香り
ごろり。
ブルーカバーに掛かった読みかけの本を、肌触りの良いソファの上で寝読みする。
行儀は悪いが、今は常に威厳と尊厳を持ち始終緊張感に縛られる総帥任務から離れた、やっとのフリー時間。
こんな時まで、小さい事を咎める無粋者もいない。
いや、一人いるか。妙に行儀に煩いヤツ。
しかも目の前に。
何でも専門分野の研究の一つで、すっげー困難だったものらしかったがやっと目処の立ちそうな結果が導き出せそうだとかで、
コッチの脳みそがショートしそうな程意味不明な横列の報告書類を、
四方八方に―――けれどごちゃごちゃにしてるんじゃなくて綺麗に―――並べて、ノートパソコンと対峙している。
この部屋の主で、数年前まで俺と同体だった従兄弟。
従兄弟と言うより双子が近いんじゃないかと思う。
見た目は全く似ちゃいないけど。
俺とキンタローは任務以外でも一緒にいる。こうしてプライベートでも。
理由は『ずっと一緒に居たいから』と至ってシンプル。
当然と言えば当然だ。俺達は≪恋人同士≫だし。
好きなら常に一緒に時間を共有したいって思うだろ?
それを記憶からは薄れた誰かに言ったら、そいつには「常にってのは嫌だ」とか「飽きる」「うざったく感じる時だってある」
と言われた。
確かにあるな、そう感じる時。
けどそれは仕事の時には思っても、こうしたプライベートではうざいと感じた事はない。
それはコイツも同じだろう。
じゃなきゃ俺がコイツのトコに行かないと、自分の方から毎日でも来るって事ないよな。
いつもキンタローの部屋にいる訳じゃなく、お互いの気分次第で変わる。
昨日はキンタローが俺の部屋に来た。
それが嬉しくて………悔しい。
あー、馬鹿だ。
どうしようもなく馬鹿だ、俺。
コイツの事、マジで惚れまくっちゃっうなんてさ。
コタローを越える存在なんて、生涯絶対ないと思ってたのに。
コタローが一番のつもりなんだが、………コタローは特別の別格ってヤツで、キンタローは…………最愛?てか最恋??
いや、それもなんだかなー。
理由はよく分からないが、一緒に居ると安心するんだよな。
やっぱ好きだからだろうか。
と、今までパソコン向きだったキンタローの顔が俺に向いた。
こんな事すら嬉しい、なんて。
「何だ?」
「は?」
何だって、何が。
「いや、さっきから人の事を凝視してくるからな。何かと思った」
そういう事か。
特に何もないと答えると、あっさりと納得したらしい。
言えないだろ。見惚れてたなんて。
「邪魔したか、悪ィな」
本はまだ手に納めたまま、よいしょっと声を出して起き上がった。
「構わない。たった今終わらせた」
言いながら背後に回って俺の肩を抱くのは、キンタローの癖らしい。
いつもの事だから驚きはしないが、何かいつも以上に顔を寄せられてる気がする。
僅かに感じるコイツの吐息。
「何だよ?」
「いい匂いがする」
「どこから」
「お前からだ」
俺から?
まだシャワーは浴びてねえからシャンプーの匂いって訳じゃないだろうな。
けど香水類はつけてねーし。
くん、と自分の髪の一房を掬い、鼻先に近付けてみるが特に何も匂わないぜ?
「何の匂いだ?」
「さあな、分からない」
「何だよそれ」
分からない匂いなのに『いい匂い』なのか?
石鹸とか花とか、食べ物の何かとか………それのどれかとかと聞くと、どれとも違うと言う。
結局結構長い時間その体勢が続き、「良い匂いがする」と言い続けてきた。
悪い気は起きないが、すっきりしない問いと出ない答えが尾を引いた。
翌日、おやつに誘いに来たグンマに昨日の事を何となく話すと、最初は「う~ん………何だろうねぇ…」と眉を押せて可笑しい程真剣に悩んでいたが、急にパチンと嬉しそうに手を叩いて身を乗り出した。
「分かった!それってさ、“シンちゃんの匂い”なんだよ!」
いや、だからさ。
「俺の匂いって何の匂いだよ」
「だ~か~らぁ~、“シンちゃんの匂い”なんだって!う~ん…………そうだね、体臭?が一番近い表現かな?」
あんまり表現良くないけど、と付け足す。
体臭ってったって何も匂いつけてないぞ?
「僕もね、感じる事あるもん。シンちゃんから」
結局正確な答えは望めなかった。
悶々としたまま疑問は解けず終いで今日がもうすぐ終わる。
職務から解放された俺の傍にはやっぱりキンタロー。
今日は俺の部屋で一昨日借りてきたビデオ鑑賞。
それももうEDだ。
真っ黒画面に白い文字でキャスティングがスクロールされる。
そんなものは見ても別に面白くない。
興味を失った画面から目を互いに外し、唇を寄せ合う。
―――あ…。
思ったというより気付いた。
『理解した』が的確な表現か?
唇が離れ、銀絃が名残惜しげに泣き別れた。
「……そうか」
「どうした」
「あー、成る程ね」
グンマの言ってた事、こういう事か。
一体何だ。何を自己満足してるんだと眉間に皺寄せするキンタローに90度背を向けて笑った。
「何だ、一体」
「くく……っ、別にィ」
安心出来るいい香りを感じたんだ、お前から。
けどさ、花とか香水とかシャンプーの匂いとかじゃないんだよな。
体臭?ん~、よく分かんねーけど、感じたのは
“キンタローの匂い”
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* 風邪はお大事に *
よく晴れた日の事でした。
「え~!?シンちゃん風邪引いたの!?」
「なら見舞いが必「うつるといけませんから絶対に駄目です。キンタロー様。グンマ様もですよ」
「えぇ~!?」
「シンタローの風邪ならうつっても別に構わ「駄目です!いくらお二人の頼みでも駄目です!!
せめてもう少し熱が下がってからでないとシンタロー様にも負担がかかるんですよ?」
「…はぁ~い……」
「……………」
「あ~……、…だりぃ」
ごろり
寝返りするのも頭に響く。
ギリギリまで全然気付かなかった。
いや、確かに一昨日からなんかだりぃな~とは感じてたけど。
チョコレートロマンスからの書類を受け取って…………………………それからの記憶がない。
突然視界が暗くなったんだっけかな?
……で、気付いたらここ(医務室)に居てこうして寝ている、と。
はあ……、親父が居なくて良かったな。
俺が倒れたと知ったらどうなるか、嫌と言うほど行動パターンが分かりきってるし。
熱は運ばれた時よりは下がってるんだが、まだ絶対安静だとかドクターに釘打たれた。
いくら俺でもここまで体調悪いって理解したら、今後の効率を考えれば今日はもう仕事はしねーんだけど。
下がったってたってまだ38.5分あるし。(倒れた時は39.5分だったらしい)
「だからってせめて簡単の書類の10枚くらい、目を通したいんだがなー…」
それも駄目だと言われた。
反論しようとしても一言話すのにもすっげー労力要って辛い。
何より普段はあのおちゃらけたドクターにあんな真剣な目で押し留められれば、子どもみたいに駄々捏ねられない。
心配してるって分かるからな。
そうは分かっちゃいるしすっげー気持ち悪ィが……………………暇だ………………はぁ…。
カラリ
医務室の扉がやけに慎重に開いた。
幻聴かといぶかしむくらい小さな音。
???ドクターか?
「何だ。起きているのか。……それとも今の音で起こしたか」
あ、キンタローだったのか。
「いや、別に。起きてたし。見舞いに来てくれたのか?」
「ああ。高松には入ってはいけないと言われたが。だからと言ってもお前が倒れたんだ。
駄目とは分かっているが納得は出来なかったからな」
「けど医務室の前には警備兵が数人いたろ」
どうやって入ったんだ。
ガンマ団総帥である俺が弱っているとなると、それを狙っての敵襲とかの心配があるんで警備兵の手配を(ドクターが)した筈だ。
ドクターがキンタローすらここに入ってはいけないと言ったなら、
当然警備兵達にもコイツすら入らないようにも言ったと思うんだが。
「邪魔な奴等が扉の前に居たが瞬時に手刀で気絶させた」
オイオイオイ~~~………そりゃあヤバイんじゃねぇか?後々に色々と…。
何か色々と思うところがあり過ぎてガックリと肩を落とした―――と。
ぐぃ
「!?」
ゆっくりだけど突然にキンタローの胸に抱き込まれた。
何だよ!?いきなりどうしたって……っ!
わたわたと狼狽している俺に、気にせず言ってくれたその言葉。
「俺がいる。いつもお前の傍に俺が居るんだ」
キンタロー……。
「安心して休め。何も気に咎めるな」
仕事の事もそれ以外も何もかも、との言葉が柔らかい。
まるで母親のように俺の頭を優しく撫でた。
…そうだ………いつだってコイツは俺の傍にいる。
嫌と言うほど知ってる筈なのに、こうして改めて教えられると初めて知ったような初々しい想いに駆られるのは何故なんだろうか。
「ん」
小さく頷いて笑顔を見せる。
だってよ。マジ嬉しいし。
俺のこんな表情を見せてやるのはコイツの前だけだ。
「シンタロー」
ああ……、声の音がこんなにも優しい。
きっとコイツだって俺の前でしかこんな声色を出さない。
自惚れじゃねえよ、ちゃんと俺は知ってるんだよ。
大好きな声にふらふらと誘われて、胸に押し付けられていた顔を躊躇いなくあげる。
そんなに強く抱きしめられてた訳じゃない。
「何だよ――――~~~んっ!」
触れた、熱いコイツの唇――――ってえぇ!?まてマテ待て――――!!!!
「ぷはぁ!」
そんなに長くでもないし舌も入れてねえけど、弱ってる身体にはかなり苦しい行為。
軽いソレだけど肩でゼエゼエと荒息を吐き出す。
擦ってくれるキンタローの手が優しい………………………って、おい。
「~~~馬鹿ッ!風邪マジにうつったらどうするんだよ!」
「うつせばいいだろう。うつっても俺は全然構わない。たかが病原菌よりお前が苦しむ姿の方がずっと耐えられないからな」
お前のいち早い回復した姿は俺の為でもあるんだと言うコイツに……俺は……
ゴンッ!
力の限り頭を殴ってやった。
風邪で力全然出てないからそんなに痛くない筈だが。
「何をする」
「大馬鹿者」
「それが殴った相手に言う言葉か」
かなり心外と言った顔で俺を軽く睨んでくるが俺の方何倍も怒ってるんだよ。
何でコイツは分からないんだよ。
頭いいと思ってたが、ホントは馬鹿じゃねえの!?
「そんな事言われて俺が嬉しいと思うのか?お前は」
「思うか思わないかは知らな…」
途端、あ、という表情で固まったコイツは
「すまん」
と一言。
自分がどんな無神経な事を言ったか、やっと気付いたかよ。
「お前が風邪引いたら、今度は俺が苦しいんだよ」
お前が俺の苦しみが耐えられないのと同じで、俺だってお前が風邪で倒れたら辛いんだよ!!
俺の為だとか言って、そんなの押し付けの愛情だ。
いらないイラナイ要らねえよ!!!んな気遣いなんかッ。
きっと今より苦し過ぎる。
「…そうだな。すまなかった。確かに失言だった……」
馬鹿だ…。
「だから泣くな」
は?俺は別に。
ぽたり
・
・
・
え?
ぽたり
ぽたり
・
・
・
・
・
ふと言われて気付けば、シーツと俺の手に濡れて出来た幾つもかの大きな染み。
「風邪の所為だ…ッ!風邪の所為で無意味に涙腺が緩むんだよ…ッ!!!」
知らずに涙が出ていた。
俺の事をこんなにも想ってくれるコイツに嬉しさと自己犠牲を何とも思わない愚かさに。
ヤベエ…ッ、止まらねえよ。
キンタローが軽く肩をぽんぽんと叩いて横になるよう促す。
吐き出す台詞は相変わらずキザっぽいのに、他のヤツラなら鳥肌モンの台詞も
コイツからは意図してるものじゃなく天然からだからなのか、そんな感じは受けない。
しつこいようだがしょうがない。
湧く感情は、ただ嬉しいだけ。
「なら風邪を早く治さないとな。お前には泣き顔より笑ってる方が……………俺は好きだ」
「分かってる」
「横になっていればそのうち眠くなる」
俺の手を壊れ物を扱うように、でもぎゅうっと握って傍に居てくれた。
小さい子どもは母親にこうしてもらうと眠れるらしい。
コイツは間違っても俺の母親じゃないし俺も子どもじゃないが、………あぁ、段々眠くなってきた……。
……………あ、そうだ。なあキンタロー。
風邪が治ったらお前が好きだって言う笑顔を沢山見せてやるよ!それと何処か出かけるぞ。
ん~、デートってヤツ?
仕事はたんまりあるけどな、少しだけでも何処か行くぞ!
だからその時風邪うつったって倒れてんなよ?
明日も、晴れるといいね。
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* 可愛い嫉妬 *
「何をしている」
「ああ、キンタローか。見て分かんねぇ?幾ら初めての体験っつたって知識として知ってるだろ。コレ」
目の前で―――未だ深い眠りについたコタローの寝室で、せっせとその作業をしているのは毎日毎日総帥職で多忙な筈の従兄弟。
コタローの事実上の義理兄。
二十四年間共に体を共有せざるを得ず、自由の身となってからも、当初は憎しみの対象にしかならなかった筈の相手と
今では恋人同士の仲なのだから、初めて世界に出ることが叶った一年前の俺から見れば驚愕ものだろう。
従兄弟であり恋人であり一応上司でもある、けれど互いに双子よりも近い彼―――シンタローは、
師走の今は普段の多忙に幾数もの輪っかをかけて時間に追われている筈が、コタローの背丈程まであるか否かの
小さめの作り物組み立てモミの木に、星やら天使やらバカデカイ靴下やら様々な飾りをせっせと飾り付けている。
「クリスマスツリーだな」
「ああ。この前遠征に行った時に丁度良い大きさのを買い物中に見つけてさ、買ってきた」
「しかし、クリスマスツリーなら毎年いつものがあるだろう」
マジック叔父貴が溺愛しているシンタローの為に彼が生まれた頃には買ったのだろう、
数百人は収容可能な大広間の天井にも届く程の巨大クリスマスツリーが。
外にもクリスマスツリーは飾られるが、それはあまりにも大き過ぎて地上から見ようとするのは首が痛くなるだけだ。
最低六階以上の部屋から見れば楽しめるらしい。
俺が提示したのは大広間に飾る方で、シンタローもそちらの方を思い出したようだ。
「あれか?あれ出すのは毎年クリスマス当日になってやっとの夜中だろ」
遅過ぎなんだよなーと眉を顰めて、けれど手は休めずに独り言のようにぼやいている。
「遅いのか?」
「あのなぁ………。クリスマス当日―――じゃなくても前日になってから飾っるってのはかなり遅いだろ」
「そうか?」
クリスマスイベントはイブを含めて24と25の二日であり、その日の為にクリスマスツリーを飾るのだろ。
ならばそれ程遅いとは思えんが。
俺の心情を察したのか会話からの繋がりからか、溜息交じりでシンタローが補足をする。
「たった二日だけ飾って直ぐしまっちまうのは呆気なさ過ぎとか思わないわけ?」
そう言われてみればそうなのかもしれない。
たった二日飾ってそれで終りと、あっさり片付けてしまうのは情緒にも欠ける。
かと言ってクリスマスの直ぐ後には正月という大行事が控えており、
その為の大掃除に25日以降にツリーを飾るのは邪魔になってしまう。
クリスマスを一日でも過ぎたツリーは意味を持たないただのオブジェと化す。
思い出せば、コイツが子どもの頃は直ぐに片付けてしまう、たった二日限りのクリスマスツリーに寂しさを覚えていた。
「だからこうして飾ってるんだよ」
語尾を言い終わる前にツリーの天辺に金の星を乗せて固定させた。
ツリーは完成したらしい。
広間のそれと比べ迫力はないが、従兄弟に組み立てからされ飾り付けられた小さなツリーは、
眺めていると不思議に穏やかな気持ちになってくる気がした。
理由は簡単だ。
従兄弟が小さな弟の為に心を込めて飾り付けをしたのだから。
シンタローにとって大事な大事な弟のコタロー。
俺にとってもその想いは変わりはしない………………………………………………………が。
「何?お前もじぶんの部屋に欲しいの?コレ」
「いや。これはコタローの傍にあればいい」
凝視と呼ぶに相応しい程ツリーに目をやっていたからかそう勘違いを起こしたらしい。
欲しくない訳ではないがツリーを欲しがるほど子どもではない。
それよりも今は。
「今俺が欲しいのはこれだな」
「うわっ!!」
ツリーよりも、もっと切望しているものは。
「離せ降ろせ――――ッッ!!!」
「飾り付けは終わったんだろう。それに大きな声を出すな。コタローが目を―――覚ますのはいいか」
「一人で自己完結するな!それよりこれからほったらかしておいた仕事に取り掛からなくちゃならねーんだよ!」
腕に抱えた愛しい体温。
「安心しろ。そう時間はかけない」
「嘘つけッ!!そう言って前も―――――――んんッ」
反論を封じ、唇を深く重ね合わせ舌を滑り込ませると、暫くすればシンタローもそれを絡めてくる。
ようやく離してやると、息苦しかったのか涙目で、しかし口元は意地悪げに微笑していた。
「お前…、嫉妬してたんだろ?コタローに」
おかし過ぎると腹を抱えて大笑いを始めたシンタローに
「ああ」
肯定してやれば笑いがぴたりと止まった。
嫉妬していたのは事実なのだ。隠す必要性もない。
嫉妬していただろうと問うてきたのだから正直に答えてやったというのに、何故かシンタローは耳まで朱に染めて
「馬鹿野郎!!ストレート過ぎだテメエは!!!!」
と怒鳴ってきた。
叱られる理由はイマイチ分からんが、あまりにも不安定な抱え方だというのに腕の中暴れるのとシンタローを欲っする想いから、
もう一度、先程より深く甘いそして略奪するような熱い口付けを落とした。
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* 狂乱の踊り子 *
物騒な言葉を、前触れも無くヤツは吐き出す。
何がキッカケという事も無い。
思い出したら口にする、ただそれだけだ。
実際有言実行に移る訳ではないし、それだったらとっくにオレかあいつかのどちらかがとっくに死体になっている。
オレに対しての暴言だが、面と向かって言われた事は殆ど無い。
主に傍に居る機会の多い高松やグンマが耳にしているらしい。
これはグンマから聞いた。
高松は慣れたように軽く嗜め、反対にグンマは焦って止めたり怒って見せたりするそうだ。
早く仲良くなってよね
困ったように数日前グンマが言ってきた。
そう言われてもなぁ………。
オレが歩み寄っても人見知りして警戒心を剥き出しにする獣のような目をされるんだぜ?
明るく「よッ」とか「調子はどうだ」とか聞いても「あぁ」だの「見て分からんか」だの素っ気無い返事しかしないんだぜ、あいつは。
なら、シンちゃんと仲良くなるように、ボクがキンちゃんを説得してくる!
飲みかけのミルクセーキを放り出して意気込むグンマの額に軽い拳を一つお見舞い。
涙目で講義してくるグンマにニヤリと含み笑いを返す。
馬ー鹿、んな事してくれんなよ。
なんでさー!だって二人共早く仲良しにならなきゃ…!シンちゃんはキンちゃん嫌いなの!?
必死なコイツには悪いと思いながらも、大丈夫だからの一言で強制的に話題を打ち切った。
反論される前にその場を立ち去ったんだが………。
いいんだよ。これはアイツとオレの事だから。
一心にオレに、オレだけに向けられる感情(コトバ)を始めは不快にしか感じなかった。
オレの知らぬところで幾つもの想いが交差しぶつかり合い時に交じり合って生まれた亀裂は奇跡。
本当に極最近、気付いた。
キンタローの殺意のメッセージに内包されているものに。
そしてその大切に包まれていた感情の喜びに。
ずっと待ち続けていた感情(コエ)に、甘く酔いしれる。
もっと、もっと
いっそ泣きたいほどに痛いくらいの想いを、オレに寄越せよ。
キンタロー。
≫戻る
くのいちDebut 引越し 見積もり アルバイト 天然石
PR
ピ ピ ピと、医療器械音がやけにリアルに耳を滑る。
先程までマジック叔父貴やグンマ、コタローも居たこの無菌部屋も、
今は俺と、主に高松の説得で部屋を後にした為ひっそりと静まり返っている。
無菌部屋にいつまでも多人数は居られないからだけでなく、いい加減夕食の時間も過ぎている。
昼食も全員まだとっていなかったのだから、腹は空いている筈だ。
…とは言え、グンマ達の先程の様子では飯は殆ど口をつけていないだろう。
いつもシンタローの前では笑顔を振りまき、シンタローが怒っても嬉しそうに自分に都合の良過ぎる解釈をするマジック叔父貴は
顔が蒼褪め、眼は信じられないのだと語るばかりに見開かれたまま、息をするのも忘れていたのではないかという状態だったし、
グンマも蒼褪め、目尻にはうっすら雫が溜まっていた。
コタローに至っては「嘘、うそ」と首を振り、溢れる涙を止める術もなく両手で顔を覆い、ただただ激しく泣いた。
それが数十分前までの事だ。
三人共、とても食事を取れる心情ではない。
勿論それは俺も同じだ。
だが、誰かが冷静さを保っていなければならない。
グンマとコタローはマジック叔父貴に任せて、俺だけがこの部屋に残った。
シンタローが事故に合って直ぐ負傷と意識不明のシンタローはガンマ団最高クラスの医師達に委ねられ、
その中には当然ながら高松が居合わせてた。
「で、どうなんだ。シンタローは」
「命に別状はありません。いやはや全く運の強いお方ですよ、彼は。
あれだけの鉄筋が雨のように降ってきたというのに」
俺と事件直前周囲に居た団員からの報告を纏めたカルテを軽く口元に当てて、まず先にシンタローの命を保障する。
咄嗟に眼魔砲を打って何本かは破壊出来たが、それだけでは足りず、数本がシンタローに容赦なく降り注いだ。
防ぎきれないと判断して直ぐにガードしたらしいが、背中を強打し、痛々しい外傷を残し反対に意識は消えた。
今のシンタローは意識不明の重体という状態で。
「外傷は背中が最も酷いですが、今まで私がシンタロー様の傷を治療してきた過去と照らし合わせますと
おそらく跡も残らないと思われます」
流石ですねえと軽口で褒めるが、それはこの重い空気を和らげる役目を果たせなかった。
「意識の方はどうなんだ」
「……………」
「高松」
「……………」
「たかま」「意識が回復する確率は」
俺の言葉を遮り、下唇に張り付いていたカルテを放してもう一度検査結果に目を通している。
何度も何度も検査し直したその結果は―――
「確率は7%」
視界が暗く揺らぐ。
黒と白が渦を巻いて訪れるマーブリング状の眩暈に襲われる。
「それがシンタロー様の意識が回復する、一番希望を持ってみてもの確率、です」
7%も意識が回復する確率があるんだ。
そう俺自身に言い聞かせても、“も”は“しか”になる。
シンタローの生命力と運の高さは知っている。
シンタローは必ず意識を取り戻すと信じている。
信じているなら、この胸の重みはなんなのだろう。
今日はもう遅い。
マジック叔父貴に高松から聞いたシンタローの状態を伝え、俺は自室へと戻った。
シュンッと軽い音を立てて開かれた、俺の部屋、の、ベットに見える
「……誰だ」
人影。
誰も居ない筈の薄暗闇に問う。
暗闇の中の人物は完全なシルエットになっていて、誰なのか、はっきりとは識別出来ない。
暗闇に紛れているとはいっても、隠れもせず人のベットに腰掛けている“影”。
気配を感じないのは消しているのだろうが、堂々とシルエットを見せておいて気配断ちする無意味さが不可思議だ。
そういえば息遣いも全く聞こえない。
体系からして間違いなく男だとだけ分かった。
誰にしろ、一族の者以外が俺の部屋に勝手に入っているのだ。
何の理由にしろ不法侵入者には変わりない。
右の手の平に気を僅かに溜めもう一度問う。
「お前は誰だ」
影は驚いてか少し揺らめき、けれどもまた腰をベットに下ろし握り締めた指を顎に当てているようだ。
その様子は戸惑っているように見える。
影が取る次の行動を様子見るが、相手もどうして良いのか判断出来かねているようで、ベットから腰を上げない。
しかし影の正体を知るのに時間は掛からなかった。
動かない俺達を促すように、雲が晴れたのか今まで身を隠していた月の光がブラインドの隙間からうっすらと差し込んでくる。
薄暗い空間でも知れた長く、黒い髪は僅かな月光を静かに受け止めていた。
戸惑いながらも常に強い意志を持つ黒い瞳。
男として整った顔立ちは、その持ち主は―――…。
「シンタロー……?」
まさか、そんな筈はない。
月光をバックに浮かび上がった男に目を疑った。
男は紛れもなくシンタローだ。
少なくとも見た目は。
だが、シンタローは意識不明の重体で特別看護室に横たわっている筈だ。
仮に俺が去ってから直ぐに意識が戻ったとしても、とても直ぐに動ける体ではなかった。
それに数え切れぬ程の傷を負っていたが、目に映る“シンタロー”は怪我一つ見当たらない。
どう反応を返せばよいのか戸惑っている俺に、“シンタロー”は困ったように頭を掻いた。
「あー…、なんつーか」
他人事のようにコイツは言った。
非科学的過ぎて、到底信じられない事を。
だがこれは現実。
「幽霊になっちまったみたいなんだよなー…」
………………
………………………………
………………………………………………ゆうれい…?
幽霊になった、だと?
幽霊というのはアレだな、『①死者のたましい。亡霊。②死者が仏になることができないで、
この世に現れるという姿。』(改訂新版現代実用辞典講談社編より)
死者…シンタローが?
そんな筈は無いだろう。彼はしっかりと呼吸をしていたのだから。
なら、目の前のシンタローはどう説明をするというのだ…?
「一体何がどう…」
足元が揺らぐイメージに、言葉が最後まで続かない。
ひび割れおうとつが出来た脆いガラスの上に立っているような気分だった。
「ん~?…なんか……鉄筋が降ってきて、鋭い痛みが襲ってきたと思ったら、意識がなくなって………、
次に気が付いたらココに居た」
「…………」
どう…反応し、対応すればいいんだ?
シンタローは意識不明の重体で高松が付き添う医務室に意識を沈めている。
今夜はずっとシンタローを診ているだろう。
万が一、シンタローが目を覚まし動ける状態にまで回復したなら直ぐ俺に連絡する。
高松が目を離さない限り、無断でコイツが医務室から出ることは出来ない。
第一、あそこはパスワードを入力しなければ出ることは叶わず、それを知っているのは高松と
以下所属している医師団そしてハーレムを除いた青の一族(ハーレムに教えてしまうと情報が
外部に漏れる危険性が極めて高い為)、そしてシンタロー直属の秘書のティラミスとチョコレートロマンスだけだ。
「すまん」
「は?」
詫びの言葉を口にした俺をなんだ突然とシンタローが見返す。
「なんと反応を返してよいか…分からない」
それで謝ったのかよとシンタローは小さく笑った。
「仕方ねえじゃん?いきなりだし、しかも幽霊だしな」
それにお前の所為じゃないだろと慰めるような瞳で苦笑した。
「悪いなら俺だろ?あそこで注意を怠った総帥である俺のミス」
だからお前は悪くねえの、謝る必要もねえの。彼は言うが、シンタローを護るのが俺の使命だった。
だれかに命を受けたことではない。
シンタローに頼まれたことでもない。これは俺と俺との約束だった。
そんな俺の心中を見透かしたようにシンタローは困ったようにくすりと笑った。
心配する側の筈の俺が、逆に彼に心配されていた。
僅かだが、俺も笑みで答えた。
…苦笑、だったが。
「は~、それにしても…」
大きく息を吐き出し自分の手を宙に翳して見る。
その手は僅かに透けていて、手の平越しに天井が見えるらしかった。
「俺、死んじまったのかよ~…」
ガックリと肩を落として見せるが、先程からシンタローは深刻な状況を軽くスラスラと口にする。
俺より彼の方がよっぽど現実に楽観でいられた。
現実味がシンタロー自身、無いのかもしれない。
“気が付いたら生霊になっていました”などは極めて非日常だ。
まぁ、コイツは以前も生霊になったことがあるが、あの時と原因が大きく異なっている。
解決策もあの時と同じには決してならないだろう。
つまりはこれからどうすればいいのか見当が付かない、のだ。
それでも―――
「いや、お前の本体はまだ生きている筈だ。いや、生きている」
そうだ。
あの時シンタローの体はオレが所有することになり、コイツはジャンの再生した体に移った。
しかし今度は違う。
もう今のシンタローの体は紛れも無くシンタロー自身のモノだ。
他の誰と争うものではない。
そしてその体は生命の温かさを今も休まず必死に維持しているのだ。
「でもよ、ほら」
ふわりと音もなく体を浮かせ、窓に近付く。
「窓にも映らねえしいくら派手に動いても音出ねえし第一空中に浮かんでるし物掴めねえし」
おまけに体も若干透けているしな。
「俺にも何がなんだかさっぱりだぜ」
誰か説明出来るヤツが居たら教えて欲しいっつーの!苛立ちとそれ以上の困惑がシンタローの神経を甚振る。
軽い口調だったからこそ今まで気付かなかったが、シンタローの方が余程困惑していたのだ。本当は。
だからこそ余計に俺が冷静にならなければいけないのだ。
「つまり、今のお前の状態は『生霊』というヤツか」
―――だが…。
シンタローの黒絹髪が、薄く開けたままの窓からそよぐ夜風に誘われて、俺の鼻頭を擽った。
そのくすぐったさに軽く眉を顰めると「悪ぃ」、と苦笑し、さわさわと流れるソレを彼の手の平に掴み取った。
………。
……くすぐったい…?
目の前のシンタローは…今、は。
ぐいっ
「痛―――――ッ!!!~~~ッんだよ一体!?」
「幽霊というのは本来触れる事が出来ないのではないのか?」
手を伸ばせば確かに通り抜けてしまうシンタローの身体。
けれど彼の髪先に触れることが出来た。
「やー…、そうなんだろうけど、さ」
「ほら」と俺の頬に触れる。
温かく心地好い、よく知った感触。
確かなぬくもり。
続(つ)いで手を俺の頬から放し、
(高松が)新調してくれたばかりの鮮やかなスカイブルーのカーテンに触れた。
微かな布が擦れる音。
指の圧力で僅かに押されたカーテン。
再び彼の手を引き寄せる。
触れている。
他は一切触れる事はかなわず、後ろ髪の十数センチ毛先と両の手は触れることが出来る。
不思議に思うより先に、たった一部でも感じる場所があることが素直に嬉しかった。
ぺろりと手の平の生命線を舌でなぞると、返ってくるのはいつもの反応。
変わらない感度。
「~~~~~~…ッ」
ピクンと体が跳ね、彼の顔に朱が走っていた。
俺がシンタローの一部分を感じられるように、シンタローも俺を感じていた。
それは残酷なほど嬉しかった。
当たり前のように触れられるものが不可能になり、たった一部だけ許されたことへの喜び。
「馬…ッ鹿。やめろってッ。くすぐっってぇだろぉーが!」
俺から逃れようと力薄く片手で俺の肩を押す。
触れた部分からじんわりと注がれる手の平の体温。
厚い服越しで伝わる筈はないが、うっすらとシンタローの皮膚が汗ばんでいる気がする。
感じられるのは体温だけではない。
触れられる場所は生身の時と同じように発汗も僅かな手や髪の一房の重さも感じられた。
「触れる事が出来るのはココと髪の先少しだけか」
他の部分で俺に触れてみても全て素通りしてしまった。
無論触れることの出来ない場所の体温も重さも何も感じられない。
「中途半端だよな。カミサマの気紛れってヤツ?」
全く触れないよりはマシだけどさ、舌を出してシンタローが小さく悪態をついた。
「でもあんま中途半端過ぎても逆に欲求不満になりそー」
手の平を俺の額に当てて折角舞台がベットの上なのによと苦笑するシンタローは、
そういえば今日は一度も笑顔を見ていなかったことに気付いた。
先程から見せる笑みは全て苦さの混じったもの。
この状況だ、当たり前かと思いつつ、少々物足りないとも思った。
顔を寄せ、更に互いの距離を縮めて素通りの口付けを交わす。
月明かりの下生まれた影も独りきりで想いを冷めた唇に託す。
触れることは出来ないと知っている。
お互いがいつもの癖となってしまっているからする、してしまうだけだ。
何度かの口付けの後、髪の先を指に絡ませ唇をそっと彼の手の平に滑らせる俺と、
指全てで俺の口元で巧みに動かすシンタロー小さな遊びは暫く続いた。
カチ…
本当に微かな機械音が、複雑に入り組み始めた互いの思考を止めに入る。
時計は徹夜や真夜中まで掛かる研究や業務など何も無ければ、普段なら就寝する時間を大幅に超えていた。
「もうこんな時間か」
自室に戻ってから一時間も経っていないが明日も早い。
毎度の業務に加えて目の前の男の件もある。
何時もならシンタローを相手にして直ぐに翌日に(日付を越えて抱いてしまうこともあるが)備えて就寝をするところなのだ
―――が―……。
戸惑いが胸に溜まっていく。
その“原因”は俺の気を知らずに枕を数回叩いて眠るよう促している。
「別に眠くはない」
壁に寄りかかり此処を立ち位置にすると暗にアピールすることで寝る気は毛頭無いと教えてやったが、
ヤツは早くとベットサイドに手招きする。
普段ならこれはシンタローからの夜の誘いだが、幽体のヤツの意図は100%就寝命令だ。
「だからってこんな夜中に寝ないで他にすること無いだろ?ほらッ、眠くなくてもいいからさっさとベッドに入れ!」
横になって目と瞑るだけでいいからさ、そうすると自然と眠たくなるからなと両肩を押してくる。
「何故そこまで俺を寝かそうとするんだ」
本当に眠くはないのだぞ。
いや、正確に言えば眠くないと言うより寝てしまいたくない。
目を閉じて意識を手放してしまえば、
お前が――――――……がして…―――。
「夜はしっかり寝て翌日に備える!いつもお前が俺に言ってるだろ。夜更かししそうな時によ」
…ああ、そういえばそうだったな。
シンタローが仕事に熱中し過ぎな時やベットの中、何度も誘ってくる時や流行だとかのゲームに没頭している時に
言い聞かせていたのを思い出す。
「ほらほらキンタロー」
「…分かった」
仕方が無い。
ここは大人しくベットに入らなければずっとシンタローから小言を言われるのがオチだ。
やっと体を横にし薄手の掛け布団二枚を胸までかけた。
「ホントは疲れてるだろ?」
声を潜めて問いかけながらシンタローはそっと俺の頭に指を滑らせた。
安眠を促す為の額から頭上に撫でる指が心地好い。
あぁ……、本当に眠ってしまいそうだ…。
「眠りたくない」
眠ってしまったら
お前が―――――……る気ががして…――。
「でもさ」
ふぅ、と小さなため息がシンタローの口から漏れた。
「何だ」
息さえも本当は聞こえない。
シンタローが奏でる音は声だけだ。
それでもため息が聞こえた気がした。
「何か、お前の方が見ていて俺よりずっと辛そうだぜ?」
――――!
当たりだろと口元だけで笑みを浮かべてよしよしと俺の頭を撫でた。
不覚、だった。
意識不明で怪我人更には生霊にまでなってしまったヤツに気を使わせてしまったのか。
「寝ろよ」
横になるだけじゃなくちゃんと睡眠を取れと。
「病人にあんま心配されてんじゃねぇよ」
母親が子に安らかな就寝を促すように、ぽんぽんと薄手のタオルケットを叩く。
飲み込まれる意識の中に感じる一筋の糸。
ソレは音のイメージ。
……糸、
だ。……………。
……あぁ、これはシンタローの声か、この糸、は。
乳白色の視界の中で、純黒糸を引き寄せた。
聞えた糸。
お前が眠っても、俺はちゃんと側にいてやるから。だから安心して眠れ。
そんな彼の声が胸に聞こえてくるそれは決して幻聴ではない。
「なぁ…、キンタロー」
「なんだ」
「俺は消えないから、安心してたっぷり寝ろよな」
……ふ。
参ったな。何から何まで全てはお見通し、か。
………ああ…
もう、
お前の声が聞こえ―――
おやすみ。
「…ん」
チチチとか細くしかし高く鳴くのは、近頃早朝馴染みのつがい鳥のものだった。
着衣もそぞろに、窓から愛おしい視線を彼らに注ぐのが、この部屋に泊まって明けた早朝のシンタローの癖。
カーテンから溢れ出した白い光りが、睡魔に包まれたこの身体をそっと解き解し完全覚醒へと導く。
昨日は…シンタロー目掛けて突然鉄筋が降って……
―――!!!!!
「そうだ!!シンタローは…!?」
「あ~?こ・こ」
声がする方に目を向ければ、気持ち事件以前より白くなった肌のヤツが居た。
つがい鳥を見ていたのか、窓に体を寄せ首だけこちらに向けた。
夢ではないことを知る。
昨日、シンタローが鉄筋に襲われたこと。
意識不明の重体に陥ったこと。
生霊となってしまったこと。
そして
「前に幽霊になった時もそうだったけどよ。朝になっても」
消えてしまわない、こと。
疲れを癒す睡眠をとったばかりだというのに、落胆と安堵が交じり合った疲労がドッと押し寄せ深いため息を漏らした。
安堵はシンタローが目の前に居るからで、落胆は昨日の事故(事件と言った方が正しいか)は夢ではなかったからだ。
夢だったなら、今目の前に居るシンタローは生身であったのに。
「キンタロー」
「…なんだ」
「今のため息は安心からか?それともガッカリしたのか?」
笑みを浮かべながらも、申し訳なさそうに体制を少し低めにして俺の顔色を伺うように見上げている。
触れることが出来ないシンタローの頭代わりに自分の髪をグシャグシャと撫でる。
「両方だ」
「お前の様子でも見てくるか」
お前も行くか?と誘いかける前に、シンタローはちょっと待ったとパジャマの裾を引っ張るように制した。
「その前にさ、行きたいトコあんだけど」
「構わんが。急ぎか?」
「あ~…、絶対今直ぐって訳じゃねえけどよ……。出来れば早い内に用事済ませちまいたいし」
用事?仕事関係か?
今お前は本体は生きているが幽霊なんだ。
例え緊急の仕事でもお前がこなすのは無理だぞ?
考えが顔に出たのか、シンタローは違げーよと片手を軽く振った。
「予約していたCDが昨日入荷してる筈だからさ、一緒に着てくんねぇ?」
ふむ、今のシンタローは幽霊だからな。
車を走らせて、滅多に遭遇する事はないが交通交通渋滞に巻き込まれさえしなければだが、
15分もあれば繁栄謳歌を開設時から維持し続けている某大手デパートに着く。
シンタローが注文した品はビル三階端に構えているCDSHOPらしい。
しかし…わざわざ店に予約などしなくても、ガンマ団の特別ルートからの通信購入や秘書のティラミスや
チョコレートロマンスに言い付ければいい。
俺やグンマは殆どこれらで必要なものは揃えている。
一般的な品物なら談内の購買部も重宝しているな。
「お前、そーゆートコが淡白で味気ない考えなんだよ」
呆れたような苦笑を浮べ、シンタローは俺の一歩手前に進めていた足を止めて視線を僅かの間、合わせてきた。
「自分で買いに行くのがイイんだぜ?」
気分転換になるらしい。
俺にはあまり理解出来ない事だが。
「そりゃお前は買いモンとか興味薄いからなー」
最近あいつの様子がおかしい。グンマやマジックその他の連中には何ら変わりない態度をとっている。
おかしいのは―――俺に対してだけだ。
少し前は気軽に俺の部屋に入ってきて他愛のない世間話をアイツが一方的にしたり、
二人だけではないが共にどこかへ行った事もある。俺達が初めて対面した頃は想像すら出来なかった
平和と言うだろう、この図。その事に今は昔の確執に固執する気も起きない。
とにかく、ここ最近アイツは―――シンタローは俺を確実に避けていた。
「キンちゃん、シンちゃんと喧嘩でもしたの?」
グンマの問いに目を見張る事もなく「いや、特には・・・」と返答する。
あの鈍感極まりないグンマですらそう感じるほど俺に対して態度の変わったアイツ。
他の連中も感づいているのだろう。だが、俺には本当に心当たりが見つからない。
不自由する事もないから、それについてシンタローを問い詰める事もしない。
アイツの態度は日に日に余所余所しくなっていった。
そしてそれとは半比例するかのようにガンマ団内は酷く騒がしくなっていった。
一体何が起こるのだろうと聞いたらジャンが吹き出して笑った。
「もう直ぐお前らWシンタローの誕生日だろう。その祝いの準備だろーが☆★」
俺はこのかた誕生日祝いというものをした事がない。当たり前と言えば酷く当たり前だ。
今まで俺はシンタローの中に生まれた時から閉じ込められていたのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・―――!
・・・そうか、そう言う事か。アイツが妙に俺に対して余所余所しい訳はそれか・・・。
「馬鹿な奴だ・・・」
冷たく言い放つ。アイツがどう受け止めようと構わない―――筈だが、あまりのヤツらしさに呆れる。
そして何故かこの胸が無性に疼いた・・・。
少し前の俺はまさか今のような現状になろうとは思っていなかった。
覇王の高みを目指していた筈の俺は、今ではグンマや高松、ジャンと科学の道へと進んでいる。
そしてそれを決して不快には感じない。この道に進んだのは他でもない、俺自身の意思。
今もこうして倉庫から今日使用する素材を引っ張り出している。
使う素材が多いのと重いのでこういう力仕事はグンマには不向きだ。
こういう気遣いすら、以前の俺なら出来なかった事なのではないのか。
こんなにも俺が変わったのは、おそらくあの島の所為だろう。・・・・・・・・・・そして・・・。
全ての素材を両手に抱えると、重さはさほど気にならないが、視界が不自由になる。
角を曲がろうとした時、相手もぼぉっとしていたのか誰かとぶつかってしまった。
ドンッ
俺は何ともなかったが、相手も素材も派手に転んだ。
「―――――――っつ~~~」
視界に映るのは四方八方に転がった素材、そして鮮やかな黒と赤のコントラス。
無意識に俺はそいつの名を呼んでいた。
「シンタロー・・・」
「あ・・・」
あいつの顔が、俺の存在を確認した途端固まる。時が、止まる。
無機質な俺の部屋に居るのは、主の俺と・・・・・・シンタロー・・・。
何故俺はシンタローを招きいれたのだろう。
これからグンマやジャンと共に研究室へ向かう予定だった筈だ。
その為に必要だった素材は部屋の片隅に纏めて鎮座させている。
それが予定外の客のコイツも不審がり声をかけてきたが答える事はしなかった。
どう言ってよいのか、何故こうした事をしているのか俺自身分からない。
ほおっておけば良かったのだと言う声は、それ以上の何かによって打ち消され、
それが何度も心中で渦巻いた。
俺もヤツも言葉は少なく、とりあえず俺の好きな銘柄の紅茶を出す。
するとヤツは驚いたように、しかしふと笑った。何だと聞くとカップを掲げ、
自分の好きな銘柄の紅茶なのだと言った。そうかと返答し、また暫しの沈黙が流れる。
そう遠くもない場所のあちらこちらから賑やかな声や音が聴覚に入り混む。
「騒がしいな」
「お前の誕生日祝い・・・だからな」
その言い方に疑問を持つ事はない。
【俺達】ではなく【お前】と言う訳も知っている。どこか沈んだ声色で何を想う―――?
「お前もだろう」
「そうかな・・・以前はそうだったかもしんねーけど・・・」
そこで区切り、ふと窓辺に視線を投げる。分かっている。何故【以前は】と言うのか。
先程入れた紅茶は白い湯気を消して冷めていく。
「お前は【シンタロー】を捨てるのか?」
「・・・それは・・・・・・」
いきなり核心をつく問いに対して即座に否定はしないのか。
俯き、黒髪がコイツの顔を隠す。
泣きそうに見えるのは俺の気のせいではないだろう。
こいつはいつだって泣いていた。
ガンマ団という組織では滅多に喜怒哀楽を表わさなかったが、それでも心の底ではいつも殺し屋として、
総帥の息子として、青の一族の異端者としての重圧に耐え切れなくなり泣いていた。
・・・・・・たった一人で・・・・・・共に居た俺に気付かずに・・・誰にも、
コイツ自身すら気付かずにたった一人、心はいつだって泣いていた事を俺は知っている。
今もこの窓の外のようにいつ泣き出してもおかしくはないこの曇り空のようだ。
ずっと続くかと思われた沈黙の間は、カップを握り締めていたコイツの両手が解かれたのと同時に時を進める。
やっと重い口を開き、心の底を晒した。
「俺は・・・俺が時々分からない。
俺はずっとマジックの息子だと思っていた。
けど・・・けどっ!ジャンのコピーだアスの影だの!!本当は親父の―――マジックの息子じゃなかった!
けどっっ、ルーザーの息子でもない。
だってそうだろ?ルーザーの息子はお前だ・・・・・・お前だけだ・・・」
「・・・・・・・・・」
「俺は・・・俺の定位置が分からない・・・。
親父は俺に跡を継がせた。けど、それも・・・っ」
そこで区切り、それ以上の言葉を飲み込む。
全く青の一族の力も証もない自分に青の一族の未来を託させたのは一種の哀れみではないかと思っているのだろう。
誰もが気付かない。
この男の心中はこんなにも脆く、そしてそれを覆う為の強さを求め、得、
しかしやはり闇は消えないのだと。
「マジックはあの時言っただろう。お前も自分の息子だと」
「そう言うお前は俺をどう思っているんだ?憎い相手なんだろう?
ニセモノと・・・言い続けてきただろ」
伏せていた面を上げて問いかけてくる。
あの時はそう思っていた。俺こそがシンタロー本人だと、それは今も変わらず思っている。
だが、では目に前の男は誰だ?
俺はこの男をどう捉えている?
・・・答えは至極簡単に出てくる。
今も憎いかと問われれば肯定は出来ない。
また沈黙が流れそうになるのを止めたのは俺だった。
椅子から腰を上げ、近付く。
何だ?と見上げるコイツの右手を俺の右胸に強く押し付けた。
当然の行動にヤツは動揺したように黒曜石の瞳を大きく見開く。
トクン・・・トクン・・・
「感じるか・・・?・・・これが俺の鼓動―――ここに居る―――生きているという証だ」
そのまま左手もコイツ自身の右胸に押し付ける。
「そしてこれがお前の鼓動だ」
お前も俺も今ここにいて、異なった生を歩んでいる。
「今のお前は偽者ともコピーとも思っていない。俺は新たな名を受けた。自ら己の進む道を見つけた」
初めて俺の為に涙を流してくれたヤツが付けた名。洒落た名では決してないが、
それでも今はその名で呼ばれる事に腹はたたない―――と言うよりむしろ・・・・・・。
「お前はガンマ団の総帥・シンタロー。
・・・それが俺が知っている【お前】だ」
「キンタロー・・・」
「お前が今口にした名前・・・その存在が【俺】だ」
暫く呆けていたようなコイツの顔が、突然堪え切れないといった感じで吹き出して笑った。
・・・・・・何だ?・・・一体・・・。
俺の不快を感じ取ったのか、悪い悪いと手を振って未だ笑いながら紡ぐ言葉。
その中に黒い影が薄れていくのを感じる。
「ははっ、・・・まさかお前が俺に・・・くくっ・・・んな事言うなんて・・・っ、
思わなかったからよっっ」
あとは堰を切ったかのように笑い出した。
似合わない台詞だと言いたいのだろう、少々腹も立ったが、
涙まで浮かべて笑っていると思ったそれは可笑しさからではないと言う事が分かった。
何か吹っ切れたような・・・そんな感じだ。
俺には分かる。コイツと俺は24年間共にいて兄弟以上な関係だった。
そうでなかったにしてもコイツと俺は全く異なりしかしどこか似ているのだ―――そう言ったのは誰だったか。
言われた時は反発心を持った記憶がある。
だが、今は―――――。
コツン
軽くコイツの頭を小突く。
何だよと眉を寄せ見上げてくるその面には、先程とは打って変わったお前がいた。
「さっさと溜まっている書類を片付けろ。
俺もいい加減研究ばかりでは飽きるし、なにより身体がなまってしょうがない。お前もだろう?」
「・・・そうだな・・・さっさと終らせて・・・一戦交えようゼ!」
呆けていたような顔が徐々に子どものような挑戦的な笑みを口の端に浮かべさせる。
結局紅茶一杯だけでヤツは腰を上げ扉へと向かった。
「じゃあな!美味しい紅茶ごちそーさんっ」
「ああ・・・」
シュン
扉が開き、柔らかな笑みを浮かべ、手を軽く振ったヤツの姿が視界から消えた。
最後に見えた豊かな黒髪が踊るように揺れたように見えた。
もう、暫くは大丈夫だろう。お前は強いから一人だって立ち上がれる。
もし一人では立ち上がれない時、俺が手を貸そう。
きっと俺がお前の立場でもお前はそうしようとするだろうから。
「変わったのはあの島の所為か・・・?それとも・・・」
ふと窓の外に視線を向けた。先程までの薄曇りは晴れ、白雲が青空を更に浮き上がらせていた―――。
大分遅れてしまったが、今から隅に追いやった素材らを持って研究室にでも向かうか。
おそらく―――いや、間違いなくその歳に合わない幼い面をしたイトコが、
遅いと文句をつけながらも俺が来るのを待っているだろうから。
そいつとその育ての男、そして先程までこの部屋に滞在していた男と同じ顔を持つ青年が待つアノ場所へ―――
俺の居場所へ―――。
BACK
御題01-10 *10-和装 *09-写真 *08-さりげなく *07-半身 *06-一日の終わりに *05-総帥服 *04-しぐさ *03-視線の先に *02-距離 *01-シンクロ
[ キンシン好きに捧げる30のお題 1-10] // 11-20 21-30
キンシン同盟さまが配布されているお題をお借りしました。キンシン同盟さまは現在閉鎖されております。
1ページを10題ごとに区切り、短めの文章で構成しております。上のプルダウンメニューからどうぞ。
開始日:2004/02/11-終了日:2004/10/20
[ 01 : シンクロ ]
「なあ……」
「シン……」
「「……」」
ひとしきり会話もやんで持て余した時は時計がなんとなく目に入る。
たいていその頃はもう眠る刻限で。とくにまたどちらかが相手の部屋に泊まったときだったりする。
そろそろ風呂に入ってきたらどうか、とかベッドに行こうだとか。
誘い合う言葉が重なってしまうと、つい互いに黙り込んでしまうことになる。
こんなときは互いになんとなく気まずく、照れくさい。
[ 02 : 距離]
たまに互いに別々に行動をとるときがある。
たとえばシンタローが商談で、俺が研究のため別の地へと赴く。
あるいは、シンタローも俺も遠征でバラバラに出征するとき。
短いときはせいぜい3日ほど。長いときは何ヶ月も顔を合わせることが出来ない。
会いたいけれど会えない。
声だけ、メールだけ、あるいはそれすらない時間。
シンタローから離れた地でやるべきことが終わったとき、心のうちは歓喜に満たされる。
これで帰れる。ようやく会える。俺の名を呼ぶ声を聞くことが出来る。シンタローを抱きしめることが出来る。
そうなったらもう急いで帰るだけ。
俺の艦のタラップが降りた。
青い空、白い雲、聳え立つ本部。居並ぶ団員、艦や飛行船の発着陸の音。
シンタローに会いたい。早く。一秒でも早く。顔を合わせて、抱きしめたい。早く。
募る気持ちを押さえて、冷静さを装って一段一段踏みしめるように降りていく。
本当は駆け下りて、真っ先に彼の元へと行きたい。会えなかった間の飢餓感を早く満たしたいけれど。
出迎えご苦労だとか、いなかった間の様子だとか言わなくてはいけないこと、聞かなければいけないことはある。
それらをすべて終わせればあとはもうシンタローまでまっしぐらだ。
俺がどんなにシンタローに会いたかったか。抱きしめたかったか。
彼がいない時間が物足りなかったか。
それらをすべてシンタローに伝えたい。
エレベーターのドアが開いた。彼は私室にいる。
足音はいつもと同じ規則正しい音を刻む。
けして走ったりはしない。
早く会いたい。けれど、こんなにも彼が足りなくて焦ったように欲しがる自分を見せたくない。
カツカツ、と床が俺の靴で鳴る。
もうきっとシンタローの部屋までこの音は聞こえている。
ドアが見えた。
あと少し。もう少しだ。
感情のまま急げばいいだけなのに、20cmの距離がもどかしい
[ 03 : 視線の先に ]
従兄弟は俺の髪が好きだ。俺の眼が好きだ。
金色の髪と青い瞳。彼が焦がれて止まないもの。
彼の黒い髪と瞳のほうが綺麗だというのに。
一族の誰もが嫌悪する禍々しい青い目をシンタローは焦がれている。
秘石が彼を作っていたことを吹っ切れたようでいても。
彼の父が彼をかわらず愛していても。
シンタローはこの金と青に焦がれ続けている。
ああ、そんな顔で見つめないでくれ。
おまえは単純に俺の色に惹かれて見つめてくれているだけなのに。
誤解してしまう。
この金色も青い色も俺だけが持ってるわけではないのに。
[ 04 : しぐさ]
キンタローはいつもきちっとした格好をしている。
俺が赤い総帥服を着ているときはたいてい暗色系のスーツを。
グンマや高松と研究室にいるときは白衣を羽織り、研究者然としている。
そんなアイツが仕事が終わってネクタイを解く瞬間が好きだ。
羽織っていたジャケットをゆっくり脱いで、几帳面に壁に掛ける。
長い指が布を手繰る。しゅるっとシルクが擦れ、音が鳴る。
それから、第一ボタンだけ外すのだ。
そのしぐさはいつ見ても惚れ惚れする。
だって、アイツはその繊細な指使いで俺を翻弄するから。
[ 05 : 総帥服 ]
その服はなんとなしに違和感を感じた。
総帥の象徴と言えるほどの長い間、伯父が着続けていた所為もあるのだろう。
金色の髪の伯父が着ていたときは派手に感じたその色は、黒い髪ではいくらか落ち着いて見えるはずだった。
けれども、違う。
従兄弟の体を通して見ていた、鏡に映る姿とは違う。深い緑色の団服とも、南の島でのラフな格好とも違う。
なんとはなしに落ち着かないのだ。浮いているとでも言うのだろうか。
「あー、やっぱ似合わねえな」
鏡の前で従兄弟は何度も繰り返す。
自信でも違和感を感じているのだ。なんとなくおかしいと。
「やっぱ、親父の方が似合ってるよな。ちくしょう」
あ~あ、とため息をついて従兄弟は髪をかき上げた。
「たしかに伯父貴の方が似合っていた」
「いちいち言うなよ。馬子にも衣装って言いたいんだろ」
「マゴニモ?」
「似合うようには実績積めってことだよ」
「ちくしょう。ぜってえハーレムあたりに笑われる。てめえはいいよな~、スーツでよ」
……そんなこと言われても困る。
「おまえもスーツにすればよかったじゃないか」
「んなわけにいかねえだろ。総帥なんだからよ」
総帥だからか。だったら…。
「……とことんやるしかないな」
「ああ」
お時間です、と伯父の秘書が入ってきた。 これからシンタローは伯父の跡を継ぐ。
「行くぞ、キンタロー」
最初が肝心だからな、見てろよと従兄弟は笑った。
ああ、しっかり見てるさ。誰よりも近い位置でおまえがそれを着こなしていく様を。
[ 06 : 一日の終わりに ]
夜も更けると、そっとドアの開く音がする。
息を殺して彼は近づいてくる。
俺が眠っているか確認して、それから音を立てないようにベッドサイドにしゃがみ込む。
従兄弟は俺の顔を見ている。目を閉じていても彼の視線は強く感じる。
俺はその視線に反応しないように眠っている風を装い続ける。
ばれないように。不自然に見えないように。
ふっとシンタローが小さく息を吐いた。きっとうすく微笑んでくれている。
眠ったままのコタローにしている表情が浮かべられてるのだろう。
わずかに風が起こった。
彼の指が俺の頬や前髪に当てられた。
シンタローはやさしく髪を撫でてくれる。いつも、そっとそっと撫でてくれる。
その手はコタローに対して向けられる繊細な手つきと一緒で。
やさしいあたたかみが伝わってくる。
髪にそっと口付けが落とされた。
「おやすみ」という小さな囁きとともに。
シンタローがそっと離れ、ドアへ向かう気配がする。。
おやすみ、シンタロー。
今日もまた狸寝入りがばれなくてよかった。
俺が起きていることをおまえが知ったらきっと怒るだろうな。
照れ隠しに怒鳴りつけて、もう二度としてくれないだろう。
だから、そのときがくるまで俺は眠りを装い続ける。
[ 07 : 半身 ]
24年もの間、彼と共生してきた。
気の遠くなるようなその時間の流れに抗い、恨んだこともある。
従兄弟の檻から解放されたときの歓喜、一人で在ることの愉悦。
けれども、今は。
どろどろとした負の感情。孤独と自由になれないもどかしさと掻き毟りたくなる焦燥感。
それらに閉ざされたあの時間が懐かしく思い出されることがある。
もう二度と二人で一人の体を共有することなどしたくはない。
シンタローの声が、表情が、すべてが手を伸ばすことの出来ない場所にあるのなんて耐えられない。
けれども。
あの頃の俺、シンタローの檻に閉ざされ彼からしかなにものも得られない世界を。
誰よりも近くで彼が見たものを見、彼の感情を解していたあの頃が。
たまに酷く懐かしく思い出すことがある。
二人で在る今とはまた違った、誰よりも近かった時間が懐かしい。
思い出すたびにそれは苦く感じるけれど、甘美な記憶
[ 08 : さりげなく ]
「曲がってるぞ」
さりげなく従兄弟が廊下に控えていた団員のタイを直した。
「制服の乱れは集中力の乱れにつながるからな」
気をつけろ、と言い残してシンタローが前を進む。
従兄弟の後を付き従いながら、ちらりと先の団員に目をやると彼は頬を上気させていた。
なんだか、おもしろくない。
タイが曲がっていたら直すのは分かる。でも口で言えばいいことだ。
総帥がわざわざ手をかけることもないじゃないか。
なんだか、おもしろくない。
シンタローの後に続いて、会議室を入る。
資料が配られ、某国の情報がスクリーンに投影されても気が晴れない。
グラフも丁寧な説明も新たに浮上した事実も何もかもが頭に入ってこない。
無理やり叩き込もうとしても、靄がかかり集中できない。
なんだか、おもしろくない。
シンタローが他のヤツの世話を焼いたことも、タイを直す所作が手馴れていたことも。
おもしろくない。
[ 09 : 写真 ] R様に捧げます。
崩れ落ちた壁、壊れた機器、がなりたてるように鳴るアラートの中を突き進む。
ここはもうすぐ爆発する。
計算どおりならあと10分。
けれども目的のものを奪うまでは脱出できない。
螺旋状の階段をひたすら駆け上がる。
喚き声、怯える声、声にならない悲鳴が充満する。
俺を認め、ガンマ団の人間が攻めてきたことを理解し逃げ惑う人、人、人。
小銃を構え、ナイフをちらつかせ、俺に向かってくる戦闘員達。
けれど、そんなことでいちいち足を止めることなど出来ない。
タイムリミットまであと10分。いや、もう5分になるか。
掌中に青い光を熾し、撃つ、撃つ、撃つ。
死人さえ出さなければいい。敵が逃げ遅れるのは俺の責任じゃない。とうに勧告はしてある。
第一、破壊しないようになど心を砕く必要はない。
どうせ、もうすぐ爆発するのだ。
廊下はがらんとしていた。
諜報部員の報告書で見た瑠璃色の壷も淡い色彩の絵画も飾られていない。
めぼしいものは運び去ったのだろう。
人っ子ひとりいない。刃向かう敵も逃げ惑う人も何もいない。
俺の逝く手を遮るのは何もない。
さあ、急がないと。
眼魔砲の衝撃でドアを壊す。
ばらばらと壁も崩れ落ちた。
天井の照明が破片とともに落ちてくる。バチバチと床に火花が散った。
部屋の中央に置かれた机を引っ掻き回す。
積み上げられた書類をやファイルを捲り、目当てのものを探す。
ない。ない。ない。くそっ。
壊れんばかりの勢いで引き出しを開け、探す。
フロッピーディスクも戦闘員名簿も必要ない。
拳銃も金貨も葉巻も関係ない。鍵の束は……。
次の引き出しにもない。隠してあるのかと思い、天板を拳で打つ。でも、ここにもない。
殴りつけた拳に血が滲む。
けれど、そんなことどうでもいい。探さなくては。
早く早くと気が急く。急ぐあまり、指が縺れる。鋭利な刃物と化した紙で傷つく。
けれど、どうでもいい。
ああ、あった。
三番目の引き出しに目的のものはあった。
黒いコートを肩に引っ掛け、きっと見据えている従兄弟の写真。
まだ、どこの組織にも出回っていない彼の顔。
WANTEDと朱で書かれたファイルにそれは綴じられていた。
びりっと、勢いよくそこから剥がし取る。
懐に大事にそれを仕舞う。大事に、そっと仕舞う。
まるで、写真でなく本人を扱うようにそっと。
ああ、よかった。これで、シンタローに危害は及ばない。
爆発音が遠くに聞こえた。
さあ、帰ろう。任務完了だ。
帰ろう、シンタローの元へ。
[ 10 : 和装 ] とある方に捧げます。
旅行なんて初めてだった。
従兄弟の視点を通した現実ではなく、自分の目で、足で、手で感じられるようになって久しい。
ひとりで出かけたことも泊りがけの学会も、従兄弟と二人で何日にも及ぶ遠征をこなしたことはある。
だが、こういうのは初めてだ。
ガンマ団の保養所とやらに来たのも初めてだし、本部以外でくつろげるところなどあるとは思ってもいなかった。
最近忙しかったから行ってみようぜ、と従兄弟が俺を誘ったときも、休むならどこにも出かけないほうがいいのにと思っていたくらいだ。
窓の外には雪がちらついている。
美しく刈り込まれた緑色にはらはらと花弁のようにそれは溶けては消えていく。
ぼんやりと外の景色を眺めていると、肩を叩かれた。
「寝てんじゃねえだろうな?」
「誰がだ。俺は別に眠ってなどいない」
「あんまり黙ってるから思っただけだよ、つっかかんなよな」
ほら、早くしろよと彼は続ける。
ばさばさ、と衣服を脱ぎ散らかしはじめたシンタローに俺は慌てた。
「何しているんだ!?」
「…ンだよ。今更、恥ずかしがる仲じゃねえだろ。俺、生き返ったとき素っ裸だったじゃねえか」
「そうじゃない!なんのために脱いでいるんだと聞いているんだ」
まったく訳が分からない。
訝しげに見ていると、スラックスを畳に落としながらシンタローが口を開いた。
「メシ食う前に露天風呂に入るんだよ。温泉はあとでいいとして、内風呂は暇なうちに入っておこうぜ。
ここの温泉、何種類もあるって親父言ってたし。楽しみだよな!俺最近、肩張ってさ。効くといいんだけど。
ああ…内風呂へはそっちのガラスドアからでも出れるから、わざわざ服脱ぐのに脱衣スペースまで行くことねえだろ。
浴衣もタオルもさっき仲居さんが持ってきたまんまだし」
ほら早くしろ、と彼は急きたてる。しかし……。
「そういうものなのか?」
「そういうもんなんだよ。おまえもとっとと脱げよな。あ、タオルで前隠せよ」
「今更恥ずかしがる仲ではなかったんじゃないか……」
「馬ー鹿。常識なんだよ。あとで大浴場行ったときに隠さなかったら恥かくのおまえなんだぞ」
そうなのか…?
「……大浴場には女の子もいるかもしれないからか?」
「ちっげーよ!!普通は男同士でも隠すんだよ!ガンマ団の保養所が混浴なわけねえだろっ」
そういえばそうか。……隠すのは常識なんだな。覚えておこう。
「だが、シンタロー。俺は浴衣など着たことないぞ」
パジャマじゃダメなのか、と二組の浴衣を指しながら従兄弟に言うと彼は「ダメだ!」と言った。
「温泉とくりゃ浴衣なんだよ!!着せてやるから心配すんな」
そうか…。温泉とくれば浴衣なんだな。これも常識か。
「わかった。脱ぐから待っててくれ。俺は分からないが、温泉にもいろいろルールがあるんだろう」
シャツに手をかけると、シンタローは「たたむのはあとにしろよ」と口にする。
皺になるのはいやなんだが……。
しかし、仕方ないか。これが温泉での常識ではな。
衣服をすべて取り去り、彼の後に続く。
外の雪は止んでいない。変わらずひらひらと舞っている。ぐずぐずしていると寒いだろう。
「ああ。そうだ、あとで卓球もしようぜ。浴衣に卓球はツキモノだしな!」
ちゃんと着せてやるから心配すんなよ、と彼は笑った。
シンタローが開けたガラス戸から冷たい空気が流れ込む。
素肌にジンジンと冷たい空気が刺してくる。
「極楽だよな~。な、そう思うわねえか?いいだろ?露天風呂も」
「ああ」
俺もシンタローも、雪もすべてが湯煙に包まれる。
ひんやりと指す空気に触れた後に浸かる湯は、熱く感じた。
熱い、けれど気持ちがいい。張り詰めていた筋肉がすっと解けていく。
「シンタロー」
「ん?」
「来てよかった。温泉もいいものだな。風呂とはまた違う」
「ああ。いいだろ?また来ような」
今度はコタローも連れてきてえなー、としみじみと従兄弟は口にした。
ああ。そうだな。今度来るときはコタローも一緒がいい。
湯煙の中、雪がひらひらと蝶のように舞う。
そのひとひらが、すっと湯に溶けて消えた。
御題01-10 *10-和装 *09-写真 *08-さりげなく *07-半身 *06-一日の終わりに *05-総帥服 *04-しぐさ *03-視線の先に *02-距離 *01-シンクロ
[ キンシン好きに捧げる30のお題 1-10] // 11-20 21-30
キンシン同盟さまが配布されているお題をお借りしました。キンシン同盟さまは現在閉鎖されております。
1ページを10題ごとに区切り、短めの文章で構成しております。上のプルダウンメニューからどうぞ。
開始日:2004/02/11-終了日:2004/10/20
[ 01 : シンクロ ]
「なあ……」
「シン……」
「「……」」
ひとしきり会話もやんで持て余した時は時計がなんとなく目に入る。
たいていその頃はもう眠る刻限で。とくにまたどちらかが相手の部屋に泊まったときだったりする。
そろそろ風呂に入ってきたらどうか、とかベッドに行こうだとか。
誘い合う言葉が重なってしまうと、つい互いに黙り込んでしまうことになる。
こんなときは互いになんとなく気まずく、照れくさい。
[ 02 : 距離]
たまに互いに別々に行動をとるときがある。
たとえばシンタローが商談で、俺が研究のため別の地へと赴く。
あるいは、シンタローも俺も遠征でバラバラに出征するとき。
短いときはせいぜい3日ほど。長いときは何ヶ月も顔を合わせることが出来ない。
会いたいけれど会えない。
声だけ、メールだけ、あるいはそれすらない時間。
シンタローから離れた地でやるべきことが終わったとき、心のうちは歓喜に満たされる。
これで帰れる。ようやく会える。俺の名を呼ぶ声を聞くことが出来る。シンタローを抱きしめることが出来る。
そうなったらもう急いで帰るだけ。
俺の艦のタラップが降りた。
青い空、白い雲、聳え立つ本部。居並ぶ団員、艦や飛行船の発着陸の音。
シンタローに会いたい。早く。一秒でも早く。顔を合わせて、抱きしめたい。早く。
募る気持ちを押さえて、冷静さを装って一段一段踏みしめるように降りていく。
本当は駆け下りて、真っ先に彼の元へと行きたい。会えなかった間の飢餓感を早く満たしたいけれど。
出迎えご苦労だとか、いなかった間の様子だとか言わなくてはいけないこと、聞かなければいけないことはある。
それらをすべて終わせればあとはもうシンタローまでまっしぐらだ。
俺がどんなにシンタローに会いたかったか。抱きしめたかったか。
彼がいない時間が物足りなかったか。
それらをすべてシンタローに伝えたい。
エレベーターのドアが開いた。彼は私室にいる。
足音はいつもと同じ規則正しい音を刻む。
けして走ったりはしない。
早く会いたい。けれど、こんなにも彼が足りなくて焦ったように欲しがる自分を見せたくない。
カツカツ、と床が俺の靴で鳴る。
もうきっとシンタローの部屋までこの音は聞こえている。
ドアが見えた。
あと少し。もう少しだ。
感情のまま急げばいいだけなのに、20cmの距離がもどかしい
[ 03 : 視線の先に ]
従兄弟は俺の髪が好きだ。俺の眼が好きだ。
金色の髪と青い瞳。彼が焦がれて止まないもの。
彼の黒い髪と瞳のほうが綺麗だというのに。
一族の誰もが嫌悪する禍々しい青い目をシンタローは焦がれている。
秘石が彼を作っていたことを吹っ切れたようでいても。
彼の父が彼をかわらず愛していても。
シンタローはこの金と青に焦がれ続けている。
ああ、そんな顔で見つめないでくれ。
おまえは単純に俺の色に惹かれて見つめてくれているだけなのに。
誤解してしまう。
この金色も青い色も俺だけが持ってるわけではないのに。
[ 04 : しぐさ]
キンタローはいつもきちっとした格好をしている。
俺が赤い総帥服を着ているときはたいてい暗色系のスーツを。
グンマや高松と研究室にいるときは白衣を羽織り、研究者然としている。
そんなアイツが仕事が終わってネクタイを解く瞬間が好きだ。
羽織っていたジャケットをゆっくり脱いで、几帳面に壁に掛ける。
長い指が布を手繰る。しゅるっとシルクが擦れ、音が鳴る。
それから、第一ボタンだけ外すのだ。
そのしぐさはいつ見ても惚れ惚れする。
だって、アイツはその繊細な指使いで俺を翻弄するから。
[ 05 : 総帥服 ]
その服はなんとなしに違和感を感じた。
総帥の象徴と言えるほどの長い間、伯父が着続けていた所為もあるのだろう。
金色の髪の伯父が着ていたときは派手に感じたその色は、黒い髪ではいくらか落ち着いて見えるはずだった。
けれども、違う。
従兄弟の体を通して見ていた、鏡に映る姿とは違う。深い緑色の団服とも、南の島でのラフな格好とも違う。
なんとはなしに落ち着かないのだ。浮いているとでも言うのだろうか。
「あー、やっぱ似合わねえな」
鏡の前で従兄弟は何度も繰り返す。
自信でも違和感を感じているのだ。なんとなくおかしいと。
「やっぱ、親父の方が似合ってるよな。ちくしょう」
あ~あ、とため息をついて従兄弟は髪をかき上げた。
「たしかに伯父貴の方が似合っていた」
「いちいち言うなよ。馬子にも衣装って言いたいんだろ」
「マゴニモ?」
「似合うようには実績積めってことだよ」
「ちくしょう。ぜってえハーレムあたりに笑われる。てめえはいいよな~、スーツでよ」
……そんなこと言われても困る。
「おまえもスーツにすればよかったじゃないか」
「んなわけにいかねえだろ。総帥なんだからよ」
総帥だからか。だったら…。
「……とことんやるしかないな」
「ああ」
お時間です、と伯父の秘書が入ってきた。 これからシンタローは伯父の跡を継ぐ。
「行くぞ、キンタロー」
最初が肝心だからな、見てろよと従兄弟は笑った。
ああ、しっかり見てるさ。誰よりも近い位置でおまえがそれを着こなしていく様を。
[ 06 : 一日の終わりに ]
夜も更けると、そっとドアの開く音がする。
息を殺して彼は近づいてくる。
俺が眠っているか確認して、それから音を立てないようにベッドサイドにしゃがみ込む。
従兄弟は俺の顔を見ている。目を閉じていても彼の視線は強く感じる。
俺はその視線に反応しないように眠っている風を装い続ける。
ばれないように。不自然に見えないように。
ふっとシンタローが小さく息を吐いた。きっとうすく微笑んでくれている。
眠ったままのコタローにしている表情が浮かべられてるのだろう。
わずかに風が起こった。
彼の指が俺の頬や前髪に当てられた。
シンタローはやさしく髪を撫でてくれる。いつも、そっとそっと撫でてくれる。
その手はコタローに対して向けられる繊細な手つきと一緒で。
やさしいあたたかみが伝わってくる。
髪にそっと口付けが落とされた。
「おやすみ」という小さな囁きとともに。
シンタローがそっと離れ、ドアへ向かう気配がする。。
おやすみ、シンタロー。
今日もまた狸寝入りがばれなくてよかった。
俺が起きていることをおまえが知ったらきっと怒るだろうな。
照れ隠しに怒鳴りつけて、もう二度としてくれないだろう。
だから、そのときがくるまで俺は眠りを装い続ける。
[ 07 : 半身 ]
24年もの間、彼と共生してきた。
気の遠くなるようなその時間の流れに抗い、恨んだこともある。
従兄弟の檻から解放されたときの歓喜、一人で在ることの愉悦。
けれども、今は。
どろどろとした負の感情。孤独と自由になれないもどかしさと掻き毟りたくなる焦燥感。
それらに閉ざされたあの時間が懐かしく思い出されることがある。
もう二度と二人で一人の体を共有することなどしたくはない。
シンタローの声が、表情が、すべてが手を伸ばすことの出来ない場所にあるのなんて耐えられない。
けれども。
あの頃の俺、シンタローの檻に閉ざされ彼からしかなにものも得られない世界を。
誰よりも近くで彼が見たものを見、彼の感情を解していたあの頃が。
たまに酷く懐かしく思い出すことがある。
二人で在る今とはまた違った、誰よりも近かった時間が懐かしい。
思い出すたびにそれは苦く感じるけれど、甘美な記憶
[ 08 : さりげなく ]
「曲がってるぞ」
さりげなく従兄弟が廊下に控えていた団員のタイを直した。
「制服の乱れは集中力の乱れにつながるからな」
気をつけろ、と言い残してシンタローが前を進む。
従兄弟の後を付き従いながら、ちらりと先の団員に目をやると彼は頬を上気させていた。
なんだか、おもしろくない。
タイが曲がっていたら直すのは分かる。でも口で言えばいいことだ。
総帥がわざわざ手をかけることもないじゃないか。
なんだか、おもしろくない。
シンタローの後に続いて、会議室を入る。
資料が配られ、某国の情報がスクリーンに投影されても気が晴れない。
グラフも丁寧な説明も新たに浮上した事実も何もかもが頭に入ってこない。
無理やり叩き込もうとしても、靄がかかり集中できない。
なんだか、おもしろくない。
シンタローが他のヤツの世話を焼いたことも、タイを直す所作が手馴れていたことも。
おもしろくない。
[ 09 : 写真 ] R様に捧げます。
崩れ落ちた壁、壊れた機器、がなりたてるように鳴るアラートの中を突き進む。
ここはもうすぐ爆発する。
計算どおりならあと10分。
けれども目的のものを奪うまでは脱出できない。
螺旋状の階段をひたすら駆け上がる。
喚き声、怯える声、声にならない悲鳴が充満する。
俺を認め、ガンマ団の人間が攻めてきたことを理解し逃げ惑う人、人、人。
小銃を構え、ナイフをちらつかせ、俺に向かってくる戦闘員達。
けれど、そんなことでいちいち足を止めることなど出来ない。
タイムリミットまであと10分。いや、もう5分になるか。
掌中に青い光を熾し、撃つ、撃つ、撃つ。
死人さえ出さなければいい。敵が逃げ遅れるのは俺の責任じゃない。とうに勧告はしてある。
第一、破壊しないようになど心を砕く必要はない。
どうせ、もうすぐ爆発するのだ。
廊下はがらんとしていた。
諜報部員の報告書で見た瑠璃色の壷も淡い色彩の絵画も飾られていない。
めぼしいものは運び去ったのだろう。
人っ子ひとりいない。刃向かう敵も逃げ惑う人も何もいない。
俺の逝く手を遮るのは何もない。
さあ、急がないと。
眼魔砲の衝撃でドアを壊す。
ばらばらと壁も崩れ落ちた。
天井の照明が破片とともに落ちてくる。バチバチと床に火花が散った。
部屋の中央に置かれた机を引っ掻き回す。
積み上げられた書類をやファイルを捲り、目当てのものを探す。
ない。ない。ない。くそっ。
壊れんばかりの勢いで引き出しを開け、探す。
フロッピーディスクも戦闘員名簿も必要ない。
拳銃も金貨も葉巻も関係ない。鍵の束は……。
次の引き出しにもない。隠してあるのかと思い、天板を拳で打つ。でも、ここにもない。
殴りつけた拳に血が滲む。
けれど、そんなことどうでもいい。探さなくては。
早く早くと気が急く。急ぐあまり、指が縺れる。鋭利な刃物と化した紙で傷つく。
けれど、どうでもいい。
ああ、あった。
三番目の引き出しに目的のものはあった。
黒いコートを肩に引っ掛け、きっと見据えている従兄弟の写真。
まだ、どこの組織にも出回っていない彼の顔。
WANTEDと朱で書かれたファイルにそれは綴じられていた。
びりっと、勢いよくそこから剥がし取る。
懐に大事にそれを仕舞う。大事に、そっと仕舞う。
まるで、写真でなく本人を扱うようにそっと。
ああ、よかった。これで、シンタローに危害は及ばない。
爆発音が遠くに聞こえた。
さあ、帰ろう。任務完了だ。
帰ろう、シンタローの元へ。
[ 10 : 和装 ] とある方に捧げます。
旅行なんて初めてだった。
従兄弟の視点を通した現実ではなく、自分の目で、足で、手で感じられるようになって久しい。
ひとりで出かけたことも泊りがけの学会も、従兄弟と二人で何日にも及ぶ遠征をこなしたことはある。
だが、こういうのは初めてだ。
ガンマ団の保養所とやらに来たのも初めてだし、本部以外でくつろげるところなどあるとは思ってもいなかった。
最近忙しかったから行ってみようぜ、と従兄弟が俺を誘ったときも、休むならどこにも出かけないほうがいいのにと思っていたくらいだ。
窓の外には雪がちらついている。
美しく刈り込まれた緑色にはらはらと花弁のようにそれは溶けては消えていく。
ぼんやりと外の景色を眺めていると、肩を叩かれた。
「寝てんじゃねえだろうな?」
「誰がだ。俺は別に眠ってなどいない」
「あんまり黙ってるから思っただけだよ、つっかかんなよな」
ほら、早くしろよと彼は続ける。
ばさばさ、と衣服を脱ぎ散らかしはじめたシンタローに俺は慌てた。
「何しているんだ!?」
「…ンだよ。今更、恥ずかしがる仲じゃねえだろ。俺、生き返ったとき素っ裸だったじゃねえか」
「そうじゃない!なんのために脱いでいるんだと聞いているんだ」
まったく訳が分からない。
訝しげに見ていると、スラックスを畳に落としながらシンタローが口を開いた。
「メシ食う前に露天風呂に入るんだよ。温泉はあとでいいとして、内風呂は暇なうちに入っておこうぜ。
ここの温泉、何種類もあるって親父言ってたし。楽しみだよな!俺最近、肩張ってさ。効くといいんだけど。
ああ…内風呂へはそっちのガラスドアからでも出れるから、わざわざ服脱ぐのに脱衣スペースまで行くことねえだろ。
浴衣もタオルもさっき仲居さんが持ってきたまんまだし」
ほら早くしろ、と彼は急きたてる。しかし……。
「そういうものなのか?」
「そういうもんなんだよ。おまえもとっとと脱げよな。あ、タオルで前隠せよ」
「今更恥ずかしがる仲ではなかったんじゃないか……」
「馬ー鹿。常識なんだよ。あとで大浴場行ったときに隠さなかったら恥かくのおまえなんだぞ」
そうなのか…?
「……大浴場には女の子もいるかもしれないからか?」
「ちっげーよ!!普通は男同士でも隠すんだよ!ガンマ団の保養所が混浴なわけねえだろっ」
そういえばそうか。……隠すのは常識なんだな。覚えておこう。
「だが、シンタロー。俺は浴衣など着たことないぞ」
パジャマじゃダメなのか、と二組の浴衣を指しながら従兄弟に言うと彼は「ダメだ!」と言った。
「温泉とくりゃ浴衣なんだよ!!着せてやるから心配すんな」
そうか…。温泉とくれば浴衣なんだな。これも常識か。
「わかった。脱ぐから待っててくれ。俺は分からないが、温泉にもいろいろルールがあるんだろう」
シャツに手をかけると、シンタローは「たたむのはあとにしろよ」と口にする。
皺になるのはいやなんだが……。
しかし、仕方ないか。これが温泉での常識ではな。
衣服をすべて取り去り、彼の後に続く。
外の雪は止んでいない。変わらずひらひらと舞っている。ぐずぐずしていると寒いだろう。
「ああ。そうだ、あとで卓球もしようぜ。浴衣に卓球はツキモノだしな!」
ちゃんと着せてやるから心配すんなよ、と彼は笑った。
シンタローが開けたガラス戸から冷たい空気が流れ込む。
素肌にジンジンと冷たい空気が刺してくる。
「極楽だよな~。な、そう思うわねえか?いいだろ?露天風呂も」
「ああ」
俺もシンタローも、雪もすべてが湯煙に包まれる。
ひんやりと指す空気に触れた後に浸かる湯は、熱く感じた。
熱い、けれど気持ちがいい。張り詰めていた筋肉がすっと解けていく。
「シンタロー」
「ん?」
「来てよかった。温泉もいいものだな。風呂とはまた違う」
「ああ。いいだろ?また来ような」
今度はコタローも連れてきてえなー、としみじみと従兄弟は口にした。
ああ。そうだな。今度来るときはコタローも一緒がいい。
湯煙の中、雪がひらひらと蝶のように舞う。
そのひとひらが、すっと湯に溶けて消えた。
サマー・ボックス
01:亜熱帯に咲く花温室に置かれた従兄弟の宝物とも言うべき花は今年もひっそりと花開いた。
あの夏を閉じ込めた島でできた小さな友人に貰った花鉢だ。
傘のようにきつく閉じられていたつぼみがゆるゆると緩み、花びらが解けていくのをシンタローは毎日楽しみにしていた。
遠征の時期と重ならなかったのは幸いというべきだろう。
亜熱帯に咲く花は気候の違いからか温室に入れてもあまり長くはもたない。
花が最後のひとひらを鉢の中へと落としたのは今日の昼のことだった。
もっと暑ければもう少し永らえたかもしれない。あるいは、俺かグンマがあの島の気候を再現した部屋を作れば……。
だが、そんなこと今考えても後の祭りだ。
気休めに「また来年の楽しみだな」と俺が声をかけるとシンタローは小さく首を振る。
頷いたのか、と判断は出来るもののかけた言葉に対する答えはない。
黙りこくったまま、シンタローはしばらくの間、その場から動かなかった。
あの島の思い出を浮かべているんだろうか、と俺は従兄弟が口を閉ざしている間考えていた。
青い海と珊瑚礁、白い入道雲。子どもと犬に不思議ないきものたち。
短い夏の間、従兄弟を変え、一族のわだかまりを解き放ったあの島。
島にいた彼らは今どうしているんだろうか、とふと思い浮かべているとじっと落ちた花びらを見つめていたシンタローが静かに口を開いた。
「海が見たい」
海までは車で1時間弱だ。
オフだし何の心配もなくすぐにだって行ける。
けれど、その海は従兄弟が思い浮かぶものとは違う。
熱い大気に包まれ、穏やかな飛沫を上げる海ではない。真っ青なまでに透き通った水を湛えていない。
なにもかもがあの島のものとは違うはずだ。そんなことシンタローだって分かっているはずだ。なのに。
「……海が見たい」
シンタローは花鉢から視線を上げるともう一度そう口にした。
視線の先、空の色は澄んだ青色だ。これだけはあの島と似ているかもしれない。
俺を振り返ったシンタローは混じり気のない黒い瞳を瞬かせた。
なあ、と促される前に俺はジャケットから車のキーを出す。
手にしたキーが太陽にさらされ、鈍いひかりを放つとシンタローは微笑んだ。
「用意いいな、おまえ」
そんなこと、毎年のことだろう。おまえが海を見たいと言い出すのは。
そう言いかけたが、俺はその言葉を口にするのはやめた。
「……偶然、入れっ放しだっただけだ」
02:終わらないサマードライブ潮のにおいはまだ強く感じない。
それでも海に近い場所の風は強く人の肌や車へと吹き付けてくる。
「すげえ風だな」
よせばいいのにシンタローは窓を全開にしていた。
吹きつける風が従兄弟の体越しに俺の頬を撫でる。前髪がふわふわと浮き上がって目にちらつく。
信号に止められてブレーキを踏むと後ろからベスパがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
夏の海がこの先にあるというのに道路には俺たちの車と横のベスパしかいない。
土日ならばともかく平日はそんなものかもしれない。
信号が青になるとベスパはぐんとスピードを上げ、それから左折した。
海に行くのは俺たちだけか、と隣を見るとシンタローは風で巻き上がる髪と悪戦苦闘していた。
「閉めたらどうだ」
横目でちらりと見ながら忠告するとシンタローは首を振った。
「せっかく気持ちい風が吹いてるんだぜ」
だが、その風で苦労してるじゃないか。
「髪を結べば……」
「紐もゴムもねえ」
間髪入れず返ってきた答えに俺は「そうか」と答えるしかなかった。
「なあ、あとどんくらいで着くんだよ?」
潮のにおいが少し濃くなってきた。けれど窓の外の景色はまだ殺風景に散らばる住居やコンビニエンスストアばかりで、波も砂浜も見えてこない。閑散とした風景が続いている。
「30分くらいだな」
シンタローは俺の答えにふうんと返事をするとシートを倒した。
「寝るのか?」
「ああ。着いたら起こせよ」
おやすみのキスはいらねえから、とシンタローは悪戯めいた口調で答えた。
「……分かった」
安全運転しろよ、とシンタローは笑いながら目を閉じる。
吹いてきた風が横になったシンタローの髪を巻き上げるのをミラー越しに俺は認めた。
風はシンタローの額をくすぐると俺に辿り着く。
前髪が浮く。くすぐったさに眉を顰めながらハンドルを右に切る。
凪いだ風がいつしか隣の従兄弟の寝息を届ける頃になると、潮のにおいはぐっと強まってきた。
歩道にはいつしか棕櫚の木が植えられ、海までの道のりを南国風に飾っている。
濃い潮風に転寝するシンタローがくんと鼻をひくつかせた。
そんな従兄弟の反応に俺はハンドルを握りながら笑いを噛み殺す。犬みたいだ。
グンマがいたら揶揄ってくれただろう、きっと。
点滅し始めた信号を認めて俺はシンタローから視線を元に戻す。
犬連れの夫婦が渡り終えた信号が赤色になり、俺の前の信号が青に変わる。
ここを渡ればあとは一本道だ。
海までもう少しだ。
車が動き出すとまた窓から風が強く吹き込んできて、潮のにおいを届けてくれた。
03:何処かで失くしたビーチサンダルの片割れ海の家なんてものはなくて、浜辺にはコンビニが一軒寂しく立っているだけだった。
真っ白だったパプワ島の浜辺と違ってベージュと灰色が混じった砂は少し暗く感じる。
靴を脱いで、砂を踏みしめるとさくさくと軽やかな音が足指から零れ落ちた。
「シンタロー」
咎めるような声を受けて俺は「うるせえな」と返した。
「熱ぃ」
「当たり前だ」
「馬鹿、違えよ」
足じゃない、と俺は首を振る。からっからに乾いた空気と暑い日差しが原因だ。
夏の太陽のひかりをたっぷりと浴びた砂は足元から照り返しをしてくれて目にも熱い。
キンタローを見れば彼は眩しそうに目を細めている。
青い目の従兄弟にはこの日差しは強すぎるのだ。
「サングラス持ってくればよかったな」
平気かよ、と視線を送ると平気だと頷かれる。
「おまえこそビーチサンダルを持ってきたらよかったんじゃないか?」
買うか?とコンビニに青い目が視線を送った。
「いや。いい。どうせそんな使うもんじゃねえし、すぐ失くしちまうんだよ。片足だけになってたりな」
だからいらねえ。もう裸足になっちまったし、と俺が言うと従兄弟は「それで裸足でどうする気だ?」と返してきた。
「どうするって、そんなの……」
気分が出ねえから脱いだんだよ、と答えて俺は靴を砂の上に置いた。
それからさくさくと砂の上を進みながら海へ向かおうとする。
すると後ろで俺の靴をそろえていたキンタローからため息が聞こえた。
「なんだよ」
立ち止まるとキンタローはうすい笑みを浮かべながら近づいてきた。
「いや……」
別にと肩を竦めるさまがむかつく。ガキかとでも思ってるんだろう。
目を細めたままキンタローは「濡れると厄介だぞ」と付け加えてきた。
「海に入るわけねえだろ」
近くで見るだけだ。そう答えるとキンタローは鼻で笑った。
信じてねえなこいつ。
「……タオルを買ってくる」
あまりハメを外さないで遊んでいろ、とキンタローは笑って俺の頭をぽんぽんと叩いた。
すっかり子ども扱いしてやがる。
「いらねえよ!」
俺が殴るよりも先にコンビニへと歩き出したキンタローの背に向かって怒鳴ると従兄弟は片手をひらひらと上げた。
その仕草もむかつく。
海になんか入らねえ。
ちょっと波打ち際まで近づいて観察したいだけなんだよ。ちょっと。
「おい!キンタロー!」
呼んでもキンタローの背は遠ざかっていく一方だ。
コンビニの中に消えていく姿を認めて俺は髪をガシガシとかき上げた。
ちくしょう。絶対、濡れねえからな。
止めたいた足を動かして熱い砂の上を俺は歩く。
足の裏がじんじんと熱を持っている。大きな砂の粒を踏むと痛い。
けれど、砂が響かせるさくさくとした音はあの島で聞いた音と同じだ。
少しセンチメンタルな気分で砂の上を歩いていると風に煽られた波が今までよりも大きく浜に打ち付けてきた。
「あ」
波打ち際にいたから頭からずぶ濡れになったわけではない。
けれど。
しっかり濡れた足の爪を見ながら俺は顔を覆った。
やべえ。キンタローのヤツにこれみよがしにタオルを寄越されちまう。
04:今夜、カーニバルで会おう夏の日が落ちるのは遅い。
下手すると夕食のときにも外が明るかったりする。
僕の2人の従兄弟がコンビニの袋を片手に帰ってきたのは夕食の直前で、ちょうど日が落ちたばかりの頃だった。
ナスとひき肉のパスタを片付けた後、シンちゃんは「ほらよ」と僕にコンビニの袋を渡してきた。
大きめの袋だけど軽い。なんだろう。袋に印字された店の名前もこの近くのコンビニとは違う。
どこまで行ってきたの?と聞くとシンちゃんは照れくさそうに「海」と答えた。
「海?ずるーい」
「だから土産買ってきただろ」
コンビニで?なんなの、それ。新発売のお菓子かなんかじゃ僕はごまかされないよ。
そう思ってビニール袋を開けると思いがけないものが入っていた。
「花火?」
「おう。懐かしいだろ」
「うん」
線香花火なんて懐かしい。子どもの頃以来かもしれない。
小学生も高学年になるとシンちゃんは線香花火よりもロケット花火とか派手なものを打ちたがった。
派手なものといえばお父様は夏になるとシンちゃんのために打ち上げ花火をわざわざ上げていたけれど。
「これから温室の前でやろうぜ」
ベランダじゃ狭いだろ、とシンちゃんは僕の肩をぽんと叩いた。うんと同意しながら僕はあれっと思う。
キンちゃんの姿がいつの間にかいなくなっている。
「ねえ」
「あ……アイツ?先にっ行ってバケツに水用意してるんじゃねえの」
気が利くから、とシンちゃんは少し拗ねたように答えた。
それからすぐに温室へと向かうとシンちゃんが言ったとおりバケツを抱えたキンちゃんがいた。
パッケージの中の線香花火は二十本以上入っていたと思うのにあっという間に最後の2本になってしまった。
時間は結構経っているはずなのにとても早く感じる。
シンちゃんが3本いっぺんに火を点けていたのがついさっきのことなのに。
「どうする?おまえ2本いっぺんにやるか?」
「え?いいよ。シンちゃんとキンちゃんがやれば」
僕が答えるとキンちゃんは首を振った。
するとシンちゃんが僕に1本渡してきた。もう1本はシンちゃんの手の中だ。
かち、とライターでキンちゃんが火を点けてくれた。一瞬置いて火花が散る。
オレンジ色の暖かいひかりがまだ少し明るい外を小さく照らす。
ぱちぱちと弾ける様子は花火を始めた頃は楽しかったのに、なぜか今は寂しい気持ちで胸がいっぱいだった。
花火の終わりはいつだって物悲しい。残念な気持ちと、楽しかった気持ちがあっという間に火とともに消えていくからなのか。ぽとり、とシンちゃんの火玉が落ちる。そこだけふっと明かりが戻ったのを僕はぼんやりと見つめた。
僕の花火はまだ消えない。
明るいオレンジの火花をシンちゃんの黒い目が見つめている。
ちらりと見上げてみるとちりとりを持ったままキンちゃんはシンちゃんを見ていた。
花火見てないんだね、キンちゃん……。
「あ」
「え……あ」
シンちゃんの声にはっとして僕は慌てて手元を見た。
ぱちぱちと弾けていた火の玉がコンクリートの上でぼおっとひかりを放っている。
ひかりはじわじわと消えていった。花火は終わりだ。楽しい時間はもう終わり。
立ち上がると僕はバケツの水を手ですくった。火花の落ちたところにそっとかける。
じゅっと小さな音が聞こえ、歪な水の染みがコンクリートに出来上がった。バケツを片付けないといけない。
ふと周りを見るとキンちゃんは花火の残骸を掃除していた。シンちゃんは何もしていない。ぼんやりと僕の前で座り込んでいる。
もう。片付け手伝いなよね、と思いながら僕はちょっとした悪戯心でもう一度水をすくった。
ぱしゃ。
「つ、めてぇッ!おい、グンマ!てめえ!!」
「ボーっとしてるシンちゃんが悪いんだよ。片付け手伝いなよね」
それからこのお水は冷たくないでしょ、と僕は答えた。花火のはじめに汲んだ水はすっかりぬるくなっている。
「冷てえよ、馬鹿!馬鹿グンマ!」
立ち上がったシンちゃんが僕を捕まえようとする。僕は慌ててバケツを抱え込む。
「それ以上近づいたらバケツの水かけるよ!」
大人しくゴミ捨ててきなよね!と僕はべえっと舌を出した。キンちゃんのちりとりはもう終わっちゃった。
ほら、シンちゃんと僕がバケツを頭の上に上げてみるとキンちゃんは僕らの姿を見ながら笑った。
05:乱反射にまどろむ午後さーっとブラインドが巻き上げられて、眩しい日差しが部屋の中を照らした。
誰だよ、勝手に。
擦りながら目を開けると見慣れた姿がある。
従兄弟のキンタローだ。
「キンタロー?」
「ああ」
もう11時だぞ、とキンタローは俺に事も無げに言った。
「今日もオフだからいいが……大分ハメを外したから起き上がれないだろう」
ああ、そうだ。今日もオフだった、と俺は寝ぼけ眼を擦りながら思う。
シーツに触れた肘が何故だか少しひりひりしている。
瞼を擦っていた指先をもう少し上げて髪をかき上げようと動くとひりひりとした感じがもっと強い痛みに変わった。
「痛っ!なんだッ、痛ぇ!」
がばっと起き上がると腰から上に痛みがびりびりと走る。
ベッドを降りようとしても断続的な痛みにもはや声にもならずどうすることもできない。
「筋肉痛と日焼けだ。冷たいシャワーで冷やした方がいい」
鍛えていても普段と違うはしゃぎ方をしたからな、とキンタローは俺に言った。
言われてみれば昼間は海で、夜はグンマと花火の後に追いかけっこをしたんだった。
けれど淡々と言うその口調が今は痛みを余計に感じさせる。肌だけじゃなくて耳が痛い。
「……痛ぇ」
そっと床に足をつけるとひんやりとした感触がした。
フローリングの床は冷たくて気持ちがいい。そのままベッドに腰掛けているとキンタローが手を差し出してきた。
「ゆっくり起き上がったほうがいいぞ」
「ああ」
サンキュと俺はキンタローの手を握った。指先がフローリングの床と同じくらいひやりとしている。
「お前の手、冷てえ」
「さっき洗濯物を干したばかりだ」
だからじゃないのか、とキンタローは首を傾げた。
「そうかよ」
まあ、いいけどと俺はそっと腰を上げる。
「なあ、手そのままでいろよ」
ぺたりと床を踏み出すと一瞬離れていた冷たい感触が足にもう一度吸い付く。
「別にかまわないが、俺は一緒に水は浴びないぞ」
キンタローの言葉に俺は当たり前だろ、とうっかりキンタローの手を払ってしまい鋭い痛みを感じた。
あ~も~。痛みが引くまで気が抜けねえじゃねえか。くそ!
蹲りたくなる気持ちを抑えて俺は一人でシャワーに向かう。
そっと歩く俺を追い越してキンタローは昼食は俺が作ると笑いながら出て行った。
去り際におまけとばかりに手を握られ、手の甲に軽いキスが落とされた。
ちくしょう。むかつく。一瞬触れた手が冷たくて気持ちいと思ったこともむかついて仕方がない。
むかつくあまり、口唇が落とされた手の甲をごしごしともう片方の手で拭って俺は再び後悔した。
なんでこんなとこまで焼けてるんだよ!!痛えじゃねえか!
ちくしょう!と思いながら俺はゆっくりシャワーへと向かった。
水を浴びればどうにかなる、たぶん。少しは治まるはずだ。
今日は無理でも後で覚えとけよ、と俺はキンタローのことを考えながらバスルームのドアを開けた。
いつか絶対同じ目にあわせてやる、と思いながら俺はそろそろとパジャマを脱ごうと体を動かした。
熱い痛みが走って泣きたくなるのを堪えながら俺はその場に着ていたものを脱ぎ散らかした。
初出:2006/08/03
be in love with flower様よりお題をお借りしました。
01:亜熱帯に咲く花温室に置かれた従兄弟の宝物とも言うべき花は今年もひっそりと花開いた。
あの夏を閉じ込めた島でできた小さな友人に貰った花鉢だ。
傘のようにきつく閉じられていたつぼみがゆるゆると緩み、花びらが解けていくのをシンタローは毎日楽しみにしていた。
遠征の時期と重ならなかったのは幸いというべきだろう。
亜熱帯に咲く花は気候の違いからか温室に入れてもあまり長くはもたない。
花が最後のひとひらを鉢の中へと落としたのは今日の昼のことだった。
もっと暑ければもう少し永らえたかもしれない。あるいは、俺かグンマがあの島の気候を再現した部屋を作れば……。
だが、そんなこと今考えても後の祭りだ。
気休めに「また来年の楽しみだな」と俺が声をかけるとシンタローは小さく首を振る。
頷いたのか、と判断は出来るもののかけた言葉に対する答えはない。
黙りこくったまま、シンタローはしばらくの間、その場から動かなかった。
あの島の思い出を浮かべているんだろうか、と俺は従兄弟が口を閉ざしている間考えていた。
青い海と珊瑚礁、白い入道雲。子どもと犬に不思議ないきものたち。
短い夏の間、従兄弟を変え、一族のわだかまりを解き放ったあの島。
島にいた彼らは今どうしているんだろうか、とふと思い浮かべているとじっと落ちた花びらを見つめていたシンタローが静かに口を開いた。
「海が見たい」
海までは車で1時間弱だ。
オフだし何の心配もなくすぐにだって行ける。
けれど、その海は従兄弟が思い浮かぶものとは違う。
熱い大気に包まれ、穏やかな飛沫を上げる海ではない。真っ青なまでに透き通った水を湛えていない。
なにもかもがあの島のものとは違うはずだ。そんなことシンタローだって分かっているはずだ。なのに。
「……海が見たい」
シンタローは花鉢から視線を上げるともう一度そう口にした。
視線の先、空の色は澄んだ青色だ。これだけはあの島と似ているかもしれない。
俺を振り返ったシンタローは混じり気のない黒い瞳を瞬かせた。
なあ、と促される前に俺はジャケットから車のキーを出す。
手にしたキーが太陽にさらされ、鈍いひかりを放つとシンタローは微笑んだ。
「用意いいな、おまえ」
そんなこと、毎年のことだろう。おまえが海を見たいと言い出すのは。
そう言いかけたが、俺はその言葉を口にするのはやめた。
「……偶然、入れっ放しだっただけだ」
02:終わらないサマードライブ潮のにおいはまだ強く感じない。
それでも海に近い場所の風は強く人の肌や車へと吹き付けてくる。
「すげえ風だな」
よせばいいのにシンタローは窓を全開にしていた。
吹きつける風が従兄弟の体越しに俺の頬を撫でる。前髪がふわふわと浮き上がって目にちらつく。
信号に止められてブレーキを踏むと後ろからベスパがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
夏の海がこの先にあるというのに道路には俺たちの車と横のベスパしかいない。
土日ならばともかく平日はそんなものかもしれない。
信号が青になるとベスパはぐんとスピードを上げ、それから左折した。
海に行くのは俺たちだけか、と隣を見るとシンタローは風で巻き上がる髪と悪戦苦闘していた。
「閉めたらどうだ」
横目でちらりと見ながら忠告するとシンタローは首を振った。
「せっかく気持ちい風が吹いてるんだぜ」
だが、その風で苦労してるじゃないか。
「髪を結べば……」
「紐もゴムもねえ」
間髪入れず返ってきた答えに俺は「そうか」と答えるしかなかった。
「なあ、あとどんくらいで着くんだよ?」
潮のにおいが少し濃くなってきた。けれど窓の外の景色はまだ殺風景に散らばる住居やコンビニエンスストアばかりで、波も砂浜も見えてこない。閑散とした風景が続いている。
「30分くらいだな」
シンタローは俺の答えにふうんと返事をするとシートを倒した。
「寝るのか?」
「ああ。着いたら起こせよ」
おやすみのキスはいらねえから、とシンタローは悪戯めいた口調で答えた。
「……分かった」
安全運転しろよ、とシンタローは笑いながら目を閉じる。
吹いてきた風が横になったシンタローの髪を巻き上げるのをミラー越しに俺は認めた。
風はシンタローの額をくすぐると俺に辿り着く。
前髪が浮く。くすぐったさに眉を顰めながらハンドルを右に切る。
凪いだ風がいつしか隣の従兄弟の寝息を届ける頃になると、潮のにおいはぐっと強まってきた。
歩道にはいつしか棕櫚の木が植えられ、海までの道のりを南国風に飾っている。
濃い潮風に転寝するシンタローがくんと鼻をひくつかせた。
そんな従兄弟の反応に俺はハンドルを握りながら笑いを噛み殺す。犬みたいだ。
グンマがいたら揶揄ってくれただろう、きっと。
点滅し始めた信号を認めて俺はシンタローから視線を元に戻す。
犬連れの夫婦が渡り終えた信号が赤色になり、俺の前の信号が青に変わる。
ここを渡ればあとは一本道だ。
海までもう少しだ。
車が動き出すとまた窓から風が強く吹き込んできて、潮のにおいを届けてくれた。
03:何処かで失くしたビーチサンダルの片割れ海の家なんてものはなくて、浜辺にはコンビニが一軒寂しく立っているだけだった。
真っ白だったパプワ島の浜辺と違ってベージュと灰色が混じった砂は少し暗く感じる。
靴を脱いで、砂を踏みしめるとさくさくと軽やかな音が足指から零れ落ちた。
「シンタロー」
咎めるような声を受けて俺は「うるせえな」と返した。
「熱ぃ」
「当たり前だ」
「馬鹿、違えよ」
足じゃない、と俺は首を振る。からっからに乾いた空気と暑い日差しが原因だ。
夏の太陽のひかりをたっぷりと浴びた砂は足元から照り返しをしてくれて目にも熱い。
キンタローを見れば彼は眩しそうに目を細めている。
青い目の従兄弟にはこの日差しは強すぎるのだ。
「サングラス持ってくればよかったな」
平気かよ、と視線を送ると平気だと頷かれる。
「おまえこそビーチサンダルを持ってきたらよかったんじゃないか?」
買うか?とコンビニに青い目が視線を送った。
「いや。いい。どうせそんな使うもんじゃねえし、すぐ失くしちまうんだよ。片足だけになってたりな」
だからいらねえ。もう裸足になっちまったし、と俺が言うと従兄弟は「それで裸足でどうする気だ?」と返してきた。
「どうするって、そんなの……」
気分が出ねえから脱いだんだよ、と答えて俺は靴を砂の上に置いた。
それからさくさくと砂の上を進みながら海へ向かおうとする。
すると後ろで俺の靴をそろえていたキンタローからため息が聞こえた。
「なんだよ」
立ち止まるとキンタローはうすい笑みを浮かべながら近づいてきた。
「いや……」
別にと肩を竦めるさまがむかつく。ガキかとでも思ってるんだろう。
目を細めたままキンタローは「濡れると厄介だぞ」と付け加えてきた。
「海に入るわけねえだろ」
近くで見るだけだ。そう答えるとキンタローは鼻で笑った。
信じてねえなこいつ。
「……タオルを買ってくる」
あまりハメを外さないで遊んでいろ、とキンタローは笑って俺の頭をぽんぽんと叩いた。
すっかり子ども扱いしてやがる。
「いらねえよ!」
俺が殴るよりも先にコンビニへと歩き出したキンタローの背に向かって怒鳴ると従兄弟は片手をひらひらと上げた。
その仕草もむかつく。
海になんか入らねえ。
ちょっと波打ち際まで近づいて観察したいだけなんだよ。ちょっと。
「おい!キンタロー!」
呼んでもキンタローの背は遠ざかっていく一方だ。
コンビニの中に消えていく姿を認めて俺は髪をガシガシとかき上げた。
ちくしょう。絶対、濡れねえからな。
止めたいた足を動かして熱い砂の上を俺は歩く。
足の裏がじんじんと熱を持っている。大きな砂の粒を踏むと痛い。
けれど、砂が響かせるさくさくとした音はあの島で聞いた音と同じだ。
少しセンチメンタルな気分で砂の上を歩いていると風に煽られた波が今までよりも大きく浜に打ち付けてきた。
「あ」
波打ち際にいたから頭からずぶ濡れになったわけではない。
けれど。
しっかり濡れた足の爪を見ながら俺は顔を覆った。
やべえ。キンタローのヤツにこれみよがしにタオルを寄越されちまう。
04:今夜、カーニバルで会おう夏の日が落ちるのは遅い。
下手すると夕食のときにも外が明るかったりする。
僕の2人の従兄弟がコンビニの袋を片手に帰ってきたのは夕食の直前で、ちょうど日が落ちたばかりの頃だった。
ナスとひき肉のパスタを片付けた後、シンちゃんは「ほらよ」と僕にコンビニの袋を渡してきた。
大きめの袋だけど軽い。なんだろう。袋に印字された店の名前もこの近くのコンビニとは違う。
どこまで行ってきたの?と聞くとシンちゃんは照れくさそうに「海」と答えた。
「海?ずるーい」
「だから土産買ってきただろ」
コンビニで?なんなの、それ。新発売のお菓子かなんかじゃ僕はごまかされないよ。
そう思ってビニール袋を開けると思いがけないものが入っていた。
「花火?」
「おう。懐かしいだろ」
「うん」
線香花火なんて懐かしい。子どもの頃以来かもしれない。
小学生も高学年になるとシンちゃんは線香花火よりもロケット花火とか派手なものを打ちたがった。
派手なものといえばお父様は夏になるとシンちゃんのために打ち上げ花火をわざわざ上げていたけれど。
「これから温室の前でやろうぜ」
ベランダじゃ狭いだろ、とシンちゃんは僕の肩をぽんと叩いた。うんと同意しながら僕はあれっと思う。
キンちゃんの姿がいつの間にかいなくなっている。
「ねえ」
「あ……アイツ?先にっ行ってバケツに水用意してるんじゃねえの」
気が利くから、とシンちゃんは少し拗ねたように答えた。
それからすぐに温室へと向かうとシンちゃんが言ったとおりバケツを抱えたキンちゃんがいた。
パッケージの中の線香花火は二十本以上入っていたと思うのにあっという間に最後の2本になってしまった。
時間は結構経っているはずなのにとても早く感じる。
シンちゃんが3本いっぺんに火を点けていたのがついさっきのことなのに。
「どうする?おまえ2本いっぺんにやるか?」
「え?いいよ。シンちゃんとキンちゃんがやれば」
僕が答えるとキンちゃんは首を振った。
するとシンちゃんが僕に1本渡してきた。もう1本はシンちゃんの手の中だ。
かち、とライターでキンちゃんが火を点けてくれた。一瞬置いて火花が散る。
オレンジ色の暖かいひかりがまだ少し明るい外を小さく照らす。
ぱちぱちと弾ける様子は花火を始めた頃は楽しかったのに、なぜか今は寂しい気持ちで胸がいっぱいだった。
花火の終わりはいつだって物悲しい。残念な気持ちと、楽しかった気持ちがあっという間に火とともに消えていくからなのか。ぽとり、とシンちゃんの火玉が落ちる。そこだけふっと明かりが戻ったのを僕はぼんやりと見つめた。
僕の花火はまだ消えない。
明るいオレンジの火花をシンちゃんの黒い目が見つめている。
ちらりと見上げてみるとちりとりを持ったままキンちゃんはシンちゃんを見ていた。
花火見てないんだね、キンちゃん……。
「あ」
「え……あ」
シンちゃんの声にはっとして僕は慌てて手元を見た。
ぱちぱちと弾けていた火の玉がコンクリートの上でぼおっとひかりを放っている。
ひかりはじわじわと消えていった。花火は終わりだ。楽しい時間はもう終わり。
立ち上がると僕はバケツの水を手ですくった。火花の落ちたところにそっとかける。
じゅっと小さな音が聞こえ、歪な水の染みがコンクリートに出来上がった。バケツを片付けないといけない。
ふと周りを見るとキンちゃんは花火の残骸を掃除していた。シンちゃんは何もしていない。ぼんやりと僕の前で座り込んでいる。
もう。片付け手伝いなよね、と思いながら僕はちょっとした悪戯心でもう一度水をすくった。
ぱしゃ。
「つ、めてぇッ!おい、グンマ!てめえ!!」
「ボーっとしてるシンちゃんが悪いんだよ。片付け手伝いなよね」
それからこのお水は冷たくないでしょ、と僕は答えた。花火のはじめに汲んだ水はすっかりぬるくなっている。
「冷てえよ、馬鹿!馬鹿グンマ!」
立ち上がったシンちゃんが僕を捕まえようとする。僕は慌ててバケツを抱え込む。
「それ以上近づいたらバケツの水かけるよ!」
大人しくゴミ捨ててきなよね!と僕はべえっと舌を出した。キンちゃんのちりとりはもう終わっちゃった。
ほら、シンちゃんと僕がバケツを頭の上に上げてみるとキンちゃんは僕らの姿を見ながら笑った。
05:乱反射にまどろむ午後さーっとブラインドが巻き上げられて、眩しい日差しが部屋の中を照らした。
誰だよ、勝手に。
擦りながら目を開けると見慣れた姿がある。
従兄弟のキンタローだ。
「キンタロー?」
「ああ」
もう11時だぞ、とキンタローは俺に事も無げに言った。
「今日もオフだからいいが……大分ハメを外したから起き上がれないだろう」
ああ、そうだ。今日もオフだった、と俺は寝ぼけ眼を擦りながら思う。
シーツに触れた肘が何故だか少しひりひりしている。
瞼を擦っていた指先をもう少し上げて髪をかき上げようと動くとひりひりとした感じがもっと強い痛みに変わった。
「痛っ!なんだッ、痛ぇ!」
がばっと起き上がると腰から上に痛みがびりびりと走る。
ベッドを降りようとしても断続的な痛みにもはや声にもならずどうすることもできない。
「筋肉痛と日焼けだ。冷たいシャワーで冷やした方がいい」
鍛えていても普段と違うはしゃぎ方をしたからな、とキンタローは俺に言った。
言われてみれば昼間は海で、夜はグンマと花火の後に追いかけっこをしたんだった。
けれど淡々と言うその口調が今は痛みを余計に感じさせる。肌だけじゃなくて耳が痛い。
「……痛ぇ」
そっと床に足をつけるとひんやりとした感触がした。
フローリングの床は冷たくて気持ちがいい。そのままベッドに腰掛けているとキンタローが手を差し出してきた。
「ゆっくり起き上がったほうがいいぞ」
「ああ」
サンキュと俺はキンタローの手を握った。指先がフローリングの床と同じくらいひやりとしている。
「お前の手、冷てえ」
「さっき洗濯物を干したばかりだ」
だからじゃないのか、とキンタローは首を傾げた。
「そうかよ」
まあ、いいけどと俺はそっと腰を上げる。
「なあ、手そのままでいろよ」
ぺたりと床を踏み出すと一瞬離れていた冷たい感触が足にもう一度吸い付く。
「別にかまわないが、俺は一緒に水は浴びないぞ」
キンタローの言葉に俺は当たり前だろ、とうっかりキンタローの手を払ってしまい鋭い痛みを感じた。
あ~も~。痛みが引くまで気が抜けねえじゃねえか。くそ!
蹲りたくなる気持ちを抑えて俺は一人でシャワーに向かう。
そっと歩く俺を追い越してキンタローは昼食は俺が作ると笑いながら出て行った。
去り際におまけとばかりに手を握られ、手の甲に軽いキスが落とされた。
ちくしょう。むかつく。一瞬触れた手が冷たくて気持ちいと思ったこともむかついて仕方がない。
むかつくあまり、口唇が落とされた手の甲をごしごしともう片方の手で拭って俺は再び後悔した。
なんでこんなとこまで焼けてるんだよ!!痛えじゃねえか!
ちくしょう!と思いながら俺はゆっくりシャワーへと向かった。
水を浴びればどうにかなる、たぶん。少しは治まるはずだ。
今日は無理でも後で覚えとけよ、と俺はキンタローのことを考えながらバスルームのドアを開けた。
いつか絶対同じ目にあわせてやる、と思いながら俺はそろそろとパジャマを脱ごうと体を動かした。
熱い痛みが走って泣きたくなるのを堪えながら俺はその場に着ていたものを脱ぎ散らかした。
初出:2006/08/03
be in love with flower様よりお題をお借りしました。