惑いの闇
なんとはなしに目が覚めた。
寒さを感じたわけではない。ずっと体を抱きこまれていたから、一人で寝るよりもあたたかかった。
二人分の体温ゆえ、体はわずかに汗ばんではいる。
途切れずに声を響かせたためか、喉はいがらっぽかった。
眠る前に受け止めた熱の残滓も拭われ、起き上がっても不快感は生じない。
でも飲もうと、そっとベッドを抜け出す。
裸足にひんやりと床の冷たさが伝わった。
喉をペリエで潤した後、音を立てずにそっと寝室へと戻る。
薄暗がりに一灯だけついたベッドの明かりを頼りに歩みを進めるとキンタローも目を覚ましていた。
わずかな明かりでは部屋の様子も何も分からない。
カーテンは空いていないから、外の様子も何も分からない。
けれども、仄暗い闇の中で身動ぎもせずにキンタローは虚空を見つめていた。
ぼんやりと視線を彷徨わせていた彼に不信感が募る。
「……キンタロー?」
キンタローはシーツを体に巻きつけ、上体を起こしていた。
呼びかけても彼の視線は定まらないままだ。
「おい、キンタロー」
ベッドに乗り上げ肩を揺すると次第に青い瞳に光が灯り始めた。
「キンタロー」
「……ああ、うん」
生返事のような声であったが、ようやく返った反応に少しほっとする。
「どうしたんだよ?怖い夢でも見た…とか」
からかおうと明るく声を出したがキンタローは笑うこともなく、俺を凝視していた。
張り上げた声が尻すぼみになる。
伺うように「どうしたんだ」ともう一度口にすると、彼はそれに答えることなくただ腕に俺を抱いた。
強い力が腕や背にかかる。
ぎゅっと抱きしめられた驚きと息苦しさに思わず、拒否する声を上げるとキンタローは泣きそうな顔で俺を見た。
肩口に頭を埋め、「もう少しこのままでいてくれ」と囁く。
いつにない真剣なその声音に身を任せると縋るようにかき抱かれる。
離さないといわんばかりに抱きこむ力は強い。
早く解放して欲しかったがどうして彼がこんな行動を取るのは分からなかったゆえ、気になった。
そうだ、と”怖い夢…”と言及したときのキンタローの表情を思い出し、なすがままにされていた体をわずかに動かす。
背に腕を回すと小刻みに震える振動が伝わった。
ゆっくりと、落ち着かせるために子どもをあやすような手つきで背を撫でる。
何も心配はいらないんだ、と伝えるようにゆっくり擦ってやる。
はじめ、キンタローはびくりと肩を揺らした。
だが、手を止めずに撫でていると次第に彼の肩から力が抜け始めた。
俺の背に回された手は、緩めることはなかったが徐々に落ち着きを取り戻していく。
深いため息の後、彼の体の震えが止まった。
回されていた腕が解かれ、肩口に埋めていた頭が離れ、俺の視界に青い目と金色の髪が飛び込んでくる。
わずかにその青い目の端は赤らんでいた。
目じりに涙のしずくがついていた。
指を伸ばして、拭ってやる。軽く目を伏せたキンタローの表情はいつもと違い頼りなげだった。
拭っていた指を髪へと伸ばしても、キンタローは俺にされるがままにしている。
「おまえがいなくなる夢を見た」
俺の胸に顔を埋めたたまま、キンタローはぽつりと漏らした。
髪を梳く感触に目を細めながらもどこか地に足が着いていない表情をしていた。
「ゆめ?」
「ああ」
キンタローの髪を梳く手は休めない。
柔らかな髪を撫でながら先を促すと口ごもりつつも夢の内容をキンタローは口にした。
「最初は一緒にいたんだ。おまえは笑っていた。艦…だったと思う。なぜか、駆け回っていて……。
ああ、そうだ。小さい頃のグンマとおまえみたいに俺たちは駆け回っていた。
そのうちに走るのが飽きたとおまえが言って……なの、いきなり駆け出しながら”俺を見つけてみろ”と言ったんだ。
少し驚いたが、かくれんぼ、というものなのだと認識した。おまえが突拍子もないことを言い出すのは不思議でもないから……」
身を起こし、キンタローは俺から離れた。
自然、彼の紙からは俺の指が離れる。
向かい合ったとき、キンタローの青い瞳は揺れていた。
髪から離した指におずおずと彼は手を伸ばした。
そっと握りこまれる。幼児のようなその仕草はちぐはぐで少しおかしかった。
「それで、どうしたんだ」
握られた手はそのままに夢の続きを促す。
両目を瞬かせた後、キンタローは再び口を開く。
そこからは重い内容だった。
「最初は楽しかった。
楽しかったんだ。いろいろな部屋の扉を開けておまえを探すのは。子どもの遊びだと思っていたが、楽しかった」
楽しかったのだと吐露するキンタローに俺は何もいえない。
彼が子ども時代を送ることは俺によって失われた。
楽しかった、と吐き出したときの冴え冴えとした青い目に胸が打たれる。
その色は涙をためたような色なのに、懐かしさや喜ぶような感情も混じっていた。
「だが……。扉をすべて開け終わってもおまえはどこにもいなかった。
隠れた場所を変えたのかもしれない。飽きてしまって部屋に戻っているのかもしれない。
そう思って元の場所に戻ってもいなかった。
どうすればいいんだと、思って……もう一度探そうと廊下に出ようとしたら扉が開かなかったんだ。
ナンバーを打ち込んでも反応はなくて…しかも段々と暗くなっていった。
夜のように真っ暗な部屋に閉じ込められて、扉を叩いたり、おまえの名前を呼んでも部屋からは出れなかった」
青い瞳が揺らいだ。
握りこまれていた指にわずかに力が込められる。
ここに俺はいるというのに、それでも確かめるようにキンタローは片方の腕を伸ばし頬をなぞる。
「夜の闇は怖くない。真っ暗闇のような世界に俺はずっといたのだから。
一人でいるのも怖くないはずだった。おまえがいなくても今まで俺は平気だった……。
ただ、取り残されてしまっただけなのに、どうせ誰かが気づいてそこから解放してくれるだろうに何故だか怖かった。
おまえと俺がひとつに在ったときのよう闇色の世界なのに明かりがない。
光源ではないんだ。おまえの声も響かない、何も聞こえない、見えない、そんな無音の闇が訪れるのは初めてで…。
それで、何故だかとてつもなく怖かったんだ。
暗闇なんて平気なはずなのに、おまえがいなくても平気なはずなのに何故だか怖かった」
過呼吸に陥ったようにキンタローは早口で捲し立てた。
しゃくりあげて泣くように息をつき、何度も目を瞬かせ、肩を揺らしていた。
涙はまだ流れていない。必死で堪えながら、彼はずっと「怖かった」と口にする。
「起きたらおまえがいなかった…」
そうしたら夢の不安がそのまま大きくなっていったんだ、とキンタローが口にした。
悲痛なその声に心をぎゅっと締め付けられる。
「喩えようのない恐怖だった。夢を見たからだと言い聞かせてもシンタローはいないし、だから……」
青い目が伏せられた。睫を真珠のように涙が縁取る。
必死で泣くことを耐え、息をつくキンタローに俺はどうしていいのか分からない。
彼の不安を、恐怖をすべて取り除いてやりたいのに、ただひとつのことしか思いつかなかった。
握りこまれた指を解き、頬をなぞられていたキンタローの手を外させると彼の青い目は涙に染まった。
昔、コタローをあやしていたときと同じように、改めて彼へと指を伸ばし、乱れた金色の髪を払ってやる。
前髪があらわになった額にこつんと俺の額をくっつけるとキンタローは目を見開いた。
「よく見ろよ。俺はちゃんといる。いるから。おまえの傍にいるだろ?キンタロー。
不安なことは何もないんだ。俺はおまえから離れはしないんだから」
「……本当か」
「ああ」
疑うなよ。俺は約束は守るぞ。
微笑みながら口にすると、キンタローはぎこちない笑みを浮かべた。
「もう、ひとりにしないでくれ」
涙と笑みが張り付いた表情でキンタローは言う。
「ああ、しねえよ。絶対しないから」と言いながら、キンタローをぎゅっと抱きしめると嗚咽が聞こえた。
ひとりになんてするわけないだろう。
おまえは俺の大事な従兄弟で、ずっと一緒に生きてきたんだから。
闇にも孤独にも耐えられた男が、泣く。
ひかりを知ったことでその辛さに耐え切れずに泣いている。
抱きしめた俺よりもずっと強い力で抱き返してくるキンタローに俺は何度も約束した。
「おまえをおいていかねえよ。ひとりになんてしないから」
***
それはそう遠くない記憶だった。
いつだったかは忘れた。
けれどもシンタローが酷くやさしく、愛しむように俺の髪を撫でていたことを強く覚えている。
彼は約束を破った。
それは仕方のないことだったけれど、悲しいことには変わりがない。
一人で眠ることも、一人で仕事をすることもはじめてではない。
それらに不安などは感じていない。
以前、彼がいないことに不安を感じていたときと同じだ。
けれども、消えたシンタローがどう過ごしているのか考えると胸が張り裂けそうになる。
今だってそうだ。
空が白み始め、一日が始まるというのに心は明かない闇色に染まっている。
彼のいない世界に惑い、残されたわずかな希望を灯して過ごしている。
毎日、毎日、彼がもう一度約束をしてくれるのを願って過ごしている。
はやく、迎えに行かないといけない。
はやく、はやく、はやく……。
俺が感じている寂しさや不安のどれだけをシンタローが感じているのは分からない。
あそこには彼にとってかけがえのない友人もいる。
しかし、それでも心配なのだ。
シンタローがどうしているのか。どこでなにをしているのか。
それを思うたびにいてもたってもいられなくなる。
朝は毎日来る。今ここに訪れているように、明日も明後日もそれからずっと先も訪れる。
だが、いくら朝を迎えても、差し込む太陽の光を見ても、俺の心は沈んだままだ。
シンタローのいない事実に心が乱れ、惑う。
いつの日か感じたように、心が悲哀で満たされている。
シンタローを追い求め、不安を抱えたまま心が逸る。
今ある不安が歓喜に染まる日を求めてただ毎日突き進んで生きていく。
足は止めない。
走り出した運命は止まらないのだ。
彼をもう一度この腕に抱きしめるために、もう一度約束してもらうために。
カーテンを開けると目に痛いくらいの明るい光飛び込んできた。
けれども、こんなひかりじゃ闇色に染まったままの心は晴れない。
初出:2004/03/21
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