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ke1
月と太陽




 なんとなく学校に入って、なんとなく帰宅部で、なんとなく大学に入って、となんとなく平穏な人生を送っていたある日、彼は唐突に考えた。
 自分はこのまま何もなく、だらだらと無為の時を過ごして年をとっていくだけなのか?
 何かもっと自分にふさわしい生き方が、待っているのではないだろうか。
 ただ、それに出会っていないだけで。
 

 就職活動もそろそろ始まろうというその時期に、心に突然発生したその考えは、あっといまに彼の頭の中を覆い尽くした。
 勝手に休学届けを出した息子に親は呆れたが、「まあ、わかいうちだから」と父親が不承不承承諾したその日に彼は、ネットで航空チケットをとったのだった。
 世界はとても広く、すべてのことが新鮮にうつった。
 物語の中の世界のような場所や、見たこともない衣服、お腹をこわさないための水の選び方、ひとつひとつを自分の経験として蓄え、その日生きていくためのいろいろだけを考えて歩いていくという生活。
 彼は故郷では味わえなかった一日一日の充実感を噛みしめ、あちこち旅し…………そして、ある日目が覚めると、人身売買組織に捕まっていた。



 吐き気を堪えながら、寝台の上で身を起こすとそこはまったく覚えのない部屋だった。
 小さな電球一つの窓一つ無い薄暗い部屋は、かすかに悪臭も漂っている。
「……ここ…は?」
 昨日宿をとった覚えは無い。
 彼は二日酔いでずきずき痛む頭で、必死に昨晩の記憶をたどった。
 確か、街についてぶらぶら歩いていると、同い年くらいの若者に声をかけられた。
 外国人である自分も知っている有名な学校の制服を着た学生は、閉鎖的な街では珍しい異国人に大変興味を持った様子だった。
 どこから来たのか、留学生か、などと立ち話をしているうちに意気投合してしまって、彼の仲間がいるという酒場に半ば強引に、連れて行かれたのだった。
 若者もその仲間も非常に感じが良く、すっかりいい気分になって飲み過ぎてしまい―――そこから後のことは覚えていない。
 誰かに事情を聞きに行こうと立ち上がったが、ドアには鍵がかけられていた。
 鋼鉄製の扉は見るからに重そうで、体当たりしたところで無駄だろう。
 このときになって、ようやっと彼も自分が何かやばいハメに陥ったことに気が付いたのだった。
 慌ててドアを叩き、大声でここから出せと咽の限りわめいた結果、現れた屈強な大男に殴られ長い間気絶することになった。
 その際、大男と一緒にいた男の会話で、どうやら自分が人身売買組織に捕まったことや、しかも数日後に魚か何かのようにセリに出されてしまうらしいということを、朦朧とする意識の中知らされて、愕然とした。
 都市伝説などでよく聞くホラ話が、自分の身にふりかかってきて、当然のことながら彼は焦り、怒ったが、もはやどうしようもない。
 この国に来なければ良かった、いや、そもそも故郷でじっとしていればよかったと、今更の後悔にくれていたところに、その人物は現れたのだった。















 それは、彼が閉じこめられて五日目の夕方だった―――ただし、時計も窓も無いこの部屋においては、はっきりとそうとは言い切れない。
 がちゃがちゃと、鍵を開ける重い音に彼は身体を強張らせた。
 おそらく夕食だろうとは思ったが、最初の日に暴行を受けて以来、扉を開ける音に神経質になっている。
 いっそ、ここから出られるのなら、売られていった方が気持ちが楽になるとさえ、思ったくらいだ。
 びくびくと目をやった扉が勢いよく開き、組織の人間に両側から手錠をされた腕をとられて男が立っていた。
 髪の長い、並はずれた長身の男性だ。
 身につけた白いシャツがあちこち破れていることから、自分の時と違ってここに連れてこられるまでに、相当争ったのだろうと思われる。
「入れ。」
 背後で閉まる扉を振り返りもせず、男は空いている寝台へまっすぐ歩いていて、どっかりと腰掛けた。
 おとなしく言われた通りにする男を確認した彼らは、幾分かほっとしたようだった。
 強面で、しかも、三人もいるにも関わらず、この男に対して相当警戒してあまつさえ怯えているようにさえ見えて、彼は驚いた。
「ヤロー同士で、むさ苦しいことこのうえないが、今夜一晩はそこで辛抱しな。」
 鍵をかけた扉の向こうから看守にそう告げられ、彼は明日がオークションの日だということを思い出した。
 この男は自分が人身売買組織に捕まったことを知っているのだろうか、と振り返ってみると、男はつながれた手の上に顔を乗せて何事かを考え込んでいる。
「あ、あの……。」
 いつまでたっても一言も喋らない男の態度に、業を煮やして彼はおそるおそる声をかけてみる。
「何?」
 こちらに向けたその顔に、彼は思わずどきりとした。
 入ってきたときもそう思ったのだが、よくよく見るとこの男、やっぱりものすごくカッコイイのだ。
 鍛えられた体つきといい、濃い眉や鋭角な輪郭のライン、と、『男らしさ』の要素だけで構成された外見だが、白いシャツに、黒い髪がはらはらと散っている様はどこか艶めいたものを感じさせる。
 鋭い眼差しに圧倒されながらも、何故か目が離せない。
 なんといえばいいのか、存在感が今まで見たことのあるどんな人間とも違うのだ。
 いわゆる名の知れたスポーツ選手とか政治家とか、そういう『特別な人間』だけが持っているオーラというかそんなものが、彼の周りを取り巻いている。

 映画俳優かモデルかなにかなんだろうか。

 思わずぽかんと口を開けて見とれていると、「だから、なんだよ?」と不機嫌そうな顔つきでもう一度聞かれた。
「あ、えーと、自分がどうなったか解ってますか?」
 そう聞いたのは、彼が怒ってるようには見えても、怯えたりしてる風には見えなかったからだ。
 こんなあり得ないような状況に陥って、こんなに落ち着いているものだろうか。
 もしかして、喧嘩か何かに巻き込まれて、警察にでも捕まったとか、そんな風に考えているかもしれない。
 しかし、男はその質問に何を言ってるんだ、コイツと言わんばかりの顔をした。
「ああ? この国で人身売買が行われているのは有名じゃねぇか。」
 あたりまえのように、男が言ったその情報は彼にとっては初耳だった。
「ええっ!? 旅行雑誌ではそんなことちっとも…。」
 男の顔がますます険しくなる。
「そんなもん、ガイドブックが書くわけねぇだろ。けれど、近隣の国にも噂は流れているし、今だったらネットなりなんなりで情報収集は可能だろうが。おまえ、なんの下調べも無しで知らない国に来たのかよ。」
 男の指摘に、彼はぐっと言葉に詰まった。
 確かに気の向くままに旅をしているので、ガイドブックでさえ買わないことも多い。
 今回は閉鎖的な土地柄であることや治安もあまり良くないくらいは知っていたので、直前に滞在していた国で一番ポピュラーなガイドブックを買ったのだ。
 そこで治安の良い場所を選んで旅すれば、大丈夫だろうと考えたからだ。
 しかし、結局はこの体たらくだ。
 用意が不十分だったといえばそうだが、人からそう言われて面白いわけはない。
 だいいち、この男だって自分と同じ目に遭っているではないか。
「じゃ、じゃあ、ここが……そんな場所だって知ってるのにっ……なんでここに来たんですかっ?」
 すると、男は冷たく彼を一瞥した。
「俺は仕事で来たの。」
「し、仕事? もしかして、映画撮影とか何か?」
「映画撮影……って、おまえ俺が俳優かなんかだって思ってる?」
「いや、ハンサムだからそうかなーって思って…。」
 やたらえらそうだし、芸能人って俺様だってよく聞くし、と思ったことは黙っておいた。
「おまえ、夢見がちっていわれねぇ? 俺はフツーのサラリーマンで、ここには出張で来たんだよ。」
 突拍子もない彼の誤解に呆れた顔をしながらも、男はまんざらでも無い様子で、彼が捕まった事情を教えてくれた。
「酔っぱらった旅行者風の女の子達が、どこかへ連れていかれそうになってたところにたまたま出くわしたんで、止めようとしたら逆に捕まっちまったの。以上、説明終わり。」
 もうちょっと、人数が少なかったらなんとかなったのに、と男は悔しそうだ。相当腕に覚えがあるのだろう。
「あの子達は、俺の連れが逃がしたから大丈夫だろうけどよ。しっかし、まぁ、見ず知らずの男達の誘いに乗って、よく知らない土地の酒場なんかに行くかね、フツー。」
 そのため息に、まったく同じような捕まり方をした彼はぎくりとした。
「ほら、その子達、一人じゃなかったんでしょ。だから、大丈夫かと思ったんじゃ……。」
 そう、自分も『男』だからもしものことがあっても大丈夫だと思ったのだ。
 だって、こんなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。
 普通の世界に生きている人間にとって、こんなことは映画やテレビの中のお話だ。
 多少のリスクは覚悟して、見知らぬ人間との出会いを、期待するのも旅人としては当然のことだ。
 だが、男は容赦なかった。
「ばーか、複数だと承知で、向こうは声をかけてきたんだ。なんとかできる目算があるからだろうが。」
「いや、だって、愛想良くて身なりもいいヤツらだったから、そんな、こんな組織の仲間だったなんて、思わないっすよ!」
 うっかり、口走ってしまったことに気が付いて、口を閉じたがもう遅かった。
 男は目を細め、ほー、と頷いている。
「なるほどね、ころっと騙されて連れてこられたわけだ。下調べもろくにしていない国へ来て、よく知らない相手のことを見かけだけで信用して、言われるがままに酒でも飲まされて、気が付いたらこうだった、と。」
 ゆっくり、そう確認されて、彼はかっとなった。
 確かに自分は不用心だったのかもしれないが、知らない相手を片っ端から警戒していたら、友人だってできないではないか。
「そうだよ! 安全だけを気にしてちゃ、なにもできないじゃん。狭い国に閉じこもってる生活に飽き飽きして、あちこち旅してきたんだ。観光ブックや情報にばっかり気をとられていたら、いろいろ見逃してしまったら、俺はなんのためにこんなとこまで来たんだか、わからない。」
 強い口調でそう反撃したが、男は特に感銘を受けた様子も無かったが、かといって青臭いと馬鹿にする様子もなかった。
 彼の言葉を否定するわけでも、諫めるわけでもなく、ただ淡々と彼に告げた。
「だけどさ、それを見つける前に死んじまったらイヤじゃね?」
 死という言葉を、男はさらりと口にする。
 説教する風でもなく、ただあたりまえのことを言っているだけの口調で。
 ―――なのに、それは彼の心に重くのしかかった。
「本当に欲しいものや大事なものを見つけたいなら、その前に絶対死ぬわけにはいかねえだろ。だから、そのためにてめえの命を大事にするこった。」
 男はそう言って、ごろん、と横になった。
 彼がなおも話しかけようとすると、男はつながれた手を心持ち持ち上げてひらひら振った。
「わりーけど、疲れてるんだ。このままじゃ、アイツらたたきのめすこともできねぇ。寝かせてくれ。」
「って、あんた、ここから逃げ出す気ですか?」
「逃げる気はねぇよ。ここをぶっつぶす。この俺様にこんな手錠はめやがった償いはキッチリさせてやる。」
「つぶす……って、そんなことができるわけないでしょうがっ!」
「いいから、おまえも寝ろよ。いざと言うとき動けるように、今は体力回復させとけ。こっから出て、もっといろいろ見に行くんだろ?」
 にやり、と笑ったその顔は、不敵で自信に満ちていて、目にした途端聞きたかったいろいろなことが彼の頭からぽんって、抜けてしまった。
「んじゃな、おやすみ。」 
 男が目を瞑ってしばらくすると、安らかな寝息が隣から聞こえてきた。
 こんな状況でよく眠られるな、などという感想なんてもう浮かばない。
 この男にとっては、犯罪組織に捕まって売られそうになるなんて、『こんなこと』にしか過ぎないのだろう。
 たぶん、きっと……ものすごく強い。
 だから、あんな風に笑っていられるのだ。
 



 ―――きっとこういうのが『特別な』人間なのだ。
 自分が夢見て……そしてなれない特別な人間……神様に選ばれたそういう人種。
 あちこち旅して、色々な人間に出会ったが、こんなに強い印象を感じた人間はいない。
 
 
 

 この旅に出てから、初めての種類の疲れを感じて、彼は男に倣ってかびくさい寝台に丸くなったが、いっこうに寝付けなかった。




















 何時間か経って、ようやっとまどろみはじめた時、再びドアが開いた。
「起きろ。時間だ。」
 よく眠れなかったためにだるい身体を無理矢理起こすと、男はもう目を覚ましていた。
「へーいへい、今すぐ出てってやるよ。」
 返事をしながら男が出ていくと、さっと銃口が向けられた。
「手錠までかけといて。」
 男の口元が皮肉っぽくゆがめられる。
「いいから! 黙って歩け!」
 銃口が黒い髪を押しのけ、その頭に突きつけられたが、男はしれっとして表情ひとつ変えない。 
 他の扉からも何人も連れ出されているが、皆一様にやつれ、青ざめていて、まともな状態の人間は一人もいなかった。
 薄暗い廊下を歩いていると、さらに大きな扉が現れた。
 先導していた男が首を振ると、他の男達が『賞品』たちにそれぞれ歩み寄って、最初からかけられていた同室だった男以外の手に、手錠をかける。
 そして、一列に並べられ扉の前にいる男のところへ、一人ずつ歩いていかされた。
 びくつきながら歩み寄る彼らに、その男は手に持っていた機械を、彼らの手錠にあててボタンで何やら打ち込んでいる。
 そういえば、今まで実物を見たことはなかったが、五センチメートルくらいの太さのその手錠にはバーコードのようなものがある。
 同じように疑問に思ったらしい黒髪の男が、近くにいた見張りの男に「おい」と声をかけた。
「あれは何をやってるんだ?」
 喋るな、と怒鳴られるのではと隣にいた彼は慌てたが、見張りの男はそうはしなかった。
 にやにやとしながら、あっさりと教えてくれたのだ。
「おまえらの『タグ』みたいなもんだ。」
「タグ~? 洋服屋のあれのことか?」
「ああ、おまえらを識別するために使うんだよ。あの機械で身体的特徴なんかを登録して、ランクに分ける。ついでに『紛失防止』を兼ねてるわけさ。発信器代わりにもなってるこれは、それぞれの行き先が決まるまでに、ここから逃げたり、下手な真似をしたら、遠隔操作で爆発させることができる。ちゃんと、腕が吹っ飛ぶ程度には抑えてあるから、今この場でもそれを試すことができるぜ。」
 その残酷極まりないやり方を聞いてしまった周囲の人間におびえの色が走ったが、奴らが一番脅したかったであろう男は、少し眉を顰めただけだった。
「ま、行き先が決まったら、今回のコードは解除してやるから、後数時間の辛抱だ。」
 げらげらと高笑いして、ヤツは男の腕を引っ張って、機械を持っている人間の方に押しやった。
「おい、こいつが一番やっかいだから、先に処理してくれ。」
「……ほう…、上玉じゃないか。」
 不機嫌そうな男を見やり、係の者は感嘆の声をあげた。
「そうかぁ? まぁ、確かにツラはいいが、金持ちのババアが喜びそうな愛想が、全然ねえしなぁ。」
 確かにただのハンサムと言い切るには凶悪な面構えだったな、と二人のやりとりを聞いていた彼は思った。
 しかし、おそらく長いこと『鑑定』をしてきたらしいその男の見方は少々違ったらしい。
「だから、おまえらは甘いんだ。ツラは少々いじくればどんなものでもできるが、身体や骨格はそうそう変えられるもんじゃねぇ。コイツは身長もあるし、見栄えのする身体だ。」
 身体をぱんぱん叩かれ、解説されている男は不機嫌そうだ。
 確かに誉められてもこの状況じゃ全然嬉しくないだろう。
「それになぁ、こういうきかなさそうなのが好みってのが、結構いるんだよ。プライドが高くて負けん気が強いヤツを、あれやこれやの手で痛めつけて嬲るのが好きって趣味の金持ちのおっさんが。」
 『おっさん』。その言葉にはさすがに男も動揺したらしく、口元をひきつらせた。
「……おい、冗談だろ。」
「冗談なもんか。セリに出したら、三百、いや、五百はかたいな。よし、おまえは最後にしよう。喜べ、おまえは目玉商品だ!」
「人を洗剤かパックの卵と同じ扱いしてんじゃねぇっ!」
 そういう問題ではないだろう、と、その場にいた全員――誘拐した方も誘拐された方もそう思ったが、怒鳴った方はかなり本気だった。
「だいたい、なんでおっさん限定なんだ! せめてまつげの長い碧眼の十歳前後の美少年とか、艶やかなブロンドのナイスミドルとかいろいろあるだろっ! おっさんはやめろっ。おっさんは!!」
 こだわりがあるような無いような男の主張に、
「ぜーたく言うな! だいたい『人間』を買いに来るような金持ちはジジババが多いんだよ。それに、おっさんも捨てたもんじゃねぇぜ。経験を踏んでいるからアッチの方はなかなかうまいって言うぞ。」
「『アッチ』ってどっちだ!?」
 果てしなく続きそうな言い争いに、業を煮やした仲間が止めに入った。
「そんなもんはどっちでもいいから、さっさと入力しやがれっ! 着替えもさせなきゃならんだろうが。」
「ああ、そうだな。さっさと腕だせ。」
 その場にいた全員――以下略は、先ほど交わされた会話になんとはなしに脱力してしまい、そのため、後はスムーズに進んでいってしまった。
 途中機材のトラブルとかで、少しごたごたしていたが、それで中止になるわけもなかった。
 すべての登録が終わり、扉が開かれると長い廊下がずっと向こうまで続いていた。
「さあ、おまえらはこっちだ。」
 肩を乱暴に押され、彼はいやいやその冷たい床に足をつけた。
 ちらっと肩越しに見ると、黒髪の男は何人かの人間と共にその場で止められていた。
 違う場所に連れて行かれるらしい。
 出会って間もないよく知らない人間なのに、男と離れることになって彼はなんとはなしに心細くなった。
 あそこにずっと閉じこめられるくらいなら、いっそさっさと売られたいとまで思ったが、いざ現実的になってくると、身体が震えてくる。

「いっ。いやだぁぁぁ!」

 次の瞬間、絶叫して闇雲に暴れ出していた。
 わあわあ叫んで、押さえつけられそうになるのを、身をよじってかわしながら、足をばたばた動かす。
 男の一人が呆れたように、例の機械を目の前で振ってみせ、「おい、これのことを忘れたのか?」と脅かしてきたが、構わなかった。
 とにかく目の前の恐怖から逃げることで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられる状態ではなかったのだ。
「はなせぇぇぇはな…っぐふっ…!」
 いきなり鋭い一撃を腹に受け、彼はたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ぐふぇげぇ…っぐっうう。」
 苦い胃液がこみ上げてきて、咽がやけて熱くてたまらなかった。
 涙にゆがむ視界に、はらっと黒い一筋の髪が落ちてきてゆれた。
「加減してやったから、内臓も大丈夫だろ。」
 あの男に膝蹴りをされたのだと気が付いて、悔しいうえこみ上げてくる気持ち悪さで涙が止まらない。
 しかし、男は彼のそんな様子を見ても悪いなどとは、いっこうに思っていないようだった。
「まぁ、多少怪我しても腕がふっとぶよりはマシだ。」
 そして、周りの人間には聞こえないようにして、こう続けた。
「言っただろ。生きてなきゃ何もできねぇって。……生きるために最大限の努力をしろ。」
 男の声は厳しかった。
 けれど、どうしようもなく胸にしみて、彼は違う涙が溢れてくるのを感じていたのだった。



















 彼が連れて行かれた場所は、何も無い部屋だった。
 集められた人間はそれぞれ不安げに部屋の中を歩き回ったり、床に座り込んだりしていた。
 最後の一人を部屋に追いやった後、先導してきた男は『商品』に向かってこう告げた。
「持ち主が決まるまで、ここでおとなしく待ってろ。」
 決まるまで……?
 てっきり、大勢の人間の前に引き出されるのかと思っていたので、彼は拍子抜けした。
 他の何人かの同じ境遇の人間も、いぶかしそうにその男を見たためか、出ていく前に男は簡単に説明した。
「オークションは、一種のお祭りだからな。特に高値で売れそうな数人しか出さない。後のヤツは後で客がモニターを見て選んでいく。」
 確かにあの場に残された人間は、男女ともかなり見栄えがよかった。
 たいしたことが無いと言われたようで、あまり気持ちはよくなかったが、オークション会場でさらしものにされるよりはマシだろうか。
 いや、どちらにしても売られるのは違いないのだから、マシもなにもない。
 はぁ、とため息をついて格子のはまった窓を見あげた。雲が流れていくのが見える。おそらく、ここは地上からかなり高い場所にあるのだろう。
 おそらく、到底逃げ出すことなどできないくらいの……。
 だいたい、あんな小さい窓、子供でも通り抜けるのは難しい。
 もう一度ため息をつきかけた時、彼の視界に妙なものが飛び込んできた。

『……コウモリ……?』

 なぜ疑問形なのかと言うと、それは図鑑などで見たそれらとは著しく違っていたからだ。
 とにかく、普通のコウモリは帽子はかぶっていない。
 それは、窓にはまった格子を、キイキイ騒ぎながらなんとかくぐり抜けようとしている。
 しかし、まるっこいフォルムがあだになったのか、なかなかうまくいかないようだ。
 最初は不安と恐怖で手一杯だった他の人達も、一人、また一人と気づいてコウモリの果敢な潜入作戦を口を開けて見物していた。
「きいーっ。きっきっ!」
 コウモリが思い切り身体を突っ張らせた時、すぽん、とばかりにコウモリの身体が格子を抜けた。
 しかし、そのまま勢い余って、その小さな身体は弾丸のようにすっ飛び、ちょうど窓の向かい側にあったドアにびたんと激突した。
 ずず…と下に落ちかけたが、コウモリはなんとか踏ん張って、宙に浮かんだ。
 それからドアの周りをしばらくうろうろしていたが、やがてがっくりきたように下を向いた。
 そして。
 何がどうなったのかさっぱりわからないが、こうもりが下を向いた次の瞬間、丸い物体は消え失せ、かわりに一人の少年が突然現れたのだった。
「こーゆー機械式のドアは苦手だなも。しょーがない。これを使うだぎゃ。」
 ごそごそとポケットを探っている姿はどう見ても十代だ。
「あ、あのー…。」
 おそるおそる声をかけると、少年は振り返ってこっちを見た。
「なんだ?」
 なんだ、はこっちの台詞な気がしたが、とにかく、先に聞きたいことがあった。
「アンタ、何者?」
 変なコウモリに、突然の出現、とにかく、普通じゃないことは確かだ。
 当然の質問に少年は、ふふん、と笑った。

「魔法使い、だぎゃ。見てわからにゃーか?」

 とんがり帽子に、それと同じ色のマント。
 確かに、お伽噺か何かに出てくる魔法使いそのままのいでたちだ。

「ま、安心するだぎゃ。ワシは悪い魔法使いではにゃあで。」

 『いい魔法使い』と言ってくれないのが、果てしなく不安だ。
 その場にいた人間がかなりひいていることに気づいているのか、いないのか、少年はこころもち胸をそった。
「魔法使いにかかれば、ドアなんかにゃーも同然! 大船に乗ったつもりでおるがいいだがや。」
 そう言うと彼は頭にかぶっていたとんがり帽子を脱いで、そこに手を突っ込んだ。
「ほいっ!」
 かけ声と共に取り出したのは、巨大なハンマー。

 ………それって、魔法じゃなくて手品?

 本人を除く、その場にいた全員がそう疑っていることなど、気が付きもせず、彼はそれを両手で持ち直し、野球のバットのような構えをとった。
 
 …………まさか、それでたたき壊す……なんて、物理的手段じゃないよね?

 と、本人を除くその場にいた全員のすがるような眼差しなど、どこ吹く風で、彼は思いっきり、それを振り切ったのだった―――。
 
 ガーーーーーーーーーーーン!

 その重い音に、彼らは飛び上がった。
 おそるおそる扉を見たが、消え失せたり等していないばかりか、罅すら入っていない。
 わんわんと余韻が響く中、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえる。
 途端、自分たちが腕にはめている爆弾を思い出して、彼らは一斉に青くなった。
「アンタ、なんてことしてくれたんだ!? アイツらがやってくるぞ!」
「子供だからって、やっていいことと悪いことがある!」
 口々に彼を非難しながら、少年に飛びついてそのハンマーを奪おうとする。
 彼らにこの不審な侵入者のことが知れて、自分たちまで巻き添えになってしまうなんて、冗談じゃない。
 しかし、彼らの奮闘むなしく、扉は無情にも大きく開かれてしまった。
「うるせーぞっ!……って、誰だ? おまえ。」
 見張りの男がいきなり増えた商品に、驚いて大声をあげるより、一瞬早く少年が動いた。
「だれ……! うわっ!!」
「ちょーっと黙ってもらうだぎゃ。」
 少年の小さな身体が男に向かっていったかと思うと、男がくるりとひっくりかえって、床にたたきつけられていた。
 そして、懐から取り出した小瓶を無理矢理彼の口に当てて飲ませる。
「うっ…がはっ…げほげほっ!」
「ほんの数時間のことだで心配すんな。」
 にっこりと笑う少年の身体の下で、もがいていた男の姿が消えた。
「なっ!!」
 驚いて後じさる人々の方に少年は振り返り、手に持ったそれを見せた。
「へび……?」
「これなら人を呼べにゃーぜ。」
 そう言って、ご丁寧にもくるくると巻いて団子結び状にすると、そこにぽいっと放った。
「じゃあ、ちゃっとここを出るだがや。」
 そう言って、手招きされたが全員一歩も進めない。
 全員の目が床でころころ転がっている蛇に集中している。
「……これはどうなったんだ。」
「まさか、蛇になってしまったなんてありえない。」
 ぐずぐずしている彼らに、少年は苛々したように先ほどの瓶を皆に向かってつきつけた。
「ちゃっちゃと出ろ! さもにゃーと、次はおみゃーさんにこの薬飲ませるだぎゃあ!」
「ひいいいっ!」
「蛇は嫌いなの!」
 とんでもない脅迫に、一人また一人と外に出てゆく。
 最後の一人になった彼に、少年は早くでるようにと促した。
「ほかの見張りがござるまえに、逃げださにゃーと。」
 少年の命令を聞かないといけない立場にあることは、彼も重々承知していたが、どうしても気になることがあって、少年に告げた。
「この手錠だけど、ボタン一つでふっとばされるって話なんだよ。リモコンの範囲もわからないし、僕らが安全な場所に逃げる前に、ここにいないのがばれて起爆させられてしまったら……。」
「大丈夫だぎゃあ。それまでにはすべて片がついとるから。」
 片がつく、その意味がよく分からない。
 そして、もう一つ問題があるのだ。
「オークション会場には、あと何人かいるんだ。彼らが売られてしまう。」
 すると、少年はにやっと笑った。
「そっちは絶対大丈夫だで、おみゃーさんはワシについてくればいい。」
「いや、だけど、財力のあるオヤジがテクニシャンで大変なんだ。」
「オヤジ?」
 何を言ってるんだ、コイツ、と言わんばかり視線を向けられ、彼はしどろもどろになって、言葉をとぎれさせた。
 確かに昨日会ったばかりで、しかも決していい印象はない。
 けれど、なんとなくあのまっすぐな目をした男が、変なオヤジの手に渡るところを想像するのは愉快な気分ではなかった。
 すがるような気持ちで言ってみたものの、彼の答えは、本当にあっさりきっぱりしたものだった。
「オークション会場は、ここより警備が厳しいんだがや。ワシ一人では無理。」
「だって、君魔法使いなんだろ?」
 そんな突拍子もない職業を信じるなんて、我ながらどうかしてると思ったが、だいたい、今の状況がすでに普通じゃない。
 魔法使いが棒をひとふりすれば、悪いヤツはすべてカエルかへびになって、ハッピーエンドになる、くらい期待してもいいだろう。
 少年は、絶対無理、と言うと腕をつかんで彼を外へと引っ張り出した。
「ワシの仕事は、片がつくまでおみゃーさんらを安全な場所に匿うことだぎゃあ。」
 中をもう一度確認した後、扉を閉めながら少年は言った。

「悪党をやっつけるんは、魔法使いの仕事じゃにゃーでよ。」

 そう言って先頭に立って、懐からペーパーバックくらいの大きさのモニターを取り出した。
 ちらっと見えるそれは、どうやらこの建物の内部の地図らしい。
 こんなものを持っている少年はいったい何者なんだろう。
 誰もが一瞬そう思ったが、すぐにその考えを放棄した。

 聞いたところで返ってくる答えは決まっているからだった。






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