+ 対 話 +
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風に揺らされる木の葉のざわめきが、得体の知れない不安を煽るように響いた。
時折吹く少し暖かな風は、普段ならば心地よく感じられるはずなのに、今はその生温さがまとわりつくようで鬱陶しい。空が今にも泣き出しそうなほど曇っているためか、その風が少し不気味にも感じられた。
ガンマ団本部の屋上には、恐ろしく緊迫した雰囲気が漂っている。この場所だけ急激に温度が下がったかように凍てついた空気にも似たものが、刺すように流れていた。
建物内から屋上へ出る扉には「立入禁止」の札がぶら下がっているため、普段ならばここへ来るものは皆無と言っていい。だが、今この場には二人の青年がいる。
どちらも百九十を越える長身で、無駄な肉の一切を削ぎ落としたかのように引き締まった強靱な体躯を誇っている。どちらも見る者の目を引くには十分な程存在感溢れる青年で、並んでもお互いに引けを取らない。
同じだけ大きな身長と体格、異なっているのは身に付けているもの、そして髪と眼の色だった。
片方は美しい金糸の髪に涼しげな青い眼を持つ。
もう一方は、艶やかな長い漆黒の髪と、それと同様に黒い眼をしていた。
二人の青年は黙ったまま正面に立った相手を殺気立って睨み付けている。
その気迫はこの上ないほど凄まじいもので、この場の空気がまるで電気帯びたようにピリピリしていた。
普通の人間が今の二人を見たら、本能に従って即座に逃げ出していることだろう。二人を良く知るガンマ団の団員達も絶対に近寄りたくはないはずだ。
二人にとって目の前にいる者は、ただ対峙しているだけで気力も体力もすり減らす特別な存在だった。
少しでも気を抜こうものなら簡単に噛みつかれてしまう。
そのまま食いちぎられて地に沈む己の姿が容易に想像できた。
それでも、双方剣呑な眼つきで睨み付け、物騒な雰囲気を纏ったまま一歩も引く様子がない。
どちらが先に動くのか、どの様に仕掛けてくるのか。
一瞬の迷いは敗北に繋がる。
吹き往く風だけが、二人の間を幾度となくすり抜けていった。
金糸の髪を揺らし、漆黒の髪を靡かせる。
かなり長い時間睨み合いは続いて、ようやく先に動いたのは漆黒の髪を持つ青年であった。
黒髪の青年は、風に乗ったかのようにふわりと飛び上がる。
翼を持つ生き物のように、鋭くも軽快な動作で一気に距離を詰めた。
そして、空を斬る音と共に突き出された拳はとても重く、一撃でも当たろうものならそれだけで即座に昏倒するだろう。繰り出される攻撃は勢いを増してどんどん激しくなっていくのだが、金髪の青年は何とか紙一重の所でそれらを見事に躱していった。
容赦なく繰り出される攻撃が拳だけでなく踵も飛んでくると、それを避けたタイミングで金髪の青年が反撃に出る。黒髪の青年の足を素早く払った。そして倒れる体に狙い違わず強烈な一撃を加えようとしたのだが、その前に相手が地面に手をつき一回転して体勢を整える。こちらも鋭く突き出された拳は大きな音を立てて空を斬った。
だがそれだけでは終わらずに、今度は金髪の青年が容赦ない攻撃を仕掛けていく。
チャンスがあれば攻撃に転じていかないとやられるのは己になるのだ。
それが誇張したものではなく厳然たる事実であることを二人は判っていたため、どちらも譲るような真似はせずに攻防を繰り広げていった。
そんな中、先に攻撃をヒットさせたのは金髪の青年だ。
手足を使った連続技で何とか黒髪の青年を追い詰めると、腹に一撃加える。
「…グ…ッ」
その強烈な一撃を食らって青年は倒れるかと思ったのだが、その手を掴んで相手を捕まえると一発殴りつけた。
横合いから顔面に一撃食らわせる。
「………ッ」
金髪の青年の唇に血が滲んだ。
黒髪の青年は更に蹴り上げようとしたのだが、次の攻撃は見事に避けられた。
隙は絶対に逃がすまいとお互いに鋭い視線を投げ付け、激しい火花が散るような睨み合いが始まる。
だがそれは短い時間だった。
今度は二人同時に動き出す。
突き出された拳は寸前の所で躱し、敏捷な動きで蹴りも避ける。
ずしりと重い攻撃は当たれば相手に強烈なダメージを与えられるはずなのに、どちらも次の攻撃が相手に命中しない。手加減のない攻撃を何度も仕掛けていくのだが、それを簡単に食らってくれるような相手ではなかった。
次で獲れると思っても寸でのところで逃げられ、距離をあけたかと思えば追い詰められてしまうのだ。
二人は言葉を交わすことなく、ただ相手を追い詰めることだけに全神経を使って一進一退を繰り返す。
相手の動きや空気の流れを瞬時に感じ取り、余所見などしている暇も与えずに、ただ目の前に対峙している己の半身だけを追いかけていった。
風を切る音が何度も続き、それに時折鈍い音が混じり、長いこと二人は屋上で暴れ回った。
それでも勝負の行方は一向に見えてこない。
体力は激しい勢いで消耗していき、揃って肩で息をする。それでも決して相手に向かうことは止めない。
二人はまた同じように幾度となく衝突を繰り返し、屋上に響く激しい音は鳴り止む気配を見せなかった。
「二人とも何やってんのーッ!!」
如何にして相手を沈めてやろうかと二人が剣呑な目つきで睨み合っているところで、一際高い声が耳を塞ぎたくなるほど大きく響いた。
瞬間、その場の空気がガラリと変わって、今まであった緊迫した雰囲気が一気に消え失せた。
二人は揃って声がした方を向く。
屋上への入り口付近に、金髪の長い髪を一本にまとめた従兄弟が、拡声器を片手に握りしめ呆れた顔をしながら二人を睨んでいた。
「グンマ?」
今まで二人の青年の身を包んでいた物騒な雰囲気がなくなり、黒と青の眼がきょとんとしながら、突然現れた従兄弟を見つめた。
「もうー…シンちゃんもキンちゃんも何でこんなところで暴れてるの?」
グンマは呆れ果てた様子で二人の傍まで歩み寄る。
「いやぁー…何でって…なぁ?キンタロー」
傷だらけになりながらも、シンタローはケロリとした様子でキンタローにめくばせした。
「…色々とあるんだ」
キンタローはその黒い眼に視線を返しながらシンタローの傍に歩み寄る。
大きな従兄弟二人が並ぶと、グンマはその前に仁王立ちをして説教を始めた。
「色々じゃないでしょッ!二人が暴れ出すと僕の所に苦情がくるんだから止めてよねッ!!もう…周りの人達が可哀想だよッ!大体から、何でいつも真っ先に手が出るのッ?!」
「んなの、昔からじゃねーか」
「シンちゃんはね」
「俺もだ」
「ちょっとキンちゃんッ!!何シンちゃんみたいなコト言ってるのッ!!」
小柄な従兄弟にキャンキャン吠えられて、大きな二人は肩を竦めた。
「僕たちには“言葉”ってものがあるでしょッ!!どうして普通に話し合いとか出来ないの、二人はッ」
「あー?立派な話し合いだろ、コレも」
「そうだぞ、グンマ」
「もうーッそうじゃないでしょーッ!!」
微塵も反省している様子がない二人にグンマがまたもや大きな声で怒る。
それに対して二人は瞬間的にはばつの悪そうな顔をしたものの、次いで視線を合わせフッと笑みを浮かべると、示し合わせたかのようにその場から走り出した。
「オラッ逃げンぞ、キンタローッ」
シンタローに楽しそうな声で呼ばれたキンタローが素直に応じて走っていくとグンマは慌てて二人の後に続く。
「あ、ちょっと、まだ話は終わってないんだからッ二人ともーッ待ってよォ~っ」
飛び降りるように屋上から階段を駆け下り、仲良く逃亡を図った二人の従兄弟を、グンマは必死になって追いかけていった。
自分が追いかけたのでは二人の従兄弟を捕まえることが出来ないと思ったグンマが、丁度本部にいた身内という名の青の一族を使って二人を捕まえ、再度説教を始めるのはこれから少し後のこと───。
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(Before...「EITHER YOU OR I」)[BACK]
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+ 触 浸 +
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まさか、本当にやってくるとは思わなかった。いや、だって、思わねぇーだろ。
部屋に引き込まれて壁に押し付けられた瞬間、ヤバイ、とは思った。
キンタローは普段から飄々としたヤツで、あんまり感情が顕わになったりしねぇーんだけど、時々アイツの青い眼はその時の心情を物語っているときがある。
だから、今回もそうだと思った。意地の悪い光が見えたから、ゼッテェからかってんだコイツと思って、負けじと挑発してやった。そう出ればさすがのキンタローも後込みすると思ったからだ。オメェはまだまだ甘いなって笑ってやるつもりだった。
だけど、俺は今、何されてる?
まさか、コイツが本当にキスしてきやがるとは思わなかった。重ねられたキンタローの唇を感じた瞬間、完全に時が止まった。
いくら冗談でも、普通なら出来ねぇーだろ?男相手に。
そんな言葉が頭の中に浮かんだけど、それ以上何も考えられなかった。コイツの行動で度肝抜かれたことの方が大きかった。
キンタローのことだから、きっとまた何かを勘違いして曲がった方向に行ったんだと考えて、思考回路に再起動がかかったところで、俺は逃れようと身を捩った。
なのにコイツは俺を離そうとしない。キンタローの胸を押したら、強い力で抱き締められた。
なぁ、違うだろ、キンタロー。
引き返せる内に戻れよ。
今なら、まだ、ギリギリ冗談の範囲で考えてやるから。
キンタローが戻れないのなら、俺が引き戻すつもりで、密着した体から離れることに努めると隙をつかれて舌を入れられた。これは冗談なんかじゃねぇと俺は狼狽えて、何も考えずに逃げようとしたけど、それがキンタローを煽ったのか執拗に舌を絡められた。
まだまだ世間知らずのお子様だと思ってた。
こういうことには興味を示さないストイックなやつだと思い込んでた。
でも、俺は知っていたはずだ。
クールに見えても心の内側に熱い感情を秘めていることや、感じたものをストレートにぶつけてくることを。
キンタロー、お前、今、何を感じてんだよ?
今まで微塵もそんな素振りを見せたことはなかったのに、今のキンタローが俺を求めているのは明かで、コイツが感じたものを素直にぶつけてくると俺も衝撃を受けて流されていきそうになる。
ただの口付けだとは思えないほど情熱的で、とても無視なんか出来ないくらい甘く激しく絡みついてきて、俺はキンタローに酔わされていった。体が快楽の刺激を受けて熱くなっていく。感じさせられている場合じゃねぇーのに、コイツが与えてくる刺激は抗い難くて、理性なんてものは簡単に吹き飛ばされていく。
俺は自分がキンタローを拒むことが出来ないということを、初めて知った。
苦しい、キンタロー。
酸欠でクラクラしてるのか、それともコイツに酔ってクラクラしてるのか、判らないけど確実に受け入れてる。でも感情が追いつかなくて、俺はいつの間にか苦しさの余り必死になって耐えるようにコイツの上着を握りしめていた。
キンタローが一度唇を離してくれると、俺はやっとの思いで呼吸をする。快楽で目に涙が浮かんでいることに気付くと間近でそれを見られるのが嫌で、少し俯いたままただ息を吸い込んだ。今ここにある雰囲気に惑わされてキンタローの腕の中から動けない。
きっと、頭が上手く働かないのは酸素が足りてねぇからだ。
そんな言い訳を考えたけど、俺はキンタローの顔を見ることが出来なくて俯いたままでいた。
そしたら名前を呼ぶもんだから、仕方なく顔を上げる。
「シンタロー…」
そんな声で俺を呼ぶんじゃねぇ…。
聞き慣れたはずの声なのに、名前を呼ばれるなんて珍しいことじゃないのに、ゾクリと感じる。
また壁に体を押し付けられた。更にキンタローは自分の体を押し付けるようにくっつけてきて、俺は逃げる気すら起こせずに、いとも簡単に再度口付けられていた。
触れられたところから、何かがわき起こりそれに浸っていく。俺は陶然となって、足元から崩れていった。
ダメだ、引き戻せ。
判っているはずなのにキンタローを押し返すことが出来なくて、でも引き寄せることなんてもっと出来なくて、ただぶつけられる感情が起こす荒波の中に不安定な状態で立ちすくむしか出来なかった。
だけどコイツがそんな生易しい状態で放ってくれるはずもなく、腰を抱かれてその手にまさぐられると、迷いながらももう降参するしかなかった。
どうにも立ってらんなくて、俺は参ったと思いながらその場に崩れ落ちていった。
留まろうとした努力なんて泡のように消えていった。
壁に背中を預けたまま重力に身を任せて落ちていくことで俺はキンタローの腕から逃れる。格好悪ィとか降参なんてしゃくだなんて思いながらも、もう他に方法がなかった。
でも、甘かった。
キンタローは膝をついて俺の傍に屈むと体勢が崩れたままの俺に被さるようにして尚も求めてくる。
キンタローが自分を押さえられなくなっているのが伝わってきたけど、そんなことよりも完全に退路を断たれた俺はここからどうすればいいのかが判らない。
手繰り寄せた理性には混乱の糸が絡みつき、沸き起こる快感に少しずつ浸っていく。
よせ、キンタロー。
そう思ったのに、もう俺は、キンタローしか感じられなかった。
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(FROM...「Deep Kiss」)[BACK]
+ 接 触 +
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シンタローは挑発すれば必ず乗ってくる。俺はそう考えて、計算通りに仕掛けた。
普段、シンタローは俺のことをからかってくることが多い。だから少しだけ仕返しをするつもりで、仕事後の別れ際に、部屋の中へ引きずり込んで口付けた。
軽く触れて終わりにするつもりだったのが、シンタローが思いの外、挑戦的な反応を示したので、最初の接触から勢いづいたものになってしまった。それでも俺の行動を予測していなかったシンタローが明らかに腕の中で固まったのを感じると、してやったりと思い、そこで満足───するはずだった。
重ねていた唇を俺が離そうとするよりも先に、我に返ったシンタローが胸を押して離れようとした。だが俺はそこで急に離れ難くなり、腕に力を込めて引き留めるように強く抱き締めた。
俺はシンタローを捕らえているこの状態に興奮を覚えたのかもしれない。
味わったことのない感覚が、少しずつ覚醒していくのが判った。
目覚める感覚なのに、だんだん思考が鈍くなっていく。
結局、相手を簡単に解放することが出来なくなり、俺は重ねただけの唇では物足りなくなってきた。
軽く身を捩ったくらいでは俺の腕から逃れることが出来るはずもなく、シンタローが俺の腕から逃れることに意識を集中させるとその隙をついて更に深い関わりを求める。
「…ァ……ッ」
俺の舌が入り込むと度を失ったシンタローの体がビクリと跳ねた。
だが俺はそれに構わず、逃げる舌を追い詰めていく。
極上の獲物を仕留める寸前にある悦楽のような感覚に俺も酔わされて、行き場を失った舌を絡め取り、嬲り、ゆっくりと口腔を犯していた。相手がシンタローだということが、俺をよりいっそう高揚とした気持ちにさせてくれた。名前が判らない心地よい感覚に酔いしれていく。
拒むように俺の胸を押していたシンタローの手が、いつのまにか俺の上着を握りしめていて、それに愉悦するような感覚が心を支配していき、俺の中にある何かを呼び起こそうとする。
俺が良い気分になって唇を味わっていると、シンタローが苦しそうに眉根を寄せていることに気付く。仕方なく解放してやると、シンタローは少し俯いて酸素を取り込む。俺の支えがないと立っていることがままならないのか腕の中から逃げようとはしなかった。伏せられた目元が快楽に潤んでいるのは明かで、その艶に焦がれた俺は、結局束の間の解放しか出来なかった。
「シンタロー…」
低い声で名前を呼び、僅かに俯いていた顔を上に向けさせると、衝動的に体を押し付け狂おしいほど口付ける。
「……ンッ」
体に熱が篭もっていき、だがその解放の仕方が判らずに、俺はただシンタローを感じたくて、止め処なく沸き上がる激情の渦にのまれていった。
シンタローが欲しい。
そうだ、俺はシンタローを欲している。
今のままでは物足りない。
もっと、もっとシンタローを感じたい。
壁に背を預けて俺を受け止めていたシンタローは、それだけでは支えにならないようで縋り付くように腕を伸ばしてくる。その姿に名前の判らない感情を感じて、俺は崩れ落ちていきそうになる体を腕で抱き留めるられるように腰に手を回した。そのままもどかしさに手を動かすと、シンタローの膝がガクリと折れる。体の重みが腕に加わり、シンタローも必死に体勢を留めようと手を伸ばしてきたのだが、俺も体を支えきれなくてずるずるとその場に崩れ落ちていった。
俺はそれでもシンタローを離すことが出来なかった。
お前が欲しい、シンタロー。
そばに膝を突いて覆い被さるように唇を重ねたまま、これ以上進むことが出来ない苛立ちとともに俺を支配している感情を伝えようと懸命になる。
シンタローとの接触で体に走った電撃が、まだどこかで眠っていた回路を起動させたのか。
今まで感じたことのない何かを感じながら、その意味も判らずに、俺はただシンタローを求めた。
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(FROM...「Deep Kiss」)[BACK]
+ 虜 +
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優しい、穏やか、慈しむ、懐かしむ───笑顔。
先程シンタローが浮かべた微笑は、一体どれにあてはまるのだろうか───。
グンマに言われたとおり、過去が気にならないわけではない。
過去どころか今現在だって俺は気になる。
今の表情は誰を想ってのものだったのか。
何を想ったときにお前がそんな顔をするのか。
自分以外のものを思うときの彼の優しさを感じる瞬間は好きだが、それと同じくらい憤りを感じてしまう。
ただの嫉妬だと判っていても、感情がコントロール出来ない時もあるんだ。
「お前だよ、キンタロー」
頭の中であらぬ考え事をしながらも今日の業務をきっちりと終えた俺は、笑いを堪えたシンタローの声で我に返る。いやに近くで彼の声がすると思ったら、いつの間にか腕でしっかり捕まえていた。
あまりの至近距離に俺が驚きながら慌てて離すと、シンタローは堪えきれずに吹き出した。
グンマが来てから業務が脱線してしまい、結局日付が変わっても総帥室で仕事をしていた俺とシンタローは、予定から一時間遅れでやっと仕事を切り上げることが出来た。
そして総帥室から出ていこうというときに、俺は無意識の内にシンタローの腕を掴んでいたようだ。
「お前、俺の腕掴みながら難しい顔してずっと固まってるし、何事かと思ったんだけど……ビンゴだろ?」
シンタローは目元に笑みを湛えながら、俺が考えていたことなどお見通しだと言わんばかりの得意げな表情を浮かべている。
「ビンゴと言われても…」
「誤魔化すなよ。どーせ、さっきのグンマの話が気になってんだろ?」
俺は誤魔化したつもりなどなかったが、楽しそうな声でそういうシンタローから視線を逸らした。
指摘は正しい。
お前の口から聞きたくないのに、その心の中は気になる。
と、そこまで考えてから俺はもう一度シンタローを見た。
「お前……さっき俺と言ったか…ッ?!」
少し声を荒立てて問い返すと、シンタローは声を上げて笑い出した。
何がおかしかったのか俺には判らなかったが、笑ったままのシンタローにむっとして、先程離した彼の腕をもう一度掴んだ。俺の問いに答えろと眼で訴えながらじっと見つめていると、笑いながら姿勢を崩していたシンタローは、俺の視線に気付き顔を上げてこちらの方を向く。目にうっすら涙を浮かべながら尚もおかしそうにしていた。
「何がおかしい?」
「お前…反応…遅ェーよ」
笑いながら途切れ途切れに台詞を言うと、シンタローは直前までの笑みとは打って変わって柔らかな笑顔を浮かべて、空いているもう片方の手で俺の頭を撫でた。
「本当、時々可愛い反応すんよな、キンタローって」
俺の反応のどこが可愛いんだと反論しようとしたが、目の前にあるシンタローの笑顔にのまれた。
俺はいつだってシンタローの豊かな表情には敵わない。
ひとを射抜くような鋭い視線を向けてくる闇色の眼が、何故こんなにも暖かさを感じるものに変わるのだろう。
いつもの難しい顔が、どうしてこんなにも見惚れるような笑顔に変わるのだろう。
俺はしばらくの間、目の前の笑顔を見つめながら大人しく頭を撫でられていたのだが、あまりにも長く見つめすぎたのか、シンタローが視線を少し泳がせて離れていった。それに合わせて、俺も、再度掴んだ手を離した。
視線だけは逸らさず、俺は青い眼にシンタローの姿を映し続けていると、彼は少し離れた位置からこちらを向き照れたような笑みを浮かべた。
そういうお前の方が可愛い反応をしていると、俺は思うんだが…───。
「あー…まぁ、そういうわけだ」
「…どういうわけだ?」
「だから、お前ってのは本当って話だよ」
だからと言われても直前の話とは繋がっていなかったのだが、俺が突っ込むべきところはそこではなかった。
「俺には身に覚えがない」
素直な感想をはっきり述べると、シンタローは悪戯な笑みを浮かべた。
「キスの?」
「それはたっぷり身に覚えがある。俺が言いたいのはそこではない」
俺の台詞に、またシンタローは笑った。
自分の行動を振り返り、それを一言で表せば、穏やかとは無縁だと言い切ることが出来る。
俺は感情を抑えられずに口付けることが多いから、シンタローが浮かべた表情を思うと、相手が俺だとは到底思えなかった。
「シンタロー…ふざけている場合ではない。お前にとってはただの記憶の一片かもしれないが、俺にとってはそうではないかもしれないんだ。いいか、お前は軽い気持ちで浮かべただけの記憶かもしれないが、俺にとってお前との記憶は…」
「軽い気持ちじゃねーって」
俺の台詞を遮るように口を挟んだシンタローに、俺はドキリとした。
彼は口元に笑みを浮かべたままであったが、俺に向けた視線には今までとは違う何かが込められている。
「…シンタロー?」
その視線の意味を知りたくて、俺は名前を呼ぶことで問いかけた。
だがシンタローは無言のまま俺から視線を外すと、くるりと背を向けて窓越しに外を見る。
それから少しだけ、沈黙が流れた。
お前は、今、何を思う?
俺はシンタローの背中に流れ落ちる漆黒の髪を見つめながら、次の言葉を待った。
「良い天気だな」
「真夜中だぞ」
「天気に昼夜は関係ねーだろ。晴れてンと月かと星が綺麗に見えンだよ」
「月とか星?」
「そうそう。だから…───偶には月夜のデートとかどーよ?」
そんな誘いを俺が断るわけもなく、頷くことで了承すると、シンタローがまた笑った。
そして直ぐに二人揃って、今日の用は済んだ総帥室を後にした。
シンタローに続いて建物から外へ出ると、先程彼が言ったとおり、真っ黒に染まった空には丸い大きな月が浮かんでいた。はっきりとした黄色が印象的な月だった。頭上から放たれる光は優しく感じる。深夜一時過ぎの外は真っ暗だと思っていたのだが、月の光は想像以上に明るい。
総帥室を出てから一言も言葉を交わすことなく敷地内をかなりの距離歩くと、植物が鬱蒼と群をなしている場所に辿り着く。
ガンマ団本部敷地内のいくつかの場所には、こうやって人工的に植えられた植物があったな、と思いながら闇に沈んだ緑に眼を向けていると、シンタローが立ち止まった。
ふっと天を仰ぎ、降り注ぐ月明かりを浴びると、夜闇の中でも彼の表情がはっきりと浮かび上がる。
描かれた光と闇のコントラストに俺の胸は締め付けられた。
その顔に浮かんだ穏やかで優しい表情を見て切なくなった。
今、お前は誰を想っているのだろうな、シンタロー。
シンタローが想いをはせる誰かを考えると、俺の心は締め上げられるように苦しくなった。
どんなときでも自分だけを想ってほしいというのは、俺の我が儘だ。
俺は、何故こんなにも欲深いのだろう。それが、ひとの性というものなのだろうか。
傍にいれば、触れたくなる。
触れてしまうと、欲しくなる。
願いが一つ叶えば、そこからまた一つ願いが産み落とされていくという、抜け出すことが出来ないループ。
はじめは、近付くことが、ただ楽しかったんだ。
俺の傍にいてくれるシンタローの気持ちを疑ったこともない。
だが。
何かが苦しい。
感情は理屈でないと判っているはずなのだが、好きだという気持ちも膨れ上がると辛くなる一方だ。
俺はだんだん自分の感情を抑えることが出来なくなり、シンタローの傍に一歩近寄った。自分に意識を向けたくて、何かを掴み取るように手を伸ばす。
「お前、覚えてねぇ?ココ」
目の前の体を引き寄せて力任せに抱き締める前に、シンタローが俺を振り返った。
またやってしまうところだったと、シンタローに関して理性がきかない自分を少しだけ呪った。
「…ここ?」
会話をするには少し近い距離にいる俺に対して、シンタローは何も言わなかった。
気付いているのだろうな、お前は。
「そ。俺が腐ってた時なんだけど…」
「……覚えていない」
「やっぱなぁー…」
シンタローはまた柔らかな笑みを浮かべる。
笑み、と一言で表せばそれだけで終わってしまうのだが、シンタローが浮かべるものは種類が豊かだ。
だから直ぐに俺の意識はシンタローが浮かべる表情に奪われた。
「さっき、ここでのことを思い出してたんだ」
「……ここで何かあったのか?」
「お前が恐ェ顔しながらずっと拘ってるから、話の種に連れてきてやったんじゃねーか」
少し乱暴な言い種だが、笑みを含んだシンタローの言葉は優しく響いた。
「俺が総帥になってまだ日が浅い頃の話だから、もちろんお前との関係も今みてぇーなのじゃなかったけどな」
言葉を続けるシンタローの雰囲気が暖かくて、彼の優しさに触れるたび、俺の中の幼い感情は宥められ、また荒立てられる。穏やかな気持ちと荒々しい感情が混在して、心が締め上げられるように苦しくなっていく。
「どーした?キンタロー」
苦しくて、シンタローの言葉を聞きながらも俺が目を閉じると、お互いに手を伸ばせば触れられる距離にいたため、シンタローが優しく俺の髪を梳いてくれた。
お前はそうやって俺に穏やかな感情を向けてくれるのに、俺はなかなかお前に対して冷静になれない。
触れる指が心地よくて目を閉じたまま、俺は小さな声で返事をする。
「何でもない…」
「そーか?」
シンタローはそれ以上特に何も言わず、そのまま何度か俺の髪を梳くと手を離した。
シンタローが好きだ。
俺はそう思いながら、一呼吸置いて目を開く。
そして、心の中とは違う、会話の中で疑問に思ったことを口にした。
「俺と今のような関係ではなかったのに、俺達はキスをしたのか?」
「お前がココにくれたんだよ」
シンタローの台詞にどこかと思えば、その指は額を指していた。
「まぁ、それだけが印象強かったってわけじゃねーんだけどな。そん時にくれた一言と一緒に覚えてンだ。痛いところ突かれたし………覚えてねぇ?」
シンタローの額への口付け。
覚えていないかと問われて、俺は記憶の糸を手繰り寄せようとして、案外あっさりその記憶に辿り着いた。
眼を閉じて横になっていたシンタローに一つ口付けを落とした。
「あれは………ここだったのか?」
俺が周囲を見回しながら呟いた言葉にシンタローは少し呆れた顔をした。
「何で全然場所を覚えてねぇーんだよ…」
「俺はお前だけを追いかけているから、周りの記憶が残らないときがある」
「何だよ、それ。じゃぁ、どーやっていつも俺ンとこに来てンだよ?」
「判らない。でも俺はお前の所には行ける」
「ったく、訳判ンねーぞ、キンタロー」
そういうシンタローの声は楽しそうだった。
「まぁ、とにかく、あの時はお前に救われたから…」
シンタローが続けた台詞に俺は首を横に振った。
「買い被りすぎだ…」
記憶の破片を一つ見つけたら、残りを思い出すのは簡単だった。
あの時のシンタローを一人にしたくなかったというよりも、お前を見ている俺が言いようのない不安に駆られて傍から離れたくなかった。
見つけたお前は目を閉じても尚、辛そうに、苦しそうに、眉を顰めていたから、それが和らぐことを願いながら口付けた。だが途中から、頭の中を占領しているものと自分をすり替えられたらいいのにと思っていた。
ガンマ団はお前だけのものじゃない───こんな巨大な組織の何もかもを一人で背負うなと心底思いながらも、傍に俺が居るのに、お前の眼に映らないのが嫌で思わずこぼれ落ちた言葉だ。
全てが、俺のためなんだ。
「そーかな?でもあの時の俺はお前に助けられたのも事実だぞ」
「お前のためというよりも俺のためだぞ。全然、優しくない…」
俺がそう吐き出したら、シンタローは宥めるような微笑を向ける。
「いーんだよ。原動力なんてそんなもんだろ?全部他人のためだなんて、動く方が辛くなんだから。結果として相手が救われてりゃ万事オッケーだと思う。難しく考えなんよ」
シンタローは言葉を続けながらゆっくりと足を動かし、近くに植えられていた木に背を預けた。自然光を避けた彼の表情が判らなくなる。
「でも、お前にぐらいは優しくありたい…」
「そう思ってくれるだけで十分だよ、キンタロー」
言葉だけが優しく響いた。
暗闇に紛れてしまったシンタローの顔が見えなくて、俺は傍へ寄ろうとしたのだが制止された。
「そこにいろよ」
「何故だ?」
「キレイだから」
「……………?」
シンタローの台詞の意味が判らず、だが俺は言われたとおりにその場から動かなかった。
彼の眼が俺を映していることが判ったから、何となく動くことが出来なくなったのだ。
「こんな機械ばっかのとこでも、少し自然を感じられると見えるものが違ってくるよな。お前の金髪が月明かりを反射してキラキラしてる。肌も白いから闇の中に何か浮かび上がるようで、ちょっと幻想的」
「それは男が貰っても嬉しい賛辞じゃない」
「でも褒めてんだから有り難く受け取っておけよ」
楽しそうに言葉を口にするシンタローに、同じ台詞を返そうとした。
先刻この場所に二人で来たとき、月光下のお前が俺の眼にはどの様に映ったか。
お前は時々、俺の心臓を強く締め上げて苦しくなるほど、ドキリと感じさせるような表情をする。
そういうときは、何故こんなにもお前のことが好きなのだろうな、と俺は思う。
何度口にしても伝え足りない。
お前が好きだ、シンタロー。
俺はこんなにも簡単に全てをお前に奪われる。
だけど、お前は───。
「あン時の俺はさ、そんな日常のふとした瞬間にも眼を向けらンなくて、とにかくしんどかった」
会話をするよりも自分の感情に捕らわれて、シンタローに焦がれる気持ちで言葉が喉に詰まった俺よりも先に、シンタローは静かな口調で話し出した。
淡々とした口調がまるで他人の過去を語るようで、俺には辛く聞こえる。
「…シンタロー…」
「でも、何か、お前の言葉は素直に入ってきたんだよな……優しい言葉は縋るよりも突っぱねちまう性格だからかな?お前が自分のためだって言った行動が、俺にとっては楽だったよ」
返す言葉が見つけられずに、俺はシンタローの言葉を黙って聞くことしか出来なかった。
気の利いた言葉一つもかけることが出来ない。
「俺がピリピリしてたからだろうけど、誰も俺のことを面と向かって怒らなかったしな。お前が咎めるような口調で言った一言が、救いになった」
それは俺が傍にいるというのにそれすら気付いてくれず、全然こっちを見ないお前に対して意図せず責めるような口調になってしまった過ぎない。
「トップがしっかり方針を決めねぇとガンマ団全体の足元がぐらつくからダメなんだけど、それでガチガチにしちまうと俺の独擅場になっちまうから、それもまたダメなんだ。周りに頼り切りでも困るし、一人突っ走り続けるだけでも迷惑だしな。その辺の匙加減が全然判ンなくて、今だって手探りなところがあんだけど…」
それでもお前は寄りかかることなく立ち続けている。
「サンキューな。ずっと礼を言いそびれてたんだけど…」
本当に、礼など言われるようなことは、何一つしていない。
黙ってシンタローの台詞を聞いていた俺は、ゆっくりと足を動かして傍へ近寄った。
「あ、動くなって言ったのに」
シンタローの言葉は無視をして、ただ彼を抱き締めたくて傍へ寄ったのだが、そこで躊躇いが生じて俺の手は彷徨い、シンタローが背を預けている太い木の幹に触れた。
暗がりの中、シンタローの表情を確かめるように、お互いの吐息がかかる距離まで顔を近づける。
シンタローは文句を言って離れていくかと思ったのだが、何も言わず大人しくその場に留まっていた。
俺が腕で作った意味を為さない檻の中に、今は自分の意志で留まっているだけなのだろう。
「俺は礼を言われるようなことをしていない」
そう言って唇に触れそうになったが、触れるよりも先にシンタローが言葉を口にした。
「言葉は受け取り側によっても意味を変えるからいーんだよ。俺がありがとうっつってんだから、それでいーじゃねーか」
シンタローの手が俺の髪に触れて、くしゃりと撫でた。
「独占欲が含まれた言葉でも?」
「あぁ」
「俺の我が儘しかなくてもか?」
「あぁ」
「俺の…」
「しつこいぞ!俺が良いって言ったら良いんだよ!」
シンタローは少し乱暴な口調で言い捨てると、俺が抱き締めるよりも先に腕から逃れていった。
位置が入れ替わって、先程シンタローに動くなと言われたところに彼が立つ。
降り注ぐ月の光を浴びる彼は、そのコントラストが少し神秘的だった。
漆黒の長い髪は夜闇に溶け込んでいくかと思われたのだが、月明かりのおかげで周囲と隔絶されている。
意志の強い眼が夜空を見上げてそこに浮かんだ月を見つめると、その立ち姿に俺は魅了された。
「…キレイだな」
俺が同じ感想を述べると、シンタローは露骨に嫌そうな顔をする。
「先程、お前が俺に寄越した感想と同じ言葉だぞ」
そのように指摘すると反論出来なかったのか彼は何も言葉を口にしなかったが、そのかわりに背を向けられた。シンタローの広い背中に流れ落ちる漆黒の髪すら俺の眼には眩しく映る。
何も言わずに歩き出してしまったシンタローの後を追いかけるように、俺は続いた。
「シンタロー…俺はお前が好きだ」
「…あぁ」
思わずこぼれ落ちた台詞は、シンタローの耳に届けばそれで良いと思っていたのだが、珍しく返事が戻される。それに対して、また俺は言葉を続けた。
「片時も離したくないと思うくらい、俺はお前に惚れているんだ」
「そうだな…」
「お前が俺以外の誰かを思い浮かべるのが我慢出来なくなる」
「あぁ…」
「誰かと過ごした時間にすら嫉妬する」
「…うん」
「時折、苦しくなるくらい、俺はお前に溺れている」
「…知ってる」
「俺はお前が…」
言葉を口にすればするほど想いが募っていき、歯止めが利かなくなりそうで俺は口を閉じた。あまり言葉にしてもシンタローが嫌がる。
だがこの時は、突然黙り込んだ俺を不審に思ったのか、シンタローが振り返った。
「もう終わりかよ?」
悪戯な笑みを浮かべながらそう言われた俺は、少し驚いて数回瞬きをしてから、シンタローに言葉を返した。
「言われるのは好きじゃないだろう?」
「そーだけど…───偶には聞きたい、お前の声が」
それから建物の中へ入るまで、ただ俺は一方的な想いを静かに綴った。
シンタローはその一つ一つに頷きを返してくれて、それが嬉しかった。
その後、俺達の間に訪れた沈黙で行き場のない想いが膨れ上がり、苦しくなった。
お前がどう思おうと、俺はシンタローを離さない。
部屋へ戻った別れ際、シンタローを強く抱き締めて、俺は有無を言わさず部屋に引き込んだ。
そして俺は感情を押し付けるように手荒く抱いた。
次の日、目が覚めると、シンタローに抱き締められて眠る俺が居た。
縋り付くように伸ばされたお前の腕は、今俺を優しく抱き締める。
そんなお前の傍にいて、一体、何が不安で苦しいのか、俺自身もよく判らない。
鬱血の痕が目立つ彼の胸に、俺は少し泣きたい気持ちになりながら、そっと顔を埋めた。
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+ 追 懐 ─ 記憶の破片 ─ +
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「ねぇ、シンちゃん。印象に残っているキスって聞かれたら、一番に頭に浮かぶの、なぁに?」
今日は日付かが変わる前に総帥室を出るゾと意気込んで、俺がキンタローと二人で仕事をしていたら、フラリとグンマが現れた。久しぶりに顔を見たなと思って声をかける前に、アイツの開口一番はそんな台詞だった。
「…オメェは何しに来たんだよ?」
仕事の邪魔をすんなという意味を込めて口にした台詞はかなり低く響く。俺の隣にいたキンタローは動作を止めて無言のままグンマに視線を向けていた。
「もう一週間以上研究室に籠もってたら疲れちゃって息抜きしに来たの…ちょっとだけ会話に付き合ってよ」
息抜きなら総帥室じゃなくて休憩室へ行けと俺は思ったが、ここんとこグンマが詰めて熱心に何かやってるのは知ってたから、頭に浮かんだ言葉は飲み込んでやった。
「会話って…で入ってくるなりいきなりそんな話題かよ…」
「さっき休憩室に寄ったら他の研究員達がそんな話で盛り上がっていたから、僕、シンちゃんに聞いてみようと思ってね」
「…何で俺なんだ?」
「シンちゃんだったら何か面白そうな話してくれそうだからさ」
グンマはこともなげにアッサリとそう言い放つ。お前の中で俺ってどういう類の人種になってんだよとか思いながらグンマを見ると、いつになく目をキラキラさせながらこっちを見ていた。俺は本気でげんなりしてくる。
ったく、面白そうな話ってなんだよ。
こいつは俺に何の期待をしてんだか。
「キンタローにでも聞けよ」
俺は突き放すようにそう言ってやった。
「キンちゃんのは予想がつくからいいよ」
「予想?」
「シンちゃんのことしか言わないでしょ」
何じゃ、そりゃッ!!
俺の突っ込みは音声となって口からは出ていかず、変わりにゴンッと激しく机に頭をぶつけた。
痛ェ。痛すぎる。頭もだけど、他にも色々。
勢い良く机にぶつけた額を掌でさすっていると、キンタローが近寄ってきて額にあった手を取られた。ぶつけたところを確認するようにマジマジと見つめてくる。
「何をやっているんだ?シンタロー」
お前もな───グンマの前で何喋ってんだよ…。
少し呆れた様子でこっちを見てくるキンタローを、俺は軽く睨んでやった。
そもそもお前、顔近い。んなに距離詰めてこなくてもいーじゃねーかよ。またグンマに何か言われんだろーが。
「ねぇねぇシンちゃん、いーじゃん、減るもんじゃないんだし」
キンタローとは反対側から傍に寄ってきたグンマが俺の腕を掴んでだだをこねる。
キンタローのこの行動とか距離に対する突っ込みはねぇーの?とか俺は思いながら、二人の従兄弟に挟まれた。何だかなぁと思いながら交互に見やると、キンタローは何考えてんだか表情からはいまいち判らなかったけど、グンマの目はいつになく輝いている。
そんなに聞きたい話かねぇ、とか思いながら、頭の中で記憶を辿ってみた。
印象に残ってるのねぇ───。
言葉を反芻させていた俺は、無意識の内にキンタローを見る。キンタローも俺をじっと見つめていたから、優しい青色と視線がぶつかった。
実はグンマに言われた瞬間、頭に浮かんだものが一つだけある。
あまりにも鮮やかに蘇ってくれた記憶だったから、正直ちょっと驚いたけど、俺にとっては大切な思い出の一つなんだなと少し照れくさく思った。
相手は勿論キンタローなんだけど、今みたいな関係になる前の話だ。
だから、所謂、恋人同士のってわけじゃねぇーけど、真っ先に思い浮かんだわけだから、今でも大切な記憶の一つとして俺の中に残っているわけだ。
あの時は───大分煮詰まってたんだよな、俺。
俺は頭の中に浮かんだワンシーンに思いをはせる。
今でも思い出すと暖かな気持ちになれて、俺の口元にはふっと笑みが浮かんだ。
親父の跡を継いでからのことで、お世辞にも総帥業に慣れてきたとは微塵も言えないほど俺は酷い状態で、毎日の変化を追いかけていくことに精一杯だった。だけど総帥がそんなにアップアップしてたら部下に示しがつかないし、無駄な不安が広がるだけだから、表面上は体裁を取り繕って、何とかカッコだけはつくように踏ん張ってた。
自分の信念に従ってやっていきたいのに、しがらみが多すぎて上手く動くことが出来ない。
手探り状態から抜け出せなくて、そんな自分の情けなさに、足掻いて、藻掻いて、気付けば何もかもを苦しく感じることしか出来なくなっていたような気がする。
力の抜き方が判んなくて、目の前に積み上がったものは何でも難しく考えてたし、何においても自分が先陣切ってやってかなきゃなんねぇと思ってた。トップがしっかりしなきゃ団が纏まンねぇだろって言い聞かせて、とにかく気張って過ごしてた。周りが心配してくれる声は一蹴してたし、今ならそんな自分を本当にどうしもねぇーヤツだなって思えるけど、あの時の俺には無理だった。判ってる、判ってるって言いながら、誰の声も俺の中には届いていなかった。
改革なんて甘いもんじゃない。
理想と現実はギャップがあるって、よく聞く言葉だから解っていたつもりだったのに、それは本当につもりで、俺は何一つ解っちゃいない甘ちゃんだったと思った。
それでも一つ褒められるとすれば、生憎と俺は、十ある内例え十失敗したって投げ出すような根性は持ち合わせていなかったから、ちゃんとついてきてくれたヤツ等がいるんだと思う。
もっとも、それら全て、今だから思えることだけどな…───。
体を動かすことを主体とした生活を送ってきたから、頭だけを使うっていうのが悪かったのか、いつの頃からか頭が痛むようになってきていた。
放っときゃ治ンだろとか思っていたけど、悪化する一方で、それでも休む気になれなくて、毎日焦燥感ばかりが押し寄せてきた。
その時、キンタローとはまだ仕事上の良きパートナーって感じで、今みたいに特別な関係じゃなかった。
だから余計に特別なような気がして、覚えているのかも知れない。
あの日は、やっぱり朝から頭が痛くて苛ついていた。
そんな余裕がない状態で頭使っても良いアイディアが浮かぶわけもなく、それでも考えをまとめたくて、空いた時間に何となく一人になれるところを探してた。
適当にフラフラして、団の敷地内の裏手もいいところ、人工的に植えられた植物が各々存在を主張しているような少し鬱蒼とした、つまり訪れる人がほとんどいない建物の裏に辿り着いて、俺が芝生の上に転がってた時だ。
何でキンタローが俺を探し当てられたのか疑問だったけど、今思えばキンタローだから俺を見つけられたのかもしれない。
気配で誰が来たのかわかったけど、誰とも会話をしたくなかった俺は、寝たふりを決め込んだ。
言われるのは小言か心配のどっちかだろうと決めつけて、耳を塞ぐ準備まで出来ていたような気がする。
だけど、キンタローはそばに寄ってきて俺の傍に屈むと、何も言わずに安堵の息を洩らした。
ズキリと心が痛んだ。
溜息つかれた方がどれだけマシだったか。
強がって、差し伸べられる手全てをはね除けるしか出来なくて、そんな小さな自分が情けなく思えた。
でも今更起き上がることも出来なくて、早くここから消えろなんて薄情なことを考えていた。酷ェ話だ。
多分、キンタローは俺が起きていたことに気付いていたと思う。あれだけ緊張した空気を醸し出しゃ、誰だって狸寝入りにゃ気付くだろうと普段の俺なら判るはずなのにな。どんな些細なことにでも、とにかく必死だった。
目を瞑っていたからコイツがどんな顔をしながら俺を見ていたのかは今でも判らない。
キンタローは、ただ、じっと傍にいた。
いや、いてくれた、の方が正しいのかもしれない。
長い時間そうしていたのか、それとも実際には短い時間だったのか細かいところまでは判ンねぇけど、俺はキンタローが何を思ってここにいるのか全然判らなくて、色んな不安が頭の中を過ぎっていった。
考えをまとめるために一人ここに来たはずなのに、どんどん焦りが生じていく。
苛々した感情もつのっていった。
頭も痛かった。
耳鳴りもする。
最初から上手くいくことなんてないのは判っていたはずなのに、現実は想像以上に重くて、何もかもが嫌になりそうになって、そんな俺が一番嫌だった。
投げ出す気は毛頭ないのに、現状にしがみつくことしか出来なくなっている、余裕なんて微塵もない俺。
また頭がズキリと痛む。
負けンな。
それでも、混乱していく。
頭が痛い。
ざわつく音が耳障りだ。
キンタロー、頼むから、早く、どっか行ってくれ。
頭の中がグルグルしだして、目を瞑ったままの現状がしんどいと思いながら、キンタローの優しさすら鬱陶しく感じた。
そんなとき、一際近くにキンタローの気配を感じたと思ったら、額に一つ口付けを落とされた。
その瞬間、全ての音が止んで、頭の中に静寂が訪れた。
キンタローの唇は、結構長い時間、俺の額に触れていた。
訪れた静寂は驚いたことからかもしれなかったけど、だんだん頭の痛みが引いていくのが判って、最後はただその触れた箇所の暖かさを静かに感じていた。
キンタローが唇を離した時には、頭痛も苛々も大分納まっていて、焦りよりも冷静な思考の方が勝っていた。
横になった俺を上から覗き込んだままの姿勢でキンタローはしばらくじっとしていたが、やがて一言口を開く。
「ガンマ団はお前だけのものじゃないんだぞ」
周りが見えなくなっていた俺には十分な一言だった。
キンタローはもう一度額に口付けをくれて起き上がると「待っている」という台詞を残して戻っていった。
俺はしばらく転がったまま、キンタローの一言を真正面から受け止めて、頭の中で何度も繰り返した。
ガンマ団はお前だけのものじゃない。
俺は閉じていた目を開くと苦笑を浮かべながら「カッコ悪ィ…」と呟いて、勢い良く起き上がった。
頼る、頼らないじゃなくて、新たな組織はみんなで作り上げていくものだ。
勿論、総帥である俺にしか出来ないこともたくさんあるけれど、そういった局面で矢面に立っていけばいい。
今でも煮詰まると思い出す言葉。
思い出す記憶。
忘れない暖かな感触。
あれから周りが見えなくなることは大分なくなった、と思う。焦りがないわけじゃないけど、突っ走りがちな俺には良い薬になる言葉だった。
組織は中に属する人間がいて成り立つものだから、俺一人で気張るなって意味だったんだろうけど、俺には反論が出来ない台詞だった。何でコイツは俺が素直に聞けるような言葉が判るんだろうと、情けなくも少しだけ泣きそうになりながら、本当に素直に反省をした。
戻るときはばつが悪くてどうしようかと思ったけど、キンタローはさっきのことには一切触れてこないで業務の指示を仰いできたから、俺も普通に業務に戻れた。
今までキンタローからは色んなキスをもらったけど、あれだけは特別だと思う。
今みたいな関係になる前だから特別に思うのかな?
人の優しさに触れられたような気がして、凄く温かかった。
きっと俺は今までも、しんどい時に色んな仲間からそういう手を差し伸べられてきたんだと思う。
はね除けることしか出来なかった自分に、ただ、泣き笑いにも似た苦笑をするしか出来なかった。
印象に残っているキスは、キンタローが額にくれた一つの口付け。
今くれるような甘さを含むようなもんじゃないけど、きっとこれからも俺は絶対に忘れないと思える。
そーいや、結局、あの時はキンタローの言葉に救われたのに、礼も何も言えないまま、今に至る。
そう思いながら過去から現在へ意識を戻してキンタローをもう一度見ると、優しい青色の眼───が不機嫌を顕わにして俺を睨んでいた。
何だよ?
次いで、大きな電子音が鳴って、驚いた俺は傍にいるグンマに視線を向けた。
グンマは俺の横で携帯を構えていた。ってことは、今鳴った音って、携帯カメラか?
「…何してんだ?」
突然鳴った音にビックリした俺は眼を瞬く。
「きゃーっシンちゃん、すっごくイーお顔!!何思い出してたの?思わず写真に収めたくなるような貴重でレアな顔してたから、僕、携帯で撮っちゃったー!」
いや、撮っちゃったって何だよ?イーお顔って、親父みてぇなこと言ってんじゃねーぞ、グンマ。
グンマは操作していた携帯をポケットにしまうと、また目を輝かせて俺に迫ってくる。
「僕の質問を考えてくれてたんだよね?誰との記憶?ねぇねぇ、シンちゃん、教えてよー!聞きたーいっ」
グンマは両手で俺の腕を掴むと、満面の笑みを浮かべながらも興味津々の呈で捲し立ててくる。
誰との記憶って…そりゃ───。
俺が口を開く前に、いつの間に背後に回ったのか、キンタローの手が伸びてきて俺の口を塞いだ。
「あ!ちょっと、キンちゃんッ」
「俺は聞きたくない」
キンタローの声はずいぶん低くて、機嫌が悪くなっているのがよく判った。
お前、何怒ってんだよ?
俺は口を塞いでくるキンタローの手を何とか引き剥がした。したら、どさくさに紛れてキンタローは両腕を絡めて緩い力で俺を抱き締めてくる。
「…キンタロー…」
俺は抗議の意味を込めて呆れた口調で名前を呼んだ。グンマが見ている前で何やってんだよ、お前は。
だけど、そんな俺の様子を二人の従兄弟はあっさり無視しやがった。
仲間はずれにすんなよ、コノヤロー。
「キンちゃん、ヤキモチ焼いたんでしょ?」
「……………」
は?ヤキモチ?
「いーじゃん。過去の話なんだからさぁ」
「過去でも何でもシンタローにあんな顔をさせたヤツの話なんて聞きたくない」
あんな顔って、どんな顔だよ?
「えー、でも、シンちゃんの過去って気になるでしょ?」
「……………俺は聞きたくない」
キンタローはもう一回そう言うと拘束する腕に力を込めてきた。
あのなぁ、キンタロー。
お前なんだけどサ、その相手。
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