ぬばたまの夜がそこにあった。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
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バサッ―――。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。
ふと見上げた空は、とても高く遠くにあって、浮かぶ雲は流れが速かった。思わず、目の前を行く相手の肩を掴もうとしたが、目測を誤ってしまい、長い黒髪を掴んでしまった。
「あ、すまん」
痛いと声をあげた相手に、慌てて謝罪の言葉を吐くが、けれど掴んだ髪は放さぬまま、握り締めた。おかげで、当初の思惑とは少しずれたものの、相手はそこに立ち止まり、自分の方へと近寄ってくれた。
それを感謝しながらも、髪を握り締めたままだから、相手の表情が訝しげなものになる。『どうしたんだ?』と訊ねられて、改めてどう答えようかと迷った。
(お前が遠くにいってしまいそうで、置いていかれるのが怖くて、その身体をここへ止めた)
といえば、彼は怒り出すような気がする。それとも自分の杞憂を笑い飛ばしてくれるだろうか。どちらにしろ、それは自分の求めるものではなかった。
互いの身体が別ってから、数年の時を経て、痛感することが数多くある。その中の最たるものは、シンタローが遠くなったということだろう。いつでも傍にいた相手が、目を放せば遠くへといってしまう。それを実感したとたん恐怖に駆られてしまった。
離れることを望んだ事もあったのに、今は、彼が自分の傍から離れることが恐ろしくてたまらないのだ。
だから、こうやって繋ぎとめたくなる―――――自分の元へ。
それは、彼の自由を束縛することであり、かつて自分が施されていたことにも似通っているにもかかわらず、それでも、そうしたくなる自分の心の醜さに嫌気がさす。
だが、それほどまでに、彼が好きなのだ。
愛している―――――そういう感情があることを教えられた。この想いに形をつけ、認識できた時点で、もう後戻りはできなくなっていた。
ここにいる相手を手放せなくなったのである。自分を置いて行こうとすれば、それを引き止める。
「お前は、俺のものか?」
思わずそう告げれば、きょとんとした表情を浮かべられた。当たり前だろう。自分の言葉は唐突過ぎる。それでも、その答えが今欲しかった。
初めてではない、問いかけ。
決まった答えが返ってくることを信じて、その唇から告げられる言葉を求める。
「俺は、お前の全てが欲しい」
もしもそれを与えられるなら、自分のもの全てをお前に捧げることを再度誓うように、掴んだ髪へ、頭を下げて、口付けを落とした。
栗花落―――ついりの季節。
出会った雨に足を止めていた。
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
耳朶に触れた言葉に身体が反応する。
振り返る時に揺れる髪は、すでにしっとりと水気を含んでいて、重たく小さく跳ねた。軽く上向いた顔に、柔らかな水滴がいくつも降り注ぎ、肌に弾かれる。
雨が降る前にそこにいた。雨が降り始めてからもここにいる。動けなかったわけではなくて、動きたくなかっただけで、そうしていれば、いつのまにか全身が水気を帯びていた。
「風邪をひくぞ」
近づいたその人影は、眼前にまでやってくる。
「そうかもな」
それはわかっていたのだけれど、思わぬ気持ちよさに、ずっとこの状態を保ってしまっていた。
それもここまでで、近づいてきた人物に、身体は動く。頷いた自分は、そっと視線を持ち上げた。重たく垂れ下がる前髪の隙間から、その姿を覗く。声を聞いただけで、それが誰なのかはわかっていたけれど、その姿を目に映せば、自然と顔が綻んでいた。
自分を気遣うその言葉が嬉しい。
自分を想うその気持ちが愛しい。
けれど自分以外を映すその瞳が少し切ない。
こちらを見てくれていると思えば、空を仰いで漏らされていて、それに軽く吐息がもれた。
その溜息に気付いたのか、雨を受けていた顔が垂れ、
「中へ入らないのか?」
大きく傾けられる首。
こちらを覗き込む視線に、みっともなく濡れそぼった自分の姿が映り込む。それでも、口元に浮ぶのは笑みで、単純な自分の構造に、さらに笑いがこみ上げそうになる。
ゆっくりと振られる首は横で、視線は相手に定めたまま、下瞼を持ち上げるように笑みを作る。
「ああ。もう少し…気持ちいいから」
翳す手に落ちる雨が手首を伝う。
そのくすぐるような感触が心地よい。
全ての穢れが洗い流されるような、そんな錯覚を与えてくれる。
身体にまとわりつく、凝った想いも雨とともに、流れ落ちる。
洗い清められるようなそれに、離れ難い想いを抱いていた。
それに、久しぶりだったのだ。こうして雨を身体で受けるのも。
子供の時は、濡れるのも構わずに外に出て遊んでいたけれど、大人になってからは、雨が降れば、それを厭うように避けてきた。こうして自分から雨を打たれることなど、どれほどぶりなのかも分からない。
「ならば、俺も付き合おう」
「やめとけ。風邪、ひくぜ」
「そうなったら、お前が看病してくれるだろ?」
「できるわけねぇだろ。だったら、俺も一緒に風邪ひいてるって」
それよりも自分の方が雨に打たれていた時間が長いのなから、風邪をひく確率が高いだろうに。それとも、自分は馬鹿だから風邪をひかないとでもいいたいのだろうか。
そんなはずはないと思うが、つい勘ぐってしまう。ねめつけるような視線を送るものの、相手はさらりとそれを受け止めた。
「それは困るな」
言われた言葉に他意は見えずに、仕方がないので、そのまま頷いた。
「そうだな」
けれど、総帥とその補佐が共に倒れてしまえば大騒ぎだけではすまないだろう。立ち行かないことはないが、混乱は必須。あまり賢明な行動ではない。
それなのに、相手は動かない。
その優秀な頭で、この程度の予想がつかないわけではないのに。
自分と同じように、雨の中を立ち尽くす。
白糸のように降り注ぐ柔らかな雨の中で、その金糸に絡まる雫がぽとりと零れ落ちた。自分と同じように、濡れ鼠と変わっていく。なのに、動かない。
「――あのさ、もしかして待ってるわけ?」
「ああ」
ひょっとして、と思い漏らした言葉に、即座に返される。
その素早さに、眉を顰めてしまったが、そう言われてしまえば、こちらもそれなりの対応をしなければいけなかった。
「はあ。気持ちよかったんだけどな…」
たまには、雨に打たれるのもいい。
雨に溶け込むのも気持ちがいい。
しとしとと想いが雨に滲み込み、流れ落ちるのを感じるのも、好きだと思えたけれど―――。
「戻るぜ、キンタロー」
そんな好きよりも、もっと大事で大切な好きがあれば、仕方ない。
頑固な相手に、風邪をひかせたくないと思うならば、自分が動くしかないだろう。
自分と共にではなければ、ここから離れらないと決めているのだから。
「あぁあ。本当に気持ちよかったんだけどな」
名残惜しげな声をあげ、泣きっぱなしの天を仰ぐ。随分とここにいたために、びしょ濡れになり黒ずむような色合いとなった真っ赤な総帥服は、べったりと身体に張り付いていて、着心地はいいとは言えないけれど、それでも気持ち良さは、肌からではなく、心から感じられていた。
だが、それももうお終い。
未練がましい視線を空に向けてから、恨みがましい視線へと変えて相手を見れば、あちらは心得たように頷いていた。
「わかった。この後は、俺が責任もってお前を気持ちよくさせてやろう」
「―――本当か?」
そこに含む意味がわからぬほど、自分は初心くはない。
「嘘か真かは、確かめてみるがいい」
「そうだな。それが一番確かだ」
くすくすくす…と笑みが喉を鳴らし、零れ落ちてくる。
「なら、雨宿りをしますか」
この気持ちよさに勝るとも劣らぬものを与えてくれるというのならば、それを受けてみよう。
肌を伝う雨水を振り払い、至極真面目に応える相手の腕に濡れた腕を絡めて、頭にかかる雨のヴェール脱ぐために、屋根のある場所へとシンタローは足を進めた。
――――――雨とどっちが気持ちよかったかは内緒にしとこうな?
出会った雨に足を止めていた。
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
耳朶に触れた言葉に身体が反応する。
振り返る時に揺れる髪は、すでにしっとりと水気を含んでいて、重たく小さく跳ねた。軽く上向いた顔に、柔らかな水滴がいくつも降り注ぎ、肌に弾かれる。
雨が降る前にそこにいた。雨が降り始めてからもここにいる。動けなかったわけではなくて、動きたくなかっただけで、そうしていれば、いつのまにか全身が水気を帯びていた。
「風邪をひくぞ」
近づいたその人影は、眼前にまでやってくる。
「そうかもな」
それはわかっていたのだけれど、思わぬ気持ちよさに、ずっとこの状態を保ってしまっていた。
それもここまでで、近づいてきた人物に、身体は動く。頷いた自分は、そっと視線を持ち上げた。重たく垂れ下がる前髪の隙間から、その姿を覗く。声を聞いただけで、それが誰なのかはわかっていたけれど、その姿を目に映せば、自然と顔が綻んでいた。
自分を気遣うその言葉が嬉しい。
自分を想うその気持ちが愛しい。
けれど自分以外を映すその瞳が少し切ない。
こちらを見てくれていると思えば、空を仰いで漏らされていて、それに軽く吐息がもれた。
その溜息に気付いたのか、雨を受けていた顔が垂れ、
「中へ入らないのか?」
大きく傾けられる首。
こちらを覗き込む視線に、みっともなく濡れそぼった自分の姿が映り込む。それでも、口元に浮ぶのは笑みで、単純な自分の構造に、さらに笑いがこみ上げそうになる。
ゆっくりと振られる首は横で、視線は相手に定めたまま、下瞼を持ち上げるように笑みを作る。
「ああ。もう少し…気持ちいいから」
翳す手に落ちる雨が手首を伝う。
そのくすぐるような感触が心地よい。
全ての穢れが洗い流されるような、そんな錯覚を与えてくれる。
身体にまとわりつく、凝った想いも雨とともに、流れ落ちる。
洗い清められるようなそれに、離れ難い想いを抱いていた。
それに、久しぶりだったのだ。こうして雨を身体で受けるのも。
子供の時は、濡れるのも構わずに外に出て遊んでいたけれど、大人になってからは、雨が降れば、それを厭うように避けてきた。こうして自分から雨を打たれることなど、どれほどぶりなのかも分からない。
「ならば、俺も付き合おう」
「やめとけ。風邪、ひくぜ」
「そうなったら、お前が看病してくれるだろ?」
「できるわけねぇだろ。だったら、俺も一緒に風邪ひいてるって」
それよりも自分の方が雨に打たれていた時間が長いのなから、風邪をひく確率が高いだろうに。それとも、自分は馬鹿だから風邪をひかないとでもいいたいのだろうか。
そんなはずはないと思うが、つい勘ぐってしまう。ねめつけるような視線を送るものの、相手はさらりとそれを受け止めた。
「それは困るな」
言われた言葉に他意は見えずに、仕方がないので、そのまま頷いた。
「そうだな」
けれど、総帥とその補佐が共に倒れてしまえば大騒ぎだけではすまないだろう。立ち行かないことはないが、混乱は必須。あまり賢明な行動ではない。
それなのに、相手は動かない。
その優秀な頭で、この程度の予想がつかないわけではないのに。
自分と同じように、雨の中を立ち尽くす。
白糸のように降り注ぐ柔らかな雨の中で、その金糸に絡まる雫がぽとりと零れ落ちた。自分と同じように、濡れ鼠と変わっていく。なのに、動かない。
「――あのさ、もしかして待ってるわけ?」
「ああ」
ひょっとして、と思い漏らした言葉に、即座に返される。
その素早さに、眉を顰めてしまったが、そう言われてしまえば、こちらもそれなりの対応をしなければいけなかった。
「はあ。気持ちよかったんだけどな…」
たまには、雨に打たれるのもいい。
雨に溶け込むのも気持ちがいい。
しとしとと想いが雨に滲み込み、流れ落ちるのを感じるのも、好きだと思えたけれど―――。
「戻るぜ、キンタロー」
そんな好きよりも、もっと大事で大切な好きがあれば、仕方ない。
頑固な相手に、風邪をひかせたくないと思うならば、自分が動くしかないだろう。
自分と共にではなければ、ここから離れらないと決めているのだから。
「あぁあ。本当に気持ちよかったんだけどな」
名残惜しげな声をあげ、泣きっぱなしの天を仰ぐ。随分とここにいたために、びしょ濡れになり黒ずむような色合いとなった真っ赤な総帥服は、べったりと身体に張り付いていて、着心地はいいとは言えないけれど、それでも気持ち良さは、肌からではなく、心から感じられていた。
だが、それももうお終い。
未練がましい視線を空に向けてから、恨みがましい視線へと変えて相手を見れば、あちらは心得たように頷いていた。
「わかった。この後は、俺が責任もってお前を気持ちよくさせてやろう」
「―――本当か?」
そこに含む意味がわからぬほど、自分は初心くはない。
「嘘か真かは、確かめてみるがいい」
「そうだな。それが一番確かだ」
くすくすくす…と笑みが喉を鳴らし、零れ落ちてくる。
「なら、雨宿りをしますか」
この気持ちよさに勝るとも劣らぬものを与えてくれるというのならば、それを受けてみよう。
肌を伝う雨水を振り払い、至極真面目に応える相手の腕に濡れた腕を絡めて、頭にかかる雨のヴェール脱ぐために、屋根のある場所へとシンタローは足を進めた。
――――――雨とどっちが気持ちよかったかは内緒にしとこうな?
春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声 花落つること知る多少
孟浩然『春暁』
「春だよな~」
「それとこれとの関係は」
明後日の方向を向く寝坊人間に、未処理の書類の束を突きつける。
朝一番に提出しなければいけないそれは、恐ろしいことに、まだ手付かずの状態だった。
昨日はあまり仕事が詰まってなかったために、早めに寝て、朝早くにこれを仕上げる予定だった。だが、こちらが別の仕事を片付けて、様子を見にいけば、まだぐっすり睡眠中のガンマ団総帥を見つけてしまったのである。
即座に叩き起こして、今、ようやく総帥席に着かせたところだった。
「10分後には提出なんだぞ。何を悠長に寝ていたんだ」
時間は刻々と迫ってきている。
「春眠暁を覚えず、という言葉をしらねぇのかよ」
「TPOでやってくれ」
「……んなのできたら、そんな言葉、存在しねぇよ」
じとりと不満げな視線を向けてくれるが、だからと言って、納得できるはずはない。
そのおかげで、現在かなりピンチな状況なのである。
だからといって、そこで長々と説教することはできなかった。
別に、相手の監視を怠ったことに対しての負い目があるわけではない。
本当に切羽詰っているのである。
(ああ、後8分)
バサリ。
書類の束を何も置かれていないデスクの上に置いた。
あちらこちらと忙しなく動いていた相手の視線も、それに視線が向けられる。
引き攣った顔は、お互い様。
ようやく動きだした総帥の前で、会議が始まる時間をどれだけ延ばせるかを頭の端で演算する。
(間に合ってくれ)
すでに神頼みまで行きそうなギリギリ具合が、胃をキリキリさせる。嫌な感じだ。
朝の柔らかい陽気が東向きの窓から、ふわふわと漂っているような空間の中で、ぴりりとした空気が流れ込む。というか、辺りを覆わせる。春の陽気など、今は一切必要ない。
「「とにかく、やるぞ」」
二人の声が合わさる。
それ以外言うべき言葉はなし。
――――――そう言えばこんなことは、もう何回目だ?(いい加減にしてくれ…)
夜来風雨の声 花落つること知る多少
孟浩然『春暁』
「春だよな~」
「それとこれとの関係は」
明後日の方向を向く寝坊人間に、未処理の書類の束を突きつける。
朝一番に提出しなければいけないそれは、恐ろしいことに、まだ手付かずの状態だった。
昨日はあまり仕事が詰まってなかったために、早めに寝て、朝早くにこれを仕上げる予定だった。だが、こちらが別の仕事を片付けて、様子を見にいけば、まだぐっすり睡眠中のガンマ団総帥を見つけてしまったのである。
即座に叩き起こして、今、ようやく総帥席に着かせたところだった。
「10分後には提出なんだぞ。何を悠長に寝ていたんだ」
時間は刻々と迫ってきている。
「春眠暁を覚えず、という言葉をしらねぇのかよ」
「TPOでやってくれ」
「……んなのできたら、そんな言葉、存在しねぇよ」
じとりと不満げな視線を向けてくれるが、だからと言って、納得できるはずはない。
そのおかげで、現在かなりピンチな状況なのである。
だからといって、そこで長々と説教することはできなかった。
別に、相手の監視を怠ったことに対しての負い目があるわけではない。
本当に切羽詰っているのである。
(ああ、後8分)
バサリ。
書類の束を何も置かれていないデスクの上に置いた。
あちらこちらと忙しなく動いていた相手の視線も、それに視線が向けられる。
引き攣った顔は、お互い様。
ようやく動きだした総帥の前で、会議が始まる時間をどれだけ延ばせるかを頭の端で演算する。
(間に合ってくれ)
すでに神頼みまで行きそうなギリギリ具合が、胃をキリキリさせる。嫌な感じだ。
朝の柔らかい陽気が東向きの窓から、ふわふわと漂っているような空間の中で、ぴりりとした空気が流れ込む。というか、辺りを覆わせる。春の陽気など、今は一切必要ない。
「「とにかく、やるぞ」」
二人の声が合わさる。
それ以外言うべき言葉はなし。
――――――そう言えばこんなことは、もう何回目だ?(いい加減にしてくれ…)