HOME BACK
朝方、AM10:00。
シフトが交代して通常勤務の団員達が動き始める時間だ。
24時間眠らないガンマ団本部であっても、人間はそうもいかない。内部で人員の入れ替わりがある。
総帥付きの下士官の一人である彼は、深夜勤務の同僚と交代してすぐ出勤最初の仕事を受け、総帥一族のプライベートエリアに足を踏み入れていた。
ここは通常、一般の団員が用のある場所ではなく、またおいそれと立ち入れる場所でもない。
出入りする人間のチェックも厳しく、仕事柄繰り返しここへ足を運ぶことがある彼らでも、その度に毎回、総帥の秘書による認可を得なければならない。
実際の所、肩書きは総帥付きとはいえ、平団員の彼らが直接総帥に接するような機会は少ない。
彼らを直接指示しているのは総帥の命令を受けた秘書達であり、彼らの身分は正確に言えば総帥付きの秘書付き、と言った方が正しい。仕事も雑務が殆どである。
上層部、特に総帥一族に直接関わるような仕事は、どんな些細なことも全て秘書達が自ら行っていた。規定されているわけではないが、既に慣例としてそうなっている。
故に、こうして仕事の都合などでプライベートエリアまで足を運ぶのも本来なら秘書達の役目であるのだが、時折、秘書達の仕事が忙しく手が離せないときなどに、例外として彼らが使いっ走るのである。
今回もそのようにして、彼は慣れない場所へと来ていた。
一族のプライベートエリアは、本部の上層部分の更に最上階にある。
塔のような形状の、外周を取り巻く廊下沿いに幾つもの扉が並んでいる。
ぐるりと円を描くように並んだ各人の部屋は、更に中心にある家族の共同スペースと繋がっていて、もちろん、そこからも各部屋へ行き来することは出来る。
が、それとは別に、こうして各部屋から廊下へ直通する扉が設けられているのは、一族の大半が要職に付いており、常に多忙で、生活時間もまちまちであるため、それぞれが他の邪魔をすることなく動けるようにという合理性を兼ねた配慮である。
(ちなみに別の敷地内に巨大な邸宅もあるのだが、そちらは現在、休暇などの折にしか使われていないらしい。)
扉をひとつづつ辿り、目的の部屋の前で立ち止まる。
目の前の扉のインターホンを押すと、来訪者を告げる電子音と共に、音声とモニタが起動した。
『何だ』
「失礼致します。秘書の方々からの用件で、少々お時間宜しいでしょうか」
扉の向こうにいる筈の人物に向けて敬礼する。
いつも、もっと早い時間から研究所に詰める彼だが、本日は珍しくまだ自室にいたらしい。
『…少し待て』
すぐに扉が開いて、部屋の主が姿を現した。
鮮やかな金髪碧眼と水際立つ容姿。その圧倒的な存在感。
団を統べる一族を象徴する全てを兼ね備える彼は、現総帥の従兄弟に当たる人物だ。
研究員として身を置く立場ながら、団の最高実力者である総帥にも引けを取らない実力の持ち主でもある。
白衣こそまだ羽織っていないが、仕立ての良いスーツを一分の隙もなく着こなす様は、絵に描いたような英国紳士だった。
「このような場所まで申し訳ございません、キンタロー様。なにぶん、判断に迷う事態でしたので」
「構わん。何ごとだ」
先を促す落ち着いた声に、団員は背筋を伸ばした。
「シンタロー総帥がおられません」
緊張しながら報告する。
「定刻になっても執務室にいらっしゃいませんし、秘書の方々曰わく連絡も通じないそうです。どうやらご自室にもおられない様子で」
「…ああ」
曖昧な頷きと共に、金髪の博士の視線が僅かに動いた。
総帥の不在を他の一族に確認がてら、次の判断を仰ぐために彼の元を訪れたわけだったが、その驚く様子もなく、ただ何かを納得するような声に、団員は窺うようにその姿を仰ぎ見た。
「あの、何かご存じですか」
「休みだ」
「は?」
ぽかんと聞き返す。
「総帥の今日の業務は全てキャンセルだ」
「え?いえ、ですが…」
説明も前置きもなくきっぱりと断言されて、そう言われてもと慌てる彼の耳に、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「おい、勝手なこと言うな…」
「総す…!」
声の方に勢いよく首を振り、彼はほっとした顔のまま固まった。
金髪の博士の背後、探していたはずの当の総帥が、扉に片手を付いて前のめりに身体を支えていた。
ほとんど扉に縋り付いて、やっと立っているような状態である。
「そ、総帥…!?」
動揺した団員の声に、垂れていた首が緩慢にもちあがる。
いつものきびきびとした隙のない身のこなしはどこへやら、そんな動作一つでも酷く重たそうだった。
その動きで派手に乱れた黒髪の間から、ようやく見えたその顔は、いやに白い。
というか、青い。
その恐ろしく血の気のない顔を、ぞろりと垂れる長い黒髪が重たそうに覆う有様は、さながら…
(…さ、貞子!?)
一昔前に流行ったホラー一歩手前の凄絶な姿におののく団員に、呆れたようにキンタローが背後を振り返った。
「いいからお前は休んでいろ」
体調を気遣うその言葉に、我に返った団員も慌てて言葉を添える。
「あっ、あの、お具合が悪いのでしたら…」
言いかけた途端に、何故かぎろりと睨み付けられた。
いつもより吊り上がった眦は半ば殺気立ち、激しく不機嫌などす黒いオーラを醸し出している。
思わず続く言葉を呑み込み、怖じ気づいたように一歩足が下がってしまった。
本音を言えばもの凄く逃げ出したかったが、しかしこれも仕事である。そういうわけにもいかない。
この恐ろしい総帥を前にして、いとも平然としているかの紳士には、流石と感嘆するばかりだが。
(あれ?)
どこかに違和感を感じて、彼はこっそりと総帥の様子を伺った。
どこがどうとは言えない。
あえて言えば全部なのだが…
(…なんか…目…?)
視線があったが最後、因縁付けられて殺されそうで、なるべく直視しないようにしているため、はっきりとはしないのだが。
それでも何となく意識に引っ掛かるほど、痛々しく充血しているような。
…貫徹でもしたのだろうか。
特に深い意味もなく咄嗟にそんな感想を抱いた直後、団員は己の頭を思い切り壁に打ち付けたくなる衝動に駆られた。
総帥の昨日の予定は珍しく早めに終わったのだ。持ち越すような仕事はなかった。
夜着でこそないもののくつろいだ格好をしているし、どう見ても寝乱れた頭で、そんなわけがないだろう。
己で入れた内心のツッコミに、こめかみを嫌な汗が伝った。
そういえば、瞼の縁も何だか腫れたような感じだし、単に寝不足というより、むしろ何というか…
目の下に隈でも見えそうなげっそり感は、具合が悪いというよりも、何やら酷く憔悴したような…
ていうか、そういえば、そもそも何でこの部屋に…
…いや。いや、待て。ちょっと待て。
団員が己の転がる思考に本能で全力ストップをかけた時、やっとのことでその当事者がうっそりと口を開いた。
「るっせぇよ、大したことねぇ。…すぐ行くから、ティラミス達にそー言っとけ」
前半はキンタローに向けて、後半は団員へと向けられた、その声もガラガラに掠れて聴き取るのがやっとというほど。いわゆる蚊の泣くようなと例えられる程の音量だったが、そんな程度の可愛いモノでは決してなかった。
声量こそいつもより抑えられているとはいえ、低く重く唸る声はまるで猛獣の威嚇のようで。
据わった目つきは、それだけで殺人級の恐ろしさだった、
頭から食い殺されそうな迫力に、団員は弾かれたように直立不動の姿勢を取った。
「は、はい!失礼しますッ」
一声叫んで、敬礼もそこそこに踵を返す。
『昨夜、この部屋で一体何が』の疑惑を恐怖で瞬間凍結させ、そのまますっ飛ぶように駆け出した彼は、敬愛する総帥が背後で「う゛…ッ」と呻くなり耳と口元を押さえてその場にうずくまったことには、幸か不幸か気付かなかった。
結局あのまま、その場から自力で動けなくなったシンタローは、お気遣いの従兄弟の手によって再びベッドへ放り込まれていた。
身動きもままならず、ぐったりと憔悴しきって、顔色はますます蒼白である。
「覚えとけよ、キンタロー…」
「俺のせいか」
恨みがましい視線を何処吹く風と受け流し、怜悧な白皙が悠々と肩を竦めた。
「今日が内務だけで良かったな。少なくともその顔は何とかしてから行けよ」
「~~ッ」
今更ながらに片手で顔を覆い、シンタローが従兄弟の取り澄ました顔を睨み付ける。
「…やっぱ前言撤回だ。昨日のことは全部忘れろ」
「酒の席のことだ、気にするな」
「するわッ」
さらりと言われて思わず大声で叫んでしまい、そのままベッドに沈んで悶絶する。
「…んがッ…~~…!」
「お前な…」
キンタローが呆れたような顔をした。
それさえ苛立たしく、シンタローが呻いた。
「くそォ、俺が潰されるなんて何年ぶりだよ…」
ありえねぇ、と今朝目を覚ましてから何度繰り返したかわからない言葉を、またしても口にする。
昨夜はこの従兄弟と飲み比べをして、どれだけぶりかで大敗を喫したのだ。
なまじ酒には強いと自負しているだけに猛烈に悔しい。それも翌朝、自分がこの有様でありながら、相手は昨夜の名残もなくけろりと涼しい顔をしているとくれば尚更だ。
それに、ショックなのはそれだけではない。
何がきっかけだったかは忘れたが、途中から気付けば散々普段は口にしないような愚痴やら弱音やら吐いてしまった。
それも目の前の相手がまた、実に淡々と冷静に聞いているものだから、それが癪に障って尚更ヒートアップしてしまい、何だか理不尽に相手に絡んで詰るわ責めるわ、挙げ句に泣く喚く暴れ回るの大騒ぎまでしたのである。
いつ沈没したのかは覚えていない。だったら、騒いだことまで全部忘れていれば良いのに、それはしっかり記憶に残っている。
泣いたせいで目は腫れぼったいし、喚いたのと酒焼けで喉は痛いし、二日酔いで頭痛に胸焼けはするしで、もう最悪だ。
「くそ…ッ」
頭を抱え、思わず自分で自分を呪う。
これまで、こんなことはなかった。
自棄酒をして、したたかに酔ってモノに八つ当たりしたことはある。その後で毎度、自己嫌悪に陥るのも。
だが、こんな風に人前で弱音を吐くなどあり得なかった。
溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すだけ吐き出して、少しだけすっきりしたのは確かに、認める。
だが、我に返ってしまえば、それ以上にそんな醜態を晒した自分が我慢ならない。
どっぷり奈落の底まで落ち込んでいると、頭上で微かに笑う気配がした。
「俺は見慣れてるぞ。今さらだと思え」
一瞬の間を置いて、思わず、がばりと顔を上げる。
こちらを見下ろす従兄弟の蒼い瞳と目が合った。
微かに浮かんだ微笑み。
見慣れた顔の、見たことのない表情を、シンタローは呆けたように見上げた。
「キンタロー?」
「悪いな。今回はズルをした」
キンタローが、ポケットから小瓶を取り出す。
指先で摘めるほど小さな、その中で何かの液体が揺れた。
それが何かとか、今の言葉はどういう意味かとか、回らない頭でぐるぐると考えるシンタローの手の甲に、キンタローの指が触れた。
そこに微かに残る小さな傷跡をなぞる。
傷跡なんて全身至る所にあるけれど、それは…。
「またひとりで溜め込んで、傷を作るよりは良いだろうと思ってな」
物も壊れないし、とついでのように付け足して、キンタローは目を伏せた。
「何でそんなこと…」
そんなことを知っているのか、と問いたいのか。
そんなことを気にするのか、と問いたいのか。
自分でも続く言葉が見つからず、中途半端に声が消えていく。
「シンタロー」
何だよ、と頭の片隅で答えた言葉が、ちゃんと声になったかはわからない。
ただ、瞬きも出来ずに目の前の従兄弟を見詰める。
彼はその蒼い瞳で、じっとシンタローを見返した。
「俺が居て、少しは楽になったか?」
言いたいことがよくわからない。
どういう意味かと問うように眉を寄せるシンタローに、彼は静かに言葉を重ねた。
「ひとりで抱え込むより、少しは楽になれたか?」
まっすぐに見詰めてくる、誰よりも真摯な蒼い瞳。
その眼差しに胸を突かれたような気がした。
そうだ、彼は知っている。
たったひとりで苛立ち嘆き、何もかもに怒っていた自分を。
そのくせ、ひとりの時にしか、それを表には出せなかった自分を。
自分を孤独だと思っていた時ですら、確かに彼は自分と共にいたのだ。
そうして、
かつてのように共にあっても気付かれることのない、存在しないも同然だった自分ではなく、今、全く別個の存在として此処に居る己は、お前にとって何かの意味を持ったのかと。
別個の存在として別れたこの身には意味があったかと。
彼は自らの存在を問い掛けていた。
そうあって欲しいという願いと共に。
「…そーくるかよ」
脱力したように、シンタローはベッドに沈んだ。
自分の過去のあらゆる時間を、自分以外の誰かが共有している。
あり得ないはずの紛れもない事実を、知ってはいても、それがどういうことなのか今まで自分は全然わかってはいなかったのだ。
まさか、今さら。
こんな形で実感するなんて。
どこか幼い子供のように思っていた従兄弟は、それでも長い時間をただ自分に寄り添っていたのだ。
親鳥のように庇護して守っているつもりで、彼の腕はもっとずっと広く深く自分を抱きしめていた。
確かに、彼は全部、知っているのだ。
誰にも見せられなかった、今なお見せられない、弱く無様な自分すら。
全てを見て、知っていて、それら全てを受け止めた上で、尚、その支えになりたいと言っているのだ。
己が存在する意味はそれが良いと。
何という全肯定。
何て、今さら。
「うあ…」
「シンタロー?」
突っ伏してしまった従兄弟に、キンタローが首を傾げた。
具合が悪くなったのかと覗き込んでくるが、顔など見せられるわけがない。
「…くっそ…、キンタローのくせに」
乱暴に謎の小瓶を奪い取って投げ捨て、シンタローはその指を従兄弟の顔面に突きつけた。
「やっぱ全部お前のせいじゃねーか!覚えてやがれ!」
伏せ気味にしていても分かる、不機嫌に怒鳴る顔が赤い。
合わさない視線は照れ隠しのそれ。
わかっているからキンタローは笑う。
「そうだな」
あっさりと肯定してみせ、
「それじゃ…、「次はお前のオゴリな」
言いかけた先手を取られて言葉を失う。
その間に、シンタローは気合いと根性とで起きあがると、猛烈な勢いで着替え始めた。
唖然とその姿を見詰め、キンタローは瞳を和ませた。
「シンタロー」
赤い上着に袖を通す従兄弟に声を掛け、薬包紙に包んだ錠剤を手渡す。
「二日酔いの薬だ。俺が作ったものだから安全だぞ」
返事もしないで、シンタローは錠剤を口に放り込んだ。
水も無しに噛み砕いて呑み込む。
そうして自らも白衣を手に取った彼の、振り返っても顔が見えないよう、その背に額を押しつけた。
「…さんきゅ」
沢山の意味を詰め込んだ、ぶっきらぼうな一言を小さな声で呟いて、すぐに身を離す。
後ろを振り返らないまま扉を押し開けた。
扉の向こうには、日常へと真っ直ぐに続く廊下。
踏み出すより前に、深く息を吸い、ぐっと背筋を伸ばす。
思ったよりもずっと自然にスムーズに、意識と世界とが切り替わった。
口元がゆっくり弧を描き、不適な笑みを型作る。
「んじゃ、行ってくるわ!」
背後に放たれた声は少し掠れてはいても、もういつもの真っ直ぐな力ある声。
ああ、と応える短い声が背中を押す。
そして軍靴が迷いのない一歩を踏み出した。
誰も知らないターニングポイント。
それは黒髪の総帥の隣に金髪の補佐が控えるようになる、ほんの少しだけ前のことだった。
後書き。
そろそろ親鳥ひな鳥の関係から脱却。と思ったら、いきなり立場逆転が起きました(笑)。流石、紳士は侮れません…。
シンちゃん、基本的には面倒見の良い兄貴分だけど、弱みを晒せる相手には弱いつーか甘えるつーか。キンちゃんには全部知られてるって自覚しちゃったら強がるのも今更、後はなし崩しで。
ここから俄然キンちゃんの押しと甘やかしが思いっくそ強くなってきて、シンちゃんは何だか勝ち目がなくなってくると思われます(妄想)。
朝方、AM10:00。
シフトが交代して通常勤務の団員達が動き始める時間だ。
24時間眠らないガンマ団本部であっても、人間はそうもいかない。内部で人員の入れ替わりがある。
総帥付きの下士官の一人である彼は、深夜勤務の同僚と交代してすぐ出勤最初の仕事を受け、総帥一族のプライベートエリアに足を踏み入れていた。
ここは通常、一般の団員が用のある場所ではなく、またおいそれと立ち入れる場所でもない。
出入りする人間のチェックも厳しく、仕事柄繰り返しここへ足を運ぶことがある彼らでも、その度に毎回、総帥の秘書による認可を得なければならない。
実際の所、肩書きは総帥付きとはいえ、平団員の彼らが直接総帥に接するような機会は少ない。
彼らを直接指示しているのは総帥の命令を受けた秘書達であり、彼らの身分は正確に言えば総帥付きの秘書付き、と言った方が正しい。仕事も雑務が殆どである。
上層部、特に総帥一族に直接関わるような仕事は、どんな些細なことも全て秘書達が自ら行っていた。規定されているわけではないが、既に慣例としてそうなっている。
故に、こうして仕事の都合などでプライベートエリアまで足を運ぶのも本来なら秘書達の役目であるのだが、時折、秘書達の仕事が忙しく手が離せないときなどに、例外として彼らが使いっ走るのである。
今回もそのようにして、彼は慣れない場所へと来ていた。
一族のプライベートエリアは、本部の上層部分の更に最上階にある。
塔のような形状の、外周を取り巻く廊下沿いに幾つもの扉が並んでいる。
ぐるりと円を描くように並んだ各人の部屋は、更に中心にある家族の共同スペースと繋がっていて、もちろん、そこからも各部屋へ行き来することは出来る。
が、それとは別に、こうして各部屋から廊下へ直通する扉が設けられているのは、一族の大半が要職に付いており、常に多忙で、生活時間もまちまちであるため、それぞれが他の邪魔をすることなく動けるようにという合理性を兼ねた配慮である。
(ちなみに別の敷地内に巨大な邸宅もあるのだが、そちらは現在、休暇などの折にしか使われていないらしい。)
扉をひとつづつ辿り、目的の部屋の前で立ち止まる。
目の前の扉のインターホンを押すと、来訪者を告げる電子音と共に、音声とモニタが起動した。
『何だ』
「失礼致します。秘書の方々からの用件で、少々お時間宜しいでしょうか」
扉の向こうにいる筈の人物に向けて敬礼する。
いつも、もっと早い時間から研究所に詰める彼だが、本日は珍しくまだ自室にいたらしい。
『…少し待て』
すぐに扉が開いて、部屋の主が姿を現した。
鮮やかな金髪碧眼と水際立つ容姿。その圧倒的な存在感。
団を統べる一族を象徴する全てを兼ね備える彼は、現総帥の従兄弟に当たる人物だ。
研究員として身を置く立場ながら、団の最高実力者である総帥にも引けを取らない実力の持ち主でもある。
白衣こそまだ羽織っていないが、仕立ての良いスーツを一分の隙もなく着こなす様は、絵に描いたような英国紳士だった。
「このような場所まで申し訳ございません、キンタロー様。なにぶん、判断に迷う事態でしたので」
「構わん。何ごとだ」
先を促す落ち着いた声に、団員は背筋を伸ばした。
「シンタロー総帥がおられません」
緊張しながら報告する。
「定刻になっても執務室にいらっしゃいませんし、秘書の方々曰わく連絡も通じないそうです。どうやらご自室にもおられない様子で」
「…ああ」
曖昧な頷きと共に、金髪の博士の視線が僅かに動いた。
総帥の不在を他の一族に確認がてら、次の判断を仰ぐために彼の元を訪れたわけだったが、その驚く様子もなく、ただ何かを納得するような声に、団員は窺うようにその姿を仰ぎ見た。
「あの、何かご存じですか」
「休みだ」
「は?」
ぽかんと聞き返す。
「総帥の今日の業務は全てキャンセルだ」
「え?いえ、ですが…」
説明も前置きもなくきっぱりと断言されて、そう言われてもと慌てる彼の耳に、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「おい、勝手なこと言うな…」
「総す…!」
声の方に勢いよく首を振り、彼はほっとした顔のまま固まった。
金髪の博士の背後、探していたはずの当の総帥が、扉に片手を付いて前のめりに身体を支えていた。
ほとんど扉に縋り付いて、やっと立っているような状態である。
「そ、総帥…!?」
動揺した団員の声に、垂れていた首が緩慢にもちあがる。
いつものきびきびとした隙のない身のこなしはどこへやら、そんな動作一つでも酷く重たそうだった。
その動きで派手に乱れた黒髪の間から、ようやく見えたその顔は、いやに白い。
というか、青い。
その恐ろしく血の気のない顔を、ぞろりと垂れる長い黒髪が重たそうに覆う有様は、さながら…
(…さ、貞子!?)
一昔前に流行ったホラー一歩手前の凄絶な姿におののく団員に、呆れたようにキンタローが背後を振り返った。
「いいからお前は休んでいろ」
体調を気遣うその言葉に、我に返った団員も慌てて言葉を添える。
「あっ、あの、お具合が悪いのでしたら…」
言いかけた途端に、何故かぎろりと睨み付けられた。
いつもより吊り上がった眦は半ば殺気立ち、激しく不機嫌などす黒いオーラを醸し出している。
思わず続く言葉を呑み込み、怖じ気づいたように一歩足が下がってしまった。
本音を言えばもの凄く逃げ出したかったが、しかしこれも仕事である。そういうわけにもいかない。
この恐ろしい総帥を前にして、いとも平然としているかの紳士には、流石と感嘆するばかりだが。
(あれ?)
どこかに違和感を感じて、彼はこっそりと総帥の様子を伺った。
どこがどうとは言えない。
あえて言えば全部なのだが…
(…なんか…目…?)
視線があったが最後、因縁付けられて殺されそうで、なるべく直視しないようにしているため、はっきりとはしないのだが。
それでも何となく意識に引っ掛かるほど、痛々しく充血しているような。
…貫徹でもしたのだろうか。
特に深い意味もなく咄嗟にそんな感想を抱いた直後、団員は己の頭を思い切り壁に打ち付けたくなる衝動に駆られた。
総帥の昨日の予定は珍しく早めに終わったのだ。持ち越すような仕事はなかった。
夜着でこそないもののくつろいだ格好をしているし、どう見ても寝乱れた頭で、そんなわけがないだろう。
己で入れた内心のツッコミに、こめかみを嫌な汗が伝った。
そういえば、瞼の縁も何だか腫れたような感じだし、単に寝不足というより、むしろ何というか…
目の下に隈でも見えそうなげっそり感は、具合が悪いというよりも、何やら酷く憔悴したような…
ていうか、そういえば、そもそも何でこの部屋に…
…いや。いや、待て。ちょっと待て。
団員が己の転がる思考に本能で全力ストップをかけた時、やっとのことでその当事者がうっそりと口を開いた。
「るっせぇよ、大したことねぇ。…すぐ行くから、ティラミス達にそー言っとけ」
前半はキンタローに向けて、後半は団員へと向けられた、その声もガラガラに掠れて聴き取るのがやっとというほど。いわゆる蚊の泣くようなと例えられる程の音量だったが、そんな程度の可愛いモノでは決してなかった。
声量こそいつもより抑えられているとはいえ、低く重く唸る声はまるで猛獣の威嚇のようで。
据わった目つきは、それだけで殺人級の恐ろしさだった、
頭から食い殺されそうな迫力に、団員は弾かれたように直立不動の姿勢を取った。
「は、はい!失礼しますッ」
一声叫んで、敬礼もそこそこに踵を返す。
『昨夜、この部屋で一体何が』の疑惑を恐怖で瞬間凍結させ、そのまますっ飛ぶように駆け出した彼は、敬愛する総帥が背後で「う゛…ッ」と呻くなり耳と口元を押さえてその場にうずくまったことには、幸か不幸か気付かなかった。
結局あのまま、その場から自力で動けなくなったシンタローは、お気遣いの従兄弟の手によって再びベッドへ放り込まれていた。
身動きもままならず、ぐったりと憔悴しきって、顔色はますます蒼白である。
「覚えとけよ、キンタロー…」
「俺のせいか」
恨みがましい視線を何処吹く風と受け流し、怜悧な白皙が悠々と肩を竦めた。
「今日が内務だけで良かったな。少なくともその顔は何とかしてから行けよ」
「~~ッ」
今更ながらに片手で顔を覆い、シンタローが従兄弟の取り澄ました顔を睨み付ける。
「…やっぱ前言撤回だ。昨日のことは全部忘れろ」
「酒の席のことだ、気にするな」
「するわッ」
さらりと言われて思わず大声で叫んでしまい、そのままベッドに沈んで悶絶する。
「…んがッ…~~…!」
「お前な…」
キンタローが呆れたような顔をした。
それさえ苛立たしく、シンタローが呻いた。
「くそォ、俺が潰されるなんて何年ぶりだよ…」
ありえねぇ、と今朝目を覚ましてから何度繰り返したかわからない言葉を、またしても口にする。
昨夜はこの従兄弟と飲み比べをして、どれだけぶりかで大敗を喫したのだ。
なまじ酒には強いと自負しているだけに猛烈に悔しい。それも翌朝、自分がこの有様でありながら、相手は昨夜の名残もなくけろりと涼しい顔をしているとくれば尚更だ。
それに、ショックなのはそれだけではない。
何がきっかけだったかは忘れたが、途中から気付けば散々普段は口にしないような愚痴やら弱音やら吐いてしまった。
それも目の前の相手がまた、実に淡々と冷静に聞いているものだから、それが癪に障って尚更ヒートアップしてしまい、何だか理不尽に相手に絡んで詰るわ責めるわ、挙げ句に泣く喚く暴れ回るの大騒ぎまでしたのである。
いつ沈没したのかは覚えていない。だったら、騒いだことまで全部忘れていれば良いのに、それはしっかり記憶に残っている。
泣いたせいで目は腫れぼったいし、喚いたのと酒焼けで喉は痛いし、二日酔いで頭痛に胸焼けはするしで、もう最悪だ。
「くそ…ッ」
頭を抱え、思わず自分で自分を呪う。
これまで、こんなことはなかった。
自棄酒をして、したたかに酔ってモノに八つ当たりしたことはある。その後で毎度、自己嫌悪に陥るのも。
だが、こんな風に人前で弱音を吐くなどあり得なかった。
溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すだけ吐き出して、少しだけすっきりしたのは確かに、認める。
だが、我に返ってしまえば、それ以上にそんな醜態を晒した自分が我慢ならない。
どっぷり奈落の底まで落ち込んでいると、頭上で微かに笑う気配がした。
「俺は見慣れてるぞ。今さらだと思え」
一瞬の間を置いて、思わず、がばりと顔を上げる。
こちらを見下ろす従兄弟の蒼い瞳と目が合った。
微かに浮かんだ微笑み。
見慣れた顔の、見たことのない表情を、シンタローは呆けたように見上げた。
「キンタロー?」
「悪いな。今回はズルをした」
キンタローが、ポケットから小瓶を取り出す。
指先で摘めるほど小さな、その中で何かの液体が揺れた。
それが何かとか、今の言葉はどういう意味かとか、回らない頭でぐるぐると考えるシンタローの手の甲に、キンタローの指が触れた。
そこに微かに残る小さな傷跡をなぞる。
傷跡なんて全身至る所にあるけれど、それは…。
「またひとりで溜め込んで、傷を作るよりは良いだろうと思ってな」
物も壊れないし、とついでのように付け足して、キンタローは目を伏せた。
「何でそんなこと…」
そんなことを知っているのか、と問いたいのか。
そんなことを気にするのか、と問いたいのか。
自分でも続く言葉が見つからず、中途半端に声が消えていく。
「シンタロー」
何だよ、と頭の片隅で答えた言葉が、ちゃんと声になったかはわからない。
ただ、瞬きも出来ずに目の前の従兄弟を見詰める。
彼はその蒼い瞳で、じっとシンタローを見返した。
「俺が居て、少しは楽になったか?」
言いたいことがよくわからない。
どういう意味かと問うように眉を寄せるシンタローに、彼は静かに言葉を重ねた。
「ひとりで抱え込むより、少しは楽になれたか?」
まっすぐに見詰めてくる、誰よりも真摯な蒼い瞳。
その眼差しに胸を突かれたような気がした。
そうだ、彼は知っている。
たったひとりで苛立ち嘆き、何もかもに怒っていた自分を。
そのくせ、ひとりの時にしか、それを表には出せなかった自分を。
自分を孤独だと思っていた時ですら、確かに彼は自分と共にいたのだ。
そうして、
かつてのように共にあっても気付かれることのない、存在しないも同然だった自分ではなく、今、全く別個の存在として此処に居る己は、お前にとって何かの意味を持ったのかと。
別個の存在として別れたこの身には意味があったかと。
彼は自らの存在を問い掛けていた。
そうあって欲しいという願いと共に。
「…そーくるかよ」
脱力したように、シンタローはベッドに沈んだ。
自分の過去のあらゆる時間を、自分以外の誰かが共有している。
あり得ないはずの紛れもない事実を、知ってはいても、それがどういうことなのか今まで自分は全然わかってはいなかったのだ。
まさか、今さら。
こんな形で実感するなんて。
どこか幼い子供のように思っていた従兄弟は、それでも長い時間をただ自分に寄り添っていたのだ。
親鳥のように庇護して守っているつもりで、彼の腕はもっとずっと広く深く自分を抱きしめていた。
確かに、彼は全部、知っているのだ。
誰にも見せられなかった、今なお見せられない、弱く無様な自分すら。
全てを見て、知っていて、それら全てを受け止めた上で、尚、その支えになりたいと言っているのだ。
己が存在する意味はそれが良いと。
何という全肯定。
何て、今さら。
「うあ…」
「シンタロー?」
突っ伏してしまった従兄弟に、キンタローが首を傾げた。
具合が悪くなったのかと覗き込んでくるが、顔など見せられるわけがない。
「…くっそ…、キンタローのくせに」
乱暴に謎の小瓶を奪い取って投げ捨て、シンタローはその指を従兄弟の顔面に突きつけた。
「やっぱ全部お前のせいじゃねーか!覚えてやがれ!」
伏せ気味にしていても分かる、不機嫌に怒鳴る顔が赤い。
合わさない視線は照れ隠しのそれ。
わかっているからキンタローは笑う。
「そうだな」
あっさりと肯定してみせ、
「それじゃ…、「次はお前のオゴリな」
言いかけた先手を取られて言葉を失う。
その間に、シンタローは気合いと根性とで起きあがると、猛烈な勢いで着替え始めた。
唖然とその姿を見詰め、キンタローは瞳を和ませた。
「シンタロー」
赤い上着に袖を通す従兄弟に声を掛け、薬包紙に包んだ錠剤を手渡す。
「二日酔いの薬だ。俺が作ったものだから安全だぞ」
返事もしないで、シンタローは錠剤を口に放り込んだ。
水も無しに噛み砕いて呑み込む。
そうして自らも白衣を手に取った彼の、振り返っても顔が見えないよう、その背に額を押しつけた。
「…さんきゅ」
沢山の意味を詰め込んだ、ぶっきらぼうな一言を小さな声で呟いて、すぐに身を離す。
後ろを振り返らないまま扉を押し開けた。
扉の向こうには、日常へと真っ直ぐに続く廊下。
踏み出すより前に、深く息を吸い、ぐっと背筋を伸ばす。
思ったよりもずっと自然にスムーズに、意識と世界とが切り替わった。
口元がゆっくり弧を描き、不適な笑みを型作る。
「んじゃ、行ってくるわ!」
背後に放たれた声は少し掠れてはいても、もういつもの真っ直ぐな力ある声。
ああ、と応える短い声が背中を押す。
そして軍靴が迷いのない一歩を踏み出した。
誰も知らないターニングポイント。
それは黒髪の総帥の隣に金髪の補佐が控えるようになる、ほんの少しだけ前のことだった。
後書き。
そろそろ親鳥ひな鳥の関係から脱却。と思ったら、いきなり立場逆転が起きました(笑)。流石、紳士は侮れません…。
シンちゃん、基本的には面倒見の良い兄貴分だけど、弱みを晒せる相手には弱いつーか甘えるつーか。キンちゃんには全部知られてるって自覚しちゃったら強がるのも今更、後はなし崩しで。
ここから俄然キンちゃんの押しと甘やかしが思いっくそ強くなってきて、シンちゃんは何だか勝ち目がなくなってくると思われます(妄想)。
PR