パブリックタイム―――この時間帯は、自分のものであっても自分のものではない。
確かにその通りだが、明確にそれを言われると苛立ちがこみ上げる。だからといって、お前らのものでもないのだと、大声で怒鳴りたくなる衝動を抑えなければいけないからだ。
早く時間が経てばいい。
これは自分のものだと主張できる時間へと変わるまで。
「こいつにサインが終われば、今日は終わりだ」
「んっ。了解」
最後の一枚となった紙切れをシンタローの方に差し出せば、相手は、見ずに書ける様になってしまったサインを書面に走らせつつ、顔を上げ受け取った。
「えっと…」
ざっと目を通し、その中に書かれている重点的な内容のみを頭に叩き込むと、前と同じように、サラサラとサインをし、総帥印をその横に捺した。
「ほいっ」
投げらるサイン済みの書類を空中で受け取ると、手元にもっていた書類と合わせる。
これで一応仕事は一区切りついた。
堪った処理済みの書類は、それぞれの部署に渡さなければいけないが、それは後から来るティラミスとチョコレートロマンスの仕事である。
「終了っ!」
再びポンと放り投げだされたそれを受け取るキンタローの隣で、業務を終了させたシンタローは、思い切り両腕を伸ばして伸びをした。
キンタローの手には、本日は用済みとなった総帥印がある。たった5センチ四方のそれだが、これ一つで、世界の半分ほどはひっくり返せるしろものである。だが、扱いは軽いものだ。平気で空中に放り出されるのである。もっともそれをやるのは、それを持つことを許されている本人のみである。
他のものは、そんなことは絶対にしないし、これは、その後丁寧に汚れをふき取られ、明日の朝まで厳重に警備されている所定の位置へとそれを収められるのである。
「あー疲れた」
「今日も良く頑張ったな。ご苦労様」
「ああ、そっちもな」
背もたれに思い切り背中を預けて、再び両手を伸ばし、それから首を後ろに反らす。
その行動はいつものことで、だから書類をまとめてデスクに置いたついでに、身体を少しばかりずらして、相手の真上から唇を落とした。
「んっ」
ここから先は、プライベートタイム。
それが合図であるかのようなお決まりのキス。
だから、長引くことはなかった。無理な姿勢ということもあるし、すぐに離れる。
触れるだけのそれだが、仕事中は、一切のそういう類の触れあいは無しだから、それだけでもかなり脳に刺激を与えるぐらいの刺激はある。
それでなくても、仕事中は、様々な相手がシンタローに触れているのである。直接的なものは、少ないが、キンタローからすれば、視線で触れるのも苛立ちの対象になっている。
けれど、それを止める権利はキンタローにはない。
総帥という肩書きを背負っている最中のシンタローは、パブリックな存在なのである。
誰のものであっても、誰のものでもない存在。
だが、ここから先は違う。
パブリックからプライベートに変われば、彼は自分だけのものになってくれる。
それは、表情からわかる。投げつける視線から違う。
総帥の服は脱ぎ捨てて、『シンタロー』という存在が自分のものになる。
「どうする?」
「そうだな」
そう相手が尋ねるのも結構定番で、それはその後の予定を示す。
ちりりと漆黒の瞳が悪戯めいた光を照らす。
何を思いついたのかと思えば、
「食事にするか? フロにするか? それとも俺にしちゃう?」
計算的に違いないか、小首を傾げて、上目遣いで見上げてくる相手。
さすがに今日一日中のデスクワークは疲れたようで、普段よりは少しばかり甘えを強くしてくる。
けれど、そんなことをするのは自分にだけで、だからこそ、こちらは真剣に先ほどの言葉を検討する。
「そうだな―――」
どれも捨てがたいというものである。
疲れたのはお互い様。
それを癒すのは、やっぱり甘いモノだろう。今日はたくさん欲しい気分だし、どうすればより多くの甘いモノを得られるか考えてしまう。
「全ていっぺんに得られたらいいんだがな」
「欲張りだぜ、そりゃあ」
残念ながら俺の身体は一つだけだと、ぼやく相手に、
「ならば――――」
これはどうだろうか、と腰を曲げて、相手の耳元でそっと告げれば、相手ははじけるように笑って、伸び上がるようにして、こちらの首に腕を回した。
「OK!」
――――――自分のものをどれだけ求めても欲張りじゃないだろ?
確かにその通りだが、明確にそれを言われると苛立ちがこみ上げる。だからといって、お前らのものでもないのだと、大声で怒鳴りたくなる衝動を抑えなければいけないからだ。
早く時間が経てばいい。
これは自分のものだと主張できる時間へと変わるまで。
「こいつにサインが終われば、今日は終わりだ」
「んっ。了解」
最後の一枚となった紙切れをシンタローの方に差し出せば、相手は、見ずに書ける様になってしまったサインを書面に走らせつつ、顔を上げ受け取った。
「えっと…」
ざっと目を通し、その中に書かれている重点的な内容のみを頭に叩き込むと、前と同じように、サラサラとサインをし、総帥印をその横に捺した。
「ほいっ」
投げらるサイン済みの書類を空中で受け取ると、手元にもっていた書類と合わせる。
これで一応仕事は一区切りついた。
堪った処理済みの書類は、それぞれの部署に渡さなければいけないが、それは後から来るティラミスとチョコレートロマンスの仕事である。
「終了っ!」
再びポンと放り投げだされたそれを受け取るキンタローの隣で、業務を終了させたシンタローは、思い切り両腕を伸ばして伸びをした。
キンタローの手には、本日は用済みとなった総帥印がある。たった5センチ四方のそれだが、これ一つで、世界の半分ほどはひっくり返せるしろものである。だが、扱いは軽いものだ。平気で空中に放り出されるのである。もっともそれをやるのは、それを持つことを許されている本人のみである。
他のものは、そんなことは絶対にしないし、これは、その後丁寧に汚れをふき取られ、明日の朝まで厳重に警備されている所定の位置へとそれを収められるのである。
「あー疲れた」
「今日も良く頑張ったな。ご苦労様」
「ああ、そっちもな」
背もたれに思い切り背中を預けて、再び両手を伸ばし、それから首を後ろに反らす。
その行動はいつものことで、だから書類をまとめてデスクに置いたついでに、身体を少しばかりずらして、相手の真上から唇を落とした。
「んっ」
ここから先は、プライベートタイム。
それが合図であるかのようなお決まりのキス。
だから、長引くことはなかった。無理な姿勢ということもあるし、すぐに離れる。
触れるだけのそれだが、仕事中は、一切のそういう類の触れあいは無しだから、それだけでもかなり脳に刺激を与えるぐらいの刺激はある。
それでなくても、仕事中は、様々な相手がシンタローに触れているのである。直接的なものは、少ないが、キンタローからすれば、視線で触れるのも苛立ちの対象になっている。
けれど、それを止める権利はキンタローにはない。
総帥という肩書きを背負っている最中のシンタローは、パブリックな存在なのである。
誰のものであっても、誰のものでもない存在。
だが、ここから先は違う。
パブリックからプライベートに変われば、彼は自分だけのものになってくれる。
それは、表情からわかる。投げつける視線から違う。
総帥の服は脱ぎ捨てて、『シンタロー』という存在が自分のものになる。
「どうする?」
「そうだな」
そう相手が尋ねるのも結構定番で、それはその後の予定を示す。
ちりりと漆黒の瞳が悪戯めいた光を照らす。
何を思いついたのかと思えば、
「食事にするか? フロにするか? それとも俺にしちゃう?」
計算的に違いないか、小首を傾げて、上目遣いで見上げてくる相手。
さすがに今日一日中のデスクワークは疲れたようで、普段よりは少しばかり甘えを強くしてくる。
けれど、そんなことをするのは自分にだけで、だからこそ、こちらは真剣に先ほどの言葉を検討する。
「そうだな―――」
どれも捨てがたいというものである。
疲れたのはお互い様。
それを癒すのは、やっぱり甘いモノだろう。今日はたくさん欲しい気分だし、どうすればより多くの甘いモノを得られるか考えてしまう。
「全ていっぺんに得られたらいいんだがな」
「欲張りだぜ、そりゃあ」
残念ながら俺の身体は一つだけだと、ぼやく相手に、
「ならば――――」
これはどうだろうか、と腰を曲げて、相手の耳元でそっと告げれば、相手ははじけるように笑って、伸び上がるようにして、こちらの首に腕を回した。
「OK!」
――――――自分のものをどれだけ求めても欲張りじゃないだろ?
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「七夕のような恋はごめんだな」
不意にキンタローがそう言った。
当然のごとく、今日は7月7日で、だからといって特別に休みがああるわけでもなく、本日も総帥任務に追われていたシンタローだが、ぽつりともらされたその言葉に意味深長なものを感じ、作業の手を止めて振り返ってしまった。
そこにいたのは、もくもくとファイル整理をしている従兄弟の姿で、どういう経路から、そんな言葉がもらされる結果になったのか、まったくもって判断がつきにくいほどに、真面目な顔をして淡々と仕事をこなしている最中である。それでも、そのまま放置するには、当事者ともいうべき自分にとっては大問題で―――つまりは、現在お互い恋愛中のつもりだし―――その真意を伺うべき言葉を、シンタローは発した。
「なんで、七夕のような恋はごめんなんだ?」
『七夕の』という枕言葉がひどく気にかかる。
その声に、キンタローは、ファイルへ向けていた視線が持ち上げ、こちらを向いた。すでにその眉間にはシワが寄せられており、不審な表情を浮かべている。
一体なぜそんな顔をするのかさっぱり分からない。
「お前は、そんな恋がいいというのか?」
そう不思議そうに尋ねられれば、
「ロマンチックだろ。あと、あいつらは何年たってもラブラブだし。別に悪いことじゃねぇだろ」
当然のような台詞を返してやる。
一年に一度の逢瀬をいとおしむ恋人達。
確かに、一年に一度しか会えないことは辛いかもしれないけれど、だからこそ、そこに深い絆と愛情があると思える。
毎年その日に夜空をみあげ、その一日の逢瀬を見守り微笑む恋人達がどれほどいるか。そうして、七夕の短冊に、あの二人のようにずっと愛し合っていられますように、などと願いをかけるのである。
「ずっと相手を愛してるのは、いいことじゃねぇかよ」
「そうだな」
「そうだろ?」
「だが、俺は嫌だ」
自分の意見に頷いてくれたにもかかわらず、キンタローは、その後きっぱりと否定してくれる。
「もしかして、一年に一度しか会えないのが不満だって言うのか?」
それは確かに不服であろう。
愛している人とは、毎日会いたいし、何よりもいつも傍にいて欲しい。それが、たった365日の中の一日でしかないというのは、切なく歯痒いものだろう。
そういう意味では、七夕のような恋は嫌なものなのかもしれない。
けれど、キンタローはその言葉に、横へと首を振った。
「別にそう言うわけではない」
「えっ?」
違うのか?
てっきり相手も縦に頷いてくれると思っていたのだが、予想がはずれてしまった。
それなら、どんな理由があるというのだろうか。
怪訝に思うシンタローに、キンタローは、軽く唇を尖らせ、不平を口にした。
「そうじゃない。俺は、一日会うだけで満足するような恋は、ごめんだと言うのだ」
その思わぬ言葉に、自分の眼がパチクリと見開かれるのがわかる。
そういう意味か。
ようやく彼の言いたいことがわかったけれど、それは意外な言葉でもあった。
確かに、彼らの恋はそう言うふうにとれないこともない。けれど――。
「別に、あいつらはそれで満足しているわけじゃねぇだろ? だから、一日の逢瀬を待ち望んでいるんだし」
会いたくても会えない事情が二人にはある。
だが、キンタローは、それで納得してはいないようだった。
「好きなら、ずっと傍にいればいい」
「だから無理だって。天の川があるし」
「泳げばいい」
「神様が許さないし」
「神様なんていらない」
「ガキのワガママみたいだな」
「ガキのような恋で結構だ。俺は、そんなものが大人の恋愛というなら、ごめんだな」
キッパリと言い切る相手は、確かにあんな川も渡りきり、神の制止の声さえも無視しそうである。
「俺は、絶対に愛する人に、一年で一日しか会えないような状況を作りはしない」
それは確かにそうだろう。
それほど愛し合っている恋人同士なら、そんな困難も乗り越えて当たり前なのかもしれない。
織姫も、彦星にそんなことをされたら、きっともっと彼のことを愛してしまうに違いない。
なぜなら、自分がそうだから。
ただの想像だけだけれど、たぶん…きっと…絶対に、キンタローがそうまでして自分の元へと会いに来てくれたら、二度と離れないことをその場で誓うに違いない。
「それなら、俺もそんな恋はごめんだな」
一年に一度だけ―――そんなことは我慢できないのだから。相手が来ないのならば、こちらが来る気概で。きっと離れたその瞬間から追い求める。
それが、たぶん―――俺たちの恋。
さらり…。
梳いた指の合間から、滞ることなく流れる金糸の束に、唇がへの字に曲がる。
「何やってんだ、てめぇは」
何度目だろうか、不満が言葉となって溢れ出る。それに対する相手の言葉はない。表情を見れば、うんざりしたもので、何度も何度も似たような言葉を紡いだおかげで、無視することを選んだようだ。
「ッたく。馬鹿が」
そう告げて、シンタローは、立ち上がる。
まだ少し湿っているその髪に、ドライヤーよりも自然乾燥を選んで、暖かな日差しが差し込む窓を開けた。
さわり…。
心地よい南風が入り込み、シンタローの頬を撫ぜ、髪を書き上げ、後方へ向かう。パタパタ、と机の上に置きっぱなしの、未処理の書類が飛びそうになって、慌ててそれを押さえに走った。昼食後、彼是一時間は経ったが、午後から片付けるべき仕事は、まだひとつも片付いていない。
今日も徹夜か、と思うと胡乱な眼差しが宙を漂う。
その視線が、金色の輝きを目に留めて、そうしてやはり、また口を開いてしまった。
「助けるつもりなら、きちんと助けろ…。余計な仕事増やしてどうするんだ、キンタロー」
何度目かの文句に、とうとう今まで押し黙っていたキンタローも口を開いた。
「………煩い。こんなことなら助けなければよかった」
「ああ、そうだよ。あんなもん、俺は避けれたんだからな」
ことの起こりは、一時間前。昼食後、天気もいいし散歩しようと外へと出てきた。キンタローもついてきて、二人で歩いていたまではよかったのだが、ちょうど壁の塗り替えをしており、その真下を通った時、不運に出会った。
「うわぁッ!」
上空からのその叫びに顔をあげれば、真上からペンキ缶が降ってきて、右に避けようとしたその時だった。
「シンタローッ!」
その右側からキンタローが飛び出してきて、避ける間もなく、キンタローと激突したあげく、
バシャンッ!
見事ペンキを被ったのだった。
もっとも、シンタローの方は、服にわずかばかり白い水玉模様が出来ただけである。酷いのは、キンタローの方だった。
「……生きてるか?」
「ああ。生きてる」
思わずそう尋ねたくなるほど、頭の上から、きっちりペンキを被ってしまい、真っ白に染まったキンタローがそこにいた。
それから、急いで風呂に入り、ペンキを落とそうとしたが、中々落ちるものでもなく、何度もシャンプーをして、お湯ですすいで、と繰り返して、ようやくもとの金色の髪を取り戻したのだった。
「ったく、あんなに髪を洗って、かなり痛んだだろうな」
ペンキを落とすために、かなり強く洗ったのである。今のところ見た目は、それほど分からないが、せっかくの綺麗な髪が台無しだ。
「馬鹿が…」
また零れてしまった暴言に、けれどキンタローは、再び反論はしなかった。髪を拭いてもらうために座っていた椅子から立ち上がる。
窓の傍へ近寄ってくると、そうしてそこに立っていたシンタローの漆黒の髪をひと束手にとった。
「それでも、お前のこの髪がペンキで汚されるよりはよかった」
心底そう思い、告げてくれる言葉に、シンタローの唇はさらに折り曲がる。
自分の中にあるのは、理不尽な怒りだった。先ほどから出る文句も、そのためのもの。ただの八つ当たりでもあるのだ。
(……俺なんかどうだっていいだろうが)
あの時、キンタローのペンキまみれの髪を見たとたん、すぐに眉が顰められた。汚い、と思ったわけではなく、汚れたことに対する怒りがこみ上げたせいだ。綺麗な金色の髪が、なぜ汚されなければいけないのか、という。しかも、自分を助けたせいで。
もっと上手く避けていれば、そんなことにはならなかったのではないかと思ってしまうから、余計に悔しくて、苛立って、キンタローに八つ当たりまでしてしまうのだ。
「シンタロー」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
日差しにキラキラと煌く金色の髪が揺れている。ペンキの白は、どこにも見つからなかった。執拗に洗い落としたのだから当然だろう。全ては元通りである。キンタローが、シンタローを庇ってペンキを被ったという過去さえなければ。
それが一番気に食わないことだけれど。
それでも、もう起こってしまったことに、どれほど怒りを覚えても仕方がないことだから。
「きちんと助けられずにすまなかったが、お前が無事でよかった」
そう告げる相手に、シンタローはかすかに目を見張り、それから視線をそらした。
(まったく、こいつは……)
本当にそう思ってくれているのだから、おめでたいというか、ありがたいというか。
―――心底、感謝すべきなのだろう。
自分をそこまで思ってくれる者が、傍らにいてくれることを。
ようやくその考えまでたどり着けて、曲げていた口も機嫌も直し、シンタローは照れくささを滲ませながらも、その言葉を紡いだ。
「………ありがとう」
濡れた髪をバスタオルでガシガシと水気と取りつつ、リビングへと戻ってくると、そこには先客がいた。
仕事から帰ってきて、風呂に入る時にはいなかったはずである。だが、小一時間ほどして出てくると、そこには、当然のように、リビングの床に片膝を立てて座りこみ、分厚い書類の束を眺めている従兄弟のキンタローの姿があった。
「来てたのか」
声をかければ、書類に向けられていた視線があがり、こちらに向けられる。
「ああ」
だが、短い応えとともに、視線はまた元に戻ってしまった。
どうやら今は、シンタローよりも書類の方が大事なようである。
(明日は学会か?)
何度かこの姿は見たことある。決まってその次の日が学会のある日だった。
そう言えば、前にそんなことを言っていたのを思い出す。だが、忘れて当然だ。それを告げられたのは、一週間以上も前のことである。
それから後は、今日まで会ってなかったために忘れていたのだ。
ここ最近キンタローは、ずっと研究室へこもりっきりだったのである。
だが、それも仕方ないだろう。その前までは、遠征だ、出張だと自分が各国に足を運んでおり、キンタローもそれに同行していたのである。
そのために研究の方は、ずっと中止していたのだ。
別に、キンタローがいなくてはいけないというわけではもないのだが、常に彼は自分の傍らにいる。
ついて来ずに、好きな研究を本部でやっていてもいいのだと再三行っても聞いてはくれないのだ。
自分の傍にいることが、自分の望みなのだと、ガンとしてその意志を貫き通そうとするものだから、今では、好きにさせている。
その代わり、自分がガンマ団本部でデスクワークに励んでいる時には、彼は、ほとんど研究室に入っていた。
おかしなことに、同じ職場にいる方が、相手と離れている時間が長くなるのである。
とはいえ、たまには、こんなこともある。
ふらりと互いの部屋に遊びに行ったりするのだ。
だが、互いに何も言わずに、相手を受け入れている。
まだ、水気を含んだままの髪を再びガシガシとふき取りながら、シンタローの足は、キッチンへと向かっていた。
とりあえず、キンタローはそのまま放置しておいてもいい。
いつものことだ。
あちらもこちらも、相手のことを気にせずに、来たい時に来て、したいことをしている。
だが、不思議と相手を鬱陶しいとか邪魔だとかは思わなかった。
たぶん24年間、知らないこととはいえ、ずっと一緒であったことが関係しているのだろう。傍にいることが、当たり前のようなことになっているのだ。
バタン。
冷蔵庫の中から、お目当ての物を見つけると、それを閉め、再びリビングへと戻ってくる。
タオルは、肩にかけ、テーブルの上に無造作に投げ捨てられていた髪ゴムを見つけると、それを一まとめにくくり、アップにする。
女のようだが、こうすると首が涼しくていいのだ。
そのままリビングの床に座った。ポジションは、キンタローの背後である。そのまま背中合わせで、相手の方に体重をかけた。自分の体は決して軽いものではない。けれど、相手は、何も言わずにしっかりとその重みを受け止めてくれた。
プシュッと小さな音とたて、缶を開けると、それを一気に喉に流し込んだ。喉の奥ではじける炭酸の刺激と舌に残る苦味。
昔は、これが嫌で、倦厭していたのに、これを美味しく感じるようになったのは、いつの頃からだろうか。
半分ほど減ってしまったそれを、弄ぶようにゆらゆら揺らしながら、ボケッと天井を見上げる。それもすぐに飽きる。
ちらりと肩越しに相手を覗いてみると、視線は、書類に向けられたままだった。
(頑張ってるなぁ~)
と、思いつつも、残っているそれを口につけようとすると、バサリと背後から音がした。
「ん?」
後ろを振り返ると、床には先ほどの分厚い書類の束が置かれている。
「終わったのか?」
「いや、休憩だ」
尋ねるシンタローに、キンタローは、そう返す。
同時にずしっと背中に重みがかかる。相手も、自分の方へ体重をかけてきたのだ。
尻をずらして少しばかりバランスを調整すると互いが互いを支えあうようにして、背中をもたせかける。
そのまま、まだ残っているそれを流し込もうと、缶に唇をつけると、
「俺にも少しくれ」
と、後ろから声がかかった。
一口含んだだけで、それ以上飲むのをやめ、これが欲しいのか、とチャプンと音を立てるように振って問いかければ、相手は、一つ縦に頷いた。
「けど、新しいのがあっちにあるぞ」
もう半分も残っておらず、生ぬるくなりかけのそれよりも、よく冷えた新しい缶が、まだ冷蔵庫の中にある。
だが、それには相手は、首を横に振った。
「別にそんなに喉は乾いてないから、それでいい」
そう言うならば、これでもいいだろう。
それほど酒好きでもないシンタローは、つまみもない状況でビールを飲むのもそろそろ飽きてきたのだ。
「んじゃ、ほらよ」
「ありがとう」
軽く振り返り、その缶を手渡せば、相手はそれを受けとり、そうしてぐいっと天井へと仰向いた。
そのまま喉が上下する。
慌てたのはシンタローのほうだった。
「てめぇ、全部飲むのかよっ」
少しだけというから、渡したのだ。自分ももう少し飲んでおきたいという気持ちはあったのである。
しかし、この勢いだと一口も残っていないようだった。
「ひでぇ」
そう口にしたとたん、トンと缶が床におかれ、そして、肩越しに見ていたキンタローの顔が近づき、あっというまに唇をふさがれた。
「うぐっ」
声をあげられたのはそこまでだった。
不意打ちのそれに、逃げる隙を逃してしまった。
ぴたりと唇同士が重なりあったとたんに、少しばかり開いていたそこから、半ば強引に液体が注ぎ込まれた。
ビールだ。
舌にしびれるような苦味。思わず顔を顰めたとたんに、注ぎ込まれる液体とともに滑りこんだ舌が、その上をなぞる。
うわっと身体を震わすのに気づかなかったのか、相手は、さらに深くそれを押し込んでくる。
先ほどまでの苦味は逃げ去り、代わりに熱い吐息と絡む舌が口内を支配していく。
それから逃れることもできずに、味合わされ、ようやく解放されれば、相手は、申し訳なさそうな顔をして、シンタローに向かって問いかけてきた。
「すまなかったな。これでいいか?」
「げほっげほっ…………いいわけねぇだろ。妙なボケすんなよ、お前」
少しばかり器官に入っていたビールに、苦しげにせきこんでから、シンタローは、脱力した顔で、相手を力なくにらみつけた。苦しさゆえか、先ほどの濃厚キスのおかげか、涙目になっていたために、余計迫力はないのは、自分でもわかるが、それでも、睨むなという方が難しい。
これでも一応怒っているのだ。
確かに全部飲むなとはいったが、飲んでいる途中の奴を戻せとはいってはいない。というか、普通の人間なら、そんなことはしない。
さらに濃厚キスまでおまけをする奴など、もっといないだろう。
………いや、中にはいるかもしれないが、それは絶対に確信犯だ。だが、奴のは―――――目の前の従兄弟殿は、至極真面目にやってくれるのである。もちろん確信的なものは欠片もない。
本当に、ビールを全部飲むなといったシンタローのために、一口分を口移しでくれたのである。
「まだ、飲みたかったか?」
だが、そう真剣に問いかけられれば、苦笑せずにはいられない。
結局彼に悪気や悪戯心など一切ないのである。
「それはもういい」
あんなことをされた後では、もうビールを飲む気もすっかりなくなってしまっていた。
「それよりも、メシを作るよ。何か食べるだろ、お前も」
「ああ。お前が作るなら食べる」
「よしっ。いい返事だ」
こくりと頷いてみせるキンタローの頭をぽんと叩くようにして、シンタローは、立ち上がった。
その顔に、先ほどの苦笑は消え、くったくのない笑みが浮かんでいる。
先ほどまでの怒りは、もうなくなっていた。
この程度で怒ってなんていられない。
いつものことだ。
これが日常茶飯事というものなのである。
目を覚ます。
だが、瞼を開いたそこに広がるのは一片の光もない闇だった。
漆黒に覆われた視界に、キンタローは、ぎくりと身体を震わした。けれど、すぐに原因に気づく。
「……………お前の髪か」
自分の視界を覆っていたのは、隣に眠る人物の黒髪であった。
眉宇をしかめると、べっとりと瞼の上に覆いかぶさるようにして掛かっていたそれを丁重に横へと流す。
そうすることで、やっと光が灯らぬ部屋の中とはいえ、視界が広がった。
「驚かせるな」
声に出せば、相手が目覚める可能性もあるから、出てきた文句は口内でごちる。
もっとも昨晩――――というよりもまだ数時間前でしかないのだが、久しぶりということもあり、相手に相当無理をさせてしまったので、ちょっとやそっとのことでは、目を覚ますこともないとは思うが、それでも、もしものことを考えて、動作は慎重になった。
ゆっくりと身を起こすと、無意識に詰めていた息をふっと吐き出した。
薄暗い視界に、緊張していたようだった。
暗闇は、実のところ好きではない。
こうして、少しながらでも周りが見えるぐらいならば、それでも我慢はできるが、何も見えない真の暗闇は、今も苦手だった。
押入れの中が怖くて泣く子供ではないが、それでもそれに近い恐怖心がある。
キンタローにとっては、24年間、押入れの中に押し込められているような状態であったためだ。
光の差さぬ暗闇の中、存在していたのである。
それが、しっかりと今でもトラウマになっているらしい。
くしゃりと髪をかき上げ、キンタローは、しっかりと目を見開く。
見慣れた部屋がモノトーンの世界のように映し出されている。
夜の闇がひっそりと部屋に沈滞しているが、ここは、何もなかったあの世界ではない。
自分は、ここにいる。確かに在る。
そして――――。
「お前に触れることもできる…」
ゆっくりと身体を横へと傾けると、ぐっすりと眠り込む従兄弟の髪に触れた。
その髪は、嫌いな漆黒の色に染め上げられている。
けれど、これだけは………この髪と今は閉じて覗くことのできぬ瞳は別だった。
否、別格といった方がいい。
それは、自分にとって、光と同等の位置を占めているといってもよかった。
24年間、自分は彼の中にいた。
今は、自分の身体となっていたが、以前は彼がこの身体を支配していたのだ。
自分は、その中に閉じ込められていた。
深い深い暗闇の奥。
彼が学び見ることは、自分もまた同じように吸収することはできるけれど、けれど、自分の自由は、深い闇に捕らわれたままだった。
それはまるで、柔らかい膜に包まれているようで、なのにどれほど破ろうと試みてみても、強固な殻のように敗れることは不可能だった。
外に触れることはできなかった。
どれほど望んでも、自分は彼には触れられなかったのだ。
内側にいるものは、どれほど願っても決して外側に触れることはできない。
そんなジレンマの中に自分はいた。
もちろん憎しみもあった。
途方もないほどの怒りもあった。
理不尽をしいられるこの状況に、常に苛立ちと憤りを感じていた。
それでも、自分は見ていたのだ。
彼の生き様を。
歯を食いしばり、前を見て、傷つきながらも歩んでいく彼の姿を。
そして優しさから零れる涙さえも。
「殺さなくてよかった」
そう思える自分が、おかしかった。
自分の体を取り戻すことで、一度は、シンタローをこの肉体から追い出し、殺したのだ。
けれど、それでもシンタローは生きていた。
そして、あの島で、再びシンタローは体を手に入れ、自分の前に姿を現した。
そして再び、自分は彼を殺そうとしたのだ。
あの時は、本気だった。
今までつもりに積もっていた負の感情が一気に爆発したためだ。
―――――けれど、殺せなかった。
本気で挑んだはずなのに、彼を殺すことは叶わなかった。
なぜだか、今もわからない。
彼が強かったからかもしれない。それもあるだろう。
けれど――――自分の中の何かが、彼を殺すことを躊躇ったのかもしれないと、今は思う。
もっとも、そんなことはもうどうでもいいことだ。
自分には、彼を殺す気は、もうない。殺意など、もう二度と生まれることはない。
誰よりも何よりも大事な存在だと、気づいてしまったのだから。
彼は殺さない。
そして、誰にも彼を殺させは――――傷つけさせはしない。
それが、自分の中で決めた誓約。
誰にも―――――シンタロー自身でさえも、その誓約を消すことはできない。
それが、彼を殺さないと決めた時に、誓った約束。
「ん……キンタロー?」
薄い暗闇の中で、宙を睨みつつ、少しばかり自身の中に入り込んでいれば、かすれた声が、耳朶を打った。
どうやら、相手が目覚めてしまったらしい。
下を向くと、うっすらと瞼を持ち上げ、こちらを見ているシンタローと視線が合う。自分が起きているのに少しばかり驚いているようだった。キンタローは、彼になんでもないというように笑いかえると、その額に手を伸ばした。梳くように額を撫でる。
「まだ寝てろ。時間じゃない」
キンタローに触れられ、気持ちよさそうに目を閉じるシンタローは、けれど唇を開く。
「ああ…うん。でも、お前は?」
「ちょっと目が覚めただけだ。俺も寝る」
「んっ、わかった」
その言葉に安心したか、眠たげに欠伸を一つすると、再び目を閉じてくれた。
安心しきった顔をして傍らで眠りにつく愛しい存在に、キンタローの口元に笑みが灯る。
彼が、こういうふうに眠りにつくのは、自分の隣だけである。
今は、という言葉がつくが、一生誰にも、この場所は譲る気はなかった。
どれほどの犠牲が払われようとも、誰にも渡せられない場所である。
そして自分は、ここで彼を守るのだ。
柔らかい膜で彼を包み込み、強固な殻で全てのものからも守りぬく。
それが、自分の中の誓約である。
揺ぎ無い想い。
ふっと視線を細め、自分の中の恐怖と立ち向かうように、部屋の隅に凝っていた闇を睨みつけると、ベッドを軽く揺らし、その横に滑りこんだ。
「おやすみ、シンタロー」
そうして、その身体を闇から守るように抱きこむとキンタローは、再び眠りについた。