cheese!
case.1 弟の寝顔電子音が何度も部屋の中に響くのをキンタローは呆れた気持ちで聞いていた。
もう、何度目になるのだろう。
今日撮っただけでもかなりの数になっているはずである。
「シンタロー」
そろそろ帰ろう、とジャケットの裾をつついても弟の寝顔に夢中になっているシンタローには聞こえない。
明日は朝早いんだが、とため息をつきたくなる気持ちを抑えて真剣に携帯電話を構える彼を見つめる。
可愛いなあ、コタロー、とうっとりとして今にも鼻血を垂らしそうな勢いだ。
そして、今撮った画像をひとしきり眺めると、また携帯電話を構える。
「おお!見ろよ、キンタロー!なあ、コレすっげえ可愛いよな?」
すぐに軽快なリズム音が響くと、シンタローははしゃぎながら俺にディスプレイを見せた。
「……ああ、可愛い。だがな、シンタロー。いい加減にしろ」
もう帰ろうと、何度目になるか分からない言葉を吐くとシンタローは、
「あと、1枚。1枚だけだから、な」
と何度目になるのか分からない返事をくれた。
「シンタロー。それはもう聞き飽きた」
いいから帰るぞ、と総帥服の裾を引いてもシンタローは聞く耳を持たない。
弟のコタローにすっかり夢中になってしまった従兄弟に俺はため息を吐いた。
「キンタロー、今度は2人で撮りたいからおまえが撮ってくれよ」
自分でやるのは難しい、と言いながらシンタローは俺の袖を引く。
そして、Gのマークが入ったシンタローの携帯電話を勝手に押し付けられた。
「待ち受けに使いたいんだからな。イイ感じに取れよ」
後ろの花は入れるな、と指示され、俺は仕方なく携帯電話を構えた。
♪♪♪……。
「……どうだ?」
「あー。ちょっとコタローの横ぎりぎりだな。もう1枚取れよ」
「は?いや、だから。シンタロー」
もういいだろう、と言い募っても従兄弟はちっとも聞いてくれない。
その後も無理やり2人を何枚も撮らされて、俺はカメラ機能を付けた携帯電話を開発してしまった過去の自分を恨みたくなった。
case.2 兄の寝顔シンタローの寝顔をシャッターで収めることは簡単だ。
夜を共にしたときに朝方彼よりも早く起きればいいだけのことだし、あるいは昼寝をしているときに足音を立てないようにして近づけばいいだけのことだ。
けれども、それはどちらもパジャマであったり、お馴染みのカンフーパンツのスタイルだったりする。
目の前のように総帥服を着たまま、うたた寝をする彼なんて今まで見たことがない。
開発課の部下からかかってきた電話を終えて、窓辺からデスクへと戻ってきて俺は驚いた。
頬杖をつき、ペンを持ったまま、従兄弟の瞼が閉じられている。
小さい声で「シンタロー」と呼びかけても反応はない。
考え込むようなスタイルだけれども、彼は確かに眠っていた。
仕舞おうとしていた携帯電話のディスプレイを再び開けて、そっと彼に照準を合わせる。
画面いっぱいにシンタローの寝顔が映し出され、かちりと人差し指でその姿を止めると軽快なメロディが鳴った。
「あ、あれ?何してんだよ、キンタロー」
電話終わったのか、と矢継ぎ早に言ってうたた寝を誤魔化す従兄弟に俺は勤めて普通に肯定した。
「メールが来たんだが、今見てもいいか?」
「別にいいけど。俺、まだこの報告書読んでる途中だし」
報告書を手で掲げてシンタローはぎこちなく笑った。
それに気づかない振りをして、俺は手にしている携帯電話を覗き込む。
ディスプレイに映るシンタローの寝顔は被写体がよいこともあって、我ながら上手く撮れていた。
思わずにやつきそうになる口元を必死に抑えながら、俺はディスプレイを静かに閉じた。
case.3 横顔予算編成で不明瞭な点があって、開発課に内線電話をかけたが繋がらない。
どうせ、今日の仕事はこれだけだし、と思って開発課へと久しぶりに行ってみることにした。
俺のどこに不安があるのか、ティラミスもついてきたのが少し気に障ったが、普段行かない場所だから仕方がない。
行きすがら、くれぐれも邪魔しないでくださいね、と念を押されたが子どもじゃあるまいし、従兄弟を仕事中に揶揄うことなんかしない。
大体、知っている団員ならともかくあそこに配属した連中は俺のことをカッコイイ総帥――アンケートで見たから絶対そうだ――だと思ってるんだ。グンマと大人気ない言い争いして夢を壊したくはない。
そんなことを思いながらエレベーターに乗る。
ティラミスもあんまりくどくど言うと俺が怒り出すと思ったのか無言だ。
さすがに親父の扱い方も心得ているやつだけあって余計なことはあまりしない。
着きましたよ、と言われてエレベーターを降りると他のフロアと違い薬品集が鼻を突く。
それに、廊下はしんと静まり返っていて人の気配がまったくない。
「なあ、ここいつもこんなに人いねえの?」
「さあ、どうでしょうね」
私もあまり来ませんから、と言われてふうんと俺は相槌を打った。
まあ一般団員と違ってあんまり招集掛けられねえもんな、と思いながら従兄弟たちのいる場所へと歩いていく。
途中、奨学金のポスターなんかも貼ってあって思わず見入ってしまった。
「あ!あれですね」
ティラミスに言われて左手の部屋を見ると、整然と並ぶ机でメモを取る科学者たちが大勢いた。
彼らと向かい合うようにして、グンマが一番前の席に座っていた。
キンタローは、と探すとスクリーンの前で指示棒を手にしている。
「なんかの研究発表会か?」
「さあ。たぶんそうなんじゃないでしょうか」
スクリーンに映し出される数式も設計図もどちらを見ても何なのかピンと来ない。
挙手して質問をする男にキンタローがすらすらと答えを述べているが、それに耳をそばだててみても内容は分からなかった。
「あ!キンタローのヤツ、白衣着てやがる」
めずらしいなあ、と呟くと傍らの秘書も相槌を打った。
彼が開発したものを見せられたり、使用する事はあっても、白衣でいるのは滅多に見た事がなかった。
「こちらでは意外と着てるんじゃないんですか」
「そうかもな」
総帥室ではスーツだし、遠征のときもその上に着ているのは白衣ではなく軍用コートだ。
「でも、ちょっと入りずらいですよね。開発課の予算は後回しにしますか?」
まだ間に合いますし、とティラミスに言われ俺もそう思う。
科学者の群れに入っていくのはちょっと勇気がいる。それに大事な話の途中だったら悪いよなあ、とも。
「じゃあ、戻るか」
「はい」
夕食のときにでもキンタローに明日総帥室へくるように言っておこう、そう思いながら俺はジャケットを探った。
「総帥?戻らないんですか?」
「ちょっと待てよ。どうせ来たんだから記念にアイツを撮ってから帰る」
すぐだから待ってろ、と白衣のキンタローに携帯電話を向ける。
メロディが鳴って、表示された画面に満足していると秘書は呆れた顔で俺を見た。
「……シンタロー総帥。仕事中ですよ。後でキンタロー様に怒られても知りませんからね」
おまえが言わなきゃバレねえよ、と言うと秘書は頭に手を当てた。
case.4 待ち受け面倒だから携帯電話の待ち受けは時刻表示にしている、と何かのきっかけで言うとシンタローは、
「信じらんねえ!」
と大きな声で言った。そうか?と尋ねれば皆一様に頷く。
「私はもちろんシンちゃ……」
「即刻消去しろ」
伯父は考えるまでもなく、シンタローを待ち受けにしていた。
言い争いをする親子を横にもう一人の従兄弟のグンマが俺に答える。
「僕はねー。今は今月作ったガンボットだよ。その前はアフリカ1号。だいたい発明品かな」
初めて会った人にどんなの作ってるのか聞かれたとき名刺代わりになるでしょ、とグンマはカップを手に取りながら言う。
「てっきりお菓子とか動物だと思ってたが」
発明品とはなかなかいいアイデアだな、と言うとグンマは笑った。
「でしょ?なかなか研究内容は詳しくいえないしね。
お菓子とか動物は……うーん。カメラで撮るけど待ち受けにはしないなあ」
キンちゃんも発明品にしたら、と言われるがなんとなく柄ではない。
聞かれたことは詳しく説明する方が性に合っている。
「シンちゃんはコタローちゃんだよね?」
紅茶に適量以上の砂糖とミルクを流し込みながら、グンマが当然のように聞いた。
すると、伯父の胸元を掴んでいた従兄弟がぱっと手を放す。
急に離された伯父はソファに投げ出されて、「痛いよシンちゃん」と文句を言っていたが従兄弟は聞いていなかった。
「そうそう!俺のコタロー見てみろよ!」
ジャケットから取り出した携帯電話をシンタローは嬉々として皆に見せた。
あどけない表情で眠るコタローがぬいぐるみを抱いている。
「すっげえ可愛いだろう!」
「そうだな」
「そうだね」
いつものように相槌を打つとシンタローはうんうんと頷いた。
「そうだ。キンタロー!おまえもこれにしろよ!お揃いにしようぜ!」
「……考えさせてくれ」
いいアイデアだろ、と話すシンタローをグンマが冷めた目で見ながら、
「……ブラコンなんだから」
と小さく呟く。
伯父はといえば、
「シンちゃんとお揃い!?ええ!ずるい!!」
と、これもまた見当違いの親馬鹿振りを発揮してくれて、結局いつものように親子喧嘩でその場は収まった。
case.5 結局「なあ。そういえば、おまえって待ち受け画像、時計のまんまなわけ?」
仕事帰りに明日のスケジュールをエレベーターの中で確認していると同じように携帯電話を弄っていたシンタローがふと先日話題にしたことを口にした。
「ああ」
明日は午後に会談か、と確認しながら答える。すると、シンタローは、
「俺、あの後、コタローの画像送ってやったじゃん」
とむっとした口調で言った。
「フォルダに入ったままだ。
変えるのが面倒だったし、第一、兄のおまえならともかく従兄弟に当たる俺が少年の寝顔を待ち受けにするのはおかしくないか?総帥のおまえはフリーパスだが、国によっては補佐官の俺は所持品がチェックされるんだぞ」
俺に幼児愛好の趣味はない、と言うとシンタローは黙った。
「うーん。まあ。そうだよな。従兄弟だもんなあ」
説明できねえなあ、とシンタローが呟く。
「グンマのように発明品にする予定もないぞ」
「なんでだよ?」
「ああいうファンシーなものは形が隠れ蓑になるが、俺のは機能的なデザインのものが多い。
そういうものは専門家が見たら判断しやすいからな。明らかに軍事機密に触れる」
「ああ、なるほど」
そりゃ無理だよな、とシンタローは納得した。
「じゃあ、もしかしておまえってカメラ機能もあんまり使わねえの?」
「……カメラ?そうだな。あまり使わないな」
「ふーん。その分の容量分けて欲しいぜ。俺のコタローフォルダすぐいっぱいになるからさあ」
市販のはもう少し容量大きいぞ、とシンタローが俺を見る。
「あくまで業務用だからな。必要なやつは市販のと使い分けしているだろう」
画像データはそんなに必要ないだろうと、と答えるとシンタローはそれでも諦めきれない口調で、
「2個持つのは面倒なんだよ!」
と言った。
「じゃあ、仕方ないな。……着いたぞ」
エレベーターの扉が開く。
「俺は部屋にいったん戻るから。夕食までに行く、と2人に言っておいてくれ」
「え?ああ。分かった」
じゃあな、とシンタローが手を振る。それに片手を上げて応えて俺は私室へと急いだ。
エレベーターで会話をするまですっかり忘れていた。
俺の携帯電話の中には、シンタローの寝顔が保存されている。
来月には某国で会談が控えている。忘れぬうちに早いところパソコンへと移して消去しないといけない。
ジャケットに仕舞った携帯を取り出し、ボタンを何度か押すとシンタローの寝顔が映し出される。
「携帯電話ではやっていないが、パソコンのデスクトップはおまえだぞ」
と言ってみたら従兄弟はどんな反応をするだろう、そう思いながら俺は携帯電話を閉じた。
伯父貴のように反対されるから、決してシンタローには言わないけれども。
初出:2005/10/19
るみき様に捧げます。
case.1 弟の寝顔電子音が何度も部屋の中に響くのをキンタローは呆れた気持ちで聞いていた。
もう、何度目になるのだろう。
今日撮っただけでもかなりの数になっているはずである。
「シンタロー」
そろそろ帰ろう、とジャケットの裾をつついても弟の寝顔に夢中になっているシンタローには聞こえない。
明日は朝早いんだが、とため息をつきたくなる気持ちを抑えて真剣に携帯電話を構える彼を見つめる。
可愛いなあ、コタロー、とうっとりとして今にも鼻血を垂らしそうな勢いだ。
そして、今撮った画像をひとしきり眺めると、また携帯電話を構える。
「おお!見ろよ、キンタロー!なあ、コレすっげえ可愛いよな?」
すぐに軽快なリズム音が響くと、シンタローははしゃぎながら俺にディスプレイを見せた。
「……ああ、可愛い。だがな、シンタロー。いい加減にしろ」
もう帰ろうと、何度目になるか分からない言葉を吐くとシンタローは、
「あと、1枚。1枚だけだから、な」
と何度目になるのか分からない返事をくれた。
「シンタロー。それはもう聞き飽きた」
いいから帰るぞ、と総帥服の裾を引いてもシンタローは聞く耳を持たない。
弟のコタローにすっかり夢中になってしまった従兄弟に俺はため息を吐いた。
「キンタロー、今度は2人で撮りたいからおまえが撮ってくれよ」
自分でやるのは難しい、と言いながらシンタローは俺の袖を引く。
そして、Gのマークが入ったシンタローの携帯電話を勝手に押し付けられた。
「待ち受けに使いたいんだからな。イイ感じに取れよ」
後ろの花は入れるな、と指示され、俺は仕方なく携帯電話を構えた。
♪♪♪……。
「……どうだ?」
「あー。ちょっとコタローの横ぎりぎりだな。もう1枚取れよ」
「は?いや、だから。シンタロー」
もういいだろう、と言い募っても従兄弟はちっとも聞いてくれない。
その後も無理やり2人を何枚も撮らされて、俺はカメラ機能を付けた携帯電話を開発してしまった過去の自分を恨みたくなった。
case.2 兄の寝顔シンタローの寝顔をシャッターで収めることは簡単だ。
夜を共にしたときに朝方彼よりも早く起きればいいだけのことだし、あるいは昼寝をしているときに足音を立てないようにして近づけばいいだけのことだ。
けれども、それはどちらもパジャマであったり、お馴染みのカンフーパンツのスタイルだったりする。
目の前のように総帥服を着たまま、うたた寝をする彼なんて今まで見たことがない。
開発課の部下からかかってきた電話を終えて、窓辺からデスクへと戻ってきて俺は驚いた。
頬杖をつき、ペンを持ったまま、従兄弟の瞼が閉じられている。
小さい声で「シンタロー」と呼びかけても反応はない。
考え込むようなスタイルだけれども、彼は確かに眠っていた。
仕舞おうとしていた携帯電話のディスプレイを再び開けて、そっと彼に照準を合わせる。
画面いっぱいにシンタローの寝顔が映し出され、かちりと人差し指でその姿を止めると軽快なメロディが鳴った。
「あ、あれ?何してんだよ、キンタロー」
電話終わったのか、と矢継ぎ早に言ってうたた寝を誤魔化す従兄弟に俺は勤めて普通に肯定した。
「メールが来たんだが、今見てもいいか?」
「別にいいけど。俺、まだこの報告書読んでる途中だし」
報告書を手で掲げてシンタローはぎこちなく笑った。
それに気づかない振りをして、俺は手にしている携帯電話を覗き込む。
ディスプレイに映るシンタローの寝顔は被写体がよいこともあって、我ながら上手く撮れていた。
思わずにやつきそうになる口元を必死に抑えながら、俺はディスプレイを静かに閉じた。
case.3 横顔予算編成で不明瞭な点があって、開発課に内線電話をかけたが繋がらない。
どうせ、今日の仕事はこれだけだし、と思って開発課へと久しぶりに行ってみることにした。
俺のどこに不安があるのか、ティラミスもついてきたのが少し気に障ったが、普段行かない場所だから仕方がない。
行きすがら、くれぐれも邪魔しないでくださいね、と念を押されたが子どもじゃあるまいし、従兄弟を仕事中に揶揄うことなんかしない。
大体、知っている団員ならともかくあそこに配属した連中は俺のことをカッコイイ総帥――アンケートで見たから絶対そうだ――だと思ってるんだ。グンマと大人気ない言い争いして夢を壊したくはない。
そんなことを思いながらエレベーターに乗る。
ティラミスもあんまりくどくど言うと俺が怒り出すと思ったのか無言だ。
さすがに親父の扱い方も心得ているやつだけあって余計なことはあまりしない。
着きましたよ、と言われてエレベーターを降りると他のフロアと違い薬品集が鼻を突く。
それに、廊下はしんと静まり返っていて人の気配がまったくない。
「なあ、ここいつもこんなに人いねえの?」
「さあ、どうでしょうね」
私もあまり来ませんから、と言われてふうんと俺は相槌を打った。
まあ一般団員と違ってあんまり招集掛けられねえもんな、と思いながら従兄弟たちのいる場所へと歩いていく。
途中、奨学金のポスターなんかも貼ってあって思わず見入ってしまった。
「あ!あれですね」
ティラミスに言われて左手の部屋を見ると、整然と並ぶ机でメモを取る科学者たちが大勢いた。
彼らと向かい合うようにして、グンマが一番前の席に座っていた。
キンタローは、と探すとスクリーンの前で指示棒を手にしている。
「なんかの研究発表会か?」
「さあ。たぶんそうなんじゃないでしょうか」
スクリーンに映し出される数式も設計図もどちらを見ても何なのかピンと来ない。
挙手して質問をする男にキンタローがすらすらと答えを述べているが、それに耳をそばだててみても内容は分からなかった。
「あ!キンタローのヤツ、白衣着てやがる」
めずらしいなあ、と呟くと傍らの秘書も相槌を打った。
彼が開発したものを見せられたり、使用する事はあっても、白衣でいるのは滅多に見た事がなかった。
「こちらでは意外と着てるんじゃないんですか」
「そうかもな」
総帥室ではスーツだし、遠征のときもその上に着ているのは白衣ではなく軍用コートだ。
「でも、ちょっと入りずらいですよね。開発課の予算は後回しにしますか?」
まだ間に合いますし、とティラミスに言われ俺もそう思う。
科学者の群れに入っていくのはちょっと勇気がいる。それに大事な話の途中だったら悪いよなあ、とも。
「じゃあ、戻るか」
「はい」
夕食のときにでもキンタローに明日総帥室へくるように言っておこう、そう思いながら俺はジャケットを探った。
「総帥?戻らないんですか?」
「ちょっと待てよ。どうせ来たんだから記念にアイツを撮ってから帰る」
すぐだから待ってろ、と白衣のキンタローに携帯電話を向ける。
メロディが鳴って、表示された画面に満足していると秘書は呆れた顔で俺を見た。
「……シンタロー総帥。仕事中ですよ。後でキンタロー様に怒られても知りませんからね」
おまえが言わなきゃバレねえよ、と言うと秘書は頭に手を当てた。
case.4 待ち受け面倒だから携帯電話の待ち受けは時刻表示にしている、と何かのきっかけで言うとシンタローは、
「信じらんねえ!」
と大きな声で言った。そうか?と尋ねれば皆一様に頷く。
「私はもちろんシンちゃ……」
「即刻消去しろ」
伯父は考えるまでもなく、シンタローを待ち受けにしていた。
言い争いをする親子を横にもう一人の従兄弟のグンマが俺に答える。
「僕はねー。今は今月作ったガンボットだよ。その前はアフリカ1号。だいたい発明品かな」
初めて会った人にどんなの作ってるのか聞かれたとき名刺代わりになるでしょ、とグンマはカップを手に取りながら言う。
「てっきりお菓子とか動物だと思ってたが」
発明品とはなかなかいいアイデアだな、と言うとグンマは笑った。
「でしょ?なかなか研究内容は詳しくいえないしね。
お菓子とか動物は……うーん。カメラで撮るけど待ち受けにはしないなあ」
キンちゃんも発明品にしたら、と言われるがなんとなく柄ではない。
聞かれたことは詳しく説明する方が性に合っている。
「シンちゃんはコタローちゃんだよね?」
紅茶に適量以上の砂糖とミルクを流し込みながら、グンマが当然のように聞いた。
すると、伯父の胸元を掴んでいた従兄弟がぱっと手を放す。
急に離された伯父はソファに投げ出されて、「痛いよシンちゃん」と文句を言っていたが従兄弟は聞いていなかった。
「そうそう!俺のコタロー見てみろよ!」
ジャケットから取り出した携帯電話をシンタローは嬉々として皆に見せた。
あどけない表情で眠るコタローがぬいぐるみを抱いている。
「すっげえ可愛いだろう!」
「そうだな」
「そうだね」
いつものように相槌を打つとシンタローはうんうんと頷いた。
「そうだ。キンタロー!おまえもこれにしろよ!お揃いにしようぜ!」
「……考えさせてくれ」
いいアイデアだろ、と話すシンタローをグンマが冷めた目で見ながら、
「……ブラコンなんだから」
と小さく呟く。
伯父はといえば、
「シンちゃんとお揃い!?ええ!ずるい!!」
と、これもまた見当違いの親馬鹿振りを発揮してくれて、結局いつものように親子喧嘩でその場は収まった。
case.5 結局「なあ。そういえば、おまえって待ち受け画像、時計のまんまなわけ?」
仕事帰りに明日のスケジュールをエレベーターの中で確認していると同じように携帯電話を弄っていたシンタローがふと先日話題にしたことを口にした。
「ああ」
明日は午後に会談か、と確認しながら答える。すると、シンタローは、
「俺、あの後、コタローの画像送ってやったじゃん」
とむっとした口調で言った。
「フォルダに入ったままだ。
変えるのが面倒だったし、第一、兄のおまえならともかく従兄弟に当たる俺が少年の寝顔を待ち受けにするのはおかしくないか?総帥のおまえはフリーパスだが、国によっては補佐官の俺は所持品がチェックされるんだぞ」
俺に幼児愛好の趣味はない、と言うとシンタローは黙った。
「うーん。まあ。そうだよな。従兄弟だもんなあ」
説明できねえなあ、とシンタローが呟く。
「グンマのように発明品にする予定もないぞ」
「なんでだよ?」
「ああいうファンシーなものは形が隠れ蓑になるが、俺のは機能的なデザインのものが多い。
そういうものは専門家が見たら判断しやすいからな。明らかに軍事機密に触れる」
「ああ、なるほど」
そりゃ無理だよな、とシンタローは納得した。
「じゃあ、もしかしておまえってカメラ機能もあんまり使わねえの?」
「……カメラ?そうだな。あまり使わないな」
「ふーん。その分の容量分けて欲しいぜ。俺のコタローフォルダすぐいっぱいになるからさあ」
市販のはもう少し容量大きいぞ、とシンタローが俺を見る。
「あくまで業務用だからな。必要なやつは市販のと使い分けしているだろう」
画像データはそんなに必要ないだろうと、と答えるとシンタローはそれでも諦めきれない口調で、
「2個持つのは面倒なんだよ!」
と言った。
「じゃあ、仕方ないな。……着いたぞ」
エレベーターの扉が開く。
「俺は部屋にいったん戻るから。夕食までに行く、と2人に言っておいてくれ」
「え?ああ。分かった」
じゃあな、とシンタローが手を振る。それに片手を上げて応えて俺は私室へと急いだ。
エレベーターで会話をするまですっかり忘れていた。
俺の携帯電話の中には、シンタローの寝顔が保存されている。
来月には某国で会談が控えている。忘れぬうちに早いところパソコンへと移して消去しないといけない。
ジャケットに仕舞った携帯を取り出し、ボタンを何度か押すとシンタローの寝顔が映し出される。
「携帯電話ではやっていないが、パソコンのデスクトップはおまえだぞ」
と言ってみたら従兄弟はどんな反応をするだろう、そう思いながら俺は携帯電話を閉じた。
伯父貴のように反対されるから、決してシンタローには言わないけれども。
初出:2005/10/19
るみき様に捧げます。
PR
dialogue
case.1 彼の髪シンタローの髪が好きだ。いや、好きなのは別に髪だけではないんだが。
彼の髪は俺よりもずっと長い。腰までは行かないが、優に肩は超えている。
癖のない、真っ直ぐとした……そうまるで糸を集めたかのような髪だ。
総帥になってからは以前と違って紐でくくることをしなくなった。
なんの手も加えずに背に流された髪には紐の跡も何もついていない。
とてもきれいな髪だ。
「なんだよ?」
「いいや」
まだ終わらないのか、と凝視していたことを誤魔化すとシンタローはばつの悪そうな顔をした。
「もう少し……だな。悪いけどちょっと待てよ」
積み上げた報告書の上に今、サインし終わった物を乗せる。
ちらり、とそれを見るとサインの横に押した判が曲がっていた。
「シンタロー」
「なんだよ」
紙を捲る手を止めずにシンタローが問う。問われるままに、
「曲がっているぞ」
と答える。するとシンタローは深いため息を吐いた。
「……今読んでるのからは気をつける」
あー、ちくしょう、とがしがしと髪をシンタローが掻き回す。
黒い髪が乱れて、赤い総帥服のジャケットにばらばらと髪の房が散った。少しだけ見苦しい。
「あまり……髪を掻き回すな」
急な客が会ったらどうする、と嗜めるとシンタローは口を尖らせた。
「癖なんだから仕方ねえだろ!気に何ならお前が直せよ」
case.2 彼の口唇キレたときのキンタローほどやっかいなものはない。
ミスを犯し、一般家屋への被害が少し出て今ヤツはかなりのお冠だ。
そりゃあ、俺だって怒鳴りつけたい。
一応、ガンマ団は正義のお仕置き集団に変わったんだ。
ようやく世間に根付いてきた評価をまた昔に戻したくはない。
俺を初めて殺そうとしたときは今のように語彙が豊かでなかった。
殺してやる、とかお前を殺すだとか、まあ、そんな風にしか言ってなかった気がする。
ところが、ドクターの献身的な教育の甲斐があってかいつのまにかコイツは口が達者になってしまった。
科学者として発表の場がある所為もあるだろう。
それと、俺に同行して色々な交渉の場に着くことも多くなったからかもしれない。
ともかくキンタローは以前より格段に口が回るようになったわけだ。
それでもって、今キンタローはというと直接的なミスを犯した団員を前に情報伝達の重要さを説いている。
その態度は慇懃無礼で、俺がこの団員だったらとっくの昔に取っ組み合いになっているようなモンだ。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローの片眉が上がった。
顔を合わせた彼の秘石眼は辛うじて光っていないが、、口元が若干歪んでいる。
「とりあえずそいつは謹慎させておいて、帰還してから始末書を書かせるんでいいだろ。
他にも処理することはあるんだ」
下がっていいぜ、と告げると青ざめた顔で敬礼し去っていく。
司令室にはとっくに他の部下たちはいない。
怒ったキンタローほど厄介なものはいないからだ。
「謹慎?始末書?生温い処分だな」
あー、まだ口の端が上がってんな。
髪をかき上げながら、キンタローの癖を確かめる。この口元が戻らないとちょっとしたことでネチネチ言われちまう。
「処分は始末書を見てから出すんでもいいだろ。減給すんなり、配置転換すんなり、さ」
なだめるように言うとキンタローはふんと鼻を鳴らした。
まだ、あまり気が落ち着いてないようだ。
「とりあえずコーヒーでも淹れて気分転換しようぜ。今後の作戦も少し変えなきゃだめだろ」
落ち着けよ、な、と椅子を勧めて俺はジャケットを脱いだ。
キンタローは素直に従ってくれたが、機嫌が良くなったわけではない。
口元で機嫌が分かるからまだ対処のしようがあるが……。
(これで、この癖なかったら最悪だよなあ)
歪んだ口元を見ながらため息を吐くとキンタローの眉がピクリと動いた。
case.3 彼の鏡「また、見てるのか」
部屋に入るとキンタローはいつものように驚いたような表情で俺の方を振り返った。
いつの頃か、キンタローは一人でいたいときに亡き叔父の部屋の鏡を見つめるようになった。
ルーザー叔父さんの部屋はキンタローの書斎になっているし、彼がそこにいても不都合はないのだが気にはなる。
「飽きないよなあ、お前」
部屋の壁に掛けられた長方形の姿見はごく普通のものだ。
華美なことを嫌い、合理的なものを好んだという叔父の遺品らしく目立たぬ色合いの縁をしている。
「……いいだろう。べつに」
決まってこの鏡のことを言及するとキンタローは眼を逸らす。
それはなぜだか分からないけれど。
「まあ、べつにいいんだけどな。珍しくハーレムとサービス叔父さんが揃って来てるから呼びに来た」
来いよ、と誘うとキンタローの目が丸くなる。
「あの二人が?それは……珍しいな」
「親父がいないから、ドクターとグンマが相手をしてるとこ。夕飯は外へ食いに行こうってさ」
予定はないよな、と確認するとキンタローは肯定する。
「ジャケットは後で取りに来ればいいだろ。早く来いよ」
紅茶が冷めると言うとキンタローは分かったといつもどおりの声で答え、それから鏡の縁をやさしく指でなぞる。
それはいつ見ても不思議な光景だ。凝視しているのをばれないようにさり気無く扉へ向かうとキンタローも後に続く。
シャッと小気味よく自動的に扉が開く。もう一度音が聞こえるのは閉まるときだ。
だが。
扉が閉まるのはいつもゆっくりだ。
あの鏡に固執するわけはよく分からない。
それでも、部屋を去る間際にキンタローが鏡へと振り返り、扉が開け放たれたままになるのを俺はいつも見ていない振りをする。
case.4 彼が眠るときノックをした後、覗き窓から俺の姿を確認しシンタローが部屋のドアを開ける。
現れた従兄弟の姿を見て俺はもう何度目になるか分からない注意を口にする羽目になった。
「ここがどこだか分かっているのか」
五ツ星にランクするホテル、とはいえ休戦協定を結んだばかりの国で下着一枚で寝る人間がいていいんだろうか。
持参した資料の説明はそこそこに指摘するとシンタローはぷいと顔を背けた。
*
ベッドの上でシンタローは胡坐をかいている。
その所作も咎めたいところだが、これはまあいい。
寒くはない、とはいえこの国の温度は別段暑くもない。
空調が壊れているわけでも、風呂に入る直前といったわけでもないのに従兄弟は下着のみを纏った状態でいる。
「パジャマはどうしたんだ」
「ンなもん持ってきてるわけないだろ」
交渉だぜ。観光じゃないんだ。荷物は最低限でいいに決まってるだろ、とシンタローは当たり前のように口にする。
「部下たちだって私物は出来る限りセーブしてるしさ」
それでも、おまえのように下着一枚で部屋にはいないと思うがな。
思わず、そう言いたくなったがぐっと我慢した。
「百歩譲ってパジャマを持ってきてなくてもよしとしよう。
だが、部下たちだって飛空艦の中で非番のときは私服を着ているな?」
たいていはシンタローと同じようなカンフーパンツだったり、動きやすい服装だったりだが。
「おまえも総帥服を脱いでるときは私服を着ていたはずだ」
パジャマがなくても、それがあるだろうと言い募るとシンタローはひらひらと手を振った。
「あ、それ無理。今、洗っちまっててさ。第一、艦に置いてきてるし」
着る物ない、とシンタローがあっさりと言う。
頭が痛くなったが、俺は我慢した。
「洗ってしまったのなら仕方がない。
だが、このホテルの設備は一級だ。アメニティだって充実している。
服を持ってきていないおまえのことだからシャンプーだってここのを使ったんだろう?」
「シャンプー?当たり前だろ」
「それなら、その傍にバスローブがあったのを分かっているはずだな。何でそれを着ない」
何かあったら、急に誰かが訪ねて来たり、何かで避難しなくてはいけない場合どうすると畳み掛ける。
するとシンタローは悪びれることなく答えた。
「だって男のパジャマといったらこれだろ!それにパプワ島で暮らしてからすっかり癖になっちまってさ」
夜、何かを着るのは落ち着かないとあっさり言い放つシンタローに俺はもうため息しか出てこなかった。
case.5 癖になりそうな……食卓に誰かが欠けているのは珍しいことじゃない。
俺とキンタローはよく遠征へ行くし、グンマだって遠方の会議に出席することもある。
それでも長期間の不在がこうも重なることは珍しかった。
「早いな」
すっきりと身嗜みを整えたキンタローが俺に近づく。
昨日の午後から親父とグンマはそれぞれの用事でいない。それも今週末まで1週間も、だ。
「いつもどおりだろ。それより、キンタロー。なんか忘れてねえ?」
昨日約束しただろ、とからかい混じりに注意をするとキンタローは
「うっかりしていた。そうだったな。すまない」
明日から気をつけよう、とわざとらしく肩をすくめて見せる。
そして、それから俺に、
「おはよう、シンタロー」
と口にしてから軽いキスを頬にくれた。
「ん。よく出来ました」
笑いながら、キスのお返しをするとキンタローもくすぐったそうな表情をする。
「これを1週間続けるんだな」
たまにおまえは面白いゲームを思いつく、とキンタローは笑った。
「後からキッチンに入ってきた方からやるんだぜ」
やられた方は3秒以内にお返し、しかも忘れた方が朝食の用意な、と口にするとキンタローは俺に椅子を勧めた。
「今日は俺が作るとしても……どちらも覚えていたらどうするんだ?」
「そりゃ一緒に作ればいいだろ」
なに言ってるんだよ、と呆れたように答えて見せる。
それもそうだな、と特に感心したようには答えずにキンタローは首肯した。
「……それよりも」
「なんだよ?」
淹れたてのコーヒーに口をつけて先を促すとキンタローはトマトにフォークを刺した。
「このゲームは1週間も続けたら癖になりそうじゃないか?
二人が帰ってきたら気をつけろよ、とサラダを食べ進めながら口にするキンタローに俺も言ってやった。
「それを言うならおまえもだろ」
初出:2005/09/30
かな様に捧げます。
case.1 彼の髪シンタローの髪が好きだ。いや、好きなのは別に髪だけではないんだが。
彼の髪は俺よりもずっと長い。腰までは行かないが、優に肩は超えている。
癖のない、真っ直ぐとした……そうまるで糸を集めたかのような髪だ。
総帥になってからは以前と違って紐でくくることをしなくなった。
なんの手も加えずに背に流された髪には紐の跡も何もついていない。
とてもきれいな髪だ。
「なんだよ?」
「いいや」
まだ終わらないのか、と凝視していたことを誤魔化すとシンタローはばつの悪そうな顔をした。
「もう少し……だな。悪いけどちょっと待てよ」
積み上げた報告書の上に今、サインし終わった物を乗せる。
ちらり、とそれを見るとサインの横に押した判が曲がっていた。
「シンタロー」
「なんだよ」
紙を捲る手を止めずにシンタローが問う。問われるままに、
「曲がっているぞ」
と答える。するとシンタローは深いため息を吐いた。
「……今読んでるのからは気をつける」
あー、ちくしょう、とがしがしと髪をシンタローが掻き回す。
黒い髪が乱れて、赤い総帥服のジャケットにばらばらと髪の房が散った。少しだけ見苦しい。
「あまり……髪を掻き回すな」
急な客が会ったらどうする、と嗜めるとシンタローは口を尖らせた。
「癖なんだから仕方ねえだろ!気に何ならお前が直せよ」
case.2 彼の口唇キレたときのキンタローほどやっかいなものはない。
ミスを犯し、一般家屋への被害が少し出て今ヤツはかなりのお冠だ。
そりゃあ、俺だって怒鳴りつけたい。
一応、ガンマ団は正義のお仕置き集団に変わったんだ。
ようやく世間に根付いてきた評価をまた昔に戻したくはない。
俺を初めて殺そうとしたときは今のように語彙が豊かでなかった。
殺してやる、とかお前を殺すだとか、まあ、そんな風にしか言ってなかった気がする。
ところが、ドクターの献身的な教育の甲斐があってかいつのまにかコイツは口が達者になってしまった。
科学者として発表の場がある所為もあるだろう。
それと、俺に同行して色々な交渉の場に着くことも多くなったからかもしれない。
ともかくキンタローは以前より格段に口が回るようになったわけだ。
それでもって、今キンタローはというと直接的なミスを犯した団員を前に情報伝達の重要さを説いている。
その態度は慇懃無礼で、俺がこの団員だったらとっくの昔に取っ組み合いになっているようなモンだ。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローの片眉が上がった。
顔を合わせた彼の秘石眼は辛うじて光っていないが、、口元が若干歪んでいる。
「とりあえずそいつは謹慎させておいて、帰還してから始末書を書かせるんでいいだろ。
他にも処理することはあるんだ」
下がっていいぜ、と告げると青ざめた顔で敬礼し去っていく。
司令室にはとっくに他の部下たちはいない。
怒ったキンタローほど厄介なものはいないからだ。
「謹慎?始末書?生温い処分だな」
あー、まだ口の端が上がってんな。
髪をかき上げながら、キンタローの癖を確かめる。この口元が戻らないとちょっとしたことでネチネチ言われちまう。
「処分は始末書を見てから出すんでもいいだろ。減給すんなり、配置転換すんなり、さ」
なだめるように言うとキンタローはふんと鼻を鳴らした。
まだ、あまり気が落ち着いてないようだ。
「とりあえずコーヒーでも淹れて気分転換しようぜ。今後の作戦も少し変えなきゃだめだろ」
落ち着けよ、な、と椅子を勧めて俺はジャケットを脱いだ。
キンタローは素直に従ってくれたが、機嫌が良くなったわけではない。
口元で機嫌が分かるからまだ対処のしようがあるが……。
(これで、この癖なかったら最悪だよなあ)
歪んだ口元を見ながらため息を吐くとキンタローの眉がピクリと動いた。
case.3 彼の鏡「また、見てるのか」
部屋に入るとキンタローはいつものように驚いたような表情で俺の方を振り返った。
いつの頃か、キンタローは一人でいたいときに亡き叔父の部屋の鏡を見つめるようになった。
ルーザー叔父さんの部屋はキンタローの書斎になっているし、彼がそこにいても不都合はないのだが気にはなる。
「飽きないよなあ、お前」
部屋の壁に掛けられた長方形の姿見はごく普通のものだ。
華美なことを嫌い、合理的なものを好んだという叔父の遺品らしく目立たぬ色合いの縁をしている。
「……いいだろう。べつに」
決まってこの鏡のことを言及するとキンタローは眼を逸らす。
それはなぜだか分からないけれど。
「まあ、べつにいいんだけどな。珍しくハーレムとサービス叔父さんが揃って来てるから呼びに来た」
来いよ、と誘うとキンタローの目が丸くなる。
「あの二人が?それは……珍しいな」
「親父がいないから、ドクターとグンマが相手をしてるとこ。夕飯は外へ食いに行こうってさ」
予定はないよな、と確認するとキンタローは肯定する。
「ジャケットは後で取りに来ればいいだろ。早く来いよ」
紅茶が冷めると言うとキンタローは分かったといつもどおりの声で答え、それから鏡の縁をやさしく指でなぞる。
それはいつ見ても不思議な光景だ。凝視しているのをばれないようにさり気無く扉へ向かうとキンタローも後に続く。
シャッと小気味よく自動的に扉が開く。もう一度音が聞こえるのは閉まるときだ。
だが。
扉が閉まるのはいつもゆっくりだ。
あの鏡に固執するわけはよく分からない。
それでも、部屋を去る間際にキンタローが鏡へと振り返り、扉が開け放たれたままになるのを俺はいつも見ていない振りをする。
case.4 彼が眠るときノックをした後、覗き窓から俺の姿を確認しシンタローが部屋のドアを開ける。
現れた従兄弟の姿を見て俺はもう何度目になるか分からない注意を口にする羽目になった。
「ここがどこだか分かっているのか」
五ツ星にランクするホテル、とはいえ休戦協定を結んだばかりの国で下着一枚で寝る人間がいていいんだろうか。
持参した資料の説明はそこそこに指摘するとシンタローはぷいと顔を背けた。
*
ベッドの上でシンタローは胡坐をかいている。
その所作も咎めたいところだが、これはまあいい。
寒くはない、とはいえこの国の温度は別段暑くもない。
空調が壊れているわけでも、風呂に入る直前といったわけでもないのに従兄弟は下着のみを纏った状態でいる。
「パジャマはどうしたんだ」
「ンなもん持ってきてるわけないだろ」
交渉だぜ。観光じゃないんだ。荷物は最低限でいいに決まってるだろ、とシンタローは当たり前のように口にする。
「部下たちだって私物は出来る限りセーブしてるしさ」
それでも、おまえのように下着一枚で部屋にはいないと思うがな。
思わず、そう言いたくなったがぐっと我慢した。
「百歩譲ってパジャマを持ってきてなくてもよしとしよう。
だが、部下たちだって飛空艦の中で非番のときは私服を着ているな?」
たいていはシンタローと同じようなカンフーパンツだったり、動きやすい服装だったりだが。
「おまえも総帥服を脱いでるときは私服を着ていたはずだ」
パジャマがなくても、それがあるだろうと言い募るとシンタローはひらひらと手を振った。
「あ、それ無理。今、洗っちまっててさ。第一、艦に置いてきてるし」
着る物ない、とシンタローがあっさりと言う。
頭が痛くなったが、俺は我慢した。
「洗ってしまったのなら仕方がない。
だが、このホテルの設備は一級だ。アメニティだって充実している。
服を持ってきていないおまえのことだからシャンプーだってここのを使ったんだろう?」
「シャンプー?当たり前だろ」
「それなら、その傍にバスローブがあったのを分かっているはずだな。何でそれを着ない」
何かあったら、急に誰かが訪ねて来たり、何かで避難しなくてはいけない場合どうすると畳み掛ける。
するとシンタローは悪びれることなく答えた。
「だって男のパジャマといったらこれだろ!それにパプワ島で暮らしてからすっかり癖になっちまってさ」
夜、何かを着るのは落ち着かないとあっさり言い放つシンタローに俺はもうため息しか出てこなかった。
case.5 癖になりそうな……食卓に誰かが欠けているのは珍しいことじゃない。
俺とキンタローはよく遠征へ行くし、グンマだって遠方の会議に出席することもある。
それでも長期間の不在がこうも重なることは珍しかった。
「早いな」
すっきりと身嗜みを整えたキンタローが俺に近づく。
昨日の午後から親父とグンマはそれぞれの用事でいない。それも今週末まで1週間も、だ。
「いつもどおりだろ。それより、キンタロー。なんか忘れてねえ?」
昨日約束しただろ、とからかい混じりに注意をするとキンタローは
「うっかりしていた。そうだったな。すまない」
明日から気をつけよう、とわざとらしく肩をすくめて見せる。
そして、それから俺に、
「おはよう、シンタロー」
と口にしてから軽いキスを頬にくれた。
「ん。よく出来ました」
笑いながら、キスのお返しをするとキンタローもくすぐったそうな表情をする。
「これを1週間続けるんだな」
たまにおまえは面白いゲームを思いつく、とキンタローは笑った。
「後からキッチンに入ってきた方からやるんだぜ」
やられた方は3秒以内にお返し、しかも忘れた方が朝食の用意な、と口にするとキンタローは俺に椅子を勧めた。
「今日は俺が作るとしても……どちらも覚えていたらどうするんだ?」
「そりゃ一緒に作ればいいだろ」
なに言ってるんだよ、と呆れたように答えて見せる。
それもそうだな、と特に感心したようには答えずにキンタローは首肯した。
「……それよりも」
「なんだよ?」
淹れたてのコーヒーに口をつけて先を促すとキンタローはトマトにフォークを刺した。
「このゲームは1週間も続けたら癖になりそうじゃないか?
二人が帰ってきたら気をつけろよ、とサラダを食べ進めながら口にするキンタローに俺も言ってやった。
「それを言うならおまえもだろ」
初出:2005/09/30
かな様に捧げます。
二人のキス
case.1 甘えん坊なきス「ほな、おさきに」
名残惜しそうに陰気な男が降りると、従兄弟は深くため息を吐いた。
辛気臭い香の香りがまだそこらに漂っている気がする。
「あいつも……うざったくなけりゃあ、使える男なのにな」
幾度となく聞かされた言葉を聞き、俺は律儀にああと返す。
アラシヤマは確かにうざったい。
あれがなければ、というか極端に従兄弟に固執しなければ俺が四六時中シンタローについていかなくてもよいのだが。
「あれのどうしようもなさは今更直るものでもないだろう。我慢しろ」
あの根暗な性格を強制できるようなプログラムなどありはしない。
かといって優秀な人材を首にすることもできない現実もある。
「我慢か~」
「おまえには難しいことだろうがな」
ちらりと従兄弟の横に目を向けるとシンタローはぐっと詰まった表情をした。
「エレベーターの中では眼魔砲を撃たないくらいの分別はついているようだが」
壁には彼が苛つくあまりにめり込ませた拳の跡が残っている。
なにやらぶつぶつとシンタローは文句を言っていたが、俺が軽く睨むと口を閉じた。
「……悪かったよ」
ぶすっとした表情のまま従兄弟は組んでいた手を解く。
はあ、ともう一度深いため息をつき、彼は艶やかな髪をがしがしとかき混ぜはじめた。
赤い服に黒い髪が乱雑に散らばるのを見て、俺の方こそため息を吐きたくなる。
「シンタロー」
「なんだよ」
上目遣いに俺を伺う従兄弟に別に怒ってはいないと囁く。
髪をかき上げる動作を止めた彼の手首にくちづけを落とすとシンタローは眉を吊り上げた。
「おまえなあ、仕事中だろ」
「一応密室だ」
憮然とした表情のシンタローの眉間へともキスを落とすと彼は再びため息を吐く。
「……誰か乗ってきたらどうすんだよ」
「そのときは、そのときだ」
伯父貴でないといいな、と揶揄い混じりに耳を食むとシンタローは身を捩った。
やめろよ、と軽く手で払い、反撃してくる彼は目も口も笑っている。
笑いながら抵抗するシンタローへ俺はじゃれつくように腕を伸ばした。
抱きしめるとシンタローは「しょうがないヤツだよ。……俺の従兄弟は甘ったればっかだなあ」といいながら俺の頬に手を寄せる。
「俺もおまえも我慢が足りねぇよな」
深くくちづけを交わす前にシンタローは悪戯めいた表情でそう言った。
case.2 戦場でのキスダ、ダ、ダダダダダ。
銃声がぱらぱらとそこらじゅうで響く。
特殊能力を持った戦闘員が多いとはいえ、なかなか防ぎきれない。
走りながら傍らの従兄弟に目を向ければ彼の左腕は銃弾が掠った所為で赤い総帥服が濃く見えた。
「キリねえよな」
きいんと弾がすぐ横の金属製の窓枠に弾かれて耳障りな音を立てる。
眼魔砲を使っちゃだめか、と伺いたててきた従兄弟に首を振ると彼は大仰に嘆息した。
「地道に作戦通りやるしかねえのかよ」
「眼魔砲はあくまで最終手段だ。貴重なデータを失いたくはない」
あきらめろ、と言いながら通路の死角から照準を合わせてきた敵兵にレーザー銃を撃つ。
「この建物は複雑な造りなんだ。崩壊したらどれだけの被害が出るか分からないぞ。
死人を出したくないのならそれで我慢しろ」
従兄弟が手に握っている最低値に設定したレーザー銃を示すとシンタローははいはいとおざなりな返事をした。
「予定通りなら夕飯前に終わるよな。まあ、お互いがんばろうぜ」
おれはこっちだったな、と二股に分かれた通路に差し掛かるとシンタローが左の方向を指差す。
「気をつけろよ、シンタロー」
「おまえもな」
じゃあな、と手を振って別れる前にシンタローがぐいっと俺の手首をつかむ。
銃に軽くキスを落とすとシンタローは悪戯めいた表情で笑った。
「おまえにはあとでやるよ」
振り返り、手を振る従兄弟に嘆息しつつ、俺はレーザー銃を握りなおした。
右の通路から足音が近づいてくる。
打ち込まれる弾丸を避けてトリガーを引くと青白いひかりが宙にラインを描いて弾けた。
case.3 病室でのキス 夜半に訪れたこともあって、病棟はしんと静まり返っている。
大きな戦闘も近頃はないためか、病棟を歩いても呻き声や苦しげな寝息は聞こえない。
コツコツと靴の音が響かぬよう、細心の注意を払って一番奥の病室へと向かう。
扉の前で指紋照合をすると、開いた扉からメルヘンチックな病室が現れた。
「お土産だよ、コタロー。ピンクのくまなんだ。かわいいだろ」
大人の手でも一抱えにもなる大きなぬいぐるみをシンタローは小さい従兄弟のベッドの下に置いた。
部屋の中にはもういくつものぬいぐるみやら洋服が所狭しと展示されている。
「最近来れなくてごめんな。お兄ちゃん、お仕事忙しかったんだよ」
ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けてシンタローは小さい従兄弟の髪を梳いた。
さらさらと眺めの前髪が瞼をくすぐっても小さい従兄弟は嫌がる仕草をすることがない。
少し前に訪れたときと同じように深い眠りに落ちているままだ。
ひとしきり、最近の家族のことを話すとシンタローはいつものようにコタローの頬へと軽いキスを落とした。
「おやすみ、コタロー。よい夢を」
眠り続ける弟へ意味のない動作だというのに、まるで起きている子どもをあやすようにシンタローはキスを落とす。
シンタローは寝返りも打たない彼の布団をかけなおし、髪を撫でつけた。
病室にしんとした空気が戻る。
おやすみのキスを終えてもベッドの傍から離れないシンタローにため息を吐きつつ、深刻にならないように勤めて俺は明るい声を出して、シンタローと同じように就寝前の儀式を小さな従兄弟へと行った。
「そういえば俺にはおやすみのキスをしてくれたことがないな」
コタローの額から口唇を離し、どうしてだ、とわざと子どもが駄々を捏ねるように尋ねるとシンタローは目を見張った。
立ち上がり、従兄弟の傍へ近づく。手を組んだまま小首を傾げて「シンタロー」と返事を促す。
目を丸くしていたシンタローだったが、もう一度呼びかけると彼は口角を上げた。
「そういえばそうだったな。なんだ、欲しかったんなら早く言えよ」
大人の癖に欲張りなお兄ちゃんだよな、コタローはこういう大人になっちゃだめだぞ、と従兄弟はベッドの弟へと話しかける。
「そうは言われてもな。俺は亡き父に似て慎み深いんだ。伯父貴に欲しいものを強請るときのおまえの態度はなかなか真似できない」
子どもの頃の彼の思い出をいくつか披露すると従兄弟は、
「てめえふざけんな」
と苦々しく言った。だが、すぐに何か反撃を思いついたらしく、にいっと悪戯めいたひかりを目に宿す。
「ああ、そうだ。おやすみのキスの後はついでにいつも世話になっている礼に歌でも歌ってやろうか」
高松が作ったおまえを称える歌なんてどうだ、と意地悪く従兄弟は言ってくる。
いつのまにそんなものを、と眉を顰めるとシンタローは噴出した。
「冗談だぜ、キンタロー。まあ、ドクターならやりかねねえけどな」
大仰に肩をすくめると声を立てて従兄弟は笑う。
笑い声でも小さい従兄弟が目を覚ますことはない。
くっくっくと噛み殺した笑いを響かせる従兄弟が憎らしくて、口唇に噛み付くようなキスをしてやる。
それでもシンタローは笑うことはやめず、病室からの帰り道でも俺たちは互いを遣り込めるためにからかい続ける羽目になった。
case.4 酔っ払いとのキス 扉を開けるなり、キンタローはそこから逃げ出したい衝動に駆られた。
音と色に満ち溢れている中に一際目立った集団、いや目立った男が一人いる。
煌びやかな室内にあっても目を引く派手な赤いスーツ。
ひかりを吸い込む黒い髪。
酒気を帯びた陽気な声。
その持ち主が、認めたくないことにキンタローが迎えに来た人物だった。
「大分聞こし召している様だな」
慇懃な口調で過ぎた酒量を揶揄すると赤い服の男はへらりと笑った。
俺が不機嫌なのにも気づかないわけか、と眉を顰め同席者を一瞥するとどれも皆判を押したように目を逸らす。
何人か見知った顔はいるものの殆どが初対面の者だというのに、だ。
「よ~。キンタロ!どうしてここが分かったんだよ。ま、いいや。座れ。おまえも飲もうぜ」
ほらほら、と従兄弟は隣のスペースを手で叩いた。
居合わせた連中の一人がこっそりと連絡を寄越したというのに、人の気も知らず陽気に店の人間に手を上げて合図などしている。
「あ~、えっと俺とおんなじでいいよな。さっきのワインを持って……」
誰が飲むか。
俺はおまえを迎えに来たんだ、と思わず怒鳴りたくなった。
だが、ここで言い合いになるのはよくない。
酔っていつも以上に短気なシンタローが店を破壊するのだけは避けたい。
「いや。いらない。それより、いい加減にしないと明日に障るぞ」
ほら、もうやめろ、とグラスを握る手を掴んで促す。
するとシンタローは「ぜってぇいやだ」と首を振った。
「駄々を捏ねるな。明日は朝からヘリに乗って視察に行くんだぞ」
帰って寝ろ、と隙を突いてグラスを取り上げる。
シンタローが呼んだ店員に有無を言わさず受け取らせ、シンタローの二の腕を掴む。
総帥服に皺が寄ったが、代えは何着もある。
ぐっと掴んで立ち上がらせると、シンタローは俺の胸を押した。
「明日の視察になんか影響ねえよ。俺はまだ飲むぞ。おまえは飲まないんなら帰れ」
手を離せ、と口を尖らせるシンタローに駄目だと何度も根気よく繰り返す。
それから、シンタローと「いやだ、飲む」「駄目だ、帰ろう」の言い合いを何度か繰り広げ、
「明日後悔するのはおまえだぞ。この間もそうだっただろう」
と俺が口にするとシンタローはようやく口を閉じた。
「ほら、シンタロー。帰るぞ」
やれやれと大人しくなったシンタローの手を引いて促す。
「シンタロー」
「……る」
「シンタロー?」
まだ聞かないのか、とうんざりした気持ちで従兄弟を見ると彼は耳を貸せと手招きした。
耳に当たる息が熱い。
シンタローはおもしろさを隠せない声音で俺に囁いた。
「キスしてくれたら帰ってやるよ」
できないだろ、と身を離し、シンタローは周りを見回した。
帰る帰らないの争いをしていた俺たちを店員だけでなく隣のテーブルの人間までもが見つめている。
先ほどまでの言い争いを思い出して、気まずい気持ちになった。
だが、それよりもシンタローがいそいそとテーブルの上のグラスを取ろうとしたほうが気になった。
「シンタロー」
「何だよ」
諦めたな。おまえも飲むんだろ、と勝ち誇ったかのように従兄弟は振り向いた。
「……!!」
後は知らない。
きっと酔っ払った目で見た幻覚とでも無理やりに思い込んでくれるだろう。
ガンマ団の連中は都合の悪いことは目を背けてくれる。きっと。
それよりも駐車場までずんずんと一人で進んでいくシンタローの機嫌をどうやって取るかのほうが今は重要だった。
case.5 デジャヴュのようなキスそういえば以前もこんなことがあったな、と壁に寄りかかりながらシンタローは思った。
キンタローは、とシンタローがグンマを訪ねたのはほんの数分前のことだった。
おやつというよりもハイティーの時間に差し掛かっていたが、アップルパイが焼けたと口にするとグンマは顔を綻ばせた。
夕飯前だけど、少しならいいだろ、と言うと甘いものに目がないグンマは間髪置かずにシンタローに賛成する。
試作しているロボットらしき物体を片付け、手を洗わなきゃとはしゃぐ彼にもう一人の従兄弟の居所を尋ねたのだ。
「部屋にはいなかったの?」
「ああ」
真っ先に訪ねたキンタローの部屋は応答がなかった。
てっきりグンマと一緒だとばかり思っていた、と言うとグンマは「それならあそこだよ」といった。
「ルーザー叔父様のお部屋にいると思うよ。キンちゃん、研究中でも息抜きによく行くから」
「ふーん。ルーザー叔父さんの部屋か。んじゃ、ちょっと行ってみる。おまえは先、行ってろよ」
すぐ追いつくからと別れて、シンタローは亡き叔父の部屋へと向かったのだった。
人の気配を感じ、扉が自動的に開く。
無機質な感じのする部屋には鏡と、部屋の奥に故人の蔵書やレポートが整然と並んだ本棚があるだけだ。
目当ての従兄弟は扉からすぐ見える鏡の前に佇んでいた。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローはすごい勢いで振り返った。
そして、シンタローへと襲い掛かるかのような勢いで駆け寄る。
「キン……ッ、おい!ちょっと待てッ!」
ぐっとシンタローの肩が壁へと押し付けられる。
扉のすぐ近くの所為か開きっ放しになり、シンタローからは廊下が横目で見えた。
肩の痛みに眉を顰めていると、ぐいっと顎を指で掴まれ、
「キンタロ……ん、ちょっ……」
待てよ、とシンタローが口にする前に言葉が従兄弟の口腔に飲み込まれていく。
どうしたんだ、と疑問を形作る舌が絡め取られ、噛み付くようにキスを挑まれてシンタローはぎゅっと目を閉じた。
口唇が離れ、荒い息を吐く。
ようやく吸い込んだ酸素に頭が回らない。
キンタローはというとシンタローと同じく荒い息を吐きながらも、顎を掴む指を緩めてはいない。
視線が合う。
何か、言わなくては。
どうしていきなり、だとか誰かに見られたらどうする、だとか。
ぐるぐるとシンタローが思い巡らせているとそれよりも先にキンタローが口を開く。
「好きだ」
シンタローの顎をつかんでいた指の力がなくなる。
さっきまで込められていた力とは打って変わった手つきで頬へと指が寄せられる。
「愛している、シンタロー」
掠めるようなキスを口唇で受けて、シンタローは同じようにキンタローの頬へと手を添えた。
互いの髪を梳く指先は優しい。
ジャケットで振動する携帯電話と開け放たれたままの扉に気をとられながらもシンタローはキンタローへとキスを贈った。
初出:2005/09/23
eddy様に捧げます。
case.1 甘えん坊なきス「ほな、おさきに」
名残惜しそうに陰気な男が降りると、従兄弟は深くため息を吐いた。
辛気臭い香の香りがまだそこらに漂っている気がする。
「あいつも……うざったくなけりゃあ、使える男なのにな」
幾度となく聞かされた言葉を聞き、俺は律儀にああと返す。
アラシヤマは確かにうざったい。
あれがなければ、というか極端に従兄弟に固執しなければ俺が四六時中シンタローについていかなくてもよいのだが。
「あれのどうしようもなさは今更直るものでもないだろう。我慢しろ」
あの根暗な性格を強制できるようなプログラムなどありはしない。
かといって優秀な人材を首にすることもできない現実もある。
「我慢か~」
「おまえには難しいことだろうがな」
ちらりと従兄弟の横に目を向けるとシンタローはぐっと詰まった表情をした。
「エレベーターの中では眼魔砲を撃たないくらいの分別はついているようだが」
壁には彼が苛つくあまりにめり込ませた拳の跡が残っている。
なにやらぶつぶつとシンタローは文句を言っていたが、俺が軽く睨むと口を閉じた。
「……悪かったよ」
ぶすっとした表情のまま従兄弟は組んでいた手を解く。
はあ、ともう一度深いため息をつき、彼は艶やかな髪をがしがしとかき混ぜはじめた。
赤い服に黒い髪が乱雑に散らばるのを見て、俺の方こそため息を吐きたくなる。
「シンタロー」
「なんだよ」
上目遣いに俺を伺う従兄弟に別に怒ってはいないと囁く。
髪をかき上げる動作を止めた彼の手首にくちづけを落とすとシンタローは眉を吊り上げた。
「おまえなあ、仕事中だろ」
「一応密室だ」
憮然とした表情のシンタローの眉間へともキスを落とすと彼は再びため息を吐く。
「……誰か乗ってきたらどうすんだよ」
「そのときは、そのときだ」
伯父貴でないといいな、と揶揄い混じりに耳を食むとシンタローは身を捩った。
やめろよ、と軽く手で払い、反撃してくる彼は目も口も笑っている。
笑いながら抵抗するシンタローへ俺はじゃれつくように腕を伸ばした。
抱きしめるとシンタローは「しょうがないヤツだよ。……俺の従兄弟は甘ったればっかだなあ」といいながら俺の頬に手を寄せる。
「俺もおまえも我慢が足りねぇよな」
深くくちづけを交わす前にシンタローは悪戯めいた表情でそう言った。
case.2 戦場でのキスダ、ダ、ダダダダダ。
銃声がぱらぱらとそこらじゅうで響く。
特殊能力を持った戦闘員が多いとはいえ、なかなか防ぎきれない。
走りながら傍らの従兄弟に目を向ければ彼の左腕は銃弾が掠った所為で赤い総帥服が濃く見えた。
「キリねえよな」
きいんと弾がすぐ横の金属製の窓枠に弾かれて耳障りな音を立てる。
眼魔砲を使っちゃだめか、と伺いたててきた従兄弟に首を振ると彼は大仰に嘆息した。
「地道に作戦通りやるしかねえのかよ」
「眼魔砲はあくまで最終手段だ。貴重なデータを失いたくはない」
あきらめろ、と言いながら通路の死角から照準を合わせてきた敵兵にレーザー銃を撃つ。
「この建物は複雑な造りなんだ。崩壊したらどれだけの被害が出るか分からないぞ。
死人を出したくないのならそれで我慢しろ」
従兄弟が手に握っている最低値に設定したレーザー銃を示すとシンタローははいはいとおざなりな返事をした。
「予定通りなら夕飯前に終わるよな。まあ、お互いがんばろうぜ」
おれはこっちだったな、と二股に分かれた通路に差し掛かるとシンタローが左の方向を指差す。
「気をつけろよ、シンタロー」
「おまえもな」
じゃあな、と手を振って別れる前にシンタローがぐいっと俺の手首をつかむ。
銃に軽くキスを落とすとシンタローは悪戯めいた表情で笑った。
「おまえにはあとでやるよ」
振り返り、手を振る従兄弟に嘆息しつつ、俺はレーザー銃を握りなおした。
右の通路から足音が近づいてくる。
打ち込まれる弾丸を避けてトリガーを引くと青白いひかりが宙にラインを描いて弾けた。
case.3 病室でのキス 夜半に訪れたこともあって、病棟はしんと静まり返っている。
大きな戦闘も近頃はないためか、病棟を歩いても呻き声や苦しげな寝息は聞こえない。
コツコツと靴の音が響かぬよう、細心の注意を払って一番奥の病室へと向かう。
扉の前で指紋照合をすると、開いた扉からメルヘンチックな病室が現れた。
「お土産だよ、コタロー。ピンクのくまなんだ。かわいいだろ」
大人の手でも一抱えにもなる大きなぬいぐるみをシンタローは小さい従兄弟のベッドの下に置いた。
部屋の中にはもういくつものぬいぐるみやら洋服が所狭しと展示されている。
「最近来れなくてごめんな。お兄ちゃん、お仕事忙しかったんだよ」
ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けてシンタローは小さい従兄弟の髪を梳いた。
さらさらと眺めの前髪が瞼をくすぐっても小さい従兄弟は嫌がる仕草をすることがない。
少し前に訪れたときと同じように深い眠りに落ちているままだ。
ひとしきり、最近の家族のことを話すとシンタローはいつものようにコタローの頬へと軽いキスを落とした。
「おやすみ、コタロー。よい夢を」
眠り続ける弟へ意味のない動作だというのに、まるで起きている子どもをあやすようにシンタローはキスを落とす。
シンタローは寝返りも打たない彼の布団をかけなおし、髪を撫でつけた。
病室にしんとした空気が戻る。
おやすみのキスを終えてもベッドの傍から離れないシンタローにため息を吐きつつ、深刻にならないように勤めて俺は明るい声を出して、シンタローと同じように就寝前の儀式を小さな従兄弟へと行った。
「そういえば俺にはおやすみのキスをしてくれたことがないな」
コタローの額から口唇を離し、どうしてだ、とわざと子どもが駄々を捏ねるように尋ねるとシンタローは目を見張った。
立ち上がり、従兄弟の傍へ近づく。手を組んだまま小首を傾げて「シンタロー」と返事を促す。
目を丸くしていたシンタローだったが、もう一度呼びかけると彼は口角を上げた。
「そういえばそうだったな。なんだ、欲しかったんなら早く言えよ」
大人の癖に欲張りなお兄ちゃんだよな、コタローはこういう大人になっちゃだめだぞ、と従兄弟はベッドの弟へと話しかける。
「そうは言われてもな。俺は亡き父に似て慎み深いんだ。伯父貴に欲しいものを強請るときのおまえの態度はなかなか真似できない」
子どもの頃の彼の思い出をいくつか披露すると従兄弟は、
「てめえふざけんな」
と苦々しく言った。だが、すぐに何か反撃を思いついたらしく、にいっと悪戯めいたひかりを目に宿す。
「ああ、そうだ。おやすみのキスの後はついでにいつも世話になっている礼に歌でも歌ってやろうか」
高松が作ったおまえを称える歌なんてどうだ、と意地悪く従兄弟は言ってくる。
いつのまにそんなものを、と眉を顰めるとシンタローは噴出した。
「冗談だぜ、キンタロー。まあ、ドクターならやりかねねえけどな」
大仰に肩をすくめると声を立てて従兄弟は笑う。
笑い声でも小さい従兄弟が目を覚ますことはない。
くっくっくと噛み殺した笑いを響かせる従兄弟が憎らしくて、口唇に噛み付くようなキスをしてやる。
それでもシンタローは笑うことはやめず、病室からの帰り道でも俺たちは互いを遣り込めるためにからかい続ける羽目になった。
case.4 酔っ払いとのキス 扉を開けるなり、キンタローはそこから逃げ出したい衝動に駆られた。
音と色に満ち溢れている中に一際目立った集団、いや目立った男が一人いる。
煌びやかな室内にあっても目を引く派手な赤いスーツ。
ひかりを吸い込む黒い髪。
酒気を帯びた陽気な声。
その持ち主が、認めたくないことにキンタローが迎えに来た人物だった。
「大分聞こし召している様だな」
慇懃な口調で過ぎた酒量を揶揄すると赤い服の男はへらりと笑った。
俺が不機嫌なのにも気づかないわけか、と眉を顰め同席者を一瞥するとどれも皆判を押したように目を逸らす。
何人か見知った顔はいるものの殆どが初対面の者だというのに、だ。
「よ~。キンタロ!どうしてここが分かったんだよ。ま、いいや。座れ。おまえも飲もうぜ」
ほらほら、と従兄弟は隣のスペースを手で叩いた。
居合わせた連中の一人がこっそりと連絡を寄越したというのに、人の気も知らず陽気に店の人間に手を上げて合図などしている。
「あ~、えっと俺とおんなじでいいよな。さっきのワインを持って……」
誰が飲むか。
俺はおまえを迎えに来たんだ、と思わず怒鳴りたくなった。
だが、ここで言い合いになるのはよくない。
酔っていつも以上に短気なシンタローが店を破壊するのだけは避けたい。
「いや。いらない。それより、いい加減にしないと明日に障るぞ」
ほら、もうやめろ、とグラスを握る手を掴んで促す。
するとシンタローは「ぜってぇいやだ」と首を振った。
「駄々を捏ねるな。明日は朝からヘリに乗って視察に行くんだぞ」
帰って寝ろ、と隙を突いてグラスを取り上げる。
シンタローが呼んだ店員に有無を言わさず受け取らせ、シンタローの二の腕を掴む。
総帥服に皺が寄ったが、代えは何着もある。
ぐっと掴んで立ち上がらせると、シンタローは俺の胸を押した。
「明日の視察になんか影響ねえよ。俺はまだ飲むぞ。おまえは飲まないんなら帰れ」
手を離せ、と口を尖らせるシンタローに駄目だと何度も根気よく繰り返す。
それから、シンタローと「いやだ、飲む」「駄目だ、帰ろう」の言い合いを何度か繰り広げ、
「明日後悔するのはおまえだぞ。この間もそうだっただろう」
と俺が口にするとシンタローはようやく口を閉じた。
「ほら、シンタロー。帰るぞ」
やれやれと大人しくなったシンタローの手を引いて促す。
「シンタロー」
「……る」
「シンタロー?」
まだ聞かないのか、とうんざりした気持ちで従兄弟を見ると彼は耳を貸せと手招きした。
耳に当たる息が熱い。
シンタローはおもしろさを隠せない声音で俺に囁いた。
「キスしてくれたら帰ってやるよ」
できないだろ、と身を離し、シンタローは周りを見回した。
帰る帰らないの争いをしていた俺たちを店員だけでなく隣のテーブルの人間までもが見つめている。
先ほどまでの言い争いを思い出して、気まずい気持ちになった。
だが、それよりもシンタローがいそいそとテーブルの上のグラスを取ろうとしたほうが気になった。
「シンタロー」
「何だよ」
諦めたな。おまえも飲むんだろ、と勝ち誇ったかのように従兄弟は振り向いた。
「……!!」
後は知らない。
きっと酔っ払った目で見た幻覚とでも無理やりに思い込んでくれるだろう。
ガンマ団の連中は都合の悪いことは目を背けてくれる。きっと。
それよりも駐車場までずんずんと一人で進んでいくシンタローの機嫌をどうやって取るかのほうが今は重要だった。
case.5 デジャヴュのようなキスそういえば以前もこんなことがあったな、と壁に寄りかかりながらシンタローは思った。
キンタローは、とシンタローがグンマを訪ねたのはほんの数分前のことだった。
おやつというよりもハイティーの時間に差し掛かっていたが、アップルパイが焼けたと口にするとグンマは顔を綻ばせた。
夕飯前だけど、少しならいいだろ、と言うと甘いものに目がないグンマは間髪置かずにシンタローに賛成する。
試作しているロボットらしき物体を片付け、手を洗わなきゃとはしゃぐ彼にもう一人の従兄弟の居所を尋ねたのだ。
「部屋にはいなかったの?」
「ああ」
真っ先に訪ねたキンタローの部屋は応答がなかった。
てっきりグンマと一緒だとばかり思っていた、と言うとグンマは「それならあそこだよ」といった。
「ルーザー叔父様のお部屋にいると思うよ。キンちゃん、研究中でも息抜きによく行くから」
「ふーん。ルーザー叔父さんの部屋か。んじゃ、ちょっと行ってみる。おまえは先、行ってろよ」
すぐ追いつくからと別れて、シンタローは亡き叔父の部屋へと向かったのだった。
人の気配を感じ、扉が自動的に開く。
無機質な感じのする部屋には鏡と、部屋の奥に故人の蔵書やレポートが整然と並んだ本棚があるだけだ。
目当ての従兄弟は扉からすぐ見える鏡の前に佇んでいた。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローはすごい勢いで振り返った。
そして、シンタローへと襲い掛かるかのような勢いで駆け寄る。
「キン……ッ、おい!ちょっと待てッ!」
ぐっとシンタローの肩が壁へと押し付けられる。
扉のすぐ近くの所為か開きっ放しになり、シンタローからは廊下が横目で見えた。
肩の痛みに眉を顰めていると、ぐいっと顎を指で掴まれ、
「キンタロ……ん、ちょっ……」
待てよ、とシンタローが口にする前に言葉が従兄弟の口腔に飲み込まれていく。
どうしたんだ、と疑問を形作る舌が絡め取られ、噛み付くようにキスを挑まれてシンタローはぎゅっと目を閉じた。
口唇が離れ、荒い息を吐く。
ようやく吸い込んだ酸素に頭が回らない。
キンタローはというとシンタローと同じく荒い息を吐きながらも、顎を掴む指を緩めてはいない。
視線が合う。
何か、言わなくては。
どうしていきなり、だとか誰かに見られたらどうする、だとか。
ぐるぐるとシンタローが思い巡らせているとそれよりも先にキンタローが口を開く。
「好きだ」
シンタローの顎をつかんでいた指の力がなくなる。
さっきまで込められていた力とは打って変わった手つきで頬へと指が寄せられる。
「愛している、シンタロー」
掠めるようなキスを口唇で受けて、シンタローは同じようにキンタローの頬へと手を添えた。
互いの髪を梳く指先は優しい。
ジャケットで振動する携帯電話と開け放たれたままの扉に気をとられながらもシンタローはキンタローへとキスを贈った。
初出:2005/09/23
eddy様に捧げます。
独り言
ぱさりと音を立てて書類が落ちた。
思わず、その報告をもたらした従兄弟を睨んでしまうほど、それは強烈だった。
しかしキンタローはそんな視線をものともせずに、平然と落ちた書類を拾い上げるとシンタローに手渡す。
「少し落ち着け」
低い声は常ならばシンタローに冷静さを取り戻させてくれるのだが、今回はそうもいかない。
移動中の戦艦内で本部から送られてきた書類を裁いている最中で、概ね指示を出し終えほっと一息を着いた際にまるでついでのように告げられたこと。
「…落ち着いて、いられるかよ」
渇望していた、片時も忘れたことなど無い、願い。
キンタローもそのことを知っているはずだ。
徐々に感情が湧き上がって来た。
4年間。
その間、一体どれだけ弟が眼を覚ますことを望んでいたか…
遠征で離れることが多くとも、いつも弟の様子に気配っていたというのに、こんな報告を聞いて落ち着いてなどいられるわけが無い。
「どこに行ったんだよ!」
机を叩く鈍い音が部屋に響く。
最近の本部から届くコタローの様態は安定しているというものばかりで安心していたのだが、まさか数ヶ月前に眼を覚ましていて、クルーザーに乗ってどこかに行ってしまったという。
調査隊としてコタローが眠りについた原因を知り、尚且つ信用の置ける伊達衆が選ばれたというがそれもずいぶん前のことだという。
4人揃って向かったというのに、こんなに時間が掛かるというのはいくらなんでもおかしいはずだ。
「…くそっ!」
「八つ当たりはそろそろ辞めておけ」
机を叩いた振動で転げ落ちそうになったコップを拾うと、キンタローは伝えていなかったもう一つの事実を告げた。
「コタローがの居場所はわかっている」
「どこだ!」
どこまでも冷静な声は、珍しく口に出すことを躊躇う。
しかし、早く知りたいという思いに駆られているシンタローに隠しておくわけには行かないと思い、その重い口を開いた。
「クルーザーは大渦に飲まれたが、その際に追跡したヘリがこんなものを見ている」
胸ポケットから一枚の写真を提示する。それは、本部が必死になって隠そうとしたものをなんとか入手したものだ。
黒い魚の群れ。それは色は違えとシンタローにとってなじみの深い種類だった。
「足が…」
「ああ。これが伊達衆が選ばれた本当の理由だろう」
黒い魚ならば世界中に存在するだろうが、足の生えた魚などあの島を除いて存在するわけが無い。ご丁寧にもどの魚も網タイツを履いていて、思わず何の知識も無くこの魚が群れている光景を眼にした団員達に同情してしまう。
「コタローは大渦に飲まれたらしいが、アラシヤマ達につけたカメラによるとその大渦を抜けたところに島があるらしい」
何かを近づかせないかのように広がる大渦。
そしてその中へ向かったっきり戻ってこない仲間と、大切な者。
まるで、それは。
いつかの自分。
「シンタロー?」
肩を掴む手に思考の海から意識を引き戻す。
顔を上げれば、心配そうに覗き込むキンタローの顔があった。
説明を続けていたが、何も反応を返さないことを不可解に思い、ふと見やればいつの間にか椅子に座り込んでいた。ただじぃっと床を見つめる姿が、小刻みに震える肩が、シンタローの心情を表していた。
見上げる顔には不安と哀しみが浮かんでいる。
「言え」
そのまま肩を引き寄せて抱きしめると背中をゆっくりと撫ぜてやる。
遅かれ早かれ、この話をしないわけにはいけなかったと言い聞かせたが、それでもシンタローにこんな顔をさせるつもりはなかった。
「…何をだよ」
安定している声は、今のシンタローを表しているようだった。
未だ震えの収まらぬ体に、はっきりとした声。
何もかも隠してしまうつもりなのだ。いつものように。
「一人で抱えるな。何のために俺がここにいる」
すこし力を込められて、背中に手を回すがそのまま、戸惑うかのように彷徨う。
言いたい言葉はたくさんあった。
この四年間の思いは、あの島への気持ちはどんなに言葉を尽くしても語れない。
どれだけの時間、そうしていたのかわからない。
震えが止まり、何も語るつもりが無いのかとキンタローが離れようとしたときだった。
物凄い力が背中に掛かった。
それは抱き締めるではなく、逃がさぬように捕らえられているようだ。
「お前は、俺だよな」
力強い、どこか切羽詰ったような声に思わず首を縦に振る。必死に何かに縋るような声。
「だから、これを聞いているのは俺だけだよな」
「…ずいぶん大きな独り言だな」
抱き締められた意図を正しく理解して、もう一度その背中に手を回す。茶化して見せるが、それでも真剣に受け止めた。
「うっせぇよ」
幾分、力を弱めたシンタローはそれでも相手がわかってくれたことに安堵する。
息を整えながら、どの言葉を紡ごうかと必死に逡巡する。
「俺は、怖いんだ」
力が弱まった分、声も弱弱しくなった気がした。
「コタローは昔のことを、怒ってんのか」
助けることが出来ずに、挙句この4年間眠っていた。
誰もいない、あの部屋で目覚めたコタローが何を思って飛び出したのか。
「迎えに行ったやつらも、俺から離反するのかもしれない」
かつてあの島で、シンタローとマジックが敵対したように。
何よりも、怖いことがある。
「パプワに、逢えるのか」
シンタローはその言葉を最後に黙り込んだ。
キンタローも何も言わずにその体を抱き締める。
二つの意味を持ったその言葉に、シンタローは揺れている。
パプワに逢ってよいものか思い悩む気持ちと、逢ってくれるのだろうかという恐怖。
もう一度、力強く抱き締められたかと思うと、同じように唐突に離された。
「早く帰って、詳しい事情を確かめる」
もう、そこには不安の色は無い。
「いいんだな」
「当たり前だろ?うだうだ言っても、仕方がねぇんだからな」
向かうかどうかは、まだ踏ん切りはつかないが。
「また、あの島が舞台だってことは変わらないんだからな」
覚悟を決めたシンタローにキンタローは黙って頷く。
記念にと、先程提示した写真を机の上に置いていくとあの島へと向かうための理論を組み立てるために自室へと向かった。
盛大に響く紙を破る音を聞きながら。
ところで
喧嘩してから早くも二週間が経とうとしている。
その間、会話はおろか顔を合わせていない。
これは意図してではなく、例えば運悪く学会があったり、支部へ視察に行ったりと互いの仕事の為であった。
しかし、まったくの偶然であるかといえばそうではない。
視察の予定はもっと先だったのに、切羽詰まった仕事がないからと強引に進め、もともと行くつもりのなかった学会に参加した。
大喧嘩ではなくささいな言い争いだったのに、ほんの少し避けてしまったことから、顔を合わせることが気まずく感じてしまう。
それでも偶然に会うかも知れないという不安を抱えながら、平静を装っていた。
しかし、あっけなく時間は過ぎていく。
顔を合わせないようにするのがこんなにも簡単だとは、思ってもいなかった。
例えば屋敷にいる時間など、ずらそうと思えば互いにいくらでもずらせるし、なにより二人とも研究室や総帥室に仮眠スペースを設けてある。
二三日帰らなくとも不都合などはない。
一方は司令塔の最上階、一方は奥まったところにある研究棟。
結局毎日のように顔をあわせるなど出来ていた今までが、どれだけ意図して作られたものであったのかわかっただけだ。
たかが二週間、されど二週間
それくらい顔を合わせなかった事など、沢山ある。
きっとこれからもそうだろう。
しかし、それは逢おうとすれば、だ。
どこかで逢うだろうという淡い期待は無くなった。
相手に会おうという意志がどれほど無意識下で働いていたのかも解った。
だから
「悪かった」
「すまない」
どんなに言い訳を凝らしたとしても、最後に行きつく場所はただひとつ。
話を聞いてくれて、そばにいるのが当たり前。
ふとしたときに、誰もいないのは虚しくて。
「結局、簡単なことだったんだな」
「全くだ」
もう、くだらないことで離れないように。
「ところで、何が原因だったんだっけ?」