寝汗をかいて、全身にまとわりつく粘性の液体の中にいるような気分で、目が覚めた。
目は開いているし、意識はそれなりにしっかりしている。ただ頭が、中に鉛でも詰められたように重い。手足もどうもいつもより感覚が鈍くなっている。それでも枕もとに据え付けてある時計の文字盤を見て、シンタローはゆっくりと起き上がった。
気分がよくないのは単なる寝不足のせいかとも思ったが、どうもそれだけにしては頭の重さが抜けきらない。うー、と低く唸ってから、顔を洗いに洗面所に向かう。ばしゃばしゃと乱暴に水をかぶってから鏡を見れば、予想通り、蒼褪めた顔色の男がそこにいた。
とはいえ、体調不良だから休みます、とは言えはしないし、言いたくもない。今はそれを許されない状況、立場に自分はいるのだ。
何はともあれ、シンタローは紅い制服を身にまとい、常の職場へと足を向けた。世界各地に数十の支部と数百人の部下を抱える、巨大な組織であるガンマ団の総帥室へ。
『Sweet Drug』
朝の六時半。表は黎明の名残を残しており、太陽の光はまだ薄い。中庭の木々の梢を、寒々しい北風が揺らしている。常緑樹とはいえ春夏の輝かんばかりの緑にくらべれば、やはり冬場は元気が乏しいようだ。
総帥室に着いても、そこに秘書たちの姿はない。あと二時間は来ないだろうな、とシンタローは思う。彼らにはシンタローが昨夜、明日の朝は遅くていいと告げてある。
ここ数週間は、新しい取引相手から請け負った大きな仕事が予想以上に難航しており、総帥就任時以来の忙しさだった。それに連日付き合ってくれていた秘書たちも、体力的にはかなり限界に近かった。そうした彼らの体を慮ったということもある。
だが、何よりシンタロー自身疲れを感じていたので、今朝は本当ならばもう少しゆっくりしてもいいかと思っていたのだ。―――少なくとも、昨夜の十時、その仕事の今後の方針がようやく整って、秘書たちを早帰りさせた時点までは。
だが、予定外のときに起きることこそ、アクシデントのアクシデントたるレゾンデートルである。ぱらぱらと明日以降の仕事の予定を眺めていシンタローが一人残っていた総帥室に、駆け込んできたのは半泣きの部下。その男が持ち込んだ案件は、ある一つの派遣先で予想外の事故が起こったというものだった。
言ってしまえばそれに対処しきれなかった部下の不手際でもあるのだが、最終的に始末をつける方法を示唆するのは、総帥の役割である。
結局それから深夜まで、その状況に至るまでのプロセスやら案件の関連事項やらの資料を集めさせてから、シンタローは一旦家に帰った。そして仮眠としか呼べない程度の眠りを経て、未明の内に目を覚まし、こうして再び総帥室に来たのである。
総帥机の上には、昨夜集めさせた資料の類がうずたかく積まれており、そのほとんどが未読だ。眺めているだけで火をつけたい気分になる。一度椅子にはついてみたものの、だるさの取れない身体のこともあり、すぐにはとりかかる気が起きなかった。
まずはコーヒーと煙草だな、と思って、シンタローは再び立ち上がって部屋の隅にあるポッドのところまで行く。普段は秘書がここではなく食堂からきちんと豆から挽いたコーヒーを用意してくれるのだが、それすらも面倒なときや深夜など、シンタローはここでコーヒーを淹れる。
コーヒーと煙草、コーヒーと煙草、と何かの呪文のように唱えながら、シンタローはポッドの近くまで歩み寄った。どうも、いつも踏みなれているはずの絨毯が、ふわふわと感じる。身体も頭も重だるいのに、精神だけ浮遊しているような気分だ。
そして、ポッドの電源を入れようと軽く上体を屈めた瞬間、がく、とその膝が折れた。
すうっと気が遠くなるような感覚で、シンタローの脚が崩れ落ちていく。
あーやべぇこりゃ倒れるかもな、と妙に冷静な頭で思った。意識が身体から遊離していき、シンタローはそのまま地に伏しそうになる。
だが、片膝が絨毯を打ったか打たないか、というところで、右脇の下を何かに支えられた。
その感覚に、へ?と意識を取り戻し。抱え込むように自分の片腕を支えているのが誰かの腕だということに気付いて、慌てて振り向く。
「……大丈夫どすか?」
果たしてそこにあったのは、予想外かつ見たくもない男の顔だった。顔の片側を髪で覆った陰気な男は、百九十センチを超える男を片腕で支えたまま、戸惑ったような眼差しをシンタローに向けている。
「あ……」
二の句どころか一の句すら出てこないシンタローが、呆然として男を眺める。なんでこんな早朝に、ここにアラシヤマがいるのだろう。そもそも、一体いつの間に入ってきたのか。それすらも気付かなかった。
男ははあ、と一つため息をついてから、ほら、しゃんとしなはれや、とシンタローをきっちり立たせて、もう片方の手に持っていたそれをシンタローの目の前に突き出した。
「ほい、あんさんの煙草どす。コーヒーやのうて、今日は柚子茶にしときなはれ。入ったら持ってきますさかい、とりあえずそこのソファで一服しはったらどうどすか」
まだ我に返りきっていないシンタローは、言われるままに煙草を受け取り、そばにあるソファまで行って、ぽすりと腰を下ろした。
起こっている事柄と登場人物に、どうも現実感がない。もしかすると自分はあのまま倒れて、また夢の中にでもいるのではないかと思う。
だが、そんなことを思いながら無意識に手の内の箱を開けてみれば、ぽっかりとあいた空洞の中には、一本の煙草しか入っていない。
昨日帰りがけに新しいのを開けたのだから、どう考えても事態はアラシヤマの仕業としか思えなかった。
「てめー……、人の懐からモノかすめとっといて、親切面で渡すたぁやってくれんじゃねーか」
「いつもだったら、できへんのどっしゃろけどなぁ」
今日のあんさんやったら簡単や、まるで集中力いうもんが切れてはるやないの。持参らしき柚子茶をいれている男はのうのうとそうのたまう。
「ま、今日は抑えときなはれ。ええ子にしとったら二時間おきに一本だけあげますえ」
「ヒトを、ペットみてーに、扱うんじゃ、ねぇ……」
威勢よく怒鳴りつけようとしたシンタローだったが、腰を下ろして一度ほっとしてしまったのが良くなかったのか、どうにも力が入らない。頭がぐらぐらする。
仕方なくその箱の中に寂しく残された一本を口にくわえたまま、仰向けにどさりとソファに倒れこんだ。
「あんさん、足にまでガタきとるなんて、相当やないんどすか」
「……今日はおとなしく寝てろ、とか言わねーだろうな」
室内にほのかに甘い薫りが広がっている。湯気の立っているマグカップを手にしたアラシヤマが、シンタローの元に歩み寄ってきた。
ソファの横の机に、コトリとそれを置きながら、淡々とアラシヤマは言う。
「言いたいのは山々どすけどな。……あんさんにしか、できへんことがあるんでっしゃろ」
その言葉に、シンタローはほんの少し目を丸くして、天井を見た。
「あんさんの具合が悪そうなことなんて、昨日見かけたときから気づいてましたわ」
相伴のつもりなのか、自分も柚子茶の入ったマグを片手に、アラシヤマはシンタローが横になっているソファの肘掛け部分に軽く腰をかける。
チクショウ、さすがはストーカーだぜ、と、無駄な足掻きと知りつつ、シンタローは内心で毒づいた。
「せやから、わての今日の分の仕事は、ゆうべのうちに済ませときました。手伝いますから、あともうちょい踏ん張って、そんで早帰りしぃ」
「……」
いかにもた易く、まるでそれが自然な流れのように、柚子茶を啜りながらアラシヤマは言う。だが、その口にした内容が口調どおり簡単なものであった筈がないことは、各部署に仕事を割り振っているシンタロー自身が、一番良く知っていた。
(クソ、なんでコイツは、いつも―――)
ぐ、と奥歯を噛み締めながら、シンタローは一度まぶたを閉じて。数秒の間じっとその姿勢のままでいてから、がばりと跳ね起きた。
くわえた煙草には結局火をつけず、代わりに程々に熱い茶を、渇いた喉に流し込んだ。悔しいことに、柚子の清涼な香りと甘酸っぱさは、身体のダルさをとるには丁度いい。
そして、だーもう!とぐしゃぐしゃと長い黒髪を掻きながら立ち上がる。
「ほんっとムカつくぜ、テメー」
その横を通りがてら、げしっとアラシヤマの尻を思い切り蹴飛ばした。
な、なんどすの?!とつんのめりながらアラシヤマが抗議の声を上げたが、そんなものは当然無視して、シンタローは執務机に向かう。
ブツブツと文句を言いながら資料整理の手伝いを始めるアラシヤマを横目で見ながら、シンタローは―――ったく、コイツは、と気付かれないように深い息を吐いた。
―――甘やかすのが上手すぎて、あやされているような気分になる。
***
仕事が一段落ついたのは、正午過ぎだった。
まとめ終わった計画書をトントン、と机の端でそろえ、バインダーに収納しながらアラシヤマが労いの言葉をかける。
「ようやく、この件に関しては終わりどすな。ほなおつかれさん。今日はもうお帰りやす」
シンタローは机の上についた片肘で頭を抱えるようにしながら、アラシヤマの作業を眺めている。
「……まだ、仕事あんだけど」
「今日中にやらんとにっちもさっちもいかんゆうのは、これだけでっしゃろ。後は秘書たちやら幹部勢やらに差配して、明日にまわしてもろたらええ」
秘書たちは午前八時きっかりにやってきた。彼らが既に仕事を始めている総帥の姿を目にして慌てふためくのを横目に、アラシヤマは堂々とその場に居座って総帥の秘書業務を勤めており。更に気を使われるのを嫌がったシンタローが今日の秘書代わりはアラシヤマにやらせるからいい、と口にしたため、秘書二人はそろって天変地異でも起こるのではないかと囁きあっていた。
もっとも、面と向かってそれを口にする勇気はなかったらしく、シンタローのその剣呑な(実際は熱に浮かされた)目を恐れたこともあり、結局二人とも無言のまま回れ右をしたのだったが。
「なんなら無理やりにでもウチに連れて帰って、今日明日はつきっきりで看病してもええんどすえ~」
「アホ」
ウフフフ、と気色悪い笑い声を洩らしながらアラシヤマが口にしたその提案を、シンタローは反射的に否定する。
だが、そう言ってから、ふと気付いたように前言を撤回した。
「あー、でも、そのほうがいいのかもなー…」
「へ?」
ぼんやりと焦点の合わないうつろな瞳で、シンタローはうわ言のようにそう呟く。
「……親父とか、グンマとかに、こんなとこ、見せたくねーし」
言葉を発している最中にも、シンタローの上体はずるずると机の上に崩れ落ちていき。目を丸くしたアラシヤマがなすすべなくその様子を見ているうちに、机に完全に突っ伏した。
「―――て、ええ?!こ、ここで寝はるん??せめて、わての部屋までは歩いておくれやす~~!!」
だが、いくら声をかけても揺さぶっても、深い眠りに落ちたシンタローは一向に目覚める気配がない。
既に呼吸は寝息に変わっており、表情は幼い子供のように安らかだ。
寝顔を見ることができて嬉しいという気分と、余っ程疲れてはったんやな、という同情の気持ちは勿論瞬時に湧いた。だが、それより何より総帥室から士官寮までの長い道のりを思い。アラシヤマはがくりと肩を落とす。
それでも、他にどうすることもできはしない。
自分より十センチ近く背の高い男の体を半ば引きずるように背負って、アラシヤマは寮の自室へと戻った。
負ぶったシンタローの背中に、「グンマ博士作 わて専用シンタローはんロボv」と大書した貼り紙をしておいたところ、すれ違う一般団員で疑う者は誰一人いなかった、とのことである。
了
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アラが「シンちゃんに関してだけは甘やかし上手」だったらいいなあと思います。
書き終わってから気付いたんですがこの「その後」の話の方がほんとはBLぽいですね。
(いやそもそもウチの小説はBLなのか?)
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