思えば、日々仕事に追われているシンタローは、キンタローとこういった日常の他愛もない話をすることがほとんどない。むしろ、今まで皆無であったと言っても過言ではないだろう。偶に話しをするとしても身内の話が主な話題だ。それ以外は仕事の話ばかりである。
更に、キンタローの周囲にいる人物を考えれば、確かにこういった軽い話をすることはないだろうと思われる。グンマと高松相手に女性関係の話をしろとは、さすがにシンタローも思わない。他の者が相手でもまともな話は望めないであろう。『サービス叔父さんなら…』と一瞬考えたシンタローだが、本部にいないと言っても過言でないほど姿を見せない叔父とでは、会話をすること自体が難しい。それに、美貌の叔父とする女性関係の話は、初心者には無理なのではないかと思ったシンタローである。
キンタローが、シンタローと別固体に分かれてもうじき二年が経とうとしている。
ハッキリ言ってこのままではダメだろうと、先程の台詞を聞いた瞬間そう思ったシンタローだ。
『ったく、高松はなにやってんだよ!!いくら敬愛していたひとの忘れ形見だからって、これは大切にするにもほどがあるだろ!!ってか大切の仕方が間違ってるだろーがっ!!』
シンタローは頭の中で怒りの叫び声を上げながら、彼に育てられたグンマを思い出してクールダウンする。彼に任せてまともな人間に育つわけがないのは立証済みだ。ちなみに、マジックに育てられた己はどうなのかということを、シンタローは一度も考えたことがない。
シンタローはキンタローを今いる休憩室のソファに座らせ、コーヒーを二人分煎れ直すと、自分はその向かいに腰を下ろした。せっかくの機会である。同性の自分が見ても美形だと思う目の前にいる金髪碧眼の青年が、ヘタレのレッテルを貼られるに至ってしまった経緯を本人に聞いてみようと思ったのだ。何を考えているのか、あまり口にしないキンタローであるから、恐らく言葉少なに思ったことを口にして誤解が誤解を招いた結果が現状なのだろう。一体、外で何を口走っているのか、こうなってくると非常に気になるシンタローだ。
「───で、キンタロー。一体何を考えて、どんな台詞を口にして、そんな言葉をもらっちゃってんだ?」
熱いコーヒーを一口飲んでから、シンタローは切り出す。シンタローが煎れてくれたコーヒーに口をつけながら、キンタローはシンタローの言葉が指すところを考えた。
「考えていることは、これからのガンマ団のことだから、それに附随してお前のことを考えて……いや、お前のことを考えているから必然的にガンマ団のこれからのことを考えるのか…」
「キンタロー…前者と後者じゃ伝わる意味が全く異なってくんぞ…」
ガンマ団総帥を補佐する立場にいる者が、団の未来を常に頭に置いているのは納得がいく。そこから団のトップである総帥のことを考えに入れるのも解る。
だが、常に考えていることが総帥のこととなると意味が変わってくる。総帥が先に来てしまうと、それに附随するのはガンマ団でなく、シンタロー個人になってしまう。
常日頃シンタローのことを考えていると公言するのは、誰がどう考えてもまずいであろう。
「……お前さ…ヒト前で俺のこと考えてるなんて言わねぇ方がいいぞ…。総帥に着任してから二年経つのに、俺が頼りねぇからついつい考えちまうのは解るけど………ガンマ団のことを考えているぐらいにしておけ」
「お前のことを考えているのは事実なんだが…」
「誤解されんだよ、お前のその台詞は。いいから、全部ひっくるめてガンマ団にしておけ」
「───…よく解らないが、分かった。ガンマ団だな…」
キンタローは納得いっていない顔をしたが、深く追求はせずに、ひとまず頷く。
「そうそう───でも、お前、そんなにガンマ団のこと考えてんのか?…って、一番考えなきゃいけねぇのは俺だなんだけど…。悪ぃな…迷惑ばっかでさ…」
シンタロー自身、頑張っているつもりなのだが、改革を行って二年経つ今でも、団内は一向に落ち着かない。一つ問題を片付けると、待っていましたと言わんばかりに次の問題が勃発するのだ。総帥に着任したばかりの頃に比べればそれも減り、業務もスムーズにこなしているのだが、キンタローがここまで考えるというのは、やはり自分の力不足が一番の原因であろうとシンタローは思った。
理想と現実のギャップは想像以上にあり、あらゆる面で重くのし掛かってくる。
己がもっとしっかりして、ガンマ団をまとめ上げていけば、キンタローも自分に囚われることなく、もっと色々なことに意識が向くようになるのかもしれない。
一方キンタローは、シンタローの台詞に僅かに眉を顰め、沈黙を消すように口を開いた。
「お前は何も悪くないだろう。大体、改革など一人の力で出来るものではない。ガンマ団にいて、総帥であるお前についていこうと決めた者達が、お前に力を貸すのは当然のことだ」
いつもと変わらず涼しげな顔で、淡々とした口調で告げられた台詞だが、それは飾ることのないキンタローの素直な気持ちが述べられている。
シンタローはキンタローに向かって微笑を浮かべた。
こういう時、キンタローの台詞は非常に有り難いと思う。自分についてきてくれる仲間がいるということを改めて知り、頼る場所があるということを再認識させられる。
キンタローは微笑を浮かべているシンタローをジッと見つめ、今度は先程の台詞とは違って、言葉を探すように次の台詞を口にした。
「俺には……夢……いや、違うな…望み……───そういったものがあるんだ…」
キンタローの珍しい口調にシンタローは驚いて少し目を見開いた。誤解を受けるような言葉が多々あるキンタローであるが、それでも話をするときはハッキリした口調で言葉を発する。
シンタローは何を話し出すのかと思い、視線だけで先を促す。
「───…別に、他の誰に何と思われようと構わない……俺は……シンタロー、お前の傍にいたいんだ」
青の一族特有の青い瞳に真っ直ぐ見つめられながら告げられた台詞に、シンタローは心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
そんな様子のシンタローに気づかずに、キンタローは淡々と台詞の続きを口にする。
「俺が持っている能力を余すことなく最大限に使える場所を探すと、それはお前の隣りになる。俺は時間を一秒たりとも無駄にしたくない。全力で挑める場所にいたいと心底思っている───そう考えた結果が現状だ。総帥であるお前の周囲には、常に無理難題が降りかかる。それらをお前と共に解決して難題の山を崩していく達成感は、他では味わえないほど心地よい。この場所を俺は誰にも譲る気はない。この達成感と共にお前と突き進んでいった先に、何があるのか俺は見たい」
キンタローはそこで言葉を切り、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。ミルクのみ入れられたそれは、僅かな苦みをもって口の中に広がる。それからシンタローに視線を戻すと、少し複雑そうな表情を浮かべて、キンタローを見ていた。
キンタローは、こういった心の内を誰かに話すということが、今まで一度もなかったわけではない。それでも関係する本人を目の前にして話をしたのはこれが初めてである。話し終わったときの緊張感と拒絶されたらという不安と恐怖感は、種類は異なるが、戦場に立つのと同じくらい重くのし掛かってくる。
それでも話す気になったのは、珍しくシンタローが仕事や身内の話以外で、キンタローと話をしようとしてくれたことが純粋に嬉しかったからであった。
そして確信はないのだが、シンタローはキンタローを拒絶することはないだろうと思う気持ちがどこかにある。
案の定、シンタローは不快そうな顔をしていない。表情が硬いのは、返答に困っているからであろう。
そんなシンタローを見つめながら、キンタローは再び口を開いた。
「───…だから俺は、総合して仕事漬けの今でも、日常に満足している。従って、お前が言う『遊び』というものにも興味がわかない」
キンタローがそう言いきると、シンタローは苦笑を洩らしながら頷いた。
「……そーだよな…押しつけるつもりはなかったんだ…悪かった…」
そういうシンタローは、浮かべた苦笑に複雑そうな表情が混ざっているが、キンタローの台詞に対して否定はしなかった。
「ま、おれの余計なおせっかいだったな。仕事ばっかでさ、実質お前を拘束してんのは総帥である俺だから…偶にはそういうのも息抜きになるかなって思ったんだよ───何故かは聞くなよ。一般的に考えてってだけだから、俺も深く考えてはなかったし。まぁ、お前普段女っ気が無いから、何か面白い話でも聞けんじゃねぇかって考えなかったわけじゃねぇけど…っつーかそれが俺の楽しみのメインだったりもしたし…」
台詞の最後の方は戯けた口調である。それではどちらの息抜きか判らないではないか、と思ったキンタローだが、その台詞は飲み込んだ。考えてみれば、キンタローよりも仕事漬けの毎日を送っている代表人物は、目の前にいる黒髪の従兄弟である。
「ここの団員だって、オフの日には、繁華街に繰り出して、よろしくやってるわけだし…まぁそういったアレから軽い気持ちで勧めただけだ。必要ねぇなら、それはそれで構わねぇもんだしな」
シンタローはそう言って、もう一度「悪かった」とキンタローに謝った。
キンタローはシンタローの台詞から「こういった遊びが一般的に息抜きの一つになるものなのか」と思う。
キンタローには、いまいちそのあたりがよく判らなかったが、今回の件を覚えておこうと純粋に思う。シンタローが言うとおり、これも『勉強』である。それと同時に、ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
「シンタロー、お前もそうやって息抜きしているのか?」
大真面目な顔で質問してくるキンタローがおかしくて、シンタローは軽く笑みを浮かべながら答えを返した。
「今はやってねぇよ。立場が立場だしな。昔は───そりゃまぁ適当に……親父の目を盗むのが一番の難関だったけどそれなりに楽しくやってたな」
シンタローは過去を思い出して、一度や二度じゃない騒ぎに笑みを深くする。
父親のマジックが相手では単に遊びに行くのも一苦労だった。『ガンマ団総帥のご子息』ということで、シンタローが何をするにしても、常に危険がつきまとうのは確かなのだが、あの心配の仕方は常軌を遙かに逸していた。それどころか、どちらが犯罪か判らないラインまでいったことが数回ではない。当時はそんな父親が嫌で仕方なかったが、今となっては笑える一つの思い出である。
まだ、同じ体にいた頃であるから、話をすればキンタローも思い出すかもしれない。
そう思って、シンタローは笑いながらキンタローを見て───そこにある非常に恐い顔に固まった。
「………お前、顔が恐いぞ……」
不機嫌が露出したキンタローは、恐ろしい。この様な総帥補佐官は、とても一般団員に見せられたものではない。
「何故だか判らないが……非常に不愉快だ…」
見たままの心情を述べるキンタローに、「え?一体何に?」とシンタローは思う。どこにも不愉快になる要素が見当たらないのだ。
シンタローはこれ以上この話は止めようと口を閉じた。
キンタローは険しい顔をしながら何か考えている様子で、シンタローは何も言わず目の前の青年が落ち着くのを待った。しばらく険しい表情のままであったキンタローは、シンタローと目を合わすと、何かに気づいた素振りを見せ、その後直ぐに普通の状態に戻った。
『機嫌が露出している様って、見てると面白いな…』
シンタローはカップに残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干す。それからキンタローのカップも受け取り、それらを片付けると「部屋に戻るか」と言って立ち上がった。
シンタローは「先に戻ってていいぞ」と言ってもくっついてきたキンタローを連れて一度総帥室へ戻った。仕事を途中で放り出してきたものだから、机の上は散らかっているし電気もつけたままだ。シンタローは机の上をざっと片付けると、扉付近で待っているキンタローの元へ近寄った。
「そーいや、単なる興味で聞くけど、今日会ってきた人の外見ってどんな感じ?」
特に他意があるわけでもなく純粋な興味を持って聞くシンタローに、キンタローは率直に答えた。
「黒い大きな瞳と艶やかな長い漆黒の髪が印象的な女性だ」
シンタローはその台詞に思わず動作を止めた。そんなシンタローの心中知らずに、キンタローは言葉を続ける。
「お前ほどではないが、美しかったと思う」
「…………そう」
「背丈は…」
キンタローはそう言いかけて途中で止まり、シンタローをじっと見つめて僅かに逡巡した後、再び口を開いた。
「…そうだな、だいたい、一八〇弱だろうな…割と小さめだ」
十分デケェよ。
思わず乱暴に突っ込みそうになったシンタローは、何とかその言葉を飲み込んだ。一八〇弱といえば、グンマと同じくらいの身長かそれより高い。女性としては長身の部類にはいる。間違っても小さいとは言わないであろう。
それが『小さい』という表現になるキンタローは、そんなに巨体の女性達ばかりと接しているのだろうか。
一瞬そう思ったシンタローだが、そんなわけはない、と直ぐに思い直す。
「キンタロー…女性でそのくらい背丈があったら小さいとは言わねぇ」
「俺から見たら小さい」
「そりゃ…俺とオメェはデケェから大体の人はそう見えるかもしれねぇけど…」
呆れつつも何と言えばいいだろうかと考えるシンタローに、キンタローは正面から視線を合わせ、
「俺は話をする時、正面に顔がある方がいいんだ」
と言った。
シンタローが、もう何も言うまいと心に誓ったのは言うまでもなかろう。
二人肩を並べて黙ったまま歩いていたが、プライベートエリアに入ると、シンタローは何かに思い当たったらしく、おもむろにキンタローの顔を見る。当然、キンタローはその視線に気づいた。
「何だ?」
「んー…いや…んー…やっぱ何でもねぇ…」
「何でもないというような視線ではなかったぞ、今のは」
「気にすんな」
「気になる」
キンタローが立ち止まり、シンタローも仕方なく足を止めた。これはシンタローが答えるまでこの場から一歩も動かないであろう。
「いや、たんに、お前欲求不満になんねぇのかなぁって思っただけ」
「───…は?」
「だから何でもねぇって言ったじゃねぇかよ。んー…今現在、気になる人がいるわけじゃないんだよな?そっから色々と附随してくる『欲求』ってこれから味わうもんなのかなって思ってサ。考えてみれば生まれてまだ二年だもんな。これからだろ、ホラ、あれ。思春期ってやつ」
『今更来るか、そんなもの』
条件反射のように頭に浮かんだ言葉は、補佐官の口から発せられはしなかった。
シンタローはというと、実に楽しそうに何かを思い浮かべている様子である。頭の中で何を描いているのか、想像がつくだけに微塵も考えたくないキンタローだ。
シンタローにそんなことを言われたキンタローは、何がとは具体的に言えないが、色々と納得がいかないことを言われたような気がしてならない。そもそも、この世界に『キンタロー』として『誕生』したのが二年前であっても、実際の年齢は二十六歳なのだ。シンタローがいった「思春期」などがこれからきてたまるか、と思うのはキンタローだけではないはずだ。
そして、もう一つ。シンタローが言ったこの場合の『欲求』とは一体何をさしているのであろうか。少し考えてみたがキンタローにはサッパリ判らない。
「シンタロー…話があらぬ方向に飛んでいて、俺には理解しかねるのだが…」
「そーかぁ?」
「………。大体から、お前が言う欲求とは一体なんだ?」
キンタローがそう尋ねると、シンタローは先程と同じように楽しそうな表情を浮かべるとニヤリと笑った。
「そりゃぁまぁ色々とあるけどさ。そーだなぁ、お前レベルに合わせるとどんなもんかな……ある特定のコに対して求める欲だよ。例えば、もっと話したい、近づきたい、触れたい、とかさ。手を握ってドキドキ───キスしてぇとかは思うのかな。さすがにヤリてぇとかはまだねぇよな?」
最後はまじめな顔をして疑問形に終わったシンタローの台詞である。
キンタローは、そんなことを真剣に聞くなと思いながら何とも言えない表情でシンタローを見返した。やはりシンタローの台詞はいきなりあいだが抜けて飛躍しすぎる。
「ま、何にしても、そういったのってこれからだろ?お前もそういった悩みを抱えて悶々とするのかと思ってちょっと想像したら面白かったから…」
だから、そんなものを想像するな。
間髪入れずに突っ込みそうになったキンタローだ。一体シンタローの頭の中でキンタローという人物はどんなことになっているんだと別の意味で不安になってくる。
そんなキンタローに気づいたシンタローは、後ろを振り返り笑いながら「怒んなよ」と言う。
「ま、でも、お前のことだ。きっとそんな悩みとは無縁でいけんだろ。相手に拒絶されるとかなさそうだもんなぁ」
「…それはどうも」
キンタローの台詞はいたって冷たい。シンタローはそんなキンタローに笑みを洩らす。
「だから怒んなって」
そんなやりとりをしているうちにキンタローの部屋の前に着き、二人は立ち止まる。
「お前なら、相手を落とす気になれば、絶対にいけるから」
そう言いながら、楽しげに笑みを洩らすシンタローの目は優しい。その顔を見ていると、先程の小さな怒りなど簡単に消え去り、キンタローは己の心が温かくなってくるのを感じる。
キンタローは、シンタローを見ながら『そういえば…』と思う。
先程シンタローが挙げた例───もっと話したい、近づきたい、この二つに関しては、目の前の男に対してよく思うことである。二十四年間一つの体で過ごしてきたのが大きく影響しているのかは判らないが、シンタローはキンタローの心情をよく察してくれるのだ。それがあるため、他の者とは失敗をするような会話でもシンタローとは成り立つ。キンタローも、他の者の心情は判らないことが多いのだが、シンタローの心情だけは感覚的なものでよく判る。だからキンタローにとってシンタローは一番話しやすい人物であると共に、話をしていて一番楽しい人物でもあるのだ。それが例え仕事の話ばかりだとしても、である。
更に、一緒にいた期間が長すぎるため、憎悪と共に産声を上げ、殺意と共に切望した『体』を手に入れても、何処かに空虚感がつきまとい苦しんだ時期があった。その空虚感を埋めるために、シンタローを捕らえようと己がもてる感情全てをぶつけたのだが、それはキンタローを苦しめる空虚感を埋めてくれるであろう唯一の人物を永遠に失うことになるのだとある日知った。それからは、抱いていた殺意は消えたものの、一向に消える気配のない空虚感を何とかして消し去りたいと思い、それをシンタローに近づくことで埋めていった。それは僅かな距離を歩み寄っただけでも埋められていくのが感じられるもので、それからはシンタローにもっと近寄っていきたいと思うようになったのだ。
すると今度は疑問が残る。
もっと触れたい、と思ったことはあっただろうか───。
キンタローは目の前にいるシンタローをまじまじと見る。
シンタローは、よくキンタローの外見を褒めるのだが、彼自身もその場にいる者の目を奪うほど見栄えのする外見である。本人は嫌がるのだが、着飾れば恐らく誰と並んでも見劣りすることはないであろう、とキンタローは思う。そう思いはするが口にはしない。口にしても嫌がられるのが解っているからである。
シンタローは会話の途中で何か考えるように黙り込んだキンタローに付き合って、黙ったままその場に留まり、キンタローの様子をじっと見ている。
『触れる、か…』
キンタローは「触れたいから触れる」と意識をしてシンタローに手を伸ばしたことがあっただろうかと己の行動を振り返る。しかし、無意識下の行動など記憶に残っているはずもなく、直ぐに考えるのを止めた。これは自分で考えても判らないものだとキンタローは思う。
この時点で、キンタローは、シンタローが言ったことがあてはまるのはあくまで『恋愛対象』であるということに気づいていない。この場合、身内や友人同士のスキンシップは入らないのだ。
従兄弟同士、例え親しい仲であっても、触れるというのは別次元の話である。ましてや男同士の密着率など、女性のものに比べたら微々たるものだ。それを意識して行動を分析しようとしても無理がある。
それでもキンタローは、シンタローに対する己の行動を真面目に考えた。
さて。これはシンタローに聞いてみれば判るであろうか。
「シンタロー、俺は、お前によく触れるか?」
「………は?」
唐突なキンタローの質問に、当然シンタローは間抜けな声を上げる。
いきなり考え込む様子のキンタローを見ていたシンタローは、二人に分かれてからの付き合いで、多分この後突拍子もないことをいいだすんだろうな、と構えていた。だがしかし、構え方が甘かったようである。
「キンタロー…そりゃ、どういう意味だ」
ひとまず、台詞の意味を捉えようと聞き返す。
「そのままの意味だ。他に意味はない───触れるとはこういうことだろう」
キンタローはそういいながら、己の手でシンタローの頬に触れ、髪に触れる。キンタローの行動にシンタローは固まったのだが、この手を即座に振り払っていいものかと思わず躊躇った。マジックやアラシヤマが相手だったら触れる素振りの時点で眼魔砲の一発や二発をお見舞いするのだが、キンタローが相手ではそうもいかない。純粋に傷つけてしまうのではないかと考えてしまうのだ。その結果、シンタローはキンタローに対しての許容範囲が非常に大きくなっている。キンタローの行動におかしなものが含まれるのもこのためなのだが、シンタローは自分が原因となっているとは思ったこともない。
キンタローは触れた感触を楽しみながら、青い眼でじっとシンタローを見つめた。
「いつも思うんだが、お前の髪は綺麗だな。見たままの通り、触り心地も良い」
「……そりゃ、どーも」
真顔でそう言われて若干顔が赤くなったシンタローであるが、顔を逸らすタイミングが上手く掴めずその顔を正面からキンタローに見られる。いくら深夜で暗いといえども、当然のように廊下には明かりがついている。
「シンタロー、顔が赤い」
「………黙れ」
「こういうお前は可愛いな」
シンタローは目の前の二歳児を殴り倒さなかった自分の精神力を心底褒めたくなった。
『これは二歳児!子供だ子供!!子供なんだよっ!!』
勢いに任せて殴り倒しはしなかったものの、反射的に思い切り顔を逸らした。それによって、今まで触れていたキンタローの手が離れる。
そんなシンタローの行動をキンタローは深く追求はせず、手を下ろすと先程の質問を再び投げつけた。
「───…で、どうなんだ?俺はお前によく触れるのか?」
『知るかっ』
その台詞は心に留め、己を落ち着かせることにシンタローは努めた。
やっぱ総帥になって俺ってば忍耐力がついたよな、と現実逃避さながら自画自賛の嵐である。普段、親子喧嘩で派手に本部(主に総帥室)を破壊しまくっているとかいったことは綺麗に端へ追いやられている。
一呼吸置いてからキンタローに向き直ったシンタローだが、想像通りの涼しい顔がそこにある。質問の内容がおかしいとかいったことは一切気づいていない。日常の疑問を口にするのと同じような感覚で口にした言葉だというのがよく判る。
「そんなの意識したことねぇから判んねぇよ…」
シンタローの一言に「そうか」と頷くと、キンタローはまた考え込んだ。
『シンタローが判らないというなら仕方ないか…』
そう思いながら、今触れた感触がまだ手に残っているのをキンタローは感じた。
『だが…普段はどうだかは判らないが……今はもう一度、触れたい、と思う』
キンタローの青い双眸が再びシンタローを捕らえた。その眼に見つめられたシンタローは背筋が粟立つのと同時に何故か身に危険を感じる。キンタローが向けた碧眼は、鋭い輝きを放ち目の前の獲物───シンタローを確実に捕らえている。見慣れた青い眼は冷たく映るのに、今向けられている視線からは熱を感じる。
『そういえば今日はシンタローに散々からかわれたような気がするから……少しくらい仕返しをしてもいいだろう…』
キンタローの不穏な心の動きを察知したのか、シンタローは半ば逃げ腰で目の前の危険人物から離れようとした。
だがそれよりもはやくキンタローが獲物を捕まえる。
シンタローが逃げるよりも速く己の部屋に引き込み、逃げられないように壁に押しつけた。
先程よりも至近距離にキンタローを感じ、シンタローの頭の中は真っ白になる。
「オイ…ッキンタロー!お前何考えて…」
パニックを起こしたシンタローの動きは荒い。普段、戦場に立ったときのような切れや鋭さが全くない。更に、これだけ密着した状態では身動きをとろうにも自由に動けない。
勿論、キンタローはそれを見越して体を密着させているわけである。相手は野生の獣と言っても過言でない総帥だ。
シンタローは総帥に着任してから、場に合わせて格好をつけたり、その場を穏やかにやり過ごすため上手くとりつくろうことをスキルとして身に付けてはいる。
だがそれは、公の場に限ったことで、この獣に隙を見せたら逃げられるだけでは済まず、確実に攻撃に転じてくる。その攻撃が生半可なものではないことは誰しもが知るところだ。実際、邪な感情を抱いて不穏な動きをとり、返り討ち以上の酷い報復を受けた者をキンタローは間近で見てきている。その数は両手では足りないほどだ。
キンタローはそんなシンタローを壁で背後の逃げ道を封じて器用に押さえ込む。
「シンタロー…お前は先程、俺なら「落とす気になれば、絶対落ちる」と言ったな?」
「言ったけど!何の関係があんだよッ」
「お前で試してみようと思ってな」
「はっ?!ちょ…待っ…」
絶句したシンタローに、キンタローは淡々と告げる。
「お前が挙げた例があっただろう───シンタロー、お前に対して何度も感じたことがあるものだ」
「はいぃ?!」
そんな話は聞いたことがない、と当たり前のことを頭の中で叫びながら、シンタローは完全にパニック状態である。冷静な頭であれば、キンタローが感じたものの程度を聞くことができ、言い諭しながら逃げ道の確保が出来たであろうが、今の状況で冷静さを保つのはどう考えても無理である。
「お前!それは違うだろ!!感情を抱く相手が!!」
「何故違うと言いきれる?」
キンタローの声は普段話をするときよりも低く響いて、シンタローの鼓膜を震わせた。吐息が頬をくすぐり、シンタローは己の頬が赤くなるのを感じる。先程の廊下と違ってこの部屋の明かりは消えたままなのが救いだ。
「何故って…」
そういうシンタローの声は上擦り、そんな様子にキンタローが低く笑う。
「お前、楽しんでんなっ」
「当たり前だ。せっかくだから、絶対と言ったお前の言葉が本当かどうか試させてもらおうか」
「他のヤツで試せッ」
声を荒立てたシンタローだが、自分でも迫力に欠けると思うような声である。
完全に優勢であるキンタローは、腕の中にいる獲物の耳元に唇を寄せ、低い声で「キスをしても良いか」と囁き、唇が触れるか触れないかの距離で止まる。
キンタローの顔で視界が埋め尽くされたシンタローは、表情の全てが見えないほどの距離に焦ったが、目の前にある青い双眸は意地悪く光っているように見え、これは絶対にからかっているのだと捉えた。
シンタローは負けじと目の前の碧眼を黒い眼で睨み返し、
「男相手に出来るものならしてみやがれッ」
と、強気にそう言った。
シンタローが己の勝利を確信した瞬間、その唇は目の前の男に塞がれた。
噛みつくような荒い口付けで完全にフリーズしたシンタローが再起動した時には、それは優しく深いものかわっており、完全に捕獲された獲物から甘い吐息が洩れる頃には、キンタローの腕がしっかりとシンタローの腰を抱きシンタローは崩れ落ちそうになる自分の体を留まらせるのにキンタローにしがみつくような状態だったとか。
更に、キンタローの周囲にいる人物を考えれば、確かにこういった軽い話をすることはないだろうと思われる。グンマと高松相手に女性関係の話をしろとは、さすがにシンタローも思わない。他の者が相手でもまともな話は望めないであろう。『サービス叔父さんなら…』と一瞬考えたシンタローだが、本部にいないと言っても過言でないほど姿を見せない叔父とでは、会話をすること自体が難しい。それに、美貌の叔父とする女性関係の話は、初心者には無理なのではないかと思ったシンタローである。
キンタローが、シンタローと別固体に分かれてもうじき二年が経とうとしている。
ハッキリ言ってこのままではダメだろうと、先程の台詞を聞いた瞬間そう思ったシンタローだ。
『ったく、高松はなにやってんだよ!!いくら敬愛していたひとの忘れ形見だからって、これは大切にするにもほどがあるだろ!!ってか大切の仕方が間違ってるだろーがっ!!』
シンタローは頭の中で怒りの叫び声を上げながら、彼に育てられたグンマを思い出してクールダウンする。彼に任せてまともな人間に育つわけがないのは立証済みだ。ちなみに、マジックに育てられた己はどうなのかということを、シンタローは一度も考えたことがない。
シンタローはキンタローを今いる休憩室のソファに座らせ、コーヒーを二人分煎れ直すと、自分はその向かいに腰を下ろした。せっかくの機会である。同性の自分が見ても美形だと思う目の前にいる金髪碧眼の青年が、ヘタレのレッテルを貼られるに至ってしまった経緯を本人に聞いてみようと思ったのだ。何を考えているのか、あまり口にしないキンタローであるから、恐らく言葉少なに思ったことを口にして誤解が誤解を招いた結果が現状なのだろう。一体、外で何を口走っているのか、こうなってくると非常に気になるシンタローだ。
「───で、キンタロー。一体何を考えて、どんな台詞を口にして、そんな言葉をもらっちゃってんだ?」
熱いコーヒーを一口飲んでから、シンタローは切り出す。シンタローが煎れてくれたコーヒーに口をつけながら、キンタローはシンタローの言葉が指すところを考えた。
「考えていることは、これからのガンマ団のことだから、それに附随してお前のことを考えて……いや、お前のことを考えているから必然的にガンマ団のこれからのことを考えるのか…」
「キンタロー…前者と後者じゃ伝わる意味が全く異なってくんぞ…」
ガンマ団総帥を補佐する立場にいる者が、団の未来を常に頭に置いているのは納得がいく。そこから団のトップである総帥のことを考えに入れるのも解る。
だが、常に考えていることが総帥のこととなると意味が変わってくる。総帥が先に来てしまうと、それに附随するのはガンマ団でなく、シンタロー個人になってしまう。
常日頃シンタローのことを考えていると公言するのは、誰がどう考えてもまずいであろう。
「……お前さ…ヒト前で俺のこと考えてるなんて言わねぇ方がいいぞ…。総帥に着任してから二年経つのに、俺が頼りねぇからついつい考えちまうのは解るけど………ガンマ団のことを考えているぐらいにしておけ」
「お前のことを考えているのは事実なんだが…」
「誤解されんだよ、お前のその台詞は。いいから、全部ひっくるめてガンマ団にしておけ」
「───…よく解らないが、分かった。ガンマ団だな…」
キンタローは納得いっていない顔をしたが、深く追求はせずに、ひとまず頷く。
「そうそう───でも、お前、そんなにガンマ団のこと考えてんのか?…って、一番考えなきゃいけねぇのは俺だなんだけど…。悪ぃな…迷惑ばっかでさ…」
シンタロー自身、頑張っているつもりなのだが、改革を行って二年経つ今でも、団内は一向に落ち着かない。一つ問題を片付けると、待っていましたと言わんばかりに次の問題が勃発するのだ。総帥に着任したばかりの頃に比べればそれも減り、業務もスムーズにこなしているのだが、キンタローがここまで考えるというのは、やはり自分の力不足が一番の原因であろうとシンタローは思った。
理想と現実のギャップは想像以上にあり、あらゆる面で重くのし掛かってくる。
己がもっとしっかりして、ガンマ団をまとめ上げていけば、キンタローも自分に囚われることなく、もっと色々なことに意識が向くようになるのかもしれない。
一方キンタローは、シンタローの台詞に僅かに眉を顰め、沈黙を消すように口を開いた。
「お前は何も悪くないだろう。大体、改革など一人の力で出来るものではない。ガンマ団にいて、総帥であるお前についていこうと決めた者達が、お前に力を貸すのは当然のことだ」
いつもと変わらず涼しげな顔で、淡々とした口調で告げられた台詞だが、それは飾ることのないキンタローの素直な気持ちが述べられている。
シンタローはキンタローに向かって微笑を浮かべた。
こういう時、キンタローの台詞は非常に有り難いと思う。自分についてきてくれる仲間がいるということを改めて知り、頼る場所があるということを再認識させられる。
キンタローは微笑を浮かべているシンタローをジッと見つめ、今度は先程の台詞とは違って、言葉を探すように次の台詞を口にした。
「俺には……夢……いや、違うな…望み……───そういったものがあるんだ…」
キンタローの珍しい口調にシンタローは驚いて少し目を見開いた。誤解を受けるような言葉が多々あるキンタローであるが、それでも話をするときはハッキリした口調で言葉を発する。
シンタローは何を話し出すのかと思い、視線だけで先を促す。
「───…別に、他の誰に何と思われようと構わない……俺は……シンタロー、お前の傍にいたいんだ」
青の一族特有の青い瞳に真っ直ぐ見つめられながら告げられた台詞に、シンタローは心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
そんな様子のシンタローに気づかずに、キンタローは淡々と台詞の続きを口にする。
「俺が持っている能力を余すことなく最大限に使える場所を探すと、それはお前の隣りになる。俺は時間を一秒たりとも無駄にしたくない。全力で挑める場所にいたいと心底思っている───そう考えた結果が現状だ。総帥であるお前の周囲には、常に無理難題が降りかかる。それらをお前と共に解決して難題の山を崩していく達成感は、他では味わえないほど心地よい。この場所を俺は誰にも譲る気はない。この達成感と共にお前と突き進んでいった先に、何があるのか俺は見たい」
キンタローはそこで言葉を切り、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。ミルクのみ入れられたそれは、僅かな苦みをもって口の中に広がる。それからシンタローに視線を戻すと、少し複雑そうな表情を浮かべて、キンタローを見ていた。
キンタローは、こういった心の内を誰かに話すということが、今まで一度もなかったわけではない。それでも関係する本人を目の前にして話をしたのはこれが初めてである。話し終わったときの緊張感と拒絶されたらという不安と恐怖感は、種類は異なるが、戦場に立つのと同じくらい重くのし掛かってくる。
それでも話す気になったのは、珍しくシンタローが仕事や身内の話以外で、キンタローと話をしようとしてくれたことが純粋に嬉しかったからであった。
そして確信はないのだが、シンタローはキンタローを拒絶することはないだろうと思う気持ちがどこかにある。
案の定、シンタローは不快そうな顔をしていない。表情が硬いのは、返答に困っているからであろう。
そんなシンタローを見つめながら、キンタローは再び口を開いた。
「───…だから俺は、総合して仕事漬けの今でも、日常に満足している。従って、お前が言う『遊び』というものにも興味がわかない」
キンタローがそう言いきると、シンタローは苦笑を洩らしながら頷いた。
「……そーだよな…押しつけるつもりはなかったんだ…悪かった…」
そういうシンタローは、浮かべた苦笑に複雑そうな表情が混ざっているが、キンタローの台詞に対して否定はしなかった。
「ま、おれの余計なおせっかいだったな。仕事ばっかでさ、実質お前を拘束してんのは総帥である俺だから…偶にはそういうのも息抜きになるかなって思ったんだよ───何故かは聞くなよ。一般的に考えてってだけだから、俺も深く考えてはなかったし。まぁ、お前普段女っ気が無いから、何か面白い話でも聞けんじゃねぇかって考えなかったわけじゃねぇけど…っつーかそれが俺の楽しみのメインだったりもしたし…」
台詞の最後の方は戯けた口調である。それではどちらの息抜きか判らないではないか、と思ったキンタローだが、その台詞は飲み込んだ。考えてみれば、キンタローよりも仕事漬けの毎日を送っている代表人物は、目の前にいる黒髪の従兄弟である。
「ここの団員だって、オフの日には、繁華街に繰り出して、よろしくやってるわけだし…まぁそういったアレから軽い気持ちで勧めただけだ。必要ねぇなら、それはそれで構わねぇもんだしな」
シンタローはそう言って、もう一度「悪かった」とキンタローに謝った。
キンタローはシンタローの台詞から「こういった遊びが一般的に息抜きの一つになるものなのか」と思う。
キンタローには、いまいちそのあたりがよく判らなかったが、今回の件を覚えておこうと純粋に思う。シンタローが言うとおり、これも『勉強』である。それと同時に、ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
「シンタロー、お前もそうやって息抜きしているのか?」
大真面目な顔で質問してくるキンタローがおかしくて、シンタローは軽く笑みを浮かべながら答えを返した。
「今はやってねぇよ。立場が立場だしな。昔は───そりゃまぁ適当に……親父の目を盗むのが一番の難関だったけどそれなりに楽しくやってたな」
シンタローは過去を思い出して、一度や二度じゃない騒ぎに笑みを深くする。
父親のマジックが相手では単に遊びに行くのも一苦労だった。『ガンマ団総帥のご子息』ということで、シンタローが何をするにしても、常に危険がつきまとうのは確かなのだが、あの心配の仕方は常軌を遙かに逸していた。それどころか、どちらが犯罪か判らないラインまでいったことが数回ではない。当時はそんな父親が嫌で仕方なかったが、今となっては笑える一つの思い出である。
まだ、同じ体にいた頃であるから、話をすればキンタローも思い出すかもしれない。
そう思って、シンタローは笑いながらキンタローを見て───そこにある非常に恐い顔に固まった。
「………お前、顔が恐いぞ……」
不機嫌が露出したキンタローは、恐ろしい。この様な総帥補佐官は、とても一般団員に見せられたものではない。
「何故だか判らないが……非常に不愉快だ…」
見たままの心情を述べるキンタローに、「え?一体何に?」とシンタローは思う。どこにも不愉快になる要素が見当たらないのだ。
シンタローはこれ以上この話は止めようと口を閉じた。
キンタローは険しい顔をしながら何か考えている様子で、シンタローは何も言わず目の前の青年が落ち着くのを待った。しばらく険しい表情のままであったキンタローは、シンタローと目を合わすと、何かに気づいた素振りを見せ、その後直ぐに普通の状態に戻った。
『機嫌が露出している様って、見てると面白いな…』
シンタローはカップに残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干す。それからキンタローのカップも受け取り、それらを片付けると「部屋に戻るか」と言って立ち上がった。
シンタローは「先に戻ってていいぞ」と言ってもくっついてきたキンタローを連れて一度総帥室へ戻った。仕事を途中で放り出してきたものだから、机の上は散らかっているし電気もつけたままだ。シンタローは机の上をざっと片付けると、扉付近で待っているキンタローの元へ近寄った。
「そーいや、単なる興味で聞くけど、今日会ってきた人の外見ってどんな感じ?」
特に他意があるわけでもなく純粋な興味を持って聞くシンタローに、キンタローは率直に答えた。
「黒い大きな瞳と艶やかな長い漆黒の髪が印象的な女性だ」
シンタローはその台詞に思わず動作を止めた。そんなシンタローの心中知らずに、キンタローは言葉を続ける。
「お前ほどではないが、美しかったと思う」
「…………そう」
「背丈は…」
キンタローはそう言いかけて途中で止まり、シンタローをじっと見つめて僅かに逡巡した後、再び口を開いた。
「…そうだな、だいたい、一八〇弱だろうな…割と小さめだ」
十分デケェよ。
思わず乱暴に突っ込みそうになったシンタローは、何とかその言葉を飲み込んだ。一八〇弱といえば、グンマと同じくらいの身長かそれより高い。女性としては長身の部類にはいる。間違っても小さいとは言わないであろう。
それが『小さい』という表現になるキンタローは、そんなに巨体の女性達ばかりと接しているのだろうか。
一瞬そう思ったシンタローだが、そんなわけはない、と直ぐに思い直す。
「キンタロー…女性でそのくらい背丈があったら小さいとは言わねぇ」
「俺から見たら小さい」
「そりゃ…俺とオメェはデケェから大体の人はそう見えるかもしれねぇけど…」
呆れつつも何と言えばいいだろうかと考えるシンタローに、キンタローは正面から視線を合わせ、
「俺は話をする時、正面に顔がある方がいいんだ」
と言った。
シンタローが、もう何も言うまいと心に誓ったのは言うまでもなかろう。
二人肩を並べて黙ったまま歩いていたが、プライベートエリアに入ると、シンタローは何かに思い当たったらしく、おもむろにキンタローの顔を見る。当然、キンタローはその視線に気づいた。
「何だ?」
「んー…いや…んー…やっぱ何でもねぇ…」
「何でもないというような視線ではなかったぞ、今のは」
「気にすんな」
「気になる」
キンタローが立ち止まり、シンタローも仕方なく足を止めた。これはシンタローが答えるまでこの場から一歩も動かないであろう。
「いや、たんに、お前欲求不満になんねぇのかなぁって思っただけ」
「───…は?」
「だから何でもねぇって言ったじゃねぇかよ。んー…今現在、気になる人がいるわけじゃないんだよな?そっから色々と附随してくる『欲求』ってこれから味わうもんなのかなって思ってサ。考えてみれば生まれてまだ二年だもんな。これからだろ、ホラ、あれ。思春期ってやつ」
『今更来るか、そんなもの』
条件反射のように頭に浮かんだ言葉は、補佐官の口から発せられはしなかった。
シンタローはというと、実に楽しそうに何かを思い浮かべている様子である。頭の中で何を描いているのか、想像がつくだけに微塵も考えたくないキンタローだ。
シンタローにそんなことを言われたキンタローは、何がとは具体的に言えないが、色々と納得がいかないことを言われたような気がしてならない。そもそも、この世界に『キンタロー』として『誕生』したのが二年前であっても、実際の年齢は二十六歳なのだ。シンタローがいった「思春期」などがこれからきてたまるか、と思うのはキンタローだけではないはずだ。
そして、もう一つ。シンタローが言ったこの場合の『欲求』とは一体何をさしているのであろうか。少し考えてみたがキンタローにはサッパリ判らない。
「シンタロー…話があらぬ方向に飛んでいて、俺には理解しかねるのだが…」
「そーかぁ?」
「………。大体から、お前が言う欲求とは一体なんだ?」
キンタローがそう尋ねると、シンタローは先程と同じように楽しそうな表情を浮かべるとニヤリと笑った。
「そりゃぁまぁ色々とあるけどさ。そーだなぁ、お前レベルに合わせるとどんなもんかな……ある特定のコに対して求める欲だよ。例えば、もっと話したい、近づきたい、触れたい、とかさ。手を握ってドキドキ───キスしてぇとかは思うのかな。さすがにヤリてぇとかはまだねぇよな?」
最後はまじめな顔をして疑問形に終わったシンタローの台詞である。
キンタローは、そんなことを真剣に聞くなと思いながら何とも言えない表情でシンタローを見返した。やはりシンタローの台詞はいきなりあいだが抜けて飛躍しすぎる。
「ま、何にしても、そういったのってこれからだろ?お前もそういった悩みを抱えて悶々とするのかと思ってちょっと想像したら面白かったから…」
だから、そんなものを想像するな。
間髪入れずに突っ込みそうになったキンタローだ。一体シンタローの頭の中でキンタローという人物はどんなことになっているんだと別の意味で不安になってくる。
そんなキンタローに気づいたシンタローは、後ろを振り返り笑いながら「怒んなよ」と言う。
「ま、でも、お前のことだ。きっとそんな悩みとは無縁でいけんだろ。相手に拒絶されるとかなさそうだもんなぁ」
「…それはどうも」
キンタローの台詞はいたって冷たい。シンタローはそんなキンタローに笑みを洩らす。
「だから怒んなって」
そんなやりとりをしているうちにキンタローの部屋の前に着き、二人は立ち止まる。
「お前なら、相手を落とす気になれば、絶対にいけるから」
そう言いながら、楽しげに笑みを洩らすシンタローの目は優しい。その顔を見ていると、先程の小さな怒りなど簡単に消え去り、キンタローは己の心が温かくなってくるのを感じる。
キンタローは、シンタローを見ながら『そういえば…』と思う。
先程シンタローが挙げた例───もっと話したい、近づきたい、この二つに関しては、目の前の男に対してよく思うことである。二十四年間一つの体で過ごしてきたのが大きく影響しているのかは判らないが、シンタローはキンタローの心情をよく察してくれるのだ。それがあるため、他の者とは失敗をするような会話でもシンタローとは成り立つ。キンタローも、他の者の心情は判らないことが多いのだが、シンタローの心情だけは感覚的なものでよく判る。だからキンタローにとってシンタローは一番話しやすい人物であると共に、話をしていて一番楽しい人物でもあるのだ。それが例え仕事の話ばかりだとしても、である。
更に、一緒にいた期間が長すぎるため、憎悪と共に産声を上げ、殺意と共に切望した『体』を手に入れても、何処かに空虚感がつきまとい苦しんだ時期があった。その空虚感を埋めるために、シンタローを捕らえようと己がもてる感情全てをぶつけたのだが、それはキンタローを苦しめる空虚感を埋めてくれるであろう唯一の人物を永遠に失うことになるのだとある日知った。それからは、抱いていた殺意は消えたものの、一向に消える気配のない空虚感を何とかして消し去りたいと思い、それをシンタローに近づくことで埋めていった。それは僅かな距離を歩み寄っただけでも埋められていくのが感じられるもので、それからはシンタローにもっと近寄っていきたいと思うようになったのだ。
すると今度は疑問が残る。
もっと触れたい、と思ったことはあっただろうか───。
キンタローは目の前にいるシンタローをまじまじと見る。
シンタローは、よくキンタローの外見を褒めるのだが、彼自身もその場にいる者の目を奪うほど見栄えのする外見である。本人は嫌がるのだが、着飾れば恐らく誰と並んでも見劣りすることはないであろう、とキンタローは思う。そう思いはするが口にはしない。口にしても嫌がられるのが解っているからである。
シンタローは会話の途中で何か考えるように黙り込んだキンタローに付き合って、黙ったままその場に留まり、キンタローの様子をじっと見ている。
『触れる、か…』
キンタローは「触れたいから触れる」と意識をしてシンタローに手を伸ばしたことがあっただろうかと己の行動を振り返る。しかし、無意識下の行動など記憶に残っているはずもなく、直ぐに考えるのを止めた。これは自分で考えても判らないものだとキンタローは思う。
この時点で、キンタローは、シンタローが言ったことがあてはまるのはあくまで『恋愛対象』であるということに気づいていない。この場合、身内や友人同士のスキンシップは入らないのだ。
従兄弟同士、例え親しい仲であっても、触れるというのは別次元の話である。ましてや男同士の密着率など、女性のものに比べたら微々たるものだ。それを意識して行動を分析しようとしても無理がある。
それでもキンタローは、シンタローに対する己の行動を真面目に考えた。
さて。これはシンタローに聞いてみれば判るであろうか。
「シンタロー、俺は、お前によく触れるか?」
「………は?」
唐突なキンタローの質問に、当然シンタローは間抜けな声を上げる。
いきなり考え込む様子のキンタローを見ていたシンタローは、二人に分かれてからの付き合いで、多分この後突拍子もないことをいいだすんだろうな、と構えていた。だがしかし、構え方が甘かったようである。
「キンタロー…そりゃ、どういう意味だ」
ひとまず、台詞の意味を捉えようと聞き返す。
「そのままの意味だ。他に意味はない───触れるとはこういうことだろう」
キンタローはそういいながら、己の手でシンタローの頬に触れ、髪に触れる。キンタローの行動にシンタローは固まったのだが、この手を即座に振り払っていいものかと思わず躊躇った。マジックやアラシヤマが相手だったら触れる素振りの時点で眼魔砲の一発や二発をお見舞いするのだが、キンタローが相手ではそうもいかない。純粋に傷つけてしまうのではないかと考えてしまうのだ。その結果、シンタローはキンタローに対しての許容範囲が非常に大きくなっている。キンタローの行動におかしなものが含まれるのもこのためなのだが、シンタローは自分が原因となっているとは思ったこともない。
キンタローは触れた感触を楽しみながら、青い眼でじっとシンタローを見つめた。
「いつも思うんだが、お前の髪は綺麗だな。見たままの通り、触り心地も良い」
「……そりゃ、どーも」
真顔でそう言われて若干顔が赤くなったシンタローであるが、顔を逸らすタイミングが上手く掴めずその顔を正面からキンタローに見られる。いくら深夜で暗いといえども、当然のように廊下には明かりがついている。
「シンタロー、顔が赤い」
「………黙れ」
「こういうお前は可愛いな」
シンタローは目の前の二歳児を殴り倒さなかった自分の精神力を心底褒めたくなった。
『これは二歳児!子供だ子供!!子供なんだよっ!!』
勢いに任せて殴り倒しはしなかったものの、反射的に思い切り顔を逸らした。それによって、今まで触れていたキンタローの手が離れる。
そんなシンタローの行動をキンタローは深く追求はせず、手を下ろすと先程の質問を再び投げつけた。
「───…で、どうなんだ?俺はお前によく触れるのか?」
『知るかっ』
その台詞は心に留め、己を落ち着かせることにシンタローは努めた。
やっぱ総帥になって俺ってば忍耐力がついたよな、と現実逃避さながら自画自賛の嵐である。普段、親子喧嘩で派手に本部(主に総帥室)を破壊しまくっているとかいったことは綺麗に端へ追いやられている。
一呼吸置いてからキンタローに向き直ったシンタローだが、想像通りの涼しい顔がそこにある。質問の内容がおかしいとかいったことは一切気づいていない。日常の疑問を口にするのと同じような感覚で口にした言葉だというのがよく判る。
「そんなの意識したことねぇから判んねぇよ…」
シンタローの一言に「そうか」と頷くと、キンタローはまた考え込んだ。
『シンタローが判らないというなら仕方ないか…』
そう思いながら、今触れた感触がまだ手に残っているのをキンタローは感じた。
『だが…普段はどうだかは判らないが……今はもう一度、触れたい、と思う』
キンタローの青い双眸が再びシンタローを捕らえた。その眼に見つめられたシンタローは背筋が粟立つのと同時に何故か身に危険を感じる。キンタローが向けた碧眼は、鋭い輝きを放ち目の前の獲物───シンタローを確実に捕らえている。見慣れた青い眼は冷たく映るのに、今向けられている視線からは熱を感じる。
『そういえば今日はシンタローに散々からかわれたような気がするから……少しくらい仕返しをしてもいいだろう…』
キンタローの不穏な心の動きを察知したのか、シンタローは半ば逃げ腰で目の前の危険人物から離れようとした。
だがそれよりもはやくキンタローが獲物を捕まえる。
シンタローが逃げるよりも速く己の部屋に引き込み、逃げられないように壁に押しつけた。
先程よりも至近距離にキンタローを感じ、シンタローの頭の中は真っ白になる。
「オイ…ッキンタロー!お前何考えて…」
パニックを起こしたシンタローの動きは荒い。普段、戦場に立ったときのような切れや鋭さが全くない。更に、これだけ密着した状態では身動きをとろうにも自由に動けない。
勿論、キンタローはそれを見越して体を密着させているわけである。相手は野生の獣と言っても過言でない総帥だ。
シンタローは総帥に着任してから、場に合わせて格好をつけたり、その場を穏やかにやり過ごすため上手くとりつくろうことをスキルとして身に付けてはいる。
だがそれは、公の場に限ったことで、この獣に隙を見せたら逃げられるだけでは済まず、確実に攻撃に転じてくる。その攻撃が生半可なものではないことは誰しもが知るところだ。実際、邪な感情を抱いて不穏な動きをとり、返り討ち以上の酷い報復を受けた者をキンタローは間近で見てきている。その数は両手では足りないほどだ。
キンタローはそんなシンタローを壁で背後の逃げ道を封じて器用に押さえ込む。
「シンタロー…お前は先程、俺なら「落とす気になれば、絶対落ちる」と言ったな?」
「言ったけど!何の関係があんだよッ」
「お前で試してみようと思ってな」
「はっ?!ちょ…待っ…」
絶句したシンタローに、キンタローは淡々と告げる。
「お前が挙げた例があっただろう───シンタロー、お前に対して何度も感じたことがあるものだ」
「はいぃ?!」
そんな話は聞いたことがない、と当たり前のことを頭の中で叫びながら、シンタローは完全にパニック状態である。冷静な頭であれば、キンタローが感じたものの程度を聞くことができ、言い諭しながら逃げ道の確保が出来たであろうが、今の状況で冷静さを保つのはどう考えても無理である。
「お前!それは違うだろ!!感情を抱く相手が!!」
「何故違うと言いきれる?」
キンタローの声は普段話をするときよりも低く響いて、シンタローの鼓膜を震わせた。吐息が頬をくすぐり、シンタローは己の頬が赤くなるのを感じる。先程の廊下と違ってこの部屋の明かりは消えたままなのが救いだ。
「何故って…」
そういうシンタローの声は上擦り、そんな様子にキンタローが低く笑う。
「お前、楽しんでんなっ」
「当たり前だ。せっかくだから、絶対と言ったお前の言葉が本当かどうか試させてもらおうか」
「他のヤツで試せッ」
声を荒立てたシンタローだが、自分でも迫力に欠けると思うような声である。
完全に優勢であるキンタローは、腕の中にいる獲物の耳元に唇を寄せ、低い声で「キスをしても良いか」と囁き、唇が触れるか触れないかの距離で止まる。
キンタローの顔で視界が埋め尽くされたシンタローは、表情の全てが見えないほどの距離に焦ったが、目の前にある青い双眸は意地悪く光っているように見え、これは絶対にからかっているのだと捉えた。
シンタローは負けじと目の前の碧眼を黒い眼で睨み返し、
「男相手に出来るものならしてみやがれッ」
と、強気にそう言った。
シンタローが己の勝利を確信した瞬間、その唇は目の前の男に塞がれた。
噛みつくような荒い口付けで完全にフリーズしたシンタローが再起動した時には、それは優しく深いものかわっており、完全に捕獲された獲物から甘い吐息が洩れる頃には、キンタローの腕がしっかりとシンタローの腰を抱きシンタローは崩れ落ちそうになる自分の体を留まらせるのにキンタローにしがみつくような状態だったとか。
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