09. 闇の中
久々に、アイツと思いっきり、怒鳴りあうようなケンカをした。
とはいっても、電話口でのことだが。
最初は一ヵ月後に予定している作戦についての打ち合わせだったハズなのだが
そこからどう発展したものだったか、
気付けばネクラだの俺様だのどこの小学生のものかというレベルの口ゲンカになり。
テメーなんか一生ぜってー友達なんて思わねーからナ!と俺が怒鳴って。しばらくの沈黙の後。
呪ってやりますえぇぇシンタローはん~~~という半泣きのアイツの声が聞こえてきたので、
その瞬間勢いよく受話器を壁に叩きつけた。
総帥室の壁の一部が見事にへこみ、コードレスの受話器は四散して、再起不能になった。
大分頭が冷えてから、アイツの言ったことの内容自体にはまあ一理はあったかもしれない、とは思い、その晩、作戦の一部には渋々と修正を加えたのだが。
謝るつもりは、さらさらなかった。
内容の正しさとそれを告げる口調は無関係だ。その後の口ゲンカは、尚更。
***
翌朝。
起きようとしたら、たっぷり十分間、金縛りにあった。
朝食に出ていたゆで卵を割った瞬間、どろりと中身が流れ出して総帥服の膝に垂れた。生だった。なぜだか見当もつかないとコックはひたすらに頭を下げていた。
着替えて家を出ようとしたら、目の前を黒猫が横切った。(警戒用のセンサーは作動していたはずなのに)
本部正門手前の木々の枝を埋めるように、カラスが行列を作っていた。
(……なんっか……縁起悪ィような……)
そう思った瞬間、昨日の電話口から聞こえたアイツの陰気極まりない声が、頭に蘇る。
ありえねぇありえねぇと頭を振りつついつもどおり歩いていたら、総帥室に入る前の自動ドアに思いっきりぶつかった。(本当にありえねぇ)
チクショーと呟きつつ無理やりこじ開けて入ったらそこには既にキンタローと秘書たちがいて。
どうしたシンタロー、と怪訝そうな顔でキンタローが訊ねてきた。
そこのドア、ぶっ壊れてやがんじゃねーかと、痛む額を押さえながら怒鳴る。
だが、片眉を上げたキンタローに俺は普通に入れたが、と返され、さらに実践もされた。キンタローが近づくとドアはいつもどおり、スムーズに開いた。
腑に落ちない気分でそれでも執務机に座り、一時間ほどしたとき。
入り口近くの机で仕事をしていた秘書の一人が、顔面蒼白でこちらにふらふらと歩いてきた。
「……総帥」
その顔色と、ほとんど震えながらのその声に、非常に嫌な予感がする。
「……なんだ」
「昨日作成された、ベータ国侵入マップの最終データが…飛んでます。バックアップも……すべて……」
「なにィーーーーーーーーー?!!!!」
昨日の午前二時過ぎまで、目を充血させながら何重ものチェックを行ったデータが壊滅。
しばらく状況が把握できず、椅子から立ち上がることすらできなかったところ、
もうひとりの秘書が盆を手に近づいてきて、間近で思い切りけつまづき。
持ってきた熱いコーヒーを頭から浴びせかけられた。
ぽたぽたと髪から滴り落ちる黒い液体を慌てて拭きつつ謝罪を続ける秘書。
怒る以前に、呆然とした。
総帥室の足元につまづくようなものなどなにもなく、今までにこんなことは(当たり前だが)一度もない。
その後の悲惨な経過は思い出したくもないが、とにかく次から次へと続くデータの故障や部下のうっかりミス、整備万端なハズの輸送機が何故か作動しなくなるといったアクシデント。
そして合間に重なる些細な、しかし確実な不幸。
さらにそれから二日の間、降りかかる不幸の種類こそ違え、結果としてそれとほぼ同じような日々が続き。
仕事量としてはさして詰まっていたわけではないのに、三日目の朝、鏡を見た際には、目の下にはくっきりとしたクマが浮き出ていた。
―――さすがの俺も、音をあげざるをえなかった。
***
二回のコールの後、相手が出た。
「シンタローはん?」
と、何食わぬ声で前線基地にいるアイツは電話を受けた。
かけているこちらの顔色といえば、ここ数ヶ月を見返してもないくらい焦燥しきっていたに違いない。
「……アラシヤマ」
「なんでっしゃろ」
「……この前のは……俺も、ほんのちょっっっとだけ……悪かった。だからもう呪い電波は送ってくんな!!」
「へ?電波……?て、なんのことどす?」
相手の声はあくまで暢気で、その上どこか浮かれているようにも聞こえる。
本当にいつもどおりの、腹が立つほど普通のアラシヤマの声だ。
「そうそう、例の作戦、ちゃんとわての意見反映させてくれはったんどすなぁ。ありがとさんどす~」
こちらの思惑などまったく推量もせず、ここ数日のほとんど奇跡といいたいような悪夢の日々にも全く触れず。
それどころか、
「あのときシンタローはんが友達やないなんて言わはったんも、いつもの照れ隠しでっしゃろ?わかっとります、わかっとりますわ」
そんなことを呟きつつ、アラシヤマは回線の向こうでひとりうなずいているようだ。
「ああ~それにしてもシンタローはんからの電話、嬉しゅおす~~vvで、なんの用件どしたっけ?」
「…………」
その言葉に、開いた口がふさがらなくなる。
ここ数日間のアレは絶対に、自然の現象ではない。たとえ天中殺でもあれだけのことが起こり続けるわけがない。
とすれば、コイツが無意識にそういった電波を送っていた。あるいは、あの、呪いますえ~の言葉にそれだけの効力があったということで。
陰険。変態。ネクラ。妄想癖。そのくせ自信過剰で自意識過剰。
アイツの欠点など腐るほど羅列することが出来る。だがそういった認識すら、まだ甘かったのかもしれない。
自分は総帥。アイツは部下で、それも一応は直属。
そして、アイツの勝手な思い込みによれば、心友。
あれ?シンタローはん?電波悪ぅおますか?シンタローは~ん、と電話口から洩れ聞こえる声は、もうほとんど耳に入りはしない。
ただ、殴ろうが蹴飛ばそうが眼魔砲でぶっ飛ばそうが阿呆な犬かアメーバかというように離れない相手との、この先の関係を思うと。
まるで出口の見つからない闇の中にいるように、―――目の前が、真っ暗になった。
久々に、アイツと思いっきり、怒鳴りあうようなケンカをした。
とはいっても、電話口でのことだが。
最初は一ヵ月後に予定している作戦についての打ち合わせだったハズなのだが
そこからどう発展したものだったか、
気付けばネクラだの俺様だのどこの小学生のものかというレベルの口ゲンカになり。
テメーなんか一生ぜってー友達なんて思わねーからナ!と俺が怒鳴って。しばらくの沈黙の後。
呪ってやりますえぇぇシンタローはん~~~という半泣きのアイツの声が聞こえてきたので、
その瞬間勢いよく受話器を壁に叩きつけた。
総帥室の壁の一部が見事にへこみ、コードレスの受話器は四散して、再起不能になった。
大分頭が冷えてから、アイツの言ったことの内容自体にはまあ一理はあったかもしれない、とは思い、その晩、作戦の一部には渋々と修正を加えたのだが。
謝るつもりは、さらさらなかった。
内容の正しさとそれを告げる口調は無関係だ。その後の口ゲンカは、尚更。
***
翌朝。
起きようとしたら、たっぷり十分間、金縛りにあった。
朝食に出ていたゆで卵を割った瞬間、どろりと中身が流れ出して総帥服の膝に垂れた。生だった。なぜだか見当もつかないとコックはひたすらに頭を下げていた。
着替えて家を出ようとしたら、目の前を黒猫が横切った。(警戒用のセンサーは作動していたはずなのに)
本部正門手前の木々の枝を埋めるように、カラスが行列を作っていた。
(……なんっか……縁起悪ィような……)
そう思った瞬間、昨日の電話口から聞こえたアイツの陰気極まりない声が、頭に蘇る。
ありえねぇありえねぇと頭を振りつついつもどおり歩いていたら、総帥室に入る前の自動ドアに思いっきりぶつかった。(本当にありえねぇ)
チクショーと呟きつつ無理やりこじ開けて入ったらそこには既にキンタローと秘書たちがいて。
どうしたシンタロー、と怪訝そうな顔でキンタローが訊ねてきた。
そこのドア、ぶっ壊れてやがんじゃねーかと、痛む額を押さえながら怒鳴る。
だが、片眉を上げたキンタローに俺は普通に入れたが、と返され、さらに実践もされた。キンタローが近づくとドアはいつもどおり、スムーズに開いた。
腑に落ちない気分でそれでも執務机に座り、一時間ほどしたとき。
入り口近くの机で仕事をしていた秘書の一人が、顔面蒼白でこちらにふらふらと歩いてきた。
「……総帥」
その顔色と、ほとんど震えながらのその声に、非常に嫌な予感がする。
「……なんだ」
「昨日作成された、ベータ国侵入マップの最終データが…飛んでます。バックアップも……すべて……」
「なにィーーーーーーーーー?!!!!」
昨日の午前二時過ぎまで、目を充血させながら何重ものチェックを行ったデータが壊滅。
しばらく状況が把握できず、椅子から立ち上がることすらできなかったところ、
もうひとりの秘書が盆を手に近づいてきて、間近で思い切りけつまづき。
持ってきた熱いコーヒーを頭から浴びせかけられた。
ぽたぽたと髪から滴り落ちる黒い液体を慌てて拭きつつ謝罪を続ける秘書。
怒る以前に、呆然とした。
総帥室の足元につまづくようなものなどなにもなく、今までにこんなことは(当たり前だが)一度もない。
その後の悲惨な経過は思い出したくもないが、とにかく次から次へと続くデータの故障や部下のうっかりミス、整備万端なハズの輸送機が何故か作動しなくなるといったアクシデント。
そして合間に重なる些細な、しかし確実な不幸。
さらにそれから二日の間、降りかかる不幸の種類こそ違え、結果としてそれとほぼ同じような日々が続き。
仕事量としてはさして詰まっていたわけではないのに、三日目の朝、鏡を見た際には、目の下にはくっきりとしたクマが浮き出ていた。
―――さすがの俺も、音をあげざるをえなかった。
***
二回のコールの後、相手が出た。
「シンタローはん?」
と、何食わぬ声で前線基地にいるアイツは電話を受けた。
かけているこちらの顔色といえば、ここ数ヶ月を見返してもないくらい焦燥しきっていたに違いない。
「……アラシヤマ」
「なんでっしゃろ」
「……この前のは……俺も、ほんのちょっっっとだけ……悪かった。だからもう呪い電波は送ってくんな!!」
「へ?電波……?て、なんのことどす?」
相手の声はあくまで暢気で、その上どこか浮かれているようにも聞こえる。
本当にいつもどおりの、腹が立つほど普通のアラシヤマの声だ。
「そうそう、例の作戦、ちゃんとわての意見反映させてくれはったんどすなぁ。ありがとさんどす~」
こちらの思惑などまったく推量もせず、ここ数日のほとんど奇跡といいたいような悪夢の日々にも全く触れず。
それどころか、
「あのときシンタローはんが友達やないなんて言わはったんも、いつもの照れ隠しでっしゃろ?わかっとります、わかっとりますわ」
そんなことを呟きつつ、アラシヤマは回線の向こうでひとりうなずいているようだ。
「ああ~それにしてもシンタローはんからの電話、嬉しゅおす~~vvで、なんの用件どしたっけ?」
「…………」
その言葉に、開いた口がふさがらなくなる。
ここ数日間のアレは絶対に、自然の現象ではない。たとえ天中殺でもあれだけのことが起こり続けるわけがない。
とすれば、コイツが無意識にそういった電波を送っていた。あるいは、あの、呪いますえ~の言葉にそれだけの効力があったということで。
陰険。変態。ネクラ。妄想癖。そのくせ自信過剰で自意識過剰。
アイツの欠点など腐るほど羅列することが出来る。だがそういった認識すら、まだ甘かったのかもしれない。
自分は総帥。アイツは部下で、それも一応は直属。
そして、アイツの勝手な思い込みによれば、心友。
あれ?シンタローはん?電波悪ぅおますか?シンタローは~ん、と電話口から洩れ聞こえる声は、もうほとんど耳に入りはしない。
ただ、殴ろうが蹴飛ばそうが眼魔砲でぶっ飛ばそうが阿呆な犬かアメーバかというように離れない相手との、この先の関係を思うと。
まるで出口の見つからない闇の中にいるように、―――目の前が、真っ暗になった。
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08. 士官学校
(―――へ?)
いきなり手首をつかんできたその手は、暖かくて。
そして、つかまれたその手首は更に熱かったに違いない。
それは、きっと人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
相手のせいで意識した、とかそういうわけではなかったけれど。
***
壁一面と、部屋の中央を仕切るように置かれた天井まで届く木製の棚。
並ぶのは埃を被った背表紙の厚い本や、堅く蓋を閉めてある無数の瓶。壊れかけた実験器具の類。
教室一つ分の広さを持つ部屋に窓の類はなく、外の音はほとんど聞こえない。
机は二つ。一つは入り口のそばに、もうひとつは棚に仕切られた奥側に。
その奥にある机の上に備え付けられたデスクスタンドの元で、アラシヤマは棚から取り出した一冊の本を読んでいた。
明かりは小さく部屋の一隅を照らすだけで、部屋は全体として薄暗い。
だが、本を読むだけなら、それで十分だ。
膝を抱えるように机のそばに体育ずわりをしつつ、黴臭い書籍のページをめくる。
不意に、上階にある体育館から溢れるような歓声が洩れ聞こえてくる。
ここまで聞こえてくるということは、よほどの大声で騒いでいるに違いない。放課活動中のどこかが紅白戦でもやっているのだろう。
「……フフ……わては群れな何もできんような凡人どもとは違うんどすえ…!!」
と、アラシヤマが口元に笑みを、眉間にシワを浮かべつつ小声で呟いた瞬間。
「―――ほれ、ここだべ!」
心休まる一人の時間を瓦解させる胴間声とともに、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
「この前、トットリと校内探検してたとき見つけたんだっぺ」
「前の薬学の教官が使ってた準備室らしいっちゃ。ただ残っちょるモンがこげにジメジメしてるけぇ、今は使われてないんだわや」
「ここなら見つかる心配もねえべ」
「ほお、こんな部屋があったんじゃのォ」
聞き覚えのあるその声は、間違いなくあのノーテンキな同期生たちのもの。
闖入者の足音は四人分。ということは、今の声の主たちのほかに、あともう一人いるということだ。
部屋に入り込んできた四人はドアを閉め、部屋全体の電灯をつけると、入り口そばの机の周辺に腰を落ちつけたらしい。
「……けんど、本気でムカつくべ、あの教師!あの試験の内容、どう考えても生徒へのイヤガラセだべ?しかも四十点以下はレポート百枚て、ムチャクチャだべ」
「こん前、授業中にやりこめてやったん、まだ根に持ってるっちゃね…」
「あれもちいと可哀相じゃったがのぉ。じゃが、ワシもあの教師の性根はどうも好かんわ」
棚一つを挟んでだだ洩れの会話から、その話題の中心が先日期末の試験範囲を発表し、生徒のほぼ全員から(というのは、酷いエコ贔屓を受けているごく一部の生徒以外、という意味だが)大反発を食らった化学教師のことだとアラシヤマは推測する。
ガンマ団士官学校は世界有数の規模を有する団の士官候補生を育てる機関だ。教師陣も一流を揃えている。だが、それでも中には人格に多少問題がある教師も、いないとは言えない。
今話題に上っている教師は、その代表格で。アラシヤマも確かに好かない、というかほぼ誰からも好かれてはいない。
しかしだからといって、アラシヤマにはその教師に対して特に反抗する気もなかった。
そうしたことをすることすら馬鹿馬鹿しく、確かに他の教科に比べればメチャクチャな試験範囲であっても、自分が低い点数をとるとはまず思えなかったからだ。
特に息を潜めていたわけではないが代わりに出て行ってやるのもシャクで、無視や無視、と心中唱えつつ本の続きに目をやる。
だがそう思って外界からの音を遮断しようとしたとき。
「―――よし。そんじゃ、手順の最終確認するゼ」
聞こえてきたその声に、意識を無理やり引きずられた。
(な…シンタロー?!)
俺様で傍若無人で、威圧感があるというほどの低さもないくせに、何故か相手に有無を言わさぬような口調の声は、間違いなくあの総帥の息子のもので。
アラシヤマは反射的に顔を上げ、棚の向こう側の会話に耳をすませた。
復学してから三ヶ月。まだマトモな口すらきいてはいないが、それでも初対面のときの恨みを忘れたわけではない。
「警備員の巡回は午後八時、午前零時、午前三時の三回。一周約一時間……で、いーんだよな?トットリ」
「少なくともここ一週間は、そうだったわいや。宿直の教官が三人はおるけど、ほとんど自分の準備室からは出てこないっちゃ」
「寄宿舎との境の塀についてる警報はミヤギの筆で止めとく、と。ミヤギはそこで俺たちが戻ってくるまで待機な」
「了解だっぺ!」
「トットリは廊下側、コージはアイツの準備室の窓の外で見張り。その間に俺が問題用紙を見つけて写してくる。コピーは明日の朝でいいだろ」
その会話の内容を、アラシヤマは見えている片目を僅かに見開きながら盗み聞く。
どう聞いても、これは教官準備室から試験問題を盗み出すという計画の密談に他ならない。
なんちゅうことしでかそうしとるんや、あん阿呆どもは。
そう思いつつアラシヤマが更に耳をすますと、続いて、どんな緊迫した状況でもなんとなく鷹揚に聞こえる大男の声が聞こえてきた。
「じゃけんど、本当にええんかシンタロー?ヌシはこがぁなことせんでも、まず赤点はとらんじゃろう」
「―――いーんだヨ。俺もアイツ、気にくわねーし」
そう言うシンタローの声には、なぜか翳があるように感じられた。
その分声のトーンも落ちた気がして、アラシヤマはそろそろと部屋の中間を仕切る棚のほうに移動する。
「決行時間は二時……」
だが、シンタローがそう言いかけた瞬間。
アラシヤマが動いた先の木の床が、ほんの少しだけ、軋みを上げた。
「誰だッ!!」
シンタローの厳しい誰何の声が響く。
ごまかしたところでこちら側を覗き込まれたら隠れる場所もない。それに元々自分にやましい部分はないのだ。
しぶしぶ、といった様子でアラシヤマは戸棚と壁の隙間から姿を現した。
「アラシヤマ……?」
床に直接座っていた四人が絶句したように目を丸くして、出てきた少年を凝視する。
だがアラシヤマがそれに対して、人を見下した視線ではん、と笑い返してやろうと思えば。
「い、いつから、そこにいたんだっぺ……」
「これッッッぽっちも……気付かなかったっちゃ……」
「影の薄さも、ここまでくれば才能じゃのう……」
ミヤギ、トットリ、コージの三人が呆けたような声でそんなことを呟いた。
アラシヤマがふるふると拳を震わせながら顔を上げる。
「いつからも何も、最初の最初っからどすわ。元々わてがいたところにあんさんらが来たんどす!」
勢いのままそう怒鳴りつけて少し気をおさめてから、アラシヤマは、とん、と壁に片方の肩をつけた。腕組みをしてシンタローたち四人を見下ろす。
口元には陰気な笑みが浮かんでいる。
「せやけど、ええもん聞いてまいましたわ。これ、教官にバラしたら、あんさんら全員、よくて停学どすな」
「な……っ!何言うてるべ!!」
いかにも楽しげにそう言い放ったアラシヤマに、ミヤギが噛み付く。トットリも眉をひそめてその後をついだ。
「アラシヤマが何言うたところで、信じるモンなんておらんわや」
「そうどすか?赤点常習のあんさんらが急にええ点とったら、怪しまれるんは当然ちゃいます?」
「う……」
「わてはその理由を教えたるだけどす」
のうのうと、薄笑いを浮かべながら嫌味たっぷりに言う男に、場の雰囲気は一気に険悪なものになる。
一対四。ではあるが、とりわけミヤギ、トットリとアラシヤマの間に一触即発の空気が流れる。
「アラシヤマ、オメ……!」
「黙らんかったら力ずくで、いうことどすか?これやから野蛮な田舎モンは」
だが、導火線に火がつくかと思われたその瞬間、腰を浮かせかけたミヤギの胸を、隣に座っていたシンタローが軽く手の甲で叩いた。
「待てよ、ミヤギ―――それよりもっと、いい方法があるゼ」
言いながら、シンタローは立ち上がり、アラシヤマのそばにずかずかと歩み寄る。
「オイ、アラシヤマ」
立って並べば、身長はシンタローのほうがわずかに高い。それまでと目線の位置が逆転し、アラシヤマはなんとなく壁に背をつけて、身構える。
「…………なんどす?」
「てめーも、共犯だ」
「はァ?!」
唐突に、淡々と告げられたその言葉に、アラシヤマはあからさまに眉をひそめ。
それから、剣呑な目つきのまま唇の片端だけを引き上げた。
「アホらし……、なしてわてがそない犯罪の片棒担がんとあかんのどす」
「保険医が育ててる校舎裏の植物園、半径五メートル」
「?!」
シンタローが目を細めてアラシヤマを見据えつつ発した、その台詞。
後ろにいる他の三人は怪訝な顔をして首を傾げた。ただ、対面するアラシヤマの顔色だけが一気に蒼褪める。
「燃やして全部ダメにしたの、テメーだろ」
「な、なしてあんさんが、それを……」
「いい天気だったから、奥にある木の上で昼寝してたんだヨ。そしたら、なーんか俯きながら歩いてきて、表から見えないトコまで来た途端燃え出したヤツが」
シンタローの言葉が進むにつれて、アラシヤマの顔色はどんどん悪くなる。
「あ、あ、あれは不可抗力、ゆうもんで……!」
「あそこ、雑草だらけに見えたけど、すっげー貴重な薬草とか色々あったのにって高松、ボヤいてぜ」
「……!!」
「残った灰、証拠隠滅に埋めてたトコまでばっちり……」
「あああああ!!」
みなまで言わせないように、両手を上げてシンタローの言葉を遮る。
そしてゼエゼエと肩で息をしながら、アラシヤマはシンタローを思いきり睨みつけた。
「あんさん……、それ、脅迫どすえ?!」
だが、そんなアラシヤマの悪意に満ちた視線などものともせずに、シンタローは、
「お互い様、だろ」
言って、ニ、と勝ち誇ったように笑った。
しばらくの間、目を見開いたままピクリとも動かずに固まっていたアラシヤマは。
やがて何かを諦めたように深い深いため息をつくと、同時にがくりと肩を落とした。ミイラ取りがミイラにとはこういうことか、と心底から思いながら。
宿直室、そして二つ三つの小窓から洩れるかすかな光などものともせず、夜の学校は闇の中に沈み込んでいる。
夜間訓練や遅くまで続くような会議などがないことは、トットリが事前に調査済みだ。
午後九時以降のみつけられる寄宿舎と校舎の間の塀につけられたセンサー。目には見えないが、網の目のように張り巡らされた赤外線に触れれば、寄宿舎中の生徒が目を覚ますようなサイレンが響く。
だが、装置の一部分に、ミヤギが筆で「休」と書くと、手なずけられた犬のように大人しくなった。
ミヤギをそこに残し塀を乗り越えたシンタロー、トットリ、アラシヤマの三人は、夜の中でも更に暗い木陰を選び、校舎へと近づく。コージは塀を越えた地点から別ルートを回って校舎の裏側へとまわる。
夕方のうちに鍵に細工をしておいた窓の一つから、校内に侵入する。
廊下に人の気配はない。足音を忍ばせて目的の準備室に近づくのは、案外に容易だった。
トットリが針金で鍵を開け、シンタローとアラシヤマが部屋に入る。
コージもすぐに裏手からこの部屋の窓の外にたどりつくはずだ。
トットリは廊下で姿勢を低くしたまま、気配を消して注意深く辺りをうかがう。
ペンライトを手にしたシンタローとアラシヤマは、さして広いとは言えない、そして嫌味なほど整頓された部屋の中で問題用紙を探し始めた。
自宅に仕事は持ち帰らない。試験問題は一ヶ月前には完成させる。
そうした噂のある教師の、常に定規ででも書いているんではないかと思う手書き文字の問題用紙が、この部屋のどこかにしまわれているのは確かだった。
薄暗い部屋の中で手袋をはめて引き出しや棚を漁る。後に僅かな違和感も残さぬように、慎重に。
ふと冷静に己の姿を鑑みれば正にコソドロそのもので、アラシヤマは闇の中で大きく嘆息した。
そうこうしているうちに二十分が経過し。
静寂の中で、アラシヤマは半ば愚痴のような気分で、囁くような小声を出す。
「……にしても、なしてあんさんまで、こない馬鹿げたマネしとるんどす」
その呟きに、シンタローが作業を続けつつ小声で返す。
「最初にアイツらに話、持ちかけたのオレだし」
「へ?あんさん、あん教師にえらい贔屓されとるやないの。あない戯けた試験でも、いつもほとんど満点とってはるて聞きましたえ」
「……」
淡々と続けるアラシヤマの問いかけに、シンタローはしばらくの間、無言だった。
だが、なんや無視かいな、とアラシヤマが不快に思いつつ、再び作業にのみ集中しようとしたときに、
「だから、だ」
と、シンタローがぼそりと呟いた。そして、アラシヤマに背を向けたまま、短く言葉を続ける。
「……気にくわねーんだよ。ヒトの顔見て決めるような、アイツの態度」
その台詞と、それを口にしたシンタローの声音から、アラシヤマにようやく合点がいく。
(―――ああ、そういうことどすのん)
成績優秀で、人望の厚い一生徒。
それなりにまっとうな感覚を持つ大半の教師は、シンタローに対し、それ以上の特別扱いなどしない。
だが、それでも。中には、総帥の息子という肩書きに酷く怯え、媚びへつらう教師も、全くいないわけではない。
普段は軽く流し、時に利用していたようにすら見えたそれ。だが、本人にしてみれば精一杯の虚勢だったというわけか。
(まぁ、あの教師の贔屓はあからさまにも程がありますけどな……)
そう心の内で呟きつつ、アラシヤマは薄闇の中で動くシンタローの背中を一瞥する。
気に食わないことに変わりはないし、差し伸べ返した手を(たとえそれが発火寸前だったとしても)殴打で返された恨みを忘れるつもりもない。
ただ、なんや案外にガキっぽいトコもあるんやないの、と頭の片隅でちらりと思った。
探し始めて三十分ほど経った頃、目的の問題用紙がようやく見つかった。
本棚の最下段の奥深く。無数にあるファイルの中の一つに綴じられていたそれは既に完成されており、書き込まれている日付も、間違いなく次回の分だ。
シンタローが持参してきた白紙に、それを書き写し始める。
一枚分を写し終えて時計を見れば。警備員が巡回を始める午後三時まであと十五分ある。
問題用紙はあと二枚。細かく書き込まれた文字数は膨大だが、それまでには写しきれるだろう。
だが、そう思い二人が安心しかけたとき、ドアが音を立てずに開いた。その隙間から顔色を蒼くしたトットリが慌てて手招きをしている。
シンタローは作業を中止して問題用紙を元あった位置に戻してから、ドアに近づく。アラシヤマもその後を追った。
トットリが冷や汗をかきながら囁く。
「シンタロー!まずいっちゃ、警備員が……!」
「げ」
その言葉に、シンタローの顔色もまた変わった。
「なんで今夜に限って…!!」
「わ、わからんけど、とにかくあと二分もすればそこの廊下の角曲がってきそうだわや」
そのやりとりを聞きながらアラシヤマの表情が歪む。
元々気の乗らない計画ではあったが、ここまで来て全て無駄足、というのは更にシャクだ。
(チィッ……!しゃぁない、こうなったら、廊下の奥に火ぃ飛ばしてひきつけて……)
す、と手首を上げ、その温度を上げようとする。
だが、その瞬間。
「バッカ野郎、使うな!」
アラシヤマの手首をシンタローが掴み、鋭い声で制止した。
思わぬ行動に出られたアラシヤマが、黒髪の隙間から覗く目を丸くしてシンタローを見る。
「な、この期に及んで、なにゆうて……」
「火ぃ出したら、後でテメェが疑われるかもしんねーだろーが!!」
(―――へ?)
その言葉の意味するところに気付くまで数秒間、アラシヤマは呆けた顔のまま動けなかった。
――――疑われたら、困る?
むしろアラシヤマを囮にして自分たちだけ逃げ出すことくらい、簡単にやってのけるような男だと思っていたのに。
そんなアラシヤマの顔から視線を外して、シンタローは小声でそばにいる忍者に問いかける。
「写し終わんなかった分も、大体は覚えた。トットリ、コージにこのこと伝えて、鍵もう一度閉めて来るのに二分かかるか?」
「一分あれば十分だっちゃ」
「じゃあ、俺たちは先に逃げ道確保しとくから、すぐ追ってこいよ」
言って、アラシヤマの手首を離し、廊下を駆け出す。勢いに引きずられ、アラシヤマもまた走り出した。
周囲の気配を探りつつ、音を立てないように、そして出せる最大限の速度で。
***
士官学校の裏手。なんとなく校舎や校庭からは隔離されているようなこの場所にあるのは、保険医が趣味で育てているという植物園と、広大な敷地の余分を埋めるように植えられた無数の木々。
人の気配など一切しない木漏れ日の射すそこで、アラシヤマはぼんやりと一本の木にもたれかかっている。
期末の試験はすべて終了し、短い休暇に入った校内は常に比べれば嘘のように静かだ。
あの後、校舎を脱出する窓のところでトットリ、コージと合流し、中庭を突っ切り、塀の外でぼんやりとしゃがんでいたミヤギを引っ張ると、一目散に寄宿舎へと駆け抜けた。ミヤギの部屋に駆け込むと同時に、全員が深い息をつき、その場にへたり込んだ。
本人の言葉通り、シンタローはあれだけあった問題のキーワードをほとんど記憶しており。
全員が一息置いて水を飲んでからすぐ、二枚の白紙にシンタローはそれを書き出して、既に埋まっていた一枚分とともに翌朝四人分のコピーをとった。
完全とは言えないまでもその問題文は、かなりのところまで正確だった。常に赤点かギリギリのミヤギ、トットリ、コージの三人もそれなりの点数を取り、百枚のレポートから逃れ。
特にその三人をターゲットとしていた教官は脅しが効きすぎたか、と臍をかんだらしい。
いわゆる、大成功の末のハッピーエンド、というやつだ。
あの夜のことが教師たちに露見した様子もなく、日々はたいした変化もなく流れている。
空は綺麗に晴れており、陽光は穏やかに暖かい。所狭しと伸びている枝々が織り成す影が、他の草むらと同様にアラシヤマの上にも幾何学的な模様を描き出している。
太い木の幹に背を預けたまま、アラシヤマはぼんやりとあの夜のシンタローの振る舞いを思い出す。
気に食わない相手だ。いつだって自分がトップで、それが当然という顔をして。
よく大口を開けて見ているこっちが腹が立つようなバカ笑いもしているし、唯我独尊の俺様のくせに取り巻きたちからは何故か慕われていて。
総帥の息子という立場すら利用して、好き勝手しているように見えた。
初対面のときにあれだけの仕打ちをしておきながら、アラシヤマの復学後、一言も謝ってこなかったし。
こちらから近づきもしなかったが、それでもいつも、アラシヤマのことなどまったく眼中にもないような、どれほど踏みつけにしたところで気にもならない。そんな態度をとってきた―――それなのに。
(バッカ野郎、使うな!)
(後でテメェが疑われるかも―――)
あの言葉は、きっと、アラシヤマが疑われれば自分たちも芋づる式に見つかるかもしれないと、そう考えただけの話だろう。
―――たとえあのときのシンタローの目が、どれだけ真剣で、真っ直ぐなものに見えたとしても。
「ホンマ、気に食わん……」
呟きながら、アラシヤマはあの時シンタローにつかまれた左の手首を見る。
制服の袖から覗くその手首には、まだ、シンタローの手の暖かさ、奇妙な温度が残っているような気がした。
それは、人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
相手があの男だったから、とかそういうことではない、とアラシヤマは思う。
多分、きっと。
絶対に。
FIN.
============================================
思えば士官学校時代書くの初めてでした。
男の子はムズカシイですでも好き。
ツッコミどころ満載なのはどうかスルーの方向で…!(拝
(―――へ?)
いきなり手首をつかんできたその手は、暖かくて。
そして、つかまれたその手首は更に熱かったに違いない。
それは、きっと人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
相手のせいで意識した、とかそういうわけではなかったけれど。
***
壁一面と、部屋の中央を仕切るように置かれた天井まで届く木製の棚。
並ぶのは埃を被った背表紙の厚い本や、堅く蓋を閉めてある無数の瓶。壊れかけた実験器具の類。
教室一つ分の広さを持つ部屋に窓の類はなく、外の音はほとんど聞こえない。
机は二つ。一つは入り口のそばに、もうひとつは棚に仕切られた奥側に。
その奥にある机の上に備え付けられたデスクスタンドの元で、アラシヤマは棚から取り出した一冊の本を読んでいた。
明かりは小さく部屋の一隅を照らすだけで、部屋は全体として薄暗い。
だが、本を読むだけなら、それで十分だ。
膝を抱えるように机のそばに体育ずわりをしつつ、黴臭い書籍のページをめくる。
不意に、上階にある体育館から溢れるような歓声が洩れ聞こえてくる。
ここまで聞こえてくるということは、よほどの大声で騒いでいるに違いない。放課活動中のどこかが紅白戦でもやっているのだろう。
「……フフ……わては群れな何もできんような凡人どもとは違うんどすえ…!!」
と、アラシヤマが口元に笑みを、眉間にシワを浮かべつつ小声で呟いた瞬間。
「―――ほれ、ここだべ!」
心休まる一人の時間を瓦解させる胴間声とともに、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
「この前、トットリと校内探検してたとき見つけたんだっぺ」
「前の薬学の教官が使ってた準備室らしいっちゃ。ただ残っちょるモンがこげにジメジメしてるけぇ、今は使われてないんだわや」
「ここなら見つかる心配もねえべ」
「ほお、こんな部屋があったんじゃのォ」
聞き覚えのあるその声は、間違いなくあのノーテンキな同期生たちのもの。
闖入者の足音は四人分。ということは、今の声の主たちのほかに、あともう一人いるということだ。
部屋に入り込んできた四人はドアを閉め、部屋全体の電灯をつけると、入り口そばの机の周辺に腰を落ちつけたらしい。
「……けんど、本気でムカつくべ、あの教師!あの試験の内容、どう考えても生徒へのイヤガラセだべ?しかも四十点以下はレポート百枚て、ムチャクチャだべ」
「こん前、授業中にやりこめてやったん、まだ根に持ってるっちゃね…」
「あれもちいと可哀相じゃったがのぉ。じゃが、ワシもあの教師の性根はどうも好かんわ」
棚一つを挟んでだだ洩れの会話から、その話題の中心が先日期末の試験範囲を発表し、生徒のほぼ全員から(というのは、酷いエコ贔屓を受けているごく一部の生徒以外、という意味だが)大反発を食らった化学教師のことだとアラシヤマは推測する。
ガンマ団士官学校は世界有数の規模を有する団の士官候補生を育てる機関だ。教師陣も一流を揃えている。だが、それでも中には人格に多少問題がある教師も、いないとは言えない。
今話題に上っている教師は、その代表格で。アラシヤマも確かに好かない、というかほぼ誰からも好かれてはいない。
しかしだからといって、アラシヤマにはその教師に対して特に反抗する気もなかった。
そうしたことをすることすら馬鹿馬鹿しく、確かに他の教科に比べればメチャクチャな試験範囲であっても、自分が低い点数をとるとはまず思えなかったからだ。
特に息を潜めていたわけではないが代わりに出て行ってやるのもシャクで、無視や無視、と心中唱えつつ本の続きに目をやる。
だがそう思って外界からの音を遮断しようとしたとき。
「―――よし。そんじゃ、手順の最終確認するゼ」
聞こえてきたその声に、意識を無理やり引きずられた。
(な…シンタロー?!)
俺様で傍若無人で、威圧感があるというほどの低さもないくせに、何故か相手に有無を言わさぬような口調の声は、間違いなくあの総帥の息子のもので。
アラシヤマは反射的に顔を上げ、棚の向こう側の会話に耳をすませた。
復学してから三ヶ月。まだマトモな口すらきいてはいないが、それでも初対面のときの恨みを忘れたわけではない。
「警備員の巡回は午後八時、午前零時、午前三時の三回。一周約一時間……で、いーんだよな?トットリ」
「少なくともここ一週間は、そうだったわいや。宿直の教官が三人はおるけど、ほとんど自分の準備室からは出てこないっちゃ」
「寄宿舎との境の塀についてる警報はミヤギの筆で止めとく、と。ミヤギはそこで俺たちが戻ってくるまで待機な」
「了解だっぺ!」
「トットリは廊下側、コージはアイツの準備室の窓の外で見張り。その間に俺が問題用紙を見つけて写してくる。コピーは明日の朝でいいだろ」
その会話の内容を、アラシヤマは見えている片目を僅かに見開きながら盗み聞く。
どう聞いても、これは教官準備室から試験問題を盗み出すという計画の密談に他ならない。
なんちゅうことしでかそうしとるんや、あん阿呆どもは。
そう思いつつアラシヤマが更に耳をすますと、続いて、どんな緊迫した状況でもなんとなく鷹揚に聞こえる大男の声が聞こえてきた。
「じゃけんど、本当にええんかシンタロー?ヌシはこがぁなことせんでも、まず赤点はとらんじゃろう」
「―――いーんだヨ。俺もアイツ、気にくわねーし」
そう言うシンタローの声には、なぜか翳があるように感じられた。
その分声のトーンも落ちた気がして、アラシヤマはそろそろと部屋の中間を仕切る棚のほうに移動する。
「決行時間は二時……」
だが、シンタローがそう言いかけた瞬間。
アラシヤマが動いた先の木の床が、ほんの少しだけ、軋みを上げた。
「誰だッ!!」
シンタローの厳しい誰何の声が響く。
ごまかしたところでこちら側を覗き込まれたら隠れる場所もない。それに元々自分にやましい部分はないのだ。
しぶしぶ、といった様子でアラシヤマは戸棚と壁の隙間から姿を現した。
「アラシヤマ……?」
床に直接座っていた四人が絶句したように目を丸くして、出てきた少年を凝視する。
だがアラシヤマがそれに対して、人を見下した視線ではん、と笑い返してやろうと思えば。
「い、いつから、そこにいたんだっぺ……」
「これッッッぽっちも……気付かなかったっちゃ……」
「影の薄さも、ここまでくれば才能じゃのう……」
ミヤギ、トットリ、コージの三人が呆けたような声でそんなことを呟いた。
アラシヤマがふるふると拳を震わせながら顔を上げる。
「いつからも何も、最初の最初っからどすわ。元々わてがいたところにあんさんらが来たんどす!」
勢いのままそう怒鳴りつけて少し気をおさめてから、アラシヤマは、とん、と壁に片方の肩をつけた。腕組みをしてシンタローたち四人を見下ろす。
口元には陰気な笑みが浮かんでいる。
「せやけど、ええもん聞いてまいましたわ。これ、教官にバラしたら、あんさんら全員、よくて停学どすな」
「な……っ!何言うてるべ!!」
いかにも楽しげにそう言い放ったアラシヤマに、ミヤギが噛み付く。トットリも眉をひそめてその後をついだ。
「アラシヤマが何言うたところで、信じるモンなんておらんわや」
「そうどすか?赤点常習のあんさんらが急にええ点とったら、怪しまれるんは当然ちゃいます?」
「う……」
「わてはその理由を教えたるだけどす」
のうのうと、薄笑いを浮かべながら嫌味たっぷりに言う男に、場の雰囲気は一気に険悪なものになる。
一対四。ではあるが、とりわけミヤギ、トットリとアラシヤマの間に一触即発の空気が流れる。
「アラシヤマ、オメ……!」
「黙らんかったら力ずくで、いうことどすか?これやから野蛮な田舎モンは」
だが、導火線に火がつくかと思われたその瞬間、腰を浮かせかけたミヤギの胸を、隣に座っていたシンタローが軽く手の甲で叩いた。
「待てよ、ミヤギ―――それよりもっと、いい方法があるゼ」
言いながら、シンタローは立ち上がり、アラシヤマのそばにずかずかと歩み寄る。
「オイ、アラシヤマ」
立って並べば、身長はシンタローのほうがわずかに高い。それまでと目線の位置が逆転し、アラシヤマはなんとなく壁に背をつけて、身構える。
「…………なんどす?」
「てめーも、共犯だ」
「はァ?!」
唐突に、淡々と告げられたその言葉に、アラシヤマはあからさまに眉をひそめ。
それから、剣呑な目つきのまま唇の片端だけを引き上げた。
「アホらし……、なしてわてがそない犯罪の片棒担がんとあかんのどす」
「保険医が育ててる校舎裏の植物園、半径五メートル」
「?!」
シンタローが目を細めてアラシヤマを見据えつつ発した、その台詞。
後ろにいる他の三人は怪訝な顔をして首を傾げた。ただ、対面するアラシヤマの顔色だけが一気に蒼褪める。
「燃やして全部ダメにしたの、テメーだろ」
「な、なしてあんさんが、それを……」
「いい天気だったから、奥にある木の上で昼寝してたんだヨ。そしたら、なーんか俯きながら歩いてきて、表から見えないトコまで来た途端燃え出したヤツが」
シンタローの言葉が進むにつれて、アラシヤマの顔色はどんどん悪くなる。
「あ、あ、あれは不可抗力、ゆうもんで……!」
「あそこ、雑草だらけに見えたけど、すっげー貴重な薬草とか色々あったのにって高松、ボヤいてぜ」
「……!!」
「残った灰、証拠隠滅に埋めてたトコまでばっちり……」
「あああああ!!」
みなまで言わせないように、両手を上げてシンタローの言葉を遮る。
そしてゼエゼエと肩で息をしながら、アラシヤマはシンタローを思いきり睨みつけた。
「あんさん……、それ、脅迫どすえ?!」
だが、そんなアラシヤマの悪意に満ちた視線などものともせずに、シンタローは、
「お互い様、だろ」
言って、ニ、と勝ち誇ったように笑った。
しばらくの間、目を見開いたままピクリとも動かずに固まっていたアラシヤマは。
やがて何かを諦めたように深い深いため息をつくと、同時にがくりと肩を落とした。ミイラ取りがミイラにとはこういうことか、と心底から思いながら。
宿直室、そして二つ三つの小窓から洩れるかすかな光などものともせず、夜の学校は闇の中に沈み込んでいる。
夜間訓練や遅くまで続くような会議などがないことは、トットリが事前に調査済みだ。
午後九時以降のみつけられる寄宿舎と校舎の間の塀につけられたセンサー。目には見えないが、網の目のように張り巡らされた赤外線に触れれば、寄宿舎中の生徒が目を覚ますようなサイレンが響く。
だが、装置の一部分に、ミヤギが筆で「休」と書くと、手なずけられた犬のように大人しくなった。
ミヤギをそこに残し塀を乗り越えたシンタロー、トットリ、アラシヤマの三人は、夜の中でも更に暗い木陰を選び、校舎へと近づく。コージは塀を越えた地点から別ルートを回って校舎の裏側へとまわる。
夕方のうちに鍵に細工をしておいた窓の一つから、校内に侵入する。
廊下に人の気配はない。足音を忍ばせて目的の準備室に近づくのは、案外に容易だった。
トットリが針金で鍵を開け、シンタローとアラシヤマが部屋に入る。
コージもすぐに裏手からこの部屋の窓の外にたどりつくはずだ。
トットリは廊下で姿勢を低くしたまま、気配を消して注意深く辺りをうかがう。
ペンライトを手にしたシンタローとアラシヤマは、さして広いとは言えない、そして嫌味なほど整頓された部屋の中で問題用紙を探し始めた。
自宅に仕事は持ち帰らない。試験問題は一ヶ月前には完成させる。
そうした噂のある教師の、常に定規ででも書いているんではないかと思う手書き文字の問題用紙が、この部屋のどこかにしまわれているのは確かだった。
薄暗い部屋の中で手袋をはめて引き出しや棚を漁る。後に僅かな違和感も残さぬように、慎重に。
ふと冷静に己の姿を鑑みれば正にコソドロそのもので、アラシヤマは闇の中で大きく嘆息した。
そうこうしているうちに二十分が経過し。
静寂の中で、アラシヤマは半ば愚痴のような気分で、囁くような小声を出す。
「……にしても、なしてあんさんまで、こない馬鹿げたマネしとるんどす」
その呟きに、シンタローが作業を続けつつ小声で返す。
「最初にアイツらに話、持ちかけたのオレだし」
「へ?あんさん、あん教師にえらい贔屓されとるやないの。あない戯けた試験でも、いつもほとんど満点とってはるて聞きましたえ」
「……」
淡々と続けるアラシヤマの問いかけに、シンタローはしばらくの間、無言だった。
だが、なんや無視かいな、とアラシヤマが不快に思いつつ、再び作業にのみ集中しようとしたときに、
「だから、だ」
と、シンタローがぼそりと呟いた。そして、アラシヤマに背を向けたまま、短く言葉を続ける。
「……気にくわねーんだよ。ヒトの顔見て決めるような、アイツの態度」
その台詞と、それを口にしたシンタローの声音から、アラシヤマにようやく合点がいく。
(―――ああ、そういうことどすのん)
成績優秀で、人望の厚い一生徒。
それなりにまっとうな感覚を持つ大半の教師は、シンタローに対し、それ以上の特別扱いなどしない。
だが、それでも。中には、総帥の息子という肩書きに酷く怯え、媚びへつらう教師も、全くいないわけではない。
普段は軽く流し、時に利用していたようにすら見えたそれ。だが、本人にしてみれば精一杯の虚勢だったというわけか。
(まぁ、あの教師の贔屓はあからさまにも程がありますけどな……)
そう心の内で呟きつつ、アラシヤマは薄闇の中で動くシンタローの背中を一瞥する。
気に食わないことに変わりはないし、差し伸べ返した手を(たとえそれが発火寸前だったとしても)殴打で返された恨みを忘れるつもりもない。
ただ、なんや案外にガキっぽいトコもあるんやないの、と頭の片隅でちらりと思った。
探し始めて三十分ほど経った頃、目的の問題用紙がようやく見つかった。
本棚の最下段の奥深く。無数にあるファイルの中の一つに綴じられていたそれは既に完成されており、書き込まれている日付も、間違いなく次回の分だ。
シンタローが持参してきた白紙に、それを書き写し始める。
一枚分を写し終えて時計を見れば。警備員が巡回を始める午後三時まであと十五分ある。
問題用紙はあと二枚。細かく書き込まれた文字数は膨大だが、それまでには写しきれるだろう。
だが、そう思い二人が安心しかけたとき、ドアが音を立てずに開いた。その隙間から顔色を蒼くしたトットリが慌てて手招きをしている。
シンタローは作業を中止して問題用紙を元あった位置に戻してから、ドアに近づく。アラシヤマもその後を追った。
トットリが冷や汗をかきながら囁く。
「シンタロー!まずいっちゃ、警備員が……!」
「げ」
その言葉に、シンタローの顔色もまた変わった。
「なんで今夜に限って…!!」
「わ、わからんけど、とにかくあと二分もすればそこの廊下の角曲がってきそうだわや」
そのやりとりを聞きながらアラシヤマの表情が歪む。
元々気の乗らない計画ではあったが、ここまで来て全て無駄足、というのは更にシャクだ。
(チィッ……!しゃぁない、こうなったら、廊下の奥に火ぃ飛ばしてひきつけて……)
す、と手首を上げ、その温度を上げようとする。
だが、その瞬間。
「バッカ野郎、使うな!」
アラシヤマの手首をシンタローが掴み、鋭い声で制止した。
思わぬ行動に出られたアラシヤマが、黒髪の隙間から覗く目を丸くしてシンタローを見る。
「な、この期に及んで、なにゆうて……」
「火ぃ出したら、後でテメェが疑われるかもしんねーだろーが!!」
(―――へ?)
その言葉の意味するところに気付くまで数秒間、アラシヤマは呆けた顔のまま動けなかった。
――――疑われたら、困る?
むしろアラシヤマを囮にして自分たちだけ逃げ出すことくらい、簡単にやってのけるような男だと思っていたのに。
そんなアラシヤマの顔から視線を外して、シンタローは小声でそばにいる忍者に問いかける。
「写し終わんなかった分も、大体は覚えた。トットリ、コージにこのこと伝えて、鍵もう一度閉めて来るのに二分かかるか?」
「一分あれば十分だっちゃ」
「じゃあ、俺たちは先に逃げ道確保しとくから、すぐ追ってこいよ」
言って、アラシヤマの手首を離し、廊下を駆け出す。勢いに引きずられ、アラシヤマもまた走り出した。
周囲の気配を探りつつ、音を立てないように、そして出せる最大限の速度で。
***
士官学校の裏手。なんとなく校舎や校庭からは隔離されているようなこの場所にあるのは、保険医が趣味で育てているという植物園と、広大な敷地の余分を埋めるように植えられた無数の木々。
人の気配など一切しない木漏れ日の射すそこで、アラシヤマはぼんやりと一本の木にもたれかかっている。
期末の試験はすべて終了し、短い休暇に入った校内は常に比べれば嘘のように静かだ。
あの後、校舎を脱出する窓のところでトットリ、コージと合流し、中庭を突っ切り、塀の外でぼんやりとしゃがんでいたミヤギを引っ張ると、一目散に寄宿舎へと駆け抜けた。ミヤギの部屋に駆け込むと同時に、全員が深い息をつき、その場にへたり込んだ。
本人の言葉通り、シンタローはあれだけあった問題のキーワードをほとんど記憶しており。
全員が一息置いて水を飲んでからすぐ、二枚の白紙にシンタローはそれを書き出して、既に埋まっていた一枚分とともに翌朝四人分のコピーをとった。
完全とは言えないまでもその問題文は、かなりのところまで正確だった。常に赤点かギリギリのミヤギ、トットリ、コージの三人もそれなりの点数を取り、百枚のレポートから逃れ。
特にその三人をターゲットとしていた教官は脅しが効きすぎたか、と臍をかんだらしい。
いわゆる、大成功の末のハッピーエンド、というやつだ。
あの夜のことが教師たちに露見した様子もなく、日々はたいした変化もなく流れている。
空は綺麗に晴れており、陽光は穏やかに暖かい。所狭しと伸びている枝々が織り成す影が、他の草むらと同様にアラシヤマの上にも幾何学的な模様を描き出している。
太い木の幹に背を預けたまま、アラシヤマはぼんやりとあの夜のシンタローの振る舞いを思い出す。
気に食わない相手だ。いつだって自分がトップで、それが当然という顔をして。
よく大口を開けて見ているこっちが腹が立つようなバカ笑いもしているし、唯我独尊の俺様のくせに取り巻きたちからは何故か慕われていて。
総帥の息子という立場すら利用して、好き勝手しているように見えた。
初対面のときにあれだけの仕打ちをしておきながら、アラシヤマの復学後、一言も謝ってこなかったし。
こちらから近づきもしなかったが、それでもいつも、アラシヤマのことなどまったく眼中にもないような、どれほど踏みつけにしたところで気にもならない。そんな態度をとってきた―――それなのに。
(バッカ野郎、使うな!)
(後でテメェが疑われるかも―――)
あの言葉は、きっと、アラシヤマが疑われれば自分たちも芋づる式に見つかるかもしれないと、そう考えただけの話だろう。
―――たとえあのときのシンタローの目が、どれだけ真剣で、真っ直ぐなものに見えたとしても。
「ホンマ、気に食わん……」
呟きながら、アラシヤマはあの時シンタローにつかまれた左の手首を見る。
制服の袖から覗くその手首には、まだ、シンタローの手の暖かさ、奇妙な温度が残っているような気がした。
それは、人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
相手があの男だったから、とかそういうことではない、とアラシヤマは思う。
多分、きっと。
絶対に。
FIN.
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思えば士官学校時代書くの初めてでした。
男の子はムズカシイですでも好き。
ツッコミどころ満載なのはどうかスルーの方向で…!(拝
07. 密会
他の全ての音をなぎ払うかのようなヘリのプロペラ音を遮るために、船尾側の耳を、耳当ての上から片手で覆う。
三十秒前に、高度を約六百メートルまで落とさせた。この高度で敵の監視線を免れることができるのは、あと二分程度だ。前線の工作兵に電気系統を破壊させた敵拠点の、予備電源が作動するまでの三分間。
眼下の闇には低木のブッシュが広がっている。
コックピットの右側に居る機長補佐がヘッドホンをずらしながら振り向いた。
「シンタロー総帥、地上より最終の通信が入りました。予定通り二十分後に地点Bに到達されるそうです」
「―――了解」
答えて、ゴーグルを下ろす。ついでにギュ、とグローブを嵌め直した。
ロックを外し、外への扉をスライドさせると、突風が機内に入り込み、久しぶりに一つに括った髪を容赦なくなぶる。
背筋がゾクリとして、なんとはなしに笑みが浮かんだ。
艦の中から部下を指揮するのとはまた一味違う、この高揚感。
「んじゃ二日後。あっちで迎え、頼んだゼ」
軽く手を振りながら、そう告げて。
操縦席から返された略式の敬礼を視界の隅に認めた後、風の中に飛び降りた。
『 サラウンド 』
ほぼ目標どおりの地点、高くて五メートル程度の木々の枝を折りながら、地上に降りる。再利用のできそうにないパラシュートは所々をナイフで切りながらすぐに外し、手早く畳んで近くにあった窪みに放り込んだ。
少しだけ移動をしてたどり着いたミーティングポイントで腕時計を見れば、降下前の報告から十八分が経過している。
ヤツが設定してきた時刻まであと二分。ならそろそろかと思い始めた頃、背後に形容しがたい悪寒を感じ取り、本能的に振り返った。
「し、シンタローはぁぁんvvあんさんのアラシヤマが来ましたえ~~」
果たして、獣並みのささやかな足音で、しかし背後に花柄の妖気を漂わせながら現れたのは、こんな戦場にあってもまだ片目を隠し続ける黒髪の男。
その姿と声に条件反射のように眼魔砲を放ちそうになるが、一応はまだ敵地にいるのだということを思い出し。せめて一秒たりとも視線を合わさず、顔をこれ以上は無理というくらいまで背けることで精一杯の意思表示をした。
「まさかこないなとこでホンマにシンタローはんに会えるだなんて……やっぱり運命のお導きでっしゃろか」
顔の前で両手を組み、しなを作りながら男はにじり寄ってくる。それでも目を合わさないようにその姿を一瞥すれば、戦闘服のあちこちに擦過の汚れや煤がついているのが、剣呑と言えば剣呑だった。
ここにたどり着くまでにもそれなりの戦闘はこなしてきているはずなのに。そんな気配など微塵も感じさせない男の様子に呆れながら、片手を出す。
「信憑性ゼロの御託はいーから、例の、さっさと寄越せヨ」
「まーたテレはってぇvそないに急がんでも、近くに邪魔になりそうな人間はもうおりまへんえ」
「周辺環境がどうこうじゃなく俺自身の精神衛生上の問題だ」
何の誇張もなくそう言い放ってやると、アラシヤマは少しだけ眉尻を下げながら、それでも懐から二つのものを取り出した。小さく畳まれた白い紙と、プラスチック製の指の関節二つ分ほどのサイズの小さなサンプルケース。 開いた手の上にそれらが落とされる。
ケースの方はすぐに腰のポーチに入れて、紙片はその場で一度開いて確認する。
中には現在交戦中のζ国の最新兵器のデータが手書きの暗号文字でびっしりと書き込まれていた。確かに、前線に調査を依頼していたもの二つを、目の前の男は嫌味なほど見事にそろえてきたようだ。
「……ン、これなら後は本部の開発課廻して解析させりゃ何とかなるか。ごくろーさん」
「心友のためやったら、このくらいなんでもあらへんどすえvせやけど……シンタローはん」
「まだ、何かあんのか?」
紙片と同時に受け取った透明な液体は、最近この近辺の水場に流されていると思しき毒の一種だった。新型の兵器と新型の毒。この上更に厄介な何かがあるのかと、無意識に出した煙草を咥えながら、目つきを鋭くしてアラシヤマを見る。
だが、ヤツは顔の前で両手の人差し指をもじもじと合わせたかと思うと、(本人としては自然な笑顔のつもりなんだろうが)禍々しく笑って、言った。
「……こないムード満点な夜更けに森の中二人っきりて、なんやこう……デェトみたいやと思いまへん?」
「これっぽっちも思わねーな。火」
表情も変えずに一蹴すると、アラシヤマは片手で涙を拭うような素振りをしながら、もう片方の手を前に差し出した。
紙巻を咥えたまま軽く顎を突き出すと、小さな音と共に先端に小さな灯りが点る。亜温帯の森の中に漂う煙は、辺りの湿気のせいかいつもより若干甘いような気もした。
「わても一本、お相伴してよろしゅおすか?」
「……めずらしーナ。いいけどよ」
「あんさんが美味しそうに喫わはるもんで」
胸元から箱を取り出し、ふたを開けてアラシヤマのほうに向けると、おおきに、と言いながら一本を取った。
しばらく二人で近くの木に凭れかかりながら、紫煙を燻らす。
込み入った枝々の間から見えるのは満天の星空。お互いが動かなければ幽かな風の音しか聴こえはしない。
ふ、と天に向かって細く煙を吐き出しながら、アラシヤマが呟いた。
「この後は、もうすぐに隣国に向かわはるんどしたな」
「ああ。そこの支部にコレ預けてから、首都でもうひと工作だな」
「大丈夫どすか?この近くを巡回しとる雑魚は片しておきましたけど、そんでも国境までの間に配置されとる警備兵の数は多分、一桁や済みまへんで」
「誰に向かって言ってんだ?」
眉宇に若干の心配を漂わせながら言う男に、睨みつけるような気分で笑ってみせる。
「ガンマ団ナンバーワンの看板は、まだ下ろしたつもり、ねーんだけど」
「……そら、えろう失礼いたしましたわ」
アラシヤマは軽く肩を竦めて目線だけで空を見上げる。だがすぐに、片手を口元に持っていったかと思うと、人差し指で空中に「の」の字を書き出した。
「ま、なんにしても、あんさんの顔が見られたんは、わてにとっては僥倖どすな……ホンマはあんまり危険な真似して欲しゅうはないんどすけど」
「仕方ねーだろ。他に任せられそうなヤツがいなかったんだから」
短くなってきた煙草に片目を細めながら、つまらなそうにそう告げる。
それこそが、危ないだの何も総帥自身がだの散々うるさく言われながらも、自分が出張った一番の理由なのだ。アラシヤマが担当している地域の、兵器はともかく毒の解析は一刻を争う急務だった。被害は戦地のみならずその隣接する地域にまで広がっていたので。
だがその言葉を聞いたアラシヤマは、口元で笑みを象りながら嘆息した。
「つい先日にも、本部で大量リストラしはったばっかどすしなぁ。当面は人手不足も深刻どすわ」
「皮肉か?それ。つーか何で長期遠征中のオマエが知ってんだよ」
「ゆうべ本部に連絡しましたときに、某秘書はんにちょこっと」
「……」
「ちなみに皮肉やあらしまへんで。むしろ褒めとります」
淡々と言うアラシヤマのその態度に、知らず舌打ちが漏れた。おそらくチョコレートロマンス辺りが妙な気を廻したか、或いは廻さないまでもアラシヤマの誘導尋問に負けたに違いない。
帰ったら犯人特定して減俸モンだと内心で憤るが、今の時点ではどうしようもなかった。
いつの間にか煙草を喫い終えたらしきアラシヤマは、腕組をして中空を眺めながら言葉を繋ぐ。
「旧体制にどっぷり浸かりきって戻れへん人たち、無理に動かそうとしても早晩破綻がきますやろ。下手に足止めせんと、今のうちに首切りしたんは正解やったと思いますえ。元ガンマ団いう肩書きがあれば、どの組織行っても邪険にはされへんでっしゃろしな」
アラシヤマの声には色がない。それで、きっとこいつはその背景まで全部聞いたに違いないと半ば確信に近く思った。
五日前に行った団員の一斉処分。団の体面を慮って、表立った処分としては解雇。だが実体は集団離反に過ぎない。自分はそれを抑えることが出来なかった。
あの日、百年前であれば正しく直訴と呼びたいような団結の取れた行動で、総帥室に現れたのは、これまで前線で活躍してきた戦闘員達で。
どう考えても、新体制にはついていけない。最後通牒のようにそう冷たい瞳で言い放った古参団員達に対して、出来たことといえば、同程度の温度の視線で、ならもうここに居場所はない、と告げることだけだった。
反対派の襲撃などこれまでにも幾度かあったし、転換の度合いが度合いだ。どうしたって同じ道を歩めない人間が居るのはもう十分に知っている。
それでもやはり、自分では信頼を得られなかったと。そう目に見える形で宣告されるのは、たとえそれが何度目であっても、気軽に受け止められることではなかったけれど。
そんなことを思い少しぼんやりとしていると、アラシヤマが不意に呼びかけてきた。
「なぁ、シンタローはん」
「……ンだよ」
ぼうっとしていたことになんとなくバツの悪い思いをしたこともあって、フィルターの間際まで灰が来ている煙草を背後の木に押し付けながら、いつも以上に邪険に返す。だがアラシヤマは、そんな棘のある声など全く気にしていないかのような態度で、腕組をしたまま、薄く笑った。
「知ってます?あんさん一人食べさせるくらいの甲斐性なら、わてにもあるんどすえ」
「はァ?」
唐突に、意味不明のプロポーズめいたことを言われて、意識したものではなく自然に顔が歪む。だがこちらの思惑など意に介さないまま、アラシヤマは滔々と言葉を続ける。
「ミヤギはん、トットリはんやコージはんが一緒になれば、仕事人稼業くらいはどこでもやってけます。ウィローはんや津軽はん、どん太はんらも加われば世界規模でできますな」
まるで将来の夢を語る子供のような他愛のなさで。
やや遠くを見るように片目を細めながら言うその声は、むしろ楽しそうだ。
「その上あんさんにはグンマはんやらキンタローやらいつまで経っても子離れできそうにない親父やら、過保護な家族が仰山いはるんどすから、色々背負うもん多くて、大変どすなぁ」
そして、ヤツはニ、と笑った。
―――そこまで聞いてようやく一連の台詞の意図するところに気づき、こっちも苦笑せざるをえなくなる。
「いざとなったら家庭内手工業か?」
「悪ぅないどすな、産業革命以前の趣(おもむき)っちゅうのも」
「バーカ」
言いながら、裏拳でヤツの額をはたく。そして、あだっ、と悲鳴を上げてのけぞった男から顔を背けた。何故か笑いの洩れる口元が見えないように。
似合わない気の遣い方をした男に対してか、そうさせた自分への自嘲か。その笑いの正体がどういったものかはわからない。だが、男の言うあまりに荒唐無稽で阿呆らしい未来図が、本当にそう悪くはないような気も、してしまった。それが現実となる可能性など皆無だとしても。
隣で額を押さえている男の顔を、横目で見る。
他に適任者が居なかったから。自分が任務に就くのが一番確実だから。どれ一つとして嘘ではいないし、こじ付けでもない。
それでも。久しぶりに単独任務に出てきたのは、結局のところ。
少し体だけを思い切り動かしたくなった、という理由のほかにも、この馬鹿の顔が見たかったからかもしれない、なんて、そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
「……んな、弱ってる場合じゃねーよな」
「え、なんどすって……?」
のんきな顔で聞き返してきた男の襟元を思いっきり引っ張って。
何か言いかけたその唇に、キスを一つ。
いつも喫っている煙草の味が、ほんの少しだけ舌に触った。
不意打ちを食らった根暗男は、唇を合わしている間じゅう、目を丸くして固まっており。
「―――『オツカイ』のご褒美だ。ありがたく受け取りやがれ」
呼吸を解放してそう告げた後も、顔を赤くした間抜け面のままだった。
コンチクショウという気分と同時に、ざまぁみろと思って、さっさと踵を返す。つられてこっちまで赤面するのは真っ平だ。
地上に着いた時ほぼ中天にあった月は今はやや西のほうへと傾き始めている。
いつもより近くに感じるそれを木々の合間にちらりと見てから、そのまま振り向かず、国境へと続く山道を歩み始めた。
背後でまだ動けずにいるらしいアラシヤマの、「ボーンチャイナ注文しとかへんと……」といううわ言のような呟きは、あえて聞かなかったことにした。
了
=================================================================
シンタロー総帥就任から少し経ったくらいの時期設定で。
「現時点で」書ける最大限に甘いシンタロさんかもしれません。
他の全ての音をなぎ払うかのようなヘリのプロペラ音を遮るために、船尾側の耳を、耳当ての上から片手で覆う。
三十秒前に、高度を約六百メートルまで落とさせた。この高度で敵の監視線を免れることができるのは、あと二分程度だ。前線の工作兵に電気系統を破壊させた敵拠点の、予備電源が作動するまでの三分間。
眼下の闇には低木のブッシュが広がっている。
コックピットの右側に居る機長補佐がヘッドホンをずらしながら振り向いた。
「シンタロー総帥、地上より最終の通信が入りました。予定通り二十分後に地点Bに到達されるそうです」
「―――了解」
答えて、ゴーグルを下ろす。ついでにギュ、とグローブを嵌め直した。
ロックを外し、外への扉をスライドさせると、突風が機内に入り込み、久しぶりに一つに括った髪を容赦なくなぶる。
背筋がゾクリとして、なんとはなしに笑みが浮かんだ。
艦の中から部下を指揮するのとはまた一味違う、この高揚感。
「んじゃ二日後。あっちで迎え、頼んだゼ」
軽く手を振りながら、そう告げて。
操縦席から返された略式の敬礼を視界の隅に認めた後、風の中に飛び降りた。
『 サラウンド 』
ほぼ目標どおりの地点、高くて五メートル程度の木々の枝を折りながら、地上に降りる。再利用のできそうにないパラシュートは所々をナイフで切りながらすぐに外し、手早く畳んで近くにあった窪みに放り込んだ。
少しだけ移動をしてたどり着いたミーティングポイントで腕時計を見れば、降下前の報告から十八分が経過している。
ヤツが設定してきた時刻まであと二分。ならそろそろかと思い始めた頃、背後に形容しがたい悪寒を感じ取り、本能的に振り返った。
「し、シンタローはぁぁんvvあんさんのアラシヤマが来ましたえ~~」
果たして、獣並みのささやかな足音で、しかし背後に花柄の妖気を漂わせながら現れたのは、こんな戦場にあってもまだ片目を隠し続ける黒髪の男。
その姿と声に条件反射のように眼魔砲を放ちそうになるが、一応はまだ敵地にいるのだということを思い出し。せめて一秒たりとも視線を合わさず、顔をこれ以上は無理というくらいまで背けることで精一杯の意思表示をした。
「まさかこないなとこでホンマにシンタローはんに会えるだなんて……やっぱり運命のお導きでっしゃろか」
顔の前で両手を組み、しなを作りながら男はにじり寄ってくる。それでも目を合わさないようにその姿を一瞥すれば、戦闘服のあちこちに擦過の汚れや煤がついているのが、剣呑と言えば剣呑だった。
ここにたどり着くまでにもそれなりの戦闘はこなしてきているはずなのに。そんな気配など微塵も感じさせない男の様子に呆れながら、片手を出す。
「信憑性ゼロの御託はいーから、例の、さっさと寄越せヨ」
「まーたテレはってぇvそないに急がんでも、近くに邪魔になりそうな人間はもうおりまへんえ」
「周辺環境がどうこうじゃなく俺自身の精神衛生上の問題だ」
何の誇張もなくそう言い放ってやると、アラシヤマは少しだけ眉尻を下げながら、それでも懐から二つのものを取り出した。小さく畳まれた白い紙と、プラスチック製の指の関節二つ分ほどのサイズの小さなサンプルケース。 開いた手の上にそれらが落とされる。
ケースの方はすぐに腰のポーチに入れて、紙片はその場で一度開いて確認する。
中には現在交戦中のζ国の最新兵器のデータが手書きの暗号文字でびっしりと書き込まれていた。確かに、前線に調査を依頼していたもの二つを、目の前の男は嫌味なほど見事にそろえてきたようだ。
「……ン、これなら後は本部の開発課廻して解析させりゃ何とかなるか。ごくろーさん」
「心友のためやったら、このくらいなんでもあらへんどすえvせやけど……シンタローはん」
「まだ、何かあんのか?」
紙片と同時に受け取った透明な液体は、最近この近辺の水場に流されていると思しき毒の一種だった。新型の兵器と新型の毒。この上更に厄介な何かがあるのかと、無意識に出した煙草を咥えながら、目つきを鋭くしてアラシヤマを見る。
だが、ヤツは顔の前で両手の人差し指をもじもじと合わせたかと思うと、(本人としては自然な笑顔のつもりなんだろうが)禍々しく笑って、言った。
「……こないムード満点な夜更けに森の中二人っきりて、なんやこう……デェトみたいやと思いまへん?」
「これっぽっちも思わねーな。火」
表情も変えずに一蹴すると、アラシヤマは片手で涙を拭うような素振りをしながら、もう片方の手を前に差し出した。
紙巻を咥えたまま軽く顎を突き出すと、小さな音と共に先端に小さな灯りが点る。亜温帯の森の中に漂う煙は、辺りの湿気のせいかいつもより若干甘いような気もした。
「わても一本、お相伴してよろしゅおすか?」
「……めずらしーナ。いいけどよ」
「あんさんが美味しそうに喫わはるもんで」
胸元から箱を取り出し、ふたを開けてアラシヤマのほうに向けると、おおきに、と言いながら一本を取った。
しばらく二人で近くの木に凭れかかりながら、紫煙を燻らす。
込み入った枝々の間から見えるのは満天の星空。お互いが動かなければ幽かな風の音しか聴こえはしない。
ふ、と天に向かって細く煙を吐き出しながら、アラシヤマが呟いた。
「この後は、もうすぐに隣国に向かわはるんどしたな」
「ああ。そこの支部にコレ預けてから、首都でもうひと工作だな」
「大丈夫どすか?この近くを巡回しとる雑魚は片しておきましたけど、そんでも国境までの間に配置されとる警備兵の数は多分、一桁や済みまへんで」
「誰に向かって言ってんだ?」
眉宇に若干の心配を漂わせながら言う男に、睨みつけるような気分で笑ってみせる。
「ガンマ団ナンバーワンの看板は、まだ下ろしたつもり、ねーんだけど」
「……そら、えろう失礼いたしましたわ」
アラシヤマは軽く肩を竦めて目線だけで空を見上げる。だがすぐに、片手を口元に持っていったかと思うと、人差し指で空中に「の」の字を書き出した。
「ま、なんにしても、あんさんの顔が見られたんは、わてにとっては僥倖どすな……ホンマはあんまり危険な真似して欲しゅうはないんどすけど」
「仕方ねーだろ。他に任せられそうなヤツがいなかったんだから」
短くなってきた煙草に片目を細めながら、つまらなそうにそう告げる。
それこそが、危ないだの何も総帥自身がだの散々うるさく言われながらも、自分が出張った一番の理由なのだ。アラシヤマが担当している地域の、兵器はともかく毒の解析は一刻を争う急務だった。被害は戦地のみならずその隣接する地域にまで広がっていたので。
だがその言葉を聞いたアラシヤマは、口元で笑みを象りながら嘆息した。
「つい先日にも、本部で大量リストラしはったばっかどすしなぁ。当面は人手不足も深刻どすわ」
「皮肉か?それ。つーか何で長期遠征中のオマエが知ってんだよ」
「ゆうべ本部に連絡しましたときに、某秘書はんにちょこっと」
「……」
「ちなみに皮肉やあらしまへんで。むしろ褒めとります」
淡々と言うアラシヤマのその態度に、知らず舌打ちが漏れた。おそらくチョコレートロマンス辺りが妙な気を廻したか、或いは廻さないまでもアラシヤマの誘導尋問に負けたに違いない。
帰ったら犯人特定して減俸モンだと内心で憤るが、今の時点ではどうしようもなかった。
いつの間にか煙草を喫い終えたらしきアラシヤマは、腕組をして中空を眺めながら言葉を繋ぐ。
「旧体制にどっぷり浸かりきって戻れへん人たち、無理に動かそうとしても早晩破綻がきますやろ。下手に足止めせんと、今のうちに首切りしたんは正解やったと思いますえ。元ガンマ団いう肩書きがあれば、どの組織行っても邪険にはされへんでっしゃろしな」
アラシヤマの声には色がない。それで、きっとこいつはその背景まで全部聞いたに違いないと半ば確信に近く思った。
五日前に行った団員の一斉処分。団の体面を慮って、表立った処分としては解雇。だが実体は集団離反に過ぎない。自分はそれを抑えることが出来なかった。
あの日、百年前であれば正しく直訴と呼びたいような団結の取れた行動で、総帥室に現れたのは、これまで前線で活躍してきた戦闘員達で。
どう考えても、新体制にはついていけない。最後通牒のようにそう冷たい瞳で言い放った古参団員達に対して、出来たことといえば、同程度の温度の視線で、ならもうここに居場所はない、と告げることだけだった。
反対派の襲撃などこれまでにも幾度かあったし、転換の度合いが度合いだ。どうしたって同じ道を歩めない人間が居るのはもう十分に知っている。
それでもやはり、自分では信頼を得られなかったと。そう目に見える形で宣告されるのは、たとえそれが何度目であっても、気軽に受け止められることではなかったけれど。
そんなことを思い少しぼんやりとしていると、アラシヤマが不意に呼びかけてきた。
「なぁ、シンタローはん」
「……ンだよ」
ぼうっとしていたことになんとなくバツの悪い思いをしたこともあって、フィルターの間際まで灰が来ている煙草を背後の木に押し付けながら、いつも以上に邪険に返す。だがアラシヤマは、そんな棘のある声など全く気にしていないかのような態度で、腕組をしたまま、薄く笑った。
「知ってます?あんさん一人食べさせるくらいの甲斐性なら、わてにもあるんどすえ」
「はァ?」
唐突に、意味不明のプロポーズめいたことを言われて、意識したものではなく自然に顔が歪む。だがこちらの思惑など意に介さないまま、アラシヤマは滔々と言葉を続ける。
「ミヤギはん、トットリはんやコージはんが一緒になれば、仕事人稼業くらいはどこでもやってけます。ウィローはんや津軽はん、どん太はんらも加われば世界規模でできますな」
まるで将来の夢を語る子供のような他愛のなさで。
やや遠くを見るように片目を細めながら言うその声は、むしろ楽しそうだ。
「その上あんさんにはグンマはんやらキンタローやらいつまで経っても子離れできそうにない親父やら、過保護な家族が仰山いはるんどすから、色々背負うもん多くて、大変どすなぁ」
そして、ヤツはニ、と笑った。
―――そこまで聞いてようやく一連の台詞の意図するところに気づき、こっちも苦笑せざるをえなくなる。
「いざとなったら家庭内手工業か?」
「悪ぅないどすな、産業革命以前の趣(おもむき)っちゅうのも」
「バーカ」
言いながら、裏拳でヤツの額をはたく。そして、あだっ、と悲鳴を上げてのけぞった男から顔を背けた。何故か笑いの洩れる口元が見えないように。
似合わない気の遣い方をした男に対してか、そうさせた自分への自嘲か。その笑いの正体がどういったものかはわからない。だが、男の言うあまりに荒唐無稽で阿呆らしい未来図が、本当にそう悪くはないような気も、してしまった。それが現実となる可能性など皆無だとしても。
隣で額を押さえている男の顔を、横目で見る。
他に適任者が居なかったから。自分が任務に就くのが一番確実だから。どれ一つとして嘘ではいないし、こじ付けでもない。
それでも。久しぶりに単独任務に出てきたのは、結局のところ。
少し体だけを思い切り動かしたくなった、という理由のほかにも、この馬鹿の顔が見たかったからかもしれない、なんて、そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
「……んな、弱ってる場合じゃねーよな」
「え、なんどすって……?」
のんきな顔で聞き返してきた男の襟元を思いっきり引っ張って。
何か言いかけたその唇に、キスを一つ。
いつも喫っている煙草の味が、ほんの少しだけ舌に触った。
不意打ちを食らった根暗男は、唇を合わしている間じゅう、目を丸くして固まっており。
「―――『オツカイ』のご褒美だ。ありがたく受け取りやがれ」
呼吸を解放してそう告げた後も、顔を赤くした間抜け面のままだった。
コンチクショウという気分と同時に、ざまぁみろと思って、さっさと踵を返す。つられてこっちまで赤面するのは真っ平だ。
地上に着いた時ほぼ中天にあった月は今はやや西のほうへと傾き始めている。
いつもより近くに感じるそれを木々の合間にちらりと見てから、そのまま振り向かず、国境へと続く山道を歩み始めた。
背後でまだ動けずにいるらしいアラシヤマの、「ボーンチャイナ注文しとかへんと……」といううわ言のような呟きは、あえて聞かなかったことにした。
了
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シンタロー総帥就任から少し経ったくらいの時期設定で。
「現時点で」書ける最大限に甘いシンタロさんかもしれません。
06.テレ屋
本部で結構大規模な部署変更があったらしいんだよネ、と珍しく凹んでいる様子のイタリア人が言ってきたのが二日前のこと。
任務の最中のことで、それがどうした、とさしたる興味もなく問えば、そのせいで盗聴電波がおかしくなった、と食われる寸前の犬のように項垂れている。
なら貴様一人で帰還して設置しなおせばよかろう。と、早々に会話を切り上げようとしたら。
マーカーちゃん、ついてきてくれる?と、気色の悪い上目遣いでせがまれた。
その手のことは貴様の担当だろうがと艦の外へ放りだそうとしたら、背後から寝起きの隊長にうっせーぞと怒鳴られて、知らぬ間に隊長の野暮用を押し付けられ、阿呆イタリアンと二人での本部行きが決まっていた。らしくもない失態だ。
せっかくだし一緒にやろーぜぇvと袖を引いた男はとりあえず燃やしておいて、隊長に頼まれていた用事だけ、さっさと済ました。
設置場所を変更すべき盗聴機はかなりの数があるらしい。
全て終わるまで待っている義理もなく、かといって隊長やGの戻りにはまだ間がある。
街に出てどこか静かな場所で酒でも飲んでいるか、と正面玄関を出ようとしたところで。
一瞬で炭化させたくなるほど浮ついた顔の、アレと出会ってしまった。
「あ、師匠……」
「……チ」
「え、師匠今舌打ちしはりました?!弟子の顔見てまず舌打ちてどうどすのん?」
「気のせいだぎゃーぎゃー騒ぐな聞き苦しい」
常に冷静でいろという師の教えを一切役立てず喚きたてるその様を一喝すると、あちこちを軽く煤けさせた戦闘服姿の男は、死にかけた魚のように数回口を開閉した後に、ようやく呼吸を落ち着けた。
「―――特戦、帰還しはりましたん」
「隊長とGはまだ現地だ」
「ほな師匠とあんお人だけどすか。で、お連れはんは?」
「さぁな、その辺りにいるだろう」
実際、それ以上のことは知ったことではない。そのまま告げると、弟子は何か察するところでもあったのかやや微妙な顔つきをしたが、重ねて尋ねてくるほどの愚かな真似はしなかった。
「貴様は遠征帰りのようだな」
落ちない汚れのついた戦闘服にズタ袋、というその格好を見れば、問わずとも明らかなそれを敢えて訊く。
「へえ、今日はもうこれであがりどす」
「そうか。なら付き合え」
「え゛、お酒どすか」
「不満か?」
「めめ滅相もないどす!…ただ師匠と飲むと全部こっち持ちにされてまうのが……それにあんお人はええんどすか?」
弟子は薄気味の悪い笑顔を顔に貼り付けたままブツブツと何かを呟いた後、くだらんことを問いかけてくる。
そのせいで、眉間に余計な力が入った。
「何故私があの浮かれたイタリア人と終始行動を共にしなくてはならん」
「せやけど、いつもは」
「構わん、行くぞ」
ひと睨みした後にそれだけ告げて正門に向かって歩き出すと、慌てて後を追ってきた。
この期に及んでまだ何かを言いたそうにしているのが煩わしかったが、すべて無視して先を歩く。
だが、しばらく行くうちに、
「―――あ」
と、弟子が聞こえよがしに言って、ふと足を止めた。
「……なんだ?」
面倒を押して一応振り向いてやれば、伸びかけている前髪が以前より更に鬱陶しい男は、妙に真剣な顔をして口元に片手を当てており。
「師匠、わて、さっきシンタローはんに報告がてら会ってきたんどす」
唐突に脈絡なく、そんな事を言い出す。
「そうか」
だからなんだと言ってやりたかったがその辺りには深く触れたくもなくて、適当に流す。先刻のあの腑抜けた面からして、そんなところだろうと簡単に憶測はできていたが。
しかし相変わらず師の意図を汲むということの出来ない馬鹿弟子は、で、と続けたかと思うと、
「わて、今まで師匠とシンタローはんの共通点なんて、想像もしたことあらへんどしたけどな」
言って、阿呆のように笑った。
「一つ見つけてしまいましたわ。シンタローはんも師匠も、友達にはシャイなんどすな!」
―――その顔は、悪戯の成功した小僧のように弛緩した間抜け面で。
目にした数秒後、知らず、唇の端を上げていた。
「……私も、いつもの新総帥の気分が少し理解できたような気が、したな」
***
「シンタロー総帥、アラシヤマ氏の姿が今朝から見えないようですが……」
「本人の不注意による事故で全身火傷。安静解除まで無給休暇仕事は家で」
「在宅勤務なのに無給なんですね」
本部で結構大規模な部署変更があったらしいんだよネ、と珍しく凹んでいる様子のイタリア人が言ってきたのが二日前のこと。
任務の最中のことで、それがどうした、とさしたる興味もなく問えば、そのせいで盗聴電波がおかしくなった、と食われる寸前の犬のように項垂れている。
なら貴様一人で帰還して設置しなおせばよかろう。と、早々に会話を切り上げようとしたら。
マーカーちゃん、ついてきてくれる?と、気色の悪い上目遣いでせがまれた。
その手のことは貴様の担当だろうがと艦の外へ放りだそうとしたら、背後から寝起きの隊長にうっせーぞと怒鳴られて、知らぬ間に隊長の野暮用を押し付けられ、阿呆イタリアンと二人での本部行きが決まっていた。らしくもない失態だ。
せっかくだし一緒にやろーぜぇvと袖を引いた男はとりあえず燃やしておいて、隊長に頼まれていた用事だけ、さっさと済ました。
設置場所を変更すべき盗聴機はかなりの数があるらしい。
全て終わるまで待っている義理もなく、かといって隊長やGの戻りにはまだ間がある。
街に出てどこか静かな場所で酒でも飲んでいるか、と正面玄関を出ようとしたところで。
一瞬で炭化させたくなるほど浮ついた顔の、アレと出会ってしまった。
「あ、師匠……」
「……チ」
「え、師匠今舌打ちしはりました?!弟子の顔見てまず舌打ちてどうどすのん?」
「気のせいだぎゃーぎゃー騒ぐな聞き苦しい」
常に冷静でいろという師の教えを一切役立てず喚きたてるその様を一喝すると、あちこちを軽く煤けさせた戦闘服姿の男は、死にかけた魚のように数回口を開閉した後に、ようやく呼吸を落ち着けた。
「―――特戦、帰還しはりましたん」
「隊長とGはまだ現地だ」
「ほな師匠とあんお人だけどすか。で、お連れはんは?」
「さぁな、その辺りにいるだろう」
実際、それ以上のことは知ったことではない。そのまま告げると、弟子は何か察するところでもあったのかやや微妙な顔つきをしたが、重ねて尋ねてくるほどの愚かな真似はしなかった。
「貴様は遠征帰りのようだな」
落ちない汚れのついた戦闘服にズタ袋、というその格好を見れば、問わずとも明らかなそれを敢えて訊く。
「へえ、今日はもうこれであがりどす」
「そうか。なら付き合え」
「え゛、お酒どすか」
「不満か?」
「めめ滅相もないどす!…ただ師匠と飲むと全部こっち持ちにされてまうのが……それにあんお人はええんどすか?」
弟子は薄気味の悪い笑顔を顔に貼り付けたままブツブツと何かを呟いた後、くだらんことを問いかけてくる。
そのせいで、眉間に余計な力が入った。
「何故私があの浮かれたイタリア人と終始行動を共にしなくてはならん」
「せやけど、いつもは」
「構わん、行くぞ」
ひと睨みした後にそれだけ告げて正門に向かって歩き出すと、慌てて後を追ってきた。
この期に及んでまだ何かを言いたそうにしているのが煩わしかったが、すべて無視して先を歩く。
だが、しばらく行くうちに、
「―――あ」
と、弟子が聞こえよがしに言って、ふと足を止めた。
「……なんだ?」
面倒を押して一応振り向いてやれば、伸びかけている前髪が以前より更に鬱陶しい男は、妙に真剣な顔をして口元に片手を当てており。
「師匠、わて、さっきシンタローはんに報告がてら会ってきたんどす」
唐突に脈絡なく、そんな事を言い出す。
「そうか」
だからなんだと言ってやりたかったがその辺りには深く触れたくもなくて、適当に流す。先刻のあの腑抜けた面からして、そんなところだろうと簡単に憶測はできていたが。
しかし相変わらず師の意図を汲むということの出来ない馬鹿弟子は、で、と続けたかと思うと、
「わて、今まで師匠とシンタローはんの共通点なんて、想像もしたことあらへんどしたけどな」
言って、阿呆のように笑った。
「一つ見つけてしまいましたわ。シンタローはんも師匠も、友達にはシャイなんどすな!」
―――その顔は、悪戯の成功した小僧のように弛緩した間抜け面で。
目にした数秒後、知らず、唇の端を上げていた。
「……私も、いつもの新総帥の気分が少し理解できたような気が、したな」
***
「シンタロー総帥、アラシヤマ氏の姿が今朝から見えないようですが……」
「本人の不注意による事故で全身火傷。安静解除まで無給休暇仕事は家で」
「在宅勤務なのに無給なんですね」
05. 無視
1時間と26分。
アイツが黙秘権を行使してからもうそれだけ経っていた。
「オイ」
うんざりして、呼びかけたのは、二度目。
ほんの少しだけ、たじろぐように空気が揺れたが、返事はなかった。
男は部屋の隅に座ったままこの上なく陰気な空間を作り続けている。
一応、スイートルームではあるのだから、ソファはいくつも置いてある。
座ろうと思えばいくらでも快適な場所はある。
大体一人になりたいなら自分の部屋に帰りゃいいのに。
まあ、コイツに部屋の隅ってのは似合ってるっちゃ似合ってるんだが。
大きく息をついてから、口元を片手で覆った。
「……チッ……」
ッたく、どうしろってんだ。
いつものシンタローはん連呼のコイツもウザいとしか思ってなかったけど、
黙ってれば黙ってたでこれまで鬱陶しいとは。ある意味さすがと褒めてやりたい。
「オイ」
「……」
条件反射なのかなんなのか、一応、俺の声に反応はする。そのくせ、返事はしない。
よほど意固地になっているらしい。
正直、それほどコイツが不機嫌になる理由も、よくわかんねーんだけど。
からかうというほどの意識もなく、ただなんとなく叩いた軽口。
今夜の団主催のパーティーで、
珍しく、他国のお姫サマと(一応)普通に会話してて(それなりに)楽しそうだったから。
口にしたとき多少酔ってたのは、認める。
にしてもだ。
(まあコイツに限ってそんなコトあるワケねーと思いながら言ってたし)
(それに本当のところ、どっちだって俺は構わねーんだけど)
「……別に、怒るようなコトじゃねーだろが」
だが、俺のその言葉を聞いたアラシヤマは、ようやく顔を上げて。
「怒る?」
そして、心底意外だと言う顔をして、俺を見た。
「わてはあんさんの言うことに怒りたなることは殆どあらへんどすえ」
少し、悪い予感はしてた。けど。
俺もまだ酔いが完全に覚めてるわけじゃなかったし、昼間の疲れも出てきてたし。
何より、このヘンに居心地の悪い空気を終わりにしたくて、
いつもの調子で、言ってしまった。
「じゃあ、その体育座りヤメて、さっさと帰れば」
言ってから少しだけ後悔したのは
こっちに向けられているその眼がやたら人形じみて、硝子玉みたいになってたから。
その目の色を変えないまま、アイツは平坦な声でそれを口にした。
「……せやけど、傷つくことは、ないとは言いきれまへん」
ああ、馬っ鹿じゃねーの。コイツ。
そんなこと言う時ばっかり、ちゃんと人の目ぇ見やがって。
引きつりそうになる口の端を、無理やり上にもっていく。
「―――そりゃ、友達の付き合い方としては最低の部類だな」
そしてそれは、別の特殊な関係であれば比較的ありふれたものだと知ってはいたけれど、勿論そんなことは言わなかった。
1時間と26分。
アイツが黙秘権を行使してからもうそれだけ経っていた。
「オイ」
うんざりして、呼びかけたのは、二度目。
ほんの少しだけ、たじろぐように空気が揺れたが、返事はなかった。
男は部屋の隅に座ったままこの上なく陰気な空間を作り続けている。
一応、スイートルームではあるのだから、ソファはいくつも置いてある。
座ろうと思えばいくらでも快適な場所はある。
大体一人になりたいなら自分の部屋に帰りゃいいのに。
まあ、コイツに部屋の隅ってのは似合ってるっちゃ似合ってるんだが。
大きく息をついてから、口元を片手で覆った。
「……チッ……」
ッたく、どうしろってんだ。
いつものシンタローはん連呼のコイツもウザいとしか思ってなかったけど、
黙ってれば黙ってたでこれまで鬱陶しいとは。ある意味さすがと褒めてやりたい。
「オイ」
「……」
条件反射なのかなんなのか、一応、俺の声に反応はする。そのくせ、返事はしない。
よほど意固地になっているらしい。
正直、それほどコイツが不機嫌になる理由も、よくわかんねーんだけど。
からかうというほどの意識もなく、ただなんとなく叩いた軽口。
今夜の団主催のパーティーで、
珍しく、他国のお姫サマと(一応)普通に会話してて(それなりに)楽しそうだったから。
口にしたとき多少酔ってたのは、認める。
にしてもだ。
(まあコイツに限ってそんなコトあるワケねーと思いながら言ってたし)
(それに本当のところ、どっちだって俺は構わねーんだけど)
「……別に、怒るようなコトじゃねーだろが」
だが、俺のその言葉を聞いたアラシヤマは、ようやく顔を上げて。
「怒る?」
そして、心底意外だと言う顔をして、俺を見た。
「わてはあんさんの言うことに怒りたなることは殆どあらへんどすえ」
少し、悪い予感はしてた。けど。
俺もまだ酔いが完全に覚めてるわけじゃなかったし、昼間の疲れも出てきてたし。
何より、このヘンに居心地の悪い空気を終わりにしたくて、
いつもの調子で、言ってしまった。
「じゃあ、その体育座りヤメて、さっさと帰れば」
言ってから少しだけ後悔したのは
こっちに向けられているその眼がやたら人形じみて、硝子玉みたいになってたから。
その目の色を変えないまま、アイツは平坦な声でそれを口にした。
「……せやけど、傷つくことは、ないとは言いきれまへん」
ああ、馬っ鹿じゃねーの。コイツ。
そんなこと言う時ばっかり、ちゃんと人の目ぇ見やがって。
引きつりそうになる口の端を、無理やり上にもっていく。
「―――そりゃ、友達の付き合い方としては最低の部類だな」
そしてそれは、別の特殊な関係であれば比較的ありふれたものだと知ってはいたけれど、勿論そんなことは言わなかった。