さあ
時間は絶え間なく流れていて、止まる事がない。
だから、これは区切り。
その上着に袖を通すと鏡で己の姿を確認する。
「うわー」
お世辞にも似合っているとはいえない、深紅の制服。
唯一、総帥のみ纏う事の出来る服。
鏡の中の自分を見て溜め息を吐くとあちこちを確認し始める。
丈などで問題ないことを確認すると、もう一度鏡の中の自分を鑑みる。
そこでふと、髪を縛っていた布を解く。ぱさりと静かに音を立てながら髪が広がっていく。
一族では、ありえない漆黒の髪と瞳。
ちぐはぐな赤と黒。
それは自分の様であり、またこれからのガンマ団を表しているようでもあった。
どこか違和感のある、まるで幻。
それでも、自分が選んだのは、父親を越えたいからではなく。
軽いノックと共に、人が入ってくる。
こちらの返事も聞かずにはいってくるのは数人。
「ようやく、着たんだね」
あの島から帰ってきてすぐに引退を宣言した、マジック。
彼は、実の息子のグンマでなく、キンタローでもなく、シンタローに跡を継がせることを団全体に伝え、そのまま隠居生活を送っている。
「やっぱり似合わねぇよ」
突然の引退に混乱した団内に、シンタローが今までの方針を変えると言い出し、さらに追い討ちを掛けた。
そして、その言葉が公布されて以来、各地に散らばっていた軍隊は帰国し、明日の就任式を固唾を呑んで見守っている。
「まあ、私も最初はそうだったよ」
くすくすと笑いながらマジックはシンタローの後ろに立つ。
鏡越しにシンタローの姿を見るとそっと頭を撫でた。
「これからが、大変だぞ」
「ああ」
シンタローも後ろを向かずに鏡に向かって頷く。
口で言うのはたやすいが、実際に行うのは難しい。
これからは、依頼を受ける、という形でガンマ団は力を行使していく。
弱きを守るための力として。
今までのように、ただ暴れるだけではいけない。それを納得しない者がどれだけいることか。
そこでふと、シンタローは自分の背がマジックと大差ないことに気が付く。
慌てて振り返ると、そこにはマジックの瞳が近くに在った。
「どうかしたのかい?」
「…いや、これからなんだな、と思っただけだよ」
何故か急に、父親が身近なものと感じた。
冷徹であり、一生敵わないのではないかと思っていた、父親。
そんな、彼でもきっとこうして不安に思ったことがあるのではないか。
なぜかそんなことが頭に浮かんだ。
「頑張りなさい、きっとシンちゃんなら出来るよ」
それが、きつく大変なことであろうとも。
赤い服に畏怖と嫌悪の念。
それは団内だけでなく、各国にあるだろう。
その種をまいたのはマジック本人であり、そのことが少しばかし心に引っかかっていた。
「パパも好き勝手やってきたからね。シンちゃんもおもっきりやりなさい」
それでも、シンタローなら何とかできるのではないかと思ってしまうのは親の欲目であり。
「好き勝手言うなよな」
苦笑いをするその顔を見て笑うと、もう一度頭を撫でる。背中を押すように強く、そして優しく。
「大丈夫だよ、きっとね」
シンタローはもう、自分の背中を見ていない。前を見ているのだから。
そう、マジックは感じていた。あの島で、総てのものが変わったから。
もう、雛は親鳥の元には返ってこない。
それでも、きっとマジックは子供のことを考えずにはいられなかった。
「何があろうとも、パパはシンちゃんの味方だよ」
「へいへい」
聞き飽きた台詞は、とても暖かく。
雛は巣立っていくように
ここがスタート
さあ、始めよう
時間は絶え間なく流れていて、止まる事がない。
だから、これは区切り。
その上着に袖を通すと鏡で己の姿を確認する。
「うわー」
お世辞にも似合っているとはいえない、深紅の制服。
唯一、総帥のみ纏う事の出来る服。
鏡の中の自分を見て溜め息を吐くとあちこちを確認し始める。
丈などで問題ないことを確認すると、もう一度鏡の中の自分を鑑みる。
そこでふと、髪を縛っていた布を解く。ぱさりと静かに音を立てながら髪が広がっていく。
一族では、ありえない漆黒の髪と瞳。
ちぐはぐな赤と黒。
それは自分の様であり、またこれからのガンマ団を表しているようでもあった。
どこか違和感のある、まるで幻。
それでも、自分が選んだのは、父親を越えたいからではなく。
軽いノックと共に、人が入ってくる。
こちらの返事も聞かずにはいってくるのは数人。
「ようやく、着たんだね」
あの島から帰ってきてすぐに引退を宣言した、マジック。
彼は、実の息子のグンマでなく、キンタローでもなく、シンタローに跡を継がせることを団全体に伝え、そのまま隠居生活を送っている。
「やっぱり似合わねぇよ」
突然の引退に混乱した団内に、シンタローが今までの方針を変えると言い出し、さらに追い討ちを掛けた。
そして、その言葉が公布されて以来、各地に散らばっていた軍隊は帰国し、明日の就任式を固唾を呑んで見守っている。
「まあ、私も最初はそうだったよ」
くすくすと笑いながらマジックはシンタローの後ろに立つ。
鏡越しにシンタローの姿を見るとそっと頭を撫でた。
「これからが、大変だぞ」
「ああ」
シンタローも後ろを向かずに鏡に向かって頷く。
口で言うのはたやすいが、実際に行うのは難しい。
これからは、依頼を受ける、という形でガンマ団は力を行使していく。
弱きを守るための力として。
今までのように、ただ暴れるだけではいけない。それを納得しない者がどれだけいることか。
そこでふと、シンタローは自分の背がマジックと大差ないことに気が付く。
慌てて振り返ると、そこにはマジックの瞳が近くに在った。
「どうかしたのかい?」
「…いや、これからなんだな、と思っただけだよ」
何故か急に、父親が身近なものと感じた。
冷徹であり、一生敵わないのではないかと思っていた、父親。
そんな、彼でもきっとこうして不安に思ったことがあるのではないか。
なぜかそんなことが頭に浮かんだ。
「頑張りなさい、きっとシンちゃんなら出来るよ」
それが、きつく大変なことであろうとも。
赤い服に畏怖と嫌悪の念。
それは団内だけでなく、各国にあるだろう。
その種をまいたのはマジック本人であり、そのことが少しばかし心に引っかかっていた。
「パパも好き勝手やってきたからね。シンちゃんもおもっきりやりなさい」
それでも、シンタローなら何とかできるのではないかと思ってしまうのは親の欲目であり。
「好き勝手言うなよな」
苦笑いをするその顔を見て笑うと、もう一度頭を撫でる。背中を押すように強く、そして優しく。
「大丈夫だよ、きっとね」
シンタローはもう、自分の背中を見ていない。前を見ているのだから。
そう、マジックは感じていた。あの島で、総てのものが変わったから。
もう、雛は親鳥の元には返ってこない。
それでも、きっとマジックは子供のことを考えずにはいられなかった。
「何があろうとも、パパはシンちゃんの味方だよ」
「へいへい」
聞き飽きた台詞は、とても暖かく。
雛は巣立っていくように
ここがスタート
さあ、始めよう
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壊れたエンジン
ふと、彼の顔が見たくなり、総帥室へと向かった。
何事もなければ、今の時間、彼はそこにいるはずだからだ。エレベーターに乗り、そのまま最上階を目指す。
エレベーターを降りるとそこは深紅の絨毯が敷き詰められている。この階に来るためには専用のエレベータに乗らなければならず、そのエレベーターにもパスワードやら何やらと一部のものしか入れない仕組みとなっている。
そのため、ここを訪れる者は少なく、この廊下も、いつも静かなものである。
総帥室までエレベーターからわずか歩くだけで到着する。そこでも身分証明のカードやまたパスワード。しかし一族のものであれば誰でも知っているため、キンタローは手馴れた手つきで操作を行った。
ドアを開け、中に入ると、相変わらず忙しそうに書類と格闘していた。
「忙しそうだな」
「先週のお前程じゃねぇよ」
キンタローは先週、学会の関係上、研究室に篭っていた。その間、総帥室にも、シンタローの部屋、そして自分の部屋にすら帰っていなかった。
だから、こうして話すことはもとより、顔をあわせるのも久しぶりであった。
「ようやく終わったからな。そっちは何かあったのか?」
「それ程大変なことは起こってはいない。どっちかって言うとグンマの研究がな…」
その言葉に、従兄弟の行っている研究を思い出す。
「確か…ガンボットについてか?」
「おとなしく、二足歩行についてやっていればいいものをよけいなことしやがって」
「何をやったんだ?」
「あ?ロケットパンチの精度を上げるんだと」
「それは…」
いまのガンマ団の生計ははっきり言って以前に比べあまり宜しくない。
「もうちょっと金になることをやって欲しいんだがな」
ため息をつくシンタローにキンタローも呆れ顔で答える。
「無理だろうな、グンマなら」
「それでもあいつの研究は結構すごいんだけどなぁ」
「本人のやる気が伴わないからな」
「そういった意味じゃ、ジャンの宇宙船なんかはもっとキツイもんがあるがな」
「…本気だったのか」
「らしいぜ。企画書読んで泣けてきた」
ほれ、とファイルを渡されキンタローはそれを受け取り、中を見る。
「で、感想は?」
「何年かかるんだ、これは?」
「でも、まあそれに付随する形で、何らかの成果を挙げられるなら良しとすることにした」
「…いい加減だな」
「グンマけっこーそういうのが多いからな」
ガンボットというロボット自体がまさにそれである。二足歩行に飛行機能、今はそれに世に言う人工知能をつけると張り切っている。
「これで、ロケットパンチから離れてくれればもっと良いんだけれどな…」
「俺はどうなんだ?」
ジャンの企画書―内容はほとんど無かったが―を返しながらキンタローは聞く。
「お前が一番まともだよ。高松もだが、一般的なものを作ってくれるからな」
実は、高松も学会で発表するものはまっとうなものが多い。しかも他のところとは違い、早期の段階で人体実験を行うため時間的なロスが少ない(そのため、毎年何人かが集中治療室行きになるのだが…)
そしてキンタローの研究というのも堅実なものが多く、またその研究結果を政府やらに売ることにより団の利益を上げているのだ。
なにより、社会への貢献度があるため、団のイメージも変わっていく。
「お前の役に立っているなら良いさ」
「ああ、ありがとな」
にっこりと笑うシンタローを見て、衝動的にキンタローは肩に手を置いてこちらを向かせると抱きついた。久しぶりの体温にほっと息を吐く。
「キンタロー?」
シンタローのその呼びかけに答えずそのまま頭を肩に埋める。
仕方なく、シンタローも抱き返してやるがそのまま動かないキンタローに訝しく思う。
「どうかしたのか?」
「…久しぶりに会ったからな、充電だ」
「なんだそりゃ」
「気にするな」
そう言ってくつくつと笑うキンタローに、シンタローは聞き出すことを諦めそのまま書類を読む。
「とっとと終わらせろよ」
「ああ、わかっている」
笑いながら顔を上げると、シンタローの唇を掠め取る。
「充電完了だ」
「…て、おい」
そのままさっさと出ていこうとするキンタローに向かって先程のジャンの企画書を投げつける。
それをいともあっさりと受け取ると、キンタローは笑う。
「安心しろ、俺の動力源はお前だけだからな」
「…それ、ジャンに届けといてくれ。一応サインはしておいた」
もはや言い返す気力もなく、一気に疲れたシンタローはそれだけ言うと仕事を進めることにした。
それを見て、キンタローも部屋から出て行った。
この心は壊れていて
お前がいないと動かない
お前だけしか受け入れない、壊れたエンジン
ふと、彼の顔が見たくなり、総帥室へと向かった。
何事もなければ、今の時間、彼はそこにいるはずだからだ。エレベーターに乗り、そのまま最上階を目指す。
エレベーターを降りるとそこは深紅の絨毯が敷き詰められている。この階に来るためには専用のエレベータに乗らなければならず、そのエレベーターにもパスワードやら何やらと一部のものしか入れない仕組みとなっている。
そのため、ここを訪れる者は少なく、この廊下も、いつも静かなものである。
総帥室までエレベーターからわずか歩くだけで到着する。そこでも身分証明のカードやまたパスワード。しかし一族のものであれば誰でも知っているため、キンタローは手馴れた手つきで操作を行った。
ドアを開け、中に入ると、相変わらず忙しそうに書類と格闘していた。
「忙しそうだな」
「先週のお前程じゃねぇよ」
キンタローは先週、学会の関係上、研究室に篭っていた。その間、総帥室にも、シンタローの部屋、そして自分の部屋にすら帰っていなかった。
だから、こうして話すことはもとより、顔をあわせるのも久しぶりであった。
「ようやく終わったからな。そっちは何かあったのか?」
「それ程大変なことは起こってはいない。どっちかって言うとグンマの研究がな…」
その言葉に、従兄弟の行っている研究を思い出す。
「確か…ガンボットについてか?」
「おとなしく、二足歩行についてやっていればいいものをよけいなことしやがって」
「何をやったんだ?」
「あ?ロケットパンチの精度を上げるんだと」
「それは…」
いまのガンマ団の生計ははっきり言って以前に比べあまり宜しくない。
「もうちょっと金になることをやって欲しいんだがな」
ため息をつくシンタローにキンタローも呆れ顔で答える。
「無理だろうな、グンマなら」
「それでもあいつの研究は結構すごいんだけどなぁ」
「本人のやる気が伴わないからな」
「そういった意味じゃ、ジャンの宇宙船なんかはもっとキツイもんがあるがな」
「…本気だったのか」
「らしいぜ。企画書読んで泣けてきた」
ほれ、とファイルを渡されキンタローはそれを受け取り、中を見る。
「で、感想は?」
「何年かかるんだ、これは?」
「でも、まあそれに付随する形で、何らかの成果を挙げられるなら良しとすることにした」
「…いい加減だな」
「グンマけっこーそういうのが多いからな」
ガンボットというロボット自体がまさにそれである。二足歩行に飛行機能、今はそれに世に言う人工知能をつけると張り切っている。
「これで、ロケットパンチから離れてくれればもっと良いんだけれどな…」
「俺はどうなんだ?」
ジャンの企画書―内容はほとんど無かったが―を返しながらキンタローは聞く。
「お前が一番まともだよ。高松もだが、一般的なものを作ってくれるからな」
実は、高松も学会で発表するものはまっとうなものが多い。しかも他のところとは違い、早期の段階で人体実験を行うため時間的なロスが少ない(そのため、毎年何人かが集中治療室行きになるのだが…)
そしてキンタローの研究というのも堅実なものが多く、またその研究結果を政府やらに売ることにより団の利益を上げているのだ。
なにより、社会への貢献度があるため、団のイメージも変わっていく。
「お前の役に立っているなら良いさ」
「ああ、ありがとな」
にっこりと笑うシンタローを見て、衝動的にキンタローは肩に手を置いてこちらを向かせると抱きついた。久しぶりの体温にほっと息を吐く。
「キンタロー?」
シンタローのその呼びかけに答えずそのまま頭を肩に埋める。
仕方なく、シンタローも抱き返してやるがそのまま動かないキンタローに訝しく思う。
「どうかしたのか?」
「…久しぶりに会ったからな、充電だ」
「なんだそりゃ」
「気にするな」
そう言ってくつくつと笑うキンタローに、シンタローは聞き出すことを諦めそのまま書類を読む。
「とっとと終わらせろよ」
「ああ、わかっている」
笑いながら顔を上げると、シンタローの唇を掠め取る。
「充電完了だ」
「…て、おい」
そのままさっさと出ていこうとするキンタローに向かって先程のジャンの企画書を投げつける。
それをいともあっさりと受け取ると、キンタローは笑う。
「安心しろ、俺の動力源はお前だけだからな」
「…それ、ジャンに届けといてくれ。一応サインはしておいた」
もはや言い返す気力もなく、一気に疲れたシンタローはそれだけ言うと仕事を進めることにした。
それを見て、キンタローも部屋から出て行った。
この心は壊れていて
お前がいないと動かない
お前だけしか受け入れない、壊れたエンジン
駅
男は、一枚の切符をくれた。
行き先のところに何も書かれていない。
“あなたの、行きたいところを書いてください”
礼だと言って渡したその男はどこかに消えた。
「どこに行っていたんだ」
気がついたら傍にキンタローが立っていた。
「いや。ちょっと人助けをな」
「まったく、ほいほいとどこかに行くな」
「ああ、気をつける」
見つからないように、シンタローは男からもらった切符をしまう。大きさは封筒よりも一回りか二回り小さいほど。
「行きたいところ、ね」
「どうかしたのか?」
小さく呟いたつもりが聞こえていたことに慌てて首を振る。
「いや、なんでもねぇよ」
「ならいいが…」
不審な顔をするキンタローにシンタローは笑ってみせる。
「急いでんだろ、早く行こうぜ」
「お前がいなくならなければこんなことにはならなかったんだぞ」
なおもぶつぶつというキンタローに気がつかれない様に後ろを振り返ったがそこには誰もいなかった。
帰ってきてから、隠した切符を出す。それは先ほどと同じように行き先の所には何も書かれていない。
しかし、出発駅に変化があった。
今、シンタローがいるホテルの一室の名前が書いてある。
慌てて裏返すが何があるわけではなく。ただ注意書きが書いてある。
もう一度表に返し、まじまじと読んでみる。
出発駅はこのホテル。行き先は無記名。期限は無期限。そして、その他のことは何も書かれていない。
今度は裏の注意書きを読む。
曰く、期限は無期限だが早めに使えとのこと。
曰く、行き先を書いた後、その場所から動いた瞬間に望んだ場所に行けるとのこと。
曰く、
「片道切符か」
もう、二度と帰ってこれないとのこと。
行きたいところ、と聞いて思い出すのはあの島。
目を閉じればあの常夏の島が思い出される。
感傷的な自分に笑ってしまうがどうしようもない。
ふと、あの島の名前を書いてしまおうかと考える。
名前はジャンから聞いた。
シンタローは第二のパプワ島とはそのままではないかと、感じたことを思い出した。
あの島に行ってそのまま帰ってこない。
それは、きっと自分にとって幸せなことであろうと、思った。
しかし…
思考は、ドアをたたく音によって中断される。
「俺だ」
短いその一言で誰の訪問かわかったシンタローはドアを開ける。
「なんかあったのか?」
「いや、ただ昼間のお前の反応が気になったからな」
開けたと同時に部屋に入ってくる相手に呆れながらも、苦笑した。
「いや、たいしたことねぇよ」
「そうか?」
そのまま椅子に座るキンタローに備え付けの冷蔵庫から取り出したビールを渡す。
自分も向かい合うように置いてある椅子に座ると取り出したもう一缶の開け、そのまま口をつける。
同じように口をつけたキンタローだが、やはり心配であった。
「本当に、なんでもないんだな」
念を押すその言葉にシンタローはまた苦笑する。
「ああ、なんでもねぇよ」
到底騙せない相手だが、こちらが喋る気がないことに関しては深く聞きだそうとしないため、大抵の場合はなんとかなる。
その相手がここまで気にするとは、そんなに顔に出ているのかとシンタローはまた笑った。
「俺ってそんなに信用されてねぇ?」
この一言にがキンタローに良く効くことをシンタローは知っている。
「そういうわけではないが…」
こちらを思いやる、キンタローの優しさをシンタローは度々利用する。
24年傍にいた分、こうした場合は放っておいて欲しいのだというシグナルを受け取ってくれると知っているからだ。
しかし、さらにこういった場合、あの島について考えているということまでわかっているということをシンタローは知らない。
そのせいでキンタローがどれだけ苦しんでいるのかも。
「…今日みたいに、どこかに行くなよ」
「気をつけるよ」
「本当だろうな」
そう念を押され、ふと頭に困らせてやれ、という考えが浮かぶ。
「なあ、もし好きなところにずっといられるとしたら、どこにいたい?」
一気に話題を変え、しかもイタズラわ仕掛ける子供のような顔をするシンタローにあっけにとられた。
「なあ、どこに行きたい?」
しかし、その眼は真剣で。
「お前は、あの島、か?」
逆に聞き返すがそれに答えはない。
「お前は?」
答えがない、ということは肯定であり。
仕方がなく、自分が行きたい場所を考えるが彼の人のように決まるわけでく。
その間、シンタローはこちらをじぃと見つめていた。
「…場所でなくてもいいのか?」
「は?」
どこに、と聞いたのに場所ではないとはこれいかに。
「もし、そうなら」
その一言を言うのに、少し勇気が要った。
「お前の隣だ」
これは場所ではなく、居場所。
でも、ずっといられるのなら、そこがいい。
それがキンタローの出した結論。
「それは、ありか?」
「お前が出した問題だ。自分で考えろ」
身を乗り出していたシンタローの体を自分の所に引き寄せるとキンタローはその耳元でそっと囁く。
「俺は、お前の傍がいいんだ」
その日の晩、シンタローは黒いインクで行き先を書いた。
そして、その紙をそばに置いてあった灰皿にちぎって入れるとマッチで火をつける。
行き先は決まっている。
でも、きっとこの手を離すことは出来ないから。
振り切ってその島に行くことはきっと一生ないから。
どこかで、ベルが鳴る
その音に静かに涙を流した
言い訳
誓って、気の迷いだ。
酔った勢いだ。
ぐるぐるとそんな言葉が頭の中を巡る。
ここは自分の部屋であり、裸同然でベットの中にいる。
酔った時に脱いだのだと思いたかったが、隣にいる人間と、途切れ途切れに残っている昨日の記憶がそれを邪魔する。
昨日の夜、シンタローは遅くまで仕事をしていた。
そして、部屋に戻る際ある人物とばったり会い、自分の部屋で一緒にご飯を食べたのだ。
なぜか、どちらのほうが酒が強いかという話から部屋においてあった酒を飲む羽目になり…
そこから先を思い出そうとして、慌てて思考回路を止める。
出来る事なら昨夜のことはなかったことにしたい。
がっちりと抱きしめられながらそんなことを考えても不毛ではあったが…
そこまで考えて、シンタローははっと気がついた。
(今日は休みか…)
だからこそ、飲み比べという無謀なことを行ったのだが…
考えてみれば、相手が勝って当然なのだ。
こっちは休み前だからとへとへとになるまで仕事をした身。かたや時間に自由が利く身。
今のところ研究が忙しいという話はまったく聞いていない。
そこに思い立った瞬間、シンタローはふつふつと怒りが湧いて来た。
今日の予定としては、朝起きたらすぐにコタローのそばにいて時間が許す限りそばにいるはずだったのだ。
仕事が忙しくとも本部にいる間は一日5分でも会いに行くのだが、最近は遠征やら何やらであまり顔を出せずにいた。
ようやく長い間そばにいられると思ったら、今一緒にいる相手はコタローが兄と慕っていた男で。
「起きやがれ!」
あえて今の今まで無視をしていた目の前にある胸板。
最近ディスクワークしか自分と比べ、暇を見つけてはトレーニングしているらしい肉付きに少しばかしうらやましく思える。
「いつまでも抱え込んでいるんじゃねーよ!」
頭と背中にまわされた腕はびくともせず、いくら暴れても解けはしない。
そういや、よくパプワにしてやっていたな~と思い、慌てて現実逃避に走りそうになった自分の思考に待ったをかける。
「おーきーろーー!」
精一杯暴れ、大声を出したせいか、キンタローがうっすらと目を開けた。
「ん…なんだ」
「なんだ、じゃねぇ。とっとと外せ」
「今、何時だ…?」
かみ合わない会話にいらいらしながらも丁寧に答える。
「7時少し過ぎたところだ。で、早く外せ」
「今日、休みなんだろ…まだ寝ていられる…」
「俺は、コタローに、会いに行くんだよ!」
また寝ようとする相手に怒鳴ってしまっても罪はないだろう。
「…なら後で…二人で行こう……俺も…一緒に行く…」
「あ、てめぇ!また寝るな!せめて外してから寝ろ!」
また眠りにつこうとするのを阻止するために暴れるが、向こうはまるであやすように頭を撫でる。
「疲れているんだろ…お前も、寝ろ…」
そういって完全に寝入ってしまった。
「寝るな~~!」
その言葉も虚しく、キンタローは起きる気配はない。
起こすことを諦めたシンタローは自分の頭の上にある顔を見る。
元はひとつであったはずなのに、まったく違う顔立ち。
今までこうしてまじまじと見たことがなかったのでじっと観察する。
そうこうしているうちに一番よく見える唇を眺めていると昨日、あの唇が何をしたかを、思い出してしまった。
「やっぱ、起きろ~~!」
顔を真っ赤にしながら解こうとしたがまったく起きる気配もなく。
キンタローが起きるまで、シンタローは一人悶々としたものを抱えたままだった。
02:ワケありボーダレス
「どうしたよ、お前一人で」
ぼんやりと立ち尽くし、見つめていた緑の群生から意識を引き剥がされる。
気づかぬ間に接近されていたのか、随分と至近距離から声をかけられた。
だいぶ傾いた日に、それでも温室の内部は日当たりの良さから相当明るく
目をやった黒髪の姿も木々の作り出す薄闇に溶けることなく佇んでいる。
「一人だとまずいのか?」
ゆるりと向き直し返した声に硬さが篭る。
目の前の男がそれに気づかないわけもなく、「違う違う」と首を振って否定された。
「そーゆーんじゃねぇけど、お前いっつもグンマかドクターといるだろ?」
今は傍らに付き添うその姿が見えないから、と。
あの島から戻ってきてからここ一ヶ月半というもの
一時でも目を離しておけないと云いたげにそれは確かに日常風景の一部であった。
「・・・研究が詰めに入ったらしい」
「んで、暇でも持て余したのか?」
「・・・・かもしれない」
言葉少なに答えれば、シンタローは縛っていた髪がほつれるのも構わず
頭をがりがりと掻きながらぶちぶちと文句にも似た独り言を呟きだす。
「お前は」
「書類読むスペース探しがてらの散歩だ」
脇に抱えていた黒いブリーフケースを軽く振って見せられた。
おそらく総帥業を継ぐには必要な団内の実情データなどの書類なんだろう。
嵩がある分だけ、振った手元が重たい音を立てている。
「・・・結構すげぇだろ、此処」
自慢げな顔でにっと笑い、ケースを放り出す勢いで木々を披露するように腕を広げる。
傍らにある巨木に凭れるように手を着き、感じる温かみの感触にさらに緩む表情。
「そうだな」
「よく来るのか?」
「いや、初めてきた。・・・・・・お前の中にいた時のことを抜かしてはな」
僅かに顰められた顔を無視して、天井に顔を向けた。
生い茂る濃い緑に硝子越しの夕暮れの赤を照り返し、冴え渡る原色のコントラストが視界に入る。
夕闇が近いことを示すその赤さは、いっそ禍々しいくらいだ。
「・・・・・もう夕暮れか」
その光景にぽつり、と落とすような声が傍らから聞こえた。
寂しげな余韻が翳りのようにそこに含まれている。
脳裏を過ぎるのは、海に溶けるように沈んでいくあの島の夕暮れ。
自分の記憶にはない、目の前の男の感情を多分に交えた美しい色合い。
それを思い出しているのだと容易に分かってしまった自分に内心舌打ちした。
「なぁ、最近どうなんだ?」
感じていた寂寥を誤魔化すように、新たな話題を振られる。
それでも振り切れない寂しさの一端が覗く表情に苛立ちが起こる。
どうしてお前は、こうも分かりやすく俺に隙を見せるのかと。
「・・・・グンマが悲しいような顔をした」
「なんでまた」
「俺が”これはきれいなのか”と聞いたら・・・そんな顔をした」
指し示すのは、咲き乱れる花々。
赤、白、青、紫、橙、緑。温室で育てられたそれらは秋の最中になんとも鮮やかな色で、目を奪う。
訝しげにこちらを見やるシンタローの顔は複雑だ。
「きれいなのか、って」
「そのままだ。これはきれいと思っていいのかと」
「ワケわかんねぇよ、それじゃ」
「・・・・・・色形が鮮やかだとは思うが、きれいには足りない気がしてならない」
この物足りなさがお前なら分かるだろう?
お前だからこそ、分かる筈だ。
「あの島ではあらゆる物が美しかった。・・・これと同じ花であっても違ったんだ」
熱帯の極彩色に劣らぬ花も此処にはあった。
けれど、それすらも霞んで見えるという現実。
何が、そうさせているのかなど分かり易すぎるほどに分かっている。
「島から帰ってきてから、ずっとそうだ」
険のある視線をくれてやれば、僅かに怯んだ様子でたじろぐ。
理由に気づくのは容易い。なぜならそれは全て身体が記憶していた感情だから。
何もかも憶えある感情だから、互いに否が応でも分かってしまう。
「なぜお前の感情に引き摺られなきゃならないんだ」
今もなお、肺をひき潰される様な痛みが鈍く胸を軋ませる。
まだ自分に慣れてくれぬ身体は、シンタローの名残ばかりを強く残す。
「俺には・・・・・・あの島にそこまでの思い入れはない筈なのに」
それなのに、いつまでも引き摺り続けている。
もう別の者なのだと、云い聞かせながら無視しようとも逃げ出せない。
そう思う自分という意識ですらも、かつての男の思考をなぞるように覚えているから
長年の感覚共有がそのまま、これからの俺に影を落とす。
知りたくないことまで、目を逸らしたいことまで分からされてしまう痛さを
どうして俺が味わわなくてはならないんだ。
「歩く傍らを、夜中に温かみを、小さな気配を探すんだ・・・・。俺のものじゃない、こんな感情は」
ふとした時に、傍らを覗き手を伸ばしかける。
空回りした視界と手に寂しさを滲ませていく、いつもいつもいつも。
五感すべてに、自分にはない習慣が染み付いて離れない。
この寂しさももどかしさも辛さも、全て目の前の黒髪の男のものなのに。
「俺に、こんな思いをさせるな・・・・っ!追いかけたいんならそうすればいいだろうっ!!」
分かっている。目の前の男が何処へ行こうとも、この感覚が消えないことは。
それでも問わずにはいられない。何故、そうまでして。
「お前が此処を見捨てさえすれば・・・・それでいい筈だっ!答えろっ!!」
此処に、全てを置いていくことは出来るはずなのに。
それなのに、自分が望んだ結果だと負け惜しみではなく云いきった。
それがあの幼子との残された約束であり、自分が帰るのは此処だとさえ云う男に安堵を憶えた者は多かった。
強いてきた束縛など振り切って、彼が此処から出て行くことを誰もが止められないが故に。
そう、止められるわけがないんだ。
何でもないように行なわれる父の所業を超えるために、どれほどの精神力と時間を要したか知っている。
超えらずともせめて追いつかなければ、父の息子に相応しくないと誰よりも自分が思っていたことも。
それを宥めるように溺愛する父に反発しつつも、抗えない無力さも。
何もかも許されてしまうような愛情ではなく、自分の差異を”普通に”認めて貰いたくて泣いていた子どもが無視されていたことをも。
黒い髪と目を誉めて貰いたかったのではない。
父の子どもであることだけに甘える幼児期ならばそれだけで良かったかもしれない。
けれど、明らかに異なる色相には触れるなと他を粛清するその有り様に追い詰められもしていた。
それこそ、マジックはシンタローが異相であることだけが救いのように云っていたから尚更に。
シンタローは、マジックとは違う「けれども」父に追いつこうと訓練を積んだ。
なのにマジックは、自分とは違う「から」自分を越せると予感していた。
本人の努力よりも資質重視というように、期待される部分が違うだけで
随分と傷ついていたことは多分俺以外に誰も知りようがない。
”特別扱い”も”異質排除”と同等の扱いでしかないことに、マジックもサービスも気づこうとしなかったから。
此処の全てが悪いとは云わない。
家族を愛していたことは分かっている。
けれども、愛していた家族の中でやはり自分だけが異質であった事実はどれほどの嘆きを招いただろう。
そうしたものを分かるが故に、此処にいるその感情が度し難かった。
ましてや、初めてだったのだろう。
他人からああも先入観なしに接せられるのが。
本気を出しても勝てない幼子に、張る意地などありはしなかった。
持っていた矜持もあの島では、意味がなかったのだ。
だからいつまでも燻るように恋しがり、断続的な虚しさが消えない。
強がる裏側で、どうしようもなく求めている思いは誤魔化しようがない。
自分がこれほどまでに悩まされる痛痒に、平気な顔をして見せる男が信じられなかった。
ざぁ、と沈黙を遮るように霧状の水滴が降り注ぐ。
温室内のオートスプリンクラーの作動時刻なんだろう。
細かな水がしとどに髪を、頬を濡らしていく。
濡れそぼっていくシャツの感触に、気持ち悪さを感じつつも
互いにのそんな相手の姿を見据えたまま、動けずに。
「・・・・それでもさ、きれいなんだよ。これも」
静かに、葉にはじく水音に負けるような声量で声が返される。
顔に張り付いた髪を掻き揚げ、強い眼差しが露になる。
「それと同じで、お前から盗っちまった24年間も・・・・・・パプワたちと出会うまでの時間も、大事なんだ」
ゆっくりとこちらに近づき伸ばされた手が、髪を滴る雫を払う感触がした。
間近に迫った顔は僅かに苦笑いを交えつつも、眼差しは意思を固めたままで。
「どういう理由であれ、俺が俺として育ったのは此処なんだから」
根本的な出自が、青の長を倒すためという赤の秘石の思惑によるものだったと後から聞いていた。
知らぬ間に裏切りを重ねていたという恐ろしさ。その対象が何よりも自分に絶対的なものならば尚更で。
そしてそれすらも青のシナリオ上での絶望ならば、なんて悲劇だろうか。
「それに俺は、自分で居場所を決めたんだ」
悲劇的な出自を悔やみ過去を糾弾しても意味がないと、皆に前を向かせたのはこの男だ。
過去を踏みつけることなく本当の意味で、前を向くことを決した。
敢えて見過ごした方が楽に済むことを引き出して、諦めずに耐え抜く姿勢が。
そうした不条理を許さずに歩んでいく様がひどく人を惹きつけてしまうのだと、思わずにいられない。
「なぁ、キンタロー」
戸惑いがちに呼ぶ声。
降り注ぐ霧雨は既に止みかけていて、急に肌寒くなる。
ふるり、と反射的に震えた肩にシンタローの手が食い込む。
彼の緊張そのものを表すかのように、きつく。
「無理に俺と違うものになろうとすんな」
諌言するというよりも、助言する声音だった。
真っ直ぐ射抜く、灰色の目が真摯に訴える。
「実際ひとつだった時間は、お前のものでもあるんだ・・・・・どうしたって被っちまうんだよ、思うところは」
お前は理不尽だっつーかもだけど、と微苦笑いを加えた表情に思わず否定の言葉を上げ掛ける。
理不尽さは、確かにあった。けれど俺はそれを謝って欲しいわけじゃない。
俺はただ、お前がこんな思いをしてまで居残る理由が不可解でならなかっただけだ。
訴えるべき言葉を掛ける前に、それまで合わせていた目を外されて俯かれる。
未だ照らしていた夕陽の色ですら染まらぬ黒髪は、水を吸って重たくしな垂れていた。
「これからお前にとって大事なもんが出来たときに、きっと忘れちまうよ」
俯いたまま吐き出された言葉には、悲涼が微かに滲んでいた。
遠慮なく見せ付けられた自分の思いの残滓に刺激されたのかもしれない。
彼にとって忘れることなど出来ないであろうものを敢えて掘り起こしていたことに、今更気づく。
今更過ぎて、失態を悔やむことすら出来ない。
「悪ぃけど、それまで我慢してくれな」
上げられた顔は、僅かに強張りの解けない笑みを浮かべていた。
そんな顔をするな、と云ってやりたくなった。そうさせたのは自分であったのに。
あぁ、そうか。
この絶えない痛痒から逃れたかったのは事実だった。
けれど、叶うものがそれだけでは最早足りないのだと
願うものの中に、この男の安らかさすら含まなければ済まないのだと、ようやく理解した。
end