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SIDE:K
視界を過ぎった白い物を追い掛けて視線を動かした。
「雪だ」
窓の外を見て呟く。
その言葉に気付いて、同じ室内にいた従兄弟が顔を上げた。
つられたように外を眺め、
「ああ…、ここはかなり北の方だもんな…」
ひとり納得したように頷いた。
そっか…。
ぼんやりと呟く声の遠さに、どこと比べての話だとは訊けずに、
「外に出てみないのか?」
全く違う言葉を掛けてみる。
まだ遠くを見る従兄弟はその気がないのか、生返事を返すばかりで、何とはなしに会話が途切れ、沈黙が落ちた。
お互いてんでばらばらに窓の外を見詰めていると、そのうちにふと我に返ったように従兄弟がこちらを見遣った。
「…あ、お前、見てきたいか?」
逆に問い掛けられて、キンタローは返事に困った。
従兄弟と一緒になら、それも良い。
けれど見たければ見てこいと言われたら、それは違うのだ。
そういうことを上手く言葉に出来ず、
「いや…そういうわけじゃないが」
ぎこちなく間のあいた答えに、シンタローが気まずそうな顔になった。
乗り気でない自分に遠慮していると思ったのか。
椅子の背凭れに掛けていた上着を取り上げ、さっと立ち上がる。
「行こうぜ」
そうとだけ言って、キンタローの手にもコートを押しつける。
「シンタロー」
戸惑ったような声を上げるキンタローに、彼は自分のコートを羽織りながら笑った。
「いいから付き合えって。去年は降らなかったから、お前、初めて見る雪だろ」
コートを手に受け取ったまま、キンタローは俯いた。
屈託のない、けれど、どこか慈しむような眼差しの、従兄弟の笑顔。
いつもなら嬉しいはずの、自分だけに向けてくれるその笑顔が、何故か胸に痛くて瞳を伏せた。
SIDE:S
新雪の上に続く足跡。
少し先を行く彼のそれは、呆れるほど乱れなく整然としている。
何処までも真っ直ぐな彼の気性を表しているようだ。
ゆっくりと歩く後ろ姿を見詰めて、雪は彼に似ていると思う。
幼子の無知故に無垢であるのにも似て、まだ真っ白な従兄弟のようだ。
周囲の全てにふわりと積もった綿雪の柔らかさに誘われて、少しだけ掌に掬い取ってみた。
載せた掌の上に雪は見る間に融けて、水になって、指の間をすり抜けていく。
その様子を見ながら、苦笑が漏れた。
この手は余計なものなのかも知れない。
従兄弟が暖かいと言うこの手に宿る熱が雪を溶かしてしまうように、雪のように凛と白い従兄弟を跡形もなく変えてしまうかもしれない。
今この瞬間にも流れ去って、この手には何も残らないかも知れない。
何もない濡れた掌をぼんやり見詰めていると、ふいにその手を取られた。
「シンタロー?」
いつの間にか引き返して来た従兄弟の、乏しい表情よりもずっと雄弁な青い瞳に気遣う色が浮かんでいる。
触れた手にその視線が移り、従兄弟は僅かに顔を顰めた。
「冷えてるじゃないか」
咎めるような声と共に、熱を分け与えるように、自分の掌を重ねる。
物慣れぬ拙い仕草と、染み入る確かな温度に、シンタローは目を細めた。
「そーだな」
相手の肩に顔を埋めるように、凭れ掛かる。
「…ここは、寒いな」
あの島よりも、ずっと。
凍えるほどに寒いから、傍にある温度がよくわかる。
ここは寒い。彼は温かい。
雪よりもずっと確かな温度で、誰よりも近く自分の傍らに存在している。
――この手が、例え余計なものだとしても。
「…シンタロー?」
確かな存在を伝える熱が手放せなくて、そこから動けずに、ただ瞳を閉じた。
後書き
…毎回、どんどん、これで良いのか不安になってくる、お題。配布者様にスライディング土下座です。
なんか、地上の楽園って幸せそうなイメージと激しく違ってる気がしますが。
沸いたイメージで書いたらこうなった。
たぶん、個人的に楽園って言葉には、閉じた世界のイメージがあるせいかと。
冬という季節の閉じた感じとか、一方通行的両思いの、お互いがお互いで完結してる感じ、みたいな。
……何だかんだいって、邪魔者が入れないあたり、これはこれで楽園に間違いないと思います。(きっぱり)
SIDE:K
視界を過ぎった白い物を追い掛けて視線を動かした。
「雪だ」
窓の外を見て呟く。
その言葉に気付いて、同じ室内にいた従兄弟が顔を上げた。
つられたように外を眺め、
「ああ…、ここはかなり北の方だもんな…」
ひとり納得したように頷いた。
そっか…。
ぼんやりと呟く声の遠さに、どこと比べての話だとは訊けずに、
「外に出てみないのか?」
全く違う言葉を掛けてみる。
まだ遠くを見る従兄弟はその気がないのか、生返事を返すばかりで、何とはなしに会話が途切れ、沈黙が落ちた。
お互いてんでばらばらに窓の外を見詰めていると、そのうちにふと我に返ったように従兄弟がこちらを見遣った。
「…あ、お前、見てきたいか?」
逆に問い掛けられて、キンタローは返事に困った。
従兄弟と一緒になら、それも良い。
けれど見たければ見てこいと言われたら、それは違うのだ。
そういうことを上手く言葉に出来ず、
「いや…そういうわけじゃないが」
ぎこちなく間のあいた答えに、シンタローが気まずそうな顔になった。
乗り気でない自分に遠慮していると思ったのか。
椅子の背凭れに掛けていた上着を取り上げ、さっと立ち上がる。
「行こうぜ」
そうとだけ言って、キンタローの手にもコートを押しつける。
「シンタロー」
戸惑ったような声を上げるキンタローに、彼は自分のコートを羽織りながら笑った。
「いいから付き合えって。去年は降らなかったから、お前、初めて見る雪だろ」
コートを手に受け取ったまま、キンタローは俯いた。
屈託のない、けれど、どこか慈しむような眼差しの、従兄弟の笑顔。
いつもなら嬉しいはずの、自分だけに向けてくれるその笑顔が、何故か胸に痛くて瞳を伏せた。
SIDE:S
新雪の上に続く足跡。
少し先を行く彼のそれは、呆れるほど乱れなく整然としている。
何処までも真っ直ぐな彼の気性を表しているようだ。
ゆっくりと歩く後ろ姿を見詰めて、雪は彼に似ていると思う。
幼子の無知故に無垢であるのにも似て、まだ真っ白な従兄弟のようだ。
周囲の全てにふわりと積もった綿雪の柔らかさに誘われて、少しだけ掌に掬い取ってみた。
載せた掌の上に雪は見る間に融けて、水になって、指の間をすり抜けていく。
その様子を見ながら、苦笑が漏れた。
この手は余計なものなのかも知れない。
従兄弟が暖かいと言うこの手に宿る熱が雪を溶かしてしまうように、雪のように凛と白い従兄弟を跡形もなく変えてしまうかもしれない。
今この瞬間にも流れ去って、この手には何も残らないかも知れない。
何もない濡れた掌をぼんやり見詰めていると、ふいにその手を取られた。
「シンタロー?」
いつの間にか引き返して来た従兄弟の、乏しい表情よりもずっと雄弁な青い瞳に気遣う色が浮かんでいる。
触れた手にその視線が移り、従兄弟は僅かに顔を顰めた。
「冷えてるじゃないか」
咎めるような声と共に、熱を分け与えるように、自分の掌を重ねる。
物慣れぬ拙い仕草と、染み入る確かな温度に、シンタローは目を細めた。
「そーだな」
相手の肩に顔を埋めるように、凭れ掛かる。
「…ここは、寒いな」
あの島よりも、ずっと。
凍えるほどに寒いから、傍にある温度がよくわかる。
ここは寒い。彼は温かい。
雪よりもずっと確かな温度で、誰よりも近く自分の傍らに存在している。
――この手が、例え余計なものだとしても。
「…シンタロー?」
確かな存在を伝える熱が手放せなくて、そこから動けずに、ただ瞳を閉じた。
後書き
…毎回、どんどん、これで良いのか不安になってくる、お題。配布者様にスライディング土下座です。
なんか、地上の楽園って幸せそうなイメージと激しく違ってる気がしますが。
沸いたイメージで書いたらこうなった。
たぶん、個人的に楽園って言葉には、閉じた世界のイメージがあるせいかと。
冬という季節の閉じた感じとか、一方通行的両思いの、お互いがお互いで完結してる感じ、みたいな。
……何だかんだいって、邪魔者が入れないあたり、これはこれで楽園に間違いないと思います。(きっぱり)
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4年間。一体いつの間に立場が逆転したのやら。赤子のようなゼロの状態から歩き始めた新しい従兄弟は、気付けば口も達者になっていて、今では自分の世話を見るのが仕事とばかりに、見事なお気遣いの紳士然。すっかり可愛げのなくなった従兄弟だが、湧いてしまった情とは恐ろしいモノで、どうも自分は一度絆された相手には弱いらしい。あの子どもに対してもそうだったと思えば、全く進歩がないものだと苦笑するしかない。
ひな鳥のような彼が後を付いて回るのを、弟を構うように面倒を見て、科学者としての成長に感心しきり、学問に留まらない多彩な才能に舌を巻いて、力比べでは競い合い、気付けば彼は自分の片腕として隣に控えるようになっていて、誰かに頼るのを良しとしない自分がいつのまにか彼を頼みにしていて。
4年間という短い期間のあまりの変化に、周りには随分、驚かれたけれど。自分が変わったというよりも、向こうの成長に連れて、相対的に自分の対応が変わっただけで。
ああ、でも。
いつから彼に弱音を晒すようになったのだろう。
彼があんまりにも自分を見透かすから。どんな壁も鎧も無いもののように、簡単に一番脆い部分に触れるから。
嘘偽りのない、心からの言葉だから。
「…敵わねぇよなぁ」
あんまりにも真っ直ぐ、ひたむきに心を寄せるから、向かい合わせにある自分の心まで引きずり寄せられた。
この先の道がどう続くのか。
わかっているのは自分たちがお互いに影響を受けずにはおれないだろうということ。
彼が変われば自分も変わるし、自分が変われば彼も変わるだろう。
「なんだ?」
「いや…」
もう一つには戻れない、相対する二つであるからこそ。
君が一歩、その場所を動くたび。
自分の立つ場所も絶え間なく変わる。
比例グラフのように、0のラインを挟んだ彼方と此方、座標の上をぐるぐる動きながら。
このベクトルはどこへ向かい、どこへ辿り着くだろうか。
「そんなの、決まってるな」
迷うことなんかない。
進む先はひとつだけ。
「行こうぜ」
共に肩を並べて、恐れることなく、ただ前へ。
後書き。
ぽっと降って湧いてきた散文。シンちゃん独白。
振り返ってみれば嵐のような激動の4年間でも、中心の彼らは向かい合って或いは背中合わせになって、道のりは隣り合って、一緒に一歩ずつゆっくり歩いてきた二人なんではないかと。
4年間。一体いつの間に立場が逆転したのやら。赤子のようなゼロの状態から歩き始めた新しい従兄弟は、気付けば口も達者になっていて、今では自分の世話を見るのが仕事とばかりに、見事なお気遣いの紳士然。すっかり可愛げのなくなった従兄弟だが、湧いてしまった情とは恐ろしいモノで、どうも自分は一度絆された相手には弱いらしい。あの子どもに対してもそうだったと思えば、全く進歩がないものだと苦笑するしかない。
ひな鳥のような彼が後を付いて回るのを、弟を構うように面倒を見て、科学者としての成長に感心しきり、学問に留まらない多彩な才能に舌を巻いて、力比べでは競い合い、気付けば彼は自分の片腕として隣に控えるようになっていて、誰かに頼るのを良しとしない自分がいつのまにか彼を頼みにしていて。
4年間という短い期間のあまりの変化に、周りには随分、驚かれたけれど。自分が変わったというよりも、向こうの成長に連れて、相対的に自分の対応が変わっただけで。
ああ、でも。
いつから彼に弱音を晒すようになったのだろう。
彼があんまりにも自分を見透かすから。どんな壁も鎧も無いもののように、簡単に一番脆い部分に触れるから。
嘘偽りのない、心からの言葉だから。
「…敵わねぇよなぁ」
あんまりにも真っ直ぐ、ひたむきに心を寄せるから、向かい合わせにある自分の心まで引きずり寄せられた。
この先の道がどう続くのか。
わかっているのは自分たちがお互いに影響を受けずにはおれないだろうということ。
彼が変われば自分も変わるし、自分が変われば彼も変わるだろう。
「なんだ?」
「いや…」
もう一つには戻れない、相対する二つであるからこそ。
君が一歩、その場所を動くたび。
自分の立つ場所も絶え間なく変わる。
比例グラフのように、0のラインを挟んだ彼方と此方、座標の上をぐるぐる動きながら。
このベクトルはどこへ向かい、どこへ辿り着くだろうか。
「そんなの、決まってるな」
迷うことなんかない。
進む先はひとつだけ。
「行こうぜ」
共に肩を並べて、恐れることなく、ただ前へ。
後書き。
ぽっと降って湧いてきた散文。シンちゃん独白。
振り返ってみれば嵐のような激動の4年間でも、中心の彼らは向かい合って或いは背中合わせになって、道のりは隣り合って、一緒に一歩ずつゆっくり歩いてきた二人なんではないかと。
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「どうだ?」
この上なく真剣にシンタローは問い掛けた。
久々のオフ。
そろそろ冬も近いが、南向きに窓のあるリビングは、いっぱいに日が差し込んでいて暖かだ。
テーブルを挟んで対面にいるのは従兄弟のキンタローだった。こちらも丁度良く、仕事はオフだ。
それぞれの前にはコーヒーカップが置かれ、温かい湯気と共に深い香りを立ち上らせている。
そして、それらの間、ちょうどテーブルの中央に、彼が判定を問い掛けたものが並んでいた。
就任したばかりの総帥業の合間を縫って、彼が日夜研究を重ね努力を重ねた結果であり、本人なりにこれこそはと思う出来ではあったのだが、眉間に皺を寄せた従兄弟の反応は今ひとつ芳しくなかった。
返ってきた答えはシンプルに一言。
「甘い。」
シンタローは、目の前の生のフルーツをふんだんに使ったタルトを睨み付けた。
「お前、それしか言わねーじゃねーか。じゃぁ、こっちならどーだ?」
一口しか手を付けられていないタルトを脇に寄せ、代わりに別の皿から切り取ったシフォンケーキ一切れを相手の目の前に押しやる。
「……………」
「…ダメか」
表情は変わらなかったが、一口飲み下したものの、後が続かない。
がっくりと頭を落としたシンタローに、キンタローはいささか申し訳なさそうな顔でブラックのコーヒーを飲み下した。
「何で最近、こんなに甘いものばっかりなんだ?」
目の前の皿を浮かない顔で見遣りながら、キンタローがため息を漏らした。
甘いモノが苦手な彼は、ここ連日の試食会にかなり参り気味だ。
シンタローは、ばつが悪そうな拗ねたような、曖昧な表情を浮かべた。
「…練習中なんだよ。コタローが目ぇ覚ましたら、おやつも作ってやりたいから」
成る程、分かりやすい。
だが、お菓子ずくめの理由は納得したが、根本問題として人選がおかしいと、キンタローは思う。
「おやつの試食は俺よりグンマにさせた方が適任だ」
「グンマにも意見は聞いてるよ。アイツお子さま味覚だから、丁度良いしナ」
返ってきたシンタローの答えに、キンタローは怪訝な顔で首を捻った。
「それだったら俺の意見は必要ないんじゃないのか?」
「ダメだ」
少しの期待を込めた正直な感想は、ものの見事に一蹴された。
その思いがけなく強い調子にキンタローは困惑する。
「だが、俺ではあまり参考にはならないだろう」
「そーじゃなくて、お前も食えないとダメなんだよ」
焦れたようにシンタローが言った。
「メシの時とかおやつの時とかさ…、なるべく家族みんなで集まりたいだろ。一緒にいるのにひとりだけ食わねえってのも嫌だし、だからって無理してまで食えとは言えねーし…」
ぶつぶつと半分独り言のように続けていたシンタローの言葉が、そこで止まった。
表情に乏しい従兄弟が、珍しいほどくっきりと顔を顰めていたからだ。
「………あんだよ、イヤなのかよ」
怯んだように、シンタローが問い掛ける。
「そうじゃない」
きっぱりした否定に少しだけほっとしながら、
「じゃぁ何だ」
首を傾げたシンタローに、キンタローが真面目な顔を向けた。
「それは俺も数に入っているのか?」
「…はぁ?」
言われたことの意味が分からず、シンタローはぽかんとした顔で聞き返した。
「とりあえず、俺は居ない方が良いんじゃないかと思うんだが」
「…ああ!?何言ってんの、お前」
突然ワケのわからないことを言い出した従兄弟に、シンタローが苛立ったような声を上げた。
それをどう思ったのか、当のキンタローは至極真剣な顔で勝手に喋り始めた。
「ああ、いや、お前の言ってることに反対しているワケじゃない。コタローのために家族団欒を心掛けるのは、俺も賛成だ。しかし、マジック叔父貴は父親だしお前やグンマは兄だから確かにコタローにとっては家族だが、俺はただの親戚だろう。そうすると俺までいては、せっかくの家族水入らずの邪魔を…
………シンタロー?」
「ンの…」
掠れた声が地を這った。
常にない無表情を湛えた従兄弟の顔を、キンタローが不思議そうに覗き込む。
次の瞬間、辺りを揺るがす大音声が響き渡った。
「頭ァ冷やして出直して来いッ!!!このバカヤロウがッ!!!」
きっちりと二度、どこか控えめに響いたノックの音に、どうぞとグンマは声を掛けた。
一拍遅れて睨んでいたパソコンの画面から目を離す。
振り返ると、部屋の入り口で所在なげに立ち尽くす、短い金髪の新しい従兄弟が視界に入った。
普段は来訪に先だって内線で連絡を寄越す律儀な彼の、珍しくも唐突な訪問にグンマはのんびり首を傾げた。
「どうしたの、キンちゃん?」
「…シンタローが怒った」
キンタローがぼそりと言う。
きょとんとグンマはキンタローの顔を見詰めた。
最初に端的に結論だけを言うのは彼の癖のようなものだ。
論文と同じで、まず結論を述べた後から、相手に必要なだけ説明が足されていく。
グンマはそうした彼の話し方に慣れているから、大抵の場合そう多くの説明は要らないのだが、それでも流石にこれだけでは言葉が足りなかった。
考えるように首を捻って、それから思い出したように従兄弟を手招く。…そう言えば彼は入り口近くに立ったままだったので。
素直に近くに寄ってきた従兄弟の顔は、一見いつもと変わらぬ無愛想な無表情だったが、微かに顰めた眉に困惑が見て取れた。
常には眼光鋭い眼差しも、どこかぼんやりとして精彩がない。
続く説明を促す視線に、キンタローはますます困ったように眉を寄せた。
「頭を冷やせと言われたんだが」
それには思い当たるものがあって、苦笑混じりにグンマは笑った。
「ああ、うん。ここまで声が聞こえたよ。あれじゃ沸騰してるのはシンちゃんだよねぇ。で?どーしたの」
おっとりした従兄弟のいつもと変わらぬ調子に促されて、キンタローも幾らか落ち着きを取り戻したようだった。
事ここに至るまでの過程を順を追って詳細かつ正確に話し出す。
そうして、あらかたの事情を聞き終えた頃には、グンマが頭を抱えていた。
「キンちゃーん…それはシンちゃんも怒るよぉ」
深い溜息混じりに言われて、キンタローが心外そうに眉を寄せた。
納得のいかない瞳があからさまに何故と問い掛けている。
グンマは説明に困ったように宙を見遣った。
うーんと、しばらく唸り、
「よーするに、キンちゃんは家族の範囲に自分は含まれないと思うんだね?」
全く違うことを問い掛ける。
キンタローは首を傾げつつも頷いた。
グンマとの会話の中では、こうやって話の途中で全然違う話題に飛躍するということがよくある。それは彼が周囲に天然お馬鹿さん扱いされる所以でもあるのだが、けれど、どれだけ脈絡がなさそうな話題に飛んでも、それはちゃんと最初の話題に繋がってくるのだ。途中で遮らなければ、彼はちゃんと元の場所まで繋がるように、きっちりと説明してくれる。
なので、とりあえず彼は素直に肯定した。
「うんうん、学者たるもの何を論じるにも、定義は最初にハッキリさせとかないとね~。てわけで…」
いやに最もらしいことを言って、おもむろにグンマは手を伸ばし、棚にある分厚い背拍子を掴んだ。
引っ張り出したのは何の変哲もない国語辞典である。
「えーと…」
「か」行で当たりをつけて引いたページを、行き過ぎた何枚か捲って項目を戻る。
ぱらぱらと紙が捲れる軽い音が響いた。
「か~か~~…あー、あったあった♪」
にっこりと笑って、相手側から見やすいように辞書をくるりとひっくり返し、グンマは開いたページの中の一行を指で示した。
「はい、ココ。家族とは~」
突きつけられた細かい字の並ぶページに、キンタローは目を落とした。
該当する項目には、端的にこう書かれていた。
『 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団 』
「キンちゃんはうちの一族の血縁関係者だし、僕らと一緒に生活もしてるよね~。ほら、ばっちり範囲内v」
ね?と首を傾げて、グンマがにこにこと笑う。
その顔と辞典を見比べ、キンタローは冷静に疑問を口にした。
「だが、グンマ。家族という括りは、一般的に親兄弟ほどまでをさすのではないのか」
ついと指を伸ばし、更に続きの文章を指し示す。
『 近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態 』
「……」
「……」
「……キンちゃん」
「何だ」
勢いよく辞書を閉じ、それをゴミ箱に投げ捨てて、グンマはキンタローの顔面にびしっと人差し指を突きつけた。
「いくら一般的な定義がそうでも、世間は世間、ウチはウチだよ!」
いきなりひっくり返った主張に、キンタローが呆気にとられたようにその指を眺める。
「…………グン」
「それとも…」
展開に付いていけないキンタローを構うことなく、グンマは急に哀しげな顔になった。
「キンちゃんは僕らと一括りにされるのは、嫌?」
「……………」
捨てられた子犬のように項垂れてしまった従兄弟を見詰めて、彼は途方に暮れたように瞬いた。
「シンタロー」
先程追い出された居間に戻ってくると、意外にも彼は未だそこにいた。
テーブルを離れて窓際、外を向いて、こちらに背を向けている。
声は聞こえたはずだし、足音も消していない。
自分が居ることは分かっているはずだが、反応はなかった。
しかたなくキンタローは再度彼の名を呼んだ。
「シンタロー…?」
「…俺はコタローの兄だ」
ちらとも振り返らないまま、唐突にシンタローが口を開いた。
はっきりとした強い声音は、けれど感情を抑えているように低く平坦だ。
「遺憾だがクソ親父の息子だ。血が繋がってなくたって関係ねぇ。…そう思ってる」
「そうだな」
キンタローから見ても疑いもない事実に、彼は何気なく相槌を打った。
それに対しても取り立てて反応はなかったが、背を向けて立つ従兄弟の握り混んだ拳に力が籠もったのがわかった。
拙いことを、言っただろうか。
内心でひやりとしたけれど、頑なに振り向かない背中が拒絶されているようで、これ以上彼に近づくことも出来ない。
「サービス叔父さんや…一応、馬鹿ハーレムの…甥で。グンマやお前の従兄弟で。血が繋がってなくたって、俺は青の一族で…、俺は…」
低い低い、押し潰した声が響く。
深く俯く顔に長い黒髪が落ち掛かり、シンタローは視界を覆うその色を見詰めた。
自分の家族はコタローだけだと、グンマに向かってそう憎まれ口を叩いたこともある。
まだ血の繋がりがあると信じていた頃。
でも、本当は
「俺は…その全員、家族だと思ってる」
呟いて、強く堅く拳を握り締める。
振り返れば、紛れもなく一族特有の鮮やかな色を持つ従兄弟の姿。
その驚いたような、どこか呆然とした顔が胸を刺す。
自分にとっては自明のことでも彼にとってはそうではなかったのだと、今更、思い知らされて。
「思ってんのは、…俺だけかよ…っ」
苦しげに悔しげに、振り絞るように声を吐き出す。
遣り場のないやり切れない感情に耐えかねたように、顔を背けた。
その横顔を、キンタローは目を見張ったまま、ひたすらに見詰めていた。
「シンタロー…」
――キンちゃんは僕らが家族じゃ嫌?
グンマの問い掛けに、キンタローは困惑しながらも否と返した。
「嫌、とかじゃない。ただ何といえばいいのか」
続く言葉が見つからず口を噤みかけ、それではいけないと思い直す。
それでは、彼を怒らせた時と何も変わらない。
自分の中にあって上手く表現出来ないこの思いを、きちんと伝えなければならないのだ。
もどかしさに苛立ちながらも、何とか言葉にしようとする努力を、彼は始めた。
「…俺は24年間、マジック伯父貴を父だと思っていた。シンタローがそう思っていたと同じように、俺もそう思っていた。だけど、あの島で俺の本当の父がルーザーだとわかって、マジックは伯父になった」
「うん」
「コタローは、弟から従弟になった。関係そのものが変わったんだ」
「うん、それから?」
覚束ない言葉を、それでも相槌を打ちながら静かに聞いているグンマに、安堵したようにキンタローは言葉を続けた。
「関係が違うということは、繋がり方も違うということだろう」
「…キンちゃん?」
そこで初めて、グンマが訝しげな声を上げた。
キンタローが生真面目に首を傾げる。
「どう違うのか、俺には正直よくわからないが、それでも従兄弟より兄弟の方が繋がりが、何というか…近いのだろう?なるべく俺より、お前やシンタローと一緒にいる方がコタローにとって望ましいんじゃないかと思ったんだが」
「――……そういうの、気にすることなんかないよ」
キンタローの説明を聞き終えたグンマが、眉を顰めて怒っているような顔になった。
或いは哀しいようにも嬉しいようにも見える複雑な表情で、彼にしては珍しいほど強く言い募る。
「どう違うのかわからないって言ったよね。違いなんかないよ。だって従兄弟でも兄弟でもキンちゃんはキンちゃんじゃない。キンちゃん、コタローちゃんのために真剣に考えてくれたんでしょ。そのことはね、それで充分だよ。でも…」
グンマは深い溜息をついた。
「どう言ったら良いのかなぁ、…従兄弟だってやっぱり家族なんだよ。少なくとも僕らにとっては」
一向に納得していない不満げな表情のキンタローに、グンマは苦笑した。
卑下でもなく自虐でもなく、知識としてそう思い込んでいる彼だから、幾ら頑迷に否定しようとも、そこには負い目や影のような暗いものはない。
…だからこそ少し融通の利かないだけの行き違いは微笑ましくもあり、同時に厄介でもあるのだけれど。
「ねぇ、キンちゃん、シンちゃんはもう誰とも血が繋がってないんだよ」
「それは…」
「それだけでもう、『一般的』な『家族』の定義からは外れてる。…でもシンちゃんは僕らの家族だよ。お父様の息子で、コタローちゃんのお兄ちゃんで、僕らの従兄弟だ。そうでしょ?」
おおよその返ってくるだろう答えを先回りをして、確認するように訊ねる。
「…そう、だが」
会話の意図が掴めずに不思議そうに頷いたキンタローに、グンマは切り込んだ。
「それって何でか、わかる?」
「何故って…、……」
答えようと口を開きかけて、キンタローの動きが止まってしまう。
得たりとグンマは笑った。
「今、返答に困ったでしょ、すごく当たり前のこと聞かれたから。…だからだよ」
「グンマ?」
よくわからないと言いたげに、キンタローが戸惑った声を上げた。
幼子に教え諭すようにグンマは根気よく言葉を重ねた。
「――僕らもシンちゃんも、お互いにお互いが『家族』だって、当たり前にそう思ってるからだよ。理屈なんか要らないくらい」
理解出来ているのかいないのか、それでもキンタローは一言も聴き洩らさんとして食い入るように耳を傾けている。
「それと同じくらい、僕らはキンちゃんのことも、当たり前に『家族』だって思ってる。同じ家族なんだから、近いとか遠いとか、そんなの関係ないよ。コタローちゃんのことも、キンちゃんが遠慮することなんかないんだ。みんなで取り合いになるくらい、めいっぱい愛してあげれば良いんだから」
「…だが、さっきの辞典では…」
口籠もる彼は、もはや完全に混乱してしまっている様子で、グンマも少し気の毒になる。
一族で散々ごたごたした挙げ句の、やっと落ち着いたそれぞれの立場に対して、キンタローは非常にナーバスだ。
なかなか定まらなかった自分の存在の不安定さもあるのだろう。やっと安定したバランスを崩さないよう、己が得た場所以上の分を越えないように、ともすると自分たちにすら遠慮がちになる。
コタローのことも、シンタローやグンマを差し置いてはいけないという脅迫観念にかられてしまったのだろう。
「…しょーがないなぁ、もう」
辞典のように科学のように定義によって割り切れるものばかりではないのだと。
キンタローも頭ではわかっているが、それをどこで見分けてどう判断すれば良いのか、そこまでの基盤が出来ていない。
まだ多くのことを一般的な常識に照らし合わせて学んでいる真っ最中の彼に、いきなりそれを越えたところのものを理解せよと言っても酷だろう。
どうしたものかと考えて、グンマはふと名案を思いついたように、にっこりと笑った。
「じゃぁねぇ、キンちゃん。どうしてもそこが引っ掛かるならね、――こう考えてみれば良いんだよ」
「シンタロー、お前にとって俺は『家族』か?」
唐突にキンタローが問い掛けを口にした。
まるで確認するようなそれを聞いた途端に、シンタローの眦が屹と吊り上がった。
「テメェは…!」
一気に激昂しかかったシンタローを宥めるように、キンタローは素早く掌を翳した。
また叩き出されては敵わない。
「怒るな。…何故、さっき怒ったのかは何となくわかった」
真っ直ぐ相手の瞳を見詰め、心からの謝罪を口にする。
「悪かった」
きっぱりとした誠実な態度に、謝られたシンタローの方がたじろいだ。
それまでの怒りも忘れるほど慌てて、居心地悪そうに視線を逸らす。
「だったら、いちいち当たり前のこと、訊いてんじゃねぇよ!」
ぶっきらぼうなそれがさっきの問の答えだと気付いて、キンタローは口端を緩めた。
「当たり前か。グンマもそう言っていた」
茶化すなど思いも寄らない生真面目な従兄弟の受け答えに、シンタローが仕方なさそうにため息をついた。
いちいち怒るのも照れるのも、馬鹿らしくなったらしい。
ふて腐れたように問い掛ける。
「お前自身はどうなんだよ?」
「そういう捉え方で良いなら、俺もお前と同意見だ」
その答えでは今ひとつ不満だったらしく、シンタローが試すように片眉を上げた。
「つまり?」
重ねて訊かれて、キンタローは頭の中で今の曖昧な答えを明確に言語化した形に作り直す。
「――お前は俺の『家族』だ。コタローも『家族』だ。伯父貴達もグンマも、お前の『家族』で、同時に俺の『家族』だ」
あっさりと当初の馬鹿な意見を翻した従兄弟の顔を、シンタローは不審げに睨み付けた。
本やテレビを鵜呑みにするほど、変に素直なところのある従兄弟は、しかし一度こうと思い込んだらとにかく頑固なのだ。
「本当にそう思ってんだろうな」
「ああ」
しつこいほどの確認にも気負いなく頷く彼の、常に強い意志を湛える青い瞳を、シンタローが覗き込む。
そこに今も少しも揺るがない本気の色を認めて、偽りを赦さない黒い瞳がやっと和らいだ。
「…なら、みんなで集まってメシ食ってお茶したって、何もおかしくねーよな?」
納得したように目を細め、ようやく笑顔になったかと思えば、一転して彼は悪戯っぽく問うた。
「ああ、おかしくない」
「俺が作るメシやおやつにも文句はねぇだろーな」
「勿論だ」
キンタローが間髪入れずに答える。
…本当のところ、あんまり甘ったるいお菓子は勘弁して欲しいのだけれど。
そんな心の声を見抜いたように、彼は盛大に笑った。
「ちゃんとお前が食えそうなもんも作ってやるよ。俺もどうせならそんなに甘ったるくない方が良いしナ。けど、グンマとコタローは甘いモンの方が良いだろうし」
親父は…まぁどっちでもイイや、と付け加えて、あれはどうだろう、これならどうだ、と生き生きと考え始めるシンタローの姿を、キンタローは見詰めた。
どうやら完全に機嫌は治ったらしい。
嬉しそうに楽しそうに笑っている従兄弟の笑顔は好きだ。
こっちまで嬉しくなってくるし、何というかほっとする。
詰めていた息を大きく吐いて肩の力を抜いて、キンタローは初めて緊張していたらしい自分を自覚して驚いた。
些細なことで従兄弟が怒るのなんてしょっちゅうなのに、いまさら何をそんなに恐れることがあるのだろう。
彼が怒るのは別に怖くはない。
そう、ただ怒るのなら、怖くはないのだ。
従兄弟がよく怒るのは、彼がそれだけ真っ直ぐで真剣だからだ。怒り方まで真っ直ぐで、いっそ小気味が良いとすら思う。
けれど今回は、いつもと少し違った。
彼の言葉、態度、表情を思い返す。
怒らせもしたが、それだけではなかった。
傷付けたと思う。それも他ならぬ自分が。
どうしてだか、それが言い難いほど苦痛だったのだ。
傷ついた彼を見た瞬間、自分も確かに痛いと感じた。
不思議だと思う。
確かに彼と共にあった頃は、彼の感じる痛みはそのまま自分の痛みだった。
けれど今はもう別々の人間になって、何一つ感覚を共有してはいないというのに。
彼が痛んでいると思うと、痛いと思う。
あの頃とは全く違う、もっとずっと耐え難い痛みだった。
何故、と問い掛ける心にふと先程の応えが甦る。
答えを求める部分に、それはすっぽりと収まった。
「…ああ、そうか」
それは多分
「『家族』だから、…か」
彼が『家族』だから。
彼が笑っていると嬉しいのも
彼が傷つくと痛いのも
それならば
「――悪くは、ないな」
――こう置き換えてご覧よ。
『家族』って言うのはね、『大切な人』ってコト。
後書き。
喧嘩とも言えない、一方的ブチ切れ…。
何だろう、今回も題名に偽りアリ。
毎度、微妙に則してなくてスンマセン。
でも他に思い浮かばなかったんス…。
なんつーか普通に仲良い家族ネタです(またか)。
そして仲良し従兄弟ネタ。
更に、がっちり良いトコ取りグンちゃん(趣味)。
時間軸で言えば間違いなく南国後初期の頃。
家族以上になるのはまだ先の話ってことで。
4年間の時間軸の場所によって、彼らの関係も変わりますので。
…年表こさえた方がいいんだろうか…。
「どうだ?」
この上なく真剣にシンタローは問い掛けた。
久々のオフ。
そろそろ冬も近いが、南向きに窓のあるリビングは、いっぱいに日が差し込んでいて暖かだ。
テーブルを挟んで対面にいるのは従兄弟のキンタローだった。こちらも丁度良く、仕事はオフだ。
それぞれの前にはコーヒーカップが置かれ、温かい湯気と共に深い香りを立ち上らせている。
そして、それらの間、ちょうどテーブルの中央に、彼が判定を問い掛けたものが並んでいた。
就任したばかりの総帥業の合間を縫って、彼が日夜研究を重ね努力を重ねた結果であり、本人なりにこれこそはと思う出来ではあったのだが、眉間に皺を寄せた従兄弟の反応は今ひとつ芳しくなかった。
返ってきた答えはシンプルに一言。
「甘い。」
シンタローは、目の前の生のフルーツをふんだんに使ったタルトを睨み付けた。
「お前、それしか言わねーじゃねーか。じゃぁ、こっちならどーだ?」
一口しか手を付けられていないタルトを脇に寄せ、代わりに別の皿から切り取ったシフォンケーキ一切れを相手の目の前に押しやる。
「……………」
「…ダメか」
表情は変わらなかったが、一口飲み下したものの、後が続かない。
がっくりと頭を落としたシンタローに、キンタローはいささか申し訳なさそうな顔でブラックのコーヒーを飲み下した。
「何で最近、こんなに甘いものばっかりなんだ?」
目の前の皿を浮かない顔で見遣りながら、キンタローがため息を漏らした。
甘いモノが苦手な彼は、ここ連日の試食会にかなり参り気味だ。
シンタローは、ばつが悪そうな拗ねたような、曖昧な表情を浮かべた。
「…練習中なんだよ。コタローが目ぇ覚ましたら、おやつも作ってやりたいから」
成る程、分かりやすい。
だが、お菓子ずくめの理由は納得したが、根本問題として人選がおかしいと、キンタローは思う。
「おやつの試食は俺よりグンマにさせた方が適任だ」
「グンマにも意見は聞いてるよ。アイツお子さま味覚だから、丁度良いしナ」
返ってきたシンタローの答えに、キンタローは怪訝な顔で首を捻った。
「それだったら俺の意見は必要ないんじゃないのか?」
「ダメだ」
少しの期待を込めた正直な感想は、ものの見事に一蹴された。
その思いがけなく強い調子にキンタローは困惑する。
「だが、俺ではあまり参考にはならないだろう」
「そーじゃなくて、お前も食えないとダメなんだよ」
焦れたようにシンタローが言った。
「メシの時とかおやつの時とかさ…、なるべく家族みんなで集まりたいだろ。一緒にいるのにひとりだけ食わねえってのも嫌だし、だからって無理してまで食えとは言えねーし…」
ぶつぶつと半分独り言のように続けていたシンタローの言葉が、そこで止まった。
表情に乏しい従兄弟が、珍しいほどくっきりと顔を顰めていたからだ。
「………あんだよ、イヤなのかよ」
怯んだように、シンタローが問い掛ける。
「そうじゃない」
きっぱりした否定に少しだけほっとしながら、
「じゃぁ何だ」
首を傾げたシンタローに、キンタローが真面目な顔を向けた。
「それは俺も数に入っているのか?」
「…はぁ?」
言われたことの意味が分からず、シンタローはぽかんとした顔で聞き返した。
「とりあえず、俺は居ない方が良いんじゃないかと思うんだが」
「…ああ!?何言ってんの、お前」
突然ワケのわからないことを言い出した従兄弟に、シンタローが苛立ったような声を上げた。
それをどう思ったのか、当のキンタローは至極真剣な顔で勝手に喋り始めた。
「ああ、いや、お前の言ってることに反対しているワケじゃない。コタローのために家族団欒を心掛けるのは、俺も賛成だ。しかし、マジック叔父貴は父親だしお前やグンマは兄だから確かにコタローにとっては家族だが、俺はただの親戚だろう。そうすると俺までいては、せっかくの家族水入らずの邪魔を…
………シンタロー?」
「ンの…」
掠れた声が地を這った。
常にない無表情を湛えた従兄弟の顔を、キンタローが不思議そうに覗き込む。
次の瞬間、辺りを揺るがす大音声が響き渡った。
「頭ァ冷やして出直して来いッ!!!このバカヤロウがッ!!!」
きっちりと二度、どこか控えめに響いたノックの音に、どうぞとグンマは声を掛けた。
一拍遅れて睨んでいたパソコンの画面から目を離す。
振り返ると、部屋の入り口で所在なげに立ち尽くす、短い金髪の新しい従兄弟が視界に入った。
普段は来訪に先だって内線で連絡を寄越す律儀な彼の、珍しくも唐突な訪問にグンマはのんびり首を傾げた。
「どうしたの、キンちゃん?」
「…シンタローが怒った」
キンタローがぼそりと言う。
きょとんとグンマはキンタローの顔を見詰めた。
最初に端的に結論だけを言うのは彼の癖のようなものだ。
論文と同じで、まず結論を述べた後から、相手に必要なだけ説明が足されていく。
グンマはそうした彼の話し方に慣れているから、大抵の場合そう多くの説明は要らないのだが、それでも流石にこれだけでは言葉が足りなかった。
考えるように首を捻って、それから思い出したように従兄弟を手招く。…そう言えば彼は入り口近くに立ったままだったので。
素直に近くに寄ってきた従兄弟の顔は、一見いつもと変わらぬ無愛想な無表情だったが、微かに顰めた眉に困惑が見て取れた。
常には眼光鋭い眼差しも、どこかぼんやりとして精彩がない。
続く説明を促す視線に、キンタローはますます困ったように眉を寄せた。
「頭を冷やせと言われたんだが」
それには思い当たるものがあって、苦笑混じりにグンマは笑った。
「ああ、うん。ここまで声が聞こえたよ。あれじゃ沸騰してるのはシンちゃんだよねぇ。で?どーしたの」
おっとりした従兄弟のいつもと変わらぬ調子に促されて、キンタローも幾らか落ち着きを取り戻したようだった。
事ここに至るまでの過程を順を追って詳細かつ正確に話し出す。
そうして、あらかたの事情を聞き終えた頃には、グンマが頭を抱えていた。
「キンちゃーん…それはシンちゃんも怒るよぉ」
深い溜息混じりに言われて、キンタローが心外そうに眉を寄せた。
納得のいかない瞳があからさまに何故と問い掛けている。
グンマは説明に困ったように宙を見遣った。
うーんと、しばらく唸り、
「よーするに、キンちゃんは家族の範囲に自分は含まれないと思うんだね?」
全く違うことを問い掛ける。
キンタローは首を傾げつつも頷いた。
グンマとの会話の中では、こうやって話の途中で全然違う話題に飛躍するということがよくある。それは彼が周囲に天然お馬鹿さん扱いされる所以でもあるのだが、けれど、どれだけ脈絡がなさそうな話題に飛んでも、それはちゃんと最初の話題に繋がってくるのだ。途中で遮らなければ、彼はちゃんと元の場所まで繋がるように、きっちりと説明してくれる。
なので、とりあえず彼は素直に肯定した。
「うんうん、学者たるもの何を論じるにも、定義は最初にハッキリさせとかないとね~。てわけで…」
いやに最もらしいことを言って、おもむろにグンマは手を伸ばし、棚にある分厚い背拍子を掴んだ。
引っ張り出したのは何の変哲もない国語辞典である。
「えーと…」
「か」行で当たりをつけて引いたページを、行き過ぎた何枚か捲って項目を戻る。
ぱらぱらと紙が捲れる軽い音が響いた。
「か~か~~…あー、あったあった♪」
にっこりと笑って、相手側から見やすいように辞書をくるりとひっくり返し、グンマは開いたページの中の一行を指で示した。
「はい、ココ。家族とは~」
突きつけられた細かい字の並ぶページに、キンタローは目を落とした。
該当する項目には、端的にこう書かれていた。
『 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団 』
「キンちゃんはうちの一族の血縁関係者だし、僕らと一緒に生活もしてるよね~。ほら、ばっちり範囲内v」
ね?と首を傾げて、グンマがにこにこと笑う。
その顔と辞典を見比べ、キンタローは冷静に疑問を口にした。
「だが、グンマ。家族という括りは、一般的に親兄弟ほどまでをさすのではないのか」
ついと指を伸ばし、更に続きの文章を指し示す。
『 近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態 』
「……」
「……」
「……キンちゃん」
「何だ」
勢いよく辞書を閉じ、それをゴミ箱に投げ捨てて、グンマはキンタローの顔面にびしっと人差し指を突きつけた。
「いくら一般的な定義がそうでも、世間は世間、ウチはウチだよ!」
いきなりひっくり返った主張に、キンタローが呆気にとられたようにその指を眺める。
「…………グン」
「それとも…」
展開に付いていけないキンタローを構うことなく、グンマは急に哀しげな顔になった。
「キンちゃんは僕らと一括りにされるのは、嫌?」
「……………」
捨てられた子犬のように項垂れてしまった従兄弟を見詰めて、彼は途方に暮れたように瞬いた。
「シンタロー」
先程追い出された居間に戻ってくると、意外にも彼は未だそこにいた。
テーブルを離れて窓際、外を向いて、こちらに背を向けている。
声は聞こえたはずだし、足音も消していない。
自分が居ることは分かっているはずだが、反応はなかった。
しかたなくキンタローは再度彼の名を呼んだ。
「シンタロー…?」
「…俺はコタローの兄だ」
ちらとも振り返らないまま、唐突にシンタローが口を開いた。
はっきりとした強い声音は、けれど感情を抑えているように低く平坦だ。
「遺憾だがクソ親父の息子だ。血が繋がってなくたって関係ねぇ。…そう思ってる」
「そうだな」
キンタローから見ても疑いもない事実に、彼は何気なく相槌を打った。
それに対しても取り立てて反応はなかったが、背を向けて立つ従兄弟の握り混んだ拳に力が籠もったのがわかった。
拙いことを、言っただろうか。
内心でひやりとしたけれど、頑なに振り向かない背中が拒絶されているようで、これ以上彼に近づくことも出来ない。
「サービス叔父さんや…一応、馬鹿ハーレムの…甥で。グンマやお前の従兄弟で。血が繋がってなくたって、俺は青の一族で…、俺は…」
低い低い、押し潰した声が響く。
深く俯く顔に長い黒髪が落ち掛かり、シンタローは視界を覆うその色を見詰めた。
自分の家族はコタローだけだと、グンマに向かってそう憎まれ口を叩いたこともある。
まだ血の繋がりがあると信じていた頃。
でも、本当は
「俺は…その全員、家族だと思ってる」
呟いて、強く堅く拳を握り締める。
振り返れば、紛れもなく一族特有の鮮やかな色を持つ従兄弟の姿。
その驚いたような、どこか呆然とした顔が胸を刺す。
自分にとっては自明のことでも彼にとってはそうではなかったのだと、今更、思い知らされて。
「思ってんのは、…俺だけかよ…っ」
苦しげに悔しげに、振り絞るように声を吐き出す。
遣り場のないやり切れない感情に耐えかねたように、顔を背けた。
その横顔を、キンタローは目を見張ったまま、ひたすらに見詰めていた。
「シンタロー…」
――キンちゃんは僕らが家族じゃ嫌?
グンマの問い掛けに、キンタローは困惑しながらも否と返した。
「嫌、とかじゃない。ただ何といえばいいのか」
続く言葉が見つからず口を噤みかけ、それではいけないと思い直す。
それでは、彼を怒らせた時と何も変わらない。
自分の中にあって上手く表現出来ないこの思いを、きちんと伝えなければならないのだ。
もどかしさに苛立ちながらも、何とか言葉にしようとする努力を、彼は始めた。
「…俺は24年間、マジック伯父貴を父だと思っていた。シンタローがそう思っていたと同じように、俺もそう思っていた。だけど、あの島で俺の本当の父がルーザーだとわかって、マジックは伯父になった」
「うん」
「コタローは、弟から従弟になった。関係そのものが変わったんだ」
「うん、それから?」
覚束ない言葉を、それでも相槌を打ちながら静かに聞いているグンマに、安堵したようにキンタローは言葉を続けた。
「関係が違うということは、繋がり方も違うということだろう」
「…キンちゃん?」
そこで初めて、グンマが訝しげな声を上げた。
キンタローが生真面目に首を傾げる。
「どう違うのか、俺には正直よくわからないが、それでも従兄弟より兄弟の方が繋がりが、何というか…近いのだろう?なるべく俺より、お前やシンタローと一緒にいる方がコタローにとって望ましいんじゃないかと思ったんだが」
「――……そういうの、気にすることなんかないよ」
キンタローの説明を聞き終えたグンマが、眉を顰めて怒っているような顔になった。
或いは哀しいようにも嬉しいようにも見える複雑な表情で、彼にしては珍しいほど強く言い募る。
「どう違うのかわからないって言ったよね。違いなんかないよ。だって従兄弟でも兄弟でもキンちゃんはキンちゃんじゃない。キンちゃん、コタローちゃんのために真剣に考えてくれたんでしょ。そのことはね、それで充分だよ。でも…」
グンマは深い溜息をついた。
「どう言ったら良いのかなぁ、…従兄弟だってやっぱり家族なんだよ。少なくとも僕らにとっては」
一向に納得していない不満げな表情のキンタローに、グンマは苦笑した。
卑下でもなく自虐でもなく、知識としてそう思い込んでいる彼だから、幾ら頑迷に否定しようとも、そこには負い目や影のような暗いものはない。
…だからこそ少し融通の利かないだけの行き違いは微笑ましくもあり、同時に厄介でもあるのだけれど。
「ねぇ、キンちゃん、シンちゃんはもう誰とも血が繋がってないんだよ」
「それは…」
「それだけでもう、『一般的』な『家族』の定義からは外れてる。…でもシンちゃんは僕らの家族だよ。お父様の息子で、コタローちゃんのお兄ちゃんで、僕らの従兄弟だ。そうでしょ?」
おおよその返ってくるだろう答えを先回りをして、確認するように訊ねる。
「…そう、だが」
会話の意図が掴めずに不思議そうに頷いたキンタローに、グンマは切り込んだ。
「それって何でか、わかる?」
「何故って…、……」
答えようと口を開きかけて、キンタローの動きが止まってしまう。
得たりとグンマは笑った。
「今、返答に困ったでしょ、すごく当たり前のこと聞かれたから。…だからだよ」
「グンマ?」
よくわからないと言いたげに、キンタローが戸惑った声を上げた。
幼子に教え諭すようにグンマは根気よく言葉を重ねた。
「――僕らもシンちゃんも、お互いにお互いが『家族』だって、当たり前にそう思ってるからだよ。理屈なんか要らないくらい」
理解出来ているのかいないのか、それでもキンタローは一言も聴き洩らさんとして食い入るように耳を傾けている。
「それと同じくらい、僕らはキンちゃんのことも、当たり前に『家族』だって思ってる。同じ家族なんだから、近いとか遠いとか、そんなの関係ないよ。コタローちゃんのことも、キンちゃんが遠慮することなんかないんだ。みんなで取り合いになるくらい、めいっぱい愛してあげれば良いんだから」
「…だが、さっきの辞典では…」
口籠もる彼は、もはや完全に混乱してしまっている様子で、グンマも少し気の毒になる。
一族で散々ごたごたした挙げ句の、やっと落ち着いたそれぞれの立場に対して、キンタローは非常にナーバスだ。
なかなか定まらなかった自分の存在の不安定さもあるのだろう。やっと安定したバランスを崩さないよう、己が得た場所以上の分を越えないように、ともすると自分たちにすら遠慮がちになる。
コタローのことも、シンタローやグンマを差し置いてはいけないという脅迫観念にかられてしまったのだろう。
「…しょーがないなぁ、もう」
辞典のように科学のように定義によって割り切れるものばかりではないのだと。
キンタローも頭ではわかっているが、それをどこで見分けてどう判断すれば良いのか、そこまでの基盤が出来ていない。
まだ多くのことを一般的な常識に照らし合わせて学んでいる真っ最中の彼に、いきなりそれを越えたところのものを理解せよと言っても酷だろう。
どうしたものかと考えて、グンマはふと名案を思いついたように、にっこりと笑った。
「じゃぁねぇ、キンちゃん。どうしてもそこが引っ掛かるならね、――こう考えてみれば良いんだよ」
「シンタロー、お前にとって俺は『家族』か?」
唐突にキンタローが問い掛けを口にした。
まるで確認するようなそれを聞いた途端に、シンタローの眦が屹と吊り上がった。
「テメェは…!」
一気に激昂しかかったシンタローを宥めるように、キンタローは素早く掌を翳した。
また叩き出されては敵わない。
「怒るな。…何故、さっき怒ったのかは何となくわかった」
真っ直ぐ相手の瞳を見詰め、心からの謝罪を口にする。
「悪かった」
きっぱりとした誠実な態度に、謝られたシンタローの方がたじろいだ。
それまでの怒りも忘れるほど慌てて、居心地悪そうに視線を逸らす。
「だったら、いちいち当たり前のこと、訊いてんじゃねぇよ!」
ぶっきらぼうなそれがさっきの問の答えだと気付いて、キンタローは口端を緩めた。
「当たり前か。グンマもそう言っていた」
茶化すなど思いも寄らない生真面目な従兄弟の受け答えに、シンタローが仕方なさそうにため息をついた。
いちいち怒るのも照れるのも、馬鹿らしくなったらしい。
ふて腐れたように問い掛ける。
「お前自身はどうなんだよ?」
「そういう捉え方で良いなら、俺もお前と同意見だ」
その答えでは今ひとつ不満だったらしく、シンタローが試すように片眉を上げた。
「つまり?」
重ねて訊かれて、キンタローは頭の中で今の曖昧な答えを明確に言語化した形に作り直す。
「――お前は俺の『家族』だ。コタローも『家族』だ。伯父貴達もグンマも、お前の『家族』で、同時に俺の『家族』だ」
あっさりと当初の馬鹿な意見を翻した従兄弟の顔を、シンタローは不審げに睨み付けた。
本やテレビを鵜呑みにするほど、変に素直なところのある従兄弟は、しかし一度こうと思い込んだらとにかく頑固なのだ。
「本当にそう思ってんだろうな」
「ああ」
しつこいほどの確認にも気負いなく頷く彼の、常に強い意志を湛える青い瞳を、シンタローが覗き込む。
そこに今も少しも揺るがない本気の色を認めて、偽りを赦さない黒い瞳がやっと和らいだ。
「…なら、みんなで集まってメシ食ってお茶したって、何もおかしくねーよな?」
納得したように目を細め、ようやく笑顔になったかと思えば、一転して彼は悪戯っぽく問うた。
「ああ、おかしくない」
「俺が作るメシやおやつにも文句はねぇだろーな」
「勿論だ」
キンタローが間髪入れずに答える。
…本当のところ、あんまり甘ったるいお菓子は勘弁して欲しいのだけれど。
そんな心の声を見抜いたように、彼は盛大に笑った。
「ちゃんとお前が食えそうなもんも作ってやるよ。俺もどうせならそんなに甘ったるくない方が良いしナ。けど、グンマとコタローは甘いモンの方が良いだろうし」
親父は…まぁどっちでもイイや、と付け加えて、あれはどうだろう、これならどうだ、と生き生きと考え始めるシンタローの姿を、キンタローは見詰めた。
どうやら完全に機嫌は治ったらしい。
嬉しそうに楽しそうに笑っている従兄弟の笑顔は好きだ。
こっちまで嬉しくなってくるし、何というかほっとする。
詰めていた息を大きく吐いて肩の力を抜いて、キンタローは初めて緊張していたらしい自分を自覚して驚いた。
些細なことで従兄弟が怒るのなんてしょっちゅうなのに、いまさら何をそんなに恐れることがあるのだろう。
彼が怒るのは別に怖くはない。
そう、ただ怒るのなら、怖くはないのだ。
従兄弟がよく怒るのは、彼がそれだけ真っ直ぐで真剣だからだ。怒り方まで真っ直ぐで、いっそ小気味が良いとすら思う。
けれど今回は、いつもと少し違った。
彼の言葉、態度、表情を思い返す。
怒らせもしたが、それだけではなかった。
傷付けたと思う。それも他ならぬ自分が。
どうしてだか、それが言い難いほど苦痛だったのだ。
傷ついた彼を見た瞬間、自分も確かに痛いと感じた。
不思議だと思う。
確かに彼と共にあった頃は、彼の感じる痛みはそのまま自分の痛みだった。
けれど今はもう別々の人間になって、何一つ感覚を共有してはいないというのに。
彼が痛んでいると思うと、痛いと思う。
あの頃とは全く違う、もっとずっと耐え難い痛みだった。
何故、と問い掛ける心にふと先程の応えが甦る。
答えを求める部分に、それはすっぽりと収まった。
「…ああ、そうか」
それは多分
「『家族』だから、…か」
彼が『家族』だから。
彼が笑っていると嬉しいのも
彼が傷つくと痛いのも
それならば
「――悪くは、ないな」
――こう置き換えてご覧よ。
『家族』って言うのはね、『大切な人』ってコト。
後書き。
喧嘩とも言えない、一方的ブチ切れ…。
何だろう、今回も題名に偽りアリ。
毎度、微妙に則してなくてスンマセン。
でも他に思い浮かばなかったんス…。
なんつーか普通に仲良い家族ネタです(またか)。
そして仲良し従兄弟ネタ。
更に、がっちり良いトコ取りグンちゃん(趣味)。
時間軸で言えば間違いなく南国後初期の頃。
家族以上になるのはまだ先の話ってことで。
4年間の時間軸の場所によって、彼らの関係も変わりますので。
…年表こさえた方がいいんだろうか…。
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朝方、AM10:00。
シフトが交代して通常勤務の団員達が動き始める時間だ。
24時間眠らないガンマ団本部であっても、人間はそうもいかない。内部で人員の入れ替わりがある。
総帥付きの下士官の一人である彼は、深夜勤務の同僚と交代してすぐ出勤最初の仕事を受け、総帥一族のプライベートエリアに足を踏み入れていた。
ここは通常、一般の団員が用のある場所ではなく、またおいそれと立ち入れる場所でもない。
出入りする人間のチェックも厳しく、仕事柄繰り返しここへ足を運ぶことがある彼らでも、その度に毎回、総帥の秘書による認可を得なければならない。
実際の所、肩書きは総帥付きとはいえ、平団員の彼らが直接総帥に接するような機会は少ない。
彼らを直接指示しているのは総帥の命令を受けた秘書達であり、彼らの身分は正確に言えば総帥付きの秘書付き、と言った方が正しい。仕事も雑務が殆どである。
上層部、特に総帥一族に直接関わるような仕事は、どんな些細なことも全て秘書達が自ら行っていた。規定されているわけではないが、既に慣例としてそうなっている。
故に、こうして仕事の都合などでプライベートエリアまで足を運ぶのも本来なら秘書達の役目であるのだが、時折、秘書達の仕事が忙しく手が離せないときなどに、例外として彼らが使いっ走るのである。
今回もそのようにして、彼は慣れない場所へと来ていた。
一族のプライベートエリアは、本部の上層部分の更に最上階にある。
塔のような形状の、外周を取り巻く廊下沿いに幾つもの扉が並んでいる。
ぐるりと円を描くように並んだ各人の部屋は、更に中心にある家族の共同スペースと繋がっていて、もちろん、そこからも各部屋へ行き来することは出来る。
が、それとは別に、こうして各部屋から廊下へ直通する扉が設けられているのは、一族の大半が要職に付いており、常に多忙で、生活時間もまちまちであるため、それぞれが他の邪魔をすることなく動けるようにという合理性を兼ねた配慮である。
(ちなみに別の敷地内に巨大な邸宅もあるのだが、そちらは現在、休暇などの折にしか使われていないらしい。)
扉をひとつづつ辿り、目的の部屋の前で立ち止まる。
目の前の扉のインターホンを押すと、来訪者を告げる電子音と共に、音声とモニタが起動した。
『何だ』
「失礼致します。秘書の方々からの用件で、少々お時間宜しいでしょうか」
扉の向こうにいる筈の人物に向けて敬礼する。
いつも、もっと早い時間から研究所に詰める彼だが、本日は珍しくまだ自室にいたらしい。
『…少し待て』
すぐに扉が開いて、部屋の主が姿を現した。
鮮やかな金髪碧眼と水際立つ容姿。その圧倒的な存在感。
団を統べる一族を象徴する全てを兼ね備える彼は、現総帥の従兄弟に当たる人物だ。
研究員として身を置く立場ながら、団の最高実力者である総帥にも引けを取らない実力の持ち主でもある。
白衣こそまだ羽織っていないが、仕立ての良いスーツを一分の隙もなく着こなす様は、絵に描いたような英国紳士だった。
「このような場所まで申し訳ございません、キンタロー様。なにぶん、判断に迷う事態でしたので」
「構わん。何ごとだ」
先を促す落ち着いた声に、団員は背筋を伸ばした。
「シンタロー総帥がおられません」
緊張しながら報告する。
「定刻になっても執務室にいらっしゃいませんし、秘書の方々曰わく連絡も通じないそうです。どうやらご自室にもおられない様子で」
「…ああ」
曖昧な頷きと共に、金髪の博士の視線が僅かに動いた。
総帥の不在を他の一族に確認がてら、次の判断を仰ぐために彼の元を訪れたわけだったが、その驚く様子もなく、ただ何かを納得するような声に、団員は窺うようにその姿を仰ぎ見た。
「あの、何かご存じですか」
「休みだ」
「は?」
ぽかんと聞き返す。
「総帥の今日の業務は全てキャンセルだ」
「え?いえ、ですが…」
説明も前置きもなくきっぱりと断言されて、そう言われてもと慌てる彼の耳に、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「おい、勝手なこと言うな…」
「総す…!」
声の方に勢いよく首を振り、彼はほっとした顔のまま固まった。
金髪の博士の背後、探していたはずの当の総帥が、扉に片手を付いて前のめりに身体を支えていた。
ほとんど扉に縋り付いて、やっと立っているような状態である。
「そ、総帥…!?」
動揺した団員の声に、垂れていた首が緩慢にもちあがる。
いつものきびきびとした隙のない身のこなしはどこへやら、そんな動作一つでも酷く重たそうだった。
その動きで派手に乱れた黒髪の間から、ようやく見えたその顔は、いやに白い。
というか、青い。
その恐ろしく血の気のない顔を、ぞろりと垂れる長い黒髪が重たそうに覆う有様は、さながら…
(…さ、貞子!?)
一昔前に流行ったホラー一歩手前の凄絶な姿におののく団員に、呆れたようにキンタローが背後を振り返った。
「いいからお前は休んでいろ」
体調を気遣うその言葉に、我に返った団員も慌てて言葉を添える。
「あっ、あの、お具合が悪いのでしたら…」
言いかけた途端に、何故かぎろりと睨み付けられた。
いつもより吊り上がった眦は半ば殺気立ち、激しく不機嫌などす黒いオーラを醸し出している。
思わず続く言葉を呑み込み、怖じ気づいたように一歩足が下がってしまった。
本音を言えばもの凄く逃げ出したかったが、しかしこれも仕事である。そういうわけにもいかない。
この恐ろしい総帥を前にして、いとも平然としているかの紳士には、流石と感嘆するばかりだが。
(あれ?)
どこかに違和感を感じて、彼はこっそりと総帥の様子を伺った。
どこがどうとは言えない。
あえて言えば全部なのだが…
(…なんか…目…?)
視線があったが最後、因縁付けられて殺されそうで、なるべく直視しないようにしているため、はっきりとはしないのだが。
それでも何となく意識に引っ掛かるほど、痛々しく充血しているような。
…貫徹でもしたのだろうか。
特に深い意味もなく咄嗟にそんな感想を抱いた直後、団員は己の頭を思い切り壁に打ち付けたくなる衝動に駆られた。
総帥の昨日の予定は珍しく早めに終わったのだ。持ち越すような仕事はなかった。
夜着でこそないもののくつろいだ格好をしているし、どう見ても寝乱れた頭で、そんなわけがないだろう。
己で入れた内心のツッコミに、こめかみを嫌な汗が伝った。
そういえば、瞼の縁も何だか腫れたような感じだし、単に寝不足というより、むしろ何というか…
目の下に隈でも見えそうなげっそり感は、具合が悪いというよりも、何やら酷く憔悴したような…
ていうか、そういえば、そもそも何でこの部屋に…
…いや。いや、待て。ちょっと待て。
団員が己の転がる思考に本能で全力ストップをかけた時、やっとのことでその当事者がうっそりと口を開いた。
「るっせぇよ、大したことねぇ。…すぐ行くから、ティラミス達にそー言っとけ」
前半はキンタローに向けて、後半は団員へと向けられた、その声もガラガラに掠れて聴き取るのがやっとというほど。いわゆる蚊の泣くようなと例えられる程の音量だったが、そんな程度の可愛いモノでは決してなかった。
声量こそいつもより抑えられているとはいえ、低く重く唸る声はまるで猛獣の威嚇のようで。
据わった目つきは、それだけで殺人級の恐ろしさだった、
頭から食い殺されそうな迫力に、団員は弾かれたように直立不動の姿勢を取った。
「は、はい!失礼しますッ」
一声叫んで、敬礼もそこそこに踵を返す。
『昨夜、この部屋で一体何が』の疑惑を恐怖で瞬間凍結させ、そのまますっ飛ぶように駆け出した彼は、敬愛する総帥が背後で「う゛…ッ」と呻くなり耳と口元を押さえてその場にうずくまったことには、幸か不幸か気付かなかった。
結局あのまま、その場から自力で動けなくなったシンタローは、お気遣いの従兄弟の手によって再びベッドへ放り込まれていた。
身動きもままならず、ぐったりと憔悴しきって、顔色はますます蒼白である。
「覚えとけよ、キンタロー…」
「俺のせいか」
恨みがましい視線を何処吹く風と受け流し、怜悧な白皙が悠々と肩を竦めた。
「今日が内務だけで良かったな。少なくともその顔は何とかしてから行けよ」
「~~ッ」
今更ながらに片手で顔を覆い、シンタローが従兄弟の取り澄ました顔を睨み付ける。
「…やっぱ前言撤回だ。昨日のことは全部忘れろ」
「酒の席のことだ、気にするな」
「するわッ」
さらりと言われて思わず大声で叫んでしまい、そのままベッドに沈んで悶絶する。
「…んがッ…~~…!」
「お前な…」
キンタローが呆れたような顔をした。
それさえ苛立たしく、シンタローが呻いた。
「くそォ、俺が潰されるなんて何年ぶりだよ…」
ありえねぇ、と今朝目を覚ましてから何度繰り返したかわからない言葉を、またしても口にする。
昨夜はこの従兄弟と飲み比べをして、どれだけぶりかで大敗を喫したのだ。
なまじ酒には強いと自負しているだけに猛烈に悔しい。それも翌朝、自分がこの有様でありながら、相手は昨夜の名残もなくけろりと涼しい顔をしているとくれば尚更だ。
それに、ショックなのはそれだけではない。
何がきっかけだったかは忘れたが、途中から気付けば散々普段は口にしないような愚痴やら弱音やら吐いてしまった。
それも目の前の相手がまた、実に淡々と冷静に聞いているものだから、それが癪に障って尚更ヒートアップしてしまい、何だか理不尽に相手に絡んで詰るわ責めるわ、挙げ句に泣く喚く暴れ回るの大騒ぎまでしたのである。
いつ沈没したのかは覚えていない。だったら、騒いだことまで全部忘れていれば良いのに、それはしっかり記憶に残っている。
泣いたせいで目は腫れぼったいし、喚いたのと酒焼けで喉は痛いし、二日酔いで頭痛に胸焼けはするしで、もう最悪だ。
「くそ…ッ」
頭を抱え、思わず自分で自分を呪う。
これまで、こんなことはなかった。
自棄酒をして、したたかに酔ってモノに八つ当たりしたことはある。その後で毎度、自己嫌悪に陥るのも。
だが、こんな風に人前で弱音を吐くなどあり得なかった。
溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すだけ吐き出して、少しだけすっきりしたのは確かに、認める。
だが、我に返ってしまえば、それ以上にそんな醜態を晒した自分が我慢ならない。
どっぷり奈落の底まで落ち込んでいると、頭上で微かに笑う気配がした。
「俺は見慣れてるぞ。今さらだと思え」
一瞬の間を置いて、思わず、がばりと顔を上げる。
こちらを見下ろす従兄弟の蒼い瞳と目が合った。
微かに浮かんだ微笑み。
見慣れた顔の、見たことのない表情を、シンタローは呆けたように見上げた。
「キンタロー?」
「悪いな。今回はズルをした」
キンタローが、ポケットから小瓶を取り出す。
指先で摘めるほど小さな、その中で何かの液体が揺れた。
それが何かとか、今の言葉はどういう意味かとか、回らない頭でぐるぐると考えるシンタローの手の甲に、キンタローの指が触れた。
そこに微かに残る小さな傷跡をなぞる。
傷跡なんて全身至る所にあるけれど、それは…。
「またひとりで溜め込んで、傷を作るよりは良いだろうと思ってな」
物も壊れないし、とついでのように付け足して、キンタローは目を伏せた。
「何でそんなこと…」
そんなことを知っているのか、と問いたいのか。
そんなことを気にするのか、と問いたいのか。
自分でも続く言葉が見つからず、中途半端に声が消えていく。
「シンタロー」
何だよ、と頭の片隅で答えた言葉が、ちゃんと声になったかはわからない。
ただ、瞬きも出来ずに目の前の従兄弟を見詰める。
彼はその蒼い瞳で、じっとシンタローを見返した。
「俺が居て、少しは楽になったか?」
言いたいことがよくわからない。
どういう意味かと問うように眉を寄せるシンタローに、彼は静かに言葉を重ねた。
「ひとりで抱え込むより、少しは楽になれたか?」
まっすぐに見詰めてくる、誰よりも真摯な蒼い瞳。
その眼差しに胸を突かれたような気がした。
そうだ、彼は知っている。
たったひとりで苛立ち嘆き、何もかもに怒っていた自分を。
そのくせ、ひとりの時にしか、それを表には出せなかった自分を。
自分を孤独だと思っていた時ですら、確かに彼は自分と共にいたのだ。
そうして、
かつてのように共にあっても気付かれることのない、存在しないも同然だった自分ではなく、今、全く別個の存在として此処に居る己は、お前にとって何かの意味を持ったのかと。
別個の存在として別れたこの身には意味があったかと。
彼は自らの存在を問い掛けていた。
そうあって欲しいという願いと共に。
「…そーくるかよ」
脱力したように、シンタローはベッドに沈んだ。
自分の過去のあらゆる時間を、自分以外の誰かが共有している。
あり得ないはずの紛れもない事実を、知ってはいても、それがどういうことなのか今まで自分は全然わかってはいなかったのだ。
まさか、今さら。
こんな形で実感するなんて。
どこか幼い子供のように思っていた従兄弟は、それでも長い時間をただ自分に寄り添っていたのだ。
親鳥のように庇護して守っているつもりで、彼の腕はもっとずっと広く深く自分を抱きしめていた。
確かに、彼は全部、知っているのだ。
誰にも見せられなかった、今なお見せられない、弱く無様な自分すら。
全てを見て、知っていて、それら全てを受け止めた上で、尚、その支えになりたいと言っているのだ。
己が存在する意味はそれが良いと。
何という全肯定。
何て、今さら。
「うあ…」
「シンタロー?」
突っ伏してしまった従兄弟に、キンタローが首を傾げた。
具合が悪くなったのかと覗き込んでくるが、顔など見せられるわけがない。
「…くっそ…、キンタローのくせに」
乱暴に謎の小瓶を奪い取って投げ捨て、シンタローはその指を従兄弟の顔面に突きつけた。
「やっぱ全部お前のせいじゃねーか!覚えてやがれ!」
伏せ気味にしていても分かる、不機嫌に怒鳴る顔が赤い。
合わさない視線は照れ隠しのそれ。
わかっているからキンタローは笑う。
「そうだな」
あっさりと肯定してみせ、
「それじゃ…、「次はお前のオゴリな」
言いかけた先手を取られて言葉を失う。
その間に、シンタローは気合いと根性とで起きあがると、猛烈な勢いで着替え始めた。
唖然とその姿を見詰め、キンタローは瞳を和ませた。
「シンタロー」
赤い上着に袖を通す従兄弟に声を掛け、薬包紙に包んだ錠剤を手渡す。
「二日酔いの薬だ。俺が作ったものだから安全だぞ」
返事もしないで、シンタローは錠剤を口に放り込んだ。
水も無しに噛み砕いて呑み込む。
そうして自らも白衣を手に取った彼の、振り返っても顔が見えないよう、その背に額を押しつけた。
「…さんきゅ」
沢山の意味を詰め込んだ、ぶっきらぼうな一言を小さな声で呟いて、すぐに身を離す。
後ろを振り返らないまま扉を押し開けた。
扉の向こうには、日常へと真っ直ぐに続く廊下。
踏み出すより前に、深く息を吸い、ぐっと背筋を伸ばす。
思ったよりもずっと自然にスムーズに、意識と世界とが切り替わった。
口元がゆっくり弧を描き、不適な笑みを型作る。
「んじゃ、行ってくるわ!」
背後に放たれた声は少し掠れてはいても、もういつもの真っ直ぐな力ある声。
ああ、と応える短い声が背中を押す。
そして軍靴が迷いのない一歩を踏み出した。
誰も知らないターニングポイント。
それは黒髪の総帥の隣に金髪の補佐が控えるようになる、ほんの少しだけ前のことだった。
後書き。
そろそろ親鳥ひな鳥の関係から脱却。と思ったら、いきなり立場逆転が起きました(笑)。流石、紳士は侮れません…。
シンちゃん、基本的には面倒見の良い兄貴分だけど、弱みを晒せる相手には弱いつーか甘えるつーか。キンちゃんには全部知られてるって自覚しちゃったら強がるのも今更、後はなし崩しで。
ここから俄然キンちゃんの押しと甘やかしが思いっくそ強くなってきて、シンちゃんは何だか勝ち目がなくなってくると思われます(妄想)。
朝方、AM10:00。
シフトが交代して通常勤務の団員達が動き始める時間だ。
24時間眠らないガンマ団本部であっても、人間はそうもいかない。内部で人員の入れ替わりがある。
総帥付きの下士官の一人である彼は、深夜勤務の同僚と交代してすぐ出勤最初の仕事を受け、総帥一族のプライベートエリアに足を踏み入れていた。
ここは通常、一般の団員が用のある場所ではなく、またおいそれと立ち入れる場所でもない。
出入りする人間のチェックも厳しく、仕事柄繰り返しここへ足を運ぶことがある彼らでも、その度に毎回、総帥の秘書による認可を得なければならない。
実際の所、肩書きは総帥付きとはいえ、平団員の彼らが直接総帥に接するような機会は少ない。
彼らを直接指示しているのは総帥の命令を受けた秘書達であり、彼らの身分は正確に言えば総帥付きの秘書付き、と言った方が正しい。仕事も雑務が殆どである。
上層部、特に総帥一族に直接関わるような仕事は、どんな些細なことも全て秘書達が自ら行っていた。規定されているわけではないが、既に慣例としてそうなっている。
故に、こうして仕事の都合などでプライベートエリアまで足を運ぶのも本来なら秘書達の役目であるのだが、時折、秘書達の仕事が忙しく手が離せないときなどに、例外として彼らが使いっ走るのである。
今回もそのようにして、彼は慣れない場所へと来ていた。
一族のプライベートエリアは、本部の上層部分の更に最上階にある。
塔のような形状の、外周を取り巻く廊下沿いに幾つもの扉が並んでいる。
ぐるりと円を描くように並んだ各人の部屋は、更に中心にある家族の共同スペースと繋がっていて、もちろん、そこからも各部屋へ行き来することは出来る。
が、それとは別に、こうして各部屋から廊下へ直通する扉が設けられているのは、一族の大半が要職に付いており、常に多忙で、生活時間もまちまちであるため、それぞれが他の邪魔をすることなく動けるようにという合理性を兼ねた配慮である。
(ちなみに別の敷地内に巨大な邸宅もあるのだが、そちらは現在、休暇などの折にしか使われていないらしい。)
扉をひとつづつ辿り、目的の部屋の前で立ち止まる。
目の前の扉のインターホンを押すと、来訪者を告げる電子音と共に、音声とモニタが起動した。
『何だ』
「失礼致します。秘書の方々からの用件で、少々お時間宜しいでしょうか」
扉の向こうにいる筈の人物に向けて敬礼する。
いつも、もっと早い時間から研究所に詰める彼だが、本日は珍しくまだ自室にいたらしい。
『…少し待て』
すぐに扉が開いて、部屋の主が姿を現した。
鮮やかな金髪碧眼と水際立つ容姿。その圧倒的な存在感。
団を統べる一族を象徴する全てを兼ね備える彼は、現総帥の従兄弟に当たる人物だ。
研究員として身を置く立場ながら、団の最高実力者である総帥にも引けを取らない実力の持ち主でもある。
白衣こそまだ羽織っていないが、仕立ての良いスーツを一分の隙もなく着こなす様は、絵に描いたような英国紳士だった。
「このような場所まで申し訳ございません、キンタロー様。なにぶん、判断に迷う事態でしたので」
「構わん。何ごとだ」
先を促す落ち着いた声に、団員は背筋を伸ばした。
「シンタロー総帥がおられません」
緊張しながら報告する。
「定刻になっても執務室にいらっしゃいませんし、秘書の方々曰わく連絡も通じないそうです。どうやらご自室にもおられない様子で」
「…ああ」
曖昧な頷きと共に、金髪の博士の視線が僅かに動いた。
総帥の不在を他の一族に確認がてら、次の判断を仰ぐために彼の元を訪れたわけだったが、その驚く様子もなく、ただ何かを納得するような声に、団員は窺うようにその姿を仰ぎ見た。
「あの、何かご存じですか」
「休みだ」
「は?」
ぽかんと聞き返す。
「総帥の今日の業務は全てキャンセルだ」
「え?いえ、ですが…」
説明も前置きもなくきっぱりと断言されて、そう言われてもと慌てる彼の耳に、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「おい、勝手なこと言うな…」
「総す…!」
声の方に勢いよく首を振り、彼はほっとした顔のまま固まった。
金髪の博士の背後、探していたはずの当の総帥が、扉に片手を付いて前のめりに身体を支えていた。
ほとんど扉に縋り付いて、やっと立っているような状態である。
「そ、総帥…!?」
動揺した団員の声に、垂れていた首が緩慢にもちあがる。
いつものきびきびとした隙のない身のこなしはどこへやら、そんな動作一つでも酷く重たそうだった。
その動きで派手に乱れた黒髪の間から、ようやく見えたその顔は、いやに白い。
というか、青い。
その恐ろしく血の気のない顔を、ぞろりと垂れる長い黒髪が重たそうに覆う有様は、さながら…
(…さ、貞子!?)
一昔前に流行ったホラー一歩手前の凄絶な姿におののく団員に、呆れたようにキンタローが背後を振り返った。
「いいからお前は休んでいろ」
体調を気遣うその言葉に、我に返った団員も慌てて言葉を添える。
「あっ、あの、お具合が悪いのでしたら…」
言いかけた途端に、何故かぎろりと睨み付けられた。
いつもより吊り上がった眦は半ば殺気立ち、激しく不機嫌などす黒いオーラを醸し出している。
思わず続く言葉を呑み込み、怖じ気づいたように一歩足が下がってしまった。
本音を言えばもの凄く逃げ出したかったが、しかしこれも仕事である。そういうわけにもいかない。
この恐ろしい総帥を前にして、いとも平然としているかの紳士には、流石と感嘆するばかりだが。
(あれ?)
どこかに違和感を感じて、彼はこっそりと総帥の様子を伺った。
どこがどうとは言えない。
あえて言えば全部なのだが…
(…なんか…目…?)
視線があったが最後、因縁付けられて殺されそうで、なるべく直視しないようにしているため、はっきりとはしないのだが。
それでも何となく意識に引っ掛かるほど、痛々しく充血しているような。
…貫徹でもしたのだろうか。
特に深い意味もなく咄嗟にそんな感想を抱いた直後、団員は己の頭を思い切り壁に打ち付けたくなる衝動に駆られた。
総帥の昨日の予定は珍しく早めに終わったのだ。持ち越すような仕事はなかった。
夜着でこそないもののくつろいだ格好をしているし、どう見ても寝乱れた頭で、そんなわけがないだろう。
己で入れた内心のツッコミに、こめかみを嫌な汗が伝った。
そういえば、瞼の縁も何だか腫れたような感じだし、単に寝不足というより、むしろ何というか…
目の下に隈でも見えそうなげっそり感は、具合が悪いというよりも、何やら酷く憔悴したような…
ていうか、そういえば、そもそも何でこの部屋に…
…いや。いや、待て。ちょっと待て。
団員が己の転がる思考に本能で全力ストップをかけた時、やっとのことでその当事者がうっそりと口を開いた。
「るっせぇよ、大したことねぇ。…すぐ行くから、ティラミス達にそー言っとけ」
前半はキンタローに向けて、後半は団員へと向けられた、その声もガラガラに掠れて聴き取るのがやっとというほど。いわゆる蚊の泣くようなと例えられる程の音量だったが、そんな程度の可愛いモノでは決してなかった。
声量こそいつもより抑えられているとはいえ、低く重く唸る声はまるで猛獣の威嚇のようで。
据わった目つきは、それだけで殺人級の恐ろしさだった、
頭から食い殺されそうな迫力に、団員は弾かれたように直立不動の姿勢を取った。
「は、はい!失礼しますッ」
一声叫んで、敬礼もそこそこに踵を返す。
『昨夜、この部屋で一体何が』の疑惑を恐怖で瞬間凍結させ、そのまますっ飛ぶように駆け出した彼は、敬愛する総帥が背後で「う゛…ッ」と呻くなり耳と口元を押さえてその場にうずくまったことには、幸か不幸か気付かなかった。
結局あのまま、その場から自力で動けなくなったシンタローは、お気遣いの従兄弟の手によって再びベッドへ放り込まれていた。
身動きもままならず、ぐったりと憔悴しきって、顔色はますます蒼白である。
「覚えとけよ、キンタロー…」
「俺のせいか」
恨みがましい視線を何処吹く風と受け流し、怜悧な白皙が悠々と肩を竦めた。
「今日が内務だけで良かったな。少なくともその顔は何とかしてから行けよ」
「~~ッ」
今更ながらに片手で顔を覆い、シンタローが従兄弟の取り澄ました顔を睨み付ける。
「…やっぱ前言撤回だ。昨日のことは全部忘れろ」
「酒の席のことだ、気にするな」
「するわッ」
さらりと言われて思わず大声で叫んでしまい、そのままベッドに沈んで悶絶する。
「…んがッ…~~…!」
「お前な…」
キンタローが呆れたような顔をした。
それさえ苛立たしく、シンタローが呻いた。
「くそォ、俺が潰されるなんて何年ぶりだよ…」
ありえねぇ、と今朝目を覚ましてから何度繰り返したかわからない言葉を、またしても口にする。
昨夜はこの従兄弟と飲み比べをして、どれだけぶりかで大敗を喫したのだ。
なまじ酒には強いと自負しているだけに猛烈に悔しい。それも翌朝、自分がこの有様でありながら、相手は昨夜の名残もなくけろりと涼しい顔をしているとくれば尚更だ。
それに、ショックなのはそれだけではない。
何がきっかけだったかは忘れたが、途中から気付けば散々普段は口にしないような愚痴やら弱音やら吐いてしまった。
それも目の前の相手がまた、実に淡々と冷静に聞いているものだから、それが癪に障って尚更ヒートアップしてしまい、何だか理不尽に相手に絡んで詰るわ責めるわ、挙げ句に泣く喚く暴れ回るの大騒ぎまでしたのである。
いつ沈没したのかは覚えていない。だったら、騒いだことまで全部忘れていれば良いのに、それはしっかり記憶に残っている。
泣いたせいで目は腫れぼったいし、喚いたのと酒焼けで喉は痛いし、二日酔いで頭痛に胸焼けはするしで、もう最悪だ。
「くそ…ッ」
頭を抱え、思わず自分で自分を呪う。
これまで、こんなことはなかった。
自棄酒をして、したたかに酔ってモノに八つ当たりしたことはある。その後で毎度、自己嫌悪に陥るのも。
だが、こんな風に人前で弱音を吐くなどあり得なかった。
溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すだけ吐き出して、少しだけすっきりしたのは確かに、認める。
だが、我に返ってしまえば、それ以上にそんな醜態を晒した自分が我慢ならない。
どっぷり奈落の底まで落ち込んでいると、頭上で微かに笑う気配がした。
「俺は見慣れてるぞ。今さらだと思え」
一瞬の間を置いて、思わず、がばりと顔を上げる。
こちらを見下ろす従兄弟の蒼い瞳と目が合った。
微かに浮かんだ微笑み。
見慣れた顔の、見たことのない表情を、シンタローは呆けたように見上げた。
「キンタロー?」
「悪いな。今回はズルをした」
キンタローが、ポケットから小瓶を取り出す。
指先で摘めるほど小さな、その中で何かの液体が揺れた。
それが何かとか、今の言葉はどういう意味かとか、回らない頭でぐるぐると考えるシンタローの手の甲に、キンタローの指が触れた。
そこに微かに残る小さな傷跡をなぞる。
傷跡なんて全身至る所にあるけれど、それは…。
「またひとりで溜め込んで、傷を作るよりは良いだろうと思ってな」
物も壊れないし、とついでのように付け足して、キンタローは目を伏せた。
「何でそんなこと…」
そんなことを知っているのか、と問いたいのか。
そんなことを気にするのか、と問いたいのか。
自分でも続く言葉が見つからず、中途半端に声が消えていく。
「シンタロー」
何だよ、と頭の片隅で答えた言葉が、ちゃんと声になったかはわからない。
ただ、瞬きも出来ずに目の前の従兄弟を見詰める。
彼はその蒼い瞳で、じっとシンタローを見返した。
「俺が居て、少しは楽になったか?」
言いたいことがよくわからない。
どういう意味かと問うように眉を寄せるシンタローに、彼は静かに言葉を重ねた。
「ひとりで抱え込むより、少しは楽になれたか?」
まっすぐに見詰めてくる、誰よりも真摯な蒼い瞳。
その眼差しに胸を突かれたような気がした。
そうだ、彼は知っている。
たったひとりで苛立ち嘆き、何もかもに怒っていた自分を。
そのくせ、ひとりの時にしか、それを表には出せなかった自分を。
自分を孤独だと思っていた時ですら、確かに彼は自分と共にいたのだ。
そうして、
かつてのように共にあっても気付かれることのない、存在しないも同然だった自分ではなく、今、全く別個の存在として此処に居る己は、お前にとって何かの意味を持ったのかと。
別個の存在として別れたこの身には意味があったかと。
彼は自らの存在を問い掛けていた。
そうあって欲しいという願いと共に。
「…そーくるかよ」
脱力したように、シンタローはベッドに沈んだ。
自分の過去のあらゆる時間を、自分以外の誰かが共有している。
あり得ないはずの紛れもない事実を、知ってはいても、それがどういうことなのか今まで自分は全然わかってはいなかったのだ。
まさか、今さら。
こんな形で実感するなんて。
どこか幼い子供のように思っていた従兄弟は、それでも長い時間をただ自分に寄り添っていたのだ。
親鳥のように庇護して守っているつもりで、彼の腕はもっとずっと広く深く自分を抱きしめていた。
確かに、彼は全部、知っているのだ。
誰にも見せられなかった、今なお見せられない、弱く無様な自分すら。
全てを見て、知っていて、それら全てを受け止めた上で、尚、その支えになりたいと言っているのだ。
己が存在する意味はそれが良いと。
何という全肯定。
何て、今さら。
「うあ…」
「シンタロー?」
突っ伏してしまった従兄弟に、キンタローが首を傾げた。
具合が悪くなったのかと覗き込んでくるが、顔など見せられるわけがない。
「…くっそ…、キンタローのくせに」
乱暴に謎の小瓶を奪い取って投げ捨て、シンタローはその指を従兄弟の顔面に突きつけた。
「やっぱ全部お前のせいじゃねーか!覚えてやがれ!」
伏せ気味にしていても分かる、不機嫌に怒鳴る顔が赤い。
合わさない視線は照れ隠しのそれ。
わかっているからキンタローは笑う。
「そうだな」
あっさりと肯定してみせ、
「それじゃ…、「次はお前のオゴリな」
言いかけた先手を取られて言葉を失う。
その間に、シンタローは気合いと根性とで起きあがると、猛烈な勢いで着替え始めた。
唖然とその姿を見詰め、キンタローは瞳を和ませた。
「シンタロー」
赤い上着に袖を通す従兄弟に声を掛け、薬包紙に包んだ錠剤を手渡す。
「二日酔いの薬だ。俺が作ったものだから安全だぞ」
返事もしないで、シンタローは錠剤を口に放り込んだ。
水も無しに噛み砕いて呑み込む。
そうして自らも白衣を手に取った彼の、振り返っても顔が見えないよう、その背に額を押しつけた。
「…さんきゅ」
沢山の意味を詰め込んだ、ぶっきらぼうな一言を小さな声で呟いて、すぐに身を離す。
後ろを振り返らないまま扉を押し開けた。
扉の向こうには、日常へと真っ直ぐに続く廊下。
踏み出すより前に、深く息を吸い、ぐっと背筋を伸ばす。
思ったよりもずっと自然にスムーズに、意識と世界とが切り替わった。
口元がゆっくり弧を描き、不適な笑みを型作る。
「んじゃ、行ってくるわ!」
背後に放たれた声は少し掠れてはいても、もういつもの真っ直ぐな力ある声。
ああ、と応える短い声が背中を押す。
そして軍靴が迷いのない一歩を踏み出した。
誰も知らないターニングポイント。
それは黒髪の総帥の隣に金髪の補佐が控えるようになる、ほんの少しだけ前のことだった。
後書き。
そろそろ親鳥ひな鳥の関係から脱却。と思ったら、いきなり立場逆転が起きました(笑)。流石、紳士は侮れません…。
シンちゃん、基本的には面倒見の良い兄貴分だけど、弱みを晒せる相手には弱いつーか甘えるつーか。キンちゃんには全部知られてるって自覚しちゃったら強がるのも今更、後はなし崩しで。
ここから俄然キンちゃんの押しと甘やかしが思いっくそ強くなってきて、シンちゃんは何だか勝ち目がなくなってくると思われます(妄想)。
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総帥室の立派な机の上には、小さな飴の瓶がひとつ置いてある。
ちょっとレトロな硝子の瓶に、小さな小さな飴玉が幾つも入っている。
ビー玉のように光を透かせて、目に優しいとりどりの色合いで。
疲れたときには甘いモノ、糖分はすぐに吸収されるから、疲れを自覚したらすぐ摂取した方がと良いと言って、置いていったのは髪を切ったばかりの従兄弟。新しいことを知るのが楽しくて、ひとつ知るたびに、それを自分に教えたくてたまらない。
自分はもう一人の従兄弟のように甘いモノが格別好きなわけではないし、重厚なマホガニーの机の上にこれはどうかと思うのだけれど。真面目な顔で理屈っぽいことを説明しながら、大の男がやたら可愛らしい飴玉の瓶を差し出す姿は妙に微笑ましく、つい拒否の言葉が出てこなくて。
半ば強引に机の上に定位置を定めたその瓶は、中身が減ることもないまま、減らないから結局どこにもやれないでいる。
どうしたものかと、未だに困っているのだけれど。
普段は世話を焼く相手に、背伸びをするように世話を焼かれるのは、少しくすぐったい。
大人しく世話を焼かれる自分に、満足そうに嬉しそうに微笑む珍しい表情が、何となく悪い気はしない。
時折、総帥室を初めて訪れる部下が目に留めては、重々しい部屋とのミスマッチに目を丸くするたび、素知らぬ振りを押し通す。
知らん振りをしながら、どうしたものか困っている。
机の上の困った存在。
減らないから、どこにもやれない。
残業に次ぐ残業の、深夜ひとりきりの執務室で、ふいに思い出したように手に取ってみる。
疲れたときには…と訥々と説明する声がおぼろに耳に甦って、こういう時、確かに自分は疲れているのだろうと思う。
ペンを放り出して書類の上に頬杖を付いて、気付くと手にしている、ひんやりと滑らかな硝子の感触。
冷たい蛍光灯の明かりに透かせて、瓶を振るとからりからりと澄んだ音を立てる。
硝子越しに柔らかに色付いた、少し歪な丸いやさしい形。
しんと静まりかえった部屋に淡く響く音まで、誘うように甘い。
甘いモノは苦手だ。きらいなのではないけれど。
好きなわけではない、苦手だ。きらいでもないけれど。
疲れたときには…
疲れたときに口にするそれは、きっと染み入るように効くだろう。
そうして胸灼けと、甘いばかりの後味だけ残して、いつの間にか跡形もない。
疲れたときには…
からりからりと涼しげな音とは裏腹に、傾ける瓶の中、減らないなくならないそれは、いつまでも甘いまま。
疲れたときには…
甘いモノは苦手だから。
減らない、困った居候に困ったように微笑んで、そっといつもの定位置に戻す。
疲れたときには…
甘いそれを口にはしなくても、
「…ぅし。」
それはやっぱり疲れを癒してくれるのです。
後書き。
うわぁ、自分らしくない乙女チック加減。どーした私!いやでも、浮かんじまったものはしょーがない。
うっかり絆されちゃってるシンタローさん。絶対キンタローさんのやることには甘いんだって。
元々どうも友情とか家族モノは下手にカップリングよりイチャ甘になる傾向があるので、家族兼カップリングにしてしまうと、もうどうしようもないなと、たった今気が付きマシタ(吐血)。
総帥室の立派な机の上には、小さな飴の瓶がひとつ置いてある。
ちょっとレトロな硝子の瓶に、小さな小さな飴玉が幾つも入っている。
ビー玉のように光を透かせて、目に優しいとりどりの色合いで。
疲れたときには甘いモノ、糖分はすぐに吸収されるから、疲れを自覚したらすぐ摂取した方がと良いと言って、置いていったのは髪を切ったばかりの従兄弟。新しいことを知るのが楽しくて、ひとつ知るたびに、それを自分に教えたくてたまらない。
自分はもう一人の従兄弟のように甘いモノが格別好きなわけではないし、重厚なマホガニーの机の上にこれはどうかと思うのだけれど。真面目な顔で理屈っぽいことを説明しながら、大の男がやたら可愛らしい飴玉の瓶を差し出す姿は妙に微笑ましく、つい拒否の言葉が出てこなくて。
半ば強引に机の上に定位置を定めたその瓶は、中身が減ることもないまま、減らないから結局どこにもやれないでいる。
どうしたものかと、未だに困っているのだけれど。
普段は世話を焼く相手に、背伸びをするように世話を焼かれるのは、少しくすぐったい。
大人しく世話を焼かれる自分に、満足そうに嬉しそうに微笑む珍しい表情が、何となく悪い気はしない。
時折、総帥室を初めて訪れる部下が目に留めては、重々しい部屋とのミスマッチに目を丸くするたび、素知らぬ振りを押し通す。
知らん振りをしながら、どうしたものか困っている。
机の上の困った存在。
減らないから、どこにもやれない。
残業に次ぐ残業の、深夜ひとりきりの執務室で、ふいに思い出したように手に取ってみる。
疲れたときには…と訥々と説明する声がおぼろに耳に甦って、こういう時、確かに自分は疲れているのだろうと思う。
ペンを放り出して書類の上に頬杖を付いて、気付くと手にしている、ひんやりと滑らかな硝子の感触。
冷たい蛍光灯の明かりに透かせて、瓶を振るとからりからりと澄んだ音を立てる。
硝子越しに柔らかに色付いた、少し歪な丸いやさしい形。
しんと静まりかえった部屋に淡く響く音まで、誘うように甘い。
甘いモノは苦手だ。きらいなのではないけれど。
好きなわけではない、苦手だ。きらいでもないけれど。
疲れたときには…
疲れたときに口にするそれは、きっと染み入るように効くだろう。
そうして胸灼けと、甘いばかりの後味だけ残して、いつの間にか跡形もない。
疲れたときには…
からりからりと涼しげな音とは裏腹に、傾ける瓶の中、減らないなくならないそれは、いつまでも甘いまま。
疲れたときには…
甘いモノは苦手だから。
減らない、困った居候に困ったように微笑んで、そっといつもの定位置に戻す。
疲れたときには…
甘いそれを口にはしなくても、
「…ぅし。」
それはやっぱり疲れを癒してくれるのです。
後書き。
うわぁ、自分らしくない乙女チック加減。どーした私!いやでも、浮かんじまったものはしょーがない。
うっかり絆されちゃってるシンタローさん。絶対キンタローさんのやることには甘いんだって。
元々どうも友情とか家族モノは下手にカップリングよりイチャ甘になる傾向があるので、家族兼カップリングにしてしまうと、もうどうしようもないなと、たった今気が付きマシタ(吐血)。