栗花落―――ついりの季節。
出会った雨に足を止めていた。
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
耳朶に触れた言葉に身体が反応する。
振り返る時に揺れる髪は、すでにしっとりと水気を含んでいて、重たく小さく跳ねた。軽く上向いた顔に、柔らかな水滴がいくつも降り注ぎ、肌に弾かれる。
雨が降る前にそこにいた。雨が降り始めてからもここにいる。動けなかったわけではなくて、動きたくなかっただけで、そうしていれば、いつのまにか全身が水気を帯びていた。
「風邪をひくぞ」
近づいたその人影は、眼前にまでやってくる。
「そうかもな」
それはわかっていたのだけれど、思わぬ気持ちよさに、ずっとこの状態を保ってしまっていた。
それもここまでで、近づいてきた人物に、身体は動く。頷いた自分は、そっと視線を持ち上げた。重たく垂れ下がる前髪の隙間から、その姿を覗く。声を聞いただけで、それが誰なのかはわかっていたけれど、その姿を目に映せば、自然と顔が綻んでいた。
自分を気遣うその言葉が嬉しい。
自分を想うその気持ちが愛しい。
けれど自分以外を映すその瞳が少し切ない。
こちらを見てくれていると思えば、空を仰いで漏らされていて、それに軽く吐息がもれた。
その溜息に気付いたのか、雨を受けていた顔が垂れ、
「中へ入らないのか?」
大きく傾けられる首。
こちらを覗き込む視線に、みっともなく濡れそぼった自分の姿が映り込む。それでも、口元に浮ぶのは笑みで、単純な自分の構造に、さらに笑いがこみ上げそうになる。
ゆっくりと振られる首は横で、視線は相手に定めたまま、下瞼を持ち上げるように笑みを作る。
「ああ。もう少し…気持ちいいから」
翳す手に落ちる雨が手首を伝う。
そのくすぐるような感触が心地よい。
全ての穢れが洗い流されるような、そんな錯覚を与えてくれる。
身体にまとわりつく、凝った想いも雨とともに、流れ落ちる。
洗い清められるようなそれに、離れ難い想いを抱いていた。
それに、久しぶりだったのだ。こうして雨を身体で受けるのも。
子供の時は、濡れるのも構わずに外に出て遊んでいたけれど、大人になってからは、雨が降れば、それを厭うように避けてきた。こうして自分から雨を打たれることなど、どれほどぶりなのかも分からない。
「ならば、俺も付き合おう」
「やめとけ。風邪、ひくぜ」
「そうなったら、お前が看病してくれるだろ?」
「できるわけねぇだろ。だったら、俺も一緒に風邪ひいてるって」
それよりも自分の方が雨に打たれていた時間が長いのなから、風邪をひく確率が高いだろうに。それとも、自分は馬鹿だから風邪をひかないとでもいいたいのだろうか。
そんなはずはないと思うが、つい勘ぐってしまう。ねめつけるような視線を送るものの、相手はさらりとそれを受け止めた。
「それは困るな」
言われた言葉に他意は見えずに、仕方がないので、そのまま頷いた。
「そうだな」
けれど、総帥とその補佐が共に倒れてしまえば大騒ぎだけではすまないだろう。立ち行かないことはないが、混乱は必須。あまり賢明な行動ではない。
それなのに、相手は動かない。
その優秀な頭で、この程度の予想がつかないわけではないのに。
自分と同じように、雨の中を立ち尽くす。
白糸のように降り注ぐ柔らかな雨の中で、その金糸に絡まる雫がぽとりと零れ落ちた。自分と同じように、濡れ鼠と変わっていく。なのに、動かない。
「――あのさ、もしかして待ってるわけ?」
「ああ」
ひょっとして、と思い漏らした言葉に、即座に返される。
その素早さに、眉を顰めてしまったが、そう言われてしまえば、こちらもそれなりの対応をしなければいけなかった。
「はあ。気持ちよかったんだけどな…」
たまには、雨に打たれるのもいい。
雨に溶け込むのも気持ちがいい。
しとしとと想いが雨に滲み込み、流れ落ちるのを感じるのも、好きだと思えたけれど―――。
「戻るぜ、キンタロー」
そんな好きよりも、もっと大事で大切な好きがあれば、仕方ない。
頑固な相手に、風邪をひかせたくないと思うならば、自分が動くしかないだろう。
自分と共にではなければ、ここから離れらないと決めているのだから。
「あぁあ。本当に気持ちよかったんだけどな」
名残惜しげな声をあげ、泣きっぱなしの天を仰ぐ。随分とここにいたために、びしょ濡れになり黒ずむような色合いとなった真っ赤な総帥服は、べったりと身体に張り付いていて、着心地はいいとは言えないけれど、それでも気持ち良さは、肌からではなく、心から感じられていた。
だが、それももうお終い。
未練がましい視線を空に向けてから、恨みがましい視線へと変えて相手を見れば、あちらは心得たように頷いていた。
「わかった。この後は、俺が責任もってお前を気持ちよくさせてやろう」
「―――本当か?」
そこに含む意味がわからぬほど、自分は初心くはない。
「嘘か真かは、確かめてみるがいい」
「そうだな。それが一番確かだ」
くすくすくす…と笑みが喉を鳴らし、零れ落ちてくる。
「なら、雨宿りをしますか」
この気持ちよさに勝るとも劣らぬものを与えてくれるというのならば、それを受けてみよう。
肌を伝う雨水を振り払い、至極真面目に応える相手の腕に濡れた腕を絡めて、頭にかかる雨のヴェール脱ぐために、屋根のある場所へとシンタローは足を進めた。
――――――雨とどっちが気持ちよかったかは内緒にしとこうな?
出会った雨に足を止めていた。
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
耳朶に触れた言葉に身体が反応する。
振り返る時に揺れる髪は、すでにしっとりと水気を含んでいて、重たく小さく跳ねた。軽く上向いた顔に、柔らかな水滴がいくつも降り注ぎ、肌に弾かれる。
雨が降る前にそこにいた。雨が降り始めてからもここにいる。動けなかったわけではなくて、動きたくなかっただけで、そうしていれば、いつのまにか全身が水気を帯びていた。
「風邪をひくぞ」
近づいたその人影は、眼前にまでやってくる。
「そうかもな」
それはわかっていたのだけれど、思わぬ気持ちよさに、ずっとこの状態を保ってしまっていた。
それもここまでで、近づいてきた人物に、身体は動く。頷いた自分は、そっと視線を持ち上げた。重たく垂れ下がる前髪の隙間から、その姿を覗く。声を聞いただけで、それが誰なのかはわかっていたけれど、その姿を目に映せば、自然と顔が綻んでいた。
自分を気遣うその言葉が嬉しい。
自分を想うその気持ちが愛しい。
けれど自分以外を映すその瞳が少し切ない。
こちらを見てくれていると思えば、空を仰いで漏らされていて、それに軽く吐息がもれた。
その溜息に気付いたのか、雨を受けていた顔が垂れ、
「中へ入らないのか?」
大きく傾けられる首。
こちらを覗き込む視線に、みっともなく濡れそぼった自分の姿が映り込む。それでも、口元に浮ぶのは笑みで、単純な自分の構造に、さらに笑いがこみ上げそうになる。
ゆっくりと振られる首は横で、視線は相手に定めたまま、下瞼を持ち上げるように笑みを作る。
「ああ。もう少し…気持ちいいから」
翳す手に落ちる雨が手首を伝う。
そのくすぐるような感触が心地よい。
全ての穢れが洗い流されるような、そんな錯覚を与えてくれる。
身体にまとわりつく、凝った想いも雨とともに、流れ落ちる。
洗い清められるようなそれに、離れ難い想いを抱いていた。
それに、久しぶりだったのだ。こうして雨を身体で受けるのも。
子供の時は、濡れるのも構わずに外に出て遊んでいたけれど、大人になってからは、雨が降れば、それを厭うように避けてきた。こうして自分から雨を打たれることなど、どれほどぶりなのかも分からない。
「ならば、俺も付き合おう」
「やめとけ。風邪、ひくぜ」
「そうなったら、お前が看病してくれるだろ?」
「できるわけねぇだろ。だったら、俺も一緒に風邪ひいてるって」
それよりも自分の方が雨に打たれていた時間が長いのなから、風邪をひく確率が高いだろうに。それとも、自分は馬鹿だから風邪をひかないとでもいいたいのだろうか。
そんなはずはないと思うが、つい勘ぐってしまう。ねめつけるような視線を送るものの、相手はさらりとそれを受け止めた。
「それは困るな」
言われた言葉に他意は見えずに、仕方がないので、そのまま頷いた。
「そうだな」
けれど、総帥とその補佐が共に倒れてしまえば大騒ぎだけではすまないだろう。立ち行かないことはないが、混乱は必須。あまり賢明な行動ではない。
それなのに、相手は動かない。
その優秀な頭で、この程度の予想がつかないわけではないのに。
自分と同じように、雨の中を立ち尽くす。
白糸のように降り注ぐ柔らかな雨の中で、その金糸に絡まる雫がぽとりと零れ落ちた。自分と同じように、濡れ鼠と変わっていく。なのに、動かない。
「――あのさ、もしかして待ってるわけ?」
「ああ」
ひょっとして、と思い漏らした言葉に、即座に返される。
その素早さに、眉を顰めてしまったが、そう言われてしまえば、こちらもそれなりの対応をしなければいけなかった。
「はあ。気持ちよかったんだけどな…」
たまには、雨に打たれるのもいい。
雨に溶け込むのも気持ちがいい。
しとしとと想いが雨に滲み込み、流れ落ちるのを感じるのも、好きだと思えたけれど―――。
「戻るぜ、キンタロー」
そんな好きよりも、もっと大事で大切な好きがあれば、仕方ない。
頑固な相手に、風邪をひかせたくないと思うならば、自分が動くしかないだろう。
自分と共にではなければ、ここから離れらないと決めているのだから。
「あぁあ。本当に気持ちよかったんだけどな」
名残惜しげな声をあげ、泣きっぱなしの天を仰ぐ。随分とここにいたために、びしょ濡れになり黒ずむような色合いとなった真っ赤な総帥服は、べったりと身体に張り付いていて、着心地はいいとは言えないけれど、それでも気持ち良さは、肌からではなく、心から感じられていた。
だが、それももうお終い。
未練がましい視線を空に向けてから、恨みがましい視線へと変えて相手を見れば、あちらは心得たように頷いていた。
「わかった。この後は、俺が責任もってお前を気持ちよくさせてやろう」
「―――本当か?」
そこに含む意味がわからぬほど、自分は初心くはない。
「嘘か真かは、確かめてみるがいい」
「そうだな。それが一番確かだ」
くすくすくす…と笑みが喉を鳴らし、零れ落ちてくる。
「なら、雨宿りをしますか」
この気持ちよさに勝るとも劣らぬものを与えてくれるというのならば、それを受けてみよう。
肌を伝う雨水を振り払い、至極真面目に応える相手の腕に濡れた腕を絡めて、頭にかかる雨のヴェール脱ぐために、屋根のある場所へとシンタローは足を進めた。
――――――雨とどっちが気持ちよかったかは内緒にしとこうな?
PR