寝汗をかいて、全身にまとわりつく粘性の液体の中にいるような気分で、目が覚めた。
目は開いているし、意識はそれなりにしっかりしている。ただ頭が、中に鉛でも詰められたように重い。手足もどうもいつもより感覚が鈍くなっている。それでも枕もとに据え付けてある時計の文字盤を見て、シンタローはゆっくりと起き上がった。
気分がよくないのは単なる寝不足のせいかとも思ったが、どうもそれだけにしては頭の重さが抜けきらない。うー、と低く唸ってから、顔を洗いに洗面所に向かう。ばしゃばしゃと乱暴に水をかぶってから鏡を見れば、予想通り、蒼褪めた顔色の男がそこにいた。
とはいえ、体調不良だから休みます、とは言えはしないし、言いたくもない。今はそれを許されない状況、立場に自分はいるのだ。
何はともあれ、シンタローは紅い制服を身にまとい、常の職場へと足を向けた。世界各地に数十の支部と数百人の部下を抱える、巨大な組織であるガンマ団の総帥室へ。
『Sweet Drug』
朝の六時半。表は黎明の名残を残しており、太陽の光はまだ薄い。中庭の木々の梢を、寒々しい北風が揺らしている。常緑樹とはいえ春夏の輝かんばかりの緑にくらべれば、やはり冬場は元気が乏しいようだ。
総帥室に着いても、そこに秘書たちの姿はない。あと二時間は来ないだろうな、とシンタローは思う。彼らにはシンタローが昨夜、明日の朝は遅くていいと告げてある。
ここ数週間は、新しい取引相手から請け負った大きな仕事が予想以上に難航しており、総帥就任時以来の忙しさだった。それに連日付き合ってくれていた秘書たちも、体力的にはかなり限界に近かった。そうした彼らの体を慮ったということもある。
だが、何よりシンタロー自身疲れを感じていたので、今朝は本当ならばもう少しゆっくりしてもいいかと思っていたのだ。―――少なくとも、昨夜の十時、その仕事の今後の方針がようやく整って、秘書たちを早帰りさせた時点までは。
だが、予定外のときに起きることこそ、アクシデントのアクシデントたるレゾンデートルである。ぱらぱらと明日以降の仕事の予定を眺めていシンタローが一人残っていた総帥室に、駆け込んできたのは半泣きの部下。その男が持ち込んだ案件は、ある一つの派遣先で予想外の事故が起こったというものだった。
言ってしまえばそれに対処しきれなかった部下の不手際でもあるのだが、最終的に始末をつける方法を示唆するのは、総帥の役割である。
結局それから深夜まで、その状況に至るまでのプロセスやら案件の関連事項やらの資料を集めさせてから、シンタローは一旦家に帰った。そして仮眠としか呼べない程度の眠りを経て、未明の内に目を覚まし、こうして再び総帥室に来たのである。
総帥机の上には、昨夜集めさせた資料の類がうずたかく積まれており、そのほとんどが未読だ。眺めているだけで火をつけたい気分になる。一度椅子にはついてみたものの、だるさの取れない身体のこともあり、すぐにはとりかかる気が起きなかった。
まずはコーヒーと煙草だな、と思って、シンタローは再び立ち上がって部屋の隅にあるポッドのところまで行く。普段は秘書がここではなく食堂からきちんと豆から挽いたコーヒーを用意してくれるのだが、それすらも面倒なときや深夜など、シンタローはここでコーヒーを淹れる。
コーヒーと煙草、コーヒーと煙草、と何かの呪文のように唱えながら、シンタローはポッドの近くまで歩み寄った。どうも、いつも踏みなれているはずの絨毯が、ふわふわと感じる。身体も頭も重だるいのに、精神だけ浮遊しているような気分だ。
そして、ポッドの電源を入れようと軽く上体を屈めた瞬間、がく、とその膝が折れた。
すうっと気が遠くなるような感覚で、シンタローの脚が崩れ落ちていく。
あーやべぇこりゃ倒れるかもな、と妙に冷静な頭で思った。意識が身体から遊離していき、シンタローはそのまま地に伏しそうになる。
だが、片膝が絨毯を打ったか打たないか、というところで、右脇の下を何かに支えられた。
その感覚に、へ?と意識を取り戻し。抱え込むように自分の片腕を支えているのが誰かの腕だということに気付いて、慌てて振り向く。
「……大丈夫どすか?」
果たしてそこにあったのは、予想外かつ見たくもない男の顔だった。顔の片側を髪で覆った陰気な男は、百九十センチを超える男を片腕で支えたまま、戸惑ったような眼差しをシンタローに向けている。
「あ……」
二の句どころか一の句すら出てこないシンタローが、呆然として男を眺める。なんでこんな早朝に、ここにアラシヤマがいるのだろう。そもそも、一体いつの間に入ってきたのか。それすらも気付かなかった。
男ははあ、と一つため息をついてから、ほら、しゃんとしなはれや、とシンタローをきっちり立たせて、もう片方の手に持っていたそれをシンタローの目の前に突き出した。
「ほい、あんさんの煙草どす。コーヒーやのうて、今日は柚子茶にしときなはれ。入ったら持ってきますさかい、とりあえずそこのソファで一服しはったらどうどすか」
まだ我に返りきっていないシンタローは、言われるままに煙草を受け取り、そばにあるソファまで行って、ぽすりと腰を下ろした。
起こっている事柄と登場人物に、どうも現実感がない。もしかすると自分はあのまま倒れて、また夢の中にでもいるのではないかと思う。
だが、そんなことを思いながら無意識に手の内の箱を開けてみれば、ぽっかりとあいた空洞の中には、一本の煙草しか入っていない。
昨日帰りがけに新しいのを開けたのだから、どう考えても事態はアラシヤマの仕業としか思えなかった。
「てめー……、人の懐からモノかすめとっといて、親切面で渡すたぁやってくれんじゃねーか」
「いつもだったら、できへんのどっしゃろけどなぁ」
今日のあんさんやったら簡単や、まるで集中力いうもんが切れてはるやないの。持参らしき柚子茶をいれている男はのうのうとそうのたまう。
「ま、今日は抑えときなはれ。ええ子にしとったら二時間おきに一本だけあげますえ」
「ヒトを、ペットみてーに、扱うんじゃ、ねぇ……」
威勢よく怒鳴りつけようとしたシンタローだったが、腰を下ろして一度ほっとしてしまったのが良くなかったのか、どうにも力が入らない。頭がぐらぐらする。
仕方なくその箱の中に寂しく残された一本を口にくわえたまま、仰向けにどさりとソファに倒れこんだ。
「あんさん、足にまでガタきとるなんて、相当やないんどすか」
「……今日はおとなしく寝てろ、とか言わねーだろうな」
室内にほのかに甘い薫りが広がっている。湯気の立っているマグカップを手にしたアラシヤマが、シンタローの元に歩み寄ってきた。
ソファの横の机に、コトリとそれを置きながら、淡々とアラシヤマは言う。
「言いたいのは山々どすけどな。……あんさんにしか、できへんことがあるんでっしゃろ」
その言葉に、シンタローはほんの少し目を丸くして、天井を見た。
「あんさんの具合が悪そうなことなんて、昨日見かけたときから気づいてましたわ」
相伴のつもりなのか、自分も柚子茶の入ったマグを片手に、アラシヤマはシンタローが横になっているソファの肘掛け部分に軽く腰をかける。
チクショウ、さすがはストーカーだぜ、と、無駄な足掻きと知りつつ、シンタローは内心で毒づいた。
「せやから、わての今日の分の仕事は、ゆうべのうちに済ませときました。手伝いますから、あともうちょい踏ん張って、そんで早帰りしぃ」
「……」
いかにもた易く、まるでそれが自然な流れのように、柚子茶を啜りながらアラシヤマは言う。だが、その口にした内容が口調どおり簡単なものであった筈がないことは、各部署に仕事を割り振っているシンタロー自身が、一番良く知っていた。
(クソ、なんでコイツは、いつも―――)
ぐ、と奥歯を噛み締めながら、シンタローは一度まぶたを閉じて。数秒の間じっとその姿勢のままでいてから、がばりと跳ね起きた。
くわえた煙草には結局火をつけず、代わりに程々に熱い茶を、渇いた喉に流し込んだ。悔しいことに、柚子の清涼な香りと甘酸っぱさは、身体のダルさをとるには丁度いい。
そして、だーもう!とぐしゃぐしゃと長い黒髪を掻きながら立ち上がる。
「ほんっとムカつくぜ、テメー」
その横を通りがてら、げしっとアラシヤマの尻を思い切り蹴飛ばした。
な、なんどすの?!とつんのめりながらアラシヤマが抗議の声を上げたが、そんなものは当然無視して、シンタローは執務机に向かう。
ブツブツと文句を言いながら資料整理の手伝いを始めるアラシヤマを横目で見ながら、シンタローは―――ったく、コイツは、と気付かれないように深い息を吐いた。
―――甘やかすのが上手すぎて、あやされているような気分になる。
***
仕事が一段落ついたのは、正午過ぎだった。
まとめ終わった計画書をトントン、と机の端でそろえ、バインダーに収納しながらアラシヤマが労いの言葉をかける。
「ようやく、この件に関しては終わりどすな。ほなおつかれさん。今日はもうお帰りやす」
シンタローは机の上についた片肘で頭を抱えるようにしながら、アラシヤマの作業を眺めている。
「……まだ、仕事あんだけど」
「今日中にやらんとにっちもさっちもいかんゆうのは、これだけでっしゃろ。後は秘書たちやら幹部勢やらに差配して、明日にまわしてもろたらええ」
秘書たちは午前八時きっかりにやってきた。彼らが既に仕事を始めている総帥の姿を目にして慌てふためくのを横目に、アラシヤマは堂々とその場に居座って総帥の秘書業務を勤めており。更に気を使われるのを嫌がったシンタローが今日の秘書代わりはアラシヤマにやらせるからいい、と口にしたため、秘書二人はそろって天変地異でも起こるのではないかと囁きあっていた。
もっとも、面と向かってそれを口にする勇気はなかったらしく、シンタローのその剣呑な(実際は熱に浮かされた)目を恐れたこともあり、結局二人とも無言のまま回れ右をしたのだったが。
「なんなら無理やりにでもウチに連れて帰って、今日明日はつきっきりで看病してもええんどすえ~」
「アホ」
ウフフフ、と気色悪い笑い声を洩らしながらアラシヤマが口にしたその提案を、シンタローは反射的に否定する。
だが、そう言ってから、ふと気付いたように前言を撤回した。
「あー、でも、そのほうがいいのかもなー…」
「へ?」
ぼんやりと焦点の合わないうつろな瞳で、シンタローはうわ言のようにそう呟く。
「……親父とか、グンマとかに、こんなとこ、見せたくねーし」
言葉を発している最中にも、シンタローの上体はずるずると机の上に崩れ落ちていき。目を丸くしたアラシヤマがなすすべなくその様子を見ているうちに、机に完全に突っ伏した。
「―――て、ええ?!こ、ここで寝はるん??せめて、わての部屋までは歩いておくれやす~~!!」
だが、いくら声をかけても揺さぶっても、深い眠りに落ちたシンタローは一向に目覚める気配がない。
既に呼吸は寝息に変わっており、表情は幼い子供のように安らかだ。
寝顔を見ることができて嬉しいという気分と、余っ程疲れてはったんやな、という同情の気持ちは勿論瞬時に湧いた。だが、それより何より総帥室から士官寮までの長い道のりを思い。アラシヤマはがくりと肩を落とす。
それでも、他にどうすることもできはしない。
自分より十センチ近く背の高い男の体を半ば引きずるように背負って、アラシヤマは寮の自室へと戻った。
負ぶったシンタローの背中に、「グンマ博士作 わて専用シンタローはんロボv」と大書した貼り紙をしておいたところ、すれ違う一般団員で疑う者は誰一人いなかった、とのことである。
了
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アラが「シンちゃんに関してだけは甘やかし上手」だったらいいなあと思います。
書き終わってから気付いたんですがこの「その後」の話の方がほんとはBLぽいですね。
(いやそもそもウチの小説はBLなのか?)
「―――HAPPY BIRTHDAY!おめでとうございます、シンタロー総帥、キンタロー博士!!」
薄いシャンパングラスが合わさるリィン、という音が、日の落ちたガンマ団本部の中庭に響き渡る。
五月二十四日。
ガンマ団の二大トップと言われる二人の誕生パーティーの始まりに、出席を許された上級幹部以上の団員たちがそろって歓声を上げた。そこには当然の如く、青の一族や伊達衆の顔もある。
中央塔に近い場所には、紅のクロスが掛かったテーブルが、中庭を横断するほどに伸びている。並べられているのは、世界の一流コックの手による料理だ。
中庭のところどころには小さな白のテーブルが置いてあり、そこには赤白の最高級ワインとシャンパン、きりりと冷やした日本酒などが用意されていた。
シンタロー、キンタローの順にスピーチを終え、親族と参加者を代表してマジックが行った祝辞が終わると、後は歓談に入った。
それも時が経過するにつれ、段々と無礼講の様を呈してくる。
だがパーティーの開始から三時間以上が経って、主役の一人であるキンタローは、ふとした違和感に気付いた。
その瞬間、気付かなければよかった、と後悔はしたが、気付いてしまったのだから仕方がない。放っておくのも気分が悪く、ふう、と一つため息をついて、歩き出す。
『 The heart Asks Pleasure First 』
違和感の元凶は、ガンマ団中庭の隅の隅、鬱蒼と茂る林の入り口で、一人場違いな(というにもパーティーの中央からはあまりに離れているので目立たなかったが)どんよりと重い空気を背負い、ちびちびとワインを舐めていた。
近づくだけで負のオーラを感じるようなそこに、キンタローはあえて一歩を踏み出す。
「アラシヤマ」
闇の中にもよく通るバリトンで話しかければ、男は少し顔を上げる。いつもより幅が狭いように思える髪の隙間から、上目遣いにキンタローを見上げた。
「……なんどす。ああ、あんさんもおめでとさんどすな」
「俺のことはいい。それよりお前は今日、シンタローに祝いも何も言っていないな。一体何を企んでいる」
「……」
普段のアラシヤマの行動からすれば至極まっとうなキンタローの疑問にも、アラシヤマは答えない。
ただ、自嘲のような相手への侮蔑のような薄い笑みを口元に浮かべ、ふい、と視線を逸らした。
そんな男の態度が気に食うわけもなく、キンタローは片手を腰に当て、もう一度言う。
「いいか、お前がシンタローに何も言いに行かない、というのはだな……」
「……シンタローはんへのプレゼント、どす」
「なに?」
常よりも大分低い声で、ぼそぼそと独言のように吐かれたその言葉に、キンタローは怪訝な顔をする。
アラシヤマがやや遠くに視線を向けながら、またちびりとワインを舐めた。
「『シンタローはん、そろそろお誕生日どすな……欲しいモン、なんかあります?』ゆうたら『俺の半径三十メートル立ち入り禁止』言われましたんや……。泣き付いてなんとか『当日は』いうことになりましたけどな……」
「……そうか」
「去年は金目のモノなら、って言わはったから特注で純金製高さ五十センチメートルの舞妓人形あげましたんに……その場で融かされて、ソッコー換金されましたからな……。……なにがあかんかったんやろ……」
「……」
とりあえずセンスが、ということは間違いない。そう心中で答えつつ、キンタローはひたすらに陰気を発散する男にため息を一つつく。
足元の草むらには何本かのワインボトルが置いてあった。キンタローが栓のあいている一本から、手酌で、自分の空いたグラスに見事なボルドーを注ぎつつ男を見ると、男は目を細めて演台の方向、パーティーの中心部分を眺めている。
「―――今日は、同期やらサービス様やらに囲まれて、久しぶりにええ顔で笑ってはりますわ、シンタローはん」
「そう、だな」
「あんさん、シンタローはんの中に居たときの記憶て、はっきりしてますのん?」
「しているとも言えるし、していないとも言える。事実の記憶としてはあるが、実感は無いな」
「そうどすか」
自分で訊いておきながら、アラシヤマはさして興味も無いように素っ気無い返事を返す。
それから目を細めたまま、ぼそり、と低い声で呟いた。
「あの島でのシンタローはん、思い出しますわ。もしくはもっとずっと昔の、十代の頃の」
特にキンタローに向かって語りかけるというわけでもなく。ただ淡々とアラシヤマは言葉をつむぐ。
「新総帥にならはってから、あないな笑顔、ほんま少のうなってまいましたからなぁ……。去年の誕生パーティーも、あんさんはむずがるわ、シンタローはんは前線から戻れへんわでえらいことになって」
ようやっと、ここまでは来れた、ちゅうことどすな、とアラシヤマは言う。
キンタローの脳裏に、昨年の誕生パーティーの時の、お世辞にもいいとは言えない記憶が蘇る。シンタローがその時どうしていたのかさえ、ロクに覚えていない。それほどに、当時の自分はまだ、己の立ち居地を確立できていなかったのだ。
ただ一つ、これだけは確かなことがある。
「昨年、招待されていなかったのに、よくそんな見てきたように言えるな。お前は」
「ま、誘われたとしてもあの頃のわてどしたら、パーティーは忙しゅうて都合つかへんかったでっしゃろけどな」
「だが誘われなかっただろう」
「されたとしても、言っとりますやろ!それにシンタローはんにはきちんと会いに行……」
「会いに?」
「な、なな、なんでもあらしまへんわ」
容赦のないツッコミにアラシヤマは眉をひそめ、キンタローを睨みつける。
だがそれに対してキンタローは特に反応もせず、当人としては嫌味を言ったつもりですらないようだった。いたってマイペースにワインをあおっている。
アラシヤマが徐々に視線を緩め、やがて諦めたように息を付く。
「ま、せやけど、今、あんお人のああいう笑顔見てると……なんちゅうか、ほっとしますわ。最近またピリピリしてはることが多いから、余計そう思いますな」
そう言いながら、もう一度明るい方―――シンタローの方を見るアラシヤマの目は、一瞬、キンタローが驚くほど穏やかな光を宿していて。
その表情に意表を突かれやや動揺したキンタローの口から、今度は意図した皮肉がついて出る。
「お前の存在がなければ、いつもの棘々しさも、もう少し薄れるんじゃないのか」
「何べんもゆうてますけどなぁ。あれはシンタローはん流の照れ方なんどすえ」
そのポジティブさだけは評価したい、とキンタローは心底から思う。あとはその方向性さえ正しければ言うことはないのだが。
だが、そんなことを思っていたキンタローから顔を背けたまま、アラシヤマは続けた。
「―――それに、たとえあれが本心でも、わてがあんお人のそばで働いて生きていくゆうのには変わりはあらへん」
それは強がりでもなんでもなく、この屈折の過ぎた男には信じがたいほどの、愚直なまでの声。
「この先シンタローはんが三十になって四十になって、五十になって、還暦迎えはって……。自分の一番好きな人のそないな歴史、近くで見てくことができるんどすえ。こないに幸せなこと、ありますかいな」
ほとんど陶然に近い声で、男は言う。キンタローからその表情は見えない。
黒い襟足が、木々を渡る風になびいた。男の髪の長さは、もうほとんどあの島に居たころと変わらない。
「……シンタローは、かなりのところ嫌がるだろうがな。災難なことだ」
「いちいち癇に障る言い方しますなあ。せやけどあんさんかて、おんなじどっしゃろ」
「同じ?」
アラシヤマが振り向きざまに言ったその言葉を、キンタローは思わず聞き返す。
そないなこともわからんのどすか?という軽侮の表情を露わにして、アラシヤマは、ハン、と口元を歪めた。
「わてはシンタローはんさえ祝えれば後はどうでもええどすけどな。せやけど、今年も来年も、再来年も。あんさん、あの傍迷惑で小うるさそうな親戚一同やら変態ドクターやらに、この先ずっと祝われ続けるんでっせ?
わてからすれば、それかて十分災難みたいに見えますけどな」
アラシヤマのひたすらに人を小馬鹿にしたその声に、だがキンタローは僅か、目を丸くする。
二人の周囲をとりまくのは確かな、けれども不完全な闇。そこに、夜の空気を通じて、明かりの灯る方向から歓声が薄く聴こえてきた。
「……そうか……」
アラシヤマを見ず、明かりの方に目を向けたまま、キンタローは独言のように呟く。
そして、手の内のグラスの中身を、ぐっと一気に飲み干した。
「一人にも祝われない貴様よりは、随分と幸せかもしれないな」
「失敬どすえあんさん!言うてええことと悪いことがありますやろ」
禁句が発されたことに、アラシヤマは瞬時にどす黒い妖気を身にまとう。そしてこの気に食わない男にワインでも引っ掛けてやろうかと忌々しく思った瞬間。
その目論見は男の予想外の行動に、見事に邪魔された。
「―――感謝する」
「へぇ?」
言いながら、キンタローの上体がぐらりと揺れる。片目を見開いた対面の男の肩に両手をかけると、その片方の手の甲に額をのせるようにしてキンタローはアラシヤマにもたれかかった。
「な、な、なにしはりますんや!わてはそないなケは―――て。もしかして、あんさんそない真っ白い顔して、酔うてはりますの?!」
怒鳴りつけながら、アラシヤマは男にもたれかかられているという生理的嫌悪感に、思わず相手を蹴飛ばそうとした。思いきり顔をひきつらせながら金髪の男に目をやり、―――そして、その手が止まる。
アラシヤマの肩に額を乗せたキンタローの口元は、なぜか笑いを象っていた。
「酔ってなどいない。いいか、もう一度言う、酔ってなど……」
「あかん……。酔っ払いの症状そのまんまどすわ」
ぐったりとアラシヤマにもたれかかり、酒臭い息を吐く金髪の、団員いわく『お気遣いの紳士』。
アラシヤマはどうすることもできずに、心の中で救難信号を発信しながら天を仰いだ。
そのとき。
「あれぇ?話し声がすると思ったら、アラシヤマ?」
がさがさ、と近くの草を踏み分ける音がして、登場したのは正に今見上げた天の助け。
「ええとこ来なはったぁーー!!グンマはん!このオコサマ、宜しく頼みますわ」
「へ……え?ええっ、主役なのに見当たらないと思ったらこんなトコでつぶれちゃってたの??キンちゃん」
「そうどす。ほな、後はよろしゅうに」
言って、アラシヤマはさっさとキンタローをグンマに押し付ける。え?え?ちょっと?と困惑し、成人男性にしてもかなり上出来な体躯を誇る男をとっさに抱えさせられたグンマは、その場に尻餅をついた。
アラシヤマはといえば、すでに十メートルほど離れたところを駆けている。
「アラシヤマはどうするのー?」
「十二時過ぎましたさかい、シンタローはんのとこどすーーーー!!」
叫ぶその声は、助かった、という思いと彼の人の元へと行ける喜びで浮かれきっていた。
キンタローを抱えたまま芝生の上に座り込んでしまったグンマは、そろそろと姿勢をずらして、キンタローを、頭が自分の膝の上に来るように横にした。
傍目には酔っているようには到底見えない白皙を上から覗き込みながら、小声で話しかける。
「キンちゃん、大丈夫?お水持ってこようか?」
「……ああ。いいか、俺は決して酔ってなど……」
「だめかぁ。それにしても、アラシヤマが言ってた十二時って、なんのことだったんだろ」
会話が成立しないことに諦めの息をつき、グンマは、んー、と視線を上げる。
その時、膝の上から、寝言のような途切れ途切れの声が聞こえてきた。
「……プレゼント、だ、そうだ。十二時、までの」
「…あー……なるほど~……」
それだけの単語からなんとなく事情を察したグンマは、ほんの少し眉尻を下げる。
「でも、ちゃんと最初から、今日…昨日だけって約束だったんだね」
涼しい夜風が、綺麗に刈り取られた芝生の上を駆け抜ける。
「シンちゃんはやっぱり優しい―――ねぇ?キンちゃん」
呟きつつ、膝の上に乗せたキンタローの金の髪をすくと、その持ち主は既に安らかな寝息をたてていた。
中庭の照明はまだ消えそうにない。日付が変わっても、宴は当分の間続くようだ。
「ハッピーバースデイ、キンちゃん、と、シンちゃん。僕ら、四人でこれからどんどん幸せになるんだよ」
囁くように唄うように、唇からこぼれた言葉は。遠方から聞こえる歓声と風の音に混ざって、溶けた。
了
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シンタロー、キンタロー、はぴばすで2007。23→24の日付変更4時間前にネタが降りました。
出来はともかく愛情だけは…!!
一つでも多くの幸せが二人の上に降りますように、と、
題名は映画『ピアノ・レッスン』の有名なあの曲からいただきました。すごく好きです。
遥か地平線まで見渡せる赤土の大地。いつもならば空はどこまでも高く澄み渡り、濃く青く、まるで地球の果てまで続いているような気がする、国。
だが、今日に限って。天上を見上げれば、その一部が、うっすらと白みがかった水色となっていた。
たとえ軍用のベレーであっても、被っていなければ二時間ほどで熱射病を起こせそうな日差しが、平生よりも生ぬるい。
―――こういう色の空って、なんとなく日本を思い出すな。
そう、シンタローが思って、何気なく顔を上げた瞬間。
ぽつり、と一滴の雨粒が、その右瞼の上に落ちてきた。
「ンだぁ?―――雨か?まさか」
気のせいだろう、と打ち消すよりも早く、土の多く露出したまばらな草原の上に、いくつもの円形の染みができ始める。最初数えられるほどだったそれは、ほんの三分も経たぬ間に、間断なく落ちてくる大粒の雨へと変わった。
この辺りはサバナ気候。更に今は乾季だ。年間の降水記録で見れば、この時期、この地域の降水量は、とにかく少ない。ほとんどゼロに近いくらいである。
「チッ……先一週間は、降る予定なかっただろーが」
降りしきる雨を片腕で凌ぎつつ、ぐるりと周囲を見る。
「雨宿りっつっても、この辺にゃ高い木もなーんもねぇしなぁ……」
辺りを見回してみても、そのために調度よい場所は見つからなかった。都市部からジープで三時間。そこから更に一時間半以上歩いてきた現在地は、雰囲気としてはほとんど岩石の多い砂漠に近い。しぶとそうに根を張り大地に低く伏せている草木はいくつかあれど、寛容に枝葉を広げる木は、どこにもない。
と、そんなことを確認しつつ首をめぐらせていたシンタローに、傍らの男が、まるではにかんだ乙女のような声をかけてきた。
「あ、あのあの、し、シンタローはんっ!」
段々と強くなる雨の中、シンタローは億劫そうに視線だけをそちらに向ける。
そこにはほとんど予想通りの姿、猫背気味、上目遣いに自分を見つめながら、呼気を荒くしている鬱陶しい前髪の男の姿があった。
「わて、その、か、カサ、用意してあるんどすけど……」
言いながら、アラシヤマはどこからともなく一本の傘を取り出す。
色は紺。サラリーマン必携というような、これでもかというほど絵に描いたような、ごくシンプルな―――しかし、戦場用とも思えない―――折りたたみ傘である。
まるで予期していなかった代物の登場に、シンタローの目が思わず丸くなった。
『 あの夏の 』
雨は強くなる一方で、もう少し経てば防水加工の戦闘服すら水気を浸透させてきそうな気配だ。
おずおずと、しかししっかりとそれをシンタローに見せつけるように、アラシヤマは傘を両手でかたく握り締めている。
「カサぁ?!ここでか?」
せめて、サバイバル用の雨ガッパならともかく、折り畳み傘とは。
常識的に考えて、とても戦場に持ってくるようなものではない。
「この辺り、たまーにどすけど、急に強い雨が降ってくることがありますんや。小一時間くらいでやみますけどな」
「フーン……珍しいナ。ま、別に。そのくらいなら、すぐ乾くからいーけど」
「そ、そないな殺生な…やのうて、いや、その、あえて釈迦に説法させてもらいますけどな。戦場での雨は予想以上に体力奪うんどすえ!ナメたらあきまへん!!せ、せやけど、一本しかありまへんさかい、わてと相合ガ……」
「じゃあ、ソレ寄越せ」
言って、シンタローは問答無用でアラシヤマの手から小型の傘を奪い取った。そして一人悠々と傘をさし、その下で無事を得る。
アラシヤマは、あああと涙をこぼしながら、未練がましくシンタローに片手を差し伸べている。
シンタローが傘をさしたのとほぼ時を同じくして、雨は一層その強さを増してきた。足元までは覆いきれないとはいえ、とりあえず上半身には無事を保っているシンタローとは対照的に、アラシヤマはすっかり全身濡れネズミだ。
「フフ……、ええんどす、ええんどすえ……。少しでもあんさんのお役に立てたんどしたら、わてはそれで……」
それでも、雨の滴か涙かよくわからないほどにぐしゃぐしゃになっている片面を手の甲でぐい、と拭いつつ、男はそっと遠くに視線を向けた。
そんな仕草をさしたる罪悪感も感じないままに眺めつつ、シンタローは傘の下から問いかける。
「てか、テメー、こーゆーコトあるって知ってたんなら、なんで前もって教えとかねーんだヨ」
「そら……、一生に何度あるかもわからんような、あんさんとの相合傘のチャンス、逃すわけにはいかへんでっしゃろ」
アラシヤマの髪はすでにシャワーを浴びたようになっている。さすがにここまで来ると普段のポリシーも保ちきれなくなるのか、顔の右半分に張り付いている前髪を片手で絞っていた。それは続く豪雨の中ではほとんど無意味な行為ではあったが。
シンタローに向かって言葉を続けるアラシヤマの口元は、笑みを象っている。濡れてすっかりみすぼらしく成り果てている外見との相乗効果で、その顔は常よりも更に不気味だった。
「フフ…ウフフ……v心友との相合傘は、わての見果てぬバーニング野望の一つどすさかいなぁ……」
「……こんなだだっ広い草原の真っ只中で、デカい図体した男二人相合傘って。どんなコントだ」
「コントやありまへんで。ロマンスどす」
「……」
心底真面目な声音で返されるその言葉を、シンタローは黙殺した。
雨でぬかるんだ地面は、すっかり歩行には向かないものとなっている。一歩進めるたびに足が沈み込み、そこから抜け出そうとすれば、靴の裏に重い泥土がくっついてくる。
アラシヤマの言葉を信じるのであれば、小一時間でやむという雨。
それならば、焦って歩みを進めることもない。この先にある小さなオアシスでの待ち合わせはどうせ夜であるし、今までの行程をかなりの速度で進めてきたため、予定には若干の余裕がある。
とりあえず、ぬかるみのある土の部分は避けて、近くにあるやや丈の高い草むらに腰を下ろした。暑気の中を歩き通しできたのだから、このくらいの休憩はあってもいいだろう。
アラシヤマもまた、その隣に座ってくる。肩が密着しそうになるのが、この熱気と湿気の中で非常に鬱陶しかったが、さすがにそこは黙って許してやった。点在しているこうした場所は、どこも半径一メートルから二メートル弱と、極めて貧相なのだ。
それでも相合傘になるのだけは嫌で、シンタローは自分ひとりが中心に入るように傘をさし続ける。
アラシヤマの頭上には雨のみならず、シンタローの持つ傘の骨の先から滴り落ちる水がぼたぼたと落ちていた。体だけは頑丈なヤツだから、まあ大丈夫だろう、とシンタローは思う。いざとなれば発火して一気に乾かすという手もあるのだし。
***
雨が降り始めてから三十分が経過した。雨脚は、まだ弱まる気配がない。
見渡す限り広がるサバナには、けぶった大気が満ちている。その中で、男二人は何を話すということもなく、ただ、草の上に腰を下ろして、雨のやむのを待っていた。
さすがに退屈ではあったが、世間話を始めるような気分ではなかったため、シンタローは特に何も話さずにいた。いつもなら、これだけ至近距離にいればうるさいを通り越してウザいほど話しかけてくる男も、今はやけに静かにしている。
シンタローはそっと視線を流して、隣に座る男の様子をうかがってみた。
ぐっしょりと濡れそぼってはいるものの、変わらぬ、いつもの表情だ。ただ、その目だけが、どこか遠くを見ているかのように、若干茫洋として見える。
しばらくそうして横目で見ていたものの、男の視線はそのまま変化がない。傘の下で軽く髪をかき上げながら、
「オイ」
あくまで顔は向けず、シンタローは男に声をかけた。
「あ、なんでっしゃろ」
ふと我に返ったかのように、アラシヤマがシンタローのほうに首をまわして答える。
「……ぼさっとしててテメーが死ぬのは勝手、てかむしろ歓迎だが、そっち側の警戒サボったらぶっ殺すぞ」
「へ。そないな風に見えましたか」
「眼魔砲食らわそうかと思うくらいには、な」
ほとんど安全と思われる地域であっても、敵地の中であることには変わりない。ましてや、これだけ見通しのいい場所だ。土色の広がる中にぽつんと浮かぶ紺色のカサなど、絶好の標的になり得る。視界に銃口でも光れば、すぐさま動ける体制を作っておくことは、当然のことだった。
シンタローの問いかけに、アラシヤマはすぐさま返事をした。反応自体は機敏だ。それでもまだ、どことなく常とは違うように見えるその様子に、シンタローは目を眇める。眉間に刻んだ皺が深くなる。
そんなシンタローの表情に、アラシヤマは半ば苦笑しながら、言った。
「ここ、前にも来たことあるんどすわ」
「…ふーん」
「まだ十代の頃でしたかなぁ。せやから」
懐かしい、ゆうような甘やかな感情とはちゃいますけど。ただ、ちょいと思い出すことはありますなぁ、とアラシヤマは呟いた。
***
それは、アラシヤマにとって団員として二度目の遠征だった。
以前から士官候補生として実地訓練は行っていたし、応募制の任務があれば、興味の持てるものであれば大抵は参加してきた。
幼い時より師に連れられて既に何度も行ったことのあった戦場は、今更特に感慨の沸くようなものではなく。
茫漠とした、暑い地での任務だった。作戦は予定を超えて長期化した。殲滅活動は、敵方ゲリラの潜伏と小規模に繰り返される抵抗により難航し、任地についてからの期間はすでに一ト月を数えていた。
その間、雨と呼べるようなものはまったく降らず、水分と食料の補給が難事だった。
その時の指揮官がさほど無能だったとは思わない。ただ、さほど有能でもなかっただけだ。そうアラシヤマさえもが思うほど、それは厄介な任務だった。
結局、決着は、ある一つの村落を消滅させることで、つけられた。
低い岩山を背におった地に、白い漆喰塗りの、素朴な家がならぶ、ごく小さな村。
時間がかかったのは、そこに敵方ゲリラの首謀者らを追い込むのに、手間取ったからだ。それが完遂された以上、後に残っているのは極めて単純な作業だけだった。
三日かけて行ったひそかな探索の後、アラシヤマの属する小隊は、その村に侵攻した。それまでの幾度にもわたる戦闘によって失われていた敵勢力の兵士たちの数は、もはや全体の過半を超えており、彼らに抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。指揮の通りに団員たちはそれぞれの担当する建物へと潜入し、ゲリラ活動の指導者たちの息の根を、確実に止めた。
各家々からの悲鳴がほとんどやんだ頃、指揮官は、一軒の家屋から出てきたアラシヤマに、指先だけで指示をした。アラシヤマが、村全体を見渡せる入り口の辺りに移動する。時を同じくして、他の団員たちもまた、同じ場所に引き上げてきた。
その村に以前から住んでいた少数の民間人は、まだ残っていただろう。
それでも、アラシヤマにためらいはなかった。
炎が、アラシヤマの指先から全身へと、ゆるりとうつっていく。乾いた大気は、アラシヤマの能力を活かすのにこれ以上はないという好条件だった。
建物自体は燃えにくい材質だ。だがその中には様々な有機物が収められている。炎はじきに村全体を呑みこみ、村は、その言葉通りに灰燼と化した。大型の火器などほとんど使わずに、銃と僅かな手榴弾のみを装備した小部隊と、ほんの少しの工作。そして、一人の炎使いの手によって。
何十年、否、何百年の間、そこにあったのであろう真白の家々は黒い煤に染められ、いくつかは倒壊した。
生き残った生物は、おそらく何一ついなかった。
任務は完了し、指揮官が撤収のコールを出す。
アラシヤマもまた、特に深い感慨もなく、その場を去ろうとした。その時、ぽつり、と一粒の雨が、アラシヤマの頬を濡らした。
空気はすっかり乾燥していたと思う。それでも、上空にはごくわずかな湿気があったのだろうか。それとも、乾季から雨季へと変化するその瞬間に、偶然にも立ち会ったのか。
アラシヤマの炎により上昇したらしき大気は、上空で冷やされ雲粒となり、それはほとんど熱帯のスコールに近い雨となって降り注いだ。
雨は、煤けた石畳の上に、燃え尽き重なり合う灰の上に。そして、アラシヤマの上に、淡々と落ちてくる。
アラシヤマは思わず、両掌を上に向けて、その中に雨を受け止めた。雨は、冷たくはなかった。ただひたすらに、強い、痛みを感じるほどの雨だった。
戦闘服に染み込んだ返り血が、雨水に混ざり足元から流れ出す。目の前に積み上げた灰の山が、融けるように崩れていく。
戦場で、己の行ったことを間違っていたとも、殺めた相手を哀れとも思わない。そこに、後悔や悔悟といった情は、かけらもなかった―――ただ。
雨は、自分の上にも降るのだということすら。
忘れていた、と、赤土の上を流れる薄紅色の水脈を眺めながら、ぼんやりと思った。
***
小さな草むらの上に座り込んで、二人はしばらくの間無言だった。ざぁぁ、と強く降る雨の音だけが、周囲に響いている。
不意に、シンタローがさしていた傘を、己の頭上からはずした。
「カサ、もういーや」
「へ?まだ、だいぶ降っとりますえ」
「小一時間でやむんだろ」
「はぁ。多分、どすけど……それでもまだ十分くらいは」
「暑いし、汗かいてんし。ちょっとくらい水浴びてー気分になった」
言いながらシンタローはカサを畳むと、それを足元に置いた。そして、自身は立ち上がって、ベレー帽を脱ぐ。んー、と顔をあお向けながら、軽いのびをした。
雨が、シンタローの長い黒髪の上に降り注ぐ。同時に、雲の切れ間から零れる陽光が、その髪を艶めかせた。
雨水が髪を伝い、頬と首筋に流れていく。その横顔を、アラシヤマはじっと眺めていた。
シンタローが、ん?という表情で、片眉をあげてアラシヤマを見下ろした。
「オマエ、ささねーのかよ。せっかく返してやろうってのに」
「ハハ。今から、どすか?」
あくまで俺様の口調でそう言うシンタローに、アラシヤマは苦い笑いで返す。
「大丈夫どす。わて、雨自体は、そう嫌いやあらへんのどすわ……」
言いながら、ゆっくりと空を見上げた。地平線近くの空は、深く澄んだ青空。太陽の光も、もう大分戻ってきている。そんな中での驟雨は、どことなく不思議で、心地よい。
「あんさんの、そない色っぽい姿も拝めますしナv」
「今ココで、何も見えない状態にしてやろうか?」
頬の横で両手を組んでしなを作るアラシヤマに、シンタローは笑顔のまま右手の上に光球を浮かべる。褒めとりますのにぃ~、とハンカチを噛み締め涙を流すアラシヤマに、オメーが言うとキモさしか感じねぇ、とシンタローは平坦な声で返した。
雨を作り出す積乱雲は、もうほとんどが後方に流れ去りつつある。
空が、明るい。僅かに残る雲の一面にも光が当たり、それはまるで中世の絵画のようなコントラストだった。
「そろそろ、やみそうな気配どすえ」
「ああ。―――行くか」
合流地点まではあと三キロ弱。ニ、と口元に不敵な笑みを浮かべつつ、シンタローは足元のカサを、無造作にアラシヤマに投げつける。
それをぱしり、と受け取りつつ、ともに全身濡れたままのアラシヤマもまた、立ち上がった。
「シンタローはん」
「ぁん?」
顔に張り付く髪と、びしょ濡れの戦闘服の裾をしぼりつつ、アラシヤマはシンタローに向かって、笑う。
「次の機会には、今度こそ相合傘しとくれやす。大きめの可愛いらしいカサ、買うときますさかい」
「その分、給料から前もって引いとくぜ。どうせ使わねーんだから」
シンタローはくるりと踵を返して、ぽたぽたと落ちる水滴もそのままに、先を歩き出した。足元はぬかるみ、まだ歩きづらいことこの上ない。だが日差しが本格的に戻ってくればそれもすぐに、もとの乾燥した大地となるだろう。
アラシヤマがゆっくりとその後を追う。二人分の軍靴の足跡が、広い草原の上に点々と跡を残す。
赤黄土の上に一陣の風が吹く。そのときアラシヤマはほんの少し顔をあげ、一瞬だけ、薄く目を閉じた。
了
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久々更新は、アラシン雨モノでした。題名は小野茂樹氏の短歌よりいただきました。
霧雨の京都探訪話とか、アラがなんとなく耳に残った英語の歌(『雨に濡れても』)口ずさむとか、
雨で繋ぐ三話くらいのオムニバスにしようとか色々考えていたのですが、結局こんな感じに。
この小説は、先日素敵絵をリクエストさせていただいた3UI圏外のニイナ様に献上いたします。
リクの内容は「アラシヤマがびしょ濡れになっていれば…」で、
いただいたメール等々も、参考にさせていただきました。
御礼と申し上げるのも僭越ですが、受け取っていただけましたら嬉しいですv
大人は、怖い。
子供はもっと、怖い。
犬は、怖い。
猫は、ちょっとだけ、好き。
犬はわんわん、大きな声で吠えて追いかけてくるけど、猫は、知らん顔をする。
お前なんか知らないって、見ない振りで行ってしまう。
だから、ちょっと、好き。
朝は、嫌い。
夜はもっと、嫌い。
雷は、怖い。
雨は、ちょっとだけ、好き。
雷はごろごろ、大きな音で鳴って追いかけてくるけど、雨は、隠してくれる。
ここにいる自分のこと、見つからないように隠してくれる。
だから、ちょっと、好き。
でも、一番怖いのは。
一番、大嫌いなのは。
なづけ
手を繋いで歩いていたのに、お母さんは、急に立ち止まってぼくの手を放した。
「ここで、待っていてね」
ここ?
ここにいれば、いいの?
どこだか分からない。おうちの近くじゃない。
電車に乗って、飛行機に乗って、外国に来た。
お母さんが、ここは外国よって、言った。
外国って、なんだか分からないけど。
でもいままでいたところと、全然違う。
大きな、うち。ビルって、言うんだって。そればかり。
歩いてる人も、大きい。
みんな金色の髪。
黒い人もいるけど、金色。ばっかり。
「おかあはん、わて、ここにおったらええの?」
「そう。ここにいて、動いたらあかんよ」
頷いて。
石の階段。骨みたいな色。焦げてない。
お母さんは、走って、行っちゃった。
行っちゃった。
ぼくは、待ってる。
待ってる。待っててって、言われたから。
歩いてきた通りと違って、ここは人がいない。よかった。
時々、ハトが来て。ぽっぽーって。外国でも、ぽっぽーって。
ハト。焦げてない。
「はとー。はと、ぽっぽー」
呼んでも、来ない。
焦げてない。
ぼくが呼ぶと来てくれるのは、お母さんと、ちょうちょ。
お母さんは、すぐ泣くけど。怒らないけど。
ちょうちょが来ると、泣くけど。
呼ぶと来てくれる、お母さん。
お母さんは、好き。
好き。
好き。
鳩は飛んでいっちゃって、お母さんは、まだ。
まだ帰ってこない。
待っててって言われたから、ぼくは待ってるけど。
待ってるんだけど。
「おかあはん…まだやろか」
空が赤くなって、ここは外国だから、おうちの近くと違う色。
いままでは、もっと赤い。
もっともっと、赤い。
階段は冷たくて、あんまり赤くない空が紫になって、青くなって。
黒くなって。
冷たくて。
夜は、おうちの近くと、一緒だった。
夜は嫌いだから、階段の隅っこに行って、小さくなって。
小さくなると、誰もぼくを見付けられない。
お母さんが言ったから、見つからない。
だけど小さくなっている所為で、お母さんからも見付けてもらえなかったら困る。
困る。
夜は嫌いだけど、困る。
お母さんが戻ってきたら、ぼくは手を振ろう。
寝ないで、ちゃんと待ってる。
帰ってくるの、待ってる。
ちょうちょが来ないように静かにして。
お母さんが泣かないように。
泣かないように。
ずっと、待って。
寝ないで待って。
朝は嫌いだけど階段の真ん中に行って、お母さんを待って。
自転車の音。
外国だけど、同じ音。ハト。
ハトも同じ。
足音も、同じ。みんな同じ。少し違うけど、同じ。同じだと思う。
違うかも知れないけど、同じ。
怖い。
ここも、怖い。
猫が来てくれたら怖くないのに、来ない。
違うかも知れないから来ないのかな。
違かったら、猫も、怖いかな。犬みたいに、追いかけてくるかな。
おなか、空いた。
階段の真ん中で、嫌いな朝で、お母さんはまだ戻ってこなくて。
おなかが、空いた。
足音がして、階段の上を見たら、金色の髪の人が降りてきた。
急いで端っこに行って、小さくなる。
見えなくなる。
聞こえなくなるまで小さくなって、それから、顔を上げて。
大丈夫、見えてなかった。ぼくは、見えてない。
おなかが鳴った。
お母さんはまだ戻ってこなくて。
でも動いちゃいけなくて。
金色と、白と、灰色、黒。色んな髪の人が階段を昇って、降りて。
ぼくは見えてないから大丈夫だけど、もしその時お母さんが来たら大変。
大変だから、急いで戻る。
待ってる。
おなかが、何回も、鳴る。
また夜が来て、ぼくは階段の隅っこに行って、お母さんを待って。
朝になって。
真ん中に。
階段の真ん中に行かなきゃって思うのに、行けなくて。
寒くて。
寒くて。
寒くて。
おなか、もう、鳴ってない。
待ってるけど。
待ってなきゃ、いけないけど。
「寝て、しもうても…ええやろ、か」
ちょうちょ。
飛んでる。
なづけ
赤。
あか。
夕焼けじゃない。
ちょうちょでも、ない。
でも赤い、赤い色。暖かい。
「パパ、起きたよ」
「起きたね」
大人と、子供。
赤い服。金の髪。
黒い髪。
怖い。
怖い。
こわい。
「シンちゃん、自分の部屋に戻っててね」
「なんで?」
「なんでも。ほら早く」
子供。
石を投げてくる。棒で叩く。触ると危ないから。危ないから。
ぼくは危ないから。
ぼくが、危ないから。
「怖いの?」
赤い服の、金の髪の。
蒼い目の。
「怖いのかい?」
笑ってる。
黒い髪の子供は、違う大人に連れて行かれた。やっぱり金の髪。
それから、同じドアから、黒と、金の髪の二人の大人が入ってきた。
怖い。
どうして、ぼくは、どうして、ここに?
階段で待ってるのに。
お母さんを、待ってるのに。
待ってなきゃ、いけないのに。
ちょうちょが沢山飛んできて、お母さんが泣くからだめなのに。
怖くて。
「こりゃすげえ。しかも結構綺麗じゃねぇか」
「危険です。素手で触らないで下さい」
ぼくの周りにちょうちょがいっぱい飛んできて、いっぱいでぼくを取り囲んで。
犬みたいに追いかけない。猫みたいに知らん顔しない。
ちょうちょは、いつも、ぼくの傍にいて。
お母さんより、傍にいて。
「間違いなくマーカーの管轄だな」
「そうだろうと思ったから、わざわざお前たちを呼び戻したんだよ」
「どこで拾ったって?」
「ピカデリーサーカスからチャイナタウンに向かう路地で倒れていたそうだ」
「捨て子か」
「だろうね。この通り、炎の蝶を撒き散らしていたのを見た者が知らせてきた」
特戦にいる隊員と、似たような力を持っているんじゃないかと。
赤い服の人が、笑ってぼくを見る。
「だがこれほどとはねぇ。いい拾いものをしたよ」
「ふん。しっかしよく兄貴がこんな危ねぇもんあいつに近付けたな」
「可愛い子じゃないか。しかも利用価値がある」
「価値、ねぇ」
金の髪の二人はぼくを見て笑う。
でも、黒い髪の人は、笑わない。怖い。
「で、どうしろって?」
「お前は優秀な部下を一時期手放すことを了承すればいいだけさ」
「マーカーに押しつける気か」
「使い物にならなければ切り捨てて構わない。だが、みすみす逃すには惜しいだろう」
手が、伸びてくる。ちょうちょがいるのに。
きっと叩かれる。気持ち悪いって。
危ないやつだって。
「怖くないよ。彼の言うことを聞いて、私のために働くと誓うなら」
気持ち悪いって。
「ここでは、お前のような者こそ必要なんだ」
あっちに行けって。
いなくなれって。
頭に。
ふわん、って。
顔を上げたら、赤い服の人が、笑ってぼくの頭を撫でてた。
黒い髪の人がちょうちょを握りつぶしてたけど、でも、焦げなかった。
人も、ハトも、焦がしちゃう、ちょうちょ。
ぼく。
なのに。
「きみが必要とされる場所は限られる。ここは数少ないきみの居場所だよ」
「い、ば…しょ?」
「一人でいたいかい?また冷たい路地に戻って、寂しく死んでいきたい?」
「…や」
「私の期待を裏切らなければ、なにもかもを与えてやろう。どうする?」
「わて、おかあはん、待ってなあかんの。ここにおったら会える?」
「それは無理だ。だが母親よりもっと強い絆を得ることは出来る」
「きずな、て…なに?」
「一人じゃない、ということさ」
一人じゃ、ない。
お母さんは、戻って来ない。
分かってた。
本当は分かってた。
あの階段で手を放されたとき、本当はもう、分かってた。
ぼくは、ぼくの所為で置いていかれた。
ぼくが悪いから、だから、仕方ない。でも。
「わて…ひとりは、いやや。おいてかれるんは、いやや」
「立ち止まっていれば置いて行かれる。ほら、欲しければ彼から学べ」
ちょうちょを、全部消してしまった黒い髪の人。
怖い目でぼくを見てるけど、でも、怖くはない。
本当には、怖くない。
だって。
ぼくの嫌いな、本当は大嫌いなちょうちょを消してくれたから。
ぼくの嫌いな、本当は大嫌いなぼくを、真っ直ぐに見て、くれてるから。
一人じゃないって。
ひとりじゃ、ない、って。
「パパ、あの子、どこ行くの?うちの子にならないの?」
「あの子はいずれシンちゃんのために働くようになるんだ。だから勉強しないとね」
「じゃあぼくも一緒に勉強する。グンマじゃ泣いてばかりでつまんないよ」
「いつかね。あの子がシンちゃんの力になれるなら、ちゃんと呼び戻してあげる」
「…いまは?」
「いまはダメ」
「ぼくが頼んでるのに?」
「パパが言ってるのに、聞けないの?」
「…ちゃんと、帰ってくる?」
「いつかね」
「…分かった」
子供は、嫌い。
怖い。
でも。
師匠と呼べ、と言った黒い髪の人と同じ。
この子は全然、怖くない。
怖いと思ったのは、最初だけ。
だってぼくを見てくれるから。じっと、じーっと、見てくれるから。
ぼくから見るのは、本当はちょっと、怖いけど。
でも会えなくなるから、見ておかなきゃ。
覚えて、おかなきゃ。
「名前」
「…え、あ、」
「名前、なんて言うの?」
「な、まえ?」
「自分の名前、知らないの?」
「そう言えば聞いてなかったね」
名前。お母さんに、呼ばれてた。
呼ばれてた、名前。
「――――ん」
「なに?聞こえなかったよ」
「あら……ん」
「あら?あらって言うの?」
「あらし、まへ…」
「パパ、この子声小さくて聞こえないよ」
「あらしって言ってたね」
ない。
名前なんて、ない。
あっちへ行けとは言われても、おいでと呼んでくれたのはお母さんだけ。
だけどお母さんも、いつだって小さな声で呼んできただけ。
“おいで”とか、“急いで”とか。
だから、名前なんて、ない。
「あーっ分かった!」
同じくらいの背丈の子が、大きい声で叫ぶ。
怖い。
「アラシヤマだよ!パパと日本に行ったとき遊びに行ったでしょ」
「ああ、なるほど。どこかで聞いたことのある方言だと思っていたけど」
そうだね、京都だよね。
勝手に納得して、二人で笑って。
ぼくは怖くて、なにも言えなくて。
言えないうちに手を引かれて、歩き出す。
“師匠”は足が速くて、転びそうになるのにどんどん歩いて。
歩いて。
「…なにを泣いている」
怒られても、歩いて。泣かないようにして、歩いて。
「お前…本当の名はなんという」
「…う、ぐ、っ、ひっ」
「泣かずに答えろ」
「あら、し、ま、すっ」
「聞こえん」
「あっしま、ひぐっ」
「聞こえないと言っているだろう」
引っ張られた腕が、もっと、ぐいってされて。
両手で、引っ張られて。
持ち上げられて。
「ほら、言ってみろ」
「あらっ、アラシヤマ、どす、うっく」
「それはシンタロー様の勘違いだろう。本当の名だ」
「そやから、ほんまの、名前どす」
「本当にアラシヤマなのか」
「っ、へえ」
「…そうか。だがお前、自分の名前を伏せようとしていなかったか?」
伏せる、がどういうことか分からないけど、本当の名前なんてないのと同じ。
だからいらなかった。
いらないから、黙ってた。ないって、言った。
同じだったらまた繰り返す。きっと、繰り返して、ぼくはまたひとりで。
捨てられて。
「まあ、お前はお前でしかないということだろう」
「わては…わて、だけ?」
「自分も、名前も、捨て去りたかったんだろう?だが捨てられなかった」
抱えられて見る師匠の目。
怖くはない、目。
「捨てられないなら抱えて歩け。どこまでも自分を貫け」
そうすれば、見えるものがあるから。
「見える…もの?」
なにが、見えるの?
「なにが見えるのかを決めるのもお前自身だ。…ほら、行くぞ」
「へえ」
誰かが、触ってる。
師匠が、抱えてる。
嫌われ続けたぼくを、触ってる。触ってる。触ってる。
「わて、いま、いろんなもんが見えてますえ」
「抱えられている分際でえらそうなことを」
「へえ。けど見えてます。いろんなもん、見えますえ」
「そうか。…よかったな」
「へえ!」
自分の目で、見えるもの。
見付けなきゃ。
自分の居場所、作らなきゃ。
ぼくの、ために。
ぼくが生きる、ために。
強く、ならなきゃ。
END
なづけ
名付け、だったり
許嫁、だったり
…アラッシーへの対シンちゃんすり込み成功
10. 暑い夏の日
ミーン、ミーン、ミーン。
カナカナカナ。
ジーィ、ジーィ、ジーィ。
ツクツクホーシ、ツクツクホーシ。
「―――暑ィ」
藍色の地の端に花火が散っている柄のうちわで、だるそうに首から上を扇ぎながら。高い位置で髪を一括りにしたシンタローが呟く。
普段ならパソコンのキーボードを叩く音か書面にサインをするサラサラというペンの音しか響かないハズの総帥室に、なぜこれほどに鮮明にセミの声が聞こえるのか。
答えは簡単。音を遮るものが何も無いからだ。
厚さ五センチを超える完全防弾のはずの窓ガラスは見事に粉砕され、いまやすっかりオープンテラス状態になっている。
気温は三十六度。
真夏日を超え、今年初めての酷暑日になりそうだと、朝のニュース番組で髪の長いキャスターは説明していた。
黒革の高級椅子の上でだらしなく足を組みながら、隣でせっせと書類の処理を行っている男をシンタローは横目で見る。
予備の椅子に腰を掛け、総帥室の執務机に向かっているのは、普段ならこの部屋に十分以上の滞在も許すことはない黒髪の男だ。
だが常には陰気なその男―――アラシヤマは、山のように積まれた書類を前にして、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で次々とそれを処理している。
「……暑くねーの、オマエ」
アラシヤマはスーツの上着は脱いでいるものの、折り目のついた白いシャツに、ネクタイまできちんと締めている。
シンタローなど既に総帥服を放棄し、ズボンの上にはノースリーブのシャツ一枚になっているというのに。
「え、なんでどす?」
浮かれた声でそう返す男に、ああやっぱりコイツはまごう事なき変態だと、シンタローは確信を深めた。
そもそもの原因も、この男だったのだ。
作戦修了の報告を持ってあがってきた男に入室を許可し、一通りの説明をさせて書類を受け取った。
書類を渡すとき、アラシヤマが
「で、ちぃとここからは機密の話になるんどすが……」
真面目な声でそう言って、執務机の上に身を乗り出してきた。ちょいちょいと指で耳を貸すようにシンタローに示唆する。
シンタローはアラシヤマに耳を寄せた。アラシヤマのそれまでの報告がいつになくまっとうで、その時の表情があまりに真に迫っていたため、常の警戒心が緩んでいた。
そしてアラシヤマが次にとった行為は、重要機密の報告でもなんでもなく。
一瞬の隙をついて、近づいたシンタローの耳元に口付けた。
「――――――ッッッ!!!!!!!」
耳元を押さえ、シンタローがばっと身を引く。
アラシヤマはといえば、
「やったぁ~、シンタローはんのキス、ゲットどすえ~~♪」
などと胸の前で両手を組んでくるくると浮かれている。周囲に有害そうな花柄の空気を散らしながら。
「この前読んだ少女マンガで勉強しましたんや。やーばっちりどしたな!」
「……………」
「あれ、シンタローはん?顔真っ赤どすえ?ややわぁ、照れてはりますの……」
「………………は、ハハ、ハハハハハハハ」
シンタローは、しばらく魂をどこかに飛ばしているような顔で動かずにいて。
やがて、その口から乾いた笑いをあふれ出させた。
そして相手を見下ろすようにやや顔をあお向けてアラシヤマに向けた視線は、ギラリ、と効果音がつきそうなほどの正真正銘の殺気つき。
「―――ブッ殺ス」
思う存分溜めたのを一発、溜めナシのを無数に。それだけの眼魔砲をかなりのところ食らったはずの男は、それでもゴキブリ並みのしぶとさで絶命することはなかった。
シンタローが肩で息をしながら、それでもようやく若干、我に返れば、最重要警備区画であるはずの総帥室の風通しは見事によくなっており。
生ぬるいどころか、熱風と呼んでも差し支えないほどの暑気が、燦燦と降り注ぐ太陽の光と共に部屋の中に入り込んでくる。
仕事関係の書類とパソコンだけが無傷で残っていたのが哀しい職業病だったが。室内のエアコンディショナーなど、既に跡形もなく消え去っていた。
処罰、報復、イヤガラセのつもりで半ばヤケクソのように。
虫の息のクセにまだこちらに這いずって来ようとする男に、その後に下した命令は、暑くてとても仕事になどならないこの部屋での、総帥業務の代行。
だが今の状況を見れば、その処遇は男を喜ばせる結果にしかならなかったようだ。
たらたらと自然に流れ落ちてくる顔の汗をシャツの裾で拭いながら、シンタローが隣の男に目をやれば、シャツに汗染み一つ作っていない。いつもどおりの顔で、平然と作業を続けている。
男が机の上で別に分けておいた書類から一枚を取り、シンタローに手渡す。
「シンタローはん、コレ、どないします?わては許可してもええ思いますけど」
「あー、まあ、あと一週間だけ様子見とけ。そんでも膠着が続くようなら作戦Dに切り替え。…にしてもテメェ、ホントは変温動物なんじゃねぇのか?」
「立派なホモサピエンスどす。暑いて全く感じないわけやないんどすえ。コレは一応、訓練の成果どす。で、こっちは?」
「あと5%は損壊率が低いプラン、再提出。訓練てなんだヨ」
「炎操作の訓練の一環で、体温の調節、やらされましてん」
シンタローの手元から戻された書類にカリカリと新たな書き込みを加えながら、アラシヤマは言う。
「十度やそこらの外気の変化で汗かくんは、体温の調整が上手くできてへんからや、気合が足りんからやて何べんどつかれたか…」
「……テメェの師匠は、どこぞのモデルか。でもその割にゃオマエ、よく冷や汗だらだらかいてっよなぁ」
「人見知りは、訓練や直らんかった……ゆうかますます酷ぅなりましたわ……。士官学校入ってすぐ、誰かさんにダメ押しもされましたしな」
「へーーー。そりゃ災難だったな」
皮肉な笑みを口元に浮かべ、遠くを見るような視線をシンタローに向けるアラシヤマに、シンタローは一ミリの感情も篭らない平坦な声で応じる。
アラシヤマは一つ小さな息を付いて姿勢を正し、再び書類の山へと向きなおった。
「お、終わりましたえ~、シンタローはん」
「……おー」
ソファでうつらうつらとしていたシンタローは、アラシヤマのその声で覚醒した。
ここのところほとんど睡眠時間というものを取れなかった身としては正直、大分ありがたい休息だった。上体にはアラシヤマのスーツの上着がかけられていた。
時刻は午前零時を回ったところ。本当は今日中に済ませる予定ではなかった仕事も紛れ込ませていたにしては早い時間だ。にしても表は当然、とっぷりと暮れている。
シンタローがのそのそと執務机に近寄り、アラシヤマが終了させたという書類の束にざっと目を通す。ほとんど全てきちんと処理してあり、あとはシンタローのサインさえあれば終わりという書類が数部残っているだけだった。
シンタローが最後に目を通した書類をばさりと机の上に戻す。何も言わないのは、仕事の終わりを認めたということだ。
アラシヤマはソファに行き、先刻までシンタローにかけていた上着を片腕で抱えてからもじもじとシンタローを上目遣いで見る。
「この後はどないします?わてのウチ、今日は誰もおらへんのどすけど……v」
「……ソレも例の少女漫画のセリフか?てか誰かいる日ねーだろ、まず」
「酷ッ!いる日も仰山ありますえ!」
「人間か?」
「……おともだち、どす。まぁ夜のお誘いは今日のトコは冗談にしときますわ」
すぐにはどうせ帰れへんのどすしな、という小さな独言を耳にして、シンタローは―――ン?と頭に疑問符を浮かべる。
今更、といえば極めて今更な話なのだが。
「オマエ、そんで自分の仕事は」
「これからやりますえ。遠征中に溜まってた分もありますしな」
「……」
「ま、明日以降に持ちこせる分はそうさせてもらいますし、取り急ぎのだけなら朝までには終わるでっしゃろ。問題ありまへん」
ほな失礼しますえ~、と薄気味の悪い、しかし満面の笑顔を浮かべ、アラシヤマは総帥室を退出していった。
白いシャツ姿の背中が完全にドアの向こうに消えてから、シンタローは総帥専用の椅子に腰掛けた。
浅く座り、背もたれをギイっと軋ませつつ、顔を仰向ける。ポケットに入れたまま横になっていたため、ややつぶれかけた箱から煙草を取り出し、咥えて火をつける。ゆらゆらと煙が天井へとのぼっていく。
遮るもののない背後の空には、満天の星空。日中に比べれば空気は嘘のようにその温度を下げている。蝉の声ももう大分おさまっており、ここまでは殆ど聴こえて来ない。
風が部屋の中を通り抜け、シンタローの無造作に括ってある髪の毛の先を、緩やかに散らした。
結局のところ、シンタローにとって今日の午後は殆ど休暇となってしまった。暑さに不快だったのは確かだが、それでも二時間は眠っただろう。そして今日はこのまま、自宅に戻って休むことが出来る。
元々、悪いのはあんな笑えない悪ふざけをしかけてきたアラシヤマのほうだ。あの精神的ハラスメントを思えば、その後に何をされたとしても礼を言うつもり気になどなるわけがない。
ただ、仕事は几帳面にこなすその律儀さだけは、評価して。
修理費分の給料減額は3%くらい免除してやるか、と。シンタローは藍染めの団扇を上下させながら、寝起きの頭で思った。
了
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369のざっきを見てくれた友人から「アラシヤマがちょっかい出して
怒ったシンタローが眼魔砲で執務室の冷房(というか全て)を自ら壊してしまい
修復期間中アラが償いとして仕事やってたら…」というコメントをもらって
ざくっと書き上げました。 汗かかない人、羨ましいです。
ミーン、ミーン、ミーン。
カナカナカナ。
ジーィ、ジーィ、ジーィ。
ツクツクホーシ、ツクツクホーシ。
「―――暑ィ」
藍色の地の端に花火が散っている柄のうちわで、だるそうに首から上を扇ぎながら。高い位置で髪を一括りにしたシンタローが呟く。
普段ならパソコンのキーボードを叩く音か書面にサインをするサラサラというペンの音しか響かないハズの総帥室に、なぜこれほどに鮮明にセミの声が聞こえるのか。
答えは簡単。音を遮るものが何も無いからだ。
厚さ五センチを超える完全防弾のはずの窓ガラスは見事に粉砕され、いまやすっかりオープンテラス状態になっている。
気温は三十六度。
真夏日を超え、今年初めての酷暑日になりそうだと、朝のニュース番組で髪の長いキャスターは説明していた。
黒革の高級椅子の上でだらしなく足を組みながら、隣でせっせと書類の処理を行っている男をシンタローは横目で見る。
予備の椅子に腰を掛け、総帥室の執務机に向かっているのは、普段ならこの部屋に十分以上の滞在も許すことはない黒髪の男だ。
だが常には陰気なその男―――アラシヤマは、山のように積まれた書類を前にして、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で次々とそれを処理している。
「……暑くねーの、オマエ」
アラシヤマはスーツの上着は脱いでいるものの、折り目のついた白いシャツに、ネクタイまできちんと締めている。
シンタローなど既に総帥服を放棄し、ズボンの上にはノースリーブのシャツ一枚になっているというのに。
「え、なんでどす?」
浮かれた声でそう返す男に、ああやっぱりコイツはまごう事なき変態だと、シンタローは確信を深めた。
そもそもの原因も、この男だったのだ。
作戦修了の報告を持ってあがってきた男に入室を許可し、一通りの説明をさせて書類を受け取った。
書類を渡すとき、アラシヤマが
「で、ちぃとここからは機密の話になるんどすが……」
真面目な声でそう言って、執務机の上に身を乗り出してきた。ちょいちょいと指で耳を貸すようにシンタローに示唆する。
シンタローはアラシヤマに耳を寄せた。アラシヤマのそれまでの報告がいつになくまっとうで、その時の表情があまりに真に迫っていたため、常の警戒心が緩んでいた。
そしてアラシヤマが次にとった行為は、重要機密の報告でもなんでもなく。
一瞬の隙をついて、近づいたシンタローの耳元に口付けた。
「――――――ッッッ!!!!!!!」
耳元を押さえ、シンタローがばっと身を引く。
アラシヤマはといえば、
「やったぁ~、シンタローはんのキス、ゲットどすえ~~♪」
などと胸の前で両手を組んでくるくると浮かれている。周囲に有害そうな花柄の空気を散らしながら。
「この前読んだ少女マンガで勉強しましたんや。やーばっちりどしたな!」
「……………」
「あれ、シンタローはん?顔真っ赤どすえ?ややわぁ、照れてはりますの……」
「………………は、ハハ、ハハハハハハハ」
シンタローは、しばらく魂をどこかに飛ばしているような顔で動かずにいて。
やがて、その口から乾いた笑いをあふれ出させた。
そして相手を見下ろすようにやや顔をあお向けてアラシヤマに向けた視線は、ギラリ、と効果音がつきそうなほどの正真正銘の殺気つき。
「―――ブッ殺ス」
思う存分溜めたのを一発、溜めナシのを無数に。それだけの眼魔砲をかなりのところ食らったはずの男は、それでもゴキブリ並みのしぶとさで絶命することはなかった。
シンタローが肩で息をしながら、それでもようやく若干、我に返れば、最重要警備区画であるはずの総帥室の風通しは見事によくなっており。
生ぬるいどころか、熱風と呼んでも差し支えないほどの暑気が、燦燦と降り注ぐ太陽の光と共に部屋の中に入り込んでくる。
仕事関係の書類とパソコンだけが無傷で残っていたのが哀しい職業病だったが。室内のエアコンディショナーなど、既に跡形もなく消え去っていた。
処罰、報復、イヤガラセのつもりで半ばヤケクソのように。
虫の息のクセにまだこちらに這いずって来ようとする男に、その後に下した命令は、暑くてとても仕事になどならないこの部屋での、総帥業務の代行。
だが今の状況を見れば、その処遇は男を喜ばせる結果にしかならなかったようだ。
たらたらと自然に流れ落ちてくる顔の汗をシャツの裾で拭いながら、シンタローが隣の男に目をやれば、シャツに汗染み一つ作っていない。いつもどおりの顔で、平然と作業を続けている。
男が机の上で別に分けておいた書類から一枚を取り、シンタローに手渡す。
「シンタローはん、コレ、どないします?わては許可してもええ思いますけど」
「あー、まあ、あと一週間だけ様子見とけ。そんでも膠着が続くようなら作戦Dに切り替え。…にしてもテメェ、ホントは変温動物なんじゃねぇのか?」
「立派なホモサピエンスどす。暑いて全く感じないわけやないんどすえ。コレは一応、訓練の成果どす。で、こっちは?」
「あと5%は損壊率が低いプラン、再提出。訓練てなんだヨ」
「炎操作の訓練の一環で、体温の調節、やらされましてん」
シンタローの手元から戻された書類にカリカリと新たな書き込みを加えながら、アラシヤマは言う。
「十度やそこらの外気の変化で汗かくんは、体温の調整が上手くできてへんからや、気合が足りんからやて何べんどつかれたか…」
「……テメェの師匠は、どこぞのモデルか。でもその割にゃオマエ、よく冷や汗だらだらかいてっよなぁ」
「人見知りは、訓練や直らんかった……ゆうかますます酷ぅなりましたわ……。士官学校入ってすぐ、誰かさんにダメ押しもされましたしな」
「へーーー。そりゃ災難だったな」
皮肉な笑みを口元に浮かべ、遠くを見るような視線をシンタローに向けるアラシヤマに、シンタローは一ミリの感情も篭らない平坦な声で応じる。
アラシヤマは一つ小さな息を付いて姿勢を正し、再び書類の山へと向きなおった。
「お、終わりましたえ~、シンタローはん」
「……おー」
ソファでうつらうつらとしていたシンタローは、アラシヤマのその声で覚醒した。
ここのところほとんど睡眠時間というものを取れなかった身としては正直、大分ありがたい休息だった。上体にはアラシヤマのスーツの上着がかけられていた。
時刻は午前零時を回ったところ。本当は今日中に済ませる予定ではなかった仕事も紛れ込ませていたにしては早い時間だ。にしても表は当然、とっぷりと暮れている。
シンタローがのそのそと執務机に近寄り、アラシヤマが終了させたという書類の束にざっと目を通す。ほとんど全てきちんと処理してあり、あとはシンタローのサインさえあれば終わりという書類が数部残っているだけだった。
シンタローが最後に目を通した書類をばさりと机の上に戻す。何も言わないのは、仕事の終わりを認めたということだ。
アラシヤマはソファに行き、先刻までシンタローにかけていた上着を片腕で抱えてからもじもじとシンタローを上目遣いで見る。
「この後はどないします?わてのウチ、今日は誰もおらへんのどすけど……v」
「……ソレも例の少女漫画のセリフか?てか誰かいる日ねーだろ、まず」
「酷ッ!いる日も仰山ありますえ!」
「人間か?」
「……おともだち、どす。まぁ夜のお誘いは今日のトコは冗談にしときますわ」
すぐにはどうせ帰れへんのどすしな、という小さな独言を耳にして、シンタローは―――ン?と頭に疑問符を浮かべる。
今更、といえば極めて今更な話なのだが。
「オマエ、そんで自分の仕事は」
「これからやりますえ。遠征中に溜まってた分もありますしな」
「……」
「ま、明日以降に持ちこせる分はそうさせてもらいますし、取り急ぎのだけなら朝までには終わるでっしゃろ。問題ありまへん」
ほな失礼しますえ~、と薄気味の悪い、しかし満面の笑顔を浮かべ、アラシヤマは総帥室を退出していった。
白いシャツ姿の背中が完全にドアの向こうに消えてから、シンタローは総帥専用の椅子に腰掛けた。
浅く座り、背もたれをギイっと軋ませつつ、顔を仰向ける。ポケットに入れたまま横になっていたため、ややつぶれかけた箱から煙草を取り出し、咥えて火をつける。ゆらゆらと煙が天井へとのぼっていく。
遮るもののない背後の空には、満天の星空。日中に比べれば空気は嘘のようにその温度を下げている。蝉の声ももう大分おさまっており、ここまでは殆ど聴こえて来ない。
風が部屋の中を通り抜け、シンタローの無造作に括ってある髪の毛の先を、緩やかに散らした。
結局のところ、シンタローにとって今日の午後は殆ど休暇となってしまった。暑さに不快だったのは確かだが、それでも二時間は眠っただろう。そして今日はこのまま、自宅に戻って休むことが出来る。
元々、悪いのはあんな笑えない悪ふざけをしかけてきたアラシヤマのほうだ。あの精神的ハラスメントを思えば、その後に何をされたとしても礼を言うつもり気になどなるわけがない。
ただ、仕事は几帳面にこなすその律儀さだけは、評価して。
修理費分の給料減額は3%くらい免除してやるか、と。シンタローは藍染めの団扇を上下させながら、寝起きの頭で思った。
了
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369のざっきを見てくれた友人から「アラシヤマがちょっかい出して
怒ったシンタローが眼魔砲で執務室の冷房(というか全て)を自ら壊してしまい
修復期間中アラが償いとして仕事やってたら…」というコメントをもらって
ざくっと書き上げました。 汗かかない人、羨ましいです。