないけどね。キンちゃんがいっていたとおり酔ってるときは足元があぶないだろう?それを飲んだらパパが送るよ」
ね、と宥めると頬を膨らませていたグンマがカップに口をつけながら
「キンちゃんはシンちゃんに過保護だもん」
と拗ねた口調で言った。
「過保護なの?」
「うん。お父様と同じくらいね」
見てらんないくらい、とグンマは肩を竦めた。
「今もたぶんキンちゃんが手取り足取りお世話してるよー」
シンちゃん酔ったときいつもそうだもんとグンマは言う。
「この前一緒に飲んだとき、パジャマだって着替えさせてもらってたし」
僕が酔っ払ったときは2人とも部屋に置いていくだけなのにさ、と息子は続けた。
「まあ、僕はシンちゃんみたいに羽目をはずさないだけだけど。どうしたの……お父様?」
「いや、なんでもないよ。シンちゃんは大分キンちゃんに迷惑かけてるようだと思ってね」
我侭に育てちゃったのかな、と軽い口調で言うとグンマは笑った。
「たしかに我侭だよね、シンちゃん。でも大丈夫だよ~。キンちゃん、シンちゃんのお世話するの大好きだから」
「……キンちゃんはシンちゃんと仲がいいんだね」
前は仲が悪かったのに、と思いながら口にするとグンマは大きく頷いた。
「うん。2人ともすっごく仲いいよー。仲良すぎて見ててたまに恥ずかしくなっちゃうくらい」
「……そうなんだ。ああ、グンちゃん。もう一杯淹れてあげようか?」
空のマグカップを認めて、私はおかわりを尋ねた。
「ううん。もういい。ありがと、お父様」
片付けるねー、と明るく言いながらグンマはカップを手にした。
飲みかけの私のものはそのままに、コーヒーメーカも一緒にシンクへと持っていく。
ありがとう、と声をかけながらも私はなんとも釈然としない気持ちで一杯だった。
同じ従兄弟同士でもあの子達2人はどうやら仲がよすぎるようだ。
双子のようなものだからなのか、と生い立ちを考えながらもなんとはなしに気が晴れない。
目を瞑れば、手を繋いだ甥と息子の映像が脳裏に浮かぶ。
彼らのバックで、すっごく仲いいよ、というグンマの言葉が反響していた。
初出:2005/10/17
泉麟様に捧げます。
熱砂の毒
昼はじりじりと肌を焦がすかのような灼熱の日差しが大地へと注いでいたというのに、夜は真逆の世界だった。
ここを訪れた人が日中との差が激しい気温から体調を崩すことも珍しくはない。
ここでは熱いからといっても裸体に近いような格好は出来ない。
布を覆っていないといつのまにか火膨れが出来上がる。
シンタローはいつもの赤い総帥服をきっちりと着たうえにさらにどことなく民族衣装を思わせるようなケープを羽織っていた。
「昼にこの風が吹けばいいのにな」
ぶるり、と身を震わせてシンタローはキンタローを見た。
勧められるままに杯を重ねたというのに、天幕を出ると上昇していたはずの体温から熱が徐々に失われていく。
冷たい風がケープを捲り上げ、砂塵を散らす。細かな砂が髪や顔に当たって痛い。
振り払うようにシンタローが手で砂を払う。
けれども払っても払っても砂は巻き上がるのを止めなかった。
「キリねえな」
ちっと舌打ちをするとキンタローも同意する。
「早いところ戻るべきだな」
足元に気をつけろ、と砂に足をとられるシンタローにキンタローは手を差し出した。
「つかまれ、おまえは少し飲みすぎただろう?」
俺は口を湿らせる程度だったから、とキンタローに言われてシンタローは「平気だ!」と怒鳴った。
「本当か?呂律が少し怪しいぞ」
キンタローの口調は淀みない。
折衝に当たっている中立国といっても油断は出来ない。
酔い潰されて起きたら人質に捕られてはかなわない。
賓客のシンタローが勧められる酒を断るのは角が立つ。だが、元々補佐として赴いているキンタローは別だ。
やんわりと傾けた酒甕を押し返してシンタローの周りに目を配っていた。
「だから、平気だッ……!う、わっ」
巻き上がって落ちた砂が地面の上で窪みをいつの間にか作っていた。
ブーツの溝にも砂が入り込んでいて滑り止めにはならず、易々と足を捕られる。
傾いだ体を足に力を入れて踏みとどまろうにも、アルコールを含んだ体は言うことを聞いてくれない。
つんのめって砂の上に尻餅を付いたシンタローにキンタローはため息を吐いた。
「ごちゃごちゃ言っていないでとっととつかまれ」
差し出された手にシンタローは眉を顰めた。
だが、反論する余地はすでにない。酒で重い体を立ち上げて、手を重ねる。
自分の体が熱い所為なのか、キンタローの体温がいつもよりも低く感じられた。気持ちがよい。
「飛空艦まであと少しだから、しばらく口を閉じておけ」
繋いだ手をひかれて、砂の道を2人で歩いてゆく。
目を凝らせば砂風の少し先に目印の篝火が見えた。
*
夜勤の団員を労った後、2人は飛空艦の奥へと進んだ。
白い床に砂が二人が通ったことを示すかのようにこぼれ落ちていく。
素面のときならば、じゃあな、と素直に別れて互いの部屋へ引っ込むけれども、キンタローは繋いだ手をそのままにしていた。
夜勤の団員が訝しげに見た後、眼を逸らしていたのも聞こし召しているシンタローの注意は引かなかった。
繋いだ手を寄せて、指紋認証を解除させる。
サッと開いた扉をくぐると照明が自動的に点く。
「風呂は止めておけ」
ばさばさと体についた砂を落とすシンタローにキンタローは忠告した。
「それから、もう遅い。砂を落としたら掃除なんかせずにとっとと寝ろ」
「分かってる」
明日も仕事だからだろ、とうんざりした口調でシンタローは答えた。
体を酷使する戦闘ならばともかく、腹を探りあいながらの交渉は気疲れする。
「なあ、髪についてるの払うの手伝えよ」
なんかジャリジャリする気がする、とシンタローが口にするとキンタローは指を伸ばした。
風が強い中を歩いてきたとはいえ、そんなに砂まみれになっていないはずだ。
それでも、耳の横の辺りを指で軽く払うと砂がこぼれるのが目に入る。
「だ――ッ!髪洗いてぇ!!」
「朝にしろ。酒が入ってるんだ」
下を向いて髪をガシガシと掻き混ぜる、シンタローから指を離してキンタローは素っ気無く告げた。
しばらく、髪を弄くりまわして気が済んだのか、乱れた髪のシンタローは顔を上げた。
「服を脱いだらとっとと寝ろ。気分が悪くなったら俺を呼んでくれ」
動くのも億劫なほどではないようだ、とシンタローの状態を判断してキンタローは自室へと引っ込もうとする。
けれども、ケープも取らずにシンタローが片目をしきりに擦る様子を見て引き返す足を止めた。
「シンタロー?」
どうした、とキンタローが尋ねる。
「目に砂が入った」
ちくしょう、と擦り落とそうとするシンタローにキンタローは手を伸ばしてその動作を止めさせた。
「擦ると傷がつく。洗った方がいい」
掴んだ手にシンタローは目を何度か瞬かせてキンタローを見た。
「ンなこと言ったってジャリジャリするんだよ!」
下瞼を軽く押さえてシンタローが訴える。けれども、キンタローは宥めたり、洗面所へと誘導する手段はとらなかった。
「見せてみろ」
「え、おい!ちょ……待てよッ、キンタロッ」
掴んだままの手はそのままにキンタローはシンタローを抱き寄せた。
抱きしめると従兄弟が口にした酒の香りが鼻を擽って、酔ったときの酩酊感を思い出させる。
甘い香りの南国の酒を思い出しながら、キンタローは目を細めてシンタローの顎に手をかけた。
「動くな」
砂があるのか見えない、と囁いて、顎を掴んだ手の人差し指をを少しだけ上に向ける。
視線を少し下に向けるとキンタローの爪が見えて、シンタローは体を強張らせた。
「指で取るなよ!」
「取らない」
指では、擦っていたおまえと同じだろう。
傷つくじゃないか、と何を言っているんだとでも言いたげなキンタローに返されてシンタローは戸惑った。
「大人しくしていろ」
すぐ済むから、と目元にキスをされてシンタローは困惑を浮かべる。
変わらず、目の中に不快感を感じていたがキスをする口唇から舌が指し伸ばされてようやくシンタローは目の前の従兄弟の意図を悟った。
指や体を這うように舐められるのよりもずっとセクシャルな行為だとぼんやりとした頭でシンタローは考えた。
瞼を舐められたかと思うと、いつの間にかベッドへと押し倒されて眼球を舐められている。
ぬるりとした舌が眼に潤いを与え、少しの傷もつかぬように繊細に這うのが不思議と心地よい。
プールで長時間泳いだときのような感覚が眼に生じているのに、体がじんわりと熱を帯びていくのを感じていた。
「……取れた、な」
熱い息が瞼にかかる。
泣いてもいないのに睫の端に水滴が見えて、それがなんなのか思い当たったシンタローはびくっと体を動かした。
圧し掛かるキンタローから逃れたくて、そっと体をずらすとキンタローはにやりと笑った。
「感じたのか、シンタロー」
しきりに言われる亡き叔父譲りだという口元に揶揄されてシンタローは顔を背けた。
それでも事態が変わるわけではない。
体をベッドに繋ぎとめられている状態でどう逃げようか思案していると掴んでいたままの手をキンタローが引き寄せた。
「他に砂がついていないか確認してやるよ」
手の甲に軽いキスが落とされる。
軽く止めてあるだけのケープが剥ぎ取られて床に払い落ち切れなかった砂がこぼれた。
押し退けようにも、再び、キンタローに目元を舐め上げられてシンタローは抵抗する気力を失った。
体を揺する動きで苦痛が起きているわけがないというのに、シンタローが涙を流す。
辛いわけでも、キンタローに抱かれることを拒否しているわけでもないのに絶え間なく泣く彼にキンタローはそっと口唇を寄せた。
これだけ涙を流せば砂などとうに流れている。
舐めた涙は少しだけしょっぱくて、それなのにきれぎれに上げられる声を聞くと甘く感じた。
掬い取った髪の房にくちづけするとシンタローが身じろぐ。
自分の髪が肌を掠る感触にいやいやをするかのように首を振った彼にキンタローは愛しさを感じていた。
深くくちづければ微かに酒の香りが蘇る。
とうにアルコールなど彼の体に吸収されつくしてしまっているというのにキンタローはそれだけで酔い痴れる感じがした。
シンタローからは喉を焼くような酒を思い出す。
シンタローの涙はしょっぱくて、でも声は酷く甘い。
甘さも苦さも何もない爪も髪もじんわりとキンタローの心を侵食していく。
まるで毒のようだ。
知らぬ間に囚われ、いつのまにか中毒になっていく彼の毒をもっと味わいたくてキンタローはシンタローの肩に齧りつく。
甘さを含んだ呻き声を上げるシンタローのすべてを喰らい尽くそうとキンタローは熱い舌をシンタローの口腔に捻じ込んだ。
床には2人分のケープと服が散らばっている。
2人の熱が宿った砂粒がシーツからそこへとこぼれ落ちたけれども熱に浮かされた彼らは気づかなかった。
初出:2005/10/08