やはり牢の外は広かった。
しかも、少年の持っている地図もところどころ微妙に間違っているようで、脱出は困難を極めた。
「まー、究極の話、あと一時間くれー見つからにゃーなら、いいんだけど。」
モニターを忙しく操作しながら、少年は情報班ちゃんとやれよ、とぶつぶつ言っている。
「見つかる前に薬を全員に飲ませるとしても、足りにゃーし……。」
その一言に皆、一気に青ざめる。
売り飛ばされるのと、蛇に変身させるのがどっちがマシかと聞かれても咄嗟には答えられない。
かなり歩いた時、少年は止まった。
ちょうど、明るい大きな道のつきあたりに面した場所だ。
「警備の人間のルートがそこだから、慎重に一人ずつ渡って向こうの廊下へ行け。」
そう言って、壁越しに確認すると、向かい側へ走った。
そして、あたりを見回してから、手振りで合図する。
「じゃあ、私から…。」
気の弱そうな男が、覚悟を決めたようにそう言って、一気に走り抜けた。
それに続いて、一人、また一人と少年の合図に従って、走る。
彼はというと、なんとなく出遅れて、とうとうラストになってしまった。
少年がやれやれとほっとしたように手招きしかけたが、その手が止まった。
顔がひきしまり、そっと巡回のあるという通路をのぞく。
彼も真似してこわごわと見てみると、向こうから銃を抱えた二人組がこちらを向いて歩いてくるのが見えた。
一気に駆け抜ければ全部見つかる。
しかも、ここから引き返せば自分も見つかってしまうのだろう。
だから、少年は危険を知っていながらもここを通ったのだ。
どうしよう、と今更ながらかけられた手錠が冷たく感じられた。
恐怖にぼんやりとかすむ視界に、少年が手で壁を示して、口をぱくぱくさせて何かを言っているのが映る。
頭の中が真っ白になっていたが、少年が指し示すまま彼は同じように手で壁を触る。
ざらっとした金網の感覚が彼の脳に、正気を取り戻させてくれた。
少年がこくこく頷くのに、頷き返すひまもなく、通気口のふたらしい金網を音をさせないよう気をつけて外す。
なんとか中にもぐりこんで、無我夢中で前に進む。
こんなの映画かゲームの中でのことだけだと思っていた、と彼は冷や汗をかいた。
四つん這いの状態で肘を使って移動するのはかなりきついうえ、たまに通風口近くを通る度、すぐ下に人がいるのが見えてびくびくする。
第一、いつここから出られるのかも分からないのだ。
最後に見た時、少年はまっすぐに進めと口と手振りで指示してきたように思ったが、今となってはそれも自信が無い。
一旦不安が浮かんできたらたまらなくなり、次第に進むのが遅くなっていった。
長い暗い通路がどれくらい続いただろう。
すっかり疲れ果て、彼はその場にうずくまってしまった。
もういやだ。
何故、俺がこんな目にあわなければならないんだ。
自分が招いたことだと分かっていても、それでも前に進む気力がわかない。
なにもかもどうでもよくなって、冷たい床に顔をつけると、ますますみじめな気持ちになってきた。
ああ、喉が渇いた。
朦朧とする意識の中で、人々のざわめきが聞こえてきた。
それも一人や二人ではない。
かなりの大人数が騒いでいる。
ぼーっと寝っ転がっていた彼は、はっとした。
もしかすると。
光がもれこむ方向へと這っていき、通風口から下をおそるおそるのぞき込んだ。
思った通り、いわくありげな男女が大勢、中央にある円台の方を向いて座っている。
客らしい彼らの服装は、あまりそういうものに興味が薄い彼でも、そうと分かる高価なものばかりだった。
彼らは連れの人間と小声でひそひそ話し、時折楽しそうに笑っている。
彼らにしてみれば、誘拐されたり、親に売られてきた人間の苦悩や恐怖など、まったく想像さえしないのだろう。
そこにあるから、そして自分が手に入れられるから、そうしているだけなのだ
罪悪感なんてかけらもない。
誘拐犯たちが、このオークションを余興だと言った意味がよくわかった。
この人達はおそらく、他人の人生を思うがままにあやつることができる地位にいるのだろう。
人間一人買うことなんて、日常からそうかけ離れたものでもないのかもしれない。
自分が逃げたことが今ばれたら、組織の人間はあっさりと起爆スイッチを押す。
こういう世界を相手にした商売をしているのだから。
身体をぶるっとふるわせた時、「それでは最後の商品です」というアナウンスが聞こえてきた。
最後って、確か……。
彼は顔の位置をずらして、円台の方を観ると、ちょうど、あの男が出てくるところだった。
細かい刺繍がたくさんはいったゆったりした袖口の白い上着で、前身頃をドレープのようにかきあわせて飾り紐で腰のあたりでまとめている。
上着の裾は長めで、その間から、踝より短い黒いスパッツのようなものを履いた足がのぞいている。
長い黒髪はポニーテールの要領でひとつに結い上げられ、簪を何本もさされており、目尻のあたりに紅をさして、よりいっそうきつい顔立ちを強調していた。
というか、元々目つきがやたらに鋭かった。
彼は大股でさっさと歩き、中央までたどり着くと、傲然と顔をあげて周囲をゆっくり見回した。
その姿は堂々として、卑屈さや恐怖などかけらもなく、そこらへんに座っている上流階級に属しているらしい人間たちより、よほど威厳にあふれていた。
司会の人間が男のセールスポイントらしいデータをあれこれ話しているのが耳に入ってくるが、そんなものより彼の一瞥が顧客達には何よりも効果があったようだ。
気のせいではなく、通風口から流れ込んでくる会場内の熱が五度は上がった。
「――では、百から。」
司会が開始を宣言するやいなや、いきなり『二百』と声がかかった。
見下ろすと、小さな帽子を斜めにかぶったまだ若い女性だった。
しかし、すぐに『二百五十』と、声があがり、それに被さるように『二百八十』と野太い男の声がかかる。
セリは白熱し、あっというまに三百を超えた。
ほかのセリ見ていないが、まちがいなく今日一番の盛り上がりなのだろう。
競争に加わっていない他の客達も身を乗り出して、戦いの行方を見守っている。
そんな中、勝手に値を付けられている本人だけが、我関せずといった態度で立っている。
冷たい目をして、明後日の方向を見ている男が何を考えているのか、彼には見当も付かなかった。
自分だったらあんな場所に立たされたら、逃げ出すこともできずにその場にへたりこんでしまうだろう。
あんな落ち着いた態度でいられる方がまれなのではないか。
多かったかけ声が少しずつ減り、五百七十という声以降、もうあがることは無かった。
確か値踏みをしていた男は五百はかたい、と言っていたが確かにあたっていた。
だてに、長年この仕事をしていたというわけではないということか。
「五百七十出ました。五百七十。他にどなたか、いらっしゃいますか?」
終了が近づく気配に、会場はざわつくものの、再び値をつける声はあがらない。
「では、五百七十で落札―――。」
今にも槌が振り下ろされそうになったその時、ふいに低いがはりのある男の声がそれを遮った。
「千。」
その時、わずかに男のこめかみがひっつれた。
このオークションのレートは知らないが、この会場に集まっている人間の裕福そうな様子や、あの男達の口振りから、五百という金額が相当の額であることがわかる。
それの倍ということは。
声の主を捜して、狭い窓に顔をくっつけると、皆の注目を浴びている席が見えた。
サングラスをかけたうら若い男だ。
くせがあるが、艶やかな金色の髪と、象牙の象のような整った横顔の青年で、仕立ての良いスーツの上からも分かる均整の撮れた体つき。
目元は濃い色のサングラスに覆われて見えないものの、どちらかというと、円台に立って値段をつけられる側に見えた。
これだったら、結構マシなんじゃないかと、目下の商品であるところの男に視線をうつすと、意外や意外、はっきりと不愉快そうな表情になっている。
確かに美少年にしてはトシ喰ってるし、ナイスミドルにしては若造だし、いろいろと不満があるのかもしれないが、他の油が浮きそうなヒヒオヤジや、化粧の厚さが4cmのサディズムっぽいおばさんよりはずっと普通そうだ。
しかし、青年がつけた金額は、セリを早く終わらせるどころが、かえって参加者の競争意識をあおり立て、先ほど下りた人間達も再び参加してきた。
「千百。」
「千百八十。」
「千二百五十!」
他の競争者も最後に来た大きなセリに興奮して、ひそひそと隣と話し合っている。
あのスーツの青年は諦めてしまうのだろうか、とどきどきしながら彼を見た時、ちょうど彼がサングラスを外すのが見えた。
同性の自分すらぞくっとくるような、美貌だが、彼が見とれたのは純粋に露わになったその瞳の色だった。
二ヶ月くらい前、通った国の有名な観光地の海の色とそっくりな美しい青。
別に青い目など珍しくもないはずなのに、それでもこんなに純粋な青は初めてだった。
「一万。」
その声に、我慢の限界とばかりに、血相を変えた男が台から飛び降りる。
両手を戒められているにも関わらず、素早い動作で監視員の手をかいくぐり、金髪の青年の席まで走っていくと、男は仁王立ちで『買い手』を見下ろした。
「えらく気前がいいが、俺は何もできねえぞ。それでも一万出すつもりか?」
ああ?とすごんで、金色の髪の男の顔をのぞきこむようにしたが、天井からかろうじて見える相手の男の表情は冷静なままだ。
「ああ、やってほしいことは今から教え込むさ。」
そう言うと、彼の手がするっと男の首の後ろに回り、乱暴に引き寄せる。
……………今、ひょっとして、キスしてる?
顔が重なっているので確かめられない、というか、重なっているということはつまりそういう距離なわけで……しかし、そういうシーン……同性間のだが……に免疫が無い彼の脳が拒否している。
でも確かに、この角度はまちがいなくキスシーンだ。
彼は思わずごくりと息を呑んだ。
漆黒の髪に、白く長い指が浮かび上がり、やけにくっきりした色の対比にどきりとする。
ふいに、二人が離れた。
男が勢いよく身体を起こし、長い髪がばさりと宙を舞う。
よく見ると、口の端に赤いものがついている。
慌てて、金髪の男を見ると指先でぐいっと唇をぬぐっていた。
表情は再びかけたサングラスで、大半が隠れている。
黒髪の男はそれを見下ろし、自分がやったことを相手に誇示するかのように舌を出して口元のそれを舐めた。
そして一言吐き捨てる。
「……まずいな。」
その時、ようやっと護衛が追いつき、逃げ出した『商品』の肩を押さえつけた。
「お客様、大丈夫ですか?」
「失礼いたしました。」
口々に謝って、彼を引っ立てていこうとするのを、彼は手を振って止めさせた。
「たいしたことはない。それより、主催者に話がある。この場に出てくるよう言ってくれ。」
客の要求に彼らは、明らかに戸惑った様子だが、顔を見合わせて携帯電話をどこかにかけた。
席を外していたらしい主催者が、間もなくやってきて、にこやかに彼に挨拶した。
「スペンサー氏から紹介された方ですね。初めてのお越し歓迎いたします。それで、私に何か――。」
「簡単なことだ。こいつの手錠のコードを無効化してほしい。」
コードの無効化、と言う言葉に思わず自分の手にかけられた手錠を見る。
黒く光るそれの上部に記された十桁の数字のことを言っているのだとすぐ分かった。
自分たちを縛り、追跡し、さらには殺すこともできる数字。
主催者は困った顔をして、首を横に振った。
「いくらなんでもそれは―――。」
「何故だ。私がこれの所有者だろう。それとも、先ほど提示した額以上に払う人間がいるか?」
そう言ってあたりを見回したが、誰一人として立ち上がる気配はなかった。
無理もない、あの金額だ。
それに……もし、いたとしてもこの男の威圧感に我こそは、と言える人間はそういないだろう。
「しかし、今、まだ正式にあなたが所有されているわけではありません。しかも、コードの有効無効は現在のすべてのコードに適用される仕組みになっているのです。つまり、一人を無効化すれば他のコードもすべて同じになってしまうわけで、到底お受けできません。」
主催者の慇懃な口調も、丁寧ながら押しの強い態度も、まったく男には通用しなかった。
「俺は今言った金額をその口座に今この場で振り込もう。そうすれば、俺のものの手錠を外してもらえるな。」
そう言って、携帯電話を取り出すと一言二言指示した。
「お待ちください! お客様!!」
強引さに主催者が抗議したが、男はけろっとしている。
主催者はほとほと呆れたというふうに、男に尋ねる。
「何もそうあせらずとも、半日も待てばコードは無効化されるのに。」
すると、男はふっと嗤った。
「しつけは早めにやる主義なんだ。」
「さようで。」
こういった手合いには慣れっこなのだろう。主催者は特に逆らわなかった。
やがて、ひとりが小走りに近づいてきて何か耳打ちすると、主催者は頷く。
それから彼に向かってにこやかに微笑んだ。
「ただいまご入金を確認させていただきましたので、所有者のあなたのご希望にそわせていただきましょう。」
そう言いながら、懐からリモコンを取り出すとボタンを押すのが見えた。
ピ、という小さな電子音に驚いて自分の手を見ると、数字の横で光っていた小さな赤いランプが消えている。
これで、知らない内に手首をふっとばされることは無くなったと、彼は心の底から安堵した。
しかし、自分をくくっていた戒めをほどいてくれた本人は、さらに堅固な新しい檻に放り込まれることになりそうだ。
金色の髪の男の強引さといい、男が代価に支払った金額から想像する彼に対する執着の深さといい、あの男から逃げ出すのは相当難しいだろう。
天井裏でやきもきしている観察者のことなど、階下の人間は誰一人として知るよしもなく、和やかに会談していた。
「まったく、私もこの商売を始めて相当になりますが、お客様のような方は初めてですよ。スペンサー氏に紹介していただいた御礼を是非申し上げねば。」
すると男は、真面目な調子でこう答えた。
「それには時間がかかるだろうな。現在、彼は我々が拘束しているから。」
「は? それはどいういった……。」
何を言っているのか飲み込めなかったらしい主催者が、まぬけな問い返しをしたと同時に破裂音が鳴り響いた。
主催者の手にあったリモコンが固い床に落ちて、バウンドする。
「こういうこと、だ。」
その音は、黒髪の男の手に握られている小さな黒っぽいもの―――拳銃から発せられたものだった。
「おまえ! そんなものをいつ手に入れた!?」
「俺が、さっき渡してやった。」
それしか無いだろう、と金髪の男は察しが悪い子供を説得するような口調で言いながら、サングラスを外してまっすぐ前を向いた。
主催者は現れた端正な顔立ちと、ことさらにその青い瞳をしげしげと見つめ、それからはっとしたように黒髪の男に視線を戻す。
「………っおまえは…!!」
すると、黒髪の男は、に、と笑った。
「へえ、俺の顔くらいは知っていたか。」
「なぜ、おま……『あなた』がこんなところにいるんだ!」
主催者の慌てぶりがあまりに凄まじいので、彼は驚いた。
こんな大きな建物を構える組織のトップが、狼狽するなんて何事なのか。
「そりゃあ、仕事だ。上の方でもいろいろあってな。おまえさんがいろいろ貢いでいた人物の失脚も時間の問題ってことになって、政府の介入が可能になった――っていうより、この摘発をとどめにしたいっていう対抗勢力の思惑もあるんだろうけどよ。で、『うち』に依頼がきたってこと。」
主催者は彼の説明を聞くにつれ、どんどん顔を青ざめさせていった。
しかし、なんとか無理矢理つくった笑顔を顔にはりつけた。
「なんのお話だか、いっこうに分かりませんな。なにか誤解があったのでしょう。それにしても、いくらお強いとはいえ、たったお二人で乗り込まれるとは大胆な。誤解を解くための話し合いも早く済みそうだ。」
確かに通風口から許せる限りの範囲で会場を見回すと、何人もの屈強な男達が一斉に二人の侵入者に銃を向けている。
いくらなんでも、この人数じゃ無理だ。
そう思いながらも、彼は不思議に冷静だった。
たった一人で、見張りの男達を圧倒していた男。
自分の命は自分で大事にしろ、という言葉。
あの男には『死』という言葉は、あまりに似合っていない。
こんな場面でもなんとかしてしまう。そんな気がする。
彼は自分が『勝てる』ことを『生きる』ことを知っているのだ。
自分の強さを信じているから、人から見れば無謀としか思えないことをやれるのだ。
そして、男はやはり主催者の言葉にちらりとも動揺した様子はなかった。
傲然と笑みを浮かべ、主催者に向けた銃を下ろすそぶりすら見せない。
かわりに動いたのは、金髪の男だった。
指を、ぱちん、と慣らす。
しん、とした会場にそれは思いの外響きわたった。
すると、東と西に二つあった入り口から、同じ軍服を着た兵士達が大勢流れ込んできた。
慌てて、その場を立ち去ろうとする人間達を、有無を言わさず席に戻している。
主催者はすっかり土気色になった顔をきょろきょろさせるが、逃げ場所などどこにも無いようだった。
さっきの魔法使いと同い年か、少し若いくらいの少年が駆け寄ってくる。
そして、金髪と黒髪の男の前で起立して、敬礼し報告した。
「総帥! 建物の周りを完全に包囲しました。」
彼と共にやってきた兵士達が、銃口を主催者たちにつきつける。
黒髪の男は自分の持っていた銃を下ろすと、少年兵の差し出した手にそれをのせた。
「お仕事、完了っと。」
組織の人間が連行され、参加者達も兵士達が誘導している。
その喧噪の中、黒髪の男の手にかけられた手錠を、少年が主催者から没収したマスターキーを使って外していた。
少年は真剣な顔つきで、それを黒髪の青年からそおっとのけて、ほっとした顔つきになった。
そして、ぺこっと頭を下げる。
「すみません。自分が、ついていながら総帥ば危ない目にあわせたと。」
少年に頭を下げられて、男は困ったようだった。
「何言ってんだ。あの女たちを逃がせ、と命令したのは俺だ。おまえは俺のいうことに従っただけだ。気に病むことはない。―――おまえは、よくやった。」
ぽん、と肩を叩き、顔を上げさせる。
その男の顔を見上げると、みるみるうちに彼の顔が明るくなるのが分かった。
「総帥……。」
「よし、元気でたな。じゃ、艦の連中に食事の用意を頼んできてくれ。ろくなもん食ってないから、腹が減って。」
「はいっ!」
少年は元気よく返事をすると、彼の命令を果たすべく、一目散に走って行ってしまった。
すると、それまで黙っていた金髪の青年がぼそりと呟いた。
「『よくやった』ね。」
ひっかかる言い方に黒髪の男は、彼に向き直った。
「そうだろ。じっさい、あいつはちゃんと誘拐されかけた被害者を保護し、おまえにきちんと報告した。よくやったじゃないか。」
「ああ、『総帥』の意に見事にそってくれたものな。」
青い瞳がぎらり、と光る。
「……『わざと』だろ。」
黒髪の男は肩をすくめた。
「まさか、俺だって散歩を兼ねた偵察で、そうそううまく現場にぶつかるとは思わなかったさ。」
しかし、それが嘘だとのぞき見していた彼にもすぐ分かった。
男はおそらく危険な地域を選んで、歩いていたのだ。
そして、それは金髪の男にはとっくにお見通しだったらしい。
「偵察? 『総帥』が斥候のまねごとなんぞしてどうする。」
すると『総帥』が反撃した。
「なら、補佐官がのこのこと敵の陣地に目立つ特徴抱えて乗り込んでくるのは、どうなんだよ。他のヤツに来させれば良かっただろーがっ!」
痛いところをつかれたのか、補佐官は彼に背を向けて俯いた。
「……おまえが誘拐されたと聞いて、俺がどんな気持ちだったと思ってる? そのうえ、持たせていた盗聴器が急に使えなくなって…。」
そんなもの持ってたのか、と上で聞いていた彼は驚いたが、そういえば、登録された時、端末の具合がおかしいとか言っていたが、それはこの男が所持していた盗聴器のせいではないだろうか、と思い当たった。
他にも、組織の人間がコードのことを説明したとき、身体をわざわざ、そちらに向けたりしていたのは、自分を通して情報を補佐の彼に伝えようとしていたのか。
「着替えさせられるときに見つかったらヤバイから、トイレに流したんだよ。」
「だから、おまえの様子がまったく分からないのに、俺が艦の中で待っていられると思うのか、と俺は聞いてる。」
強い口調でそう言ったが、握りしめた拳が小さく震えている。
その姿は事情を知らない自分でさえ、痛々しく感じるのだから、かなり親しい仲らしい黒髪の男ならなおさらだろう。
男はばつの悪そうな顔で、金髪の彼の方へ近づいて頭をかいた。
「うー、そのなー、俺も、止められるって思って、おまえに相談しなかったのは悪かったと思うけどさ、無駄なけが人は極力出したくなかったんだ。今度から、ちゃんと相談するから機嫌直せよ。なっ。」
「……俺が反対するような場合を除いて、だろ?」
鋭くつっこまれ、黒髪の男の目が宙を泳いだ。
「それは、おまえが何かっつーと、『危険だ』『よせ』を連発するから。」
金色の髪の男はしばらく沈黙した後、ゆっくり彼の方を振り向いた。
「…………手を出せ。」
「手?」
急に何を言い出すのかと思ったら、と彼は両手を差し出した。
「別に怪我なんてなにも……って、オイ!!」
突然の男の怒声に驚いて、彼が天井から目をこらすと、なんと彼の両手にまたもや手錠がはめられていた。
「何しやがる! さっさとはずせ!!」
「ふらふら出歩く勝手な上官には当然の処置だ。」
「ふざけんなっ!」
「俺はいつでもまじめだ。」
ぎゃあぎゃあ言い争っている二人を、残っていた部下達がまたかというふうに眺めている。
誰か止めないのかな、ともっとあたりを見ようとしたとき、ふいに、腰のあたりを強い力で引っ張られた。
「うわあああああああああああっ!」
必至で振り向こうとしたが、狭い通路をすごいスピードで引っ張られているため、かなわなかった。
どこからともなく聞こえてきた悲鳴に、総帥は顔をあげた。
「なんだ? 今の声……。」
もしかしたら敵がまだ潜んでいるのか、と彼は俄然はりきった。
「おい、これをはずせ、ちょっと様子を見てくるから。」
しかし、補佐官の返事はにべもなかった。
「だめだ。囮としてここに乗り込んだんだろ? なら、おまえの任務は終了だ。このまま俺と艦へ戻れ。」
勝手な総帥の躾は早い方がいい、と補佐官は固く決意しているようだった。
ぼとん、と廊下に転がり落ちた彼が、顔を上げると魔法使いの少年がはさみの柄のような持ち手を寄せると、自分を掴んでいたクリップが開いた。
そのまま、ハンドルをぱこぱこ動かすとクリップと柄の間の蛇腹状の腕部分が縮んでいく。
子供の頃はやったマジックハンドルとかいうおもちゃによく似ていた。
そんなもんで、人間一人引きずり出したのかよ、とその荒っぽさに断然抗議したかったが諦めた。
「おみゃーさんで最後ぎゃあ。あっちで他のみんなは手錠を外してるから、おみゃーさんも行くといいでよ。」
「あ、ああ。」
頷いて、尻をさすりつつ立ち上がると、先をすたすた歩いている少年になんとか追いついて質問した。
「あのさ、さっき会場でここの人間が捕まったりしてるとこ見たんだけど、あれって君の仲間?」
「そうだぎゃ。詳しいことは、たぶんそのうち新聞にでも載るけど、ワシらは依頼を受けてここをぶっつぶしに来たんだがや。」
彼が簡単に説明するところによると、彼の役目は『特技』を活かして基地内に潜入して、戦闘になった時、人質になるかもしれない被害者である自分たちを安全な場所に非難させておくことだったらしい。
「途中で、その手錠のことが分かって、どうするか迷ったけど、なんとか作戦通りにいったし、めでたしめでたしだぎゃあ。」
なるほど、だから変装してセリに参加するという、あんな回りくどい真似をしたの、と彼はやっと納得できた。
そして、さっきから気になってたことを聞いてみる。
「あの『総帥』ってひと、って、ひょっとして君達の……。」
すると、少年は何がおかしいのか、くっくっ、と笑い出した。
「絞られてたか? 『あの人』がものすごく怒ってたで。」
『あの人』ってあの金髪の青年のことなんだろうなぁ、と思って彼は頷いた。
やっぱりと、少年は今度は大声で笑った。
彼は不思議に思って、楽しそうに笑っている少年にためらいがちに声をかけた。
「『総帥』っていうからには、あの人はエライ人じゃないのか?」
「最高指揮官だぎゃあ。」
けろっとした表情で少年は答える。
「だから、そんな人が敵地に乗り込んでいいのか?」
「しょーがないだがや。あの人を止められるヤツなんてうちにはいにゃーで。」
確かにそんな感じだったなー、と、しみじみ頷いたところで、あの金髪の男のことを思い出した。
黒髪の男よりは紳士的に見えたが、『総帥』と二人でぶっつけ本番の大芝居をうってみせる度胸といい、あの歯に衣着せぬ口調といい、彼なら対等にわたりあえるのではないんだろうか。
少なくとも『総帥』に対して遠慮したりはしなさそうだ。
「あの補佐とかやってる人は? あの『総帥』も一目おいてるみたいだったぞ。」
「まあ、確かに、あの人なら総帥を止められるけど。」
ぽりぽりと鼻の頭をかきながら、少年はため息混じりに、言った。
「結局、最後にはたいてえ一緒に暴走しとる。」
困ったことだぎゃあ、と口で言いながら、少年の顔は楽しそうで、そして、とても誇らし気だった。
この事件は、かなり大々的に報道されたが、検査のため入院した施設ではそれを見ることはなかなかできなかった。
被害者の、テレビは部屋になかったし、新聞も届けられなかった。
確かに今はただ何も考えずに過ごしたいと言う人が大半で、必要最低限の事情徴収も拒否反応は凄まじかった。
けれどなかには、のど元過ぎればのタイプもいて、そういう人はテレビがおいてある管理人室に行って、繰り返し流れる映像を指さしてはああだこうだと興奮気味に話していた。
彼はというと、その会話に加わることもなく、自分に起こったできごと、そうなってしまうところだった人生、またそうなった人がいるということを、報道からわかりうる情報をすべて頭と心に刻みつけようとした。
それはまったく無意味なことだったのかもしれないが、それでも、そうしなければならないような気がしたのだ。
自分に起こったことを受け止めなければ、次へと歩いていけない、きっと。
「お、またあの軍服が出てきた。」
テレビなどで目立つのは、この国の軍人らしかったが、たまに違うデザインの制服の人間が出てくる。
「この国に雇われた傭兵みたいだな。こういうことを生業にしてるやつの気持ちってわっかんねぇなぁ。」
「そうだよな、いくら給料よくっても、あんなのが日常ってのは俺はやだぜ。」
「こういうことは一生に一度でたくさんだよな。なあ、あんた。」
テレビの画面に見入っていた彼だったが、急にふられて慌てて頷いた。
まったくだ。確かにあんなことは一度で充分。
画面の中の、男達を見る。
彼らもきっと、たまにはもうたくさんだ、と思う時もあるに違いない。
けれど。
「あっ!」
画面にちらっと一瞬映ったそれに、彼は思わず声をあげた。
「どうした? なにか映ってたか?」
「いや……ちょっと。」
身を乗り出してきた人に手を振ってごまかし、もう一度テレビを見るが、もう画面は切り替わっていた。
ほんの少しだが、遠くにあの漆黒の髪が映ったのだ。
髪と対照的な真っ赤な軍服に身を包んだその姿は間違いなく、あの男だった。
その横にはあの金髪の男が影のように付きそっている。
『給料の問題じゃないのかもな……。』
彼は、ふとそんなふうに思ったのだった。
月と太陽
なんとなく学校に入って、なんとなく帰宅部で、なんとなく大学に入って、となんとなく平穏な人生を送っていたある日、彼は唐突に考えた。
自分はこのまま何もなく、だらだらと無為の時を過ごして年をとっていくだけなのか?
何かもっと自分にふさわしい生き方が、待っているのではないだろうか。
ただ、それに出会っていないだけで。
就職活動もそろそろ始まろうというその時期に、心に突然発生したその考えは、あっといまに彼の頭の中を覆い尽くした。
勝手に休学届けを出した息子に親は呆れたが、「まあ、わかいうちだから」と父親が不承不承承諾したその日に彼は、ネットで航空チケットをとったのだった。
世界はとても広く、すべてのことが新鮮にうつった。
物語の中の世界のような場所や、見たこともない衣服、お腹をこわさないための水の選び方、ひとつひとつを自分の経験として蓄え、その日生きていくためのいろいろだけを考えて歩いていくという生活。
彼は故郷では味わえなかった一日一日の充実感を噛みしめ、あちこち旅し…………そして、ある日目が覚めると、人身売買組織に捕まっていた。
吐き気を堪えながら、寝台の上で身を起こすとそこはまったく覚えのない部屋だった。
小さな電球一つの窓一つ無い薄暗い部屋は、かすかに悪臭も漂っている。
「……ここ…は?」
昨日宿をとった覚えは無い。
彼は二日酔いでずきずき痛む頭で、必死に昨晩の記憶をたどった。
確か、街についてぶらぶら歩いていると、同い年くらいの若者に声をかけられた。
外国人である自分も知っている有名な学校の制服を着た学生は、閉鎖的な街では珍しい異国人に大変興味を持った様子だった。
どこから来たのか、留学生か、などと立ち話をしているうちに意気投合してしまって、彼の仲間がいるという酒場に半ば強引に、連れて行かれたのだった。
若者もその仲間も非常に感じが良く、すっかりいい気分になって飲み過ぎてしまい―――そこから後のことは覚えていない。
誰かに事情を聞きに行こうと立ち上がったが、ドアには鍵がかけられていた。
鋼鉄製の扉は見るからに重そうで、体当たりしたところで無駄だろう。
このときになって、ようやっと彼も自分が何かやばいハメに陥ったことに気が付いたのだった。
慌ててドアを叩き、大声でここから出せと咽の限りわめいた結果、現れた屈強な大男に殴られ長い間気絶することになった。
その際、大男と一緒にいた男の会話で、どうやら自分が人身売買組織に捕まったことや、しかも数日後に魚か何かのようにセリに出されてしまうらしいということを、朦朧とする意識の中知らされて、愕然とした。
都市伝説などでよく聞くホラ話が、自分の身にふりかかってきて、当然のことながら彼は焦り、怒ったが、もはやどうしようもない。
この国に来なければ良かった、いや、そもそも故郷でじっとしていればよかったと、今更の後悔にくれていたところに、その人物は現れたのだった。
それは、彼が閉じこめられて五日目の夕方だった―――ただし、時計も窓も無いこの部屋においては、はっきりとそうとは言い切れない。
がちゃがちゃと、鍵を開ける重い音に彼は身体を強張らせた。
おそらく夕食だろうとは思ったが、最初の日に暴行を受けて以来、扉を開ける音に神経質になっている。
いっそ、ここから出られるのなら、売られていった方が気持ちが楽になるとさえ、思ったくらいだ。
びくびくと目をやった扉が勢いよく開き、組織の人間に両側から手錠をされた腕をとられて男が立っていた。
髪の長い、並はずれた長身の男性だ。
身につけた白いシャツがあちこち破れていることから、自分の時と違ってここに連れてこられるまでに、相当争ったのだろうと思われる。
「入れ。」
背後で閉まる扉を振り返りもせず、男は空いている寝台へまっすぐ歩いていて、どっかりと腰掛けた。
おとなしく言われた通りにする男を確認した彼らは、幾分かほっとしたようだった。
強面で、しかも、三人もいるにも関わらず、この男に対して相当警戒してあまつさえ怯えているようにさえ見えて、彼は驚いた。
「ヤロー同士で、むさ苦しいことこのうえないが、今夜一晩はそこで辛抱しな。」
鍵をかけた扉の向こうから看守にそう告げられ、彼は明日がオークションの日だということを思い出した。
この男は自分が人身売買組織に捕まったことを知っているのだろうか、と振り返ってみると、男はつながれた手の上に顔を乗せて何事かを考え込んでいる。
「あ、あの……。」
いつまでたっても一言も喋らない男の態度に、業を煮やして彼はおそるおそる声をかけてみる。
「何?」
こちらに向けたその顔に、彼は思わずどきりとした。
入ってきたときもそう思ったのだが、よくよく見るとこの男、やっぱりものすごくカッコイイのだ。
鍛えられた体つきといい、濃い眉や鋭角な輪郭のライン、と、『男らしさ』の要素だけで構成された外見だが、白いシャツに、黒い髪がはらはらと散っている様はどこか艶めいたものを感じさせる。
鋭い眼差しに圧倒されながらも、何故か目が離せない。
なんといえばいいのか、存在感が今まで見たことのあるどんな人間とも違うのだ。
いわゆる名の知れたスポーツ選手とか政治家とか、そういう『特別な人間』だけが持っているオーラというかそんなものが、彼の周りを取り巻いている。
映画俳優かモデルかなにかなんだろうか。
思わずぽかんと口を開けて見とれていると、「だから、なんだよ?」と不機嫌そうな顔つきでもう一度聞かれた。
「あ、えーと、自分がどうなったか解ってますか?」
そう聞いたのは、彼が怒ってるようには見えても、怯えたりしてる風には見えなかったからだ。
こんなあり得ないような状況に陥って、こんなに落ち着いているものだろうか。
もしかして、喧嘩か何かに巻き込まれて、警察にでも捕まったとか、そんな風に考えているかもしれない。
しかし、男はその質問に何を言ってるんだ、コイツと言わんばかりの顔をした。
「ああ? この国で人身売買が行われているのは有名じゃねぇか。」
あたりまえのように、男が言ったその情報は彼にとっては初耳だった。
「ええっ!? 旅行雑誌ではそんなことちっとも…。」
男の顔がますます険しくなる。
「そんなもん、ガイドブックが書くわけねぇだろ。けれど、近隣の国にも噂は流れているし、今だったらネットなりなんなりで情報収集は可能だろうが。おまえ、なんの下調べも無しで知らない国に来たのかよ。」
男の指摘に、彼はぐっと言葉に詰まった。
確かに気の向くままに旅をしているので、ガイドブックでさえ買わないことも多い。
今回は閉鎖的な土地柄であることや治安もあまり良くないくらいは知っていたので、直前に滞在していた国で一番ポピュラーなガイドブックを買ったのだ。
そこで治安の良い場所を選んで旅すれば、大丈夫だろうと考えたからだ。
しかし、結局はこの体たらくだ。
用意が不十分だったといえばそうだが、人からそう言われて面白いわけはない。
だいいち、この男だって自分と同じ目に遭っているではないか。
「じゃ、じゃあ、ここが……そんな場所だって知ってるのにっ……なんでここに来たんですかっ?」
すると、男は冷たく彼を一瞥した。
「俺は仕事で来たの。」
「し、仕事? もしかして、映画撮影とか何か?」
「映画撮影……って、おまえ俺が俳優かなんかだって思ってる?」
「いや、ハンサムだからそうかなーって思って…。」
やたらえらそうだし、芸能人って俺様だってよく聞くし、と思ったことは黙っておいた。
「おまえ、夢見がちっていわれねぇ? 俺はフツーのサラリーマンで、ここには出張で来たんだよ。」
突拍子もない彼の誤解に呆れた顔をしながらも、男はまんざらでも無い様子で、彼が捕まった事情を教えてくれた。
「酔っぱらった旅行者風の女の子達が、どこかへ連れていかれそうになってたところにたまたま出くわしたんで、止めようとしたら逆に捕まっちまったの。以上、説明終わり。」
もうちょっと、人数が少なかったらなんとかなったのに、と男は悔しそうだ。相当腕に覚えがあるのだろう。
「あの子達は、俺の連れが逃がしたから大丈夫だろうけどよ。しっかし、まぁ、見ず知らずの男達の誘いに乗って、よく知らない土地の酒場なんかに行くかね、フツー。」
そのため息に、まったく同じような捕まり方をした彼はぎくりとした。
「ほら、その子達、一人じゃなかったんでしょ。だから、大丈夫かと思ったんじゃ……。」
そう、自分も『男』だからもしものことがあっても大丈夫だと思ったのだ。
だって、こんなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。
普通の世界に生きている人間にとって、こんなことは映画やテレビの中のお話だ。
多少のリスクは覚悟して、見知らぬ人間との出会いを、期待するのも旅人としては当然のことだ。
だが、男は容赦なかった。
「ばーか、複数だと承知で、向こうは声をかけてきたんだ。なんとかできる目算があるからだろうが。」
「いや、だって、愛想良くて身なりもいいヤツらだったから、そんな、こんな組織の仲間だったなんて、思わないっすよ!」
うっかり、口走ってしまったことに気が付いて、口を閉じたがもう遅かった。
男は目を細め、ほー、と頷いている。
「なるほどね、ころっと騙されて連れてこられたわけだ。下調べもろくにしていない国へ来て、よく知らない相手のことを見かけだけで信用して、言われるがままに酒でも飲まされて、気が付いたらこうだった、と。」
ゆっくり、そう確認されて、彼はかっとなった。
確かに自分は不用心だったのかもしれないが、知らない相手を片っ端から警戒していたら、友人だってできないではないか。
「そうだよ! 安全だけを気にしてちゃ、なにもできないじゃん。狭い国に閉じこもってる生活に飽き飽きして、あちこち旅してきたんだ。観光ブックや情報にばっかり気をとられていたら、いろいろ見逃してしまったら、俺はなんのためにこんなとこまで来たんだか、わからない。」
強い口調でそう反撃したが、男は特に感銘を受けた様子も無かったが、かといって青臭いと馬鹿にする様子もなかった。
彼の言葉を否定するわけでも、諫めるわけでもなく、ただ淡々と彼に告げた。
「だけどさ、それを見つける前に死んじまったらイヤじゃね?」
死という言葉を、男はさらりと口にする。
説教する風でもなく、ただあたりまえのことを言っているだけの口調で。
―――なのに、それは彼の心に重くのしかかった。
「本当に欲しいものや大事なものを見つけたいなら、その前に絶対死ぬわけにはいかねえだろ。だから、そのためにてめえの命を大事にするこった。」
男はそう言って、ごろん、と横になった。
彼がなおも話しかけようとすると、男はつながれた手を心持ち持ち上げてひらひら振った。
「わりーけど、疲れてるんだ。このままじゃ、アイツらたたきのめすこともできねぇ。寝かせてくれ。」
「って、あんた、ここから逃げ出す気ですか?」
「逃げる気はねぇよ。ここをぶっつぶす。この俺様にこんな手錠はめやがった償いはキッチリさせてやる。」
「つぶす……って、そんなことができるわけないでしょうがっ!」
「いいから、おまえも寝ろよ。いざと言うとき動けるように、今は体力回復させとけ。こっから出て、もっといろいろ見に行くんだろ?」
にやり、と笑ったその顔は、不敵で自信に満ちていて、目にした途端聞きたかったいろいろなことが彼の頭からぽんって、抜けてしまった。
「んじゃな、おやすみ。」
男が目を瞑ってしばらくすると、安らかな寝息が隣から聞こえてきた。
こんな状況でよく眠られるな、などという感想なんてもう浮かばない。
この男にとっては、犯罪組織に捕まって売られそうになるなんて、『こんなこと』にしか過ぎないのだろう。
たぶん、きっと……ものすごく強い。
だから、あんな風に笑っていられるのだ。
―――きっとこういうのが『特別な』人間なのだ。
自分が夢見て……そしてなれない特別な人間……神様に選ばれたそういう人種。
あちこち旅して、色々な人間に出会ったが、こんなに強い印象を感じた人間はいない。
この旅に出てから、初めての種類の疲れを感じて、彼は男に倣ってかびくさい寝台に丸くなったが、いっこうに寝付けなかった。
何時間か経って、ようやっとまどろみはじめた時、再びドアが開いた。
「起きろ。時間だ。」
よく眠れなかったためにだるい身体を無理矢理起こすと、男はもう目を覚ましていた。
「へーいへい、今すぐ出てってやるよ。」
返事をしながら男が出ていくと、さっと銃口が向けられた。
「手錠までかけといて。」
男の口元が皮肉っぽくゆがめられる。
「いいから! 黙って歩け!」
銃口が黒い髪を押しのけ、その頭に突きつけられたが、男はしれっとして表情ひとつ変えない。
他の扉からも何人も連れ出されているが、皆一様にやつれ、青ざめていて、まともな状態の人間は一人もいなかった。
薄暗い廊下を歩いていると、さらに大きな扉が現れた。
先導していた男が首を振ると、他の男達が『賞品』たちにそれぞれ歩み寄って、最初からかけられていた同室だった男以外の手に、手錠をかける。
そして、一列に並べられ扉の前にいる男のところへ、一人ずつ歩いていかされた。
びくつきながら歩み寄る彼らに、その男は手に持っていた機械を、彼らの手錠にあててボタンで何やら打ち込んでいる。
そういえば、今まで実物を見たことはなかったが、五センチメートルくらいの太さのその手錠にはバーコードのようなものがある。
同じように疑問に思ったらしい黒髪の男が、近くにいた見張りの男に「おい」と声をかけた。
「あれは何をやってるんだ?」
喋るな、と怒鳴られるのではと隣にいた彼は慌てたが、見張りの男はそうはしなかった。
にやにやとしながら、あっさりと教えてくれたのだ。
「おまえらの『タグ』みたいなもんだ。」
「タグ~? 洋服屋のあれのことか?」
「ああ、おまえらを識別するために使うんだよ。あの機械で身体的特徴なんかを登録して、ランクに分ける。ついでに『紛失防止』を兼ねてるわけさ。発信器代わりにもなってるこれは、それぞれの行き先が決まるまでに、ここから逃げたり、下手な真似をしたら、遠隔操作で爆発させることができる。ちゃんと、腕が吹っ飛ぶ程度には抑えてあるから、今この場でもそれを試すことができるぜ。」
その残酷極まりないやり方を聞いてしまった周囲の人間におびえの色が走ったが、奴らが一番脅したかったであろう男は、少し眉を顰めただけだった。
「ま、行き先が決まったら、今回のコードは解除してやるから、後数時間の辛抱だ。」
げらげらと高笑いして、ヤツは男の腕を引っ張って、機械を持っている人間の方に押しやった。
「おい、こいつが一番やっかいだから、先に処理してくれ。」
「……ほう…、上玉じゃないか。」
不機嫌そうな男を見やり、係の者は感嘆の声をあげた。
「そうかぁ? まぁ、確かにツラはいいが、金持ちのババアが喜びそうな愛想が、全然ねえしなぁ。」
確かにただのハンサムと言い切るには凶悪な面構えだったな、と二人のやりとりを聞いていた彼は思った。
しかし、おそらく長いこと『鑑定』をしてきたらしいその男の見方は少々違ったらしい。
「だから、おまえらは甘いんだ。ツラは少々いじくればどんなものでもできるが、身体や骨格はそうそう変えられるもんじゃねぇ。コイツは身長もあるし、見栄えのする身体だ。」
身体をぱんぱん叩かれ、解説されている男は不機嫌そうだ。
確かに誉められてもこの状況じゃ全然嬉しくないだろう。
「それになぁ、こういうきかなさそうなのが好みってのが、結構いるんだよ。プライドが高くて負けん気が強いヤツを、あれやこれやの手で痛めつけて嬲るのが好きって趣味の金持ちのおっさんが。」
『おっさん』。その言葉にはさすがに男も動揺したらしく、口元をひきつらせた。
「……おい、冗談だろ。」
「冗談なもんか。セリに出したら、三百、いや、五百はかたいな。よし、おまえは最後にしよう。喜べ、おまえは目玉商品だ!」
「人を洗剤かパックの卵と同じ扱いしてんじゃねぇっ!」
そういう問題ではないだろう、と、その場にいた全員――誘拐した方も誘拐された方もそう思ったが、怒鳴った方はかなり本気だった。
「だいたい、なんでおっさん限定なんだ! せめてまつげの長い碧眼の十歳前後の美少年とか、艶やかなブロンドのナイスミドルとかいろいろあるだろっ! おっさんはやめろっ。おっさんは!!」
こだわりがあるような無いような男の主張に、
「ぜーたく言うな! だいたい『人間』を買いに来るような金持ちはジジババが多いんだよ。それに、おっさんも捨てたもんじゃねぇぜ。経験を踏んでいるからアッチの方はなかなかうまいって言うぞ。」
「『アッチ』ってどっちだ!?」
果てしなく続きそうな言い争いに、業を煮やした仲間が止めに入った。
「そんなもんはどっちでもいいから、さっさと入力しやがれっ! 着替えもさせなきゃならんだろうが。」
「ああ、そうだな。さっさと腕だせ。」
その場にいた全員――以下略は、先ほど交わされた会話になんとはなしに脱力してしまい、そのため、後はスムーズに進んでいってしまった。
途中機材のトラブルとかで、少しごたごたしていたが、それで中止になるわけもなかった。
すべての登録が終わり、扉が開かれると長い廊下がずっと向こうまで続いていた。
「さあ、おまえらはこっちだ。」
肩を乱暴に押され、彼はいやいやその冷たい床に足をつけた。
ちらっと肩越しに見ると、黒髪の男は何人かの人間と共にその場で止められていた。
違う場所に連れて行かれるらしい。
出会って間もないよく知らない人間なのに、男と離れることになって彼はなんとはなしに心細くなった。
あそこにずっと閉じこめられるくらいなら、いっそさっさと売られたいとまで思ったが、いざ現実的になってくると、身体が震えてくる。
「いっ。いやだぁぁぁ!」
次の瞬間、絶叫して闇雲に暴れ出していた。
わあわあ叫んで、押さえつけられそうになるのを、身をよじってかわしながら、足をばたばた動かす。
男の一人が呆れたように、例の機械を目の前で振ってみせ、「おい、これのことを忘れたのか?」と脅かしてきたが、構わなかった。
とにかく目の前の恐怖から逃げることで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられる状態ではなかったのだ。
「はなせぇぇぇはな…っぐふっ…!」
いきなり鋭い一撃を腹に受け、彼はたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ぐふぇげぇ…っぐっうう。」
苦い胃液がこみ上げてきて、咽がやけて熱くてたまらなかった。
涙にゆがむ視界に、はらっと黒い一筋の髪が落ちてきてゆれた。
「加減してやったから、内臓も大丈夫だろ。」
あの男に膝蹴りをされたのだと気が付いて、悔しいうえこみ上げてくる気持ち悪さで涙が止まらない。
しかし、男は彼のそんな様子を見ても悪いなどとは、いっこうに思っていないようだった。
「まぁ、多少怪我しても腕がふっとぶよりはマシだ。」
そして、周りの人間には聞こえないようにして、こう続けた。
「言っただろ。生きてなきゃ何もできねぇって。……生きるために最大限の努力をしろ。」
男の声は厳しかった。
けれど、どうしようもなく胸にしみて、彼は違う涙が溢れてくるのを感じていたのだった。
彼が連れて行かれた場所は、何も無い部屋だった。
集められた人間はそれぞれ不安げに部屋の中を歩き回ったり、床に座り込んだりしていた。
最後の一人を部屋に追いやった後、先導してきた男は『商品』に向かってこう告げた。
「持ち主が決まるまで、ここでおとなしく待ってろ。」
決まるまで……?
てっきり、大勢の人間の前に引き出されるのかと思っていたので、彼は拍子抜けした。
他の何人かの同じ境遇の人間も、いぶかしそうにその男を見たためか、出ていく前に男は簡単に説明した。
「オークションは、一種のお祭りだからな。特に高値で売れそうな数人しか出さない。後のヤツは後で客がモニターを見て選んでいく。」
確かにあの場に残された人間は、男女ともかなり見栄えがよかった。
たいしたことが無いと言われたようで、あまり気持ちはよくなかったが、オークション会場でさらしものにされるよりはマシだろうか。
いや、どちらにしても売られるのは違いないのだから、マシもなにもない。
はぁ、とため息をついて格子のはまった窓を見あげた。雲が流れていくのが見える。おそらく、ここは地上からかなり高い場所にあるのだろう。
おそらく、到底逃げ出すことなどできないくらいの……。
だいたい、あんな小さい窓、子供でも通り抜けるのは難しい。
もう一度ため息をつきかけた時、彼の視界に妙なものが飛び込んできた。
『……コウモリ……?』
なぜ疑問形なのかと言うと、それは図鑑などで見たそれらとは著しく違っていたからだ。
とにかく、普通のコウモリは帽子はかぶっていない。
それは、窓にはまった格子を、キイキイ騒ぎながらなんとかくぐり抜けようとしている。
しかし、まるっこいフォルムがあだになったのか、なかなかうまくいかないようだ。
最初は不安と恐怖で手一杯だった他の人達も、一人、また一人と気づいてコウモリの果敢な潜入作戦を口を開けて見物していた。
「きいーっ。きっきっ!」
コウモリが思い切り身体を突っ張らせた時、すぽん、とばかりにコウモリの身体が格子を抜けた。
しかし、そのまま勢い余って、その小さな身体は弾丸のようにすっ飛び、ちょうど窓の向かい側にあったドアにびたんと激突した。
ずず…と下に落ちかけたが、コウモリはなんとか踏ん張って、宙に浮かんだ。
それからドアの周りをしばらくうろうろしていたが、やがてがっくりきたように下を向いた。
そして。
何がどうなったのかさっぱりわからないが、こうもりが下を向いた次の瞬間、丸い物体は消え失せ、かわりに一人の少年が突然現れたのだった。
「こーゆー機械式のドアは苦手だなも。しょーがない。これを使うだぎゃ。」
ごそごそとポケットを探っている姿はどう見ても十代だ。
「あ、あのー…。」
おそるおそる声をかけると、少年は振り返ってこっちを見た。
「なんだ?」
なんだ、はこっちの台詞な気がしたが、とにかく、先に聞きたいことがあった。
「アンタ、何者?」
変なコウモリに、突然の出現、とにかく、普通じゃないことは確かだ。
当然の質問に少年は、ふふん、と笑った。
「魔法使い、だぎゃ。見てわからにゃーか?」
とんがり帽子に、それと同じ色のマント。
確かに、お伽噺か何かに出てくる魔法使いそのままのいでたちだ。
「ま、安心するだぎゃ。ワシは悪い魔法使いではにゃあで。」
『いい魔法使い』と言ってくれないのが、果てしなく不安だ。
その場にいた人間がかなりひいていることに気づいているのか、いないのか、少年はこころもち胸をそった。
「魔法使いにかかれば、ドアなんかにゃーも同然! 大船に乗ったつもりでおるがいいだがや。」
そう言うと彼は頭にかぶっていたとんがり帽子を脱いで、そこに手を突っ込んだ。
「ほいっ!」
かけ声と共に取り出したのは、巨大なハンマー。
………それって、魔法じゃなくて手品?
本人を除く、その場にいた全員がそう疑っていることなど、気が付きもせず、彼はそれを両手で持ち直し、野球のバットのような構えをとった。
…………まさか、それでたたき壊す……なんて、物理的手段じゃないよね?
と、本人を除くその場にいた全員のすがるような眼差しなど、どこ吹く風で、彼は思いっきり、それを振り切ったのだった―――。
ガーーーーーーーーーーーン!
その重い音に、彼らは飛び上がった。
おそるおそる扉を見たが、消え失せたり等していないばかりか、罅すら入っていない。
わんわんと余韻が響く中、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえる。
途端、自分たちが腕にはめている爆弾を思い出して、彼らは一斉に青くなった。
「アンタ、なんてことしてくれたんだ!? アイツらがやってくるぞ!」
「子供だからって、やっていいことと悪いことがある!」
口々に彼を非難しながら、少年に飛びついてそのハンマーを奪おうとする。
彼らにこの不審な侵入者のことが知れて、自分たちまで巻き添えになってしまうなんて、冗談じゃない。
しかし、彼らの奮闘むなしく、扉は無情にも大きく開かれてしまった。
「うるせーぞっ!……って、誰だ? おまえ。」
見張りの男がいきなり増えた商品に、驚いて大声をあげるより、一瞬早く少年が動いた。
「だれ……! うわっ!!」
「ちょーっと黙ってもらうだぎゃ。」
少年の小さな身体が男に向かっていったかと思うと、男がくるりとひっくりかえって、床にたたきつけられていた。
そして、懐から取り出した小瓶を無理矢理彼の口に当てて飲ませる。
「うっ…がはっ…げほげほっ!」
「ほんの数時間のことだで心配すんな。」
にっこりと笑う少年の身体の下で、もがいていた男の姿が消えた。
「なっ!!」
驚いて後じさる人々の方に少年は振り返り、手に持ったそれを見せた。
「へび……?」
「これなら人を呼べにゃーぜ。」
そう言って、ご丁寧にもくるくると巻いて団子結び状にすると、そこにぽいっと放った。
「じゃあ、ちゃっとここを出るだがや。」
そう言って、手招きされたが全員一歩も進めない。
全員の目が床でころころ転がっている蛇に集中している。
「……これはどうなったんだ。」
「まさか、蛇になってしまったなんてありえない。」
ぐずぐずしている彼らに、少年は苛々したように先ほどの瓶を皆に向かってつきつけた。
「ちゃっちゃと出ろ! さもにゃーと、次はおみゃーさんにこの薬飲ませるだぎゃあ!」
「ひいいいっ!」
「蛇は嫌いなの!」
とんでもない脅迫に、一人また一人と外に出てゆく。
最後の一人になった彼に、少年は早くでるようにと促した。
「ほかの見張りがござるまえに、逃げださにゃーと。」
少年の命令を聞かないといけない立場にあることは、彼も重々承知していたが、どうしても気になることがあって、少年に告げた。
「この手錠だけど、ボタン一つでふっとばされるって話なんだよ。リモコンの範囲もわからないし、僕らが安全な場所に逃げる前に、ここにいないのがばれて起爆させられてしまったら……。」
「大丈夫だぎゃあ。それまでにはすべて片がついとるから。」
片がつく、その意味がよく分からない。
そして、もう一つ問題があるのだ。
「オークション会場には、あと何人かいるんだ。彼らが売られてしまう。」
すると、少年はにやっと笑った。
「そっちは絶対大丈夫だで、おみゃーさんはワシについてくればいい。」
「いや、だけど、財力のあるオヤジがテクニシャンで大変なんだ。」
「オヤジ?」
何を言ってるんだ、コイツ、と言わんばかり視線を向けられ、彼はしどろもどろになって、言葉をとぎれさせた。
確かに昨日会ったばかりで、しかも決していい印象はない。
けれど、なんとなくあのまっすぐな目をした男が、変なオヤジの手に渡るところを想像するのは愉快な気分ではなかった。
すがるような気持ちで言ってみたものの、彼の答えは、本当にあっさりきっぱりしたものだった。
「オークション会場は、ここより警備が厳しいんだがや。ワシ一人では無理。」
「だって、君魔法使いなんだろ?」
そんな突拍子もない職業を信じるなんて、我ながらどうかしてると思ったが、だいたい、今の状況がすでに普通じゃない。
魔法使いが棒をひとふりすれば、悪いヤツはすべてカエルかへびになって、ハッピーエンドになる、くらい期待してもいいだろう。
少年は、絶対無理、と言うと腕をつかんで彼を外へと引っ張り出した。
「ワシの仕事は、片がつくまでおみゃーさんらを安全な場所に匿うことだぎゃあ。」
中をもう一度確認した後、扉を閉めながら少年は言った。
「悪党をやっつけるんは、魔法使いの仕事じゃにゃーでよ。」
そう言って先頭に立って、懐からペーパーバックくらいの大きさのモニターを取り出した。
ちらっと見えるそれは、どうやらこの建物の内部の地図らしい。
こんなものを持っている少年はいったい何者なんだろう。
誰もが一瞬そう思ったが、すぐにその考えを放棄した。
聞いたところで返ってくる答えは決まっているからだった。
なんとなく学校に入って、なんとなく帰宅部で、なんとなく大学に入って、となんとなく平穏な人生を送っていたある日、彼は唐突に考えた。
自分はこのまま何もなく、だらだらと無為の時を過ごして年をとっていくだけなのか?
何かもっと自分にふさわしい生き方が、待っているのではないだろうか。
ただ、それに出会っていないだけで。
就職活動もそろそろ始まろうというその時期に、心に突然発生したその考えは、あっといまに彼の頭の中を覆い尽くした。
勝手に休学届けを出した息子に親は呆れたが、「まあ、わかいうちだから」と父親が不承不承承諾したその日に彼は、ネットで航空チケットをとったのだった。
世界はとても広く、すべてのことが新鮮にうつった。
物語の中の世界のような場所や、見たこともない衣服、お腹をこわさないための水の選び方、ひとつひとつを自分の経験として蓄え、その日生きていくためのいろいろだけを考えて歩いていくという生活。
彼は故郷では味わえなかった一日一日の充実感を噛みしめ、あちこち旅し…………そして、ある日目が覚めると、人身売買組織に捕まっていた。
吐き気を堪えながら、寝台の上で身を起こすとそこはまったく覚えのない部屋だった。
小さな電球一つの窓一つ無い薄暗い部屋は、かすかに悪臭も漂っている。
「……ここ…は?」
昨日宿をとった覚えは無い。
彼は二日酔いでずきずき痛む頭で、必死に昨晩の記憶をたどった。
確か、街についてぶらぶら歩いていると、同い年くらいの若者に声をかけられた。
外国人である自分も知っている有名な学校の制服を着た学生は、閉鎖的な街では珍しい異国人に大変興味を持った様子だった。
どこから来たのか、留学生か、などと立ち話をしているうちに意気投合してしまって、彼の仲間がいるという酒場に半ば強引に、連れて行かれたのだった。
若者もその仲間も非常に感じが良く、すっかりいい気分になって飲み過ぎてしまい―――そこから後のことは覚えていない。
誰かに事情を聞きに行こうと立ち上がったが、ドアには鍵がかけられていた。
鋼鉄製の扉は見るからに重そうで、体当たりしたところで無駄だろう。
このときになって、ようやっと彼も自分が何かやばいハメに陥ったことに気が付いたのだった。
慌ててドアを叩き、大声でここから出せと咽の限りわめいた結果、現れた屈強な大男に殴られ長い間気絶することになった。
その際、大男と一緒にいた男の会話で、どうやら自分が人身売買組織に捕まったことや、しかも数日後に魚か何かのようにセリに出されてしまうらしいということを、朦朧とする意識の中知らされて、愕然とした。
都市伝説などでよく聞くホラ話が、自分の身にふりかかってきて、当然のことながら彼は焦り、怒ったが、もはやどうしようもない。
この国に来なければ良かった、いや、そもそも故郷でじっとしていればよかったと、今更の後悔にくれていたところに、その人物は現れたのだった。
それは、彼が閉じこめられて五日目の夕方だった―――ただし、時計も窓も無いこの部屋においては、はっきりとそうとは言い切れない。
がちゃがちゃと、鍵を開ける重い音に彼は身体を強張らせた。
おそらく夕食だろうとは思ったが、最初の日に暴行を受けて以来、扉を開ける音に神経質になっている。
いっそ、ここから出られるのなら、売られていった方が気持ちが楽になるとさえ、思ったくらいだ。
びくびくと目をやった扉が勢いよく開き、組織の人間に両側から手錠をされた腕をとられて男が立っていた。
髪の長い、並はずれた長身の男性だ。
身につけた白いシャツがあちこち破れていることから、自分の時と違ってここに連れてこられるまでに、相当争ったのだろうと思われる。
「入れ。」
背後で閉まる扉を振り返りもせず、男は空いている寝台へまっすぐ歩いていて、どっかりと腰掛けた。
おとなしく言われた通りにする男を確認した彼らは、幾分かほっとしたようだった。
強面で、しかも、三人もいるにも関わらず、この男に対して相当警戒してあまつさえ怯えているようにさえ見えて、彼は驚いた。
「ヤロー同士で、むさ苦しいことこのうえないが、今夜一晩はそこで辛抱しな。」
鍵をかけた扉の向こうから看守にそう告げられ、彼は明日がオークションの日だということを思い出した。
この男は自分が人身売買組織に捕まったことを知っているのだろうか、と振り返ってみると、男はつながれた手の上に顔を乗せて何事かを考え込んでいる。
「あ、あの……。」
いつまでたっても一言も喋らない男の態度に、業を煮やして彼はおそるおそる声をかけてみる。
「何?」
こちらに向けたその顔に、彼は思わずどきりとした。
入ってきたときもそう思ったのだが、よくよく見るとこの男、やっぱりものすごくカッコイイのだ。
鍛えられた体つきといい、濃い眉や鋭角な輪郭のライン、と、『男らしさ』の要素だけで構成された外見だが、白いシャツに、黒い髪がはらはらと散っている様はどこか艶めいたものを感じさせる。
鋭い眼差しに圧倒されながらも、何故か目が離せない。
なんといえばいいのか、存在感が今まで見たことのあるどんな人間とも違うのだ。
いわゆる名の知れたスポーツ選手とか政治家とか、そういう『特別な人間』だけが持っているオーラというかそんなものが、彼の周りを取り巻いている。
映画俳優かモデルかなにかなんだろうか。
思わずぽかんと口を開けて見とれていると、「だから、なんだよ?」と不機嫌そうな顔つきでもう一度聞かれた。
「あ、えーと、自分がどうなったか解ってますか?」
そう聞いたのは、彼が怒ってるようには見えても、怯えたりしてる風には見えなかったからだ。
こんなあり得ないような状況に陥って、こんなに落ち着いているものだろうか。
もしかして、喧嘩か何かに巻き込まれて、警察にでも捕まったとか、そんな風に考えているかもしれない。
しかし、男はその質問に何を言ってるんだ、コイツと言わんばかりの顔をした。
「ああ? この国で人身売買が行われているのは有名じゃねぇか。」
あたりまえのように、男が言ったその情報は彼にとっては初耳だった。
「ええっ!? 旅行雑誌ではそんなことちっとも…。」
男の顔がますます険しくなる。
「そんなもん、ガイドブックが書くわけねぇだろ。けれど、近隣の国にも噂は流れているし、今だったらネットなりなんなりで情報収集は可能だろうが。おまえ、なんの下調べも無しで知らない国に来たのかよ。」
男の指摘に、彼はぐっと言葉に詰まった。
確かに気の向くままに旅をしているので、ガイドブックでさえ買わないことも多い。
今回は閉鎖的な土地柄であることや治安もあまり良くないくらいは知っていたので、直前に滞在していた国で一番ポピュラーなガイドブックを買ったのだ。
そこで治安の良い場所を選んで旅すれば、大丈夫だろうと考えたからだ。
しかし、結局はこの体たらくだ。
用意が不十分だったといえばそうだが、人からそう言われて面白いわけはない。
だいいち、この男だって自分と同じ目に遭っているではないか。
「じゃ、じゃあ、ここが……そんな場所だって知ってるのにっ……なんでここに来たんですかっ?」
すると、男は冷たく彼を一瞥した。
「俺は仕事で来たの。」
「し、仕事? もしかして、映画撮影とか何か?」
「映画撮影……って、おまえ俺が俳優かなんかだって思ってる?」
「いや、ハンサムだからそうかなーって思って…。」
やたらえらそうだし、芸能人って俺様だってよく聞くし、と思ったことは黙っておいた。
「おまえ、夢見がちっていわれねぇ? 俺はフツーのサラリーマンで、ここには出張で来たんだよ。」
突拍子もない彼の誤解に呆れた顔をしながらも、男はまんざらでも無い様子で、彼が捕まった事情を教えてくれた。
「酔っぱらった旅行者風の女の子達が、どこかへ連れていかれそうになってたところにたまたま出くわしたんで、止めようとしたら逆に捕まっちまったの。以上、説明終わり。」
もうちょっと、人数が少なかったらなんとかなったのに、と男は悔しそうだ。相当腕に覚えがあるのだろう。
「あの子達は、俺の連れが逃がしたから大丈夫だろうけどよ。しっかし、まぁ、見ず知らずの男達の誘いに乗って、よく知らない土地の酒場なんかに行くかね、フツー。」
そのため息に、まったく同じような捕まり方をした彼はぎくりとした。
「ほら、その子達、一人じゃなかったんでしょ。だから、大丈夫かと思ったんじゃ……。」
そう、自分も『男』だからもしものことがあっても大丈夫だと思ったのだ。
だって、こんなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。
普通の世界に生きている人間にとって、こんなことは映画やテレビの中のお話だ。
多少のリスクは覚悟して、見知らぬ人間との出会いを、期待するのも旅人としては当然のことだ。
だが、男は容赦なかった。
「ばーか、複数だと承知で、向こうは声をかけてきたんだ。なんとかできる目算があるからだろうが。」
「いや、だって、愛想良くて身なりもいいヤツらだったから、そんな、こんな組織の仲間だったなんて、思わないっすよ!」
うっかり、口走ってしまったことに気が付いて、口を閉じたがもう遅かった。
男は目を細め、ほー、と頷いている。
「なるほどね、ころっと騙されて連れてこられたわけだ。下調べもろくにしていない国へ来て、よく知らない相手のことを見かけだけで信用して、言われるがままに酒でも飲まされて、気が付いたらこうだった、と。」
ゆっくり、そう確認されて、彼はかっとなった。
確かに自分は不用心だったのかもしれないが、知らない相手を片っ端から警戒していたら、友人だってできないではないか。
「そうだよ! 安全だけを気にしてちゃ、なにもできないじゃん。狭い国に閉じこもってる生活に飽き飽きして、あちこち旅してきたんだ。観光ブックや情報にばっかり気をとられていたら、いろいろ見逃してしまったら、俺はなんのためにこんなとこまで来たんだか、わからない。」
強い口調でそう反撃したが、男は特に感銘を受けた様子も無かったが、かといって青臭いと馬鹿にする様子もなかった。
彼の言葉を否定するわけでも、諫めるわけでもなく、ただ淡々と彼に告げた。
「だけどさ、それを見つける前に死んじまったらイヤじゃね?」
死という言葉を、男はさらりと口にする。
説教する風でもなく、ただあたりまえのことを言っているだけの口調で。
―――なのに、それは彼の心に重くのしかかった。
「本当に欲しいものや大事なものを見つけたいなら、その前に絶対死ぬわけにはいかねえだろ。だから、そのためにてめえの命を大事にするこった。」
男はそう言って、ごろん、と横になった。
彼がなおも話しかけようとすると、男はつながれた手を心持ち持ち上げてひらひら振った。
「わりーけど、疲れてるんだ。このままじゃ、アイツらたたきのめすこともできねぇ。寝かせてくれ。」
「って、あんた、ここから逃げ出す気ですか?」
「逃げる気はねぇよ。ここをぶっつぶす。この俺様にこんな手錠はめやがった償いはキッチリさせてやる。」
「つぶす……って、そんなことができるわけないでしょうがっ!」
「いいから、おまえも寝ろよ。いざと言うとき動けるように、今は体力回復させとけ。こっから出て、もっといろいろ見に行くんだろ?」
にやり、と笑ったその顔は、不敵で自信に満ちていて、目にした途端聞きたかったいろいろなことが彼の頭からぽんって、抜けてしまった。
「んじゃな、おやすみ。」
男が目を瞑ってしばらくすると、安らかな寝息が隣から聞こえてきた。
こんな状況でよく眠られるな、などという感想なんてもう浮かばない。
この男にとっては、犯罪組織に捕まって売られそうになるなんて、『こんなこと』にしか過ぎないのだろう。
たぶん、きっと……ものすごく強い。
だから、あんな風に笑っていられるのだ。
―――きっとこういうのが『特別な』人間なのだ。
自分が夢見て……そしてなれない特別な人間……神様に選ばれたそういう人種。
あちこち旅して、色々な人間に出会ったが、こんなに強い印象を感じた人間はいない。
この旅に出てから、初めての種類の疲れを感じて、彼は男に倣ってかびくさい寝台に丸くなったが、いっこうに寝付けなかった。
何時間か経って、ようやっとまどろみはじめた時、再びドアが開いた。
「起きろ。時間だ。」
よく眠れなかったためにだるい身体を無理矢理起こすと、男はもう目を覚ましていた。
「へーいへい、今すぐ出てってやるよ。」
返事をしながら男が出ていくと、さっと銃口が向けられた。
「手錠までかけといて。」
男の口元が皮肉っぽくゆがめられる。
「いいから! 黙って歩け!」
銃口が黒い髪を押しのけ、その頭に突きつけられたが、男はしれっとして表情ひとつ変えない。
他の扉からも何人も連れ出されているが、皆一様にやつれ、青ざめていて、まともな状態の人間は一人もいなかった。
薄暗い廊下を歩いていると、さらに大きな扉が現れた。
先導していた男が首を振ると、他の男達が『賞品』たちにそれぞれ歩み寄って、最初からかけられていた同室だった男以外の手に、手錠をかける。
そして、一列に並べられ扉の前にいる男のところへ、一人ずつ歩いていかされた。
びくつきながら歩み寄る彼らに、その男は手に持っていた機械を、彼らの手錠にあててボタンで何やら打ち込んでいる。
そういえば、今まで実物を見たことはなかったが、五センチメートルくらいの太さのその手錠にはバーコードのようなものがある。
同じように疑問に思ったらしい黒髪の男が、近くにいた見張りの男に「おい」と声をかけた。
「あれは何をやってるんだ?」
喋るな、と怒鳴られるのではと隣にいた彼は慌てたが、見張りの男はそうはしなかった。
にやにやとしながら、あっさりと教えてくれたのだ。
「おまえらの『タグ』みたいなもんだ。」
「タグ~? 洋服屋のあれのことか?」
「ああ、おまえらを識別するために使うんだよ。あの機械で身体的特徴なんかを登録して、ランクに分ける。ついでに『紛失防止』を兼ねてるわけさ。発信器代わりにもなってるこれは、それぞれの行き先が決まるまでに、ここから逃げたり、下手な真似をしたら、遠隔操作で爆発させることができる。ちゃんと、腕が吹っ飛ぶ程度には抑えてあるから、今この場でもそれを試すことができるぜ。」
その残酷極まりないやり方を聞いてしまった周囲の人間におびえの色が走ったが、奴らが一番脅したかったであろう男は、少し眉を顰めただけだった。
「ま、行き先が決まったら、今回のコードは解除してやるから、後数時間の辛抱だ。」
げらげらと高笑いして、ヤツは男の腕を引っ張って、機械を持っている人間の方に押しやった。
「おい、こいつが一番やっかいだから、先に処理してくれ。」
「……ほう…、上玉じゃないか。」
不機嫌そうな男を見やり、係の者は感嘆の声をあげた。
「そうかぁ? まぁ、確かにツラはいいが、金持ちのババアが喜びそうな愛想が、全然ねえしなぁ。」
確かにただのハンサムと言い切るには凶悪な面構えだったな、と二人のやりとりを聞いていた彼は思った。
しかし、おそらく長いこと『鑑定』をしてきたらしいその男の見方は少々違ったらしい。
「だから、おまえらは甘いんだ。ツラは少々いじくればどんなものでもできるが、身体や骨格はそうそう変えられるもんじゃねぇ。コイツは身長もあるし、見栄えのする身体だ。」
身体をぱんぱん叩かれ、解説されている男は不機嫌そうだ。
確かに誉められてもこの状況じゃ全然嬉しくないだろう。
「それになぁ、こういうきかなさそうなのが好みってのが、結構いるんだよ。プライドが高くて負けん気が強いヤツを、あれやこれやの手で痛めつけて嬲るのが好きって趣味の金持ちのおっさんが。」
『おっさん』。その言葉にはさすがに男も動揺したらしく、口元をひきつらせた。
「……おい、冗談だろ。」
「冗談なもんか。セリに出したら、三百、いや、五百はかたいな。よし、おまえは最後にしよう。喜べ、おまえは目玉商品だ!」
「人を洗剤かパックの卵と同じ扱いしてんじゃねぇっ!」
そういう問題ではないだろう、と、その場にいた全員――誘拐した方も誘拐された方もそう思ったが、怒鳴った方はかなり本気だった。
「だいたい、なんでおっさん限定なんだ! せめてまつげの長い碧眼の十歳前後の美少年とか、艶やかなブロンドのナイスミドルとかいろいろあるだろっ! おっさんはやめろっ。おっさんは!!」
こだわりがあるような無いような男の主張に、
「ぜーたく言うな! だいたい『人間』を買いに来るような金持ちはジジババが多いんだよ。それに、おっさんも捨てたもんじゃねぇぜ。経験を踏んでいるからアッチの方はなかなかうまいって言うぞ。」
「『アッチ』ってどっちだ!?」
果てしなく続きそうな言い争いに、業を煮やした仲間が止めに入った。
「そんなもんはどっちでもいいから、さっさと入力しやがれっ! 着替えもさせなきゃならんだろうが。」
「ああ、そうだな。さっさと腕だせ。」
その場にいた全員――以下略は、先ほど交わされた会話になんとはなしに脱力してしまい、そのため、後はスムーズに進んでいってしまった。
途中機材のトラブルとかで、少しごたごたしていたが、それで中止になるわけもなかった。
すべての登録が終わり、扉が開かれると長い廊下がずっと向こうまで続いていた。
「さあ、おまえらはこっちだ。」
肩を乱暴に押され、彼はいやいやその冷たい床に足をつけた。
ちらっと肩越しに見ると、黒髪の男は何人かの人間と共にその場で止められていた。
違う場所に連れて行かれるらしい。
出会って間もないよく知らない人間なのに、男と離れることになって彼はなんとはなしに心細くなった。
あそこにずっと閉じこめられるくらいなら、いっそさっさと売られたいとまで思ったが、いざ現実的になってくると、身体が震えてくる。
「いっ。いやだぁぁぁ!」
次の瞬間、絶叫して闇雲に暴れ出していた。
わあわあ叫んで、押さえつけられそうになるのを、身をよじってかわしながら、足をばたばた動かす。
男の一人が呆れたように、例の機械を目の前で振ってみせ、「おい、これのことを忘れたのか?」と脅かしてきたが、構わなかった。
とにかく目の前の恐怖から逃げることで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられる状態ではなかったのだ。
「はなせぇぇぇはな…っぐふっ…!」
いきなり鋭い一撃を腹に受け、彼はたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ぐふぇげぇ…っぐっうう。」
苦い胃液がこみ上げてきて、咽がやけて熱くてたまらなかった。
涙にゆがむ視界に、はらっと黒い一筋の髪が落ちてきてゆれた。
「加減してやったから、内臓も大丈夫だろ。」
あの男に膝蹴りをされたのだと気が付いて、悔しいうえこみ上げてくる気持ち悪さで涙が止まらない。
しかし、男は彼のそんな様子を見ても悪いなどとは、いっこうに思っていないようだった。
「まぁ、多少怪我しても腕がふっとぶよりはマシだ。」
そして、周りの人間には聞こえないようにして、こう続けた。
「言っただろ。生きてなきゃ何もできねぇって。……生きるために最大限の努力をしろ。」
男の声は厳しかった。
けれど、どうしようもなく胸にしみて、彼は違う涙が溢れてくるのを感じていたのだった。
彼が連れて行かれた場所は、何も無い部屋だった。
集められた人間はそれぞれ不安げに部屋の中を歩き回ったり、床に座り込んだりしていた。
最後の一人を部屋に追いやった後、先導してきた男は『商品』に向かってこう告げた。
「持ち主が決まるまで、ここでおとなしく待ってろ。」
決まるまで……?
てっきり、大勢の人間の前に引き出されるのかと思っていたので、彼は拍子抜けした。
他の何人かの同じ境遇の人間も、いぶかしそうにその男を見たためか、出ていく前に男は簡単に説明した。
「オークションは、一種のお祭りだからな。特に高値で売れそうな数人しか出さない。後のヤツは後で客がモニターを見て選んでいく。」
確かにあの場に残された人間は、男女ともかなり見栄えがよかった。
たいしたことが無いと言われたようで、あまり気持ちはよくなかったが、オークション会場でさらしものにされるよりはマシだろうか。
いや、どちらにしても売られるのは違いないのだから、マシもなにもない。
はぁ、とため息をついて格子のはまった窓を見あげた。雲が流れていくのが見える。おそらく、ここは地上からかなり高い場所にあるのだろう。
おそらく、到底逃げ出すことなどできないくらいの……。
だいたい、あんな小さい窓、子供でも通り抜けるのは難しい。
もう一度ため息をつきかけた時、彼の視界に妙なものが飛び込んできた。
『……コウモリ……?』
なぜ疑問形なのかと言うと、それは図鑑などで見たそれらとは著しく違っていたからだ。
とにかく、普通のコウモリは帽子はかぶっていない。
それは、窓にはまった格子を、キイキイ騒ぎながらなんとかくぐり抜けようとしている。
しかし、まるっこいフォルムがあだになったのか、なかなかうまくいかないようだ。
最初は不安と恐怖で手一杯だった他の人達も、一人、また一人と気づいてコウモリの果敢な潜入作戦を口を開けて見物していた。
「きいーっ。きっきっ!」
コウモリが思い切り身体を突っ張らせた時、すぽん、とばかりにコウモリの身体が格子を抜けた。
しかし、そのまま勢い余って、その小さな身体は弾丸のようにすっ飛び、ちょうど窓の向かい側にあったドアにびたんと激突した。
ずず…と下に落ちかけたが、コウモリはなんとか踏ん張って、宙に浮かんだ。
それからドアの周りをしばらくうろうろしていたが、やがてがっくりきたように下を向いた。
そして。
何がどうなったのかさっぱりわからないが、こうもりが下を向いた次の瞬間、丸い物体は消え失せ、かわりに一人の少年が突然現れたのだった。
「こーゆー機械式のドアは苦手だなも。しょーがない。これを使うだぎゃ。」
ごそごそとポケットを探っている姿はどう見ても十代だ。
「あ、あのー…。」
おそるおそる声をかけると、少年は振り返ってこっちを見た。
「なんだ?」
なんだ、はこっちの台詞な気がしたが、とにかく、先に聞きたいことがあった。
「アンタ、何者?」
変なコウモリに、突然の出現、とにかく、普通じゃないことは確かだ。
当然の質問に少年は、ふふん、と笑った。
「魔法使い、だぎゃ。見てわからにゃーか?」
とんがり帽子に、それと同じ色のマント。
確かに、お伽噺か何かに出てくる魔法使いそのままのいでたちだ。
「ま、安心するだぎゃ。ワシは悪い魔法使いではにゃあで。」
『いい魔法使い』と言ってくれないのが、果てしなく不安だ。
その場にいた人間がかなりひいていることに気づいているのか、いないのか、少年はこころもち胸をそった。
「魔法使いにかかれば、ドアなんかにゃーも同然! 大船に乗ったつもりでおるがいいだがや。」
そう言うと彼は頭にかぶっていたとんがり帽子を脱いで、そこに手を突っ込んだ。
「ほいっ!」
かけ声と共に取り出したのは、巨大なハンマー。
………それって、魔法じゃなくて手品?
本人を除く、その場にいた全員がそう疑っていることなど、気が付きもせず、彼はそれを両手で持ち直し、野球のバットのような構えをとった。
…………まさか、それでたたき壊す……なんて、物理的手段じゃないよね?
と、本人を除くその場にいた全員のすがるような眼差しなど、どこ吹く風で、彼は思いっきり、それを振り切ったのだった―――。
ガーーーーーーーーーーーン!
その重い音に、彼らは飛び上がった。
おそるおそる扉を見たが、消え失せたり等していないばかりか、罅すら入っていない。
わんわんと余韻が響く中、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえる。
途端、自分たちが腕にはめている爆弾を思い出して、彼らは一斉に青くなった。
「アンタ、なんてことしてくれたんだ!? アイツらがやってくるぞ!」
「子供だからって、やっていいことと悪いことがある!」
口々に彼を非難しながら、少年に飛びついてそのハンマーを奪おうとする。
彼らにこの不審な侵入者のことが知れて、自分たちまで巻き添えになってしまうなんて、冗談じゃない。
しかし、彼らの奮闘むなしく、扉は無情にも大きく開かれてしまった。
「うるせーぞっ!……って、誰だ? おまえ。」
見張りの男がいきなり増えた商品に、驚いて大声をあげるより、一瞬早く少年が動いた。
「だれ……! うわっ!!」
「ちょーっと黙ってもらうだぎゃ。」
少年の小さな身体が男に向かっていったかと思うと、男がくるりとひっくりかえって、床にたたきつけられていた。
そして、懐から取り出した小瓶を無理矢理彼の口に当てて飲ませる。
「うっ…がはっ…げほげほっ!」
「ほんの数時間のことだで心配すんな。」
にっこりと笑う少年の身体の下で、もがいていた男の姿が消えた。
「なっ!!」
驚いて後じさる人々の方に少年は振り返り、手に持ったそれを見せた。
「へび……?」
「これなら人を呼べにゃーぜ。」
そう言って、ご丁寧にもくるくると巻いて団子結び状にすると、そこにぽいっと放った。
「じゃあ、ちゃっとここを出るだがや。」
そう言って、手招きされたが全員一歩も進めない。
全員の目が床でころころ転がっている蛇に集中している。
「……これはどうなったんだ。」
「まさか、蛇になってしまったなんてありえない。」
ぐずぐずしている彼らに、少年は苛々したように先ほどの瓶を皆に向かってつきつけた。
「ちゃっちゃと出ろ! さもにゃーと、次はおみゃーさんにこの薬飲ませるだぎゃあ!」
「ひいいいっ!」
「蛇は嫌いなの!」
とんでもない脅迫に、一人また一人と外に出てゆく。
最後の一人になった彼に、少年は早くでるようにと促した。
「ほかの見張りがござるまえに、逃げださにゃーと。」
少年の命令を聞かないといけない立場にあることは、彼も重々承知していたが、どうしても気になることがあって、少年に告げた。
「この手錠だけど、ボタン一つでふっとばされるって話なんだよ。リモコンの範囲もわからないし、僕らが安全な場所に逃げる前に、ここにいないのがばれて起爆させられてしまったら……。」
「大丈夫だぎゃあ。それまでにはすべて片がついとるから。」
片がつく、その意味がよく分からない。
そして、もう一つ問題があるのだ。
「オークション会場には、あと何人かいるんだ。彼らが売られてしまう。」
すると、少年はにやっと笑った。
「そっちは絶対大丈夫だで、おみゃーさんはワシについてくればいい。」
「いや、だけど、財力のあるオヤジがテクニシャンで大変なんだ。」
「オヤジ?」
何を言ってるんだ、コイツ、と言わんばかり視線を向けられ、彼はしどろもどろになって、言葉をとぎれさせた。
確かに昨日会ったばかりで、しかも決していい印象はない。
けれど、なんとなくあのまっすぐな目をした男が、変なオヤジの手に渡るところを想像するのは愉快な気分ではなかった。
すがるような気持ちで言ってみたものの、彼の答えは、本当にあっさりきっぱりしたものだった。
「オークション会場は、ここより警備が厳しいんだがや。ワシ一人では無理。」
「だって、君魔法使いなんだろ?」
そんな突拍子もない職業を信じるなんて、我ながらどうかしてると思ったが、だいたい、今の状況がすでに普通じゃない。
魔法使いが棒をひとふりすれば、悪いヤツはすべてカエルかへびになって、ハッピーエンドになる、くらい期待してもいいだろう。
少年は、絶対無理、と言うと腕をつかんで彼を外へと引っ張り出した。
「ワシの仕事は、片がつくまでおみゃーさんらを安全な場所に匿うことだぎゃあ。」
中をもう一度確認した後、扉を閉めながら少年は言った。
「悪党をやっつけるんは、魔法使いの仕事じゃにゃーでよ。」
そう言って先頭に立って、懐からペーパーバックくらいの大きさのモニターを取り出した。
ちらっと見えるそれは、どうやらこの建物の内部の地図らしい。
こんなものを持っている少年はいったい何者なんだろう。
誰もが一瞬そう思ったが、すぐにその考えを放棄した。
聞いたところで返ってくる答えは決まっているからだった。
向日葵
彼は太陽だ。
組織という世界の中心にあり、その力強い輝きでそこに生きるすべての者を率いている。
いつでも、どこでも、誰もが彼を見つめてる。
誰のものでもない彼。
彼は、彼を想う皆のものだから、独占は許されない。
だから自分たちは、彼が遙か高く天を駆けぬける姿を首を伸ばして見つめることしかできないのだ。
だって、太陽を独り占めになんてできるわけはないだろう?
「Cポイントの調査報告を見ろ、兵の数から考えればその案は無駄としか言いようがない。」
グンマは顔の前に翳した報告書の隙間から、従兄弟の秀麗な面に苛立ちが滲んでいるのを見る。
「へえ、無駄かどうかなんて、あんさんにわかるんどすか?」
こちらもやはり相当の美形である青年が、彼を軽んじている様子を隠そうともせずに鼻で笑う。
もちろん、それにキンタローが気づかないはずもなく、びしりとこめかみがひきつったのを確認したグンマは亀の子よろしく再び報告書の後ろに顔を隠した。
どうやら、テーブルについている他のメンバーも顔には出さないものの心中はグンマと似たり寄ったりらしい。
誰一人として意見はおろか質問すら口にしないのだから。
(シンちゃ~ん、早く来てよぉぉ。けっこうキツイんですけど……。)
今回自分の発明した装置を使うということで、オブザーバーという名目までつけて、普段出席しない作戦会議にグンマがのこのこ出てきたのには理由がある。
この新しい従兄弟の補佐官として初めての単独の会議だったからだ。
今までも、こういう場に出席して意見を述べることはあったが、基本的にシンタローと共に出席し、彼のアシストという形だった。
だが、今回はスケジュールの都合でシンタローは遅れて出席することになっている。もしかしたら、終わるくらいの頃になるかもしれない。
だから、キンタローが彼独自の考えを提示するというのは、初めてなのだ。
そういうことで、グンマはシンタローに言わせれば野次馬根性、本人にしてみれば兄的な気持ちで彼の人生の第一歩を見守りに来たわけだった。
―――――そのつもりだったのだ。
それが狂いだしたのは集められた団員が顔を合わせた瞬間からだ。
「何故、おまえがこの席にいるんだ?」
開口一番、そんな言葉を投げつけられた男は余裕の態度で答えた。
「仕事どす。」
そりゃそうだろう、会議を見物に来たりするような人はいないもんね、とグンマは己のことを棚にあげて暢気にそんなことを考えていたが、キンタローの方はというとアラシヤマの答えは充分カンに触ったようだ。
「仕事? おまえもこの作戦に参加するのか。シンタローがよく承知したものだ。」
「わての実力はあの方が一番ご存じですさかい。」
ふっと彼が笑ったその時、グンマは確かに従兄弟の血管がぶちっと切れる音を聞いた気がする。
傍目には、眉一つ動かさなかったけれど。
そもそも、友達だ戦友だと何かと従兄弟にまとわりつくこの男を、キンタローが嫌っているのはグンマも知っている。
自分はあまり彼と接触が無かったから彼とシンタローの間に何があったのか、よくは知らない。
けれど、記憶を共有しているキンタローなら、いろいろと許せない出来事があったのだろう。
帰ろうかなー、とグンマが逃げ道を探してきょろきょろした時には全員着席してしまっていて、「ちょっとトイレに」など言い出せる雰囲気ではなかったのだ。
――――――そういうわけで、今に至る。
「それは机上の空論というものどす。これだから実戦に出たことの無いお人は困りますわ。」
「ほう、なんなら今から手合わせしてやろうか?」
「わてが言っているのは、あんさんの戦闘力ではなく、もっと根本的なことどすわ。」
会議はいっそう白熱し……おもに、二人の間だけでだったが……、一人、また一人と胃のあたりをさする人間が増えていった。
ちらり、ちらりと視線が自分に集まってくるのを感じたグンマは、やれやれと重い腰をあげた。
確かに、シンタローがいない今、この二人の間に入ることのできる人間は自分だけだろう。
いやいやながら、挙手をすると、二人が一斉にこちらを見た。
「まぁまぁ、二人ともの意見はみんなすっっっごくよくわかったみたいだしー。そろそろどうするか結論を出した方がいいんじゃないかナー……って。」
どんどん言葉が尻つぼみになっていくグンマに、横に座っていたキンタローは頷いた。
「確かに、どこかのバカが己の無能さを恥じて作戦をひっこめればすぐに決着がつくのだがな。」
アラシヤマも同意見だった。ただし、主語が違うが。
「そうどすえ、どこやらの副官の方が自分の未熟さを自覚してくれればすむ話どすわ。」
瞬時にぶつかりあった視線で火花が散ったように見えたのは、自分だけじゃない。
グンマはだらだらと脂汗を流した。
怖かったのは、絶対自分だけじゃない。
咄嗟にこう口走ってしまったのも仕方のないことだ。そうなんだ。
「しっシンちゃんに、総帥に決めてもらえばいいんじゃない?」
「シンタローに?」
「シンタローはんに?」
二人は同時に繰り返したが、お互いが彼の名前を口にしたことに腹がたつらしく、やはりにらみ合う。
やっぱりシンちゃんは迷惑タラシ以外の何者でもない、と再確認したグンマは携帯を手にあわてて部屋を飛び出した。
総帥室でたまっていた仕事を片づけていると聞いているが、責任くらいはとってもらわなければ割にあわない。
登録してある総帥室の直通番号にかけると意外にもあっさりと本人が出たので、グンマは噛みつくように「責任とってよ!」と怒鳴った。
「ああ?」
機嫌の悪そうな声に、ひるんだものの、現在扉の向こうで繰り広げられているバトルを収束できるのは彼しかいない。
ここはなんとしてでも呼び出さなくては。
「アラシヤマもキンちゃんもどっちもひかなくて、すごいことになってるんだよお~。もともと、あの二人を一緒にしたのはシンちゃんなんだし、お願いだから来てよ。ねっ。」 グンマがまくしたてる間、シンタローはしばらく黙っていたが、やがてため息をつきつつ了承した。
「わかった……じゃあ、20分くらいしたらそっちに行く。それまでは休憩でもして二人の頭をクールダウンさせておけ。」
「ほんと? ほんとに来てくれるんだよね? 絶対だよ? ありがとうっ! じゃあねっ!」
やっぱりやめたと言い出されるうちに『切』ボタンを押すグンマだった。
意気揚々と部屋に戻り、皆に先程のシンタローの言葉を伝える。
「シンちゃん20分くらいしたら来るから、それまで休んどけってー。」
すると、団員達は一様に立ち上がり部屋を駆け出ていった。どうやら胃薬をとりにいくらしい。
そして驚いたことにキンタローまでその後に続いてどこかへ行こうとしたので、グンマは慌てて呼び止めた。
「どうしたの? キンちゃん。」
「何かほかに資料がないか見てくる。シンタローが来るまでには戻るから。」
「20分しかないんだよ?」
キンタローはグンマを見下ろし、肩をいくぶんそびやかしてみせた。
「20分もあるんだ。」
「…………そうですか。」
キンタローが勢いよく靴の音を響かせて出ていった後は、グンマとアラシヤマの二人っきりになってしまった。
グンマはぱらぱらと手持ちの書類をめくっているアラシヤマを横目で見る。
「あのさぁ……あんまりボクの従兄弟苛めないでくれる?」
アラシヤマは興味なさそうにグンマの抗議を受け流している、目を上げることすらしない。
「苛めるなんて心外どす。シンタローはんの副官と名乗ってはる以上、ちゃんとやってもらわなあかんからゆうとるだけどすわ。」
「なら言い方ってもんがあるんじゃない? どう見たってキンちゃんに嫌がらせしてるようにしか見えないけど。」
いちいち揚げ足をとり、キンタローがむっとした顔をするたび、冷笑を浮かべる。これが意地悪じゃなくてなんなんだ、とグンマは思った。
「ああ、そうどすな。わてはキンタローが好きやあらしまへん。あんさんのこともな。」
しれっとアラシヤマは言い切った。
「半人前があたりまえの顔をしてシンタローはんの側におるのを見るとなんやむかむかしますわ。」
半人前のくくりに自分も入れられていたことは少々ショックだが、アラシヤマの気持ちもわからないではない。
なんだかんだ言っても、シンタローは身内には甘い。彼を慕う者にしてみれば無条件で彼に受け入れられている存在の自分たちはおもしろくないだろう。
「しょうがないじゃない。従兄弟なんだし……。」
反論しかけたグンマにアラシヤマは視線だけをそっちに向けた。
唇がくっとつり上がり、笑みの形をとる。
「血もつながってないくせに。」
すっと自分の顔から血がひくのを感じた。
思ってもみないほど低い声が自分の喉の奥からもれる。
「……もう一度言ったら殺すよ。」
アラシヤマは鼻先で笑い飛ばしたが、それなりのダメージを自分に与えたことに満足したのかそれ以上は何も言わなかった。
予告通り、会議は10分過ぎに再開された。
シンタローを挟んで、二人の議論は再び白熱の様相を呈しだす。
「このパネルを見てくれ。ここ数年のA国の銃器の購入記録だ。この種類から見て、彼らが地形を利用とした遠隔攻撃に頼っていることがわかる。」
キンタローは『10分』を有効に使ったらしく、先程より詳細なデーターと資料を皆の前で提示し、彼の組み立てた作戦を論理的に説明した。
「それを利用すればガンマ団の損害を15%程度に押さえることができる。つまりこのB地点にグンマの作った装置をしかければ、彼らのエネルギーのラインはとぎれ、さらにそこを叩けば一気に戦局がこちらに有利に傾くはずだ。」
これが初めてとは思えないキンタローの緻密な作戦に、団員達の口から次々感嘆の声がもれる。
ガンマ団の象徴の青の一族の直系であることを差し引いても、キンタローという男の傑出ぶりは際だっていた。
団員達の賞賛の眼差しを我がことのように誇らしく思いながら、グンマはふとシンタローを見て何かひっかかるものを感じた。
別に表情は変わっていない。
けれど、生まれたときからのつきあいだ。なんとはなしにぴんとくるものがある。
グンマはほったらかしていた資料を手元に寄せばらばらとめくってみた。普段研究室に閉じこもっている自分には縁のないグラフやデーターばかりだが、なんどか解読はできる。
「わては賛成できまへんな。CとDの間を狙うべきやないどすか?」
キンタローはむっとしたように、軽くパネルを叩いた。
「おまえは俺の話を聞いてなかったのか? CとD地点では供給の見地から考えるとロスが多すぎる。これを見ろ。」
アラシヤマは動揺することなく、キンタローが示す資料をちらりと見て、そうどすな、と答えた。
「ロスは多いですけど、わてはこの案を推します。キンタローはんはその案でよろしおすな? よう考えましたか?」
「もちろんだ。時間、人員、機能性すべてを配慮してこれを立案した。」
グンマの手が止まる。
キンタローが攻撃ポイントと主張している場所の地図だ。
ついでのように土質などがメモされているのだが、その標本を高松の研究室で見たことがある。確か粒子が細かくて密着しているが、振動が長く続くと一気に崩れる。
それも攻撃にはプラスだよねぇ……と、考え込んだグンマだったが、もう一度地図を見てやっとアラシヤマの余裕の理由に気が付く。
(うっわーーー。そーゆーことかよ。)
しかも、わざわざ念押しまでして、とグンマはアラシヤマを睨みつける。
(ほんっっと……………性格悪い。)
しかし、時はすでに遅く、グンマはキンタローにそれを告げる機会を逸してしまった。
アラシヤマが中央に座しているシンタローに、話を向けてしまったのだ。
「このままやったら埒があきまへんわ。総帥のご判断にお任せしまへんか?」
キンタローは望むところだといわんばかりに、シンタローを見る。
「俺は構わない。シンタロー、どちらの作戦をとる?」
シンタローは全員の注目を浴びて、ゆっくりと椅子に身を起こした。
その何気ない所作にその場にいた者達は一人残らず釘付けになっている。マジックもそうだが、シンタローにはいわゆる王者の風格というものがある。
まだ、年若い分、完成しきってない威厳だが、それがよけいに人を惹きつけるのだ。
確かにこれは争いの種になるかも、とグンマは改めてそう認識してしまった。
この輝かしい人の視線を一瞬でも自分に向けてもらいたい、と願う人間はこれからも増えていくだろう。
ついでに今目の前でおこっているような場面も役者を変えて何度も演じられる。 彼が彼である限り。
「俺は―――。」
彼が口を開き、皆固唾をのんで総帥の選択を待った。
「俺は――アラシヤマの案をとる――。」
キンタローは一瞬凍り付いたようになったが、すぐに猛然と抗議する。
「何故だ? 計算値も、配分も完璧だ。おまえが望む以上の戦果が得られるはずだ。」
何故、自分じゃなくアラシヤマを選ぶんだ、と言う怒りを滲ませるキンタローを宥めようとグンマが口を挟みかけた時、アラシヤマの鋭い声がとんだ。
「ええかげんにしなはれや。わては何度も聞きましたやろ。ほんまにええんどすかって。」
アラシヤマは先程グンマが見つけた地図を取り出し、キンタローの前にずっと差し出した。
「確かにあんさんの出した案は合理的で、ようでけたもんでしたわ。けどなぁ――その案をつこうたら最後、ぎょうさん人が死にまっせ。」
キンタローは今更ながらにその地図を見る。
地形的にも地質的にもこちらに有利な場所だった。しかし、その延長線上に決して小さくはない町があることにキンタローは今の今まで気づかなかったのである。
いや、存在を知ってはいた。
彼が失念していたのは、現在のガンマ団が掲げる「民間人を殺さない」というその主義だったのである。
もし、キンタローが立案した攻撃方法を使えば、直接攻撃を受けるわけではないその町は地形的に土砂崩れに巻き込まれる。
そこに至る配慮が決定的に欠けていたのだ。
「わかりはったようですな」
ガンマ団ナンバー2の男は、キンタローの顔色から彼が理解したことを確認し、すぐに平坦な口調に戻った。
「それでは、この案でよろしおすな。みなさんも。」
反対する者はもう誰もいなかった。
全員が去った後の会議室に残ったグンマは黙々と後かたづけをしているキンタローにおずおずと声をかけた。
「キンちゃん、あんまり気にすること無いからね。」
キンタローはやはり無言だ。
父親譲りらしい明晰な頭脳の持ち主のキンタローは、帰還して以来間違いらしい間違いを殆どしたことがない。
キンちゃんってすごいなー、とグンマは単純にそう思っていたのだが、反対にそれがまずかったのかもしれないと今更ながらに思った。
挫折を味わったことが無いキンタローがよりにもよってこの場で初めての失態を演じることになるとは。
しかも、相手はアラシヤマ、そしてシンタローの目の前で。
いつかは通らなければならない道と高松あたりは言うだろうが、それにしてもついていない。
「失敗なんて最初は誰でもするんだよ。ボクだって、ロボット作り出した時は失敗作ばかりで……。」
「グンマ。」
キンタローは従兄弟の話を遮った。
「この前壊れたガンボットは通算何体目だった?」
「260……273体目だったっけ。忘れちゃった。」
えへへ、と明るく笑った後でグンマは「で、それが?」と不思議そうに問い返した。
「…………………いや、別に。」
キンタローは特にコメントは差し控えた。
「じゃあ、ボク、用があるから行くね? ほんとに大丈夫?」
グンマに心配そうに確かめられ、キンタローは頷いた。
「ああ、気にしていない。」
従兄弟はほっとしたように笑顔を浮かべ、それじゃあ、と手を振って急いで会議室を出ていった。
本当にぎりぎりだったらしい。
グンマにもよけいな気をつかわせていたということか。
キンタローは自嘲して椅子にどっかり座り込んだ。
何が悔しいって、アラシヤマに負けたとかそういうレベルの問題じゃなく、シンタローの決めた方針をあっさり忘れ去った自分の至らなさに腹が立つ。
生まれて一年も経っていない自分には、決定的に経験が足りないのは自覚している。だからそれを補うべく、あれこれ資料を読んだり、シンタローの中にいるとき見聞きした事柄を反芻したり、と努力は怠らなかったつもりだ。
どうしても埋められない差、なんて言葉に甘えたくない。
彼の側にいたい。彼をたすけたい。
そう、決めたのだから。
悔しい。
胸の中が暗く焦げ付きそうなもどかしさにキンタローは宙を睨み付けていた。
どれくらいそうしていたのだろうか、キンタローが我に返ったのは扉を開く音だった。
てっきりグンマが戻ってきたのかと振り向いたキンタローは、そこに片割れの姿を見つけ驚いた。
「シンタロー。」
「よう。」
大股で歩み寄ってきて隣の椅子に腰をかけるシンタローは普段通りの表情だった。
「………おまえにも心配をかけたということか。」
今度こそ決定的なまでに落ち込んでキンタローは、ため息をついた。
よりにもよって本人に気を遣わせるなど、副官としてあるまじき失態だ。
シンタローは前を向いたまま素っ気なくキンタローに告げる。
「さっきは悪かった、とは言わねぇぞ。俺は指揮官としてあっちを選んだんだから。」
「そんなことは分かってる。だいたい、おまえが慰めに来るというのもおかしい。」
キンタローの答えに、シンタローは、はっ、と笑った。
「誰が慰めに来たっつった? てめぇに仕事させるために来たんだよ。」
「仕事? なんだ? 昨日の書類なら執務室に届けてあるぞ。」
ちげーよ、とシンタローはぶっきらぼうに否定した。
「おい、キンタロー、そのままで動くなよ?」
そう命令されたかと思うと、キンタローの肩に柔らかい重みがのしかかった。
「今日は疲れた。肩を貸せ。」
「…………仕事なのか? これは。」
「総帥を助けるのは、補佐官の仕事だろ?」
頭をキンタローの肩に乗せ、シンタローはそう断じた。
「あのな、キンタロー。急ぎすぎるな、とは俺にも言えない。自分の速度なんてもんは自分ではわかんねーもんだし。」
シンタロー自身にも身に覚えのあることだろう。いや、現在がまさしくそうだ。
だから、キンタローは少しでも彼を助けたかった。一人で重荷を背負わせ、孤独に戦わせるのはもういやだったのだ。
それでも、全然うまくいかない。
同じだけの速度で走っているつもりでも、相手はずっと前から走っているのだから全然追いつけない。
「アキレスと亀」という論理を数学の教本で読んだことがある。
平たく言えば、亀に遅れて出発した勇者アキレスは永遠に亀に追いつけないという話だ。
この有名なパラドックスを数学的に解く方法は現在でも、『より近い回答』しかないそうだ。
現実にはそうでないことをキンタローも知ってはいるが、それでも今はこの設問が真実であるかのような気になってしまう。
自分が一歩進んでもシンタローもその間に確実に進んでいる
いつまで経っても自分は彼と並ぶことのできる人間になれないのかと不安になるのだ。
「……俺はおまえの側にいる価値のある人間に早くなりたいんだ。」
シンタローはキンタローの肩に頭をもたせかけたまま苦笑した。
「なってるよ、とっくに。」
キンタローが不審そうにしていることにシンタローは気づいて、なおも言葉を重ねた。
「あのなあ、こんなことを俺が他のヤツにできると思うか?」
「……思わない。」
いや、いないでもないような気がするが、そういうことにしておく。
「なら、黙って俺を休ませてろ。補佐官。」
――――そして、補佐官は総帥の命令に従ったのだった。
end
2004/03/13
+++++++++++++++++++++
2006/11/20改稿
性格悪くてかっこよくて、シンタローさんを想ってるアラシヤマと、シンちゃんに甘やかされてる1歳児を書きたかったらしい。
アラシヤマにときどき夢見すぎかもしれません。
back
彼は太陽だ。
組織という世界の中心にあり、その力強い輝きでそこに生きるすべての者を率いている。
いつでも、どこでも、誰もが彼を見つめてる。
誰のものでもない彼。
彼は、彼を想う皆のものだから、独占は許されない。
だから自分たちは、彼が遙か高く天を駆けぬける姿を首を伸ばして見つめることしかできないのだ。
だって、太陽を独り占めになんてできるわけはないだろう?
「Cポイントの調査報告を見ろ、兵の数から考えればその案は無駄としか言いようがない。」
グンマは顔の前に翳した報告書の隙間から、従兄弟の秀麗な面に苛立ちが滲んでいるのを見る。
「へえ、無駄かどうかなんて、あんさんにわかるんどすか?」
こちらもやはり相当の美形である青年が、彼を軽んじている様子を隠そうともせずに鼻で笑う。
もちろん、それにキンタローが気づかないはずもなく、びしりとこめかみがひきつったのを確認したグンマは亀の子よろしく再び報告書の後ろに顔を隠した。
どうやら、テーブルについている他のメンバーも顔には出さないものの心中はグンマと似たり寄ったりらしい。
誰一人として意見はおろか質問すら口にしないのだから。
(シンちゃ~ん、早く来てよぉぉ。けっこうキツイんですけど……。)
今回自分の発明した装置を使うということで、オブザーバーという名目までつけて、普段出席しない作戦会議にグンマがのこのこ出てきたのには理由がある。
この新しい従兄弟の補佐官として初めての単独の会議だったからだ。
今までも、こういう場に出席して意見を述べることはあったが、基本的にシンタローと共に出席し、彼のアシストという形だった。
だが、今回はスケジュールの都合でシンタローは遅れて出席することになっている。もしかしたら、終わるくらいの頃になるかもしれない。
だから、キンタローが彼独自の考えを提示するというのは、初めてなのだ。
そういうことで、グンマはシンタローに言わせれば野次馬根性、本人にしてみれば兄的な気持ちで彼の人生の第一歩を見守りに来たわけだった。
―――――そのつもりだったのだ。
それが狂いだしたのは集められた団員が顔を合わせた瞬間からだ。
「何故、おまえがこの席にいるんだ?」
開口一番、そんな言葉を投げつけられた男は余裕の態度で答えた。
「仕事どす。」
そりゃそうだろう、会議を見物に来たりするような人はいないもんね、とグンマは己のことを棚にあげて暢気にそんなことを考えていたが、キンタローの方はというとアラシヤマの答えは充分カンに触ったようだ。
「仕事? おまえもこの作戦に参加するのか。シンタローがよく承知したものだ。」
「わての実力はあの方が一番ご存じですさかい。」
ふっと彼が笑ったその時、グンマは確かに従兄弟の血管がぶちっと切れる音を聞いた気がする。
傍目には、眉一つ動かさなかったけれど。
そもそも、友達だ戦友だと何かと従兄弟にまとわりつくこの男を、キンタローが嫌っているのはグンマも知っている。
自分はあまり彼と接触が無かったから彼とシンタローの間に何があったのか、よくは知らない。
けれど、記憶を共有しているキンタローなら、いろいろと許せない出来事があったのだろう。
帰ろうかなー、とグンマが逃げ道を探してきょろきょろした時には全員着席してしまっていて、「ちょっとトイレに」など言い出せる雰囲気ではなかったのだ。
――――――そういうわけで、今に至る。
「それは机上の空論というものどす。これだから実戦に出たことの無いお人は困りますわ。」
「ほう、なんなら今から手合わせしてやろうか?」
「わてが言っているのは、あんさんの戦闘力ではなく、もっと根本的なことどすわ。」
会議はいっそう白熱し……おもに、二人の間だけでだったが……、一人、また一人と胃のあたりをさする人間が増えていった。
ちらり、ちらりと視線が自分に集まってくるのを感じたグンマは、やれやれと重い腰をあげた。
確かに、シンタローがいない今、この二人の間に入ることのできる人間は自分だけだろう。
いやいやながら、挙手をすると、二人が一斉にこちらを見た。
「まぁまぁ、二人ともの意見はみんなすっっっごくよくわかったみたいだしー。そろそろどうするか結論を出した方がいいんじゃないかナー……って。」
どんどん言葉が尻つぼみになっていくグンマに、横に座っていたキンタローは頷いた。
「確かに、どこかのバカが己の無能さを恥じて作戦をひっこめればすぐに決着がつくのだがな。」
アラシヤマも同意見だった。ただし、主語が違うが。
「そうどすえ、どこやらの副官の方が自分の未熟さを自覚してくれればすむ話どすわ。」
瞬時にぶつかりあった視線で火花が散ったように見えたのは、自分だけじゃない。
グンマはだらだらと脂汗を流した。
怖かったのは、絶対自分だけじゃない。
咄嗟にこう口走ってしまったのも仕方のないことだ。そうなんだ。
「しっシンちゃんに、総帥に決めてもらえばいいんじゃない?」
「シンタローに?」
「シンタローはんに?」
二人は同時に繰り返したが、お互いが彼の名前を口にしたことに腹がたつらしく、やはりにらみ合う。
やっぱりシンちゃんは迷惑タラシ以外の何者でもない、と再確認したグンマは携帯を手にあわてて部屋を飛び出した。
総帥室でたまっていた仕事を片づけていると聞いているが、責任くらいはとってもらわなければ割にあわない。
登録してある総帥室の直通番号にかけると意外にもあっさりと本人が出たので、グンマは噛みつくように「責任とってよ!」と怒鳴った。
「ああ?」
機嫌の悪そうな声に、ひるんだものの、現在扉の向こうで繰り広げられているバトルを収束できるのは彼しかいない。
ここはなんとしてでも呼び出さなくては。
「アラシヤマもキンちゃんもどっちもひかなくて、すごいことになってるんだよお~。もともと、あの二人を一緒にしたのはシンちゃんなんだし、お願いだから来てよ。ねっ。」 グンマがまくしたてる間、シンタローはしばらく黙っていたが、やがてため息をつきつつ了承した。
「わかった……じゃあ、20分くらいしたらそっちに行く。それまでは休憩でもして二人の頭をクールダウンさせておけ。」
「ほんと? ほんとに来てくれるんだよね? 絶対だよ? ありがとうっ! じゃあねっ!」
やっぱりやめたと言い出されるうちに『切』ボタンを押すグンマだった。
意気揚々と部屋に戻り、皆に先程のシンタローの言葉を伝える。
「シンちゃん20分くらいしたら来るから、それまで休んどけってー。」
すると、団員達は一様に立ち上がり部屋を駆け出ていった。どうやら胃薬をとりにいくらしい。
そして驚いたことにキンタローまでその後に続いてどこかへ行こうとしたので、グンマは慌てて呼び止めた。
「どうしたの? キンちゃん。」
「何かほかに資料がないか見てくる。シンタローが来るまでには戻るから。」
「20分しかないんだよ?」
キンタローはグンマを見下ろし、肩をいくぶんそびやかしてみせた。
「20分もあるんだ。」
「…………そうですか。」
キンタローが勢いよく靴の音を響かせて出ていった後は、グンマとアラシヤマの二人っきりになってしまった。
グンマはぱらぱらと手持ちの書類をめくっているアラシヤマを横目で見る。
「あのさぁ……あんまりボクの従兄弟苛めないでくれる?」
アラシヤマは興味なさそうにグンマの抗議を受け流している、目を上げることすらしない。
「苛めるなんて心外どす。シンタローはんの副官と名乗ってはる以上、ちゃんとやってもらわなあかんからゆうとるだけどすわ。」
「なら言い方ってもんがあるんじゃない? どう見たってキンちゃんに嫌がらせしてるようにしか見えないけど。」
いちいち揚げ足をとり、キンタローがむっとした顔をするたび、冷笑を浮かべる。これが意地悪じゃなくてなんなんだ、とグンマは思った。
「ああ、そうどすな。わてはキンタローが好きやあらしまへん。あんさんのこともな。」
しれっとアラシヤマは言い切った。
「半人前があたりまえの顔をしてシンタローはんの側におるのを見るとなんやむかむかしますわ。」
半人前のくくりに自分も入れられていたことは少々ショックだが、アラシヤマの気持ちもわからないではない。
なんだかんだ言っても、シンタローは身内には甘い。彼を慕う者にしてみれば無条件で彼に受け入れられている存在の自分たちはおもしろくないだろう。
「しょうがないじゃない。従兄弟なんだし……。」
反論しかけたグンマにアラシヤマは視線だけをそっちに向けた。
唇がくっとつり上がり、笑みの形をとる。
「血もつながってないくせに。」
すっと自分の顔から血がひくのを感じた。
思ってもみないほど低い声が自分の喉の奥からもれる。
「……もう一度言ったら殺すよ。」
アラシヤマは鼻先で笑い飛ばしたが、それなりのダメージを自分に与えたことに満足したのかそれ以上は何も言わなかった。
予告通り、会議は10分過ぎに再開された。
シンタローを挟んで、二人の議論は再び白熱の様相を呈しだす。
「このパネルを見てくれ。ここ数年のA国の銃器の購入記録だ。この種類から見て、彼らが地形を利用とした遠隔攻撃に頼っていることがわかる。」
キンタローは『10分』を有効に使ったらしく、先程より詳細なデーターと資料を皆の前で提示し、彼の組み立てた作戦を論理的に説明した。
「それを利用すればガンマ団の損害を15%程度に押さえることができる。つまりこのB地点にグンマの作った装置をしかければ、彼らのエネルギーのラインはとぎれ、さらにそこを叩けば一気に戦局がこちらに有利に傾くはずだ。」
これが初めてとは思えないキンタローの緻密な作戦に、団員達の口から次々感嘆の声がもれる。
ガンマ団の象徴の青の一族の直系であることを差し引いても、キンタローという男の傑出ぶりは際だっていた。
団員達の賞賛の眼差しを我がことのように誇らしく思いながら、グンマはふとシンタローを見て何かひっかかるものを感じた。
別に表情は変わっていない。
けれど、生まれたときからのつきあいだ。なんとはなしにぴんとくるものがある。
グンマはほったらかしていた資料を手元に寄せばらばらとめくってみた。普段研究室に閉じこもっている自分には縁のないグラフやデーターばかりだが、なんどか解読はできる。
「わては賛成できまへんな。CとDの間を狙うべきやないどすか?」
キンタローはむっとしたように、軽くパネルを叩いた。
「おまえは俺の話を聞いてなかったのか? CとD地点では供給の見地から考えるとロスが多すぎる。これを見ろ。」
アラシヤマは動揺することなく、キンタローが示す資料をちらりと見て、そうどすな、と答えた。
「ロスは多いですけど、わてはこの案を推します。キンタローはんはその案でよろしおすな? よう考えましたか?」
「もちろんだ。時間、人員、機能性すべてを配慮してこれを立案した。」
グンマの手が止まる。
キンタローが攻撃ポイントと主張している場所の地図だ。
ついでのように土質などがメモされているのだが、その標本を高松の研究室で見たことがある。確か粒子が細かくて密着しているが、振動が長く続くと一気に崩れる。
それも攻撃にはプラスだよねぇ……と、考え込んだグンマだったが、もう一度地図を見てやっとアラシヤマの余裕の理由に気が付く。
(うっわーーー。そーゆーことかよ。)
しかも、わざわざ念押しまでして、とグンマはアラシヤマを睨みつける。
(ほんっっと……………性格悪い。)
しかし、時はすでに遅く、グンマはキンタローにそれを告げる機会を逸してしまった。
アラシヤマが中央に座しているシンタローに、話を向けてしまったのだ。
「このままやったら埒があきまへんわ。総帥のご判断にお任せしまへんか?」
キンタローは望むところだといわんばかりに、シンタローを見る。
「俺は構わない。シンタロー、どちらの作戦をとる?」
シンタローは全員の注目を浴びて、ゆっくりと椅子に身を起こした。
その何気ない所作にその場にいた者達は一人残らず釘付けになっている。マジックもそうだが、シンタローにはいわゆる王者の風格というものがある。
まだ、年若い分、完成しきってない威厳だが、それがよけいに人を惹きつけるのだ。
確かにこれは争いの種になるかも、とグンマは改めてそう認識してしまった。
この輝かしい人の視線を一瞬でも自分に向けてもらいたい、と願う人間はこれからも増えていくだろう。
ついでに今目の前でおこっているような場面も役者を変えて何度も演じられる。 彼が彼である限り。
「俺は―――。」
彼が口を開き、皆固唾をのんで総帥の選択を待った。
「俺は――アラシヤマの案をとる――。」
キンタローは一瞬凍り付いたようになったが、すぐに猛然と抗議する。
「何故だ? 計算値も、配分も完璧だ。おまえが望む以上の戦果が得られるはずだ。」
何故、自分じゃなくアラシヤマを選ぶんだ、と言う怒りを滲ませるキンタローを宥めようとグンマが口を挟みかけた時、アラシヤマの鋭い声がとんだ。
「ええかげんにしなはれや。わては何度も聞きましたやろ。ほんまにええんどすかって。」
アラシヤマは先程グンマが見つけた地図を取り出し、キンタローの前にずっと差し出した。
「確かにあんさんの出した案は合理的で、ようでけたもんでしたわ。けどなぁ――その案をつこうたら最後、ぎょうさん人が死にまっせ。」
キンタローは今更ながらにその地図を見る。
地形的にも地質的にもこちらに有利な場所だった。しかし、その延長線上に決して小さくはない町があることにキンタローは今の今まで気づかなかったのである。
いや、存在を知ってはいた。
彼が失念していたのは、現在のガンマ団が掲げる「民間人を殺さない」というその主義だったのである。
もし、キンタローが立案した攻撃方法を使えば、直接攻撃を受けるわけではないその町は地形的に土砂崩れに巻き込まれる。
そこに至る配慮が決定的に欠けていたのだ。
「わかりはったようですな」
ガンマ団ナンバー2の男は、キンタローの顔色から彼が理解したことを確認し、すぐに平坦な口調に戻った。
「それでは、この案でよろしおすな。みなさんも。」
反対する者はもう誰もいなかった。
全員が去った後の会議室に残ったグンマは黙々と後かたづけをしているキンタローにおずおずと声をかけた。
「キンちゃん、あんまり気にすること無いからね。」
キンタローはやはり無言だ。
父親譲りらしい明晰な頭脳の持ち主のキンタローは、帰還して以来間違いらしい間違いを殆どしたことがない。
キンちゃんってすごいなー、とグンマは単純にそう思っていたのだが、反対にそれがまずかったのかもしれないと今更ながらに思った。
挫折を味わったことが無いキンタローがよりにもよってこの場で初めての失態を演じることになるとは。
しかも、相手はアラシヤマ、そしてシンタローの目の前で。
いつかは通らなければならない道と高松あたりは言うだろうが、それにしてもついていない。
「失敗なんて最初は誰でもするんだよ。ボクだって、ロボット作り出した時は失敗作ばかりで……。」
「グンマ。」
キンタローは従兄弟の話を遮った。
「この前壊れたガンボットは通算何体目だった?」
「260……273体目だったっけ。忘れちゃった。」
えへへ、と明るく笑った後でグンマは「で、それが?」と不思議そうに問い返した。
「…………………いや、別に。」
キンタローは特にコメントは差し控えた。
「じゃあ、ボク、用があるから行くね? ほんとに大丈夫?」
グンマに心配そうに確かめられ、キンタローは頷いた。
「ああ、気にしていない。」
従兄弟はほっとしたように笑顔を浮かべ、それじゃあ、と手を振って急いで会議室を出ていった。
本当にぎりぎりだったらしい。
グンマにもよけいな気をつかわせていたということか。
キンタローは自嘲して椅子にどっかり座り込んだ。
何が悔しいって、アラシヤマに負けたとかそういうレベルの問題じゃなく、シンタローの決めた方針をあっさり忘れ去った自分の至らなさに腹が立つ。
生まれて一年も経っていない自分には、決定的に経験が足りないのは自覚している。だからそれを補うべく、あれこれ資料を読んだり、シンタローの中にいるとき見聞きした事柄を反芻したり、と努力は怠らなかったつもりだ。
どうしても埋められない差、なんて言葉に甘えたくない。
彼の側にいたい。彼をたすけたい。
そう、決めたのだから。
悔しい。
胸の中が暗く焦げ付きそうなもどかしさにキンタローは宙を睨み付けていた。
どれくらいそうしていたのだろうか、キンタローが我に返ったのは扉を開く音だった。
てっきりグンマが戻ってきたのかと振り向いたキンタローは、そこに片割れの姿を見つけ驚いた。
「シンタロー。」
「よう。」
大股で歩み寄ってきて隣の椅子に腰をかけるシンタローは普段通りの表情だった。
「………おまえにも心配をかけたということか。」
今度こそ決定的なまでに落ち込んでキンタローは、ため息をついた。
よりにもよって本人に気を遣わせるなど、副官としてあるまじき失態だ。
シンタローは前を向いたまま素っ気なくキンタローに告げる。
「さっきは悪かった、とは言わねぇぞ。俺は指揮官としてあっちを選んだんだから。」
「そんなことは分かってる。だいたい、おまえが慰めに来るというのもおかしい。」
キンタローの答えに、シンタローは、はっ、と笑った。
「誰が慰めに来たっつった? てめぇに仕事させるために来たんだよ。」
「仕事? なんだ? 昨日の書類なら執務室に届けてあるぞ。」
ちげーよ、とシンタローはぶっきらぼうに否定した。
「おい、キンタロー、そのままで動くなよ?」
そう命令されたかと思うと、キンタローの肩に柔らかい重みがのしかかった。
「今日は疲れた。肩を貸せ。」
「…………仕事なのか? これは。」
「総帥を助けるのは、補佐官の仕事だろ?」
頭をキンタローの肩に乗せ、シンタローはそう断じた。
「あのな、キンタロー。急ぎすぎるな、とは俺にも言えない。自分の速度なんてもんは自分ではわかんねーもんだし。」
シンタロー自身にも身に覚えのあることだろう。いや、現在がまさしくそうだ。
だから、キンタローは少しでも彼を助けたかった。一人で重荷を背負わせ、孤独に戦わせるのはもういやだったのだ。
それでも、全然うまくいかない。
同じだけの速度で走っているつもりでも、相手はずっと前から走っているのだから全然追いつけない。
「アキレスと亀」という論理を数学の教本で読んだことがある。
平たく言えば、亀に遅れて出発した勇者アキレスは永遠に亀に追いつけないという話だ。
この有名なパラドックスを数学的に解く方法は現在でも、『より近い回答』しかないそうだ。
現実にはそうでないことをキンタローも知ってはいるが、それでも今はこの設問が真実であるかのような気になってしまう。
自分が一歩進んでもシンタローもその間に確実に進んでいる
いつまで経っても自分は彼と並ぶことのできる人間になれないのかと不安になるのだ。
「……俺はおまえの側にいる価値のある人間に早くなりたいんだ。」
シンタローはキンタローの肩に頭をもたせかけたまま苦笑した。
「なってるよ、とっくに。」
キンタローが不審そうにしていることにシンタローは気づいて、なおも言葉を重ねた。
「あのなあ、こんなことを俺が他のヤツにできると思うか?」
「……思わない。」
いや、いないでもないような気がするが、そういうことにしておく。
「なら、黙って俺を休ませてろ。補佐官。」
――――そして、補佐官は総帥の命令に従ったのだった。
end
2004/03/13
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2006/11/20改稿
性格悪くてかっこよくて、シンタローさんを想ってるアラシヤマと、シンちゃんに甘やかされてる1歳児を書きたかったらしい。
アラシヤマにときどき夢見すぎかもしれません。
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愛玩動物
『彼』はいつもドアを開けたすぐのところで、自分を待っていた。
きらきらした黒い瞳は、どんなに『彼』が自分に会いたかったかを、言葉よりも雄弁に語り、さらにちぎれんばかりに振る尻尾がそれを裏付けた。
それは、『彼』がその生涯を終えるまで、続けられたのだった。
会議室から総帥室へと続く廊下を歩きながら、シンタローはこっそりとこった肩をさすった。
総帥に就任してから、あちこち世界を飛び回る日々を過ごしているからか、たまにこうやって本部に帰って会議や書類にサインをする日々が続くと、身体がなまっていくような気分になる。
しかも、今回は遠征が長引いてしまったため、本部での仕事がたまりすぎて、ろくろく散歩にも行けない状態になってしまっていたのだ。
それも、自分が決めたことなのだから、仕方がないとは彼も想っていたが、こうやって部屋から部屋へ移動するわずかな時間だけが、息抜きの時間というのはさすがにもの悲しいと思うシンタローだった。
窓の外を見れば、雲一つ無く晴れ渡った空が彼方まで続いている。
こんな日は、机の前から離れて外を駆け回りたくなる。
そういえば、昔飼っていた犬も、こんな日は上機嫌で遊びに行こう、と朝早くから自分のベッドの周りをぐるぐる回っていたものだった。
しばしノスタルジーに浸る総帥を、補佐官の無遠慮な言葉が現実に引き戻す。
「シンタロー、何を立ち止まっている。会議が早く終わったからといっても、休憩時間はとれないぞ。遠征の間にたまったデスクワークがあるんだからな。」
シンタローは斜め後ろに立つ、従兄弟を振り返る。
空と同じ色のその目は、怠惰は許さん、とばかりに自分をじっと睨んでいた。
本当に、何がどうしてこんな堅物になっちまったんだか、とシンタローはため息をついて頷いた。
「あー、はいはい、分かってるから、そうカリカリすんな……。」
言葉の途中で、本当に自分の足下からかりかりという音が聞こえてきて、シンタローは下を向き顔をほころばせた。
茶色い子犬が、シンタローのブーツにじゃれついて、その小さな爪が音を立てているのだ。
「うっわー、ちっせー。どうしたんだ、迷子か?」
ひょいっと、抱き上げると、その小さい子犬は細いしっぽをぴこぴこふって、「わん」と、元気よく答えた。
どうやら、和犬の子犬らしく焼きたてのトーストとよく似た色の、小さな耳をいっちょまえにぴん、と立っている。
「かっわいいなあ、なに、おまえ、どこから来たの?」
「犬は返事ができない。シンタロー。」
そのあまりの愛らしさにでれでれと相好を崩しまくっているシンタローに、冷静な副官の指摘が水をかけた。
「んなこと、わかってるっつーの! だいたい、こんなかわいい子犬見て、おまえはそんなことしか言えんのか。」
「かわいいのはおまえだろ。」
しれっとした顔でつっこむ副官に、周囲にいた団員達は「キンタローさまナイス!」と心の中で盛大に拍手した。
「なにアホなこと言ってんだ! あっ、ごめんごめん、おどかしちまったなー。」
ごめんな、と子犬に顔を寄せると、小さな桃色の舌がぺろぺろとその唇を舐める。
途端、周囲の団員達がぎりっと歯ぎしりをした。
『ちくしょーっ! ここにビデオがあれば!』
『それより、今、あの犬とチェンジしたい!』
と、団員達のどろどろの欲望がうずまくその空間に、息せき切って駆けつけてきた人物がいる。
元総帥の側近の一人で、現総帥の信頼も厚いと言われている忍者トットリだった。
きょろきょろとしながら走っていた彼は、シンタローの腕にいる子犬を見てほっとした顔をした。
「あーっ! いたいた。ごめんだっちゃわいや、シンタロー。」
「おお、これ、おまえの犬か? トットリ。」
「いや、ちょっとこの前の任務先で拾ったんだっちゃ。もう、もらい手は見つけてるけど、ミヤギくんにも見せてあげたくって、待ってるんだわいや。」
ミヤギが所属している隊が戻るのは、明日だ。
「そっかー、すぐにどこかに行っちゃうのか。」
シンタローは名残惜しげに、手の中の子犬を見る。
「なぁ、コイツ、もうちょっと預かってちゃダメか? ミヤギが帰るまで一晩でいいから。」
意外なシンタローの申し出に、忍者は目をぱちくりさせた。
「そりゃ、かまわんけんど、僕も報告とかで忙しいので、面倒みてもらえたら助かるっちゃ。」
「やった、サンキュ。」
シンタローの顔がぱっと輝いて、全開の笑顔になると、周囲の団員達は耐えきれず、壁によりかかったり、床にしゃがみ込んだりした。
『たまんないっす! 総帥!』
シンタローに代替わりしてから、ガンマ団の養成学校では「鼻血を出した時の速やかな応急処置方法」が最初の必須授業になり、そして現在団員の中で、一番実用性が高い授業として大変評価が高い。
『総帥の後ろに立っていて今のスペシャルエクセレントプリティーキュアキュアな笑顔を見ていないキンタロー様はともかく、なんで正面に立って攻撃をまともにくらったトットリさんは平然としているんだ!?』
『さすが、元総帥の側近はひと味もふたあじも違うぜ!』
一部の団員の尊敬を知らずに集めているとも知らず、顔について非情に偏った趣味の持ち主のトットリは、手にしていた首輪などをシンタローに渡しながら、餌や、しつけについて説明しようとしたが、邪魔をする人間がいた。
例によって例のごとく、有能な補佐官である。
「そんなことは許さないぞ。シンタロー。どれだけ仕事がたまっていると思うんだ。もう一度言う、おまえしかできない仕事が膨大な量たまっているんだ。犬と遊んでいる暇など無い!」
「ちょっと世話するだけじゃねぇか、たった一日のことだし、トットリもこんなんじゃ、ろくに面倒みてやられねぇだろ。」
シンタローはごねたがキンタローはそれを無視して、おまえが悪いと言わんばかりにトットリに攻撃を移した。
「だいたい、もらい手が決まっているんだったら、さっさと連れていけばよかっただろう。ミヤギに見せたいという話だが、おまえが彼の飼い犬みたいなものだから充分だろう。」
「わっ! 馬鹿! 禁句を……。」
シンタローが慌てて止めに入った時には、既に遅く、トットリの周りの空気がびしりと凍り付く。
「誰がいぬだっちゃ……。」
童顔をひきつらせキンタローをぎっと睨みつけるものの、いまいち迫力にかける。
当然ながら、キンタローは顔色一つ変えなかった。
「おまえ。」
容赦ない一言に、トットリの大きな目に涙がぶわっと盛り上がる。
やべ、とシンタローがフォローしようと口を開く前に、滝のような涙をあふれさせた。
「うっわああああああああああああああああああああああん!!」
二十歳もとっくに超えた男には思えないほどの、泣きっぷりを披露して、トットリは元来た方向へと、全速力で走り去ったのだった。
「お、おい! トットリ。」
しかし、童顔でもさすが忍者。
総帥の制止の声も聞かず、彼の姿は見る見る間に遠くなって消えてしまった。
さすがにかわいそうになったシンタローが、キンタローをじろっと見る。
「キンタロー! 謝ってこい!」
「何故だ。俺は間違ったことを言っていない。」
「いいから! とにかく、トットリにフォローいれてこい! さもねぇと、おやつもご飯も二度と作ってやらん。」
「結構だ。」
なかなかに強情なキンタローに、シンタローは破れかぶれで言ってみた。
「そうするまで、俺の部屋に立ち入り禁止。」
すると、キンタローはぴくんと肩を上げた。
「………わかった。行って来る。トットリの自室はどこだ?」
あまりの素直さにびっくりしているシンタローをよそに、キンタローは部下にトットリの部屋番号を聞いて、すたすたと歩いて行こうとした。
しかし、数歩歩いたところで、ぴたっと止まってシンタローのところに戻ってくる。
「犬。」
手を差し出され、我に返ったシンタローが渋々と子犬を渡すと、キンタローは無言のまま踵を返し、今度こそ寮のあるセクションへと向かったのだった。
「遅い。」
シンタローは書類にサインをしながら、いらいらと卓上の時計の数字を見た。
キンタローを送り出してから、もう既に一時間近く経過している。
トットリの部屋から、この総帥室まで、どれだけとろとろ歩いても三十分はかからないだろう。
まさか喧嘩になったとしても、キンタローとトットリじゃ勝負にもならないし、と部下には少々酷なことを思いつつ、シンタローは受話器を取って、トットリの部屋のナンバーを押したが、呼び出し音が鳴り響くだけで、誰も出る様子がない。
「あー、もう。」
シンタローは渋々腰を上げて、トットリの部屋へ向かう。
仮に何かあったとして、場を納められるのは上司である自分しかいないのだから、仕方がない。
急いだおかげで、十五分ほどで部屋へついて、呼び出しボタンを押したが、まったく反応が無い。
よそで話しているだけならいいが、万が一ということもある。
シンタローは中に入ってみることにした。
「おい、俺だ。」
部屋はオートロック式なので、シンタローは部屋のロックの解除を頼もうと、秘書室に電話をしたが、出たのは何故かもう一人の従兄弟だった。
「あれー、シンちゃん。なんで、そんなとこにいるの?」
「おまえこそ、なんで秘書室にいるんだよ。」
今の時間なら研究室に詰めてるだろ、とシンタローがいうと、グンマはあっけらかんとして答えた。
「だって、ここだったら、美味しいお菓子があるんだもーん。」
確かに、秘書室なら菓子は欠かさないだろう。
総帥の休憩用のお茶請けを用意していることが常だったからだ。
「……それ、俺のじゃないか?」
「いいじゃん、シンちゃんのことだから、食べてる暇がないって手をつけてないんでしょ? それより、何の用? これって寮からの電話じゃん。」
言われて、肝心の用件を思い出したシンタローは、トットリの部屋のドアロックを解除するように頼んだ。
しかし、グンマは、あー、ソレだめとにべもない。
「一応、プライバシーなんかの問題もあるから、中央室からのロックのコントロールは、一斉って決まってるんだ。個別に開くときには、解除プログラムを個別に書き込んだカードキーが必要なの。」
迷ったものの、総帥権限ですべてのドアを開かせるのはさすがに気が進まず、シンタローはグンマにそれを持ってくるよう命令した。
「えー、やだ。他の人に持っていってもらっちゃだめ?」
案の定、従兄弟はたいそう面倒くさそうな声をあげた。
「いいから、おまえがもってこい。中にキンタローがいるみたいなんだが、返事が無いんだ。」
「キンちゃんだったら、眼魔砲ぶっ放して出てくるよ。」
「いちいち、施設を壊されてたまるかーっ!」
シンタローが怒鳴りつけると、さすがのグンマもわかったよ、としぶしぶ承知した。
「遅い。」
せっかくカードキーを持ってきたあげたにも関わらず、いきなり文句を言われてグンマはむっとした。
「ひどいよ、シンちゃん。遅いはないでしょう。」
「秘書室からここまでせいぜい十分だろうが、何をちんたら歩いてきてやがんだ。」
いいから、さっさと開けろ、と、命令されてグンマは言い返そうかと迷ったが、シンタローの苛つき様に、我慢してカードをリーダーに差し込んだ。
ピーッという、解除の合図の電子音が鳴り終わらないうちに、シンタローは中に入り込む。
「キンタロー!」
シンタローのせっぱ詰まった声に、肩越しにのぞき込んだグンマも驚きの声を上げる。
「キンちゃん!? どうしたの!?」
部屋に入ってすぐのところで、二人の従兄弟が床に突っ伏していたのだった。
その周りを茶色の子犬が、所在なげにうろうろとしている。
きゅんきゅん鳴いている犬をシンタローは抱き上げて、背後のグンマに渡してから、キンタローを抱き起こして、呼びかけた。
「キンタロー、おい、目さませ。」
手の甲でぺちぺちと軽く叩いて声をかけると、彼はうっすらと目を開けた。
しかし、その目はぼうっとしていて、焦点が定まっていない。
「キンタロー?」
心配になったシンタローが、もう一度名前を呼ぶと、その目がやっとシンタローの方へ向いた。
とりたてて怪我をしている様子でもないが、どこかおかしい。
「おい、キンタロー、何があった?」
キンタローはやはり無言のまま、シンタローの顔を見るのみだ。
とうとう、シンタローは声を荒げた。
もともと、気が長い方ではないのだ。
「いいから! なんとか言えよ!」
すると、キンタローは『なんとか』を口にした。
「わん。」
と。
「トットリー!! 今すぐ出てこい! 総帥命令だっつってんだろコラ!!」
突然スピーカーから流れたシンタロー総帥の怒鳴り声に、団員達は思わず顔を見合わせた。
「何があったんだ?」
「さあ。」
「緊急の任務でもあるんじゃないのか?」
「いや、報告書に不備があったとか……。」
どちらにしても、自分たちには関係あるまい。
一般団員には知らされないようなレベルの話に決まっている。
全館放送を使って、総帥自らが一人を名指しして呼びつけるなど、めったにあるものじゃない。
これはよほどのことがあったと考えるべきだろう。
――そう、実際に『よほど』クラスのことだったのである。
むしろ『とんでもない』と言った方がよいかもしれない。
なにしろ、ガンマ団総帥の従兄弟にして、補佐官、さらにガンマ団一のブレーンとしての呼び声高い彼が、あろうごこか『犬』になってしまったのだから。
「たく、あの馬鹿! とんでもねぇことしやがって!!」
さんざん、マイクに向かって怒鳴り散らしたシンタローは、トットリの投降をあきらめ、スピーカーの電源を落とした。
「たぶん催眠術かなんかだろうけど、かけた本人しか解けないだろうし……。」
ねぇ、とグンマが話しかけても、キンタローはまばたき一つしない。
ひたすらじっと気をつけの姿勢のままだ。
そうしていると、普段と変わらないようにも見えるが、話しかけても殆ど無反応で、口をきいたのも、先ほどの『一鳴き』だけ。
「しょーがねぇ、誰かに言ってトットリを探させるから、それまでそいつの面倒見てろ。」 そう言って、さっさと部屋を出ていこうとするシンタローにグンマが抗議の声をあげる。
「ええぇ!? ずるいよーっ!」
「うっせぇ! 俺は仕事があるんだよ!」
「ボクだって研究あるもんっ!」
「テメーの研究なんて、どーせ、あひるのはりぼてとか象のバイクとかそんなもんだろーがよっ!」
「ひっどーいっ!」
ぎゃあぎゃあと、ひとしきり口論した後、結局グンマが折れた。
確かに基地にいる間の総帥の忙しさはよく分かっているし、そのうえ有能な補佐官がこんな状態なのである。
かといって、他の人間にこのキンタローを見せるわけにもいかない。
「わかったよ。ちゃんと、キンちゃんの世話はするから、シンちゃんは早くトットリを見つけて、キンちゃんをちゃんと治すように言ってよ。」
「ああ、任せとけ。見つけ次第ここに引きずってくる。」
シンタローは頷き、今度こそその部屋を出ようとしたのだが。
「あっ、キンちゃん!」
キンタローがいきなり歩き出し、シンタローの後ろにくっついて部屋を出ようとしたのだ。
「キンタロー、ちょっ、ついてくんなっ。」
しかし、キンタローは構わずぴったりと後ろについてくる。
グンマも一応キンタローの腕を引っ張ってみたが、まったく引き戻せない。
「あー、これは無理だよ、シンちゃん。たぶん、キンちゃん的に『飼主=シンちゃん』って図式ができてんだよ。」
「なんでっ!?」
「上司=飼主なんじゃない。」
「そんな怖いこと言うなーっ! どうにかしろっ!」
……どうもこうもなかった。
シンタローはにわかペットを傍らに従えて、午後からのデスクワークを再開することになったのだった。
愛しの心友からの呼び出しに、嬉々として駆けつけたのはガンマ団ナンバー2だった。
「シンタローはんが、わざわざこのわてを指名やなんて、どないな風の吹き回しどっしゃろ。照れ屋さんどすのに。」
なにしろ、顔を出せば眼魔砲もしくはシカトをくらってきたアラシヤマにとっては、シンタローが自分に会いたいと思ってくれる、とそれだけでもう第七天国にでも登ったような大騒ぎだ。
総帥室に入ってきてからこっち、一人で興奮して騒いでいる彼にインク壺をぶつけたいのを必死で堪えているシンタローだった。
なにしろ、腐っても……腐敗しきってもガンマ団ナンバー2である。
シンタローが今抱えている問題を解決できそうなのは、他の連中が遠征などでいない今、彼しかいなかった。
「……はっ! もしかして、デートのお誘いとか!? ああっ、どないしまひょ! 焦って普段着のままきてもうたわ!」
今から、部屋戻ってよそゆきに着替えて……と、来た道を戻ろうとしたアラシヤマをシンタローはいやいやながら引き留めた。
「……その服で充分だ。俺が必要なのは中身なんだから。」
仕事さえしてくれれば、聖衣を着ようが、着ぐるみを着ようが自分の知ったことではない。
しかし、アラシヤマはなにを勘違いしたのか、顔をぽっと赤らめてすすすっと寄ってきて、机越しに素早くシンタローの手を取った。
「いややわー、シンタローはんったら、大胆。」
ひきつりながらも、協力させるまで多少のオサワリは我慢しているシンタローの耳に、グル…と、重低音のうなり声が聞こえた。
アラシヤマも気づいて、シンタローの傍らに立つ補佐官を、うろんなものを見るような目で見上げる。
いつもアラシヤマを見るたび、剣呑な目つきになる補佐官だったが、本日はいつもにも増してあからさまに敵意を剥き出しにしている。
……なんですのん、いったい。
アラシヤマがそちらに気を取られている隙に、シンタローはなんとか自分の手を彼の手から抜いた。
「うんうん、頼りにしているから、トットリをここに引っ張ってきてくれ。」
そう言った瞬間、アラシヤマが「なんやってーっ!」と叫んだ。
「あんなちびっこ忍者に会いたいやなんてっ! しかも、こともあろうにわてに他の男を捜させるやなんてひどいどす!」
シンタローを押し倒さんばかりの勢いで、詰め寄ってくるアラシヤマの形相は凄まじく、さすがのシンタローもその迫力に押されてしまった。
硬直しているシンタローにぴったりと寄り添いながら、戦士にしては華奢な指先にシンタローの長い髪をくるくる巻き付かせて、なおもえんえんとかき口説いた。
「うんもう、ほんとにいけずなお人やわぁ。そんなとこがまた、わてをあんさんから離れさせてくれへんのんやけど……。」
…………我慢だ。我慢だ俺! こいつを今眼魔砲で吹き飛ばしたら、トットリを探してこられるヤツがいなくなる。キンタローを元に戻すためだ。ガンバレ、耐えるんだ……ファイト、俺。
シンタローは、ファイトファイトと小声で念仏のように繰り返しながら、キンタローを見て、さらにまた凍り付いた。
青い目に、怒りを滲ませ、ウウ……と、歯をむき出してうなり声をあげている。
ヤバイ!
シンタローは、アラシヤマをとっさに蹴倒し、今、まさに飛びかからんとしていたキンタローにしがみついた。
「……どないしなはったん、そん人。」
蹴られた痛みさえ忘れたかのように、アラシヤマがぽかんとしてキンタローを見上げる。
目が合うとさらに怒りがヒートアップしたのか、キンタローはがうっと吠えた。
それを必死で押さえつけながら、シンタローはアラシヤマに命令した。
「仕事が終わったのに、おまえがぐずぐずしているから、キンタローは怒ってるんだ! 早く行けよ。俺はこいつにおまえを噛ませたくないんだよ!」
「シンタローはん……そんなにわてのことを……おおきにっ! わて、がんばって忍者はん探しますわ! 待ってておくれやす!」
感動したアラシヤマは、頬を染めてらんらんとスキップしながら、総帥室を出ていった。
不満そうに喉の奥でうなり声をあげている従兄弟の背中を撫でて、シンタローはなだめた。
「いいから、我慢しろ、キンタロー。あんなヤツを噛むと変な病気がうつるぞ。そうなったら、俺は非情に困る。」
「がう……。」
よしよしとなだめらて、なんとか落ち着いたキンタローだったが、その目には「いつかアイツを噛んでやる」という決意が漲っていたことは言うまでもない。
その後は、特にキンタローは騒ぎを起こさず、番犬よろしくシンタローの横で静かにしていた。
何人かが報告やら、書類提出やらに総帥室を訪れたが、誰一人補佐官の異常に気づく者がいなかったのだから、普段とそう変わりはないのだろう。
が、シンタローはかなり居心地の悪い想いをしていた。
普段と違ってあれやこれや口うるさくないことは結構だが、無言のままじーっと自分の手元を見るのはやめてほしい。
しかも、一瞬ペンを置いたり、書類を伏せたりなんかすると、背後から妙に明るい空気が流れてくる。
無視をして、仕事を再開すると、しゅーんとしている気配が伝わってくる。
……そういえば昔飼っていた犬がそうだった、とシンタローは思い出した。
宿題をや遊び、他のことに夢中になっている時は、こういう怨めしげな視線で自分の行動を逐一見張っていたものだった。
鬱陶しくなってわざと背中を向けると、この世の終わりのような表情をするものだから、幼かった自分はよく根負けして、つい一緒に遊んでしまったりしたものだが、今は大人。
負けるもんか。
シンタローは身体中の神経を、目の前の書類の山へ集中させた。
この間、調停した国のその後の報告だ。
一度関わった件が、自分の手を離れたその後でよろしくない方向へ進もうとすることが無いとは言い切れない。
最後まで見届けることは、関わった者の義務だ。
シンタローは、それを取り上げ、目を通し始めた。
その日は遅くまで残ったのだが、シンタロー一人ではあの書類をすべてすませることはやはり大変で、残りは持ち帰りとなってしまった。
帰る早々、自室に引きこもって仕事を再開するシンタローに、夕食をグンマが運んできた。
いつもなら、ここぞとばかりに息子の世話をやきたがる父親が、あいにく不在だったからだ。
一緒に入ってきた子犬が嬉しそうに部屋の中を駆け回り、シンタローの靴にじゃれついたが、グンマが持参したボールを向こうに投げると、それを追いかけていってしまった。
「はい、シンちゃんごはんだよ。片手で食べられるものがいいと思って、サンドウィッチを作ってもらってきたよ。」
「ふーん、めずらしく気が利くな。」
「ひどーい、もうっ! あ、これキンちゃんの。」
シンタローは早速手を伸ばして、卵サンドをとった。
自分のじゃない、とグンマがちゃんとシェフに告げたのか、幸いジャムやらクリームなんかは混入されていなかった。
ほっとして、かぶりつくと特製マヨネーズソースがたいへん美味しい。
芥子がもうちょっとあってもいいかな、などと、シンタローが心の中で批評していると、グンマの困ったような声が聞こえて、シンタローは書類から顔を上げた。
見ると、いっこうに食事に口をつけようとしないキンタローに、グンマが皿をつきつけて食べるようにと促しているところだった。
「キンちゃーん、お腹空いてるでしょう? 食べないと眠れないよー?」
しかし、椅子に背筋を伸ばして腰掛けた姿勢から、キンタローはいっこうに動こうとしない。
シンタローは最後のハムサンドを食べ終えると、そちらの方へ身体ごと向きを変えた。
「サンドウィッチが嫌なんじゃないのか?」
グンマは、そんなことないよ、とふくれた。
「キンちゃん、サンドウィッチ嫌いじゃないし……それに、ヤじゃない? 紳士なキンちゃんにスープを犬食いなんかされたら、高松じゃなくても泣くよ! シンちゃんだって、泣くでしょ!?」
確かに想像するのも嫌な光景だ。
シンタローはじぶんが泣くかどうかはさておき、それが視覚的暴力であることは認めた。
「食べないならほっとくしかないだろ。そこらへんに置いとけば? 腹が減ったら勝手に食べるさ。」
そうかなぁ…とグンマは頑なまでに身動きしないキンタローを心配そうに見て、首を振った。
「だめだよ、キンちゃんはかなり融通きかないもん。それに置きっぱなしにしてちゃ乾いちゃう。」
確かに、と、シンタローも納得したが、本人が食べようとしないものを無理強いすることはできない。
「腹はへってるはずなんだけどなぁ……本当に喰わねぇの? おまえ。」
キンタローは微動だにしない。
シンタローは適当なサンドウィッチを取ると、キンタローの目の前につきつけた。
「ほらほら、うまいぞー。」
「シンちゃんったら、そんな子供みたいな……。」
たしなめようとしたグンマだったが、キンタローがそれにぱくっと食いついたのを見て、言葉を切った。
シンタローはといえば、グンマよりもっとぎょっとした顔で自分の手から食事を摂る従兄弟を見ている。
全部食べ終わると、もっと、と言う顔でシンタローの手を鼻先でつつかれ、二人はやっと正気に戻った。
「……食べたな。」
「……食べたね。」
そういや、シンちゃんが昔飼っていた犬って、絶対シンちゃんがあげた餌しか食べなかったな、とグンマは思いだし、手にしていた皿をシンタローの方へ押し出した。
急におはちが回ってきたシンタローは、焦って首を振った。
「ちょっ……冗談じゃない! なんで、俺が野郎に食べさせてやらなけりゃならねぇんだ!」
「しようがないでしょー、キンちゃん、シンちゃんの手からしか食べそうにないよ。だいたい、キンちゃんがこうなっちゃったのは、シンちゃんがキンちゃんをトットリのところへ行かせたからでしょうが。責任とりなよ、総帥だろ!」
何か違うと思ったが、確かに元はといえばその通りの原因なので、シンタローは渋々もう一つ取って、キンタローの口元へと運んだ。
キンタローは躊躇せず、それに歯を立てると食べ始めた。
ここに父親がいなくてよかった、と二人が同じ事を考えていると、最後まで食べ終わったキンタローが、シンタローの指先についたマヨネーズをぺろっと舐めた。
その微妙な感触に、シンタローは背中がぞくっとして顔が赤くなった。
グンマが隣でぼそりと呟く。
「……ねぇ、本当にキンちゃん演技してるんじゃないよね……?」
俺に聞くな、とシンタローは赤くなった顔を、グンマから見えない方向へと向けたのだった。
約一名にとって羞恥プレイにも等しかった食事の時間が終わり、グンマは皿とカップを持って立ち上がった。
おやすみー、と出ていこうとするグンマに、シンタローは膝の上に乗せていた子犬をどうするのか聞いた。
「その子、シンちゃんに懐いてるし、シンちゃんがみてあげてよ。元々シンちゃんは、そっちの子犬の世話したかったんでしょう。昼間だけならともかく、夜まで面倒見られないよ。ペットシーツも置いておくからお願い。」
「しょーがねぇなぁ。」
口では文句を言いつつも、内心嬉しくてたまらなかったので、シンタローは二つ返事で承知した。
グンマが出ていった後、始めは仕事をしていたものの、子犬が遊んでほしそうに尻尾をふっているので、ついつい相手をしてしまった。
ゴムボールをほうってやると、弾むそれと同じように飛び跳ねる。
その様がまるでもう一つのボールのようで、シンタローの頬がついゆるむ。
このまま手元にひきとりたい、と思ったが、すぐに無理だと諦める。
なにしろ、一年の半分近くを遠征やなにやらで自宅を留守にしているのだ。
他の人間に世話をしてもらっていては、飼っているとはいえないだろう。
病気の時も側にいてやれない。
ふと、遠い記憶が蘇り胸がちくっとする。
シンタローは、それをまた心の奥底にしまい直し、子犬が持ってきたボールを再び投げてやった。
その後は結局、仕事にならず、子犬も疲れてきたのが分かったのでシンタローは寝ることにした。
子犬は人に渡す前にと、トットリが洗ってあったらしくその必要は無さそうだったが、キンタローはそういうわけにはいかず、自分が入るついでに洗ってやった。
頭からお湯をかぶせると、ぶるぶると身震いをして怨めしそうな目で髪の間からこっちを見ていたが、特に大きな抵抗はしなかったので、無事に洗い終えた。
パジャマを着せた彼を、彼自身の部屋へ連れていってベッドに放り込む。
置いていかれそうになって、今度ははっきりと目に抗議の色を浮かべるキンタローに、シンタローは「ダメだ」ときつく言い聞かせる。
きゅーん、と鳴いたりはしなかったが、尻尾と耳がしょんぼり下がっているイリュージョンが何故か見えてしまい、シンタローは焦ったが無視をした。
いつ、元に戻るかわからないのに、これ以上妙な癖をつけたらグンマに何を言われるかわかりはしない。
「ほら、さっさと寝ろ。また、明日な。」
なんとなく思いついて頭を撫でてやると、思ったより柔らかい髪だった。
結構気持ちいいかも、と、シンタローは少し和んだ。
いつもなら、こんなことをすれば「子供扱いするな」と、それこそ牙を剥かれるから、今がチャンスといえばチャンスだろう。
今は気持ちよさそうにじっとしているが、戻ったらまたああなんだろうなー、とシンタローはため息をついた。
「おやすみ。」
掛け布団をひっぱりあげてやって、シンタローはキンタローの部屋を後にした。
―――その夜、昔の夢を見た。
今より、ずっと幼くて何もできない自分は一人部屋の隅で、胸を押さえて俯いていた。
前に置かれていたのは、古ぼけた赤い首輪。
苦しい。
苦しくてたまらない。
もっと、他にやれることはなかっただろうか。
あの忠実な物言わぬ動物にしてやれることは無かったのだろうか。
何度思い返しても、後悔ばかりが浮かんでくる。
彼はいつでも自分の後をついてきて、振り返れば嬉しそうに自分を見上げていた。
全身で自分を大事だと、大好きだと、惜しみなくそう告げてくれる彼の存在に救われたことも多かった。
総帥の息子であることも、黒い髪であることなんか、彼にとってはまったく関係ないことで、ただのシンタローをそのまま受け入れてくれた。
唯一遺されたすり切れた首輪と、それにこびりついた毛、そして記憶だけが彼がここにいた証で、シンタローはそれを握りしめた。
彼がいなくなって、犬小屋や食器が片づけられた時、咄嗟にこれだけはしまい込んだのだ。
時々、誰もいない時、それを取り出してはそっと撫でる。
悲しんでいるところを、他の誰にも見られたくなかったからだ。
父や叔父や、従兄弟の誰にも邪魔されたくなかった。
おまえは精一杯、あの犬のためにやってやったんだ。
あの子はきっと幸せだったよ。
そんな言葉は聞きたくなかった。
ただ、自分は一人で彼のために泣きたかったのだ――――――。
ぺろ、と熱いしめった感触に、シンタローは目を覚ました。
暗闇にぼうっと金色の頭が浮かび上がる。
「キンタロー……。」
いつの間にか部屋を抜け出して、自分の後を追ってきたらしい。
心細かったのか、それとも。
シンタローは自分が寝ながら泣いていたことに気が付いて苦笑した。
もうずっとずっと前のことなのに、先ほどの夢はやけに生々しかった。
あの島以来、初めて抱いた犬の体温や手触りにに触発されてしまったからだろうか。
瞬きすると、また涙があふれてきて頬を伝い始める。
すると、キンタローが顔を近づけてきて、涙を舐め取った。
くすぐったいが、懐かしい感じがしてシンタローは手を伸ばして、その柔らかい金髪をまた撫でた。
あの犬も、シンタローが一人でこっそり泣いていると、どこからかすっとんできて、わけもわからないだろうに、シンタローの顔を一生懸命舐めてきた。
慰めている、なんて犬の思考の中にはなかっただろう。
どちらかというと、怪我をしているところを舐めて治す治療のような気持ちだったのではないだろうか。
「もう、大丈夫だから。」
そう言うと、キンタローはのそのそとベッドから降りようとした。
ここにいては怒られると思ったらしい。
シンタローは、そんな彼の腕を掴んでひきとめると、布団をめくって半分場所を空けてやる。
「今日だけだぞ。」
そう言って腕を強くひっぱると、キンタローは嬉々として横に潜り込んできた。
シンタローの横にぴたっとはりついて、丸くなる。
紳士らしからぬ寝姿だな、と思っていると、もう片側の腕に子犬がのっかってきた。
満足そうにぷーっ、と鼻で息をつくと、そのままシンタローの腕を枕にして寝てしまった。
片方に大型犬、もう片方に子犬。
そう呟きながらも、シンタローの顔はしばらくぶりに穏やかな表情を浮かべていたのだった。
翌日になってもトットリは見つからなかった。
外に逃げ出すことはまず不可能だから、敷地内に潜んでいるのは確かなのだが、さすが忍者。なんだかんだいっても、身を隠すことは得意らしい。
「入学した時のレベルでとどまっといてくれたら、よろしかったんやけどなぁ。」
報告に来たアラシヤマがため息をついたが、巨大昆虫着ぐるみで実戦に行かれては困る。
シンタローはおおげさにため息をついて、ぽつりと「つかえねぇ」と呟いた。
「し、シンタローはんひどいどす! わては昨日寝ないで忍者はん探したんどすえ!」
「あー、はいはい。ご苦労さん。じゃ、このまま引き続きトットリの探索な。」
しゃーないなー、とアラシヤマは顔をしかめた。
「それにしても、いったい、何しはりましたん? わてが探しだせへんくらい、必死に隠れなあかんなんて。」
真面目な顔になって聞かれても、この男に今の状況を教える気などさらさらない。
シンタローは無視したが、アラシヤマはいつもと違い、簡単には引っ込みそうになかった。
手を身体の前で組み、目をわずかに細めて自分を睨みつけているキンタローの方を向いた。
「キンタロー『補佐』、あんさんやったら説明してくれはるんやろか?」
ちっ、何か気づいてやがる。
シンタローは舌打ちしたいのを堪えた。
だから、こいつは嫌なんだ。
本物の犬より鼻が利きすぎる。
シンタローは、素知らぬふりをしてキンタローを見た。
「誰が来てもじっとしていろ」と、朝からしつこく言って聞かせたおかげか、アラシヤマの呼びかけを無視し、まっすぐ前をむいている。
顔は不機嫌そのものだが、これはいつものことだ。
とにかく、何があってもこの男に今のキンタローのことを知られるのはまずい。
何が気に入らないのか知らないが、他の四人は対決したことなどすっかり水に流したのだが、アラシヤマだけは妙にキンタローに絡む。
シンタローが見かねて止めても、「なんやわてが、このひとにいけずしてるみたいな言い方しはりますなぁ」と、さも心外と言った顔をするのだ。
さらには「せやなぁ、補佐ゆうても、子供みたいに純粋なおひとやから、いろいろデリケートにできてはんのんやろなぁ。もっとやさしゅうゆうてあげますわ」と、どう聞いてもキンタローを、怒らせるような言葉ばかり選ぶのだ。
こんな男に、キンタローの精神が『わんこ』になったと知られたら、今はともかく後々なにをするか分からない。
「いいから、さっさと行け! 休みとりあげるぞ!」
「へぇ、働いとった方が、シンタローはんの顔が見られるから、うれしいどすわ。」
「気色悪ぃことぬかすなっ! 俺はこれ以上一秒だっておまえの顔なんか見たくねぇっ。」
「シンタローはん、赤うなってるとこほんまかわいらしいどすなぁ……えらい、焦りはって。」
何を言ってもしれっとして返されて、シンタローは焦りを感じ始めた。
くそー、やっぱりこんなヤツに頼んだのが間違いだった。
誰か助けてくれ。
その声が天に届いたのかどうかは知らないが、卓上の電話に総帥室への来訪を知らせるランプが点灯した。
「シンタロー、オラだ。入るべ。」
入ってきたミヤギは、同僚の顔を見てややげんなりした表情になった。
「まーた、オメ、シンタローにちょっかい出しとるんだべか。オラは今から『総帥』に仕事の報告さあるから、またにしてくれ。」
「人聞きの悪いことゆわんといてや、わては今シンタローはんと大事な話を……そうや、シンタローはん、ミヤギはんやったら、トットリはんのおりそうな場所を知っとるんやないんどすか?」
アラシヤマにそう言われて、シンタローはミヤギに尋ねた。
「今、トットリを探してるんだが、あいつがいそうな場所とか知らねぇか?」
しかし、期待に反してミヤギの答えはあっさりしたものだった。
「んなの知らねぇべ。」
そりゃ、そうだよなぁ、とシンタローがため息をつくと、ミヤギは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたべ、んな、がっかりして。」
シンタローの代わりにアラシヤマがその理由を答えた。
「シンタローはんが、昨日からトットリはんを探してはるんどすわ。全然見つからへんから、ミヤギはんやったらトットリはんのことに詳しそうやと期待したんどすが………ふっ、友達友達ゆうても、いそうな場所も知らへんなんて、しょせんそこまでの友情とゆうことどすなぁ。」
くくく、と暗い微笑を浮かべる同僚の顔から目をそらし、ミヤギはシンタローへ向き直る。
「トットリに用があるんだべか?」
「やっぱり、心当たりがあるのか!?」
しかし、ミヤギはあっさりと首を横に振る。
「いんや、知らないべ。」
なんだ、とシンタローががっかりするより早く、ミヤギは言った。
「今、呼べばいいべ。」
こともなげに、そう言われてアラシヤマとシンタローはぽかんとした。
「は?」
「なんやて?」
ミヤギは、すうっと息を吸い込み、空に向かって叫んだ。
「トットリーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
シン、と静まりかえった部屋で、固まった状態の二人と驚いたのか目を見開いた状態のキンタローの耳に、遠くのほうからぱたぱたという足音が聞こえてきた。
……まさかいくらなんでも、と、シンタローが冷や汗を拭おうとする間もなく、部屋の戸が開き、転がるようにして探し求めた人物が飛び込んできた。
「ミヤギくうううん! おかえりなさいだわいや!」
「ただいまだべ。」
「怪我はない? 久しぶりに会えて嬉しいっちゃ!」
「いや、用があるのはオラでなくて、そこの。」
瞳をきらきらさせて、自分にまとわりつく親友の後ろをミヤギが指さす。
つられて振り返ったトットリはそこに、シンタローの引きつった顔を見つけ、蒼白になった。
「し、シシシシシシシシシンタロー!?」
「おお、会いたかったぜぇ、トットリ~。」
「な、なんでここにいるんだっちゃわいやーっ!」
いや、ここ総帥室、とシンタローは思ったが、つっこむことはやめにした。
ミヤギの呼び声をキャッチしてしまうその耳といい、一番避けていたはずのポイントであるここに飛び込んでしまうその単純さといい、キンタローの先日の評価は正しい。
「さあ、落とし前つけてもらおうかぁ~?」
アラシヤマを問答無用で放り出し、ついでにミヤギにも一旦引き取ってもらったシンタローがトットリをしめあげたところによると、予想通り、犬を連れてきたキンタローを騙して薬を飲ませて暗示をかけたらしい。
しかし、術が効いたかどうか確かめるより先にキンタローが目の前で倒れたため、怖くなって逃げ出してしまったのだ。
最後まで聞き終えたシンタローが、トットリに対して、どのような『お仕置き』をしたのかは定かではない。
……とりあえず、数日間は病室から出られなかった。
「あの子犬を譲ってもらえるよう頼まなくてよかったのか、シンタロー。」
たまってしまった仕事をはさんで、キンタローが聞く。
彼は犬になってしまった二日間のことを覚えていない。
空白の時間はトットリがあの日お茶に混ぜて飲ませた薬のせいで、熱を出して朦朧としていたようだ、とグンマと二人して口裏を合わせて納得させた。
子犬は無事にもらわれていって、今は新しい飼い主にも懐いて可愛がられているらしい。
よかったと思う反面、ボールのようにはねていた姿を思い出すと、ちょっと切ない。
「もらっても、遠征ばっかりの俺じゃ、ろくに遊んでもやれないからな。だいたい、おまえもそう思って反対したんだろ。」
すると、キンタローは首を振った。
「違う。おまえ、昔飼っていた犬が死……いなくなった時、一人で泣いてたから。」
シンタローはぎょっとして、ペンを止めて顔をあげた。
従兄弟は書類から目をあげないまま、淡々と言う。
「おまえがあの子犬を手放せなくなって飼ったとして、いつかまたあんな風におまえが泣くのは嫌だと思った。おまえを悲しませるかもしれないと思ったら、遠ざけておきたかったんだ。」
「キンタロー。」
「でも、違うな。」
キンタローは書類をめくり、その青い目を従兄弟に向けた。
「おまえは、あの犬を飼って幸せだった。嬉しそうだった。だから、その分だけ辛くても、それは不幸じゃない。」
キンタローは何かを思いだしたのか、めずらしく微笑んだ。
「犬はいいな。ふわふわして温かくて、何も特別なことができない犬でも、その愛情で飼い主を幸せにしてくれる。だから、もし、おまえがこれから犬を飼いたいのなら、俺は協力する。」
シンタローは、目の前の綺麗に櫛が入った金色の髪を眺めた。
それの柔らかさや心地よさを知っている。
「……今はいいや。コタローの目が覚めたら考えるけど。」
「そうか。少し残念だ。」
シンタローは知らずキンタローの方へ伸ばしかけていた手の行く先を変えて、机の端へと向けた。
そこには、少し前、秘書がおいていった焼き菓子がつまれている。
そのうちの一つを手にとって、従兄弟の口元へと運んだ。
「ま、少しは食えよ。」
キンタローは怪訝な顔つきになったが、確かに仕事に没頭していて朝から何も食べていない。
けれど、これは―――。
「……後で食べる。」
「いいから――誰も見てねぇから、おとなしく俺に食べさせてもらえ。」
そう言われ、キンタローは不承不承といった様子で、口を開けたのだった。
2005/09/17
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『彼』はいつもドアを開けたすぐのところで、自分を待っていた。
きらきらした黒い瞳は、どんなに『彼』が自分に会いたかったかを、言葉よりも雄弁に語り、さらにちぎれんばかりに振る尻尾がそれを裏付けた。
それは、『彼』がその生涯を終えるまで、続けられたのだった。
会議室から総帥室へと続く廊下を歩きながら、シンタローはこっそりとこった肩をさすった。
総帥に就任してから、あちこち世界を飛び回る日々を過ごしているからか、たまにこうやって本部に帰って会議や書類にサインをする日々が続くと、身体がなまっていくような気分になる。
しかも、今回は遠征が長引いてしまったため、本部での仕事がたまりすぎて、ろくろく散歩にも行けない状態になってしまっていたのだ。
それも、自分が決めたことなのだから、仕方がないとは彼も想っていたが、こうやって部屋から部屋へ移動するわずかな時間だけが、息抜きの時間というのはさすがにもの悲しいと思うシンタローだった。
窓の外を見れば、雲一つ無く晴れ渡った空が彼方まで続いている。
こんな日は、机の前から離れて外を駆け回りたくなる。
そういえば、昔飼っていた犬も、こんな日は上機嫌で遊びに行こう、と朝早くから自分のベッドの周りをぐるぐる回っていたものだった。
しばしノスタルジーに浸る総帥を、補佐官の無遠慮な言葉が現実に引き戻す。
「シンタロー、何を立ち止まっている。会議が早く終わったからといっても、休憩時間はとれないぞ。遠征の間にたまったデスクワークがあるんだからな。」
シンタローは斜め後ろに立つ、従兄弟を振り返る。
空と同じ色のその目は、怠惰は許さん、とばかりに自分をじっと睨んでいた。
本当に、何がどうしてこんな堅物になっちまったんだか、とシンタローはため息をついて頷いた。
「あー、はいはい、分かってるから、そうカリカリすんな……。」
言葉の途中で、本当に自分の足下からかりかりという音が聞こえてきて、シンタローは下を向き顔をほころばせた。
茶色い子犬が、シンタローのブーツにじゃれついて、その小さな爪が音を立てているのだ。
「うっわー、ちっせー。どうしたんだ、迷子か?」
ひょいっと、抱き上げると、その小さい子犬は細いしっぽをぴこぴこふって、「わん」と、元気よく答えた。
どうやら、和犬の子犬らしく焼きたてのトーストとよく似た色の、小さな耳をいっちょまえにぴん、と立っている。
「かっわいいなあ、なに、おまえ、どこから来たの?」
「犬は返事ができない。シンタロー。」
そのあまりの愛らしさにでれでれと相好を崩しまくっているシンタローに、冷静な副官の指摘が水をかけた。
「んなこと、わかってるっつーの! だいたい、こんなかわいい子犬見て、おまえはそんなことしか言えんのか。」
「かわいいのはおまえだろ。」
しれっとした顔でつっこむ副官に、周囲にいた団員達は「キンタローさまナイス!」と心の中で盛大に拍手した。
「なにアホなこと言ってんだ! あっ、ごめんごめん、おどかしちまったなー。」
ごめんな、と子犬に顔を寄せると、小さな桃色の舌がぺろぺろとその唇を舐める。
途端、周囲の団員達がぎりっと歯ぎしりをした。
『ちくしょーっ! ここにビデオがあれば!』
『それより、今、あの犬とチェンジしたい!』
と、団員達のどろどろの欲望がうずまくその空間に、息せき切って駆けつけてきた人物がいる。
元総帥の側近の一人で、現総帥の信頼も厚いと言われている忍者トットリだった。
きょろきょろとしながら走っていた彼は、シンタローの腕にいる子犬を見てほっとした顔をした。
「あーっ! いたいた。ごめんだっちゃわいや、シンタロー。」
「おお、これ、おまえの犬か? トットリ。」
「いや、ちょっとこの前の任務先で拾ったんだっちゃ。もう、もらい手は見つけてるけど、ミヤギくんにも見せてあげたくって、待ってるんだわいや。」
ミヤギが所属している隊が戻るのは、明日だ。
「そっかー、すぐにどこかに行っちゃうのか。」
シンタローは名残惜しげに、手の中の子犬を見る。
「なぁ、コイツ、もうちょっと預かってちゃダメか? ミヤギが帰るまで一晩でいいから。」
意外なシンタローの申し出に、忍者は目をぱちくりさせた。
「そりゃ、かまわんけんど、僕も報告とかで忙しいので、面倒みてもらえたら助かるっちゃ。」
「やった、サンキュ。」
シンタローの顔がぱっと輝いて、全開の笑顔になると、周囲の団員達は耐えきれず、壁によりかかったり、床にしゃがみ込んだりした。
『たまんないっす! 総帥!』
シンタローに代替わりしてから、ガンマ団の養成学校では「鼻血を出した時の速やかな応急処置方法」が最初の必須授業になり、そして現在団員の中で、一番実用性が高い授業として大変評価が高い。
『総帥の後ろに立っていて今のスペシャルエクセレントプリティーキュアキュアな笑顔を見ていないキンタロー様はともかく、なんで正面に立って攻撃をまともにくらったトットリさんは平然としているんだ!?』
『さすが、元総帥の側近はひと味もふたあじも違うぜ!』
一部の団員の尊敬を知らずに集めているとも知らず、顔について非情に偏った趣味の持ち主のトットリは、手にしていた首輪などをシンタローに渡しながら、餌や、しつけについて説明しようとしたが、邪魔をする人間がいた。
例によって例のごとく、有能な補佐官である。
「そんなことは許さないぞ。シンタロー。どれだけ仕事がたまっていると思うんだ。もう一度言う、おまえしかできない仕事が膨大な量たまっているんだ。犬と遊んでいる暇など無い!」
「ちょっと世話するだけじゃねぇか、たった一日のことだし、トットリもこんなんじゃ、ろくに面倒みてやられねぇだろ。」
シンタローはごねたがキンタローはそれを無視して、おまえが悪いと言わんばかりにトットリに攻撃を移した。
「だいたい、もらい手が決まっているんだったら、さっさと連れていけばよかっただろう。ミヤギに見せたいという話だが、おまえが彼の飼い犬みたいなものだから充分だろう。」
「わっ! 馬鹿! 禁句を……。」
シンタローが慌てて止めに入った時には、既に遅く、トットリの周りの空気がびしりと凍り付く。
「誰がいぬだっちゃ……。」
童顔をひきつらせキンタローをぎっと睨みつけるものの、いまいち迫力にかける。
当然ながら、キンタローは顔色一つ変えなかった。
「おまえ。」
容赦ない一言に、トットリの大きな目に涙がぶわっと盛り上がる。
やべ、とシンタローがフォローしようと口を開く前に、滝のような涙をあふれさせた。
「うっわああああああああああああああああああああああん!!」
二十歳もとっくに超えた男には思えないほどの、泣きっぷりを披露して、トットリは元来た方向へと、全速力で走り去ったのだった。
「お、おい! トットリ。」
しかし、童顔でもさすが忍者。
総帥の制止の声も聞かず、彼の姿は見る見る間に遠くなって消えてしまった。
さすがにかわいそうになったシンタローが、キンタローをじろっと見る。
「キンタロー! 謝ってこい!」
「何故だ。俺は間違ったことを言っていない。」
「いいから! とにかく、トットリにフォローいれてこい! さもねぇと、おやつもご飯も二度と作ってやらん。」
「結構だ。」
なかなかに強情なキンタローに、シンタローは破れかぶれで言ってみた。
「そうするまで、俺の部屋に立ち入り禁止。」
すると、キンタローはぴくんと肩を上げた。
「………わかった。行って来る。トットリの自室はどこだ?」
あまりの素直さにびっくりしているシンタローをよそに、キンタローは部下にトットリの部屋番号を聞いて、すたすたと歩いて行こうとした。
しかし、数歩歩いたところで、ぴたっと止まってシンタローのところに戻ってくる。
「犬。」
手を差し出され、我に返ったシンタローが渋々と子犬を渡すと、キンタローは無言のまま踵を返し、今度こそ寮のあるセクションへと向かったのだった。
「遅い。」
シンタローは書類にサインをしながら、いらいらと卓上の時計の数字を見た。
キンタローを送り出してから、もう既に一時間近く経過している。
トットリの部屋から、この総帥室まで、どれだけとろとろ歩いても三十分はかからないだろう。
まさか喧嘩になったとしても、キンタローとトットリじゃ勝負にもならないし、と部下には少々酷なことを思いつつ、シンタローは受話器を取って、トットリの部屋のナンバーを押したが、呼び出し音が鳴り響くだけで、誰も出る様子がない。
「あー、もう。」
シンタローは渋々腰を上げて、トットリの部屋へ向かう。
仮に何かあったとして、場を納められるのは上司である自分しかいないのだから、仕方がない。
急いだおかげで、十五分ほどで部屋へついて、呼び出しボタンを押したが、まったく反応が無い。
よそで話しているだけならいいが、万が一ということもある。
シンタローは中に入ってみることにした。
「おい、俺だ。」
部屋はオートロック式なので、シンタローは部屋のロックの解除を頼もうと、秘書室に電話をしたが、出たのは何故かもう一人の従兄弟だった。
「あれー、シンちゃん。なんで、そんなとこにいるの?」
「おまえこそ、なんで秘書室にいるんだよ。」
今の時間なら研究室に詰めてるだろ、とシンタローがいうと、グンマはあっけらかんとして答えた。
「だって、ここだったら、美味しいお菓子があるんだもーん。」
確かに、秘書室なら菓子は欠かさないだろう。
総帥の休憩用のお茶請けを用意していることが常だったからだ。
「……それ、俺のじゃないか?」
「いいじゃん、シンちゃんのことだから、食べてる暇がないって手をつけてないんでしょ? それより、何の用? これって寮からの電話じゃん。」
言われて、肝心の用件を思い出したシンタローは、トットリの部屋のドアロックを解除するように頼んだ。
しかし、グンマは、あー、ソレだめとにべもない。
「一応、プライバシーなんかの問題もあるから、中央室からのロックのコントロールは、一斉って決まってるんだ。個別に開くときには、解除プログラムを個別に書き込んだカードキーが必要なの。」
迷ったものの、総帥権限ですべてのドアを開かせるのはさすがに気が進まず、シンタローはグンマにそれを持ってくるよう命令した。
「えー、やだ。他の人に持っていってもらっちゃだめ?」
案の定、従兄弟はたいそう面倒くさそうな声をあげた。
「いいから、おまえがもってこい。中にキンタローがいるみたいなんだが、返事が無いんだ。」
「キンちゃんだったら、眼魔砲ぶっ放して出てくるよ。」
「いちいち、施設を壊されてたまるかーっ!」
シンタローが怒鳴りつけると、さすがのグンマもわかったよ、としぶしぶ承知した。
「遅い。」
せっかくカードキーを持ってきたあげたにも関わらず、いきなり文句を言われてグンマはむっとした。
「ひどいよ、シンちゃん。遅いはないでしょう。」
「秘書室からここまでせいぜい十分だろうが、何をちんたら歩いてきてやがんだ。」
いいから、さっさと開けろ、と、命令されてグンマは言い返そうかと迷ったが、シンタローの苛つき様に、我慢してカードをリーダーに差し込んだ。
ピーッという、解除の合図の電子音が鳴り終わらないうちに、シンタローは中に入り込む。
「キンタロー!」
シンタローのせっぱ詰まった声に、肩越しにのぞき込んだグンマも驚きの声を上げる。
「キンちゃん!? どうしたの!?」
部屋に入ってすぐのところで、二人の従兄弟が床に突っ伏していたのだった。
その周りを茶色の子犬が、所在なげにうろうろとしている。
きゅんきゅん鳴いている犬をシンタローは抱き上げて、背後のグンマに渡してから、キンタローを抱き起こして、呼びかけた。
「キンタロー、おい、目さませ。」
手の甲でぺちぺちと軽く叩いて声をかけると、彼はうっすらと目を開けた。
しかし、その目はぼうっとしていて、焦点が定まっていない。
「キンタロー?」
心配になったシンタローが、もう一度名前を呼ぶと、その目がやっとシンタローの方へ向いた。
とりたてて怪我をしている様子でもないが、どこかおかしい。
「おい、キンタロー、何があった?」
キンタローはやはり無言のまま、シンタローの顔を見るのみだ。
とうとう、シンタローは声を荒げた。
もともと、気が長い方ではないのだ。
「いいから! なんとか言えよ!」
すると、キンタローは『なんとか』を口にした。
「わん。」
と。
「トットリー!! 今すぐ出てこい! 総帥命令だっつってんだろコラ!!」
突然スピーカーから流れたシンタロー総帥の怒鳴り声に、団員達は思わず顔を見合わせた。
「何があったんだ?」
「さあ。」
「緊急の任務でもあるんじゃないのか?」
「いや、報告書に不備があったとか……。」
どちらにしても、自分たちには関係あるまい。
一般団員には知らされないようなレベルの話に決まっている。
全館放送を使って、総帥自らが一人を名指しして呼びつけるなど、めったにあるものじゃない。
これはよほどのことがあったと考えるべきだろう。
――そう、実際に『よほど』クラスのことだったのである。
むしろ『とんでもない』と言った方がよいかもしれない。
なにしろ、ガンマ団総帥の従兄弟にして、補佐官、さらにガンマ団一のブレーンとしての呼び声高い彼が、あろうごこか『犬』になってしまったのだから。
「たく、あの馬鹿! とんでもねぇことしやがって!!」
さんざん、マイクに向かって怒鳴り散らしたシンタローは、トットリの投降をあきらめ、スピーカーの電源を落とした。
「たぶん催眠術かなんかだろうけど、かけた本人しか解けないだろうし……。」
ねぇ、とグンマが話しかけても、キンタローはまばたき一つしない。
ひたすらじっと気をつけの姿勢のままだ。
そうしていると、普段と変わらないようにも見えるが、話しかけても殆ど無反応で、口をきいたのも、先ほどの『一鳴き』だけ。
「しょーがねぇ、誰かに言ってトットリを探させるから、それまでそいつの面倒見てろ。」 そう言って、さっさと部屋を出ていこうとするシンタローにグンマが抗議の声をあげる。
「ええぇ!? ずるいよーっ!」
「うっせぇ! 俺は仕事があるんだよ!」
「ボクだって研究あるもんっ!」
「テメーの研究なんて、どーせ、あひるのはりぼてとか象のバイクとかそんなもんだろーがよっ!」
「ひっどーいっ!」
ぎゃあぎゃあと、ひとしきり口論した後、結局グンマが折れた。
確かに基地にいる間の総帥の忙しさはよく分かっているし、そのうえ有能な補佐官がこんな状態なのである。
かといって、他の人間にこのキンタローを見せるわけにもいかない。
「わかったよ。ちゃんと、キンちゃんの世話はするから、シンちゃんは早くトットリを見つけて、キンちゃんをちゃんと治すように言ってよ。」
「ああ、任せとけ。見つけ次第ここに引きずってくる。」
シンタローは頷き、今度こそその部屋を出ようとしたのだが。
「あっ、キンちゃん!」
キンタローがいきなり歩き出し、シンタローの後ろにくっついて部屋を出ようとしたのだ。
「キンタロー、ちょっ、ついてくんなっ。」
しかし、キンタローは構わずぴったりと後ろについてくる。
グンマも一応キンタローの腕を引っ張ってみたが、まったく引き戻せない。
「あー、これは無理だよ、シンちゃん。たぶん、キンちゃん的に『飼主=シンちゃん』って図式ができてんだよ。」
「なんでっ!?」
「上司=飼主なんじゃない。」
「そんな怖いこと言うなーっ! どうにかしろっ!」
……どうもこうもなかった。
シンタローはにわかペットを傍らに従えて、午後からのデスクワークを再開することになったのだった。
愛しの心友からの呼び出しに、嬉々として駆けつけたのはガンマ団ナンバー2だった。
「シンタローはんが、わざわざこのわてを指名やなんて、どないな風の吹き回しどっしゃろ。照れ屋さんどすのに。」
なにしろ、顔を出せば眼魔砲もしくはシカトをくらってきたアラシヤマにとっては、シンタローが自分に会いたいと思ってくれる、とそれだけでもう第七天国にでも登ったような大騒ぎだ。
総帥室に入ってきてからこっち、一人で興奮して騒いでいる彼にインク壺をぶつけたいのを必死で堪えているシンタローだった。
なにしろ、腐っても……腐敗しきってもガンマ団ナンバー2である。
シンタローが今抱えている問題を解決できそうなのは、他の連中が遠征などでいない今、彼しかいなかった。
「……はっ! もしかして、デートのお誘いとか!? ああっ、どないしまひょ! 焦って普段着のままきてもうたわ!」
今から、部屋戻ってよそゆきに着替えて……と、来た道を戻ろうとしたアラシヤマをシンタローはいやいやながら引き留めた。
「……その服で充分だ。俺が必要なのは中身なんだから。」
仕事さえしてくれれば、聖衣を着ようが、着ぐるみを着ようが自分の知ったことではない。
しかし、アラシヤマはなにを勘違いしたのか、顔をぽっと赤らめてすすすっと寄ってきて、机越しに素早くシンタローの手を取った。
「いややわー、シンタローはんったら、大胆。」
ひきつりながらも、協力させるまで多少のオサワリは我慢しているシンタローの耳に、グル…と、重低音のうなり声が聞こえた。
アラシヤマも気づいて、シンタローの傍らに立つ補佐官を、うろんなものを見るような目で見上げる。
いつもアラシヤマを見るたび、剣呑な目つきになる補佐官だったが、本日はいつもにも増してあからさまに敵意を剥き出しにしている。
……なんですのん、いったい。
アラシヤマがそちらに気を取られている隙に、シンタローはなんとか自分の手を彼の手から抜いた。
「うんうん、頼りにしているから、トットリをここに引っ張ってきてくれ。」
そう言った瞬間、アラシヤマが「なんやってーっ!」と叫んだ。
「あんなちびっこ忍者に会いたいやなんてっ! しかも、こともあろうにわてに他の男を捜させるやなんてひどいどす!」
シンタローを押し倒さんばかりの勢いで、詰め寄ってくるアラシヤマの形相は凄まじく、さすがのシンタローもその迫力に押されてしまった。
硬直しているシンタローにぴったりと寄り添いながら、戦士にしては華奢な指先にシンタローの長い髪をくるくる巻き付かせて、なおもえんえんとかき口説いた。
「うんもう、ほんとにいけずなお人やわぁ。そんなとこがまた、わてをあんさんから離れさせてくれへんのんやけど……。」
…………我慢だ。我慢だ俺! こいつを今眼魔砲で吹き飛ばしたら、トットリを探してこられるヤツがいなくなる。キンタローを元に戻すためだ。ガンバレ、耐えるんだ……ファイト、俺。
シンタローは、ファイトファイトと小声で念仏のように繰り返しながら、キンタローを見て、さらにまた凍り付いた。
青い目に、怒りを滲ませ、ウウ……と、歯をむき出してうなり声をあげている。
ヤバイ!
シンタローは、アラシヤマをとっさに蹴倒し、今、まさに飛びかからんとしていたキンタローにしがみついた。
「……どないしなはったん、そん人。」
蹴られた痛みさえ忘れたかのように、アラシヤマがぽかんとしてキンタローを見上げる。
目が合うとさらに怒りがヒートアップしたのか、キンタローはがうっと吠えた。
それを必死で押さえつけながら、シンタローはアラシヤマに命令した。
「仕事が終わったのに、おまえがぐずぐずしているから、キンタローは怒ってるんだ! 早く行けよ。俺はこいつにおまえを噛ませたくないんだよ!」
「シンタローはん……そんなにわてのことを……おおきにっ! わて、がんばって忍者はん探しますわ! 待ってておくれやす!」
感動したアラシヤマは、頬を染めてらんらんとスキップしながら、総帥室を出ていった。
不満そうに喉の奥でうなり声をあげている従兄弟の背中を撫でて、シンタローはなだめた。
「いいから、我慢しろ、キンタロー。あんなヤツを噛むと変な病気がうつるぞ。そうなったら、俺は非情に困る。」
「がう……。」
よしよしとなだめらて、なんとか落ち着いたキンタローだったが、その目には「いつかアイツを噛んでやる」という決意が漲っていたことは言うまでもない。
その後は、特にキンタローは騒ぎを起こさず、番犬よろしくシンタローの横で静かにしていた。
何人かが報告やら、書類提出やらに総帥室を訪れたが、誰一人補佐官の異常に気づく者がいなかったのだから、普段とそう変わりはないのだろう。
が、シンタローはかなり居心地の悪い想いをしていた。
普段と違ってあれやこれや口うるさくないことは結構だが、無言のままじーっと自分の手元を見るのはやめてほしい。
しかも、一瞬ペンを置いたり、書類を伏せたりなんかすると、背後から妙に明るい空気が流れてくる。
無視をして、仕事を再開すると、しゅーんとしている気配が伝わってくる。
……そういえば昔飼っていた犬がそうだった、とシンタローは思い出した。
宿題をや遊び、他のことに夢中になっている時は、こういう怨めしげな視線で自分の行動を逐一見張っていたものだった。
鬱陶しくなってわざと背中を向けると、この世の終わりのような表情をするものだから、幼かった自分はよく根負けして、つい一緒に遊んでしまったりしたものだが、今は大人。
負けるもんか。
シンタローは身体中の神経を、目の前の書類の山へ集中させた。
この間、調停した国のその後の報告だ。
一度関わった件が、自分の手を離れたその後でよろしくない方向へ進もうとすることが無いとは言い切れない。
最後まで見届けることは、関わった者の義務だ。
シンタローは、それを取り上げ、目を通し始めた。
その日は遅くまで残ったのだが、シンタロー一人ではあの書類をすべてすませることはやはり大変で、残りは持ち帰りとなってしまった。
帰る早々、自室に引きこもって仕事を再開するシンタローに、夕食をグンマが運んできた。
いつもなら、ここぞとばかりに息子の世話をやきたがる父親が、あいにく不在だったからだ。
一緒に入ってきた子犬が嬉しそうに部屋の中を駆け回り、シンタローの靴にじゃれついたが、グンマが持参したボールを向こうに投げると、それを追いかけていってしまった。
「はい、シンちゃんごはんだよ。片手で食べられるものがいいと思って、サンドウィッチを作ってもらってきたよ。」
「ふーん、めずらしく気が利くな。」
「ひどーい、もうっ! あ、これキンちゃんの。」
シンタローは早速手を伸ばして、卵サンドをとった。
自分のじゃない、とグンマがちゃんとシェフに告げたのか、幸いジャムやらクリームなんかは混入されていなかった。
ほっとして、かぶりつくと特製マヨネーズソースがたいへん美味しい。
芥子がもうちょっとあってもいいかな、などと、シンタローが心の中で批評していると、グンマの困ったような声が聞こえて、シンタローは書類から顔を上げた。
見ると、いっこうに食事に口をつけようとしないキンタローに、グンマが皿をつきつけて食べるようにと促しているところだった。
「キンちゃーん、お腹空いてるでしょう? 食べないと眠れないよー?」
しかし、椅子に背筋を伸ばして腰掛けた姿勢から、キンタローはいっこうに動こうとしない。
シンタローは最後のハムサンドを食べ終えると、そちらの方へ身体ごと向きを変えた。
「サンドウィッチが嫌なんじゃないのか?」
グンマは、そんなことないよ、とふくれた。
「キンちゃん、サンドウィッチ嫌いじゃないし……それに、ヤじゃない? 紳士なキンちゃんにスープを犬食いなんかされたら、高松じゃなくても泣くよ! シンちゃんだって、泣くでしょ!?」
確かに想像するのも嫌な光景だ。
シンタローはじぶんが泣くかどうかはさておき、それが視覚的暴力であることは認めた。
「食べないならほっとくしかないだろ。そこらへんに置いとけば? 腹が減ったら勝手に食べるさ。」
そうかなぁ…とグンマは頑なまでに身動きしないキンタローを心配そうに見て、首を振った。
「だめだよ、キンちゃんはかなり融通きかないもん。それに置きっぱなしにしてちゃ乾いちゃう。」
確かに、と、シンタローも納得したが、本人が食べようとしないものを無理強いすることはできない。
「腹はへってるはずなんだけどなぁ……本当に喰わねぇの? おまえ。」
キンタローは微動だにしない。
シンタローは適当なサンドウィッチを取ると、キンタローの目の前につきつけた。
「ほらほら、うまいぞー。」
「シンちゃんったら、そんな子供みたいな……。」
たしなめようとしたグンマだったが、キンタローがそれにぱくっと食いついたのを見て、言葉を切った。
シンタローはといえば、グンマよりもっとぎょっとした顔で自分の手から食事を摂る従兄弟を見ている。
全部食べ終わると、もっと、と言う顔でシンタローの手を鼻先でつつかれ、二人はやっと正気に戻った。
「……食べたな。」
「……食べたね。」
そういや、シンちゃんが昔飼っていた犬って、絶対シンちゃんがあげた餌しか食べなかったな、とグンマは思いだし、手にしていた皿をシンタローの方へ押し出した。
急におはちが回ってきたシンタローは、焦って首を振った。
「ちょっ……冗談じゃない! なんで、俺が野郎に食べさせてやらなけりゃならねぇんだ!」
「しようがないでしょー、キンちゃん、シンちゃんの手からしか食べそうにないよ。だいたい、キンちゃんがこうなっちゃったのは、シンちゃんがキンちゃんをトットリのところへ行かせたからでしょうが。責任とりなよ、総帥だろ!」
何か違うと思ったが、確かに元はといえばその通りの原因なので、シンタローは渋々もう一つ取って、キンタローの口元へと運んだ。
キンタローは躊躇せず、それに歯を立てると食べ始めた。
ここに父親がいなくてよかった、と二人が同じ事を考えていると、最後まで食べ終わったキンタローが、シンタローの指先についたマヨネーズをぺろっと舐めた。
その微妙な感触に、シンタローは背中がぞくっとして顔が赤くなった。
グンマが隣でぼそりと呟く。
「……ねぇ、本当にキンちゃん演技してるんじゃないよね……?」
俺に聞くな、とシンタローは赤くなった顔を、グンマから見えない方向へと向けたのだった。
約一名にとって羞恥プレイにも等しかった食事の時間が終わり、グンマは皿とカップを持って立ち上がった。
おやすみー、と出ていこうとするグンマに、シンタローは膝の上に乗せていた子犬をどうするのか聞いた。
「その子、シンちゃんに懐いてるし、シンちゃんがみてあげてよ。元々シンちゃんは、そっちの子犬の世話したかったんでしょう。昼間だけならともかく、夜まで面倒見られないよ。ペットシーツも置いておくからお願い。」
「しょーがねぇなぁ。」
口では文句を言いつつも、内心嬉しくてたまらなかったので、シンタローは二つ返事で承知した。
グンマが出ていった後、始めは仕事をしていたものの、子犬が遊んでほしそうに尻尾をふっているので、ついつい相手をしてしまった。
ゴムボールをほうってやると、弾むそれと同じように飛び跳ねる。
その様がまるでもう一つのボールのようで、シンタローの頬がついゆるむ。
このまま手元にひきとりたい、と思ったが、すぐに無理だと諦める。
なにしろ、一年の半分近くを遠征やなにやらで自宅を留守にしているのだ。
他の人間に世話をしてもらっていては、飼っているとはいえないだろう。
病気の時も側にいてやれない。
ふと、遠い記憶が蘇り胸がちくっとする。
シンタローは、それをまた心の奥底にしまい直し、子犬が持ってきたボールを再び投げてやった。
その後は結局、仕事にならず、子犬も疲れてきたのが分かったのでシンタローは寝ることにした。
子犬は人に渡す前にと、トットリが洗ってあったらしくその必要は無さそうだったが、キンタローはそういうわけにはいかず、自分が入るついでに洗ってやった。
頭からお湯をかぶせると、ぶるぶると身震いをして怨めしそうな目で髪の間からこっちを見ていたが、特に大きな抵抗はしなかったので、無事に洗い終えた。
パジャマを着せた彼を、彼自身の部屋へ連れていってベッドに放り込む。
置いていかれそうになって、今度ははっきりと目に抗議の色を浮かべるキンタローに、シンタローは「ダメだ」ときつく言い聞かせる。
きゅーん、と鳴いたりはしなかったが、尻尾と耳がしょんぼり下がっているイリュージョンが何故か見えてしまい、シンタローは焦ったが無視をした。
いつ、元に戻るかわからないのに、これ以上妙な癖をつけたらグンマに何を言われるかわかりはしない。
「ほら、さっさと寝ろ。また、明日な。」
なんとなく思いついて頭を撫でてやると、思ったより柔らかい髪だった。
結構気持ちいいかも、と、シンタローは少し和んだ。
いつもなら、こんなことをすれば「子供扱いするな」と、それこそ牙を剥かれるから、今がチャンスといえばチャンスだろう。
今は気持ちよさそうにじっとしているが、戻ったらまたああなんだろうなー、とシンタローはため息をついた。
「おやすみ。」
掛け布団をひっぱりあげてやって、シンタローはキンタローの部屋を後にした。
―――その夜、昔の夢を見た。
今より、ずっと幼くて何もできない自分は一人部屋の隅で、胸を押さえて俯いていた。
前に置かれていたのは、古ぼけた赤い首輪。
苦しい。
苦しくてたまらない。
もっと、他にやれることはなかっただろうか。
あの忠実な物言わぬ動物にしてやれることは無かったのだろうか。
何度思い返しても、後悔ばかりが浮かんでくる。
彼はいつでも自分の後をついてきて、振り返れば嬉しそうに自分を見上げていた。
全身で自分を大事だと、大好きだと、惜しみなくそう告げてくれる彼の存在に救われたことも多かった。
総帥の息子であることも、黒い髪であることなんか、彼にとってはまったく関係ないことで、ただのシンタローをそのまま受け入れてくれた。
唯一遺されたすり切れた首輪と、それにこびりついた毛、そして記憶だけが彼がここにいた証で、シンタローはそれを握りしめた。
彼がいなくなって、犬小屋や食器が片づけられた時、咄嗟にこれだけはしまい込んだのだ。
時々、誰もいない時、それを取り出してはそっと撫でる。
悲しんでいるところを、他の誰にも見られたくなかったからだ。
父や叔父や、従兄弟の誰にも邪魔されたくなかった。
おまえは精一杯、あの犬のためにやってやったんだ。
あの子はきっと幸せだったよ。
そんな言葉は聞きたくなかった。
ただ、自分は一人で彼のために泣きたかったのだ――――――。
ぺろ、と熱いしめった感触に、シンタローは目を覚ました。
暗闇にぼうっと金色の頭が浮かび上がる。
「キンタロー……。」
いつの間にか部屋を抜け出して、自分の後を追ってきたらしい。
心細かったのか、それとも。
シンタローは自分が寝ながら泣いていたことに気が付いて苦笑した。
もうずっとずっと前のことなのに、先ほどの夢はやけに生々しかった。
あの島以来、初めて抱いた犬の体温や手触りにに触発されてしまったからだろうか。
瞬きすると、また涙があふれてきて頬を伝い始める。
すると、キンタローが顔を近づけてきて、涙を舐め取った。
くすぐったいが、懐かしい感じがしてシンタローは手を伸ばして、その柔らかい金髪をまた撫でた。
あの犬も、シンタローが一人でこっそり泣いていると、どこからかすっとんできて、わけもわからないだろうに、シンタローの顔を一生懸命舐めてきた。
慰めている、なんて犬の思考の中にはなかっただろう。
どちらかというと、怪我をしているところを舐めて治す治療のような気持ちだったのではないだろうか。
「もう、大丈夫だから。」
そう言うと、キンタローはのそのそとベッドから降りようとした。
ここにいては怒られると思ったらしい。
シンタローは、そんな彼の腕を掴んでひきとめると、布団をめくって半分場所を空けてやる。
「今日だけだぞ。」
そう言って腕を強くひっぱると、キンタローは嬉々として横に潜り込んできた。
シンタローの横にぴたっとはりついて、丸くなる。
紳士らしからぬ寝姿だな、と思っていると、もう片側の腕に子犬がのっかってきた。
満足そうにぷーっ、と鼻で息をつくと、そのままシンタローの腕を枕にして寝てしまった。
片方に大型犬、もう片方に子犬。
そう呟きながらも、シンタローの顔はしばらくぶりに穏やかな表情を浮かべていたのだった。
翌日になってもトットリは見つからなかった。
外に逃げ出すことはまず不可能だから、敷地内に潜んでいるのは確かなのだが、さすが忍者。なんだかんだいっても、身を隠すことは得意らしい。
「入学した時のレベルでとどまっといてくれたら、よろしかったんやけどなぁ。」
報告に来たアラシヤマがため息をついたが、巨大昆虫着ぐるみで実戦に行かれては困る。
シンタローはおおげさにため息をついて、ぽつりと「つかえねぇ」と呟いた。
「し、シンタローはんひどいどす! わては昨日寝ないで忍者はん探したんどすえ!」
「あー、はいはい。ご苦労さん。じゃ、このまま引き続きトットリの探索な。」
しゃーないなー、とアラシヤマは顔をしかめた。
「それにしても、いったい、何しはりましたん? わてが探しだせへんくらい、必死に隠れなあかんなんて。」
真面目な顔になって聞かれても、この男に今の状況を教える気などさらさらない。
シンタローは無視したが、アラシヤマはいつもと違い、簡単には引っ込みそうになかった。
手を身体の前で組み、目をわずかに細めて自分を睨みつけているキンタローの方を向いた。
「キンタロー『補佐』、あんさんやったら説明してくれはるんやろか?」
ちっ、何か気づいてやがる。
シンタローは舌打ちしたいのを堪えた。
だから、こいつは嫌なんだ。
本物の犬より鼻が利きすぎる。
シンタローは、素知らぬふりをしてキンタローを見た。
「誰が来てもじっとしていろ」と、朝からしつこく言って聞かせたおかげか、アラシヤマの呼びかけを無視し、まっすぐ前をむいている。
顔は不機嫌そのものだが、これはいつものことだ。
とにかく、何があってもこの男に今のキンタローのことを知られるのはまずい。
何が気に入らないのか知らないが、他の四人は対決したことなどすっかり水に流したのだが、アラシヤマだけは妙にキンタローに絡む。
シンタローが見かねて止めても、「なんやわてが、このひとにいけずしてるみたいな言い方しはりますなぁ」と、さも心外と言った顔をするのだ。
さらには「せやなぁ、補佐ゆうても、子供みたいに純粋なおひとやから、いろいろデリケートにできてはんのんやろなぁ。もっとやさしゅうゆうてあげますわ」と、どう聞いてもキンタローを、怒らせるような言葉ばかり選ぶのだ。
こんな男に、キンタローの精神が『わんこ』になったと知られたら、今はともかく後々なにをするか分からない。
「いいから、さっさと行け! 休みとりあげるぞ!」
「へぇ、働いとった方が、シンタローはんの顔が見られるから、うれしいどすわ。」
「気色悪ぃことぬかすなっ! 俺はこれ以上一秒だっておまえの顔なんか見たくねぇっ。」
「シンタローはん、赤うなってるとこほんまかわいらしいどすなぁ……えらい、焦りはって。」
何を言ってもしれっとして返されて、シンタローは焦りを感じ始めた。
くそー、やっぱりこんなヤツに頼んだのが間違いだった。
誰か助けてくれ。
その声が天に届いたのかどうかは知らないが、卓上の電話に総帥室への来訪を知らせるランプが点灯した。
「シンタロー、オラだ。入るべ。」
入ってきたミヤギは、同僚の顔を見てややげんなりした表情になった。
「まーた、オメ、シンタローにちょっかい出しとるんだべか。オラは今から『総帥』に仕事の報告さあるから、またにしてくれ。」
「人聞きの悪いことゆわんといてや、わては今シンタローはんと大事な話を……そうや、シンタローはん、ミヤギはんやったら、トットリはんのおりそうな場所を知っとるんやないんどすか?」
アラシヤマにそう言われて、シンタローはミヤギに尋ねた。
「今、トットリを探してるんだが、あいつがいそうな場所とか知らねぇか?」
しかし、期待に反してミヤギの答えはあっさりしたものだった。
「んなの知らねぇべ。」
そりゃ、そうだよなぁ、とシンタローがため息をつくと、ミヤギは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたべ、んな、がっかりして。」
シンタローの代わりにアラシヤマがその理由を答えた。
「シンタローはんが、昨日からトットリはんを探してはるんどすわ。全然見つからへんから、ミヤギはんやったらトットリはんのことに詳しそうやと期待したんどすが………ふっ、友達友達ゆうても、いそうな場所も知らへんなんて、しょせんそこまでの友情とゆうことどすなぁ。」
くくく、と暗い微笑を浮かべる同僚の顔から目をそらし、ミヤギはシンタローへ向き直る。
「トットリに用があるんだべか?」
「やっぱり、心当たりがあるのか!?」
しかし、ミヤギはあっさりと首を横に振る。
「いんや、知らないべ。」
なんだ、とシンタローががっかりするより早く、ミヤギは言った。
「今、呼べばいいべ。」
こともなげに、そう言われてアラシヤマとシンタローはぽかんとした。
「は?」
「なんやて?」
ミヤギは、すうっと息を吸い込み、空に向かって叫んだ。
「トットリーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
シン、と静まりかえった部屋で、固まった状態の二人と驚いたのか目を見開いた状態のキンタローの耳に、遠くのほうからぱたぱたという足音が聞こえてきた。
……まさかいくらなんでも、と、シンタローが冷や汗を拭おうとする間もなく、部屋の戸が開き、転がるようにして探し求めた人物が飛び込んできた。
「ミヤギくうううん! おかえりなさいだわいや!」
「ただいまだべ。」
「怪我はない? 久しぶりに会えて嬉しいっちゃ!」
「いや、用があるのはオラでなくて、そこの。」
瞳をきらきらさせて、自分にまとわりつく親友の後ろをミヤギが指さす。
つられて振り返ったトットリはそこに、シンタローの引きつった顔を見つけ、蒼白になった。
「し、シシシシシシシシシンタロー!?」
「おお、会いたかったぜぇ、トットリ~。」
「な、なんでここにいるんだっちゃわいやーっ!」
いや、ここ総帥室、とシンタローは思ったが、つっこむことはやめにした。
ミヤギの呼び声をキャッチしてしまうその耳といい、一番避けていたはずのポイントであるここに飛び込んでしまうその単純さといい、キンタローの先日の評価は正しい。
「さあ、落とし前つけてもらおうかぁ~?」
アラシヤマを問答無用で放り出し、ついでにミヤギにも一旦引き取ってもらったシンタローがトットリをしめあげたところによると、予想通り、犬を連れてきたキンタローを騙して薬を飲ませて暗示をかけたらしい。
しかし、術が効いたかどうか確かめるより先にキンタローが目の前で倒れたため、怖くなって逃げ出してしまったのだ。
最後まで聞き終えたシンタローが、トットリに対して、どのような『お仕置き』をしたのかは定かではない。
……とりあえず、数日間は病室から出られなかった。
「あの子犬を譲ってもらえるよう頼まなくてよかったのか、シンタロー。」
たまってしまった仕事をはさんで、キンタローが聞く。
彼は犬になってしまった二日間のことを覚えていない。
空白の時間はトットリがあの日お茶に混ぜて飲ませた薬のせいで、熱を出して朦朧としていたようだ、とグンマと二人して口裏を合わせて納得させた。
子犬は無事にもらわれていって、今は新しい飼い主にも懐いて可愛がられているらしい。
よかったと思う反面、ボールのようにはねていた姿を思い出すと、ちょっと切ない。
「もらっても、遠征ばっかりの俺じゃ、ろくに遊んでもやれないからな。だいたい、おまえもそう思って反対したんだろ。」
すると、キンタローは首を振った。
「違う。おまえ、昔飼っていた犬が死……いなくなった時、一人で泣いてたから。」
シンタローはぎょっとして、ペンを止めて顔をあげた。
従兄弟は書類から目をあげないまま、淡々と言う。
「おまえがあの子犬を手放せなくなって飼ったとして、いつかまたあんな風におまえが泣くのは嫌だと思った。おまえを悲しませるかもしれないと思ったら、遠ざけておきたかったんだ。」
「キンタロー。」
「でも、違うな。」
キンタローは書類をめくり、その青い目を従兄弟に向けた。
「おまえは、あの犬を飼って幸せだった。嬉しそうだった。だから、その分だけ辛くても、それは不幸じゃない。」
キンタローは何かを思いだしたのか、めずらしく微笑んだ。
「犬はいいな。ふわふわして温かくて、何も特別なことができない犬でも、その愛情で飼い主を幸せにしてくれる。だから、もし、おまえがこれから犬を飼いたいのなら、俺は協力する。」
シンタローは、目の前の綺麗に櫛が入った金色の髪を眺めた。
それの柔らかさや心地よさを知っている。
「……今はいいや。コタローの目が覚めたら考えるけど。」
「そうか。少し残念だ。」
シンタローは知らずキンタローの方へ伸ばしかけていた手の行く先を変えて、机の端へと向けた。
そこには、少し前、秘書がおいていった焼き菓子がつまれている。
そのうちの一つを手にとって、従兄弟の口元へと運んだ。
「ま、少しは食えよ。」
キンタローは怪訝な顔つきになったが、確かに仕事に没頭していて朝から何も食べていない。
けれど、これは―――。
「……後で食べる。」
「いいから――誰も見てねぇから、おとなしく俺に食べさせてもらえ。」
そう言われ、キンタローは不承不承といった様子で、口を開けたのだった。
2005/09/17
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俺の言うことを聞け!
眩しいひかりが鼻を掠めた。
「――もう、朝か」
重い体を起こし、ベッドの上でシンタローは髪をかき上げた。
寝汗が背に貼り付いて気持ちが悪い。
総帥服を脱いで、プライベートの時間ともなれば長い髪は一つに括るのが常だった。眠る時さえも。
けれど昨日のように一人寝でない日は別だ。
昨夜、髪を梳かれながら解かれたゴムをシンタローはサイドテーブルに発見した。
「ふん」
黒いゴムは同色のシンタローの髪と違い、サイドテーブルの白の上では酷く目立つ。
おまけにそれをあの男の指が抜き取ったかと思うと重い下肢が疼いた。
「ちっ」
舌打ちしながらシンタローは横を見る。
シーツの皺を指でなぞるとそこは冷たい。支度をしに自室へと戻ったのか、と理解してシンタローはこの部屋から朝帰りをした従兄弟の名前を呟いた。
「ったく、キンタローのヤツ……」
どこが明日に差し支えないようにすればいいんだな、だ!差し支えありありじゃねえか。
途中から人のいうこと聞かずにいいようにしやがって。そりゃ、先に誘ったのは俺だから自業自得なんだけれども。
腰が痛ぇ、とぼやきながらシンタローはベッドを下りた。
*
先週半ばに行われた士官学校の入学式とは打って変わって、ガンマ団の入団式は厳粛なものだ。
士官学校では、きらきらとした目に期待と不安を浮かべていた彼らが数年立つとこうも表情が変わるのかと感慨深く思える。
一糸乱れることなく整列した彼らの目は子どもだった学生の頃とは違う。
敬礼の姿勢を取ったまま微動だにせず、彼らは一様に真剣な眼差しでシンタローを見つめていた。
式典ということもあり、そう硬くなるなとも言えずシンタローは祝辞を述べるべく前へ進んだ。
父親である前総帥が引退後、初めてこの場に立ったときは柄にもなく緊張したものだったが、今はそうでもない。
(ま、ちっとは慣れてきたしな)
式典だけでなく総帥業全般に。まだまだ父親であるマジックに並び立てたとは言えないけれども。
(……だいたい団員になったのもそんな昔じゃねえしな)
ずらりと並ぶ新団員たちを見回しながらシンタローはふうっと息を吐いた。
彼らのように入団式に臨んだ頃は自分がこんなにも若く総帥に就くとは思ってもいなかった。
人生って分からねえよな、とマイクに手をやりながら思う。
(後悔なんてしてねえけど)
やるっきゃねえし!とシンタローはきりっと前を見た。今この瞬間も総帥としてやるべきことをしなければならない。
大勢の瞳に見つめられながら、シンタローは口を開いた。
**
「だー!疲れたぜ」
式典なんて肩が凝る、とシンタローは首を回した。それから、はーっと大きく息を吐いてソファにどかっと座る。
祝辞を読んだ後も士官学校を首席で卒業した新団員の宣誓があったり、各部隊の訓示があったりと気の休まる時間はなかった。
自分が入団したとき依頼何度も聞いているような話とはいえ、総帥の立場もあってうたた寝するわけにも行かず気を張っていた。
式が終わり、舞台の袖から退出する折に、裏で寝こけていたコージを発見して蹴りつけたのは言うまでもない。
おまえ、護衛だろ!寝てんじゃねえよと文句は言ったものの大らかなコージは殺気がしたら起きると笑って返すだけだった。
「……昼メシん時も休めねえんだよな」
シンタローはソファに体を投げ出したまま、常に己の傍に控えている補佐官へと視線をやった。
「ああ。いつもどおり士官学校の教官と会食だ」
今更聞くまでもないだろう、と補佐官である従兄弟のキンタローは手元の書類から目を話さずに言う。
「なんだよ?おまえ、それ。休憩のときはちゃんと休めよな」
「急ぎのものだ。後でおまえの判もいる」
「……おい、聞けよ」
シンタローがじっと睨みつけてみてもキンタローは視線を合わせようとしなかった。
そればかりか、読み終えた書類の束を目も合わさぬままほいとばかりに手渡してくる。
癪に障ってシンタローは受け取らないでいたが、書類を掴んだ片手が何時までもそのままだったため、仕方なく受け取った。
「ああ――これか」
渡された書類はセキュリティシステムの見直しについての企画案だった。
ガンマ団本部の情報は堅牢に守られているとはおよそ言いがたい。
今は総帥であるシンタローも実力ナンバーワンだったとはいえ易々とコタローの幽閉されている場所を探り当てることが出来たし、何より有耶無耶に誤魔化されたとはいえ特戦部隊が傍受していたらしい疑惑もある。味方だからいいが、総帥と跡取りの不在が敵国にでも知られていたかと思うとぞっとする。
ぺらぺらと紙の束をめくるとシンタローは人知れずため息を吐いた。
ガンマ団お抱えの科学者と技術者が提言する新システムについての記述は疲れた頭を差し引いても理系でないシンタローの目を滑っていく。
(ンなもん渡されたって分からねえよ)
最後まで一応目を通すと――本当に目を通しただけだ――シンタローは紙の束をテーブルへと放った。
「こういうのはお前に一任してあるはずだろ」
「……」
投げられた書類にちらりと視線を送っただけでキンタローはまた手の中の書類へと没頭していた。
「ずーっと前から言ってるだろ。こういうのはお前やグンマが専門なんだしよ」
ハンコだけ押せといわれたほうが良い。そうシンタローが文句を言うとキンタローは
「――ハーレム叔父貴の詐欺に引っかかるぞ」
と言った。おまえが空の手形にサインをしたいなら止めはしないが、と淡々と返すキンタローにシンタローは何も言い返せない。
たしかにいつの間にか書類の束に紛れ込まされたら分からないだろう。
一族から借金どころか横領までしでかしている放蕩者の叔父の姿を思い浮かべてシンタローはため息を吐いた。
だいたいすべての書類に目を通すのは指摘されるまでもなく総帥として当たり前のことだ。自分と同じく科学畑でない父のマジックもこなしてきていた。
当然といえば当然なのだが……。
(やっぱ、性に合わねえもんは合わねえんだよ)
テーブルに放り出した書類に目をやりながらシンタローは口をぎゅっと引き結んだ。企画案のタイトルに含まれている単語も難しい。
横文字じゃなくて日本語にしろよな、と内心毒づきながらシンタローがぶすっと黙っているとキンタローは次の紙の束を寄越した。
渡されたそれをしぶしぶ受け取りながらシンタローは
「これでオシマイだろうな?」
と念を押す。
「これ読んだら教官が来るまで休むからな」
「ああ。好きにしろ」
言いながらキンタローはジャケットから手帳を取り出していた。何かを書き付けているキンタローを見ながらシンタローは「おまえもだぞ」と口にした。
「いいか!俺が読み終わったらお前も休憩だからな!」
休むのも大事なんだよ、といいながらシンタローは書類を捲る。
キンタローから返事はなく、ペンを動かす音だけが耳に届いてきてシンタローは3枚目の紙に差し掛かったときに何気なく呟いた。
「さっきから人の話を聞いてるんだか聞いてねえんだか……」
「聞いている」
「……ああ?」
返ってきた言葉に顔を上げるとシンタローは胡乱げに従兄弟を見た。
見ればキンタローも手を止めてじっとシンタローを見つめている。
「お前の言う事はいつも聞いている」
きっぱりと言い切られてシンタローはたじろいだ。
ウソだ、聞いてなかっただろ!と文句を付くこともできずにうっと詰まっているとキンタローは微かに口角を上げ笑った。
「昨日など言うことを聞きすぎたと思っているが」
俺もお前と同じく寝不足だ、とにやりと笑う従兄弟にシンタローはカーッと頭に血を上らせた。
「嘘つけよ!途中から好き放題してくれたのはお前じゃねえか!大体、俺のほうが負担が大きいんだよ!
俺はもう無理だって言っただろ!それをおまえがあんなことするから!」
「あんなこと?」
「―-ッ、ともかく!お前が俺の言うこと聞かねえからだ!」
ふざけんなっ!とシンタローは従兄弟に掴みかかった。テーブル越しの無理な体勢で重い腰に負担がかかる。
眉を顰めながらシンタローは従兄弟に向かって
「今度するときはちゃんと俺の言うこと聞けよ!!」
と叫ぶ。
「いいか!分かったな!」
指を突きつけたシンタローにキンタローは「ああ。分かった」としらっと口にした。
「ちっとも分かってねえだろ!その顔は!」
もうちっと反省しろ!とシンタローは突きつけていた指を開き、従兄弟の頭を叩いた。
ぱしんと小気味のよい音が鳴る。避けることもしなかったキンタローは打たれた瞬間、目を細めていたが痛がることはせずにさり気なく従兄弟の手を取った。
「――"今度"するときもお前の言うことを聞けばいいんだろう」
重々分かっていると微笑みながらキンタローはシンタローの指に軽くくちづけを落とした。
掠める微妙な感触にシンタローはうわっと仰け反る。
「し、仕事中だ――」
「休憩中だろう」
慌てるシンタローの言葉を遮るとキンタローはにやりと笑った。あまりにも堂々としたその反応にシンタローの方が詰まってしまう。
「そうじゃなくて!あーだから!」
ともかくお前は俺の話を聞け!とシンタローは怒鳴った。
問題を摩り替えるんじゃねえ!と真っ赤な顔で怒鳴るシンタローと意にも返さないキンタローの言い争いは控え室のドアをノックされるまで平行線を辿るのだった。
End
初出:2007/04/13