次の会議に使う資料の一部を探しにキンタローとオレとで入った倉庫は少し埃っぽい狭い部屋。
ガンマ団の隅々まで清掃が行き渡るのは実は無理なんだよな。
重要な資料を保管している場所だとそれを閲覧&持ち出せるだけの人物でなければ入る事が出来ない。
保管部屋の鍵も秘書2人が持っていて、鍵を借りるには二人の許可を取らなくてはならない。
総帥のオレですら理由言わなきゃ借りられねぇし。
ま、他の連中じゃ、理由を言ってからめんどくせェ書類まで書いて許可書貰わなきゃ借りれねえらしいけど。
「あー、これか?」
目当ての資料を棚から引き抜いてキンタローに手渡す。
「ああ、これだな」
パラパラと目を通してふむ、と頷く。
よしこれでOK。
「んじゃ戻るか」
「そうだな。今日のノルマがまだ残っている」
「は~…、そろそろ休暇でも設けてどっかに行きてえよ」
「それはオマエ次第だろう」
「ムカつく~」
倉庫の扉を越える時、くしゃっと笑いながらキンタローに上半身だけ振り向いた。
特に何かを意識しての動きじゃなかったから直ぐに前に向き直ろうとした――――瞬間に。
ぐいっ
「おわッツ!?」
腕を強く引っ張られ、そのままキンタローの肩に額をぶつけた。
額より捻られた腕が痛ェよ…。
「何だよイキナリ!」
直ぐに顔を離して軽く睨んでやれば、キンタローの目がベッドの情交の時に見せる、あの熱っぽさを帯びているのに気付いた。
「…え、何だよ…」
ここは重量資料を保管している倉庫でオレ達はまだ仕事中で、なのにまるで熱い夜の中に置かれているような錯覚を感じた。
こんな目をするキンタローはその時しか見ないから…。
柄にも無く内心狼狽するオレに構わずか、キンタローの手が突然襟を滑って服の中に侵入してきた。
「うわッツ!?」
素っ頓狂な声を上げるオレを無視して、入り込んだ手の平は遠慮を知らず、大胆に這い回る。
「ちょ…待っ…………!何だっつーの!!オイ!キンタロー!!!」
「前から思っていたが、この服は問題だな」
瞳の熱情以外は無表情に脇の辺りに指を滑らせながら言う。
「は!?問題って……」
すっかりキンタローの愛撫を覚えた身体は、あっという間に熱を帯びていき、呼吸も徐々に荒くなっていく。
「正確に言えばここだ」
ここって…、キンタローの手が入り込んだ胸元かよ。
「開き過ぎだ。その気のある者を誘っていると誤解されても仕方が無いぞ。だけではない。
さっき振り向いた時に見え難いところも少しばかりだが見えてしまった。
ただでさえ目立ちすぎる赤い服に胸元を強調するのはどうかと……」
「親父だって、昔これと同じの着てただろうが!」
「マジック叔父貴はいい。別にオレはマジック叔父貴に欲情したりはしないからな」
「は…!?」
論争してる間にもキンタローの手の動きは止まず、無感情を思わせる声色を発していた唇がオレの首筋から鎖骨まで行き来する。
ここまでされると、流石に声も漏れてくる。
「っく…は…」
頭の中がぼんやりと霧がかってくる。
その隅で、倉庫の出口が閉まる音を聞いた。
暗く埃っぽい狭い一室を照らす豆電球で辛うじて互いが見える程度。
―――……ってまさかここでヤる気かよ!?
それは流石に不味ぃだろマジで!!
「本気の本気で待てよキンタロー!今はまだ仕事中だろ!?忘れてんじゃねーーー!!!」
大体何時も仕事中にイチャイチャしようとして「仕事中だ」と一刀両断するヤツは誰だよ!
テメエがその気になりゃあ問題無しか!?
つーか、さっきオレのノルマがどうとかぬかしやがったのはテメエだー!
快楽を感じる半分、怒りの感情も湧き上がってきた。
「オマエが悪い」
「この…ッ、人の所為にすんじゃねーーー!!!」
「正確にはオマエとその服だな」
「ふざけんな馬鹿野郎ッツ!!」
ここまで言われて大人しく抱かれてやるかよ!
抱き込むキンタローの腕から逃れようと、握り拳を振り上げて暴れだす。
けどその時に腰のベルトも外されてしまう。
ズボンまでずり落ちなかったが、入り込む隙間の出来たそこに手を伸ばしてきた。
「……ぐッ!」
男の一番感じ易い部分に触れられると、ずくんとそこに熱が集まる。
乱暴ではなく優しいその動きがどうにももどかしくて仕方が無い。
もっと強くして欲しいと――――
…ってどうするよオレ。
流石にここまでされて途中でお終いは出来ねえよ。
もういっそこのまま抱かれても………とは思っちまうが、流石に場所が場所だけにヤバ過ぎる。
中からも鍵は閉められるし防音対策もしっかりしてるからそれはいいとして、ここで互いにイッちまったら後処理どうするよ。
コイツ、そこまで考えてヤろうとしてんのか?
しかも脱がせねえままだから、このままされたら下着も汚れちまう。
「キンタ、ロー…ッ!テメ…ッ、後処理とか……どーすんだよッ!!
………っく…ッ………れに、このままだと下着………が汚れ……ち………んくぅッ」
「そうだな」
そうだよ。
内心激しいツッコミを食らわす。
「ならここまで下げるか」
ずるりと膝上まで下着ごとズボンを下ろされる。
……いや、そこまでだとまだヤバくねえか?
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香ばしいコーヒーの香りが部屋の空気を包み込む。
あまり飲みすぎるなとアイツには言われるが、徹夜作業が続く為に欠かせない。
それにコーヒーの香りは落ち着く。
紅茶よりはオレがコーヒー党な為だろう。
ただインスタントのコーヒーはイマイチ香りが楽しめない。
眠気覚ましの為に飲むのだと思えば問題にする事じゃないが、やはりオレは多少面倒でも一から煎れる。
まぁ、普段はオレが煎れるまでもなく周りの者が気を使っていいタイミングで運んでくれるのだが。
ふと、彼の顔を思い出す。
「アイツも今日は徹夜で作業してるんだろうな…」
近頃お互い仕事が立て込んでいて徹夜状態が続いて一週間くらいは経ったと思う。
仕事以外で残された時間は生活―――生きていく上で必要最低限+身嗜みに消費され、同じ敷地内に職を置き、
共に暮らしている恋人同士だと言うのに仕事以外でまともに言葉を交わす事も出来ていない。
忙殺されながらも、会いたいと思う。
仕事抜きのプライベートで。
酒とつまみを持って語り明かすも良し、ベッドで互いの体温を確かめ合うのも悪くない。
「アイツにも、これを持っていくかな…」
持っていくしかないだろう。
既に二人分のコーヒーはお盆に鎮座しているのだから。
彼の仕事もあともう一頑張りすれば片がつく筈だ。
3時間前に顔を合わせた時に今抱えてる量の残りを聞いて計算してみる。
そろそろ一段落つく頃だろうから、明日には久し振りにお互い時間を持てる筈だ。
誰にも―――アイツにすら言ってないが、彼が仕事を落ち着かせる頃を狙ってスケジュールを組んでいた。
「ならお互い、今日中に仕事を片付けた方がいいな」
自分と彼の気合入れに、二人分のコーヒーと当分補給の為に少量の菓子を添え、小さなお盆に乗せてアイツの元へと向かった。
「「あ」」
2人が声が廊下の曲がり角でぴったりと合わさる。
まず目線はお互いの存在を確認。
それから注がれる先は互いに手に抱えているソレ。
「もしかしてそれってオレに…?」
「シンタローもか」
「ぷ…っ、はは…ッ。そうだよ全く。……クックッ、オマエに差し入れしてやろーと思ってたのにな。……あははッ」
ああ可笑しい。
可笑しくてクックと笑い声がお腹の底から溢れ出す。
お菓子は少量だったからまだいい。保存も利くし問題は無い。
ただ2人が用意したのを合わせて4人分のコーヒーはどうしようか。
お客様用のカップなら小さめでいいが、用意したのは大き目のコーヒーカップなので、
2杯も飲むのは疲れている胃に負担が掛かりそうだ。
冷える夜に温くなる4つの黒い液体。
可笑しくて笑えてしまうほど似通った思考回路。
普段は対極のように周囲からは見られる二人は、実は根本的なところは似ていてる。
以前はそれは元々1人の人物であったからだと思っていた。
でも違うと知ったのは何時だったか。
お互いに対して似通った事をしてしまうのは、それだけ想い合っているから。
何時だって想ってる。何時だって気に掛けている。
出来る限りの時間を共有したいと思っているし実際そうしてきた。
だからこそこうして同じ気遣いまで似てしまうのだ。
「おっかしーの。これで何度目だよ」
「二桁はいった、か…?」
未だお盆を抱えたままクックと笑いを洩らすシンタローに、
どこまでも真剣に眉を寄せて同じ事を互いにして困りながらも喜んだ幸せ数を思い出しているキンタロー。
2人の用意した4人分のコーヒーがほわほわした湯気を消している事も、今の時間帯の廊下の冷えも部屋に残してきた仕事の小山も、
シンタローもそして今まで真剣な顔をしていたキンタローも今は気付かない。
くすぐったい空気のなか小さく笑っていた。
夢を見た。
自分以外は誰もいない、何もない空間。空間と呼べるのかも定かでない。
ただ、自分自身が、そこに在ることだけは確かだ。
こんな非日常の状態に、夢の中でも、夢だと認識している。
そう自身が捉えている所為か、不思議と落ち着いている。
「シンタロー。」
何処からともなく声がした。己の他に存在を主張するそれに、慌てて回りに目を凝らす。
すると、いつの間にか背後に、自分と良く似た面差しの男が立っていた。
歳も、そう変わらないと思われる、その男の声は、一度だけ聞いたことがある。
そして、そのたった一度きりの奇跡の出会いは、忘れたくとも忘れられない。
「――父さん――。」
穏やかに微笑む父は、あの最期のときと同じ――。
「おまえは、おまえとして生きるんだ。」
「・・・俺として・・・?」
謎掛けのような言葉に、真意を量りかねていると、
「シンタロー。」
また同じく呼びかけられる別の声。けれども、今度は息を飲み込んだ。
振り向く先に、夢でも鮮やかに浮かび上がる赤と黒。この鮮烈な存在は、自己の知るうちで、たったひとりしかいない。
「――っ! 何故――、何故、おまえがその名で呼ぶ!?」
咆哮――まさしく、そうだった。『その者』から『その名』で呼ばれた途端、怒りが込み上げ口を突いた。
いや――怒り――なのだろうか。
それよりも、もっと強い何かが、身体中を渦巻く。それが出口を探して彷徨っているのに、俺はその術を知らない。
「今まで悪かったな。元々、これはおまえのものだったのに、俺が使ってしまっていた。」
やめろ。そんなことは聞きたくない。
「だけど、おまえに返す。――24年間、済まなかった。ありがとう。」
深々と頭を下げる『おまえ』。
やめてくれ。俺はそれを望んでいたわけじゃない。
『その名』が失われることが、どういう意味を持つことなのか、わかっているのか?
24年間掛けて築いたおまえの存在そのものの消滅を、おまえ自身が望んでいるわけではないだろう!?
――いくら心内で叫ぼうとも、それは音にならなければ無意味だ。
声帯が凍り付いているのか、喉から外に出すことが出来ない。
それでも、この叫びは相手に届いたのだろうか。困ったような、儚げな微笑を浮かべた後、『その者』と父は背を向け歩き出す。
待って――待ってくれ! 俺を独りにしないでくれ!!
大体、無責任じゃないか! 俺をこの世界に放り出し、おまえは去っていくだと!?
そんな勝手は許さない!!
捕らえるように精一杯腕を伸ばし、彷徨う全ての感情を吐き出し叫んだ。
「シンタロー!!」
――そこで、夢は醒めた。
NAME
「シンタロー君! おはよう。」
右手を高く上げ、正面からベージュ色のリノリウムを軽やかに蹴って駆けてくる。
全面ガラス窓のこの廊下は、陽光が燦燦と降り注ぐ。
一族特有の金糸が歩を運ぶ度に、朝日を浴びてキラキラと光を弾いた。
「・・・グンマか。」
「『グンマか』は、ないでしょ! シンタロー君。
朝会ったら、まずは『おはよう』だよ!」
頭半分程低い金髪が眼下で、ぷくっと頬を膨らませ窘める。
この世に出でてから、俺は亡き父を崇拝していたドクターに預けられた。
両親をとっくに喪い、兄弟もいない、家族というものがない俺を、是非にと申し出る彼に反対する親族はいなかった。
24年間外界と遮断されていたといっても、全く何も知らないわけではない。
干渉をされない、できない位置にいても、『あの者』を通して状況は見知っていた。
生きる上で必要な最低知識、言語や生活慣習、親族関係、更には一族が支配する組織の基本的な部分はある。
けれども、それらは本当に『知識』だけで、実体験のない俺は、やはり何処か違っているらしい。
保護者であるドクターは、所謂『教育』を担い、こういう社会上の潤滑油というべき『教養』は、同じく彼に育てられた従兄弟のグンマが買って出た。
保護者が同者ということで接触する機会が多いこともあろうが、それよりも、どうもこの従兄弟は世話を焼きたいらしい。
一族で最年少は前総帥の次男だが、あの子は今は眠っている。
そうなると、次は俺を含む3人の従兄弟たち。
尤も、俺は最近加わったばかりだから、残りふたりのうち、このグンマの立場が弱かった。
ここで示す『立場』は、対外的な、つまり総帥の息子であるか否かという次元ではない。あくまで、当事者間での力関係だ。
要は性格的なもので、彼は甘える側だったということだ。・・・『あの男』は世話好きだからな。
実弟がいることは、いるのだが、そんな彼にとっては、俺は、弟が出来たようなものなのだろう。
生活上の細部に亘って、ひとつひとつ、それは楽しそうに構い、教授している。
「はい、『おはよう』」
人差し指を立て、言い聞かせるように再度同じ言葉を発する。まるで幼子扱いだ。
しかしながら、彼の持つ柔和な雰囲気が、憤慨を相殺させる。
それに、彼は決して誤ってはいない。
「・・・おはよう。」
素直に従うと、従兄弟はいつもの少女めいた笑顔になった。
上機嫌に俺の腕を引っ張り、
「今日もいい天気だね。ほんと、お天気で良かったよ。今日はシンちゃんが帰ってくるんだから。」
――ああ、なるほど。彼の機嫌の良さは、『あいつ』が帰ってくるからか。
グンマは俺と、もうひとりの従兄弟を、『シンタロー君』『シンちゃん』と呼び分けている。
あの島で区別する為に、一時『キンタロー』と命名されたが、俺は納得いかなかった。
自分こそが総帥の息子、シンタローであるのに、何故別名を与えられるのか。
そう主張すれば、誰も、当のシンタローも反論しなかった。
結局は、俺は総帥マジックの子供ではなかったけれども、『シンタロー』だけは譲れなかった。――俺は、『青の一族』であることを譲れなかった。
従兄弟のように周囲は、各々俺たちふたりの呼び名を工夫しているようだが、同名の自分たち互いに於いては、どう呼びあっていいのか悩み所だ。
『おい』とか『おまえ』とか。
『ニセ者』などと、敵意剥きだしの頃もあったが、今となってはあの感情も遠い。
そうなると自然と足は遠のき、元々好意があったわけでもなかった為、彼の動向に疎くなっていた。
ここ暫くは遠征で留守であることくらいは聞き及んでいたが、本日帰還だったとは。
「午後に帰ってくる予定だって。だから今日は、午前中に頑張るよ! そして、お迎えに行くんだからね!」
「・・・は?」
「『は?』じゃないよ! シンタロー君も行くんだよ!」
ビシッと有無を言わせない口調でグンマは目を見据える。
どうも、こういうときの彼は苦手だ。同じ碧眼でも、そのまっすぐな瞳は自己が持ち得ないもの。
「俺は・・・別に・・・。」
思わず逸らした俺に続けて、
「ダメ! シンタロー君、シンちゃんを避けているでしょう。
シンちゃんも総帥になってから凄く忙しいみたいだからさ、会えるときは会っておかないと。」
図星を指された。
「・・・シンちゃんも、避けているみたいだしさ・・・。」
先刻までの強い口調がナリを潜めて、ぼそりと呟かれる。
視線を外していた俺はそのままで聞いていたが、チクリと何かが刺さった気がした。
あいつが俺を避けている、そんなのは当然だろう。実際、こちらもそうなのだから。
俺たちの相反する存在に、互いが親しみを抱くわけがない。
それなのに、この痛みは何なのか。
俺は自身のことながら理解不能だった。
グンマの宣言通りに、午前中は詰め込み授業が行われた。
「高松、今日は午前中で終わらせてね。午後はシンちゃんのお迎えに行くの。」
教師でもあるドクターにそう指示すると、
「僕も今日は、ここでやろっと。」
と、得体の知れない設計図を持参して、返事を待たずに、さっさと備え付けのキーボードを叩きだした。
その姿に、
「仕方ありませんねえ。」
ドクターは苦笑混じりに従った。
彼はグンマに甘い。逆らった姿など、ついぞ見たことがない。
確かにグンマの『お願い』は、無理難題はない。だが、甘やかしすぎではないかと思う。
一度それを指摘すると、彼は何のことはない、と穏やかに微笑んだ。
「あの方は、私の宝です。本当なら恨まれても蔑まれても当然の私を、赦して下さいました。
そして、『24年間、ありがとう』とまで言って下さったのです。この私に。」
「・・・罪悪感から甘やかしているのか?」
「そんなことはありませんよ。悪いことは悪いと、きちんとお教えして育てました。
その証拠に、あの方は我侭を言われますか?」
「・・・いや。」
「グンマ様は、相手の負担にならないよう、見極めてお願いをされます。聡明な方ですよ。
・・・シンタロー様も、甘えて下さってよろしいのですよ? あなたも私の大事な宝です。
――尤も、私にそんなことを言える資格などありませんけどね・・・。」
「俺は・・・おまえに感謝している。『あいつ』ではなく、俺の為に泣いてくれた人だ。」
「・・・ありがとうございます。」
泣きそうな笑い顔だった。
監視付きの本日の授業は、午前を20分程残すところで終了した。
「今日は、かなり駆け足で進めましたので、お疲れになったでしょう。後はゆっくりと、お休み下さい。」
労いの言葉を掛けて高松が退室する。
「お疲れー、シンタロー君。お茶、淹れるね。」
腰に掛かる髪を揺らして食器を扱うグンマ。
「・・・邪魔じゃないか? その髪。」
後ろ姿を見、何とはなしに口を突いた。
「うーん、そうだねえ。
ずっと伸ばしてて慣れているから、あんまり感じないけど、シンちゃんみたいに結んだほうがいいかなー。」
振り向きもせず作業を続けながらの答えが返る。
今でこそ解き流し、赤い服を纏うあの男は、それまで滝のような長い漆黒の髪を括っていた。
強烈な南国の光の中に浮かび上がるモノトーンが脳裏に蘇る。
「それか、いっそのこと切っちゃうとかね。
シンタロー君も、邪魔だと思う?」
ふたり分のカップとティーコジーを被せたポットを乗せたトレイを持つグンマは、両手が塞がっている為に、目で俺の髪を指し示した。
自身も彼と変わらない長さである。
ひと房掴むと、また『あの男』と『あの島』での戦いがフラッシュバックした。
――囚われているのか?
影を断ち切るように大きくかぶりを振り、
「そうだな・・・。」
窓の外へと目線を向けた。
ここは研究棟の一部で、向い側に一般棟が臨める。そこには忙しなく行き来する多くの団員。
それらを散漫と眺めていると、
「お茶、入ったよ。」
柔らかい声に引き戻された。
目の前の紅い液体から白い湯気と芳香が昇っている。
「今日はオレンジ・ペコーにしてみました。どうぞ。」
にっこりと屈託のない微笑に押され、一口含む。
「・・・美味い。」
俺の簡素な反応に笑みを深めたグンマは、
「良かった。」
と、自身も口に運んだ。
晴れ渡った空と平穏な空気。
およそ武力集団に似つかわしくないが、天候は誰にも公平に与えられるし、戦下でなければ、こんなひとときを味わっても罰は当らないだろう。
俺は、ここに戻ってきてから、ずっと思い悩んでいたことを、同じ立場であろう従兄弟に問うてみたくなった。
恐らく、今朝の夢が切欠になったと思う。
「・・・グンマ。」
「何?」
「・・・俺とおまえは、生まれてすぐに取り替えられた。」
「うん。」
「本当は、おまえはマジック伯父貴の息子、『シンタロー』だ。
そう考えたことはないか?」
核心に触れる。
本来ならば、彼が『シンタロー』で、自分は『グンマ』のはずだ。 24年前の事件さえなければ、そう育っていたはず。
ところが、大きな青の双眸を更に見開いて一瞬動きを止めた後、従兄弟は声を立てて笑い飛ばした。
「ぼっ、僕が『シンタロー』? 考えてもみなかったなあ。」
「なっ・・・!」
「僕の名前は、『グンマ』以外に思いつきもしないもん。」
けらけらと陽気に笑うグンマに、思考回路が全く異なることを、改めて知った。
聞くだけ無駄だったか――と。
「『グンマ』という名前はねえ、お母様――本当は君のお母様だね。叔母様が付けてくれたんだよ。
確かに叔母様は、僕を自分の子供だと疑わずに名付けてくれたんだと思うよ。
だけど、間違いなく『僕の』名前だ。『僕に与えられた』名前だ。」
先刻までの、ふわふわと浮いた雰囲気は消えていた。笑顔こそ絶やさないが、語る瞳は強い光を帯びている。
「きっと、この名前には叔母様の想いが込められているだろうし、僕はこの名前で24年間生きてきた。
名付けてくれた人の想い、僕をこの名で呼んだ人たちの想い、そして僕自身の想い。
『グンマ』は僕の歴史でもあるんだよ。だから、他のものに変えられない。
名前は、その人と共に在るものだと、僕は思う。」
それから、また愉快げに笑い出した。
「それに、ころころ名前変えちゃったら、皆、混乱するよねえ。
昔の人って大変だっただろうな。」
いつもの従兄弟に戻っていたが、俺の頭の中に、あの強い瞳と言葉がしっかりと焼きついた。
『名前は、その人と共に在るもの』
俺は――『シンタロー』は、本当に俺と共に在るのだろうか。
俺は24年間、『あの男』の中にいた。だから、『シンタロー』という名を授けられたと言っても、過言ではない。
だが、その名を呼んでいた者たちにとって、『シンタロー』とは――。
ふう、と肺の中の空気を入れ替える気持ちで大きく息を吐き出し、再び窓外に目をやる。
と、先程は至って平和だった一室が、俄かに騒然と湧いている様子が覗えた。
「――っ!!」
何も考えなかった。ただ、思考より先に身体が動いた。
「シンタロー君? どうしたの?」
いきなり立ち上がった俺に、グンマが訝しい声音を投げる。
それに答えず、既に歩は扉へと向かっていた。
「ちょっ、どうしたのさ!?」
背後から甲高い声がついてくるが、構っている余裕はない。ひたすら目的地へ駆ける。
嫌な胸騒ぎがして堪らない。予感めいた焦燥感が俺を追い立てる。
俺は、何かを失おうとしているのかもしれない。
それは、手放したら二度と掴めない。そう本能が警鐘している。
棟を繋ぐ長い廊下の奥に、目的の人物を捉えた。
「ティラミス! チョコレートロマンス!」
「シンタロー様!? グンマ博士も・・・。何でしょうか?」
総帥付秘書官らしい落ち着いた応答。しかし、俺は出会い頭瞬間の動揺を見逃していなかった。
「何があった。」
「・・・何のことですか?」
眼前の表情は変わらない。まるで能面だ。
「とぼけるな! あいつに何かあったんだろう!? でなきゃ、総帥室があんなに慌しくなるか!!」
「えっ!? シンちゃんが、何か!?」
俺の詰問に、後方でおろおろと成り行きを見守っていたグンマも、驚愕の音を立てた。
「そっ、そんなに大声を出さないで下さい!! 団員に知られます!」
慌てて俺たちを制するチョコレートロマンス。その態度が、俺への充分な答えになっている。
「何か、あったんだな?」
「あ。」
己の落ち度に顔を顰める同僚を、隣のティラミスが軽く小突き、観念したような溜息を吐いた。
「・・・ここで騒ぐわけにはいきません。おふたりも御同行願います。」
場を仕切る彼に従い、俺たちはその場を後にした。
早足で移動しながら、秘書官の説明を聞く。
「総帥は既にお戻りになられています。今はメディカルセンターにいらっしゃいます。」
「メディカルって・・・シンちゃん、怪我したの!?」
「ええ。」
胸に衝撃が走った。知らずに彼らを睨んでいたらしい。――八つ当たりだとわかっていても。
「・・・そんなに怖い顔をなさらないで下さい。命に別状はありませんよ。」
苦笑し指摘するチョコレートロマンス。言葉に出されると恥ずかしさが込み上げる。
照れ隠しで、ぶっきら棒に言い放った。
「・・・元々、こういう顔だ。」
「はい。そういうことにしておきます。」
まだ笑い堪えている彼を無視して、ティラミスが話を続けた。
「チョコレートロマンスが言った通りに、大怪我ではありません。ですが、総帥が怪我をされたとあっては、団内が乱れます。
ですから、予定よりも早い、極秘の帰還となったわけです。
そのままセンターにお連れして、今頃はドクター高松の手当てを受けていらっしゃると思いますよ。戦場では応急処置にしかなりませんから。」
「そっか。高松が診てくれているなら安心だね。良かったね、シンタロー君。」
『良かったね』と振られても、素直に答えることができようか。
仄かに熱い顔を背けたままに返事もしなかった。彼らの位置からは、この顔は見えないだろう。
俺は、このときほど自身の長身に価値を見出したことはなかった。
メディカルセンターに着いてから、どの処置室に総帥はいるのかと局員に尋ね――る必要はなかった。
「バカヤロー!! 放せっ、クソ親父っっ!!」
「――あそこだな。」
漏れる、というには音量が超大な一室を目指す。
果たしてそこは、前総帥の伯父とドクター高松、そして現総帥の『あの男』という顔ぶれだった。
「シンちゃん、大丈夫なの? 怪我しているのに、そんなに暴れて。」
そいつは、接近する父親に蹴りを与えていた。
「大した傷ではないといっても、結構な深さはありますよ。
まだ塞ぎきっていないのですから、開いたら知りませんよ。」
手当ては済んだのだろう、白い包帯で腹部全体を覆われた姿が痛々しい。
医師とは思えない薄情な物言いの高松に、
「それは、このアーパー親父に言ってくれ!」
「シンちゃん、ひどいっ! パパはシンちゃんのことが心配で堪らないのにっ!」
「そう言いながら、怪我人に抱きつくんじゃねえっ!!」
げしっと再び蹴りが飛び出す。足は無傷のようなので、そこを武器にしているのだろう。
見た目程に衰弱はしていない。――密かに安堵する自分を自覚した。
医療施設にはおよそ似つかわしくない乱痴気騒ぎに、俺の背後で傍観している秘書官ふたりが、ぼそりと一言零す。
「・・・マジック様には知らせなかったよな。」
「俺はドクターだけに知らせたはずだ。しかも、他言無用と念押したんだが。」
招かざる客がいる。彼が如何様にして嗅ぎつけたのか。
それを問えば、返ってくる言葉はこの俺でも容易に予想できる。何しろ、溺愛する息子だ。
『シンちゃんのことなら、なーんでもわかるよv』
秘書官は口を閉ざした。
「お父様、シンちゃんは怪我しているんだから遠慮してよ。」
もうひとりの息子に、ぴしゃりと釘を刺された父親が、涙目を別の息子に向ける。
彼は、うんうん、と頷き良識的な発言に同意を表す。
「シンちゃ~~ん。」
滂沱の涙を双眸から垂らしながら、未練がましくも大人しくなった。
やっと何とか静かになった部屋で、ふと黒い瞳とかち合った。
「あ――。」
「でも、どうして怪我したの?」
俺に向かってなのか開きかけた口を、横から入った高い声に閉ざさるをえない。
彼は視線をも俺から外し、従兄弟に説明した。
「あー、それがさ・・・遠征先のテロリストが結構しぶとくてよ。
このまま長引けば、市民への被害が拡大しそうだったんで、一気に決めてやろうと思って、眼魔砲をあいつらの本拠地にぶっ放したんだよ。」
そのときを思い出しているのか、自身の右手を見つめた。
「・・・だけど――。」
その手を頭部に移動してガリガリと掻く。
「最小限にパワーを抑えるのが、まだ上手く出来なくって・・・少し目標誤った。」
「――それで、民間人の少年が巻き込まれそうになって、総帥が庇われたそうですね。
その際に負傷されたと報告を受けています。」
淡々と引き継ぐティラミスに、
「う・・・面目ねえ・・・。」
結局、原因は自分自身だということだ。
失態を素直に認めると、一層照れ隠しに掻く。
破壊だけが目的だった団は、新総帥の下、劇的な改革を為した。
そして、今までは破壊の為だけだった一族のこの強大な能力も、最終手段に、最小限にと意識されている。
まだ彼は、己の持つ破壊力を完璧にコントロール出来ていないということか。
恥じ入る姿をまじまじと眺めていると、視線を感じたのか、再度黒い双眸が向けられた。
「・・・何だよ。カッコ悪ぃとか思ってんだろ。」
子供じみた拗ね方をする。こいつはプライドが高いから、失敗すると不機嫌になることは知っている。
下手に応答しないほうが得策だと思い黙っていたが、続けられた言葉は、俺を充分に激怒させた。
「俺が無事で残念だったな。
『シンタロー』は当分やれそうにねえ――。」
次の瞬間、俺はそいつの横っ面に拳を叩き込んでいた。
「シンちゃんっ!!」
「シンタロー君!?」
「シンタロー様!?」
「総帥!!」
様々な叫びが交錯する中、俺の目は診察台に倒れた男しか映していない。
「てっ、めえっ! 何しやがるっ!!」
「怪我人だから手加減しておいた。」
「何、ふざけたことを言ってやがるっ!!」
上半身を起こしながら凄むこいつは、何もわかっていない。
『シンタロー』をやる、だと?
それは即ち、おまえ自身の消滅を意味するというのに。
襲い掛かる腕を取り、顎を掴み上げた。間近に覗く黒曜石に己が映っている。
「・・・いいか。『シンタロー』は、おまえだ。おまえが、『シンタロー』だ。
俺にやるなど、二度と言うな。」
驚きで顕著に拡大する瞳孔を一瞥して、捕らえていた手を放せば、そのままどさりと大柄な躯体が力なく崩れた。
誰も彼もが呆けた顔で、唖然とした空気が漂う。
「高松。」
「あっ、はい。」
呼ばれ、はっとこちらを向く彼に、俺はひとつの提案を出した。
「・・・以前、俺に『キンタロー』と名付けたな。――俺は今日から、『キンタロー』だ。いいな。」
「・・・はい。シン――いえ、キンタロー様。」
それだけで、心得た、と名付け親は静かに受け取る。
この名は、俺に与えられた、俺だけの名前だ――。
「それから、伯父貴。」
「何だい?」
返ってきた声音は極めて平常なもの。
場の急展開にも、すぐさま冷静になる伯父は、さすがに一団を率いてきた人物だと改めて確信した。
「俺はこいつの――シンタローの補佐をする。総帥が戦地でこんなヘマをやるようじゃ、団も落ち着けないだろう。」
「なっ!!」
「ああ、それはいいねえ。」
「ちょっと待て!! そんなの、総帥の俺を外して勝手に決めんなよ!!」
喚き異議を申し立てる彼に、父親の鋭い一言が下った。
「彼も――キンタローも、そろそろ団の要職に就いてもらう時期だろう。
おまえが総帥に就任してからの新体制も、まだまだ安定しているとは言い難い。
今は少しでも、地盤を強固にする必要があるんじゃないのかい?」
「・・・・・・。」
客観的に分析された現状は図星らしく、新総帥は決まり悪げに、ふいと目線を逸らした。
「キンタローは優秀な人材だ。彼の能力は現地でも大いに発揮できる。
今回のようなことがまたあったとしても、彼がいれば、シンちゃんを助けてくれるとパパは思うよ。
・・・それは、おまえも良くわかっているだろう? 実際に戦った、おまえなら。」
「・・・ああ。」
一拍後、逸らしたままで呟きの肯定があった。
「――決まりだな。
明日から俺は総帥室に入る。そのように準備しておいてくれ。」
壁際に突っ立ている秘書官たちに、そう命ずる。
「はっ、はい! わかりました!」
弾かれたように反応する彼らを横目に、俺はセンターを後にした。
自室への帰路、俺は歓喜を抑えるので精一杯だった。
やっとわかった。父の言葉も、あのときの感情も。
俺は、とっくに認めていた。『シンタロー』が誰であるのかを。
それを、本人に否定されたことが哀しかった。
俺たちは別々の人格ではあるけれども、24年間一緒に生きてきた。
それを、棄てないで欲しかったのだ。
「父さん・・・俺は、『キンタロー』として生きていくよ。」
亡き父は、これを望んでいたのだろう。
過去に囚われず、『シンタロー』に囚われず、『一族』に囚われず、『自分』として生きろ、と。
「今まではひとつだったが、これからは共に生きていこう――。」
今頃、混乱していることであろう、半身に告げる。
「――シンタロー。」
――『キンタロー』の第一歩が始まった。
「あーあ。先、越されちゃった。」
肩に掛かるか掛からないかの金髪を指で弄びながら、グンマは窓外に向かってぼやいた。
「越された、とは?」
背後から優しいテノールが投げられる。この声は、物心が着いた時分から、ずっと傍にある。
「髪、だよ。」
「髪?」
すっかり短くなった己の頭髪を摘んで、グンマは頬を膨らませた。
「そう。前にね、僕、キンちゃんに、髪切ろうかなって言ったの。そしたらさ――。」
その手が窓外を指す。
「キンちゃんが先に切っているんだもん。」
指の先は総帥室。
部屋に差し込む陽光の中で、対照的な長い黒髪と金の短髪が動いている。
「ああ。そういうことですか。」
くっくっと愉快げな音に、ますますぷくりと頬が膨らんだ。
「ずるいと思わない? 僕のイメージチェンジ大作戦が失敗しちゃったよ!」
「・・・そんなことを考えていたのですが。」
明確に呆れを含んだ物言いが、彼の機嫌を降下させる。
「悪い!? 高松だって、短くしたじゃない!」
「いえ、私はイメージチェンジではなくて、治療中に長髪は邪魔なだけだったのですよ。」
非難の矛先が変わって、慌てる高松。
「それに――私は、キンタロー様は今の髪型、グンマ様は、やはり長いほうがお似合いだと思います。」
「そっかなあ・・・そしたら、また伸ばして、今度はシンちゃんみたいに結ぼうかな。」
幾分機嫌が直ったグンマは、再び窓越しに従兄弟たちを見やる。
「――確かにキンちゃんは似合うよね。
写真で見るお父様――じゃないや、ルーザー叔父様そっくりだもん。」
父親を訂正する彼に、育ての親の顔が曇った。それを彼は見逃さなかった。
「・・・そんな顔しないでよ、高松。
僕たちが間違った道を歩んできたのは事実だけどさ、僕は不幸だとは思わないよ。
本当の父親、マジックお父様とは、今までは暮らせなかったけど、今は息子として一緒に暮らしているし、可愛がってくれている。
それに、それまでは高松が充分に育ててくれたし、今だってそうでしょ?
あの島で高松は言ったよね。僕への愛情は本物だって。
あれは嘘だったの?」
「・・・っ! そんなことありません!
誓ってグンマ様を敬愛しています。今でも!!」
心底から搾り出すような吐露に、グンマは花の笑みを浮かべる。
「僕は不幸じゃない。僕は、僕が生きてきた24年間が不幸だなんて思いたくない。
そう思ったら、それこそ、あの秘石の言う通りになっちゃうよ。僕たち、青の一族が秘石のおもちゃだなんて、悔しいじゃない。」
きっぱりと言い切る蒼の双眸は輝いている。
「それよりも、実の親だとか、そうでないかより、愛情を掛けて貰えずに育ったことこそが、僕は不幸だと思うよ。
・・・コタローちゃんが可哀想だよね。実の父親からの愛情を感じずに眠り続けているんだもんね・・・。」
「グンマ様・・・。」
「・・・キンちゃんも、そうだよ。24年間、誰にも知られなかったんだもの。
だから、コタローちゃんもキンちゃんも、今から皆で愛情を掛けていけばいい。
やり直しに遅いことはないんだよ。」
ね、と首を傾げ微笑む彼に、喜びと後悔が入り混じり、上手く言葉が返せない。
小さな嗚咽と共に、たった一言、
「・・・ありがとうございます・・・。」
と高松は答えた。
項垂れる自分より長身の肩を軽く叩いてから、
「・・・でも、愛情の掛け過ぎも考えものだと思う・・・。」
「え?」
彼の視線を追えば、総帥室にはいつの間にか、もうひとり増えていた。
「・・・マジック様ですか・・・。」
「お父様も懲りないよねー。あ、蹴られた。」
話題の部屋では、前総帥が現総帥に足蹴にされている。それを傍観している補佐官という風景。
「キンちゃん、あれは怒っているね。」
くすくすと楽しげな指摘に、彼の人を注目してみた。が、平常と変わらないと思える。
「・・・そうですか?」
「うん。」
訝しい声音にも、グンマは自信満々である。
「キンちゃんはねえ、ずっとシンちゃんを見ていたんだよ。
隣、キンちゃんの授業に使っていたでしょ。」
隣とは、ここ、グンマ博士のラボの隣室。
最近までキンタローの授業に使用し、現在は彼のラボとなっている。
「本人が自覚しているのかどうか、わからないけど、暇があれば『外』を眺めていたよ。」
指差す『外』――総帥室。
「シンちゃんが好きなんだねえ。
ほら、シンちゃんが遠征先で怪我したときも、キンちゃん大慌てだったし。」
その発言に、過日の騒動を思い起こす。
メディカルセンターでの一悶着後、早々に去ったキンタローに、
「何だ、あいつは!!」
シンタローは大層憤慨した。
その彼を宥めたのがグンマだった。
「シンちゃん、シンタロー君――じゃなくて、キンタロー君はね、シンちゃんのことを、すっごく心配していたんだよ。」
総帥室の異変に気づいて、血相を変え飛び出してから今に至るまでの一連を説明すると、
「そうか・・・。」
と呟き大人しくなった。
「キンちゃんって、感情表現が下手だよね。
ま、それはシンちゃんも同じかな。」
「? どういう意味です?」
言い方に、何処となく特別な響きを感じ取り、問い返すドクターへ悪戯っぽい笑みを見せる。
「えへへ、内緒。」
相手を気にしていたのは、キンちゃんだけじゃないんだよね。
シンちゃんも、キンちゃんの様子を報告するように秘書官に頼んでいたの、ティラミスとチョコから聞いているんだよ。
ふたりに情報流していたのは、僕だもん。
「元々同じだっただけあって、良く似てるねえ。」
ガラスを挟んで見る部屋は、相変わらず新旧総帥の攻防と、苦虫を潰した顔の補佐官。
とうとう秘書官に引き摺られて、前総帥は退場した。
「いつまでも、こうして覗きをやっているわけにはいきませんから、一服しましょう。」
窓から立ち去る人影に同意する。
「そうだね。高松、ダージリンがいいな。」
「はい。わかりました。」
お茶を待つ間、グンマは窓際に腰掛け、以前、従兄弟が行っていたように『外』を眺める。
ふたりの従兄弟たちは、まるで一対の人形の如く、息が合っている。
「こんな穏やかな日が、明日も、これからも、ずーっと続けばいいな。」
見上げた空は、青く高く、どこまでも澄んでいた。
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自分以外は誰もいない、何もない空間。空間と呼べるのかも定かでない。
ただ、自分自身が、そこに在ることだけは確かだ。
こんな非日常の状態に、夢の中でも、夢だと認識している。
そう自身が捉えている所為か、不思議と落ち着いている。
「シンタロー。」
何処からともなく声がした。己の他に存在を主張するそれに、慌てて回りに目を凝らす。
すると、いつの間にか背後に、自分と良く似た面差しの男が立っていた。
歳も、そう変わらないと思われる、その男の声は、一度だけ聞いたことがある。
そして、そのたった一度きりの奇跡の出会いは、忘れたくとも忘れられない。
「――父さん――。」
穏やかに微笑む父は、あの最期のときと同じ――。
「おまえは、おまえとして生きるんだ。」
「・・・俺として・・・?」
謎掛けのような言葉に、真意を量りかねていると、
「シンタロー。」
また同じく呼びかけられる別の声。けれども、今度は息を飲み込んだ。
振り向く先に、夢でも鮮やかに浮かび上がる赤と黒。この鮮烈な存在は、自己の知るうちで、たったひとりしかいない。
「――っ! 何故――、何故、おまえがその名で呼ぶ!?」
咆哮――まさしく、そうだった。『その者』から『その名』で呼ばれた途端、怒りが込み上げ口を突いた。
いや――怒り――なのだろうか。
それよりも、もっと強い何かが、身体中を渦巻く。それが出口を探して彷徨っているのに、俺はその術を知らない。
「今まで悪かったな。元々、これはおまえのものだったのに、俺が使ってしまっていた。」
やめろ。そんなことは聞きたくない。
「だけど、おまえに返す。――24年間、済まなかった。ありがとう。」
深々と頭を下げる『おまえ』。
やめてくれ。俺はそれを望んでいたわけじゃない。
『その名』が失われることが、どういう意味を持つことなのか、わかっているのか?
24年間掛けて築いたおまえの存在そのものの消滅を、おまえ自身が望んでいるわけではないだろう!?
――いくら心内で叫ぼうとも、それは音にならなければ無意味だ。
声帯が凍り付いているのか、喉から外に出すことが出来ない。
それでも、この叫びは相手に届いたのだろうか。困ったような、儚げな微笑を浮かべた後、『その者』と父は背を向け歩き出す。
待って――待ってくれ! 俺を独りにしないでくれ!!
大体、無責任じゃないか! 俺をこの世界に放り出し、おまえは去っていくだと!?
そんな勝手は許さない!!
捕らえるように精一杯腕を伸ばし、彷徨う全ての感情を吐き出し叫んだ。
「シンタロー!!」
――そこで、夢は醒めた。
NAME
「シンタロー君! おはよう。」
右手を高く上げ、正面からベージュ色のリノリウムを軽やかに蹴って駆けてくる。
全面ガラス窓のこの廊下は、陽光が燦燦と降り注ぐ。
一族特有の金糸が歩を運ぶ度に、朝日を浴びてキラキラと光を弾いた。
「・・・グンマか。」
「『グンマか』は、ないでしょ! シンタロー君。
朝会ったら、まずは『おはよう』だよ!」
頭半分程低い金髪が眼下で、ぷくっと頬を膨らませ窘める。
この世に出でてから、俺は亡き父を崇拝していたドクターに預けられた。
両親をとっくに喪い、兄弟もいない、家族というものがない俺を、是非にと申し出る彼に反対する親族はいなかった。
24年間外界と遮断されていたといっても、全く何も知らないわけではない。
干渉をされない、できない位置にいても、『あの者』を通して状況は見知っていた。
生きる上で必要な最低知識、言語や生活慣習、親族関係、更には一族が支配する組織の基本的な部分はある。
けれども、それらは本当に『知識』だけで、実体験のない俺は、やはり何処か違っているらしい。
保護者であるドクターは、所謂『教育』を担い、こういう社会上の潤滑油というべき『教養』は、同じく彼に育てられた従兄弟のグンマが買って出た。
保護者が同者ということで接触する機会が多いこともあろうが、それよりも、どうもこの従兄弟は世話を焼きたいらしい。
一族で最年少は前総帥の次男だが、あの子は今は眠っている。
そうなると、次は俺を含む3人の従兄弟たち。
尤も、俺は最近加わったばかりだから、残りふたりのうち、このグンマの立場が弱かった。
ここで示す『立場』は、対外的な、つまり総帥の息子であるか否かという次元ではない。あくまで、当事者間での力関係だ。
要は性格的なもので、彼は甘える側だったということだ。・・・『あの男』は世話好きだからな。
実弟がいることは、いるのだが、そんな彼にとっては、俺は、弟が出来たようなものなのだろう。
生活上の細部に亘って、ひとつひとつ、それは楽しそうに構い、教授している。
「はい、『おはよう』」
人差し指を立て、言い聞かせるように再度同じ言葉を発する。まるで幼子扱いだ。
しかしながら、彼の持つ柔和な雰囲気が、憤慨を相殺させる。
それに、彼は決して誤ってはいない。
「・・・おはよう。」
素直に従うと、従兄弟はいつもの少女めいた笑顔になった。
上機嫌に俺の腕を引っ張り、
「今日もいい天気だね。ほんと、お天気で良かったよ。今日はシンちゃんが帰ってくるんだから。」
――ああ、なるほど。彼の機嫌の良さは、『あいつ』が帰ってくるからか。
グンマは俺と、もうひとりの従兄弟を、『シンタロー君』『シンちゃん』と呼び分けている。
あの島で区別する為に、一時『キンタロー』と命名されたが、俺は納得いかなかった。
自分こそが総帥の息子、シンタローであるのに、何故別名を与えられるのか。
そう主張すれば、誰も、当のシンタローも反論しなかった。
結局は、俺は総帥マジックの子供ではなかったけれども、『シンタロー』だけは譲れなかった。――俺は、『青の一族』であることを譲れなかった。
従兄弟のように周囲は、各々俺たちふたりの呼び名を工夫しているようだが、同名の自分たち互いに於いては、どう呼びあっていいのか悩み所だ。
『おい』とか『おまえ』とか。
『ニセ者』などと、敵意剥きだしの頃もあったが、今となってはあの感情も遠い。
そうなると自然と足は遠のき、元々好意があったわけでもなかった為、彼の動向に疎くなっていた。
ここ暫くは遠征で留守であることくらいは聞き及んでいたが、本日帰還だったとは。
「午後に帰ってくる予定だって。だから今日は、午前中に頑張るよ! そして、お迎えに行くんだからね!」
「・・・は?」
「『は?』じゃないよ! シンタロー君も行くんだよ!」
ビシッと有無を言わせない口調でグンマは目を見据える。
どうも、こういうときの彼は苦手だ。同じ碧眼でも、そのまっすぐな瞳は自己が持ち得ないもの。
「俺は・・・別に・・・。」
思わず逸らした俺に続けて、
「ダメ! シンタロー君、シンちゃんを避けているでしょう。
シンちゃんも総帥になってから凄く忙しいみたいだからさ、会えるときは会っておかないと。」
図星を指された。
「・・・シンちゃんも、避けているみたいだしさ・・・。」
先刻までの強い口調がナリを潜めて、ぼそりと呟かれる。
視線を外していた俺はそのままで聞いていたが、チクリと何かが刺さった気がした。
あいつが俺を避けている、そんなのは当然だろう。実際、こちらもそうなのだから。
俺たちの相反する存在に、互いが親しみを抱くわけがない。
それなのに、この痛みは何なのか。
俺は自身のことながら理解不能だった。
グンマの宣言通りに、午前中は詰め込み授業が行われた。
「高松、今日は午前中で終わらせてね。午後はシンちゃんのお迎えに行くの。」
教師でもあるドクターにそう指示すると、
「僕も今日は、ここでやろっと。」
と、得体の知れない設計図を持参して、返事を待たずに、さっさと備え付けのキーボードを叩きだした。
その姿に、
「仕方ありませんねえ。」
ドクターは苦笑混じりに従った。
彼はグンマに甘い。逆らった姿など、ついぞ見たことがない。
確かにグンマの『お願い』は、無理難題はない。だが、甘やかしすぎではないかと思う。
一度それを指摘すると、彼は何のことはない、と穏やかに微笑んだ。
「あの方は、私の宝です。本当なら恨まれても蔑まれても当然の私を、赦して下さいました。
そして、『24年間、ありがとう』とまで言って下さったのです。この私に。」
「・・・罪悪感から甘やかしているのか?」
「そんなことはありませんよ。悪いことは悪いと、きちんとお教えして育てました。
その証拠に、あの方は我侭を言われますか?」
「・・・いや。」
「グンマ様は、相手の負担にならないよう、見極めてお願いをされます。聡明な方ですよ。
・・・シンタロー様も、甘えて下さってよろしいのですよ? あなたも私の大事な宝です。
――尤も、私にそんなことを言える資格などありませんけどね・・・。」
「俺は・・・おまえに感謝している。『あいつ』ではなく、俺の為に泣いてくれた人だ。」
「・・・ありがとうございます。」
泣きそうな笑い顔だった。
監視付きの本日の授業は、午前を20分程残すところで終了した。
「今日は、かなり駆け足で進めましたので、お疲れになったでしょう。後はゆっくりと、お休み下さい。」
労いの言葉を掛けて高松が退室する。
「お疲れー、シンタロー君。お茶、淹れるね。」
腰に掛かる髪を揺らして食器を扱うグンマ。
「・・・邪魔じゃないか? その髪。」
後ろ姿を見、何とはなしに口を突いた。
「うーん、そうだねえ。
ずっと伸ばしてて慣れているから、あんまり感じないけど、シンちゃんみたいに結んだほうがいいかなー。」
振り向きもせず作業を続けながらの答えが返る。
今でこそ解き流し、赤い服を纏うあの男は、それまで滝のような長い漆黒の髪を括っていた。
強烈な南国の光の中に浮かび上がるモノトーンが脳裏に蘇る。
「それか、いっそのこと切っちゃうとかね。
シンタロー君も、邪魔だと思う?」
ふたり分のカップとティーコジーを被せたポットを乗せたトレイを持つグンマは、両手が塞がっている為に、目で俺の髪を指し示した。
自身も彼と変わらない長さである。
ひと房掴むと、また『あの男』と『あの島』での戦いがフラッシュバックした。
――囚われているのか?
影を断ち切るように大きくかぶりを振り、
「そうだな・・・。」
窓の外へと目線を向けた。
ここは研究棟の一部で、向い側に一般棟が臨める。そこには忙しなく行き来する多くの団員。
それらを散漫と眺めていると、
「お茶、入ったよ。」
柔らかい声に引き戻された。
目の前の紅い液体から白い湯気と芳香が昇っている。
「今日はオレンジ・ペコーにしてみました。どうぞ。」
にっこりと屈託のない微笑に押され、一口含む。
「・・・美味い。」
俺の簡素な反応に笑みを深めたグンマは、
「良かった。」
と、自身も口に運んだ。
晴れ渡った空と平穏な空気。
およそ武力集団に似つかわしくないが、天候は誰にも公平に与えられるし、戦下でなければ、こんなひとときを味わっても罰は当らないだろう。
俺は、ここに戻ってきてから、ずっと思い悩んでいたことを、同じ立場であろう従兄弟に問うてみたくなった。
恐らく、今朝の夢が切欠になったと思う。
「・・・グンマ。」
「何?」
「・・・俺とおまえは、生まれてすぐに取り替えられた。」
「うん。」
「本当は、おまえはマジック伯父貴の息子、『シンタロー』だ。
そう考えたことはないか?」
核心に触れる。
本来ならば、彼が『シンタロー』で、自分は『グンマ』のはずだ。 24年前の事件さえなければ、そう育っていたはず。
ところが、大きな青の双眸を更に見開いて一瞬動きを止めた後、従兄弟は声を立てて笑い飛ばした。
「ぼっ、僕が『シンタロー』? 考えてもみなかったなあ。」
「なっ・・・!」
「僕の名前は、『グンマ』以外に思いつきもしないもん。」
けらけらと陽気に笑うグンマに、思考回路が全く異なることを、改めて知った。
聞くだけ無駄だったか――と。
「『グンマ』という名前はねえ、お母様――本当は君のお母様だね。叔母様が付けてくれたんだよ。
確かに叔母様は、僕を自分の子供だと疑わずに名付けてくれたんだと思うよ。
だけど、間違いなく『僕の』名前だ。『僕に与えられた』名前だ。」
先刻までの、ふわふわと浮いた雰囲気は消えていた。笑顔こそ絶やさないが、語る瞳は強い光を帯びている。
「きっと、この名前には叔母様の想いが込められているだろうし、僕はこの名前で24年間生きてきた。
名付けてくれた人の想い、僕をこの名で呼んだ人たちの想い、そして僕自身の想い。
『グンマ』は僕の歴史でもあるんだよ。だから、他のものに変えられない。
名前は、その人と共に在るものだと、僕は思う。」
それから、また愉快げに笑い出した。
「それに、ころころ名前変えちゃったら、皆、混乱するよねえ。
昔の人って大変だっただろうな。」
いつもの従兄弟に戻っていたが、俺の頭の中に、あの強い瞳と言葉がしっかりと焼きついた。
『名前は、その人と共に在るもの』
俺は――『シンタロー』は、本当に俺と共に在るのだろうか。
俺は24年間、『あの男』の中にいた。だから、『シンタロー』という名を授けられたと言っても、過言ではない。
だが、その名を呼んでいた者たちにとって、『シンタロー』とは――。
ふう、と肺の中の空気を入れ替える気持ちで大きく息を吐き出し、再び窓外に目をやる。
と、先程は至って平和だった一室が、俄かに騒然と湧いている様子が覗えた。
「――っ!!」
何も考えなかった。ただ、思考より先に身体が動いた。
「シンタロー君? どうしたの?」
いきなり立ち上がった俺に、グンマが訝しい声音を投げる。
それに答えず、既に歩は扉へと向かっていた。
「ちょっ、どうしたのさ!?」
背後から甲高い声がついてくるが、構っている余裕はない。ひたすら目的地へ駆ける。
嫌な胸騒ぎがして堪らない。予感めいた焦燥感が俺を追い立てる。
俺は、何かを失おうとしているのかもしれない。
それは、手放したら二度と掴めない。そう本能が警鐘している。
棟を繋ぐ長い廊下の奥に、目的の人物を捉えた。
「ティラミス! チョコレートロマンス!」
「シンタロー様!? グンマ博士も・・・。何でしょうか?」
総帥付秘書官らしい落ち着いた応答。しかし、俺は出会い頭瞬間の動揺を見逃していなかった。
「何があった。」
「・・・何のことですか?」
眼前の表情は変わらない。まるで能面だ。
「とぼけるな! あいつに何かあったんだろう!? でなきゃ、総帥室があんなに慌しくなるか!!」
「えっ!? シンちゃんが、何か!?」
俺の詰問に、後方でおろおろと成り行きを見守っていたグンマも、驚愕の音を立てた。
「そっ、そんなに大声を出さないで下さい!! 団員に知られます!」
慌てて俺たちを制するチョコレートロマンス。その態度が、俺への充分な答えになっている。
「何か、あったんだな?」
「あ。」
己の落ち度に顔を顰める同僚を、隣のティラミスが軽く小突き、観念したような溜息を吐いた。
「・・・ここで騒ぐわけにはいきません。おふたりも御同行願います。」
場を仕切る彼に従い、俺たちはその場を後にした。
早足で移動しながら、秘書官の説明を聞く。
「総帥は既にお戻りになられています。今はメディカルセンターにいらっしゃいます。」
「メディカルって・・・シンちゃん、怪我したの!?」
「ええ。」
胸に衝撃が走った。知らずに彼らを睨んでいたらしい。――八つ当たりだとわかっていても。
「・・・そんなに怖い顔をなさらないで下さい。命に別状はありませんよ。」
苦笑し指摘するチョコレートロマンス。言葉に出されると恥ずかしさが込み上げる。
照れ隠しで、ぶっきら棒に言い放った。
「・・・元々、こういう顔だ。」
「はい。そういうことにしておきます。」
まだ笑い堪えている彼を無視して、ティラミスが話を続けた。
「チョコレートロマンスが言った通りに、大怪我ではありません。ですが、総帥が怪我をされたとあっては、団内が乱れます。
ですから、予定よりも早い、極秘の帰還となったわけです。
そのままセンターにお連れして、今頃はドクター高松の手当てを受けていらっしゃると思いますよ。戦場では応急処置にしかなりませんから。」
「そっか。高松が診てくれているなら安心だね。良かったね、シンタロー君。」
『良かったね』と振られても、素直に答えることができようか。
仄かに熱い顔を背けたままに返事もしなかった。彼らの位置からは、この顔は見えないだろう。
俺は、このときほど自身の長身に価値を見出したことはなかった。
メディカルセンターに着いてから、どの処置室に総帥はいるのかと局員に尋ね――る必要はなかった。
「バカヤロー!! 放せっ、クソ親父っっ!!」
「――あそこだな。」
漏れる、というには音量が超大な一室を目指す。
果たしてそこは、前総帥の伯父とドクター高松、そして現総帥の『あの男』という顔ぶれだった。
「シンちゃん、大丈夫なの? 怪我しているのに、そんなに暴れて。」
そいつは、接近する父親に蹴りを与えていた。
「大した傷ではないといっても、結構な深さはありますよ。
まだ塞ぎきっていないのですから、開いたら知りませんよ。」
手当ては済んだのだろう、白い包帯で腹部全体を覆われた姿が痛々しい。
医師とは思えない薄情な物言いの高松に、
「それは、このアーパー親父に言ってくれ!」
「シンちゃん、ひどいっ! パパはシンちゃんのことが心配で堪らないのにっ!」
「そう言いながら、怪我人に抱きつくんじゃねえっ!!」
げしっと再び蹴りが飛び出す。足は無傷のようなので、そこを武器にしているのだろう。
見た目程に衰弱はしていない。――密かに安堵する自分を自覚した。
医療施設にはおよそ似つかわしくない乱痴気騒ぎに、俺の背後で傍観している秘書官ふたりが、ぼそりと一言零す。
「・・・マジック様には知らせなかったよな。」
「俺はドクターだけに知らせたはずだ。しかも、他言無用と念押したんだが。」
招かざる客がいる。彼が如何様にして嗅ぎつけたのか。
それを問えば、返ってくる言葉はこの俺でも容易に予想できる。何しろ、溺愛する息子だ。
『シンちゃんのことなら、なーんでもわかるよv』
秘書官は口を閉ざした。
「お父様、シンちゃんは怪我しているんだから遠慮してよ。」
もうひとりの息子に、ぴしゃりと釘を刺された父親が、涙目を別の息子に向ける。
彼は、うんうん、と頷き良識的な発言に同意を表す。
「シンちゃ~~ん。」
滂沱の涙を双眸から垂らしながら、未練がましくも大人しくなった。
やっと何とか静かになった部屋で、ふと黒い瞳とかち合った。
「あ――。」
「でも、どうして怪我したの?」
俺に向かってなのか開きかけた口を、横から入った高い声に閉ざさるをえない。
彼は視線をも俺から外し、従兄弟に説明した。
「あー、それがさ・・・遠征先のテロリストが結構しぶとくてよ。
このまま長引けば、市民への被害が拡大しそうだったんで、一気に決めてやろうと思って、眼魔砲をあいつらの本拠地にぶっ放したんだよ。」
そのときを思い出しているのか、自身の右手を見つめた。
「・・・だけど――。」
その手を頭部に移動してガリガリと掻く。
「最小限にパワーを抑えるのが、まだ上手く出来なくって・・・少し目標誤った。」
「――それで、民間人の少年が巻き込まれそうになって、総帥が庇われたそうですね。
その際に負傷されたと報告を受けています。」
淡々と引き継ぐティラミスに、
「う・・・面目ねえ・・・。」
結局、原因は自分自身だということだ。
失態を素直に認めると、一層照れ隠しに掻く。
破壊だけが目的だった団は、新総帥の下、劇的な改革を為した。
そして、今までは破壊の為だけだった一族のこの強大な能力も、最終手段に、最小限にと意識されている。
まだ彼は、己の持つ破壊力を完璧にコントロール出来ていないということか。
恥じ入る姿をまじまじと眺めていると、視線を感じたのか、再度黒い双眸が向けられた。
「・・・何だよ。カッコ悪ぃとか思ってんだろ。」
子供じみた拗ね方をする。こいつはプライドが高いから、失敗すると不機嫌になることは知っている。
下手に応答しないほうが得策だと思い黙っていたが、続けられた言葉は、俺を充分に激怒させた。
「俺が無事で残念だったな。
『シンタロー』は当分やれそうにねえ――。」
次の瞬間、俺はそいつの横っ面に拳を叩き込んでいた。
「シンちゃんっ!!」
「シンタロー君!?」
「シンタロー様!?」
「総帥!!」
様々な叫びが交錯する中、俺の目は診察台に倒れた男しか映していない。
「てっ、めえっ! 何しやがるっ!!」
「怪我人だから手加減しておいた。」
「何、ふざけたことを言ってやがるっ!!」
上半身を起こしながら凄むこいつは、何もわかっていない。
『シンタロー』をやる、だと?
それは即ち、おまえ自身の消滅を意味するというのに。
襲い掛かる腕を取り、顎を掴み上げた。間近に覗く黒曜石に己が映っている。
「・・・いいか。『シンタロー』は、おまえだ。おまえが、『シンタロー』だ。
俺にやるなど、二度と言うな。」
驚きで顕著に拡大する瞳孔を一瞥して、捕らえていた手を放せば、そのままどさりと大柄な躯体が力なく崩れた。
誰も彼もが呆けた顔で、唖然とした空気が漂う。
「高松。」
「あっ、はい。」
呼ばれ、はっとこちらを向く彼に、俺はひとつの提案を出した。
「・・・以前、俺に『キンタロー』と名付けたな。――俺は今日から、『キンタロー』だ。いいな。」
「・・・はい。シン――いえ、キンタロー様。」
それだけで、心得た、と名付け親は静かに受け取る。
この名は、俺に与えられた、俺だけの名前だ――。
「それから、伯父貴。」
「何だい?」
返ってきた声音は極めて平常なもの。
場の急展開にも、すぐさま冷静になる伯父は、さすがに一団を率いてきた人物だと改めて確信した。
「俺はこいつの――シンタローの補佐をする。総帥が戦地でこんなヘマをやるようじゃ、団も落ち着けないだろう。」
「なっ!!」
「ああ、それはいいねえ。」
「ちょっと待て!! そんなの、総帥の俺を外して勝手に決めんなよ!!」
喚き異議を申し立てる彼に、父親の鋭い一言が下った。
「彼も――キンタローも、そろそろ団の要職に就いてもらう時期だろう。
おまえが総帥に就任してからの新体制も、まだまだ安定しているとは言い難い。
今は少しでも、地盤を強固にする必要があるんじゃないのかい?」
「・・・・・・。」
客観的に分析された現状は図星らしく、新総帥は決まり悪げに、ふいと目線を逸らした。
「キンタローは優秀な人材だ。彼の能力は現地でも大いに発揮できる。
今回のようなことがまたあったとしても、彼がいれば、シンちゃんを助けてくれるとパパは思うよ。
・・・それは、おまえも良くわかっているだろう? 実際に戦った、おまえなら。」
「・・・ああ。」
一拍後、逸らしたままで呟きの肯定があった。
「――決まりだな。
明日から俺は総帥室に入る。そのように準備しておいてくれ。」
壁際に突っ立ている秘書官たちに、そう命ずる。
「はっ、はい! わかりました!」
弾かれたように反応する彼らを横目に、俺はセンターを後にした。
自室への帰路、俺は歓喜を抑えるので精一杯だった。
やっとわかった。父の言葉も、あのときの感情も。
俺は、とっくに認めていた。『シンタロー』が誰であるのかを。
それを、本人に否定されたことが哀しかった。
俺たちは別々の人格ではあるけれども、24年間一緒に生きてきた。
それを、棄てないで欲しかったのだ。
「父さん・・・俺は、『キンタロー』として生きていくよ。」
亡き父は、これを望んでいたのだろう。
過去に囚われず、『シンタロー』に囚われず、『一族』に囚われず、『自分』として生きろ、と。
「今まではひとつだったが、これからは共に生きていこう――。」
今頃、混乱していることであろう、半身に告げる。
「――シンタロー。」
――『キンタロー』の第一歩が始まった。
「あーあ。先、越されちゃった。」
肩に掛かるか掛からないかの金髪を指で弄びながら、グンマは窓外に向かってぼやいた。
「越された、とは?」
背後から優しいテノールが投げられる。この声は、物心が着いた時分から、ずっと傍にある。
「髪、だよ。」
「髪?」
すっかり短くなった己の頭髪を摘んで、グンマは頬を膨らませた。
「そう。前にね、僕、キンちゃんに、髪切ろうかなって言ったの。そしたらさ――。」
その手が窓外を指す。
「キンちゃんが先に切っているんだもん。」
指の先は総帥室。
部屋に差し込む陽光の中で、対照的な長い黒髪と金の短髪が動いている。
「ああ。そういうことですか。」
くっくっと愉快げな音に、ますますぷくりと頬が膨らんだ。
「ずるいと思わない? 僕のイメージチェンジ大作戦が失敗しちゃったよ!」
「・・・そんなことを考えていたのですが。」
明確に呆れを含んだ物言いが、彼の機嫌を降下させる。
「悪い!? 高松だって、短くしたじゃない!」
「いえ、私はイメージチェンジではなくて、治療中に長髪は邪魔なだけだったのですよ。」
非難の矛先が変わって、慌てる高松。
「それに――私は、キンタロー様は今の髪型、グンマ様は、やはり長いほうがお似合いだと思います。」
「そっかなあ・・・そしたら、また伸ばして、今度はシンちゃんみたいに結ぼうかな。」
幾分機嫌が直ったグンマは、再び窓越しに従兄弟たちを見やる。
「――確かにキンちゃんは似合うよね。
写真で見るお父様――じゃないや、ルーザー叔父様そっくりだもん。」
父親を訂正する彼に、育ての親の顔が曇った。それを彼は見逃さなかった。
「・・・そんな顔しないでよ、高松。
僕たちが間違った道を歩んできたのは事実だけどさ、僕は不幸だとは思わないよ。
本当の父親、マジックお父様とは、今までは暮らせなかったけど、今は息子として一緒に暮らしているし、可愛がってくれている。
それに、それまでは高松が充分に育ててくれたし、今だってそうでしょ?
あの島で高松は言ったよね。僕への愛情は本物だって。
あれは嘘だったの?」
「・・・っ! そんなことありません!
誓ってグンマ様を敬愛しています。今でも!!」
心底から搾り出すような吐露に、グンマは花の笑みを浮かべる。
「僕は不幸じゃない。僕は、僕が生きてきた24年間が不幸だなんて思いたくない。
そう思ったら、それこそ、あの秘石の言う通りになっちゃうよ。僕たち、青の一族が秘石のおもちゃだなんて、悔しいじゃない。」
きっぱりと言い切る蒼の双眸は輝いている。
「それよりも、実の親だとか、そうでないかより、愛情を掛けて貰えずに育ったことこそが、僕は不幸だと思うよ。
・・・コタローちゃんが可哀想だよね。実の父親からの愛情を感じずに眠り続けているんだもんね・・・。」
「グンマ様・・・。」
「・・・キンちゃんも、そうだよ。24年間、誰にも知られなかったんだもの。
だから、コタローちゃんもキンちゃんも、今から皆で愛情を掛けていけばいい。
やり直しに遅いことはないんだよ。」
ね、と首を傾げ微笑む彼に、喜びと後悔が入り混じり、上手く言葉が返せない。
小さな嗚咽と共に、たった一言、
「・・・ありがとうございます・・・。」
と高松は答えた。
項垂れる自分より長身の肩を軽く叩いてから、
「・・・でも、愛情の掛け過ぎも考えものだと思う・・・。」
「え?」
彼の視線を追えば、総帥室にはいつの間にか、もうひとり増えていた。
「・・・マジック様ですか・・・。」
「お父様も懲りないよねー。あ、蹴られた。」
話題の部屋では、前総帥が現総帥に足蹴にされている。それを傍観している補佐官という風景。
「キンちゃん、あれは怒っているね。」
くすくすと楽しげな指摘に、彼の人を注目してみた。が、平常と変わらないと思える。
「・・・そうですか?」
「うん。」
訝しい声音にも、グンマは自信満々である。
「キンちゃんはねえ、ずっとシンちゃんを見ていたんだよ。
隣、キンちゃんの授業に使っていたでしょ。」
隣とは、ここ、グンマ博士のラボの隣室。
最近までキンタローの授業に使用し、現在は彼のラボとなっている。
「本人が自覚しているのかどうか、わからないけど、暇があれば『外』を眺めていたよ。」
指差す『外』――総帥室。
「シンちゃんが好きなんだねえ。
ほら、シンちゃんが遠征先で怪我したときも、キンちゃん大慌てだったし。」
その発言に、過日の騒動を思い起こす。
メディカルセンターでの一悶着後、早々に去ったキンタローに、
「何だ、あいつは!!」
シンタローは大層憤慨した。
その彼を宥めたのがグンマだった。
「シンちゃん、シンタロー君――じゃなくて、キンタロー君はね、シンちゃんのことを、すっごく心配していたんだよ。」
総帥室の異変に気づいて、血相を変え飛び出してから今に至るまでの一連を説明すると、
「そうか・・・。」
と呟き大人しくなった。
「キンちゃんって、感情表現が下手だよね。
ま、それはシンちゃんも同じかな。」
「? どういう意味です?」
言い方に、何処となく特別な響きを感じ取り、問い返すドクターへ悪戯っぽい笑みを見せる。
「えへへ、内緒。」
相手を気にしていたのは、キンちゃんだけじゃないんだよね。
シンちゃんも、キンちゃんの様子を報告するように秘書官に頼んでいたの、ティラミスとチョコから聞いているんだよ。
ふたりに情報流していたのは、僕だもん。
「元々同じだっただけあって、良く似てるねえ。」
ガラスを挟んで見る部屋は、相変わらず新旧総帥の攻防と、苦虫を潰した顔の補佐官。
とうとう秘書官に引き摺られて、前総帥は退場した。
「いつまでも、こうして覗きをやっているわけにはいきませんから、一服しましょう。」
窓から立ち去る人影に同意する。
「そうだね。高松、ダージリンがいいな。」
「はい。わかりました。」
お茶を待つ間、グンマは窓際に腰掛け、以前、従兄弟が行っていたように『外』を眺める。
ふたりの従兄弟たちは、まるで一対の人形の如く、息が合っている。
「こんな穏やかな日が、明日も、これからも、ずーっと続けばいいな。」
見上げた空は、青く高く、どこまでも澄んでいた。
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【意外】
SEXよりも、キスの方が好きだ。
シンタローの口から出た台詞に驚き、思わず飲んでいたコーヒーを
ほんの少し吹き出してしまった。
隣に座っている従兄弟を見れば、心ここにあらず、と言った感じで
頬杖をついて直ぐ下の机を眺めていた。
きっとまたマジックと何か揉めたのだろう。
さっき出た一言から言ってそうとしか考えられない。
・・・しかし。SEXよりも、キス・か。
随分ロマンチストなのだな。虚を衝かれた。
どう言った経緯でそんな言葉が出るのか甚だ疑問だが・・・。
試しに何故、キスの方が好きなのかと問い掛けると、
SEXなんて誰とやったって程度の差はあってもそれなりに気持ち良い。
と語った。
「でもキスは違う。」
シンタローははっきりとそう付け加えた。
キスをしてると泣きそうになる事がある、とも。
感情が昂ぶり過ぎて、それが涙になって出てくるのだと
シンタローは言った。
キスの先よりも、キスだけをずっとしていたい。
最後にそんな事を告げて机に顔を突っ伏してしまった。
SEXよりも、キスの方が好きだ。
シンタローの口から出た台詞に驚き、思わず飲んでいたコーヒーを
ほんの少し吹き出してしまった。
隣に座っている従兄弟を見れば、心ここにあらず、と言った感じで
頬杖をついて直ぐ下の机を眺めていた。
きっとまたマジックと何か揉めたのだろう。
さっき出た一言から言ってそうとしか考えられない。
・・・しかし。SEXよりも、キス・か。
随分ロマンチストなのだな。虚を衝かれた。
どう言った経緯でそんな言葉が出るのか甚だ疑問だが・・・。
試しに何故、キスの方が好きなのかと問い掛けると、
SEXなんて誰とやったって程度の差はあってもそれなりに気持ち良い。
と語った。
「でもキスは違う。」
シンタローははっきりとそう付け加えた。
キスをしてると泣きそうになる事がある、とも。
感情が昂ぶり過ぎて、それが涙になって出てくるのだと
シンタローは言った。
キスの先よりも、キスだけをずっとしていたい。
最後にそんな事を告げて机に顔を突っ伏してしまった。
進化における絶対の法則
きらきらとまぶしい太陽が見える。
晴れ渡っていて、雲ひとつ見当たらないというのに。
何が頬を伝っているのだろう?
その場を支配しているのは静謐。
否、時折紙を擦る音や控えめな電子音が響いていた。
だからこそだろうか、静けさが一際目立つ。
しかし、部屋に異なる電子音が響く。
本当にかすかな音はあるが、解除、そして起動音と連続して起きたその音を彼は聞き逃すことなく、顔を上げた。
そしてこの部屋と外界を繋ぐ唯一のドアが開いた。
途端、色素の薄い、異なる金色が二つ飛び込んできた。
「シンちゃーん、ちょっといーい?」
肩よりも長い髪を揺らし、足早に近づいてきたグンマは、何が楽しいのかにこやかに笑いながら、机の前に陣取る。
邪気の無い笑顔なのだろうが、何かいやな予感がして仕方が無い。
心持ち、シンタローが引いているのを感じながらも、グンマは逃がすつもりは無い。
「あのね、お願いなんだけれども…」
「却下」
厄介事はごめんだと顔に貼り付けて、きっちりとドアのロックをしてグンマの後ろに控えるように立っていたキンタローに視線を移した。
話を遮られたことで、頬を膨らませているが、そんなことにいちいち付き合っていたら、巻き込まれることはわかっている。
「で、お前はどうしたんだ?」
視線を受け、面食らっいながらみ、口を二三度動かすと、ちらり、とグンマを見る。
「…俺は、こいつに連れてこられただけだ」
大した情報どころか、益々自分の不利な方向に振ってしまった気がして、仕方がなく視線を戻せば、いつの間にやら、シンタローの机の上をチェックしているグンマがいた。
「って、眼を放した隙に何してんだよ!」
「ふ~ん、このペースならお昼に少し位抜けても平気だね」
一体何を根拠にそんな発言をしたのかは知らないが、確かにグンマの言うとおり、昼を過ぎた頃くらいには一息つくことは出来るだろう。
しかし、グンマは自分の読みが当たったことに満足して、にこにこと笑うのみ。
「…なんなんだよ」
「ん~、さっきね、温室に行ってきたんだ」
グンマの視線の先を見れば、そこには晴れた空が広がっている。
あらゆる衝撃に耐えうる素材で出来た窓からは、太陽の暖かさも奪われてしまったような感覚を覚えるが、そこに輝いている事実だけは防ぐことは出来なかったらしい。
「それでね、キンちゃんがその中のひとつを任されてるんだよね」
それは、知っている。
元々、叔父のルーザーが管理していたものを高松が引き継ぎ、そしてつい最近、キンタローに移ったのだ。
本人の意思に関係なく、グンマが機械工学を、高松が生物化学を教えているため、シンタローは実際、キンタローが何をしているのかを詳しくは知らない。
これで全く関係の無い、心理学とかを学ぼうとしていたらかなり笑えると思っていたのだが、そうでもないらしい。
窓からキンタローに視線を移せば、居心地が悪いらしく、視線を外された。
「…別に、たいしたことはしていない」
「確かにそうだけどさぁ。けど、ちゃんと世話をしているじゃない」
そのあたりの話をシンタローは聞いたことが無い。
引き継がなければならないものが膨大な中、名乗りをあげた従兄弟に一抹の不安を感じながらも、開発部門を任せていた。
今のところ、大きな問題も起きておらず、それどころか立派に機能しているところから、どうやらうまくいっているようだ。
そのため、古参の研究員達の動向はある程度掴んでいる位で、他はグンマに任せきりだった。
さらに時間がかみ合わないせいか、直接会うことも少ないため話をする機会も無い。
なので、今キンタローが何をしているかということまでは知らないし、知る必要も無かった。
「…で?」
いい加減、痺れを切らして問いかけると、今までキンタローを見上げていた視線が再度シンタローへと向けられた。
「今日、僕も久し振りに行ってきて、思い出したの」
そこでいったん区切ると、意味ありげに笑って見せた。
「シンちゃん、一度も来てないでしょ?」
なぜが、その言葉を聴いた瞬間、逃げ道が無いような気がした。
空が、青い。
流されるかのようにこの場につれてこられたシンタローは、深く溜息をつく。
グンマの襲撃の後、とんとん拍子にことは進められた。
どのような交渉があったのかは知らないが、鉄壁の壁である秘書達を丸め込み、無理やり、時間をもぎ取ると、すぐさま、ここへと連れてこられた。
もしかしたら、あらかじめグンマは内緒で物事を進めていたのではないだろうか。
そんな思いが胸中によぎる。
事実、嬉々としてテーブルセッティングしている姿を見ていると、どうしても疑心暗鬼に駆られてしまう。
温室の中にある、小さな広場。
何のためのスペースか、シンタローにはわからないが、今は数脚の椅子とテーブルが用意されていた。
その隣にはアルミ製だろう、小さなワゴンに料理等が載っていた。
手際のよさに、呆れるしかできなかったが、総帥室を出る時のティラミス達の顔が忘れられない。
気のせいでなければ、かすかに笑っていたような気がする。
彼らは、休めということは出来ない。
スケジュール管理をしている手前、シンタロー以上に仕事の量を把握している。
そして、自己申告である大丈夫だという言葉にも踏み込むことが出来ない手前、もしかしたらグンマの提案をあっさり呑んでしまったのかもしれない。
「…シンちゃん?」
いつの間にか近づいてきたグンマが袖口を引っ張った。
「終わったのかよ」
「うん。それよりも、シンちゃん、やっぱり疲れているんだね」
今にも泣きそうなその顔に、思わず眉を顰めた。
否定は出来ない。
確かに最近、自分の顔を見て疲れが溜まっているという自覚はある。
とっさにうまく言葉を出せないシンタローに、グンマはしかし何も言わなかった。
俯いて何かを言ったかと思えば、袖口を引っ張ったまま、テーブルへと向かった。
必然的に少しの距離ではあるがそのまま誘導されていると、料理を並べているキンタローが不思議な顔をして、二人を迎えた。
「…何だよ」
思わず、反射的に出た言葉だったが、キンタローは首をかしげながら思ったことを口にした。
「お前がグンマのペースに付き合っているのを、久し振りにみた」
「るせぃ」
思わず赤面してしまったが、確かにそうかもしれない。
元々、我の強い一族だ。
自分の好きなことは強引にでも通すのだが、近年グンマはそういった傾向は見られなかった分、一体いつ振りになるのやら。
多分、それこそ幼年期くらいまでさかのぼりそうだ。
「そんなことより、ご飯にしようよ」
話のネタになっているはずのグンマは、さっさと椅子に座る。
料理といっても、数種類のサンドイッチにサラダ位で、後はから揚げなど食堂から貰ってきたものなので大したものではない。
それでもシンタローにしてみれば、久し振りに人と一緒に食べる食事だ。割り切ってしまえば、なかなか悪いものではない。
「そーだな」
気分を変えるために、大きく息を吐いて席に着いた。
一方的にグンマがしゃべるだけの昼食だったが、それはそれで悪いものではなかった。
引きこもり一歩手前のシンタローや、知り合いの少ないキンタローに比べ、他の研究室に顔を出すグンマはいろんな話を知っていた。
他愛の無いものばかりではあったが、報告書にはかかれない些細な話に、突っ込みを入れたり、青ざめてみたり、わけのわからない顔をしているキンタローに説明したりと、時間は瞬く間に過ぎていった。
そして、ようやく最後にお茶を飲み干した後。
「じゃあ、お皿は僕が持っていくね」
軽やかに立ち上がったグンマは、さっさとテーブルの上のものをワゴンに移した。
「おい」
テーブルクロスも取り除かれ、無機質なテーブルが見えた瞬間、ようやく言われた言葉に反応することが出来た。
「なに?」
引き止めなければ、そのままこの場を去っただろうグンマが振り返る。
無邪気なその顔に、湧き上がった怒気を何とか鎮めながら、こめかみを押さえた。
「あのなぁ」
「あ、そうか。忘れるとこだった」
手をたたき、うなずくグンマは怒っているシンタローを無視し、未だに座って状況のわかっていないキンタローに顔を向けた。
「僕が戻ってくるまで、ここを案内してあげてね」
「――わかった」
「俺の意思は無視かい」
どっちに怒りをぶつけていいものかわからず、思わず拳を握り締める。
その拳を見ないようにして、グンマはシンタローの目の前に人差し指を突きつけた。
「何言ってるの?だってこれから、この温室の視察をするんだから、キンちゃんに案内してもらわなきゃ」
「は?」
二つの声が重なる。
シンタローが恐る恐る後ろを振り返ると、口をあけたまま固まっているキンタローの姿があった。
「待て待て待て!それなら終わっただろ?」
思わず、大声で叫んでしまったが、グンマは口をへの字に曲げて、人差し指を左右に振った。
「あのね、まだ一部分しかシンちゃんは見てないんだよ。せっかくなんだからちゃんと見てかなきゃ駄目だよ」
「そんな時間は――」
「大丈夫、とティラミス達には言ってあるから」
決定打だった。
思わず、力が抜けてしまったその隙を突いて、あっという間にワゴンを押して出て行くグンマに言葉もなく。
「…で、どうすればいいんだ?」
声を掛けてきたのは、キンタローだった。
「…とりあえず、案内してくれ」
投げやりな答えに、それでも律儀に頷くキンタローがなぜか哀れに思えた。
査定という言葉に最初は緊張気味だったキンタローだが、どうにか自分のペースを思い出したらしい。
元々、グンマの思いつきにつき合わされていたため、何を説明するのかいささか混乱していたようだが、それさえ過ぎてしまえばいつものように淡々とシンタローを案内していた。
「…人に説明するのは始めてだ」
一通り見終わった後、元いた場所に戻るとポツリと言葉を漏らす。
とはいえ、専門的なことはわからないから大雑把でいいというシンタローの言葉に救われたというのもあるだろう。
視察という言葉に戸惑っていたようだが、詳しいことのわからないシンタローにしてみれば、この温室の植物がきちんと育っているのがわかればそれでよかった。
第一、キンタローが正式にここを引き継いだとはいえ、まだ少ししか経っていないのだから、それだけで評価が出来るわけではないのだ。
だからこそ、二人ともグンマの言う視察を冗談だと受け止めていたというのに、いきなり任されればこういったことに不慣れなキンタローが慌てるのは当たり前である。
「お疲れさん」
一方、シンタローはそれなりに満足そうな顔をしていた。
久し振りに土の感触を存分に楽しめたというのもあるが、キンタローがどれだけこの温室について理解しているかを知ることが出来たのは大きな収穫であった。
確かにシンタローに理解の出来ない話が多かったが、説明している姿を見れば少なくともどれだけ会得できているかくらいはわかるつもりだ。
それに、シンタローにしても植物の知識はある程度ある。
士官学校にいたときに詰め込まされた知識だ。
高松により、趣味に走ったものも多数会ったが、戦場に出て必要なものも確かにあり、必要であったものは刷り込まれているといっていい。
そういったものから判断するに、少なくともキンタローに対する点はかなり高得点といってもいい。
「て、どこに行くんだよ」
どかり、と椅子に腰掛けたシンタローとは違い、出口に向かおうとするキンタローに慌てて立ち上がろうとした。
「――本を」
「本?」
「ああ、グンマから借りた本だ。あそこにおいてあるから取りに行こうと思ったんだ」
指差す先には、小さな部屋があった。
最初に聞いた説明では、コントロールルームのようなもので、その他、実験に使うための器具等がおかれているらしい。
「グンマって――あいつの専門はバイオじゃないだろ?」
「ああ、今借りているのは材料工学と、プログラムに関する本だ」
至極まじめな顔で返され、何もいえなくなった。
何か不都合でもあったのかと首を傾げるが、生憎グンマを見てきたキンタローにしてみれば何がおかしいのかわかるはずもない。
グンマは自分の専門以外でも、興味の持ったものは片っ端から調べていく。
科学者というものは、否、専門家というものはそういうものではあるが、グンマはそれが広範囲に及んでいる。
純粋であるがゆえに貪欲に知識を得た結果ともいえよう。
そんなグンマから借りる本は多岐にわたるのだが、その渡し方がきちんとリンクされているために、疑問も持たず、黙々とキンタローは学んでゆく。
おそらくは、シンタローが認めるに至った勤勉さ故の成果なのだろうが、いまいち消化しきれない部分が残っているようだ。
本をとりにいった背中を見送りながら、おぼろげながらその正体を掴み、小さく溜息をついた。
硬い背もたれに体重を預け、腕時計を見る。
ここから食堂までの距離を考えれば、そろそろ帰ってくる頃だろう。
勝手に帰ったりしたならば、散々いやみを言われるだろうと容易に想像が出来る。
昔だったら、きっとそんなこと知るかと、否、その前にここには来ていなかっただろう。
余裕、とはまた少し違うなにかが、シンタローを引き止めた。
代わりにゆっくりと立ち上がって、緑の木々を眺る。
空調を整えるためにだろう、時折空気の流れを感じた。
ひんやりとしているが、冷房とはまた違った感じが体に心地よい。
広場からそう離れなければ、多少歩き回るのも良いだろう。
椅子に座ってるだけの生活に飽きた体を休めるために、ふらりと深い緑の中へと身を投じた。
頬を濡らすそれ。
知らないわけではない。
否、知っているからこそ、混乱していた。
前に一度、あの島で体験した。
けれどもなぜ、今なのかがわからずに、呆然としてしまった。
本を手に、広場に戻ろうとしたそのとき。
彼が木々の向こうに消えていった。
多分、手持ち無沙汰になり、散歩でもしようとしたのだろう。
唯それだけの光景を眼にした瞬間、前触れもなく頬に何かが伝った。
あのときのように心の底から湧き上がる衝動もなく、痛いと感じることもなく。
ようやく、手が動き、頬に伝うそれの源を辿る。
そして、それが予測どおりの場所からだと気がつき、慌てて力任せにぬぐった。
ようやく訪れた混乱に、けれども解決するわけでもなく。
原因を探そうにも、まるきり手がかりがないことに、焦りが増すばかり。
「なぜ…」
声に出すことにより、沈んでいた――あるいは浮かんでいた――思考が舞い戻ってきた。
連続的な小さな電子音。
時折聞こえる、木々のざわめき。
遠ざかっていく、足音。
いつの間に乾いている、涙。
いったん、混乱から醒めるとあの時、広がった何かがどうしようもなく気になった。
それは、じわりじわりと心の中に浸透していった。
けれどもいつから沸き起こったのかわからぬほど、小さなもの。
たとえることも、言葉に出すことも難しいそれを、理解することが出来ず、困惑した。
そして、思い出す。
消え行く瞬間に見た、優しく微笑む彼の顔を。
見知らぬ感情を、あまりにも幼すぎる彼はただ、持て余していた。
<後書き>
キン→シン?です。
風味から抜け出していることは間違いないのですが、→な分、糖度が薄い。
一応、南国終了直後です。
イメージとしては、初夏。若々しい緑色が素敵な季節。
しかし、気を抜くと、グンマさんについて語りたくなってしまいそうになり、慌てて削除してました。
従兄弟ズはやはり楽しいですね。