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『on the wild world』  act.10 











 一瞬の空白の時間の後、マーカーを地面に縫いとめているその両腕から、ふっと炎が消えた。
 同時に、アラシヤマの表れている片目が師の姿をそこに映し出し、丸くなる。

「……―――?…お……師匠、はん……?」

 途切れがちに、呆けたように発される声。そのアラシヤマの目の色に、マーカーは知らず苦笑を返す。

 ―――暗示が、解けた。

「この、馬鹿弟子、が……」

 その言葉が耳に入ったかどうか、ぷつりと糸が切れたかのようにアラシヤマの全身から力が抜けた。
 ゆっくりと、マーカーの上に、その身が覆いかぶさるように崩れ落ちる。マーカーはその身体を、跳ね除けるのも面倒というように受け止めて、ようやく張り詰めていた気を緩め、短く息を吐く。
 そしてアラシヤマを抱えたまま半身を起こし、駆け寄ってきたシンタローに、まだ動く右手で男を渡した。
 アラシヤマの呼吸は微かで、その体温も、極炎舞の反動からか、通常に比べればかなり低い。それでも、確かにそれは生きているという実感を伴った重みだった。
 シンタローが支えるアラシヤマを、左手首を抑えて見上げながら、マーカーは呆れたように言う。

「まったく、本能の勝利というか、煩悩の勝利というか……。新総帥、貴方は大分厄介なものを抱え込んでいるようですよ」
「……アンタでも、シャレ言うことがあるんだな」

 むしろそちらのほうに驚きつつ、シンタローはリュックの中から高松謹製という傷薬と包帯を取り出し、マーカーに放った。
 受け取ったマーカーは地に腰を下ろしたまま器用に膏薬の蓋を口を使って開けると、人差し指に取った分を軽く舐め、成分を確認した上で(非常に賢明な判断だとシンタローは思った)左手首の火傷に塗りこむ。
 シンタローの目にちらと入ったその火傷は、つかまれた指の跡そのままに赤黒く染まっていた。だがそんな痛みなど全くと言っていいほど表情には出さず、マーカーはまた口と片手を使って、手早く包帯を巻いていく。
 その作業が終わった後も、シンタローの腕の中にいる男には、微塵も目覚める気配はなかった。
 マーカーは火傷を負った腕を、わざとらしいまでにいつまでももう片方の腕で抑えつつ、憮然とした表情のシンタローを眺めている。

「……当分。起きそうにねえよな、コイツ」
「極炎舞は元より自爆技。臨界まで達せずとも、発動すれば術者の命を削るだけの体力を消耗します。拷問と監禁に加えてのそれでは、さすがにこの馬鹿弟子でも、そう簡単には目覚めないかと」

 立ち上がりながら、あまりに冷静に言うその口調に、シンタローの顔があからさまに歪んだ。

「……~~~っ!俺に、このクソ重い馬鹿男、背負っていけってか?!」

 様々な感情が入り混じり、結果としてふざけんじゃねぇという心境に達しているのだろうシンタローのその思いなど、おそらく全て見透かしながら、マーカーはしらっと微笑を投げてよこす。

「申し訳ありませんが、この腕では私にその役目は無理なようです。先行し敵の攻撃や罠への対処はいたします。その愚か者への仕置きは、どうぞ戻ってからゆっくりと」



***


 アラシヤマをその肩に抱えたシンタローとマーカーは、砦のさらに奥を目指して進んだ。あともう一つ、確認すべきは、「この馬鹿が一体何をそれほどまでに気にしていたか」だ。
 だがそうして疾駆していくうちに、あることに二人は気づいた。

「おい、マーカー」
「……ええ」

 兵の気配が、消えている。それはどこかに潜んでいるとかそういったレベルの話ではなく、人そのものの存在する気配がない。
 そうした空気をやや不気味に思いながらも、しかし二人に引き返すという選択肢はない。そして入り組んだ道の奥、一つの階段を下りた場所で、二人は眼前に広がるそれを見つけた。
 まだ薄く煙の燻る、一面の瓦礫の山。 おそらくは何かの研究施設であったのだろうということは、割れた試験管や、融けながらも微かにその形をとどめている金属製の机の残骸によって推測できた。

「コイツが、深入りした理由は、コレか……」

 その荒涼とした風景を前にして、シンタローが低声で呟く。後ろに控えているマーカーがその背に向かって声をかけた。

「それ以上、近づくのはおやめください。ここで一体何を行っていたのかは、戻ってから馬鹿弟子に尋けばすむことです。大抵の細菌兵器や毒であればもはや滅しているでしょうが、万が一ということもある」
「あぁ、わかってる」

 そのとき、背後からカタッという微かな音が聞こえた。シンタローとマーカーがゆっくりと振り向く。
 階上の小部屋から、逃げ出さんと這い出しているのは、ほんの半日前にモニターの中で悠然と葉巻を咥えていたあの男だった。

「アンタ……」

 もはや足腰すら立たない状況で、それでももう逃げられないと悟ったのか、スーツ姿の男はそこに腰を据えたままシンタローたちを睨み付ける。その周囲に、本来あるべき警邏兵の姿はない。

「取り巻きは、どうしたんだよ。―――勝ち目がねぇと悟って、置いてけぼりか」

 男は答えない。それは肯定と同義だった。この上ない憎しみを込めた視線も、シンタローにはもう憐れみを誘うものでしかない。

「惨めだな……。同情は、できそうにねーけどよ」

 そのあまりに孤独な姿を完全に蔑んだ目で見下ろしたあと、シンタローは男を放置して引き返そうとする。だが、そんなシンタローの後ろを、マーカーは追おうとはしなかった。その場に佇み、冷涼な眼差しで男を見ている。
 そして、何かを口にしようとしたシンタローを制するように、マーカーは言った。

「貴方との"契約"は、アラシヤマ救出までという話でした」

 脅えきった男を前に、マーカーが歩みを進める。その右腕に、絡みつく美しい蛇にも似た青白い炎が生み出される。
 シンタローは、止めなかった。目をそむけることも、しなかった。
 それが一瞬の出来事だったのは、マーカーのせめてもの慈悲というよりは、新総帥の目前であるということを慮った結果だったのだろう。
 蒼い炎の蛇は一息に男を呑み込み、そして後にはただ、真白な石灰石にも似た骨片のみが残った。


 
 入り組んだ通路を二人は駆ける。
 そして先刻アラシヤマと対峙したホールまで戻ってきたとき、一つの人影が目に入った。
 それは砂色の髪をした年若い男で。あちこちに激しい戦いの痕跡を残したホールの中央で、ただ独り、立っている。
 もはや生き物の気配を完全になくした砦の中で佇む男に、シンタローとマーカーは怪訝な顔をしながら歩み寄った。
 そして、二人がその近くまできたとき。
 男が穏やかな声で問いかけた。

「あの方は、逝かれましたか」
「―――ああ」

 そうですか―――と、男は痛みを堪えるような、しかしどこか安心したような表情で言う。それはこの状況にはとてもそぐわないような静かな顔だった。
 潮騒のような風の音が聞こえる。表はもう夜が明けかけている頃だろうか。
 男はシンタローとマーカーに、微笑を向ける。

「人もおらず、施設も破壊された。―――もはや、この砦の存在する理由が無い」

 そして、その表情のまま、二人に戦慄を覚えさせる事実を告げた。

「この砦は、あと十分足らずで消滅します」

 淡々と口にされたその言葉に、シンタローとマーカーの眉間に皺が刻まれる。

「構造は単純ですが、半径一キロメートルを巻き込む大規模な気化爆弾です。今からでは脱出は不可能でしょうね」
「―――クソッ……マジか……?!」

 火薬ではなく酸化エチレンなどの燃料を空気と撹拌させて爆発させるその爆弾は、通常は仕掛ける側が巻き込まれることを恐れて、高高度のヘリコプターや音速のジェット機から落とすものだ。爆鳴気の爆発は強大な衝撃波を発生させ、十二気圧に達する圧力と三千度近い高温を発生させる。
 シンタローは、手のひらにじっとりと嫌な汗をかくのを感じた。
 だが、どうせ自分たちを巻き込むつもりならば、どうしてそんなことを親切に教えるのかという疑念も同時に湧く。敵わぬ敵を追い払うためのハッタリというには、男の目はあまりに真摯だ。ただ単に、死の間際にその恐怖を煽ろうとするような馬鹿馬鹿しい理由とも思えない。
 その時、ようやくシンタローの頭の中で、書類の中で見た顔とその男の顔が一致した。

「そうか、お前……アラシヤマの」
「いえ、私はυ国前首脳部の秘書ですよ」

 もう二十年も前からのね、とどう見てもまだ三十前にしか見えない男は微笑う。そして、シンタローの肩に担がれているかつての上官の姿を見遣り、ゆっくりと歩みを進める。

「もし……もしも」

 シンタローとマーカーの横をすれ違いながら、男は淡々と言葉を繋ぐ。なぜかシンタローは男を止めることができなかった。

「あなた方が生きてこの島を出、そしてその方が目覚められたら……」

 ―――自分にはもう、かつて目指した場所は遠すぎて見えないけれど。

「『あなたの仰っていたことが、少しだけ理解できました』と。不肖の部下が申し上げておりましたと、お伝えください。―――その方は、最後まで一人も殺めはしなかった」
「ちょッ……オイ待てコラぁっ!」

 周囲の空気を一切動かさないような静かな歩みで、男はそれまでシンタローたちが来た方向、今やあの男の骨しか残っていない階下へと向かう扉をくぐった。隠された操作盤でもあったのか、その直後に扉は閉められる。
 閉ざされた扉は、二度と開こうとはしなかった。


 今からそれを破壊し、追っている時間はない。
 何が原因かもわからなかったが、どうしようもないやりきれなさにシンタローは拳を堅く握り締め。だが、すぐにキッとその眼差しを前に向けた。

「とりあえず地上に出んぞ。こんなまどろっこしい道、通ってらんねーからな」

 言いながら、右手に意識を集中させ、蒼い光球を作り上げる。背後でマーカーが身構えるような姿勢をとった。
 シンタローが手に集めた高密度のエネルギーの塊を、頭上に向かって放つ。

「眼魔砲――――ッ!!」

 岩と煉瓦によって組み上げられた遺跡は、その衝撃にはとても耐え切れず、頭上に巨大な穴が空く。邪魔となる部分をすべて眼魔砲で撃ち崩し、落ちてきた瓦礫の山をちょうどよく足場代わりにしながら、二人は地上を目指す。そのやり方を見ながら、後方を追うマーカーが笑ったような気がした。

「……あンだよ」
「いえ、血は争えない、と思いまして」
「?」
「派手好きの」
「あのオッサンどもと一緒にすんな……よッ!」

 絶え間なく落ちてくる石礫を手の甲で払いながら、まったくこの状況でも軽口が叩けるというのは、どういう神経をしているのだと、シンタローは呆れたような、しかし反面心強いような気分になる。
 置かれている立場としては、けして笑って済む類のものではない。どれほど最短の道を選んでも、砦を脱出し、島端にたどり着くまで最低でも七分はかかる。そこからボートを呼び寄せ、一キロ以上先まで逃げ出すのは奇跡でも起こらない限り不可能だ。

(―――チクショウ。ここまで、来たってのに)
 
 どうすることもできねーのか、とシンタローは歯噛みする。


 だが、二人が最後の外壁を破り、その頭上を見上げたとき。
 朝焼けの薄明の空に見えたのは二艇の巨大な戦闘艦だった。



***



 一方は円の中に五芳星とGのマークをつけた、楕円形の白銀の艦。もう片方は、どう見てもアレの趣味としか思えない、白鳥かアヒルかもわからないような外形の、得体の知れない浮遊物。
 後者のほうから、拡声器を通した声がシンタローたちの元に届く。

「助けに来たよぉ~、シンちゃんv」
「グンマぁっ?!」
「俺らもいるぜェv」

 シンタローたちの切迫した状況などお構いナシに発されるその能天気な声たちは、まごうことなき兄弟と、おそらく今もアルコールの匂いにまみれているのだろう叔父のものだった。
 その時になって、シンタローはハッと気付き、腰紐に付けられた小さな錦の袋に目を向ける。太い楷書体で「家内安全」と表書きされたその存在を、シンタローは今になってようやく思い出した。
 作法も何もかなぐり捨てて袋の口を開いてみれば、中から小さな集音マイクのような機器が転がり落ちる。

(お守りって……どー見たって発信機じゃねーか!)

「シンちゃんたちがアラシヤマ助けたあたりから、この辺のレーダーが乱れ始めたってキンちゃんから報告が入ってね。なんかおかしいな、と思ったから近くで待機してたんだ~」

 あ、叔父さまたちは連れてきたんじゃないよ、来たらもういたんだよ、と言い訳のようにグンマの声は言う。

「おとーさまが、どーしても、って」
「あのヤロー……俺がなんのために……それに費用は……」
「だいじょーぶ、ぜーんぶ、おとーさまのポケットマネーだから」

 その言葉を聞いた瞬間、シンタローの口が顎が外れるかと思うほど大きくカクンと開いた。これだけの戦闘艦をこれだけの短期間で整備し、動かすには一体何億、何十億かかると思っているのか。

「アラシヤマのためだったら絶対やだけど、シンちゃんのためだったら仕方ないってー」
「あンッのクソ親父……!」

 どこまで親馬鹿なんだ、と顔が赤くなる思いでシンタローは拳を握りしめる。そのせいで実際救われているという現状にも、もはや感謝より怒りのほうが先立っていた。
 だがそんな感情に今は左右されている場合ではない。艦から身を乗り出すようにこちらを見下ろしているグンマに向かって大声で叫ぶ。

「って、ンなこと言ってる場合じゃねぇ!さっさと縄梯子下ろせ!あと三分もねーぞ!」

 さすがにその状況は把握しているのか、すぐさま艦から梯子が投げ下ろされた。拡声器の雑音に混じって、くだんの酔いどれオヤジの残念そうな声が聞こえる。

「ンだよ、暴れらんねーのか。つまんねぇナ」
「オッサン暴れんならほかでやれーーー!」

 シンタローの掛け値なしの怒声に、だがハーレムは咥えタバコのままにやりと笑って、部下の一人の背を叩いた。

「そんじゃま、俺様の可愛い部下返してもらうぜぇ~、甥っ子」

 その言葉と同時に、白銀色の艦からロープ一本に腕と片脚を絡めたロッドが降下してくる。そして、まるでどこぞの姫でも迎えにきたかのように、恭しくその片手をマーカーに差し出した。
 マーカーはうんざりといった表情で腕組みをしながらそんな男の様子を眺めている。

「……なぜ貴様が降りてくる必要がある。ロッド」
「え~~。いーじゃんコレくらい。どんだけオレが心配したと思ってンの」

 せっかくの演出にも予想通り冷たい反応しか返ってこなかったことに、金髪の男はややスネたような顔する。だが、そのいつもどおりのマーカーの表情を確認し、悪戯っぽく笑いかけた。

「それにさ、カッコよくね?アジアンビューティー抱えてロープで退場なんて、007みてーじゃんv」
「イタリア男が何抜かす。くだらんことを言っている暇があればさっさと引き上げろ」

 不承不承ではあったが、片腕の怪我もあり、マーカーがやむなく男の手を取る。そして引き上げを待っていたそのとき、ふと何かを思い出したようにシンタローに声をかけた。

「新総帥」
「ん?」

 アラシヤマを背負ったまま、同じく下ろされた縄梯子に足を掛けたシンタローが振り返った。

「報酬の振込みは、後ほど連絡いたします私の口座まで。―――それと」

 去り際にまであくまで現実問題を忘れずに、ただ一瞬だけちらりとその弟子に視線を流し。
 そしてマーカーは見蕩れるほど艶やかに口の端を上げる。

「その馬鹿弟子が目覚めたら、私の分まで、どうぞ入念な仕置きを宜しくお願いいたします」
「―――あぁ、まかせとけ」
 
 交わした視線は、その質こそ違え、確かに同じ思いを抱いていた。
 シンタローは不敵に笑い、そして小声で、ありがとな、と言った。






 ロッドを含めた三人が艦に収容され、そして二艇の艦は全速力でその場を離脱する。
 艦がぎりぎりで爆風に巻き込まれないだけの場所に着いたとき。
 その後方で閃光と轟音が、黎明の大気を劈いた。





『on the wild world』  -epilogue- 












―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
 まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。

「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」

 思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
 それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
 シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
 現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
 そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
 思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。

 アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
 もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
 かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
 
 起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。 

「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」

 掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
 そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。

「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」

 シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
 それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。

「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」

 言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
 頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
 せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。

 そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。

「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」

 けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
 
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」

 その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
 ―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
 身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。

「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」

 そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
 そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
 ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。

「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」

 その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。

「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」

 うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
 それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。

「……わての言いたいのは、そんだけどす」

 起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
 そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。

「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」

 はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。

「そうどすか」
「あぁ」

 真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
 アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
 そして、ぼそりと言った。

「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」

 アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。

「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」

 むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。

「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」

 まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
 その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
 そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。

「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」

 耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
 怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。

「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」

 吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
 骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。

「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
 
 シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
 アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
 そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。


「―――愛してますえ、シンタローはん」


 笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
 憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。





 微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。

 これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
 だが、それでも、こうして共にいられる今を。
 悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。














 そしてまた、いつもの「日常」が始まる。

















Fin.
















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BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld





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『on the wild world』  act.7 












 敵がどういった方法でこちらを監視しているのかわからないため、本部の輸送機器は使えない。シンタローは団の裏手に止めてあったマーカーが乗り付けてきたという車に同乗し、取り急ぎ最も近い民間の空港に向かった。前総帥時代から隠し持っている青の一族専用の小型ジェット機に乗り込み、υ国の近隣国まで飛ぶ。
 そこまで辿りつけば、当地の支部から船を借りられる。さすがの密偵も、各国に散らばるガンマ団の支部のすべてに監視の目を光らせるのは不可能なはずだ。
 ガンマ団本部とυ国の時差は約三時間。時計の針は本部のほうが進んでいる。リスクを考え多少の遠回りをしても、今から向かえば、未明には現地に着くことができるだろう。



 小型艇を借り受け敵地に向かうまでは、ほぼ予定通りの段取りで速やかに進んだ。唐突に支部に現れた総帥は、その入り口で最初に眼にした団員を捕まえてすでに帰宅していた支部長を呼び出させ、有無を言わせず近くの港に船を用意させた。関与した団員と支部長には、どのような相手に対しても、今夜のことは他言無用と「総帥」の表情で十分に言い含める。責任は全て自分がとるとも。
 乗組員は二名だけだ。せめてボートの操縦役に一人くらいは、と必死の表情で言い縋ってきた支部長の申し出は、ありがたく辞退した。どうせ航路の設定さえしてしまえばあとはほとんどオートで進むのだし、シンタローもマーカーも、小型船舶の運転くらいはできる。シンタローは一人として団員をこの件に関して動かしたくはなかったし、マーカーにしてみれば話はもっと単純で、足手まといは不要という心境だったのだろう。

 まるでコールタールのようにどろりと粘着質な動きを見せる黒い海に、細い細い三日月と空を覆う星々の光が映っている。シンタローたちの乗る小型のモーターボートは、ところどころに立ち上がる白い波頭を一直線に切り裂きながら進む。
 シンタローは乗船してすぐに、人一人がようやく入れるサイズの小さな操舵室で機器類の調整をしていた。だが作業にはそれほどの時間もかからず、五分程度でマーカーのいるデッキに現れる。

「よし、設定終了っと。到着まで約四十分てトコか」
「お疲れ様です」

 船牆に軽くもたれるように腕組をして立っているマーカーは、シンタローの姿を認め、簡素な労りの言葉を口にした。マーカーよりやや船首側に腰を下ろして、シンタローは今後の方針についてようやく話し始める。

「んで、あっちに着いてからのことだけどよ」
「何か、お考えが?」
「いーや。基本、出たトコ勝負」

 その聞きようによっては無鉄砲なシンタローの言葉に、だがマーカーもゆっくりと頷いた。 

「―――それしかないでしょうね。見取図はすでに頭に入れてあります。アレの近くまで行くことができれば、あとは私の蝶が案内役を務めましょう」
「蝶?」
「炎の蝶です。貴方にはまだ、お見せしていませんでしたか」

 それは炎使いという特質を持つ者同士を繋ぐ、一種の連絡方法だとマーカーは簡単に説明する。

「ただ、確かにあの空白部分は厄介ですね」

 マーカーが言っているのは、シンタローが見せた砦内部の見取り図に関してのことだった。そもそもあの図面自体がすでに数年前のもので、どこまで信頼がおけるかもわからない。
 しかし、今頼れるものがそれしかないというのも事実だった。前政府の残党たちに、それほど大掛かりな改修を施せるだけの余力がないことを願うばかりだ。

「そして、アレが残った理由というのも―――気になる」

 確かにそれは、シンタローにとっても一番の謎だった。任務に関してはかなり割り切った考え方をする男だ。一体何が、あの男をさらに奥へと呼び込んだというのか。

「―――あのバカ、まだ生きてると思うか?」
「……さあ。確率は五分といったところでしょうか」
「ッたく……、余計なこと考えねーで、さっさと引き上げてくりゃよかったんだ」

 今更言ったところで詮無いこととわかっていても、つい口をついて出る憎まれ口は抑えられない。その気持ちはマーカーにもわかるようで、うっすらと唇の端を上げた。

「おそらく、貴方の役に立ちたいあまりに、愚かにも己が立場すら忘れて深入りしたのでしょう」
「……俺のせいかよ」
「いえ、一ミリの弁解の余地もなく、あの馬鹿弟子の責任です」
「情でも、かけろってのか?」
「とんでもない。むしろ貴方のアレへの常の温情には、心より感服しておりますよ」

 別に嫌味と言うわけでもなく、マーカーは薄い笑いを崩さずにそう言う。だが、それを言い終えた後、その白皙の面から、すっと、笑みは消えた。

「あの馬鹿弟子は―――自己への執着は過剰なほど強いくせに、己が命への執着は然程でもない」
「……どう、違うんだ?ソレ」
「おわかりになりませんか。それは貴方が健全な精神をお持ちだという証拠でしょうね」

 相変わらずの飄然とした無表情。こうしてかなりの近さでつぶさに見ていても、シンタローにはマーカーのその微妙な表情の奥にあるものは見えてこない。

「生死の確率は五分と五分……ですが、自決の心配だけは、なさらなくとも結構かと」

 マーカーのその確たる口調に、シンタローは僅か怪訝そうに眉根を寄せる。

「理由をお教えしましょうか?」
「……ぁンだよ」

 上目遣いに己を見る新総帥に、マーカーはきっぱりと断言する。

「ここでアレがそうしたところで、貴方に何のメリットもないからですよ」
「メリット、だぁ……?」
「課された任務は完了している。たとえ交渉の道具に己が使われたとして、それに貴方が応じるはずがない。そこまで現状認識を誤るほどには、私はアレを愚かに育てたつもりはありません」

 船牆に後ろ向きに両肘をかけ、やや上方、まるで星空を眺めるかのように中空に視線をやりながら、マーカーの薄い唇が動く。

「もとより自暴自棄になった憐れな負け犬どもの無謀な交渉です。あちらにはアラシヤマの身一つしか切り札はない」

 それも、もはや切り札か捨て札かもわかりませんがね、と恐ろしく冷静に言いながら。

「たかが団員一人、命を落としたところで団が蒙る被害など微々たるもの。だからこそ、そこでおとなしく死を待つような真似を、アレがするわけもありますまい。生還は無理としても、せめて一糸報いようとは考えているはずですよ―――己の命と引き換えに、この組織を殲滅させるくらいのことは」

 淡々とアラシヤマの心境を語るマーカーの言葉は、予想や憶測といったものではなく、まるで既に起こったことの報告であるかのようにシンタローに感じられた。
 船上には僅かな沈黙。
 マーカーの言葉を否定する材料を今のシンタローは持たない。だが、その言葉のどこかに、少しだけ反発したいような気分はあった。なぜかはわからない。それはもしかすると、マーカーがあまりに簡単に、弟子の死の可能性を口にしたからかもしれない。
 マーカーが推察するアラシヤマが取るだろう行動には、確かにシンタローも納得するしかなかった。あの根暗男なら、きっとそうした考え方をするのだろう。だが、それでも。

(―――アイツは、死なねえ)

 心のどこかで、そんな確信にも似た思いがある。
 そう、アラシヤマについてマーカーが知らないことを、一つだけ、自分は知っている。

(約束したんだ、俺と)

 もっとも、あの「約束」が―――約束と呼べるのかどうかすら危ういほどのあの言葉が―――どれほどの効力を持っているのかは、シンタローにすらわからなかったが。
 シンタローはポケットの中から常に携帯している煙草を出し、一本咥えてライターで火をつけた。軽く立てた両膝に両腕を投げ出すように置きながら、満天の星空に向かって細く煙を吐き出す。そして、その姿勢のまま、マーカー、アンタ今は一応俺の下にいるって思っていいんだよな、と確認するように言った。
 何を今更、と言わんばかりにそれを首肯したマーカーに、シンタローは目に厳しい光を宿して、命じる。

「だったらこれだけは言っとく。―――契約中は、できる限り、殺すな」

 その言葉に、マーカーの片眉が上がる。

「……この状況で、仰いますか」
「ああ」
「敵は一人として殺さず、しかもアラシヤマ奪取までは潜入にも気付かれず―――。予想以上に、難易度の高い任務になりますね」
「できないと思ったら言わねーよ」

 自分が口にしている内容の無茶は承知だ。だがそれでも、シンタローはにやりと不敵に笑ってみせる。

「もっとも、俺はそんな無能なヤツと、手ぇ組んだ覚えはねーんだけど?」

 マーカーは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情をし。それでも最終的には了承の意を示した。とはいえ、そのほとんど何の変化も現れていない顔には、器用にもありありと不服の二文字が刻まれていたが。

「んな呆れたような顔すんなって」
「感情として否定はいたしませんが、そうした表情をとっているつもりもありません。しかし、このような事態でも、貴方はその主義を徹底するのですね」
「……コレがなかったら、俺が今この立場にいる意味が、ねえからナ」

 言いながら、シンタローはすでにフィルターの間際まで灰になっている煙草を消し、腰を上げた。船首の近くに立ち、目指す島の方向を確認する。
 その背に向かって、マーカーが静かな声で問いかける。

「新総帥」
「ン?」

 名を呼ばれて、シンタローは上半身だけで振り向いた。
 その先にあるマーカーの視線は驚くほど冷涼だ。

「私からも、これだけはお聞きしたい。あの男を取り戻した後―――貴方はどうされるのか」
 
 それは、少なくとも部下が上司に向ける瞳ではなかった。

「どうって……」

 一瞬だけ気圧されたような気分になりかけ、だがあえてシンタローはそれを真っ向から受けとめる。多少無理があるな、と思いながらも、半ば意地で唇の端を歪めてみせた。

「今回の件についての処遇とか、そういう意味じゃねえんだろーな」
「そうです。アレは頭も性格も要領も何一つ良くはなかったが」

 シンタローですら苦笑するしかないような手厳しい言葉は、この師にとっては特に辛辣という意識もないらしい。毛筋ほどの感情も表さずに、流麗にすら聞こえる音調で言葉を紡ぐ。

「殺しのセンスだけは、悪くなかった」

 シンタローを見据えるマーカーの眼が、ほんの僅か細められた。

「今の貴方が抱えるには、リスクが大きすぎるのでは?」
「……」

 マーカーの問いは、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。シンタローが常に心の奥底に、見えないよう封じている懸念を、的確に抉る。

「掌中の珠、というわけにはいきませんでしたがね。こう見えて、私はあの弟子に一片の可能性を見出した。―――手に負えなければ、引き取ってもいいのですよ」

 シンタローをじっと見るマーカーの、その眼に浮かぶ色は希望でも揶揄でもなかった。マーカーの台詞は、アラシヤマを深く知る者としての、この上なく理性的な判断から導かれた「注進」だ。
 しばらく無言でマーカーと睨み合いを続けていたシンタローは、やがて、ふ、とその視線をずらし。上体を前方に戻して、遠く、空との境界も曖昧な海の彼方に目を向ける。
 目指す島はまだ見えてこない。顔に当たる強い風が、括りきれない長さの前髪を八方に弄る。ステップ気候に属するこの国では、これほどの深更であっても寒さを感じることはないが、さすがに猛スピードで疾駆する船の上では、それなりの風の冷たさはある。
 シンタローは遥か水平線を見遣りながら二本目の煙草を咥え、ぼそりと言う。

「アイツは……焼き畑みたいなモンだ」
「……?」

 あまりに唐突なその例えに、マーカーはやや面食らったような顔をする。さすがにそれだけでは説明になっていないと思いなおしたらしいシンタローが、苦い声で続きを口にした。

「それが原因で、山火事起こす可能性があんのはわかってる。やりすぎて被害出していいなんざ絶対思わねェ。だけど」

 シンタローはただ前方のみを真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。

「―――それで、生かされるモンがあるってのも、知ってる」

 己には一切視線を向けず言うシンタローの背中を横目で見つつ、成程そういうことか、とマーカーは変に納得した気分で思い。そして過剰なまでに婉曲な言葉の内に、この新総帥があの男を手放すつもりはないことを知った。
 マーカーもシンタローも、それ以上は何も言おうとしなかった。



 二人は無言のまま、全速力で船を進ませる。船上に聞こえるのは、その能力を限界まで酷使されている船のモーター音と、耳のすぐ横を凄まじい速度で吹きぬける風の音だけだ。やがて前方に、目的となる砦を擁する島の影が浮かび上がる。
 島までかなりの距離を残して、シンタローはボートを止める。これ以上近づくと、敵の哨戒線にかかる恐れがあった。前方に見える島の形から船の大体の位置を記憶し、その場に投錨する。多少潮に流されても、半径一キロメートル程度までなら遠隔操作も可能だ。

「よぉしッ。んじゃこっからは泳いでいくぜ!」

 ボートの舳先に片足をかけ、腕組をした姿勢で勢いよくシンタローはそう宣言する。だが、目的の地まではまだ相当な距離が残っている上に、海上に姿を現しながら泳いでいけば、敵の目に触れないとも限らない。
 そんなマーカーの懸念を見越したように、シンタローはごそごそと己のリュックサックの中を探ると、その中から二つの器機を取り出して、

「とりあえず、この前グンマとキンタローが見せに来た潜水装置の試作品引っつかんできたんだけどよ」
「……」
「俺こっち使うから、アンタはこっちな」
「……」

 極めて不自然な明るさで、さも自然な流れのように、黄色のクチバシ型をした潜水装置をマーカーのほうに差し出した。
 マーカーは眉一つ動かさず、絶対零度の視線でシンタローとその手に持つ装置を見つめている。
 かと思うとくるりと方向を変え、進路設定などが可能な操舵室へとその足を向けた。

「アラシヤマ救出任務は失敗。やむを得ず撤退いたします」
「待てーぃ」

 表情を強張らせたままシンタローが引き止める。そんなシンタローに向かい、腰に片手を当てて立つマーカーは当然だろうと言うかのように、整ったその面貌を微かに、しかし明らかに歪めながら言う。

「この私に、その奇怪なアヒルの嘴の如き物を身に付けろと?アレのためにそこまでしてやる義理はない」
「アンタ……命落とすかも知れねーってのは平然としてるクセになんなんだその判断基準……」

 おとなうもの全てを飲み込むような夜の海上で、男二人はこの上なく真剣に対峙する。
 だがやがて、シンタローの肩ががくりと落ちた。くっ、と未練があるように左手に持つ洗練された形をしばらく眺めていた後、思い切りマーカーに投げつける。至近距離で投げつけられたそれを、マーカーは軽々と片手で受け取った。
            ハナ
「わぁったよ!いや最初からわかってました!俺がこっち使えばいーんだろォがチクショーー!!」
「理解のある上官で、嬉しく思います」

 あンの根暗男取り戻したらまず一発ぶん殴る!とほとんどヤケっぱちで手元に残ったそれを装着したシンタローに。
 よくお似合いですよ新総帥、と、この年齢不詳の男は腹が立つほど艶治な表情で、口の端を上げた。



***



 険しい崖をロープと鎹の組み合わせのみを駆使して登り、島のところどころに配置されている警邏兵を上手くやり過ごしながらシンタローとマーカーは砦に接近した。
 二人が目的地として想定しているのは、地下二階の図面上の空白部分である。そこに到るためにはいくつかのルートがあるが、その中でも最も兵の配置が少ないと思われるものをシンタローは既に頭の内に描いていた。構造上地下へと進むためにはどうしても避けて通れない箇所もあるが、あとは臨機応変に対処していくしかない。

「さぁて。こっからが本番てとこだな」

 その黒い双眸を夜行性の獣のように煌かせながら、シンタローは言う。一度潮水に浸った長い髪は、乾燥した空気の前に早くも乾き始めていた。

「潜入しやすいとすれば、そこの壁ぶち破ってってのがイチバン理想なんだけどよ……」
 
 砦の周囲に転がる大きな岩石と数少ない草木の蔭に身を潜めつつ、シンタローは狙う場所から百メートルほど先にいる二人の警邏兵を顎でさし示す。それを受けて、マーカーが肯いた。

「私が兵の衣服に火を放ちます。その混乱の間に」

 小声でそう告げると同時に、指先に火を灯す。軽く手首を振るような動作で、それを遠方の警邏兵たちの身につけている上衣の裾に飛ばした。
 何の火種もないと思われたところからいきなり燃え出した衣服に、予想通り兵たちは動揺する。広がりは遅いが軽く叩いた程度では消せない炎に焦りながら、二人の兵は水を求め走り去った。
 その隙にすぐさまシンタローは砦の外壁に駆け寄り。その壁に耳を当て、内部から何の音も聞こえてこないことを確認した後、右手に集めた小さめの光球を、やや下方に向けて放つ。
 岩壁の一部分が崩れ、ちょうど人間一人が身をかがめて入れる程度の穴があいた。



 入り組んだ砦の中をシンタローとマーカーは疾駆する。
 各所に配備されている警邏兵は、おそらくは元軍人だ。それもかなりの訓練を受けている。だがそんな屈強な男たちにも、マーカーは寸分も臆することなく。完全に気配を消しつつその死角まで近づくと、すれ違いざまその微かにあいている戦闘服の襟元から、まるで無生物を相手にしているかのような正確さで首筋に鍼を通す。その瞬間、兵の動きがまるで電池が切れたロボットのようにぴたりと止まり、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
 それはシンタローや、シンタローが普段知っているアラシヤマが使うものとは全く異なる種類の、無音の殺人術だった。
 思わず眉を顰めたシンタローに、マーカーは駆けながら息も切らせず告げる。

「殺してはいません。ただ、あの鍼を抜いてもしばらくは身体に痺れが残り、声を出すことすら不可能でしょうが」

 多少物音を立てても構わないと思われる状況では、的確に人体の急所に当たる複数の部分のどこかに強めの手刀か掌底を入れ、相手の意識を失わせた。
 シンタローももちろん敵の何人かは担当し、マーカーと同じくほぼ音もなくそれらを無力化していった。だが、多くはマーカーの機械的なまでに正確で迅速な動きの前に、シンタローが手を下すまでもなく地に伏していく。目の前で披露されるそのあまりに見事な手際に、シンタローは素直に感心した。
 話に聞いたところによると、あの島での決戦のときアラシヤマたちの相手をしたのは、ほぼマーカー一人だったという。あの四人がかりでも、まったく歯が立たなかった相手。それがこの目の前にいる特戦部隊という存在なのだ。

(あの負けん気だけは馬鹿みてーに強いアラシヤマが……手合わせする前から、敵わねぇって言うくらいだもんな)

 おそらく自分でも、出会いがしらに眼魔砲でも食らわせない限り、一対一で対決すれば勝てる自信はほとんど無い。一度近づかれてしまえば、必殺のそれすらも当たることはなく、その完璧なまでの体術と自由自在な高温の炎の餌食となるだろう。

 地下二階への階段を下りたところで、マーカーが足を止める。少なくともここまでは、図面と実際の造りとの間に大きな乖離はなかったため、道に迷うということもなかった。肝心なのはここからだ。
 マーカーが胸の前で、両手に何かを持つような仕草をする。一体何を始めるつもりかとシンタローが見つめていると、その掌中に青白い明かりが灯った。
 それは緩やかに姿を変えて揚羽蝶に似た形を象り、マーカーの細い指先からふわりと飛びたつ。

「ここまで近づけば、あとはコレがアラシヤマの元まで案内するでしょう」

 放たれた蝶のあとを追うように歩き出しつつ、マーカーは言う。
 もはや駆ける必要はない。すでに敵陣の奥深くまで二人はたどり着いている。むしろここからは迅速さよりも慎重さが肝要となる。
 各所にむき出しの電球が灯されているだけの薄暗い通路を、前方をひらひらと舞う仄かな明かりを追いながらシンタローとマーカーは音もなく歩む。
 敵兵の姿はほとんど見えない。十分に足りているとはとても思えない人員は、そのほとんどが敵の侵入を警戒して地上階に配置されていたようだ。
 地下水が通っているのか、時折どこかから、ぴちょん、という微かな水音が聞こえる。それが鮮明に耳に入るほどに、この場は静かだった。
 やがてシンタローが、落とした声量で、マーカーに問いかけた。

「―――なぁ」

 何があっても対処できるようシンタローの右斜め前をゆくマーカーから返事はない。だが問いかけには気付いているようで、少しだけ歩く速度を緩めた。

「アンタ、なんで俺んトコ、来たわけ?」

 それはシンタローの率直な感想であり、疑問でもあった。マーカーは振り向きもせずに答える。
       バックアップ
「―――団の後援があるのとないのとでは、成功率が格段に変わります」
「ンな一般論聞いてんじゃねーんだよ。アンタなら、たとえ一人でも来られたハズだろ?俺におうかがいなんざたてなくても。もしアイツをどうにかしたいと考えてんだったら、とっとと掻っ攫ってきゃよかったじゃねーか」

 その戦いぶりを目の当たりにしてわかる。この男はその気になれば、この程度の砦なら、おそらく何の支援を受けなくても易々と攻略する。シンタローの制約がなければ、更にそれは容易だっただろう。
 シンタローのその直接的で、ある意味では真っ当な意見に、マーカーはちらりと視線を流し。だがすぐに前方に戻した。

「……まず一つ目として、我々は我々の生活費と隊長の酒代と馬代を稼がなくてはいけない。経費や報酬は取れるところから取れ、というのが隊の一貫した方針でしてね」

 おそらく隊員たちにとっては死活問題なのだろうその本音には、微かな苦笑が含まれているような気がした。
 だが、それだけではシンタローが満足する理由にはならない。無言のまま先を促す。

「二つ目は―――私は一応、アレの意思を尊重してやったのですよ」
「……?」

 口にされたその意外な言葉に、シンタローは瞠目した。
 そんなシンタローの感情の揺らぎなど完全に無視しながら、マーカーは歩調に一糸の乱れもみせず、進み続ける。

「どれほど馬鹿で、不出来で、無様であろうと」

 前方を歩む男の表情は、シンタローからは見ることができない。常と変わらない無色透明な声音から、それを察することすらできなかった。
 そこに浮かんでいるのはいつもの冷たい無表情か、皮肉な笑みか―――それとも。



「アレは、私の弟子ですから」






『on the wild world』  act.8 












 うとうとと半分眠りながら扉を守っていたその牢番は、最初それを砦内部のボイラーの故障かと思った。
 やけに暑い、と気付けば汗が滴り落ちている額を戦闘服の袖で拭う。その熱の原因が背後の牢であることに気付くまで、そこからさらに数秒かかった。
 一体何だと様子をうかがおうとするが、溢れ出るあまりの熱に扉の内側を覗き込むことすら敵わない。小さな格子窓から見える内部はほぼ紅一色に染まっている。
 混乱の中、かろうじて残っている理性が、とりあえずこの異常事態を誰かに報告しなくてはと告げる。だが時はもう遅かった。既に高熱によって変形した鉄錠からアラシヤマの両腕は自由になっており、分厚い木製の扉の内側はほぼ炭化している。アラシヤマが軽く蹴飛ばすと、鉄の枠だけを残して簡単に砕けた。
 これ以上はないというくらいに眼を見開き、ほとんど腰を抜かしている牢番を、アラシヤマは的確に急所を捉えた一打で地に沈める。
 全身の打撲傷以上のダメージを身体に与えている極炎舞の影響にどうしようもない身体の重みを感じ、情けない姿だと自覚しながらも、とりあえず壁伝いに歩き始めた。目指す場所はただひとつだ。
 しばらく岩壁を杖代わりに歩き続けるうちに、なんとか通常の呼吸を取り戻す。全身の重みも、今にも倒れんばかりという状況からはやや回復してきた。そう、まだ倒れるわけにはいかない。まだもう一つ、自分にはやり残した仕事がある。



 もはや盾に取られて困る人質はいない。だが、それでも侵入時とは異なる理由で、アラシヤマは騒ぎを起こすわけにはいかなかった。今もし砦中の兵士を自分に差し向けられたら、さすがにその全てを捌ききる自信はない。哨戒中の兵士を見つけるたび、アラシヤマはまず意識してその呼吸を整える。そして兵士の側まで忍び寄り、死角から不意打ちの一撃目を狙った。
 間近にアラシヤマの姿を認めた兵士はみな一様に、まるで幽霊でも見たかのような表情をする。だが、すぐに軍人らしい表情に戻り、なんとか応戦を試みてきた。
 それら一人一人を仕留めるのに、アラシヤマは予想外に手間取った。それはアラシヤマ自身の状況の問題という以上に、相手の戦闘レベルの高さに起因している。

(息も絶え絶えの残党……コレが?いっそ笑えるわ)

 その口元を歪めながら、アラシヤマは心の内で呟く。やはり潜入時に待ち構えていた警邏兵たちはほぼダミーに近いものだったらしい。まさかこんなとっておきが残されていたとは、考えが及ばなかった。
 ただ己の認識の甘さは置いておくとして、それでもせめて捕まったのが自分でよかったと思う。
 もはやその怪我の軽重は問わない。問えるだけの余裕をアラシヤマは持っていなかった。ただ邪魔となるものを排除する、それだけの理由でアラシヤマは敵となる兵士たちを薙いでゆく。せめてもの救いとして、その対象となる数はけして多くはなかった。
 そうして辿り着いた、砦の最奥にある研究所の内部。白と銀色で構成された施設の中には、白衣姿の複数の研究員の姿があった。

「ヒィッ!…ガ……ガンマ団……」

 研究員の数は七人。そこに戦闘員は一人も含まれていないようだった。その完全に落ち着きを失っている行動を見れば、戦いと切り離された場所に日常をおいている人間だと容易に想像はつく。全員が全員、恐怖に顔色を蒼白にしながら、少しでもアラシヤマから遠ざかろうと後ずさっていた。

「……ちゃうで。こないなとこに捕まるような間抜けが、あんお人の部下やなんて口にするんもおこがましいわ」

 そんな男たちの姿がほとんど滑稽にすら思えて、アラシヤマはあえて彼らの恐怖を煽るかのように、ゆっくりと歩みを進め、男たちを部屋の隅に追いつめる。

「わてはもう、ガンマ団の人間やあらへん―――。これがどういうことか……あんさんらに、わからはるかなぁ?」

 一歩、一歩とその足を前進させながら、アラシヤマは穏やかにそう問いかける。そして、優しげにすら見える笑顔を白衣姿の男たちに向けた。

「もう、何人殺しても、ええちゅうことや」

 男たちは逃げ場を失い、部屋の一隅に固まってガタガタとその身を震わせている。

「久々に、血が滾るわぁ……一度きに焼き殺したるなんて、勿体のうてとてもできへん。さぁて……どいつから始末したろ……」

 うっすらと微笑みながら上唇を舐めるアラシヤマのその狂気に満ちた表情に、研究員の顔が恐怖で引きつる。固まりの中央に位置する一人が、悲鳴のような声で叫んだ。

「命令で……仕方なかったんだ!どうか、命だけ、は……」
「命、なぁ」

 この期に及んでまだ命乞いをする男の浅ましさに、アラシヤマの顔から冷笑すら消えた。その後に残るのは、どこまでも冷たい無機物を見るような眼差しだけだ。その瞳に完全に気圧されて、男たちはもう何も言うこともできず、ただ脅えきったネズミのようにアラシヤマの一挙一投足に過剰に反応する。

「あんさんら、自分が何作っとるか知ってて、そんでもまだそない阿呆なことぬかしてますのん」

 人間の命を、たとえようもないほどの苦痛の中、徐々に、確実に奪う毒。老若男女、善人悪人の区別なく、全てを地獄絵図の中に投げ込む手段。
 そんな代物をせっせと作り上げながら、一体どの口で己の命は惜しいと言えるのか。

「救い難いどすな……せやけど、所詮は小悪党、か」

 吐き捨てるようにそう呟く。そして、く、と顎を動かしてアラシヤマは研究所の入り口を指した。

「去ねや。隠し持っとる船でも何でも使うて、この島から出て行き。そんでここには―――もう二度と、戻ってくるんやないで」

 白衣姿の男たちはこけつまろびつしながら、這うように施設から逃げ去っていく。その後姿を冷ややかな視線で見送りながら、アラシヤマは自身もまた入り口のそばまで移動した。
 正直なところを言えば、彼らを追うような体力すらアラシヤマには残されてはいなかった。そういった己の状態をわかっていながらも、これだけは果たしておかねばならない、とその視線をざっと施設内に走らせる。

 先刻口にした言葉は間違いない本心だ。自分はもう団には戻れないだろうと、頭ではほぼ完全に理解している。それでも。
 アラシヤマは、まだ一人も殺してはいない。

(―――この期に及んで、まだ、捨てきれてへんのやな)

 あの人に、せめて一目でも会いたいという望みを。
 自嘲しながらそんなことを思い、そしてアラシヤマは白い箱にも似た研究所の中央に向かって、ゆるりとその片腕を上げた。



***



 その全てを炎の中に呑み込み、灰燼に帰す。かつては施設があり、今や廃墟と化したそこから僅かに移動した階段の上で、己の「仕事」がほぼ完了したことを確認したアラシヤマは、しばらく岩壁に背中を預ける。
 その気配には、かなり前から気付いていた。だが、その方向に視線を向けることすらせず、何よりまず体力を少しでも回復させようと、アラシヤマは壁に凭れかかったまま顔を俯けて酸素を体内に取り込む。
 やがて足音は間近で止まり、低い、静かな声が、アラシヤマにかけられる。

「まったく、大したことをしてくれましたね……ここもすっかり、閑散としてしまった」
「……―――お蔭さんで」

 大規模な炎を放ち、さすがに立っているのもやっとの状態のアラシヤマは、ゆっくりと瞼を開いて、男の顔を見上げた。汗はその露わになっている片頬を幾筋も流れ落ち、乱れた呼吸は隠しようもない。
 だが、それでもアラシヤマは不敵に笑う。砂色の髪をした元副官は、そんなアラシヤマを特に憎憎しげにというわけでもなく、ただその内にあるものを洩らさない無表情で見つめている。
 アラシヤマが荒い吐息のもとで、徐に唇を開いた。

「あんさん、ええところにきはったわ。……さっきの、質問」

 アラシヤマのその言葉に、男はほんの僅か、目を細める。

「今、答えたる」

 炎を放った直後に比べれば、それでもまだ呼吸は落ち着いてきた。代わりに重度の疲労と、それを訴える眩暈がするような睡魔がアラシヤマを襲う。
 それらを振り払うように、片手で乱暴に髪をかきあげて。わてやったら―――とゆっくりと言葉を舌に載せる。

「あんお人と刺し違える道、選びますわ」

 本音を言えば、声を声として発するだけでも一苦労だ。だがそんな内情は極力見せないようにして、アラシヤマは淀みなく言葉を繋ぐ。

「世界なんてどうなったって構わへん。誰がどんだけ残虐なことしようと、人が何人死のうとわてには関係のないことどす。ただ、もしシンタローはんが」

 その内容とは異なり、口調はけして投げやりではない。アラシヤマは、今のこの状況と対峙している相手を見れば場違いとすら思えるほどの誠実さをもって、彼にとっての回答を淡々と口にする。

「そないなことするようになったら、わてが命張って止めたる。それは、『今の』あんお人の望みや、間違いなくあらへんよって。それに、そうなったとき、あんお人を止められる人間は、団にも数えるほどしかおらんしな。
 まっとうにやって勝てる気はせえへんけど、殺し合いやったらまだ多少はわてにも分があるわ」

 無理心中、てなことになればそれはそれでわてにとっては案外幸せなんかもしれんどすなあ、とアラシヤマは冗談でもなく呟いた。

「―――せやけど、そんなんなる可能性は0.01%以下や」

 気を抜けば崩れ落ちそうになる足を、後ろ手に隠したその指で壁を強く掴むことによって、かろうじて支える。短く整えられた爪が、岩肌に食い込むほど強く。
 そして男の目を真正面から見据えながら、アラシヤマは言う。

「あんさん、『絶対』いうことはこの世にあらへんゆうたな。それはそうかもしれんどすわ。人は変わる。それも真理どすな」

 口にする言葉には嘘も虚勢もない。男から聞かされた過去にもそこにあった葛藤にも、どこか相感ずるものはあった。実際、彼に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったことも、けして否定はしない。それでも。
 これだけが、アラシヤマにとって言いきれる唯一のこと。


「ただ、わてが今、シンタローはんを信じるゆうこの気持ちだけは―――『絶対』や」



 静かにそう断言したアラシヤマの声には、微塵の揺らぎもなかった。
 その瞳に宿る光は信仰にも似た強さで。ただ神へのそれとの違いは―――アラシヤマは彼の弱さや負の可能性を十分了解した上でなお、その言葉を口にする。
 男は何も答えなかった。冴え渡る静寂の中で、言葉を続けたのはアラシヤマのほうだった。

「……あんさん、そんだけ想うとるんやったら、なんでそないに、あの男のそば離れたんどす」

 それはあからさまな、男に対する非難の口調。かすかに眉を顰めたままアラシヤマの言葉をその身に受けていた元副官の顔に、初めて動揺にも似た色が顕れる。

「怖かったんやろ。自分の信じる唯一のもんが、目の前で変わってくんが。それを間近で見とんのが辛うて辛うて耐え切れんかったから、ガンマ団への長期潜入やなんて、ていの良い追っ払いみたいな命令にものこのこ従ったんやろが!」
「……―――ッ!!」

 一気に言い、やや上がってきた息のもと、アラシヤマはだがあくまで冷徹にそれに次ぐ言葉を口にする。

「どんだけ憎まれようが疎まれようが―――あんさんは、離れるべきや、なかったんどす」

 裸の電球だけが小さく灯された仄暗い岩の通路。遠く聞こえる細波のような風の音の中で、アラシヤマのその声は、かすかに、だが確かな意思をもって響いた。
 男の顔色は蒼褪めていた。どこか呆然としたような表情で、すべてを言い終えたアラシヤマを、ただ見つめている。
 しばらくの間、男はその表情のまま口を噤んでいた。だがやがて、その瞳に、す、と別の色が浮かび上がる。

「……そうかもしれない。しかし、もう全ては遅すぎる」

 そう口にしたとき、男の表情はすでに平時の、奥にあるものを覗かせない薄い皮膜一枚で覆われたようなものに戻っていた。

「実は、困ったことが起きているのはここだけではないんですよ」

 そして、軽く肩を竦めるような動作をして、言う。

「定時連絡を義務付けている警邏兵のうち、二人の音信が途切れましてね」

 その言葉の内容に、アラシヤマの眉がぴくり、と動いた。そんな僅かな変化も男は見逃さず、自虐的にも楽しそうにもみえる表情で、アラシヤマへの報告を続ける。

「どうやら、この砦にいる人間では太刀打ちが出来ない相手のようです」
「……」
「身を隠しながらかろうじて姿を視認した者の報告によれば、侵入者は二人。一人は炎を使い、もう一人は、どこかで見覚えのある長い黒髪の男だとか」
「―――な……っ?!」 

 思わずアラシヤマは男の胸倉に掴みかかる。そしてその詳細を聞き出そうとするが、疲弊しきったアラシヤマの腕は、かつての部下に簡単に抑えられた。間に二十センチも残さない距離で、アラシヤマは男の硝子玉のような瞳を睨み付ける。視線だけで人を殺めることができたなら、とこの時ほど痛切に思ったことはなかった。
 それは男が初めて眼にした、感情を剥き出しにしたアラシヤマの表情だった。
 男の唇がゆっくりと微笑を象る。

「あなたは常に……己にリミッターをかけていたのですね」

 アラシヤマの瞳の奥底を覗き込むようにその視線を合わせたまま、囁くような声で男はそう呟く。
 その次の瞬間、男を強く睨みつけていた筈の、アラシヤマの視界が、ぐらりと歪んだ。

「ならば、それを外して差し上げましょう。―――あなたが本当に求めている結末が、そこにあるかもしれませんよ」






『on the wild world』  act.9 












 鍵の壊された独房の前を通過し、隠し扉も難なく発見したシンタローとマーカーが辿り着いたのは、二階層が吹き抜けとなっている一つの大きなホールだった。
 図面上には描かれていなかった円形のそのホールは、直径にして約五十メートルはあるだろうか。二階分の天井は高く、床はそれまでの凹凸の多い煉瓦から、綺麗に研磨され隙間なく敷き詰められた石に変わっている。
 遮蔽物のないその空間に、二人は用心深く足を踏み入れた。
 もう砦のかなり奥まで入り込んでいる。侵入開始時から昏倒させてきた警邏兵も、さすがにそろそろ誰かに見つかっていておかしくない頃だ。どこに伏兵が潜んでいるかわからない。
 そんなことを考えつつ慎重に歩みを進める二人の目に、一つの影が入り込んできた。シンタローたちが入ってきた入り口のほぼ対面に位置する扉から現れた人影に、シンタローとマーカーはすわ敵かと一瞬身構える。
 だが扉の陰からゆっくりと歩み出し、いまや完全に姿を見せた男は、予想していた警邏兵の類ではなく。
 シンタローは思わず、その名を呼んだ。

「アラシヤマ!」
 
 ガンマ団の戦闘服のあちこちに黒ずんだ血の痕を付け、俯きがちに佇んでいるその面は、長い前髪の陰になってほとんど見えない。
 やはり怪我の程度が酷いのか、いつものようにアラシヤマはこちらに駆け寄って来ようとはしなかった。だが、思ったよりその姿勢に乱れはない。しっかりと両足を地につけたまま、アラシヤマはその場にただ、立っている。
 シンタローは安堵というよりは怒ったような表情で、ずかずかとアラシヤマに歩み寄った。やや後方を、微かに怪訝な表情をしたマーカーが追う。
 それまで先を進んでいた炎の蝶が、目指す相手を前に、不意に明滅したかと思うと、そのまま消えた。元はそういった動きをするはずのものではない。だがそんなマーカーの不審には気付かずに、シンタローはアラシヤマに語りかける。

「テメ、やっぱ自力で逃げ出してやがったのか。にしても……」

 そのすぐそばまで近づき、呆れたように話し始めたシンタローの言葉に。
 ほんの僅かだけ上げられたその顔に見えた、アラシヤマの口元が、ニィ、と歪んだ。



「……シンタロー様!」

 マーカーはその細腕のどこにそんな力があったのかと驚くほど強く、シンタローの肩を掴み引き倒す。不意のその行動にシンタローが後方約五メートルほど飛ばされた瞬間。
 それまでシンタローがいた場所に、炎の柱が上がった。

「なっ……?!」

 幾何学的に敷かれている石畳の上に後ろ手をついた態勢のまま、シンタローはその炎を呆然と見上げる。それは、明らかにシンタローを狙ったものだった。人間一人を燃やし尽くしてなお余りある業火は天井にまで届き、室内の温度を一気に上げる。
 マーカーの皎白の面が苦虫を噛み潰したかのように顰められた。

「……うつけが。正気ではないな―――催眠暗示、か……」

 シンタローは強いて己を冷静にし、なんとか現状を把握しようとする。一瞬の油断を恥じながらも腰を上げ、いつでも行動が起こせるようしゃがんだまま地に片手をつけた。
 アラシヤマは先刻いた場所から動かず、ただ虚ろな笑みを浮かべてシンタローとマーカーを眺めている。否、それは「眺める」などといった意思のある視線ではなかった。ただ前方にある異質なものに、その髪の合間から見える目を向けているというだけの行為だ。

「マーカー。アイツ……」
「どうやら、見ての通りの状況のようですね。あの馬鹿弟子は、我々を認識しておりません」

 食い入るような眼差しでアラシヤマを見るシンタローの、あえて感情を抑えたその声の中にも、戸惑いは隠しきれるものではない。
 そんな若い上官の不安を見透かしたかのように、マーカーは淡々とした声をかけた。

「弟子の技など、元より私には児戯にも等しきもの」

 その言葉に嘘は無い。例え催眠状態にあっても、マーカーであれば力ずくでアラシヤマを押さえつけるために然程の苦労は要しないだろう。
 しかしある一点、さすがに予想もしていなかったアラシヤマのその状況に、マーカーの声に一抹の感情が混じる。

「ただ、あれは……あれもまた、暗示だというのか……?」

 独言のように呟くその台詞に、シンタローが眉根を寄せてマーカーを見上げる。

「……?どういうことだ……?」

 マーカーもまた忌々しそうにアラシヤマを見据える。臨戦態勢は解かないままシンタローの傍らに片膝をつき、答えた。

「あの炎は、アラシヤマの出せる限界を超えております」

 その言葉の意味するところに、シンタローの嫌な予感は更に深まった。
 ホールの出口を背にして立つアラシヤマの全身には、まるで何かのオーラのように薄色の炎がまとわりついている。それは普段、男が炎を使うときにも見られないもので。

「言うならば、常に極炎舞の状態で戦っているということ。―――となると、多少、厄介なことになる」
 
 シンタローとマーカーの間に、けして軽いとはいえない沈黙が流れる。
 
 長引かせれば、アラシヤマが死ぬ。
 止めるには暗示を解くか、完全にその意識を失わせるしかない。前者はその暗示の種類がどのようなものかわからないという点と、この男の性質的な問題からほぼ不可能に近いと思われた。
 
(ただの暗示ならば、手足でも折れば大人しくなるものを……)

 アラシヤマの意識が僅かにでも残っている状態では、駄目なのだ。
 触れることも出来ない高熱を身にまとうアラシヤマを、一瞬のうちに昏倒させなくては、たとえ両足を折られて動けない状態でもアラシヤマは炎を放ち続けるだろう。
 マーカーがすっと腰を上げ、シンタローの前に立つ。目前を覆う濃紫の中国服のその背には、確たる意思が張り詰めていた。

「―――新総帥、どうか、お下がりください」

 シンタローがそれに諾と答える前に、その前方を庇うように立っているマーカーに向かい、アラシヤマの足が地を蹴った。



 一切の情を忘れ、アラシヤマはマーカーに牙を剥く。
 攻撃はことごとく的確に人間を死に至らしめる急所を狙い、相手を怯ませ、またあわよくば焼き尽くさんとする炎を生み出すことにも躊躇は無い。
 頚椎を狙って飛んできた踵をよければ、前傾姿勢になっているマーカーの顔にすれすれのところで反動をつけたもう片方の脚が空を切り裂く。寸分も待たずアラシヤマの掌から生み出される炎は、バランスを崩し気味になったマーカーの足元に向かって放たれた。それをバク転の要領でかわし、マーカーはひとまず間に距離を取る。 
 二撃めの蹴りを避けた際にかすったらしく、マーカーの右頬は微かに赤くなっており、その唇からは一筋の血が流れていた。
 だが、マーカーはどこか嬉しそうに艶やかな口唇の血を舐める。
 
「フン……我を忘れてようやく思い出したか。……この私が教えた、戦い方を」

 そして右腕に炎を生み出したマーカーの貌に垣間見えたその色は。
 恐ろしいほど―――「歓喜」に、よく似ていた。

 緊迫した空気を間に挟んで師弟は対峙する。
 跳躍したのはほぼ同時。空中でアラシヤマの脚が風を薙ぎ、それを片腕で防ぎながらマーカーもまた、アラシヤマの空いた脇腹を狙って鋭い蹴りを放つ。二人とも相手の攻撃を紙一重で防ぎながら、それでも態勢を崩すことすらなく着地し、また互いに向かっていく。
 技量はもとより対等ではない。しかしマーカーには課された制約があまりに多く、逆にアラシヤマはその全てから解き放たれている。


 舞うような二人の攻防を追って、炎が軌跡を描く。
 ほぼ白色に近い蒼の炎と、黄金にも似た橙の焔が交錯する。


 それは、まるで夢幻のような光景だった。



 だが、やはりその決定的な経験の差から、優位な立場を奪ったのはマーカーのほうだった。
 瞬間の隙を捉え、アラシヤマを堅い石畳に叩きつける。動物はなんであれ、脊椎に強い衝撃を与えられればその後すぐに動くことはできない。
 与えた衝撃をそのままに、マーカーはアラシヤマを地に組み敷いた。通常の戦闘であれば、完全なチェックメイトの状態だ。
 だが、そうした状況にあってなお、アラシヤマは全身から放つ炎の温度を下げようとはしない。そのため、マーカーの両腕はアラシヤマを抑止するために働きを制限され、決定的な一打を打ち込めずにいる。
 組み伏したその姿勢のまま、その間際でアラシヤマの炎を自らの炎で相殺しながら、マーカーはぎり、と奥歯を噛み締めた。これほどの炎を出し続け、その源となる命はあとどれだけ保つというのか。

「貴様の命は……こんな所で燃やし尽くすためのものではないだろうが……ッ」

 限界という箍を外されたアラシヤマの炎は、マーカーですら長く抑え続けることはできない。弟子と戦いながら、初めて頬に一筋流れた汗を自覚する。
 それでも、マーカーはアラシヤマを地に留めたまま、その無表情の面に向かって、一喝した。

「貴様が、命を賭してまで守りたかったものはなんだ!」

 その瞬間、何も映すことのなかったアラシヤマの瞳が、僅かに、だが確かに―――揺らいだ。

 しかしそれはほんの刹那。次の時、アラシヤマは右膝を師の腹部に入れようとし、それを避けようと抑えつけていた腕の力をやや弱めたマーカーを、反対に押し倒す。体勢が逆転する。
 アラシヤマの超高熱をまとった右手がマーカーの左手首を掴んだ。ジュゥゥ、という肉の焦げる音がシンタローの元にまで届く。

「ぐ……っ」
「よせ!アラシヤマ!」

 だがそんなシンタローの制止にも、苦痛を堪えるマーカーの表情にもアラシヤマは一向に反応を示さない。
 二人の声はもう、アラシヤマには届いていない。

(―――聞こえねー、のか?なんで。テメエ、アラシヤマだろう?)
 
 ストーカーで口が悪くて。性格も悪くて誰に対しても皮肉めいた顔して、人間の友達なんて一人もいなくて。
 それでも自分が言うことならなんだって、ムカつくくらい嬉しそうに聞いて。

 もし、万が一。マーカーが倒れることになって、奴が自分にすら向かってきたら。
 その時、自分に残された手段は、この男が自分に牙を向けたその瞬間に殺すことしかない。その師ですら抑えきれなかったものを止めるには、シンタローにはそうするほかないだろう。

 だが、そんな結末をシンタローはけして望んではいない。ふざけるな、と心の底から怒りが湧き上がる。
 そう、約束したはずだ。あのときだって――――



***



 ミヤギ、トットリ、コージの三人が笑顔でシンタローと約束を交わしたあと。アラシヤマはただ一人だけ、すぐにはそれに応じなかった。
 深緑色の軍用コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く俯いたその口元には皮肉な笑みが浮かんでいる。
 シンタローが眉間に皺を寄せながら責めるようにそれを見ていると、アラシヤマは困ったような声で言った。

「―――わての命や。シンタローはんの頼みでも、そればっかりはなぁ」
「てめ……ッ!」
「それほど軽いもんでもないどすけど、あんさんになんかあったら、こんな命、いくらでも捨てたる思うてしまいますしな」

 その時、ちょうど準備が整った艦から、四人に声がかけられる。
 アラシヤマもまた、シンタローに背を向けて己が任地へ向かう艦へと歩き出そうとした。シンタローがその背中に向かってまだ何かを言おうとした、そのとき。

「ただ、できる限り、努力はしまひょ」

 ひらひらと、ポケットから出した片手を何かの挨拶のように振りながら、アラシヤマは言い。
 一度だけ、シンタローを振り向く。
 艦のプロペラが巻き起こす風が、普段隠しているアラシヤマの両目を露わにして。
 
「あんさん、……泣かせたくはないどすよって」
    らんぺき
 そして藍碧の空と複数の輸送機器を背景に一瞬だけ見せた表情は、
 いつもの根暗男と同一人物とは思えない、憎らしいほど鮮やかな笑顔だった。



***



 充満する熱気。有機物の焦げる匂いが、シンタローの鼻をつく。おそらくつかまれた手首には酷い火傷を負っているのだろうマーカーは、下手をすればアラシヤマもろとも燃え尽きるのではないかというほどの炎を相殺するだけで、その場から動けずにいる。
 その尖った顎から、前髪の先から汗を滴り落としながら、シンタローが叫ぶ。


「アラシヤマぁっ!テメエ心友なら、俺の声くらい聞きやがれぇぇぇ―――!!」


 ホール中に響き渡る絶叫。



 ―――その時、その場の空気の流れが、すべて、静止した。



















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a2
『on the wild world』  act.4 












 一方、ガンマ団本部から二千キロメートルほど離れたとある国。その上空はるか高みに浮かぶ戦艦の内部では、小型の機械とイヤホンを片手に一人のイタリア人が懊悩していた。

「うーー……、マジかぁ~……」

 皮製のソファの上で、大きな上体を猫背に屈め、個室に一人、「やっぱり」と「でも」を繰り返している。
 ちょうど狙い済ましたかのようにそこに現れたのは、まさしく今の懊悩の対象となっている人物だった。普段なら飛びつきたいほどなのだが、今はできることなら顔も見ず一目散に逃げ出したい相手である。
 やってきた中国服の麗人は、真っ直ぐに伸びた背筋に、西洋人ではまず滅多に見られない柳腰。あぁ今日も美人だよなァなどと埒も無く思いながら、ロッドは捨て犬のような上目遣いでその名を呟いた。

「マーカーぁ……」
「なんだロッド、その情けない顔は。鬱陶しい」

 涼しげな眉根を微かに顰め淡々と発されるその声に、ロッドは、ううう、と唸りながら金の髪を掻き毟る。その様子にさすがにいつもと違う何かを感じたのか、マーカーは皮製のソファに腰掛けることもせずに。腕組みをしたまま、精密機器を手にしている大柄な男の姿を、冷ややかな瞳で見下ろす。

「できれば、あんまし言いたくないンだけどね~。でも後からバレて、末代まで恨まれんのもヤダし……」
「……今の時点で燃やされるのは確実なのだから、せめて一刻も早く吐いて私の機嫌を取り、焼死は免れるのが賢い選択だぞ」

 その科白が脅しではないということは、身をもって知っている。だがそれをわかっていてもなお、金髪のイタリア人は数秒間沈黙を守っていた。しかし、やがてどうやっても逃げ道はないと悟ったのか、

「―――あのさ」

 どこか諦めたような顔でロッドは切り出す。

「マーカーのお弟子ちゃん、任務の最中で捕まったって」
「……なに……?!」

 普段は無表情か冷笑か不機嫌の三パターンの表情しか見せないマーカーの白皙の面に、明らかな「感情」が現れる。その顔を目にしてしまったロッドは、諦観をよりいっそう深くして。渋々といった様子ながら、傍受した会議の内容をそのままマーカーに伝えた。
 アラシヤマが任務の最中に副官の裏切りにあって敵に捕らえられたこと。交換条件として敵方が出してきた法外な要求。そしてそれを呑めないという前提のもと行われた会議で、新総帥の口からはっきりと下された、救出隊すら出さないという決定。
 それら全てをほんの僅かに眉を顰めた表情で聞き終えたマーカーは、―――そうか、と。それだけを口にした。
 そして寸暇も待たず、くるりと反転しその足を部屋の出口に向ける。
 「え、おい、ちょッ…、待てって」と追いかけるロッドの声は、完全に無視して。
 話を聞き終えた段階で既に固まっていた今後の行動指針に沿って、一分の躊躇いも無くマーカーは己の上司の元へと歩みを進めた。



***



 目指す上司はメインフロアにいた。酒瓶を片手に、起きているのか眠っているのかわからない様子で、ひたすらに競馬情報を流すテレビの前のソファに横たわっている。

「隊長、ご相談に上がりたいことが」
「……ンだぁ?かしこまって。言っとくが金ならねーぞ」

 がしがしと頭を掻きながら、長い金髪を乱れさせた男は億劫そうに起き上がり、ふあぁ、と一つ大きな欠伸をしてマーカーに上体を向ける。同時に常には無いその細い輪郭の上の微妙な変化に気付いて、やや眼光を強めた。
 すぅ、と短く呼吸を整え。マーカーは前もってその胸に決めていた希望を言葉にする。

「どうか、私に離隊命令をいただきたいのですが」
「―――はァ?」

 ハーレムの寝起きの顔が、理解しがたいものを耳にしたというように顰められた。聞き間違い、あるいは何かの冗談かと数秒待つが、マーカーは真っ直ぐにハーレムを見つめたまま、微動だにしない。

「……隊を、抜けたいと。そうぬかしやがったのか?今」
「―――ええ」
「理由は」
「一身上の都合です。隊長のお耳に入れるほどのことではありません」
「ソレで、通るとでも思ってんのか」

 眉間に皺を寄せ、濃い睫毛に縁取られた眼を細めながら、白い開襟シャツ姿の上司はマーカーを睨めつけた。明らかに偽物ではない殺気を含んだ剣呑な目つきと、抑えられながらもドスのきいた、その声に込められた際限の無い迫力。それに感じる背筋の冷たさは、何度受けたとしても、決して薄れることはないだろう。

「いいから言えッつってんだよ。さもなきゃ、今、この場でブッ殺すぞ」
「……―――」

 だが、今にもこちらの喉笛を噛み切りそうな猛獣の目をしたその上司の恫喝にも、しばらくマーカーは何も答えなかった。絶え間ないエンジン音がこだまする室内に、触れれば指先が切れそうに緊張した空気が流れる。
 ほんの数秒間の、それでもその中に身を置く者にとっては永劫にも近いような沈黙。
 根負けしたのは部下のほうだった。はぁ、と小さく息を吐く。どう足掻いたところで敵う相手ではないことなど本当は、数十年前から、理解している。

「……非常に、この上なく、腹立たしいこと極まりないのですが」
 
 屈辱に満ちた色をその面に浮かべながら奥歯を噛み締めて。マーカーはその科白を口にする。実際、マーカーにとってそれは身内の恥以外の何物でもなかったのだ。

「私の、後にも先にも持つことは無いだろう不肖の弟子が、敵方に捕えられるという不始末をしでかしました」

 ハーレムの張り詰めた表情が、その言葉を聞いた瞬間、呆けたようなものになった。
 弟子っつーと、あの兄貴から無理やり押し付けられた陰気なガキか?あの島で再会して、その頬の傷をつけやがった……
 正直、これだけ長い間付き合ってきた部下と上司の間柄ながら、この男がそれほどの弟子に対する庇護欲を持っていたとは信じがたいのだが。いや、それでもあの島では確かにそれらしき行動もとってやがったなぁ……と、ハーレムの頭は予想外の混乱の中フル回転する。
 だが師弟愛というよりはむしろ―――責任感か、と思い直し。なんとかマーカーのその言動に合点がいった。
 にしてもよぉ……と、ハーレムは彼にとっては極めて珍しく頭痛がするような心持ちで思う。戦場ではあれだけの冷酷さを見せ、任務とあればどれだけ卑怯な振る舞いも厭わないくせに。どこまで律儀な男なんだコレは、と目の前に直立する黒髪の中国人を見る。

「……それで、師匠のテメーがカタぁ付けに行くってか」

 呆れながら独り言のように吐き出されるその声に、マーカーは黙ってコクリと頷いた。そして断罪を待つような心境で、そのまま目を閉じてハーレムの次の言葉を待つ。
 
 叱責は覚悟の上だ。二、三回殴られる程度で済むのなら上出来だとすら思う。下手をすれば命を落としても仕方ないような、そんな類の願いを、自分は口にしている。

 だが、やや項垂れているようにも見えるマーカーを急襲したのは、叱責の言葉でも堅い拳でもなく。
 べしっと、あまりにもいい音をたてて、ハーレムはマーカーの頭をはたいた。
 予想もしていなかった事態に切れ長の目を丸くするマーカー。そんな表情を見てハーレムは一瞬だけ、マーカーには気付かれないように満足そうな顔をし―――それから長い金の髪をざっくりと片手でかき上げながら、口元を不愉快そうに歪ませた。

「ッたくよぉ、弟子も馬鹿なら、師匠も大馬鹿だぜ」
「……―――ッ」
「たとえ親が死のうが子が死のうが、そんなん離隊の理由になるワケねぇだろーが」

 それはある意味では予想通りの返答ではあった。だがその内容と先ほどの行動との落差にマーカーの困惑は深まるばかりだ。
 そんな普段なら決して目にすることはできない部下の様子を、ハーレムは内心でこの上なく面白がりながら、天井を見上げる。そして―――ただ、と言いながらニィと笑った。

「あのクソ生意気な甥っ子に、恩売っとくのは悪くねェ。―――おい、マーカー」
「……はい」
「オメー、十年休暇、まだとってねーだろ」
「―――は?」
「永年勤続休暇ってヤツだ。……二日間だけやる。里帰りでもしてきやがれ」

 それだけを告げるとマーカーに背を向けて、ソファにどっかと座りなおし。さっさと行っちまえ、とでも言うようにひらひらと左手を振る。

「隊長……」
「ンだよ、なんか文句でもあんのかぁ?」
「―――申し訳、ありません」
「ケッ……。お前が謝るなんてこりゃ、槍の豪雨が降るな」

 白いシャツを一枚羽織っただけの広い背中に向かって、マーカーは深々と頭を下げる。その仕草を肩越しの気配で感じながら、―――オレも随分部下にゃ甘くなったモンだ、と苦笑するような気持ちでハーレムは唇の片端だけを引き上げた。



***



 マーカーが支度を整えるため自室に戻ると、扉の前でロッドが待ち構えていた。その様子はまるで叱られて立たされている悪ガキのようだ。いつもと変わらない平静そのもののマーカーの顔を見ると、唇を尖らせて、あ~あ、とため息を吐いた。

「結局、行くことになっちゃったんだ?」
「ああ―――隊長の厚情で、『休暇』扱いということになったがな」

 淡々と告げられたその言葉に、ロッドはやや表情を和らげる。あのオヤジもたまには粋なことをするらしい。どうやら最悪の状況だけは回避されたようだ。
 自室に入るマーカーに当たり前のようにロッドはついてきて、隅に据え付けられている簡素なベッドに腰をかけた。パイプ製のベッドの脚がギィッと軋む。そんな男の動きなど空気の一部であるかのごとく扱いつつ、マーカーは着々と身支度を始める。
 だが、ふと気付いたようにその手を止め、

「私が留守にする間の隊長のお世話は任せたぞ、ロッド」

 これだけは、とでも思ったのか、ロッドに向かってそう言った。

「なンでオレが、あのオッサンのお守りしなきゃなんねーの……」

 ぷぅ、と頬を膨らませながら不満たらたらという態度を隠さずに、ロッドは各棚から様々な暗器を取り出し身に付けていくマーカーを見遣る。オレの好みはサラサラ黒髪の東洋美人なんだあンな派手好きの金色した獅子舞じゃねェよぉ~、などとわめきたてるその姿を一顧だにせず、マーカーは数分間で、ほぼ完全に身支度を終えた。
 そして最後の仕上げと、ベッドの下に置いてあるらしい小型銃を取りにロッドの近くまで歩み寄る。
 そのとき、その中国服の筒型の袖をぐいっと引っ張って、ロッドが細身の身体を自分の元へ引き寄せた。

「なー、マーカー」

 捕まれた腕をいかにも邪魔そうに、自分を見るその眼差しにも、ロッドは全く動じずに。

「オレ、京美人ちゃんのコト、割と気に入ってンだけど」

 でも、と言いながら、ゆっくりと、マーカーの頬に残る火傷の跡を指でなぞる。

「それでまたオマエが怪我でもしたら。今度こそ、殺しちゃうかもしんないから、さ」

 だから無事で戻ってきてね、とロッドはこの世の大半の女の心を蕩かすような極上の顔でにっこりと笑った。そのあまりに見事な笑顔に、マーカーは炎を出そうとした片手を掲げたまま、ぐっと詰まる。
 気付けば戸口にはハーレムとGの姿もあって。

「とっとと行って、テメーの馬鹿弟子のケツ、ひっぱたいてこいや」

 金の鬣を持つ上司は、そう言ってニヤリと笑う。Gも珍しく苦笑のような顔を作って、普段は人形にも似たその白磁の顔に、戸惑った表情を浮かべているマーカーを見ていた。
 ロッドが一時のお別れの挨拶、とでもいうようにマーカーを背後から強く抱きしめ、耳元で囁く。

「早く帰ってきてね―――待ってるよンv」

 ほんの少し掠れたような低く甘い声が耳の中で反響する。その刹那だけ、イタリア人の太い両腕の内側で、マーカーは薄く目を閉じて。
 それから容赦なく、その腕の主を燃やした。
 そんな二人の様子など日常茶飯事といった風情のGは、平生どおりの落ち着いた低声で「……気を付けてな」とだけ、告げた。




『on the wild world』  act.5 












 ジャラリ、と耳に障る重たい金属音が、狭く薄暗い岩壁の部屋に鈍く響く。
 この砦で最も堅固と言われていた牢は、アラシヤマたちが切断した錠の修復がまだ済んでいないらしい。そのせいもあり、アラシヤマはかつては虜囚の拷問用だったこの部屋で散々痛めつけられた後、岩壁に鉄鎖で繋がれたままになっている。
 一応は証拠として団側に姿を見せるつもりだったらしく、顔にはさほど目立つ外傷はつけられなかった。しかしその分、今は戦闘服に隠された胴体への暴力は執拗で。アバラの一、二本にはひびが入っているようだ。
 意識して痛みを散らす訓練は受けている。だが、吊り下げられるように立たされているこの姿勢では、どうしても苦痛は増すばかりである。それでも息をするたびに痛む胸部を無理やり感覚の外に追いやりながら、アラシヤマは先刻の己の行動を反芻した。

(シンタローはんやったら、きっと交渉は全部自分でしてはったと思うけど……わての言うたこと、ちゃんと伝わったやろか)

 部屋の一隅に取り付けられている監視カメラは、初めから隠されてすらいなかった。散々痛めつけておいて、その上でなんらかの薬物―――おそらく麻酔薬―――を筋肉内に注射し念押しのように経口薬を飲ませた以上、それらへの気遣いすら無用と思ったに違いない。
 それは確かに適切な判断ではあっただろう。相手が、アラシヤマという男でさえなければ。
 アラシヤマはそういった薬物への耐性の強さには、団でも有数という自信がある。実際に意識を失っていたのはほんの数十分というところだろう。そして意識の無い捕虜を装ったまま、アラシヤマは機会を待っていた。

 メッセージはおそらく伝わっていると思う。だとすれば懸念の一つはなくなった。
 しかし、とアラシヤマは繋がれてさえいなければその場で蹲りたいほどの気分で思う。

(ああもう失態も失態。どえらい失態や……)

 ひびが入ったか折れたかしている肋骨や全身の打撲傷の痛みより何より、この己の姿の無様さが、一番こたえる。

(シンタローはん、怒ってはるやろなあ……。こない無能な男信用しはってって、お偉い方にいけず言われてへんとええけど)
 
 そうアラシヤマが自己嫌悪の渦中に沈んでいたとき、遠くからやけによく響く足音がこちらに向かってきた。かと思うと、一言二言、牢番と誰かが言葉を交わし、鉄枠のついた重い木製の戸が軋みながら開く。
 入ってきたのは二人。スーツ姿の中年男の背後には、かつての副官だった砂色の髪をした男が、影のように控えている。
 その中年男の姿には見覚えがあった。確か前政府の中枢にあって唯一新政府の追捕の手を逃れ続けている国防次官補だ。
 男は無表情のままアラシヤマの近くに歩み寄り、容赦ない力を込めてその頬を殴りつけた。

「―――いつから、気付いていた」
 
 おそらくは通信を開始した当初より意識は明瞭としていて、微かなカメラのズーム音に気付き、メッセージを送ったに違いなかった。それを理解していながらも、そのせいで数少ない切り札を一枚失った男の怒りが冷めることはない。その怒りの程度に、アラシヤマは自分の試みが成功したことを知る。

「さぁ……?シンタローはんの声が、聞こえたような気がしたからかなあ」

 にぃ、と口に端を上げながら答える。相手を馬鹿にしているとしか思えない返答に、男はさらにもう一発、抑え切れない怒りを拳を乗せてアラシヤマに叩き込んだ。
 素人の拳の重みなどたかがしれているが、ダメージを軽減しようにも身動きが取れないのは厄介だ。切れた口内の血を、アラシヤマは地に吐き出した。

「口のきき方には気をつけろ」

 懐から取り出したハンカチで手を拭いながら、スーツ姿の男は言う。

「全く、上司も上司なら部下も相当なものだな。あの若造め、小憎らしい顔をしおって……しかし今頃どれほど慌てていることか―――その姿が見られんのは、惜しいな」

 独言のようなその言葉。アラシヤマは、やはり交渉の場にはシンタロー自身が出て来たのだと確証を持った。そして、この男が今回の件の総元締めなのだな、とも。

「―――交換条件、何出しはったん」
「貴様が知る必要はない」
「いや、なんにせよ阿呆なこと言うたんやろな、としか思えへんよって」
 
 その言葉が明らかな挑発だということには、さすがに男も気付いたようだ。だが、今更この場で何を知ったところでどうすることもできまいと、罪人に温情を与える憐み深い施政者のような態度でそれを告げた。

「現在、国を牛耳っている輩の始末。それに加え、米ドルで三億だ。貴様の団なら、払えない額ではないだろう」
「三億ドル―――?.……て、京都タワー買えるんやないの」
「なんだと?」
「いや、こっちの話……にしても高ぅ見てもらえたもんどすなぁ、わても」

 暗にあまりに馬鹿げた要求だという嫌味を含ませつつ、アラシヤマは呟く。

「謙遜するな。貴様と新総帥が、学生時代からの旧友ということも調べはついている」
「旧友……?ハハ、あんさん、おかしなこと言わはりまんな」

 そうか、自分とシンタローとの関係はそのように他からは見えていたのか、とアラシヤマは嗤いたいような気分で思う。お門違いもいいところだ。ほんの数年前まで倒すことしか頭になかった相手だというのに。そして今だとて―――友人などと呼べるような、そんな関係では、ないというのに。
 あの時、彼自身が何を思ってその言葉を口にしたのかなど、さすがにもう気付いている。気付いているその上で、なお想っているのだ。自分の彼への感情は、旧友などという一言で括れるようなそんな気軽で、ありふれた気持ちではない。
 むしろその程度の情報の流れ方であれば大したことはないなと、腹立たしくも安堵するような気分だった。ただそういった思考の流れは一切表に出さずに、アラシヤマは口元に浮かべた笑みを残したまま、目に不穏な光を宿しながら男を見据える。

「まあ百歩譲ってそうとしても、あんお人は、そない情に流されるような甘ちゃんやあらしまへんで」

 その眼光の鋭さに、男は一瞬だけたじろぐ様な素振りを見せた。そんな姿に僅かにでも溜飲を下げながら、あえてアラシヤマは話題を変える。

「―――あんけったくそ悪ぅなるような悪趣味な毒。主成分はリシン、原料はヒマっちゅうとこか。お手軽でええどすな」

 あの研究施設で目にしたレポートの束を思い出す。あそこに書かれていたのはある一つの毒の生成式だった。アラシヤマが読むことができたのはほんの一部分、完成に至るまでの過程でしかなかったが、そこに書かれていた単語や組成図からそれがどういった効果を持ち、どのような用途で使われようとしているのか大体の見当はつく。

「あんだけ毒性強めたら、小国の首都全滅させるくらいは簡単どっしゃろなあ。あの理論どおりに精製できる工場さえ作れれば、の話やけど」

 そのアラシヤマの言葉に、スーツ姿の男の眉がぴくり、と動いた。

「―――工場など、ほぼ完成している。あの研究所を見て、気付かなかったのか」
「なんやて……?」
 
 一応カマはかけてみたものの、返ってきた台詞は予想以上のものだった。
 もはやアラシヤマの口元に笑みは浮かんでいない。真剣そのものの表情で、信じがたいものを見るような目で、アラシヤマは男を糾弾する。

「自分らの国壊滅させて、国民虐殺して、それでどないするつもりや。そないなことで権力の中心に返り咲けるとでも思とるんか」

 拘束されているという事実すら一瞬忘れ、繋がれている両腕の鎖がジャッと鋭い音を立てた。

「あんさん―――それほど阿呆な男には見えへんかったけどな」

 その言葉は、男の後ろに控えるかつての副官のみに向かって発されたものだった。だが、目の前のスーツ姿の男はそれにすら気付かぬ様子でただ、嗤う。

「なんとでも言うがいい。その姿で何をほざいたとしても、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎん。化け物じみた貴様の炎でも、鉄を溶かすほどの高熱は出せない。部下からの報告で、そのように受けている」

 勝ち誇ったように男は言い、そして踵を返した。革靴の底をあえて石の床に打ち付けるような、絵に描いたような権力者らしい歩き方で部屋から出て行く。
 かつての副官もまた一言も口にせず、その足音を追い、去っていった。



***



 それからどのくらいの時が経過しただろうか。外光の射し込まないこの部屋で正確な時間はわからないが、この場に拘留されてからおそらく十時間以上は経っている。
 肋骨の痛みはすでに吐き気に変わっていた。もとより変えることのできない体勢のまま、アラシヤマはただじっと目を閉じている。そのあまりの静かさに、牢番は最初こそ死んでいるのではないかと思い中を覗き込んだが、何度か同じ行為を繰り返すうちに気力を失っているだけだという結論に達したらしく、それ以上は何の処置もとろうとはしなかった。
 そんな状況が何時間か続いたあと、ほとんど居眠りをしかけていた牢番は、先触れなしに現れた己の上官の姿に、目をこすりながら慌てて立ち上がる。そしてアラシヤマの耳に、がちゃり、という扉の鍵を開ける音が聞こえてきた。
 そこに立っていたのは、昼には一言も話すことのなかったかつての副官だった。

 男は丁寧に扉を閉めてから、部屋の隅に行くと、そこに伸びている複数の電気コードのうち一本を引き抜いた。怪訝そうな顔でその行動を見守るアラシヤマに向き直って、相変わらずの無表情で淡々と告げる。

「監視カメラは切りました。これで、この部屋で話すことがほかに漏れることはありません」
「……」
「貴方と、二人で話したいことがあったので」

 その言葉で、先ほど抜かれたコードがカメラに通じる何かだったということを知る。だがその行為が何を示すものかまでは、アラシヤマにはまだ理解できなかった。

「あんさん……」

 この男に対してはもはや何から口にすればいいのかわからない。今更女々しい恨み辛みを連綿と述べるつもりはなかった。自分の失態は、陥れた張本人よりも己自身に対して唾を吐きたい気分だ。しかし素直によく出来ましたと褒めてやる気にももちろんなれず、結局、小さくため息をつくだけに留まる。

「よおもこんだけの期間、韜晦しとったもんやな」

 少なくともその言葉は嘘ではなかった。この国の出身であるというそれだけで疑われる要素はあったはずなのに、その有能さと誠実な人柄から、男は支部内でも目立たぬ程度で最大限の信頼を周囲から得ていた。

「これでも『人を無闇に信じない』ゆうのがわてのポリシーなんやけどな」
「……お褒めの言葉と、受け取っておきましょう」

 口元には笑みを刻み、しかしその声には明らかな棘を含ませて自分を見るアラシヤマにも、元副官はただ苦笑するような顔を返しただけだった。なんやわて、また人間不信酷ぅなりそうや、と言いながらアラシヤマは顔にかかる髪を払うように首を振る。

「もっとも、私があなた方の団にお邪魔していたのは、元はそちらの軍事技術を学ばせていただくためだったのですがね」

 思わぬ仕事をすることになってしまいました、と他人事のようにこの男は言う。

「本性は、アレの側近ちゅうことか」

 アラシヤマには既に確信があった。いつだって、ヒントはその気になればすぐ目の前に転がっていたのだ。

「暗殺なんて裏稼業やったら、銀の銃身なんて使うはずがあらへんわな。なんやおかしいと思うたんは、それか」

 男はすぐには答えない。
 だがやがて、アラシヤマの問いかけの直接的な答えとは別のことをぼそりと呟いた。

「―――あの方も、以前はああではなかった」

 常に穏やかそうに見えて実際は何も映し出してはいなかったその瞳が、一瞬だけ、どこか遠くを見るような色に変わる。

「私は生まれたときから、あの方の側近となるべく育てられてきました」

 上層階のどこかから風が入り込んでいるのだろうか。それとも島を取り囲む海の波の音がここまで聞こえてくるのだろうか。ほんの微かな潮騒のような音の中で、男の静かな口調が、薄暗い岩壁にこだまする。

「初めて記憶にあるのは、五歳くらいの時でしょうか。あの方はちょうど三十前で、軍部からこの国の政権の一隅に参画を始めたばかりだった。功績より家柄で選ばれた政治家と後ろ指をさされながらも、努力を積み重ねて得たその優秀さで、誹謗中傷をすべて捩じ伏せて」

 男はそこにアラシヤマがいることなど忘れたかのように、独白のように台詞を繋ぐ。

「―――何より、あの方の描く未来は、我々国民すべてにとって、初めて持つことができた夢だった」



 この世の全てが干上がりそうな、灼熱の陽光が降り注ぐ真夏の盛りの日。
 見たことも無いような一張羅を着せられて初めて出会った「主人」は、日に灼けて声の大きな、精悍な顔をした男だった。

――― この子が、将来私の片腕となってくれる部下か。

 そう言って、ほんの五歳に過ぎなかった自分と目線を真っ直ぐに合わせ、

―――私の歩く道はおそらく平坦ではないだろう。―――苦労させるかもしれんが、よろしく頼む。

 澄み切った笑顔を浮かべた後、子供の砂色の髪をクシャクシャと撫でた。
 


「迷いなど一つも無かった」

 自らは表舞台にはほとんど立つことなく、たとえどれほど危険な仕事を一身に請け負う運命の下に生まれようとも。その先にある眩いばかりの未来を思えば、この身などいくらでも投げ出すと決めた。

「あの方は、この国を正しく繁栄に導こうと。先進諸国にも劣らぬような、近代国家に成長させようと、心の底から願っておられた。その夢に邁進され、日々粉骨砕身、働いていらした」
「……あんさん……?」
「この国の政治は、本当に何の希望も無いものだった。あの方は唯一の希望だった。そのお役に、少しでも立てるのなら何でもよかった。私の本来の役目はあの方の護衛でしたが、あの方がお命じになることでしたらなんでもやりましたよ。暗殺、誘拐、洗脳―――それこそ、あなたがたの団が、以前請け負っていたような裏の仕事すべてをね」

 男は自嘲するでもなく、ただ事実としてそれを口にした。褐色の肌にどこかインテリらしき風貌を持つ男の表情には、微かな変化すら現れない。しかしアラシヤマは、その手がいつしか堅く握り締められていることに気付いていた。

「それなのに―――」

 たとえどれほど汚い仕事を命じていても、彼の目指すところは揺るがなかった。そのはずだった。しかし徐々に、やむをえないときだけの「最後の手段」であったそれらの仕事は数を増していき。そのひとつひとつが、確かに彼の精神を蝕んでいった。心のバランスが徐々に荒廃に傾いていくのを目の当たりにしながら、止めることもできずに。
 夢のための手段は、やがて目的に変わっていた。
 幾度、叱責を覚悟で進言しただろう。だがそのたびに、己が主人は笑って言うのだ。これは仕方の無いことなのだ、と。どういった未来を描くにせよ、まず権力を手に入れれなくては何一つ変えることはできないのだと。そして、当初の主な仕事であったはずの護衛任務から、外される回数が増えた。
 思えば、その時からもう、何かが狂い始めていたのだ。
 そして、国民の支持を失い、何もかも失った今となって。
 彼が求めたのは、己を否定したこの国のすべてを、無に帰すことだけだった。

「……貴方だったら、どうしました。自分が身も心も捧げて、ただこの人のためだけに生きようと決めた方が、そうした行動をとるようになったら」

 男は、苦笑するような表情のまま、アラシヤマにそう問いかける。
 ただ黙して元部下の独白を聞いていたアラシヤマの顔に、初めて明らかな不愉快の表情が刻まれた。

「―――あない狸親父とわての麗しのシンタローはん、一緒にせんといてや」

 そうして、砂色の髪をした男の目を、真正面から見据える。口にする言葉には僅かの迷いも見られない。

「シンタローはんは大丈夫どす。あんお人は、そういう自分の弱さを、誰よりよう知っとる」

 しかしそんなアラシヤマの姿を、まるで痛ましいものでも見るかのような表情で男は言う。

「この世に『絶対』などはありえない―――どれほど信じていたとしても、人は変わる。権力の前に、この世界の醜さの前に、そして何より、自らの夢の前に。貴方の敬愛する総帥がそうならないという保障など、どこにもない」

 男は過去の自分の姿に、アラシヤマを重ねて見ているのだ。盲目的に己が主を敬愛し、疑うことすら知らなかった過去の自分に。
 
「そうなったとき―――、貴方はいったい、どうするんです?」



 
 ほんの少しの間、重い沈黙が部屋に流れる。だがその問いかけに対してアラシヤマが何かを答える間もなく、男は無線機での呼び出しを受けて部屋から出て行った。
 
 男の言ったことを、アラシヤマは愚問だと思った。所詮この現状を招いた敗者の詭弁に過ぎないと。しかし何もかもを諦め、まるで自問するようだった男の言葉は、なぜか耳から離れない。
 だが、アラシヤマは今はあえてそのことを考えないようにした。  
 砂色の髪の男は急ぎ足で去った―――監視カメラの配線に手を触れることもせずに。
 それが故意であるのか、それともただ単に忘れただけなのかはアラシヤマにはわからない。どちらかといえば前者の可能性が高いだろう。罠かもしれないとは思う。それでも。

(わての、諦めの悪さは。同期の間じゃ有名だったんどすえ)
 
 何せ、誰もが敵わないと認めていたシンタローに、最後まで挑みかかるのをやめなかった唯一の男なのだ。
 あの男はアラシヤマの出せる炎の限界が、せいぜい有機物を燃やすのに十分な程度だと認識しているらしい。それはある意味では正しかった。アラシヤマは支部の人間にすら、己の「奥の手」の存在は明かしていない。過去の任務で自らの炎で切り抜けられなかった場合にも、その局面に応じて爆薬や武器を利用してきた。あの島以来ただの一度もそれは使ったことがないし、そもそもその技は、明かすような類のものでもない「禁じ手」だ。

(―――火事場の馬鹿力って、こっちの言葉でなんてゆうんやろな)

 そんなことを思いながら、徐々に体温を上げていく。狭い場所だが、岩石を積み上げられて作られたこの部屋ならば、隙間風は十分に入ってくるのでなんとかなるだろう。よしんばならなかったとしても、今この状況では他の選択肢は無い。
 
 鉄製の手錠が内側から熱される。
 紅の、太陽のプロミネンスにも似た炎が、ゆらりとアラシヤマの身体から立ちのぼった。

(純度百の鉄の融点は、摂氏1535度……変形させるだけやったら1450で十分や)




『on the wild world』  act.6 












 会議が終了し、出席者が各々自分の取り仕切る部署へと戻っていく。シンタローもまた総帥室へと戻った。傍らにはまだキンタローがついている。
 総帥室の執務机の前に腰を下ろしたシンタローは、さすがに疲れたようにやや顔を仰向けたまま閉じた両目を片手で覆った。まったく、ほんの数時間前までは家族水入らずの楽しい昼食を思い浮かべていたというのに。今のこの状況の変わりぶりは一体なんだというのか。
 そんなシンタローの様子に、キンタローはあえて自分からは声をかけなかった。ほんの少しの間でも、シンタローの心を休ませてやりたいという思いがあったからだ。
 だがそうした甘やかしに応じるシンタローではなく、目を閉じたまま、キンタローに話しかけた。
 
「キンタロー。あのよ……」

 言いづらそうに発されるその声に、皆まで言わせずキンタローは首肯する。

「わかっている。ただちにυ支部に向かい、当面のアラシヤマの代行指揮を執ろう」
「ん……、悪ィな」

 今この状況で、シンタローの傍から離れるのは正直不安ではあったけれど。しかしこうした現状の下に、自分以上の適任者がおそらくいないというのも、キンタローは理解していた。

「―――無理は、するな」
「……」

 キンタローのその言葉には、複数の意味が込められていた。だがシンタローはあえてそ知らぬふりをして、不敵な笑みを浮かべてみせる。

「なんの、話だ?」

 そんなシンタローに、キンタローは眉根を寄せて。だがそれ以上は何も言わずに出立の準備を整えるため、シンタローと別れ本来の自分の部署へと向かった。



 その日の午後の仕事を、キンタローという有能な補佐を失したまま、驚くべき集中力でシンタローは完了させた。そして、今日は疲れたからと言い残して、いつもに比べれば早々に自宅へと引き上げる。
 シンタローがずっと待ち続けた、夜がやってきたのだ。



***



 団のすぐ隣にある私邸に帰ってから、シンタローは簡単な夕食をとった。それから使用人たちに、今日はもう寝るから誰も部屋に近づかないようにと念をおして、自室に篭る。
 時刻は午後十時過ぎ。ほぼ予定通りの時刻だ。
 広い部屋の隅に置かれたベッドの横。足触りのいいカーペット敷きの床の上に、部屋着姿のシンタローは胡坐をかいている。その前に広げられているのは、昼間くすねておいた一枚の見取り図。それを頭に入れながら、シンタローは脳内で無数のシュミレートを行っていた。
 だが、そうしていたのはほんの僅かな時間に過ぎない。結局は、行ってみなければ何もわかりはしないという結論に達した。
 何かを飲み込むように、シンタローは一度、目を閉じて。
 さて、と思いながらゆっくりと開いた目には、それまでとは全く異なる種類の光を宿していた。
 とりあえず、部屋に常備してある戦闘用の道具の数々を、片っ端からベッドの上に並べる。

(一応、一通りは揃ってる。……細々したモンはしょーがねえし、あとは勘で何とか……)

 モニターの中であの男は言った。「そちらが妙な動きをした際には、容赦なくあの男の首を落とす」と。

(あんだけ言い切るってのは、ハッタリか、それとも別の内通者がもう本部にも入り込んでるってことか……。どっちにしろ、本部でアレコレ動くのはさすがにヤバイよな)

 一般団員にまで懸念を抱かせたくなかったし、他の幹部連に自分の取ろうとしている行動を気付かれたらそれこそコトだ。
 少なくとも目的地に着くまでは、誰かに邪魔をされては困る。その後のことは、今夜中にティラミスとチョコレートロマンスに置手紙でもしておけば、あの有能な二人のことだ。内心はどうあれ、半日くらいは何とかごまかすだろう。
 その手紙を目にしたときの二人の様子が目に見えるようで、さすがのシンタローの良心も痛む。しかし今回ばかりは目をこぼしてもらうしかない。

(―――だって、ほかに、どうしようもねーし)

 並べられた救急キットや拳銃の類を前にぼんやりとそう思う。
 だがその次の瞬間、不意に聞こえたコンコン、というノックの音に、思わずびくりと身を起こした。
 使用人たちにはかなり厳重に言い聞かせておいたはずなのに。武器類を慌てて布団の下に隠しながら、「だ、誰だよ」と問いかけると、深みのある渋い、だがどこか暢気な声が返ってきた。

「誰だとはご挨拶だね―――パパだよ」
「お、おお親父ぃ?」
 
 思わぬ来訪者に、シンタローは焦る。なんでこんなときに、と、なんでいるんだ、が頭の中で二重に混乱を引き起こしていた。たしか三日後くらいまで、なんとかミドル大会だとかファンクラブイベントだとかで日本に出張しているはずではなかったのか。
 そんなシンタローの心境を知ってか知らずか、マジックは飄々とした声音を一切変えずに、部屋の中へと問いかける。
 
「入ってもいいかい?」

 いつもならば自然な流れであるその要望にも、今のシンタローは応じることはできない。
 非常に悔しい話で、また情けない話でもあるのだが。顔を合わせてしまえば、もう隠しきれる自信はなかった。

「だ、ダメだダメだダメだ!今は立ち入り禁止!!」
「フーーーン。つれないね。シンちゃんの顔が見たい一心で、急いで帰ってきたのに」

 言いながら、マジックは閉ざされたドアに軽く背を凭れさせた。シンタローもまた、マジックに意地でも部屋に入らせまいと、入り口を閉ざすかのように、ドアの内側を背にすとんと腰を下ろす。
 扉一枚を隔てたこちら側と向こう側で、親子は会話を続ける。

「昼間の会議、ティラミスたちが褒めていたよ。終始落ち着いていて、非常に立派な態度だったって」

 やっぱりパパの子供だねぇ、鼻が高いよ、とマジックは満悦の態で言う。だが、さすがにそんな事を告げるためだけにわざわざ日本からとんぼ返りをしてまでここに来たのだとは、シンタローにも思えない。
 マジックの言わんとしていることは、多分もうわかっている。だがそれにどう対処していいのかがわからずに、シンタローは無言の返事を返すしかない。
 そんなシンタローの心境を察したのか、マジックが苦笑するような声で、ゆっくりとシンタローに語りかけた。

「シンちゃん」

 それは幼い頃によく耳にした、優しく穏やかな、しかし心のどこかにこの男には絶対に敵わないという諦観を呼び起こす声。

「―――パパの助けは、必要かい?」

 ああ、だからコイツのことは好きじゃないんだ、シンタローは思う。それとも、世間の一般的な男というものも、いつまでも父親という存在には敵わないものなのだろうか。
 ドアの内側に背を凭れさせながら、シンタローは小さくため息をついた。

「……できれば、頼りたくなかったんだけどな」

 この薄い障壁が自分と親父の間にあってくれてよかったと思いながら、シンタローはその希望を口にする。

「明日の正午まで、あの部屋に居てくれ。―――紅いジャケットは、預ける」
「正午までだね、わかった」

 マジックはシンタローの台詞など見越していたように、この、ある意味では途方も無い息子の願いを、さらりと承諾する。

「それ以上は一分でも待たないから、遅れないよう気をつけて」
「……悪ィ、な」
「シンちゃんのためだったら、仕方ないさ」

 シンタローの珍しい真剣な感謝の言葉に、マジックはあえておどけたような口調で返す。その感謝を言われる原因があの男だというのは実にシャクだけどね、とあながち冗談ではなく思いながら。
 それでも、これだけは言っておかなくては、とマジックは無人の廊下に、かつて戦場で見せていたような冷たい光を宿した視線を投げかける。

「ただ、シンちゃんにもしものことがあったら」

 シンタローの背後から聞こえるその声は、とても穏やかで―――

「―――私はあの男を、一生許さないよ」

 そのくせ、声だけで、人の背筋を寒くさせるような迫力を含んでいた。
 いっそあの馬鹿に直接言ってくれ、と内心で思いながら、シンタローは一人、天井を見上げる。これは何が何でも無傷で帰ってこないことには、あの根暗男は、もしかしなくても一生捕虜のほうがまだマシだったという目に遭わされそうだ。
 マジックとの会話が終わり、その足音が遠ざかっていく。
 だが、どうやら今日はアポなしの訪問者の多い日らしい。マジックの気配が完全に感じられなくなったその時、カチャリ、と微かな、しかし確かにどこかの鍵を開ける音がした。
 それはそれまでマジックがいたドアのほうではなく、その反対側に位置する窓のほうから聞こえてきて。シンタローは条件反射のように身構え、音が聞こえてきた窓に向かっていつでも眼魔砲を放てるような態勢をとった。
 
 しかし、そこに現れたのは、シンタローが頭の片隅にすら、欠片も予期していなかった人物で。


 すらりとしたその身に中国服をまとい、夜を背景にして、開いた窓枠に立て膝をつくような姿勢で両足と片手とをかけているのは、あの傍若無人な叔父の、腹心とも言える部下.。―――マーカーだった。



***



「夜分に失礼いたします、新総帥」

 言いながら、呆然としているシンタローを後目に、トン、と部屋の中に降り立つ。シンタローの手の中に集められていたエネルギーの塊が、やり場を失って四散した。

「新総帥にお会いする前に、他の方々のお顔を拝見したくはなかったもので。不躾な訪ね方をして申し訳ありません」

 しかしガンマ団総帥の私邸のセキュリティーは流石ですね、ここまでたどり着くのに大分骨を折りました、と汗一つ浮かべていない涼しげな顔で男は言う。
 シンタローは一難去ってまた一難、の心境そのままに、ただ酸欠の金魚のように口の開閉を繰り返す。だがそんなシンタローの戸惑いや困惑などまるで気にしていないらしいマーカーは、あくまでマイペースに。己の言いたいことだけを飄々と述べていく。

「なにぶん、時間がないもので、早々に用件に入らせていただきます。―――私の、不肖の弟子が、敵方に囚われるという醜態を晒しているとか」

 その言葉を聞いて、シンタローの顔色が変わった。

「な、なんでアンタ、それを……」
         ハム
「我が隊には、無線いじりが趣味のイタリア猫がおりましてね」

 まだ混乱から立ち直れずにいるシンタローの問いかけに一瞥を投げかけ、濃紫の中国服の男は、すぅ、と流れるような動きで足を進める。

「弟子の不祥事の後始末は、どうか、私に」
「……え?」

 思いもよらない人物の思いもかけない申し出に、シンタローの頭は容易にはついていけない。

「だっ……て、アンタ、特戦は―――もう」

 特戦部隊は事実上、もはやガンマ団の下にはない。三億円と共に団を去った部隊は、まれに団の燃料補給地点に現れ艦の燃料を強奪していくという話は聞いていたが、表面上でもまた事実としても、ガンマ団とは互いに完全な没交渉の状態にある。
 団は特戦の動きに口を出さない。そして、特戦もまた、ガンマ団には関与しない。そうした暗黙の了解 は、犯さざるべき不文律としてそこにあったはずだ。

「ええ。……ですので、この件に携わる間、私は隊を離れております」

 シンタローの困惑は深まるばかりだ。隊を離れる?自分が物心ついたころには、既にあのアル中オヤジの片腕となっており、今に至るまで、おそらくほとんどの人生をあの叔父の傍らで過ごしてきた男が?
 
「つまり、今回の件は私個人との契約となりますが。―――いかがなさいますか?新総帥」

 とても信じられない気分で目を白黒させるシンタローに、マーカーは背筋をピンと伸ばし。無意識に染み付いているのだろう無駄の全くない優美な動きで、己の胸を手のひらで押さえる。

 アラシヤマとこの男が長く師弟関係だったことは、もちろんシンタローも知っている。その絆は(両名の気質も原因して)通常の武術の師弟関係などというものとは異なる、おそらく他者には理解の出来ない類のものだということも。
 だが、それにしても、この男が隊を離れてまで弟子を救いに行くと言い出すとは考えもつかなかった。
 アラシヤマにとってのこの男の存在も、この男にとってのアラシヤマの存在も、それがどのような意味を持っているのか、自分はきっと推測すらできていない。
 単純な師弟愛、などというものでは、きっとないのだろう。自分という存在が引き金になったとはいえ、過去に本気の殺し合いを演じた二人の間にあるのは、そんな生易しい感情では、おそらくない。それでも、互いを慮る何らかの情が、やはりそこにはあるというのだろうか。 
 この男の真意が、シンタローには、読めない。
 上目遣いにじっとりとマーカーの細面をにらみつけ、シンタローは慎重に言葉を口にする。

「―――アンタには、頼まねぇっつったら?」
「でしたら、仕方がありませんね。私一人で向かうまでのことです」
「そんで、助け出せたら……アイツはどうすんだ」
「さあ……。連れて行くか、その場で始末するかは、あの馬鹿弟子の顔を見て決めましょう」

 尊敬する美貌の叔父とは違う。女顔というわけではないのに、確かに譬えようの無い艶やかさを持つこの男は、その顔色一つ変えず、のうのうと言ってのける。

「どちらにせよ、死んだものとお思いください。こちらにお戻しすることはないでしょうから」

 シンタローは、しばらくの間、一体どうしたものかと頭を抱えるしかなかった。まさかこんな展開が待ち受けているとは、昼間の時点では予想もしていなかった事態だ。これは自分がしようとしていることにとって吉なのか凶なのか、と本気で考え込む。
 しかしやがて、覚悟を決めた。
 ぐっ、と顔を上げて、マーカーに向かって、自暴自棄のように言う。

「―――俺が、行くんだよ!」
「……は?」

 今度はマーカーのほうが目を丸くする番だった。

「貴方が……。新総帥ご自身が、ですか?」
「……ああ」
「割ける手駒がないから、見捨てられるとおっしゃったのでは?」
「だから、『駒』は、ねェよ」

 吐き捨てるようにそう言う若き新総帥の顔には、心なしか朱が上っているような気がした。

「……それで、将自らが動かれる、と?……―――ク、クク……ハハハ」

 どう見ても笑い上戸なタイプには見えず、そして現実に笑っている顔といえば皮肉めいたものしか思い浮かばない男が、シンタローの言葉にこらえきれなくなったように、声を出して笑い出す。
 それはマーカーにとって、この場にマーカーが現れたことに対するシンタローの驚きと同じかそれ以上に、意外なことだったらしい。
 シンタローは己の行動の無茶を笑われているような気になったせいか、それともあんなヤツのために単身敵地に乗り込もうとしていたことを告白する羽目になったせいか―――否、おそらくはその両方で、もはや自分でもよくわからない破れかぶれの感情に奥歯を食いしばった。
 ただ、とやや強めの語調で言ってマーカーを指差す。

「アンタとも契約する。契約期間はアラシヤマ救出まで。報酬は日本円で二百万だ。後でアイツの給料から全額差っ引くとしても、それ以上俺の預金口座からアイツのために動かす金なんざねぇ」
「十分です。隊長の一週間分の酒代くらいにはなるでしょう」

 まだ笑いの余韻を残した表情で、マーカーは答える。
 もうどうにでもなれ、というような心持ちで、シンタローはマーカーにもうしばらくの間待つようにと命じた。そして、ガンマ団の戦闘服ではなく、あえてあの南国で着慣れていた白いトレーニングシャツと黒のカンフーパンツを身につける。長い黒髪をギュッと後ろで一つに括り、肩に小さなリュック一つをかけて、シンタローの準備は整う。

 そして、よっしゃ行くゼ!と意気揚々とドアを開けた、そこに立っていたこの夜最後の来訪者は。
 すでにかわいらしい寝巻き姿に着替え、ナイトキャップまで身につけているグンマだった。



***



 勢いよく飛び出してきた部屋の主にぶつかりそうになったことにグンマはまず驚き、その後にシンタローの背後に控えているマーカーの姿に気付き、さらに驚いたようだった。だがすぐに、そっか、と言って納得したように微笑う。
 その両腕には、格好に不似合いな無骨な機器がいくつも抱えられている。

「グンマ……」
「あのね、シンちゃん」

 にっこりと笑いながら、グンマはシンタローのその服装にも、こんな時間からどこに行くのかということにも何一つ触れず。ただ、はい、と言って手に持つ荷物をシンタローに渡した。

「それ、新開発の暗視スコープ。光量増幅型じゃなくて、潜水艦のソナーみたいに音波の反射を拾うタイプだから、光にも強いよ」

 なんともいえない表情のまま機器類を受け取ったンタローに、それらの使い方を一つ一つ説明する。

「そっちの小型赤外線スコープと組み合わせられるから、一緒に持っていって。で、こっちは高松の研究室からもらってきた、一時的に代謝を高めて怪我の直りを早くする傷薬と、大体の毒に効くっていう中和剤。お礼は帰ってからの研究協力だってさ」

 そして最後に、ポケットから小さなものを出して、それをシンタローのカンフーパンツの腰紐に結わえ付けた。

「で、あとコレ。日本の有名な神社のお守りだよ。おとーさまと、さっきちょっと話したんでしょう?そのとき渡せなかったからって」

 なくさないでね、と心配そうに言う。呆けたような表情でグンマのなすがままになっていたシンタローは、やがて、ゆっくりと片眉を上げて。見ようによっては情けないと呼べなくもない表情を作ってから、仕方なく苦笑した。

「……そんな、バレバレだったか?俺」
「僕たちにとっては、ね。大丈夫、他の団員や幹部の人たちにはばれてないから」

 何もかもお見通しってワケか、とバツの悪そうにシンタローは言う。

「言っとくけど……あのバカだから、ってんじゃねーからナ」
「うん、知ってる。アラシヤマじゃなくても、僕らの知ってるシンちゃんだったら、どんなときでも『仲間』を見捨てられるはずがないもの」

 ―――でも、きっとこれが他の人だったら、もっと丁寧に計画を練って、いろんなひとに相談してからにするよね?アラシヤマだから、自分で行っちゃうんだよね?という言葉は心の中だけで呟いて。寂しさに少しだけ似た色をその顔に現した後、シンタローの背後に黙って控えているマーカーに目を移した。

「マーカー……、シンちゃんを、よろしくね」

 その面差しの中に、かつてはなかった「兄」としての表情を、マーカーは見つける。

「―――承知いたしました。私の名に誓って、お守りいたします」

 頷きつつ口にした言葉は、その場凌ぎのものではなく。
 シンタローとグンマという二人と実際に顔を合わせたことで、やはりあの人と血を同じくする一族なのだと実感し。それなら十分に、守るに値する相手だと確信を深めたのだ。
 





 夜が、更ける。



a1
 


 新体制の発足後少しして、あの島で共に戦った彼ら四人を、世界各地の主要な支部に派遣した。それは支部長という立場でこそなかったが、実質はその目付け役であり、新たな総帥の意思を各地に伝える指導役として。固い絆で結ばれている彼らを、散り散りに派遣すると決めたのはほかでもない自分だった。
 

 傍らに居て助けとなって欲しいという欲求は、もちろんないわけではなかったけれど。総帥になって初めてわかった。真に信頼できる人間とは、いかに得難いものなのかということを。そして、この団がいかに巨大な規模を有するものだったかということを。本当に今更だと自嘲しながらも、ようやく単なる知識としてではなく、シンタローはそれを理解したのだ。



 別れの挨拶に割ける時間はさほど多くはなくて。五人揃うことができたのは、出発間際の各人が乗り込む艦が用意されたデッキの上、ほんの十分程度のことだった。
 互いの心はもう確認するまでもなく。ただ、らしくもない感傷と友と離れる純粋な寂寞感に、全員が確固たる意思を映した表情の下に少なからぬ淋しさを隠しながら、それでも明るい笑顔で、最後まで馬鹿話に興じていた。



 ただ、最後の最後。それぞれがそれぞれの地に向かうほんの寸前、シンタローのそれまでの笑顔が、急に歪み。その表情が、余裕を宿した総帥のそれから、士官学校時代から言葉に出来ないほどの経験を共有してきた四人の、仲間としての感情を露わにしたものになる。
 耐え切れなかった。言葉を、今更とわかっていながらも抑えきれない想いを、吐き出す。


「―――他の事は、全部お前らの判断に任す。任地についてからの差配に、基本的に俺は口を出さない。ただ」


 抑えられた低い声。その眼差しは痛切なまでに真剣で。


「何があっても、死ぬな。それだけは―――約束しろ」


 命令を下した自分の立場に対するその言葉の欺瞞や、口にすることの気恥ずかしさも重々承知していながら、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
 出発の準備が整った艦が、エンジンを回し始める。巻き起こされた強い風に、シンタローの長い黒髪と、軍用コートの裾がなびく。







 ミヤギは、「言われるまでもねぇべ。オラにどーんとまがせとけ」と胸を叩いた。


 トットリは、「シンタローにそんなこと言われるなんて、明日は大雪だっちゃね」と悪戯っぽく目を細めた後、「忍者は逃げるのが本領だわいや」と破顔した。


 コージは、「おんしにゃぁ敵わんかもしれんが、体の頑丈さには自信があるけんのぉ」と豪快に笑った。


 そして、アラシヤマは――――――





















『on the wild world』  act.1





















 その日、ガンマ団本部では珍しく穏やかに時間が流れていた。積み上げられた書類の山の頂上に最後の一部を乗せたシンタローは、総帥室の豪奢な椅子の上で、んーーーと大きな伸びをする。革張りの重厚な椅子が、ギィッとほんの少しだけ軋んだ。
 午前の仕事はこれで終わりだ。午後にもまた仕事は山積しているが、それでも常に比べれば余裕がある。いつもなら次から次へとやってきて皮肉を浴びせる重鎮連中の特攻もなければ、巧妙にその意図を隠しつつ、それでも明らかな新総帥への嫌がらせを含ませた穴空きの報告書も来ていない。その分だけ仕事は滞りなく済んだ。

「あー、なんか、今日は色々うまくいった」

 傍らに付き添ってシンタローの仕事ぶりに目を光らせていたキンタローに、そう言いながら笑いかける。キンタローもまた口元に微かな笑みを刻んで首肯した。

「フ……そうだな。午前の仕事がちゃんと午前中に終わったのも、かなり久しぶりだ」
「んだよ、ソレ。嫌味のつもりかぁ?オメーも随分口が達者になってきたじゃねーか」
「そういった意味合いを含ませたつもりはない。ただ、お前はいつも仕事を詰め込みすぎだとは思っているがな」

 言いながら、シンタローが決裁を終えた書類を整えなおし。提出された部署に再度戻すものと、保管に回すものにてきぱきと仕分けていく。
 その様子を、シンタローは頬杖をついた姿勢で気楽な表情のまま眺める。ほんの数分の後に書類は綺麗に分類され、あとは秘書たちに持っていかせるばかりになった。

「しかしひっさしぶりに時間空いたなあ。研究課行ってグンマと飯でも一緒すっか」

 折りしも時刻は昼飯時。今すぐに迎えに行けば、あの天才肌で、そのくせ『仕事』と名のつくものに対しては全く集中力に欠ける兄弟は、たとえ既に自分が昼食を終えていたとしても、二つ返事でうきうきと二人の食事に付き合うだろう。もっともそれは、彼がまだ研究室から抜け出して遠方までは行っていないということが前提だが。

「ああ。お前が総帥に就いてからロクに話も出来んと、この前またスネていたからな。顔を見せれば喜ぶだろう」

 キンタローの同意を得て、シンタローは善は急げとばかりに椅子から立ち上がる。だがそうして研究課に足を向けようとした二人は、総帥室から足を踏み出した瞬間、思わぬ速さで駆けつけてきた「何か」と危うくぶつかりそうになった。
 屈強な男二人の手前に数センチを残し、慌てて足を止めたのは、赤茶の髪をした細身の団員。

「も―――申し訳ありません」

 両手でバインダーを抱えるようにしてその場で頭を下げた団員は、前総帥の秘書であり、現在もその職務を全うしながら、古参団員として団の総務を取り仕切るティラミスだった。

「んだぁ?ティラミスじゃねーか。珍しいな、お前がそんな慌ててんの。あの阿呆親父がまたなんかやらかしたか?」
 
 だがそんな軽口にもティラミスは表情を変えず。極限まで抑えられ、それでもまだ隠し切れない動揺をその面に浮かべたまま、シンタローに向き直る。

「―――新総帥に、急ぎ伝えねばならないご報告が」

 その口調と、常には見られない冷静さを欠いたティラミスの表情から、さすがにシンタローの顔が険しいものに変わる。間近に人が居たため開け放されていた扉はそのままに、首を一振りしてその内側を指し示した。

「……中で聞く。入れ」





***





「―――先ほど、当地時間11:58、υ支部から緊急の通信が入りました」

 手にした書類には目をやることなく。ただシンタローを真っ直ぐに見据えて、ティラミスはその報告を口にした。

「υ国前政権過激派の拠点に向かっていたアラシヤマ氏と、その部下一名が―――消息不明です」

 その齎された予想外の事実に、シンタローは思わず息を呑む。ティラミスの発した言葉のその意味を正しく把握するまでに、数秒かかった。
 そのときシンタローに湧き上がった感情は、怒りでも焦りでもなく。
 ただ信じられないという、それだけだった。

(―――あの、アラシヤマが?どっかで引きこもってるとかじゃねーのか?)

 そう内心だけでも茶化してみたが、普段から冗談すら口にすることの少ないティラミスの視線の前に、その試みがいかに空虚なものであるかを悟る。
 眼前の総帥のわずかな表情の変化に気付いたか気付かなかったか、ティラミスは努めて淡々と報告を続けた。

「υ支部からの通信は繋いだままにしておりますので、取り急ぎこちらにお回しします。直接の報告は任務に同行していた支部団員から」

 ティラミスの言葉が途切れるのと同時に、総帥室のモニターに年若い団員の姿が映し出される。自分の遥か高みに位置する総帥の前だというにも関わらず、その団員は焦燥と動揺にまみれたその内面を取り繕うことすらできず、もはや完全に顔色をなくしていた。

「シ、シンタロー新総帥……。申し訳ありません!!アラシヤマ上官が……!!」
「……まず、落ち着いて経緯を話せ」

 早口でまくし立て始める団員のその姿に一つ短い息を吐き。簡素ながら重厚な机の上に肘を立て、シンタローはゆっくりと両の手を組み合わせた。そしてそのまま、モニターの中の団員の顔を正面から見据える。
 厳しいわけではないのにどこか射竦めるようなその眼差しに、気圧されたかのように、団員の頭に上っていた血が若干下がった。
 時に吃り、筋を前後させながらもなんとか事情の説明を始める。





 υ国にクーデターが起こり、新政府が成立したのはほんの一ヶ月前のことだ。元々政情不安定な国で、民主国家との体裁をとりながらも現実にはほぼ完全な独裁体制が敷かれていた。その圧政は諸外国から見ても明らかで、さほど大きな国ではないにもかかわらず各国報道機関が週に一度は必ず何らかのニュースを流すというほど、その政情は劣悪なものだった。
 いつ何が起こってもおかしくはないという状況下にあったのが、二ヶ月前、当時の反政府組織の旗幟的存在であったある人物を政府が拉致・殺害したことにより、国民の大半の不満が一気に爆発した。反政府組織は民間だけで数万人に膨れ上がり、さらに軍部の過半も巻き込んだ。国際社会の世論もその背中を押し、クーデターが勃発して三日で前政権の首脳陣を全員解雇。それから一ヶ月間で国民投票の元、新政府が発足した。
 圧倒的な勢力の差から結果的にほとんど戦闘は行われなかったため、クーデターそのものにガンマ団は直接的に関わってはいない。ただほんの僅かに、前政府へ流れていく情報の撹乱、或いはその首脳陣の探索という形で手を貸していた。それはガンマ団にとっての正義であり、またその国の未来への先行投資でもあったので。
 ただ戦闘自体がなければ、ガンマ団の出る幕はさほど多くはない。とりあえずυ支部も新政権の今後の足取りを静観する構えだった。
 そんな折、新政府からガンマ団に正式な依頼が舞い込んできたのが三日前。相談の内容は、現政権の要人が拉致されたというものだった。その要人はすでに齢七十を超えており、穏やかな物腰とどこか威厳のある態度から、現政権ではまとめ役として一目置かれている。
 拉致した相手は前政府過激派の残党。さほど多くはないその数は、もし殲滅するのであれば新政府軍でも十分対応可能なものだった。ただ、立てこもっているのがある孤島の堅固な砦であったことと、破れかぶれになっている残党どもが、政府の軍を動かすことでどういった動きを見せるかわからないということ。この二つがネックとなり、隠密行動にも優れた人材を持つガンマ団に、お鉢が回ってきたのだった。
 ―――ここまでは、シンタローも既に書面上で把握していた部分である。



 要請を受けることが決まって半日で、υ支部では任務のための小隊が編成された。隊長は同地で前線指揮官としては最も高い任務成功率を誇るアラシヤマ。切れ者と支部でも定評のある二十代後半の団員が副官に就き、あとは爆発物処理の専門者と、各種通信機器や乗り物の扱いに長けた男―――このモニターに映っている団員―――が選ばれたという。
 
 砦への潜入は驚くほどスムーズにいった。警備兵の人数はさほど多くはなく、また、先陣を切るアラシヤマの前に、それらはほぼ他の団員の手を借りることなく次々と無力化されていった。ただ、時折アラシヤマが何かを考え込んでいるようなそぶりを見せていたのが、今となっては何かの予兆だったのかもしれない、とモニターの中の団員は語った。
 拉致された要人が捕らえられているその独房にも予定していた時刻通りに辿り着き。だがそこで、アラシヤマの行動におかしな点が現れたという。
 任務は完了しており、あとは撤収するのみとなったそのとき。アラシヤマは部下たちに捕虜を連れて船まで戻るよう命令して、自分はもうしばらくここに残ると言い出したのだ。
 もっとも、アラシヤマも一人残っての探索にそれほど長い時間をかけるつもりはなかったのだろう。おそらくはすぐ戻る、というその言葉を団員二人は疑わなかった。ただ、その際に副官だけは強硬にアラシヤマを一人残して戻ることに反対し、その後に付いて行ったという。
 団員二人が人質と共に船に戻ったのが任務開始から約三時間後の06:45だった。
 そして、アラシヤマとその副官は、戻ってこなかった。団員は事前に、07:50までには必ず船を出すようにとの指示をアラシヤマから受けていた。戻らぬ二人を心配し始めた団員が07:40にアラシヤマに連絡をとろうとし、そのときはじめて、アラシヤマとの通信が完全に途切れていることに気付いた。
 団員は僅かな希望を持って、万が一戻ってきたとしても叱責されるのを承知で8:00まで待った。
 

 だがそれでも、二人は戻ってこなかった。







「現在もまだ通信は途切れております。そして、あの島からはヘリか船がなければ脱出は不可能です……」
「―――そうか」

 報告を聞き終えたシンタローは、その両手の指をゆっくりと組みかえる。傍らに控えるキンタローの表情は緊迫していた。その状況で考えられる結論といえば―――アラシヤマとその副官が、敵の手に落ちたというそれ以外にない。
 だが、それを聞いているシンタローの顔色には、僅かの変化も見られない。

「依頼主への、人質の返還は既に済んでいるんだな?」
「え?あ、は……はい」

 唐突に、あまりにも当たり前、というか今となっては些事としか思えない確認の質問を受け、団員のほうが戸惑う。

「一先ずは任務の完了、ご苦労だった。上官の命令を違えなかったのは、正しい判断だ」
「……お言葉、身に余る光栄です。―――しかし」

 苦痛をこらえるように、何とか形式どおりの謝辞を口にした団員は、僅かに俯いてその表情を影にし。
 それからキッと、思いつめたような表情で顔を上げた。

「どうか―――どうか、捜索任務のご指示を!シンタロー新総帥!!」

 若い団員は必死の形相でシンタローに訴える。そこにいるのは、平静を欠いた一兵卒というよりは、まるで必死になって親を探す迷い子のようだった。もし眼前にいたとすれば、その胸倉に縋り付いて来んばかりの切迫した表情で、団員はシンタローに切々と語りかける。

「支部の者たちは皆、非常な不安を抱えております。もちろん、極力冷静になるよう支部長からの命令は出ておりますし、そのように動くよう努めておりますが―――。これまでここを率いてこられたのは、実質はアラシヤマ上官お一人でした。このままでは我々は―――」

 口にする内容は、彼にとっては掛け値のない本音だったのだろう。確かに、上がってくる報告書の類を見ていれば、υ国での節目節目の動きには必ずアラシヤマが何らかの形で関与してきていた。人間性はともかく、あれで仕事に関しては信頼の置ける男なのだ。そして、常に政情不安の中で明日をも知れぬ日々を送っていたυ支部で求められていたのは、何よりその能力だったということだろう。
 しかし、それを知っておきながら尚返されたシンタローの答えは、団員にとっては失望にしかなり得ないものだった。

「―――指示は、待機。当面はそれだけだ」

 団員の目が、信じがたいものを聞いたというように大きく見開かれる。

「そんな!こうしている間にもアラシヤマ上官は……」
「敵の目論見が、まだ見えてこねぇ。アラシヤマの現状もさっぱりだ。もし捕まってるとして、アイツを盾にとって何か交渉を仕掛けてくるつもりなのか、それともただ単に入り込んだ鼠を始末したつもりなのか―――そもそも、アイツがまだ生きてるっていう確証も、ないだろーが」

 ほとんど恐慌を来たしているかのような団員の態度に対して、シンタローの姿勢はあくまで平静そのものだった。冷たささえ感じられるその口調で発されるその言葉は、だが確かに正論である。
 納得出来ない、という顔でシンタローを見つめる団員に、シンタローは追い討ちのように言葉を重ねる。

「そんな段階で動くのは、あまりにもリスクが高い」
「―――……」
「先のことは追って本部から連絡する。取り急ぎ、アラシヤマの代わりとなる人員をそっちに向ける。それまでは通常業務をこなしてろ」
「し、しかし……っ!」
「これは総帥命令だ。いいか、何があってもお前たちの独断で動くんじゃねーぞ。テメーらの隊長がそれを望んでるとでも思うのか?アイツの意思を裏切るようなマネは、すんな」

 それだけ念を押して、まだ何か言いたそうな表情の団員を残しシンタローは支部との通信を切った。ふぅ、と短い息を吐いたシンタローに、キンタローが精悍な眉を顰めながら目を向ける。その唇が開きかけて何かを言おうとしたその瞬間、駆け足でこちらに向かう足音が聞こえてきた。
 現れた新たな来訪者は、蒼褪めた顔色のチョコレートロマンスだった。乱れた呼吸を整えるのと同時に総帥室の扉の前で略式の敬礼をし、急ぎ報告に入る。

「総帥……只今、υ国からの通信が入りました」
「……」
「―――前政府過激派の一味と思しき者が、団幹部との対話を要求しております」

 無音の室内に、チョコレートロマンスの控えめな、だがよく通るバリトンの声が響く。先刻、この室内の温度がこれより下がることはあるまいとシンタローが思っていたのは、どうやら見通しが甘かったらしい。
 誰にも気付かれない程度の刹那だったが、しかし確かに現れてしまった激情を、シンタローは奥歯を噛み締めて殺し。
 意識的に無機的な表情を作り上げ、入り口に直立するチョコレートロマンスに指示を出す。

「第二通信室のモニターに繋げ。通話の記録は会話開始と同時、逆探知のスタートは四秒後」

 そして総帥専用の重厚な椅子から、ゆらりと立ち上がる。黒皮のコートを肩にかけ、その裾を翻しながら歩き出したシンタローの表情は、もはや完全な『ガンマ団総帥』としてのそれだった。

「―――俺が出る。来い、キンタロー」














『on the wild world』  act.2 












 船をつけた岸壁は高さ三十メートルはあっただろうか。
 哨戒線を潜り抜けここまでやってくるため用意されたのは、ごく小さな潜水艇。島に着くほんの数十メートル前に浮上して着岸し、その崖を上って四名は島に上陸した。
 全員が戦闘服を身につけ、腰にはいざというときの救急キットや細かな作業用のドライバ類を入れたポーチを下げている。小型の無線機はイヤホン型で、拳銃を下げたホルスターは胸や太股など各々自分の最も使いやすい位置に装備していた。
 ロープやカラビナ、ロックハンマーなどを用いて着いた崖の上。ターゲットとなる砦は島の中央部に、闇の中にもくっきりとその黒い影が浮かび上がらせている。中世の遺跡を利用して作られたという砦は、新月の夜を背景に、常より一層禍々しい。

(―――ただ、人自体はそれほどおらんような感じやな……これならまあ、それほど難しいこともないか)

 そんなことを考えつつ、アラシヤマは視線を砦から部下の一同に移した。その戦闘準備がすっかり整っていることを確認し、淡々とした低声で語りかける。

「時計合わせ始めるで。55、56、57、58、」

 迷彩色の三人はそれぞれ利き手とは逆の手首に巻いた時計を見る。
                   ゴー
「作戦開始、04:04。ほな、行きなはれ」



***



 潜入は二手に分かれる。事前に依頼主から渡されていた内部の図面を見た結果、そうするのがもっとも適切と判断したからだ。砦の中は通路が狭く、集団行動にはまるで向いていない。そして砦自体はさほど大きいわけではないが、迷路のように入り組んでいる。アラシヤマと通信機器担当の人間、副官と爆発物担当の男がコンビとなり、二方向から砦に潜入。要人が収容されたとみられる地下二階の独房の前で落ち合う手順だった。

 アラシヤマに同道した団員も、ガンマ団の一員である以上一国の兵士レベルの戦闘訓練は受けている。だが、それでも本業は工作員だ。各所に配置された警邏兵の対応は、もとよりアラシヤマが行うつもりだった。
 砦の内部には細い道や階段が続く。基本的な構造はほぼ全て、中世のまま残されているようだった。その上で各所に電気のコードやボイラーらしきパイプが通されている様子は、いかにもちぐはぐな光景だ。
 出来る限り警邏の兵の目はかいくぐりながら進んできたが、ある吹き抜けになったホールのような部屋の前で、アラシヤマとその団員は足を止める。ホールにはマシンガンを手にした男が二人。そしてその部屋に、隠れる場所はない。
 アラシヤマが団員と目をあわせ、

(―――ここで、待っとき)

 唇の動きだけで待機を命じる。団員がうなずくのと同時に、アラシヤマは部屋の一隅に炎を放った。

 部屋の隅に突如燃え上がった炎に、警邏兵の注意が向く。その隙にアラシヤマは二人の背後に近づき、手に持つ銃器を叩き落した。
 落としたそれは部屋の入り口で待つ部下の下に蹴り飛ばす。これで、飛び道具への対処は完了だ。
 何が起こったのかも理解できていないような兵士二人を横目に、地面にとん、と手をつく。
 腕の力だけで、右前方に跳躍。
 左足を矮躯の男の側頭部に叩き込む。
 反転。
 着地時に飛び込んできた蹴りは地を滑るように屈んでかわし。
 そのまま足払いで転ばせて、尻餅をついた状態の男の喉笛と頚動脈を片手で締め上げた。

「―――終わり、や」

 その言葉と同時にアラシヤマの手の内にある男は意識を失い、ガクリと頭を地面に落とす。後方で待機していた団員は、倒れた二人の男の口に本部から支給されている強力な睡眠薬の錠剤を含ませ嚥下させると、念のため猿轡を噛ませ、手近にあったパイプに手足を束縛した。

 そのように敵を無力化しつつ、二人は砦の最深部へと向かう。到着するまでにやむなく対応したのはせいぜい九人といったところだろうか。過半は避けてやりすごしているとはいえ、一応は一勢力の拠点であるべき砦にしては、ここに配されている人間自体は少なかった。
 それはアラシヤマの当初の見込みどおりでもある。―――ただ。

(―――なんどっしゃろな、この、違和感)

 あえて言えば、静か過ぎる。
 人質に被害が及ばないよう、侵入自体は気付かれないために細心の注意を払っている。とはいえ、要人を拉致している拠点として、この警備体制はあまりにお粗末に過ぎはしないか。
 それとも、落ち延びた過去の権力者の力など所詮はこんなものなのだろうか。確かに前政府の首脳部に近い立場にあった人間は、ガンマ団の助けもあってそのほとんどが新政府の手の内で、かつての独裁体制時に行った数々の犯罪を裁かれている最中である。過激派の残党といっても名ばかりで、この砦とて、新政府の手が届かなかったというだけで選ばれた、破れかぶれのものかもしれない。
 そう色々と理屈をつけては見るものの、アラシヤマの内面に沸き起こる暗雲は晴れない。一体何が、こうも気になるというのか。

 アラシヤマたちが事前に決めておいたミーティングポイントである独房の前に辿り着いたとき、副官たちはすでにその扉を開ける工作をしていた。足元には看守らしき三人の男が倒れ縛り上げられている。 おそらくは侵入しやすいであろうルートを任せていたとはいえ、その迅速な行動にアラシヤマは満足し、二人の下に歩み寄った。

「隊長!」
「おつかれさん。全員、無事どすな」

 それなりの戦闘をこなしてきたであろうその二人にも、さしたる外傷はない。それを確認したうえで、アラシヤマは辺りの様子に気を配りながらも、鋼鉄製の錠前部分をレーザーで焼ききろうとしている部下の手際を見守る。
 数分も経たずに錠前は破壊され、そのほかになんのトラップも仕掛けられていないことを確かめた後、アラシヤマともう一人の団員が中に入る。そこには椅子に縛り付けられる形でうなだれた要人の姿があった。
 その生気のない姿に一瞬だけひやりとするが、近寄ってみれば微かな呼吸音が聞こえた。おそらくは拉致からの数日間、ロクな食事なども与えられていなかったのだろう。気力を失い、意識を保っていられなかったとしてもそれはごく普通の人間らしい反応といえる。
 取り急ぎ縛られている縄を切り、椅子から崩れ落ちてきた要人をアラシヤマは一旦支え、

「なんとか息はあるみたいやな。よし、あんさんらは、こんお人連れて早よ撤収しぃ」

 それを爆発物処理担当の、四人のうちで最も体格のいい男に渡した。人質を受け取った団員が、呆けたような顔をしてアラシヤマを見直す。

「へ?隊長は……」

 その問いかけに、アラシヤマは苦笑だけを返した。
 任務完了後の迅速な撤退は戦場の基本だ。そんなことは誰に言われなくても、アラシヤマ自身が十二分に理解している。
 だが。
 杞憂であればそれでいい。だがアラシヤマはこれまで幾度となく戦場をかいくぐってきた己の勘を、完全に無視することは出来なかった。

「わてはちょお……気になることがあるさかい、もーちょい残らせてもらうわ」
「そんな、でしたら我々も……!」
「そんお人、だいぶ衰弱してはるやろ。早いとこ艦に収容して介抱してやり」

 アラシヤマの言葉は正論である。確かに、その様子を見れば人質には明らかに適切な処置が必要だった。それも早急に、だ。
 しかしそれでも、部下たちはアラシヤマの指示に不安の色を隠せない。 

「大丈夫や、すぐ戻る。ただ―――わかっとるやろけど、万が一わてが戻らんでも段取りはそのままどすえ。人質の返還が最優先や」

 戸惑いは消しきれないようだったが、それでもアラシヤマの確固たる「命令」に、団員二人は了承の意を示し、それまで来た道を引き返し始めた。
 だが、彼らをアラシヤマの代わりに指揮していくはずの副官だけは。
 その場から一歩も動こうとせず、ただ己の上官のほうを向いている。
 ある意味では反抗的なその態度に、アラシヤマが眉根を寄せて、小憎らしいほどの平静を保った表情のその部下を見遣る。

「撤収せぇ、ゆうたのが聞こえんかったか」

 その目つきに明らかな剣呑さを含ませて言うアラシヤマの問いかけに、しかし副官は首を横に振った。

「お聞きできません。私は、隊長のお供を」
「……上官の命令に……」
「往路での人員配置の粗雑さを考えれば、人質の収容はあの二人だけで十分なはず」
「……」
「お付き合いさせてください、隊長」

 微笑すら浮かべながら言うその眼差しは、真剣そのものだ。
 現状と副官の意見を冷静に鑑みながら、とうとうアラシヤマが折れた。

「―――勝手にせぇや。せやけど、死ぬんやないで」

 その言葉は決してアラシヤマの親切心から出たものではなく。あくまで新総帥の意思の代弁だということはわかっていたが、それでも副官は諾としてアラシヤマの後を追った。



***



 独房の前から、アラシヤマが向かったのは更に奥の方角だった。事前に入手した見取り図ではこの砦は地上五階、地下二階の構成となっている。地下一階は食糧庫や武器庫など、砦の人員が出入りするためというよりは物質の貯蔵庫として使われており、地下二階は捕虜の収容所となっていたらしい。
 だが、かつてはそれだけの用途として使われていたという地下二階には、図面上には空白となっている部分も多かった。何かがあるとすればそこだと、アラシヤマの第六感が告げている。
 独房から更に進み、曲がりくねった矮路を抜けて、突き当たりまでアラシヤマはたどり着く。そこで勘は確証に変わった。見取り図で言えば、この先にはまだ大きな、何の目的もないまま放置されている部屋があったはずだ。
 そばにある壁を手探りで調査すれば、床に程近い部分に他の部分に比べやや艶の出ている石がある。それをずらしたところに、手前に引く方式のレバーがあった。

「―――まあ、砦ゆうなら、こんくらいの仕掛けはあらへんとな」

 呟きながらレバーを強く引くと、それまで突き当たりであった壁面が横にスライドする。そうして現れたのは大きなホールと、さらにその奥に見える一つの扉だった。
 ホールは地下一階部分までの吹き抜けになっているらしく、二階分の天井の高さがある。そしておそらく地下一階からつながっているのであろう、上部の外周には人一人が歩けるくらいの通路が付けられていた。
 とりあえずホールの内部に人の姿は見えなかったが、アラシヤマと副官は慎重に足を踏み入れ、なんの反応もないことを確認してからほぼ円形のその部屋の壁面に沿って駆け出す。
 そして、出口に当たる奥の扉に手をかけたそのとき。
 かたっ、という微かな音が背後、入り口の方向から聞こえた。

「隊長!」

 アラシヤマがそれに反応するより一瞬早く、弾丸を放ったのは背後についてきていた副官だった。
 銃身の短い拳銃から発されたその弾は、二十メートル以上離れた敵の右手を正確に撃ちぬいている。どうやら、アラシヤマたちが入ってきた入り口の上の部分にもう一つの進入口があり、狙撃者はそこからライフルでアラシヤマを狙ったらしい。
 その場に配置された狙撃兵というわけではなく、ただ単に、アラシヤマたちの後を追ってきた警邏兵の一人のようだ。その男以外に、人間の気配はなかった。それを確認した後に、二人は手を掛けた扉を開け、その先に続く通路に抜ける。
 駆けながら、アラシヤマが言った。

「ええ腕やな」
「恐縮です」
「何、使うとるん?団からの支給品やないどっしゃろ、ソレ」
「銃ですか?」

 任務中にもかかわらずアラシヤマがついそう尋ねたのは、その副官が用いたのがガンマ団では珍しいリボルバーだったからだ。戦場での任務を主とするガンマ団では、拳銃はほとんど装弾数が多く連発が可能なフル・オートが主流である。団からの支給品も特別な要請がない限りオートマティックのものだ。団の士官養成学校でも、どちらの扱いも習ったものの、どちらかといえばオートマティックのほうに重点を置いていた気がする。
 副官はアラシヤマに寄り添うように走りつつ、ホルスターにおさめかけた銃をアラシヤマの前に見せた。銀色の短い銃身が鈍い白光を放つ。

「S&W M640ですが」
「M640……センチニアルか」

 M640は米スミス&ウェッソン社の名銃M36をベースにした、小型のステンレス製リボルバーだ。服の中から抜き出す際に引っかからないよう撃鉄をフレームに内蔵してあり、携帯しやすいのが特徴だが、そのためダブルアクションでしか作動しない。グリップ部分に独自の安全装置は付いているが、本来乱戦に不向きのリボルバーの中でも、とりわけ戦場向きの銃ではない。
 初代モデルはもう五十年以上前に完成されており、その年がS&W社の創立百周年に当たったためセンチニアルの愛称がある。
 
「せや。あんさんは外部組でも、軍隊出身やなかったんやな」
「……ええ。元は暗殺請負業でした。やはり使い慣れたものが一番ですので」

 言いながら、副官は胸元のホルスターに銃をおさめる。

「サブではフル・オートも携帯しておりますよ、一応」
「ふーん」
「アラシヤマ上官も、リボルバーですね」
「ああ……わては別に、使い勝手じゃどの銃でも大して変わらへん」

 敵地にありながら、そして常人であれば五秒で息切れがするような速度で駆けながら、二人の会話はまるで団の食堂で交わすような暢気さだ。

「雑魚蹴散らすんなら炎で十分やし、脅しなら自動でも回転式でも大差ないどすやろ。ただ炎で壊せんもんがあったとき色んな弾薬が使えると便利やちゅう、それだけの話や」

 普段、仕事以外ではさして会話もしたことがない相手になぜこんな饒舌になっているのかと、どこか冷静な頭でアラシヤマは思う。だがなんとなく―――本当になんとなくでしかないのだが、この副官にはどこか自分と似た匂いを感じるのだ。

 
 独房までの道より明らかに入り組んでいる通路を抜けると、更に階下への階段が見つかった。それを降りようとしたときに、先ほど艦に返した団員の片方から通信が入り、人質は無事艦に収容されたことを知る。これで、とりあえず任務の成功は揺ぎ無いものとなった。

(深入りはせんでもええ。もうちょい、ここの用途さえわかれば)

 そう自分に言い聞かせるように心の中で呟きつつ、アラシヤマは階段を下りる。



***



 そこにあったのは、ただ一つの部屋だった。
 そこまでの遺跡交じりの砦とは、明らかに異なる空間。煉瓦作りの壁などどこにも見えはしない。扉さえない。
 鈍い白銀一色の、箱のような部屋は、白い実験用の長い机とガラスケースにだけ区切られており。それらの上、あるいは中には数え切れないほどの実験器具がそろっている。

 地下三階は、その階全体が、一個の研究施設になっていた。

(地下、実験施設……兵器……?ちゃう、これは)

 奇妙なことに、その場にいるべき研究員の姿は、一人も見当たらなかった。アラシヤマは多くの実験器具の合間を足音を消して歩き、奥の壁に据え付けられている合金製の棚に目をつける。その棚には厳重な鍵がかかっていた。おそらくは鉄以上の融点を持つそれは、アラシヤマの通常の炎では熔かせそうにない。
 先刻話していた内容をこんなにすぐ実践することになるとは、と思いながら、アラシヤマは同行している副官に下がっているように命じた。自分も三メートルほど下がり、銃のシリンダーから弾薬を一つ引き抜くと、あいた場所に腰のポーチから取り出した別の弾薬を詰めて再セットする。そして撃鉄を起こすと、錠前に対し角度をつけて引き金を引いた。
 さすがの堅固な錠前も、至近距離のマグナム弾の直撃には耐え切れない。ひしゃげた戸を無理やり外して、アラシヤマは中の書類を手に取る。
 そこに保管されていたのは、膨大な量の研究レポートだった。おそらくは数百枚はくだらない白い紙の束が、いくつもにファイリングされて収められている。
 アラシヤマが何気なく選んだファイルの中から、まず目に飛び込んできたのは、なんらかの化学式だった。五角形や六角形の線の間にいくつかの元素記号が書き込まれている。その図の合間に書き込まれている英文の内容は―――

(――……ッ!)

 その意味を理解したとき、アラシヤマの顔色がさすがに変わった。
 さらに詳細な資料を求めて、他の段を漁る。だがその次の瞬間。

 本能的に感じた危険に、アラシヤマはバッと勢いよく振り向いた。同時に上方から打ち下ろされる何かを防御しようと、両手を頭上で交差する。
 だがその防御は何の効力も持たず。打ち下ろされたそれが腕に触れた瞬間、雷を浴びたような衝撃を受け、眼前が白く染まった。

 その意識を失う間際。目に入ったのはガンマ団では見たことがない種類の武器―――おそらくはスタンガン―――を手にし唇を歪めている、つい三分前まで己の従順な部下であったはずの男だった。

「……あ……んさ……」
「―――本当は、もう少しあなたにお付き合いしていたかったのですが」

 尖った輪郭に浮かぶ表情は、皮肉なようにも、心底残念そうに思っているようにも見える。

「ご安心ください。あの人質は本物です。そもそもあんな旧時代の遺物は、我々の本来の目的ではない」
「……―――」
「私は、あなたの指揮ぶりは、一応尊敬しておりましたよ。隊長……」


 その褒め言葉の最後までアラシヤマが耳にすることはなく。
 どさり、と地面に崩れ落ちた己が隊長の姿を、かつて副官だった男は口元に笑みを浮かべつつ、この上なく冷ややかな目で見下ろした。









『on the wild world』  act.3 












 万が一のときのことを考え、通信課の一般団員はすべて席を外させてある。今この室内にいる課の者は主任のみ。細かな機器類はティラミスとチョコレートロマンスが担当し、キンタローが補佐に回る。
 団の、重要機密に属する扱いということだった。
 キンタローの手元には現状集められる限りのυ国と前政権に関するデータがそろえられている。


 そのメインモニターの前の席に着いたとき、シンタローは自分でも不思議に思うくらい落ち着いていた。例えばこれが他の一般団員が捕虜として扱われているような状況だったら、あるいはもっと焦慮は深かったかもしれない。先刻の一瞬の激情が過ぎ去った後、誰よりも身近に居た仲間の一人の生死がかかっているというこの局面で、シンタローの頭は驚くほど冷えている。
 それは、捕まっているのがアラシヤマという男だからなのだろうか。アイツだから大丈夫だ、などという信頼ではそれはない。シンタロー自身にも、己の心境がよくわからなかった。

「通信、再開します」

 シンタローが着席してすぐに、後方でヘッドホンを着けたティラミスがそう告げる。同時にシンタローの眼前に広がる大型モニターに、五十がらみの中年男の姿が映った。その身には仕立てのいいスーツをまとっており、襟元にはυ国でかつて政治家であったことを示すバッヂが付けられている。
 キンタローの持つ資料を見るまでもなかった。テレビで何度も報道されたことのあるその顔には、シンタローですら見覚えがある。前政権の国防次官補であった男だ。やや肥満気味のその体の上に乗せられた顔には一見柔和そうな笑みが浮かんでいるが、目に軍関係者特有の消しきれない陰惨さがあった。

「お初にお目にかかりますな、ガンマ団新総帥。ご機嫌麗しいようで何よりです」
「あァ、そちらさんもな。とても権力の座から追われて逃げ回ってる悪党にゃ見えねーぜ」

 皮肉の応酬は、交渉の前哨戦にもならない、ほんの挨拶代わりだ。ただ、この手の男の顔を見続けるのも不愉快で、シンタローは口の端に笑みを刻みながら、早々に本題に入った。

「くだくだしい前置きはいらねぇ。まずそっちの言い分を聞かせてもらおうか」

 その直截な物言いに若さを見たとでも思ったのか、モニターの中の男は手に持つ葉巻を咥え高価そうなライターで火を点けると、ゆっくりとその煙を吐き出した。

「こちらが望む条件は二つ。まず一つ目として、現在の暫定政府のナンバー2を殺していただきたい」
「……<新政府>、のブレインてことだな」

 あえて言い直したのは、当て付けですらなかった。新政権が樹立してまだ一ヶ月。にも関わらずこれだけの国民に支持を得ているその姿を見て、なお暫定などと言い張るそのくだらないプライドを、シンタローは笑止と思う。
 そんなシンタローの心境を察したのか、男はほんの少しだけ片眉を上げ。不穏な気配を醸しながらも、それでも表面上は何も無かったかのように次の要求を口にする。

「二つ目は、アメリカドルで三億。本来ならば今後一切のわが国への不干渉も約束していただきたいところだが、さすがに団員一人にそこまではできないでしょうな。妥当な取引と行きましょう」

 その出された法外な額の要求に、後ろで機器類の調整をしているティラミスが思わず気色ばむ。それは至極まっとうな反応だった。団員一人の命と三億ドルを秤にかけるような馬鹿な要求は、まともな神経であればまず考えられない。
 だがシンタローはそんなティラミスを手で制して、無表情のまま男に言った。

「ウチの団員が、そこにいるという証拠を見せろ。持ち物の類じゃ信用できねぇ、本人を出せ」

 そのシンタローの要求はあらかじめ予測されていたものだったらしい。男は手元にある中型のモニターの角度を変え、シンタローに見せつけるように画面を正面に向けた。

「意識はないので、声はお聞かせできませんがね。映像だけでよければお見せしましょう」

 そこに映し出されているのは、岩壁に囲まれた殺風景な部屋―――おそらくは独房―――と、両腕に鉄製の枷を嵌められ、吊るされた様な体勢にある黒髪の男の姿だった。
 一応地に足はついているものの、その体重を支えているのはほとんど掲げられた両腕に付けられた枷のようだ。深緑色のガンマ団の戦闘服の各所には、赤黒い染みができている。
 項垂れたその面は乱れた前髪によってほとんど陰になっており、ただその血の気のない蒼白な唇だけがかろうじて視認できる。
 それは、見間違いようの無い、あの根暗男の姿だった。
 後方でティラミスとチョコレートロマンス、さらにはキンタローですらも、息を呑む。
 だが、シンタローの注意は男の無残な姿より、半分以上が陰となっているその顔に向けられていた。

 動くはずがないと断定されたその唇が―――微かに動いた気が、した。

 繋がれた一縷の望みは、だがその表情には決して現さずに。眉を顰めてあくまで部下を案じる総帥の顔を崩さず、シンタローは言う。
 
「―――そんなんじゃ、アイツ本人だっていう確証はねーな。もう少しカメラ近づけろよ」

 シンタローの要求に、余裕を含んだ表情を浮かべるモニターの中の男は、後方に何らかの指示を出す。同時に、アラシヤマの映像がズームアップされた。
 その面がディスプレーの上に大きく映し出されたとき、アラシヤマの口がわずかに、本当にわずかに動いた。そしてその唇がゆっくりと、しかし確かな言葉を象る。この時点で、後方の三人もシンタローの意図を完全に理解した。
 シンタローは己の視線の先を気取られないよう細心の注意を払いながらも、その動きを凝視して、アラシヤマの伝えんとするところを察する。
   
(副官…内通者……その部下ってヤツか……!)

 そのメッセージをシンタローが読み取ったのとほぼ同時に、υ国の男が誰かから声をかけられたような素振りを見せ、顔色を変えた。アラシヤマを映し出していたモニターの映像が、ぷつりと途切れる。

「……」

 おそらくは、アラシヤマを監視していた部下からの注意を受けたのだろう。男は数秒間憎憎しげな色をその面に上していたが、やがて再び咥えた葉巻から煙を吐き出し、シンタローに皮肉な笑みを向けた。

「全く、あれだけの薬を使わせておいて、まだ意識があるとは。あなた方は一体、どういった教育を兵に施されておられるのか」

 感嘆というよりは呆れたような声音で太り肉の男は言う。

「しかしこれであの男の真偽は明らかになったはず。ガンマ団の新総帥は人道主義で知られておられる。よもや大事な部下をお見捨てになられたりはしないでしょう」

 (―――別に人道主義だなんて看板掲げた覚えはねぇし。そもそも、アイツが「人」のうちに入るかよ)という悪態を、シンタローは心の中だけで吐く。その様子を悔しがっていると受け取ったのか、モニターの中の男は愉快そうな笑みを唇に刻んで、

「回答期限は二十四時間後。交渉決裂や、それまでにそちらがおかしな動きを見せられた際には、その瞬間にあの男の首を落とします」

 それだけを告げると、シンタローの返答を待たずに回線を切った。目の前のモニターが灰色のノイズに覆われる。通信が完全に途切れたことを確認した後、課の主任技師がメインモニターの電源を落とした。
 シンタローが椅子の背もたれにどさりと体重を預けると同時に、キンタローが傍にいるチョコレートロマンスに声をかけた。

「逆探知の結果は」
「はっ……。断定はできないのですが、おそらくはアラシヤマ氏が向かわれた砦の内部かと……」
 
 その返答を聞いたシンタローは、がしがしと黒髪を掻いて渋面を作った。

「つまり、アイツらは他に拠点にできるとこは持ってねぇってことだな。……ッたく、背水の陣ってよりは単なるヤケクソじゃねーか」
「……まあ、そういうことになるな。しかしシンタロー。そういう相手ほど、厄介なのではないか?」

 眉間に深い縦皺を刻んだままのキンタローが、椅子に埋もれかかっている紅い背中に向かってそう告げる。だがその問いかけにはシンタローは直接は答えずに、

「てことは、あのバカが捕まってんのもあそこの可能性が高いってことか……」

 とだけ、小声で呟いた。
 ヘッドホンを外したティラミスが、通信機の前からシンタローに進言する。

「シンタロー新総帥……この事態は、幹部会を開かれたほうが……」
「……あーもー、メンドクセーな」

 口調には明らかな不機嫌さが含まれている。しかしその行動は迅速だった。
 すっくとモニター前から立ち上がり、後ろに控えるティラミスとチョコレートロマンスの二人に指示を与える。

「緊急幹部会議を開く。今、この本部にいる幹部は全て収集。近隣国にいる上級幹部とはネット回線を繋げ。開始時刻は14:10だ」



***



 そして開かれた幹部会への出席者は、青の一族であり研究課を統括するグンマ博士などを含む十名強。
 そこに前総帥であるマジックの姿はない。代わりに、というべきか、現在は団の科学顧問の肩書きで本部から離れているドクター高松が、どこからかネットを通じて出席していた。どうやら事態を重く見たグンマが、常の冷戦状態を解除して急ぎ連絡を取ったらしい。
 
 会議はまず、相手の要求は呑めないということを前提として始まった。当然だな、とシンタローは思う。テロリストとはどういった場面であれ、交渉をしないというのが鉄則だ。一度要求を受け入れた前例を作ってしまえば、際限なく同じ事態が繰り返される。
 ましてや今回のような明らかに人質とその交換条件が見合わないケースであれば、その選択肢は初めから無いも同然だった。つまり、会議の論点はアラシヤマのために救出チームを派遣するか否かというその一点に尽きる。
 そしてその議論の方向性すら、初めからほとんど決まっていたようなものだった。アラシヤマは団内では伊達衆と呼ばれ、ある意味象徴的な存在ともなりつつある一人だが、立場としては一支部の支部長補佐でしかない。軍隊で言えば中尉クラスだ。
 そして高松の、 
 
「自白剤の類を気にしてるんでしたら、心配いりませんよ。―――あの子は、そういった訓練は随分受けていたみたいですからねぇ」

 飄々と発された、元団員の健康管理係のその意見が、議論の向きをほぼ完全に決した。
 会議の参加者の視線が、何かを求めるように一斉にシンタローに向けられる。それらを一身に受けながら、シンタローは表情を変えずに言葉を舌に乗せた。 

「任務は完了してる―――υ国前政府残党に関しては再調査が必要だが、それはまた別の話だ」
 
 最初から最後まで低調だったその会議を締めくくったシンタローの決定は、ほんの僅かな揺るぎも見られないもので。

「ただでさえ人が足りないこの時期に、アイツ一人のために、貴重な人員を死地に送り込むことは、出来ない」

 眉一つ動かすことなく、紅い服の新総帥はそう言いきった。
 



 そのほとんど何の色も持たない硬質な表情に、ある「決意」が隠されていたことには―――会議の参加者のうちほんの数名だけが、気付いた。
















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n





 あ、と思ったときにはもう遅かった。



 かなりの高さからフローリングの床に落ちたその磁器は、ぱりん、と嫌味なほど鮮明な音を立てて、きれいに二つに割れた。
 その音に何事かと、ダイニングにいたアラシヤマがキッチンを覗き込む。その視線に、床に落ちている磁器の破片が入ってきた。

「あ……割れてもうたんどすか」

 床にそれを落とした体勢のまま、どうしようもなくその場に佇んでいるシンタローをさておいて、地面に落ちている破片をひょいひょいと拾いながら、アラシヤマはそれを洗い場の横に置く。それから、バツの悪そうな顔で自分を見ているシンタローに問いかけた。

「怪我とか、してはりまへん?」
「イヤ、それはねーけど……ソレ……」
「まあ、古いもんどしたしな。それに接ぎにでも出せば多少跡は残っても直りますさかい」

 気にせんといておくれやす、と淡々と言うアラシヤマを見るシンタローは、心中穏やかではなかった。
 珍しく深い色をした青磁の湯呑み。それはアラシヤマがマーカーと二人で暮らしていたころの、数少ない大事な思い出の品だと、以前何かのときに聞いた覚えがある。だからこそ、普段使わない棚の奥深い場所に仕舞ってあるとも。

「床はあとから片付けときます。破片でも踏んだら危のうおすから、とりあえずダイニングに移りまひょ。お茶はないどすけど、水でも構へんどっしゃろ?」

 言いながらアラシヤマは洗い場に上がっていたグラス二つを取り出すと、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出してダイニングに移動した。シンタローも無意識にその後を追う。
 水を注いだグラスの片方をシンタローに渡しながら、ダイニングテーブルの端に軽くもたれるようにしてアラシヤマは訊ねた。

「あないなところ、なに探してはったんどす?」
「いや、ちょっと……そろそろ寒くなってきたし、どっかに土鍋とかねーかな、と……」

 その返答にアラシヤマは苦笑しながら言う。

「食器類はともかく、ウチの調理器具が増えたんは、シンタローはんが来てくれはるようになってからどすからなあ。入り用ならまた買い足しときますえ」

 それにしても、鍋どすかあ……これからの季節にぴったりどすなぁ……とうっとりと呟くアラシヤマに、シンタローは首を振って怒鳴った。

「じゃ、なくて、湯呑みだよ!」
「へ?」

 頭の中ではすっかりシンタローと二人仲良く鍋をつつく図を浮かべ、陶然としていたアラシヤマの目が丸くなる。

「せやから、気にせんでええて……」
「……俺の気が、済まねーんだよ、それじゃ。アレ、テメーの師匠との思い出なんだろ」

 まるでシンタローのほうが拗ねているかのように言う。
 まあ、思い出てゆえばそうどすけど、湯呑みは所詮湯呑みどすしなあ、と本心からそう言っているようなアラシヤマのその表情にもどこか腹が立って、シンタローはアラシヤマの胸を人差し指で突いた。

「落とし前はキッチリつける―――今から、オマエの言うこと、一つだけ何でも聞いてやる」













『 without  limit 』













「なっ……ななな何でも?!」

 思わぬシンタローの発言に、アラシヤマの挙動があからさまに不審になる。信じられないようなその言葉を頭の中で反芻すると、おろおろと左右を見回し、挙句顔を真っ赤にしたまま阿呆のように口をあけてシンタローを凝視した。
 そんなアラシヤマの様子を呆れたように眺めていたシンタローは、あっさりとアラシヤマの希望を軽く打ち砕くような台詞を追加した。

「あ、でもエロ系は禁止な」

 その言葉に、期待を一身に込めた目でシンタローを見ていたアラシヤマの肩が、見事に落ちる。

「……。今、わての野望の八割方費えましたえ……」
「八割って……オマエいっぺん高松にアタマん中見てもらって来い」

 まあ、それでもアラシヤマにとって僥倖は僥倖だ。背の高いテーブルに軽く腰をかけるようにしながら、アラシヤマはしばらく中空を眺めながら思案する。
 そして、やがて何かを思いついたようにシンタローに目を向けた。

「そんじゃ、ま」

 その口元には、気が利いた悪戯を思いついたような悪趣味な笑みが浮かんでいた。

「たまには、シンタローはんのほうから、キスしてほしいどすなあ」
「キ……っ!」
「軽いので構いまへん。そんくらいどしたら、簡単どっしゃろ?」

 挑発するように、アラシヤマは小首をかしげる。それにシンタローもまた、苦虫を噛み潰したような表情で、かろうじて口の端だけを上げて返した。

「……まーナ」

 そして、手に持つグラスをゆっくりとテーブルの上に置く。
 テーブルに後ろ手をついた体勢のアラシヤマの正面にシンタローは立ち、軽く身をかがめて、自分もテーブルの端に両手をかける。
 たかが口と口を合わせるだけ。今更それに過度の意味を持たせるような年でもない。
 キス自体はこれまでに何度だってしてる。ただ―――大抵の場合せがんでくるのも仕掛けてくるのもコイツで、自分はそれに応えていればいいだけだったのだが。
 アラシヤマはじっとシンタローを見上げたまま、微動だにしない。その髪の隙間から見える視線がなんとなく気になってしまい、シンタローはぶっきらぼうに言う。

「……目、つぶれよ。とりあえず」
「へぇ。ほな、なんも見えんのも不安どすし、手ぇ繋ぎまひょ」

 言うなり、シンタローの両手をとり、指を絡める。そして顔をやや仰向かせたまま、アラシヤマは目を閉じた。
 その途端、これまでイヤというほど見てきた男の顔が、まるで別人のようにシンタローの目に映る。

(―――案外、睫毛長ぇな……てかこんなまっとうなカオしてんの最後見たのいつだよ……)

 そう意識しはじめると、どうにも簡単なその「行為」が、なぜかとてつもなく困難なものに思えてきた。目を閉じたアラシヤマを間近に見ながら、シンタローはそこから僅かも動けない。
 あまりに長い間、空気すら動かないその状況が続いたため、アラシヤマが小声で呟いた。

「……早よ済まさんと、余計辛うなってきますえ」
「わぁってるよ!」

 ヤケクソのようにそう怒鳴りながら、やっぱり手を繋いだままというのはどうにもマズった、とシンタローは思う。速まっている動悸も、うっすらとかきはじめている汗も、全て手のひらを通して伝わってしまう。
 だがとりあえずこれを外して……とほどきかけた手は、ぐっと、更に強く、アラシヤマにつかまれた。
 目を閉じたまま、どこか楽しそうに、アラシヤマは言う。

「お手伝い、しまひょか」

 そのあまりに人を小馬鹿にした物言いに、シンタローの頭に一気に血が上った。

「ウルセー動くな黙ってろ!!」

 一瞬だけ息を呑んで、それから覚悟を決めたようにシンタローがゆっくりとその顔を近づける。長い前髪と、微かな吐息がアラシヤマを掠める。


 そして柔らかなその唇が触れたのは、
 
 アラシヤマの瞑った左瞼の上だった。

 
 その唇の感触が完全に薄れてから、アラシヤマが目を開き、シンタローをまじまじと見る。

「……シンタローはん?今の……」
「―――~~!キスにゃ、かわんねーだろーが!」
「……―――」

 シンタローはそれでも顔を真っ赤にしたまま、口をへの字に結んでそっぽを向いている。アラシヤマはといえば、シンタローの唇が触れた左目を片手で軽く押さえたまま、ぼんやりとしていた。

「……んだよ。文句あンのか」
「いや、ある意味、えらい不意打ちどすわ……」

 言いながら、アラシヤマはゆっくりと、花瓶一つ置かれていないダイニングテーブルの上に仰向けに倒れこむ。そして両腕を交差させるように、瞼を覆った。
 ほんの少し、本当に僅かだけ彼の唇が触れた左の瞼が、熱い。しかもそれは、その瞼をじわじわと灼いているかと思うほど熱いのに、同時にとんでもない多幸感をアラシヤマに与えるのだ。
 その予想外の感覚に、アラシヤマの口から、はは、と笑いが漏れる。
 そしてふてくされたような表情のシンタローに向かって、両腕で目を覆ったままアラシヤマは口を開いた。

「シンタローはん」
「ぁン?」

「わて、あんさんのことどんどん好きになってきます」

 それは愛の告白というよりは、半ば呆然としたような響きを持っていた。
 シンタローはテーブルに倒れているアラシヤマの横に、軽く腰を掛ける。

「初めは見てるだけで、声聞けるだけで十分や思とったんに、それだけじゃ足りへんようになって、こっち見て欲しい、触りたいて、そればっかり思うようになって……」

 ぽろぽろとその口から零れ落ちる独白のような言葉を、シンタローはアラシヤマのほうに目も向けずに、ただ聞いている。

「自分でも、もうどこまで抑えがきくんかわからへん。―――せやから」

 それが掛け値なしの本気で、だからこそ、それを言葉にしてしまうことは、アラシヤマにとってはとてつもない覚悟を要するものだったけれど。

「もし、ほんまに、シンタローはんが冗談やなく、わてのこといらんて思わはったら……」

 どうかそうゆうておくれやす、と懇願するような声で、アラシヤマは言った。

 ほとんどモノトーンでまとめられた室内に、僅かな静寂が訪れる。
 しかしアラシヤマの本心からのその言葉を聞いたシンタローは、つまらなそうに片眉を上げて。
 そして、ポケットから出した煙草におもむろに火をつけた。ふ、と中空に煙を吐き出す。空気が止まったような室内に、薄い白煙がゆらりとのぼっていく。

「ふーーーん。で、ナニ。俺にそう言われたら、オマエ傷心の旅にでも出ンの」
「へぇ?しょ、傷心の旅て……いや、そらちょっとは出るかもしれまへんけど、結局は本部詰めどすしなあ……」
「そんで―――忘れられんのか?俺のこと」
「……」

 沈黙の返答は、どう考えても否定でしかないのに。アラシヤマはそれ以上何も言おうとはしない。
 その曖昧な態度にシンタローは苛ついて、咥え煙草のまま、表情を隠すように両目を覆うアラシヤマの両腕を力ずくで外し、テーブルの上に押さえつける。
 間近に覗き込むようにこちらを見るシンタローの漆黒の双眸。その視線からなんとか逃げようとアラシヤマは己の目線を横に流しつつ、しどろもどろになりながら答える。

「そ、そらまあ、時間は…かかりますやろけど……その、できるだけ目に入らんように……イヤ、その、まあ……努力は、しますえ」

 半ば意地になっているかのようなその言葉に、シンタローは押さえつけていた手を離し、起き上がると傍らにある灰皿に煙草の灰を落とした。
 そして、呆れたような声で言う。 

「だったら、今までどおり、そばにいろ」

 まだテーブルに倒れたままのアラシヤマに見えるのは、少し猫背になったシンタローの広い背中だけだ。その背中はややげんなりと疲れているようではあったが、だがけして拒絶の意を示しているようには見えなかった。

「ワケのわかんねーところから陰気な怪電波飛ばされるよりゃ、目の届くところでストーカーされてたほうがまだマシだ」

 自分の本音を、どこまで堕ちるかもわからないその執着を、あまりに簡単に受け入れられてしまって、アラシヤマは安堵するより先に気が抜ける。

「シンタローはん、わてな」

 テーブルの上に仰向けに倒れて天井を見上げたまま、その両手を腹部の上で組むようにしてアラシヤマは言う。

「こう見えて、案外しつこいんどすわ」
「イヤ、『こう見えて』も『案外』もいらねェ」
「後悔しても、知りまへんえ?」
「そんなモン、あの島にいる時からとっくにしてる」

 アラシヤマの言葉はことごとくシンタローに茶化されながらも、けして拒まれはしない。
 そして、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けてから、シンタローは上体を振り向かせた。

「ま、いくらでも来いよ。テメーなんざ、本気で愛想尽かしたら全部返り討ちにしてやっから」

 そう言って、シンタローは笑った。ニヤリ、とまるであの島にいたときのような、悪戯めいた笑顔で。
 その表情があまりに無垢で自信に満ちていて、アラシヤマを安心させるものだったので、


(―――あんさんの覚悟より、もっとずっと、重たいもんかもしれまへんえ)


 そう思ったことは、あえて口にはせずに。

 また片腕で目を覆い。そしてもう片方の腕で置いてけぼりを恐れる子供のように、アラシヤマはシンタローの上衣の裾を強く握りしめた。 
































=======================================================


『潮騒』の岡甚様に捧げますアラシン小噺です。
カウント3389(ささ、早く)で「何かをシンタローさんに促すちょっと気持ち悪い系統のアラシヤマを…」
とのリクエストをいただき(強奪・・・?)、その瞬間思い浮かんだままに書き綴りました。
当サイト過去最高に糖度高いです内容もベタベタですみません。
リクエストにお応えできたかとても不安ですが、どうか受け取っていただければ幸甚です。

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