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――永久(とわ)に響きますように。
妙な場所で立ったまま動かない従兄弟を見つけて声を掛けた。
「グンマ?」
「しー」
呼ぶと、廊下の真ん中にぼうっと突っ立っていた従兄弟が、ぱっと振り返って唇の前に人差し指を立てた。
そうして、突き当たりになる、ほんの僅かに開いた戸の前で、そっと中の様子をうかがっている。
「?誰かいるのか?」
そうも先客に遠慮しないでも、中に入ればいいだろうにと思いながら、従兄弟の隣に並ぶとやっとそこでキンタローにも聞こえた。
微かに途切れながら聞こえる、ゆったりした旋律。時折、声の代わりに鼻歌が混じる。
「唄?」
首を傾げる。
唄は唄だが、それが、何故、わざわざ従兄弟の足を止めさせるのだろうか。
「誰が」
呟きかけて、その声に聞き覚えのあることに気付いて目を見張った。
問い掛けるように従兄弟に目をやると、彼は静かに目を細めて硝子戸になっている扉の向こうを見詰めていた。
「懐かしいなぁ」
微笑む口元が、不思議とどこか哀愁を帯びている。
「キンちゃん、憶えてる?僕とシンちゃんが小さい頃、よくお父様が良く歌ってくれたの。シンちゃんも、よくコタローちゃんに歌ってあげてた」
そう言われて、切れ切れのメロディーに耳を澄ます。
記憶と呼べるほどはっきりしたものはなかったが、その旋律は確かに、どこか懐かしく感じられた。
低く穏やかな声音で愛おしげに紡がれた唄を、いつか包まれ微睡みながら聴いたことがあるような気がする。
そうやって与えられた記憶をなぞるように、愛しくいとけないものを抱き締めて、優しくこの上なく柔らかく響いた声も。
目を凝らして、硝子戸の向こうにその姿を探す。
心地よい日差しと、温室を埋める豊富な緑の葉陰の向こうに、赤い色が見え隠れしていた。
どっしりした幹に背中を預けて、そこに流れ落ちる長い黒髪が降り注ぐ光を浴びて、他のどの色彩よりも鮮烈だった。
光を透かした明るい翡翠色が重なり合う合間からは、硝子越しの青空が見えた。
「誰に、向けてるのかな」
傍らの従兄弟が、ぽつりと寂しげに呟く。
緩やかに囁く、耳に心地よい低音。
これほど大切に紡がれる旋律はない。
溢れるほどの愛しさを詰め込んだ音はない。
それなのに、何故か酷く切なくなるのも。
気まぐれな唄は始まった時のように、唐突に途切れた。
微かに見えている後ろ姿は、一向にこれっぽっちも動き出さない。
緑に半ば以上埋もれた紅い服は、それでも周囲の色彩から浮き上がって、遠目にもよく目立った。
けれど、何とはなく容易には近づきかねて、二人して離れたまま様子を伺う。
しばらくそうしていたが、やはり動く気配はない。
ちらりとキンタローを見上げたグンマが、無言で手を振って挨拶に代え、そっとその場を立ち去っていった。
こんな時ばかりは迂闊に近づくのが躊躇われるのだろう。
見送って、もう一度、彼の姿を見る。
そして、キンタローは目の前で半開きになっている硝子戸を押した。
音もなく滑るように開くそれを潜り抜ける。
途端に取り巻く空気が変わった。
僅かに息苦しさを感じる高い湿度と、ぼうっとした温か過ぎる温度。
少し拍子抜けした。どちらもあの島のそれほどではない。
あそこは、もっと灼けつくように暑かった、もっとじっとりと湿度もあった筈だ。
あの辺りを取り巻く密度の濃い大気、あの青の濃い空の確かな存在感。何もかも圧倒的に色鮮やかで。
そこで気がつき、ひとつ苦笑した。
――結局、自分だって考えている。あの楽園を。
生い茂る植物の間を延びる小径を辿って、動かない後ろ姿に歩み寄る。
「シンタロー」
呼び掛けても、応える声は返らない。
回り込むように顔を覗き込むと瞼は閉ざされていて、彼は静かに眠っていた。
張り出した根と幹に、具合良く身体を預けて微睡んでいる。
呼吸の感じからして、眠りはそう深くなかった。もう一度、起こすつもりで呼べば起きるだろう。
逆に、その気がなければ、自分の存在が彼の意識下に触れることはない。
思案するように寝顔を見下ろし、キンタローは従兄弟の傍らに座り込んだ。
片割れの真似をするように、幹に背を凭れてみる。
しばらく居心地の良い位置を探して身じろぎ、落ち着いた所で全身の力を抜いた。
隣を見遣れば、少しやつれた従兄弟の横顔がすぐ間近にある。
引き継いだばかりの総帥の仕事は、相次ぐ遠征の合間を縫って慣れない駆け引きやデスクワークに忙殺されていた。
疲れているのだ。眠くもなるだろう。
指を伸ばして、目の下にそっと触れる。
うっすらと薄くはあるが隈があった。少し顔色も冴えない。
それでも、良い夢を見ているのか、表情はいつになく穏やかだった。
落ち着いた呼吸を繰り返す薄く開いた唇は、微かに微笑んでいるようにも見える。
夢の中でも、唄の続きを奏でているのだろうか。
その向けられる先が、自分たちの方ではなく、遙か遠くを向いていると思えば、少しばかり悔しく妬ましくはあるけれど。
それと同じばかり、少しだけ悼む心があった。
キンタローの記憶にある限り、彼があの島であの少年に歌ってやる機会はついぞ無かった。
今、夢の中でだけでも届いているだろうか。
一度だけなぞるように頬に触れ、頭の片隅で先程に聞いたばかりの、うろ覚えの旋律をたぐり寄せる。
流石に全ては覚え切れておらず、覚えている箇所だけをおぼろげに辿った。
ふと目を上げれば明るい日差しが眩しかった。午後の陽気の、眠気をもたらす暖かさ。
周囲には柔らかな緑が溢れていて、それを揺らす風がないのが惜しかった。
時折、存在を確認するように傍らを覗き込む。
見守る寝顔は未だ目覚める気配もなく安らかだ。
それだけのことに、満ち足りたようにキンタローは微笑んだ。
素朴で他愛のない唄の断片を、囁きよりも小さく繰り返す。
与えられる優しい想い出は今さら手に入れようがなくとも、今の自分は少なくとも誰かにそれを与えることが出来る。それもまた、幸せなことに違いなかった。
思いを注ぐその唄。
愛しい者を抱き締めるその唄を唄う時、愛しいと深く溢れ出る想いに、どれほど満たされることだろう。受け取る者だけでなく、与える者こそが。想うことの幸福ゆえに。
願わくば、それが受け取るべき相手の元まで届けばいい。
彼の想いも、海の彼方、夢の向こう側へ。
届かない筈はない。
どれほど遠かろうと、彼の声が届かないはずはないし、あの少年に聞こえないはずがなかった。
そうして自分は此処で、彼に届くまで、幾らでも奏でているから。
これからも共に進む長い道のり。
彼が導く未来に、どうか。
永久に、この唄が世界で響きますように。
後書き。
これじゃぁ、キンシンじゃなくて聖域なんじゃないだろうか。書き上げてから気付いた……。
最初、シンちゃんとグンちゃんに子守歌を歌ってくれたのはママの設定でしたが、本誌で衝撃の事実が明かされたもので慌てて設定変更……。あああ、パパとママのめっちゃラブロマンスを期待してたのにー!ルー様の超不器用で稚拙な恋とか夢見てたのにー!
――永久(とわ)に響きますように。
妙な場所で立ったまま動かない従兄弟を見つけて声を掛けた。
「グンマ?」
「しー」
呼ぶと、廊下の真ん中にぼうっと突っ立っていた従兄弟が、ぱっと振り返って唇の前に人差し指を立てた。
そうして、突き当たりになる、ほんの僅かに開いた戸の前で、そっと中の様子をうかがっている。
「?誰かいるのか?」
そうも先客に遠慮しないでも、中に入ればいいだろうにと思いながら、従兄弟の隣に並ぶとやっとそこでキンタローにも聞こえた。
微かに途切れながら聞こえる、ゆったりした旋律。時折、声の代わりに鼻歌が混じる。
「唄?」
首を傾げる。
唄は唄だが、それが、何故、わざわざ従兄弟の足を止めさせるのだろうか。
「誰が」
呟きかけて、その声に聞き覚えのあることに気付いて目を見張った。
問い掛けるように従兄弟に目をやると、彼は静かに目を細めて硝子戸になっている扉の向こうを見詰めていた。
「懐かしいなぁ」
微笑む口元が、不思議とどこか哀愁を帯びている。
「キンちゃん、憶えてる?僕とシンちゃんが小さい頃、よくお父様が良く歌ってくれたの。シンちゃんも、よくコタローちゃんに歌ってあげてた」
そう言われて、切れ切れのメロディーに耳を澄ます。
記憶と呼べるほどはっきりしたものはなかったが、その旋律は確かに、どこか懐かしく感じられた。
低く穏やかな声音で愛おしげに紡がれた唄を、いつか包まれ微睡みながら聴いたことがあるような気がする。
そうやって与えられた記憶をなぞるように、愛しくいとけないものを抱き締めて、優しくこの上なく柔らかく響いた声も。
目を凝らして、硝子戸の向こうにその姿を探す。
心地よい日差しと、温室を埋める豊富な緑の葉陰の向こうに、赤い色が見え隠れしていた。
どっしりした幹に背中を預けて、そこに流れ落ちる長い黒髪が降り注ぐ光を浴びて、他のどの色彩よりも鮮烈だった。
光を透かした明るい翡翠色が重なり合う合間からは、硝子越しの青空が見えた。
「誰に、向けてるのかな」
傍らの従兄弟が、ぽつりと寂しげに呟く。
緩やかに囁く、耳に心地よい低音。
これほど大切に紡がれる旋律はない。
溢れるほどの愛しさを詰め込んだ音はない。
それなのに、何故か酷く切なくなるのも。
気まぐれな唄は始まった時のように、唐突に途切れた。
微かに見えている後ろ姿は、一向にこれっぽっちも動き出さない。
緑に半ば以上埋もれた紅い服は、それでも周囲の色彩から浮き上がって、遠目にもよく目立った。
けれど、何とはなく容易には近づきかねて、二人して離れたまま様子を伺う。
しばらくそうしていたが、やはり動く気配はない。
ちらりとキンタローを見上げたグンマが、無言で手を振って挨拶に代え、そっとその場を立ち去っていった。
こんな時ばかりは迂闊に近づくのが躊躇われるのだろう。
見送って、もう一度、彼の姿を見る。
そして、キンタローは目の前で半開きになっている硝子戸を押した。
音もなく滑るように開くそれを潜り抜ける。
途端に取り巻く空気が変わった。
僅かに息苦しさを感じる高い湿度と、ぼうっとした温か過ぎる温度。
少し拍子抜けした。どちらもあの島のそれほどではない。
あそこは、もっと灼けつくように暑かった、もっとじっとりと湿度もあった筈だ。
あの辺りを取り巻く密度の濃い大気、あの青の濃い空の確かな存在感。何もかも圧倒的に色鮮やかで。
そこで気がつき、ひとつ苦笑した。
――結局、自分だって考えている。あの楽園を。
生い茂る植物の間を延びる小径を辿って、動かない後ろ姿に歩み寄る。
「シンタロー」
呼び掛けても、応える声は返らない。
回り込むように顔を覗き込むと瞼は閉ざされていて、彼は静かに眠っていた。
張り出した根と幹に、具合良く身体を預けて微睡んでいる。
呼吸の感じからして、眠りはそう深くなかった。もう一度、起こすつもりで呼べば起きるだろう。
逆に、その気がなければ、自分の存在が彼の意識下に触れることはない。
思案するように寝顔を見下ろし、キンタローは従兄弟の傍らに座り込んだ。
片割れの真似をするように、幹に背を凭れてみる。
しばらく居心地の良い位置を探して身じろぎ、落ち着いた所で全身の力を抜いた。
隣を見遣れば、少しやつれた従兄弟の横顔がすぐ間近にある。
引き継いだばかりの総帥の仕事は、相次ぐ遠征の合間を縫って慣れない駆け引きやデスクワークに忙殺されていた。
疲れているのだ。眠くもなるだろう。
指を伸ばして、目の下にそっと触れる。
うっすらと薄くはあるが隈があった。少し顔色も冴えない。
それでも、良い夢を見ているのか、表情はいつになく穏やかだった。
落ち着いた呼吸を繰り返す薄く開いた唇は、微かに微笑んでいるようにも見える。
夢の中でも、唄の続きを奏でているのだろうか。
その向けられる先が、自分たちの方ではなく、遙か遠くを向いていると思えば、少しばかり悔しく妬ましくはあるけれど。
それと同じばかり、少しだけ悼む心があった。
キンタローの記憶にある限り、彼があの島であの少年に歌ってやる機会はついぞ無かった。
今、夢の中でだけでも届いているだろうか。
一度だけなぞるように頬に触れ、頭の片隅で先程に聞いたばかりの、うろ覚えの旋律をたぐり寄せる。
流石に全ては覚え切れておらず、覚えている箇所だけをおぼろげに辿った。
ふと目を上げれば明るい日差しが眩しかった。午後の陽気の、眠気をもたらす暖かさ。
周囲には柔らかな緑が溢れていて、それを揺らす風がないのが惜しかった。
時折、存在を確認するように傍らを覗き込む。
見守る寝顔は未だ目覚める気配もなく安らかだ。
それだけのことに、満ち足りたようにキンタローは微笑んだ。
素朴で他愛のない唄の断片を、囁きよりも小さく繰り返す。
与えられる優しい想い出は今さら手に入れようがなくとも、今の自分は少なくとも誰かにそれを与えることが出来る。それもまた、幸せなことに違いなかった。
思いを注ぐその唄。
愛しい者を抱き締めるその唄を唄う時、愛しいと深く溢れ出る想いに、どれほど満たされることだろう。受け取る者だけでなく、与える者こそが。想うことの幸福ゆえに。
願わくば、それが受け取るべき相手の元まで届けばいい。
彼の想いも、海の彼方、夢の向こう側へ。
届かない筈はない。
どれほど遠かろうと、彼の声が届かないはずはないし、あの少年に聞こえないはずがなかった。
そうして自分は此処で、彼に届くまで、幾らでも奏でているから。
これからも共に進む長い道のり。
彼が導く未来に、どうか。
永久に、この唄が世界で響きますように。
後書き。
これじゃぁ、キンシンじゃなくて聖域なんじゃないだろうか。書き上げてから気付いた……。
最初、シンちゃんとグンちゃんに子守歌を歌ってくれたのはママの設定でしたが、本誌で衝撃の事実が明かされたもので慌てて設定変更……。あああ、パパとママのめっちゃラブロマンスを期待してたのにー!ルー様の超不器用で稚拙な恋とか夢見てたのにー!
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