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 空には清々しい青が広がり、暖かな陽光が燦々と降り注ぐ中、本館から赤い軍服を身に纏った男が一人出てきた。
 ガンマ団総帥シンタローである。彼は悠然とした足取りで研究開発課が存在する研究棟へ向かいながら、心地よい風に吹かれると表情を若干緩めた。
 研究棟は本館から右手に位置する。そこで様々な部門の研究開発が行われているのだ。いくつかの棟に分かれ、一つが研究開発課本部となり、更に大まかに分けると、軍事関係で銃器類など小物を開発してる部門、軍艦など大型の者を開発している部門、そしてバイオ関係を研究している部門がある。この生体関係を研究している部門の棟は、ガンマ団内でも皆が恐れ成して近寄らないという魔の巣窟であった。今シンタローが向かっているのも、この一番近寄りたくないところである。
 何故、皆がこの棟に近寄りたがらないのかといえば、ここには高松の研究室があるからだ。
 それだけで、避けたくなるには十分な理由となる。
 その問題人物となっている高松は、その名を出しただけで皆盛大に避けて通る。避けたところで用があれば向こうから近寄ってくるのだから意味がないのだが、それでも姿を見たら全速力で逃げたい人物ワーストワンを誇る人物だ。
 高松の用といえば、人体実験と相場が決まっていて、迷惑なことこの上ない。
 この日シンタローは、高松から提出された書類で二、三点確認したいことがあって彼の研究室へ向かっていた。
 高松を本館にある総帥室へ呼びつけようかとも考えたのだが、この件はシンタローがガンマ団総帥として極秘に高松に頼んだ件なのだ。今は極秘でもいずれはシンタローの周囲に居る者達には知られてしまうことなのだが、現段階ではあまり内容を聞かれるのは好ましくない。更に言ってしまえば、本部で働いている善良な団員達を思うと到底呼び出そうという気持ちにはならない。時間に余裕があるわけではないが、この件は非常に重要なことであるから、珍しく本部から出てきた総帥である。
 擦れ違う団員から敬礼を受け、更に熱烈な羨望の眼差しを一身に浴びながら、シンタローは研究室へ向かった。
 余談であるが、団員が向ける羨望の眼差しに熱烈なという形容詞が付くのは、今シンタローの横に金髪碧眼の補佐官がいないからである。総帥の横に彼が居たら、とてもそんな視線を向けられない。そんな視線を向けようものなら、総帥が気づいて彼を諫めるまで、優秀な補佐官は秘石眼を光らせて鋭い眼光をそこら中に放ちまくる。その恐怖と言ったら、その目を直視してしまった者は皆、暫くの間恐怖心からその場から一歩たりとも動くことが出来なくなり、更に三日三晩悪夢にうなされるという噂がある程だ。
 研究棟からシンタローの姿が認められるくらいになった頃、高松の研究室には三人の人物が居た。一人は研究室の主。二人は金髪碧眼を持つ人物である。
 長い金色の髪をリボンで結び、甘いミルクティーを片手に話に興じていた人物が、口を開きながら窓の外に目をやり、そこに赤い衣を纏った人物を見つける。
「あれ?シンちゃんだ!」
 その台詞に、短く切りそろえられた金糸の髪を持つもう一人の人物が同じように窓の外に視線を向ける。
「シンちゃんがこっちに来るってことは……高松に用事かな?」
 グンマに愛くるしい瞳を向けられて昇天寸前になっている研究室の主は、鼻血を垂らしながら笑顔で応える。
「特に連絡は受けていませんが…あの方がこちらに来るということはそうかもしれませんね。せっかくの三人の時間が……全くもって邪魔ですね」
 高松の最後の台詞をあっさり無視したグンマは、もう一人の従兄弟がもうじきこの研究室に現れると言うことで喜々としながらもう一人分のお茶の用意を始める。
 キンタローは視線をそのまま、窓越しにシンタローの姿を見つめていたが、同じように外を見る研究員の群を他の研究棟の窓辺に見いだすと顔を蹙めた。それはグンマですら瞬時に気づくほど凄まじい豹変の仕方であった。シンタローの分のお茶の用意を終えると、キンタローの近くによって再び窓の外を見た。
「キンちゃん、どうし……わぁ~、シンちゃん大人気だねぇ」
 グンマも他の棟にいる研究員達の姿をその目に認めた。これはシンタロー自身も気づいているんじゃないかと思うくらいの研究員達がそれぞれの部屋の研究室の窓に張り付いている。
 キンタローが不機嫌になる理由が判ったグンマは、天使のような笑みを浮かべると、
「直ぐにこの棟に入るから大丈夫だよ、キンちゃん!行き先が生体研究のところだって判れば、絶対に誰も後を追ってこないから!」
そう、はっきり言い切った。
 何故、この棟に誰も近寄ろうとしないのか、この天使のように愛くるしい姿で無邪気に毒舌な従兄弟は、その理由を解っているのか甚だ疑問であるが、キンタローはグンマの台詞に頷いた。
 目の前のやり取りに、もちろん高松は涙と鼻血が滝となって流れている。それに加えて年長者らしく穏やかな笑みは崩すまいとしている様が非常に不気味である。
 キンタローはグンマの台詞で窓の外から視線を外したが、同じ人物からの「あれ?」の台詞に再び視線を外にやる。シンタローに近づく一つの影が目に留まった。
「あれは、おとーさまだよね?」
 グンマは小首を傾げながら疑問を口にする。
 前総帥であるマジックが何故この様なところにいるのか。
 シンタローの姿をここで見ることですら珍しいのに、既に引退した者が一体何の用事があるのだろうか。
 尤もな疑問で、それを如実に表したように先程よりもギャラリーが増えている。
 グンマが口にした疑問には高松が答えた。
「お二人がいらっしゃる前に、ここにいらっしゃったんですよ」
「え?おとーさまが?ここに?」
 高松の返答に、キンタローもグンマも嫌な予感が頭を過ぎる。
「高松…一体何の用があって叔父上はここに?」
 キンタローがいつものように静かな声で問いかけると、高松は優しげな笑みを浮かべながら、それに反比例するくらい危険な台詞を口にした。
「マジック様の要望で、以前に薬の調合を頼まれていましてね。先程それを取りにいらっしゃったんですよ」
 キンタローとグンマの顔が引きつり、同時に何て事をしてくれたんだ、と思ったのは言うまでもない。
 マジックがわざわざ高松に調合を頼むような薬の種類は簡単に想像がつき、誰に対して何の目的で使用するかも明確だ。そんな二人の心中を察してか、高松は更に台詞を続ける。
「昔のように体が利かなくなってきたよ、年には勝てないねぇ、と仰りながら栄養剤を頼まれたんですよ。市販薬よりは、きちんとその方に合わせたものの方が効果が高いだろうから、ということで」
「栄養剤?」
 高松の台詞にグンマは胸を撫で下ろしたが、キンタローはそうもいかない。この手の台詞で誤魔化されていたのは、シンタローと別固体に別れてから間もない頃だけである。今はシンタローと共に行動をすることが多いため、被害に遭う従兄弟の姿を間近で見ているのだ。
「高松…栄養剤を、ではなく、栄養剤も、だろう」
「あはは」
 あはは、ではない。高松は楽しそうに笑っているが、笑い声が答えと言うことはキンタローの台詞が肯定であるということになる。
「栄養剤はここで飲んでいかれて、私が一ヶ月ほど前に開発に成功した自信作『ミラクルトリッキーⅢ』という媚薬は喜々としながらもっていかれましたよ」
 このガンマ団において、そんなものを自信満々に開発して一体何をする気なのだろうか、というような疑問は、この男に対して抱くだけ無駄である。更にⅢということはⅠとⅡがあるわけだが、その辺りの疑問は無理矢理頭の端へ追いやって、キンタローは盛大に頭を抱えた。
 この場で栄養剤を飲んでいくということは、マジックがやる気満々である証拠だ。高松が調合した栄養剤であれば、効果抜群で即効性もあるであろう。それを服用し、以前のように動くような体に戻して、更にそんな媚薬を手に入れて、誰に何をする気かなどは考えたくもない───が、頭には容易に浮かぶ。
 マジックが対象としている人物が簡単にそんなものを飲まされるとは思わないが、危険には変わりない。
 そうこうしている内に、外が騒がしくなる。新総帥と元総帥の激しい戦闘が始まったのだ。この二人の場合、両者とも容赦ない攻撃に転じる。この二人の間で防御に回ったら負けだと決まっているから、双方決して防御には回らないのだ。攻撃あるのみの二人がやりあう親子喧嘩は周囲への迷惑も被害も大きい。
 グンマは窓越しにシンタローとマジックのやり取りを見ていたが、耐えきれずに窓を開ける。すると、とても息子に向けるようなものとは思えない台詞の数々がマジックから放たれ、普段よりも怒気が数割増で含まれたシンタローが発する罵詈雑言が飛び込んできた。
 キンタローは大切な半身が大事に至る前に然るべき処置をとるべきだと判断して高松の研究室から出ていこうとしたが、この研究室の主からやんわりと阻止される。いつもキンタローとグンマに向ける柔らかな笑みを浮かべながら、入り口付近へ移動する。
「キンタロー様、そんなお慌てにならなくても大丈夫ですよ」
「大丈夫なわけがあるか。お前が作った薬なら、効果は抜群だろう」
「お褒めに与って光栄です」
 今のは褒めたことになるのだろうかとキンタローは思ったが、キンタローの台詞を耳にしても高松が鼻血を垂れ流さない。そんなときは、何か良からぬことを考えていると相場が決まっているのだ。
 隙がない己の後見人をどうやってかわそうかとキンタローは思案する。思考を巡らせるに連れて端正な顔が蹙められていく。
「そんな顔をなさらずとも、大丈夫ですよ。所構わず男を求め出すような薬ではありませんから」
 高松の台詞にキンタローは表情そのままに首を傾げた。
「まぁ、マジック様はそのような即効性の薬だと思っていらっしゃるでしょうけど」
「では、どんな薬なんだ?」
「媚薬ですから性的欲求に働きかけることには変わりありませんが、この薬はその者の本能に働きかけるんですよ」
「具体的にいうと?」
 キンタローの台詞に高松は実に楽しそうな笑みを浮かべながら、
「そうですねぇ。男の本能ですから『やられる』よりは『やりたい』になると思います。実験データでは九割がそうなっておりました。勿論体は高ぶってきますから…マジック様相手だと最終的にはどうなりますかねぇ」
などと宣った。
 眩暈がしたキンタローである。
 快感に体が高ぶりつつも本能に従って攻撃的な相手を、同じく己の本能に従って攻撃的に蹂躙する。
「───…叔父上が好みそうな…」
 思わずキンタローの口からそんな台詞が洩れた。
「さすがキンタロー様。身内の好みをよく知っていらっしゃる」
 そこは褒めるところではないだろう、と突っ込みを入れたかったが、外の騒ぎがどんどん大きくなる。
「あぁ!シンちゃんっ!」
 耳に入るグンマの台詞に一刻の猶予もないと判断したキンタローは、高松を見やり、そこに意地の悪い笑みを確認すると溜息一つついてグンマを呼ぶ。
「グンマ、ちょっと来てくれ」
「何?キンちゃんっ!今それどころじゃないよ!シンちゃんがっあぁっ!!」
 グンマの台詞はどんどん不穏なものになっていく。キンタローはもう一度、グンマを呼び、グンマがそれに応じると一言爆弾を放った。
「グンマ。お前の力で高松を引き留めてくれ」
「えぇ!?」
 この驚嘆は、グンマと高松の両者から上げられる。
「僕、全然力ないよ?その僕が高松を引き留めるの?ここに?」
「あぁ、そうだ。俺は一刻も早くシンタローを助けに行かなければならない。だが、それを高松が邪魔をするんだ。俺の代わりにお前がシンタローを助けに行ってくれと言っても、あの叔父上を止める方が無理だろう。だが、高松が相手ならお前は簡単に引き留めることが出来る」
「僕に力があってもシンちゃんを助ける役は譲る気なんてないくせにぃ~」
「…ばれていたか」
 グンマはキンタローの台詞を少し考えたが、直ぐに頷いた。
「───解ったよ、キンちゃん。僕はそれで『洋服が汚れる』だけだからいいけど、シンちゃんは本人が汚されそうだもんね、早く助けてあげなくちゃ」
 グンマの台詞後半に益々青くなったキンタローだが、グンマはそれには気づかずに、高松に向き直る。
 高松は計画の全てを目の前で聞いていたが、それから逃げる手段を瞬時に浮かばなかった。結局、エンジェルスマイルを浮かべたグンマに「大好き」という台詞と共に抱きつかれて、盛大に鼻血を噴き出して昇天する。
「安らかに眠ってくれ」
 キンタローは無情にもそんな台詞を吐き捨てて、研究室を飛び出していった。

 昇天した高松と共に研究室に残されたグンマは、偶然視線を向けた簡易テーブルの上にある瓶に気付く。
「…あれ?」
 その瓶を手にとってみると、高松の手書きで『栄養剤・マジック様』と書かれた白いラベルが目に入った。
「何で栄養剤がここに?おとーさま、飲んだんじゃなかったっけ?」
 グンマはキョロキョロと室内を見回して端にあったゴミ箱を見つける。中を覗き込むと、空になった瓶が一つ目に付く。その瓶に貼られている白いラベルには、先程と同様に高松の手書きで『MTⅢ』と書かれていた。
「MT……あ、Miracle Trickyか!」
 己の閃きにポンと手を叩いたグンマだが、次に乾いた笑いを浮かべながら窓に目をやった。
「キンちゃん…頑張れ」


「親父ッ!!一体何考えてんだよ!一回死んできやがれっ!!」
 シンタローはそう怒鳴り声を上げながら、執拗に迫りくるマジックを躱しつつ攻撃を仕掛けていた。マジックはシンタローの攻撃を欲望の力で全て防ぎ、隙をみては接触を試みようとしている。
「シンちゃん!そんなに照れなくてもいいんだよ!たまには素直にならなくちゃネ」
「俺はいつも自分に正直だっ!!」
「シンちゃんってば大胆っ」
「何処に思考を飛ばしてやがるッ」
 会話は噛み合わない上、攻撃がヒットしても何故か決定的なダメージは与えられないので、シンタローは苛々してくる。仕事でここまで来たのに、何故目的を果たす前に、父親と取っ組み合わなければならないのだろうか甚だ疑問であった。
 先程からマジックとのやりとりが繰り広げられているここは、研究棟の全てからよく見える広場である。白衣を纏ったギャラリーの群れに、ここでも一族の恥を晒すのかと思うと、シンタローは頭が痛くなってくる。
 更に、本日のマジックはとにかくしつこい。いつもならそろそろ諦める頃のはずなのだが、一向に諦める気配は見られない。それどころか、眼がギラギラと輝きを増しているように見える。シンタローにとって不穏な輝きにしか見えない眼光は、明らかに押さえきれない欲望を露わにしているのだ。
『一体何なんだよ、親父のヤツはッ!!様子がおかしいぞ?!』
 執拗に迫り来るマジックに疑問を感じるシンタローである。
「シンちゃん!!パパと一緒に背徳行為に興じようよ!」
 シンタローに向かって伸びてきたマジックの手は、拳を握り獲物を殴りつけるわけではなく、その体を撫で回そうと不審な動きをしている。
「興じるかッ!大体からアンタの頭は道徳観念が抜け落ちてるだろッ!今更これ以上何に背く気だ!!」
 シンタローはその腕を掴むと、マジックを盛大に投げ飛ばす。
「酷いなシンちゃんっ!ちゃんと知識としてはパパの頭に入ってるよ」
 シンタローに投げ飛ばされたその体は激しく壁に叩きつけられるはずだったのだが、マジックは手前で体勢を整えて壁を足場に再びシンタローに飛びかかる。正に抱きつき攻撃と言わんばかりの拘束をシンタローは何とか振り切った。
「ふざけんな!知識としてだけ入ってたって意味ねぇだろーがッ!!」
 この父親に眼魔砲を盛大に放ちたいシンタローであるが、この研究開発が行われているところでそんなものを打ち放ったら、被害も損害も莫大なものになる。ブチ切れそうになる理性を何とか保ちながら、必死の思いで肉弾戦を続けているシンタローだ。
 しかし、隙を見つけてマジックを殴りつけようと拳を突き出せば、その手を取って体を引き寄せようとする。ならば蹴り飛ばしてやろうと壁すら破壊する勢いで足を繰り出せば、その足を取ってそのままもつれこまんといった勢いだ。
 仕方なく間合いを取って鋭い眼で父親を睨み付けるシンタローだが、獲物が放つ眼光にすら欲情しているマジックには何の意味も為さない。欲望は増す一方で、さすがのシンタローも身の危険を感じずにはいられない。
「さぁ、シンちゃん。大人しくパパの言うことを聞こうね」
 そう言って笑みを浮かべる前総帥は野獣そのものである。その台詞に引きつった表情のシンタローは、再び攻撃を仕掛けた。しかし、マジックはその攻撃を神業のような素早い動きで躱すと、待ちこがれた獲物を漸く腕の中に捉えた。
 不覚にもがっちりと抱き込まれたシンタローは絶体絶命である。
『こんなにギャラリーがいる中でッ!!いや違うっ!!それ以前の問題だろッ!!』
 半泣き状態のシンタローに、マジックは熱を込めた視線を向け、その唇に触れようと顔を近づけた。
 その時───。
「眼魔砲ッ」
 マジックめがけて、青い光を放つ強大なエネルギー波が放たれた。それはシンタローには当たらず、見事にマジックだけにヒットした。そのおかげで寸前の所で難を逃れた新総帥である。
 眼魔砲が放たれた方角を見やって、シンタローは驚きの声を上げる。
「キンタロー?!」
 優秀な補佐官の登場によって難を逃れたシンタローは、安堵してキンタローの傍に近寄る。
「助かった。サンキュッ」
 そう言って、その肩に手を置こうとして、非常に危険極まりない気配にシンタローはまたもや顔を引きつらせる。
「叔父上…殺してやる…」
『ヤベッ!切れてるッ!!』
 いつもの紳士の姿はどこにいったのやら。シンタローに殺意をぶつけていた頃よりも遙かに物騒だと思われる様な気配を一身に纏っている。その眼は殺意をぎらつかせ、一直線にマジックを捉えていた。
 これは一難去って又一難というのだろうか。キンタローの手に又もや青い光が集束するのを目に留めると、シンタローは慌ててその手を取る。
「止めろ!キンタロー!ここで眼魔砲を放ったら被害がでかくなるだろ!」
 シンタローの台詞など耳に入らない様子で、完全に猛獣と化した紳士は獲物を狩る気満々である。一般団員などこの気配で殺されてしまいそうな程強烈な殺気がキンタローから放たれた。
「キンタローッ聞いてんのか?!」
 再び聞こえたシンタローに台詞に、キンタローは鋭い眼を獲物から逸らさずに唸り声で返事をする。
「…あんなもの…お前にとって百害あって一利も無いだろう…ここで殺っておくべきだ…」
 シンタローもその意見には全面的に賛成であるが、実行するのは別の場所にしてほしい。何が何でもこの研究開発が行われている場所では止めてほしい。
『今日は厄日かよ?!』
 マジックに向かって、今正に一歩踏み出さんばかりの状態である黄金の獣は、完全に理性が飛んでしまっている。理性が飛んだキンタローにこんなところで臨戦態勢に入られてしまっては、研究棟全てが崩壊してしまう。
 ぶち切れるのは自分の役目で、それを諫めるのがキンタローの役目だろうがと思いながら、シンタローは心の中で舌打ちをした。
 とにかくキンタローの視界から狩るべき獲物としているマジックの姿を消さなくてはと思ったシンタローは、その腕を掴むと一番近くにある魔の巣窟の入口へ引きずり込んだ。ここに入ってしまえば不用意に近づく人は絶対にいないので、余計な刺激も与えられないはずである。
 視覚からマジックの姿が消えれば冷静になるかと思ったシンタローであったが、そんな効果は望めず、キンタローの体は外を向いている。その身に纏う物騒な気配は全く収まらず、更にこともあろうかこの位置から眼魔砲を放とうと再び光が手に集束する。
 慌てたシンタローは「キンタローッ」とその名を呼ぶが意識は完全に外にある。至近距離にシンタローが居るにも関わらず、己の半身を全く認識していないのは一目瞭然だ。
「あぁっもうっ!!」
 シンタローは苛立たしげに声を上げると、キンタローの頭に手を伸ばし、自分の方に無理矢理向かせる。
 そして視線は絡み合わぬまま目を閉じ、強引に唇を重ねた。
 暫くそうしていると、漸くキンタローの意識がシンタローに向き始める。集束した光を霧散させると、その腕をシンタローに回して抱き締めた。
 己の身を拘束する腕の力が強くなってくると、シンタローは重なり合った唇を離して目を開ける。キンタローの青い眼が間近で覗いているのが判った。荒々しさは若干残るものの、意識は完全にシンタローの方へ向いたようである。青い双眸はしっかりとシンタローを映している。
「…ったく、こんな恥ずかしいマネさせんなよ…ここに来たら眼魔砲を放つなって散々俺に言い聞かせたのはお前だろうが」
「…すまない」
 台詞を聞けば反省しているように聞こえるが、物騒な気配が完全に消えたわけではないから、まだ何らかしらの怒りが残っているようである。
 だが、何はともあれひとまずは納まったものとして良いだろうと思ったシンタローは、抱き締めてくるキンタローの腕から逃れようと身を捩ったが、逆に拘束は強くなる。
「…キンタロー」
 眉を顰めてその名を呼んだシンタローは、次の台詞を言う前にその体を拘束してくる男によって再び唇を塞がれた。荒々しく口付けてくるキンタローは、まだ納まらない怒りを抱えているようで、クラリと眩暈がしたシンタローだ。
 先程のマジックの攻撃はセクハラとしか言えないようなものばかりであったから、恐らくそれに怒りを感じたのであろう。元凶はマジックであるからシンタローは悪くないはずなのだが、この黄金の獣が怒りをぶちまける前にその対象から離してしまったため、完全に消化することが出来ずにその感情を持て余しているのだ。
『こういう部分は子供っぽいよな…』
 そんなことを頭の片隅で考えながら、この場で抵抗することは諦めて、シンタローはキンタローを受け入れた。
 角度を変え何度も深く口付けられて、シンタローは己の足で立っていられないほど口腔を蹂躙された後、漸く解放してもらえたのだった。
 余りの息苦しさに体を揺らしながら空気を吸い込むシンタローをキンタローの腕がしっかりと抱いて支えている。少し間をおいて呼吸を整え、二人を包む濃密な空気をシンタローが振り払おうとした瞬間───。
「いやぁー…眼福ですねぇ」
 この男は、一体いつからそこにいたのであろうか。二人から数メートルしか離れていない位置にある壁にもたれ掛かりながら、高松が面白そうにこちらを見つめていた。
「ッ!!!!」
 シンタローは驚きのあまり、声にならない叫び声を上げると、自分の体を支えてくれていたキンタローを勢いよく突き飛ばした───つもりだったが、体に力が入っていないため、キンタローは突き飛ばされもしなかった上、腕もしっかりとシンタローを抱いたままである。
 シンタローの顔は羞恥で真っ赤に染まり、そんな様子を高松は意地の悪い笑みを浮かべながらじっと見ていた。このドクターのいつもと変わらぬ様子が余計に腹立たしい。
「ドクター…一体いつからそこに…」
 シンタローは唸るようにそう言ったが、真っ赤に染まった顔と羞恥のあまり半泣き状態で潤んだ目では迫力など微塵もない。更に言えば、キンタローの腕で抱かれるように体を支えられた状態では威厳も何もあったものではない。状況を誤魔化すことが出来ないのは言うまでもなかろう。
 従って、高松は目の前にいるガンマ団総帥を思う存分からかい放題である。こんな楽しい機会を逃すなんてもってのほかのようだ。
「シンタロー様、ずいぶん可愛い顔をしていらっしゃいますけど…なるほど、キンタロー様の前ではその様な立ち位置になるわけですね」
「どんな立ち位置だよッ!!」
「え?ですから…」
「あーっいいっ何も言うなッ!!で、キンタロー!!お前もいい加減離せッ!!」
 高松と話していると墓穴を掘ってしまうと思ったシンタローは、途端に矛先をキンタローに向けた。
 だが肝心なところで爆裂天然仕様な補佐官に矛先を向けるということは、自爆するということに等しい。
「何を言っている。今交わした口付けで腰砕けになったお前は俺の支えがないと立っていられないだろうが。いいか、シンタロー。お前は俺にしがみつか…」
「バカヤローッ!!繰り返すんじゃねーッ!!」
 例にもれることなく見事な自爆を果たしたシンタローは、己の学習能力の無さを呪うしかない。恥ずかしい事実を真顔で晒されて、穴をどこまでも掘り続けて埋まってしまいたい心境だ。横目に高松を見やると、更に興味をもった様子で、先程よりも楽しげに意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「そうですか。シンタロー様はキンタロー様に腰砕けにされて一人では立っていられない状態なんですね」
 わざわざ口に出して確認する必要などどこにもないのだが、高松はいつもの穏やかな口調でわざと聞こえるように繰り返す。研究棟にいる間はシンタローが自由に暴れられないのを知っていての仕打ちである。
『…一体、本当に何なんだよ今日は!!』
 厄日で済ませるには全然足りない程の恥ずかしい出来事の連続に『何でいつも俺ばっかり…』と、シンタローは思わずにはいられない。ただ高松に確認を取りたいことがあって本館から出てきただけなのだ。それなのに、マジックには襲われるし、キンタローに助けられたかと思えば、研究棟が全壊させられるような危機に陥り、それを半ば強引に治めれば、今現在自分を含めて繰り広げられている拷問のような羞恥プレイが待っていた。全てにおいて何かがオカシイだろ、とシンタローが思うのも無理がない。
 この様な不毛なやりとりは、さっさと終わらせるに限る。相手をしていたらどんどん都合が悪い方向へ流されていくものだ。
 そう解っているはずなのだが、シンタローの性格上、場を治めるためでもこのまま引き下がることが出来ない。何でも良いから、一つ、してやったりと思いたい。
 完全に当初の目的から外れているのだが、シンタローとしては自分の気が済むのだから別にいいだろといったところのようである。
 さて。『コレ』は惚れた弱みか、半身として『何か』の作用が加わっているのか。原因は不明だが、シンタローはキンタローが与える快楽に弱い。それは本人の否応関係なく、強烈な何かの作用があるかのように、快楽に流され力が抜けていくのだ。それを味わうたびに、男としてどーよ俺、と凹むこと多々あるのだが、これもまた前述の通りなのであろう。嫌だと思えないシンタローはキンタローの行為を甘んじて受け入れてしまうのだ。
 先程はキンタローの支えなしでは立っていられないという情けない状態にあったシンタローだが、少し間が空いたので力が入らない状態は脱したように感じる。全快でない分は「体は正直」といったところだろうが、そこは気合いと根性だ。そう考えて、シンタローはキンタローの腕から強引に逃れた。もちろん『強引に』というのは、キンタローの腕に込められた力は半端ないほど強かったからだ。その逞しい腕の拘束からシンタローを離す気が全くないようで、簡単には逃れられなかったのである。
 無駄な気力をかなり使ったシンタローは不本意ながら若干よろけつつ、キンタローから完全に離れると高松を見やる。黒曜石の様に綺麗で真っ黒な眼が据わっているように見えるのは気のせいではなかろう。そうしてニヤリと、高松が引きつるような笑みを浮かべた。
『ちっとは地獄を味わいやがれッ』
 高松は飛び火を免れようと後ずさったが、シンタローの行動のほうが早かった。
「ドクター、何か体に力が入らなくて大変なんだよ。医者だろ?何とかしやがれッ」
 とても力が抜けているようには思えないほど凄味が利いた台詞を放つと、シンタローは高松をはがいじめにする。
 その様子は見ようと思えば、抱きついているように見えなくもない。そんなものをキンタローに見られたら大変である。
「ちょっ…シンタロー様ッあんたの行動、洒落になりませんよっ」
 高松は抗議の台詞を吐き出す。
「ふざけんなッ!!散々人で遊びやがったくせにっ!!キンタローに誤解されてちっとはいじめられろッ」
 シンタローはそんな台詞をお返ししたが、はっきりいってそれは色んなところが間違っている。
「何言ってるんですかッ誤解されるのは私じゃなくてあんたでしょうがッ!!」
 高松の意見が正しい。
 シンタローの企みは明確なvのだが、どう考えても方法が悪い。高松に抱きついている様子はジャレついているようにも見えるため、誰が見ても誤解されるのはシンタローの方である。
 それでもシンタローは高松から離れずに、二人は騒がしく喚きながら飛び火では済まない業火の付け合いを繰り返す。だが、動物の本能で不穏な空気を感じ取り、二人は思わず同時にキンタローを見た。
 そこには、再び物騒な猛獣に豹変した黄金の獣が、今まさに眼魔砲を放とうといわんばかりに構えていた。シンタローと高松は、また見事なまで同時に青くなる。
 そんな二人を見て唸り声をあげそうなキンタローだ。
「眼魔…」
「うわっちょっと待てッ!!キンタローッ!!」
 慌てて高松から離れたシンタローは獰猛な獣を止めようと一目散に飛び付く。
 その猛烈な勢い余って二人は冷たい廊下のタイルの上に倒れこんだ。
「あっ悪ィ…じゃねぇ!!バカヤローッ!!研究棟では撃つなってさっきも言っただろうがッ!!」
 キンタローの上に乗り上げたままシンタローは怒鳴り声をあげた。対するキンタローの動きは鈍い。こんなに間近でまくしたてているシンタローの大きな声も聞こえていない様子である。倒れた拍子に頭でも打ったのかと不審に思って、金糸で彩られた頭に手を伸ばす。
「キンタロー?」
 声をかけると、間近にある青い眼がゆっくりとシンタローを捕えた。
 真っ赤なライトを光らせながら、けたたましいサイレンがシンタローの頭の中で鳴り響く。一気にレッドゾーンに墜ちたような心境だ。
『マズイ…』
 その身の危機を瞬時に感じ取ったシンタローだが、嫌なことに逃げ道がないことも悟ってしまう。心の中で思わず十字を切ったシンタローは、再び猛獣に捕食されたのだった。



 雲一つない晴れ渡った夜空には綺麗な三日月が弧を描いていた。先程少し開けた窓から時折心地よい風が吹き入れてくる。長い漆黒の髪の男はベッドの上で横たわりながらその風を気持ちよさそうに受け、短い金髪の男はその横で黒い髪へ楽しそうに指を絡ませている。
 シンタローはふと思いついたようにくるりと振り返り、キンタローに向き直った。キンタローは己の方を向いた愛しい半身に視線を合わせる。
「そーいや、前から言おうと思ってたっつーか聞こうと思ってたっつーか…」
「何だ?」
「んー…お前さぁー…」
 シンタローは真っ黒な瞳を数回瞬かせ、少し考える素振りを見せると、どう表現するのが良いのか迷いながら口を開いた。少し辛そうに見えるのは、先程キンタローに散々無茶をされたからである。
「何つーか…時々タガが外れんのは何で?」
「………?」
「だからさ!今日の夜もそうだったけど…まぁ2人の時は百歩譲って置いといてやってもいーや。他の時だよ。普段は平然としてんのに、時々さぁー…」
「時々……何だ?」
「あーっ!!だからッ!!えーっと…その…つまり…」
 キンタローは、自分から話題を振っておいて歯切れの悪いシンタローが一体何を言いたいのか全く判らなかった。
 少し待ってみたがシンタローは一向にその続きを口にしない。ここで止められても何を言おうとしたのか先が非常に気になる。キンタローは体勢を変え半身の体を組み敷くとその顔を覗き込んだ。
 暗がりでしっかりと確認は出来ないが、この表情は多分照れている。明るい部屋で見れば顔は赤いはずである。
「シンタロー?」
 半身の言動が意味不明に思えて、もう一度先を促すように名前を呼ぶ。
 シンタローは目を暫く泳がせていたが、少し恨めしそうな顔をしながらキンタローを睨むと漸く口を開いた。
「…だから、さ……お前、普段は冷静沈着で、パブリックじゃ絶対俺に触れてこなくて、その辺ちゃんと徹底してるように見えんだけど…時々、その辺の境がなくなったみてーに人目を考えずに手を伸ばしてくることがあんだけど!!あれは何で?っつー話だよッ」
 話だよッと吐き捨てられたキンタローだが、シンタローの台詞に小首を傾げた。
「そうだったか?」
「そーなんだよ!!」
「……例えば?」
 真上から至極真面目な表情で問いかけられてシンタローはキンタローを突き飛ばした。体が痛んで顔を歪めたが、それどころではない。
「自覚ねーのかよッ!!」
「……心当たりがないからそうだろうな」
 逡巡した後、悪びれもせず静かにそう言葉を言い放つ。シンタローが言ったことを全く理解していない様子である。
『クソー…これじゃぁ、俺が単に自意識過剰なだけみてーじゃねぇかッ』
 内心でそう吐き捨てて、例を挙げろと言わんばかりの視線を投げつけてくるキンタローにシンタローは再び掴みかかったが、体が全く言うことをきかないので当然のように押さえ込まれた。
 二人の間ではよくある痴話喧嘩のようなものだが、シンタローは数日後に、恥を忍んで実例を挙げ、もっとしっかり問い質しておけば良かったと思うような目に遭うのである。

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 思えば、日々仕事に追われているシンタローは、キンタローとこういった日常の他愛もない話をすることがほとんどない。むしろ、今まで皆無であったと言っても過言ではないだろう。偶に話しをするとしても身内の話が主な話題だ。それ以外は仕事の話ばかりである。
 更に、キンタローの周囲にいる人物を考えれば、確かにこういった軽い話をすることはないだろうと思われる。グンマと高松相手に女性関係の話をしろとは、さすがにシンタローも思わない。他の者が相手でもまともな話は望めないであろう。『サービス叔父さんなら…』と一瞬考えたシンタローだが、本部にいないと言っても過言でないほど姿を見せない叔父とでは、会話をすること自体が難しい。それに、美貌の叔父とする女性関係の話は、初心者には無理なのではないかと思ったシンタローである。
 キンタローが、シンタローと別固体に分かれてもうじき二年が経とうとしている。
 ハッキリ言ってこのままではダメだろうと、先程の台詞を聞いた瞬間そう思ったシンタローだ。
『ったく、高松はなにやってんだよ!!いくら敬愛していたひとの忘れ形見だからって、これは大切にするにもほどがあるだろ!!ってか大切の仕方が間違ってるだろーがっ!!』
 シンタローは頭の中で怒りの叫び声を上げながら、彼に育てられたグンマを思い出してクールダウンする。彼に任せてまともな人間に育つわけがないのは立証済みだ。ちなみに、マジックに育てられた己はどうなのかということを、シンタローは一度も考えたことがない。
 シンタローはキンタローを今いる休憩室のソファに座らせ、コーヒーを二人分煎れ直すと、自分はその向かいに腰を下ろした。せっかくの機会である。同性の自分が見ても美形だと思う目の前にいる金髪碧眼の青年が、ヘタレのレッテルを貼られるに至ってしまった経緯を本人に聞いてみようと思ったのだ。何を考えているのか、あまり口にしないキンタローであるから、恐らく言葉少なに思ったことを口にして誤解が誤解を招いた結果が現状なのだろう。一体、外で何を口走っているのか、こうなってくると非常に気になるシンタローだ。
「───で、キンタロー。一体何を考えて、どんな台詞を口にして、そんな言葉をもらっちゃってんだ?」
 熱いコーヒーを一口飲んでから、シンタローは切り出す。シンタローが煎れてくれたコーヒーに口をつけながら、キンタローはシンタローの言葉が指すところを考えた。
「考えていることは、これからのガンマ団のことだから、それに附随してお前のことを考えて……いや、お前のことを考えているから必然的にガンマ団のこれからのことを考えるのか…」
「キンタロー…前者と後者じゃ伝わる意味が全く異なってくんぞ…」
 ガンマ団総帥を補佐する立場にいる者が、団の未来を常に頭に置いているのは納得がいく。そこから団のトップである総帥のことを考えに入れるのも解る。
 だが、常に考えていることが総帥のこととなると意味が変わってくる。総帥が先に来てしまうと、それに附随するのはガンマ団でなく、シンタロー個人になってしまう。
 常日頃シンタローのことを考えていると公言するのは、誰がどう考えてもまずいであろう。
「……お前さ…ヒト前で俺のこと考えてるなんて言わねぇ方がいいぞ…。総帥に着任してから二年経つのに、俺が頼りねぇからついつい考えちまうのは解るけど………ガンマ団のことを考えているぐらいにしておけ」
「お前のことを考えているのは事実なんだが…」
「誤解されんだよ、お前のその台詞は。いいから、全部ひっくるめてガンマ団にしておけ」
「───…よく解らないが、分かった。ガンマ団だな…」
 キンタローは納得いっていない顔をしたが、深く追求はせずに、ひとまず頷く。
「そうそう───でも、お前、そんなにガンマ団のこと考えてんのか?…って、一番考えなきゃいけねぇのは俺だなんだけど…。悪ぃな…迷惑ばっかでさ…」
 シンタロー自身、頑張っているつもりなのだが、改革を行って二年経つ今でも、団内は一向に落ち着かない。一つ問題を片付けると、待っていましたと言わんばかりに次の問題が勃発するのだ。総帥に着任したばかりの頃に比べればそれも減り、業務もスムーズにこなしているのだが、キンタローがここまで考えるというのは、やはり自分の力不足が一番の原因であろうとシンタローは思った。
 理想と現実のギャップは想像以上にあり、あらゆる面で重くのし掛かってくる。
 己がもっとしっかりして、ガンマ団をまとめ上げていけば、キンタローも自分に囚われることなく、もっと色々なことに意識が向くようになるのかもしれない。
 一方キンタローは、シンタローの台詞に僅かに眉を顰め、沈黙を消すように口を開いた。
「お前は何も悪くないだろう。大体、改革など一人の力で出来るものではない。ガンマ団にいて、総帥であるお前についていこうと決めた者達が、お前に力を貸すのは当然のことだ」
 いつもと変わらず涼しげな顔で、淡々とした口調で告げられた台詞だが、それは飾ることのないキンタローの素直な気持ちが述べられている。
 シンタローはキンタローに向かって微笑を浮かべた。
 こういう時、キンタローの台詞は非常に有り難いと思う。自分についてきてくれる仲間がいるということを改めて知り、頼る場所があるということを再認識させられる。
 キンタローは微笑を浮かべているシンタローをジッと見つめ、今度は先程の台詞とは違って、言葉を探すように次の台詞を口にした。
「俺には……夢……いや、違うな…望み……───そういったものがあるんだ…」
 キンタローの珍しい口調にシンタローは驚いて少し目を見開いた。誤解を受けるような言葉が多々あるキンタローであるが、それでも話をするときはハッキリした口調で言葉を発する。
 シンタローは何を話し出すのかと思い、視線だけで先を促す。
「───…別に、他の誰に何と思われようと構わない……俺は……シンタロー、お前の傍にいたいんだ」
 青の一族特有の青い瞳に真っ直ぐ見つめられながら告げられた台詞に、シンタローは心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
 そんな様子のシンタローに気づかずに、キンタローは淡々と台詞の続きを口にする。
「俺が持っている能力を余すことなく最大限に使える場所を探すと、それはお前の隣りになる。俺は時間を一秒たりとも無駄にしたくない。全力で挑める場所にいたいと心底思っている───そう考えた結果が現状だ。総帥であるお前の周囲には、常に無理難題が降りかかる。それらをお前と共に解決して難題の山を崩していく達成感は、他では味わえないほど心地よい。この場所を俺は誰にも譲る気はない。この達成感と共にお前と突き進んでいった先に、何があるのか俺は見たい」
 キンタローはそこで言葉を切り、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。ミルクのみ入れられたそれは、僅かな苦みをもって口の中に広がる。それからシンタローに視線を戻すと、少し複雑そうな表情を浮かべて、キンタローを見ていた。
 キンタローは、こういった心の内を誰かに話すということが、今まで一度もなかったわけではない。それでも関係する本人を目の前にして話をしたのはこれが初めてである。話し終わったときの緊張感と拒絶されたらという不安と恐怖感は、種類は異なるが、戦場に立つのと同じくらい重くのし掛かってくる。
 それでも話す気になったのは、珍しくシンタローが仕事や身内の話以外で、キンタローと話をしようとしてくれたことが純粋に嬉しかったからであった。
 そして確信はないのだが、シンタローはキンタローを拒絶することはないだろうと思う気持ちがどこかにある。
 案の定、シンタローは不快そうな顔をしていない。表情が硬いのは、返答に困っているからであろう。
 そんなシンタローを見つめながら、キンタローは再び口を開いた。
「───…だから俺は、総合して仕事漬けの今でも、日常に満足している。従って、お前が言う『遊び』というものにも興味がわかない」
 キンタローがそう言いきると、シンタローは苦笑を洩らしながら頷いた。
「……そーだよな…押しつけるつもりはなかったんだ…悪かった…」
 そういうシンタローは、浮かべた苦笑に複雑そうな表情が混ざっているが、キンタローの台詞に対して否定はしなかった。
「ま、おれの余計なおせっかいだったな。仕事ばっかでさ、実質お前を拘束してんのは総帥である俺だから…偶にはそういうのも息抜きになるかなって思ったんだよ───何故かは聞くなよ。一般的に考えてってだけだから、俺も深く考えてはなかったし。まぁ、お前普段女っ気が無いから、何か面白い話でも聞けんじゃねぇかって考えなかったわけじゃねぇけど…っつーかそれが俺の楽しみのメインだったりもしたし…」
 台詞の最後の方は戯けた口調である。それではどちらの息抜きか判らないではないか、と思ったキンタローだが、その台詞は飲み込んだ。考えてみれば、キンタローよりも仕事漬けの毎日を送っている代表人物は、目の前にいる黒髪の従兄弟である。
「ここの団員だって、オフの日には、繁華街に繰り出して、よろしくやってるわけだし…まぁそういったアレから軽い気持ちで勧めただけだ。必要ねぇなら、それはそれで構わねぇもんだしな」
 シンタローはそう言って、もう一度「悪かった」とキンタローに謝った。
 キンタローはシンタローの台詞から「こういった遊びが一般的に息抜きの一つになるものなのか」と思う。
 キンタローには、いまいちそのあたりがよく判らなかったが、今回の件を覚えておこうと純粋に思う。シンタローが言うとおり、これも『勉強』である。それと同時に、ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
「シンタロー、お前もそうやって息抜きしているのか?」
 大真面目な顔で質問してくるキンタローがおかしくて、シンタローは軽く笑みを浮かべながら答えを返した。
「今はやってねぇよ。立場が立場だしな。昔は───そりゃまぁ適当に……親父の目を盗むのが一番の難関だったけどそれなりに楽しくやってたな」
 シンタローは過去を思い出して、一度や二度じゃない騒ぎに笑みを深くする。
 父親のマジックが相手では単に遊びに行くのも一苦労だった。『ガンマ団総帥のご子息』ということで、シンタローが何をするにしても、常に危険がつきまとうのは確かなのだが、あの心配の仕方は常軌を遙かに逸していた。それどころか、どちらが犯罪か判らないラインまでいったことが数回ではない。当時はそんな父親が嫌で仕方なかったが、今となっては笑える一つの思い出である。
 まだ、同じ体にいた頃であるから、話をすればキンタローも思い出すかもしれない。
 そう思って、シンタローは笑いながらキンタローを見て───そこにある非常に恐い顔に固まった。
「………お前、顔が恐いぞ……」
 不機嫌が露出したキンタローは、恐ろしい。この様な総帥補佐官は、とても一般団員に見せられたものではない。
「何故だか判らないが……非常に不愉快だ…」
 見たままの心情を述べるキンタローに、「え?一体何に?」とシンタローは思う。どこにも不愉快になる要素が見当たらないのだ。
 シンタローはこれ以上この話は止めようと口を閉じた。
 キンタローは険しい顔をしながら何か考えている様子で、シンタローは何も言わず目の前の青年が落ち着くのを待った。しばらく険しい表情のままであったキンタローは、シンタローと目を合わすと、何かに気づいた素振りを見せ、その後直ぐに普通の状態に戻った。
『機嫌が露出している様って、見てると面白いな…』
 シンタローはカップに残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干す。それからキンタローのカップも受け取り、それらを片付けると「部屋に戻るか」と言って立ち上がった。
 シンタローは「先に戻ってていいぞ」と言ってもくっついてきたキンタローを連れて一度総帥室へ戻った。仕事を途中で放り出してきたものだから、机の上は散らかっているし電気もつけたままだ。シンタローは机の上をざっと片付けると、扉付近で待っているキンタローの元へ近寄った。
「そーいや、単なる興味で聞くけど、今日会ってきた人の外見ってどんな感じ?」
 特に他意があるわけでもなく純粋な興味を持って聞くシンタローに、キンタローは率直に答えた。
「黒い大きな瞳と艶やかな長い漆黒の髪が印象的な女性だ」
 シンタローはその台詞に思わず動作を止めた。そんなシンタローの心中知らずに、キンタローは言葉を続ける。
「お前ほどではないが、美しかったと思う」
「…………そう」
「背丈は…」
 キンタローはそう言いかけて途中で止まり、シンタローをじっと見つめて僅かに逡巡した後、再び口を開いた。
「…そうだな、だいたい、一八〇弱だろうな…割と小さめだ」
 十分デケェよ。
 思わず乱暴に突っ込みそうになったシンタローは、何とかその言葉を飲み込んだ。一八〇弱といえば、グンマと同じくらいの身長かそれより高い。女性としては長身の部類にはいる。間違っても小さいとは言わないであろう。
 それが『小さい』という表現になるキンタローは、そんなに巨体の女性達ばかりと接しているのだろうか。
 一瞬そう思ったシンタローだが、そんなわけはない、と直ぐに思い直す。
「キンタロー…女性でそのくらい背丈があったら小さいとは言わねぇ」
「俺から見たら小さい」
「そりゃ…俺とオメェはデケェから大体の人はそう見えるかもしれねぇけど…」
 呆れつつも何と言えばいいだろうかと考えるシンタローに、キンタローは正面から視線を合わせ、
「俺は話をする時、正面に顔がある方がいいんだ」
と言った。
 シンタローが、もう何も言うまいと心に誓ったのは言うまでもなかろう。



 二人肩を並べて黙ったまま歩いていたが、プライベートエリアに入ると、シンタローは何かに思い当たったらしく、おもむろにキンタローの顔を見る。当然、キンタローはその視線に気づいた。
「何だ?」
「んー…いや…んー…やっぱ何でもねぇ…」
「何でもないというような視線ではなかったぞ、今のは」
「気にすんな」
「気になる」
 キンタローが立ち止まり、シンタローも仕方なく足を止めた。これはシンタローが答えるまでこの場から一歩も動かないであろう。
「いや、たんに、お前欲求不満になんねぇのかなぁって思っただけ」
「───…は?」
「だから何でもねぇって言ったじゃねぇかよ。んー…今現在、気になる人がいるわけじゃないんだよな?そっから色々と附随してくる『欲求』ってこれから味わうもんなのかなって思ってサ。考えてみれば生まれてまだ二年だもんな。これからだろ、ホラ、あれ。思春期ってやつ」
『今更来るか、そんなもの』
 条件反射のように頭に浮かんだ言葉は、補佐官の口から発せられはしなかった。
 シンタローはというと、実に楽しそうに何かを思い浮かべている様子である。頭の中で何を描いているのか、想像がつくだけに微塵も考えたくないキンタローだ。
 シンタローにそんなことを言われたキンタローは、何がとは具体的に言えないが、色々と納得がいかないことを言われたような気がしてならない。そもそも、この世界に『キンタロー』として『誕生』したのが二年前であっても、実際の年齢は二十六歳なのだ。シンタローがいった「思春期」などがこれからきてたまるか、と思うのはキンタローだけではないはずだ。
 そして、もう一つ。シンタローが言ったこの場合の『欲求』とは一体何をさしているのであろうか。少し考えてみたがキンタローにはサッパリ判らない。
「シンタロー…話があらぬ方向に飛んでいて、俺には理解しかねるのだが…」
「そーかぁ?」
「………。大体から、お前が言う欲求とは一体なんだ?」
 キンタローがそう尋ねると、シンタローは先程と同じように楽しそうな表情を浮かべるとニヤリと笑った。
「そりゃぁまぁ色々とあるけどさ。そーだなぁ、お前レベルに合わせるとどんなもんかな……ある特定のコに対して求める欲だよ。例えば、もっと話したい、近づきたい、触れたい、とかさ。手を握ってドキドキ───キスしてぇとかは思うのかな。さすがにヤリてぇとかはまだねぇよな?」
 最後はまじめな顔をして疑問形に終わったシンタローの台詞である。
 キンタローは、そんなことを真剣に聞くなと思いながら何とも言えない表情でシンタローを見返した。やはりシンタローの台詞はいきなりあいだが抜けて飛躍しすぎる。
「ま、何にしても、そういったのってこれからだろ?お前もそういった悩みを抱えて悶々とするのかと思ってちょっと想像したら面白かったから…」
 だから、そんなものを想像するな。
 間髪入れずに突っ込みそうになったキンタローだ。一体シンタローの頭の中でキンタローという人物はどんなことになっているんだと別の意味で不安になってくる。
 そんなキンタローに気づいたシンタローは、後ろを振り返り笑いながら「怒んなよ」と言う。
「ま、でも、お前のことだ。きっとそんな悩みとは無縁でいけんだろ。相手に拒絶されるとかなさそうだもんなぁ」
「…それはどうも」
 キンタローの台詞はいたって冷たい。シンタローはそんなキンタローに笑みを洩らす。
「だから怒んなって」
 そんなやりとりをしているうちにキンタローの部屋の前に着き、二人は立ち止まる。
「お前なら、相手を落とす気になれば、絶対にいけるから」
 そう言いながら、楽しげに笑みを洩らすシンタローの目は優しい。その顔を見ていると、先程の小さな怒りなど簡単に消え去り、キンタローは己の心が温かくなってくるのを感じる。
 キンタローは、シンタローを見ながら『そういえば…』と思う。
 先程シンタローが挙げた例───もっと話したい、近づきたい、この二つに関しては、目の前の男に対してよく思うことである。二十四年間一つの体で過ごしてきたのが大きく影響しているのかは判らないが、シンタローはキンタローの心情をよく察してくれるのだ。それがあるため、他の者とは失敗をするような会話でもシンタローとは成り立つ。キンタローも、他の者の心情は判らないことが多いのだが、シンタローの心情だけは感覚的なものでよく判る。だからキンタローにとってシンタローは一番話しやすい人物であると共に、話をしていて一番楽しい人物でもあるのだ。それが例え仕事の話ばかりだとしても、である。
 更に、一緒にいた期間が長すぎるため、憎悪と共に産声を上げ、殺意と共に切望した『体』を手に入れても、何処かに空虚感がつきまとい苦しんだ時期があった。その空虚感を埋めるために、シンタローを捕らえようと己がもてる感情全てをぶつけたのだが、それはキンタローを苦しめる空虚感を埋めてくれるであろう唯一の人物を永遠に失うことになるのだとある日知った。それからは、抱いていた殺意は消えたものの、一向に消える気配のない空虚感を何とかして消し去りたいと思い、それをシンタローに近づくことで埋めていった。それは僅かな距離を歩み寄っただけでも埋められていくのが感じられるもので、それからはシンタローにもっと近寄っていきたいと思うようになったのだ。
 すると今度は疑問が残る。
 もっと触れたい、と思ったことはあっただろうか───。
 キンタローは目の前にいるシンタローをまじまじと見る。
 シンタローは、よくキンタローの外見を褒めるのだが、彼自身もその場にいる者の目を奪うほど見栄えのする外見である。本人は嫌がるのだが、着飾れば恐らく誰と並んでも見劣りすることはないであろう、とキンタローは思う。そう思いはするが口にはしない。口にしても嫌がられるのが解っているからである。
 シンタローは会話の途中で何か考えるように黙り込んだキンタローに付き合って、黙ったままその場に留まり、キンタローの様子をじっと見ている。
『触れる、か…』
 キンタローは「触れたいから触れる」と意識をしてシンタローに手を伸ばしたことがあっただろうかと己の行動を振り返る。しかし、無意識下の行動など記憶に残っているはずもなく、直ぐに考えるのを止めた。これは自分で考えても判らないものだとキンタローは思う。
 この時点で、キンタローは、シンタローが言ったことがあてはまるのはあくまで『恋愛対象』であるということに気づいていない。この場合、身内や友人同士のスキンシップは入らないのだ。
 従兄弟同士、例え親しい仲であっても、触れるというのは別次元の話である。ましてや男同士の密着率など、女性のものに比べたら微々たるものだ。それを意識して行動を分析しようとしても無理がある。
 それでもキンタローは、シンタローに対する己の行動を真面目に考えた。
 さて。これはシンタローに聞いてみれば判るであろうか。
「シンタロー、俺は、お前によく触れるか?」
「………は?」
 唐突なキンタローの質問に、当然シンタローは間抜けな声を上げる。
 いきなり考え込む様子のキンタローを見ていたシンタローは、二人に分かれてからの付き合いで、多分この後突拍子もないことをいいだすんだろうな、と構えていた。だがしかし、構え方が甘かったようである。
「キンタロー…そりゃ、どういう意味だ」
 ひとまず、台詞の意味を捉えようと聞き返す。
「そのままの意味だ。他に意味はない───触れるとはこういうことだろう」
 キンタローはそういいながら、己の手でシンタローの頬に触れ、髪に触れる。キンタローの行動にシンタローは固まったのだが、この手を即座に振り払っていいものかと思わず躊躇った。マジックやアラシヤマが相手だったら触れる素振りの時点で眼魔砲の一発や二発をお見舞いするのだが、キンタローが相手ではそうもいかない。純粋に傷つけてしまうのではないかと考えてしまうのだ。その結果、シンタローはキンタローに対しての許容範囲が非常に大きくなっている。キンタローの行動におかしなものが含まれるのもこのためなのだが、シンタローは自分が原因となっているとは思ったこともない。
 キンタローは触れた感触を楽しみながら、青い眼でじっとシンタローを見つめた。
「いつも思うんだが、お前の髪は綺麗だな。見たままの通り、触り心地も良い」
「……そりゃ、どーも」
 真顔でそう言われて若干顔が赤くなったシンタローであるが、顔を逸らすタイミングが上手く掴めずその顔を正面からキンタローに見られる。いくら深夜で暗いといえども、当然のように廊下には明かりがついている。
「シンタロー、顔が赤い」
「………黙れ」
「こういうお前は可愛いな」

 シンタローは目の前の二歳児を殴り倒さなかった自分の精神力を心底褒めたくなった。

『これは二歳児!子供だ子供!!子供なんだよっ!!』
 勢いに任せて殴り倒しはしなかったものの、反射的に思い切り顔を逸らした。それによって、今まで触れていたキンタローの手が離れる。
 そんなシンタローの行動をキンタローは深く追求はせず、手を下ろすと先程の質問を再び投げつけた。
「───…で、どうなんだ?俺はお前によく触れるのか?」
『知るかっ』
 その台詞は心に留め、己を落ち着かせることにシンタローは努めた。
 やっぱ総帥になって俺ってば忍耐力がついたよな、と現実逃避さながら自画自賛の嵐である。普段、親子喧嘩で派手に本部(主に総帥室)を破壊しまくっているとかいったことは綺麗に端へ追いやられている。
 一呼吸置いてからキンタローに向き直ったシンタローだが、想像通りの涼しい顔がそこにある。質問の内容がおかしいとかいったことは一切気づいていない。日常の疑問を口にするのと同じような感覚で口にした言葉だというのがよく判る。
「そんなの意識したことねぇから判んねぇよ…」
 シンタローの一言に「そうか」と頷くと、キンタローはまた考え込んだ。
『シンタローが判らないというなら仕方ないか…』
 そう思いながら、今触れた感触がまだ手に残っているのをキンタローは感じた。
『だが…普段はどうだかは判らないが……今はもう一度、触れたい、と思う』
 キンタローの青い双眸が再びシンタローを捕らえた。その眼に見つめられたシンタローは背筋が粟立つのと同時に何故か身に危険を感じる。キンタローが向けた碧眼は、鋭い輝きを放ち目の前の獲物───シンタローを確実に捕らえている。見慣れた青い眼は冷たく映るのに、今向けられている視線からは熱を感じる。
『そういえば今日はシンタローに散々からかわれたような気がするから……少しくらい仕返しをしてもいいだろう…』
 キンタローの不穏な心の動きを察知したのか、シンタローは半ば逃げ腰で目の前の危険人物から離れようとした。
 だがそれよりもはやくキンタローが獲物を捕まえる。
 シンタローが逃げるよりも速く己の部屋に引き込み、逃げられないように壁に押しつけた。
 先程よりも至近距離にキンタローを感じ、シンタローの頭の中は真っ白になる。
「オイ…ッキンタロー!お前何考えて…」
 パニックを起こしたシンタローの動きは荒い。普段、戦場に立ったときのような切れや鋭さが全くない。更に、これだけ密着した状態では身動きをとろうにも自由に動けない。
 勿論、キンタローはそれを見越して体を密着させているわけである。相手は野生の獣と言っても過言でない総帥だ。
 シンタローは総帥に着任してから、場に合わせて格好をつけたり、その場を穏やかにやり過ごすため上手くとりつくろうことをスキルとして身に付けてはいる。
 だがそれは、公の場に限ったことで、この獣に隙を見せたら逃げられるだけでは済まず、確実に攻撃に転じてくる。その攻撃が生半可なものではないことは誰しもが知るところだ。実際、邪な感情を抱いて不穏な動きをとり、返り討ち以上の酷い報復を受けた者をキンタローは間近で見てきている。その数は両手では足りないほどだ。
 キンタローはそんなシンタローを壁で背後の逃げ道を封じて器用に押さえ込む。
「シンタロー…お前は先程、俺なら「落とす気になれば、絶対落ちる」と言ったな?」
「言ったけど!何の関係があんだよッ」
「お前で試してみようと思ってな」
「はっ?!ちょ…待っ…」
 絶句したシンタローに、キンタローは淡々と告げる。
「お前が挙げた例があっただろう───シンタロー、お前に対して何度も感じたことがあるものだ」
「はいぃ?!」
 そんな話は聞いたことがない、と当たり前のことを頭の中で叫びながら、シンタローは完全にパニック状態である。冷静な頭であれば、キンタローが感じたものの程度を聞くことができ、言い諭しながら逃げ道の確保が出来たであろうが、今の状況で冷静さを保つのはどう考えても無理である。
「お前!それは違うだろ!!感情を抱く相手が!!」
「何故違うと言いきれる?」
 キンタローの声は普段話をするときよりも低く響いて、シンタローの鼓膜を震わせた。吐息が頬をくすぐり、シンタローは己の頬が赤くなるのを感じる。先程の廊下と違ってこの部屋の明かりは消えたままなのが救いだ。
「何故って…」
 そういうシンタローの声は上擦り、そんな様子にキンタローが低く笑う。
「お前、楽しんでんなっ」
「当たり前だ。せっかくだから、絶対と言ったお前の言葉が本当かどうか試させてもらおうか」
「他のヤツで試せッ」
 声を荒立てたシンタローだが、自分でも迫力に欠けると思うような声である。
 完全に優勢であるキンタローは、腕の中にいる獲物の耳元に唇を寄せ、低い声で「キスをしても良いか」と囁き、唇が触れるか触れないかの距離で止まる。
 キンタローの顔で視界が埋め尽くされたシンタローは、表情の全てが見えないほどの距離に焦ったが、目の前にある青い双眸は意地悪く光っているように見え、これは絶対にからかっているのだと捉えた。
 シンタローは負けじと目の前の碧眼を黒い眼で睨み返し、
「男相手に出来るものならしてみやがれッ」
と、強気にそう言った。

 シンタローが己の勝利を確信した瞬間、その唇は目の前の男に塞がれた。



 噛みつくような荒い口付けで完全にフリーズしたシンタローが再起動した時には、それは優しく深いものかわっており、完全に捕獲された獲物から甘い吐息が洩れる頃には、キンタローの腕がしっかりとシンタローの腰を抱きシンタローは崩れ落ちそうになる自分の体を留まらせるのにキンタローにしがみつくような状態だったとか。

ks1
 言うまでもなく、遠征から帰還した直後のガンマ団総帥は、形容詞が“ 酷い ”では済まないくらい忙しい。
 本部のみならず、各支部からも、ありとあらゆる媒体で届いた資料に、目と言わず耳と言わず見て聞いてサインして指示を出して、と毎度のことながら総帥自身もうんざりするほど執務に拘束される。周囲の者が、急ぎの用事があっても声を掛けることを本気で躊躇ってしまうこともあるほどだ。ガンマ団本部に戻って一週間半くらいが山場で、その後ようやく少し落ち着いてきて通常の状態に戻る、らしい。
 「らしい」というのは、ガンマ団総帥の『通常の状態』が、他の者から見れば激務であることには変わりないということで、落ち着いてきたといっても差ほど変わりがあるようには見られないということである。
 シンタローとしては、遠征から帰還後、一週間くらいで溜まった資料の山を片付けたいところなのだが、如何せんその資料の数ときたら一般団員の想像を絶するものがある。本人としては、一週間を数日オーバーしてしまうことが許せないらしく、目標は高くと考えているようなのだが、周囲の者からしてみれば一週間半でそれらを片付けてしまえること自体、不思議で仕方ない。
 己が選んだ道であるのだから、その信念を貫き通すためにシンタローは突き進む。体を動かすことを好むために、書類に対して多少文句が出てしまうのは人の心理として仕方ないものだろう。だが、その中に「やめたい」などという途中で放棄するような言葉は絶対にない。他人に任せるわけではなく己の手で一つ一つやり終えるのだ。
 だがしかし。いくらシンタローが頑丈と言えども、遠征で溜まる疲労は普段のものとは比べものにならない。更にいつものこととはいえ、書類の山に終わりは見えない。
 従って、機嫌がよろしくない。
 いや、よろしくないなんでものではない───はっきり言ってもの凄く悪い。
 体を動かすことを好むシンタローを執務に拘束するということは、野生の獣を鎖で繋いで檻に入れることと等しい。それがどんなことであるかは、誰もが容易に想像できる。
 ただでさえ鋭い目元が、鋭利な刃物のような眼光を湛え、溜まった疲労を隠そうとするためか、彼を取り巻くオーラが何故かいつもの三割増になる。逆効果この上なく、あまりの威圧感と恐怖で一般団員どころか上級職員ですら、総帥を正面から見ることが出来ない。それどころか少しも近くに寄れない。近寄れないというよりは、近寄りたくないというのが本音である。
 このガンマ団総帥が、憂さ晴らしでそこら中の団員に手当たり次第突っかかったり、八つ当たりをすることはけっしてないのだが、解っていてもとにかく恐いものは恐いのだ。この状態のシンタローに下手な刺激を与えると、いつもの倍以上、酷い報復を受けるのは周知の事実で、以前、マジックやアラシヤマがその身を以て立証した。尤も、それくらいの扱いで諦めるような彼等ではないので、命懸けのちょっかいを毎回かけているのは言うまでもない。

 本日は、遠征から帰還して七日目。
 丁度一週間がたった今現在、疲労もピークに達して、後数日が更なる山場となるときである。
 日付が変わって三〇分程経った今でも、シンタローは一人で総帥室に残りいつものように書類に目を通してはサインを走らせていた。電子媒体の書類であれば自室の端末から呼び出して処理したりもするのだが、あいにく山積みされているのは紙媒体の書類だ。これらの山を部屋に移動させるのは、手間以外の何でもない。
 日にちからしても、いつもだったら機嫌の悪さがピークに達する頃であるのだが、本日のシンタローは非常に機嫌が良い。その端正な顔からは、濃い疲労が窺えるものの、動作はいたって軽やかだ。
 そんなガンマ団総帥の様子に、一体何があったのだろうかと誰もが首を傾げるのだが、これには『理由』がある。
 その『理由』を思い出しては、明日の朝が楽しみだ、と微笑を浮かべるシンタローだ。
 『それ』を思うと、こんな深夜遅くまで一人仕事をしていることも苦痛ではない。



 秘書が分類しておいた書類の一山にようやく区切りがつき、後もう少し仕事を進めておこうと思った頃、シンタローは空腹をおぼえた。丁度良いから小休憩を入れようと総帥室に隣接された休憩室に移動する。
 さすがのシンタローもこの時間まで仕事をしていて、一切休憩も入れずに、この後も書類と格闘をして勝つ自信はない。本当は休憩を入れる余裕など何処にもないのだが、いくら頑丈なガンマ団総帥といえども生身の人間である。全くの休憩無しで働き続けることは生物学的に考えるまでもなく無理な話だ。集中力は切れ、書類をさばくスピードが落ちるので非常に効率が悪い。
『どこまでやったら部屋に戻るかなぁー…』
 シンタローの机の上に山積みされた書類の数々を思い出して、どのくらい山を崩せば本日の業務は終了として部屋に戻れるだろうかと、熱いコーヒーを飲みながら考える。
 そのまま視線を窓の外に移すと、真っ黒なヴェールを被った空には、大きな満月が浮かんでいた。その月明かりに負けじと、星たちも輝きを放っていて、夜空は雲一つなく晴れ渡っている。窓越しでも綺麗だと思うほどのものであるから、これを見ながら夜の散歩を楽しめたらどんなに最高であろうか。そんなことを思いながら、シンタローはコーヒーを片手に窓の外を眺めた。
 そんな暗闇の中、外に設置されたライトと月明かりに照らされた何かが動くのがシンタローの目に留まった。恐らく人であろうと思われるそのものの髪が輝くような光を反射したのを見て、それが青の一族がもつ金髪だと気づく。ということは、青の一族の誰かがこの夜闇の中を歩いていたということになる。こんな夜中に誰が…と思ったシンタローだが、その『誰か』が建物の中に消えてから一〇分後にこの休憩室の扉が音を立てて開き、恐らく先程外で見かけた人物であろう───キンタローが中に入ってきた。
 全く予想をしていなかった人物に、シンタローは黒曜石のような瞳を見開いた。
「キンタロー…お前、こんな時間に何やってんだ?」
 キンタローはその青い眼にシンタローの姿を認めて、予想していたと言わんばかりの表情を浮かべた。その表情が若干険しくなったのは、シンタローの気のせいではない。
「お前こそこんな時間にここで何をしているんだ、シンタロー。外からこの部屋の明かりが見えたから、自室へ戻る前に寄ったんだが…」
 そう言うキンタローの眼が鋭い光を放っている。
 キンタローの台詞にギクリとしたシンタローは、眼を泳がせながらその碧眼から視線を逸らす。
「えー…あー…何してんだろうな…」
 シンタローの口からは、歯切れの悪い台詞しか出てこない。
 キンタローはそんな様子のシンタローを剣呑な目つきで見つめながら近寄っていく。シンタローは近づいてくるキンタローと目を合わせないように、不自然なほど上体をそらした。その体勢は長くは持たないだろうと思えるほど無理なそらし方である。
「何のマネだ」
「ん?見て判んねぇ?体操」
 その誤魔化し方にも無理がある。
 ガンマ団総帥が遠征後に忙殺の日々を送るのは恒例のことであり、それはキンタローも承知である。だからこの質問にも「仕事をしていました」と素直に答えればいいのだが、今日に限ってシンタローはその様に答えられない。
 それには訳があるのだ。
 昨日のことである。
 総帥室でシンタローが書類に目を通していると、キンタローが困惑した表情でシンタローの元にやってきた。珍しい様子のキンタローに、シンタローがどうしたのかと尋ねれば、今ガンマ団と共同開発しているプロジェクトで知り合った某A国の女性研究員の一人に「明日の夜は空いていないか?」と誘われたのだがどうしたらいいだろうかということであった。
 一体、何に悩む必要があるのだろうかとシンタローは疑問に思う。
 続けられる台詞に黙って耳を傾けていると、珍しくキンタローがその台詞の裏に含まれた意味を捉えていることが判り、これは慣れない『お誘い』に困惑しているのかと結論付けた。
 そこでシンタローは『人生経験の一つや二つ…いやもっと積んだ方がいいよな』と事の行方を面白く思い「仕事は俺一人で大丈夫だから行ってこい」と爽やかな笑顔で応えたのだ。
 本日の夕方も、どことなく渋っている様子のキンタローに、
「今回は進みが良いから今日中に片付けるつもりの書類は、俺一人でやっても日付が変わる前に目処がつくだろうよ。だから遠慮しねぇで遊んでこい」
と、昨晩よりも極上の笑みを浮かべて、シンタローは送り出した。
 その様な意味が含まれた女性のお誘いとあれば、当然、朝帰りをしてくるものだと思い込んでいたシンタローは、この時間にガンマ団でキンタローと顔を合わせることなど微塵も考えていなかった。
 だから、この時間まで堂々と仕事をしていたのだ。
 今とっている休憩の後も、書類との戦闘を再開させるつもりであった。
 キンタローの質問に答える気配のないシンタローに、この補佐官は更に一歩近寄ると、とても紳士が発するとは思えない、非常に物騒な響きを持った低い声で一言唸る。
「───…仕事か…」
 一般団員が聞いたら、任務を放り出して即座に逃げ出しそうな、非常に恐ろしい唸り声である。とても他の者には聞かせられたものではない。
 シンタローは、そんなキンタローに慣れているので、逃げようとは思わなかったが、嘘がばれて少し気まずい。
「お前が早く終わるようなことを言っていたから、俺は出掛けていったんだぞ。いいか、この俺がいなくてもお前は日付が変わる前に…」
「あー…悪かったって。二度言わんでいーから…」
「本当に悪かったと思っているのか?」
「まぁ、半分くらいは…」
「シンタロー…」
「だって、キンタロー、お前そうでも言わねぇと、遊びに行かねぇだろ?」
 シンタローは開き直って、悪びれもせずにそう言った。キンタローの眉間による皺が増えたのは判ったが、嘘がばれてしまったら細かいことを気にしないのがシンタローである。
「この忙しい中、遊びに行く必要がどこにあるというんだ。大体から、仕事と遊びだったら、どちらを優先すべきか、考えるまでもなく決まっているだろう」
 先程の唸り声と同じくらい低い声で、キンタローは意見する。
「まぁ、そう堅いこと言うなって。お前がそんなだから、俺が嘘つく羽目になるんじゃねぇか…」
「俺が悪いというのか?」
「そうじゃねぇよ。遊びも勉強の一つだっての」
「…言っている意味がよく判らない。遊びは遊びだ」
 断言するキンタローの台詞にシンタローは苦笑をする。
「お前、スゲェ頭良いのにそれに比例するくらい頭堅いよな…───まぁ、いいや。で、どーだった?俺はてっきり朝帰りコースだと思ってたんだけど…」
「何がいいんだ。全然よくないぞ、シンタロー」
「いいから、いいから。小言は後で聞くって」
 後でも全く聞く様子のないシンタローに、キンタローは溜息を洩らした。この様な態度のシンタローは珍しくないのだが、何だか釈然としないものがある。だが、何を言っても無駄なのは判りきっているので、シンタローの質問を先に答えるかと、キンタローは本日夕方、ガンマ団本部を出てからの出来事を振り返った。
 そんな様子のキンタローを、シンタローは楽しげな笑みを浮かべながら興味津々の呈で眺めている。
「今日誘ってくれた女性って、お前、結構プライベートでも付き合いがあるヒトだよな」
 シンタローはキンタローとの何気ない会話から得た情報を思い出した。
 いつも仕事を終えると真っ直ぐ本部に帰ってきてしまうキンタローが、珍しく一緒に食事へ行ったり、仕事以外の会話をしたりというような間柄の人物が、本日のお相手である。一体、何があってそんなに親しくなったのか。普段、キンタローの行動を一番間近で見ているシンタローとしては非常に気になるところだ。
 よって、今の台詞も何気ない一言だったのだが、キンタローからは予想しない返答が戻ってきた。
「いや、別に個人的な付き合いなどない」
「へ?だって、お前、プロジェクトの関係で顔合わせると、よく一緒に飯食いに行ったりしてんじゃねぇか」
「彼女が誘ってくれる店はお前が好きそうなものが多かったからな。遠征に行く合間、外で食事をする時間が出来たら一緒に行こうと思って教えてもらっただけだ」
「…………………………」
 この返答を聞いて、シンタローは口を閉じた。
 何だか色々と突っ込みを入れたいところがたくさんあったような気がしたのだが、半瞬考えて強引に「気のせい」ということにする。こんなところで躓いたら、先に待っているであろう楽しいお話が聞けなくなる。
『キンタローからこの手の「不思議な台詞」が出てくるのは日常茶飯事だよな。今更気にしてどーするよ、俺』
 今聞いた台詞をあっさり記憶の外に放り出すと、気を取り直して話を続ける。
「でも、あんだけ頻繁だとさ、ほら、何か気が合うとかそういうのがあんだろ?」
「───…あぁ、彼女と話をするのは楽しい」
 この返答に、シンタローは心の中でガッツポーズをとる。
『これだよ!俺が聞きたかったのは!!』
 先程の返答にはどうしようかと思ったシンタローだが、この台詞には、やはり何かあると考え、話の先を促す。
「やっぱ、話って研究とかの話がメイン?」
「いや…研究に関連するものは機密事項が多いから今現在関わっているプロジェクトの話を外ですることはない。それに関連しない話ならすることもあるが、研究以外の話が多いと思う」
 キンタローの返答にシンタローの心内はますます楽しくなってくる。やはり、仕事から離れてする会話の内容は研究以外の話だよな、などとしみじみと頷く。
 が、しかし。
「彼女が話す内容は多岐に渡っていて、普段の研究に全然関係しないものまである。些細なことだが非常に役立つと思うものが多いんだ」
「うん、うん」
「だから、それらを俺なりにアレンジを加えて応用をすると、お前の仕事が少しでも楽になるのではないかと思って色々と話を聞かせてもらっている」
「…………………………」
 さすがのシンタローも二度目となると、本人の目の前で盛大に頭を抱えた。
 順調にきていた話が、何故か目の前で直角に曲がった。
 あまりの曲がりっぷりに、シンタローは眩暈がして体勢を崩し、ズルズルとその場に蹲る。
 キンタローは、シンタローが突然具合を悪くしたのかと思いその横にしゃがみ、支えるように体に腕を回す。
「大丈夫か、シンタロー。だから根を詰めて仕事をするなと…」
「そうじゃねぇー…」
 今度はシンタローから獰猛な唸り声が上がる。その声は、どんな猛獣でも尻尾を巻いて逃げ出しそうなほど、非常に恐ろしい響きであった。

 キンタローのこれは、鈍いとかそういった問題の範疇なのであろうか───。

 シンタローは、キンタローが今日会ってきた女性に会ったことは一度もない。
 だが、キンタローから話を聞く限りでは、その女性がキンタローに対して特別な感情を寄せていることは判った。
 だから、一度も会ったことがない自分ですら相手の感情が判るのに、何故この補佐官は全く気づかないのか、シンタローは不思議でしょうがない。

 あらためて言うまでもなく、青の一族の容姿は華やかである。世の中に、金髪碧眼は珍しいものではないが、青の一族が持つ輝きは他にない。
 当然、それはキンタローも例外でない。
 並はずれた長身と、その場にいる者全ての視線を釘付けにするほど均整の取れた体は、鍛え抜かれ強靱さを誇っている。見惚れるほど端整な顔立ちを輝くような金糸の髪が飾り、独特の輝きを放つ青い眼はクールな印象を与える。
 一種の造形美がそこにあり、誰が見ても、文句無しの美青年である。更に、頭の回転が速く、振る舞いは紳士的だ。常に上品なスーツで身を包み、内に秘めた獣性を表に出すようなマネはしない。もし仮に出たとしても、恐らく人の目にはそれすら妖しい魅力として映るであろう。どことなくずれていたり、非常に堅物だったりする面もあるのだが、それらを差し引いても魅力的な青年だ。

 そんな男が一体何をやっているんだか───。
 シンタローは心底脱力した。好みじゃないというのならまだしも、これでは相手の女性が可哀想になってくる。
「はあぁ…そりゃ、こんな時間に帰ってくるよな…」
 深い溜息をつくシンタローを青い眼が不思議そうに見た。
「何の話だ?」
「何でもねぇよ…───相手の女性は、怒ったか、深い溜息をつきながら帰っていっただろ…」
 シンタローの台詞にキンタローは驚いたような表情を浮かべた。あまり感情が表に出ないキンタローが「驚いた」とわかるくらいであるから、これは非常に驚いているのであろう。
「何故判ったんだ?その両方だったんだが……突然のことで俺には何が何だかよく判らなかった…」
「判んねぇうえに、両方かよ…。ったく、お前、それじゃダメじゃねぇか」
 シンタローはしゃがんだまま、己の横に座り込んだ青年へ非難の眼を向けた。キンタローには、シンタローの台詞と視線の意味が全く判らない。
「シンタロー、何が言いたいのか俺にはサッパリ判らない」
「判れよ。その女性は、お前に『特別な感情』を抱いていたんだと思うぞ」
 キンタローはシンタローの台詞を聞いて僅かに目を見開く。
「何故そんなことが判る」
「俺には、その状況で何で判らないのかが判んねぇよ…。だーから、遊んで人生経験積んどけって言ってんだよ」
「それは、遊ぶと判るようになるものなのか?」
「───…何か話が極端だな…。一概にそうだとは言えねぇけど…」
 微塵も現状を理解していないようなキンタローに、シンタローはどのように話をするべきか考える。
 心情を察することも人によって、得手、不得手があるわけだから、そういった『場』に繰り出すようになっても、判るようになるとは限らない。
 ただ、キンタローの場合はそれ以前の問題であるように思うのだ。
 ついでに個人的理由を挙げれば、己の半身でもあるキンタローが『ただ単に鈍い男』というのでは、シンタロー自身が納得がいかない。
『んー…相手のことを考えらんねぇで、自分が一番にきちまうってのは……まぁ、子供にはよくある話だよな。これもそれと同じって考えていいもんなのかなぁ…何か納得いかねぇんだけど…』
 シンタローは自分を見つめている青い眼の持ち主を見つめ返しながら、先程の会話を思い返す。何故か彼の中心には自分がいるような発言が多かった。『まさか…相手の女性に俺のことばっかり話したりしてねぇよな…』と一瞬不安が過ぎるが、それは口には出さずに飲み込む。
 別固体に別れた頃より、遙かに落ち着いた状態にあるキンタローなのだが、それでも『キンタロー』として生を歩みだしてまだ二年である。知識はともかく、こういった相手の心情を察したりというようなものは、いくら本を読んでも身に付かない。こればっかりは様々な人間と対峙して学んでいかなければならないのだ。
『あー…でも、後見人が高松だろ…それじゃ、無理もねぇか。あのマッドドクターじゃ、そういった機会の芽が出る前に抜き取っちまう…』
 今回の件は、シンタロー自身も深くは考えず、何処に行っても目立つ存在なのに浮いた話が一つもないキンタローの面白い話が聞けるかもしれないと思って軽い気持ちで送り出しのだ。思わぬ所に躓くポイントがあったわけで、仕方がないと言えば仕方がない。いきなりキンタローを一人放り出して人生経験を積んでこい、ということに無理がある。
『あーあ…俺が自由に遊べなくなったから、身近な奴のネタで楽しもうと思ったのになぁー…』
 随分勝手な言い分を心の内にしまい、キンタローの頭をコツンと軽く叩いて、シンタローは苦笑しながら言った。
「ま、今回の件は仕方ねぇな。これから少しずつ…そーだな、俺が行けるようなら一緒に行って色々教えてやるよ」
 総帥となった今、シンタローが自由にそのような『場』へいけるかどうかは別として、キンタローと共に社交の場へ繰り出す機会は多々あるのだ。今まではそういった観点からキンタローの行動を見てはいなかったが、これからは勉強のためにももう少し考えて傍にいようとシンタローは考えた。
 本当は、プライベートの場で従兄弟としてそういったことを教えてあげたいのだが、悲しいことに今のシンタローにはそのような時間をとる余裕がない。
 キンタローはシンタローの台詞に、表情を僅かに緩めると嬉しそうに頷いた。
「お前が一緒だと楽しそうだ」
 裏表のないキンタローの台詞に、シンタローは若干赤くなりつつ、照れ隠しに今まで向けていた視線を逸らした。
「───…しっかし、お前、本当に俺のことが好きだよなぁ。ったく、まぁこの俺様が魅力的なのは判るけどよ…」
 シンタローは話を切り上げるべく、ふざけた台詞を言いながら立ち上がる。
 雑談で随分と話し込んでしまったが、せっかくこの時間までここにいるのだから、もう少し書類を片付けてしまいたい。
 キンタローもシンタローにつられて立ち上がりながら、今の台詞に少し驚いた表情で尋ねた。
「周りにもよく言われるんだが…お前本人にも判るくらい俺はお前のことが好きなのか?」
 この台詞に、シンタローは持っていたカップを派手に落としそうになる。慌てて体勢を整え難を逃れた。
 今、キンタローは何て言ったんだと耳に入ってきた言葉を頭の中で反芻させる。
「そんな台詞をよく言われてんじゃねぇよ…俺が言ったのは冗談だ、冗談。真に受けんなよ」
「───…冗談…」
「…何だよ、その突っ込みにくい表情はっ」
「いや、周囲にそう言われるのは確かだし、お前のことが好きなのは確かなんだが…」
「言葉の意味をちゃんと捉えとかねぇと、それは誤解を受ける台詞だぞ…」
 右を見ても左を見ても男しかいない環境である。更に言えば、団員は前総帥であるマジックが全国各地から選りすぐり集めた『ちょっと変わった美少年』がここで鍛えられ発展したものだ。ただでさえ外から見れば妖しい雰囲気満載なのだから、ここまではっきり言われると、聞き手には好意の種類が変わって捉えられてしまう。ガンマ団新総帥とその補佐官のゴシップ記事など、世界中のメディアが我一番にと食らいついて放さない。
「あーあ、ったく。まぁ、いーや…後々のためにも、女の人に引かれない程度に気をつけろよ」
「何故、そこに女性が関係するんだ?」
「だーから、お前そんだけいい男なんだから、勿体ないって言ってんの」
「何がだ、シンタロー」
「あーっもうっ何で解んねぇかな。だーかーら、女が選び放題の今の状態、しっかり楽しんでおけっての。いい女掴まえる為にも、普段の言動から誤解を招くようなマネはすんなって言ってんだよ。解ったか?」
 シンタローの台詞に、キンタローはどうも納得がいかない。
「俺は女が欲しいなんて思っていないぞ」
「もてる男に限ってそう言うんだよな…勿体ねぇ…」
「───…お前に言われたくない」
「何の話だよ。ま、とにかく、従兄弟べったりでつまんない男とか思われねぇようにしとけよ。細かい事情を知らねぇ奴が世の中の殆どなんだから、その見た目とその年齢で、俺のことばっか口にしてたら、一生ダメ男のレッテル貼られんぞ」
 軽い話のはずだったのだが、何故こんなに真剣に女遊びを従兄弟に勧めなければならないのか、シンタローは疑問で仕方がない。相手がキンタローだと、どんな軽い話でも真面目な話になってしまうのだろうか。
 女遊びの真面目な話など聞いたこともない。
 逆の立場でも、そんな話を真面目にされたら非常に困る。
 そんなことを考えるシンタローに、キンタローは更なる爆弾を投下した。
「その辺の台詞も一通り言われたことがあるんだが…」
 シンタローはこの瞬間、今日中に終わらせようと思っていた残りの業務を全て投げ捨てた。

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長い黒髪が視界に揺れる。
見事な金髪碧眼揃いの一族の中にあって、若き新総帥は唯一の黒髪の持ち主だ。

固い意志の宿る瞳に、迷いのない背中、胸を張って立つ姿。

一族の誰とも違うその色は、却って彼が歴代の総帥の中でも特別な存在であるかのように思わせる。
力強い一挙一動の度に翻るそれこそが、彼が掲げ皆を導く旗印のようだった。

 

そんな風に彼自身を象徴するものだからだろうか。
本人の性格を映すかのごとく、腰まで届く黒髪はとにかく頑迷なまでに真っ直ぐで、耳に掛けても背中に払っても、簡単に滑り落ちてくる。
デスクワークともなれば、下を向くたび目にも書類にも被さって、何度も煩そうに掻き上げる姿を眼にすることもしばしばだ。

「邪魔なら結わいておいたらどうだ」

いつもその有様を見る度にキンタローは言うのだが、

「いーんだよ」

彼は彼で、意地になったように、それしか言わない。
強情なのも考え物だと、内心呆れるキンタローだった。

 

 

それは遠征から帰還した時のことだった。

「だッ」

総帥室に響いた小さな声に補佐官が振り返ると、総帥は黒のコートを脱ぎかけた、中途半端な体勢で固まっていた。
髪がコートのファスナーに噛んだらしい。
忌々しそうに舌打ちして、彼は片手で絡まった髪を押さえ、片手でデスクの上を探った。
手に取ったのはハサミだった。
髪のその部分だけ切るつもりらしい。
制止する言葉より先に手が伸びた。
動きを遮るように、ハサミを持つ腕を掴む。

「何すんだよ」
「ちょっと待て、動くな」

釘を刺してから、問題の場所を覗き込む。
ひともちになった髪と金具にじっと目を凝らし、何とかなりそうな状態だと見当を付け、キンタローはひとまず従兄弟の手からハサミを取り上げた。
無理に引っ張らないように注意しながら、もつれた髪を少しずつ摘んで解いていく。
そう苦労もなく、すぐにファスナーは外れた。

「お、サンキュー」

ほっとした様子の従兄弟には答えず、キンタローは備え付けの洗面所からタオルと、ブラシなどの洗面台周りの細々とした物を入れてある篭を掴んで引き返した。
引っ掛けた髪の、傷んでこんがらがった部分を濡れたタオルで挟み、ブラシで丁寧に梳かす。
何度か繰り返すと、元通りとはいかなかったが、幾分ましになった。
ついでにブラシを全体に流して、全部の髪を集める。

「キンタロー?」

シンタローが怪訝な声を上げる。
後ろ髪を押さえられているので、首は振り返れない。
何とか髪を取り返そうと手が伸びるのを、軽くいなしてキンタローは手を動かす。

「動くなと言ってる」

言いながら、キンタローはふと篭に伸ばしかけた手を止めた。
ごちゃごちゃと乱雑に入った中に、ひとつ、見覚えのある白い結び紐。
それには触れず、素っ気ない黒い髪ゴムを手に取った。
ブラシで梳いた髪を、ざっと三つに等分してもう一度梳く。

「??おい?」
「すぐ済む」

手早く、首の後ろで一本の三つ編みにした。
解いたときに跡が残らない程度に緩くやんわりと編み込んで、邪魔にならない長さまで編んだら残りは垂らす。

「済んだぞ。どうだ?」

問われて、やっと解放されたシンタローが一本の束になった髪を摘んだ。

「まぁ、ラクだけど…」

ざっくりと編んであるだけだが、その割に解れてこない。
呆れたような感心したような顔で、彼は己の髪をしげしげと眺めた。

「お前、こんなのドコで覚えたの」

従兄弟の結いようもない短い髪に目をやりながら問う。
彼の金髪が長かったのなんて随分昔の一時期だけのことで、その頃にこんな風に結っていたという記憶はなかった。

「やり方さえ知っていれば、このくらい別に練習しなくても出来るだろう?」

やり方はグンマがやってるのを見て覚えた、と答える。

「器用なヤツ…」

憮然とした響きに、そういえばとキンタローも気付く。
彼がこういう風な結び方をしていたことはなかった。
ハーレムでも夏は高く結っていたのに、彼は括るだけのスタイルを変えたことがない。
ポリシーと言うワケでもなく、単にその程度しか出来なかったらしい。
成る程、だから括れないなら、下ろしておくしかなかったということだ。
家事や料理にはあれほど細やかに動くのに、思わぬところで不器用な指だ。

「今度から邪魔なときは言え。邪魔なのを気にしてるより、こうした方が早いし楽だろう?」
「まーナ…」

そう言いつつ、慣れない感覚が気になるのか、しきりに落ち着かなげに左右に首を傾ける。
改めてじっくり眺めると、ラフに纏めた髪は私服なら良いだろうが、重々しい総帥服には妙にミ
スマッチだった。
髪を結ったのは単に合理性の問題であって、別に似合う似合わないの問題ではないのだが、妙に笑えてしまう。

「まぁ、やっぱりその服には解いていた方が似合うな」

髪を引っ張らないように気をつけながら、髪ゴムを外した。
芯の強い張りのある髪は、かるく指を通しただけで、ぱらりと広がる。
真っ直ぐに真っ直ぐに、見事に従兄弟の気性を写したような髪をキンタローは存外に気に入っていた。
何とはなしに手離しがたくて、編んだ形が解けた後も指で掻くように梳く同じ動作を繰り返す。
子供か子猫が無心に玩具で遊んでいるような仕草に、シンタローも呆れつつさせたいようにさせている。
指の間をするりと摺り抜ける感触が小気味よく、海辺の砂が掴んだ手の中でさらさらと崩れていくのにも似たくすぐったさが心地良く、キンタローは目を細め、掴まえた一房に衝動的に唇で触れた。
指先よりも柔らかい皮膚に、ぴんと張った髪のひんやり滑る感触がした。
シャンプーの控えめな香りが鼻腔を擽る。
掴まえた筈のそれは、髪自体の重さで容易くするりとすり抜けて落ちた。
名残惜しい気持ちを感じながら、顔を上げると、従兄弟が固まったまま呆けていた。

「なんだ?」

問うと、ぎぎぎ…と首を動かす。
ふたりの視線が合った。
首を傾げたキンタローと視線を合わせたまま、シンタローの強張った指が手探りで己の髪を掴まえた。
そのまま、ぐっと鷲掴みに握りしめる。
不必要なほど力のこもった拳に握りつぶされて、折角梳かしつけた髪がまた乱れた。
本人がしているとはいえ、乱暴な扱いにキンタローは顔を顰める。
当の本人はそんなことにはお構いなしに、そのままの姿勢でぎこちなく止まっていた。

「…それこそ…どこで覚えてきやがったんだよ」
「何をだ?」

不可解そうに眉を寄せた従兄弟の大真面目な顔に。
深い深い溜息の後、シンタローはずるずるとその場に伏せた。

「んでもねェよ」

 

そうして、デスクに沈むように突っ伏したまま、疲れたように

――人前じゃなくて良かった。

しみじみと遠い目で呟いた。




 

 

 




 

後書き。

三つ編み。実は髪型としては結構好きです。2本のお下げとかより、1本でざっくりとが良い。髪を触らせるのって、かなり近い距離感だと想います。寝癖やらネクタイやらお互い…いや、むしろ従兄弟で直しあってれば良いと思う、ドリーム。

 

 

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――永久(とわ)に響きますように。





妙な場所で立ったまま動かない従兄弟を見つけて声を掛けた。

「グンマ?」
「しー」

呼ぶと、廊下の真ん中にぼうっと突っ立っていた従兄弟が、ぱっと振り返って唇の前に人差し指を立てた。
そうして、突き当たりになる、ほんの僅かに開いた戸の前で、そっと中の様子をうかがっている。

「?誰かいるのか?」

そうも先客に遠慮しないでも、中に入ればいいだろうにと思いながら、従兄弟の隣に並ぶとやっとそこでキンタローにも聞こえた。

微かに途切れながら聞こえる、ゆったりした旋律。時折、声の代わりに鼻歌が混じる。

「唄?」

首を傾げる。
唄は唄だが、それが、何故、わざわざ従兄弟の足を止めさせるのだろうか。

「誰が」

呟きかけて、その声に聞き覚えのあることに気付いて目を見張った。
問い掛けるように従兄弟に目をやると、彼は静かに目を細めて硝子戸になっている扉の向こうを見詰めていた。

「懐かしいなぁ」

微笑む口元が、不思議とどこか哀愁を帯びている。

「キンちゃん、憶えてる?僕とシンちゃんが小さい頃、よくお父様が良く歌ってくれたの。シンちゃんも、よくコタローちゃんに歌ってあげてた」

そう言われて、切れ切れのメロディーに耳を澄ます。
記憶と呼べるほどはっきりしたものはなかったが、その旋律は確かに、どこか懐かしく感じられた。

低く穏やかな声音で愛おしげに紡がれた唄を、いつか包まれ微睡みながら聴いたことがあるような気がする。
そうやって与えられた記憶をなぞるように、愛しくいとけないものを抱き締めて、優しくこの上なく柔らかく響いた声も。

目を凝らして、硝子戸の向こうにその姿を探す。
心地よい日差しと、温室を埋める豊富な緑の葉陰の向こうに、赤い色が見え隠れしていた。
どっしりした幹に背中を預けて、そこに流れ落ちる長い黒髪が降り注ぐ光を浴びて、他のどの色彩よりも鮮烈だった。
光を透かした明るい翡翠色が重なり合う合間からは、硝子越しの青空が見えた。

「誰に、向けてるのかな」

傍らの従兄弟が、ぽつりと寂しげに呟く。

緩やかに囁く、耳に心地よい低音。
これほど大切に紡がれる旋律はない。
溢れるほどの愛しさを詰め込んだ音はない。
それなのに、何故か酷く切なくなるのも。

気まぐれな唄は始まった時のように、唐突に途切れた。
微かに見えている後ろ姿は、一向にこれっぽっちも動き出さない。
緑に半ば以上埋もれた紅い服は、それでも周囲の色彩から浮き上がって、遠目にもよく目立った。
けれど、何とはなく容易には近づきかねて、二人して離れたまま様子を伺う。
しばらくそうしていたが、やはり動く気配はない。

ちらりとキンタローを見上げたグンマが、無言で手を振って挨拶に代え、そっとその場を立ち去っていった。
こんな時ばかりは迂闊に近づくのが躊躇われるのだろう。

見送って、もう一度、彼の姿を見る。
そして、キンタローは目の前で半開きになっている硝子戸を押した。
音もなく滑るように開くそれを潜り抜ける。
途端に取り巻く空気が変わった。

僅かに息苦しさを感じる高い湿度と、ぼうっとした温か過ぎる温度。
少し拍子抜けした。どちらもあの島のそれほどではない。
あそこは、もっと灼けつくように暑かった、もっとじっとりと湿度もあった筈だ。

あの辺りを取り巻く密度の濃い大気、あの青の濃い空の確かな存在感。何もかも圧倒的に色鮮やかで。

そこで気がつき、ひとつ苦笑した。

――結局、自分だって考えている。あの楽園を。


 

生い茂る植物の間を延びる小径を辿って、動かない後ろ姿に歩み寄る。

「シンタロー」

呼び掛けても、応える声は返らない。
回り込むように顔を覗き込むと瞼は閉ざされていて、彼は静かに眠っていた。
張り出した根と幹に、具合良く身体を預けて微睡んでいる。

呼吸の感じからして、眠りはそう深くなかった。もう一度、起こすつもりで呼べば起きるだろう。
逆に、その気がなければ、自分の存在が彼の意識下に触れることはない。

思案するように寝顔を見下ろし、キンタローは従兄弟の傍らに座り込んだ。
片割れの真似をするように、幹に背を凭れてみる。
しばらく居心地の良い位置を探して身じろぎ、落ち着いた所で全身の力を抜いた。

隣を見遣れば、少しやつれた従兄弟の横顔がすぐ間近にある。
引き継いだばかりの総帥の仕事は、相次ぐ遠征の合間を縫って慣れない駆け引きやデスクワークに忙殺されていた。
疲れているのだ。眠くもなるだろう。

指を伸ばして、目の下にそっと触れる。
うっすらと薄くはあるが隈があった。少し顔色も冴えない。
それでも、良い夢を見ているのか、表情はいつになく穏やかだった。
落ち着いた呼吸を繰り返す薄く開いた唇は、微かに微笑んでいるようにも見える。

夢の中でも、唄の続きを奏でているのだろうか。
その向けられる先が、自分たちの方ではなく、遙か遠くを向いていると思えば、少しばかり悔しく妬ましくはあるけれど。

それと同じばかり、少しだけ悼む心があった。
キンタローの記憶にある限り、彼があの島であの少年に歌ってやる機会はついぞ無かった。

今、夢の中でだけでも届いているだろうか。

一度だけなぞるように頬に触れ、頭の片隅で先程に聞いたばかりの、うろ覚えの旋律をたぐり寄せる。
流石に全ては覚え切れておらず、覚えている箇所だけをおぼろげに辿った。

ふと目を上げれば明るい日差しが眩しかった。午後の陽気の、眠気をもたらす暖かさ。
周囲には柔らかな緑が溢れていて、それを揺らす風がないのが惜しかった。
時折、存在を確認するように傍らを覗き込む。
見守る寝顔は未だ目覚める気配もなく安らかだ。

それだけのことに、満ち足りたようにキンタローは微笑んだ。
素朴で他愛のない唄の断片を、囁きよりも小さく繰り返す。
与えられる優しい想い出は今さら手に入れようがなくとも、今の自分は少なくとも誰かにそれを与えることが出来る。それもまた、幸せなことに違いなかった。

思いを注ぐその唄。
愛しい者を抱き締めるその唄を唄う時、愛しいと深く溢れ出る想いに、どれほど満たされることだろう。受け取る者だけでなく、与える者こそが。想うことの幸福ゆえに。

願わくば、それが受け取るべき相手の元まで届けばいい。
彼の想いも、海の彼方、夢の向こう側へ。

届かない筈はない。
どれほど遠かろうと、彼の声が届かないはずはないし、あの少年に聞こえないはずがなかった。

そうして自分は此処で、彼に届くまで、幾らでも奏でているから。

 

 

 

これからも共に進む長い道のり。
彼が導く未来に、どうか。

永久に、この唄が世界で響きますように。





 

 

 




 

後書き。

これじゃぁ、キンシンじゃなくて聖域なんじゃないだろうか。書き上げてから気付いた……。

最初、シンちゃんとグンちゃんに子守歌を歌ってくれたのはママの設定でしたが、本誌で衝撃の事実が明かされたもので慌てて設定変更……。あああ、パパとママのめっちゃラブロマンスを期待してたのにー!ルー様の超不器用で稚拙な恋とか夢見てたのにー!

 

 

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